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現代人が納得できる日蓮教学

892 B:2006/07/07(金) 10:32:16

> カラフルなどと言った覚えはなく、薄墨素絹の質素な衣に剃髪であれ、そのような詐り仏法を
勧めるものを、姿ばかりは僧に似せても、日蓮の言う僧にあらずということです。
> これはしかし、「お気に入り」だなんだということとは、まったく、次元を異にします。仏と法と僧伽を護持しようという信念に基づくところです。


ご自分の主張は丁寧になさるが、非礼、批判の含みのあるものは飛ばし読みをされるのか、これで「カラフル」についての2度目の説明になります。

独歩さんの表現、「坊さんコスプレ」を借りて、「カラフル坊さんコスプレ」は私「B」が言ったのです。

宗祖も着されなかった色衣を着て、似ても似つかぬ姿で宗祖の法を説くお上人様を「カラフル坊さんコスプレ」と真似たのです。独歩さんが尊敬なされているらしいので独歩さんの「お気に入り」と書いたのです。

湾曲?

独歩さんの投稿から引用
草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。

これは身延の寺にぴったりあてはまるのでは、

新尼御前御返事に
日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定めて偏頗の法師とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我が身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん。此の由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ。召して尼御前の見参に入れさせ給ふべく候。


身延を見学に行った知人の言うには、門前でヒラヒラと風に吹かれてご本尊が売られていたとのこと。
佐渡ではちょっと記憶があいまいだが佐渡始顕のご本尊がステンレスの板に彫られて庭に展示してあった。
「大日蓮展」では平念珠が売店で売られていた、展示物の中には聖人ご所持の数珠(真偽は?)が展示してあったが平念珠ではなかった。
親戚の法事で日蓮宗の寺へ行ったがあちこちに色んな物が祀ってあった。

お上人方は、これらを承知しておられるのだろう。独歩さんの「仏と法と僧伽を護持しようという信念に」に悖りませんか。

答曰守涅槃経云若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨。若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也

人を見て呵責、不呵責の差別があっては是人仏法中怨にして真の声聞には程遠いのでは。


> 「僧の僧たる自覚を与えるは檀那なり」、四弘誓願に生きる僧侶には、精一杯の礼をもって、接するのは誠心誠意からですが、それはまた、その方々の自覚を生じさせる功徳もあると考えます

これは全くもってそのとおりだと思います。

放談中の笑い話であるが、あの僧侶はいいが、この僧侶は嫌いだという信徒について、信徒は僧を選べるが僧は信徒を選べないんですよと、僧侶はあんな信徒はいやだなと思ってもそうはいかないのですよと冗談半分で吐露され、大笑いしたことがあった。

信徒でもなく何が目的かわからぬ得体の知れぬ者にも誠意を尽くさねばならぬ僧侶も大変だなと思う。
不快を示せばあれが僧侶か、修行が足らんと指弾される。そのとおりではあろう。
悪口も善智識ととらえられ精進の糧とされるのだろうけれど。

完璧無欠の僧などどこにもおられないのでは。 精進に努められる姿が尊い事だと思う。


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