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現代人が納得できる日蓮教学
948
:
犀角独歩
:2008/07/18(金) 20:51:27
管理者さん
ご采配、有り難うございます。
再開にあたり、いくつか方向性を述べておきたいと思います。
富士門流信徒、就中、大石寺圏において「現代人が納得できる日蓮教学」というのは、わたしは二重の意味を有していると考えます。
まず一重には、「現代人が納得できる大石寺が言う日蓮教学」ということであり、これは殊に日寛が彫刻本尊を一大秘法とすることによって成り立っている教学です。つまり、ここでは、この彫刻の真偽は避けて通れない問題です。つまり、教学を論じる前提の本尊が偽物であれば、その後の教学批正など、まったく不必要です。偽物を肯定するための虚構など、不用だからです。
この場合、では、その彫刻を写したという本尊、また、印刷物を拝むことを、現代人の常識は受け入れるのかという問題が生じます。この問いはしかし、大石寺本尊を拝むすべての人々への問いかけです。「信仰は各人の自由」ですから、鰯の頭でも拝むのは自由です。しかし、本当にそれで、彫刻本尊が偽物であることを知り、さらにこの書写物を拝んできてしまった“私自身”は納得できるのか。これに対する確たる答えを議論をしようというのが、わたしの問いかけの一つです。
二重の意味としては、文字どおり、「現代人が納得できる日蓮教学」ということです。たとえば、「『法華経』が釈尊が説いたものではないと言えるのか」と一般人に問うたところで、返ってくる答えは決まっています。「では、釈尊が説いた証拠を示してください」でしょう。こうした問いに対して、「『法華経』を釈尊が説いてない証拠を示せ」と噛み付き返したところで、「そんな信仰、御免被る」と言われるのが関の山です。
日蓮の教学は広宣流布を標榜したものですから、布教に特命があります。その布教は、「信じないことは悪いことだ」といった独善に基づくのではなく、精緻な思惟と教学の組み立てによってなされたものでした。しかしながら、その土台は「法華経は釈尊最期八箇年の最勝の説」ということでした。この点が瓦解すれば、その上に建つ建物=教学・本尊も瓦解せざるを得ません。
現行の学問的成果は、日蓮教学を土台から揺さぶるものであることは否めません。
この点について、わたしは心ある日蓮門下の人々と積極的な議論を積み重ねてきました。『法華経』が釈尊の真説であるか否かという点には慎重な姿勢は崩さないものの、真実であるから御利益(功徳)があるということではなく、正しい法を捧持していれば、何を為すべきかという世間と衆生に面を向けた前向きな議論と実践が為されています。
かつて顕正居士さんもお書きになっていたことがありましたが、「もし、いま、日蓮が生きていたら」といった仮説に基づく教義の再構築も真剣に語られています。
「現代人が納得できる日蓮教学」というもので、残るとすれば、それは現代人が納得できる捧持者の“人間性”と“社会性”を土台にしたものではないのか、そして、その人間性と社会性を生み出す力が日蓮の精神、ひいては『法華経』の精神から汲み取れるのかどうかといった議論を、ここでなせないものかという底意をもって臨んでいました。
残念ながら、上述二重の意義において、現段階ではまったく成果を得ていません。
以上の点を踏まえて、再開いただいたこちらで、明日以降、議論をさせていただきたいと希望します。
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