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四方区画の尺度
また測量方法について考えてます。
昨晩は500メートルほど離れたマンションの部屋の光を眺めていたのですが、ちょうど1度分角度が東西に傾くと、その部屋の明かりひとつ分(3メートル)くらいの誤差がでるようです。
同様に200メートル規模の古墳の墳丘上に円筒埴輪を並べて、それに火を入れて、500メートル離れたところから、各円筒埴輪との位置と角度を測ることで、1度の範囲内で測量を可能になったのでしょう。
まず最初に平地をならして、100メートルくらいの綱をつくって、それを10回使って1キロ程度の基本距離を測定したことでしょう。
その後は、その基本距離の両端から、90度と45度の三角測量を行って、その連続で特定方向へと距離を伸ばしていったものと感じます。その角度を測るのが三角縁神獣鏡の鋸歯紋の分度器メモリですね。
そこで問題は、その100メートルくらいの綱を作るに際して、何をモノサシにしたかです。
先にお知らせした各地の遺跡を結んだ四方区画には、(九州(弥生中期)・奈良)10.5KM、(奈良)10.8KM、(河内・奈良)11.1KMと3つの距離尺度が見えました。
これらは、それぞれ、後漢の1里420M÷4=10.5、魏の1里432M÷4=10.8、隋の小尺(前王朝の尺)444M÷4=11.1に由来するものと考えます。(1里は1800尺です)
ただ1里を4で割った件については、開拓すべき地域の距離に合わせたのか、あるいは別の理由かが問題ですが、ともあれその当時の1里の元となった1尺を示す定規、どこかから仕入れる必要があったのでしょう。
たとえば、平原鏡の直径が46センチで、後漢の1尺23cmの2倍だといわれてます。
また三角縁神獣鏡の直径を調べていくと、21.7〜22.4cmが圧倒的におおく、次に23.7〜24.1のものが少々見えるようです。
前者は前漢尺23.1cmと周尺19.9の間で、後者は魏尺24.0cmに近いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/度量衡
そして、この鏡の直径:21〜2cmを5倍すると、105〜110cmという上記の九州・奈良の四方区画の関連数値がでてきます。したがって、鏡の直径を1尺として理解していたことも考えうるでしょう。
同様に前・後漢鏡の直径も下記のサイトから調べてみたのですが、こちらはバラツキがありました。13.5〜7cm前後の鏡、97〜100cmなどが多いようです。
http://www.yamatobunko.co.jp/kagami/kankyou/list4/list4.htm
もっとも、その九州の弥生遺跡を結ぶ四方区画の基準単位に、27.5kmというものがあり、これが前漢尺27.65cmと一致するので、その半分の13.5cm前後の鏡を、当時測量基準に使用した可能性を感じます。
このように、中国から仕入れた鏡などから1尺を取り出して、基準距離を作り出していったと思います。
そして綱と鏡と筒型埴輪を使った三角測量とで、どんどん距離を測っていったのですが、海を越えるような、難解な測量については、やはり1尺の棒をたてて、その日影の長さで、緯度と距離を測る周碑算径の理論が応用されたと見るべきでしょう。
洛陽と椿井大塚山古墳の緯度が同じことを考慮すると、同じ尺棒を使ったことによるとも感じますし、そうすると、椿井大塚山古墳から奈良に伸びる10度傾いた四方区画に使った道具、鏡などの種類も限定されてくるかもしれません。
おそらく狗邪韓国・プサンから、奈良までの距離を正確に出すためには、対馬・壱岐島経由で、まず先の狼煙火をつかった測量で正しい方角を割り出して、周碑算径でさらに福岡の緯度を割り出し、福岡から、出雲や奈良までの東西距離を三角測量で伸ばしていくしか方法はなかったでしょう。
すでに弥生時代に楽浪郡経由で成功しているので、会報で記したような遼東から楽浪郡から九州各地まで伸びる正確な方位ラインが存在しているわけですね。
同様に出雲や奈良北部の物部の本拠磐船神社、そして椿井大塚山周辺まで、その弥生中期の時点で伸びていたかどうか?そこも課題です。おそらく下記のプサンから伸びる方位ラインは、その辺の是非とかかわってきます。
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