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現代人が納得できる日蓮教学
833
:
乾闥婆
:2006/06/22(木) 19:45:40
>>818
犀角独歩さん。
>釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できる
私が信仰の形態と方法論と言うことにこだわってしまうのは、信仰とは取り組みであると思うからです。取り組み方がはっきりとしていなければ、誰にもできるものではなくなってしまいます。「人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できる」「正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたる」と言った部分になると思います。取り組み方が明確で、誰にでもできる。曼荼羅に向かい題目を唱える。非常にシンプルです。しかし現状はその形態そのものが私を縛り悩ませる結果となっています。同時に形態なくして信仰はないとも思っているのです。たとえば八正道と言うものをはじめて知ったときに私は驚きました。具体的にどのように行として取り組むのかがよく分からなかったからです。八正道の実践、とは極めてシンプルな形態を提示しているのだと思いますが、シンプルすぎて難しいのです。もっと明確な形態を求めてしまいます。信、ということを私もそれほど強く自身に言い聞かせることはありません。戒・定・慧こそが信仰の中心であると思っております。ただやはり自分が行うであろう行法は「正しい」ものでなければなりません。それは前提となると思うのです。蓮祖にいくつかの事実誤認があったとして、それでは唱題行という方法は、間違っているのか、私は分からなくなります。そんなことはないように思うのです。しかし強く「信」じて取り組むのとは比較にならないくらい気持ちが乗っていきません。声も出なくなります。では他の行法をすればいいのではないかとも思うのですが、これも心の縛りが解けないのか、そういう気持ちにはなかなかなれません。結局何事かを行ずるには、その行に対する「信」は必要なのではないかと考えています。
いちりんさんの話はとても刺激的でした。形態に対する緩やかさ、と言うのでしょうか。逆に形態が心を縛る恐ろしさと言うのでしょうか。「有相の本尊」と「無相の本尊」と言う考え方にははっとさせられました。もちろん「有相の本尊」の向こうに「無相の本尊」を見るべきなのでしょうが、有相への執着はなかなか消えません。形態や方法がしっかりとなければ、信仰と言ったところで、何をすればいいのかが分からなく、心が彷徨ってしまうからです。
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