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歴史掲示板
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河内・三島・近江の宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000311M.jpg
下記ご指摘の河内の方位ラインの件ですが、先日お知らせした宮の方位ライン図から、河内・三島・近江の宮のラインに注目して分析してみました。図を添付します。
意外にも、円で囲んだ、河内、三島、近江の宮に、並行(青線)・垂直(赤線)・斜め55度のライン関係が見えることにお気づきになられるかと感じます。
先に注目した田原本町の孝霊(宮)が絡んでくるのですが、この宮はおそらくはライン的にても少し新しいんです。4世紀後半?
それで、55度角というのは、35度角の裏返しで、緯度と関係した基本的な直角三角形測量によるもので、九州の弥生中期時代の遺跡を結んだ四方区画や、大和のそれにも見える角度です。
それで、この斜線と、垂線を見るに、紫色で示したような、四方区画を構築しようとした形跡を感じます。おそらくは、紫線で囲ったそのあたりに存在したことでしょう。南北65KM、東西37km程度の四方区画ですね。奈良の四方区画の2倍前後のものを作ろうとしたようです。
これに、さらに先日の百舌と古市の古墳群を結んだ東西11.1kmの方位ラインとも関係してくると思います。後で分析図を示します。
こう考えていくと、もともと四方区画の角部に、宮を置いたり、親族を配置したりしていたものと感じますし、その関係で、四方区画のそれらの部分に同時期の関連した古墳も出てくるのでしょう。記紀には親族の反乱伝承もそのあたりから出てくるようです。
その関連で、河内や、三島にも、あるいは近江にも、皇族を配置していたのですが、そのうちに力をつけるものがでてきて、それが河内の仁徳や、三島の継体だったのかもしれません。
また宮を最前線に構えるという傾向もありますね。仲哀や斉明のケースと同様です。そしてその最前線で、あたかも地面を踏みならすかのように、数回宮を移動させています。円形の部分に見える平行線に基づくひし形がみえるあたりです。
全体的には、大和の四方区画を主人とした関係にあることには変わりないんです。だから王朝交代かどうかが疑問が残ります。
ただ、そのころには、東西に軸を傾ける測量はしなくなっており、東西南北に垂直・並行なラインに変化しています。おそらくは成努の少し前あたりで、測量方法が変化しているはずですが、それらが王朝交代に関するものであるかというと、そうといえる要素もないので、なんとも言えない感じです。
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