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歴史掲示板

312管理人:2012/04/10(火) 07:56:56
九州屯倉方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000322M.jpg

続いて九州の屯倉に関する方位ライン図を作成してみました。秦野さんが訪問されてきた出雲、宇佐なども出てきます。その方位ライン図を添付いたしますので、よろしくご参照ください。

本州とは仲哀時代の福岡の香椎宮から出雲大社に延びるラインで連結されています。

宇佐の赤塚古墳周辺なども基点としており、先日紹介した弥生中期の四方区画とも連結してきます。

本州の屯倉方位ライン同様に、四方区画およびライン上に、「三」「倉」や「宮」などの皇室関連の地名が見えます。

特に注目したいのは、斉明女帝の朝倉宮の位置についてで、朝倉市東部に見える三奈木あたりの地名が、ひっかかりました。朝倉山との関係で東部地域に注目です。

朝倉の意味は、もともと屯倉があったということだったのでしょう。その宮基盤があってはじめて、あそこに遷都できたわけですね。

そのほか屯倉の位置推定もしてみました。

推定根拠の詳細は今回は割愛しますが、特に宇佐元宮の築上郡あたりも四方区画に出てきており、「桑原屯倉」=桑原勝;秦氏関連など秦氏との兼ね合いが見られます。また「勝埼屯倉」は、国東半島のことではないでしょうか。

そのほか、四方区画上に位置する由布院、安心院なども、かなり古い皇室領の可能性を感じますね。

ただ四方区画の1辺が25キロ〜あり、畿内の23キロ〜より広いのが気になってます。尺が変わったのか、弥生時代の四方区画に合わせたのかが課題です。

そのほか、注目すべきは、香椎宮という仲哀天皇の宮が出てきたことです。

先日紹介した宮の方位ライン図で、大和から宮の領域が徐々に東進し、春日、近江方面へと南北へ拡大していく過程で、急に仲哀から九州へ宮を飛ばして、その後河内へ戻る経緯があります。

これらの仲哀が九州北部に宮を移動した行動記載の背景には、関連の四方区画メッシュの測量拠点を西の一番端に持っていったということを暗示しているのかもしれません。

正確に測量するためには、四方区画の基準点の東西のどちらかをまず決めなければならないわけでして、どちらかというと大和のそれ以前の四方区画と、この屯倉関連の四方区画はマッチしない傾向があります。

一方で北九州の四方区画には、弥生中期のものとマッチしており、出雲大社へのラインもその延長線上で出てくるように感じます。

以前紹介したプサンからの出雲や吉備、伊勢に向かう5度角ラインについても、結局はこれらの四方区画メッシュのの交点を、結んだ結果として、90度角が整数分割されて、5度という整数地が出てきたものと感じます。

つまりそれは韓国でも同様な四方区画メッシュが存在するということを意味しているのでして、秦氏(それ以前は秦韓地域)からの渡来人と測量関連についても考慮していく必要があるでしょう。







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