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歴史掲示板

1管理人:2012/01/12(木) 17:24:57
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。

232管理人:2012/03/17(土) 17:33:46
Re: 指南魚
秦野北斗さんへのお返事です。

> つい先ほど、指南魚と偏磁で補正・・・、ひらめき、
>
> 魏志倭人伝の東西南北の測定に指南魚を使用していたら偏磁曲線の補正が必要なのでは。
>
> また、伊都国から奴国で数度のズレがある、これは、地域特有の磁気の偏りと思われる。
>
> 指南魚はいろいろ疑問とヒントを提供してくれます。まさに指南魚ですな。

なるほど、面白い視点だと思います、3世紀初頭の磁北は、東に少し傾いているはずです。

ともあれ、方位ラインにしろ、指南魚つまり方位磁針にしろ、会報ではすでに指摘しましたが、もう少しみなさんにとっても引用しやすいように、どこかでまとめて公表しないと、いつまでたってもその技法をつかって論を先に進めないでしょう。

昨年から今年にかけて、おかげさまで会報第3号の論証が不足していた部分も、だいぶ埋まってきたように感じます。とりあえず、その成果をまとめて春に第4号で記したいとは考えていますが、秦野さんやキシさんは、最近の成果をまとめて記事にして投稿してみませんか?

あるいは今回の対談形式のまま、記事にまとめてみるというのも面白そうです。最終的にはそれらもまとめて本にしたいですね。

ちょっとそんなことも考えはじめてます。

233秦野北斗:2012/03/17(土) 18:20:06
Re: 「110ではなく、106キロ」 間の 「108」 に 拘りました・・・
棘の紀氏さんへのお返事です。

ダブルペンタ構造(前方後円墳形)説を堺の地名に入れ確認したところ、結果はメタメタでした。

ダブルペンタ構造が前方後円墳に対応しるかは疑問である。秦野はダブルペンタ説は候補から外す。


> メートル法では赤道から北極までの距離を10000kmと定義したために、グラード度で緯度を表せば1グラード度がそのまま地表の100kmに対応している。したがって23.4度のところにある南回帰線(北回帰線)は26グラード度だから赤道から2600kmのところに位置しているし、<90−23.4=66.6>度の南極圏(北極圏)もまた、極から半径2600kmの円(正確には地球表面)の中にある地域のことだということもすぐ分かるのである。
>

234秦野北斗:2012/03/17(土) 19:35:26
Re: 指南魚
管理人さんへのお返事です。

了解。方位ライン、指南車、指南魚つまり方位磁針は掲示板の成果です。
管理人さんの成果が大きいので、お任せします。

秦野は方位ラインで日本神話の糸口が明確になりました。徐福と日本神話で方位ラインを使用しても宜しいでしょうか。それと、秦野距離と著書の紹介してくれれば十分です。

徐福と邪馬台国の文中の単里等を引用して下さい。管理人さんの単里も説明には必須になります。古事記の文中に6国、方位ラインは5つと韓半島に1つ計6つ。必要な範囲で提供します。


> なるほど、面白い視点だと思います、3世紀初頭の磁北は、東に少し傾いているはずです。
>
> ともあれ、方位ラインにしろ、指南魚つまり方位磁針にしろ、会報ではすでに指摘しましたが、もう少しみなさんにとっても引用しやすいように、どこかでまとめて公表しないと、いつまでたってもその技法をつかって論を先に進めないでしょう。
>
> 昨年から今年にかけて、おかげさまで会報第3号の論証が不足していた部分も、だいぶ埋まってきたように感じます。とりあえず、その成果をまとめて春に第4号で記したいとは考えていますが、秦野さんやキシさんは、最近の成果をまとめて記事にして投稿してみませんか?
>
> あるいは今回の対談形式のまま、記事にまとめてみるというのも面白そうです。最終的にはそれらもまとめて本にしたいですね。
>
> ちょっとそんなことも考えはじめてます。

235管理人:2012/03/17(土) 20:07:35
Re: 指南魚
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそくお返事ありがとうございます。


> 了解。方位ライン、指南車、指南魚つまり方位磁針は掲示板の成果です。
> 管理人さんの成果が大きいので、お任せします。

> 秦野は方位ラインで日本神話の糸口が明確になりました。徐福と日本神話で方位ラインを使用しても宜しいでしょうか。それと、秦野距離と著書の紹介してくれれば十分です。

了解しました。方位ライン関係は、方位線関連でいくらか類似した書籍もあるかと感じますが、会報のほうで、とりあげた方位ラインについては、そのまま「渡来人研究・第  号・・・論文」と引用をつけていただければ、引用については一向に構いません。そうすれば、他の方も国会図書館の雑誌検索で、会報の詳細を調べることができるようになります。

こちらも秦野さんの著作『徐福と邪馬台国』について、引用する場合は、かならず引用をつけさせていただきます。加えて秦野距離、および関連のご意見についても、第4号で概略を紹介させていただきます。

また、研究会HPの新刊紹介ページにて、秦野さんの著作を紹介させていただきました。下記ご確認ください。アマゾンにリンクしてあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/sinkan.htm

> 徐福と邪馬台国の文中の単里等を引用して下さい。管理人さんの単里も説明には必須になります。古事記の文中に6国、方位ラインは5つと韓半島に1つ計6つ。必要な範囲で提供します。


了解しました。また詳細は後日別途連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします。



236管理人:2012/03/17(土) 20:57:29
Re: 「110ではなく、106キロ」 間の 「108」 に 拘りました・・・
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000244M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000244_2M.jpg

> 棘の紀氏さんへのお返事です。
>
> ペンタの肩から肩までの距離5.325kmでほぼ秦野距離の100里に当たる。前方後円墳形は秦野距離を基準にしている。ダブルペンタ構造が何処まで対応するかが問題になる。


百舌古墳群と、五房星ラインの件ですが、個人的な方位ラインの経験からいくと、古墳時代当時の方位ラインは、縦横斜め、せいぜい三角どまりではないかと考えてます。

要するに、五・六角形とかを採用する場合は、中国の風水占術関連に深くかかわってこないといけません。測量するだけなら、そこまでは必要ないですし、円形はコンパスで足りる計算です。

ただ古事記を見ていくと、五行説に応じて、神名が配置されていくこともあり、当然紙の上には、五角形の図を描いていたであろうことは想像に難くないですね。問題は、それが、仁徳なりの伝承にかかわってくるかどうか、その辺の是非が気になるところです。

後の飛鳥時代になると、六角から八角まで古墳の形にもバラエティーが出てきますが、その端境期があるのかどうか、その辺も課題ですね。


あと余談ですが、百舌の方位ラインと古墳軸の傾きについては、下記を会報に掲載した図をご参照ください。

あまり築造年代に差がないので、古墳群内の各古墳軸の向きにも差が出てない模様です。

ただ、図のように?→?→?→?と時代が新しくなるにつれて、やはり西に古墳軸を倒していくのがわかります。これも偏磁曲線と対応している一例です。感じ的には仁徳陵が東に一番傾いているので、これが始祖古墳で最も古い感じですね。



237管理人:2012/03/17(土) 23:02:26
訂正;マキムク古墳群の古墳軸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000245M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000245_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/纏向古墳群



238秦野北斗:2012/03/18(日) 00:37:29
Re: 訂正;マキムク古墳群の古墳軸
管理人さんへのお返事です。

前方後円墳は大きく分けると東向き、東南、北西の3種類になる。

東向き

長崎のユダヤ人墓だが、キリスト教とは墓の作り方まで違っている。竿石と寝墓を思わせる墓石。墓石は、同じ大きさのものが全くない。故人の身長に合わせて作っているのだろうか。方位がすべて東向であったのが印象的だ。

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/07-8.html

仏教は東南、北西。秦野の先祖の墓は北西になる。

東南
http://www.asakawadera.net/haka/ohaka.html

北西
http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/02-22.html

古墳を前方後円墳にしたのは266年で、これ以後にユダヤ人を確認している。中国史籍、伝説の解読から堺(百済)、羽曳野に居た模様。266年以前は円墳、一部、天皇家で例外あり

どうも、東向きはユダヤ系で東南、北西は瑞穂の国、倭国系になる。
東向きは266〜500年、東南、北西は500〜古墳終焉まで。

239棘の紀氏:2012/03/18(日) 01:04:05
参考?
http://hinatabokkomura.com/yomoyama/nishinihonplot1.pdf#search='

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



240管理人:2012/03/18(日) 05:47:56
Re: 訂正;マキムク古墳群の古墳軸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000248M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000248_2M.jpg

http://www.neomag.jp/magnet_history/history_3.html



241秦野北斗:2012/03/18(日) 08:34:52
Re: 訂正;マキムク古墳群の古墳軸
http://kiyond.blogspot.jp/2010/10/blog-post_10.html

http://



242棘の紀氏:2012/03/18(日) 09:01:13
3種類の尺の中の「4:5」及び「5:6」
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/post/exec/

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



243曲学の徒:2012/03/18(日) 13:07:07
秋津島宮の関連施設が出土している
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000251M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000251_2M.jpg

秋津遺跡から特異な遺構が出土していることはご存知と思う。
橿考研はこの遺構の年代を四世紀前半とする。
だが私はそこから出土している多孔銅鏃などの年代から、三世紀前半にさかのぼると考えている。
ここは秋津嶋宮の伝承地である。秋津島宮もしくはその関連施設であっても不思議は無い。
そして秋津島宮は六代孝安の宮である。私は「男弟ありて佐けて国を治む」とする男弟は孝安と考えている。
秋津島宮は卑弥呼の王宮でもある。
発掘調査は継続して行われるこの調査に注目してくれ。


http://yamatai.sblo.jp/



244曲学の徒:2012/03/18(日) 13:14:06
日本一の古墳であることを実証するプロジェクト
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000252M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000252_2M.jpg

写真は御所市玉手山、孝安天皇陵の隣の尾根である。
尾根の中心に築かれる墳丘は直径22m程度の円墳である。
だが私は尾根全体が墓域と考えている。尾根の裾は人為的に整形されている。
日本一の円墳と考えている。それを実証するプロジェクトを立ち上げる。
興味のある方は応援してくれ。

http://yamatai.sblo.jp/article/42520853.html



245秦野北斗:2012/03/18(日) 18:04:48
Re: 日本一の古墳であることを実証するプロジェクト
曲学の徒さんへのお返事です。

御所市玉手山は小さい、秦野は尾根幅500m、墳丘は直径180m程度の円墳を見つけている。
奈良のど真中です。秦野著書、徐福と邪馬台国で紹介している。

> 写真は御所市玉手山、孝安天皇陵の隣の尾根である。
> 尾根の中心に築かれる墳丘は直径22m程度の円墳である。
> だが私は尾根全体が墓域と考えている。尾根の裾は人為的に整形されている。
> 日本一の円墳と考えている。それを実証するプロジェクトを立ち上げる。
> 興味のある方は応援してくれ。


246管理人:2012/03/19(月) 01:44:40
Re: 秋津島宮の関連施設が出土している
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000254M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000254_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000254_3M.jpg

曲学の徒さん、秦野さん、キシさん

こんばんは。都内に出かけてました。
秋津遺跡について情報ありがとうございます。

> 秋津遺跡から特異な遺構が出土していることはご存知と思う。
> 橿考研はこの遺構の年代を四世紀前半とする。
> だが私はそこから出土している多孔銅鏃などの年代から、三世紀前半にさかのぼると考えている。
> ここは秋津嶋宮の伝承地である。秋津島宮もしくはその関連施設であっても不思議は無い。
> そして秋津島宮は六代孝安の宮である。私は「男弟ありて佐けて国を治む」とする男弟は孝安と考えている。
> 秋津島宮は卑弥呼の王宮でもある。


ひとつ方位ライン面から、情報提供できます。
この秋津遺跡から東300メートルほどの地点から、北東52度角方向にて、纏向石塚古墳へ至る方位ラインが、考安天皇陵の南部(曲学さんご指摘の円丘部分)、威徳天皇陵、畝傍山、耳成山を通過することがわかります。耳成山は秦野さんも注目されているそうですね。先ほど秦野さんの著作読み終えました。

またそのライン周辺に、神武・綏靖陵もあるので、何らかの関連伝承による位置推定なのではないかと感じます。

詳細は図を添付しますのでご確認ください。

あともうひとつ情報提供できるとすると、前述の偏磁曲線の関係で、この遺跡が磁北を10〜15度、西に傾けていることがあります。

先述の偏磁曲線つまり方位磁針との兼ね合いを感じますが、秋津遺跡の各住居の立替時期と、その向きとの対応関係が出てくれば、あるいは年代推定も可能になってくるのではないかと感じます。後代の方位磁針を使った住居建築の事例では、時代とともに、その角度が変化することが知られています。




247管理人:2012/03/19(月) 06:36:13
奈良の方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000255M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000255_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000255_3M.jpg

ちょっと徹夜して、奈良の古墳と遺跡を結んだ方位ライン図を作成してみました。
先の秋津遺跡の関連も理解しやすくなると思います。

東西10・5キロ、南北12・7キロ(斜め16.0)の四方区画になります。
10・5キロは先に論議したように里:420/4の漢尺です。

55度角の直角三角形も、先の九州の遺跡方位ラインの角度と同じですので、緯度と太陽の関連で測量したのかもしれません。

奇しくもキシが下記でご指摘いただいた10:12の曲尺関連と一致してきます。

巣山古墳、崇神陵の東西ラインをはじめとして、メスリ山古墳、宮塚古墳、マキムク石塚古墳、そして秋津遺跡を載せたラインですので、おそらくそれらの遺跡年代以前に作成されたものと感じます。

ご指摘の孝安陵等もラインに載ってくるでしょうし、後代の石舞台や飛鳥の宮関係も載ってくることを考慮すると、そのラインに乗る畝傍山・耳成山・甘糟丘と関連づけられて伝承された可能性を感じます。

下記ご指摘の秋津(宮)遺跡の中心部の位置は、これらの方位ラインのどれかに乗ってくると感じますので、よろしくご参照ください。後日もう少し誤差を修正した図をご提供いたします。




248秦野北斗:2012/03/19(月) 06:51:55
Re: 奈良の方位ライン図
管理人さんへのお返事です。

おみごと、日本神話に入りたいぐらいです。

アマテラスは日本神話で、・・。

注)仁徳陵-伊勢神宮の方位ラインの仁徳陵は年代が合わないので堺の辺りに
  方位にあたる遺跡が存在する。



249棘の紀氏:2012/03/19(月) 13:22:54
「指南亀」 戦国時代(紀元前5世紀末以降)
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



250秦野北斗:2012/03/19(月) 19:45:29
Re: 奈良の方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000259_3M.jpg

管理人さんへのお返事です。


堺の方位ラインの位置がほぼ狭山池になりそうだ。狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮
ほぼ106kmになる。

秦野も遺跡方位ラインを引きました。管理人さんとほぼ同じで斜め16.0km:300里になる。
ラフに引くと東西:200里、南北:250里、斜め:320里どうも1km程度の誤差が出る。

> ちょっと徹夜して、奈良の古墳と遺跡を結んだ方位ライン図を作成してみました。
> 先の秋津遺跡の関連も理解しやすくなると思います。
>
> 東西10・5キロ、南北12・7キロ(斜め16.0)の四方区画になります。
> 10・5キロは先に論議したように里:420/4の漢尺です。
>
> 55度角の直角三角形も、先の九州の遺跡方位ラインの角度と同じですので、緯度と太陽の関連で測量したのかもしれません。
>
> ご指摘の孝安陵等もラインに載ってくるでしょうし、後代の石舞台や飛鳥の宮関係も載ってくることを考慮すると、そのラインに乗る畝傍山・耳成山・甘糟丘と関連づけられて伝承された可能性を感じます。
>
> 下記ご指摘の秋津(宮)遺跡の中心部の位置は、これらの方位ラインのどれかに乗ってくると感じますので、よろしくご参照ください。後日もう少し誤差を修正した図をご提供いたします。
>




251管理人:2012/03/19(月) 21:24:05
Re: 奈良の方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000260M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000260_2M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。


> 堺の方位ラインの位置がほぼ狭山池になりそうだ。狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮
> ほぼ106kmになる。
>
> 秦野も遺跡方位ラインを引きました。管理人さんとほぼ同じで斜め16.0kmは300里になる。
>


お返事ありがとうございます。私のほうで使用しているものは、電子地図データなので、距離・方位ともにほぼ間違いありませんので、確認しなおさなくても大丈夫です(^_^)

ただ、ご指摘の仁徳→伊勢間の遺跡や尺・距離関係は重要ですね。

尺度的には、今回の四方区画の距離は、九州の四方区画と同様に前漢時代あたりの尺度で、楽浪・秦韓移民系のそれと感じます。

また以前お知らせした九州の四方区画に比して、やや南北の比率が短くなっています。角度が2度くらい変化しており、これはもしかすると先に論議した周碑算径の件で、基準とする緯度によって、できあがってくる影の長さが変化することと関係するのではないでしょうか。九州のほうが奈良に比して、やや南に位置しているので、南北に長く伸びたのかもしれません。

ただ、確かに畿内説を考慮すると、邪馬台国の中心地やヒミコの墓が、これらのラインの上にあってもおかしくはないのかもしれませんが、問題はこれらの四方区画の遺跡の年代ですね。崇神陵・巣山古墳・メスリ山・宮塚・秋津遺跡等は、どれも4世紀代です。

おそらく、同時期に一気に計画して、四方に古墳を作り出した可能性を感じます。後代の関東の八角墳と方位ラインの関係で同様な事例があることは、会報で記載しましたが、今まで通説のように、大和→・・馬見→・・・というふうに、王朝や王宮が順に地域を変えて交代していったという段階説だけでは、理解しがたいように感じます。非常に計画的に古墳が配置されています。

3世紀代にこの方位ラインをもっていくとしたら、やはり同じ方位ライン上に乗るマキムク遺跡との関係を確認していくしかないでしょう。

ただ3世紀代のラインについては、奈良には別に存在している件も会報で紹介したとおりですが、下記に添付しておきます。桜井茶臼山→崇神陵→中山大塚→椿井大塚山へ向かう方位ラインです。

この方位ラインは、北から数度西に傾いた、いわゆる指南魚つまり方位磁針を使用したタイプの設計をしています。

それに対して、今回取り上げた四方区画は、きっちり東西南北を計ったもので、測量方法に相違があります。

ただ秋津遺跡の住居角度には、やはり偏角ができていますから、マキムク遺跡の同様な偏角を持つ住居跡と共通性があります。

もともと2つの測量方法をしっていて使い分けをしていたのか?あるいは4世紀台から使い分けができたのか?その辺も課題です。

あと、添付していなかった秋津遺跡周辺のラインの拡大図を添付しておきます。



252秦野北斗:2012/03/19(月) 22:09:27
Re: 奈良の方位ライン図
管理人さんへのお返事です。

狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮、桜井茶臼山→崇神陵→中山大塚→椿井大塚山へ向かう方位ラインは日本神話、徐福伝説にかかわる方位と場所になります。桜井茶臼山→椿井大塚山の延長が小浜に抜けます。狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮の方位ラインで狭山池から日本海側へ引くと小浜に行き着きます。これらは小浜ラインになる。壮大な日本神話になります。しかし、方位ラインは凄いですな。ちなみに卑弥呼の墓、耳成山は高さでピラミッドより7m低いが世界最大の墓だろう。


仁徳天皇陵古墳  全長486m、 高さ35.8m

クフ王のピラミッド全長230m、 高さ146m

秦の始皇帝陵(中国)全長350m、 高さ76m

卑弥呼の墓   全長 500m、 高さ139m

http://www.city.sakai.lg.jp/city/_rekibun/mozu/ancient/index.html


> ただ3世紀代のラインについては、奈良には別に存在している件も会報で紹介したとおりですが、下記に添付しておきます。桜井茶臼山→崇神陵→中山大塚→椿井大塚山へ向かう方位ラインです。
>
> この方位ラインは、北から数度西に傾いた、いわゆる指南魚つまり方位磁針を使用したタイプの設計をしています。
>
> それに対して、今回取り上げた四方区画は、きっちり東西南北を計ったもので、測量方法に相違があります。

253管理人:2012/03/19(月) 23:13:05
Re: 奈良の方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000262_3M.jpg

(追記;昨晩掲載した図および下記の説明文を一部訂正しました。10度傾いた11.1キロの四方区画で、後代の中臣氏がこの方位ラインについて知っていたようです。)

秦野北斗さんへのお返事です。

> 狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮、桜井茶臼山→崇神陵→中山大塚→椿井大塚山へ向かう方位ラインは日本神話、徐福伝説にかかわる方位と場所になります。桜井茶臼山→椿井大塚山の延長が小浜に抜けます。狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮の方位ラインで狭山池から日本海側へ引くと小浜に行き着きます。これらは小浜ラインになる。壮大な日本神話になります。しかし、方位ラインは凄いですな。ちなみに卑弥呼の墓、耳成山は高さでピラミッドより7m低いが世界最大の墓だろう。


とりあえず、もう少し古い西に10度傾いた四方区画も見つけました。

三つの四方区画が重なって構成されています。
一番南の四方区画は11.1キロの正方区画です。

桜井茶臼山・椿井大塚山などもっとも古い部類の奈良の古墳を含有したラインで、秋津遺跡同様に、西に10度傾くのがミソです。後の時代に、もう少し東に倒した西殿塚のラインもあるので、その方形区画も出てくることでしょう。

このラインは、磐船神社や富雄丸山・鳥見山など物部氏系のラインでありますが、詳しくは会報のほうをご参照ください。

あとで、もう少し詳細な四方区画図を提供いたします。





254秦野北斗:2012/03/20(火) 07:25:28
Re: 奈良の方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000263M.jpg

管理人さんへのお返事です。

女王(アマテラス)の光通信ルートの方位ラインみたいですな。
このラインは後、4つあります。厳島ライン、出雲-高千穂ラインの合計5つ
他に2つ程度あった模様、記録にが乏しい。

? 奈良の三輪山、大和葛城、和泉葛城、徳島県阿南市、高知市浦戸湾
? 奈良の三輪山、小浜湾
? 厳島ライン
? 出雲国ライン
? 出雲-高千穂ライン
? 九州の宮崎ライン?
? 高千穂-九州ライン?

どうも、卑弥呼以前、以後で分かれるみたいですな。
指南車、指南魚と陳寿が鍵を握りそうです。

簡単に図にしました。


> (追記;昨晩掲載した図および下記の説明文を一部訂正しました。10度傾いた11.1キロの四方区画で、後代の中臣氏がこの方位ラインについて知っていたようです。)
> 桜井茶臼山・椿井大塚山などもっとも古い部類の奈良の古墳を含有したラインで、秋津遺跡同様に、西に10度傾くのがミソです。後の時代に、もう少し東に倒した西殿塚のラインもあるので、その方形区画も出てくることでしょう。
>
> このラインは、磐船神社や富雄丸山・鳥見山など物部氏系のラインでありますが、詳しくは会報のほうをご参照ください。
>
> あとで、もう少し詳細な四方区画図を提供いたします。
>
>




255管理人:2012/03/20(火) 07:37:03
西殿塚5度角ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000264M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000264_2M.jpg

そこで最後に、会報で掲載しました西殿塚古墳と桜井茶臼山を結ぶ西に5度傾いた方位ラインについて、その四方区画を作成してみましたので、お知らせいたします。

東西10.5km、南北12.1kmの四方区画です。これも漢尺ですが、先の10度角のものより短く、つまり古いということになりそうです。

東北角に西殿塚、西北は謎のホタテ貝型古墳の乙女塚古墳、西南角は孝安陵です。

東北の斜線上に、黒塚、巻向遺跡北東部、耳成山北部、神武陵、靖陵、畝傍山と並びます。

西北斜線上には、香具山神社があるようです。

また予想される中心地点から、5度角南に伸ばすと、孝元陵にぶつかります。

おそらくは後代に知られることのなかった2〜3世紀代の四方区画と感じるのですが、ライン上に欠史の陵墓が多いのに驚かされます。

なぜ5度傾くのか、先の10度角の事例とともに謎ですが、方位磁針にともなう偏磁曲線をみると、西に10度傾くのは、600年代です。その前は紀元前後でしょうか。

同じく西に5度角傾くのは、450年前後と、150年前後となるでしょうか。

あるいは、東西を逆に考えて、東に10度傾くのは、230年代、5度傾くのは170年代前後でしょう。

なお、偏磁曲線の特徴のひとつに、サイン曲線とのことで、短時間に東西へすばやく変化する時期と、あまり変化が見えない時期があります。

250年代までは、すばやく変化していたものの、それ以降350年ごろまでは、あまり変化がなかった模様です。その辺も都市の偏角の修正に関係していたかもしれません。

指南魚の角度が変わるたびに、南北を修正するために宮を移す必要があったのかもしれません再度その偏磁曲線と栃木の古墳の古墳軸との関係図も添付しておきます。ご参照ください。





256秦野北斗:2012/03/20(火) 07:58:33
Re: 西殿塚5度角ライン
管理人さんへのお返事です。

欠史の陵墓が多いのは卑弥呼が韓半島から持ってきたものです。
方位ラインに現れるんですな。卑弥呼の鬼道に関係している模様。
今、追っている、黒塚、巻向遺跡北東部、耳成山北部、神武陵、靖陵、畝傍山
の2〜3世紀代の四方区画は卑弥呼方位ラインみたいですな。
卑弥呼方位ラインは大陸の方位ラインに成るので欠史の陵墓の特定に重要になる。
知らないうちに、日本を出た模様。

> 東北の斜線上に、黒塚、巻向遺跡北東部、耳成山北部、神武陵、靖陵、畝傍山と並びます。
>
> 西北斜線上には、香具山神社があるようです。
>
> また予想される中心地点から、5度角南に伸ばすと、孝元陵にぶつかります。
>
> おそらくは後代に知られることのなかった2〜3世紀代の四方区画と感じるのですが、ライン上に欠史の陵墓が多いのに驚かされます。
>
> なぜ5度傾くのか、先の10度角の事例とともに謎ですが、方位磁針にともなう偏磁曲線をみると、西に10度傾くのは、600年代です。その前は紀元前でしょうか。
>
> 一方、東に10度傾くのは、230年代、5度傾くのは170年代前後でしょう。
>
> あと、偏磁曲線の特徴のひとつに、サイン曲線なので、短時間に東西へすばやく変化する時期と、あまり変化が見えない時期があります。


257管理人:2012/03/20(火) 08:44:50
Re: 西殿塚5度角ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000266M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 欠史の陵墓が多いのは卑弥呼が韓半島から持ってきたものです。
> 方位ラインに現れるんですな。卑弥呼の鬼道に関係している模様。

欠史の関連ですが、今回調べてみて、伝承によるものと、「祖先」の実在性によったものがあるように感じました。

どの欠史の墳墓も、ライン的に見て非常に正確に構成されてます。正確な位置に、架空の祖先の墓を配置したか、もともとそこに祖先がいたのか?のどちらかですね。

あとは通説だと飛鳥・奈良時代の創作となりますが、欠史の陵墓に向けて、方位ラインが走っているケースがあります。孝安のケースもそうですね。

下記に先の10度角の四方区画の拡大図を添付いたします。
特に図の下方に見える 秋津(宮)遺跡→孝安陵→斉明→文武→板葺宮→多武峰あたりの10度角ラインや、対角線上に見える多武峰→香具山→藤原宮→国分寺・春日ラインあたりに注目してみてください。

このラインは藤原・中臣関連が多く見えます。そのあたりで欠史の陵墓がどう捉えるられていたかですね。



258秦野北斗:2012/03/20(火) 09:51:26
Re: 西殿塚5度角ライン
管理人さんへのお返事です。

著書、徐福と邪馬台国で紹介した卑弥呼と伊勢神宮の関係です。もう少し詳しく。

畝火山口神社に、気長足姫命(神功皇后)・豊受比売命・表筒男命を祀り、から
表筒男命は卑弥呼の弟、その娘が気長足姫命と豊受比売命になる。
この神社の場所が邪馬台国になる。

卑弥呼の死後、伊勢神宮内宮に卑弥呼を祭ったのが壱與こと気長足姫命(神功皇后)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)になる。ヤマトタケルの項の天照大御神は壱與。

壱輿の姿が伊勢神宮山口際に登場している。子供がいますよ、壱輿でしょう。

http://www.ne.jp/asahi/maroudo/somin/contentsshikinensenguu/yamaguchisai/yamaguchisai.html

神功皇后の三韓征伐で韓半島から連れてきたのが藤原・中臣関連なんです。
本系は依然として中臣を称し、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲した。
説明に労力がいるが卑弥呼方位ラインに乗るのです。藤原・中臣関連は渡来人になる。


> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 欠史の陵墓が多いのは卑弥呼が韓半島から持ってきたものです。
> > 方位ラインに現れるんですな。卑弥呼の鬼道に関係している模様。
>
> 欠史の関連ですが、今回調べてみて、伝承によるものと、「祖先」の実在性によったものがあるように感じました。
>
> どの欠史の墳墓も、ライン的に見て非常に正確に構成されてます。正確な位置に、架空の祖先の墓を配置したか、もともとそこに祖先がいたのか?のどちらかですね。
>
> あとは通説だと飛鳥・奈良時代の創作となりますが、欠史の陵墓に向けて、方位ラインが走っているケースがあります。孝安のケースもそうですね。
>
> 下記に先の10度角の四方区画の拡大図を添付いたします。
> 特に図の下方に見える 秋津(宮)遺跡→孝安陵→斉明→文武→板葺宮→多武峰あたりの10度角ラインや、対角線上に見える多武峰→香具山→藤原宮→国分寺・春日ラインあ

259秦野北斗:2012/03/20(火) 11:50:57
Re: 西殿塚5度角ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000268_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

方位ラインは六角形ではないか。うまく説明ができない。
妄想か。どうも、時代の流れで方位ラインを追加したと考えるのが自然かもしれない。

>
> 下記に先の10度角の四方区画の拡大図を添付いたします。
> 特に図の下方に見える 秋津(宮)遺跡→孝安陵→斉明→文武→板葺宮→多武峰あたりの10度角ラインや、対角線上に見える多武峰→香具山→藤原宮→国分寺・春日ラインあたりに注目してみてください。
>
> このラインは藤原・中臣関連が多く見えます。そのあたりで欠史の陵墓がどう捉えるられていたかですね。






260管理人:2012/03/20(火) 20:23:49
Re: 西殿塚5度角ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000269M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000269_2M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 方位ラインは六角形ではないか。うまく説明ができない。
> 妄想か。どうも、時代の流れで方位ラインを追加したと考えるのが自然かもしれない。

仁徳・伊勢ラインの件ですが、ちょっと六角形にしては辺の長さが異なりすぎますので、それはないと感じます。ただ、確かに110KMの尺にするために、秦野さんの東西に伸ばしたい気持ちはわかります。でもその地点に該当する古墳がありません。

それで、先に会報で記したとおり、仁徳・応神陵は東西方位ラインにあります。おそらく考古の方は、ご存知な方もいらっしゃるでしょう。また奈良(飛鳥)と伊勢のラインも、「太陽の道」とのことで、かなり有名です。

ただ、問題は、まだ研究レベルに達してないことです。方位は東西で正しいのですが、距離や尺の件がアバウトな理解で終わってます。伊勢(神宮)と仁徳陵の緯度とでは、南北に2キロ以上も誤差があります。当時の測量誤差は大きくても、100メートル以内です。

そこで、仁徳→応神陵と、先日ご紹介した巣山→崇神陵ラインを結合しまして、東西の方位ライン図を作成してみました。

ただ、南北に少しズレがあります。古墳群としてとらえたほうがよいかもしれません。

百舌→古市→馬見→柳本古墳群という対応ですね。

また尺がことなっております。百舌→古市は、110KMの魏以降の時代尺ですが、馬見→柳本は100KMです。

もともと、この4箇所には、古い測量墓があって、そこに配置された氏族群のうちで、河内に勢力を持つものが出てきたという可能性を感じます。

それで大和を模したものの、測量する時代をくだるにつれて延びる時代「尺」が異なるので、計りなおした。それで、少しずつ古墳の位置も変化しているという可能性も感じます。測量誤差と計りなおしの件は、キシさんの本に、アイデアが出されているので、ご参照ください。

誤差が出てくる原因は、先の四方区画のケースのように、軸が東西にぶれることや、キシさんご指摘の地球が丸いことによる歪みなどもありえますね。周碑算径と緯度誤差の件もあるでしょう。

その辺の測量関連を無視して、古墳の位置に関する論議はできないだろうと感じます。この辺のことも、科学的に取り組むべき時期にさしかかってきたといえるでしょう。

あと、ご指摘のプサン→出雲の方位ラインも、すでに一部で知られているのですが、会報に紹介掲載した図を添付しますので、よろしくご参照ください。確かにプサンを基点とした集団がいて、秦野さんおっしゃるとおり、「高天原」を想起させてくれますね。そこで示した3つの方位ラインにでてくる「5度角」というのが、何なのか?そこも課題です。






261管理人:2012/03/20(火) 21:56:30
凹面鏡と光通信
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000270M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000270_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000270_3M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/凹面鏡



262管理人:2012/03/21(水) 02:29:50
凹面鏡と光通信・追記
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000271M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000271_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000271_3M.jpg

http://www.kdd1.com/kyoryoku110.html



263棘の紀氏:2012/03/21(水) 02:38:56
縄文・弥生測量? 『五芒星測量』
http://dostoev.exblog.jp/16698525/

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



264秦野北斗:2012/03/21(水) 12:01:40
Re: 西殿塚5度角ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000273M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000273_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/狭山池_(大阪府)



265秦野北斗:2012/03/21(水) 12:55:47
古事記、黄泉の国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000275M.jpg

http://www15.plala.or.jp/kojiki/amaterasu_susanoo/amaterasu_susanoo.html

http://



266秦野北斗:2012/03/21(水) 16:33:57
Re: 西殿塚5度角ライン
管理人さんへのお返事です。

プサン→出雲の方位ライン何かでてきそうですな。

仁徳・応神陵は東西方位ライン、「太陽の道」竹之内街道、茅渟の道が両者を繋いでいる。

茅渟の道は百済、神宮皇后伝説が多い。竹之内街道はは羽曳野、河内源氏、堺で交わる。

まるで、クイズですな。


> > 方位ラインは六角形ではないか。うまく説明ができない。
> > 妄想か。どうも、時代の流れで方位ラインを追加したと考えるのが自然かもしれない。
>
> 仁徳・伊勢ラインの件ですが、ちょっと六角形にしては辺の長さが異なりすぎますので、それはないと感じます。ただ、確かに110KMの尺にするために、秦野さんの東西に伸ばしたい気持ちはわかります。でもその地点に該当する古墳がありません。
>
> それで、先に会報で記したとおり、仁徳・応神陵は東西方位ラインにあります。おそらく考古の方は、ご存知な方もいらっしゃるでしょう。また奈良(飛鳥)と伊勢のラインも、「太陽の道」とのことで、かなり有名です。
>
> ただ、問題は、まだ研究レベルに達してないことです。方位は東西で正しいのですが、距離や尺の件がアバウトな理解で終わってます。伊勢(神宮)と仁徳陵の緯度とでは、南北に2キロ以上も誤差があります。当時の測量誤差は大きくても、100メートル以内です。
>
> そこで、仁徳→応神陵と、先日ご紹介した巣山→崇神陵ラインを結合しまして、東西の方位ライン図を作成してみました。


267管理人:2012/03/21(水) 21:38:16
「三角縁」四方区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000277_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/三角縁神獣鏡



268秦野北斗:2012/03/21(水) 23:36:19
光通信
プサン→出雲の方位ライン、古事記を読むと順天-出雲の方位ラインが読み解ける。
これは、東征航路が明確にならないと理解できないのです。

少し、踏み込みましょうか。 地図は雑です。

徐福と邪馬台国の女王国より北方にある、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国がありが、小浜の近くになります。ここから日本海を九州に下るとを出雲になる。古事記の国譲りの項になる。

http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_01.html

魏志倭人伝の裸国の周囲距離。女王国より北方の国、倭奴国、奴国、が理解できるでしょう。
現在、徐福と日本神話を整理中です。方位ラインも考慮します。

光通信の設備は現在も存在し、残骸が東征航路に存在するのが現実です。
君が代の詩がこれにあたります。

神武東征も見直す必要がある。

269管理人:2012/03/22(木) 08:23:09
Re: 光通信
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000279M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000279_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000279_3M.jpg

http://www.yamatobunko.co.jp/tonbodama/magatama/list4/magatama04.htm



270管理人:2012/03/22(木) 09:34:00
3つの四方区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000280M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000280_2M.jpg

昨晩は三角縁神獣鏡を出土した古墳を結んだ奈良の四方区画を紹介しましたが、先の3つの同様な四方区画との比較で、時代順を確認してみたいと思います。

昨日お知らせした四方区画は、佐味田宝塚古墳や、鴨都波古墳、崇神陵をメインにしており、思うにかなり遅い時代、4世紀中葉あたりの四方区画ではないかと考えはじめてます。三角縁を使い終わってあまり必要なくなったので、そのまま四方の墓に埋めたままになったという線も考えうるかもしれません。

尺は10.8kmの魏尺ですが、南北を偏角なしで正方位としてしており、それ以前の偏角が出るタイプの測量から、変化した後のもののように感じます。

それで、再度先日紹介した10度角傾いた四方区画と、5度角のものとを比較しまして、その四方区画の拠点となった古墳の年代を確認してみました。

10度角のほうは、椿井大塚山、中山大塚、桜井茶臼山、崇神陵、秋津遺跡、物部の本拠・磐舟神社がメインになります。この四方区画の延長線上に、西殿塚、室宮山古墳、顕宗陵がでてきます。後代の物部・中臣がこのラインを管理していたようです。11.1KMの尺です。

5度角のほうは、西殿塚、黒塚、桜井茶臼山、乙女塚(ホタテ貝式)、櫛山古墳(双方中円墳)、孝安・神武・綏靖・孝元陵、となり、尺は東西:10.5KM、南北12.1kmです。

考古年代的には、西殿塚より中山大塚・椿井大塚山のほうが古いそうですが、尺的には短いほうが古いといわれますね。10.5kmは漢尺で、11.1kmは、河内の古墳と同じ尺で4世紀代でしょうか。

宮山古墳、秋津遺跡は、西殿塚から中山大塚を経由する斜めラインを後代知っていたので、その延長線上に造営できたという線になるでしょうか。

桜井茶臼山古墳はいつも基点として動かない感じです。中心地域の真東に位置してます。孝安陵も同様キーとなる古墳です。

マキムク遺跡も双方、マキムク小学校の北東部のホタテ貝式古墳の少し北を通過してますね。この辺で遺跡を掘るべきではないでしょうか。

なにか一筆書きみたいな論理で、合理的にどちらが古いかを証明できるはずなのですが、どなたかこのクイズ解いてくれませんか?3つの四方区画を再度添付しておきます。




271管理人:2012/03/22(木) 09:43:11
追加:四方区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000281M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000281_2M.jpg

下記で追加できなかった残りの2つの四方区画を添付します。



272秦野北斗:2012/03/22(木) 19:14:18
Re: 光通信
管理人さんへのお返事です。

方位ラインは凄いですな。それでは『精度の高い測量をする装置』を古事記から拾います。

色をホオヅキと言っている。大きさは鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡、なにを思い浮かべますか。

?『高天原も葦原の中国も自然に明るくなったのです。』
?『天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。
その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。』
?『その目は、ホオヅキの花のように真っ赤で、ひとつのからだに頭と尾が八つづつある大蛇(だいじゃ)です。』
?『「わたしは、この国(葦原の中つ国)の神でサルタヒコといいます。』
?『海で魚を獲(と)っていたところ、』
?『鏡を差し出してアマテラスオオミカミにお見せしました。』

色をホオヅキと言っている。
ホオズキ(鬼灯、酸漿)は、ナス科ホオズキ属の多年草。またはその果実。カガチ、ヌカヅキとも言う。花言葉は「偽り」。黄色透明、鬼灯

http://ja.wikipedia.org/wiki/ホオズキ

そのとき金属ごとの自由電子の性質の微妙な違いにより、入射光の一部を吸収する金属もある。金は可視光の中の青の波長域を吸収するためその補色の黄金色に輝く。銅は青〜緑の波長域を吸収するため赤みがかって見える。亜鉛やカドミウムは橙〜赤の波長域を吸収するため青っぽく見える。


「あなた以上の尊い神がいらっしゃるので、われわれはみな喜んで笑い、楽しんでおりました。」と申し上げている間に、アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトは、鏡を差し出してアマテラスオオミカミにお見せしました。すると、その姿が鏡に映ったので、アマテラスオオミカミは、ますます怪しいと思って、少し戸から出て外をのぞかれたところ、隠れていたタヂカラオノミコトがアマテラスオオミカミの手をとって引き出し、すぐにフトダマノミコトが、注連縄(しめなわ)を天の岩屋戸の入り口に引き渡し、
「もう、ここから中へは、帰ることはできません。」
と申し上げました。こうして、アマテラスオオミカミが、天の岩屋戸から出てこられたので、『高天原も葦原の中国も自然に明るくなったのです。』

http://www15.plala.or.jp/kojiki/amaterasu_susanoo/amaterasu_susanoo_02.html

「はい。それはもう恐ろしい怪物です。『その目は、ホオヅキの花のように真っ赤で、ひとつのからだに頭と尾が八つづつある大蛇(だいじゃ)です。』そのからだには、コケや杉やヒノキの木などが生え、その長さは八つの谷と八つの山ほどもあり、その腹は、いつも血がしたたって、ただれています。」

http://www15.plala.or.jp/kojiki/amaterasu_susanoo/amaterasu_susanoo_03.html

邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/サルタヒコ

『「わたしは、この国(葦原の中つ国)の神でサルタヒコといいます。』天の神の御子さまが降りていらっしゃると聞き、ぜひお仕(つか)えしたいと思って、お迎えにやってきました。」「ニニギノミコトよ、あなたは、この鏡をわたくしの魂(たましい)だと思って、わたしを拝むように、これを大切にお祭りしなさい。またオモイカネノカミよ、そなたは、ニニギノミコトのことをよく助けてやり、そして政治を行いなさい。」
今も伊勢神宮(いせじんぐう。三重県伊勢市)にお祭りされています。(また、以上のニニギノミコトと同行した神さまたちは、アマテラスオオミカミの「天の岩戸」神話に登場する神々です。)アメノイワトワケノカミは、「天の岩戸」が神となったもので、天皇の宮殿の門をお守りになっています。

http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_05.html

さて、そのサルタヒコが、阿耶訶(あざか。現在の三重県松阪市※)というところへ行った時に、『海で魚を獲(と)っていたところ、』ヒラブ貝に手をはさまれて海の底に沈み、溺(おぼ)れてしまいました。

http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_06.html

> ともあれ、何か非常に精度の高い測量をする装置があったとしか考えられません。この辺の検証をしていきましょう。

273秦野北斗:2012/03/22(木) 19:55:17
Re: 光通信
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000283M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000283_2M.jpg

http://homepage3.nifty.com/lumogen/column/car/foglamp.html



274管理人:2012/03/22(木) 21:48:17
Re: 光通信
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000284M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000284_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000284_3M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく貴重な情報ありがとうございます!

> カルシウム、石灰が高温で橙赤色の光を出す、これが光源でホウズキ色と表現した模様。
> 橙赤色は透過性がよい。光源に最適です。

なるほど、赤めの色を使うという手もありますね。暗くても距離が伸びたほうがいいはずです。


> それに、緑色から黄色にかけての波長域(530〜590nm)は人間の目の感度が最も良い部分でもあるのだ。
> 霧の際、カーブなどで対向車にいち早く発見されやすいという点でも黄色は有効だ。
>

霧というのも、ステージとかでよくある煙幕とレーザービームの演出とかを想起させます。

私個人としては、先のホウズキ色の目をして山々に尾を伸ばすヤマタノオロチというのが、光線が延びる様子と考えてもよいかと感じました。鏡石の光かもしれないし、他の光かもしれませんが、赤かったかもしれませんね。

ともかく、どこの地域の古墳を見ても、どういう角度の方位ラインにしても、尋常ではない精度を示しているので、どこの古墳にもある材料で、光通信をしたと考えるべきでしょう。上記の石灰あたりは簡単に手にはいりそうです。

それで遺物関連でおもいつくのは、やはり先の円筒埴輪と鏡、勾玉あたりですね。

円筒埴輪の窓みたいに横についている●や▼穴、これがホオズキの目に見えるかもしれません。

複数の円筒埴輪を古墳の上にずっと30センチ間隔くらいで一直線に並べるんですね。

それでその●や▼窓の部分を、南なら南にすべて向けておく。ただし、その角度を1度くらいずつずらしておきます。

それを1キロ先から、測量士が視認して、どの埴輪が一番よく見えるかを合図で答えれば、30センチ、1度レベルでの精密な測量が可能になるかもしれません。その際に方形部の軸の向きは、宮都や城からもっとも適切な向きにしておく必要があります。

そのために、方位ラインや古墳軸と、宮都や住居建築かかわる先の四方区画の角度とがかかわってくるはずです。

またその光る埴輪の配列で暗号通信も可能だったでしょう。

その埴輪を並べる最初のマウンドは、過去につくった古墳とか、これからつくるべき古墳の土台で、木々の高さを少し超えるくらいでよいでしょう。15メートルもあればOkです。

ただ、注意点は円筒埴輪や鏡を並べる際に、まず高さが一緒であること、次に方向の規則性です。後円墳の円形部分に並べる場合は、その円形に並べる際の規則があって、向きも後円墳の中心点に対して、並行に向けるとか、それなりの工夫がないと測量できないでしょう。前方部に並べる場合はも同様ですね。

円筒埴輪の変わりに鏡を並べる方法もあったかもしれません。その場合は複数鏡を並べる必要があるので、埋蔵数も多くなるでしょう。

勾玉を凸レンズとして使う件は、今ちょっとビー球とかオハジキを買ってきて、懐中電灯で照らしてやってみたんですが、やはりレンズ効果を出すのはかなり難しいように感じました。





275秦野北斗:2012/03/22(木) 22:23:48
Re: 光通信
管理人さんへのお返事です。

ごく身の回りにあるもの灯篭。灯籠(とうろう)は、日本の伝統的な照明器具の一つ。「灯」の字は旧字体で「燈」とも、「籠」の字は異体字で「篭」とも書く。この記事の中では固有名詞以外は「灯籠」で統一する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/灯籠

http://www.google.co.jp/search?q=灯篭&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP458JP458&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_SNrT7uGIszGmQWt58G3Bg&ved=0CHcQsAQ&biw=1046&bih=893

さざれ石が灯篭の残骸ならば糸口になる。実の所、三輪山にさざれ石があるんです。
さざれ石、カルシウムの塊。方位で遡るのはどうでしょか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/さざれ石

276管理人:2012/03/22(木) 22:39:59
Re: 光通信
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000286M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000286_2M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> ごく身の回りにあるもの灯篭。灯籠(とうろう)は、日本の伝統的な照明器具の一つ。「灯」の字は旧字体で「燈」とも、「籠」の字は異体字で「篭」とも書く。この記事の中では固有名詞以外は「灯籠」で統一する。
>

なるほど、そうすると、すでに先の神話に灯篭が暗示されているわけですね。ヤマタノオロチといえば出雲・吉備で円筒埴輪と深い関係があります。見えてきましたね!

>
> さざれ石が灯篭の残骸ならば糸口になる。実の所、三輪山にさざれ石があるんです。
> さざれ石、カルシウムの塊。方位で遡るのはどうでしょか。
>

円筒埴輪に火を入れる際の色を、カルシウム分のある細石でオレンジにするということですね。確か吉備津神社あたりにもさざれ石があったような気がします。

ご指摘のように、石灰の産地をつなげば何かでてくるかもしれません!
先のプサンからの5度角の方位ラインを再度掲載しておきます。



277管理人:2012/03/23(金) 07:50:56
四方区画の尺度
また測量方法について考えてます。
昨晩は500メートルほど離れたマンションの部屋の光を眺めていたのですが、ちょうど1度分角度が東西に傾くと、その部屋の明かりひとつ分(3メートル)くらいの誤差がでるようです。

同様に200メートル規模の古墳の墳丘上に円筒埴輪を並べて、それに火を入れて、500メートル離れたところから、各円筒埴輪との位置と角度を測ることで、1度の範囲内で測量を可能になったのでしょう。

まず最初に平地をならして、100メートルくらいの綱をつくって、それを10回使って1キロ程度の基本距離を測定したことでしょう。

その後は、その基本距離の両端から、90度と45度の三角測量を行って、その連続で特定方向へと距離を伸ばしていったものと感じます。その角度を測るのが三角縁神獣鏡の鋸歯紋の分度器メモリですね。

そこで問題は、その100メートルくらいの綱を作るに際して、何をモノサシにしたかです。

先にお知らせした各地の遺跡を結んだ四方区画には、(九州(弥生中期)・奈良)10.5KM、(奈良)10.8KM、(河内・奈良)11.1KMと3つの距離尺度が見えました。

これらは、それぞれ、後漢の1里420M÷4=10.5、魏の1里432M÷4=10.8、隋の小尺(前王朝の尺)444M÷4=11.1に由来するものと考えます。(1里は1800尺です)

ただ1里を4で割った件については、開拓すべき地域の距離に合わせたのか、あるいは別の理由かが問題ですが、ともあれその当時の1里の元となった1尺を示す定規、どこかから仕入れる必要があったのでしょう。

たとえば、平原鏡の直径が46センチで、後漢の1尺23cmの2倍だといわれてます。
また三角縁神獣鏡の直径を調べていくと、21.7〜22.4cmが圧倒的におおく、次に23.7〜24.1のものが少々見えるようです。

前者は前漢尺23.1cmと周尺19.9の間で、後者は魏尺24.0cmに近いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/度量衡

そして、この鏡の直径:21〜2cmを5倍すると、105〜110cmという上記の九州・奈良の四方区画の関連数値がでてきます。したがって、鏡の直径を1尺として理解していたことも考えうるでしょう。

同様に前・後漢鏡の直径も下記のサイトから調べてみたのですが、こちらはバラツキがありました。13.5〜7cm前後の鏡、97〜100cmなどが多いようです。
http://www.yamatobunko.co.jp/kagami/kankyou/list4/list4.htm

もっとも、その九州の弥生遺跡を結ぶ四方区画の基準単位に、27.5kmというものがあり、これが前漢尺27.65cmと一致するので、その半分の13.5cm前後の鏡を、当時測量基準に使用した可能性を感じます。

このように、中国から仕入れた鏡などから1尺を取り出して、基準距離を作り出していったと思います。

そして綱と鏡と筒型埴輪を使った三角測量とで、どんどん距離を測っていったのですが、海を越えるような、難解な測量については、やはり1尺の棒をたてて、その日影の長さで、緯度と距離を測る周碑算径の理論が応用されたと見るべきでしょう。

洛陽と椿井大塚山古墳の緯度が同じことを考慮すると、同じ尺棒を使ったことによるとも感じますし、そうすると、椿井大塚山古墳から奈良に伸びる10度傾いた四方区画に使った道具、鏡などの種類も限定されてくるかもしれません。

おそらく狗邪韓国・プサンから、奈良までの距離を正確に出すためには、対馬・壱岐島経由で、まず先の狼煙火をつかった測量で正しい方角を割り出して、周碑算径でさらに福岡の緯度を割り出し、福岡から、出雲や奈良までの東西距離を三角測量で伸ばしていくしか方法はなかったでしょう。

すでに弥生時代に楽浪郡経由で成功しているので、会報で記したような遼東から楽浪郡から九州各地まで伸びる正確な方位ラインが存在しているわけですね。

同様に出雲や奈良北部の物部の本拠磐船神社、そして椿井大塚山周辺まで、その弥生中期の時点で伸びていたかどうか?そこも課題です。おそらく下記のプサンから伸びる方位ラインは、その辺の是非とかかわってきます。

278秦野北斗:2012/03/23(金) 08:03:34
Re: 四方区画の尺度
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000288M.jpg

http://www.pmiyazaki.com/jinjya/oomi_j/



279秦野北斗:2012/03/23(金) 09:12:24
Re: 四方区画の尺度
管理人さんへのお返事です。

方位ライン、三角縁神獣鏡の鋸歯紋の分度器メモリ、一寸千里の法が絡みそうですな。

まず、古代の距離測定と測定方法を方位ラインから推測する方法しかない。


> また測量方法について考えてます。
> 昨晩は500メートルほど離れたマンションの部屋の光を眺めていたのですが、ちょうど1度分角度が東西に傾くと、その部屋の明かりひとつ分(3メートル)くらいの誤差がでるようです。
>
> 同様に200メートル規模の古墳の墳丘上に円筒埴輪を並べて、それに火を入れて、500メートル離れたところから、各円筒埴輪との位置と角度を測ることで、1度の範囲内で測量を可能になったのでしょう。
>
> まず最初に平地をならして、100メートルくらいの綱をつくって、それを10回使って1キロ程度の基本距離を測定したことでしょう。
>
> その後は、その基本距離の両端から、90度と45度の三角測量を行って、その連続で特定方向へと距離を伸ばしていったものと感じます。その角度を測るのが三角縁神獣鏡の鋸歯紋の分度器メモリですね。
>
> そこで問題は、その100メートルくらいの綱を作るに際して、何をモノサシにしたかです。
>
> 先にお知らせした各地の遺跡を結んだ四方区画には、(九州(弥生中期)・奈良)10.5KM、(奈良)10.8KM、(河内・奈良)11.1KMと3つの距離尺度が見えました。
>
> これらは、それぞれ、後漢の1里420M÷4=10.5、魏の1里432M÷4=10.8、隋の小尺(前王朝の尺)444M÷4=11.1に由来するものと考えます。(1里は1800尺です)
>
> ただ1里を4で割った件については、開拓すべき地域の距離に合わせたのか、あるいは別の理由かが問題ですが、ともあれその当時の1里の元となった1尺を示す定規、どこかから仕入れる必要があったのでしょう。
>
> たとえば、平原鏡の直径が46センチで、後漢の1尺23cmの2倍だといわれてます。
> また三角縁神獣鏡の直径を調べていくと、21.7〜22.4cmが圧倒的におおく、次に23.7〜24.1のものが少々見えるようです。
>
> 前者は前漢尺23.1cmと周尺19.9の間で、後者は魏尺24.0cmに近いです。
>
> そして、この鏡の直径:21〜2cmを5倍すると、105〜110cmという上記の九州・奈良の四方区画の関連数値がでてきます。したがって、鏡の直径を1尺として理解していたことも考えうるでしょう。
>
> 同様に前・後漢鏡の直径も下記のサイトから調べてみたのですが、こちらはバラツキがありました。13.5〜7cm前後の鏡、97〜100cmなどが多いようです。

> もっとも、その九州の弥生遺跡を結ぶ四方区画の基準単位に、27.5kmというものがあり、これが前漢尺27.65cmと一致するので、その半分の13.5cm前後の鏡を、当時測量基準に使用した可能性を感じます。
>
> このように、中国から仕入れた鏡などから1尺を取り出して、基準距離を作り出していったと思います。
>
> そして綱と鏡と筒型埴輪を使った三角測量とで、どんどん距離を測っていったのですが、海を越えるような、難解な測量については、やはり1尺の棒をたてて、その日影の長さで、緯度と距離を測る周碑算径の理論が応用されたと見るべきでしょう。
>
> 洛陽と椿井大塚山古墳の緯度が同じことを考慮すると、同じ尺棒を使ったことによるとも感じますし、そうすると、椿井大塚山古墳から奈良に伸びる10度傾いた四方区画に使った道具、鏡などの種類も限定されてくるかもしれません。
>
> おそらく狗邪韓国・プサンから、奈良までの距離を正確に出すためには、対馬・壱岐島経由で、まず先の狼煙火をつかった測量で正しい方角を割り出して、周碑算径でさらに福岡の緯度を割り出し、福岡から、出雲や奈良までの東西距離を三角測量で伸ばしていくしか方法はなかったでしょう。
>
> すでに弥生時代に楽浪郡経由で成功しているので、会報で記したような遼東から楽浪郡から九州各地まで伸びる正確な方位ラインが存在しているわけですね。
>
> 同様に出雲や奈良北部の物部の本拠磐船神社、そして椿井大塚山周辺まで、その弥生中期の時点で伸びていたかどうか?そこも課題です。おそらく下記のプサンから伸びる方位ラインは、その辺の是非とかかわってきます。

280棘の紀氏:2012/03/23(金) 10:31:21
尺】   参考 
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~mkawai/lecture/tensoku/tensokuorder/diagram/mercator.html

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



281棘の紀氏:2012/03/23(金) 11:27:00
尺 釈杖(シャクジョウ)
http://www.karakusamon.com/egypt/was.html

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



282管理人:2012/03/23(金) 23:13:40
周髀算経
キシさん、情報ありがとうございます。

周髀算経を、奈良を測量した集団が知っていたかどうか、そこが課題です。
遣唐使の時代になれば、日本でも暦の教科書として読まれていたといいますが、果たして弥生末期から古墳時代に、その知識をもった集団が渡来していたか?この辺がキーです。

> 周髀(髀を英語でノーモンという)は、地上に立てた垂直体で、正午における表の影を測定して、冬至や夏至の日を測定することが古くから行なわれてきた。
> すなわち、冬至の時は影長がもっとも長く、夏至はもっとも短くなるからである。
> ところで、使用された表の長さは八尺であり、これに対し夏至の影長は一寸六尺、冬至には一丈三尺五寸となる。

8尺もの棒を使用していたというのも興味深いですね。ただ洛陽で使ったそれを日本にもってきたとも思えないので、8尺のものを作成しなおしたと考えるべきでしょう。

それで椿井大塚山古墳の緯度と、洛陽の緯度が同じなのは、その8尺棒の影の長さから計ったと考えたわけですが、ここを拠点として測量をはじめたので、三角縁神獣鏡がたくさん出土するのではないかと感じます。
ここと関連の物部の本拠・磐舟神社に突然集団がどこからかやってくるんですね。この両地点を11・1キロで結んで四方区画を作り上げていく。そして桜井茶臼山へとラインを伸ばしていったわけです。


11.1kmの数値を、先にお話した大多数の三角縁神獣鏡の直径22.2cmの半分11.1cmを1基準とみなして測量を開始した線も感じます。

1尺を22cmとするのは、前漢と周の間にあったある王朝の尺を使っていた楽浪・秦韓系の遺民集団の影響かと感じます。しばらくそこで三角縁も製造されていたので、魏尺の23cmの三角縁が少ないわけです。

その集団が10度の角度で南下していき、先の3つの四方区画をつくったわけですね。

逆にいえば、この尺度でどこか北九州なりプサンなりに似たような四方区画があれば、そこを拠点にして、さらに東遷という可能性もでてくるかもしれませんが、対馬の北岸から比田湾あたりが、やや洛陽の緯度に近いとは感じます。この辺でプサンをみながら、棒を立てて測量した可能性を感じますね。



283管理人:2012/03/24(土) 04:11:33
Re: 四方区画の尺度
秦野北斗さんへのお返事です。

> さざれ石のある場所と方位ラインがほぼ一致するみたいですな。
> 位置と神話から灯台も選択肢になる。
> 霧島神宮は徐福と邪馬台国の航路になる。

秦野さん、さっそくさざれ石関連、お知らせありがとうございます。
神社にも、中臣・物部・忌部氏などの系統があって、それぞれに独特の角度の方位ラインがあるようです。

その辺は会報のほうをご参照いただきたいのですが、徐福伝承を証明するとすれば、やはり秦(前漢)時代の尺度で、27.65cmあたりから、方位ラインを抽出していくとよいかと感じます。九州の弥生遺跡はこの尺度です。ただ、楽浪系のような気がしてますが、そこに秦系であるプラス要素が出てくると面白いですね。

祖国固有の尺度を維持しようとする意識が古代人にあったような気がするんです。宗教的な尺度とか、その宝物とかに由来する長さは、ヤタノ鏡みたいな感じで伝承に残るケースもあります。

それで三角縁神獣鏡の22cm(21.9〜22.2あたりがメイン)についても、キシさんではないですが、中国はもとより、エジプトや中東まで尺度を調べてみました。

前漢尺は23.1cm、周尺は19.9cmで、その間くらいに位置してます。エジプトは19cmや17cmだそうです。フィートは30cm。

それでいろいろ見ていて近いと感じたのは、キュビトです。特に古代イスラエル時代の宗教用のキュビトが437 mmで、その2分の1が三角縁神獣鏡の直径に一致してきます。

詳細はこちら参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/キュビット

単なる偶然かもしれませんが、ただ木棺・石囲木カク、鏡の埋葬・・・の前方後円墳の形態は、ロシア南部のバジリク古墳群など中東遊牧民のそれや、その系統の遊牧民文化を残す新羅南部の墳墓と、類似していることがあり、その辺は会報にも紹介掲載したとおりです。

その墳丘の築造方法というのが、半島経由で伝わってきて、日本でも応用されたとすると、やはりその古墳の尺度も、同類の道具や基準を使った可能性が高いと感じます。

その定規や分度器代わりにしたのが、鏡の可能性もあり、実際クルガン墓からは、漢代の中国鏡が多く出土しています。

同様に、それらの遊牧民文化を携えた集団が日本に渡ってきて、墳丘墓築造の際のモノサシとしていた鏡を、三角縁神獣鏡とその直径に刻み込んだとすれば、あるいは中東遊牧民の尺度が出てくる可能性もあります。つまり宗教キュビト尺だったとのことですね。

もうひとつ、測量で重要なのは数字、角度や円などの幾何学用語です。これがないと測量できません。それらを示す文字も必要でしょう。

それで、日本語の数詞には、ふたつ種類があって、ウィキペディアによると下記のとおりです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/漢数字

ひとつめは呉音で
「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウ、ヒャク、セン、マン、ニジュウ」

朝鮮語の数詞もやや近いですが、呉音が一番近いようです。

この呉音で、先の弥生末から古墳時代初期でも数えていたとすると、背後に呉系の技術職人の測量が見えてくることでしょう。

もうひとつの読みが訓読みです。
「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、とお、もも、ち、よろず、はた」

それで先のキュビトと同じイスラエル関連では、
「HI・FA・MI・YO・TSIA・MA・NANE・Y・KAKHENA・TAWO」
と読むらしいんです。

下記のサイトをご参照ください。一部引用します。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/032kodai.htm

「アイデルバーグ氏は、これはじつに美しいヘブル詩文だ、といいます。これはヘブル語では、
 「HI・FA・MI・YO・TSIA・MA・NANE・Y・KAKHENA・TAWO」
 とつづられ、
 「HAIAFA・MI・YOTSIA・MA・NAANE・YKAKHENE・TAWO」
(ハイアファ ミヨッツァ マナーネ ヤーヘーナタウオ)
 と発音されます。その意味は、
 「だれが女神様を出すのでしょう。誘いに、いかなる言葉をかけるのでしょう」
 なのです。」

あんまりよくできた話で、もうすこし真偽を確認してみたいと思うのですが、歌というのはイロハ歌同様にかなり古い起源を伝承することが多いようです。

そして訓読みとひらがなには、東アジアには共通性が乏しく、かなり特殊性があります。

ある時期に、それらが大和に入ってきたのでしょう。特に数字関連、つまり建築測量や宗教関連で用いられたはずです。

魏志倭人伝の倭についての記載を読む限りでは、「(イチ)大率」など、先の呉音数字等の使用がしばしば見えます。また同時に扶余系と思しき地名が見えるのですが、ところが記紀時代になると、急に上記の訓読みに変化してしまいます。

前漢・楽浪系と思われる弥生中期の九州の遺跡の測量は、前述のとおり前漢尺の測量数値です。呉音とのかかわりは、その前か後の時代に強くあったことでしょう。

その後、まったく別の北方遊牧民系の文化が、ホタテ貝式古墳の出てくる170年前後から入りはじまり、3世紀末までには、かなり強く奈良の古墳や遺跡に影響していくようです。

それとともに、その時代の奈良の四方区画の尺度にも、先述のように変化が出てくるわけです。

もし、弥生中期の九州の遺跡の測量・建築技術とは別の、まったく異なる測量や技術が出てきたとすれば、当然、底にかかわった技術職人にも入れ替わりがあったでしょうし、あるいはそこに使用される数字や幾何学用語にも変化があったかもしれません。

「カムヤマトモモソヒメ」「イツセノミコト」「ヤオヨロズ」「タケウチ」などの用語も、どうみても呉音では読めない名称ですので、それらの人物伝承ができたと見える4世紀前半までには、訓読みをする技術集団が大和にはいってないといけない計算になります。

この測量に用いた数詞や幾何学用語が、どの時点で入れ替わったのか?その辺も今後の研究課題かもしれません。魏志倭人伝や、記紀神話に見える数詞や幾何学用語、地名、宗教用語の比較から、呉音と訓読みとを分離して時代を特定していく作業が必要です。

284秦野北斗:2012/03/24(土) 08:33:45
Re: 四方区画の尺度
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000294M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/指矩

http://



285棘の紀氏:2012/03/24(土) 11:11:56
>プサンなりに似たような四方区画があれば、そこを拠点にして
http://www.pusannavi.com/miru/1060/

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



286棘の紀氏:2012/03/24(土) 11:28:25
北緯 35度06分59秒
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=12108

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



287秦野北斗:2012/03/24(土) 14:05:29
Re: 四方区画の尺度
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000297M.jpg

管理人さんへのお返事です。

「一寸千里の法」

今までの定説と違う方法で算出した。私の頭では定説は誤差が多く、対応できなかった。言えることは寸の大きさは井戸に写る太陽の大きさでしょう。

どうも尺の距離が不明。文章から1寸:1千里と断定しているふしがある。

夏至の日には1尺6寸:南1万6千里
冬至の日には13尺5寸:南へ13万5千里と断定です。

夏至(げし)と冬至(とうじ)は黄道は天の赤道に対して23度4分傾いている。この角度から算出しると。里は43mになる。参考にした文章は以下。


周の地(たぶん都の地)において、夏至の日の南中時に地面に垂直に立てた8尺の長さの棒の影の長さは1尺6寸である。
  これに対し、ここから南に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺5寸。
  周から北に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺7寸であった。
  よって、8尺の棒に対する影の長さの差1寸は、地上の距離にして千里にあたる。
  これが「一寸千里の法」である。
  また、夏至の日には1尺6寸であった棒の影は冬至の日には13尺5寸である。
  よって、夏至の日には太陽は周の地から南1万6千里の彼方の真上にあり、冬至の日には南へ13万5千里の地の真上にある。
  夏至以後、棒の影はだんだんと長くなって行き、南中時にちょうど6尺になる日がある。
  このとき、長さが8尺で穴の直径が1寸の竹筒で太陽を見れば穴と太陽の大きさが一致する。
  このことから、太陽の真下までの距離は6万里、太陽の高さは8万里、観測者から斜めに10万里の彼方に太陽はある。
  (3:4:5 の直角三角形に関するピタゴラスの定理が使用されている)
  太陽の直径は、10万里に1/80を乗ずることにより1250里と求められる。






288秦野北斗:2012/03/24(土) 18:54:16
Re: 四方区画の尺度
管理人さんへのお返事です。

「一寸千里の法」

今までの定説と違う方法で算出した。私の頭では定説は誤差が多く、対応できなかった。言えることは寸の大きさは井戸に写る太陽の大きさでしょう。

どうも尺の距離が不明。文章から1寸:1千里と断定しているふしがある。

周の地(たぶん都の地)において、夏至の日の南中時に地面に垂直に立てた8尺の長さの棒の影の長さは1尺6寸である。
  これに対し、ここから南に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺5寸。
  周から北に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺7寸であった。
  よって、8尺の棒に対する影の長さの差1寸は、地上の距離にして千里にあたる。
  これが「一寸千里の法」である。

近似で里は77.8mになる。


周の地(たぶん都の地)において、夏至の日の南中時に地面に垂直に立てた8尺の長さの棒の影の長さは1尺6寸である。
  これに対し、ここから南に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺5寸。
  周から北に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺7寸であった。
  よって、8尺の棒に対する影の長さの差1寸は、地上の距離にして千里にあたる。
  これが「一寸千里の法」である。
  また、夏至の日には1尺6寸であった棒の影は冬至の日には13尺5寸である。
  よって、夏至の日には太陽は周の地から南1万6千里の彼方の真上にあり、冬至の日には南へ13万5千里の地の真上にある。
  夏至以後、棒の影はだんだんと長くなって行き、南中時にちょうど6尺になる日がある。
  このとき、長さが8尺で穴の直径が1寸の竹筒で太陽を見れば穴と太陽の大きさが一致する。
  このことから、太陽の真下までの距離は6万里、太陽の高さは8万里、観測者から斜めに10万里の彼方に太陽はある。
  (3:4:5 の直角三角形に関するピタゴラスの定理が使用されている)
  太陽の直径は、10万里に1/80を乗ずることにより1250里と求められる。




289管理人:2012/03/24(土) 22:04:03
宮の方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000299M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000299_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000299_3M.jpg

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/tennou.pdf



290秦野北斗:2012/03/25(日) 00:05:03
Re: 周髀算経
どうも、里は地球規模の「一寸千里の法」では答えはでない。実測が1番です。

1.始めて海を1000余里渡ると対馬国に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
2.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰
瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。

http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝


周の地(たぶん都の地)において、夏至の日の南中時に地面に垂直に立てた8尺の長さの棒の影の長さは1尺6寸である。
  これに対し、ここから南に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺5寸。
  周から北に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺7寸であった。
  よって、8尺の棒に対する影の長さの差1寸は、地上の距離にして千里にあたる。
  これが「一寸千里の法」である。

里:77.8m

  また、夏至の日には1尺6寸であった棒の影は冬至の日には13尺5寸である。
  よって、夏至の日には太陽は周の地から南1万6千里の彼方の真上にあり、冬至の日には南へ13万5千里の地の真上にある。

里:43m

  夏至以後、棒の影はだんだんと長くなって行き、南中時にちょうど6尺になる日がある。
  このとき、長さが8尺で穴の直径が1寸の竹筒で太陽を見れば穴と太陽の大きさが一致する。
  このことから、太陽の真下までの距離は6万里、太陽の高さは8万里、観測者から斜めに10万里の彼方に太陽はある。
  (3:4:5 の直角三角形に関するピタゴラスの定理が使用されている)
  太陽の直径は、10万里に1/80を乗ずることにより1250里と求められる。

太陽の直径:1205里



里は76.66〜43mで50m付近になる。

291管理人:2012/03/25(日) 07:48:07
Re: 周髀算経
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000301M.jpg

秦野さん、さっそく情報ありがとうございます。

> 1.始めて海を1000余里渡ると対馬国に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副>   よって、8尺の棒に対する影の長さの差1寸は、地上の距離にして千里にあたる。
>   これが「一寸千里の法」である。
>
> 里:76.66m
>
>   また、夏至の日には1尺6寸であった棒の影は冬至の日には13尺5寸である。

> 里:43m


そうすると、下記のキシさんの紹介サイトなども参照すると、魏志の北九州の里の記載は、上記の夏至の76.6mと一致するようですから、短里をつかったか、倭人の側から聞いたという線になりそうですね。

ただ弥生中期からの北九州の遺跡を結んだ距離は、前述のとおり、前漢尺ですから、1里420mで一致してこないことになります。

そうすると選択肢としては、魏もしくは、その直前あたりに大陸からやっていた測量士のほうで、あえて長里を使用せずに、周髀算経による短里数値を記載したということになるでしょうか。


周髀算経を使う場合の特徴は、まず基点を洛陽と同じ緯度におくことですから、ほぼ同緯度の椿井大塚山や磐舟神社あたりに拠点を置くことは相違ないところです。

そうすると、論理的には、魏の集団たちは奈良までやってきた計算になるのですが、ただおそらく測量は使者ができるようなものではない大規模なものなので、軍隊といったほうがよいでしょう。

ただ、夏至の日に測量しないといけない点ですね。

ともあれ、昨晩記載した宮を結ぶ方位ラインで気になっているのは、開花天皇の春日宮の記載です。ここが上記の椿井大塚山と、桜井茶臼山や崇神天皇陵などの拠点とを結ぶ偏角をもつ南北方位ライン上にあることがわかりました。

だから、開花天皇前後の年代が、上記の周髀算経で緯度を測って拠点とした椿井大塚山古墳の年代と同時代ということになるわけでして、4世紀末あたりになるのではないかと考え始めてます。

また欠史8代の記載と、昨晩のその欠史等の宮を結ぶ方位ラインと、関連四方区画との関連を見るに、おそらく大和の豪族たちの始祖伝承と、それらは深くかかわっているように感じます。

それらが、以前に磐船から桜井方面へと入ったニギハヤヒの子孫によるものなのか、ヒミコのいた女王国なのかはわかりませんが、昨日の宮の方位ラインをみるかぎり、神武の宮から開化・崇神・成務といったあたりに、あきらかな比例的な連続性のある方位ラインであります。

そして、その延長線上に椿井大塚山がでてくることを考慮すると、周髀算経で椿井大塚山を緯度測定した出来事が、魏の測量士というよりは、むしろ欠史8代のころ、つまり弥生中期〜末ごろに入っていた集団が行った可能性もあるうるでしょう。

しかし一方で椿井大塚山古墳と桜井茶臼山を結ぶラインが三角縁を多く出土して、特異性がある件を考慮すると、先任者と後任者との間に、共通の周髀算経等の測量的な接点がないといけないことになります。

170年代のホタテ貝式古墳と、250年代の前方後円墳との接点のようなものでしょうか。同じ木棺・鏡・朱・・などの接点です。

大和の在地豪族の件は、ニギハヤヒというよりは大国主というべきかもしれませんが、上記の欠史8代から成務にいたる宮の方位ラインは、また徐々に角度を西に倒していく、先の偏磁曲線との兼ね合いも見えます。測量方法として指南魚(方位磁針)を使用した可能性があるでしょう。

逆にそれ以降に河内に宮が移ったころからは、そのような偏磁曲線の影響が見えてこないことを考慮すると、宮造営には、指南魚による南北軸の設定は排除されたとみるべきでしょう。だから河内の四方区画にも、偏角はないんですね。

正確には神武からの初期の数代の宮は、45度ラインで偏角を持ってない可能性も感じます。そしてその四方区画にも、偏角のない南北軸をもっているようです。

しかし、第6代の孝安の室秋津島宮あたりから、偏磁曲線を持つ方位ラインに変化する。そしてその時代の古墳を結ぶ四方区画にも偏角が出てくるわけですね。

この秋津遺跡周辺からでたという庄内式土器が200年代初頭といいますから、それ以前に数代この辺に豪族の遺跡があった可能性はあるでしょうし、その200年前後から、測量方法に変化がでてきて、あるいはニギハヤヒ的な集団が移住があったのかもしれません。そしてその後260年代以降にさらに椿井大塚山や桜井茶臼山古墳等に三角縁をもたらした集団がやってきたのでしょうか。

この辺、数日かけてもう少し整理してみたいと思います。



292秦野北斗:2012/03/25(日) 10:05:33
Re: 周髀算経
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000302_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

方位ラインと三角縁神獣鏡をロードメーター円周の直径2倍、1倍で一致する。

どうやら、三角縁神獣鏡から見ると全部で3通りの方位ラインが有るみたいですな。

秋津遺跡周辺の方位ラインは11.1km、33.3kmで斜辺35.1km
35.1km/1万=35.1cm 以前1/10万は1/1万のミスです。
35.1/PI()=11.17cm??どうも鏡の円周の半分の模様。
全円周は35.1*2/PI()=22.34cm、該当の三角縁神獣鏡は

山口県新南陽市 竹島古墳出土 正始元年銘三角縁神獣鏡 明治21年発見22.8cm
群馬県高崎市柴崎 柴崎古墳出土 正始元年銘三角縁神獣鏡 東京国立博物館22.6cm
大分県宇佐市高森 赤塚古墳出土 三角縁神獣鏡(4号鏡) 大正10年調査 京都国立博物館蔵22.2cm

33.3km/1万=33.3cm
33.3/PI()=10.6cm??どうも鏡の円周の半分の模様。
全円周は33.3*2/PI()=21.2cm、該当の三角縁神獣鏡は

京都府相楽郡山城町 椿井大塚山古墳出土 三角縁神獣鏡 京都大学文学部博物館蔵、21.5cm
大分県宇佐市高森 赤塚古墳出土 三角縁二神二獣鏡 大正10年調査 文化庁蔵、21.8cm


注)周髀算経に従うと1寸は夏至、冬至の日の水面に写る太陽の直径になる。
周髀算経の計算の際に大気の屈折が大きく影響した。これから、大気温度で数ミリ変化したと推定される。

欠史8代の古墳の年代が明らかになりそうですな。


> ともあれ、昨晩記載した宮を結ぶ方位ラインで気になっているのは、開花天皇の春日宮の記載です。ここが上記の椿井大塚山と、桜井茶臼山や崇神天皇陵などの拠点とを結ぶ偏角をもつ南北方位ライン上にあることがわかりました。
>
> だから、開花天皇前後の年代が、上記の周髀算経で緯度を測って拠点とした椿井大塚山古墳の年代と同時代ということになるわけでして、4世紀末あたりになるのではないかと考え始めてます。
>
> また欠史8代の記載と、昨晩のその欠史等の宮を結ぶ方位ラインと、関連四方区画との関連を見るに、おそらく大和の豪族たちの始祖伝承と、それらは深くかかわっているように感じます。






293秦野北斗:2012/03/25(日) 20:07:11
Re: 周髀算経
管理人さんへのお返事です。

方位ラインもう少しおおきいのでは。

根拠は、三角神獣鏡の半分の距離になっている。


> しかし、第6代の孝安の室秋津島宮あたりから、偏磁曲線を持つ方位ラインに変化する。そしてその時代の古墳を結ぶ四方区画にも偏角が出てくるわけですね。
>
> この秋津遺跡周辺からでたという庄内式土器が200年代初頭といいますから、それ以前に数代この辺に豪族の遺跡があった可能性はあるでしょうし、その200年前後から、測量方法に変化がでてきて、あるいはニギハヤヒ的な集団が移住があったのかもしれません。そしてその後260年代以降にさらに椿井大塚山や桜井茶臼山古墳等に三角縁をもたらした集団がやってきたのでしょうか。
>
> この辺、数日かけてもう少し整理してみたいと思います。

294管理人:2012/03/25(日) 23:15:38
三輪山伝承と宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000304_3M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 方位ラインもう少しおおきいのでは。
>
> 根拠は、三角神獣鏡の半分の距離になっている。

> > この辺、数日かけてもう少し整理してみたいと思います。

秦野さん、さっそく情報ありがとうございます。

おそらく、崇神の後、成務に至る4世紀代に、先の四方区画をもうひとまわり大きくしようとした形跡が見えます。下記の図をご参照いただきたいのですが、開化・崇神期までの33キロの四方区画から、成務のときに、2倍の65キロまで伸ばしていることがわかります。

先ほど帰りの電車で古事記をまた読み直していたのですが、崇神天皇の時代になると、山代での反乱伝承を、越に向かおうとした大彦が退治する話がでてきます。この時期から後に、北方へと領域を広げようとした名残だと思います。

この図の最後にでてくる成努の後は、九州、河内へと宮が移っていくことになります。区切りがあるのですが、あくまでその後も大和の宮との関係は方位ラインにでてきますので、王権の継承が維持され続けたとみるべきでしょう。

それで、先ほど読んでいて興味深くおもったのは、崇神記の三輪山伝承です。

三輪山まで糸を伸ばしていく伝承がありますよね。その際に勾というリールみたいに糸を巻く道具がでてくるんです。それでその3回り分だけ糸が残っていたので、三輪にしたというんですね。
これが、つまり測量道具だと思うんです。

今も建築で糸はつかいますが、縄より糸のほうが正確に長さを出すことができます。そしてリールを使えば、そのリール径を知っておくことで、どのくらい糸が伸びて行ったかをしることもできます。

崇神のいた桜井茶臼山古墳北方の金屋の宮から、三輪山までは1.8km、マキムクからだと3.3kmありますが、その位の長さの糸と専用リールを用意していた可能性を感じます。

ミリ単位の鏡の直径(尺)の数値が、はるかKM単位の四方区画にまで反映していった背景には、正確にミリ単位で距離を計れる道具があったことを意味してます。縄や綱では太すぎてミリ単位にはなりませんから、やはり糸でしょう。

それで戸口の鍵穴から、糸が出て行くんですね。今の測量でもそうだとおもいますが、糸はデコボコの地面を這うより、少し空中に浮かしたほうが正確に距離がでます。

またその鍵穴というのが、後代の観念もまじっていると思うのですが、前方後円墳を暗示していたのでしょう。その古墳で区切られた四方区画を家、そして四方の辺を戸、四方の角で基点となる古墳を鍵穴と記したのではないでしょうか。鍵穴から糸が抜ける=古墳の上を方位ラインが通過していくという意味にも取れます。

先の山代の親族の反乱や、次の垂仁の代の反乱伝承の際にも、「前戸」「後戸」、それを通して「行き違い」が生じて、争いが起きてくる様子が描かれているのですが、当時も支配領域・区分での行き違いもあったことでしょう。測量面でも偏磁の関係で、四方区画の角度が変わってくるので、宮の動きにもジグザグな行き違いがおきてきてます。

あと、ロードメーターの件もお知らせありがとうございます。なるほど、そうすると「尺」と「円」がやはり四方区画にダイレクトにかかわってくる計算ですね。やはり鏡の円周と考えるのが自然です。

直径1尺の鏡の円周は0.8(咫)×4という観念がありました。鏡をロードメーター代わりにして、5回回転させると、16尺を得ることができます。それでうまく公倍数をつかっていけば、整数値の尺距離がだせたかもしれませんね。少しこの辺課題がありますが、よかったら計算してみてください。



295秦野北斗:2012/03/26(月) 00:33:08
Re: 三輪山伝承と宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000305M.jpg

管理人さんへのお返事です。


方位ラインと鏡の関係は1万分の1の尺度みたいです。
1cmが1kmに対応する。

三角縁神獣鏡は23.8cm鏡の円周が斜辺75cm、16.8cm鏡の円周が辺53cmの2種類。

欠史八代の方位ラインに挑戦しました。結果は後漢鏡になり

後漢鏡は23.1cm鏡の円周が斜辺72.7cm
後漢鏡は13.2cm鏡の円周が斜辺41.5cm
後漢鏡は12.2cm鏡の円周が斜辺38.5cm

仁徳、応神陵がはいる。図を添付します。少し計算がずれるのは勘弁です。
結果は惨敗でした。


> あと、ロードメーターの件もお知らせありがとうございます。なるほど、そうすると「尺」と「円」がやはり四方区画にダイレクトにかかわってくる計算ですね。やはり鏡の円周と考えるのが自然です。
>
> 直径1尺の鏡の円周は0.8(咫)×4という観念がありました。鏡をロードメーター代わりにして、5回回転させると、16尺を得ることができます。それでうまく公倍数をつかっていけば、整数値の尺距離がだせたかもしれませんね。少しこの辺課題がありますが、よかったら計算してみてください





296管理人:2012/03/26(月) 07:45:21
宮方位ライン図の修正
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000306_2M.jpg

昨晩最後にお知らせした宮関連の方位ライン図ですが、一部ミスがあったので訂正したものと差し替えました。

また先日紹介した5度角の四方区画ラインも、椿井大塚山が載る10度角の四方区画ラインの上に、追加しておきました。これにより、田原本町に孝霊(宮)が出てくる意味がわかると思います。その拡大図も添付いたします、

本当は、先日もうひとつ示した4世紀半ばと推定した0度角の三角縁神獣鏡の出土古墳を結んだ四方区画ラインがあるのですが、図がややこしくなるので省略しています。

ただ、この四方区画ラインが1辺10.8kmを基礎にしているので、10.8×6=64.8kmで、図に示した成務(宮)までの東辺の距離65.4kmに近似してきます。

したがって、10度角の四方区画→5度角→0度角へと、四方区画の軸を東に倒して言った様子が伺えますが、これが偏磁曲線の動きと一致してくることがわかります。

つまり数度四方区画を作り直してその軸を倒しながら、徐々に北方へと進出して言った様子が伺えますね。

そして突然、仲哀で九州へ行き、河内へと宮は移動していきます。



297秦野北斗:2012/03/26(月) 08:47:02
Re: 宮方位ライン図の修正
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000307M.jpg

http://http://www15.plala.or.jp/kojiki/amaterasu_susanoo/amaterasu_susanoo_02.html



298秦野北斗:2012/03/26(月) 14:50:04
Re: 宮方位ライン図の修正
管理人さんへのお返事です。

方位ライン図は難しい。秦野は管理人さんへの方位ラインの完成をまちます。

秦野は3/31まで休養で旅行しますので投稿を休みます。

> 昨晩最後にお知らせした宮関連の方位ライン図ですが、一部ミスがあったので訂正したものと差し替えました。
>
> また先日紹介した5度角の四方区画ラインも、椿井大塚山が載る10度角の四方区画ラインの上に、追加しておきました。これにより、田原本町に孝霊(宮)が出てくる意味がわかると思います。その拡大図も添付いたします、
>
> 本当は、先日もうひとつ示した4世紀半ばと推定した0度角の三角縁神獣鏡の出土古墳を結んだ四方区画ラインがあるのですが、図がややこしくなるので省略しています。
>
> ただ、この四方区画ラインが1辺10.8kmを基礎にしているので、10.8×6=64.8kmで、図に示した成務(宮)までの東辺の距離65.4kmに近似してきます。
>
> したがって、10度角の四方区画→5度角→0度角へと、四方区画の軸を東に倒して言った様子が伺えますが、これが偏磁曲線の動きと一致してくることがわかります。
>
> つまり数度四方区画を作り直してその軸を倒しながら、徐々に北方へと進出して言った様子が伺えますね。


299秦野北斗:2012/03/26(月) 19:56:09
「一寸千里の法」の訂正
投稿日:2012年 3月24日(土)で気になり再考すると間違いをしていました。
訂正します。近似で里は77.8mです。参考にした文章は以下。


周の地(たぶん都の地)において、夏至の日の南中時に地面に垂直に立てた8尺の長さの棒の影の長さは1尺6寸である。
  これに対し、ここから南に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺5寸。
  周から北に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺7寸であった。
  よって、8尺の棒に対する影の長さの差1寸は、地上の距離にして千里にあたる。
  これが「一寸千里の法」である。
  また、夏至の日には1尺6寸であった棒の影は冬至の日には13尺5寸である。
  よって、夏至の日には太陽は周の地から南1万6千里の彼方の真上にあり、冬至の日には南へ13万5千里の地の真上にある。
  夏至以後、棒の影はだんだんと長くなって行き、南中時にちょうど6尺になる日がある。
  このとき、長さが8尺で穴の直径が1寸の竹筒で太陽を見れば穴と太陽の大きさが一致する。
  このことから、太陽の真下までの距離は6万里、太陽の高さは8万里、観測者から斜めに10万里の彼方に太陽はある。
  (3:4:5 の直角三角形に関するピタゴラスの定理が使用されている)
  太陽の直径は、10万里に1/80を乗ずることにより1250里と求められる。



http://



300管理人:2012/03/26(月) 21:34:58
Re: 三輪山伝承と宮
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、情報ありがとうございます。

> 方位ラインと鏡の関係は1万分の1の尺度みたいです。
> 1cmが1kmに対応する。
>
> 三角縁神獣鏡は23.8cm鏡の円周が斜辺75cm、16.8cm鏡の円周が辺53cmの2種類。

まず注意しなければならないことですが、三角縁の大方の直径は21.5〜22.5の範囲に入り、23.8はごくまれということです。

> 欠史八代の方位ラインに挑戦しました。結果は後漢鏡になり
>
> 後漢鏡は23.1cm鏡の円周が斜辺72.7cm
> 後漢鏡は13.2cm鏡の円周が斜辺41.5cm
> 後漢鏡は12.2cm鏡の円周が斜辺38.5cm

後漢鏡も、かなりバラツキがあるので、どのサイズをつかったか特定するのに、何か他の手段が必要かもしれません。その当時の古墳や遺跡の尺との対応が必要でしょうか。

たとえばマキムク遺跡や周辺の古墳は、新井氏の26.8の古韓尺が使われたとの説があるそうです。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2009_12_12.htm

26.8×4で107.2になり、先の4つの四方区画のうちのひとつに見える10.8kmに近くなりますが、23.8×1800÷4も107.1なんです。

ただ23.8というのは、尺的には中国のどこにもないわけでして、上記の一部の三角縁の直径くらいでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/度量衡

あと、上記サイトでとりあげているマキムク遺跡の住居の偏角が5度西に傾いている県ですが、先の西殿塚を含んだ5度角の四方区画ラインの偏角と一致してくるので、時期的にはその時代の遺跡なのだろうと感じます。

> 仁徳、応神陵がはいる。図を添付します。少し計算がずれるのは勘弁です。
> 結果は惨敗でした。

河内以降の四方区画ラインは、後でまた図で説明いたします。


301管理人:2012/03/26(月) 22:25:41
河内・三島・近江の宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000311M.jpg

下記ご指摘の河内の方位ラインの件ですが、先日お知らせした宮の方位ライン図から、河内・三島・近江の宮のラインに注目して分析してみました。図を添付します。

意外にも、円で囲んだ、河内、三島、近江の宮に、並行(青線)・垂直(赤線)・斜め55度のライン関係が見えることにお気づきになられるかと感じます。

先に注目した田原本町の孝霊(宮)が絡んでくるのですが、この宮はおそらくはライン的にても少し新しいんです。4世紀後半?

それで、55度角というのは、35度角の裏返しで、緯度と関係した基本的な直角三角形測量によるもので、九州の弥生中期時代の遺跡を結んだ四方区画や、大和のそれにも見える角度です。

それで、この斜線と、垂線を見るに、紫色で示したような、四方区画を構築しようとした形跡を感じます。おそらくは、紫線で囲ったそのあたりに存在したことでしょう。南北65KM、東西37km程度の四方区画ですね。奈良の四方区画の2倍前後のものを作ろうとしたようです。

これに、さらに先日の百舌と古市の古墳群を結んだ東西11.1kmの方位ラインとも関係してくると思います。後で分析図を示します。

こう考えていくと、もともと四方区画の角部に、宮を置いたり、親族を配置したりしていたものと感じますし、その関係で、四方区画のそれらの部分に同時期の関連した古墳も出てくるのでしょう。記紀には親族の反乱伝承もそのあたりから出てくるようです。

その関連で、河内や、三島にも、あるいは近江にも、皇族を配置していたのですが、そのうちに力をつけるものがでてきて、それが河内の仁徳や、三島の継体だったのかもしれません。

また宮を最前線に構えるという傾向もありますね。仲哀や斉明のケースと同様です。そしてその最前線で、あたかも地面を踏みならすかのように、数回宮を移動させています。円形の部分に見える平行線に基づくひし形がみえるあたりです。

全体的には、大和の四方区画を主人とした関係にあることには変わりないんです。だから王朝交代かどうかが疑問が残ります。

ただ、そのころには、東西に軸を傾ける測量はしなくなっており、東西南北に垂直・並行なラインに変化しています。おそらくは成努の少し前あたりで、測量方法が変化しているはずですが、それらが王朝交代に関するものであるかというと、そうといえる要素もないので、なんとも言えない感じです。



302管理人:2012/03/26(月) 23:12:03
近畿方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000312M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/千歳車塚古墳



303管理人:2012/03/27(火) 06:19:30
Re: 宮方位ライン図の修正
秦野北斗さんへのお返事です。

> 秦野は3/31まで休養で旅行しますので投稿を休みます。
>
上記読み落としていました。了解しました。よいご旅行を!!


304管理人:2012/03/27(火) 07:26:54
刀の尺と古代文字
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000314_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000314_3M.jpg

http://www.nara-np.co.jp/20110614103812.html



305管理人:2012/03/27(火) 20:53:57
ゾグド文字と仮名文字
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000315M.jpg

http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf6/kanjikanren14.pdf



306管理人:2012/03/28(水) 06:30:18
屯倉関連の方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000316_3M.jpg

http://limestone.blue.coocan.jp/outdoor/iroiro/kuse/kuse.htm



307管理人:2012/03/30(金) 07:17:23
西日本の屯倉方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000317M.jpg

また先日に続き、さらに拡大版の屯倉方位ライン図を作成してみました。

かなりまだアバウトではありますが、東西20.5km、南北43kmほどの四方区画を、全国へと拡大しき、その四方区画の頂点もしくは線上に屯倉を配置していった模様です。

そこに仲哀天皇の穴門豊浦宮や、橿日宮→出雲大社ラインもかかわってくることがわかりました。

現在でも「三(宅)」の着く地名、春日部関連、秦・蘇我関連、池溝など、顕著な特徴が見えます。

各屯倉の詳細は、また後で報告しますが、とりあえずは、試作版のライン図を添付しますので、よろしくご参照ください。



308棘の紀氏:2012/03/30(金) 10:57:21
中国周辺の文字
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/C002.htm

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



309管理人:2012/03/31(土) 08:27:36
屯倉方位ライン修正版
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000319_2M.jpg

キシさん、情報ありがとうございます。また文字の件は今晩あたりに・・。
屯倉の方位ラインについて、さらに修正してみました。
図を添付いたします。拡大してご覧ください。

青色文字が、屯倉関連の地名です。「三」「倉」などの屯倉をあらわす地名が今でも多く残っているようです。また「御(厨・津)」「代」など、皇室の所領をあらわす地名も多いようです。府中など国府とのかかわりも見えますね。

その単位となる四方区画については、残存地名から類推して、正方区画の可能性を考えはじめました。22.5KM前後の四方区画です。

同様な全国に渡った四方区画は、おそらくは弥生中期ころからの測量で、何度か作成されていたものと感じますが、具体的に地名が残っている点では、屯倉関連の四方区画が特に理解しやすいです。

屯倉自体は、これらのメッシュ図の方位ライン上に載ることは間違いないと思われますが、具体的にどの屯倉がメッシュのどこに載るかについては、もう少し調査を進めてみたいと思います。



310秦野北斗:2012/03/31(土) 20:51:49
Re: 屯倉方位ライン修正版
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000320M.jpg

管理人さんへのお返事です。

家族旅行で鳥取、出雲、福岡、甘木、宇佐に行ってきました。移動中のことですが舞鶴若狭自動車道で古墳が2つ目に付きました。それも、山のど真です。方位ラインが走っている可能性があるのでは。

どうも、さざれ石が方位ラインに成っている可能性があるみたいです。



> その単位となる四方区画については、残存地名から類推して、正方区画の可能性を考えはじめました。22.5KM前後の四方区画です。
>
> 同様な全国に渡った四方区画は、おそらくは弥生中期ころからの測量で、何度か作成されていたものと感じますが、具体的に地名が残っている点では、屯倉関連の四方区画が特に理解しやすいです。






311管理人:2012/04/10(火) 02:09:26
Re: 屯倉方位ライン修正版
秦野さん、お帰りなさい!

> 家族旅行で鳥取、出雲、福岡、甘木、宇佐に行ってきました。移動中のことですが舞鶴若狭自動車道で古墳が2つ目に付きました。それも、山のど真です。方位ラインが走っている可能性があるのでは。
>
> どうも、さざれ石が方位ラインに成っている可能性があるみたいです。

そうでしたか、なんだか留守の間作成していた屯倉方位ラインをたどるような旅ですね!
舞鶴に三宅神社があり、屯倉とのかかわりが指摘されています。

河内南部にも、桜井、依網屯倉がありますが、この時代になると国分寺など寺院関連も、拠点となってくるようですね。

一般的に、渡来人の影響で、文字文化が日本に伝わり、蘇我氏等のもとで、仏教導入から、戸籍作成などをとして、屯倉拠点を展開していったとされてます。

確かにこれらの精密な測量をするには、どこの四方区画にどういう宮や寺があって、そこまでの距離がいくらのような、文章と図面を記す技術が必要になってきます。そして文字の導入によって、記録という作業が可能になると論じられてきました。

屯倉の方位ラインの正確さは文字文化あってのことと考えるのですが、ただ下記のような全国にわたり四方区画の方位測量は、弥生中期からすでに同様な精密さをもって存在し続けてます。

「日向のどこどこのだれだれさんのところの古墳と、その四方区画では。距離が100尺で・・・で」という、先に紹介した前漢の馬王堆墓のような、軍事測量図が存在していたはずで、そこには当然文字も記されていたと思います。

しかし文献史学でも考古学でも、渡来人以前の文字の使用は否定していますから、矛盾が起こってくるんですね。

その矛盾を埋めるためには、弥生土器に記された文字片とか神社の磐に刻まれた文字を探さなければなりませんが、とりあえずは神代文字として残存が多少把握できる、そこをたどるしかないようです。

今回秦野さんの訪問された出雲大社・宇佐・伊勢神宮や法隆寺に、上記の神代文字が残っているそうですから、そのあたりに記された文字資料と、測量・神話伝承との兼ね合いを、解明していきたいところです。

おそらくシルクロード系で伝わったアラム語系の文化が、弥生末期と、5〜6世紀の渡来人の時代に2回前後かかわってきていると感じてます。測量の種類とも対応してきます。

312管理人:2012/04/10(火) 07:56:56
九州屯倉方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000322M.jpg

続いて九州の屯倉に関する方位ライン図を作成してみました。秦野さんが訪問されてきた出雲、宇佐なども出てきます。その方位ライン図を添付いたしますので、よろしくご参照ください。

本州とは仲哀時代の福岡の香椎宮から出雲大社に延びるラインで連結されています。

宇佐の赤塚古墳周辺なども基点としており、先日紹介した弥生中期の四方区画とも連結してきます。

本州の屯倉方位ライン同様に、四方区画およびライン上に、「三」「倉」や「宮」などの皇室関連の地名が見えます。

特に注目したいのは、斉明女帝の朝倉宮の位置についてで、朝倉市東部に見える三奈木あたりの地名が、ひっかかりました。朝倉山との関係で東部地域に注目です。

朝倉の意味は、もともと屯倉があったということだったのでしょう。その宮基盤があってはじめて、あそこに遷都できたわけですね。

そのほか屯倉の位置推定もしてみました。

推定根拠の詳細は今回は割愛しますが、特に宇佐元宮の築上郡あたりも四方区画に出てきており、「桑原屯倉」=桑原勝;秦氏関連など秦氏との兼ね合いが見られます。また「勝埼屯倉」は、国東半島のことではないでしょうか。

そのほか、四方区画上に位置する由布院、安心院なども、かなり古い皇室領の可能性を感じますね。

ただ四方区画の1辺が25キロ〜あり、畿内の23キロ〜より広いのが気になってます。尺が変わったのか、弥生時代の四方区画に合わせたのかが課題です。

そのほか、注目すべきは、香椎宮という仲哀天皇の宮が出てきたことです。

先日紹介した宮の方位ライン図で、大和から宮の領域が徐々に東進し、春日、近江方面へと南北へ拡大していく過程で、急に仲哀から九州へ宮を飛ばして、その後河内へ戻る経緯があります。

これらの仲哀が九州北部に宮を移動した行動記載の背景には、関連の四方区画メッシュの測量拠点を西の一番端に持っていったということを暗示しているのかもしれません。

正確に測量するためには、四方区画の基準点の東西のどちらかをまず決めなければならないわけでして、どちらかというと大和のそれ以前の四方区画と、この屯倉関連の四方区画はマッチしない傾向があります。

一方で北九州の四方区画には、弥生中期のものとマッチしており、出雲大社へのラインもその延長線上で出てくるように感じます。

以前紹介したプサンからの出雲や吉備、伊勢に向かう5度角ラインについても、結局はこれらの四方区画メッシュのの交点を、結んだ結果として、90度角が整数分割されて、5度という整数地が出てきたものと感じます。

つまりそれは韓国でも同様な四方区画メッシュが存在するということを意味しているのでして、秦氏(それ以前は秦韓地域)からの渡来人と測量関連についても考慮していく必要があるでしょう。




313秦野北斗:2012/04/10(火) 08:45:53
Re: 九州屯倉方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000323M.jpg

管理人さんへのお返事です。

屯倉方位ラインとさざれ石のラインがほぼ一致している。
古代のある時から方位ラインで領地を正確に区割りしたみたいですな。

> 続いて九州の屯倉に関する方位ライン図を作成してみました。秦野さんが訪問されてきた出雲、宇佐なども出てきます。その方位ライン図を添付いたしますので、よろしくご参照ください。
>
> 本州とは仲哀時代の福岡の香椎宮から出雲大社に延びるラインで連結されています。
>
> 宇佐の赤塚古墳周辺なども基点としており、先日紹介した弥生中期の四方区画とも連結してきます。
>
> 本州の屯倉方位ライン同様





314棘の紀氏:2012/04/10(火) 09:10:54
縄文時代の『ヲシテ』という記号
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/032kodai.htm

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



315秦野北斗:2012/04/11(水) 09:26:09
Re: 屯倉方位ライン修正版
管理人さんへのお返事です。

渡来人の記録は古事記にあります。2200、2600、3700年でその文字は現在に引継がれています。例として、常陸は3700年前の発音が引継がれています。よく見ると、結構あります。
せいぜい遡って2200年、古事記で十分でしょう。

秦野北斗の古代史で日本地図の一部を紹介しています。

http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano1.htm

世界の伝説、神話を遡ると、カタカナ、ひらがな、は神代文字『アトランティス系』でヘブライ文字、アトランティス文字に該当する。シルクロードは範囲内です。

カタカナはヘブライ文字
ひらがなは古代ヘブライ文字、アトランティス文字

> 一般的に、渡来人の影響で、文字文化が日本に伝わり、蘇我氏等のもとで、仏教導入から、戸籍作成などをとして、屯倉拠点を展開していったとされてます。

> その矛盾を埋めるためには、弥生土器に記された文字片とか神社の磐に刻まれた文字を探さなければなりませんが、とりあえずは神代文字として残存が多少把握できる、そこをたどるしかないようです。
>
> 今回秦野さんの訪問された出雲大社・宇佐・伊勢神宮や法隆寺に、上記の神代文字が残っているそうですから、そのあたりに記された文字資料と、測量・神話伝承との兼ね合いを、解明していきたいところです。
>
> おそらくシルクロード系で伝わったアラム語系の文化が、弥生末期と、5〜6世紀の渡来人の時代に2回前後かかわってきていると感じてます。測量の種類とも対応してきます。


316秦野北斗:2012/04/12(木) 00:52:10
Re: 九州屯倉方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000326M.jpg

管理人さんへのお返事です。

秦野の提案ですが、方位ラインの大まかな線をさざれ石(これが何の残骸かは日本神話で)を目印にして、あとは古墳、遺跡、宮で線を引く、距離単位53km、?kmでどうでしょうか。

韓国にもさざれ石が有ると思うが、ただ、保存されているか問題です。
古墳を繋なぎ方位ラインを推測するしかない。さざれ石がみつかればな。

さざれ石ラインと屯倉関連の四方区画の比較図を添付。


> そのほか、四方区画上に位置する由布院、安心院なども、かなり古い皇室領の可能性を感じますね。
>
> ただ四方区画の1辺が25キロ〜あり、畿内の23キロ〜より広いのが気になってます。尺が変わったのか、弥生時代の四方区画に合わせたのかが課題です。

> 先日紹介した宮の方位ライン図で、大和から宮の領域が徐々に東進し、春日、近江方面へと南北へ拡大していく過程で、急に仲哀から九州へ宮を飛ばして、その後河内へ戻る経緯があります。
>
> 正確に測量するためには、四方区画の基準点の東西のどちらかをまず決めなければならないわけでして、どちらかというと大和のそれ以前の四方区画と、この屯倉関連の四方区画はマッチしない傾向があります。
>
> 一方で北九州の四方区画には、弥生中期のものとマッチしており、出雲大社へのラインもその延長線上で出てくるように感じます。
>
> 以前紹介したプサンからの出雲や吉備、伊勢に向かう5度角ラインについても、結局はこれらの四方区画メッシュのの交点を、結んだ結果として、90度角が整数分割されて、5度という整数地が出てきたものと感じます。
>
> つまりそれは韓国でも同様な四方区画メッシュが存在するということを意味しているのでして、秦氏(それ以前は秦韓地域)からの渡来人と測量関連についても考慮していく必要があるでしょう。
>




317管理人:2012/04/12(木) 02:44:07
Re: 九州屯倉方位ライン図
秦野北斗さんへのお返事です。

今戻りました、土日は大体どこか出向いてます。


> 秦野の提案ですが、方位ラインの大まかな線をさざれ石(これが何の残骸かは日本神話で)を目印にして、あとは古墳、遺跡、宮で線を引く、距離単位53km、?kmでどうでしょうか。
>
> 韓国にもさざれ石が有ると思うが、ただ、保存されているか問題です。
> 古墳を繋なぎ方位ラインを推測するしかない。さざれ石がみつかればな。
>
> さざれ石ラインと屯倉関連の四方区画の比較図を添付。
>

比較してみると、よく一致してますね。西日本の屯倉方位ラインは、25km〜29kmの四方区画のようですから、確かに2倍して53kmという線もでてきますね。

さざれ石という素材は、ある意味もっとも風化しにくい神道の遺物かもしれません。
古い神社には、もしかするとみなあったのではないでしょうか。

屯倉の四方区画は、おそらく出雲・伊勢・宇佐・・と言った古い弥生中期以降の神社を含んだ方位ラインをベースにしてます。それらの神社で共通の素材があれば、当然一致してくるはずですね。

さざれ石の持つ本来の意味について、もう少し考えを進めていきたいところです。

318管理人:2012/04/12(木) 03:05:02
神代文字
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000328M.jpg

http://www7b.biglobe.ne.jp/~choreki/sinmoji.htm#g



319秦野北斗:2012/04/20(金) 00:05:23
Re: 神代文字
管理人さんへのお返事です。

神代文字はペテログリフのようです。文字の対応はひらがな。神話を遡ると1万年バックできるのが根拠です。根拠は後日説明にします。今は方位でしたな。

最も古いものはウクライナの「カメンナヤ・モグリャ」にあるもので、旧石器時代(約10,000から12,000年前)のものといわれている。7,000から9,000年前頃には絵文字や表意文字のようなものが現れ始めた。この頃は世界中で岩面彫刻はまだ一般的であったが、いくつかの文化では20世紀になって西洋の文化が入ってくるまで、使用し続けていた。ペトログリフは、南極大陸を除く世界中で見つかっている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/ペトログリフ

http://www.google.co.jp/search?q=ペトログラフ&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP458JP458&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=IWt4T9baLOLPmAXptNDpDw&ved=0CDwQsAQ&biw=1046&bih=893

> > バハラ地方 の少数ユダヤ人の間には、10部族は長年アジア大陸を流浪し、あげくのはてに「中国の かなたの神秘な国」に定着した、との伝説があります。 ..... イワレ」――やはり日本語 では意味がないが、アラム語で「ヘブル」を意味する「IWRAA」が少し訛ったものと考え られる。 祇園祭では、「舟車」といって舟の形をした山車が、町内をめぐります。また神輿には、鳩に似た小鳥の彫刻や、榊の小枝をくわえた鳥の模型がついています。
>
> 祇園関連は、中世に近い時点での伝来なので、別のカテゴリーに入れるべきでしょう。そのころには新羅商人がアラビアで活躍している文献もあるくらいですから、ユダヤ商人の影響が日本にあっても何の不思議もありません。
>
>
> ただご紹介の「ヲシテ」の文字を見ていると、先日紹介したサイトにあった沖縄人とアイヌ人との間に見えるイレズミ文様の共通性を想起させます。実際幾何学的な文字構造が、イレズミそっくりです。
>
> そういう意味では、この文字には、古い起源があるかもしれません。秦野さんのアトランティス文字のそれも同様と感じます。
>

320管理人:2012/04/20(金) 00:54:29
Re: 神代文字
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000330M.jpg

http://f35.aaacafe.ne.jp/~shinri/petoro.html



321管理人:2012/04/20(金) 06:23:17
神代文字・追伸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000331M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000331_2M.jpg

http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/konitan/iroha.htm



322秦野北斗:2012/04/20(金) 07:02:46
Re: 神代文字・追伸
管理人さんへのお返事です。


ペテログリフはあるが、神社にある理由が不明、古事記に入ります。
方位ラインのさざれ石からです。

さざれ石 神話を要約します。

猿田彦神社の『サルタヒコを送り届けて』の文章と猿田彦神社のさざれ石が結びつく。
http://blogs.yahoo.co.jp/sanaemac/27139090.html

猿田彦神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/猿田彦神社

ニニギノミコトは、アメノウズメノミコトにこう言いました。
サルタヒコの神を送って行ってあげなさい。
アメノウズメノミコトは、サルタヒコを送り届けて帰って来る。
天皇にゆかりの深い神社、三重県松坂市にサルタヒコの神を祭る。
海で魚を獲(と)っていたところ
http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_06.html

邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来たのであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/サルタヒコ

以上の文章からさざれ石はサルタヒコの残骸です。サルタヒコはのろしで光通信を目的とした物。用途は灯台、サーチライトで光はホオズキ、橙色。光通信距離は常陸、出雲、韓半島。常陸、伊勢、及び大和葛城、和泉葛城、四国高知、厳島、九州の大通信網が存在した模様。現存しているのが灯篭です。



> 下記に引用した三女神社のペテログリフを、同じく先に紹介した神代文字総覧サイトの中にある「節墨譜文字」、「法隆寺秘蔵文字」あたりの五十音文字表から解析してみました。
>
> どうも、「イロハニホヘト・・」という「ひふみ祝詞」のようです。神道で、盛んに唱えられた祝詞だそうで、いつの時代かに、石碑として刻まれたのでしょう。
>
> したがって、その「ひふみ歌」が成立した時期までには、おそらくはヘブライ語の文字・数詞・関連詩文、神話伝承等が日本に入っていて、その影響で、屯倉方位ライン上にあって宇佐・秦氏の影響圏内の安心院・三女神社で、このような碑文が刻まれたと解釈すべきかもしれません。
> 秦韓あたりから秦氏等が渡来して、その後奈良時代に至るまでに、どこかでヘブライ文化が流入したと考えるのが妥当な感じがします。その辺の新旧を、もう少し追求してみたいところです。
>
>

323棘の紀氏:2012/04/21(土) 03:25:44
庚申の主神は、「申(猿)」から猿田彦神
http://www.tkfd.or.jp/news/india2/36_20021001_1.shtml

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



324棘の紀氏:2012/04/21(土) 04:56:09
忍路環状列石の造られた時期は今から約3500年 前の縄文時代の後期です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/音江環状列石

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



325棘の紀氏:2012/04/21(土) 05:53:18
聖なる北緯43度線 【干】字状パターン 地域メッシュ
http://sds.crazyflight.org/?p=39

http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/



326秦野北斗:2012/04/22(日) 01:43:20
Re: 神代文字・追伸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000336_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/淡海三船



327管理人:2012/04/22(日) 03:08:57
Re: 神代文字・追伸
秦野北斗さんへのお返事です。

> さざれ石 神話を要約します。
>
> 猿田彦神社の『サルタヒコを送り届けて』の文章と猿田彦神社のさざれ石が結びつく。


> ニニギノミコトは、アメノウズメノミコトにこう言いました。
> サルタヒコの神を送って行ってあげなさい。
> アメノウズメノミコトは、サルタヒコを送り届けて帰って来る。
> 天皇にゆかりの深い神社、三重県松坂市にサルタヒコの神を祭る。
> 海で魚を獲(と)っていたところ

先の「ひふみ歌」で隠れている女神を誘い出すというテーマが、ユダヤの同様な「ひふみ歌」の意味にある点で神話的な部分から解明できないでしょうか。

ひふみ歌と、その碑文がある三女神社は、女神というテーマで深く結びついてます。三の意味は、三宅の三です。


それで女神関連の神話というとアマテラスの岩戸篭りで、上記のサルタヒコやアマノウズメも重要な役目を担ってます。

三女神信仰は、宗像、宇佐方面に広がり、宗像の信仰は宮中に入ります。アマテラス信仰も伊勢と関連しながら、宮中に入ってくるわけですが、女神を誘い出すというテーマが、それらの伝承に入っていたとみるべきでしょう。

そしてその意味は、ひふみ歌のごとく、測量・数詞関連にもかかわってくる。

> 邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来たのであった。


これらの神話伝承には、今まで見てきたとおり、測量の題材が実に多いですね。キシさんお得意の中国の古代神話や文字成立にも、測量題材が実に多いようです。

ひふみよ・・・で、数詞の意味もかね合わせる点が、アラム語の特徴とよく似ています。
普通は数詞は、別の文字や意味を持ちます。「一、ニ、三、456」

だから数詞を持って意味を成すひふみ歌が訓読みの世界では容易に想像できるわけですね。

神話のひとつひとつのシーンに隠された意味があるように感じます。

328管理人:2012/04/30(月) 07:58:03
Re: 神代文字・追伸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000338M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/阿比留草文字



329秦野北斗:2012/05/01(火) 09:43:11
Re: 神代文字・追伸
管理人さんへのお返事です。

管理人さんの言っている「ひふみ歌」はヘブライ語の訳で正しいです。

 「HAIAFA・MI・YOTSIA・MA・NAANE・YKAKHENE・TAWO」(ハイアファ ミヨッツァ マナーネ ヤーヘーナタウオ)
 と発音されます。その意味は、
 「だれが女神様を出すのでしょう。誘いに、いかなる言葉をかけるのでしょう」なのです。」

「ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のます あせえほれけ」

「この神歌は天照大神が天の岩戸に隠れましたとき「天鈿女命」が岩戸の前で楽しげに神舞を舞うときに謡われた歌です。」

「だれが女神様を出すのでしょう。誘いに、いかなる言葉をかけるのでしょう」
 なのです。」

屯倉方位ラインから遡ります。方位ラインは「さざれ石」の分布とほぼ一致している。
方位ラインがあり、細分化され屯倉方位ラインに成ったと思われる。
「さざれ石」がサルタヒコの残骸であることは話したがピンとこない模様。

> > 邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来たのであった。

サルタヒコ
鼻の長さ七咫(ナナアタ=約1.2m)もあり、背の丈は七尺(約2.1m)あまりで、身長は七尋(ナナヒロ=約12.6m)近く。しかも、口と尻は明るく光っていて、目は八咫鏡(直径46cm 前後)のように円く大きく、真っ赤なホオズキのように照り輝いている。

サルタヒコは文章から2.1m×12.6mのドーム状、鼻は煙突で1.2m、口と尻から燃料を投入し、目(直径46cm 前後)×2から真っ赤なホオズキ色の光を出す灯篭、狼煙。
材質は石灰質系のさざれ石、山頂に置かれる。中心は三輪山の大神神社のなる。
サルタヒコは相当な大きさ、道をふさぐのは理解できる。その後、茅渟の道を通り、韓半島へ向かう。
後は神武天皇の登場・・・。

方位ラインとの関係は、三輪山から小浜方向はアマテラスライン、明石方向が神功皇后ラインになる。ほぼ奈良、堺の古墳はカバーしている。
サルタヒコで光通信の通信ノウハウを探すと「いろは歌」を語順に通信したと思われる。

「ひふみ歌」はサルタヒコに隠れたアマテラスを出すことになる。鏡でサルタヒコの目から覗くとアマテラスがいたので、安の川原(箸墓)に集まり八百万が協議する。ドンちゃん騒ぎでアマテラスの興味を引き岩戸、サルタヒコから外に出す。サルタヒコに点火し光通信が復活、この頃は葦原中国、黄泉、四国、厳島、宮崎ぐらい。中国史籍にサルタヒコらしい物が登場する。これには、手こずっている。

ヘブライ語との関係は古事記の解読が必要になる。古事記の20%は話したな。


> コンピューター認識で、文字をOCRでスキャンしたりしますが、その辺の情報データ変換を駆使すれば、おのづから、どの文字とどの文字に相関性があるかは見えてくるはずです。だれかそういうソフトつくってくれないかな?

330管理人:2012/04/04(水) 06:27:11
Re: 神代文字・追伸
秦野北斗さんへのお返事です。


> 管理人さんの言っている「ひふみ歌」はヘブライ語の訳で正しいです。
>
>  「HAIAFA・MI・YOTSIA・MA・NAANE・YKAKHENE・TAWO」(ハイアファ ミヨッツァ マナーネ ヤーヘーナタウオ)
>  と発音されます。その意味は、
>  「だれが女神様を出すのでしょう。誘いに、いかなる言葉をかけるのでしょう」なのです。」
>
> 「ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のます あせえほれけ」

さっそくお返事ありがとうございます。そうですね、語音の変化を抽出すると、

「ヒ」→「ハイ」 「フ」→「ファ」 「イツ」→「ツィア」 「ム」→「マ」 「ナナ」→「ナナネ」 「ココノ」→「カケネ」 「トオ」→「タウォ」


となります。

日本語でいう「イ・ウ・エ・オ行」が、ヘブライ語では「ア行」に変化しているようです。

難しいのですが、ヘブライ文字にはいわゆる母音表記がないので、子音だけ共通要素として残って、母音はそれぞれ独自のつけ方をしたと解釈できるかもしれません。

昨日の比較文字表を見ると、もっと何か出てきそうな感じはあります。


> > > 天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。
>
> サルタヒコ
> 鼻の長さ七咫(ナナアタ=約1.2m)もあり、背の丈は七尺(約2.1m)あまりで、身長は七尋(ナナヒロ=約12.6m)近く。しかも、口と尻は明るく光っていて、目は八咫鏡(直径46cm 前後)のように円く大きく、真っ赤なホオズキのように照り輝いている。
>
> サルタヒコは文章から2.1m×12.6mのドーム状、鼻は煙突で1.2m、口と尻から燃料を投入し、目(直径46cm 前後)×2から真っ赤なホオズキ色の光を出す灯篭、狼煙。
> 材質は石灰質系のさざれ石、山頂に置かれる。中心は三輪山の大神神社のなる。

>
> 「ひふみ歌」はサルタヒコに隠れたアマテラスを出すことになる。鏡でサルタヒコの目から覗くとアマテラスがいたので、安の川原(箸墓)に集まり八百万が協議する。ドンちゃん騒ぎでアマテラスの興味を引き岩戸、サルタヒコから外に出す。サルタヒコに点火し光通信が復活、この頃は葦原中国、黄泉、四国、厳島、宮崎ぐらい。中国史籍にサルタヒコらしい物が登場する。これには、手こずっている。




なるほど、猿田ヒコは、ご指摘のとおり、炉関連の装置のように見えますね。八街の話は、確かに方位ラインと深くかかわっているように感じます。

こちらは煙突をつけた埴輪製造装置です。この辺もヒントになるのではないでしょうか。

http://www.f-tougei.co.jp/photo/14183/haniwa/yaki1.html


331秦野北斗:2012/04/04(水) 07:58:02
Re: 神代文字・追伸
管理人さんへのお返事です。

整理すればヘブライ文字が読めますな。

> さっそくお返事ありがとうございます。そうですね、語音の変化を抽出すると、
>
> 「ヒ」→「ハイ」 「フ」→「ファ」 「イツ」→「ツィア」 「ム」→「マ」 「ナナ」→「ナナネ」 「ココノ」→「カケネ」 「トオ」→「タウォ」

天の八衢は特定済みです。
明石方向の神功皇后ラインになる。

> > > > 天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。

猿田ヒコは古事記の項に記録がある。炉の内部で石をまっ赤に焼く・・・。

「この山に赤いイノシシがいる。これをわしらが追い出すから、お前はこれを待って、捕まえろ。もし、失敗したら必ずお前の命をもらうぞ。」
とオオクニヌシに言うと、イノシシに似た大きな石を火でまっ赤に焼いて、山の上から転がして落としたのです。オオクニヌシは、落ちて来た火石をつかもうとして、無惨にもその熱に焼かれて死んでしまいました。
 すると、オオクニヌシのお母さんの神が嘆き悲しみ、高天原に昇って、カミムスビノミコト(神産巣日命)にご相談されました。そこで、カミムスビノミコトは、オオクニシを生き返らせるために、キサガイヒメ(キサ貝比売。キサ貝=赤貝のこと。)とウムガイヒメ(蛤貝比売。蛤=はまぐり)を遣(つか)わせました。キサガイヒメは、自分の身を削り、ウムガイヒメがそれを受けとめたのを母の母乳のように、オオクニシの体にやさしく塗ったところ、まことに美しい青年に復活したのでした。(※古代の火傷(やけど)の治療方法)

http://www15.plala.or.jp/kojiki/Okuninushi/okuninushi_03.html

> なるほど、猿田ヒコは、ご指摘のとおり、炉関連の装置のように見えますね。八街の話は、確かに方位ラインと深くかかわっているように感じます。
>
> こちらは煙突をつけた埴輪製造装置です。この辺もヒントになるのではないでしょうか。





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