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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

2318パンナコッタ:2005/05/09(月) 11:46:14
れんさんには、以前指摘していただいたので、初めてではないですよね。(^-^)

この板で考証した事を若手の学会員が採用し、スタンドプレー的に各地で起きている、
といった感じですかねぇ。
しかし、それで法主絶対論を破折するとなると、まだ危なっかしい気がしますね。
だって学会の歴史を否定する結果に成らざるを得ないですから、保守的な執行部は
いい顔は絶対にしないでしょうし、責任を取るような体質ではない所ですから、
下手したら締め付け的な事もあるような気がします。
ただ、歴史の流れは必然で、嘘がばれていくのは仕方のない流れでなんですけれどね。

2319ラキ:2005/05/09(月) 13:27:44
犀角独歩さん。
ツアーオフ会は、蓮師ゆかりの地を訪れる事ができる喜びで、
教団の事は忘れて、たくさん楽しみたいと思っております。^^

藤川一郎さん。
>「八幡大菩薩は真の神か?」
私も同じ事考えてました。(^^;

残るは、龍ノ口の言葉だけ?・・・
これも誰かされていたりして?・・・(^^;

2320犀角独歩:2005/05/09(月) 14:05:44

藤川さん、久方に笑いすぎて、おなかが痛くなりました。
いやあ、この御仁、どなたでしたっけねぇ(笑)

ラキさん、「楽しむ」、これは大切なことですね。

2321ラキ:2005/05/09(月) 18:53:28
ラキ!湯水の如く沸き上がる疑問!第?回目。

現在は、写真製版のご本尊がありますが、昔の下種されていたご本尊は、
どのようなものだったのでしょうか?
写真印刷技術が出来る以前の物でお願い致します。
一幅ずつ手書き?それとも、木版画だったのかふと、気になったしまいました。

追伸。
犀角独歩さんへ。
>ラキさん、「楽しむ」、これは大切なことですね。
はい(o^∇^o)ノ!これからも色々楽しみたいです。

2322問答迷人:2005/05/09(月) 19:06:16

ラキさん

>今でも、お形木御本尊とか、特別お形木御本尊とか言うのは、木版の名残ですね。形木で印刷したわけです。

そののち、信徒として定着してくると、時の上人が一幅ずつ手書きで御本尊を下付されたわけです。これを成就御本尊、或いは常住御本尊とも言うのでしょうか、一ランクアップの曼荼羅ですね。

2323ラキ:2005/05/09(月) 20:43:35
問答迷人さん。
回答ありがとうございます。m(__)m

石山系では、ご本尊を写真に撮るのは禁止しているのですから、
まだ、木版がでご本尊を印刷して下種してる方が、自然な姿かな?と思いました。
時の上人が「ノミと木槌」片手に彫刻してる姿は・・・
そして、夜な夜な僧侶が墨を塗り印刷してる姿を想像すると、不思議な気分です。

2324問答迷人:2005/05/09(月) 20:59:21

>石山系では、ご本尊を写真に撮るのは禁止

本門戒壇の大御本尊様が、研究対象にされることを極度に嫌がっているのだと思います。昔は、そんなではなかったそうです。

板曼荼羅は仏具屋が彫刻したのだと思います。『時の上人彫刻』なんて事は無いのでは。戒壇板本尊は日法上人が日蓮大聖人の御命令で彫刻したなんて話が実しやかに語られてますが、そのような古文書の記録は無く、日精上人が何を根拠にそんな事を言い出したのか、定かではありません。

2325パンナコッタ:2005/05/09(月) 21:49:23
曼荼羅ではないのですが、愛染感見記の上の部分が欠けている真筆と全体像のある
刷り形木版がありますね。見比べてみるのもいいかもしれませんよ。

2326ラキ:2005/05/09(月) 22:26:31
御本尊が研究対象にされる=科学の発展に伴い、年代特定とか「真偽」の解明を避ける?為の思惑?なのかと、感じてしまいます。
「信仰の対象が汚される」このような事も思ってもおります。
「真偽」ついては、スレットも立っていますので、見守って行きたいと思います。

>板曼荼羅は仏具屋が彫刻したのだと思います。『時の上人彫刻』なんて事は無いのでは。
現在、お寺にある「板曼荼羅」は、仏具屋の彫刻だとして、
仮にも、信仰の対象であるご本尊を、時の上人が筆を取って書きあらわしても、
彫刻の段階で、上人又は僧侶関係者以外の人が彫刻するのは、
途中から「俗世間」の人の手が関与された時点で、「大切な信仰の対象」ではなく、
彫刻になってしまわないかと、書きながら思ってしまいました。
近代なら、大型の紙の製造は可能です。
時の上人が筆を取って、書き表した「ご本尊」をお寺に安置してる方が、
「日蓮が魂を墨にながしこめ」(間違ってたらごめんなさい)
の御金言が、代々受け継がれてる感じがして、大切な「ご本尊様」と思いが強くなると感じております。
(現役の方に怒られそうですが、感じたままの本心なので、ご勘弁ください)

2327ラキ:2005/05/09(月) 22:39:11
パンナコッタさん。
>愛染感見記の上の部分が欠けている真筆と全体像のある
刷り形木版がありますね。

どこに行けば、拝見できるのでしょうか?
蓮師真筆の「ご本尊様」や「お手紙」も直に見た事がないので(^^;
書いていて、蓮師直筆のものを見たい〜〜と、気持ちがいっぱいこみ上げてきてます。

2328問答迷人:2005/05/09(月) 22:48:13

御本尊集がネットアップされています。このリンクは№1の曼荼羅。ここを開いて、下のほうにスクロールすると、御本尊集の全体の目次があります。そこから、御本尊集所収の曼荼羅が見れます。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

2329パンナコッタ:2005/05/09(月) 22:48:28
ラキさん、仏像なんかは大抵彫り師の仕事ですし、鋳物師も作ってますよ。 
とうぜん形木の彫り師も居てその仕事を請け負っていたんでしょう。(直接関係ないですが
浮世絵の彫り師や刷り師の仕事をチェックしてみるといいでしょう)
ですから”開眼供養”が行われますし、重要な意味付けになります。しかし、学会は
この意味合いを否定して、現在の寛師曼陀羅授与では行っておりません。

2330パンナコッタ:2005/05/09(月) 22:54:54
問答迷人さんの指摘されたHPのNO、124です。また刷り形木は不動・愛染感見記
で検索をかければ画像が出てきますのでそれをチェックしてください。

2331パンナコッタ:2005/05/09(月) 23:00:24
>2330 検索をかければ、ほかの画像が出てきますので  です。
 すみません。

2332大勇者:2005/05/09(月) 23:23:26
>2327
学会の公式見解と言って良いかどうか判りませんが、「不動・愛染感見記」は
偽書と論じているようなので、一応参考まで。

2333パンナコッタ:2005/05/10(火) 00:24:26
大勇者さん、
それってここで一寸前に話題になった北林さんの論文ではないでしょうか。
大抵の学会員は不動・愛染感見記の存在自体知らないと思います。富士宗学にも
活字化された文しか載っておらず、図像の掲載はないのでどんな物かも解りませんし
ねぇ。
(ちなみに以前、ある学会の男子部長さんに教えたら、青い顔になってしまいました。
図像のインパクトが強烈だったのでしょうね)

2334パンナコッタ:2005/05/10(火) 00:29:54
大勇者さん、
それって、以前ここで話題になった北林さんの論文じゃないですか?
大抵の学会員は、不動・愛染感見記の存在自体知らないと思いますよ。

2335パンナコッタ:2005/05/10(火) 00:32:46
あれっ、かぶってしまった。すんません<(_ _)>

2336大勇者:2005/05/10(火) 00:45:55
>>2333
パンナコッタ さん

私は北林氏の支持者ではありませんが、不動・愛染感見記の偽書説には説得力を感じています。
素人の私が見てもやはり「身」「見」と字が違うと思います。

図像の掲載どうぞ
http://www.houonsha.co.jp/nichisai/zuhan/hikaku.html

話題のNO18も疑義としていますね。
この辺の根拠はよく解りませんが。

2337ラキ:2005/05/10(火) 03:33:20
みなさん〜こんばんは。

問答迷人さん。
リンクありがとうございます。

大勇者さん。
参照リンクありがとうございます。

パンナコッタさん。
NO,124て、驚きの一言です。

追伸。(感想のつぶやき)
ご本尊集を見ていて、色々なのがあるのが驚きでした。
そして、図画があったのでまた驚き。
「不動・愛染感見記」で検索をして、たくさん話題になっていたのに、
今まで知らなかったのが何故?なのかと・・・
石山系団体では、必要最低限の事しか情報を教えてないと、あらためて実感しました。
自団体以外の書籍を読ませたくない、理由の一つなのかな?とも感じ、ネットの普及で
情報を隠す事が出来なくなり、いかに各団体が正当性を主張するのに躍起になり、
主張すればするほど、私はどこも不信感だらけで、信用度0になってしまってます。
掲示板とかもヒットして覗いて見たのですが「信仰者」としての自覚が無いのか、
発言の虚しい事。。。罵りあいは、どちらの主張が正しい以前の問題だと、再度実感してしまいました。
大発見!・・・では無いですが、「犀角独歩さんとの対話」と言う、HPの記事を見て、
少し得をしたな〜との思いです。^^

2338犀角独歩:2005/05/10(火) 06:49:49

> 2236

筆跡の比較をするのであれば、同時期の真跡を基準にしなければ難の意味もありません。
たとえば『御本尊集』でみても、蓮師の漫荼羅は、文永、建治、弘安とどんどん変化していきます。その間、僅か10年です。

第1
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
第123
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

この筆法の差を見れば、字体はもちろん違います。しかし、これは編年変化でしょう。

また、感見記、立正安国論、撰時抄では、その筆法を変えています。感見記は、やや行書、立正安国論は楷書、撰時抄は崩し字(連綿体)、これで字体が違うのは当たり前です、筆法が違うのですから。さらに感見記は弟子に与えた授与書、立正安国論は国主と見なした相手に出した上奏書、撰時抄はたぶん講義の原稿という性格の差があります。

以上のような点をまったく考慮せず、単純に並べて、違うというのでは鑑定・鑑別になっていません。よって、北林氏サイトの対照は意味を為していません。

2339ひたち:2005/05/10(火) 06:51:26
不動・愛染感見記に関して、以下のような考えを述べられている方がおります。いわゆる、「重如日蓮」という人が同時期に存在していたというのです。

http://www.mypress.jp/v2_writers/eikou/story/?story_id=989120

ちなみに、私も不動・愛染感見記に関しては北林氏の考察は的を射ているように思います。明らかに諸抄と筆法が違いますね。

2340犀角独歩:2005/05/10(火) 06:56:30

【2238の訂正】

第1
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
第123
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/123.html

2341犀角独歩:2005/05/10(火) 06:58:59

ひたちさん、2人の日蓮に関する考察は、故高木豊師です。
遺稿『日蓮』に載っています。

なお、わたしは感見記の筆法は諸抄と比較して、運筆その他の点では、相似しているように思います。

2342ひたち:2005/05/10(火) 07:17:45
犀角独歩さん、ありがとうございます。

先のサイトでは、どの文献を紹介したのか記されておらず、わかりませんでした。高木豊師の考察でありましたか。

筆法の件、確かにもっと詳細に分析がなされるべきと考えます。

2343犀角独歩:2005/05/10(火) 08:31:10

ひたちさん。もし、「二人の日蓮」説を採って、感見記の偽作を言う人があり、それもこの論が展開された経緯を知ったうえであったとしたら、これほど、ひどい詐術、詭弁はありません。

なぜならば、「二人の日蓮」説は‘感見記を真跡として扱うこと’によって成り立った論だからです。

これはそもそも、日蓮主義の研究者ならば、その名前を知らない人はいない戸頃重基師が、1970年の日蓮仏教研究会(日教研)での発表に、翌'071年に高木豊師が反論をし、それをのちに改稿したという一連の流れで議論されたことでした。『日蓮』(太田出版)に載る『<二人の日蓮>改稿』は胸をすくような名論攷であって、日蓮論攷はかくあるべきとも思う手本的遺稿です。
高木師はもちろんのこと、戸頃師も、当然、感見記を真跡として、この論攷を行っています。
殊に高木師は、感見記の文字ばかりではなく、その絵までも蓮師が記したのではないかという考えに準拠しています。そのような師の論攷「二人の日蓮」説を以て、感見記を偽作というのは、詐欺、ペテンの類といっても言いすぎではありません。

戸頃師は金沢文庫蔵「理性院血脈」の日蓮と感見記の日蓮は別人説を立てました。それは血脈の日蓮が25代であるのに対して、感見記では23代となっているということからです。それに対して、高木師は蓮師が密教相承を複数受けたとすれば、この2代の差は説明が付くとして、戸頃説に反論しました。しかし、その後、もう一人の日蓮、「日蓮房重如」(重如日蓮というのは間違い)の確実な資料を見いだし、二人の日蓮の存在を明らかにしました。しかし、これは感見記を偽作と何らつながることではなく、法華日蓮の存在は、むしろ、感見記によって確定し、その他の資料から日蓮房重如というもう一人の日蓮を立てているのです。

以上のような、経緯があるにも関わらず、「もう一人の日蓮」を感見記偽作と関連づけるなどということは呆れ果てた所行といわざるを得ません。

さらに言えば、このような詭弁を恥もなく吐くほうも吐くほうですが、恣意的に組み立てられ、組織のご都合で宛われた話を鵜呑みにする会員の浅はかな在り方には、呆れを通り越して、哀れすら感じるものです。

2344犀角独歩:2005/05/10(火) 08:37:50

> …「犀角独歩さんとの対話」

かつて、こちらでも、よく投稿されていたLibraさんとの議論、メールのやり取りをご自身のHPに載せたものでした。この当時と、いまでは、わたしの考えには格段の違いがあります。これをお読みいただくのは、恥ずかしい限りです。

もっともこの掲示板の過去ログをお読みになれば、わたしがここにはじめて記すようになった頃はまだ、彫刻本尊真筆説に拠っていたことは了解されることです。文章には責任があります。しかし、それ以上に、真実に基づき、過去の自分を批判できる勇気を持つことは大切なことであると、わたしは思っています。

2345乾闥婆:2005/05/10(火) 10:43:37
「この『感見記』は日蓮の現存真蹟中最古のものであるが、後年の筆跡からしても、確かに日蓮の真蹟としてよいものである。ただ、ここに描かれている明王図は、かなりかなり細かなものであり、果して、それが日蓮の手になるかどうか確かめる基準は、筆跡と違って求められない。しかし『感見記』(中略)が、文字通り日蓮自筆の感見記だとするならば、他者、例えば絵仏師や図像巧者にした感見した相貌を告げてそれを描かせたというよりは、自ら図絵したと考える方がよいのではなかろうか。そうとすれば、これを図絵できた日蓮の図像研究が、専門の図像研究に及ばないにしても、若き日にあったことを想わせるのである。」(高木豊著『増補改定 日蓮 その行動と思想』太田出版 P230-231)

2346乾闥婆:2005/05/10(火) 10:50:55
>2345

誤)絵仏師や図像巧者にした感見した相貌を告げてそれを
正)絵仏師や図像巧者に感見した相貌を告げてそれを

2347パンナコッタ:2005/05/10(火) 11:56:33
あらら、昨晩はパソのトラブルで早々にうち切った後に、こんな論争になっているとは・・。
三学無縁さんは「図は絵師、字は蓮祖」と言っておられましたが自分もこの意見です。

二人の日蓮説については要伝寺の高森大乗師の研究によると、
『神奈川県立金沢文庫に、日蓮なる人物が記した『理性院血脈』という相伝書が伝わるのですが、
この日蓮という人物をめぐって、日蓮宗の祖師日蓮とは別人であるとする学説が戦後に発表されました。
これは、『理性院血脈』の作者が、鎌倉中期から後期にかけて活躍した真言僧の重如(1226〜1299)
であるとする説です。安房の日蓮より4歳年下の重如は、大和の生まれで、字(あざな)を日蓮と呼び、6歳の時、
山城随願寺に入り、金剛王院の胎蓮という人物に灌頂を受け、諸寺に遊学して野沢二流を修めたと伝えられます。
書に優れ、東大寺の凝然(1240〜1321。鎌倉中期の華厳僧で、東大寺の円照に師事。『八宗綱要』の著者)に
声明を教授し、東山に石塔を建立して無縁仏を供養したといいます。正安元(1299)年5月18日、白毫寺で歿
しております(『本朝高僧伝』『東大寺円照上人行状』など)。
 これらの記録から、重如は、東国の法華の日蓮とほぼ同時代の人物で、同じく日蓮と号していたことがわかります。つまり、
金沢文庫に伝わる『理性院血脈』において理性院の血脈相承を受けていたのは、法華の日蓮ではなく、真言の日蓮であった可能性が
非常に高いのです。後に真言の日蓮の相承書『理性院血脈』が、近代に至って法華の日蓮のものと誤伝されてしまったわけです
(高木豊「〈二人の日蓮〉改稿−金沢文庫蔵『理性院血脈』を日蓮伝の資料から除くべき歟のこと−」『大崎学報』135号など)。』

2348パンナコッタ:2005/05/10(火) 11:57:24
続き
『なお、法華の日蓮の真蹟が伝えられる『不動愛染感見記』には、日蓮が大日如来より23代目の嫡々相承を
受けたことが明記されていますが、『理性院血脈』には、大日・金剛薩★・龍猛・龍智・金剛智・不空・
恵果・弘法・真雅・源仁・聖宝・観賢・淳祐・元杲・仁悔・成尊・義範・勝覚・賢覚・賢信・乗印・勝因・
覚舜・真空・日蓮と、日蓮は第25代目に相当するので、『不動愛染感見記』と『理性院血脈』との関係は
薄いと考えられ、その点からも『理性院血脈』は、法華の日蓮の書でないことが推測できます。法華の日蓮の
真言相承の系譜は、明らかに真言の日蓮(重如)のそれとは異なるのです(どの時点で分岐をしているかは未詳)。
また逆に、25代目の血脈相承を受けた真言の日蓮が、23代嫡々相承などという間違いを書くはずがないので、
『不動愛染感見記』は、真言の日蓮の書ではないことはいうまでもありません。★印は「土」扁に「垂」』
 要伝寺HP Q&A Q:鎌倉時代に「日蓮」と名乗った人物が二人いると聞きますが、詳しく教えてください。より引用

蓮祖が真言密教をやっていたのは事実ですが、この真言僧とは直接関係ないと思います。

2349パンナコッタ:2005/05/10(火) 12:29:08
ラキさん、びっくりされました? 自分も初めて見たときはびっくりしました。(^o^)
でもこれがあるのは富士系の保田妙本寺さん、なんですよ。またびっくし。(^◇^)

真偽の論争はともかく、こういったものがあり宗旨ににそぐわないから隠蔽に近い扱いを
するという事実がある事だけは押さえておくべき事ですね。当然御書にもこうした扱いが
あるのも事実です。

2350れん:2005/05/10(火) 13:33:07
横レス失礼します。
保田妙本寺の「不動・愛染感見記」ですが、私は個人的には蓮師の書とみています。このころの蓮師の筆墨は大変少ないのが事実ですが、無記名ながら千葉法華経寺に蓮師の写本として伝承され日蓮聖人真蹟集成第六巻にも収録されている建長三年の年記を有する「五輪九字秘釈」と筆勢を見比べますと、おおよそ同じ筆癖で五輪九字秘釈が蓮師の書写本であることが確実ならば、不動・愛染感見記も蓮師真書として扱ってよいと思います。私自身大日蓮展で感見記の正本を拝見しましたが、疑点は生じませんでした。
感見記中の廿三代の血脈については、山中喜八選集下巻に収録された山中師の論文によると、台密の海雲血脈には大和荘俊範法印が大日如来より二十二代とあるのを紹介し、日大師の「直兼日大問答記」における蓮師は俊範から台密の法門を相承したとの記述が史実ならば蓮師は大日如来から二十三代であり、不動・愛染感見記はそれを証するものとしております。
山中師の推定が正しければ、不動・愛染感見記の血脈は蓮師が自らの台密の血脈を記したものと考えられます。理性院血脈の日蓮については、故高木豊師の論考の通り、重如日蓮と見るのが至当と思われます。以上ご参考まで。

2351ラキ:2005/05/10(火) 13:43:00
みなさん。こんにちは。

昨夜は少し驚きや、今までの体験で、もっと視野を広げて見て行かなければと実感しました。
床に入りながら、色んな考えが浮かび、石山系だけの視点で見ていたのでは、事実・真実は到底見つける事は、出来ないと思いました。
ここの掲示板に出会えて、心から感謝の気持ちでいっぱいです。
「開眼」で少し思い出した事があります。
些細な事ですが、正宗の「信仰のしおり」(宗旨建立七百五十年記念、平成十四年十月十二日)数珠の解説が出ていて、抜粋になりますが、
『「数珠は御本尊様を表す」とされています。数珠、左右の大珠が「親珠」といって、「父母」に当たります。
このうち、父珠が「知断の徳」で、煩悩を断じることを表します。母珠は「万物を生成」し、多くの善根を生むことを表します。
この父母の珠は「陰陽」に通じ、陰陽は「境知の二法」に通じますから、「妙法」の二字を意味します。』P23からの抜粋です。
何故?陰陽が出てくるのかな?と迷った文書です。
同書p25の数珠のかけ方で「正宗寺院での開眼された数珠を用います。」
「数珠の開眼」て今まで聞いた事もない事が出ていて何故?いまさらと感じてしまいました。
破門前の学会では、そんな事は一切言っていなかったですし、石山や末寺で数珠購入しても一言も聞いたことも、文書で貼り出して注意してあった事も
ないと、記憶しております。
私の意見としては、他団体との法具(仏具)の差別化を思っての記載なのかと?
そして、「開眼」が出来るのは、ただ僧侶(寺院)だけでしか出来ない、との思惑もあるのかなって?
言葉は汚くなりますが、「数珠の開眼」=「開眼の為にご供養」を促す思惑も感じずにはおれません。
開眼が必要なら、今まで使用していた「数珠」は、ただの「物」でしかないと、言ってるようにも感じます。
このような事を他の団体所属の方に言ったら、「石山の金集めの口実」と言われるのが、目に見えてると感じております。

2352顕正居士:2005/05/10(火) 15:23:59
廿五代と廿三代については3年前の無徳民さんの御投稿があります(14番)。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/shingon.htm

海雲血脈というのは中国の血脈譜です。それによると慈覚大師が十一代であり、以後の天台密教の
相承を調べると俊範法印が廿二代であると。

おそらく『感見記』の血脈は比叡山のでしょう。理性院(醍醐寺)のは東寺密教の相承で、別個の
系図です。比叡山や醍醐寺の血脈を受けるというのは今日でいえば名門のインド学科、仏教学科の
博士課程を修了するくらいだろう。日蓮聖人が12年の修学の期間に両方の相承を受けたかは疑問で
ある。重如も真言ではなく華厳の人である。血脈譜に字(あざな)を記すのも変である。理性院の
ほうはだから分からない。

2353きゃからばあ:2005/05/10(火) 15:37:11

元・無徳民の「きゃからばあ」です。
顕正居士さんに私の投稿を、復活していただき、大変うれしく思います。
あまり書き込みはしていませんが、少しでもこの掲示板にお役に立てれば幸いです。
完全に横レスですが、とにかくうれしくて、書き込んでしまいました。

2354藤川一郎:2005/05/10(火) 16:05:41
>>2351
しかしながら、数珠の開眼は破門前の妙信講の機関誌(冨士)でも、書いてありましたし、昔からありましたよ。
確かに、創価学会からの脱会者の方で、数珠の開眼を聞いてなかった方はおりますが、聞いてた方もおります。
創価学会でどのようにお教えしていたかは知りませんが、法華講では当然のようです。

2355藤川一郎:2005/05/10(火) 16:09:20
(続き)
その昔の顕正会の組長訓には「勤行は五座三座を行う」「数珠は寺院で開眼された者を使用する」等と書いてあります。
五座三座は昭和55年前後にはなし崩しになっておったようですから、この文も破門前と考えて良いと思います。

2356犀角独歩:2005/05/10(火) 17:22:16

2347、8 パンナコッタさん

この引用の要伝寺のダイジェスト、これはひどいですね。
まるで論攷の骨子を取り違えています。

高木師は、円仁の血脈の例を挙げ、「同一人における代数の食い違いから別人とする戸頃師の論は、同一人が複数の相承を受けていたという点からすれば、必ずしも全面的に肯定できることではないといえるのである。すくなくとも、代数の食い違いだけでは、別人説はなりたたないというのが、筆者の戸頃説への批判の第一点であった」(P238)と言います。

また日蓮房重如の年齢については「安房の日蓮と同じく1222年(貞応1)の生れで、安房の日蓮よりも17年も長寿であった」(P234)といいます。

なお、戸頃師は『本朝高僧伝』で依用しますが「筆者(高木)は、この戸頃説批判ののちに、鎌倉時代の資料のなかに重如日蓮の実在を知り得たのであった。それはまた、『本朝高僧伝』の他の僧伝において依拠されたものであったのである。ほかならぬ、凝然の『東大寺円照上人行状』中巻の重如日蓮略伝がそれであった…日蓮房重如、本 舜観房瞻秀ト号ス、大和ノ国人也」(P240)と紹介します。

それ以降、「重如日蓮」とは記さず、「重如」、もしくは「重如房日蓮」と記して一貫します。
また、『理性院血脈』と感見記の代数の食い違いからとするのではなく「…真空、日蓮…」という血脈の次第で「鎌倉における(法華)日蓮と真空との接触もまた、考えられない」(P250)という戸頃説とは別説で、別人説を立てています。

2357犀角独歩:2005/05/10(火) 17:29:10

> 日蓮聖人が12年の修学…両方の相承を受けたかは疑問…重如も真言ではなく華厳の人…血脈譜に字(あざな)を記すのも変…理性院のほうはだから分からない

とは、重要な指摘で、この部分に関しては、戸頃・高木両師の見解より、顕正居士さんの上述の考えのほうが合理的であると思います。

2358れん:2005/05/10(火) 17:40:12
顕正居士さん、御批正ありがとうございますm(__)m
ご指摘の無徳民さん=きゃからばあさんのご投稿読ませて戴きました。わたしが言わんとしたところが、無徳民さんの引用された山中喜八選集の該当の本文でした。外出中の横レスでしたので典拠の本文を引用できず、また、重如日蓮を真言宗の僧と勘違いしてました。理性院血脈の日蓮につきましては、顕正居士さんの仰るごとく、分からないというか、まだ検討の余地があると思います。この件につきまして、これからも顕正居士さんはじめ諸賢の皆様の御議論を拝聴させて戴きます。

2359犀角独歩:2005/05/10(火) 19:02:58

乾闥婆さん、はじめまして。「自己紹介」スレ、拝見しました。

2345の書き出しの補足、有り難うございました。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

2360パンナコッタ:2005/05/10(火) 19:56:50
犀角独歩さん、
きちんと「別相承による代違いの指摘」がしてあるのですね。なるほど。
独歩さんの指摘をふまえると、この高森師の文は、かなり端折って一寸ぼやけた結論である、
ということになりますね。

2361犀角独歩:2005/05/10(火) 20:43:31

2360 パンナコッタさん、そう思います。

2362犀角独歩:2005/05/10(火) 23:39:13

大勇者さん、ひたちさん、何か、反論なり、ご意見はないのでしょうか。
沈黙してしまっては議論が続きません。

2363ラキ:2005/05/11(水) 00:47:18
藤川一郎さん。
>数珠の開眼は破門前の妙信講の機関誌(冨士)でも、書いてありましたし、昔からありましたよ。
>顕正会の組長訓には「勤行は五座三座を行う」「数珠は寺院で開眼された者を使用する」等と書いてあります。

学会在籍当時、数珠の開眼の話も、書籍類でも見た事がありませんでした。
顕正会のは大変貴重な情報ありがとうございました。
この事実を話しても、受け止めてもらえないのが悲しい思いです。

(恒例の?つぶやき)
顕正会の「諫暁書」の表紙の事で話をした来ました。
犀角独歩さんが以前書き込みをされた指摘を私風に言葉を変えて、
「『立正安国論』の真筆写真が掲載されているのは何故?邪宗、謗法の所蔵品ではないのですか?」
そして「不許可転載なのでは?まさか、邪宗に許可はもらわないですよね?そうすると法律違反になりませんかと?」
蓮師が書かれた物で、昔は著作権など存在しないからいいみたいな、歯切れの悪い回答でした。
そして、4月25日号の顕正新聞の浅井氏の講義で、おかしい部分が拝見できたので、
植物園。気象庁電話で直接質問。
ネットでの歴史の史実の検索して、私が記憶していたのと照らし合わせて、
間違いではない「証拠」(科学的実証。文証)があると指摘しても、目の前の新聞の事実!
間違い箇所を指摘しても、それは部分的な事で、浅井氏が言いたいのは、全体を見ないと判らない。
御書引用で「切り貼り」解説しかしてないのに、全体とは矛盾ではと思い、
全体解釈だともっと違う意味になりますが?と言ったとたん、虚しさがよぎり、
三証を示しても、信あるのみは、蓮師仏法の基礎を否定してるのではと、また感じました。
「喜びで折伏よ」と「幸せですか!」の足裏占いの、教団と同じ思想ではと、悲しい気持ち。
興師、目師は信・行だけではなかったと、記憶しています。
「学」学ぶ事も、折伏行で必要なのですから、大事だと言っていたような?
今は学会の「本尊真偽」の動向を見守るしかないです。
ここの部分は、学会に期待するしかないとは、情けないですが。。。
信仰の根本が崩れれば、顕正会は崩壊するのではとの期待だけです。
顕正会も3代目が世襲制になりそうな感じで、全部淘汰されて、
”事実”を認めて、新たに蓮師の仏法を実践して行って欲しいです。
今日、石山御書が届きました。^^
真筆の所在が載っていて、学会版より少しは進歩したのかな?と・・・

2364ひたち:2005/05/11(水) 00:50:33
犀角独歩さん

二人の日蓮説について、詳細に教えていただきありがとうございます。読ませていただいた限りでは、二人の日蓮がいたことはおそらく本当だろうけれど、「不動・愛染感見記」が蓮師のものでないということにはならないと拝察しました。れんさんの御指摘もその通りと感じます。結局真蹟かどうかは同時期の筆法を比べるしかなさそうです。経年の変遷がたどれるとよいのですが、。一点だけ気になるとすれば、「不動・愛染感見記」に記される日付ですね。建長六年といえば、立教開示された翌年です。年譜によれば、名越に小庵を結ばれた時期かと思います。已に胸に妙法の流布を秘められ、鎌倉を目指された時に、どこの不動・愛染を感見したのだろうという疑問が湧くのです。これが、修学中のものならば、そのような事もあったかもしれないとすることもできますが、やはり引っかかるのです。

2365犀角独歩:2005/05/11(水) 01:09:27

2364 ひたちさん、早速のご返信、誠意を感じます。

ご指摘の点、つまり、建長6年に、なぜ不動愛染か、これは結局、蓮師終生の大問題で、法華経の会座を記した大漫荼羅、だったら、何故、不動愛染が?? という点で、結局、学会教学は難の説明理論も持ち合わせていない空洞があるわけです。

それを自分たちの教学と合わないものは偽作のレッテルを貼って除外視するような短絡思考は、そんなものは通用しない‘子供だまし’だということです。

感見記はもちろん、漫荼羅に至るまで、何故、不動愛染かが、わからなければ、結局、蓮師の実像には迫れないということです。ここで、みなが真剣に考えているときに、「偽書」の一言で片付けて、恰もその子供だましが事実のように豪語して憚らないようなものは捨て置けば、それでよいにしろ、それを納得できるなどと、たとえば、ひたちさんに書かれれば、それは看過できません。では、徹底議論しようということになります。ところが、北林さんの言うことは納得できる、それ以上のことは何もいえないとすれば、ご都合主義に丸め込まれただけであろうという批判が飛んでくるのは、もはや、火を見るより明らかな結果です。それにも関わらず、それを臆面もなく、セット区政があると紹介する神経がわたしには納得できない。徹底議論だということになるわけです。その時の、相手側の対応はただ一つ、では、徹底して証拠を挙げて議論に応じる。ところがそうはならない。言いたいことだけ言って、あとは聞かぬ・見ざる・言わざる、わたしは、こういう対応には、断固、「ふざけるな」と言うわけです。
しかし、こうして、ご返信くださったひたちさんを、わたしはちゃんと評価します。

大勇者さん、読んでいますか。

2366犀角独歩:2005/05/11(水) 01:10:54

【2365の訂正】

誤)セット区政
正)説得性

2367大勇者:2005/05/11(水) 21:44:52
私が何故、北林氏に説得性を感じるかですね。
私の愚考を少し挙げて見たいと思います。
先ず、「不動愛染感見記」が真筆として扱われる最古の遺文という事と思いますので編年変化を考慮した比較が難しいのは仰る通りと思います。
また、花押もこの時期には未だ無いので比較出来ません。(しかし花押の風習は既に日本にはあったと思いますが)
運筆が相似しているというのは書道の経験がない私には解らないところです。

撰時抄には「生身」という二文字が出てきますので25年の差があると言えども比較する資料としては排斥しなければならないとは思いませんし、むしろ良い着眼ではないかと思った次第です。
「不動愛染感見記」の「生身」の文字に注目しますと「身」の跳ね方が右回りか左回りかは大きな違いと考えます。もしこれが二字合によるのであれば「創作」と呼ぶ筆法ではないかと思いますが、しかし「生身」と記す遺文の中にこのような「創作」は(私は)知りません。

次に文献類ですが、「祖師伝」以降には遡れないのではないでしょうか?
興師以外の弟子に授与したものと推測しますが、何故、興門流に伝わるのでしょう。
また、木版画の流布後に軸装裁断されているのにも違和感を覚えるのですが。

2368にし:2005/05/12(木) 04:14:45
だから、No1の本尊とNo122の本尊とどこが似ているわけ。
この違いは、どっちかが偽者だというわけ。
あ、そうか本尊の写真を見るのは怖いのか。

2369犀角独歩:2005/05/12(木) 07:21:03

にしさん、はじめまして。まあ、ここは、そんなにいがみ合って議論しているわけではありませんから、ゆったりと。そういうわたしも言葉にはしばしば棘のあるほうで反省することも多いので、人のことはいえませんが。

さて、大勇者さん、まず、25年の経年差の書を比べるというのは、これは無茶というものでしょう。ご自分の書いたもので25年前のものが残っていたら、比較されてみるとよいと思います。

取り敢えず、今回の議論の要点をまとめ、ブログにアップしました。ご参考に供していただければと存じます。

『日蓮』掲載 「もう一人の日蓮」 再読
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/21544439.html

2370犀角独歩:2005/05/12(木) 14:12:13

> 文献類ですが、「祖師伝」以降には遡れない

これは感見記を指してのことですか。真跡であれば、建長6年まで遡れます。

> …何故、興門流に伝わるのでしょう。

この点は、まだ研究途上のようですが、感見記の真偽とは直接関係のないことであると思います。

> 木版画の流布後に軸装裁断

これは事実と違うのではないでしょうか。木版画が見つかったことにより、真跡で摩耗、表装で損なわれた部分がどのようになっていたかがわかったというのが、先の大日蓮展での解説であったと記憶します。

2371パンナコッタ:2005/05/12(木) 17:22:15
大勇者さん、
違和感を覚えるくらいですから、木版画の流布後に軸装裁断されたという確固たる証拠となりうる
資料のがあるのでしょうか?
この辺の経緯は、よく解ってないものと思っていますので。

2372大勇者:2005/05/12(木) 23:30:46
>2371
確かによく判ってないという事なのでしょう。
軸装裁断の後に、又は裁断されずに木版画されたのであれば、
彫師が想像で彫った事になりますが...これは考え難いと思います。
円を描くのはそれだけでも難しいのに...

時は元禄、浮世絵文化が花開こうとする時です。
木版画の用途は庶民的であったのではないでしょうか。
これはあまり論拠のない想像に過ぎません。

2373大勇者:2005/05/12(木) 23:43:13
>2369 犀角独歩さん

ブログ拝見させて頂きました。
独歩さんは花押の信用度についてどのように御考えなのですか?
何故、花押のある作品を引き合いに出して論ずるのでしょう。

2374犀角独歩:2005/05/13(金) 01:21:38

大勇者さん、2373の質問の意味は理解できません。何を尋ねていらっしゃいますか。

ついでに記せば、北林さんのような比較からして、第1大漫荼羅と、第123は同一者のものと判断できるのでしょうか。実は、にしさんが言うように片方は偽物ですか。となれば、どちらが偽物ですか。

2375大勇者:2005/05/13(金) 01:26:31
小文の連投失礼します。
>2370
>これは感見記を指してのことですか

感見記に関する記述の残る文献が「祖師伝」以前には残されていないとの意味でした。

>感見記の真偽とは直接関係のないことであると思います。

「新仏」と書かれるのが誰を指すのかは重大な問題であろうと思います。

2376犀角独歩:2005/05/13(金) 01:32:58

> 「新仏」

とは、新発意の弟子を意味する言葉だというのが言われるところですが、さて、どうでしょうか。

密教的な発想で、大日如来から23代というわけですから、日蓮が23番目の新仏という意味かも知れません。それが「おかしな」ことと考えることはできますが、しかし、それは日蓮を本仏だというのと、そのおかしさは、さほど、かわるものではありません。

たぶん、投稿が錯綜したと思います。2374に対して、考えをお聞かせください。

2377大勇者:2005/05/13(金) 01:45:25
>2374
犀角独歩 さん
鎌倉初期の花押は署名(サイン)の色合いが強く、真贋の鑑定の第一に優先されるものと思っていました。
運筆その他が違っても花押の連続性が認められれば、真筆との根拠になりうるのではないでしょうか?

今でこそ私達は多数の花押を比較出来ますが、情報のない当時に花押を真似て偽作を作るのは至難の技でしょう。

2378犀角独歩:2005/05/13(金) 02:03:31

大勇者さん、2374について、回答ください。

> 情報のない当時に花押を真似て偽作を作るのは至難の技

そうでしょうか。贋作の漫荼羅には、皆、花押が入っていますよ。
情報がない時代であればこそ、いい加減な花押を記しても誰もそれが偽物であると判断できないという点は、意識がいきませんでしたか。

2379彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/13(金) 07:37:29

横レス失礼します。

木版画『不動愛染感見記』(貞享4(1687)年静岡県管引本成寺蔵、掛幅二幅)は平成13(2001)年11月27日に立正大学で開催された「第54回 日蓮宗教学研究発表大会」で高森大乗師より「日蓮聖人遺文『不動愛染感見記』小考」と題した発表で写真が紹介されました。高森師の発表内容はインターネットで公開されていますが図版はありません。
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents11.html
高森師は木版画について「保田妙本寺に蔵されている『不動愛染感見記』の真蹟のうち愛染明王の日輪図が上端を欠くのに対して、当版画は、日輪を表す全体の円形が整っているという点である。当版画が臨写された当時には、まだ愛染明王の本紙が、軸装のため裁断される以前の完全な姿を遺していたのか、あるいは、木版の画稿を描いた絵師が、想像によって復元したのかは定かではない。」という見解です。
「第54回 日蓮宗教学研究発表大会」で配布されたレジュメ記載写真をみますと愛染明王のほうに一部解読困難な字がありますが以下の記述がみられます。

久遠
妙本
両寺
嫡々
相乗
日月
●像(●:“刑”あるいは“形”などの遍に旁が“久”) ・・・形?
奉写
貞享四■天(■:“夘”に旁が“丁”)  ・・・貞享四丁卯天
房州妙本寺
三七世
 日遶 (達?)
判興(典?)之願主
松田宗林

よって木版画『不動愛染感見記』は貞享4(1687)年のものであることがわかります。高森師は日遶 (?)とあるのは、伊藤阿閣日達(保田妙本寺22世、小泉久遠寺23世)としています。時代的には合致しますので間違いないでしょう。

なお、本成寺は『日蓮宗寺院大鑑』(昭和56年、池上本門寺、450頁)によると、旧本寺は柳瀬実成寺で寛永3(1663)年の創立です。興門派に属していたということです。日興上人の御本尊を所蔵しているとありますが、『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)には入集していません。
本成寺の創立年(1663年)と木版画『不動愛染感見記』の作成年(1687)年に矛盾はないので、木版画『不動愛染感見記』は本成寺の創立初期に寺宝として入手されたものではないでしょうか。


彰往考来

2380彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/13(金) 08:27:48

>2379

1点書き忘れました。木版画の写真を見る限り、原図裁断以前の姿を現していると私は感じていますが実際はどうでしょうか

2381大勇者:2005/05/13(金) 19:18:08
犀角独歩さん
>2374について御答しますが、あくまでも、自分が考える所感とその理由であることをおことわりしておきます。
「NO1」「NO123」共に真筆と思います。
NO123については真筆でない根拠が見つけれませんでした。
NO1を真筆と感じる理由はやはり花押です。他のバン字型の花押と基本形が同じと思います。
筆速や筆圧が他と違うが基本形が同じ事で逆にオリジナルの信憑性が高いのではないかと・・・
使用している筆も由来の通り毛筆ではないと思いますがどうでしょうか。

独歩さんは本当にNO1を怪しいとお考えなのですか?
北林説を論破する為だけに持ち出しただけではないですか?
本当のところを教えて頂けたらと思います。

2382犀角独歩:2005/05/13(金) 19:38:50

> 2381

大勇者さん、冗談はやめてください。

わたしがいつ第1大漫荼羅を偽書だと書きましたか。
第1大漫荼羅と第123大漫荼羅はかくも筆法も筆跡も異なる。しかし共に蓮師の筆である。それにも関わらず、北林説では、感見記と、鑑別に供するような点とは言えない相違を以て、感見記を偽書と断定している。また、大勇者さん、あなたはそれを支持している。ならば、聞くが、第1大漫荼羅と第123大漫荼羅は斯くも違っているから、片方が偽書であるとでもいえるのか、そんな点で鑑定されているのではないだろう、と言っているのです。

この相貌、筆法が違う漫荼羅が両方とも、真書であるというのであれば、どんな理由から感見記偽書説をあなたは支持するというのでしょうか、ということですよ。

2383大勇者:2005/05/13(金) 20:27:57
>2382 犀角独歩さん

>わたしからすれば、第1大漫荼羅(文永8年(1271))と最晩年図示第123大漫荼羅(弘安5年(1282))を並べてみると、これが同一人物の筆であるとする鑑定識こそ困難であると思える。


上記の文を思い違いしたようです。お詫び致します。

2384大勇者:2005/05/13(金) 20:47:11
私は北林説に説得力を感じると記しましたが、「偽書との断定」をそのまま支持するものではありません。
然しながら、「真筆との断定」にも疑問があるのではないだろうかと思いまして何点かの「何故そう考えるか」
の理由を恥ずかしながら投稿して来たつもりです。
それは感見記が「真筆の根拠」を知りたいが為です。
「真筆の根拠」を御教示下さる方が居られればお願いします。

其の上で>2336について、パンナコッタさんとラキさんにお詫びをしたいと思います。

2385大勇者:2005/05/13(金) 21:00:25
>2382
>この相貌、筆法が違う漫荼羅が両方とも、真書であるというのであれば、どんな理由から感見記偽書説をあなたは支持するというのでしょうか、ということですよ

「身」の書順の違いが年数を越えても大きい違いと思うからです。
また、似た書き方の「身」が他に見えないからです。
花押のなく、比較する書の少ない「感見記」を、ならば何故真筆とするのか?と言う事です。

2386ラキ:2005/05/13(金) 21:02:34
みなさん〜こんばんは。

数珠の半ひねりは「功徳をこぼさない為」だったと、判明してスッきりしたのですが、
興師、目師が蓮師をどのように呼んでいたのでしょうか?
時代劇とかのイメージだと「おっしょうさま」「師匠」とかのイメージなんですけど。
みなさんと次元の違う、素朴な疑問の宝庫ラキでした(^^;

追伸。
大勇者さんへ。
浅学の身なので、お気になさらないでください。
本人気が付いてませんし(^^;

2387犀角独歩[TRACKBACK]:2005/05/13(金) 21:35:24

> 2385

あなたは、第1大漫荼羅と第123大漫荼羅の写真をちゃんと見て書いているのですか。

第1大漫荼羅の不動愛染と第123大漫荼羅のそれと、大勇者さんは、同じ形であると思うわけですか。他の字体にしてもそうでしょう。

わたしが言いたいのは、これだけの筆法の相違があっても両者が真跡であると見切る鑑識眼が真跡鑑定には必要なのであって、単に身の字のはねや形が違うなどということが、感見記の偽書の断定には繋がらないと言うことです。しかも、この漫荼羅の時間差は11年です。25年の半分よりさらに短い。わずか11年で蓮師の筆法は斯くも変化しています。

> 感見記が「真筆の根拠」

当スレで挙げれば、すでにれんさんが説明を付されていますが。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/r2350

また、そんなことを人に求めず、自分でその根拠を探してみては如何でしょうか。

> 花押

大勇者さんの目には第1大漫荼羅とと第123大漫荼羅の花押は同じように映じるわけですか。また、花押は一つの決め手ではあっても、それが全部ではないでしょう。

わたしはあなたの姿勢として疑問に思うのは、なぜ一人、北林さんの説ばかりを持って、感見記を論じるのかと言うことです。しかし、その他の資料に関しては自分に教示しろとはなんですか。自分で努力しようとはしないわけですか。

2388パンナコッタ:2005/05/13(金) 23:03:15
大勇者さん、
>2336は、あくまで主観ですよね。詫びる必要はないと思いますよ。ただ、ご自身にとって
批判的な北林論の方がなじみやすかったために板での一連のやりとりと採り違いがあったものと
思われます。なにせ、不明な点が多い物ですし、これは仕方がないと思います。

2389パンナコッタ:2005/05/13(金) 23:04:06
古い蓮祖の物と言う事で、金沢文庫にある授決円多羅義集唐決のマイクロフィルムって
公開されているのでしょうか?

2390ラキ:2005/05/14(土) 00:11:02
「授決円多羅義集唐決」で検索して画像が載っていたのは、下記のページだけでした。
目的の物か謎ですが?

http://www.fujimon.or.jp/tenran/izanai/izanai_4.htm

国会図書館に問い合わせしてみれば、閲覧できるかわかると思います。
地元県立図書館ではHITしませんでした。

2391パンナコッタ:2005/05/14(土) 00:30:18
ラキさん、ありがとうございます。
自分の言っているのは、蓮祖筆といわれる古文書のマイクロフィルム版が見られるものか、
という事です。金沢文庫に行けばコピーが入手可能らしいのですが、持っている人や団体が
公開しているのかどうかを知りたかったわけです。

2392れん:2005/05/14(土) 17:25:18
パンナコッタさん、授決圓多羅義集唐決のマイクロ版は金沢文庫で入手する以外ないと思いますが、ご存じながら鮮明な写真版ならば全文が日蓮聖人真蹟集成第五巻に収録されております。同書の解説には
『本書は智証大師に仮託して著された中古天台の教学書である。本書と「五輪九字秘釈」の建長三年筆写、建長六年の「不動愛染感見記」とを比較すると筆蹟が極めて似ており日蓮聖人初期の写本であることは疑いない。奥書によって、十七歳の日蓮すなわち是聖房蓮長が嘉禎四年(一二三八)十一月十四日安房の清澄寺において師の道善房の住房で書写したことが知られる』とあります。
蓮師は弘法大師空海や慈覚大師・智証大師の密教第一の【教判】については法華最勝の立場から批判しましたが、密教の仏典そのものについては‘仏説’として受容していたと見るのが至当と思いますので、台密出身の蓮師に密教の影響があるのは当然といえば当然だと思います。但し、蓮師がどのように密教を受容し、自らの信仰体系・教学体系の中に位置付けていったのかについての考察は、私には手に余る問題ですので、ひとえに犀角独歩さん・顕正居士さんを始めとする諸賢の皆様の御賢察を仰ぎたいと思います。

2393れん:2005/05/14(土) 17:52:14
訂正
誤 密教の仏典
正 密教の経典

2394パンナコッタ:2005/05/14(土) 21:02:05

れんさん、
真蹟集成の第五巻でしたか。解説引用を含めて、ありがとうございます。

”日蓮”の名は、入っていないそうですが、蓮祖の最古級の物である事は間違いないようで、
初期の筆跡云々をするのであれば、必携しなければいけませんね。

2395れん:2005/05/14(土) 21:50:25
パンナコッタさん、授決集の奥書には「嘉禎四年太才戊戌/十一月十四日/阿房國東北御庄清澄山道善房/東面執筆是聖房生年十七才」とあり、当然ながら蓮師の改名前の房号である「是聖房」の名で署名されていますので、蓮師の十七才の時の親写本であることは間違いないでしょうね。真蹟集成第六巻に収録される「五輪九字秘釈」(新義真言の祖覚鑁師の著作)は房号による署名はございませんが、中扉に「九字秘釈」の書名が記され、その下に蓮師の筆で「主●●」と蓮師の密号と思われる梵字が記されており、その書名の横に異筆で「常忍」署名があります(常忍の署名は間違いなく富木常忍氏の筆跡で、本書を蓮師から下賜された後、富木常忍氏が署名されたものと考えます)。奥書には「建長三年十一月廿四日戊時了/五帖之坊門富小路西面坊門ヨリ南/富小路ヨリハ西」とあります。蓮師初期の筆跡を考証するさいには、親写年次が奥書によって明確である「授決集」「五輪九字秘釈」は必携であると存じます。以上重ねてご参考までに。

2396パンナコッタ:2005/05/14(土) 23:22:12
れんさん、重ね重ねの指摘ありがとうございます。
筆跡鑑定に関しては、自分はちと無理なので知識のある碩学の方々にお任せする事として、
実在する物を認識、確認するだけでも大きな収穫になりますので的確な指摘、本当にありがとうございます。

滝泉寺申状の異筆部分が富木常忍であると判ったのも、こうした研究の積み重ねの結果ですから生半可な知識
の上で真贋論争を口にするのはやはり危険なことになりますね。

2397犀角独歩:2005/05/15(日) 16:02:22

2392 れんさん:

たいへんに参考になりました。引き続き、ご教示をいただきたくお願い申し上げるものです。

2398れん:2005/05/15(日) 22:44:25
2397 犀角独歩さん:私が独歩さんに教示するなどとんでもないです。釈迦に説法になってしまいますから(汗)。私の稚劣な投稿に御批正を戴ければ幸甚です。他スレですが、本尊とまんだら板での議論を興味深く拝聴しております。私も実は蓮師は弘安元年に係る本尊問答抄あたりで思想が変化し、本門三法門(三大秘法)中心から題目中心に蓮師の考えが変化したものと考えています。
以下はこれまたスレ違いのつぶやきですが、蓮師は独歩さんはじめ諸賢の皆様のご指摘の通り本門戒壇について遂に真蹟に留められませんでしたが、初期興門では三大秘法の内、本門教主釈尊と題目について三位順師が本門心底抄に「能化の教主は三身即一の如来なり、所説の法門寧ろ三学即一の妙戒に非ずや(中略)当に知るべし万行万善・円満の妙法の経題は本門の大戒」なりと記しています。心底抄にはまた本門寺の戒壇についても述べられていますが、時代が下るものの、それとは別に目師門の石山九世有師の弟子である顕応房師は三大秘法につき「仏と土と教法なり」と記し、同じく目師門の保田日要師は「所居の国土を常寂光土とも本門戒旦とも名るなり」(千葉県の歴史中世3、586ページ)と記していて、東国の目師門には順師が心底抄に示した事相の本門寺の戒壇とは別に、土→所居の国土=常寂光土→本門戒壇という考え方があったことが伺えて興味深く思っております。ここらへんはいつか中道さんが記した己心戒壇に一脈通ずるものがあると思います。まぁ、これが石山・保田共通の祖師である蓮興目まで遡れるものかどうか?分からないのが残念といったところです。

2399れん:2005/05/15(日) 22:59:04
訂正
誤 本門戒壇について遂に
正 本門戒壇の内容について遂に

誤 本門の大戒」なり

本門の大戒なり」

2400れん:2005/05/15(日) 23:02:42
本当にすみません。重ねて訂正します。
誤 本門の大戒」なり
正 本門の大戒なり」

2402犀角独歩:2005/05/16(月) 00:06:57

れんさん、とんでもございません。
当方こそ、いつも有り難く思っております。

それにしても、ご呈示の「戒壇」義というのは、晩期、蓮師はまるで投げてしまったような感があるのに、伝・順師資料などでは、妙に具体的だという印象を抱きます。

わたしは個人的には、鎌倉幕府を、どうとらえるのかという点では考えるべきものがかなりあると思っています。戒壇を云々するのであれば、鎌倉ではなく、やはり、京だろう。その京と密接な距離で話が肥大するのが戒壇義だろうという思いがあります。

それが駿河、北山辺りで話が盛り上がるのは、順師が比叡山遊学という経歴を経て、京風を得て、初めて盛り上がった話なのだろうと類推しています。

先に顕正居士さんが、相承を大学院の免状のようなものに比されましたが、そうなると灌頂は入学式のようなもので、さらに拡大して陳べれば、天奏は天皇折伏というより、いまで宗教法人の認可。戒壇建立は、どこが中心大学かという話のように見えてきます。

信仰的に考えれば、以上、不謹慎と思われる方はいらっしゃるかもしれませんが、このような現代的に翻訳をしないと見えない部分は多々あろうかと思います。

れんさんに同意を求め、持論を強固にしようなどというインチキはもちろん考えませんが、他で吉祥仙人さんが挙げた道理・証文・現証について思うところがあります。蓮師は下克上という道理に反した現象を憤り、経論とういう証文をもって、考えた現証は法華日蓮を用いなければ国が滅ぶという現証だった。ところが、これはついに外れてしまう。そんな晩年で戒壇より、霊山浄土に傾いたのは、至極、自然なことと思えます。しかし、そんな宗祖のメランコリックをよそに、自集団の永続化を考えれば「宗教法人」として確たる手形がほしく、その極は戒壇建立という具体化で、そんななかで意気が盛り上がっていったのだろうかと想像したりします。となれば、題目本尊で、三つの法門が潰えても、戒壇建立は大きな目標となり、相矛盾しながらも、三大秘法という教理整理化は進み、ついには偽書を捏造してまで、確定するに至ったのだろうかと、想像を逞しくしています。

余計な独り言を記し、恐縮です。

2403ラキ:2005/05/16(月) 01:22:03
みなさん〜こんばんは。

書籍の中で「謗法の14種の罪」について書かれていたのに、ふと、疑問があります。

「じゃくよく」欲望のために仏法を利用したり、欲望にとらわれて仏法を求めようともしないこと。
「幸せになりたい」「福運・功徳を積みたい」て欲望じゃないのかと?

「不解」仏法の深い教義がわからないのに、求めて理解しようとしないこと。
「信が大事」「信行が大事」「学、研鑽は二の次」信を重点に置くことを教えてるのに、
「求めて理解しようとする」前に信行が先と言ってるのは「不解」に当たらないのでしょうか?

このような質問を他ですると「計我・橋慢」と言われそうなので(^^;
ご指導の程、よろしくお願い致します。m(__)m

2404吉祥仙人:2005/05/16(月) 05:14:28
 「以信得入」(字が違ったらゴメンナサイ)の義ともかかわってきそうですね

 以上素朴な疑問のツブヤキでした。

2405彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/16(月) 13:05:04

>2403 ラキさん、はじめまして、

“解”という字の解字は、牛と刀と音を表し、同時にばらばらにするという意です。そこから“ときあかす”、“説明する”、“悟る”、“物の筋道や道理がわかる”という意味になります。
物事や疑問点を少しずつ解きほぐして解るようにするのが、“解”なのです。

以下、あえて私の愚論を述べます。
あなたの先輩が「信行が先」とおっしゃったのは、例えて言うなら、食べ物の栄養素のようなものではないでしょうか。生物が生きていくためには、澱粉、脂肪、たんぱく質、ミネラル、ビタミン、カルシウムなど非常に多くの栄養素が必要です。しかし、それを理解してから食べるのでしょうか? 答えはノーです。まず食べる、理解したければ、食べていきながら解いていけばよいのです。その具体的な“解く”という行動が必要なのではありませんか?それは誰かに聞いてもよいのですが、聞いた相手が必ずしも答えられるとは限りません。でもその人の行動が間違っているわけではないのです。自分自身が積極的に学び、解いていく行動。それが強く出てくれば、おのずと欲望を超えていくことができるのではないでしょうか。

人はみな欲望を持っています。それを抑えるのではなくベースとして、自分自身の前向きな力として利用していくことにより“物の筋道や道理がわかる”とことができると思っています。だから「幸せになりたい」「福運・功徳を積みたい」と思うことはよいことです。そしてどうすればそれが実現できるかを解いていけばよいわけです。

学ぶことが大切です。学ぶのは3つあります。人から学ぶ、書から学ぶ、天から学ぶ、の3つです。私たちが学ぶには書から学ぶのが一番早くて確実です。自分自身の疑問点を解きほぐすためにも、もっと書物に接することをお勧めします。どんな本でもよい(週刊誌、マンガ本はのぞきます)ですから、100冊/年を目安にすべきです。エロ本でもよいのですよ。エロ本100冊読めば大したものです。おのずと欲望を超えていくことができるでしょう。

なお直接関係ありませんが、松本佐一郎という人の『富士門徒の沿革と教義』という本に著者が大石寺第66世の達師からいただいた“解”と揮毫された色紙が載っています。松本氏は法華講の人で日蓮大聖人の御本尊を研究した人です。研究とはまさに“解”なのです。これは私の座右の文字です。

2406ラキ:2005/05/16(月) 14:41:48
彰往考来さん。はじめまして。

とても判りやすい解説ありがとうございました。m(__)m
>学ぶことが大切です。学ぶのは3つあります。人から学ぶ、書から学ぶ、天から学ぶ、の3つです。
学ぶ事でも3種類の方法があると、指摘していただき、3つの行いて色々な面で関係してるのかな?と
改めて感じました。
週刊誌、マンガ本以外の書籍は、最近あまり読んでなくて、年間50冊程度に落ちてます。

追伸。
何度も読み返して、石山系団体の食してるので、残るは、解き明かす行動をしていけば
良いだけだと感じました。
信・行は弱いですが、行・学(学ぶ行動)だけは、あるつもりです。
ここの掲示板のみなさん程ではないですが(^^;

2407パンナコッタ:2005/05/16(月) 15:42:28
れんさんの指摘や顕正居士さん、独歩さんの考えを踏まえると、比叡山に一乗止観院を創建し帰朝後に
名を根本中堂と改めて大乗戒壇建立に心血を注いだ最澄の行動の焼き直しを、蓮祖門下達がやろうと
していたのではないかとしか思えないのですが。つまり日蓮バージョンの比叡山をやりたかったのではないかと。

2408れん:2005/05/16(月) 16:57:57
2407 パンナコッタさん:
私もぶっちゃけた話、蓮祖門下、特に興師がやろうとしたのは、パンナコッタさんが仰る通り、最澄の行動の焼直し、日蓮バージョンの比叡山ということになろうかと思います。興師が申状で主張した天台・伝教(最澄)弘通→法華迹門、日蓮弘通→法華本門という考え、興師真蹟の現存する「本門弘通事」の末尾に見られる「迹門 比叡山 本ハ日枝山 吾山 御社、本門 富士山 蓮華山 大日山。」との対比の作業は、まさにそれを如実に物語るものだと考えます。興師が日蓮バージョンの比叡山建立の地を富士山と主張・決定したのは、真言宗や神道に由来する異名ながら、富士山には蓮華山・大日山という別名があり、それが蓮師の名乗りに通ずるものがあったからでしょうか。独歩さんのご指摘を踏まえれば、興師の上述の如き思想を背景として、且つ初期興門教学の重鎮の一人であり重須談所の学頭職を務めた順師が比叡山遊学をして京都とのパイプがあったので、特に重須で本門寺戒壇論が盛り上がった、それが後世重須の方で二箇相承が作られる下敷きになっていったのだろうと思います。

2409一字三礼:2005/05/16(月) 20:08:18
> 2407パンナコッタさん
> 2408れんさん

ご意見に賛同します。

興門と朗門に共通する「本門寺」の呼称、純天台に価値を置いた蓮祖の初期の思想、法華経本門を宗旨とした戒壇の建立。
これらの概念から導き出されるのは、お二人の仰るように比叡山戒壇の精神で、法華本門に基づく戒壇を望まれたのでしょうね。

付け加えれば、僧籍を自前で獲得したいという蓮祖一門の功利的側面もあったかもしれません。


また、伝教大師の根本中堂の本尊の薬師如来にたいして、蓮祖は一尊四士を戒壇院の本尊にと考えていたのではないかと想像しております。
蓮祖が観心本尊抄以来、一尊四士を主張されていたにもかかわらず、蓮祖がなくなるまで久遠寺にさえ安置されませんでした。門下一党に仏像五体を注文・製作する財力がなかったなどとはとても考えられません。
一尊四士の建立は戒壇の勅許が得られてからと考えておられたのではないでしょうか。

2410犀角独歩:2005/05/16(月) 23:06:32

パンナコッタさん
れんさん

わたしはどちらかというと理壇的にとらえてきたのですが、今回の検索結果はそれを支持してくれませんでした。よって、お二方の呼応に賛同します。

一字三礼さん

わたしも本尊抄の異からしても、一尊四士を戒壇堂仏像奉安と、蓮師は標榜されていただろうとわたしも想像します。

2411ラキ:2005/05/18(水) 23:32:56
「一念信解」を調べたのですが、解説を読んでも良く理解できないので、
ご教授お願いできませんでしょうか?

「一念に信じれば解脱(理解)できる」では、無いですよね?

2412犀角独歩:2005/05/19(木) 07:36:12

「一念信解」の四文字を簡単に説明するのは難しいですね。
純天台的に言えば、一念というより一心でしょうし、信解というのは羅什の漢訳已来の大問題でしょう。言うまでもなく、信解は『妙法蓮華経信解品第四』に由来する言葉ですが、岩本裕師は、「意向」と訳しています。そして、その意向が下劣であるとし、求めない珍宝(記別)を与えたという具合です。

念とは今/心ということですが、天台は一心三観等と言うごとく、心を採ったのに、妙楽はこれを一念とします。さらに三千不可思議境とこれを併せてか、ついに一念三千と造語したわけでした。

信解でいう信とは、では、どのような信なのか。誠信(バクティ)か。この点は、以前、大いに議論されたことでした。では、解はと言えば、信解品一品の流れからすれば、これは解脱というより、了解、理解に近いと思えます。ただし、解脱は理解では断じてありません。仏の意向を信じ解する程度の意味であったのでしょうが、しかし、漢訳教学では、この二文字は重大な意味を持つに至ります。

法華経のテーマは未来成仏、つまり、記別にありますから、信解、つまり、信即解といった教学とは元来無縁であるはずですが、しかし、実際は承知されるとおりです。素朴な疑問という範疇に収まりきりません。

『仏教にとって信とは何か』
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1043190919/l100

2413顕正居士:2005/05/19(木) 10:26:04
四信五品は法華経の分別功徳品にあります。

http://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/6/17.htm

「其れ衆生あって、仏の寿命の長遠是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば」、
般若波羅蜜を除く他の五波羅蜜をたいへん長い期間に修行した功徳より遥かにまさると説かれます。
なお、お経の中にいう「功徳」とは仏法の理解が増進することで、この世の利益のことではありません。
その次に「若し仏の寿命長遠なるを聞いて、其の言趣を解するあらん」と略解言趣がいわれるから、
一念信解とは言趣の理解をいまだ伴わない段階であろう。それなのに「信解」というのは?

ここの梵文を直訳すると、
「衆生あって如来の寿量を宣説する法門を称讃し一念の間なりとも信解を生じ信受を為せば」
であります。「信解」の原語は「アディムクティ」です。この言葉は翻訳上、少しややこしさがあります。
ハインリヒ・ケルン氏は法華経の「信解品」を"Disposition"の章と英訳しています。Dispositionは「気質、
素質、傾向」の意味です。ただしアディムクティには他に「信頼」の意味もあります。したがって、

仏の寿命には限りが無いという説を聞いて喜び、かつ理解したい気持ちが起り、とりあえず信じる、
そのような人は、と解釈できます。如来寿量品の次にこの品が説かれるから、そのような「素質」の人
とは、仏が常にいますと聞いて、だから仏法を理解するのはいつでもよいと思わない人である。また
仏の寿命には限りが無く、仏は常にいますことを信じ、「仏はもう滅度された、わたしは**上人とか
**先生のいうことを絶対として行こう」とは思わない人であるでしょう。

2414ラキ:2005/05/19(木) 15:14:41
犀角独歩さん。
>素朴な疑問という範疇に収まりきりません。
一歩前進したと受け止めます。^^
参照リンクを拝読して考えて、「一念信解」の意味を、相手に聞いてみたいと思います。

顕正居士さん。
>仏は常にいますことを信じ、「仏はもう滅度された、わたしは**上人とか
**先生のいうことを絶対として行こう」とは思わない人であるでしょう。

今の私には判りやすいです。

「一念信解」と難しく言葉で示して、文字(言葉)のままの意味で、上人。先生。の言葉は絶対と
結びつける、行為だったと感じました。

(つぶやき)
「一念信解」は教団にとって、信者の疑問を封じ込める、魔法の言葉だと、私は感じました。

犀角独歩さん。顕正居士さん。
ご指導ありがとうございました。m(__)m

2415れん:2005/05/19(木) 20:54:28
一字三礼さん、犀角独歩さん。
パンナコッタさんと私の呼応にご賛同戴き感謝致します。
室町期の東国目師門伝承の所居国土(常寂光土)戒壇義は、その淵源は「今本時の裟婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり、仏過去にも滅せず未来にも生せず所化以て同体なり、此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり」(観心本尊抄、興師写本はもともと石山にあったが要山に授与された)でしょうか。目師門では、この己心戒壇義(理壇?)とも言うべき思想を根底とした上で、事相戒壇が主張されたと思われますが、重須では二箇相承に見られる如く、殊に事相戒壇義即ち本門寺戒壇のみ主張された如く見え対照的に見えます。
それはともかく、戒壇院本尊について見ますと、蓮師の観心本尊抄の記述では、一字三礼さん・犀角独歩さんの仰る如く一尊四士が戒壇院本尊と見えるのに対し、興師の弟子・孫弟子である代師・順師になると、戒壇院本尊は曼陀羅本尊に則った仏像安置を主張するに至っています。この変遷は何に依るものなのか常々不思議に思っております。

2416れん:2005/05/19(木) 21:49:00
四信五品抄を読みますと、「現在の四信の初めの一念信解と滅後五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり」とあります。この文を読みますと、蓮師は十方三世の諸仏の本地仏と定義される久成如来の一番最初の因行を「一念信解・初随喜の二処」とされたように見えて興味深く思っております。その具体相を示すと「一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」となるのでしょうか。一念信解については独歩さんの仰る通りその語の源義の説明を簡略に説明するのは困難ですが、富士門の信条的に言えば所謂「一信二行三学」に摂せられるものと言えるものでしょうか。初随喜については蓮師は顕仏未来記に「彼の不軽菩薩は初随喜の人」と言われているように不軽菩薩の行儀を示しているように見えますね。唱題について興門の思想を見ますと後世成立ながら本因妙抄には「受持本因の所作に由って口唱本果の究竟を得」とあり、また本因妙抄成立から遠からずして順師に仮託して作成された形名種脱判摂名字ノ事にも「依受持本因之所作成口唱本果之究竟是即當門流之本因本果之次第也」と受持(一念信解?)因・口唱(初随喜=不軽?)果との思想を見ることができます。四信五品抄については、石山に弘安元年の目師写本(従来興師写本とされてきたが、御筆写真に見える筆跡は保田の目師写本一代聖教大意に似通っており目師筆とすべきものである)がありますから、この四信五品抄の記述を土台に、このような富士門の唱題思想か成立したものでしょうか?

2417ラキ:2005/05/20(金) 12:38:27
「仏教にとって信とは何か」をまた、途中ですが、拝読させていただいてます。


「日目上人の先師の地望を遂げんがために後日の天奏に達せしむ」
「熱原の法華講集のように唯願説之 我等富信受仏語の想い」
「唯願説之 我等富信受仏語」の意味が理解できないので、ご指導をお願いします。
あと「仏弟子」とは、日蓮仏法を正しく実践している?から「仏弟子」という物なのでしょうか?
相手の言いたい意味が、どうしても理解できないので、悩んでしまってます。
今までの経緯からだと「信心」「信」を強調したいのかとも、受け取れるのですが、
引用されてる言葉が、どうしても、すっきりしなくて、困っております。


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