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鷹目遊里史板
439
:
詠み人知らず
:2008/12/14(日) 23:53:47
色は匂へど 散りぬるを
【い】行きたいな、地獄極楽、ユメノクニ。
【ろ】“ロセン”と“タレ”は どっちが 気持ち えェ〜?
【は】“初島”“神崎”ふた子の姉妹
【に】にしがはら(西ヶ原)、行ってみたいな・・・土岐市・多治見市
【ほ】堀江の六人斬り、レッドの●人斬り
【へ】○ルペスなんて、「怖くはないさ」と、レッドさん
【と】とまらない暴走エロ軍団
【ち】中書島は『廓』の舞台
【り】両刃使いな、団長さま、うふっ
【ぬ】抜かずの二発、オレは無理。
【る】類を持って集まる
【を】温泉マーク、逆さにすれば、くらげなり
440
:
詠み人知らず
:2008/12/15(月) 23:15:38
我が世誰ぞ 常ならん
【わ】渡辺 寛 40年後に ブレークし !!
【か】貝原益軒は、接して漏らさず。限りあるものは大切に・・・
【よ】嫁ヒトスジのレッドさん・・・
【た】太夫の玉は、うつしよで、おいくらほどで?
【れ】レースクィーンより遊女
【そ】ソープ街、受け継ぐ遺伝子“女性街”
【つ】ツンデレも結構いいかも
【ね】「閨の御慎みの事」は、大奥輿入れ、必須本
【な】なじみの客には熱いサービス
【ら】ライトの下に座ってた ベッピンさんって、ほんまに この妓 !?
【む】室津では、シーボルトも、廓へと
441
:
k_taii
:2008/12/15(月) 23:25:43
韓国
皆さんこんばんは、週末に韓国に行ってきました。今回行ったのは、
木浦 元桜町遊郭。市街地中心から低い丘を越えた所。(ありがちですね)
1本の道の両側におそらく、8−12軒ぐらいの規模だと想像される。
現存する建物は3軒。(1軒は軒下にぼんぼりの取り付け穴が3つ残って
いたのみ。もう1軒はぼんぼりの支柱が1個残っていた以外は面影なし。
あと1軒は?。でもタイルが貼ってあった。
群山 明山遊郭跡。(アサヒグラフにでていた華僑小学校のまわり。)2−3年前には
それらしい建物が1−2軒あったみたいですが、現在はサイデリア化(?)された
日本家屋が1軒。これがそうだったかは不明。近くのもう1軒も可能性はあるが
これも不明。
テグ 現在の集娼地 チャガルマタン の場所が遊郭のあったところ。名称不明。
大通りから少し入ったところに四角く道が付けられそのまわりに建物があった
もよう。日本家屋は1軒のみ現存していたが、建物の規模的に遊郭ではなかった
ように見られました。
442
:
詠み人知らず
:2008/12/20(土) 04:23:15
有為の奥山 今日越えて
【う】うら返し、次がなかなか、うぶな人σ(^^;)
【い】生駒の聖天さんで、昇天三度 !?
【の】伸びて縮んで伸びて伸びて
【お】鬼になる 時もあるとは 聞くけれど ふだんは “ シャイ ” な 信太さん
【く】九条に移れど 名前変わらず
【や】“八坂”の名、知ってる人は信太通
【ま】松島やああ松島や松島や
【け】京阪で行く 赤線巡り
【ふ】府立病院 元をたどれば 駆黴院
【こ】こんにゃく男は、飛田に 出禁?
【え】○イズなんて、「怖くはないさ」と、レッドさん ・・・
【て】手だけでは ガマンできない ○○○さん
443
:
詠み人知らず
:2008/12/23(火) 18:30:29
浅き夢見じ 酔ひもせず
【あ】“赤い線” や “青い線”、警察 今でも 使こてんの ?
【さ】さていかなるものか、平成版の、肉体の門
【き】木江と御手洗、おちょろの本場
【ゆ】夢の街 建物のみぞ 過去を語りぬ
【め】明眸皓歯、傾城町でも、必須条件
【み】三重の的矢、ばなな島
【し】信太山 おばばにひるんで 即退散
【ゑ】“恵方”向き なめて加えて、喰いちぎり ・・・・
※“え”と“ゑ”を、区別させて頂きました。
????????「ゑ」は「恵」の草書体です。??by ヱビスビール
【ひ】枚方の、飯盛り女の、艶情け
【も】桃山閤は宴会場(文化庁 登録有形文化財 第27‐0086)
【せ】“線”後50年、赤線廃止はエイプリルフール !?(1958.4.1)
【す】住吉名物、大社、新地に○○邸。
【ん】京の夢 大阪の夢 ・・・・
あさきゆめみし ゑひもせす
444
:
k_taii
:2009/01/18(日) 08:59:42
こんにちは
松竹から、にっぽんぱらだいす が発売されていました。定価3990円でセブン アンド
ワイで12%引き、3511円でした。この映画、30数年前日曜の昼の放送で見た記憶
があるのですが、ほとんど覚えていません。当然ですが。製作が1964年なのでセット
なども当時と近いものと思われるので、今から楽しみです。カバージャケットもタイル貼り
の娼館でカーテンの陰からオネーチャンが、おいでおいで しています。
445
:
夕凪
:2009/01/19(月) 00:47:10
全国遊廓案内(再掲)
●『赤線跡を歩く(完結編)』の「参考文献の紹介とあとがき」の中で、
木村聡さんは、『全国遊廓案内』を、下記ように紹介されています。
発行後まもなく発禁処分を受けて、
のちに「関東篇」「関西篇」の2冊に分けた
改訂版が出たことが知られているが、
これは貴重なオリジナル版。
●また、ご存知『近代庶民生活誌? 色街・遊廓?』の中で、
編者の、お一人である林喜代弘さんは『全国遊廓案内』について
下記の通り解説されています。
しかし初版本は風俗壊乱で発禁となった。
???? 先日、上下2巻本を古書目録で見かけ、
???? 愛書家の知己に問い合わせたところ、
それは改訂版との教示を受けた。
以上から、
『全国遊廓案内』は、当初1冊本で発行されたが、
発禁処分を受けた後、改訂版が「関西篇」と「関東篇」の2冊に分割して、
発行されたと読めるかと思います。
●しかし私の見た事のある、
2冊本の『全国遊廓案内』の「関西篇」「関東篇」各々の、
本文後の広告ページには、「関西篇」、「関東篇」と並んで、
「合本(=1冊本)」の広告が掲載されていました。
そこで『全国遊廓案内』各編の発行年等について調べてみました。
?『全国遊廓案内』:昭和5年7月3日印刷、昭和5年7月3日発行、上製、定価1円30銭
↑『赤線跡を歩く(完結編)』に紹介されていた本
?『全国遊廓案内(関西篇)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
?『全国遊廓案内(関東篇)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
※??の箱入りセットあり。セット定価1円30銭
?『全国遊廓案内(関東・関西合本)』:上製、定価1円30銭
↑ 2冊本の本文後の広告頁より
●はたして?と?の関係はいかに?
また、改訂版の合本(=?)は存在するのでしょうか?
※私は「改定後の合本(=?)」を見た事はありません。
オリジナル版と言われる本(=?)は、数冊見た事があります。
446
:
夕凪
:2009/01/19(月) 01:51:12
『全国遊廓案内』 発禁の謎?
●下記に再掲したように『全国遊廓案内』は当初1冊本で発行されたものの
発禁処分を受け。後に「関東篇」「関西篇」の2冊に分けた改訂版が
出版されたとの解説が複数の本に書かれています。
●たまたま三冊を同時に見る機会がありましたので『関東篇』『関西篇』と
『関東関西合本』の中身をざっと比較してみました。
その結果、両者で取り上げられた遊廓、およびその内容に相違はありませんでした。
そして“態本縣”“龍初町遊廓”等の明らかな誤植も含めて版の組みは同じでした。
※『三一版』にはオリジナル版には無い“大阪市新街遊廓”と言った
誤植もあります。
※“一字一句”見比べた訳ではありませんので、
詳細に見比べれば“相違”が無いとは言い切れません(スミマセン)。
●違いとしては『関東篇』『関西篇』の表紙には『内務省届済』との文字がありました。
合本の目次で言うと“長野縣”までが『関東篇』で、
“新潟縣”以下が『関西篇』となっています。
『関東関西合本』の扉にある花魁と太夫の2枚の写真も、
『関東篇』『関西篇』各々に1枚ずつありました。
“編者の言葉”“遊廓語(さとことば)のしをり”は
『関東篇』『関西篇』各々に掲載されています。
また『関東篇』『関西篇』の奥付には『内務省届済』の意でしょうか
『 ○に“出”』のゴム印が押されていました。
※発禁制度についての知識が無いもんで、どの部分がどう問題になって、
発禁処分を受けたのかは分りません。
単純に内務省への“届出”を怠っていた事が問題となったのでしょうか?
447
:
夕凪
:2009/01/20(火) 01:32:50
『全国遊廓案内』 の巻末広告
『全国遊廓案内(関東篇)』 『全国遊廓案内(関西篇)』の巻末広告は
下記のようなものでした。※どちらの巻末広告も同じでした。
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関東篇)』(※1930年10月15日発行)
関東地方、奥羽地方、北海道地方、樺太地方、の全部と
中部地方の一部の遊廓を納めたものである。
並製 定価48銭〔送料6銭〕
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関西篇)』(※1930年10月15日発行)
近畿地方、中国地方、四国地方、九州地方、台湾、朝鮮、関東州の全部と
中部地方の一部の遊廓を納めたものである。
並製 定価48銭〔送料6銭〕
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関東関西合本)』(※1930年7月3日発行版?)
関東篇と関西篇とを合本したもので
本書一冊さへあれば全国の遊廓が一目で判る訳である。
上製 定価1円30銭〔送料8銭〕
※どうも関東篇と関西篇掲載されている巻末広告を見る限り、
(関東関西)合本は同時に販売されていたようです。
P.S.
某古書店の目録(2009.1)に、
『全国遊廓案内(関東関西合本)』が
カバー付(ヤケ・疵有)で、
36,750円で出てました。
448
:
夕凪
:2009/01/28(水) 22:23:40
長尾文庫の遊廓関係コレクション
●龍谷大学深草図書館に長尾文庫と言う社史・団体史の一大コレクションがあります。
遊廓関係だけでも下記のような垂涎の資料が収められています。
01.今里新地繁昌史/黒阪雅之編輯
02.今里新地十年史/黒阪雅之著
03.岐阜花街案内/岐阜花街案内社編輯
04.旭廓(シンチ)物語/三浦美底著
05.新吉原遊廓略史/市川伊三郎著
06.全國貸座敷聨合會臨時大會記録/全國貸座敷聨合會本部編
07.全國花街めぐり/松川二郎著
08.全國遊廓案内/日本遊覽社編
09.飛田遊廓反對意見/伊藤秀吉著
10.南地五花街沿革史稿/[江上朝霞著]
11.橋本遊廓沿革誌/[橋本地域貸座敷組合編]
12.波娜婀娜女/中川徳右衛門(京島原角屋)
13.福原遊廓沿革誌 : 全/須田菊二著
14.松島新地誌/牧村史陽, 田辺一編
15.松島遊廓沿革誌 : (全)/須田菊二著
詳しくは ttp://opac.lib.ryukoku.ac.jp/nb/nagao/index.html
?? 長尾文庫Web目録 > L:サービス業 > L-9:その他の娯楽業
●大学附属図書館ですから基本的には龍谷大学関係者しか利用できませんが、
一般の人でも、学術・研究を目的とした利用に限り、
公共図書館からの紹介により利用させて頂けます。
例えば大阪市立淀川図書館に行って、
「龍谷大学の深草図書館にある『今里新地繁昌史』を見たいんですが、
紹介して頂けませんでしょうか。」とお願いすると、
淀川図書館が龍谷大学深草図書館と連絡を取って、紹介状を発行してくれます。
私も以前、大阪市立阿倍野図書館経由で利用させて頂きました。
●なお『今里新地繁昌史』『今里新地十年史』は
大阪府立中之島図書館でも閲覧する事ができます。← 間違いなく【中之島】です!
??※抜粋でよければ『近代庶民生活誌 13巻 色街・遊廓?』にも収録されています。
449
:
夕凪
:2009/01/28(水) 23:59:54
熱かったあの頃?
第1回 OFF会(2002年10月28日)の話題(過去ログより)
昨日のOFF会で出た話題を箇条書きですが少し整理して見ました。
抜けている所などは補足して頂けると有難いです。
●「信太山新地」もとは八坂新地と言う名前。近隣の八阪神社の玉垣に組合の名前有り。
新地内の立ちんぼの話。出禁男来場時の非常放送。
待合の横の部屋で遊んでいる子供がいるある意味アットホームな世界。
●「滝井新地」公の記録に赤線と明言。線路を挟んで昔は存在。
逞しい客引きのおばちゃん。1軒だけ少し安い店。
●「松島新地」戦災後住吉さんの西側で怪しい飲み屋に。
S27年頃まで松島町の町割りがあり。13Kの店が非常に少ない。
●「和歌山ネタ」黒江新地。観光地近くにあった遊所。紀和駅周辺の線路の変移。
ソープランド。本サロ。
●その他、実は政治的絡みで消えたと言う噂の奈良のK。
ある季節に営業している言う噂の大阪N新地。
枚パーと桜新地。あやめ池遊園とあやめ池花街。ルナパークと飛田。
大門のお店の二階へ続く怪談はボイラー室の中。ソープでの怪談話。
別府、小倉、岡山、静岡、石川の話。大津のサウナ。
何故橋本の建物は残っているのか?
太夫さんのHP。古き良き時代の松阪の特殊浴場などなどです。
●あと貴重な文献、写真、地図など各自持ち合って本当に有意義な3時間でした。
※ちなみに私の初書き込みは2004年1月13日でした。
450
:
紳士
:2009/02/02(月) 21:21:55
(無題)
ずいぶん前のログですね。私はオフ会初参加は05年の秋だったと思います。
> 待合の横の部屋で遊んでいる子供がいるある意味アットホームな世界。
渡鹿野島も昼間は子供が遊んでいて面白いですね。
451
:
黄線
:2009/02/13(金) 00:32:36
「福原遊廓沿革誌」1
「福原遊廓沿革誌」九十五頁・非売品
著者:須田菊二
発行:昭和六年
発行所:福原貸座敷業組合事務所
夕凪様に頂いた沿革誌をまとめます。須田菊二は松島遊廓沿革誌の著者です。貴重な資料を残した著者に敬意を表します。沿革誌には福原遊廓の由来、廓内の様子、柳原花街・新川遊廓の由来、福原芸者、遊女解放令による痛手、密淫売の取り締まり事情等、明治の新開地ならではの特異な事情が26章にわたって書かれています。なお非売品なので非公開的な書物であった可能性があること。著者の没年が不明であるために著作権への配慮も必要と考えました。このために沿革誌をまとめる上で省略できる人名や地名、創造的な表現については割愛させていただきました。
1.〜神戸開港と遊女町の新設〜
船着き場として栄える兵庫津とは対照的に神戸村(今の神戸市中央部)は、明治元年(1868年)になっても小さな一漁村であった。しかし開港地となる神戸村の将来性が期待されており演劇場や遊廓建設が計画される。遊廓設置の出願者総代は藤田泰蔵(後に姫路市の梅ヶ枝遊廓を開設)。しかし実際に遊廓設置をもくろんだのは藤田ではない。
2.〜おちゃらと日本人〜
開港前の神戸は惣嫁(夜鷹)又はおちゃらと呼ばれる娼婦の売春が盛んであった。おちゃらは沖の船や町家で売春をおこない、置屋に抱えられている者と抱えらずに自前で稼ぐ者にわかれていた。どちらも一夜が一分。
慶応三年(1867年)。開港を目当てにする外国人が居留地落成前の神戸に上陸。神戸村で貸家を借りるなど雑居式に住み着く。従者の外国人による傍若無人な行動が神戸村で問題となりだす。
伊藤博文が寄食する元町四丁目の料理店・専崎彌五平方には外国人より日本人女性の斡旋が依頼される。当時、西洋心を相手に商売しようとする者は皆無であったが専崎に出入りする佐野という顔役がおちゃらを七人抱えていたため、専崎が佐野に交渉をおこなう。結果、玉代は三分に相当する一ドル、座敷料はその二割五分と決まり、佐野は抱えるおちゃらが異人相手を恐れるので年期を半分の一年半にするという約束で商売を始める。
明治元年になり佐野は隣に住む遠藤金蔵(伊藤の友人)に、伊藤が県令になってから博打もできないが何か良いことはないかと相談する。これが福原遊廓開設の相談。佐野は十名の賛成連署の者を集め明治元年二月二十七日に福原遊廓開設を出願。
福原の名は福原遷都の故事に因んで選ばれる。
*異人、外国人、西洋人などと呼び名がかわりますが、神戸が多民族都市だった為ではないかと思いますのでそのママとさせて頂きました。
452
:
夕凪
:2009/02/14(土) 22:26:18
旧赤線で時間遊びが (奈良)
●ホンバンをやりたい人は、近鉄天理線の郡山駅下車、
東口銀座を天理方向へ300mほど歩いた旧赤線「蓑(ママ)山新地」
入口はスタンドバーが7、8軒あり、牧(?ママ)の奥に
旧赤線の建物が10数軒“旅館”として看板をあげている。
夕方、5時頃からオープンしていて、旅館の前を歩くと
ヤリテ婆さんが手招きする。
中に入るとすぐ2階の四畳半に通される。
部屋にはフトンの用意ができていて、
テレビ、タンス、テーブルのたぐいがある。
やがてガウンを着た女のコが入ってくる。
ショートは約20分で6千円、時間遊びは1万円が相場。
前金で受取った女はネグリジェ1枚になり、
フトンの上へ仰向けに寝る。
もちろんパンティなしだから、見たり匂いだりがOK。
時間遊びなら連発OKというから、時間遊びをオススメする。
泊りは11時以後で2万円がそうば。
1980年の成人雑誌より
●“×蓑山新地”は“○箕山新地”の漢字間違いであり、
当然、旧赤線とは旧東岡遊廓の事だと思われます。
上記の記事が正しいとすると、
名古屋の旧中村遊廓が、線後は名楽園と名乗っていたように、
?? ひょっとしたら、 旧東岡遊廓が、線後は“箕山新地”と
名乗って営業した(時期があった)と言う事なんでしょうか?
453
:
黄線
:2009/02/15(日) 15:52:23
「福原遊廓沿革誌」 2
3.〜花代と線香代の謂はれ〜
一説には、花代の謂われは平家の落人である女官達が一門の菩提を弔うために必要な線香料と花料に苦しみ最後のものを提供したことが起こりである。
4.〜新設福原遊廓の地域〜
佐野は専崎らから遊廓開基に要する資金を得る。そして現在の神戸駅構内の土地に五軒一棟の長屋を二棟建築しこれを出願連署の十名に貸すことが決まる。開所後に必要とされる町年寄りはいやがる専崎が祭り上げられた。遊廓には会所とそこに詰める者が必要との要求があったため、専崎は専崎方に寄宿していた藤田泰蔵が遊郭事務について明るいので会所の役員にする。藤田泰蔵が表に立つこととなった理由である。
5.〜福原新遊女屋町の開業〜
福原遊廓の開業日は明治元年五月一日説と十二月説(「神戸開港三十年史」)がある。著者は五月説。理由は明治元年九月十日に発行された「もしほ草」第二十三編に福原遊廓の繁盛について既に書かれているため。それによると、夜鷹や醜婦のみがおよそ百名。揚代金は一夜日本人が一分、西洋人が二分。西洋人は水夫、火焚など。ほかに黒人、中国人。日本人は日雇人足などで賑わう。
6.〜開業当時の廓内の情景〜
開業当時の店の構えは間口三間、奥行き七間。三畳敷きの部屋に中敷きを入れる割床式。花代はよく売れるのが一夜三分、下等が二分、西洋人は一ドル。
明治二年三月頃に大店、中店が二十軒完成。大門は宇治川に面して建てられる。遊女数は二百八十名。藤田泰蔵は吉原の廓内事情に明るく、会所を廓内取り締まりの事務所とし、車馬の通行を禁じ、夜警、消防人足に警らさせるなど、吉原遊廓を参考にした。遊女一人の運上(税)は月に一分二朱。また前述の二十軒とは別に南京茶屋という中国人専門の引手茶屋のような役割の店があった。検番もあり芸妓がおよそ三十名。芸妓の運用は厳格で売春は厳禁。花代は一貫文。
454
:
T-レッド
:2009/02/15(日) 17:01:02
あ、なるほど・・・大和郡山
個人的には興味深いお話です。 これは私の勝手な推測ですが・・・ 現在も残る、南郡*町の「箕山新地 NO.〇〇」と書かれた例の消火器ボックス。 もしも、東岡町が箕山新地だったとすれば、コレが現在の東岡町にあってもいいはずですよね?(必ずしも必要ではないかもしれないですが) 南郡*町には残ってて東岡町には残ってないのは、どうかと・・・。 それとは別に、赤線以降は東岡町が箕山新地と名乗り、その後、南郡*町へ移転した(?)とすれば、消火器ボックスとは切り離してもいいかと・・・。 確かなのは、箕山新地が南郡*町にあったのは間違いないという事。 この筆者が、箕山新地と、それに隣接する東岡町を一つのモノと考えた・・・とも考えられますが、隣接してても(龍*と栄*みたいに)別々に名乗る場合がありますし。 地図でさえ、住居表示のフリガナが間違っている場合がありますので、雑誌の記述が必ずしも正確とは(失礼ながら)言い切れないですよね。 ただ、この雑誌の筆者が、わざわざ「箕山新地」の名を出してきたのが少々引っ掛かります。(そんなに有名??) いずれにしろ、大和郡山は特異な遊里だと思いますね。
455
:
遊楽
:2009/02/16(月) 10:57:13
昭和40年の大和郡山市選挙管理委員会告示第57号
ttp://www1.kcn.ne.jp/~ymkorisi/jinji/reiki/reiki_honbun/ak40400911.html
・・・によると第一投票区域に南郡山町の一部として「箕山新地」、大宮町の一部と
して同じく「箕山新地」という記載がありますね。大宮町は駅の方から東岡へ行く
途中なので、私はてっきりあの消火器ボックスは大宮町側にあると納得してた上に
行幸の折は所謂「箕山新地」の場所(南郡山町付近)が地理的にはっきり把握できて
なかったので、あの辺りがそうだと勘違いしてました(^^;)。もしかしたらその
雑誌記者さんも私と同じ勘違いをされていたか、やはり「飛び島」のような形で
あそこにも同じような形態の場所があったのか・・・ちょっとしたプチミステリーに
ワクワクします。
456
:
黄線
:2009/02/18(水) 02:59:19
「福原遊廓沿革誌」3
7.〜兵庫津の花街略史〜
兵庫津の事情であるが、柳原は江戸末期に四箇所の岡場所が移転して出来た。岡場所のうち三箇所は船頭や漁師などの身分の低い男たちを相手にする下等な引店である。彼らは女のことを毛饅頭と異名していた。一番人気は眞光寺前にある笹屋の八重菊で流行歌もあったほど。
娼妓買ふなら眞光寺前で、音に聞こえた八重菊買やれ、この妓匂いも色もある
残りの一箇所は「割」または「両掛」と称する藝娼妓兼帯の女を置く磯野町であった。磯野町の両掛宿(娼家)は今でいう中流以上の男を相手に大変繁盛していた。
しかし、文久三年(1863)“遊廓まがひの花街取潰し”の御布令によって、これらの引き店と両掛宿に柳原への移転と宿屋の開業が命じられる。渋々と従った引店の亭主や両掛宿の親方は、女たちを飯盛りという名目でそのまま宿に置いて表面は宿屋として渡世することとなった。八重菊も飯盛り女として働くことになり小菊と名を変えて一番人気を誇った。
8.〜宿屋渡世を命令された譯〜
岡場所に移転が命じられた理由は宿屋の不足。攘夷派の長州藩を征伐する軍勢の宿舎に宛てるためであったらしい。このため長州征伐が終わると止宿する軍勢もなくなって柳原は低迷する。
9.〜柳原の花街と新川遊廓の由来〜
やがて柳原では飯盛り女が芸者と遊女に別れるようになる。宿屋も芸者が主の宿、遊女が主の宿という風に色分けされて花街らしき形になった。遊女屋の方は再び以前の渡世に戻ったわけだが、取り締まりを恐れて宿屋の看板だけは降ろさずに営業をおこなった。
お茶屋軒宿屋は表の格子に貼った半紙に「盛」または「藝」と書いて飯盛り女が芸者になった店の目印にした。さらに明治初年には「藝」の文字の横に三味線のばちを形どった印を並べ書いて目印にした。同時に大勢の遊女と芸者を一つ部屋で抱える置屋とお茶屋に別れて専業化する。
西南戦争(1877)景気によって福原も柳原も繁盛する。しかし福原の大繁盛を見て自省した柳原花街はいずれ遊女と芸者との区別も出来なくなるような時節が到来すれば柳原滅亡の時であるからと、置屋とお茶屋が相談の上、芸者と遊女を厳然と区別して芸者は柳原に残らせ遊女は新川へ移すこととなった。これが新川遊廓の出来た理由。
457
:
夕凪
:2009/02/21(土) 00:17:42
中京名古屋 中村遊廓 稲本別館
●中村情緒を味ふには小店でプロ階級が速成モダンで安価な
近代生活を享楽するよりか、矢張り一流店で名古屋独特の気分を
吟味するに越したことはない。
先に云った日吉町の稲本楼、本家長寿楼、四海波と云った
大店で時間を超越して、しとやかな相手と三味線で歌って夜を明かし
果ては結ぶ桃色に夢と、旅の労れをさっぱり朝湯で流して
いそいそと帰へった方がいいです。
●この中村で群を抜いてゐる店がある。
稲本別館と云って、東海道は静岡の蓬莱楼、岐阜の浅野屋と
並稱されてゐる中村の大御所で、店も一流なら客も一流、
廓が名古屋の名所とさへ云はれてゐる。
立並ぶ大店に伍して桃山御殿式の建物と支那式の正門とが
よく調和して変わった外観をみせてゐる。
2、3年前に火災に会ったと云ふが木の香りの抜けきらぬ広間で、
金箔の格天井や襖の扇面は主人が知己の諸書家の作と聞くが、
よく蒐集したのをうち見つゝ一献傾けるのも格別、
各室の造作、調度の快よい事主人が趣味の程知れて奥ゆかしい。
●娼妓は全部東京の一流藝妓落ちばかりとて、
日頃は茶花、その他藝ごとに餘念がないとはうれしいかぎり。
徒に東海道を上下する紳士諸君は寸刻をさいて
一度此の店を吟味する事を筆者は進言する。
1933年の全国郷土雑誌より
(参考)ttp://www.inamoto-nagoya.com/index.html
458
:
黄線
:2009/03/11(水) 03:25:04
「福原遊廓沿革誌」4
10.〜私娼の跋扈に悩む當局〜
開港直後の神戸は、娯楽施設の工事や港湾修築などの土木工事が多く、労働者も諸国から集まり一種の植民地であった。これは私娼の活躍には絶好の天地であったようである。
十銭は湊川の堤防や堤防下の野天。立淫売は薄暗い路地で「モシモシ」。これに少々上等なおちゃら、惣嫁たちが三つ巴になりしのぎを削り街の風紀は著しく乱れる。さらに町娘や寡婦、既婚の女子が洗濯女と称して港内停泊の船内で売春を行ったり、曖昧家や貿易品売込商人に抱えられて隠れ売春を行うようになる。ついに兵庫県当局は、遊女は福原遊廓内に限ること。飯盛女は兵庫小廣町、神明町、逆瀬川町、東柳原町、西柳原町のみに限ると厳重な布達を発することとなる。
11.〜福原遊廓の移転事情と其の繁盛〜
明治三年、神戸大阪間の鉄道敷設が決まり、同年六月神戸停車場の位置は福原遊廓の地域が最好適ということになる。しかし神戸駅の工事延期や代地である湊川側の土工が着手されていない事情もあり業者の移転が仲々進まなかった。しかし明治四年五月十八日に大津波が起こり福原の家屋が倒壊。これをきっかけに新福原への移転が急速に進むこととなる。
新福原移転時の遊女数は約三百五十名。揚代金は上等二分、中等一分二朱、下等一分、最下等二朱の四等にわかれる。一夜貸し切りは二両を要したそう。遊女の身代金は一年間で二十両が相場。子店なら十両、稀に三十両の前借金の遊女が現れると神戸中の評判となった。
移転の補償は大小妓楼一軒平均十五両。各楼の新築は借金により賄われる。このまま好況が続けば数年で回収できるものと思われたが、明治五年十月の遊女解放令により業者の目論見が崩れることとなる。
12.〜遊女解放令の發布顛末〜
明治五年六月に横浜でマリアルーズ号事件が起こる。我国は奴隷を認めずという判決を下した手前、神奈川県当局は明治五年九月に藝娼妓解放令を発する。だが実際は自由営業者は許すとして業者に抜け道を残していた。ところが十月二日、近代化に向かい改革を進める中央政府によって人身売買の完全禁止。そのうえ同日、司法省が人権を持たない娼妓芸妓は牛馬と同じであるという理屈で前借金を棒引きにするよう布達する。業者に一切代償の無いこの解放令は当時世間でも驚かれ「牛馬のきりほどき」或いは「切りほどき」と称して取り沙汰された。
13.〜遊廓取潰しから再興へ〜
兵庫県では遊女の前借金の棒引きはもちろんのこと国許に帰る旅費までも業者が負担するように命令が下る。藤田泰蔵と業者たちはあらゆる手段で嘆願陳情を試みたが十日間以内に遊女を解放することを命じられ、ついに県当局の前で遊女を引取人に手渡すこととなった。福原の業者は莫大な損害と心労による大打撃を受け明治六年の貸座敷渡世によって公許された時、再開業した妓楼は僅か二十軒であった。
459
:
夕凪
:2009/03/02(月) 00:23:57
渡辺寛 と 芥川賞 ?
●渡辺寛氏の『鄙びた湯・古い湯治場』(1956年)によると著者略歴は下記の通りです。
大正2年(1913年)5月18日東京下谷に生る。最終学務はアテネ・フランセ。
昭和10年亀井勝一郎氏のすすめで日本浪曼派に参加。
文学評論にのせた小説「詫びる」が第一回芥川賞の候補となった。
20年間記者生活と旅の空に送る。
日本経済新聞記者などを経て現在は新東京通信編集局長。
交通記者連盟・労農記者会員。
主な著書は「こけし風土記」「おんなの味」など。
現在、産経よみものに「おんなの旅」執筆中。
●ボクの頭の中で“渡辺寛”と、純文学の新人に与えられる“芥川賞”が
結び付かんかったんでチョット調べてみました。
インターネットの芥川賞関係のHPによると、
第1回芥川賞(1935年8月10日決定発表)の候補作として
??“渡辺寛”と言う人の「詫びる」(『文學評論』1935年6月号、ナウカ社)が
候補作となっていました。
でも『詫びる』は“予選候補作”であり、
本選の“候補作”には残らなかったようです。
また、そのHPにあった渡辺寛氏の経歴は
1913年5月18日、東京・下谷生まれ。アテネ・フランセで学び、
昭和10年/1935年に日本浪曼派に参加。
長きにわたり新聞記者生活を送り、日本経済新聞などに在籍した。
ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/pkogun/pkogun1WH.htm
ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/senpyo/senpyo1.htm
以上から『全国女性街ガイド』の著者である渡辺寛氏は純文学を書いてた頃があり、
氏の小説が第1回芥川賞の“予選”候補作であった事はまちがいないようです。
460
:
夕凪
:2009/03/02(月) 01:12:31
渡辺寛 と 芥川賞 ?
●先日、図書館で渡辺寛氏の「詫びる」を探してきました。
なお、氏の小説が掲載されていた『文學評論』(ナウカ社)は
1935年6月号ではなく、1935年6月発行の臨時増刊(新人推薦号)でした。
『文學評論』と言う雑誌はプロレタリ文学雑誌であり、
そこに発表している渡辺寛氏もプロレタリア作家の一人でした。
●その雑誌の編集後記の前に、新人推薦号に掲載された作家を紹介した
一文がありましたので下記に転記しておきます。
渡辺寛について 徳永直
??「詫びる」の作者は、電球職工である。
??「文藝街」の同人で、まだ若い生え抜きの労働者である。
彼はこうした工場の職工が罹りやすい喘息をもって居り、
工場の夜業とそれと闘いながら、短時日のうちに「詫びる」を書きあげた。
従ってこの作品には、構想においても、表現上の按配やにおいても、
いろいろ難点がある。たとへばその半ばにおける工場のグループの
人々の集りのところでも、作者はツイ道草的になったり、
特に全体において形象化が不十分で、説明に堕している傾きがつよい。
しかしそれにも拘らず「詫びる」は、一貫した作者の追及してゆく
労働者的情熱のためか充分に読者を最後の一行まで引摺る迫力を
失ってはいない。
特にこの中で読者として教えられるものは、現在の工場における
労働者大衆の姿である。(中略)
この作者は、現在の進歩的な若い労働者が多くは持っている経歴に
くらべても、決して負けない経歴を持っている。
従って若いブルジョア文学青年に比較にならぬ程大人である。
??「文藝街」は、こうした労働者の若い作家達が沢山集っている
グループであるが、その一人として渡辺寛君を推挙したように、
今後読者の前に、ドシドシと推し出したいものである。
●渡辺寛さんはいつ頃“文藝街”から“女性街”に転向したんでしょうか !?
そう言えば宇能鴻一郎さんも純文学(第46回芥川賞受賞)してたし・・・・
やっぱ“リピドー”は偉大なんですね !!
461
:
夕凪
:2009/03/03(火) 02:07:51
渡辺寛 と 芥川賞 ?
●また渡辺寛氏の『全国女性街ガイド』には
「渡辺寛氏は労働問題の新聞記者のベテランであり、また大きな喫茶店のマスターであり、
生活に困らないことも手伝って日本でも有数の旅行家でもある。(以下略)」と
紹介されています。
●以上の資料から渡辺寛氏の職歴は「電球職工 → 日本経済新聞記者 → 新東京通信
??編集局長 → 喫茶店のマスター」と言ったところになるのでしょうか?
もちろんその間にいくつかの著作、あるいは雑文家として生計を立てていた時期も
あったのかもしれませんが・・・・
462
:
夕凪
:2009/03/05(木) 02:08:52
扇港花街襍録
●其昔、兵庫の地、佐比江に遊女のありしは物語として伝り西鶴は美しくも
??兵庫の津の美女を艶麗な筆致に残し、吉原、島原の名はなくも京畿より西国への要津、
??当然酒楼、妓楼の存在を必然ならしめた事が窺はれる。
徳川末期の黒船の来船と神戸港の開港は、いよいよエキゾチックな風潮を扇港に
与へる事となり、早くも兵庫柳原の地の花街を世に認識せしむるの時となり、
明治初年に柳原街は「藝」と書し三弦を表示するバチを目標に表格子へ筆太に表示
するに至りしと云う。
之に対して「飯」なる文字をもって表示せし一派は現在の新川遊廓の先駆をなし、
或は神戸の二ッ茶屋、走水村(現元町)附近には「チャラ」或は「ケタオシ」と称する
闇の女が出没して、当時の兵庫県市政局より其取締りの法令が発せられ、
ついでに明治5年には吉原を模した大福原の出現となり、千人に近い娼妓と
50余の男女芸者の出現となり、何時しか昔の花隈城跡を中心とした一帯に
紅灯が設置さるるに及びたり。 (中略)
以上の沿革を有する花街が、今日、如何に展開しつつあるかに関して鳥瞰して
みよう。
1933年発行の全国郷土雑誌より
463
:
夕凪
:2009/03/07(土) 18:38:57
花隈 扇港花街襍録
●東海道一瞬にして神戸駅に西下せんとする時、高架線下北に存する高台こそ
昔荒木村重の居城たりし花隈城址、今や丘陵上に碑石一つを止め、
近帯紅灯の城に化し、中、新中両検の美技350余人、
これこそ神戸のもつ有産階級を対象とする花街にて、
その中心にダンスホールの偉大を誇り、
雅静エキゾチックを彼らのプライドとして
過ぎし黄金の時代の夢さめず、美貌と美技に酔はしめる。
神戸の上層階級の慰安の巷、
其昔花隈城の南門を飾りしてふ巨楠の老木下には、
此街のもつ古雅吟松亭もゆかしく、隣して碧眼朝夕に神戸肉を謳歌し、
美女半百を擁する華彩絢麗を誇る料亭菊水楼も亦、
此花街のもつ一異彩たるべし。
1933年発行の全国郷土雑誌より
464
:
夕凪
:2009/03/10(火) 00:53:17
敏馬 扇港花街襍録
●往年神戸市へ東接地より編入されし地。
前に神戸港をひかえ、東部の工業地帯を背にしてたつ所、
其偏在こそ反って奇を求むる人々に歓迎され、
かすかに残る野趣を色彩とし、
神戸東端に介在する一花街として郊外人の需要にも一重要性を有し、
近年急激の美技増加率を示す。
其数150名に近し。
1933年発行の全国郷土雑誌より
465
:
夕凪
:2009/03/10(火) 01:00:49
新川 扇港花街襍録
●築島物語に悲しく、清盛塚に哀史を止むる
??兵庫の和田岬の泊りに咲く遊廓の美女、
??地域的に偏在するため多くは知られず
内航船舶の乗組員の慰安の地、
古き兵庫の遊女の面影は茲に残るやとも。
1933年発行の全国郷土雑誌より
466
:
夕凪
:2009/03/10(火) 01:33:54
和歌山県連合会 (再掲)
業界紙の年賀広告より (昭和32年)
01.阪和新地組合、02.天王新地組合、??03.海南新地組合、??04.下津料理組合、05.箕島検番組合、
06.湯浅検番組合、07.御坊南新地組合、08.御坊北新地組合、09.田辺検番組合、10.新宮新地組合
11.串本新地組合、12.勝浦新地組合、??13.白浜社交倶楽部、14.白浜浜木綿社交倶楽部
?????? 以上
467
:
鷹目
:2009/03/12(木) 21:06:27
(無題)
管理人のくせに久々に出没ww。
阪和新地、天王新地、海南両新地、湯浅、田辺は確認済み。新宮は浮島、勝浦は大島かな?白浜はどっちかと言うとヤトナ系ではないかと思います。
某氏いただいた資料では御坊あたりは青があった記述がありましたが、未確認です。
他ある程度確認済みのところでは、和歌浦、粉河、白崎が連合から抜けてます。和歌山は確かに漁港や鉄鋼(住○金属)、他漆器や醤油で栄えた土地ですけど、地方都市の割に何気に数が多いのが一番謎だったりします。
橋本は宿場町でもあり、高野山詣の帰り道でもあるので、精進落しの意味を含めて目立った歓楽街が、存在していても良いとは思いますが、まったく持って資料的な手がかりはなし。
東へいけば五条が、西へいけば、粉河・天王・阪和が、北に上がれば、長野・竜神栄橋があったからですかね・・・?
468
:
夕凪
:2009/03/13(金) 01:30:09
陳情書 池田市 綾●町商店会 ?
かねて懸案の売春防止法が制定される事になりました。
顧ますれば敗戦に依る祖国の荒廃に依り
戦災都市よりの転入者が続々と池田市に増加し
各施設の整備に依り、各種の観光施設の充実と相俟って
今や名実共に北摂唯一の観光都市として発展して参りました。
当綾●町商店街は立地的に五月山々麓に位置し
京阪神急行池田駅より真直北に約5町
其の途中栄町南北商店街を縦断し、本町商店街と交叉し
北背に池田市の誇る五月山公園
そして東に箕面公園に通ずる大観光道路の完成と
西に清流猪名川を指呼の間に望み、
歴史的には北摂の物資の集散地として近郷の中心になり
街の発展と共に、明治三十年頃仲之町花街が開設せられ、
途中時代の変遷と共に今日に至りました。
特に敗戦直后の混乱時代に占領軍の伊丹空港進駐と共に
必然的に過去の形態を変貌するの余儀なくされて参りました。
469
:
夕凪
:2009/03/13(金) 02:38:05
陳情書 池田市 綾●町商店会 ?
私達綾●町商店街は古くから風紀地区を対象として
直接又は間接に商業を営み
細々乍らも生活が維持されて参りました。
噂に聞く風紀地区が廃止される事になりますと
土地の衰微と共に顧客は減少し
私たち商人は生活の脅威に曝されなければなりません。
新地業者の今后の方針を仄聞すれば
終戦以来の形態を根本的に脱却して
本来の純然たる歓楽地帯の料理旅館として
再出発せられる様でありますが
若し之が許されるならば私たち商人としても
生きる途が見出されるのであり
立地的並に歴史的条件共に整った綾●町に
観光客を対象として新しい発展の途が開かれる事になりますと
誠に望外の喜びであります。
過去共に手を携えて土地の発展に微力を盡して参りました
私達地元商人としても転換の1日も早く成し得られます様
懇願申し上げます。
池田市綾●町商店会 代表者
昭和32年9月 日
大阪府議会議長 殿
470
:
鷹目
:2009/03/19(木) 22:18:52
はしょります、名古屋
久々に行ってきました。稲本、名古屋、東海地方。
初日に大曽根で島原さんと合流し、城東園へ。途中サングラスを掛け、自転車にのった怪しいヒトに出会いました(笑)。
初日は、名古屋市内散策とレッドさん、楽天地さん、Aさんを合流して稲本での食事会。二日目は津島、碧南散策です。
城東園・・・勝手な思い込みで3軒ぐらいしか残っていないと思っていたら、15軒ほど残存。でも鷹目会的に目を引くのは1、2軒程度。
所々更地化、または建て替えが進んでいるようです。
中村・・・白馬取り壊し、牛若の建物健在。ここも建て替えが進んでいきそうですね。
津島・・・1軒のみ。もとはその建物の隣、道の反対側に3軒ほどあったそうですが、転業料理店からの出火および度々の火災で現在のように。
花街のほうが確かに雰囲気はあります。
衣浦荘・・・某氏が宿泊した旅館は健在。一角に固まって現在は廃業した転業旅館が存在。南西角の建物裏は必見。
棚尾・・・とあるサイトに神社周辺が花街があったと記述があったので散策。これかなと写真に収めたのが、やっぱりそうだったようです。もう一度情報を集め、堀川橋の方などの散策コースも含めて散策したいものです。
しかし稲本は残念です。女将の話によりますと、やはり利用客の減少が多少なりともあるようです。それと建物の老朽化維持の問題も。でもしっかりしている建物の稲本で老朽化なんていったら某T新地の某料亭なんてどう表現すればいいのやら。はやり一流店としての矜持からですかね。
471
:
k_taii
:2009/03/22(日) 22:44:30
こんばんは
今回は群馬県の草津温泉と埼玉県の本庄に行ってきました。
草津には5−6軒の赤線があった(従業婦18人)そうですが、いつもどうり
場所は不明。10年ぐらい前、家族旅行のときに湯畑と西の川原のちょうど
中間の饅頭屋さんのあたりに1軒の古いカフェー建築があったのを記憶
していたので、ここを重点に聞き取りを数回。あたりでした。急いで行って
みましたが、古いカフェー建築はすでになく、まわりにそれらしい建物も
残ってはいませんでした。
本庄は浦和と同じように乙種料理店があったので、戦後には赤線が出来たと
思い聞き取りを数回してみましたが、どうも赤線はなかった模様。(帰宅後
確認すると赤線はなく、芸妓置屋12軒、芸妓18名の花街が存在)
聞き取りで遊郭の建物と言われる建物が2軒ありましたが、外見からは判断
できず不明。花街は稲荷小路というところに面してあった模様で、2軒料理屋
が残っていて、芸妓置屋は1軒、高級料亭らしい建物も1軒ありました。
472
:
夕凪
:2009/03/22(日) 23:18:48
業態者集団地域に関する調
●本編は各府県に於ける業態上花柳病伝播の恐れある
集団地域の概況にして地方長官の回答に基き集録せるものなり
1934年10月の内務省衛生局資料より
●府県名(抜粋):集団地名(所在地名)戸数−業態者数
??愛 知 県:?東大曾根 (名古屋市東区) 136−225
?????下 飯 田 (名古屋市東区)??47−79
?????鎌????田 (名古屋市中区)??42−60
??和歌山県:?天王新地(和歌山市) 57−95
?? ?東 新 地(海草郡日向町) 40−65
?? ?阪和新地(和歌山市)???? 13−27
?? ?岡????町(和歌山市)???? 12−32
??大 阪 府:?徳平町(大阪市此花区)???????????? 22−78
?????南海本線岸之里附近(大阪市西成区) 10−20
?????千鳥町(大阪市此花区)???????????? 15−35
?? ???宮居町(大阪市此花区)???????????? 17−46
?????安井町(堺市)???????????????????? 19−82
※上記所在地を根拠とせるも常に居を転じ
1ヶ月以上固定せるものなし(大阪府)
埼 玉 県(児玉郡):
?本庄(本庄町) 9−22
?児玉(児玉町)13−28
※埼玉県下には小規模ながら35ヶ所の記載があります。
群 馬 県:?三ヶ町、?柳川町の2ヶ所のみでした。
?????????????????????????????????????????? 以上
473
:
夕凪
:2009/03/23(月) 23:53:18
関西の某大衆雑誌(1935年12月)
某古本屋さんの目録見てたら、ある雑誌が目に留まりました。
その紹介文に、目次がチョコット書かれてました。
やっぱり箕山新地って・・・・・
ポン引綺譚(林田瑛夫)、
郡山美人ヤトナ殺し(箕山茂)、
新大阪名物高淫物語 → 高淫:高等淫売
etc.
474
:
夕凪
:2009/03/24(火) 01:42:17
廃娼すれども
●業態者集団地域に関する調 (埼玉県)
※集団地名(所在地名)戸数−業態者数
01.浦 和(浦 和 市)13−30
02.鳩ヶ谷(北足立郡) 5−10
03.川 口(川 口 市)23−130
04.大 宮(北足立郡)37−90
05.鴻 巣(北足立郡)11−13
06.桶 川(北足立郡) 1− 2
07.吹 上(北足立郡) 4− 7
08.川 越(川 越 市)29−55
09.坂 戸(入 間 郡) 2− 4
10.越 生(入 間 郡) 5− 6
11.所 沢(入 間 郡) 8−25
12.入間川(入 間 郡) 7−16
13.飯能町(入 間 郡) 8−21
14.松山町(比 企 郡) 9−10
15.小 川(比 企 郡) 6−13
16.秩 父(秩 父 郡)17−34
17.皆 野(秩 父 郡) 3− 6
18.小鹿野(秩 父 郡) 6−17
19.本 庄(児 玉 郡) 9−22
20.児 玉(児 玉 郡)13−28
21.熊 谷(熊 谷 市)40−103
22.妻 沼(大 里 郡) 7−17
23.寄 居(大 里 郡) 9−19
24.深 谷(大 里 郡) 2− 2
25. 忍 (北埼玉郡) 4− 7
26.羽 生(北埼玉郡) 7− 7
27.加 須(北埼玉郡) 4−13
28.岩 槻(南埼玉郡) 4− 6
29.粕 壁(南埼玉郡) 6−14
30.大 澤(南埼玉郡) 4− 4
31.久 喜(南埼玉郡) 4− 6
32.菖 蒲(南埼玉郡) 4− 6
33.杉 戸(北葛城郡) 1− 2
34.幸 手(北葛城郡) 2− 6
35.吉 川(北葛城郡) 3−13
以上
475
:
k_taii
:2009/03/26(木) 22:56:33
夕凪さんありがとう
お返しに昭和32年5月31日、県防犯課調べのデータを出します
場所ー業者数ー従業婦数
1、浦和ー14−40
2、川口ー28−98
3、大宮ー52−173
4、鴻巣ー8−13
5、朝霞ー2−10
6、川越−25−51
7、所沢ー6−17
8、狭山ー3−6
9、飯能ー3−5
10、東松山ー5−10
11、小川ー3−9
12、秩父ー14−19
13、小鹿野ー2−2
14、児玉ー1−0
15、熊谷ー26−65
16、深谷ー3−3
17、寄居ー3−8
18、羽生ー7−14
19、加須ー1−2
20、岩槻ー2−3
21、春日部ー1−3
22、越谷ー7−18
23、久喜ー3−4
24、幸手ー1−2
25、吉川ー1−3
いずれも規模が小さく、なかなか見つけ
られません。
476
:
夕凪
:2009/03/29(日) 10:43:27
徒然なるままに
● k_taiiさんの資料との増減を出してみました。
資料の出所が違うので単純に比較する訳にもいかないのでしょうが、
取りあえずは増減を出してみました。
※増減数=1957年‐1934年
NO. 所在地???????? 業者数 従業婦数
01. 忍 (北埼玉郡) ▲ 4 ?? ▲ 7
02.羽 生(北埼玉郡) 0 ????7
03.浦 和(浦 和 市) 1 ?? 10
04.越 生(入 間 郡) ?? ▲ 5 ?? ▲ 6
05.桶 川(北足立郡) ?? ▲ 1 ?? ▲ 2
06.加 須(北埼玉郡) ?? ▲ 3 ??▲ 11
07.皆 野(秩 父 郡) ?? ▲ 3?? ??▲ 6
08.岩 槻(南埼玉郡) ?? ▲ 2 ??▲ 3
09.寄 居(大 里 郡) ?? ▲ 6 ▲ 11
10.吉 川(北葛城郡) ?? ▲ 2 ▲ 10
11.久 喜(南埼玉郡)?? ??▲ 1????????▲ 2
12.熊 谷(熊 谷 市)?? ▲ 14 ??▲ 38
13.幸 手(北葛城郡) ?? ▲ 1 ??▲ 4
14.鴻 巣(北足立郡) ????▲ 3 ??????0
15.妻 沼(大 里 郡) ?? ▲ 7 ??▲ 17
16.坂 戸(入 間 郡) ?? ▲ 2 ?? ▲ 4
17.児 玉(児 玉 郡) ??▲ 12 ▲ 28
18.所 沢(入 間 郡) ?? ▲ 2 ??▲ 19
19.小 川(比 企 郡) ?? ▲ 3 ??▲ 10
20.小鹿野(秩 父 郡) ?? ▲ 4 ??▲ 15
21.松山町(比 企 郡) ?? ▲ 4?? ???? 0?????? ※東松山
22.菖 蒲(南埼玉郡) ?? ▲ 4 ?? ▲ 6
23.深 谷(大 里 郡) ??????1 ????????1
24.吹 上(北足立郡) ?? ▲ 4 ?? ▲ 7
25.杉 戸(北葛城郡) ?? ▲ 1 ?? ▲ 2
26.川 越(川 越 市) ?? ▲ 4?? ▲ 4
27.川 口(川 口 市) ??????5 ▲ 32
28.大 宮(北足立郡) ??????15?? ?? 83
29.大 澤(南埼玉郡) ??????3?? ?? 14 ※越 谷
30.秩 父(秩 父 郡) ?? ▲ 3 ??▲ 15
31.入間川(入 間 郡) ?? ▲ 4 ??▲ 10 ??※狭 山
32.粕 壁(南埼玉郡) ?? ▲ 5 ▲ 11 ※春日部
33.鳩ヶ谷(北足立郡) ?? ▲ 5 ▲ 10
34.飯能町(入 間 郡)?? ??▲ 5 ??▲ 16
35.本 庄(児 玉 郡) ?? ▲ 9 ▲ 22
90.朝 霞(北足立郡)?? ????5???? ??0
???? 合 計 ?????????? ??▲ 48 ▲ 250
※順子さんより御指摘頂いた箇所を修正致しました。
順子さんどうもありがとうございました。
※埼玉は不案内なもんで町の変遷や規模等が分からず、
交通機関の発達による大宮等の都市部への集中が
見られたのかどうか分かりません。
また所在地等に誤りがあれば御指摘頂けますでしょうか。
477
:
:2009/04/02(木) 04:10:17
出身県なので・・・
つまらないことですけど、
秩父、小鹿野、皆野は、比企郡ではなく、秩父郡です。
また、松山=東松山、粕壁=春日部、入間川=狭山、大澤=越谷です。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
478
:
k_taii
:2009/04/05(日) 22:07:47
こんばんは
今日は群馬県の前橋と新町の赤線跡を探しに行きました。
前橋 S32年に23軒とあり、ある程度の大きさがあったと思われたので
簡単に見つかるかと思いましたが、何人の人に聞いても分りません。そこで
花柳界のあった旧紺屋町に行ってみました。スナックや風俗店、飲食店が
たくさんあるなかに芸妓組合の建物が残っていました。近くの馬場川沿いに
は私娼がたくさんいたそうなので、そこが赤線だったのかと考え行って
みましたが、赤線や私娼がいたような建物は残っていおらず、赤線の建物
らしい建物は旧紺屋町に1軒だけありましたが、芸妓置屋かもしれません。
新町 印象的な旅館のそばに飲食店が集まっていましたが、地元の人に
聞くとそこから少し離れたところに赤線、青線があったそうです。
記録では、9軒の赤線があったそうですが、それ以上あったと
いうことでした。建物はほとんどが建て替えられ、1軒の建物が
その当時の建物だということでした。その建物も2階屋の前と横に新しい
建物が増築され、当時の面影はありませんでした。
479
:
k_taii
:2009/04/05(日) 22:30:25
埼玉の赤線
私見ですが、S30年代は埼玉はまだ貧しく、一部を除き商売にならなかった
のではないでしょうか。浦和や秩父でもまったくお客が来なかったと
埼玉新聞にでていました。大部分の場所で2−3の建物、従業婦は1軒につき
2人(戦後)では近年のベットタウン化で痕跡も残らず消えてしまったように
おもわれます。戦前と戦後の規模の縮小は、戦後の女性に対する払いの増加
のため、コスト的に見合わなくなったため縮小してしまったと考えています。
480
:
夕凪
:2009/04/05(日) 22:50:56
全国主要赤線地区案内 (埼玉県)
●埼玉県
熊ガ谷の桜が淋しくなってから、赤線は浦和も、大宮も、川口も、
??所沢も、川越もすべて昔の面影はありません。
??ハッキリいうと青線の私娼に押されて土俵をわるばかりの態なのです。
しかし大宮や、川越のように次第に立ち直ってきている赤線もあります。
ですからもし御案内するとしたらまず大宮新地でしょう。
駅を降りたら左に約2町、バス通りの向う横町
??『宮町花街』の輝くネオンが招いています。
3百円で遊び、8百円なら泊れると土地の青年衆が話していました。
1954年の雑誌より
481
:
夕凪
:2009/04/05(日) 23:03:55
全国青線地区めぐり (埼玉県)
●埼玉県
赤線をはるかに凌駕する淫媚きわまりない私娼の跳躍を示しているのが実態です。
主要地区は大宮、浦和、所沢、川越、川口、熊ケ谷、行田、杉戸、草加、深谷ですが、
近来、寄居、長瀞まで妖しげな青線の店ができてきました。
全県青線とみて支障ないでしょう。
値段は時間が3百円か5百円、お泊りでも8百円から12百円どまりです。
1954年の雑誌より(同じ雑誌です。)
※同じ雑誌に街娼300人、私娼2,900人とありました。
一方、赤線街の一覧には、宮町(埼玉県大宮)のみ掲載されており
「まあ代表として紹介の程度」とのコメントがありました。
482
:
k_taii
:2009/04/05(日) 23:46:59
私娼、街娼
S28年4月30日、厚生省調
散娼 (洋パン)1675名
(和パン) 58名
(その他) 85名
埼玉県
S31年9月1日、
厚生省公衆衛生局防疫課
洋娼
220(街娼)
406(青線)
335(その他)
和娼
15(街娼)
16(青線)
114(その他)
埼玉県
夕凪さん 公式記録とはずいぶん違いがあるのですね。
まあ、きんねんまで、NK流というものが埼玉各地に
あったので、警察は見て見ぬふりをしていたのでしょうか。
無法地帯の西川口、隣の蕨、草加、越谷などにも
ありましたしね。
483
:
夕凪
:2009/04/07(火) 07:38:31
全国主要赤線地区案内 (群馬県)
●群馬県
明治26年娼妓が廃止されたら、27、8年の日清戦争では
日本一花柳病の多い壮丁を出したため、
時の知事が広島に呼ばれて叱られたのは有名な逸話である。
といって、今さら朝令暮改もならず、
とうとう大正元年9月乙料理店名義で『制限黙認営業』となり、
俗称ダルマ屋といい伝え、
その後30年の長い年月廓と同じように商売していたのでしたが、
終戦で再び御破算となった。
高崎の柳川町は、前橋の紺屋町とともに代表的な歓楽赤線地帯です。
どちらも市の中央繁華街でありまして、ネオンもまぶしい不夜城です。
元来上州は嬶天下に空っ風が名物です。
がその冷たい赤城颪にきたえあげた肌の女は、
たしかに口の先は強いのですが、
意気と狭気の肌合いは捨てがたいものがあります。
その女たちが熱情にこめた身体をはってサービスをするのが、
ここ群馬県の特徴です。
伊勢崎、気流と数えていったら限りのない上州女の赤線どこ、
ここは伊香保や、四万、草津の温泉郷の彼女たちとともに、
都外の遊び場として訪れるには、お誂えの時間と経済の桃里です。
1954年の雑誌より(同じ雑誌です。)
※そう言えば、この特集には『実態調査』の四文字が付されてました。
484
:
MARU
:2009/04/07(火) 22:01:42
どうも
ごぶさたです、先日アニメ<フタコイ>を観ていたら
あれ!な建物が、、、赤本90ペ-ジ水戸の建物が。
http://www.veoh.com/search/videos/q/FUTAKOI
#watch%3Dv1029774ekfHQKTb
このお話の12:46あたりです。
485
:
夕凪
:2009/04/11(土) 22:46:10
全国青線地区めぐり (群馬県)
●群馬県
伊香保のやうに赤線と青線がコンガラガッている土地も
全国的にはめずらしい状況です。
青線の店は飲み屋ですが、玉突、ダルマ倒し、射的場、といった店に
若い口紅の濃い女が2、3人どこの店にもいますが、
彼女たちは全部青線美人ですから鉄砲は的をハズれても、
女の的は絶対金的を得られます。
「一寸遊び」は50分でして4、5百円。
話がきまると「どうぞ」と案内されて
横の入口から部屋の布団に入るといふ方法です。
前橋、高崎の都会よりはむしろ、藤岡、真庭、磯部の奥地や、
桐生、足利、沼田、渋川の飲食店兼私娼の方が盛んでありまして、
最近、水上温泉も草津をまねて青線売淫女史が活躍しはじめました。
1954年の雑誌より(同じ雑誌です。)
486
:
k_taii
:2009/04/12(日) 08:03:53
夕凪さんありがとう
その雑誌によれば旧紺屋町に指定地があったみたいですね。
ネットでは花街だったと書かれていましたが、赤線があった
とはなかなか書けないですものね。旧紺屋町にはずいぶん
歩きましたが、2階の窓が風俗店らしい建物が1軒だけ
ありました。高崎の赤線はかっては繁華街のメインストリート
からすこし入ったところが迷路のようになっていて、
玉の井みたいでした。建物は1軒の旅館(?)だけ当時の
建物みたいで、ほかにはそれらしい建物は残っていません
でした。ただすこし離れたところに赤線か青線様式の建物が
残る一画がありそちらのほうが雰囲気があります。
大型の料理屋を中心として3−4軒ありました。
487
:
夕凪
:2009/04/12(日) 21:32:27
こんなんありました 『 大阪春秋 』
● 大阪春秋(第134号) 特集 堀江 (1,050円)
??<内容抜粋>
??・木の花踊 ― 新史料に見る 堀江の春の伝統行事 ―
??・なつかしの四ツ橋・電気科学館
??・大阪時事新報に見る 堀江六人斬り
そして付録に『 堀江 セン前・住宅地図 』が付いてます。
当然アソコもバッチリです!
ttp://www.shimpu.co.jp/osakashunju/
○こんなイベントの紹介記事もありました。
昭和12年のモダン都市へ 〜 観光映画「大大阪観光」の世界 〜
ttp://www.museum.osaka-u.ac.jp/pdf/pamph/2009/2009-special-04.pdf
ttp://www.museum.osaka-u.ac.jp/jp/event_content/special-2009/special-2009.html
※また同誌の第130号の特集は『今里界隈』こちらもアソコが ・・・・
??・雪洞とハングルのある風景 ― 今里新地 ― 加藤政洋
488
:
T-レッド
:2009/04/12(日) 22:01:58
アソコも・・・!?
是非見てみたいものです。
電気科学館のプラネタリウムの屋根は、スベリ台がわりに遊べたらしいですよ。
489
:
楽天地
:2009/04/15(水) 21:42:16
三河湾国定公園
「西浦温泉おどり」
お湯のナァお湯の西浦
日本一よヨイトヨイトナ
三河でべその名が高い(ソレ)
ワクワクワクワクお湯がワク(ソレ)
ハ胸もワクワク
チャチャチャとおいでよ
「西浦温泉音頭」
ハアー
海の西浦ナアサテサテ
海の西浦彼の娘か招
夢の湯の街 潮の町サテ
寄らんせ来らんせ参らんせ
夢の西浦お湯の街
温泉旅館の割り箸入れ?に載っていました。
フロントで訊いてみたところ、「多分50年くらい前の歌じゃないかなあ
芸者さんも20年くらいまえにいなくなりましてねえ・・・。バブル時代
までは賑やかでねえ・・・。」ということでした。
490
:
夕凪
:2009/04/20(月) 01:02:00
4.29 春の福原オフ会 協賛
●兵庫の集娼地区(再掲)
1.赤線
01.福原(神戸市) ・・・・・・・・・・・・ 汚名挽回に総力結集
02.二葉新地(神戸市)
03.戸田町(西宮市) ・・・・・・・・・・ 転廃業後はきわめて平穏
04.八上新地(篠山町)
05.明石(明石市) ・・・・・・・・・・・・ 県下の転廃業第一号
06.高砂(高砂市)
07.梅ヶ枝(姫路市)
08.飾磨湛保(姫路市)
09.相生川尻(相生市)
10.洲本(洲本市)
2.青線
01.春日野新地(神戸市) ・・・・・・ 全面施行直前まで営業する
02.初島新地(尼崎市)
03.神崎新地(尼崎市)
04.伊丹新地(伊丹市) ・・・・・・・・ 偽装売春の世評もある
05.関根新地(加古川市)
06.夢前新地(姫路市) ・・・・・・・・ 今後の動向を強く注視
07.城崎新地(城崎町) ・・・・・・・・ 逆もどりしやすい観光地
1959年の資料より
--------------------------------------------------------------
●兵庫縣連合會(再掲)
☆01.伊丹新地特飲料理業組合
02.西宮料理席貸組合
☆03.加古川新地料理席貸組合
04.高砂席貸業組合
05.福原三業協同組合
06.福原新地会
07.二葉新地料理席貸業組合
08.明石料理屋席貸組合
09.相生席貸組合
10.篠山席貸業組合
☆11.城崎新地組合
12.飾磨席貸業組合
13.姫路席貸組合
14.洲本料理席貸業組合
???????? 1957年の年賀広告より
491
:
夕凪
:2009/04/27(月) 01:14:21
兵庫県下の売春業者数 (1946年)
●兵庫県下における公娼制度廃止時(1946年1月現在)の売春関係者
区分−貸座敷業者数−娼妓数の順
二葉新地 − 27 − 135
丸 山 −??4 −??38
姫 路 − 10 −??73
明 石 − 14 − 122
高 砂 −??4 −??32
飾 磨 − 10 −??74
網 干 −??2 −?? 8
洲 本 − 10 −??62
篠 山 −??8 −??37
―――――――――――――
計 − 89 − 581
???????????????????? ????1975年発行の資料より
492
:
夕凪
:2009/05/06(水) 02:31:16
SANPO 下町通信 (再掲)
? 4.29 福原OFF会記念
※今でも高山文庫(大阪市北区)さん等で、かなりのバックナンバーが購入できます。
01.駄菓子屋(1993.2.15)、????????????????????????02.西成あたり(1993.5.20)、
03.西成あたり その?(1993.8.15)、?????????????? 04.夏祭り(1993.11.1)、
05.新開地(1994.3.1)、???????? ??????????????06.特集無し(1994.6.25)、
07.京都(1994.10.10)、?????????????????????????? 08.震災特別号(1995.4.25)、
09.震災特別号?(1995.8.15)、????????????????????10.記念特別号(1995.12.1)、
11.特集無し(1996.3.10)、????????????????????????12.東京(1996.6.15)、
13.大阪生野区(1996.10.11)、???????????????????? 14.神戸立ち呑みあれこれ(1997.2.10)、
15.大阪福島区(1997.7.1)、?????????????????????? 16.A少年とその周辺(1997.11.25)、
17.奈良(1998.5.1)、???????????????????????????? 18.尼崎(1998.9.25)、
19.気になる市場(1999.2.5)、
20.阪神西大阪線、気になる市場その二、元町海岸通り界隈その一(1996.6.28)、
21.大阪九条、気になる市場その三(1999.11.10)、?? 22.大正区(2000.5.1)、
23.十三(2000.10.1)、 ????24.神戸高架下(2001.4.1)、
25.大衆食堂(2001.9.1)、???????????????????????? 26.大衆喫茶(2002.1.20)、
27.新開地と西・東出町(2002.7.1)、????????????????28.「二葉新地」とその界隈(2002.12.25)、
29.和田岬界隈(2003.4.4)、?????????????????????? 30.神戸平野界隈(2003.7.13)、
31.大阪七墓(2003.11.25)、?????????????????????? 32.竹島昌威知氏に聞く(2004.6.15)、
33.竹島昌威知氏に聞く?、軍艦アパート(2004.11.20)、
34.神戸・水道筋とその周辺(2005.6.25)、?????????? 35.新・大阪絵図(2005.12.25)、
36.神戸北野界隈/立ち飲み散歩(神戸)(2006.5.20)、 37.動物園前界隈(2007.5.20)、
※現在40号まで出てるようです。(2009.05.06)別巻として追悼特集等があります。
493
:
k_taii
:2009/06/21(日) 22:39:50
茨城の赤線地区
昭和32年2月の営業地区と人員の記録を見つけました。(1月に離職者を含む)
水戸 45
土浦 52
日立 29
古河 46
大洗 9
勝田 8
那珂湊 16
常陸太田 5
高萩 6
北茨城 15
下館 24
笠間 8
真壁 12
水海道 5
494
:
k_taii
:2009/06/21(日) 22:47:09
水戸 赤線跡
宮町の転業旅館、営業していました。1泊3000円だそうです。
関東近県で営業中は珍しいです。ぜひ建て替え前に御利用を。
495
:
夕凪
:2009/07/14(火) 23:11:59
大阪の夏祭と花街
明治以後、神社仏閣と遊び場との関係も、
もう従来のような連携は無くなってしまった。
新政府の新しい取締方針の下に集められた遊廓には宣伝方法がなかった。
それは現在にまでも持ち越された業者の悩みで、彼等は新聞雑誌など
新しい文化機関によって正面から広告することも許されず、
軒灯にまで制限を受けている有様だ。
そこで彼等は昔の関係を辿って、祭礼に奉仕する形式で宣伝する方法を案出した。
それが現今も踏襲されて、祭礼と花街の関係を密接にしているのである。
具体的な例証を挙げると、現在夏祭りに奉仕する遊廓とその祭りは
△愛染祭り ・・・・・・・・・・ 新町廓茨木屋の寶恵駕(1935年から)
△生國魂神社 ・・・・・・・・ 今里新地から八乙女(1936年から)
△八阪神社 ・・・・・・・・・・ 堀江廓の八乙女(1929年から)
????南地五花街八乙女(1936年から)
△天神祭 ・・・・・・・・・・・・ 北陽、新町、堀江、南地五花街から八乙女
△住吉祭 ・・・・・・・・・・・・ 住吉新地から八乙女
などである。この外に天神祭に松島遊廓から稚児を出しているが、
同廓は居稼娼妓専門の廓であり、娼妓は外出が許されていなかったために
廓の娘達を稚児に出したのだろうが、うまい思いつきだと思はされる。
上田長太郎の著作(1937年)より
496
:
夕凪
:2009/08/22(土) 01:59:27
加藤政洋さんの近著
● 敗戦と赤線―国策売春の時代 光文社(2009/08/20 出版)¥798 (税込)
第1章 赤線の誕生
第2章 カフェー街としての赤線
第3章 特飲街成立のミッシングリンク―東京の事例から
第4章 駅に近接する個室付浴場街―金津園(岐阜市)の来し方をたどって
第5章 赤線ではなく青線、それが問題だ―国際園(岐阜市)の移転問題
第6章 京花街の周辺文化―雇仲居と席貸(戦後編)
第7章 戦後那覇の都市建設と「歓楽街」の設置問題
● 京の花街ものがたり 角川学芸出版(2009/08/10 出版)¥1,575 (税込)
芸妓や舞妓をまねいて享楽する、京の花街特有の「お茶屋あそび」。
近現代の京都では、お茶屋の集まる街区を「花街」と呼びならわしてきた。
江戸時代からの京の花街の姿を、史実と伝承から丁寧にたどり、
??お茶屋を中心とした空間 レンタル業の成立と機能をさぐる。
京都に誕生した享楽空間の実態に迫る、刺激的な一冊。
第1章 遊所の盛衰
第2章 茶屋の遊楽
第3章 席貸の系譜学
第4章 祇園町と山猫
第5章 京花街の近代
第6章 京花街の周辺文化―雇仲居と席貸(戦前編)
第7章 消えた遊所
???????????? 以上
497
:
夕凪
:2009/08/31(月) 01:27:06
東雲楼 と 第二日本亭 (熊本:二本木遊廓 )
● 東雲楼
同楼は廓中第一流の大籬(オオマガキ)にして其名全国に聞ゆ。
中○茂七氏の経営する所 構内広く数棟の巨屋軒を並べて建ち、
其中に入れば恰も(アタカモ)八幡藪の如く出路に迷ふ。
宏大にして清麗なる庭園を有す。
元は東雲楼と日本亭に分かれ、楼は割烹店(リョウリヤ)を営み、
亭は娼楼なりしが、後ち料理業を廃し両店を合併して娼楼のみと爲せり。
有名なるストライキ節の本場なり。
楼主は此遊廓の総取締にして亦相場界の雄将なり
別に劇場東雲座および第二日本亭といへる中店を有し、
義太夫を善くし東雲太夫と称せらる。
楼内に芸妓三名及び見習数名あり、遊客の興を助けしむ、
トンボ、豆といふ他の一人は名を知らず、唯東京美人といふ。
● 第二日本亭
第二日本亭は東雲楼の支店にして同楼の筋向ふに在り、
○嶋茂七氏之を支配す、
一意親切を旨とし、毫も暴利を貪らざるを以て漸次盛況を招きつゝあり。
????????????1909年発行の熊本のプレイガイドより
※マイミ○さん協賛です。
ttp://mainichi.jp/select/wadai/news/20090830k0000e040003000c.html
↑ 明日から解体が始まる“旧日本亭”とは、上記の資料で言う
“第二日本亭”の事なんでしょうか?
それとも「東雲楼に合併された」“日本亭”の方なんでしょうか?
※旧日本亭に関してはこちらのHPが素晴らしいです。
ttp://mn89masa.blog37.fc2.com/blog-entry-1135.html
498
:
夕凪
:2009/09/01(火) 07:48:59
熊本の歓楽街 1969
●高田原と二本木
火の国熊本は、むかし勇猛をもってならした九州師団の本拠。
九州男子が血潮の湧くままに暴れまわったところだけに、
いまも名残をとどめる。
旧赤線は高田原(コウダバル)と二本木。
いずれも転業はしたというものの、いささかバスに乗り遅れた感じで、
ちょいちょい警察の目が光るが、光れば光るほど潜行している模様。
ひところは女が堂々と店のまえに出て、そでをひいていた。
盛り場の中心は下通り一帯。約600軒のバー、キャバレーがひしめく。
料金は福岡にくらべるとやや安い。ここにもガイドクラブがあるが、
土地っ子が敬して遠ざけていることは福岡と同様である。
???????????? ???? 1969年発行の熊本のプレイガイドより
●↓こちらでチョット楽しめます。
ttp://bp.kumanichi.com/photo/archives/list?words=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9C%A8
499
:
夕凪
:2009/09/08(火) 07:49:40
二本木転業対策本部
●旅館か温泉郷か ― 昔の夢すてぬ業者
まず54軒中34軒が旅館営業を軒に申請したが、認められたのは昨夏から
休業中の1軒だけ。他は「現状のままでは規定に合わない」と許可されなかった。
つまり裏口営業のおそれ十分と、当局がみてとったわけだ。
旅館がダメなら「ストライキ発祥の地を」をキャッチフレーズに、
東海道53次を模した安土桃山式の名園東雲楼を中心にした公園化、
また鹿児島大学に依存して泉源を調査、試掘しようじゃないかという
温泉旅館の構想も真剣に考えられているようだ。
しかしいずれも実現までにはまだまだ。
政治性を発揮して、あわよくば転業資金の一部を引出すのが狙いの
集団転業が出鼻をくじかれてからは、これに見切りをつけたのか、
まとまった動きはなく、資金に余裕のある数軒の業者が、
いまの楼はそのまま、他に新しく店をもとめて料理屋、パチンコ屋など、
各戸バラバラで自活の道を開いているが、大半は資金繰りがつかず、
途方に暮れているというのが実情のようだ。
寮にするなら格安で貸しますがと、ある民間会社に売込んだまでは
よかったものの「環境が・・・・」と態よく断られた業者もあった。
だだっ広い玄関、細切れの部屋−旅館もダメ!!
というなら、バカデッカイ楼は一体何に使えるだろう。
貸間、下宿でなければ、最後は軒並み“売家”“売家”のベタ張り。
これが多くの女性の身をひさいだ“くるわ二本木”に
背負わされた宿命かもしれない。
1958年の雑誌より
500
:
夕凪
:2009/09/14(月) 22:25:41
『 戦争と買春 赤線・黒線はなぜ生まれたか 』
●↑もともとは、こんなタイトルだったらしい ・・・・・
加藤政洋著『 敗戦と赤線−国策売春の時代 』光文社新書
東京タワーの建設が進む昭和33(1958)年、「売春防止法」が施行された。
これによって、全国789箇所におよぶ「赤線」の灯は消えることになった。
今でもある種のノスタルジーをもって語られる「赤線」だが、
そもそもこれはどういう経緯で成立した空間なのか?
そこには、「あの戦争」が大きな影を落としていた。
膨大な資料からその謎を解き明かす。
(株)光文社 書籍販売部
ttp://kobunsha2.com/sp/list/2009/08/shinsho0908.pdf
501
:
夕凪
:2009/09/23(水) 11:34:52
遊廓別娼妓数調査より
●昭和11年中遊廓別娼妓現在数に対する在院人員比較表
遊廓名 − 娼妓1日平均現在数 − 在院患者1日平均数 − 百分率
松 島 遊 廓??−??3,382??−??313.0 −??9.4 %
飛 田 遊 廓??−??3,127??−??233.0 −??7.7 %
五花街 遊廓??−????845??−?? 54.0 −??6.5 %
栄 橋 遊 廓??−????562??−?? 46.0 −??8.3 %
龍 神 遊 廓??−??????9??−????0.5 −??5.6 %
乳 守 遊 廓??−??????1??−????0.1 − 10.0 %
新 町 遊 廓??−????538??−?? 32.0 −??6.0 %
堀 江 遊 廓??−???? 20??−????1.5 −??6.3 %
枚 方 遊 廓??−????180??−????8.6 −??4.8 %
貝 塚 遊 廓??−????297??−?? 19.0 −??6.2 %
????計?????? −??8,961??−??707.0 −??7.9 %
※本表は昭和11年中に於ける娼妓1日平均現在数と
在院患者1日平均数との比較を
??????各遊廓別に調査したるものなり。
????※在院患者1日平均数の端数は切捨てしたようです(?)
1937年の大阪府立難波(ナニハ)病院の資料より
※“芸妓居住指定地”の、今里、住吉、港が載ってへんのはわかるけど
池田遊廓はなんで無いん?
そして河内長野の扱いはどうなってるん !?
502
:
鷹目
:2009/09/23(水) 22:45:03
無題
河内長野は芸妓じゃないですかね?
遅ればせながら、先月州崎、深川、根岸行ってきました。
州崎はまだ例の物件は健在でした。屋号が残っているのは、外壁を塗りなおし、某議員さんの事務所になっていました。
深川は、名残として飲食店がありましたが、遊里としては特に見るべき点はありません。自分的には、当時の得意先の裏手が深川だったと判明したことにびっくり!
根岸は4〜5軒、それなりの雰囲気で残っていました。ここに隣接する通りの名は、柳通り。やっぱり当時抜け道で使っていた道でした。
当時の私は、意図せぬうちにあっちこっちの遊里を通っていました。改めて驚きましたね。多分これ以外にも判明していくと思いますww。
余談ながら、某所の一軒に「写真、取材お断り」と門に看板を下げておりました。カメラ付携帯電話の性能向上、ブログの普及により、無茶な撮影や写真のアップ(屋号等消さずアップ)をしている方が増えているようです。いわばにわか遊廓マニアにその傾向が強いようです。前にセンセと話した時もその話題が出ましたし、楽園でもそういう話を聞きました。
せめてここを覗いている人たちだけは、それなりに節度ある行動をしてくださいね。
ナニを言っている!同類じゃないかと言う人もいるかもしれませんが、当会は某楽園他、現役旧地で信用を得ていますので同じではございません。あしからず!
503
:
夕凪
:2009/10/04(日) 23:09:31
これってどこやろ?− 売春関係地域数
●特飲街(戦前から)−特飲街(戦後)−三業地−駐留軍基地−自衛隊付近−計
大 阪 府 : 10−03−07−4−0 計24
京 都 府 : 12−00−04−5−0 計21
兵 庫 県 : 10−11−13−?−? 計34
和歌山県 : 09−00−10−0−0 計19
滋 賀 県 : 07−00−00−0−0 計07
※○付き数字は、他と重複しており計に含まず。
1955年の労働省の資料より
どうせなら、ちゃんと書いといてくれたらええのに・・・・・
504
:
夕凪
:2009/10/05(月) 00:26:27
大阪市の売春地区
●赤線地区 飛田:待合 兼 カフェー
松島:待合
今里:待合、カフェー(置屋)、芸妓扱所(置屋)
住吉:待合
港 :待合
●青線地区 飛田新地周辺地区(西成区東□町、松□町、△王町)・・・・ 旅館及び娼家
大阪駅周辺地区(阪神ビル裏一帯)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋、飲食店
大淀地区(天神橋筋○丁目、吉△町、長○中通1〜2丁目) 娼家
●散在している売春地区
西 成 署(西成区▲王町1〜3丁目附近、東□町)・・・ 旅館、下宿、娼家
都 島 署(省線京橋駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館
南 署(南区高○町、日○橋1丁目附近)・・・・・・・・ 旅館、娼家(ハイヤー受)
(御堂筋西側)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
港 署(港地区:港区△條通)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館、小料理屋
(八幡○地区)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
住 吉 署(加賀○町1丁目)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 飲食店
(加賀○町2丁目)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
(村○町八地)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
(浜■町443)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
天王寺署(天王寺公園、上六附近)・・・・・旅館、やとなくらぶ、カフェー、娼家
阿倍野署(旭○一帯、斎場前一帯)・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館、娼家
旭 署(京阪千○駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小料理屋
生 野 署(省線寺□町駅附近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 娼家
曽根崎署(吉▲町附近一帯、○垣町附近一帯)・・・・・ 娼家
浪 速 署(下○町、日本○方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
(新川○町方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
(大□町26号線方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
(新世界方面)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 旅館(ハイヤー受)
1957年の大阪市の資料より
505
:
夕凪
:2009/10/13(火) 02:29:55
女性デジタルアーカイブシステム(真面目なサイトです。)
●国立女性教育会館 女性デジタルアーカイブシステム
こちらのサイトから、日本キリスト教婦人矯風会資料(売春防止法関係)等
売春防止法公布当時の資料を閲覧する事ができます。
ttp://w-archive.nwec.jp/main.html
506
:
夕凪
:2009/10/24(土) 13:26:19
滝井特飲街の誕生 (0)
●滝井共栄新地(再掲)
参勤交代制度のあった江戸時代の頃、京街道の要所で、
船着場としても有名な宿場であったが、
ここでも例外なく男の集るところに飯盛女がいた。
しかし時代の進展に伴い宿場の衰微と共に消滅した。
大正5年頃第一次欧州戦争の好景気を背に再度台頭し、
昭和27年末頃より急に発展を来し、当時許可を得ることが至難のため、
取りあえず建物のみを急造し然る後風俗営業の許可申請をすると言う
手段を講じたのである。
業者は大阪の松島、飛田新地にならない、
セット制に切替え営業を続けているが、
その移行状況は次のとおりである。
料理店は何れも旧飛田、松島新地の業態を模倣したセット方式が多く
1セット600円乃至700円程度のものが多い。
各店とも1,2人から7,8人位の女給を抱えており、
全体で30数人程度が現に稼動している。
女給に対しては各店の実情によって異なるが、
大体100円乃至300円の固定給1セット売上げに対して
100円乃至200円程度の歩合給を加えている。
女給の年令は、25,6才位が一番多く一部を除いて殆ど住込みである。
元の青線当時ここで働いていた女子も現に1、2名稼動している。
売春もひそかに行われているやの風評もあり、想像もされるが、
業者はあくまでも全然関知しない体裁をとっているので、
警察側においても検挙は困難のようである。
1961年の資料より
507
:
夕凪
:2009/10/24(土) 19:00:12
滝井特飲街の誕生 ?
●守口市の特飲街問題
守口市で大きな社会問題となったのは、
1952年10月2日守口市滝井■町で、3名が待合い営業を申請し、
規制する法的根拠がないことから、
公安委員会が許可したことに始まった。
同年10月20日には、近くにあった滝井小学校の校長・PTAが
許可取り消し申請を出し、その結果3軒のうち2件が廃業届を出した。
同年12月には市民による「守口市特飲街設置反対」の請願書・陳情書が
市議会議長宛に提出され、議長は臨時市議会の決定に基づき
公安委員会に善処方を要望した。
しかしながら、翌年には問題となった地区周辺に
同種の店舗が旅館などの名目で続々と建てられた。
1953年5月21日の読売新聞夕刊によると
同種の営業をしている店は、
待合い営業(許可済み)1軒、旅館営業(未許可)3軒、無許可8軒となっており、
ダンスホールを含めて8軒が建設中であり、
さらに6、7軒が増えそうだと記述している。
2000年の資料より
508
:
夕凪
:2009/10/25(日) 10:13:17
滝井特飲街の誕生 ?
●公安委員長は業者の見方 ・・・・・・
【公安委員長】
あの広い所に、待合は差支えないと思われ許可しました。
そしたら、その後は旅館として申請が出ております。
しかし、なんと言っても、できた以上、
我々は業者の生きる途を考えねばなりません。
そういう時は、相手が警察の取締の対象になり得る業種なら
市民は安心してもらえるのではないか、
と考えたから、そのように計らいました。
先に15軒の建物ができてしまったのですから、
これをいかにいかに生かすべきかを考えるべきだと思います。
【財総副委員長】
最初待合を申請したときなぜ料理屋として許可しなかったのですか。
【公安委員長】
最初2軒の待合申請が出てきた時は、
あそこに特飲街ができるとは察知できなかったのです。
世情に疎いと言われるかもしれませんが、
当時としては将来の想像は、許されませんでした。
増えた時は許可できないと考えておりましたが
後は旅館の申請が出ましたので・・・・
【財総副委員長】
それは許可せぬ方針だと、相手が考えたからです。
現在15軒の料理屋、飲食店を許可するなら、
なぜ初めに許可しないかと言う事になります。
これは行政の一貫性がないと思います。
以上、1953年の守口市議会会議録の抜粋
(常任財政総務、警察消防合同委員会)
509
:
夕凪
:2009/10/25(日) 19:05:30
滝井特飲街の誕生 ?
こうした状況から、守口市警察と大阪府衛生予防課は
1953年6月8日に一斉手入れし、風俗営業取締法違反容疑で12業者を、
性病予防法で接客婦48名を検挙した。
同年6月12日の市議会は、市公安委員会に対する
前年12月の要望書への対応について説明を求めるとともに、
特別調査委員会を設置した。
また市議会は当時の市議会議長が、
特飲街の建築設計に関与した疑いがあるとして追及し、
同年7月6日の市議会議長の辞任にまで発展している。
さらに市議会は、同年7月7日に「売春勧誘行為等取締条例」を
提案し、9月22日に可決した。
公安委員会は翌1954年6月9日に紅屋町全域および
滝井■町3丁目全域および滝井■町2丁目の内31番地〜39番地を
風俗営業禁止区域にした。
2000年の資料より
510
:
夕凪
:2009/10/25(日) 19:31:06
滝井特飲街の誕生 ?
●風俗営業を営むことのできない 区域とその業種
― 市公安委員会で指定 ―
風俗営業取締法による待合、小料理屋店、カフェー、バー、
キャバレー、ダンスホール、ダンス教授所等は、
守口市公安委員会の指定によって6月9日から
次の区域では営業できないことになりました。
1.紅◆町全域
2.滝井■町3丁目全域
3.滝井■町2丁目の内31番地から39番地まで
この区域内でも既に許可を受けて営業されているものは
この指定から除かれます。
1954年の資料より
※上記資料に記載されている風俗営業禁止区域の
説明地図を見ると、現在の新地は禁止区域外の
ように見えます。
511
:
夕凪
:2009/10/25(日) 20:10:44
1966年頃の五條楽園 (再掲)
かって“七条新地”の名で馴染まれた廓。
明治以来というから京都では新興の口だろう。
従来は祇園甲部と変わらぬお茶屋街であった、
それが自然に純お茶屋が祇園の方に移動、自然娼妓が隆盛となった。
昭和14、5年の不況旋風に、芸妓は金がかかる、
てっとり早く金にできるのは肉体を売る方法という事で
全面的に娼妓一本 ―― つまり赤線になってしまった。
全盛時代には、やかた185軒、娼妓800人を抱えたというから大変なものである。
売防法以来はもっぱら旅館に転向したが、
女抜きではさっぱり客も集まらず、お茶屋に生まれ変わった。
お茶屋84軒、バー、スタンドなど19軒。芸妓は100人もいるという。
芸妓は名前だけ芸妓とつけているのでなく、
6ヵ月間はお座敷にも出さず、みっちり芸を仕込んでいる。
芸といっても長唄、三味線の類では、いまの若い人たちにアッピールしないとあって、
もっぱらギター、アコーデン、歌謡曲などのレッスンが主。
芸妓たちはすべて通い。ここがミソでお座敷で話し合って勤めの終わった11時頃から
2人っきりでどこへ行こうと、それは束縛するすべもない。
「お茶屋だってレンアイできますよ。あそこは十席(5千円)が相場。
座布団を丸めて枕に、裾をめくるだけでやるのは飛田や松島と変わりませんネ。」
という声もあるが、彼女らも生身の女性だから、
馴染みのいい男には浮気もするということだろうか。
1966年の盛り場案内より
512
:
夕凪
:2009/10/25(日) 22:02:41
『 色街をゆく 』 ― 全国色街今昔探訪記 ―
● 橋本玉泉 著 『 色街をゆく 』( 2009/10/21、彩図社 )¥620 (税込)
歓楽街の「いま」「むかし」、ちょっと覗いてみませんか?
[内容]
北は札幌・ススキノから、南は沖縄・真栄原まで―。
全国津々浦々の旧遊郭・赤線街・青線街などを歩き、
各地の歴史から現在の様子までを綴った、色街今昔探訪記。
[目次]
・吉原(東京都)徳川以来400年の歴史と伝統が今も息づく日本最大の遊里
・川崎(神奈川県)かつての「工場の街」は高層ビルとパステルカラーの
ショッピングモールに飾られる
・名古屋(愛知県)「日本一の敷地面積の遊郭」「風俗店集中のヘルスビル」など
話題に欠かない土地
・京都(京都府)2日がかりでも見飽きない古都に残る歓楽街のさまざまな風景
・宇都宮(栃木県)かつての赤線は住宅街へと変わり繁華街には新興の風俗も進出
・黄金町(神奈川県)200店以上の店が並んだ「ガード下」も
その50余年の歴史に終止符か
・ススキノ(北海道)開拓者たちの憩いの場は観光客が集うエリア
・池袋(東京都)裏表あらゆる風俗が集結した都内有数の広域歓楽ゾーン
・飛田(大阪府)現在も灯り続ける関西最大の「ちょんの間」エリアの灯
・土浦(茨城県)川沿いの歓楽街は時代とともに変貌を続ける
・西川口(埼玉県)一時は渋谷や池袋なども凌駕した歓楽街の50年余りに及ぶ興亡
・高松(香川県)海を臨むソープ街と日本一のアーケード街に散在する歓楽スポット
・福原(兵庫県)震災から立ち直った歓楽街はその片隅に旧遊郭の名残もとどめる
・船橋(千葉県)住宅街に現在も残るかつての遊郭を偲ばせる大店の跡
・真栄原(沖縄県)内地とはまた違った明るさを放つ歓楽スポットは南国ならではの香りか
・甲府(山梨県)わずかな痕跡を残すのみの遊郭跡と商店街の奥に潜む風俗店たち
・木辻・生駒(奈良県)閑静な住宅街に残る日本最古の遊郭跡と参道に並ぶ歓楽旅館の群れ
・安浦(神奈川県)かつては地元漁師たちが通った色街跡にひっそりとたたずむ街路灯の残骸
[著者略歴]
1963年横浜市出身。トラック運転手や学習塾講師、コンビニ店長、経営実務書編集、
販促ツールの営業マン、フリーペーパー記者、夜勤作業員など職を転々とする。
91年からフリーライター。
事件や世相などに関するルポのほか、歴史・文化、民俗・庶民生活、
性風俗などについての記述も多い。
最近は『紙の爆弾』『リアルスポーツ』などの紙媒体のほか、
インターネットサイト『メンズサイゾー』で性に関する習俗、
話題、事件についても執筆。
※著者のブログです。 ttp://ameblo.jp/tg016450/entry-10366980378.html#cbox
513
:
夕凪
:2009/11/28(土) 15:05:58
新町で 3連発
? 12/4(金)〜 12/16(水) なつかしの昭和・新町展
??会場:大阪市立中央図書館(無料)
ttp://www.city.osaka.lg.jp/nishi/page/0000057385.html
???? ttp://hito-machi.org/ppt/2009/091121/chirashi.pdf
? 12/6(日)13:30 新町・町歩き:文学と歴史を訪ねて
集合:西区民センター (資料代&保険料 500円:先着40名)
申込先:西区民センター 06-6531-1400
?????????????????? ※できるだけ早く申し込んだ方が良いみたいです。
◆ 町歩きの途中、あの大阪屋(旧新町演舞場)で講演があります。
大阪屋の中に入る貴重なチャンスです!
講演1:新町と文学 ・・・・・・・・・・・ 織田草之助(オダサク倶楽部)
講演2:演舞場の変遷 ・・・・・・・・・ 北口明彦(大阪屋)
???? ※演舞場の貴重な写真を見れるようです。
? 12/13(日)13:30 新町:過去・現在・未来フォーラム
会場:大阪市立中央図書館(無料:当日先着 300人)
演題:a.花街の歴史、b.新町の戦前戦後
??????????????????????????c.新町と文学(講演者は?と異なります。)
d.御田植神事、e.新町ジオラマ
ttp://www.manabi.city.osaka.jp/Contents/lll/kouza/inview.asp?CONTENTNO=34795
514
:
夕凪
:2009/11/30(月) 21:27:00
新町 : 過去・現在・未来フォーラム
● 講演内容
華やかな新町の過去の歴史を掘り起こし、昭和時代の西六(サイロク:新町)を経て、
大阪大空襲による劇的な変化を検証し、新町の未来を考えます。
● 演題と講演者
a.開会挨拶・・・・・・・・・・・・・・・・吉原康文 (大阪市立中央図書館長)
b.花街の歴史・・・・・・・・・・・・・・人見佐知子(甲南大学・文学部)
c.新町の戦前戦後・・・・・・・・・・西平のぶ子(ふくこ美容室)
d.新町と文学・・・・・・・・・・・・・・高橋俊郎 (大阪市立図書館)
e.御田植神事・・・・・・・・・・・・・・小出英詞 (住吉大社・権禰宜)
f.新町ジオラマ・・・・・・・・・・・・北澤嘉浩 (宝塚造形芸術大学)・・・未来の新町
総合司会・・・・・・・・・・・・・・・・・・堀田暁生(大阪市市史編纂室所長)
● 日時:12月13日(日)13時30分〜16時(13時会場)
場所:大阪市立中央図書館 5F 大会議室
入場無料
なつかしの昭和・新町展・特別企画 その2
主催 特定非営利活動法人なにわ堀江1500
ゲットしたチラシより
(参考)ttp://www.rivervillage.net/west6/joho.htm
515
:
夕凪
:2009/12/16(水) 23:59:46
●性病予防自治会熊本縣連合会
?熊本市二本木組合 ?本渡特殊料理店組合 ?芦北郡湯浦町料理店組合
?八代市紺屋町特殊飲食店組合 ?牛深料理店組合 ?芦北郡桟敷町料理店組合
?八代市横手町特殊飲食店組合 ?北天草料理店組合 ?芦北郡日奈久特殊飲食店組合
?八代郡有佐組合 ?天草郡一町田料理店組合 ?芦北郡田浦村組合
?荒尾市特殊飲食店組合 ?玉名市貸席組合 ?下盆城郡松橋町組合
?人吉市特殊飲食店組合 ?山鹿市料理店組合 ?下盆城郡隈庄町組合
?水俣厚生会貸席組合 ?宇土郡三角町料理店組合 21.上盆城郡浜町組合
1954年度の資料より
※性病予防自治会熊本縣連合会の組合事務所 所在地は二本木町
※なんで高田原がないの !?
(参考)ttp://jdream2.jst.go.jp/jdream/action/JD71001Disp?APP=jdream&action=reflink&origin=JGLOBAL&versiono=1.0&lang-japanese&db=JSTPlus&doc=07A0409692&fulllink=no&md5=65865b1ca67343ad20c281b4b9f52ae0
516
:
夕凪
:2009/12/18(金) 00:00:53
●鹿児島席貸組合
?鹿児島貸席組合 ?海潟料理屋組合 ?鹿屋市木町料理屋組合
?鹿児島市組合 ?肝属郡内ノ浦組合 ?東隅料理屋組合
?出水料理屋組合 ?肝属郡高山町組合 ?垂水町料理屋組合
?川内市組合 ?南隅四ヶ村料理業組合 ?枕崎市組合
?財部町組合 ?岩川町組合 ?名瀬市組合
?末吉料理屋組合 ?加世田町料理屋組合
?串木野市組合 ?山川町料理店組合
1954年度の資料より
517
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:00:39
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●上柴遊廓(上馬場町)
揚屋の料理人と女郎とが情死したのを当時の作者によって小稲・半兵衛と美化され、
それが広告となって想い大津の柴屋町と謳はるるに到った履歴附きの遊廓で、
重なる茶屋は小島屋、大房、金繁で之についで大芳、富美久、北此、金君、などがある。
小島屋の構造は大阪城落城の当日元和元年5月7日に棟上をしたままのもので
大高源吾閑居の茶室が現存し、北此楼は所謂小稲半兵衛の情死した家である。
老妓としては、上方唄の巧い上田うた(52)、浄瑠璃は男優りの松室喜代助(56)、
長唄とチャリ舞で知られた若山榮吉(48)、踊の堪能な中村あい(42)があつて、
孰れも舞妓からの勤続者である。
名妓といえば年は若くとも谷口富子を推さねばならなぬ。
遊芸の師匠としては踊は藤間都壽、唄は長谷川はな、鳴物は田中忠次郎、
新曲技芸顧問池田百八である。
518
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:01:45
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●下柴遊廓(下馬場町)
此廓は明治20年(1887)に上柴から分離したもので喧嘩繁昌すること
江州十一遊廓中の随一なれど芸者なり楼主なり品位に欠く所があって
何となく成金の全盛を見るような心地がする。
茶屋としては、四層楼の島屋、之に次ぐものは夷屋、一富士楼で、
その他は芝居の書割を見るような家ばかりで、
芸者は首を看板にする若い芸者ばかりのうち、唯一人二見あい(52)という老妓があって、
何くれとなく世話をやいて居る。
遊芸の師匠としては踊は岡本きく、唄は磯田きく、鳴物は田中忠次郎、
此廓は稽古が八釜しいので追々腕が出来、上柴の連中と立列べる者もあるようになった。
519
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:03:59
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●眞町遊廓
明治初年には長等山麓の寂しい土地でチラホラある家の中に白首の鬼が棲み
順禮宿という名の下に遊里の形を造ったのがそもそもで、
次第に発達し今では上柴に次ぐ江州有数の遊廓となったのである。
大駒楼が飛放れて良く、次に千代の家、可祝楼、玉屋などあり。
其の他はお粗末なのも無いだけに立派なのもない。
芸者は40名以内で相当に芸もあり、老妓に、お人柄な木村八重(38)と、
喧ましやの服部小才(39)とがあって、重忠と岩永のように捌きが附く。
遊芸の師匠としては、踊は小谷はる、唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
此廓に歌舞会なるものが常設され時々月ざらいを演る。
520
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:05:14
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●甚七町遊廓(稲荷新地)
大津の東部菊ヶ浜を拓き稲荷神社の附近に遊廓を置いたので稲荷新地という。
24・5名の芸者は隣接せる料亭魚善楼のお蔭で活きて居るようなもので、
茶屋では川上音二郎が久しく食客になって居た俵屋を始めとし、
木村屋、魚友楼など可なり立派なのがある。
芸者は可もなく不可もなき雁首が揃い、
黒田美代吉(38)という老妓が牛耳を取り、
芸に堪能な大辰楼の梅子が若手を引立てて居る。
遊芸の師匠としては唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
踊は当時欠員で、芸者梅子が代理を勤め得意な篠塚派の手振を教えて居る。
521
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:06:29
想ひ大津の柴屋町 ? (再掲)
●花代と祝儀
花代は1本10銭で、1時間を5本とし、最初の1時間には送り込みと称して2本を附加する。
昼夜通し花は75本、之を細かに分けると、午前6時より同9時まで6本、
午前9時より正午まで6本、正午より前1時間を6本とし余は1時間4本の割で追うて行く。
茶屋の口銭は花1本に付2銭7厘、芸者の祝儀は客の意志次第で一定せず、
中には、知らぬ顔の半兵衛もある。
1919年の資料より
522
:
夕凪
:2009/12/20(日) 21:11:21
某所 お座敷遊び企画 協賛 : 入れずの6発 !!!!!!
●上馬場・下馬場の穴場(再掲)
国鉄大津駅から北西に約1?“三井の晩鐘”で知られる三井寺の麓あたりに、
細くゆるやかな坂道に沿って、バーや小料理屋がぎっしりと並んでいる。
ネオンこそ華やかだが、どこかしっとりとしているのは、
この場所が、もとの遊郭で格子のある家の形そのままで
飲食店営業をしているからであろう。
古い造りの建物に、横文字のスナックやクラブの看板があるのは、
奇異なものだが、しかし慣れてしまえば、
それもまた大津独特の風情と感じられて面白い。
この街には、もう一つ結構な趣向がある。
T江姉さんから聞いたのだが、
大津ではお座敷に上がらなくても、芸者が呼べるのである。
ホステスよりも安くつき、その場の“自由恋愛”も腕次第でOKというから、
まさしく男性天国。
1970年の男性週刊誌より
523
:
夕凪
:2009/12/29(火) 13:50:18
赤線はすでに復活している (その1)
●大阪周辺の旧赤線地帯は、めざましい活気を呈しているといってよい。
まずは大阪府警の資料によって、現在の状況をみよう。
△飛田新地 200軒 (女)??800名
△松島新地 160軒 ??640名
△堺 200軒 ??800名
――――――――
△尼崎初島 200軒 ??1,600名
△尼崎神埼 100軒 ??1,000名
このほか、今里新地に130軒。約400名の女性がいる。
生野区にある<今里新地>は、旧赤線というよりも青線で、
いわゆる三業地、一枚看板の芸者と、転び芸者の二枚看板にわかれ、
松島や飛田とは趣きを異にする。
1966年の月刊雑誌より
524
:
夕凪
:2009/12/29(火) 14:08:18
赤線はすでに復活している (その2)
●全盛時は、400軒以上の業者があり、女の数も3,000人を超えた
<飛田遊廓>も、現在では当時の勢威はない。
だが、旧赤線業者が、知恵をしぼって、
“アルバイト料亭”なる偽装売春システムによって、
売春防止法以後はいちはやく開業したことでも知られている。
ビール1本、おつまみ付きをワン・セットと称し、
これを3セットくらいとれば、
女性と一つの座敷で1時間ぐらい楽しめる・・・・・
という偽装売春だ。
業者としては、客が何セット注文しようが、
客と女が密室の中で恋愛におちいろうが、
まったくノー・タッチという方針。
ただし、追加のビールは、部屋に運ばないだけなのである。
女たちは、料亭の住み込み女中とか、
仲居という名目で働いている。
最近は不景気のため、3セット(3,600円)まで出せば、
確実に遊んでもらえるが、
むろん最初のワン・セット分は、業者の収入。
次のセットのうち6割は、つまり1,440円が女の収入となる。
業者としては、1本のビールを1,200円で売りつけ、
さらに女から4割を搾取している訳で、
かつての赤線よりも悪どい手口となっている。
もっとも逮捕されると、
「私は、女と客の<取り引き>には、タッチしまへん。
女に部屋を、1時間1,000円で貸してるだけだす・・・・」と
逃げる業者もいるという。
取締の厳しい昨今では、2セットぐらい注文したからと言って、
かならずしも女と寝られるわけではない。
<松島新地>も、同じような形態だが、
飛田とくらべて格が下がるだけに、
交渉もそのものズバリでいくという。
1966年の月刊雑誌より
525
:
夕凪
:2009/12/29(火) 14:22:59
赤線はすでに復活している (その3)
●しかし、大阪の遊び人は、飛田や松島ではなく、
県境の神崎川を越えた尼崎の初島や神崎に行く。
なぜなら、必ずセックスを満たしてもらえる、
という保証があるからだ。
つまり、アルバイト料亭に行き、財布をにらみながら、
女を口説くという、“技術”が、神崎や初島では不要なのである。
<初島>や<神崎>は、ただ一つ川を越えただけなのに、
それこそまったくの別天地で、完全に昔の赤線スタイル。
名目は小料理屋でも、働いている女は、自分の個室を持っている。
ただし、この個室はショート・タイム用である。
泊まり客だと、近くの旅館や、大阪十三あたりのホテルへ行く。
1966年の月刊雑誌より
526
:
夕凪
:2009/12/29(火) 14:56:46
赤線はすでに復活している (その4)
●ただ用心しなければならないのは、神崎である。
ここは20組ちかい暴力団が入っていて普通のタクシーを使わせない。
白タクばかりである。この白タクが、暴力団の資金源の一つになっており、
神崎と十三の間を往復して稼いでいるわけだ。
なぜ、尼崎の神崎と初島とが、このように公然と営業できるのか、
と言うと、○○氏が尼崎市長時代の、移転問題がからんでいるらしい。
かつての初島遊廓などは、尼崎市の中心にあり、
付近には、学校や民家が密集していた。
教育上も、環境上もよろしくおない・・・・というわけで、
○○市長が現在の県境の、へんぴな位置に移したのであった。
その点、大阪の飛田、松島とも、境遇がよく似ているわけだが、
支障のある場所から、支障のない地域に業者を集めた・・・・という裏事情もあり、
へんぴなため監視の目の行き届かないという点も重なって、
「取り締まりもあまり厳しくできない」ということらしい。
尼崎は天国だというので、客も流れ、また女たちも飛田あたりから、
尼崎へと移ってゆく。大阪の業者は、女を移動させまいととし、
一方、新しい女を集めるために、必然的に暴力団と結びついた。
1966年の月刊雑誌より
527
:
夕凪
:2010/01/04(月) 02:00:13
住吉新地 拾五周年紀念 大演藝會
若葉にそよぐすず風もいと心地よき時候となりました
尊台愈々御清福にあらせられ何よりと、お慶び申上げます。
扨(サ)て當住吉新地の発祥は、遠く二百有余年の昔に初り
住吉大社と最も由緒ある岸辺の茶店が、お茶屋となり
赤前垂れが「やとな」となり、藝妓と呼ばれて
茲に十五星霜、げに光陰は矢の如く
首を回せば創設以来藝界の消長興廃窮なりき間に立ちまして
極めて健全に、且つ極めて急激なる発展を
遂げてまいつた積りでありますが
未だ未だ他の新地に比べまして、
将来もつともつと、奮発もし、勉強もせなければならん点が
いくらもあると存じます。
此秋にあたりまして、
住吉新地は、西隣の元菖蒲園一帯の土地4万坪に、
新地の更生を計らねばならない事になりましたため、
茲に住吉新地創設15周年と、
更生の将来を祝福する意味に於て、
紀念大演藝会を開催いたしまして
皆様の住吉新地を、いやが上にも引伸したいと、
藝妓は勿論、當業者一同、
必死の努力をいたして居ります。
何卒熱誠なる住吉ファン各位の、
絶大なる御声援と御批判を、
希望して已まない次第で御座います
一言以て御挨拶と致します。
昭和11年5月
住吉新地同盟組合
528
:
鷹
:2010/01/06(水) 18:45:14
東京西部
遅くなりましたが、昨年11月に東京方面に赴いた時の簡単なレポをば。
・八王子花街
現役花街。何軒かは少しはなれて存在するが、比較的駅近くに料亭は集中。黒塀のそれなりの建物なれど、さほど古いと言う印象はもたず。こちらでも旅行会社(?)が、お座敷体験企画をやっているみたいです。
・旧田町遊廓
大きなお店が5軒前後健在。必見の価値あり。
・立川錦町
中心に飲み屋が数軒あり。それが往年の名残を留めるのみ。
・立川羽衣町
完全に住宅地化。ただ不自然に大きな道路、整然とした町割、アパートの多さでかつてそうであった感じるのみ。
・武蔵新田
残念ながら、書籍に掲載されていた建物全て壊滅。
東京都下全て廻った訳ではありませんが、吉原、鳩の町、玉の井、八王子ぐらいしかまとまって建物が現存する処がないと思われ・・・。
529
:
通りすがり
:2010/01/09(土) 12:42:35
鳩の街…
突然の書き込み失礼します。
鳩の街の印象的な黄緑色のタイルのお宅が火事で半壊状態になってしまったとか…
530
:
k_taii
:2010/01/11(月) 22:04:27
こんばんは
正月に連夜の夜をパラパラとめくっていたら、石巻の建物が目につき
連休に行ってきました。でも観光局に遊郭の存在を確かめ、役所に正確な場所
を聞き、建物が現存していることを確認してしまいました。(遠いので)
場所は駅から歩いて10分ぐらい。細い道を入るとそこが元遊郭。片側5軒ぶん
ぐらいでぜんぶで10軒ぐらいの規模だと思われました。残っていた建物は2軒。
1軒は1階をスナックにしていたようで、モルタルでよくみられるように改装され、
もう一軒はほぼ往時の面影を残しておりました。
531
:
えもん
:2010/01/14(木) 11:44:45
長野。
上諏訪遊郭
その場所だけ周りとは雰囲気の違う、隔離されたような場所。
残っているのは数件のみ。現在は民家となっているものもあるけれど
公園近くにある建物が、モルタルの洋風で一番雰囲気を残していました。
線路を越えたところは、かつての花街。現在も検番あり。
お茶屋さんも数軒残ってましたが、ほとんどがスナック街。
いりくんだ路地にある蕎麦屋さんに、料理店の鑑札あり。
下諏訪遊郭(湯田町)
細い坂道に2軒、雰囲気の残る建物。
1軒は廃屋。漆喰と格子の少し凝った建物。
中山道の宿場町に料理店の鑑札のある宿あり。
白狐神社に下諏訪料芸組合との明記あり。
532
:
夕凪
:2010/01/16(土) 07:35:52
東の吉原、西の柴屋町 (大津駅) 再掲
宿場町、商業の町で栄えると、夜の町花街もにぎわうことになる。
今も健在の柴屋町だ。
柴屋町は俗称、正しくは馬場町(現在は長○三丁目)といった。
いつごろ花街になったかはわからないが、大津城ができ、宿場町になり、
旅籠が並んだころからではないだろうか。
大津には柴屋町のほか、四の宮(京○三丁目)、真野(長○一丁目)、稲荷新地(松○二丁目)と
傾城遊女の町があったが、当時から柴屋町は別格だった。
西鶴は『日本永代蔵』の中で「昼間から三味線のバチの音が聞こえて・・・・・」と書き、
『好色一代男』では、色男世之介がやぼったい格好をしていたため
「格式高い柴屋町で遊ぶ身分ではない」と軽く見くびられるくだりがある。
一時は、お江戸の吉原と肩を並べるほどだった。
『色道大鏡』という粋書によると、延宝4年(1676)の揚代は、天神(または格子)と呼ばれる
ハイクラスな遊女で銀26匁。塩3俵が21匁だった時代、
今流に換算するとウン万円は軽いというところか。
また文化15年(1818)に揚屋仲間・茶屋仲間から出された定書では、
「傾城揚代 金2朱(1朱金16枚で小判1両)局女郎 銭464文」とある。
当時、1両で米が1石7、8斗。塩が1升で32文だったのだから、
柴屋町での遊びは、かなり高くついたといえる。
柴屋町にも花街情話が残っている。「小稲・半兵衛情死」だ。
柴屋町遊廓に富永屋という置屋があり、小稲という遊女がいた。
その小稲に坂本村(大津市坂本)の呉服屋の手代、半兵衛がぞっこんほれ込んで、
商用で大津に来ると通いつめていた。
柴屋町の遊び代は高く、手代の給金では後が続かない、
小稲会いたさに、借金に借金を重ね、ついには店の金まで手をつけた。
進退きわまって、小稲に窮状を訴えたが、10両盗めば打ち首になる世の中、
「私のような物に入れ揚げたばっかりに」と、小稲・半兵衛は心中して果てた ――― 。
柴屋町の名の起こりは、古くから薪売りが多く住んでいたからとか、
花街の女にたきつくす慕情を、火を焚く柴にたとえてとかいわれている。
まだ格子が残る古い家並みをみると、慕情のロマンを採りたくなる。
1981年の鉄道旅行案内より
533
:
夕凪
:2010/01/16(土) 07:54:19
大津 (再掲)
冬は鴨料理で雄琴温泉が、夏は浜大津を基点に湖岸各地の海水浴場が賑わう。
一泊することも多い訳で、そんな時にお色気を求めようとしても、
地方都市のことだけに、一現で穴を掘り当てるのは至難の業といえよう。
雄琴、石山両温泉とも何もないから、夜は浜大津へ出てこなければならない。
トルコ、ヌードスタジオ、ステッキなど見当たらないし、
ストリートガールも立ってはいないから普通のお愉しみコースは、
まず浜町か柴屋町のバーで飲むことから始まる。
前者は新興バー街でいともたやすく夜のデイトに応じるホステスがいるし、
柴屋町にしても旧赤線だから、堅い一方ではない。
店によっては飲食を抜きにして、ホステスに肉体サービスをさせるところもあるという。
芸者はそうした要求にこたえてくれまいから、宴会でまず親しくなって
夜の街へ誘い出そうというのなら、やとなといった方がいい新検芸妓だろう。
これらは、とりたてて看板もあげていないから、旅館の番頭と相談してみるべしだ。
1967年の夜のお遊びガイドより
534
:
夕凪
:2010/01/18(月) 00:51:02
近江國大津遊郭 馬場町
●色道大鏡(シキドウ オオカガミ)
大津の遊郭は、世に柴屋町といひならはし侍れど、馬場町なり。
柴屋町といへるは、遊郭の外下の一町をいふ。
柴屋町は、むかし、比良・小松わたりの柴を舩につみて、
爰(ココ)につけて売りたる所なれば、かくいへるなるへし。
抑(ソモソモ)江州大津は、帝城を去ること3里、
昔時、天智帝此所に宮づくりし給ひて、大津宮と申し奉りき。
台嶺巍ゝとそびへ、前には湖水洋ゝたり。
所謂大津八町は、都より吾妻におもむく最初の旅館にして、
人馬道路につどひ、往還こゝにしげし。
あやしの出女までも一ふり見えて、
恋のしるへなきにしもあらす。
新版色道大鏡刊行会編『新版色道大鏡』(2006年)
?? ※書名の読みは大阪市立図書館のHPによる
【おまけ】ttp://books.google.com/books?id=_a6ANgx9ho0C&dq=%E8%89%B2%E9%81%93%E5%A4%A7%E9%8F%A1&printsec=frontcover&source=bl&ots=KEU_me5KL6&sig=F2Mz41-rZ_7-H2dSO1rsNbSMQWU&hl=ja&ei=wFVUS4DkCY7q7AOA_7mjCg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CCIQ6AEwBQ#v=onepage&q=&f=false
※この本の解説に「色道即ち紳士道である。」とあった・・・・
535
:
夕凪
:2010/01/18(月) 01:30:07
大津柴屋町之事
●諸國 色里案内(貞享5年板、1688年)
いつはじまりたる共しらず古き色里
京極殿時代より 上下貳(ニ)町にさだまりぬ
北南よこ町 桶屋町と云に揚屋あり
北の入口今颪(イマオロシ)といひ 南の入口石橋町といへり
やうじや有
未刊文藝資料(1953年)
536
:
夕凪
:2010/01/18(月) 22:43:44
大津駅の沿革
大津駅が誕生したのは大正10年8月1日(1921年)。
現在の駅舎は昭和51年(1976年)に改築された。
初め東海道本線は、馬場駅(現在の膳所駅)から
大谷(大津市)−稲荷(京都市伏見)を経て、
京都駅に通じていたが、
逢坂山・東山トンネルが新しく開通したのを機に、
現在地に駅舎を新設し、大津駅舎とした。
1981年の鉄道旅行案内より
537
:
k_taii
:2010/03/19(金) 05:07:05
おはようございます
横須賀の安浦の元赤線で先日県警の摘発が行われたみたいです。
売春の場所を提供したということですが、TVの画面でチラっと
見えた建物が、1階部分がタイルに覆われた印象的な建物でした。
1階がスタンド、2階の部屋で営業がおこなわれたそうです。
1万円で女性は20代、30代だったそうです。
スタンド部分を是非見ておきたかったです。
538
:
夕凪
:2010/03/24(水) 07:48:36
新町に咲いた物語
こんなんありました。
●舞踊劇集団「遊輝座」公演
??― 新町に咲いた物語 ―
日 時 : 4月25日(日) 14:00
会 場 : ワッハ上方
【第一部】なつかしの新町
1.講 演 : 近代大阪と浪花踊 ・・・・・・・・ 水知悠之介
2.唄と三味線 : 新町音頭 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 和敬由三郎
3.藤間良輔師偲草 : 舞踊常盤津「寿」・・・・・ 藤間遊子
【第二部】吉田屋と夕霧
4.講?? ??演 : 夕霧と近松が生きた時代 ・・・ 水知悠之介
5.落語舞踊 :「新町廓今昔譚」 ・・・・・・・・・・ 桂 三象
6.創作舞踊劇 :「夢の夕霧」・・・・・・・・・・・・・・・ 藤間遊子ほか
※ちなみに入場料は4,000円です。
ttp://www.wahha.or.jp/5Fsin/next2.htm
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