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歴史掲示板
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周髀算経
キシさん、情報ありがとうございます。
周髀算経を、奈良を測量した集団が知っていたかどうか、そこが課題です。
遣唐使の時代になれば、日本でも暦の教科書として読まれていたといいますが、果たして弥生末期から古墳時代に、その知識をもった集団が渡来していたか?この辺がキーです。
> 周髀(髀を英語でノーモンという)は、地上に立てた垂直体で、正午における表の影を測定して、冬至や夏至の日を測定することが古くから行なわれてきた。
> すなわち、冬至の時は影長がもっとも長く、夏至はもっとも短くなるからである。
> ところで、使用された表の長さは八尺であり、これに対し夏至の影長は一寸六尺、冬至には一丈三尺五寸となる。
8尺もの棒を使用していたというのも興味深いですね。ただ洛陽で使ったそれを日本にもってきたとも思えないので、8尺のものを作成しなおしたと考えるべきでしょう。
それで椿井大塚山古墳の緯度と、洛陽の緯度が同じなのは、その8尺棒の影の長さから計ったと考えたわけですが、ここを拠点として測量をはじめたので、三角縁神獣鏡がたくさん出土するのではないかと感じます。
ここと関連の物部の本拠・磐舟神社に突然集団がどこからかやってくるんですね。この両地点を11・1キロで結んで四方区画を作り上げていく。そして桜井茶臼山へとラインを伸ばしていったわけです。
11.1kmの数値を、先にお話した大多数の三角縁神獣鏡の直径22.2cmの半分11.1cmを1基準とみなして測量を開始した線も感じます。
1尺を22cmとするのは、前漢と周の間にあったある王朝の尺を使っていた楽浪・秦韓系の遺民集団の影響かと感じます。しばらくそこで三角縁も製造されていたので、魏尺の23cmの三角縁が少ないわけです。
その集団が10度の角度で南下していき、先の3つの四方区画をつくったわけですね。
逆にいえば、この尺度でどこか北九州なりプサンなりに似たような四方区画があれば、そこを拠点にして、さらに東遷という可能性もでてくるかもしれませんが、対馬の北岸から比田湾あたりが、やや洛陽の緯度に近いとは感じます。この辺でプサンをみながら、棒を立てて測量した可能性を感じますね。
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