したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

現代人が納得できる日蓮教学

846乾闥婆:2006/06/24(土) 02:19:54
>>841
犀角独歩さん。

>本当に誰にでもできるのでしょうか。

易行、といった意味合いではあったのですが、確かに易行であったところですべての人ができるわけではありませんでした。

私の母は脳腫瘍の手術の結果、右半身不随と重度の意識障害を負い、三年間寝たきりのまま、七年前にこの世を去りました。私はその頃、自身の信じている宗教に、強い無力感を覚えていました。家族全員、まじめに信仰しているのになぜは母このような病に苦しまなければならないのか、という無力感ではありませんでした。そうではなくて、方法論としてのむなしさでした。私を含めた家族は母のために祈ることができます。母も重度の意識障害を負っているとはいえ、私たちが耳元で勤行・唱題を行えば、自身の心に曼荼羅を見、声に出していなくとも、題目を唱えているだろうと、信じてはいました。しかしそんなことは分からないことです。勤行も、唱題も、脳を傷めてしまっては、取り組めない。取り組めない信仰とはなんなのだろう、と心のどこかで絶望しておりました。自分自身が病に対して、信仰を通して闘うことができない。母は闘っているに違いない、と思っても、心を脅かす虚無感からは逃れることは出来ませんでした。

>たしかに日蓮の場合、信の強調がありますし、法華経でも以信得入を言いますが、これと八正道はつながりません。そもそもここで信は八つの道に入っていません。

そうですね。「四信五品抄」に「問ふ 末法に入て初心の行者は必ず円の三学を具するや不や。答て曰く 此の義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。所謂、五品之初め二三品には、仏正しく戒定の二法を制止して、一向に慧の一分に限る。慧又堪えざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位也」とありました。以信代慧は蓮祖の強調するところです。仏教とは三学の実践といっても、時代が下るにしたがって、八正道から遠く離れて、三学そのものを止揚してしまうということになるでしょうか。

>乾闥婆さんの文章を読んでいますと、信仰という強迫観念が無限連鎖となってループ化している、そこに苦があるようにお見受けします。つまり、信仰からの脱却したところで、仏教を見つめ直すところに、その解決があるとも思えます。わたし自身が採った‘取り組み’方です。

確かにループしていると思います。唱題を行おうとする、信じる心が弱くて苦しい、強く信じようとする、しかしそれを阻害する諸事実がある、唱題がうまく行えない、それでも行おうとする、苦しい、強く信じようとする・・・そのようなことをくり返してばかりいるのです。私がそこから脱却するには、今の信仰形態を捨てる以外ないように思うのですが、それもできないのです。「信」なくして、唱題行がきちんとできるものなのでしょうか。

>乾闥婆さんがどこのご出身であるか存じ上げません

これは私の信仰上の出自のことでしょうか。それでしたら以前も申し上げたとおり創価学会です。もちろん「信」が強く協調された幼少期を経て現在に至っています。

>信仰と本尊は、日蓮のテーマでしょうが、しかし、わたしはこの執着を棄てました。

そこが私にはよく分からないのです。私もそのような執着は捨てたいのですが、捨てられません。ですからこの掲示板もずっとロムしておりますし、創価学会とも関わり続けています。しかし犀角独歩さんは本当に捨て去られているように見えます。しかも、蓮祖に取り組み続けていられます。それは非常に苦しいことではないでしょうか。私は蓮祖の事実誤認を目の当たりにして以降、しばらくは「開目抄」冒頭の五重の相対を説く文章を読むだけでも、心が苦しくなりました。そのように詰めていかれる蓮祖の叙述が、むなしくて、息苦しくて、どうにもならない時期が続きました。

>>845
>840に「所願の三身」というのは所顕の打ち間違えですか。それとも、このような記述御書があるのでしょうか。

日蓮宗現代宗教研究所のデータベースからコピー&ペーストさせてもらったのですが間違っていますね。それともこのデータベースを作成した人の資料にこうあるのでしょうか?

>けれど、「パンドラの箱」を開けてしまったわけです。しかし、その底に希望は残っているのだろうと思います。

その希望を私はまだつかめないでいます。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板