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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
1
:
管理者
:2004/05/13(木) 11:57
新しいスレッドの御提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通りです。
891 名前: 犀角独歩 投稿日: 2004/05/13(木) 11:18
管理人さん:
昨晩、三学無縁さんとも話したのですが、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』において、名無し@ピンキーさん、Happy Birthday!!さん、また、空き缶さんが興味を示されてお出でであった山中師『御本尊集目録』未載でありながら、御筆漫荼羅(真筆)と伝えられる漫荼羅は興味深いものがあります。また併せて、真偽未決御書、また、各文献の著者の実否などを議論するスレッドがあればよいと考えます。
以上、三学無縁さんと連名で提案させていただくものです。
488
:
犀角独歩
:2005/01/30(日) 08:13:21
ケンさん、ほんじつ、わたしはこれから、東京より長岡に行かなければなりません。
帰りは明日です。ネット、モバイル環境はなく、掲示板の閲覧、メールのチェックもできません。恐縮ですが、明日以降、改めて管見を記させていただくことにします。ご了解ください。
489
:
犀角独歩
:2005/01/30(日) 08:25:03
わたしの大事な友人が、今回の地震議論をロムし、メールを送ってくださいました。
ご本人の了解を得て、転載させていただきました。
*** 以下転載 ***
…なにやら日蓮さんの没時にあったとされる地震の話が・・・。
…結論から申し上げますと、日蓮入滅(1282年=弘安5年10月13日)
に際して関東で大きな地震があったという信頼に足る客観的記録・資料は、
私の調べた限り、日蓮関係の伝承以外に確認できませんでした。
ただ当時の日本列島は、いわゆる(地殻変動の)大活動期の
まっただ中にあったと思われます(ちなみに、最近の日本も
またまた活動期に突入したといわれているようですが・・・汗)。
ご承知のことと思いますが、1257年=康元2年には
日蓮の伝記などにしばしば登場する『鎌倉大地震』が
起こったのをはじめとして、その前後の南関東では
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen02.htm
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30295/history/japan.html
にまとめられているように、やはり同じく『鎌倉大地震』と称せられる
大地震(1222、1223、1293年etc)や、おそらくそれら一連の
地殻・地震活動の一環と思われる大小様々な地震が頻発していますし、
さらに日本列島全体を見れば、大きなところでは京都大地震(1224年)や
阿蘇山噴火(1265年=文永2年、以降たびたび噴火を繰り返し、
日蓮没の前年1281年=弘安4年閏7月にも大噴火)、
さらに1281年=弘安4年6月には浅間山の歴史的大噴火
(一説には、現在の浅間山の姿はこの時の噴火でできあがったと
言われている
http://www.takamine-kougen.co.jp/page6.html
http://www3.ocn.ne.jp/~nippou/topics.htm
)
と、立て続けに天変地異が起こったといわれています。
――ただし1281年の浅間山大噴火に関しては、その事実そのもの、
あるいは少なくともその規模には近年大きな疑問が投げかけられており、
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/volcanoes/asama/asamasiryo/honbun.html
そんなことで上記リンク先の『天変地異年表』には記されていないのかもしれませ
ん)
そういうさなかの弘安5年10月に仮に関東で地震があったとしても
何ら不思議ではなく、いやむしろ当時の日本、とりわけ南関東では
地震など、日蓮入滅との関係を云々する以前に、
日常茶飯事の出来事だったとさえ言ってよいのではないかと思われます。
が、いずれにせよその地震は、仮に事実あったとしても、上記資料などを
眺める限り、当時として種々の記録にわざわざ特筆されるほどの規模では
なかったようですし、まあ(わざわざ独歩さんに言うまでもないことですが)
世界の歴史をひもとけば、この手の話は宗教家のみならず、
政治家などの偉人の伝説には付き物の話であり、
意地悪な言い方をすれば、もしも日蓮さんが前年に亡くなっていたら、
浅間山や阿蘇山の大噴火と関連づけられた伝説ができていたかもしれず、
またもしもこの年に運良く(笑)彗星でも現れていれば、
ここでも新たな『光り物伝説』が生まれていたかもしれず・・・
といったわけですな。(^^)…
*** 転載おわり ***
以上、ご参考までに
490
:
ケン
:2005/01/30(日) 18:09:08
>488
犀角独歩さん
お忙しい中を、余計なことをお願いして
申し訳ありません。
当方は、全く急いでいません。
1箇月や2箇月以上先でも構いませんので、
お時間ができてからということで、
宜しくお願いします。
491
:
れん
:2005/01/30(日) 22:40:21
ケンさん、はじめまして。486におけるご質問ですが、より適切なご解答は犀角独歩さんがご教示くださることと存じますが、私へのご質問につきまして、お答えします。先ず「筆者の正本が存在」の意味ですが、残念ながら「御伝土代」の正本全体の写真は公開されてませんが、正本の一部分の写真が石山や石山系の団体の出版物に掲載されています(継命新聞社刊「日興上人」など)。また、石山正本を活字翻刻したものは、日蓮宗宗学全書第二巻興門集道師の部に収録掲載されたものと、富士宗学要集宗史部・日蓮正宗歴代法主全書第一巻に収録掲載されたものがあり、興風談所の大黒喜道師編「日興門流上代事典でも正本富士大石寺としておりますから、信用してよいと思います。なお日興門流上代事典の記述によると正本の影写本が東大史料編纂所に所蔵とのことです。次に484において特に御伝土代に言及しなかったのは、御伝土代は興師目師よりの伝承をその直弟子である道師が記したという点では貴重ですが、著者日道師自身は蓮師滅後の出生で蓮師御遷化時の地震に居合わせなかったのですから、御伝土代における道師の地震の記述はあくまで伝聞に基づくものであり、地震のあったその場に居合わせた興師が地震のあったわすか三日後に記述した宗祖御遷化記録に比べると蓮師御遷化時の地震を証する史料としては価値が少しさがると見まして、特に言及しなかった次第です。以上適切な回答とはいきませんが、ご参考になれば幸いです。
492
:
ケン
:2005/01/31(月) 00:25:05
れんさん
分かりやすくご説明していただき有難うございます。
資料としては、信用のおけるものと考えてよろしいと
いうことですね。
有難うございました。
493
:
顕正居士
:2005/01/31(月) 05:44:44
>>487
三師御伝土代と種々御振舞御書
三師御伝土代には種々御振舞御書とほぼ同じ文があります。しかし「祖書に云く」とはありませんし
文章も全同でないから、種々御振舞御書からの引用ではなくて伝承の記載であろうかとおもいます。
三師御伝土代と種々御振舞御書に共通のなんらかの複数の伝承群があったのではないでしょうか。
文献学は新約聖書の成立についての研究から発達しました。共観福音書のイエス伝の記述には
異同が多い。もとの書式化された伝承が複数あったと考えます。
新約聖書のイエス伝はさまざまな過去の神々、英雄の神話と伝説を摂取し、イエスの没後約100年
に共観福音書として成立したと考えられています。
したがって三師御伝土代の真偽を疑う必要はなく日蓮伝説はこの頃にもとが形成されたのでしょう。
494
:
愚鈍凡夫
:2005/01/31(月) 06:35:22
顕正居士さん、おはようございます。
今に伝わる日蓮伝は、口伝・口授で伝えられていたものが、「御伝土代」「種種御振舞御書」などによって文書化され、現在のような日蓮像として伝承されてきたと考えられるのでしょうか。
495
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 01:02:45
ケンさん、本日は疲労困憊です。
明日、記させていただきます。
ここら辺は、実におもしろいところですね。
496
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 12:28:22
ケンさん、既にれんさん、また顕正居士さんが、ご賢察をご披露くださり、ここに愚見を陳べる用もございませんね。
やや論点を代えて申し上げます。
わたしは生まれながら、日蓮本仏論が身に滲みた一人でした。
物心ついたときに、語られる日蓮本仏、戒壇本尊、数々の奇跡物語は、至極当然の「現実」そのものでした。もっといえば、創価学会絶対、池田「先生」絶対、さらに石山絶対、法主絶対も至極当然のことでした。
それを再考し、実像に迫りだして、しばしの時間が経過しました。
わたしがいま感じる晩年の「日蓮」は、炯々とした密教的な要素は持つものの、老いさらばえ、やせ細った生身のその人です。夢破れ、それでも弟子の育成に晩年を過ごし、乏しい食に飢えを感じ、衰えた身体に供養の酒を含み、腹の熱くなることに涙を流す老僧です。本仏などという誇大表現からほど遠い、弱々しい死に行く病衰、老衰したその人です。けれど、数々の奇跡物語で彩られた本仏より、わたしはそんな「日蓮」にこそ、恭敬の念を抱きます。
いわば、いまのわたしにとって、蓮師の奇跡物語は、言葉は悪いのですが、「どうでもよいこと」に属します。
反面、これはたとえば、シャキャムニの超人化などでも同様ですが、自分の信念体系の中心者をどんどんと超人化させ、神格化(いや、仏格化というべきでしょうか)させていく人々の心理のからくり構造に滑稽さを感じるのも事実です。なぜ、そのような物語が紡がれていったのか…、むしろ、その奇跡物語を振り回し力説の裏にある、そのようなものでしか支えられない浮き草のような信仰の危うさばかりが目につきます。そこに見え隠れするのは、生老病死を恐れ、そのことを忘れ、「祈願成就」「不老不死」という願望という煩悩に現実から目を逸らす虚仮威しの威勢であり、それは裏を返せば、極端の戦(おのの)きと不安、弱さというコンプレックスがなせる態とすら覚えます。
『御伝土代』が道師真筆として、そこに記された「光り物伝説」はしかし、蓮師真跡に見られるところはありませんでした。興師もまた語りませんでした。となれば、このような物語を書き記す頃、既に蓮師にかかる超人化、潤色が既にその兆しを見せていたと歴史的経緯でとらえるほうが自然ではないのかと思えます。
光り物という奇跡で、斬首を免れた日蓮より、いざ、首の座に据えられた「ただいまなり」と覚悟したやさき、刑の執行が中止された日蓮の心中の変遷のほうが、よほど、人間味があるものです。
蓮師に係る奇跡物語に、なぜ自分は固執したのか?、そんな自己分析は、実は新たな目を見開かせてくれるものだった…、とその経験を語り、答えに代えさせていただきます。
497
:
ケン
:2005/02/01(火) 12:59:47
顕正居士さん、有難うございます。
ボクは、「光り物」が創作であるとすれば、その創作が行われたのは、日道の
時代から時間がかなり経過してからだと、なんとなく思っていました(もちろ
ん、根拠があるわけではありません)。したがって、『御伝土代』も偽作された
ものと思っていました。
しかし、「三師御伝土代の真偽を疑う必要」がなく、しかも「光り物」が創作
であるとなると、日興や日目、あるいは他の五老僧が活動していた時期に、
既に、伝説が創作されつつあったことになるのでしょうか。なんとなく、
早すぎるような気がするのですが、そんなものでしょうか。
498
:
ケン
:2005/02/01(火) 13:05:21
犀角独歩さん
お忙しい中を有難うございます。
497は、独歩さんからのご回答を見ていない状態で発信してしまい、
大変失礼しました。後で、もう一度良く、読ませていただきます。
取り急ぎ御礼まで。
499
:
れん
:2005/02/01(火) 19:42:37
ケンさん、先日、興風談所さんからお送り戴いた「興風」第十六号を拝見させていただいたところ、興風談所の池田令道師の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」という論文が掲載されておりました。師は御伝土代の筆者について、御伝土代と日時師筆との文字対照をおこない、その他御伝土代の内容の検討をされた上で、御伝土代を全文日時師筆と結論されておられます。私はこれまで、御伝土代を日道師の著作としてきましたが、池田令道師の興風第十六号に掲載された論考における結論が妥当であると考えますので、これまでの御伝土代=日道師著という認識・自説を改め、今後は私も御伝土代=日時師作と比定いたします。
500
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 23:09:52
れんさん、499の説を証憑する場合、では、なぜ時師は道師のなぜ仮託したのでしょうか。
また、そうなると、光り物伝説の成立は、だいたいいつ頃となりましょうか。
501
:
れん
:2005/02/02(水) 15:15:49
犀角独歩さん、御伝土代を時師は道師に仮託して制作したわけではないです。御伝土代には筆者による署名・花押は無く、江戸期前半までの石山歴代の認識は何れも日時師制作というものでした(興師伝に日興上人御遺告〇日道記之とありますが、これは引用にすぎず御伝土代を道師筆とする根拠にはならないと言えます)。すなわち、了玄日精師の家中抄の「日興伝」「日時伝」に三師の伝(御伝土代)を日時作と記録し、三玄日典師は御伝土代の奥書に「三師之傳 日時上人御制作御真筆 日典(花押)」とある通りです。江戸後期の経道日因師にいたりはじめて日道師制作説が唱えられ(因師の三四会合抄・新田南条両家之事)、堀日亨師により道師著述説が定着したものの如くです。今回、池田令道師が御伝土代正本の影写本をもとに時師筆との文字対照を行い御伝土代を時師筆と比定したことで、御伝土代にの作者執筆者について精師・典師の認識が正しかったことが証されたことになります。なお、竜口法難のひかりものについては、御伝土代が時師撰とした場合、御伝土代をもってその最古記録とすることは出来なくなります。とすると、偽書ながら西山日代師の置文により正平十五年(一三六0)以前の成立が確定している「法華本門宗要抄」に‘竜口のひかりもの’の記述が見えますから、‘竜口のひかりもの’の伝説の成立は一三六0年以前ということになろうかと思います。
502
:
犀角独歩
:2005/02/02(水) 15:47:11
れんさん、明確なご教示、深く感謝申し上げます。
また、池田師の研究に敬意を表します。
それにしても、光り物伝説は道師(蓮滅52年)に遡れず、1360年、すなわち蓮滅80年前後の成立ですか。わたしどもが明治天皇の逸話をあれこれと紡ぐ話…、いや、現在のわたしが熊田著『日蓮上人』を語り、彰往考来さんが応師の事跡を探る時間差に比せます。しかし、現代と蓮師門下上代、同じ時間差と見てはいけませんでしょうね。
勉強になりました。今更ながら、自分の浅識、不勉強を恥じ入るものです。
有り難うございました。
503
:
吉祥仙人
:2005/02/02(水) 22:59:59
素朴な疑問なのですが、
竜の口の法難に際し何等かの異常事態がなかったとすれば、なぜ日蓮大聖人は
首をはねられなかったのでしょうか?
そのへんをどう考察されているのか御教授ください。
504
:
ケン
:2005/02/03(木) 01:57:42
れんさん
地道にこつこつと研究されている方がいらっしゃり、それを
きっちりとフォローしている方もいらっしゃることがよく分かりました。
有り難うございました。
505
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 07:32:57
>501
横レス失礼します。
昨夜、自宅へ帰ると『興風』16号が届いていました。私も池田令道師の御伝土代=日時
師作が妥当であると思いました。
なお、同号には菅原関道師の「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」が記載されてい
て、『龍泉寺申状案』の異筆三紙の筆跡はこれまでいわれていた下野公日秀あるいは白蓮
阿閣梨日興ではなく富木常忍筆と推定してよいと思われるとされています。
池田師の御伝土代のご指摘と併せ非常に思うところがあり、ゆっくり考えてみたいと思い
ます。
506
:
名無し@富士門流
:2005/02/03(木) 11:42:46
>505
彰往考来さん、今日は。
>菅原関道師の「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」
これは、御書システムのコラムにも出ていました。
↓
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html
写真入で説得力のある論考ですね。
507
:
犀角独歩
:2005/02/03(木) 12:22:49
> 503
竜口刎頸中止については、古くから疑問視されていました。わたしは、学生時代に『創価学会のまちがいをただす』(−キリスト教折伏に答えて−森山諭著)で、この点に触れていたのを読んだのが初見でした。(30年前の話です)
「文永8年9月12日、竜の口の法難となった。このとき、江ノ島の方より不思議な光り物が現れて、死刑執行者が倒れ、日蓮は奇跡的に救われたとの伝説は、彼を不世出の傑僧に祭り上げさせているが、それは後生の偽作らしく…、鎌倉建長寺方丈道隆(大道禅師)の除名運動が功を奏して、死一等を減じられ、佐渡流罪になったという説が本当らしい」(26頁)
「平田篤胤の著『出定笑語附録の部』に、「竜の口の法難は後世の偽作である」と記し、「日蓮自身の筆には、その時の奇跡的な救いについては何も書いておられない。ただ、旅館まで行ったがそのうちに赦されたということのみを記しており、更に近江国(おうみのくに・滋賀県)の住人徳水如茂彦という人が来て、日蓮が鎌倉建長寺方丈に対して、『貴僧の助命運動によって死一等を減じられ、遠流で済んだことは、生々世々忘れない」という感謝状を、同寺に送っているものの写しを持って来て見せた」と記している」(162頁)
この感謝状の文面は尤もらしいのですが、しかし、文永10年佐渡にあって、『小乗大乗分別鈔』に
「道隆…法師等(ども)は鳩鴿(いえはと)が糞を食するが如し」(平成新修333頁)
と記されるわけで、竜口から2年ばかりしか経たず、感謝状を送った相手に、こんな裏腹なことを言うような真似を蓮師はしないであろうと思われます。
故高木豊師は、以下のように類推しています。
「断罪に処そうとする意図があったにもかかわらず、結局は死刑が免ぜられ、流罪に処せられたのは、北条時宗の妻の懐妊によると考えられる。事実、この歳、貞時が誕生している(辻善之助『日本仏教史』中世篇之二)。これに関連して、日蓮が「大がく(学)と申す人は普通の人にはにず、日蓮が御かんきの時身をすてヽかたうど(方人)して候し人」(『大学三郎御書』平遺784頁)と、大学三郎の行為について述べていることに注目したい。大学三郎については、伝承を除けば、ほとんど未詳だが、ただわずかに、大学允(だいがくじょう)という日蓮の檀越の子息であったろうこと、書に秀で、書を好んだ安達泰盛(あだちやすもり)と書を通じての交りをもっていたことがわかる程度である。ところで、大学三郎と親交のあった泰盛はほかならぬ時宗の舅(しゅうと)、つまり時宗の妻の父であり、解任した子(のちの貞時)の祖父に当たる人である。この関係と日蓮の大学三郎についての叙述とを重ね合わせれば、大学三郎が泰盛に働きかけ、泰盛は婿(むこ)時宗に孫の懐妊中における日蓮の刎頸中止を進言したのではなかろうか。「身をすててかたうど」した意味を、右の関係のなかに置いてみることは十分可能である」(増補改訂『日蓮』太田出版92頁)
わたしは、高木師の説が頷けます。
508
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 12:45:41
>506
名無し@富士門流さん、
コラムのほうが菅原師の心情がよく現れていますね。
ご紹介ありがとうございました。
509
:
名無し@富士門流
:2005/02/03(木) 13:21:02
>508
彰往考来さん、
「興風」には以下の部分は無いのでしょうか?
******************************************************
二十四年前、私は高木豊先生に尋ねた。
「滝泉寺申状の異筆は日興筆といわれていますがどうでしょうか」
「それはあなた達がやるべき課題じゃないかね」
ようやく筆者にたどり着けた。生前にできなかったことを悔いながらも、今年七回忌を迎える恩師へご報告したい。
「先生、あれは富木常忍の筆でした」
******************************************************
(以上、御書システムコラムより転載。)
510
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 19:08:52
>509
名無し@富士門流さん、
そうです。そのような内容はありません。最後にあるのは
**************************************
付記。私事ながら本稿を、本稿執筆中の平成一六年九月八日に逝去された元立正大学教授浅井圓道氏に捧げたい。氏には立正大学大学院の「法華玄義」講義を十年余りも聴講させて頂いた。謹んで速疾頓成を祈念申し上げ、生前の学恩に報いるため今後の精進をお誓いする次第である。
**************************************
でした。
511
:
犀角独歩
:2005/02/03(木) 22:01:45
507、打ち間違えました。
誤)除名運動
正)助命運動
除名のわけはありませんね。「除命」(こんな言葉はありませんが)なら、反対の意味になります。
スレッドの無駄遣いを避けるため、続けて記させていただきます。
名無し@富士門流さん:
彰往考来さん:
ご紹介のところを拝読させていただきました。ここに
「常忍はまさに訴訟に精通」とありますが、これは蓮師その人の特徴であると、わたしは思ってきました。興師観とともに頭の切り替えが必要と思った次第です。
『竜泉寺申状』について、高木豊師は「『日秀等陳状』と呼ぶべき」(『日蓮』208頁)と言い、この後文で「主導者日秀・日弁は日蓮の配慮で、下総の富木氏のもとに避難した」(同209頁)と記されています。
となれば、蓮師とともに陳状を記し、さらに身柄の受け入れまでも常師が行ったという一連の脈絡が、読み取れることになりましょうか。
513
:
名無し@富士門流
:2005/02/04(金) 02:41:24
犀角独歩さん、今晩は。
私は高木豊師の論考を呼んでいないのですが、これを機会に学んでみたいと思います。
514
:
名無し@富士門流
:2005/02/04(金) 02:45:39
>513
訂正です。
×呼んでいない
〇読んでいない
あわせまして、
「今晩は」を「おはよう御座います」に訂正いたします。
(恐らくこの書き込みを御覧になられるのは翌朝だと思いますので)
>510
彰往考来さん、
ご紹介ありがとう御座います。
私も「興風」16号を読んでみようと思います。
515
:
吉祥仙人
:2005/02/04(金) 07:09:49
犀角独歩さんへ
御教授有難うございました。
余計なことですが、安達泰盛については平左衛門尉の敵対者として、日蓮大聖人の
理解者とするコミックが手元にあります。
さらに御教授いただければと思うのですが、四条金吾への御書に「竜の口にいっしょに
来てくださってありがとうございました。」というのがあったと思いますが、これも
偽書なのでしょうか。
516
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 09:15:27
吉祥仙人さん:
実は蓮師の御一代というのは、ほとんどわかっていないというのが現状であることほど、驚く発見はありませんね。生まれた年月も、両親も、出生もよくわからず、四箇格言から遡って蓮師を崇拝し、紡がれた門下教学では修学当時のその影響がかき消されてきました。中世には持住崇拝の基礎理論として、派祖、さらに蓮師の崇重は病的に肥大します。その典型が日蓮本仏論です。ここで相伝類がその正当化を支えました。さらに中興の有寛二師の教学が蓮師の原形教学に取って代わられ、さらに偽書の混入もまた、その原形を曇らせていきました。この延長上に、もちろん、石山、法華講はあり、顕正会があります。また、創価学会の一般会員‘向け’教学もその影響下に留まっています。(しかし、創価大・菅野師『法華経入門』(岩波新書)などを読めば、すでに仏教学の成果を受け入れる将来的方途に向かっていることは看取できます。もう少し言えば、それ故、北林さんの件の本はお話にならないわけです。彼がその論の組立で、旧態依然とした100年前に崩壊した伝承神話をいまだ墨守するのは、その教学によって創価学会・池田さんを肯定してきた学会史から考えようとするからでしょう。しかし、このような論法は、結局、批判され、消え去るものにすぎません)
以上の背景で、ここ当板で議論されてきたのは、蓮師の実像を素描するということでした。
このような、前提があります。
> コミック
案外、こんな漫画は、創価学会員が蓮師一代を知る初歩的(もっと言えば、固定観念)知識の脚になっているのかもしれませんね。『希望の友』はそんな役割を担ってきたのかもしれません。しかし、基礎とする資料が上記のようなものでは致し方がありません。唯、コミックといっても、案外、これらの点を石山・創価教学にとらわれず、一般資料に基づいたのは手塚治師の『ブッダ』であったように思えます。学会教学眼から見ると首を傾げる仏伝に基づきながら、けれど、面白さに引き込まれた若いときの記憶があります。
> 四条金吾への御書
これは事実ではないでしょうか。真跡遺文に載るところですね。
先に挙げた高木師『日蓮』では、
「龍口(たつのくち)において、内意のとおり、日蓮はまさに頚を切られんとした。このとき、供をしてきた檀越四条頼基は日蓮の馬の口にとりついてなき悲しんだ。それは日蓮に「いかなる世にか忘(わすれ)なん」(『崇峻天皇御書』平遺694頁)といわせるほどの悲しみようであった」(92頁)
とあります。
以上、何度か、高木豊師『増補改訂版 日蓮 その行動と思想』を挙げましたが、同書は、一代記の、いまある書で、もっとも信頼がおける(と門下一般も考えている)からです。
学恩に基づき、興門の雄・上杉清文師がプロデュースしたものながら、生前にはその出版が間に合わなかった…、本のいずこにも上杉師は御自身のお名前を載せなかった…、そんな熱い情念を背負った1冊です。
『解題』を記された小松邦彰師(立正大学教授)は
万人に開かれた
公準として
日蓮聖人の生涯
「伝説のヴェールに包まれた
日蓮聖人伝を排し、
厳密な考証によって
その行動と思想の特色を論じ、
歴史としての客観的な
日蓮聖人像を作り上げた
高木仏教史学の画期的到達点。
旧版に「(二人の日蓮)改稿」、
「『立正安国論』再考」を増補した
決定版」(オビ文)
そして、このオビにだけ、本当に小さな字で「福神叢書(1)」と記されています。
上杉師、また、渋澤師の、人となりと思いが伝わる気がします。
この書を推薦します。
また、御遺文集としては『平成新修日蓮聖人遺文集』(発願編者・米田淳雄師/日蓮宗連紹寺不軽庵)を推薦しておきます。
517
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 10:50:23
516、一部、文書が落ちてしまいました。
「『解題』を記された小松邦彰師(立正大学教授)は」のあとに
−−「著者の高木豊先生は、先に『日蓮とその門弟』(昭和40年、弘文堂)を刊行し、宗教社会史的方法によって、従来の伝説のヴェールに包まれた日蓮聖人伝を排し、新たな日蓮聖人像を描き出そうとしていた。その姿勢は本書吸盤にも一貫するものであり…真跡遺文を中心に、厳密な考証によって日蓮聖人の行動と思想の特色を論じ、客観的な日蓮聖人像を作り上げた。…高木先生は『日蓮・日本思想大系14』(岩波書店)を刊行している。同書は日蓮聖人遺文の文献学的書誌学的研究に新しい時代を開いた画期的なものであったが、本書旧版にもその遺文研究の成果を見ることができる」(同鄱)
また、−−
という文章が入ります。
毎度、訂正、恐縮です。
518
:
愚鈍凡夫
:2005/02/04(金) 12:46:04
安達泰盛と言えば、「霜月騒動」を思い起こさせますが、平頼綱にとって泰盛は、さぞかし恨んでも恨み足りない相手だったんでしょうね。北条貞時を担ぎ上げ、奇襲を懸けて一族郎党を滅ぼすなんぞは、並の怨恨じゃないですね。 (((( ;゚д゚)))アワワワワ
519
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 22:23:45
愚鈍凡夫さん、それにしても、おもしろいと思うのは、蓮師というのは、そんな鎌倉時代の立て役者と、よくもまあ、関係していたなということです。
蓮師は、罪人ではありながら、やはり、その時代の表舞台を生きた人だったのでしょうか。
反面、まったくその歴史上では、生存が杳として明確ではない親鸞聖人とは好対照だと思うわけです。…、わたしは、聖徳太子とともに、親鸞、架空人物説に偏るのはそんな理由からですが…。
520
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 08:22:28
犀角独歩さん、レス有り難うございます。
蓮祖が平安時代に生きた法然についてはしつこいほど言及しているのに対し、時代は前後するものの、同じ鎌倉時代を生きた親鸞に対しては一言も触れていないのは奇妙ですね。
普通に考えれば、蓮祖は親鸞の存在を知らなかったと考えられますが、親鸞が実在の人物であったとしたら、そこそこの有名人であったと思われますから、不思議ですね。
ひょっして、親鸞の境遇に自分を重ね合わせて共感していたりして・・・・・。
「じゃぁ、何故そのことが遺文にないんだよ!!」(by 外野席)
「むむっ・・・・・。言葉が喉に詰まった。誰かお茶を・・・・」 (-""-;)ムム・・・
「続史愚抄」に親鸞のことが記されているそうですね。
1262(弘長2)年11月28日 庚戌
親鸞上人(範宴、また綽空。初め慈鎮和尚の弟子と為る。後法然上人の弟子。本故皇后宮大進有範の子、右中弁有信朝臣の)寂す(九十歳)。
「吾妻鏡弘長2年」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126200.html
521
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 11:24:38
愚鈍凡夫さん:
ご紹介のサイトを拝見しました。
ここの文頭に「吾妻鏡に記載無し」とありますね。
これは、何を意味するのでしょうか。あとからの記載ということでしょうか。
《続史愚抄》ぞくしぐしょう
柳原紀光編の通史。81冊。正元元年(1259)から安永 8年(1779)までの521年間を記した朝廷の通史。寛政10年(1798)に自筆清書本が成立した。但しこの自筆清書本は既に焼失した。記事は簡略だが、元史料名を明記し、或は按文が附されている記事もある。引用元は「新訂増補国史大系(新装版)」(石狩市民図書館蔵)。
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/kaidai_sa.html
ぜんぜん親鸞聖人とは関係ありませんが、お札図柄から聖徳太子が外れたのは、日本国政府として、その存在に確信が持てないから、というのは本当の話なんでしょうか。ほかには、5万円札、10万円札が出来たときのためのストックなんて、話もありますが。
皆さん、『興風』の熟読でお忙しいようで、愚鈍凡夫さんとわたしだけで、当スレッドから脱線したようなテーマで話し合っていますね(笑)
522
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 12:10:15
犀角独歩さん、どうも。
1262(弘長2)年に何があったのか分かりませんが、「吾妻鏡」には弘長2年がすっぽりと抜けていますね。
>>520
のサイトでは、「吾妻鏡」に記載がないから他の資料で弘長2年の出来事を補ったのではないでしょうか。
また、聖徳太子について、次の記述が真実であったとしたら、インド人にゴータマ・シッタルタは架空の人物であると言ってるようなものかも知れませんね。
**************************************************
厩戸王という一人の有力な王族が実在したことは確かだが、聖人として信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。その聖徳太子という人物が最初に登場するのは養老4年(720)に成立した『日本書紀』においてであり、その人物像の形成に関与したのは、藤原不比等・長屋王・道慈らであった。
その目的は、大宝律令で一応の完成をみた律令国家にあって、その主宰すべき天皇が、中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示すためであった。簡単に言えば、皇室の歴史の中に皇太子のモデルとして<聖徳太子>を創出し、これによって皇室の尊厳を確立しようとしたのである。その後不比等が亡くなり、長屋王の変後の天平年間に藤原武智麻呂・光明皇后を中心とした権力が確立するが、大地震・疫病流行など未曾有の危機に陥る。そのようなとき光明皇后は<聖徳太子>の加護を求めるため、行信の手引きで法隆寺に接近し、法隆寺を舞台とした新たな聖徳太子信仰を創出することになる。そこで成立したのが、薬師像・釈迦像・天寿国繍帳などの銘文や『三経義疏』などの法隆寺系の史料であり、さらに救世観音を本尊とした夢殿であった。
(『東アジアの古代文化』104号 「聖徳太子関係史料の再検討」・大山誠一 より原文抜粋)
**************************************************
吾妻鏡本文データ
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/genpon/azumatop3.htm
「聖徳太子の虚像と実像」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/ooyamasetu.html
523
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 13:08:34
愚鈍凡夫さんは実在説派ですか。
わたしもいたほうが面白いとは思っています。
殊に聖徳太子については、梅原猛著『隠された十字架』(新潮社)は、学生時代に夢中になって読んだ記憶があります。また、恥ずかしながら、山岸凉子著『日出づるところの天子』(白泉社)、これもなかなか面白かったですね(コミックですが)
ただ、反面、架空の人物、出来事が、あたかも事実として、定着してしまう「歴史」というものの面白さも感じます。菊水御国さん(懐かしいHNです)がロムされていたら「ムッ」と反論されるかもしれませんが、天皇でも「日本国天神七代・地神五代・百王百代、人王…」と、こう来ますが天神・地神とは?とか、考えるとその成立には興味が惹かれます。また、『日本現報善悪霊異記』の記述は、中世の人々にとって、かなりリアリティがあったと思います。
まあ、そんなことと、聖徳太子、親鸞聖人の実在・非実在と結びつけて論じられる部分と、そうでない部分もありますね。しかしながら、興味深いテーマではあります。
524
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 13:13:22
間違えました。@菊水護国」さんでした。失礼。
525
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 13:41:17
たぶん、日本武尊のように複数の人物の功績を、一人の人物に投影したのが聖徳太子であり、聖徳太子伝説ではないかと個人的には思っています。
古代から続く歴史の流れとして、人智を超えた昏迷の時代には、スーパーヒーローを求めるのが世の常なんだと思います。注目を集めた歴史上の人物が、歴史を重ねるごとに巨大化し、超人伝説として一人歩きしていくのかも知れません。
また、こうであってほしいといった願望が何時しか伝説化し、信仰と結びついたのが始祖信仰の始まりなのではないでしょうか。
526
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 14:03:12
> 525
そうでしょうね。
いまの時代は、それを、案外、コミックが担ってきたのかもしれません。
この前、ある学者さんと話していたら、「カルトごとに、信者が夢中になったコミック主人公がある程度、分類できそうだ」と。世界に誇る日本アニメが、実はアルカイダをモデルにしているという指摘まで飛び出していました。
こういう主人公、偉人伝が、投影される理想化された自画像(補助自我)と、分析できるのでしょうか。話は、さらに横道ですが、伏せ拝、長時間拍手なんかにご満悦という舞台装置に酔うのも、またその延長にあるのかもしれませんね。
527
:
彰往考来
:2005/02/05(土) 15:07:40
>521
犀角独歩さん、
お札から聖徳太子が消えたのは、聖徳太子非実在説よりも「聖徳太子および二王子像」(宮内庁所蔵)が、聖徳太子を現していないという説が主流になったことが一因と考えられます。
これについては、『肖像画をめぐる謎』(1998年、世界文化社)の22頁に加藤修さん(朝日新聞東京本社学芸部)が「聖徳太子および二王子像は誰を誰を描いたものなのか」という小論を書いています。そこから要点をかいつまんで引用しますと、
**************************************
「聖徳太子および二王子像」(宮内庁所蔵)が聖徳太子を描いたものではないのではないかと疑われている。タイミングを合わせたかのように高額紙幣の肖像からは、聖徳太子のカオが消えた。(中略)
日本の肖像画としてはあまり例のない立ち姿であることと、二人の王子を従えている構図などに、中国の影響がうかがえることが挙げられる。(中略)
製作年代に問題がある。聖徳太子が亡くなった六二二年。画像の製作時期は、八世紀中ごろとするのが一般的だが、服飾や法隆寺の再建時期などを考慮し、八世紀初頭とする説もある。いずれにせよ聖徳太子の没後一○○年ほどたってから描かれたものである。(後略)
**************************************
なお、同書24頁に
**************************************
お札に登場する聖徳太子は「聖徳太子および二王子像」をもとに大蔵省印刷局の磯部忠一氏が描いた肖像画がもとになっている。宮内庁本のイメージを変えずに、顔つきに陰影などが加えられている。聖徳太子は戦前から戦後に至るまで、紙幣への登場回数は7回に及び、最も登場回数が多い。
**************************************
とあります。
参考までに「源頼朝像」(神護寺所蔵)も源頼朝ではなく、足利直義(ただよし:足利尊氏の弟)を描いたものという説が現在では有力です。(同書12頁)一度茨城大学教授の鈴木暎一氏(鈴木氏は中学校歴史の教科書(東京書籍)を執筆しています)の講義を聴いたことがあるのですが、教科書で昔から「源頼朝像」として記載していたので、急にそうではないとは書けず現在の教科書では“源頼朝と伝えられる肖像画”という表現を使っているとのことでした。ちなみに愚息の教科書(『新しい社会 歴史』平成13年、東京書籍50頁)にこの表現がありました。35頁の聖徳太子像も“聖徳太子と伝えられる肖像”となっていました。 “〜と伝えられる”というのは“〜ではない疑いが強い”という意味なのですね。従って最近では「伝源頼朝像」(『肖像画をめぐる謎』13頁)と表現されています。『大田区史 資料編 寺社2』(昭和58年、東京都大田区)にある『伝・日蓮本尊』(1263頁)も同様の表現で、『大田区史 資料編 寺社2』のこの項に入集している御本尊は“日蓮大聖人の御真筆ではない疑いが強い”ということになろうかと思います。
by 彰往考来
528
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 15:27:55
アニメと言えば、オウム真理教の幹部達が「宇宙戦艦ヤマト」世代でしたよね。空気清浄機に「コスモ・クリーナー」と名付けていたのには、ギャグかと思って笑ってしまいました。(^O^)
後で、恐るべきブラック・ユーモアと知って、ゾッとしましたが・・・・・。
> 話は、さらに横道ですが、伏せ拝、長時間拍手なんかにご満悦という舞台装置に酔うのも、またその延長にあるのかもしれませんね。
「伏せ拝」「長時間拍手」といった行為の中に、一般人と違う自分を見ているのかも知れませんね。在家教団独特の歪んだエリート意識と言いますか、「正しい信仰を持つ我々はあなた方とは違うのだ」といった、選ばれし者だけが共有する「至福の時?」に酔っているのでしょうか。そういった恐るべき勘違いをさせるための演出なんでしょうかね。
また、「正しい信仰」という根拠のない曖昧な言葉に、教団との間に「揺るぎない幸福」といった究極の現世利益が保証対象として存在すると思いこんでしまうんですよね。
529
:
吉祥仙人
:2005/02/05(土) 21:44:56
脱線を覚悟で書けば、オウムの最終戦争説・地震兵器はすべて山田ミネコ作
『ハルマゲドン伝説』シリーズからの引用と愚考いたしております。
530
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 00:06:39
527 彰往考来さん、有り難うございます。
なるほど、こういうことでしたか。わたしの又聞きより、説得度が違いますね。
また“〜と伝えられる”とは、所謂「伝・〜」という表記ですね。
この書き方が、載ると、所蔵者の誠実さを感じます。
531
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 03:16:42
吉祥仙人さん、『ハルマゲドン伝説』ですか。
わたしは、近くオウム問題をまとめなければならない仕事を抱えているのですが、これは一つ、読んでみようと思っています。また、本日は、島田先生にお会いするので、この因果関係は話題にしてみようと企んでいます(笑)
まあ、そのうち、オフ会(研究会)にもお運びください。歓迎します。
532
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 03:22:11
> オウム真理教の幹部達が「宇宙戦艦ヤマト」世代
愚鈍凡夫さん、そう、これはよく言われるところなんですね。
桃太郎と変わらない鉄腕アトムなんて、意見もあります。
年を食って、コミックを読まなくなり、久しい時間が経った自分ではありますが、将来、コミックは古典として扱われ、且つ時代に如何に反映したかなんて研究がなされるかもしれませんね。
考えようによっては、大乗経典はSF、コミックは鳥獣戯画のように扱って研究をする学書が現れる…、なんていう憶測は、あながち、外れていないかもしれません。
533
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 00:36:36
http://www.myouhouji.com/noukotudou/noukotudou.htm
板御本尊、何番かな?
534
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 12:14:37
533 通りすがりさん:
なんだか鑑識眼テストみたいですね。
これは第97漫荼羅の模刻ですか。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/097.html
535
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 17:51:52
独歩さん
今晩は、東金本城寺の板御本尊もと同じ相貌なので大きさとも、略変わらないので
ビックリしています。彫りが石山系とはちょっと違いますね。
富久成寺の紙本を東金本城寺の板御本尊として安置していますが、こんな感じです。
http://www.myouhouji.com/noukotudou/noukotudou.htm
536
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 19:20:16
通りすがりさん:
そうすると、東金本城寺、本門法華宗蓮華山妙法寺と、第97大漫荼羅が同じであるという意味ですか。
> 彫りが石山系とはちょっと違いますね
ちょっとというより、まるで逆ですね。石山では、墨の部分を深く掘り取ってしまい、ご紹介の板本尊は墨の部分を浮き彫りにして金を張っているわけですね。
どなたかの話によると、石山の彫刻本尊も、胤師までは、こんな感じであったそうで、それを廃仏毀釈の時、掘り下げて脱魂し、その魂を遷したのが蓮華寺の紙幅であるとか。
しかし、影師代と言われる信行寺板本尊も掘り下げなので、どうもこの点は、わたしは納得がいっていません。ただ、文献が見る限り、弘安2年に仮託する彫刻本尊が浮き彫りが、掘り下げかは読み取れません。
537
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 21:27:14
独歩さん
すいません、同じというより相貌が非常に酷似しているという事です。
寸法も略同じぐらいで、特に首題と花押は妙法寺の御本尊と大差は無いです。
東金本城寺の御本尊様は猿島富久成寺さんのお写しという容になっています。
その猿島富久成寺の本堂安置の二十八世詳師の板御本尊は平彫りで、妙法寺
と同じ彫刻の手法で日蓮正宗寺院では大変に珍しい御本尊で有名です。
全く凹じゃなく凸で御文字の輪郭を彫り浮かび上がる姿は、猿島富久成寺さん
ぐらいでしょう。
538
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 21:54:19
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shokeiji/itaman1.htm
これも、妙法寺御本尊と同じ浮き彫り本尊になりますね。
539
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 23:09:43
通りすがりさん、わたし、勘違いしておりました。
石山末の浮き彫り(凸)の板本尊ですね。
しかし、こちらはだいぶ、整っておりますね。
540
:
彰往考来
:2005/02/19(土) 19:45:29
>533-537
通りすがりさん、犀角独歩さん
533に示された四条畷妙法寺蔵(本門法華宗蓮華山妙法寺)の板御本尊は534で犀角独歩さんが指摘されているように第97番御本尊のお写しであろうと考えます。
但し535と536で指摘されている相貌が同じであるということ、すなわち相貌は
富久成寺紙本(茨城富成寺蔵御本尊)=東金本城寺=四条畷妙本寺=第97番 であるというのはちょっと違うと思います。
私は、
茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺=第85番 と 四条畷妙本寺=第97番 の2系列と思います。
茨城富久成寺蔵御本尊の配座は、『三和町史 資料編 原始・古代・中世』(平成4年、三和町)の403頁に記載されています。この記載が確かなものであると仮定すると、茨城富久成寺蔵御本尊には、第97番御本尊にはみられない“阿闍世大王”と“提婆達多”が配座していて、第85番御本尊(大村本経寺蔵、弘安3年卯月)と類似しています。(第84番は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の右にありますが、第85番は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の左にあります。茨城富久成寺蔵御本尊は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の左にあります。よって第84番より第85番のほうが茨城富久成寺蔵御本尊と類似しています。)
茨城富久成寺蔵御本尊は弘安3年太才庚辰卯月日との脇書があり、(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会、178頁)図顕年月は第85番御本尊と同じです。また茨城富久成寺蔵御本尊の大きさは不明ですが、『三和町史 資料編 原始・古代・中世』によると弐枚続とのことです。なお、第85番御本尊は一紙(丈60.9センチ、幅38.2センチ)です。このことから、茨城富久成寺蔵御本尊が第85番御本尊の模写の類である可能性は低いと思います。ここで使用している“=”はあくまで相貌が同じという意味です。
私は茨城富久成寺さんと東金本城寺さんの御本尊は実物、写真とも拝見していないので、“茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺”との内容は537によります。
以上のことから相貌は
茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺 と 四条畷妙本寺=第97番 の2系列であるといたしました。
by 彰往考来
541
:
犀角独歩
:2005/02/19(土) 23:37:23
彰往考来さん、ご教示有り難うございます。
写真その他で考証いたしてみようと思います。
542
:
尾池
:2005/03/31(木) 21:41:18
http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n14634453
に出品中の宗祖御本尊?真偽は如何
543
:
犀角独歩
:2005/04/01(金) 00:08:25
> 542
値段も笑えましたが、
> 日蓮大聖人が中山法華寺で修行中、本御曼陀羅を書かれ同寺で保存
蓮師の存命中に「中山法華経寺」があったのでしょうか(大笑)
544
:
尾池
:2005/04/01(金) 11:07:07
真偽は偽の方が濃厚ですね。
落札金額も笑えますね、落札するのであるなら、資産家か宗教団体しか
落札出来ませんね^。^
545
:
犀角独歩
:2005/04/01(金) 12:06:43
尾池さん、はじめまして。
仰るとおりであろうと思います。
546
:
彰往考来
:2005/04/01(金) 12:47:04
>542
写真が不鮮明なので、よくわかりませんが、
配座は19番御本尊に類似しているようです。
文永期の特徴がでていますが、経の字などは
弘安期の書き方のようで、まず偽筆でしょう。
価格は30万円といったところでしょうか。
表装のみの価格です。本体価値はありません。
彰往考来
547
:
がらくた@岐阜県
:2005/04/30(土) 17:33:09
この御書は偽筆なのでしょうか ?
http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2805.html
日蓮宗寺院やその他門流にも宗祖筆という断簡や曼陀羅本尊が随所に格護
されていますけど、お分かりになる方ご教示願います。
548
:
れん
:2005/04/30(土) 20:14:34
皆さんお久しぶりです。
がらくた@岐阜県さん、初めまして。御提示の断簡を拝見しました。保存状態が多少悪いためでしょうか、画像の映りが悪いですが、一応見た限りでは、真筆のようにも見えます。これが蓮師の真筆ならば御書=著作ではなく、聖教(仏教文献)写本の類と思われます。立正安国会の故山中喜八師の研究によると、蓮師は文永から弘安元年にかけて注法華経編纂のため、各宗の聖教類の収集・書写を集中的に行っていましたから、これが真筆ならば当該時期の聖教写本と見るのが至当と存じます。
伝蓮師筆の曼陀羅・著作・写本の真偽判定については、所謂宗派教学によることなく、安国会の片岡随喜師・山中喜八師の如く、真筆をもって真筆か否かを判断するのが一番確実だと思います。以上ご参考までに。
549
:
がらくた@岐阜県
:2005/04/30(土) 23:56:15
れんさん、ご教示有難う御座います。
写本類などは、宗祖が数多にわたり残されていたのですね。
未だに発見されていない断簡などは、今後の研究が期待されますね。
筆法などでは、上記の断簡は宗祖の特徴が、法蔵館日蓮聖人真蹟集成5巻に
紹介されている断簡類に酷似しているので私は間違いないと思います。
有難う御座いました。
550
:
犀角独歩
:2005/05/01(日) 06:55:28
れんさん、ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。
わたしごとですが、数年前、とある本山格の寺院で宮崎英修師が鑑定し、真筆と断じたという、何と『開目抄』の断片を、個人的に間近に拝観しました。これがほんものであったかどうか。文字はたしかに蓮師のものに似通っていました。何より、その時に印象に残ったのは、紙の質、墨の色、また筆の走りでした。こうした点は、やはり、現物を手に取らない限り判らないと実感したものでした。
蓮師、真跡の現物を一々に手に取ってきた人の経験値は、そんな具合で蓄積されているのだろうと思ったものでした。
551
:
れん
:2005/05/02(月) 22:24:43
犀角独歩さん、ご無沙汰しております。仕事が忙しくこのところはロム専でおりました。
宮崎英修師が蓮師真筆と鑑定された開目抄の断簡を拝観されたのですか。それは貴重なご経験をされましたね。
開目抄については真筆は身延曽存ですが、身延曽存の本(日乾師写本により原型がうかがい知れます)より現行流布本の系統の写本の方が文章が整足しており、身延曽存本は草案本で流布本は清書本ではないかとの学説がありますが、独歩さんが御覧になられた「開目抄断簡」がどちらの系統に属するものか、少しばかり興味が湧きました。
真筆か否かの判定は、やはり、独歩さんの仰るとおり多くの真筆に直接ふれた経験がものをいうでしょうね。その点、宗派教学によらず、専ら真筆によって真筆か否かを鑑別するという方法によって多くの蓮師の真筆を発掘してその写真版を刊行された立正安国会の故片岡随喜師・故山中喜八師の業績は、近現代における蓮師真筆研究の基礎を固めたものとして素晴らしいものと思います。
552
:
犀角独歩
:2005/05/03(火) 00:59:44
551 れんさん、浅学の浅はかさ。ご指摘の点はまったくわたしにはわかりませんでした。ただ、たしかに現代では見たことのない紙質、緑がかって見えるの古色、筆の走りがわずかに見える墨色など。目を惹くとことろは多くありました。
しかし、宮崎師真跡お墨付きと言っても直ちに信じないのが私という人間であることはご承知のとおり。鑑定というのであれば、せめて紙の繊維の拡大写真、紙と墨の成分分析結果、年代判定と言った科学資料が付されて然りであると思います。
彫刻本尊のように鮮明な写真すら公開しないで本物だと豪語するばかりであれば、不鮮明な写真から類推するほかありませんが、現物がありながら検査・調査・分析もしないというのは、学的態度としては、怠慢以外の何ものでもありません。率直に言えば、学者の風上にに置けません。これはいまでは蓮師漫荼羅の鑑定の第一人者と相成った例の御仁に特に言えることです。殊更、御書真偽を論ずるに「こんな格調の高い文章は日蓮大聖人をおいて書けるはずはない」と言った類の思い込みには付き合う気も起きません。
けれど、たしかにれんさんが、挙げられるお二方の研究には、そのような科学的アプローチはないものの敬意を表します。しかし、旧態依然に属するでしょう。百年一昔前の鑑定を21世紀になった今でも踏襲するだけで事足りたする古文書研究の有様には納得が行きません。
もちろん、これはれんさんのお言葉を返す意図に基づく投稿ではないことはおことわりしておくことにしておきます。ご返信を深く感謝申し上げるものです。
553
:
れん
:2005/05/03(火) 11:45:42
犀角独歩さん、仰るとおり現代における「鑑定」に於いては、‘見た目’だけではなく、放射性炭素による年代測定をはじめとする科学技術を用いた鑑定で万全を期すべきことは言うまでもありませんね。真筆といわれるもののなかには精密な模写や形木もありえますし。
とはいえ、今から七十年程昔、多大な私財を費やしてくまなく全国の蓮師門下寺院を探訪し、片岡師山中師が真筆資料(中には戦災により焼失してしまったものもあります)を写真版として刊行したことは、今日の真筆の学的研究の先鞭をつけ、その基礎資料を学界に提供したという点において、私は評価しております。
554
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 00:06:03
れんさん、仰るところはまったく賛同します。
そのうえで、今は70年前ではありませんので、70年経ったところから、過去を敷衍した上で研究がなされるべきであるというのがわたしの申し上げていることです。
555
:
鳥辺野
:2005/05/06(金) 23:53:51
皆さんはじめまして、鳥辺野と申します。399で彰往考来さんが発表されました、要山の大聖人筆御本尊の中の、「符法本尊」でしたら要山の宗務院にて御守として販売されているはずです。御守の外観は神社等で売っている物とほぼ同様ですが、「本山要法寺御守」と書かれた和紙の包み紙の中に、小さな曼荼羅が入っています。曼荼羅に書かれている文字は小さすぎてよく読み取れませんが、虫眼鏡で見れば確かに左下に「建治二年太歳丙子正月元日」と書いてあります。曼荼羅の相貌はどちらかというと、本尊集ナンバー26番や27番に似ているように見えます。ただこの時期にはない四天玉の上に「大」の字が冠さっていますので私自身購入した当初から不自然に思っていました。購入したのは平成15年の12月頃でしたが、そのときはほかの書籍「日宗年表」や「日大上人」等も一緒に購入しましたので御守の値段ははっきり覚えておりませんが、確か400円〜800円位だったと記憶しています。真偽未決の曼荼羅ではありますが私にとっては大事な御守であります。いつも仕事の時は肌身離さず持っております。余談ですが昨年末には再び要山に参詣し、その近くにある末寺、実法寺(尊師、郷師建立の鳥辺山御廟所:目師、要山歴代の御墓)にもお参りしてきました。
556
:
鳥辺野
:2005/05/07(土) 00:00:42
555の訂正
×実法寺 ○實報寺
失礼いたしました。
557
:
孤高之求道人
:2005/05/07(土) 01:20:46
鳥辺野さん、はじめまして。
私は失敬ながら、そのお守りの曼荼羅部分を、知人からコピーをいただきました。
次回オフ会に参加させていただくときには持参し、彰往考来さんはじめ、皆様に見ていただきたいと思います。
鳥辺野さんの仰る通り、かなり不自然な相貌だと思います。
558
:
鳥辺野
:2005/05/07(土) 08:30:09
孤高之求道人さん、はじめまして。今後も宜しくお願い申し上げます。
559
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/05/07(土) 08:52:24
555鳥辺野さん、557孤高之求道人さん
そのようなものがあるのですか。一度拝見させて
いただきたく存じます。
彰往考来
560
:
鳥辺野
:2005/05/07(土) 23:27:26
559彰往考来さん、はじめまして。いつも貴重な資料そして分析、興味深く拝見させていただいております。今後も宜しくお願い申し上げます。御守本尊の件ですが、大変申し訳ありませんが、私、恥ずかしながら自宅パソコンを設置したばかりですので、画像をお送りする事ができないのであります。もし機会があればオフ会等で直接お会いして、お見せできればなぁと思っております。
561
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/05/08(日) 10:11:52
560鳥辺野さん
ぜひ、オフ会で拝見させてください。
彰往考来
562
:
犀角独歩
:2005/05/08(日) 10:23:07
鳥辺野さん、オフ会のご参加、歓迎します。
563
:
鳥辺野
:2005/05/08(日) 23:12:05
561彰往考来さん
562犀角独歩さん
その時はどうぞよろしくお願い申し上げます。
あ、犀角独歩さんは、はじめましてでしたね。今後も宜しくお願い申し上げます。
564
:
犀角独歩
:2005/05/09(月) 10:10:26
鳥辺野さん、こちらこそ、よろしくお願いいたします。
565
:
パンナコッタ
:2005/06/18(土) 11:40:17
偽作説についてのスレで、きゃからばあさんの投稿と独歩さんのブログでふと思ったのですが、
「曼陀羅の用途が違う」というのは、護りはともかく自分にとってハッとした思いでした。
きゃからばあさんのお名前は梵字で、空・風・火・水・地を表したものであると思うので、それでふと思ったのですが、
本尊集第八番の上部に梵字が勧請されていますね。これは『アーンク・胎蔵界大日如来』と『バーンク・金剛界大日如来』
を表しています。 佐渡百幅の形式とは違いますし、真言批判は文永六年の「法門可被申様之事」に出てきている事
(蓮祖と同時代の真言師についてですが)を考えれば文永八年の筆とされていますが、かなり遡る事が出来るのではないでしょうか?
566
:
れん
:2005/06/19(日) 17:19:41
独歩さんのブログに記された中尾師の蓮師の曼陀羅本尊に関する御見解は、殊にその用途についての御教示は、大いに参考になりました。
私は六・七・八月は多忙なのでオフ会に参加できませんが、秋になれば多少は時間がとれると思うので、秋以降のオフ会から少しずつ参加させて戴ければと思っております。
さて、パンナコッタさんが提示された本尊集第八番の曼陀羅の系年についての疑問ですが、文永八年説については私も疑っています。「日蓮聖人真蹟集成」によって蓮師のバン字花押の変遷を見ますと、バン字の上に記される空点が、観心本尊抄副状の花押を境としてそれ以前はヽ点あるいは棒の様な点であるのに対し、それ以後は鍵手であることが分かります。第八番の曼陀羅を見ますと、その花押はまさに観心本尊抄副状以前の形態のもので、しかも類似する花押を真蹟集成で探しますと、署名・花押ともに文永五年(1268)四月五日執筆の安国論御勘由来に酷似しており、この頃の図顕にかかるものではないかと愚考しております。もっとも、この曼陀羅には本化四菩薩は記されていませんから、蓮師は観心本尊抄に見られる「本朝沙門」の立場ではなくあくまで天台沙門(台密僧)の立場で図顕されたものであろうと思います。以上ご参考になれば幸いです。
567
:
犀角独歩
:2005/06/19(日) 18:00:58
パンナコッタさんのご賢察を読み、考えているうちに、れんさんのご投稿となりました。
この漫荼羅については『御本尊目録』に「当御本尊は、一応第8に順列したが、御図顕の年代からすれば、更に遡るものと考える」(P12)とあります。
また第18大漫荼羅の備考を参照にせよとあるわけで、実はこれがパンナコッタさんが金胎大日であるという指摘とつながるわけですね。
そして、小松師の講義でも触れられているとおり、蓮師は文永5年の段階ではまだ天台法華沙門の立場、6年『御輿振御書』で揺らぎ、『安国論奥書』では、その期待を離れるという、つまり、れんさんが仰る台密僧としての図顕であり、かつ、金胎大日の勧請があるという、奥の深いやり取りであるわけですね。お二人のご賢察に改めて敬意を表します。
参)
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25679747.html
また、れんさんには、秋頃にはオフ会にご参加くださる由、心から歓迎すると共に嬉しく存じます。楽しみにお待ち申し上げております。
568
:
パンナコッタ
:2005/06/19(日) 20:05:18
れんさん、ご指摘ありがとうございます。 自分はまだ、うすぼんやりとしか見えていませんので
非常に参考になります。
独歩さん、佐渡以前の文永中頃の思想変遷は、富士門系では一寸軽く見られてしまうようですが、
なにやら重要な意味がありそうですし曼陀羅図顕にも関わりが大のようですね。
やはり時系列的な蓮祖の思考的変遷(キーワードとしては真言批判)、曼陀羅図示の変化と真筆遺文
内容の変遷を改めて検討、整理することにより、新たに意外な事実が浮かび上がってくる事も在ろうかと
思います。
第18番の大日如来が勧進されている本尊の図顕は文永11年となっていますが、佐渡後は一貫して
真言批判をしていたのにヘンじゃない? という自分の単純な動機もやがて重要な意味を持ってくるかも
しれませんね。
569
:
松栄堂薫香
:2005/07/27(水) 00:51:22
http://www.zephy.com/M050307.147.jpg
伝宗祖筆建治二年の曼陀羅御本尊みたいですが、真偽は如何 ?
570
:
パンナコッタ
:2005/07/28(木) 11:55:54
>569
真偽の判定は鑑識眼のある方にお任せするとして(即断されるだろうけど)、本尊集の建治二年NO、31〜33と
その前後の物と比較してみて考えてははどうでしょうか。 すると、
・太字の四大天玉が四隅に勧進されている形式はこの時代ではない。
・愛染の形式がこの時代の物ではない。(上下分離している形である)
・日付の位置が左右逆である。
・主題の蓮の字の書き方。(行書体である)
・主題の経の字の形。
・花押の蕨手。(まん丸だ)
等がパッと見に、大きく相違しますね。 更に細かく見ていけば色々あるでしょうね。
善徳如来の勧請は時代的には合っているが、その上の南の崩し字は前時代的なものではないのか、
(亀若護に使用例があるが用途その物に違いがあるのではないか、どうか)とか、やけに掠れ字、光明点は妙の字以外は
一筆書き? などのややこしい点なども出てくると思いますけれど、
みなさんは、どうお感じになりましたか?
571
:
大勇者
:2005/07/30(土) 10:16:58
パンナコッタ さん
珍しい花押として、NO41と比較してみてはどうでしょう?
572
:
パンナコッタ
:2005/07/30(土) 11:26:29
大勇者さん、
バン字を形成しているか、否か というご指摘でしょうか?
573
:
大勇者
:2005/07/30(土) 20:17:55
パンナコッタさん どうもです。
いえいえ、どちらもバン字型と思います。
NO41は、花びらのような三枚のあとに右に跳ねるのは珍しいかな、、と。
>569の曼荼羅は左に跳ねるがそのあとのウエーブが、、かな、、と思ったので。
574
:
パンナコッタ
:2005/07/30(土) 21:23:08
大勇者さん、お世話さまです。
NO41の花びら3枚とは、どれのことでしょうか?
>569のウエーブというのも、どれなんでしょうか? 蓮の字のしんにょうの
部分でしょうか。
575
:
大勇者
:2005/07/30(土) 22:09:21
あぁ すみません。花びら三枚は自分で勝手につけた名前でした(笑
花押の m みたいなところの事です。 m次の ○ の囲み方です。
の→m→○
576
:
パンナコッタ
:2005/07/30(土) 22:47:28
大勇者さん、
”日蓮”を囲む大きな丸囲みの左半分のRが扁平した形で、
しんにょうの下部に沿うようにしてS字を描いている という感じでよろしいでしょうか?
577
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/01(月) 07:31:04
>569 松栄堂薫香さん
この御本尊(建治2年2月13日)の出処が明らかでない以上、責任のある鑑定はできないでしょう。トラブルになりかねません。従って、主として現存御本尊の特徴との相違点という形で述べます。
詳細な分析は570でバンナコッタさんが記述されていますので一部重複しますが、
①日付の位置は通常と逆です。弘安3年9月8日の第99番本尊のように例外はありますが、建治期の御本尊には見あたりません。
②諸尊の勧請は建治期と弘安期が混ざっているようです。建治期の特徴である“十方分身諸仏”の配座がみられるのですが、“明星天玉”や“大六天魔王”の勧請が見られます。『御本尊集』によれば現存の御本尊中、“明星天玉”の初出は弘安元年8月の第53番本尊からです。また“大六天魔王”の初出は建治3年2月の第41番本尊からです。但し、“大六天魔王”は身延嘗存の建治元年11月本尊などにその列座がみられますので、建治期の御本尊に“大六天魔王”が勧請されていてもおかしくはないでしょう。
③“経”の字は建治2年ではなく弘安元年8月の書き方に似ているように思います。
④“四天王”の書き方で、“増長天玉” と “広目天玉”に“大”を存するのは、建治3年卯月の第44番本尊からです。
⑤“愛染明王”は建治期では上下分離しています。“愛染明王”がハート型のように左右が対称のような形になるものは弘安2年4月の第62番本尊が初出でしょう。弘安元年8月の第53番本尊もこれに近い形ではあります。
⑥花押も建治期ではないでしょう。典型的な蕨(わらび)手形式は、弘安元年7月以後の特徴でしょう。
⑦特筆すべきは “南無”の崩し方です。松本佐一郎氏は第112番本尊から第114番本尊に丸形になっているお筆の乱れがあることから、「弘安四年の秋、相当御病状が悪かったことは上野母尼書(艮2082)に見える。・・・・丸形のほうが書き易い」(『富士門徒の沿革と教義』昭和54年覆刻第1刷、大成出版社、219頁)と指摘しています。つまり、丸型のほうが力が入らないので書きやすく蓮祖がご病気時の図顕の特徴ということです。この観点から蓮租御本尊をみますと建治期では丸形は建治2年8月13日の第38番と39番だけで、翌日14日の第40番では通常形に戻っています。また建治2年2月の第31番から33番は通常形です。
あえて私の愚論をのべます。今回ご紹介の御本尊は建治2年8月頃の御本尊と弘安元年8月頃の2幅の御本尊をお手本に作成された可能性があるのではないでしょうか。ただそうだとすると、なぜ建治2年の日付に弘安期の特徴を混ぜるというような複雑なことをしたのか理由は不明です。
「古美術、古玩の世界では、偽物を本物と間違う罪は、本物を偽物として葬る罪よりはるかに軽い」(村松友み(“み”は示扁に見)『永仁の壺』2004年、新潮社、106頁)ということだそうです。私は今回ご紹介の御本尊は偽物と考えますが、あくまで個人的見解です。万が一本物でしたら罪は重いということになりますので慎重な判断が必要です。ただ偽物はあくまで偽物です。私見ですが今回のはあまり出来がよろしくないと感じました。偽物のもつ何ともいえないイヤラシさが全体から滲み出ているようでイヤです。じっくり見たいとは思いません。日顕さんのいう二級以下の偽筆本尊と思います。
御法主日顕上人猊下御説法
日女御前御返事 平成4年9月21日 法観寺寺号公称・落慶入仏法要の砌
****************************************
ニセものにも、もし等級をつければ、超一級から一級、二級、三級、五級、さらには十級くらいまでありまして、まず二級から下は全く話になりません。
****************************************
−『大日蓮』平成11年11月号、41頁
578
:
古池
:2005/09/11(日) 09:09:28
独歩さん
はじめまして
独歩さんのプログで紹介されている今成師の「如説修行抄」は日蓮在世時の内紛により日蓮でない門下の誰かがしたためたものではないかという説に大変興味を持ちました。よろしければ内紛の事情等について教えていただけないでしょうか。
579
:
犀角独歩
:2005/09/11(日) 13:44:04
小池さん、はじめまして。
「今成師は、日蓮在世に既に偽書として成立し、しかも日蓮その人を批判することを目的にしていたと大胆な推測を載せる。考えさせられる説だった」
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/29698771.html
と、わたしが記したことでしょうか。この御説に関してのみ絞って言えば、わたしは「考えさせられる説」と記したとおり、気分としては落着していません。弟子檀那などの文献的証拠がここでは示されていないからです。ただし、「有りえるのではないか」という思いがないということではありません。わたしにとっても、日蓮の山林隠棲は「我不愛身命但惜無上道」「不自惜身命」「寧喪身命」と言った所説に違反するものであると思えるからです。故に今成師のご説呈示の勇気に敬意を表すると言うことです。
ご参考の便宜に、以下、今成師の原文を転載します。
*** 転載はじめ ***
…佐渡にあって、鎌倉在住の弟子檀越たちを叱咤激励していた日蓮には、自分が遠からずして山林に籠る身になろうとは夢にも思われなかったでしょう。ところが、文永11年(1274)3月26日に佐渡から鎌倉に帰着した日蓮は、5月12日には鎌倉を立って身延山中に隠棲してしまいます。
結句は一人になりて日本国の流浪すべきみにて候。(文永11年5月17日付『富木殿御書』)
度々あだをなさるれば、力をよばず山林まじはり候ひぬ。(文永11年11月11日付『上野殿御返事』)
鎌倉中に且らく身をやどし、迹をとどむべき処なければ、かゝる山中の石のはざま、松の下に身を隠し、(建治元年4月付『法蓮抄』)
去年かまくらより此ところへにげ入り候。(建治元年7月12日)
などといった。不本意な入山を歎く文言が散見されるのですが、日蓮が、このような苦境に立たされることになった原因は一つしか考えられません。それは、門弟間に不協和音が増幅して収拾がつかなくなったことです。
日蓮の流刑地佐渡からの帰着、それを待ち受けた門弟といえば、度重なる弾圧に屈することなく、ひたすらに日蓮の教えを信奉し、教線の拡張に挺身しようとする精鋭たちであった筈です。
彼らが純心であればあるほど、教団の運営方針の意見対立は先鋭化したに違いありません。即ち、教団壊滅の危険を省みずに強硬路線をばく進すべきであるとする、いわば折伏派と、教団百年の計を慮って迂回路線も組み込むべきであるという、いわば摂受派との対立です。
580
:
犀角独歩
:2005/09/11(日) 13:44:30
―579からつづく―
日蓮が、いかなる困難にもめげずに信念を貫く人であったことは、その受難の人生を語って余りあるところですが、その日蓮が、「鎌倉中に且らく身をやどし、迹をとどむべき処なければ」「力およばず山林に」「にげ入り候」と告白しなければならなかった事態とは、日蓮が且て経験したことのない危機であったことは間違いないでしょう。とするならば、それが外部からの圧力ではなくて、教団に於て、にわかに決着のつきかねる対立が発生し、日蓮は、その何れにも組みすることのできない立場に追い込まれてしまった――と考えざるを得ないのです。
日蓮の山林隠棲は、「結句は一人になりて日本国の流浪すべきみにて候」になるかも知れないと危ぶまれるほどに、確たる見通しの立たないところの苦渋の選択であったわけですが、そのような道を選んだ日蓮に対して、直ちに従者を遣わしたり、供物を贈ったりする弟子もいました。然し、その反面、強固な反対の烽火をあげる人びともいたのです。
「権実雑乱の時、法華経の敵を責めず山林に閉じ籠り、摂受を修行せんは、あに法華修行の時を失う物怪にあらずや」とは、まさに、身延山に退いた日蓮、および日蓮の行為を容認する弟子たちに対する非難の攻撃であると考えざるを得ません。つまり、日蓮の身延山入山を不満とする折伏派の人たちによって作られたのが、今日話題にしている偽書であると思われます。
それらの偽書は、日蓮教団内部の、主として摂受派の人々を対象として発信されたものですから、広く社会に通用するものである必要はありません。一般性を欠いていても構わないのであります。『開目抄』で、常不軽菩薩の礼拝行を折伏であるとしているのも、それが無道に落ちた母を救う盂蘭盆会の行事として7月14日に盛行していた(閑居友』上の九。『名月記』)という当時の習俗に背くものですし、『如説修行鈔』が、日蓮の一度も口にしなかったところの「法華は折伏にして権門の理を破す」や「如説修行」という言葉を平然として多く用いているのも、社会性を逸脱していることなのです。
『如説修行鈔』の宛名が「人々御中へ」となっており、「此の書、御身を離さず、常にご覧あるべく候」という注意書きを伴っているのも、この遺文の閉鎖性を示すものとして注目されるところであります。…
『開目抄』の、常不軽菩薩を折伏の人であると特定している部分と、全篇一貫して折伏に徹することを勧めている『如説修行鈔』とは、身延山に籠った日蓮を、摂受に堕した者として非難し、折伏路線に邁進すべきであると主張する弟子たちによって作られた偽書であることが明らかになったと思います。
彼らの営みは、強烈な信仰に支えられたものであり、師匠の名誉と教団の発展を願ってなされたものであることは間違いないでしょうが、もともとが山籠という日蓮の実践を否定するところから出発した行動なのですから、そこに理想とされている折伏者像が、日蓮の実像に反するものであることは云うまでもありません。…
(教団における偽書の生成と展開―日蓮の場合― 『佛教文学』第29号 P146)
*** 転載おわり ***
581
:
古池
:2005/09/11(日) 14:06:34
独歩さん
ありがとうございます。
>この御説に関してのみ絞って言えば、わたしは「考えさせられる説」と記したとおり、気分としては落着していません。弟子檀那などの文献的証拠がここでは示されていないからです。ただし、「有りえるのではないか」という思いがないということではありません。わたしにとっても、日蓮の山林隠棲は「我不愛身命但惜無上道」「不自惜身命」「寧喪身命」と言った所説に違反するものであると思えるからです。故に今成師のご説呈示の勇気に敬意を表すると言うことです。
同感です。
>身延山に籠った日蓮を、摂受に堕した者として非難し、折伏路線に邁進すべきであると主張する弟子たち
との御指摘は考えさせられるものがあります。このような強硬派がいたとしたらですが。
大変参考になりました。
582
:
古池
:2005/09/11(日) 14:41:56
独歩さん
偽書は後世に生まれたものとのみ思っていた固定観念を揺さぶられました。
いままで議論されてきた摂受・折伏説について、曼荼羅は本尊か否かについても、固定観念を捨てて読んで見たいと思います。
583
:
犀角独歩
:2005/09/11(日) 21:25:22
小池さん
「固定観念」につき、まったく仰るとおりですね。
わたしはここ10年、「何で自分は、こう考えていたのか、こう信じていたのか」という自問自答を繰り返してきました。
584
:
犀角独歩
:2005/10/24(月) 23:51:59
彰往考来さん
本日は、立正大学情報センターに行き、大崎学報130余号を検索し、目についた20余点の掲載文書に目を通してきました。実に平易な文書で分かり易く、これ全部の読破は取り敢えず、日蓮近代教学の入口とすれば、さほとでもない(そんなことはないかもしれませんが)創刊号から順次、読み飛ばしているところを読破していこうと思った次第です。
近年で、わたしが腑に落ちるというか問題意識、文章の調子などで、興味が惹かれたのは小林是恭師、いままでぜんぜん気に留めたことはなかったのですが、この方の論文は荒削りながら実に面白いと思いました。
第93号『最蓮房賜書管見』、第112号『二明王と曼荼羅』はお読みになりましたか。
特にこの2書は、日頃、思っていたツボにピタリと嵌りました。
パンナコッタさん
感動したのは、第109号の山中喜八師『注法華経私考』でした。
その『結語』に
「注法華経に引きたまえる経釈には、本経の扶釈を目的としたものの有ることは論を俟たないが、経釈それ自体の開会のために引文されたものも、また尠くないようである。…或は本経を能摂として、之に比況しておのずから諸経の次位を定め、或は本経の能判として、之に照鑑しておのずからに諸釈を匡し、以て三国仏教の精要をして、法華経に注帰せしめようとと図られたのが、注経御選集の宏謨ではなかろうか。若しこの信解にして誤りなければ、注経全十巻に充満する聖聚を、渾べて本経の規拒として、何のためにその経釈を引かれ、また何の故にその処に注記されたかを、至心研鑽する必要がある。この用意があってこそ、始めて聖訣は顕示され宣授されて、古今東西に類型を絶せるこの一大撰著は、名実倶に「此宗末代規模」となるであろう」(昭和34年2月15日発行 P62)
といいます。
「此宗末代規模」とは『註』に拠れば昭尊遺蹟之事(宗全上聖部 P12)に載る「註法華経一部者。先師聖人以自筆註勘文記奧旨。此宗重宝末代規模也」という一文を指すとのことでした。
なお、御義口伝に関する考証も秀逸でした。
かつて顕正居士さんもご教示くださいましたが、就注法華経御義口伝(注法華経に就いての御義口伝)と言いながら、まったく、この編者は注法華経に拠っていない点を明瞭に説明しています。
その他、瞥見した書は多数ありますが、これは後日とまた、記そうと思います。
585
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/25(火) 06:54:44
>584 犀角独歩さん
>
第93号『最蓮房賜書管見』、第112号『二明王と曼荼羅』はお読みになりましたか
これは残念ながら拝読いたしておりません。表題だけを見る限り面白そうですね。
このころの大崎学報は良い論文がたくさんありますね。
山中氏の注法華経については、氏の関連論文一覧を追ってレクチャーします。
『日蓮聖人真蹟の世界 下』に入集していますので、大崎学報にたよらずとも読むことはできます。
下巻のほうです。
586
:
犀角独歩
:2005/10/25(火) 08:45:00
彰往考来さん
> 山中氏の注法華経…関連論文一覧…レクチャー
有り難うございます。楽しみにしております。
ところで、彰往考来さんは、稲田海素師の『御本尊写真鑑』(大正元年12月20日印刷/大正元年12月23日発行/須原屋書店)はお持ちですか。
この本は見開きで右に稲田師の解説が、左にその漫荼羅が配されて編集されています。
惜しくも、立正大学情報センター蔵書の第8番目が破り取られれています。そのために1枚は写真が、1枚は解説がわからなくなっています。
写真が失われた解説は「大聖人御年五十八弘安二年乙卯六月身延山ニ於テ書シテ尊師日顕法師ニ授与シ給タル御真蹟ニシテ京都本宗大本山本圀寺ノ霊宝ナリ、今考ルニ此御本尊ハ恐ハ房州清澄山ノ住人ナル浄顕房ニ授与シタルモノナルベシ、何トナレハ尊師ノ二字ハ法兄ニ対スル敬語ナルベク、日号ノ題ノ字ハ浄顕ノ顕ヲ取リ、又帰伏ノ後チ師弟ノ関係ヲ以テノ故ニ法師ト称シ給ルナルベシ、今暫ク愚見ヲ附シテ以テ世ノ識者ノ高見ヲ待ツ」(原文、旧仮名遣い)
となっています。以上の漫荼羅は、この写真帖以外、入集されているものはあるでしょうか。
この破り取られた写真の裏が次の写真の解説になっているために、こちらは文が失われています。以下、写真です。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/misho_mandara.JPG
(ジャンプしないときはコピペしてください)
ご承知のところがあれば、ご教示いただければ有り難く存じます。
587
:
パンナコッタ
:2005/10/25(火) 12:36:26
独歩さん、
注法華経はやはり蓮祖の法華第一の思想を考察する上で、より研究がなされなければいけないの
でしょう。テキストとして最高の部類の物を、自宗内信徒には存在すら知り得ないようにしている
態度は、大いに問題ありです。
>法華経に注帰せしめようと は、妙法蓮華経の意だと思いますが、現代の我々の場合は、
区別して(種種の梵本や他の漢訳と分ける意味)押さえておいた方がよいと思います。
御義口伝を金言とするのはもはや論外ですが、漢文の注法華経を読むより御義の口伝形式の書式の方が、
直感的にも”わかりやすい”のではないでしょうか。 普及を目的とするならば優れた物であると
思われます。 ある意味、富士系を後代に存続させる役割をも果たしたのかもしれません。
個人的には御書システムには、早くver upしてもらい掲載して欲しい所です。
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