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Japanese Medieval History and Literature
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快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
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またまた、勝手に留守番
>筆綾丸さま
>無象静照はたしか中国留学を経験していて、以前から関心があるのですが、どのような
解説がありましたか。
図録「特別展 正福寺展(東村山ふるさと歴史館)」には、残念ながら、無象静照について、人物等の
詳細は書かれておりません。
・北条時頼と書簡のやり取りのあった石渓心月(仏海禅師)の弟子である。
・法兄(ほうひん)である宋朝僧大休正念が来日した。
・無象静照(法海禅師)は、文永2年(1265)に帰国し、
博多の聖福寺、その後鎌倉の大慶寺ん住職を勤め、
仏心寺(京都市)、宝林寺(宮津市)、興禅寺(高萩市)の開山でもある。
と書かれているくらいでしょうか。特別展でも同じような記載であったと思います。
>政子が「源家」というのは、どうも納得がゆかぬのですよ、
実は私は、逆に納得がいってしまったのです。
「相模三浦一族とその周辺史(鈴木かほる、新人物往来社)p179」に、
北条時政が遠江守、北条義時が相模守、北条時房が武蔵守に任官したのに対して、
和田義盛が上総国司を望んだが、尼政子が「源氏以外は受領の例はない」として許容しなかった。
という話があり、政子は、自分は勿論一族の北条氏も平氏ではなく源氏の一族と見ていたのではないかと思えたからです。
→政子を「源家」としても問題なさそう。
また、嘉禄二年(1226)4月4日、執権北条泰時が将軍家の追善供養を修めた際、頼家の娘竹御所が参列したにもか
かわらず、頼家の供養はされず頼朝、政子、実朝の法華経のみが奉納されている(吾妻鏡)。
頼家は、仏になっても不吉とされていたようである。
「相模三浦一族とその周辺史(鈴木かほる、新人物往来社)」p169
→どうも、頼家は(北条氏に暗殺された可能性が高く)忌み嫌われた。
などが、その理由でございます。ご批判賜れば、ありがたく。
>はぎつきみたえさま
>「落第忍者乱太郎」
アニメは時々見ているのですが、そんな深い背景があるとは、知りませんでした。
>相国入道さま
またまた、ご案内ありがとうございます。
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墓の怪
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html
『吾妻鏡』嘉禄2年(1226)4月4日には、たしかに、右大将家・右府将軍・二品とあり、
また、故二品のため、大倉新御堂に三重塔建立が始まった、とあり、頼家は全く除外され
ているので、これだけみると、「源家三代」は頼朝・実朝・政子の三人の如くにみえな
くもありません。
しかし、前年嘉禄元年(1225)7月11日の二位尼死去の条をみると、二位尼は大将軍の後室
で、二代将軍の母儀だった、とあって、この記述における「源家三代」は、頼朝・頼家・
実朝である、というふうに読めます。気になるのは、次の文で、政子を呂后になずらえて
いることです。『史記』では、「高祖本紀」のあとに「呂太后本紀」を置いて、呂后は
「皇帝」扱いなんですね。『吾妻鏡』の編者は、『史記』に倣い、源氏三代の後に、別姓
の二位尼が、実質的な将軍として君臨したが、呂后が劉姓でないように、二位尼は源姓で
はない、呂后が皇位の簒奪者なら、二位尼も将軍位の簒奪者だろう、と暗示してるように
思われなくもありません。嘉禄2年4月4日の記述だけで、「源家三代」を帰納するのは
早計ではあるまいか。
また、政子を「源家三代」に擬制してしまうと、頼家の遺児竹御所を頼経の正室にした政
治的意味がなくなってしまうように思われます。高齢(28歳)の竹御所鞠子を少年の頼経
に強引に嫁がせたのは、源家の血を絶やすまいとする政治判断ですよね。
『吾妻鏡』の竹御所の記述が気になり、死去の前後をみますと、文暦3年(1235)7月27日
条の竹御所一周忌に、竹御所の姫君の御除服の儀があった、とあります。一年の服喪で
すから、この姫君は竹御所の実子とみていいのでしょうね(猶子や養子の服喪期間がわ
からぬのですが)。これは、頼経の子だろうか、連れ子だろうか、と思いました。
後者とすれば、竹御所は頼経に嫁ぐ前に、誰かと結婚して子をなしていたのか、と思い
ましたが、そんなこと、ありえないですよね。これは、ただ単に、竹御所の子である姫
君ではなく、竹御所なる姫君(御台所)という意味かな。
頼経と竹御所の婚儀の翌年(1231)2月20日に、頼朝の遺児貞暁が高野山で死んでます
が、『吾妻鏡』同年6月22日条に、貞暁は所領を西園寺家の若公に遺領した、という
記述があり、なんで西園寺家なのか、と疑問に思いました。高野山での生活の面倒を
西園寺家がみていたのかしら。あるいは、北条氏に殺されていてもおかしくなかった
のに、西園寺家が奔走して助命してくれた恩返しでもあったのかしら。・・・どうも
よくわかりません。
高野山の金剛三昧院多宝塔は、貞応2年(1223)に政子が建立を命じ、元仁2年(1225)
10月に入仏供養が行われたとしますと、政子は多宝塔の建立とともに、多宝塔と同じ敷
地に、三基の墓石の造立も命じたのではないか。この三基は、頼朝・頼家・実朝の三人
であったが、入仏供養の時、政子は直前に死んでいないので、玉突きの原理で三人の
うち一人が弾き出され政子が納まった、頼家と実朝のどちらが弾き出されてもよかっ
たが、いちばん影の薄い頼家が弾かれて、爾後、「頼朝・実朝・政子」三代の墓と伝承
されるようになった・・・と妄想してみました。
政子が源家の菩提を弔うとして、いくら鬼女でも、自分の腹を痛めた頼家を除くなどとい
うのは、人間性の問題として、不自然ですよ(笑)。我が子を殺めることは、母性として
不自然ではありませんが、すでに亡き我が子の菩提を弔わないのは、母性として非常に
不自然なんですね(笑)。
「源家三代の墓」の当初の姿は、頼朝・頼家・実朝であって、多宝塔供養の直前という
絶妙な時期に政子が死んだので、頼家を蹴落として政子が割り込んできた、ということ
ではないしょうか。それは政子の本意ではなかった筈だ。・・・もちろん、ただの妄想
にすぎませんが。
追記
「嘉禄二年(1226)4月4日、執権北条泰時が将軍家の追善供養を修めた際、頼家
の娘竹御所が参列したにもかかわらず、頼家の供養はされず頼朝、政子、実朝の法華経
のみが奉納されている(吾妻鏡)」
ですが、『吾妻鏡』には、「頼家の娘竹御所が参列したにもかかわらず」などという文
はないので、著者が何を引用したのか、不思議ですね。また、『吾妻鏡』の記述から言
いうるのは、頼家についての言及がない、というだけであって、頼家の供養があったか
どうかは不明である、ということになりますね。
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花押と射影
相国入道さま
「室町幕府2代将軍足利義詮花押が、高師直の花押を模したものから、足利様花押に
変化した直後の文書」
佐藤進一氏の『花押を読む』には、たしか、高氏の花押は高時の花押を模して、「高」
と「氏」を合体したもので、これが将軍家の武家様花押の濫觴であり、師直の花押は
高氏の花押を模したものである、他方、直義の花押を継承した鎌倉公方は将軍家に
対して独自性を主張した、とあったかと思います。
そこで、疑問なのですが、将軍家の義詮が執事如きの花押の真似をする、などという
ことが、あの時代、ありうるものなのでしょうか。
花押の謂わば射影として、高氏→師直→義詮ではなく、あくまで、高氏→義詮であって、
かりに師直と義詮の花押が瓜二つであっても、師直→義詮とはならないような気がする
のですが、いかがでしょうか。
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足利義詮の花押について
>筆綾丸さま
足利義詮の花押が高師直を模したものと指摘してるのは、佐藤博信氏の論文「足利義詮の花押について」で紹介されています。
文章を引用いたします。
「年少の鎌倉殿義詮の元服式と御判始は、時の関東管領(上杉憲顕と高師冬)の主導によって幕府との関係において政治的に執り行われたと評価される。その両者の際立った性格の相違は、時の幕府内部の二大政治勢力の拮抗(足利直義と足利尊氏、高師直の対立に象徴される)の所産であったわけであるが、その段階的相違は当時の関東管領間力のバランスの変化(高師冬の権力強大化)に対応するものと考えられる。それは、結果的には上杉氏は名としての一字を高氏は実として花押をとったともいえないのである。こうしたこと自体、鎌倉殿義詮がその二大政治勢力の狭間に存在していたことを雄弁に物語る事実ではなかろうか。」としています。さらに佐藤氏は「これまでの直義の地位の後継者としてのみならず将軍職の後継者として義詮を京都で迎えたであろう高師直には、前途洋々たるものがあったに違いない。その限りでは、将軍の執事であってそれほど独自権力基盤を持たなかった高氏(こうし)であるが、あくまでも義詮を通じて「第二の北条氏になる可能性は必ずしも絶無ではなかった」(この点は石田善人氏「室町幕府論」参照しています)ようにおもわれるのである。」としています。しかし高師直が観応の擾乱によって滅亡したため、義詮は足利様の花押に改判したとも、佐藤博信氏は指摘しています。『中世東国の支配構造』思文閣出版1988年に所収されていますので見てください。
また、鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉朝宗の花押を模しているということ(同書所収「足利持氏花押について」)も、指摘していますのであわせてお知らせいたします。
それから、筆綾丸様『織田信長文書の研究』が話題に上がっていましたね。私もこの本がほしくて、出版社に何度も問い合わせたのですが、重版準備中で中々再販がでませんでした。古本屋で見つけてもとても手の届くような金額ではなかったので、コピーをとってその場をしのいだという思い出があります。
大学を卒業してもついに出版されずに、それからしばらくして再販された時は真っ先に購入したことは言うまでもありません。
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歴史観
勝手に留守番をさせていただいておりますが、私は歴史のプロではなく、ここに集うプロ系の方のような、一次資料に基づく議論ができないのが、口惜しくもあり、読者の方に申し訳なくも思うのですが、今後も少しづつ勉強させていただき、自分の歴史観を形成いたしたく考えております。
>筆綾丸さま
私が、「源家」を「頼朝、実朝、政子」と聞いて、納得してしまったのは、先にあげました本を通して、この考えを受け入れる素地が出来上がってしまっていたからでありまして、ご指摘のように、他の多くの史料を読みこなして総合的に判断したわけではございません。
ただ、「頼家が忌み嫌われていた。」と言われて、納得してしまう理由は他にもございまして、頼朝、政子、実朝の墓は鎌倉にあるのに対して、頼家の墓は修善寺のみで、鎌倉には供養塔すらないためであります。これは、頼家が祟るのを恐れたためではないかと思ってしまうわけです。
>高齢(28歳)の竹御所鞠子を少年の頼経に強引に嫁がせたのは、源家の血を絶やすまいとする政治判断ですよね。
実朝が暗殺されたとき、すでに宮将軍の下向の内諾が得られていたと言いますから、この際、源氏の血は関係なくなっていたのではないかと考えられるのですが。
宮将軍の実現を後鳥羽上皇に反故にされて、摂家将軍として女系で源氏の血をひく三寅くんを鎌倉殿に押し立てたわけで、竹御所を娶らせたのは、「源家の血を絶やすまい」としたのではなく、新将軍を北条氏としてよりコントロールしやすくするために、政子の息のかかった姫を嫁がせたと考えられるのですが。
5代将軍頼嗣の正室は、執権北条経時の妹ですよね。この辺から推測しても、源氏の血というより、北条家の意のままに動かせるかどうかということが重視されたのではないでしょうか。
東国武士団にとって、清和源氏という血は必須ではなく、自分たちの利益代表となり、訴訟を裁く象徴であればよく、高貴な血を引いていればそれでよいということではないでしょうか。
>相国入道さま
>『織田信長文書の研究』
>再販された時は真っ先に購入したことは言うまでもありません。
本当に、歴史が好きなのですね。
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見渡せば花も紅葉も・・・反定家風
NAO4@吟遊詩人さま
頼家と公暁に対して、鎌倉は冷酷すぎますね。権力闘争ですから、邪魔者を消すのは止む
を得ぬにしても、菩提くらいは弔ってやれよ、と義憤(?)を感じますね。
「新将軍を北条氏としてよりコントロールしやすくするために、政子の息のかかった姫を
嫁がせた」
仰る通りですね。源家の血というのは、なんと言いますか、共同幻想のようなものなので
しょうね。
竹御所鞠子は、周囲に強面のおじさんや魔女のようなおばさんがいたにしても、なぜ、
とっと出家しなかったのか、俗世に生きていても北条一族に利用されるだけなのはわかり
きったことじゃないか、つくづく馬鹿な女だ、という思いがあります(これは決して
侮蔑の言葉ではありませぬ)。
相国入道さま
御丁寧にありがとうございます。早速、読んでみました。
鎌倉殿義詮の補佐は、上杉氏と高氏の二人で、前者は直義派、後者は尊氏派である。
義詮元服の時は、前者の影響の下で義の字が択ばれ、数年後の御判始の時は、後者の影響
の下で師直の花押が択ばれた。つまり、上杉氏は名として一字を取り、高氏は実として
花押を取った、と。
注(9)「花押の重みは、形式的な一字よりはるかに大きい」という文言からしますと、
鎌倉殿義詮をめぐる争いは、高氏の勝ちということになりますか。花押には花も実も
あった、と。しかし、花も実もない義の字が室町将軍家の通字となった、というところ
が歴史の綾ですね。義の字を原拠に、三代義満が公家様花押を創出して、絢爛と花開く
訳ですから。最後に見渡せば花も紅葉もあったのは義である・・・と。とても面白い現象
ですね。
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桜川市歴史民俗資料館
今日の書き込みは、あまりウラが取ってありません。ご容赦ください。
昨日、12月16日(日)は茨城県桜川市歴史民俗資料館で開かれております「桜川市の中世史料展」の最終日でしたので、ちょっと無理をして行って参りました。
この歴史民俗資料館狭いし、結構年季も入っているのですが、展示してあるものは結構凄いですね。加茂部文書(北条時政下文)とか、真壁長岡古宇田文書(関東下知状)など見入ってしまいました。実家の近所でありながら、この地域あまり来たことが無く、中世の史料が豊富で、歴史のある地方なのですね。
それで、思ったことが2点ございまして、
(1)この近所のつくば市に「北条(ほうじょう)」という地名がございまして、高校生の頃から不思議な地名だと思っておりました。どうも、北条得宗家の所領だったのではないかと思えてきました。
(2)桜川市民俗資料館の関東下知状を眺めておりますと、署名は「陸奥守平朝臣」「相模守平朝臣」で、やっぱり北条氏は、しっかり「平氏」を自覚しているよなあと思いまして、先の投稿で
>尼政子が「源氏以外は受領の例はない」として許容しなかった。
というのは、やはり変な話だよなあと思ったわけです。政子が自分を源氏だというのは許せても、縁戚とはいえ、北条氏を「源氏」とは言わないだろう。これが、もし「源家」と言うのなら、まあありうるのかなあと思ったわけです。
桜川市民俗資料館があるのは、旧真壁町でして、鄙びた町ですが、行ってみると城下町の町割が何となく残っておりまして、結構面白いです。国指定史跡「真壁城址」も開発されずに田んぼとなって残っていたので、往時を連想するのになかなか良いです。
>筆綾丸さま、相国入道さま
>足利義詮の花押について
面白く拝聴いたしました。ありがとうございました。
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すぐに第2回。
第2回「『実隆公記』を読む会」のお知らせ
下記のとおり会のご案内をいたしますので、ご参加の程お願いいたします。
なお、資料準備の関係上、参加希望の方は、あらかじめ担当者(下記連絡先)までご連絡いただけると幸いです。
記
日 時:2008年1月12日(土) 14:00〜
場 所:就実大学 附属図書館3階 スタディルーム
※図書館を初めてご利用される方は、2階の入り口で閲覧手続きまたは利用証の発行手続きを行ってください。ゲート前で、中の職員に呼びかけてくだされば結構です。身分証が必要となります。
その他:終了後は、懇親会を予定しています。
http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/kibi/index.html
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最後の晩餐と鯨
kariさま
『岐阜県史 資料編 古代・中世 補遺』(184頁)をみていましたら、下野守東常縁が
宗祇禅師に宛てた書状がありました。
秘蔵の黄門の色紙一枚を賊に奪われ、余念止みがたきところ、奇特にも再領し、一入
感涙候、最近、郡上八幡の山中に庵を結び、憚り乍ら、小倉山荘になぞらえ、老の
すさみ所とせばや・・・老後はなににつけても涙もろく候て・・・穴賢、(文明十四
年カ)極月十八日、というようなものです。
15世紀後半における定家の有り様がわかって面白い書状ですが、実隆の日記には、宗祇
から受けた古今伝授や定家の色紙などについて言及した箇所はありますか。
NAO4@吟遊詩人さま
相国入道さま
『織田信長文書の研究』で、最も衝撃を受けたのは(笑)、尾張水野直盛宛黒印状
(下巻266頁)でした。著者は天正五年に比定してますが。
鯨一折到来候、細々懇情、別而悦入候、猶参上之時可申候也
正月十六日 信長(黒印)
水野監物(直盛)殿
おどろいて、中村直勝『日本古文書学 上』をみると、「細川家文書」として、織田信長
黒印状(折紙)があり、日付は正月十二日(年号不明)、宛名は長岡兵部大輔(細川
藤孝)、馬蹄形の黒印、印文は天下布武で、料紙の袖に追而書として、次の如くありま
した。
追而此鯨、去九日於千多郡取之由候て、到来候、則禁裡御二御所進上候、我々服用の
すそわけに遺之候、随分規模可得其意候
水野監物は、信長にいろんなモノを献上してますが、知多半島の沖合で、晩冬から初春に
かけて、鯨は獲れたようですね。
信長没年の天正十年(1582)の「御湯殿上日記」1月6日条に、信長から禁裏へ初鯨が献上
されて摂家と精華家に分配された、とあり、また、「言経卿記」同月同日条に、京都所司
代春長軒村井貞勝を介して、正親町天皇と誠仁親王並びに公家衆に初鯨の献上があった、
とあり、さらに、「兼見卿記」同月同日条に、吉田神社の兼見・兼治父子には初鯨のお
裾分けはなかったが、大炊御門経頼が分けてくれた、とあります。
以上の日記から、鯨肉が年頭の御進物だったことがわかりますね。
年の初めに鯨を食べるのは三河地方の風習だったのでしょうが、宮中で年頭に鯨を食べた
のは、もしかすると、これがはじめてかもしれないですね。宮廷食文化における信長の
革命か(?)。
この年の六月、本能寺で信長が死ぬことを考えますと、年頭に京都の御所と安土の天守閣
で鯨肉を喰らう風景は、レオナルドのウルティーマ・チェーナを髣髴とさせるものがあり
ます。
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百々橋と百々御所
『織田信長文書の研究』の続き。
もうひとつ興味を惹かれたのは、天正3年11月6日の新地給与です。これは、荘園制を朱印
制へと発展させた画期的なものだと著者は云い、多くの朱印状が例示されてますが、門跡
寺院とともに、尼門跡寺院へ新地給与しているところです。
ひとつは、三時知恩寺。これは、崇光の入江殿がはじまりで、義満の女(覚性仙尼)が入
って知恩寺と称し、称光の皇女(了仙尼)が入寺して比丘尼御所となり、住持は入江殿と
呼ばれた。
ひとつは、曇華院。開山の智泉尼は順徳の裔の四辻宮尊雅王の女で、初め瑞雲山通玄寺
を建て、さらに一宇を造り、のち両寺を併せて曇華院とした。
ひとつは、宝鏡寺。景愛寺の住持であった後光厳の皇女(華林恵厳禅尼)は、同寺内の
荒廃した福尼寺を興して西山宝鏡寺とした。後水尾の皇女(久厳尼)が入寺して比丘尼
御所となり、百々御所と呼ばれた。
ひとつは、宝鏡寺南御所。宝鏡寺内にあり、室町将軍家の女が入った。
これら尼門跡寺院に対する信長の宗教政策は、興味深いものですが、とくに百々御所が
面白い。
宝鏡寺の門前には、昔から、百々橋という橋があり、これが御所の通称になったようで
すが、安土のソウ見寺に至る道に橋を架け、信長は百々橋と命名したのですね。これ
は、宝鏡寺門前の橋の名を借用したのではあるまいか。
とするならば、信長はなぜ、己の寺に至る道に、尼門跡寺院に関係の深い名など採用し
たのか。もしかすると、この百々橋という名は、亡母土田夫人追慕の表象ではあるまい
か。母の産道(参道)を通って我が身(ソウ見寺)に至る、と考えれば、これは信長ら
しい合理的な象徴行為である、と言えなくもありません(笑)。
蛇足ですが、13世紀末の弘安年間に、無外如大は仏光国師の命を受けて五辻大宮に一宇
を建立し、寺号は「景仰仏姉母大愛道」に由来する景愛寺で、この寺の後身とも云うべき
ものが、百々御所こと宝鏡寺ですね。
さらに蛇足ですが、曇華院開山の智泉尼と石清水八幡宮祠官の善法寺氏との間に生まれた
娘の一人が義詮の側室となって義満を生み、もう一人の娘が後光厳の典侍となって後円融
を生む。従兄弟の義満に苛められ、後円融は精神に錯乱をきたして、正室三条厳子(後の
通陽門院)を峰打ちにしたり、俺はもう腹を切るぞと持仏堂に籠って拗ねたり・・・と
珍妙な事件が続発したのでしたね。
石清水八幡宮の祠官は、田中氏と善法寺氏の両者のようですが、田中氏に宛てた信長の
朱印状もありますね。平氏の信長は、源氏の神様も手厚く遇しているようですね。
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いや、とてもそこまでは。
筆綾丸さま。
古今伝授の記事ですが、とてもそこまでは目が届きませんでした。
今は、とりあえず主要登場人物の姓名を確定するので手一杯です。冒頭、文明六年の正月五日条までしか進んでいませんし。いずれ、何かあったらお知らせするつもりです。
その手の分野については、
宮川葉子『改訂新版 三条西実隆と古典学』風間書房、一九九九年
が詳しいようですね。
それはそうと、『実隆公記』には比丘尼御所が、もう嫌になるぐらい出てきますね。
安禅寺・三時智恩寺(院とも)・通玄寺・曇華院・宝鏡寺・同大慈院(南御所)・真乗寺・大聖寺、とおおよそは後花園院の娘たちですが、法名すら分からない場合が多いです。先行研究も苦闘しているようですね。
大塚実忠「比丘尼御所歴代」『日本佛教』二六号〜三二号、一九六七〜七〇年
荒川玲子「景愛寺の沿革」『書陵部紀要』二八、一九七六年
山家浩樹 「無外如大と無着」『金沢文庫研究』三〇一、一九九八年
大石雅章「比丘尼御所と室町幕府」同『日本中世社会と寺院』清文堂出版、二〇〇四年
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西
kariさま
いつも質問ばかりで恐縮ですが、なにかわかりましたら、お教えください。
御紹介の「比丘尼御所と室町幕府」は、ゾクゾクするような題名ですね(笑)。早速、
さがしてみます。
実隆が宗祇興行の連歌に脇句を送ったものがありますが、その時の筆名は、西、なんで
すね。時代が下って、近衛前久・信基父子が里村紹巴と連歌をした時の筆名は、前久が
杉、信基が春、の一字なんです。
堂上貴族が地下人と地下連歌をするとき、筆名を一字にするのは、三条西実隆の創始で
あろうか、などと妄想しました(中院家には、肖柏という世捨人のような連歌師がいま
したけれども)。
転法輪三条は輪、正親町三条は町、万里小路は里、甘露寺は露、西洞院は洞、花山院
は鼻・・・などという連歌の切紙が出てくれば面白いな、などと思っています(笑)。
追記
『静岡県史資料編7中世三』を眺めていましたら、大永5年(1525)9月21日の駿府百韻
連歌として、次のようなものがありました(大坂天満宮御文庫所蔵、同書311頁)。
千秋をも隔てぬ菊のまがきかな 梅
紅葉の山の庭の松が枝 宗長
てる月のうつろふ軒端夜ならで 相
宗長は柴屋軒宗長ですが、なんと、梅は正親町三条実望、相は正親町三条公兄とのこと
で、私の寝言もまんざらではなかったようです(笑)。正親町三条は、親子で駿河の
太守のお世話になっていて、実隆としばしば書状を交わしていたようです。実望は駿府
で文字通り客死しました。今川家は豊かだったのですね。実隆は寿桂尼から贈られた
富士海苔を内裏に献上してますが、海苔と鯨の差は大きいようですね。
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Re:百々橋
>筆綾丸さま
面白いお話ありがとうございました。安土の「百々橋」って、総見寺山門下にある橋ですよね。そんな名がついているとは初めて知りました。無粋ですが、私なりに「百々(どど)」ググってみたり、語源事典にあたってみたりしました。
●日本地名語源事典(吉田茂樹、新人物往来社)では、
「ドウドウ(動動)」の約化した地名で、川音の高い場所を言う。
とありまして、宝鏡寺の門前の「百々橋」も安土の「百々橋」も同じ語源と考えるのが自然ではないかと思いました。
●私の妄想ですが
もし、安土の「百々橋」を後から信長が命名したとすると、宝鏡寺の門前の「百々橋」が、応仁の乱で東西両軍が向かい合ったことから、戦国の始まりと考えられますので、宝鏡寺前の「百々橋」から始まった戦国の世を、安土の「百々橋」で終わりにしようという信長の天下一統の意思表示ではあるまいか。
と思ったわけです。
◎「千姫」関係で
歴史読本2003年5月号「特集 信長と26人の子供たち」を読んでいまして気づいたのですが、
信長の娘「五徳」と家康の嫡男「信康」の次女「久仁」は、本多忠政に嫁いでいたのですね。この話どっかで聞いたようなと、思い返してみると、千姫は秀頼と別れた後、本多忠刻に嫁いでいるという話がありましたよね。ということは
「久仁」の父方(信康)の祖父は徳川家康、母方の曽祖父は織田信秀(信長の父)
「千姫」の父方(秀忠)の祖父も徳川家康、母方の曽祖父は織田信秀(お市の父)
となり、「本多忠刻」から見ますと、母親と妻が、血統上似たような立場になります。
母と妻が似ていたかどうかは分かりませんが、血統上近い忠刻と千姫の間の子供が健康に育つ可能性は低いのでは?、と思われ、千姫が子供に恵まれず、伊勢の慶光院に相談した話と、全ての話がつながってくるのです。
>kariさま
面白く、有益な情報ありがとうございました。
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ドドバシ・カメラ
NAO4@吟遊詩人さま
http://it.wikipedia.org/wiki/Camera#Arte
イタリア語の CAMERA(カーメラ)は、暗箱、ウィルソンの霧箱、燃焼室、ゴッホのアル
ルの部屋、立法府の上院・下院・・・というように守備範囲が広く、日本語化したカメラ
とはかなり違いますね。
百々橋は、どよむ、に由来するのではないか、と日葡辞書をみますと、Doyomu とあって、
遠くから大声でわめく、また、大砲などが轟音を立てて鳴り響く、とありました。
応仁の乱のとき、橋の此岸と彼岸で、東軍と西軍がどっと鯨波の声をあげたので、爾来、
Doyomu 橋→百々橋、となったのではあるまいか(笑)。
また、この Doyomu は、百笑(どめき)や百目鬼(どうめき)に通ずるので、百々橋カメ
ラとは、ひとりでに不気味な音を発生する箱で、陰陽師が使ったものではあるまいか。
いずれにせよ、日葡辞書にも採集されているくらいだから、宣教師の報告により、ローマ
法王庁は、宝鏡寺と安土の百々橋カメラの実態を把握していた可能性がありますね。
五徳と信康には子供がいたのですね。はじめて知りました。
追記
さきほど、この映画を見てきました。
http://www.cinemacafe.net/news/cgi/release/2007/10/2723/
千姫は谷村美月という女優さんが演じてました。
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補足:ドドバシ・カメラ
>ウィルソンの霧箱
って、この掲示板では異色な感じがしますので、補足させていただきますと、
高校の物理に出てくる荷電粒子を見ることができる実験器具です。イギリスのウィルソンが発明したのでこの名があります。
>百目鬼(どうめき)
をググってみると、↓のサイトが見つかり、平将門 or 藤原秀郷との係わり合いが語らえています。
http://www.st.rim.or.jp/~success/domeki_ye.html
>「茶々」
「和央ようか」ですよね。見たいような、(南蛮鎧姿の淀殿が)見たくないような。
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トホホな治天としてやったりの将軍
と申しますと、こちらのアーカイブスの史料にも入っている
kariさまが以前見事な現代語訳をしてくださった後円融天皇の格好悪いエピソードでございますが。
今『室町の王権』(今谷明 中公新書)を読んでいます。
この本の中にも上記のエピソードがでてきます。
こちらの掲示板であのエピソードを読んだときは「アホウな治天だなあ」と思っただけだったのですが、
この本で前後の事情を知ったら、急に後円融天皇がひどく気の毒に思えてきてしまいまして、
「確かにめちゃくちゃだけど、なんか私がこの人の力になってあげられることってないかしら」などと、
没後614年後の今にしみじみ考えてしまったりしたのでした(遅)。
(私は地位に弱い人間なので、将軍だったら2割増し、天皇だったら3割増しといろいろ上げ底にしてしまいます(笑))
とりあえず来年、お墓参りでもしてこようかなあ。
調べましたら、お一人でなくみなさんでお眠りになっているようですね。↓
http://www5e.biglobe.ne.jp/~itiiti/rm_fukakusanokitanomisasagi.htm
さて、私、年末年始にお客様を迎えることになりまして、
ばたばた忙しくなりそうなのです。
こちらにお邪魔するのも今年はこれが最後かと。
早々ですが、ご挨拶申し上げます。
本年も、皆様に大変お世話になりました。
ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
また、変わらぬご教示ご指導のほど、重ねてお願い申し上げます。
来たる新しい年に、皆様のご健康とさらなるご活躍を祈念いたします。
良い年をお迎えくださいませ。
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ひさびさに出て来て宣伝。
再興中世前期勉強会2008年正月例会
♪ 書評会:細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』 ♪
日時:1月12日(土)14:00〜
場所:国士舘大学 世田谷キャンパス6号館 6106教室
小田急線梅ヶ丘駅下車、徒歩15分
東急世田谷線松陰神社前駅下車、徒歩6分
渋谷駅南口バス乗場18番「世田谷区民会館行」バスで終点下車、徒歩1分
http://www.kokushikan.ac.jp/campus_map/setagaya.html
内容:細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』
(日本史史料研究会、2007)の書評会
評者:秋山哲雄氏・鈴木由美氏・松吉大樹氏
つまり、10月に出たわしの本の書評会でござい。
誰でも参加できますので、興味のある方は、是非お出でくださいませ♪
宣伝だけでナンですが、では潜行いたします。ぶくぶく・・・・・。
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しばらくご無沙汰いたしております。
kariさま
お久しぶりにご挨拶申し上げます。
比丘尼御所については、私も興味があるのですが、勉強不足で、史料どころか先行研究さえも十分に把握することができない有様です。とりあえず、自分の手元にある(筈)の物件は、次のとおりであります。
木原弘美「天王寺妙厳院御比丘尼御所 ──中世大坂の寺院史についての試み──」(京都女子大学史学会『史窓』第五十八号、二〇〇一年二月、二三三〜三四二頁)
荒川玲子「景愛寺の沿革 ── 尼五山研究の一齣 ──」(『書陵部紀要』第二十八号、昭和五十二年(一九七七)三月、五七〜六九頁)
荒川玲子「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」(『書陵部紀要』第三十八号、昭和六十二年(一九八七)二月、一八〜三一頁)
菅原正子「中世後期の比丘尼御所 ──大慈院の生活と経営──」(『学習院女子大学 紀要』第六号、二〇〇四年三月、三七〜五四頁)
井野口有一・堀井令以知・中井和子『尼門跡の言語生活の調査研究』(風間書房、昭和四十年(一九六五)八月)【←これは値が高かったですが、昼食代と電車賃を節約して購入したものです】
内田美代子「室町時代における尼寺と尼」(京都橘女子大学歴史学会『橘史学』第10号、一九九五年十一月、二七〜四七頁)
『門跡尼寺の名寶』(霞会館資料第十六輯。東京都千代田区霞ヶ関、霞会館、平成四年(一九九二)六月)
※「門跡尼寺の名寶展」圖録。小田急美術館(平成四年八月十九日〜八月三十日)、和歌山市立博物館(平成四年九月五日〜十月四日)
今東光『古都の尼寺』(写真 葛西宗誠。京都、淡交新社、昭和三十六年(一九六一)十二月)
清岡純子『尼寺』(毎日新聞社、一九六七年四月)
※ 著者は「元子爵清岡家の三女」
雲輪瑞法『瑞法の尼寺めぐり』(東京都渋谷区渋谷、大法輪閣、昭和五十年(一九七五)三月)
谷口陽子『大聖寺控 ──京の尼門跡の聴き書など──』(私家版。東京、一九八六年九月二版)
山本静山『花のこころ 奈良円照寺尼門跡といけばな』(主婦の友社。昭和四十二年(一九六七)六月第一刷、平成二年(一九八九)四月第十八刷)
佐藤心弦・水野克比古『京の古寺から17 霊鑑寺』(京都、淡交社、一九九七年九月)
澤田惠〓【玉催】・水野克比古『京の古寺から22 宝鏡寺』(京都、淡交社、一九九八年二月)
以上、一般書も多いのですが...
また、先日、本屋で新刊書を手に取って見ましたところ、
菅原正子『中世の武家と公家の「家」』
(吉川弘文館、二〇〇七年十二月)
中に、
「中世後期の比丘尼御所 ―─ 大慈院の生活と経営」
が再録されておりました(お金がないので、買ってはおりません)。
NAO4@吟遊詩人さま
筆綾丸さま
昨日購入いたしました、
松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』
(歴史文化ライブラリー246)(吉川弘文館、二〇〇八年一月)
に、慶光院についての記載もありました。詳しくは、是非、本書を手に取られてみてください!
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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年末ですね。
>はぎつきみたえさま
>こちらにお邪魔するのも今年はこれが最後かと。
今年は、色々と楽しませていただきありがとうございました。
今年の話題として気になっていたのですが、
>カフェ・ド・シンラン
予定通りだと、28日(金)閉店ですね。話題性から言うと行ってみたかったのですが、今から会社休んで駆け込むほどのものでもないでしょうし、次の奇特?な企画を楽しみにしております。
>鈴木英雄氏の件
何となく、気になっていたのですが、調査進展ございましたか。
来年でも、良かったら、お教えください。
>釈由美子が好きさま
>♪ 書評会:細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』 ♪
御著書やはり名著だと思います。学術論文なのに退屈しませんし、いちいちなるほどなあと思いながら読んでおります。
>阿哈馬江さま
>比丘尼御所
いつのまにか引き込まれているのですが、色々ご紹介ありがとうございます。
>松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』
(歴史文化ライブラリー246)(吉川弘文館、二〇〇八年一月)
是非読ませていただきます。
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今日で何とか仕事納め。
阿哈馬江さま
比丘尼御所の関連論文についてご提示頂きありがとうございました。
そもそも、皇室関係は女子の実名が分かりづらく、法名の把握もままなりませんね。その寺院文書が残っていればよいのですが、それもほとんど活字化されていないでしょうし。
『大日本史料』の本文脇に名の注記があるのを見て、「一体、どの史料を根拠にしているのだろう」と悩むことも多いです。
とりあえず、文明年間の比丘尼御所には、後花園の皇女が圧倒的に多いということだけは分かります。
はぎつきみたえさま
古い証文のご引用ありがとうございます。
最近、『ZEAMI』という専門誌が発刊されまして、その4号(2007)に桃崎有一郎「足利義満の公家社会支配と『公方様』の誕生」という名論が掲載されています。それを読むと、つくづく義満というのは「権力の予期理論」(宮台真司)をうまく利用した権力者であるなあと感じます。
http://www.shinwasha.com/76-8.html
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密子と犬公家
阿哈馬江さま
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E3%81%AE%E9%9B%AA
円照寺は月修寺のモデルですね。映画では、若尾文子が門跡を演じてましたね。
綾倉家は難波家の末で、家祖は、建保7年(1219)1月27日の実朝の右大臣拝賀に参列
した刑部卿三位宗長ですね。綾倉家には「刑三記」という秘伝の日記があって、実朝暗殺
や承久の変について重要な記述があるそうですが、残念ながら、未見です(笑)。
『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』
購入して、パラパラ、ながめています。
慶光院最後の院主が密子の盈子というのも面白いですが、三条西家と春日局の関係も興味
深いものがありますね。
「押小路家・壬生官務家の両家を両局といふ。地下官人の上首に位して、堂上などと縁組
し、堂上のまねをなせり。古人両局を評して、犬公家といへり。諺に蓼に似てタデに非ざ
るを犬蓼といふ。公家に似て公家に非ざるを犬公家といへり」(同書110頁)
なかなか強烈な表現ですね。
NAO4@吟遊詩人さま
慶光院シューマンは、同書に書いてあることが、どこまで本当かわかりませぬが、通説
のようですね。
-
筆綾丸さま
> 慶光院最後の院主が密子の盈子というのも面白いですが
圓照寺の山本靜山門跡も、大正天皇の"密子"説(三笠宮との双子)がありますね。
kariさま
> 比丘尼御所
kari さまも便覧として御利用されているのではないかと存じますが、服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』(小学館、二〇〇二年十二月)の巻末の表がたいへんに便利ですね。ただし、室町期に関してはまだまだ検討の余地が残されているようであります。
> 『ZEAMI』という専門誌
何と! 専門誌らしからぬ誌名... さっそく確認してみなければなりません。
NAO4@吟遊詩人さま
> 是非読ませていただきます。
願わくば、感想もお聞かせくださいませ。
釈さま
どうぞ、あまり御無理なさりませんよう。
はぎつき様
良きお年を!
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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日本史史料研究会研究会会報『ぶい&ぶい』発刊。
日本史史料研究会研究会が会報『ぶい&ぶい』(無為 無為)を発刊しました。
『ぶい&ぶい』vol.001
A5版・本文19頁
価格:200円
[目次]
小論 「勝地」について 生駒 哲郎 1頁
書評1 中島善久著『官史補任稿 室町期編』
(日本史史料研究会研究叢書1、2007年5月) ??久保木圭一 3頁
書評2 細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』
(日本史史料研究会研究叢書1、2007年10月) 鈴木 由美 5頁
書評3 服藤早苗編『女と子どもの王朝史―後宮・儀礼・縁』
(森話社、2007年4月) 久保木圭一 9頁
※頒布をご希望の方は下記アドレスまでお願いします。
http://www17.plala.or.jp/t-ikoma/page032.html
※30日のコミケでも売ります。
>NAO4@吟遊詩人さん
>退屈しませんし、いちいちなるほどなあと
ありがとごじゃいます♪ いひひ。
>はぎつきさんはじめおのおの方
本年は、ありがとうございました。良いお年を♪
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003925M.jpg
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附弟
>阿哈馬江さま、筆綾丸さま
>『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』
この本では、お万の方は、慶光院の「院主」では無くて、「附弟」の誤りであると書かれていますね。「附弟」とは、「法統を継ぐ者」とありますが、結局「将来、院主になる弟子」ということでしょうか。
大きな収穫ですが、こう判断した出典が書かれていないのが、残念です。(お万の方が主題ではないので、手抜きではないのですが。)
>阿哈馬江さま
まだ、感想を書けるほど読んでいないのですが、江戸時代の公家社会を知る上で、有益そうですね。
>釈編集長さま
>ぶい&ぶい
何と斬新で、奥深い命名なのでしょうか。(恐らく、音が先にあったように想像いたしますが) 名前もさることながら、生き仏研究者Iさまの論文が読みたいです。
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道草の花道
NAO4@吟遊詩人さま
阿哈馬江さま
『三重県史資料編』「神宮徴古館農業館所蔵文書 慶光院文書」に、後奈良天皇の綸旨が
あります。
清順居住室、号慶光院之由、被聞食訖、殊至(闕字)太神宮御裳濯橋造畢、
供養成其功之由、(闕字)叡感無極(以下略)
天文廿年八月廿日 右中将(花押)
奉者の右中将は庭田重保とのことですが、御裳濯橋完成の功労により、1551年8月20日、
寺号が正式に慶光院となったようですね。
正親町天皇女房奉書(天正8年5月)に「しゆやう上人」、また某消息に「しゆせい上人」
とあり、「しゆやう」は周養、「しゆせい」は周清ですから、慶光院主の通字は、
「しゅう」ではなく「しゅ」が、当時の発音のようですね。
相国寺の僧の通字「周」も、もしかすると、「しゅ」と読むべきなのかもしれません。
慶光院シューマンは慶光院シュマンとすべきで、シュマンはフランス語では chemin と
と綴り、道、という意味です。chemin des ecoliers(シュマン・デ・ゼコリエ)は、
小学生の道つまり道草という意味です。お万の方は、江戸への道草で、誘拐されたような
ものですね。・・・真っ直ぐ家に帰ったのでは、面白くもありません。
追記
吾妻鏡文治2年(1186)6月7日条「神祇権の大副公宣書状を献る。申し送りて云く、豫州
去る比伊勢の国に経廻す。神宮に参詣し、当時また南都の辺に在るの由風聞す。而るに
祭主能隆朝臣内通の事有り。祈祷を致すかと」
における「祭主能隆朝臣」は大中臣能隆で、藤波氏の先祖ですね。豫州(義経)のシン
パだったようですね。現在の慶光院は祭主の住居のようですが、いまも藤波氏なのか
しら。むかし、官房長官を歴任した政治家がいましたね。
釈由美子が好きさん
「無為、無為」
出典は『老子』と『荘子』で、さらに、ハイデガー風の存在論を味付けしたものですね。
玄之玄、胡蝶之夢、ダーザイン、是を之、無為と謂ふ、というような一文があったよう
な気がします(笑)。
-
タイムカプセル
>筆綾丸さま
>藤波氏
「藤波 伊勢神宮」でググってみたところ↓の小太郎さんのサイトに行き当たりました。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-okada-shoji-fujinamike.htm
今の祭主は藤波氏ではないようです。
また、官房長官を勤めた藤波さんとも、それほど関係なさそうですね。
現在の祭主は、池田厚子さん(今上天皇の姉君)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%A5%AD%E4%B8%BB
>御裳濯橋完成の功労により、1551年8月20日、寺号が正式に慶光院となったようですね。
つまり、後醍醐天皇の皇女が、起源なのだけれども、正式に寺号が認められたのが16世紀ということですね。
↓写真は現在の「祭主職舎」です。桃山様式(だと思う)の立派な建物ですが、訪れたとき、「現代人がこんなところに住めるのだろうか?」と俗な考えを持ってしまいました。
>阿哈馬江さま
「次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉」
まだ、1/3ほどしか読んでおりませんが、今まで自分が思い込んでいた歴史(感覚)に
修正を迫られております。明治維新において、公家は全て華族になり、経済的にも豊かに
なったと信じていたのですが、「厄介者」を中心として赤貧に喘いだ家もあったのですね。
まあ、色々公家のことを知るにつけ、このような身分や制度を徳川幕府264年はよく維
持したものだと思いました。何しろ殆ど役に立たない方々を飼い殺しにしてきたように思
えてならないからです。しかし、徳川幕府がタイムカプセルのようになって、古い制度・
有職故実を明治まで伝えたとも言えなくもない。歴史研究や文化の保存には役立ったよう
に思えます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003928.jpg
-
霊鬼頼朝
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syousinai.html
最後の斎王祥子内親王が保安寺に入り周徳上人と称したのが慶光院の始まりとのことで
すが、根拠史料が知りたいところですね。
彼女の恋の歌、僭越ながら、なかなか佳いですね。
http://www.bunshun.co.jp/book_db/7/62/90/9784167629052.shtml
著者には「尼子悲話」や「鎌倉擾乱」などがありますが、これは短編集で、最初の「無明
の将軍」は貞暁を主人公にしたものです。歴史小説で貞暁を主題にしたものは、これが初
めてかもしれません。
最後の「源太の産衣」は、硬骨漢実朝が登場し、ある学説の影響かもしれませぬが、いま
までにない新鮮な実朝像になっています。未読でしたら、お読みになってください。
後継将軍に冷泉宮を要求したのは政子ではなく実朝であり、また、右大臣拝賀のとき、
義時は本殿の前まで供奉しており、実朝は本殿から出てきたところで殺された・・・とい
う設定になっています。さらには、金窪行親というマイナーな人物を大きく取り扱ってい
ます。
いろいろ斬新な解釈があって面白いのですが、数ヵ所、誤謬と思われるものがあります。
たとえば、「政子が准后として従三位に叙せられた」とありますが、これは『吾妻鏡』の
意図的(?)な誤読のようですし、実朝夫人の部屋に空薫きが出てきて、「からだき」と
ルビがふってありますが、これは「そらだき」と読まねばならず・・・というように。
瑣末なことはともかく、全く新しい実朝像を描いた作者に拍手したいと思いました。
-
祥子内親王
>筆綾丸さま
>彼女の恋の歌、僭越ながら、なかなか佳いですね。
すいません。私、文学的素養がなく、無粋なもので、「斎王がこんな恋歌を歌っていいのかなあ。(注)」などと思ってしまいました。ただ、恋心を封印して斎王となったところが、物悲しいのでしょうか。
>最後の斎王祥子内親王が保安寺に入り周徳上人と称した
恐らく、この「保安寺」と「伊勢神宮」の関係を解き明かすと、先が開けそうな気がしますが。ググっただけでは、「保安寺」は、引っかかりませんね。
またしても、小太郎さんのサイト
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/harada-masatoshi-nyonintozenshu-01.htm
に行き当たり、
>景愛寺に出世する尼の住院として、宝鏡寺(ほうきょうじ)・大聖寺(だいしょうじ)・慈徳院(じとくいん)・保安寺(ほうあんじ)・妙智院(みょうちいん)・休耕院(きゅうこういん)・光聚院(こうじゅいん)・興禅院(こうぜんいん)・陽寧院(ようねいいん)・宝祐院(ほうゆういん)・安禅寺(あんぜんじ)・本光院(ほんこういん)などの名が見える(『蔭凉軒日録』寛正二・八・九、寛正三・一○・二三条、以下『蔭』年月日条と略す)。
ということで、京都にあった尼寺と言うことになりますでしょうか。
段々比丘尼御所に近づいてきてしまいました。
また、ご紹介のサイトには
「祥子内親王――斎宮の終焉」 山中智恵子『続斎宮志』
「祥子内親王」 山中智恵子『斎宮箚記』
といった本が参考文献になっておりますね。近所の図書館にあるようなので、チラッと見てみようと思います。
(注)やはり、私は斎王について無知ですね。山中智恵子さんの著作を当たっている内にこう書いてしまったことが恥ずかしくなりました。高校のとき、凡そ女流古典文学が似合わないオヤジ顔の国語の先生が(こういう偏見いけませんね。)、斎王について懇々と解説してくれたことを思い出してきました。
>霊鬼頼朝
知りませんでした。文庫本で安く手に入るようですし、読んでみます。
-
これかな・・・。
NAO4@吟遊詩人さま
「東寺百合文書」た17、永和元年宝荘厳院方評定引付に丹波国葛野荘の領家として、仁和寺とならび「比丘尼 保安寺」とあります。「東寺百合文書」ユ1−19、貞和5年9月日丹波国葛野荘雑掌言上状では領家として「室町准后<今者保安寺>」とあり、同荘は室町院から比丘尼保安寺に伝領されたもののようですね。『続史愚抄』暦応3年5月30日条によると、後醍醐天皇の娘である懽子内親王(のちの光厳上皇妃。宣政門院)が京都西郊の「保安寺」に入室していますが、この人物はこれに先立つ元徳2年に伊勢斎宮に卜定されています(「女院小伝」『大日本史料』6編6冊168頁)。
伊勢との結びつきは、このあたりが起源でしょうか。
阿哈馬江さまのご回答をお待ち申し上げます。
やや気になる問題がありまして。
『御湯殿上日記』『実隆公記』『言国卿記』『親長卿記』などによりますと、
文明6年8月27日 後土御門院皇女(二歳。のち仁尊。母藤原兼子)、和泉国保安寺(宝安寺とも)に入室。
文明12年8月19日 保安寺宮、不例。
文明13年10月23日 保安寺宮、和泉より参内して代始を謝す。ついで、同宮領遠江国村櫛庄延年名の年貢を催促す。
文明16年9月30日 保安寺宮、同宮領の事につき、和泉より参内。
長享元年12月23日 保安寺宮、鹿苑寺にて薙髪。
明応元年10月9日 保安寺宮、大神宮を参詣して帰京・参内。
天文2年1月3日 保安寺仁尊女王、薨ず。
ということなのですが、この保安寺は明らかに和泉にあるのですね。
さっきの保安寺は山城の西にあります。
地名辞典を引けばよいだけの話ではありますが、一体どういうことなのでしょうか。
-
大晦日。
>皆様
ご無沙汰しております。
このところ色んな事情が重なり、名ばかりの管理人となっておりました。
読み返すと、お返事しなければいけなかった投稿がいくつかあるのですが、あまりにタイミングが遅くなってしまいましたので、申し訳ありませんが、お詫びだけ述べさせていただきます。
良いお年をお迎えください。
-
今年はどうもありがとうございました。
皆様、今年は、色々楽しませていただいたり、勉強させていただきまして、ありがとうございます。
中世という時代が、段々わかってきたような気がします。まだまだ勉強不足で、歴史の襞のようなところが上手く理解していないとか思っておりますが、来年はさらに深く勉強したいと思います。
>kariさま
「保安寺」の件お教えいただきありがとうございます。インターネットは強力な武器ですが、限界があり、この件は文献をあたるしかないなあと思っておりました。山城と和泉の2つの保安寺があったと考えられるのは、不思議なお話ですね。
>筆綾丸さま
実は、「祥子内親王」と「慶光院」を結びつけるのは、どうも作為的な感じがしておりました。
最後の斎王が、そう簡単に200年以上たって、伊勢神宮の尼寺に結びつくものであろうか。
「慶光院」の権威付けをするのには、古代の斎王の系譜を引くかのような工作を行ったのではあるまいかと思ってしまうのです。
恐らく、守悦にしても清順にしても、信仰心あるれる勧進比丘尼で、慶光院自体に元々はそれほど権威があったわけではないのではないかと思っているわけです。
>小太郎さま
ネット上に、数々の勉強結果を公表していただき、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
-
明けまして、
おめでとーござります♪♪♪
旧年中は、誠にお世話になり、有り難う御座いました。
本年も、よろしくお願い申し上げます。
>NAO4@吟遊詩人さん
昨年末は、掲示板でお世話になり、本当に有り難う御座いました。
申し訳ありませんが、しばらくお願いします。すいません。
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あけましておめでとうございます。
みなさまあけましておめでとうございます。ほんねんもどうぞよろしくお願いいたします。
皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。
釈様のご紹介くださいました「ぶい&ぶい」昨日とどきました。どうもありがとうございました。早速読んでいます。成果が日に日に上がっていること本当にうれしゅうございます。
私も負けずにがんばりますのでよろしくお願い申し上げます。
-
荒行してみるか。
おはようございます。
今年も、西国から見守っております。
新年そのものについては、あんまりこだわらない感じでした。
また、呑んで過ごしてしまいました。
いま、ちょっと思いついたのですが、企画している史料講読会で、「荒行」をやってみようかと・・・。詳しくは、編集長のブログをご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/shaku-henshucho/m/200709
今、思うとこれはすごい企画ですよ。
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あけまして、おめでとうございます。
一夜明けて新年、おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昔ほど新年を厳かに感じなくなったのですが、歴史を紐解いていると、身を清め、新たな一年を目指す重要な日なのかなあと思います。
昨年から、私の中では「斎王」の話が、堂々巡り(というか、どんどん広がっておりまして)、「斎王歴史博物館」のHP↓にはまっております。特に「斎王百話」という学芸員の方コラムが面白いですね。本当は伊勢神宮に参拝したいところですが、このコラムで伊勢に行った気分になるのもよいかも。
http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/
>釈由美子が好きさま
>しばらくお願いします。
私専門家で無いので、訪れてくださる方々を飽きさせてしまう(いや、呆れさせてしまう)のを恐れているのですが、ゆるゆるとお相手させていただきます。
★何か、おめでたい画像をと思ったのですが、↓那智の滝でございます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003937.jpg
-
「武威、武威」
みなさま、
新年おめでとうございます。
どうぞ、本年もいろいろと御教示くださりますよう、お願い申し上げます。
さて、年末は二十九日までオシゴト(の後、呑んで)、三十日から大掃除を始めたのですが、本日、ま、まだ終わっておりませぬ。というワケで、返答も遅れ気味でございます。
NAO4@吟遊詩人さま
筆綾丸さま
すでに古くなってしまった話題ですが、伊勢祭主の藤波家(大中臣氏)につきましては、『大中臣祭主 藤波家の歴史』(藤波家文書研究會編。続群書類従完成会、平成五年(一九九三)三月)が有益です。同刊行会からは、もう一冊、藤波家関係の本があったように記憶しておりますが...
なお、明治維新後、祭主の制は、名は同じでもナカミは違ったものとなっております。既に御周知のことと存じますが。
また、
> 最後の斎王祥子内親王が保安寺に入り周徳上人と称したのが慶光院の始まりとのことで
すが、根拠史料が知りたいところですね。
> 「慶光院」の権威付けをするのには、古代の斎王の系譜を引くかのような工作を行ったのではあるまいかと思ってしまうのです。
> 恐らく、守悦にしても清順にしても、信仰心あるれる勧進比丘尼で、慶光院自体に元々はそれほど権威があったわけではないのではないかと思っているわけです。
NAO4@吟遊詩人さまのお考えで間違いないものと存じます。
祥子内親王と保安寺との関係について知る所は、『新葉集』巻十の詞書、という程度でございまして、周徳という法名についても当然、根拠を知りません。
kariさま
> 『続史愚抄』暦応3年5月30日条によると、後醍醐天皇の娘である懽子内親王(のちの光厳上皇妃。宣政門院)が京都西郊の「保安寺」に入室していますが、
対応する史料、『玉英記抄』暦應三年五月卅日條、
宣政門院御出家之由、人告之。如幻。爲尼著黒衣給。
に「黒衣を著したまふ」とありますので、禅尼となったことは確実ですね。なお、『師守記』暦應三年五月卅日條にも対応する記載がありますが、本文は未確認であります。
どうにも勉強不足でスミマセンが、このような程度であります。
さて、保安寺に関しては、私にも分からないことばかりであります。
ということで、以前に入力しておいたデータに検索をかけてみましたところ、いくつか史料が出てまいりました。
まず、西郊の保安寺のことと思われますのは、光明院に関する記載として、『園太暦』文和四年八月十二日條の廣義門院女房奉書に、
法王【光明院】の御名もむつかしき御事ニて候ほとに、たゝこの御あんのてらをこそ、御名にて候ハんすらめと思まいらせて候。保安寺ニて候。
とあり、また、『園太暦』文和四年九月四日條に、
保安寺法皇【光明院】去月晦日御移住深草金剛壽院。花山内府入道【花山院長定】著黒衣參候。其外僧衆廿人許祗候。一向爲叢林儀。自今月朝於僧衆御齋食。自京都祗候仲經入道并承仕唯教法師等、皆給暇出京。教行入道【山科】息喝食一人奉付云々。誠貴事也。
とあります。
和泉国の保安寺につきましては、後土御門院の皇女の保安寺宮(なお、「仁尊」というのは、保安寺宮の同母弟で圓滿院宮となりました、三宮の名であります)に関する史料として、次のものがありました。
『親長卿記』文明五年十月廿二日
午剋若上臈(花山院故内府持忠女。權中納言政長姉)令出御産所給(件女房室町殿御臺【日野富子】上臈也。雖然一兩年被懸叡念、自去正月懷妊云々)。御産所北御所(御臺御私所也)也。雖有御産氣未誕生云々。未剋許大納言典侍被予申云。覺勝院僧正(良助)産附【符】有怪異之由所被聞食及也。早々申遣可召進云々。即進上之。酉剋許降誕(皇女云々)。禁裏女房少々走參。依禁中産穢也。疎骨通達不可然歟。當時如此觸穢無憚禁制。仍自由之儀連々出來神慮難測。・・・・・
『親長卿記』文明六年三月廿八日
東御方(御臺御方【日野富子】上臈。花山院中納言政長御姉妹也。一兩年咫尺龍顔、姫宮【のち保安寺宮】一人降誕)
> 文明6年8月27日
『言國卿記』文明六年八月十六日
一、泉國保安寺殿ヨリ、姫宮御迎ニ御ヒクニ【比丘尼】兩人昨日上洛也。今日彼兩人禁裏ヘ被參、同姫宮御方ニテ御酒アリ。女中御見參也。
『親長卿記』文明六年八月十九日
入晩參内。姫宮御方(三歳)來廿二日、令下泉國給、令成寶安寺【保安寺】御弟子給。・・・・・ 件姫宮、花山院中納言姉妹御腹也。・・・・・
『言國卿記』文明六年八月十九日
一、姫宮御方、就泉御下、男數御花ムケニ一チヨ[ウ]シ、各一種持參申。・・・・・
『言國卿記』文明六年八月廿日
一、夜ニ入、ヒカシノ御方【東御方。藤原兼子】、姫宮御方ノ御ナコンヲシミ【御名残惜しみ】トテ、柳一カ・御カハラケ物共御持參アリ。同御方ニテ御酒アリ。・・・・・
『言國卿記』文明六年八月廿一日
一、姫宮、御暇乞ニ御臺【藤原(日野)富子】ヘナラせ給了。
一、姫宮御方ヘ御暇乞ニ、安禪寺殿【後花園院皇女觀心】・曇花院殿【後花園院皇女】・眞乘院殿【後花園院皇女】御參アリ。御酒在之。
一、明日姫宮御下向雖可有、路次ノヒヤウシノ事ニツイテ、旁遲々スル事アリ。來廿七・八日比マテ延引也。
『言國卿記』文明六年八月廿三日
一、ハウヨキニツイテ、園【基有】陣屋ヘ、姫宮御方、御カタヽカヘ【方違】ニナリ了。同上臈御チノ人【乳人】被參了。ヤナキ二カ【柳二荷】モタせラルヽ也。御方ノ御留守、予ウケタマワリ仕了。勾當局・大御チ人來。御酒被下了。
『言國卿記』文明六年八月廿四日
一、保安寺御ヒクニ【比丘尼】サムシユソ【さん首座】、柳二カ【荷】・折二合持參アリ。姫宮御方ニテ御酒アリ。大典侍局・勾當局・同姫宮御チ人【乳人】被出也。保安寺上臈チンシユソ【ちん首座】モ被參也(民部卿イモウト也)。四辻・民部卿・予メサレ御酒タフ也。予ニ御シヤクトラせラレ了。
『言國卿記』文明六年八月廿七日
一、早朝ニ此御所ヨリ姫宮御下向アリ。御方ニテ御出。御祝アリ。御サカ月【盃】參也。男數、源中納言・民部卿・公兼朝臣【正親町】・予・以量【橘】メンタン【面談】ニ參了。サムシユソ【さん首座】ノ御シヤク也。
また、
> 文明13年10月23日 保安寺宮、和泉より参内して代始を謝す。ついで、同宮領遠江国村櫛庄延年名の年貢を催促す。
は、
『親長卿記』文明十三年十月廿三日
雨下。法安寺【保安寺】殿(禁裏【後土御門院】女。御喝食)今日自泉州御上洛、令宿予亭給。暫可有御在京云々。
『親長卿記』文明十三年十一月九日
法安寺姫宮【保安寺喝食】御申村櫛庄【遠江國敷智郡】讓分事、申内府【大寺實淳】。今日申御返事。一國依一亂、近年有名無實云々。申女子讓之由相違。可仰其子細云々。
『親長卿記』文明十三年十一月九日
陰。詣内府【大寺實淳】亭。保安寺殿【後土御門院の女子】御知行村櫛庄【遠江國敷智郡】之内延年名事、女子讓之間、不可致沙汰之由、亂之始申之。非女子讓、永代御知行之子細、可申披之由、先日仰之間、申其子細了。見支證了。令存知之由返答。簡要、遠江國信濃小笠原出張之間、物〓不沙汰、年貢令到來者可進上之由申之。
『親長卿記』文明十三年十一月十六日
、猶雨雪時々下。今日保安寺宮【喝食。後土御門院の女子】御下向泉州。數日御座予亭。珍重自愛々々。進御宿妙之由、種々有叡感。
ですね。
なお、尼宮さまは、強盗の被害にも遭っているようです。
『實隆公記』永正元年七月七日(乙未)
白浪入保安寺宮(云々)。
> 天文2年1月3日
『實隆公記』天文二年正月十一日(甲寅)
保安寺宮昨日(【右傍】去三日云々)入滅給(云々)。可憐々々。後土御門院第〓【二】姫宮。鳳栖院相國【花山院持忠】女腹(第一)、於北小路殿御誕生。妙善院【日野富子】被養申。此御誕生後、御母儀被候内裏、數年後、爲上臈官仕。本妙善院上臈也。
この保安寺宮は、日野富子との縁が強く、この点でも興味深いですね。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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酔っ払いの話
といっても、昨年あった話(ごめんなさい・・)ではなく、平安時代のお話。
先の投稿でご紹介した「斎王歴史博物館」のHPに載っておりました。
「長元の御託宣」って、業界では有名なお話なのでしょうか?
伊勢神宮の斎王が、あまりの待遇の悪さに切れてしまい、酔っ払って、天皇家の衰運やら、斎宮寮の長官とその妻が不正などを御託宣してしまった話です。
http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/hyakuwa/0032/hyakuwa-32-20030201.htm
なかなか、この↑サイト嵌ります。
>阿哈馬江さま
丁寧な解説、しっかりした史料、どうもありがとうございました。
やはり、プロ系の方は違いますね。瞬時にこういう史料が出てきてしまうところが凄いです。ため息がでてきます。
「慶光院」と「祥氏内親王」の関係の推理が、当たっていたようで、嬉しい反面、やはりプロには足元にも及ばないと、もっともっと体力(=基礎学力)を付ける必要があるなあと思っている次第です。
本年もよろしくお願いいたします。
>kariさま、相国入道さま
なんとなく、留守番をしておりますが、今後とも御贔屓にお願いいたします。
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二年参り
あけましておめでとうございます。
八坂神社と平安神宮にお参りして、京風の雑煮を食べてきました。
大聖寺と三時知恩時と霊鑑寺(鹿ケ谷比丘尼御所)の門だけを見て、森蘭丸の阿弥陀寺
と西園寺家の西園寺と四条天皇の泉湧寺と九条家の東福寺などを見て、帰ってきました。
はらはらと風花が舞い、愛宕山頂がほんのり白くなっていました。
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ホントに酔っ払ったの?
NAO4@吟遊詩人さま
>「長元の御託宣」って、業界では有名なお話なのでしょうか?
の、ようです。
自分の所、どこかに次の二件があるはずです。
杉崎重遠「〓【女專】子女王」
(『王朝歌人伝の研究』(新典社、一九八六年三月)所収、二九七〜三二四頁)
早川庄八「長元四年の斎王託宣事件をめぐって」
(早川庄八『日本古代官僚制の研究』(岩波書店、一九八六年十一月)所収、一八五〜二二六頁。初出、「平安時代における天皇の一断面──長元四年の斎王託宣事件をめぐって──」、『講座日本思想3・秩序』(東京大学出版会、一九八三年)所収)
また、未見ですが、次の論文もあります。
岡田荘司「平安中期の天皇と神宮 ──長元四年伊勢斎宮神託事件を中心に──」
(古代学協会『古代文化』四五-三、平成五年(一九九三)三月)
他にも関係文献はあるものと存じますが、自分が把握しているのは以上のとおりです。
> プロ系の方は違いますね。
いーえ、いえ、私は日本史学業界では文字どーりのシロートでございます。
ただ、個人的に「面白い」と思った史料を、(PC9800パソコンの時代から)ともかく片っ端から入力するよう心掛けた結果、
> 瞬時にこういう史料が出てきてしま
っただけのことでして...
今後、史料のテキストの電子データ化が進めば、誰でも、容易に原典史料を使うことができるようになるわけですね。もちろん、史料の選択、人物比定等について、それなりの眼力が求められますが。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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スダコの公事銭
京都の台所「錦市場」の酢蛸を見ながら、こう考えた。
遠く中世の頃は、この近くの六角今市に魚棚公事銭がかかり、関白殿下の渡領として鷹司
家が課税権を有しておったと聞くが、二十一世紀の現在では、国税と府税と市税という
租税債権が、ゴチャゴチャと蛸の吸盤のように魚棚に吸い付き絡み付き、要するに、今も
昔も何も変わっておらないが、物流に課税するという思想は、一体、いつごろ発生したも
のであろうか?
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住
みにくい。・・・・・・
「お姉さん、このスダコ、くださいな」
「おおきに」
阿哈馬江さま
御引用の「言國卿記」は面白いですね。「柳」は銘酒かと思われますが、どこの銘酒か
わかりますか。河内の金剛か何かでしょうか。また、姫宮下向の餞にある「一種持參」
の「種」は酒の肴と思われますが、こういう場合の肴は、スルメとか干物が普通なの
でしょうか。
高貴な姫宮も、最初は「喝食」として入寺するのですね。おどろきました。また、白浪
ですが、これは江戸期の言葉かと思っていましたが、室町期に既にあったのですね。
NAO4@吟遊詩人さま
慶光院と伊勢国司北畠氏との関係などがわかれば面白いな、などと考えています。
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柳樽
筆綾丸さま
> 大聖寺と三時知恩時と霊鑑寺
これはこれは、マニアックな訪問先ですね! いずれは私も門前めぐりをしたいものです。
> 関白殿下の渡領
ということは、「鷹司家が」でなくて「鷹司家も」とか「鷹司家など五摂家が持ち回りで」、とすべきでしょうね。
> 柳
一般名詞として酒の異称かと思いますが、断言はできません。
> 「種」は酒の肴と思われますが、
例えば、『泰重卿記』元和六年十二月廿八日辛未条に、
五辻より可參之由案[内]。未刻、和泉進物(五辻殿【之仲】へ)銀子五枚・太刀折紙・馬代(艮子壹枚)、同内義へ杉原十帖・艮子二枚、綾小路殿【高有。五辻之仲男】へ銀錢二貫文、同内義へ杉原十帖・付帶二筋、内衆へ銀錢五貫文也。予【土御門泰重】諸白二荷・肴三種五辻殿持參申候。・・・・・ 乱酒無正躰。及鷄鳴、予歸宅也。和泉ハ其侭其夜から不罷歸候。自他歡喜不斜候。家君御滿足不過之候。
と、また、『泰重卿記』元和六年十二月廿九日壬申条に、
滋野井【季吉。五辻之仲男】へ今朝從和泉樽壹荷・肴三種參候。予銀錢一貫文持參候。又五辻殿昨日爲礼參候。和泉ヘヤ參、ほう光あんと雜談とも申候。・・・・・
とあり、「肴三種」と見えますので、「〜荷・〜種」の「種」が肴であることは確かです。
具体的な内容につきましては、後世の史料ですが、『禁裏執次詰所日記』文政三年五月廿二日丁丑条に、
一、女御御方江御使 長橋殿 大和殿 (添使)右京大夫
若宮樣江
御太刀 一腰 御馬代黄金 壹枚 御産衣 五重 昆布 一箱 鯣 一箱
干鯛 一箱 御樽 貳荷
女御御方江
白銀 三拾枚 三種 貳荷前同斷
右之通被爲進。御品御使番持參。
とありまして(われながら、よくぞこのようなテキストを入力したものよ、と思います)、ここでは、コンブ、スルメ、タイの干物が「三種」として挙げられております。
室町時代にどのようなものが「三種」に入っていたかは、どなたかより御教示をたまわることができますれば幸いと存じます。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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美作学講座「美作を彩る人々」のご案内
美作大学では、津山市教育委員会との共催により、一般の方を対象として美作学講座を開講いたします。後期は、「美作を彩る人々」と題し、美作地域で活躍した人物を取り上げます。奮ってご参加ください。
【講座の概要】いずれも13:30〜受付開始
?2008年2月19日(火)14:00〜15:30
テーマ「漆間一族と法然」
講師:津山市教育委員会副参与 湊 哲夫氏
?2008年2月26日(火)14:00〜15:30
テーマ「宮本武蔵」
講師:美作大学地域生活科学研究所客員研究員 渡邊 大門氏
?2008年3月4日(火)14:00〜15:30
テーマ「森 忠政」
講師:津山郷土博物館主幹 尾島 治氏
?2008年3月11日(火)14:00〜15:30
テーマ「箕作阮甫」
講師:津山洋学資料館学芸員 小島 徹氏
?2008年3月19日(水)14:00〜15:30
テーマ「白岩龍平」
講師:山陽学園大学 特任教授 太田 健一氏
□場所:美作大学 本館 31教室(事前申込不要/関心のある講座のみの受講可)
□参加費:無料
□問い合わせ先
〒708-8511 津山市北園町50 美作大学 教務課・生涯学習講座係
TEL:0868-22-7310/FAX:0868-23-6936
E-Mail:kyomu@mimasaka.ac.jp
開室時間:月〜金/8:30〜17:30
主催:美作大学・美作大学短期大学部 / 共催:津山市教育委員会
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美作学特別講座「美作の近代史を探る―美作の女性史と自由民権―」のご案内
美作大学では、これまで生涯学習講座「美作学講座」や講演会・シンポジウム「美作中世地域史研究を拓く―美作学への招待―」を開催し、地域史研究の成果を還元して参りました。
それを受けて、美作学特別講座として「美作の近代史を探る―美作の女性史と自由民権―」と題し、講演会を開催することといたしました。この講演会は、一般の方に広く開放するもので、どなたでも自由に参加することができます。奮ってご参加ください。
記
1.開催概要
?日 時:平成20年2月10日(日) 13時30分〜(13時開場)
?場 所:美作大学 本館 31教室
?講演? <13:30〜15:00>
題 目:「民権期の津山の女性」
講 師:香山 加恵氏(女性史研究家)
?講演? <15:10〜16:40>
題 目:「美作の自由民権と近代」
講 師:坂本 忠次氏(関西福祉大学教授/岡山大学名誉教授)
2.参加費:無 料
3.申込方法
申込不要(当日、直接会場にお越しください)
4.問い合わせ先
〒708-8511 岡山県津山市北園町50
美作大学 教務課生涯学習係
TEL:0868-22-7310 FAX:0868-23-6936
主催:美作大学・美作大学短期大学部
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宸翰英華
阿哈馬江さま
霊鑑寺の門を見て、哲学の道を行くと、なんと、風花がフッサール哲学風に舞いはじめた
ので、疎水縁の喫茶店に入りますと、西田幾多郎ケーキセットというのがあり、敬意を表
して食べてみると、なかなか佳い味のケーキでした。
鷹司家はご指摘のとおりでした。
荷と種、ほんとによくぞ入力なされましたね。お蔭さまで、とてもよくわかりました。
今日は、『宸翰英華 乾坤』(帝國學士院編纂 紀元二千六百年奉祝會 昭和19年12月
11日発行)を眺めていました。
花園天皇宸筆御記(92 伏見宮御藏)は、詞書きの後に二条大路と大書され、牛車(2台)、
殿上人(9人)、武官(9人)、地下人(17人)、牛飼童(1人)、牛(1頭)、馬(5頭)が、洒脱な
筆致で描かれています。
後花園天皇宸筆琴腹繪(170 京都御所東山御文庫御物)は、寝殿造風の縁に僧体の貴人
が書見し、庭に陰陽師風の老人が座り、草花から秋の景らしく、精密な線描です。
前者は、もしかすると、絵日記のかなり早い例なのかもしれません。両天皇の絵はほとん
どプロ並で、後花園という名は花園の画才の後継者という意味があったのかもしれないな、
などと思いました。
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謹賀新年
謹んで初春のお慶びを申し上げます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
実家に帰りましたら、父がG市検定(上級)の受験勉強をしておりました。
なつかしの単語カードを使って暗記中。
ちょっと試してみたら、パーフェクトに覚えていて、わが父ながら、やるな!と思いました。
が、単語カードの弊害もあるようで。
私「桔梗一揆は?」
父「土岐頼康」
ここまでは良いのですが。
私「で、この桔梗一揆って、いつどこでだれが土岐頼康と何のために戦って、どういう結果になったの?」
父「…それはだな、えーっと…たしか、応仁の乱のときに南朝と戦ったんだ」
私「…父上。私はこの時代のこの町の歴史は知らないけど、応仁の乱のときに南朝と戦っていた人はいないと思う」
父「なにいっ?!」
といった具合に細かいことをつっこむとだめだめです。
ここで「桔梗一揆」が何なのかご存知の方は、私の質問自体がだめだめなのにお気づきでしょう。
「一揆」というと、私などみ〜んな反乱のことだと思ってしまって、上記のようなとんちんかんなことになってしまうのですが、
何らかの理由により心を共にした共同体のことをさす言葉でもあるそうです。
桔梗一揆は、桔梗を家紋にもつ土岐氏一族の武士団のことをさします。
「土岐軍団」という感じですかね。
ちゃんと南朝と戦ってます(笑)。応仁の乱のときに〜というのが間違いなのです。
父はG市検定のあとは、長年勤めた会社があって土地勘のあるN市検定も受けるそうです。
やる気満々だなあ。
私は、今年は、なにをしようかなあ。
とりあえず、新しいことに手をつける前に、これまで手をつけているあれこれに、ひと区切りをつけてまとめたい、と思っています。
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柳酒屋
柳酒は京都の有名ブランドです。おそらく『国史大辞典』でも立項されているのではないでようか。詳しくは、『豊田武著作集』の最初の方の巻か、小野晃嗣の酒造業の本をご覧下さい。
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今年も留守番
>阿哈馬江さま
>ホントに酔っ払ったの?
文献ご紹介いただき、ありがとうございます。平安時代の酒ですから、そんなにアルコール度数が高いわけはないですし、長元の御託宣のときの斎王は、確信犯で、勇気ある行動だったのかもしれませんね。
>筆綾丸さま
>慶光院と伊勢国司北畠氏の関係
清順の時代だとすると、北畠具教の時代でしょうか。伊勢国司北畠氏は、伊勢神宮神領を横領したとかで、あまり仲がよかったようには思えませんが。
>渡邊大門さま
>美作学特別講座「美作の近代史を探る―美作の女性史と自由民権―」
ご案内ありがとうございます。「自由民権運動」は、中学のとき「加波山事件」を調べたことがあるのですが、知識が東日本に偏っていて、新鮮に感じました。
>はぎつきみたえさま
本年もよろしくお願いいたします。
>これまで手をつけているあれこれに、ひと区切りをつけてまとめたい
イチョウの話ですかね。
>笛田均さま
>柳酒
はじめまして。
ご教示いただきありがとうございます。
酒の歴史を調べる上で、手軽に入手できると言うことで、「日本の酒??(坂口謹一郎著、岩波文庫)」なんかどうでしょうね。
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三毬打
笛田均さま
ありがとうございます。
http://www.erratum.jp/sake-shop/kyotohistory.htm
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka14.html
五条坊門西洞院の中興という土倉の副業(本業?)としての銘酒のようですね。
NAO4@吟遊詩人さま
伊勢神宮は織田弾正忠家のように大事にしないと駄目ですね。
kariさま
昔の話ですが、横井清『中世民衆の生活文化(上)』(講談社学術文庫)に次のように
ありました。
「・・・また「羽根つき」も、女の子、男の子、それに大人たちもまじっての「胡鬼板」
遊びとして正月の景物になりきっていた。やがてくる夏の日々に害虫にくわれぬまじない
だともいわれたが、とまれそうした消厄除災の祈りが胡鬼子(羽根)の冴えた音色には
こもっていた。この胡鬼板は、正月半ばの「三毬打」(どんど焼き)で、毬打遊びの竹
や正月の飾り物などといっしょに灰となる」(86頁)。
胡鬼子は害虫の羽の表象として「三毬打」で焼かれたようですね。
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ウィキペディア「くずし字」項目
ネット辞書ウィキペディアに「くずし字」の項目を作りました。削除依頼が出て検討中となっておりますが、近代以前の筆書き文書の情報が、大量であるにも関わらず、余りにも常識化していないのに危機感を覚えて作ったものです。どなたか、加筆修正なり、建設的な提案なり、お心に留めてくださると大変ありがたいと思っております。よろしくお願い致します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%9A%E3%81%97%E5%AD%97
あるいは、グーグル検索「平仮名」文中「「くずし字」で移動できます。
http://park.geocities.jp/siryouhihann/index.html
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山口・御堀堂の外郎は美味い
笛田均さま
さっそくの御教示、ありがとうございます。
> 『国史大辞典』でも立項されている
ありました。第十四巻の85頁に、「やなぎざけ 柳酒」(執筆、鈴木敦子氏)。
室町時代から江戸時代に
かけての京都を代表する美酒。京都下京五条
坊門西洞院南西頬に店を構えた柳酒屋は、姓
を中興(なかおき)といい、土倉業をも営む京
都の都市豪商であった。・・・・・
「参考文献」に、小野晃嗣『日本産業発達史の研究』も挙げられておりました。
なお、当該項目の末尾に、
・・・・・ このころ【文明十年】から「大柳」
と称するようになったようである。江戸時代
にも「柳」は美酒として著名であるが、中興
家との関係は明瞭ではない。
とありますが、僭称酒が現れたのか、それとも、「外郎」のように普通名詞化してしまったのか、どちらかなのでしょうね。
筆綾丸さま
> 『宸翰英華 乾坤』
続編をも含めて、未所持であります(というより、永遠に所持できないかも...)。
中村直勝氏によると、古書店に出るようなことがあれば是非とも入手すべき、ということなのですが。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
-
まあ、勝手に留守番
>阿哈馬江さま
>『宸翰英華 乾坤』
こんな本があることさえ知りませんでしたが、「日本の古本屋」↓で検索すると、ありますね。凄い値段です(でも、パソコンより安いか)。
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Syousai?sc=7C1E562948F282FB4ED18997687098EA&p_bk_tourokubi=64E2FB7FA8CE463D6A74F00A729E2EE81CB4378617D9855C&p_bk_seq=4735&wg=W
>筆綾丸さま、阿哈馬江さま
>柳酒
本文を確認せずに書き込んでしまいましたが、「日本の酒(坂口謹一郎著、岩波文庫)」にも、少しだけ記載があります。
以下そこからの引用
いったい酒に銘をつけるのは、いつの時代にはじまったか。小野晃嗣教授によると、中世の文明年間、洛中の有名な「大柳酒屋」が、その酒に「六星紋」をつけたのが、一番古いという話である。
この文からすると、「柳」は銘柄ではなさそうですが。
>盛衰栄枯さま
はじめまして
ウィキペディアでは、あつい議論がされているようですね。面白いお話で、議論の中身も傍目に見ていると面白いのですが、議論している方が、友好的な感じがしないのが、ちょっと気になるところです。
>筆綾丸さま
検索かけてみると、↓朝熊山金剛證寺というお寺がありますね。
「北畠公」と「慶光院 清順」の供養塔が共存しているところが、なんとも不思議です。
http://www.kirari1000.com/base_data/base_data.php?kirari_cd=00176
↑左詰になってしまいました。何故か分かりません。
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柳営御用達?
なぜ「柳」なのでしょうね。
五条坊門西洞院南西頬に柳の名木でもあったのか、柳営(室町殿)御用達だったのか、
白楽天等の漢詩に柳と酒を結びつける名句でもあったのか、世阿弥の遊行柳でも踏まえ
ているのか、卯(ウサギ)の赤い目のパロディなのか・・・名称の由来がわかると面白
いですね。
横井清「中世民衆の生活文化(中)」(講談社学術文庫)に、「六角魚棚図」(京都府
光円寺所蔵『京洛月次風俗図扇面流屏風』)があり(70頁)、魚棚公事銭の課税客体が
わかって面白いのですが、店の前を行く「振売り」に興味を惹かれました。「振売り」
への公事銭はどのようになっていたのか、また、天秤棒に吊るした籠の中には、何が入
っていたのか、と。嵯峨の筍か、久世の瓜か、大原の炭か、丹波の栗か・・・。
芭蕉『炭俵』に、
振売の 鴈あはれ也 えびす講
を発句とする歌仙があるけれども、もしかすると、籠の中味は雀かもしれない。
『宸翰英華 乾坤』は、計量してないのでわからないのですが、ゆうに20kgくらいは
あって、大和(乾)や武蔵(坤)のように、超弩級の巨艦主義的豪華本です。
http://de.wikipedia.org/wiki/Quellenkritik
「洛中洛外図屏風を史料としてア・プリオリに用いることも、また洛中洛外図屏風の史料
的欠陥に恐れる余り、これを史料としては排することも、共に私たちの歴史研究の体質に
関わることなのであった。その意味からすれば、私たち中世研究者に向かって、これらの
作品は、歴史研究の方法そのものの在り方について問いかけているのだといってよいで
あろう」(上記同書65頁〜)
この文などは、絵がどこまで Quelle たりうるか、という Kritik ですね。
-
「柳」があったようですね。
>筆綾丸さま
>三毬打
でリンクされているサイトに書かれているような内容が、国語辞典系にも書かれており、「柳」は屋号であり、「柳酒」として、銘柄でもあるのですね。更に酒の異称として「柳」が使われていたようです。「六星紋」は、商標というか、マークとして書かれたようです。
>なぜ「柳」なのでしょうね。
昨年1月に放送された「知るを楽しむ歴史に好奇心 日本酒なるほど物語(小泉武夫)」のテキストを調べてみますと、
p125 (柳酒の)醸造元は五条坊門西洞院にあり、門前に柳の木があったことから「柳の酒屋」と呼ばれていた。
とありました。
大柳酒屋に次ぐ酒屋として、五条烏丸に「梅の酒屋」があり、将軍足利義尚が文明11年に足を運んでいるようです。
-
発酵の後醍醐味
NAO4@吟遊詩人さま
さすが小泉先生ですね。
「多聞院英俊日記」にある「酒の火入れ」は、パスツールの低温殺菌法
(pasteurization)と同じだ、と見抜いたのも、たしか小泉先生でしたね。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4166604996.html
http://www.bunshun.co.jp/yonda/suii/suii.htm
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=01&event_id=4409
『宸翰英華』への言及は『天皇の書』にありますが、『宸翰英華』を通覧しますと、
僭越ながら、同一天皇の複数の書から、なぜこれを撰ぶかな、と感じたものがあり、
とりわけ、後醍醐の書などは、ほかにいいのがあるのにな、と思いました。
『宸翰英華 乾坤』で、興味深く思ったのは、「正親町天皇宸筆般若心経」(大覚寺蔵)
でした。「今茲辛酉革命當不未決之元号杖議無行矣頗違先代芳躅朕耻之時也(中略)永
禄四年九月日」とあります。
辛酉革命の改元は、901(延喜)、961(応和)、1021(治安)、1081(永保)、1141
(永治)、1201(建仁)、1261(弘長)、1321(元亨)、1381(南朝弘和、北朝永
徳)、1441(嘉吉)、1501(文亀)、1681(天和)、1741(寛保)、1801(享和)、
1861(文久)で、非改元は、中国かぶれの三善清行の建言以後、永禄4年(1561)と
元和7年(1621)の、わずか二度だけなのですね。
辛酉革命の改元は、神武の即位を踏まえてか、二月が通常のようですが、正親町は九月
まで改元を模索したものの、ついに諦めて、呵責の念に駆られながらも、代わりに、
紺紙に金泥で写経して大覚寺に奉納した、という事情だったようですね。しかし、なぜ
大覚寺なのか。
永禄4年と云えば、将軍義輝が還京して、まがりなりにも幕府は洛中に存在したのだか
ら、改元もできたはずですが、なぜ駄目だったのか。
正親町は、践祚が弘治3年(1557)で即位が永禄3年(1560)なので、即位翌年の改元は
宜しくない、というような先例でもあったのか。
あるいは、改元に必要な堂上家が食い潰して地方の大名に居候していたため、そもそも
杖議が成立しなかったということなのか。
-
辛酉革命
>筆綾丸さま
>小泉武夫 先生
この掲示板の一連の酒談義がなければ、小泉先生の存在にあまり気がつかなかったのですが、「発酵」の権威なのですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%AD%A6%E5%A4%AB
いろいろこの件で読ませていただいているうちに、「肴」が「酒菜」(「菜」は副菜の意)を知り、なるほどなあと思った次第です。
>「天皇の書」(小松茂美著、文春新書)
この本でしたら、簡単に手に入りそうですね。「辛酉革命」の改元は本場中国では無かったとか。面白いお話です。
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改元不能
>筆綾丸さま
中世後期において、改元が実現しないのは、その費用を武家(幕府)が支出してくれないケースがほとんどです。その典型が称光天皇の即位改元で、将軍義持から改元にOKが出なかったために、結果として当時の「応永」が前近代としては最長の35年まで続くことになりました。おそらく義輝(や三好長慶)も改元費用の負担を渋ったのではないでしょうか。『言継卿記』あたりを見れば、詳しい事情がわかるかもしれません。
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亥子餅
笛田均さま
『史料綜覧巻十』の「御湯殿上日記」から、前後の出来事を抜粋しますと(甚だ恣意的ですが)。
永禄3年
9/19 近衛前嗣、越後に下向す
10/7 義輝に亥子餅を賜ふ
11/14 廷臣・宮女に御薫物を頒ち賜ふ
12/11 観雪御宴あり
??永禄4年
1/1 義輝、毬杖玉を献ず
1/18 御三毬打
?????? 2/15 涅槃会
2/22 水無瀬宮法楽連歌御会
3/3 節供御祝、御闘鶏あり
???? 閏3/10 義輝をして、御築地を修理せしめらる
?? 3/22 ??水無瀬宮法楽和歌御会
4/11 本願寺光佐を権僧正に任ず、是日、光佐、御礼物を献ず
5/5 節供御祝、義輝に御薬玉を賜ふ、賀茂競馬
?? 6/29 六月祓
7/7 七夕和歌御会、御楽あり
7/15 盂蘭盆会
7/25 御倉職立入宗継の保管する御物を禁中に移す
8/1 八朔御贈遺あり
9/2 近衛前嗣、物を献ず
9/4 本願寺光佐、物を献ず
9/5 後奈良天皇聖忌、御法会を山城般舟三昧院に修す
9/16 御念仏あり
9/20 宸筆般若心経を三条西公条に賜ひ、大覚寺に納めしめらる
?? 10/7 義輝に亥子餅を賜ふ
????10/18 ??三条西公条、大覚寺所蔵の嵯峨天皇宸翰般若心経等を叡覧に
?????????????? 供す、之を勅封あらせらる
11/6?? 薫物を調合あらせられ、之を廷臣に頒ち賜ふ
時系列を眺めてみますと、月次行事をやめて、本願寺に献金させれば(あるいは法華の
町衆に)、改元費用も何とかなったのではないか、という気もしますが、そいう訳に
はいかないのですね。ただ、改元に関わる記述は、ひとつもありません。
将軍義輝は、剣術修練に余念がなかったのか(ただ貧乏なだけだったのか)、あんまり
将軍らしいことはしてないですね。将軍たるもの、亥子餅なんぞ嬉しがって食べていて
はいけません。義輝が辛酉革命の改元を躊躇したのは、1441年の義教の不吉な前例が
あったからかもしれませんね。鴨の子が産まれたら、気をつけねば・・・。
時系列で驚くのは、この戦国の世における後鳥羽供養ですね。『史料綜覧』で、数十年
をざっと見ましたが、ほぼ毎年行っているのですね。後鳥羽の御霊を鎮めて、天下静謐
を願う朝廷の祈りなのかもしれませんね。
NAO4@吟遊詩人さま
『天皇の書』は続編を期待しているのですが、無理かもしれませんね。
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改元理由まとめ
>笛田均さま
>「言継卿記」
ですか。どうもありがとうございました。
近所の図書館にあるようですので、調べてみようかと思います。
>筆綾丸さま
>『史料綜覧巻十』の「御湯殿上日記」から、前後の出来事
詳細な記述ありがとうございました。
「改元」に関しまして、私も興味を持ったのですが、歴史読本1月号が「特集 日本の年号」ということもあり、「永禄4年」の件書かれているかなあと期待してみたのですが、ありませんでした。
皆様十分ご承知と思いますが、この雑誌に書かれている改元の理由を以下まとめてみます。
(1)代始(だいし)改元 :天皇の代替わりに際し、改元すること。
(2)祥瑞(しょうずい)改元 :不可思議な天然現象や珍しい動物・植物・鉱物などの出現
を、天子の政治が天帝に認められた吉兆とみなし、それを
???????????????????????????? 寿ぎ改元。
(3)災異改元 :(2)と逆に自然の災害や異変を天の戒めとみなし、人心一新
???????????????????????????? のため改元すること。
(4)革年改元 :中国伝来の讖緯(しんい)説により、干支一巡六十年(一
???????????????????????????? 元)の一定倍数周期のうち、「辛酉」年に革命が起き、
????????????????????????????「甲子」年 に革令が生ずると予見し、変革に伴う不安・混
???????????????????????????? 乱を避けるために改元を行ってきた。
(5)その他の改元 :(1)〜(4)に当てはまらないもの。または表向き(3)災異とな
???????????????????????????? っているが、他の複雑な理由によるもの。
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改元不能(続き)
>NAO4@吟遊詩人さま
失礼しました。永禄4年は『言継卿記』は現存しないようです。
『御湯殿上日記』はありますが、記主に改元への関心があるかどうか疑問です。
『皇室制度史料』にも「改元」などという巻はないでしょうし…。
>筆綾丸さま
改元のような大きなイベントの場合、儀式の参加者もそれなりの威儀を調える必要があるでしょうから、そのための費用などとして彼らに支払うお手当(「御訪」)もかなりかさむはずです。ルーティンの行事を削っても、とても追いつかないでしょう。むしろ年中行事を遺漏なくきちんとやりおおせることこそが、(観念的には)日本の安寧を守るための、朝廷にとっての「統治行為」でもありますし…。
同じように臨時の大きなイベントとして、天皇の即位式があります。後奈良天皇が践祚から10年後に、その子の正親町天皇も2年余り後になって、ようやく即位することができたことはよく知られています。いずれも各地の大名に費用の拠出を呼びかけて、ようやく実現した即位でした。応仁の乱前に行われた、後花園天皇から後土御門天皇への皇位継承にあたっても、幕府は諸国に譲位段銭を賦課して費用を調達しており、この段階で既に自力でポンと即位費用を出すだけの財力が幕府にはなかったことがわかります。義輝や三好長慶に言わせれば「辛酉革命なんてどうでもいいじゃん」ということであったかもしれません。
それよりむしろ興味深いのは、60年後の元和7年に改元が行われていないことです。なぜ秀忠は改元費用を出してくれなかったのでしょうか。こちらの方が、西洞院時慶や土御門泰重の日記が遺されているので、事情がわかるかもしれません。その辺りに永禄の先例への言及があれば良いのですが…。
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辛酉の厄
笛田均さま
NAO4@吟遊詩人さま
http://www.0105.jp/~mizuki/tennoukughounoseido4.html
1621年の場合は、秀忠の激怒が尾を引いていて、朝廷も必要経費を幕府にお願いきなかっ
たのではないか。・・・そんな気がします。
『史料綜覧巻七』で、1441年の改元関連の記事を抜粋しますと。
2/12 安倍有清をして、天曹地府祭を行ひ、辛酉の厄を禳はしむ
2/13 辛酉革命事定
2/17 辛酉革命杖議、嘉吉と改元す
2/21 廷臣等、改元を幕府に賀す
是月、室町第に怪異あり
3/9 義教、五壇法を室町第に修して、辛酉の厄を禳ふ
3/21 孔雀教法を清涼殿に修して、辛酉の厄を禳はせらる
4/10 幕府、仁王教法を石清水八幡宮に修す
5/9 義教、大般若経法を室町第に修す
5/10 幕府、仁王教を石清水八幡宮に修す
5/20 義教、五壇法を室町第に修す
5/27 義教、普賢延命法を室町第に修す
6/21 義教、仁王教法を室町第に修す
6/24 赤松満祐、義教を其第に饗して、之を弑し、挙族播磨に走る
辛酉の厄は禳わねばならぬ、というゾレン的な強迫観念が、内裏と室町、ともに存在し
た。正親町は、辛酉の厄を紺紙金泥の般若心経に封印した、と信じ、義輝は、辛酉の厄
なる迷妄を卜伝直伝の剣でスパッと斬り棄てて、電光影裏斬春風、ふふふ、と微笑を浮
かべていたのかもしれないですね。
嵯峨天皇の嘉例にならって、大覚寺に納めたようですね。正親町の般若心経は日付がな
いのですが、「御湯殿上日記」から、9月20日、三条西公条が奉納したとわかり、面白
い。また、嵯峨天皇宸翰般若心経は叡覧後、蘭奢待の如く、また勅封するのですね。
勅封といえば、正倉院の閉封と開封について、宮内庁から奈良国に通知があるようです
が、どのような書式なのか、どなたか、御存知ありませんか。繁文縟礼の国だから、
そんなものはない、ということは、よもやあるまい、と思うのですが。
http://osaka.yomiuri.co.jp/shosoin/news/st71130a.htm
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2007toku/shosoin/shosoin-1.htm
-
「学僧 湛睿の軌跡」展
>筆綾丸さま、>笛田均さま
元和7年(1621年)の改元がなされなかった理由としては、大河ファンの私としましても、和子の入内と関係があるのではないかと思いました。(「葵徳川三代」では、四辻公遠(よつつじきんとう)の娘の件が問題になっておりました。)
ところが、歴史読本1月号の久保貴子さんの見解では、永禄4年(1561年)の辛酉、永禄7年(1564年)の甲子
は改元が行われず、一旦「途絶した。」との見解が書かれています。従って、元和7年(1621年)の改元もされなかったというのです。そして、元和10年(1624年)甲子改元の復活、延宝9年(1681年)辛酉改元も復活したとの見解です。
なお、元和10年(1624年)甲子改元は、家光の将軍代替の意図があったのではないかとされています。
●「学僧 湛睿の軌跡」展
金沢文庫で開かれております↑見てまいりました。やはり、地味な企画だけあって空いておりました。
本題とはあまり関係ないのですが、「華厳経関脈義記」にイチョウの葉が栞として使われておりまして、この時代にはイチョウは渡来していたのか、葉っぱだけ中国から持ってきていたのかなあなどと思ってしまいました。
例の補助解説冊子(湛睿版)今回も置いてありましたので、いただいてきました。
-
呼ばれたのかしら?
>NAO4@吟遊詩人さま
>この時代にはイチョウは渡来していたのか
もし、所有者により当時(典籍の成立した14世紀末)に挟まれたものだとしたら、日本にイチョウが渡来していた!という物的証拠としては日本で最古のものになります。
ただ、そのはさまれたのがいつか(いつ生きていた誰がはさんだのか)というのがわからないわけでして。
と、偉そうに書いておりますが、これは
『写真と資料が語る 総覧・日本の巨樹イチョウ−幹周7メートル以上22メートル台までの全巨樹−』(堀輝三・堀志保美共著 内田老鶴圃 2005年)
のなかの記述の受け売りでございます。
葉っぱだけ中国から持ってきたという可能性はまずないでしょう。
むしろイチョウは、最初は『果実』扱いで、「ぎんなん」という形で日本に入ってきていると推測されます。
それでも、日本では古くても14世紀までしかさかのぼれそうにないようです。
なので、実朝暗殺の場にイチョウが居合わせるのはちと無理があります。
このイチョウの葉のしおり自体については、納富常天氏が「鎌倉期典籍と葉子 金沢文庫研究余滴」(『神奈川県博物館協会報22』1−7 1969年)という論文を書いておられますよ。
炭素かなんか測ると年代がわかるんでしたっけ?
-
お呼びしました。
>はぎつきみたえさま
>そのはさまれたのがいつか(いつ生きていた誰がはさんだのか)
どうもお越しいただきありがとうございます。どんどん「銀杏学」積まれてますね。
おっしゃるとおりですね。
「学僧 湛睿の軌跡」展の図録p58には、「防虫作用のある栞として銀杏の葉が挟み込まれており、書写当時のものと考えられている。」と書かれていて、
正和5年(1316年)久米寺にて湛睿が書写し、文保2年(1318年)「古本」との校訂を行ったことが奥書から分かるそうです。
何故書写当時のものと考えられるのか根拠は書かれていないので、金沢文庫ちょっと早まったかなあと言う感じです。
>炭素かなんか測ると年代がわかるんでしたっけ?
C14を利用した「放射性炭素年代測定法」ですね。測定誤差が±20〜±40 年とかで、結構正確にいつごろのものか分かるでしょうね。
-
足利将軍列伝
以前、「鎌倉将軍執権列伝(安田元久編、秋田書店)」を入手して、「足利将軍列伝(桑田忠親編、秋田書店)」も手に入れたいものだ。それも、法外な値段でなく。
と思っていたのですが、昨年は「日本の古本屋」のサイトで確認しても1万円以上の値がついていて、ちょっと手が出ませんでした。その後も、古本屋を覗く度に探したりとしていたのですが、お目にかかれずにおりました。
ところが、昨日古書の特設売り場で、目にして、嬉しくて購入してしまいました。千円でした。とっても嬉しかったのですが、帰宅して、久しぶりに「日本の古本屋」サイトで検索してみると、やはり千円で出ていて、喜びが半減してしまいました。
探している本は、諦めずに小まめに検索してみるべきだなあと思った次第です。
同時に「図説 ふじさわの歴史(藤沢市発行)」なる本を見かけて、1500円で購入しました。私は初めて見かけた本で、内容もしっかりしてそうなので、購入したのですが、店番をしていた方も、こちらの本を珍しがっておられました。
-
教えて下さい
初めて書き込みします。
実は試験で「日本中世史を学ぶ意義」を述べよ。という議題が課せられているのですが、私は全く日本史について分からないので、もしよければご意見などを頂けると嬉しいです。
お願いします☆★
-
私だったら
>知らぬ者さま
はじめまして。
掲示板の留守番をしております「NAO4@吟遊詩人」と申します。
管理人様方超多忙につき、勝手に留守番している者でして、お役に立てるかどうか分かりませんが、意見を述べさせていただきます。
私は、子供の頃から歴史全般が好きで、楽しくて、道楽と言うか、ストレス解消と好奇心を満たすために勉強しておりまして、「日本中世史を学ぶ意義」といった高尚なことを考えているわけではありません。
私は、素人ですが、アーカイブスの設立趣旨(未読でしたら、ご覧ください。)にもありますように、皆さん似たような感覚ではないかと思います。
しかし、このような設問がされた場合、私だったら、鎌倉〜室町期に起こったことを踏まえて、平安時代からの流れの中で、何故その変化が起きたかを考えてみますが。
ただ、その変化を政治的な側面だけでなく、文化的、経済的、宗教的側面から考えることができれば、より広い考察ができると思います。
-
それ以前に・・・。
まず、HNでいいからきちんと名を名乗ってください。
歴史の授業を受けてきて「全く日本史について分からない」とは、どういうことですか?
どんな授業だったのか、少なくともその背景について述べてください。
そもそもそれ以前に、試験の解答を掲示板に求める姿勢は、相当に安直で危険です。
ともあれ、同様の問題で悩む人は専門の方の中にも多いと思います。
ヒントになりそうなサイトを紹介しておきますが、丸写しなどは避けてください。
http://blog.goo.ne.jp/shaku-henshucho/
http://shikado.cocolog-nifty.com/zakki/
http://toshiito.cside.ne.jp/hist_Q_A.htm
http://blog4.fc2.com/wdaimon/index.php
-
ご連絡
>NAO4@吟遊詩人さん
昨日は中前勉例会で久しぶりにお会いできましたが、飲み会に参加されなかったので、あまり話せませんでしたね。
掲示板管理については、今までと体制を変えた方がよいと思っているので、運営委員会に提案するつもりです。
少しお待ちください。
-
レスとかです。
>kariさま
どうもありがとうございました。
ところで、以前話されていた
東アジア恠異学会編『亀卜―歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす』
出てますね。
http://kaiigakkai.hp.infoseek.co.jp/syoukai2.htm
>鈴木小太郎さま
本当にお久しぶりです。昨日はお会いできて嬉しかったです。このところ忘年会・新年会が多く、家族サービスを怠っておりまして、飲み会は遠慮させていただきました。
>掲示板管理については、今までと体制を変えた方がよいと思っているので、運営委員会に提案するつもりです。
ご配慮痛み入ります。あくまでも留守番と言うことで、管理はしておりませんが、どうも自分では品位を落としているような気がしまして、ちゃんとした管理人の方がいらしたほうが良いと思います。
↓余り関係ありませんが、たまたま行った伊勢原市役所前で、見つけました。太田道灌像
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003971.jpg
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いえいえ。
>NAO4@吟遊詩人さん
品位を落とすなど、とんでもないことです。
ところで、「宸翰英華」ですが、これは「紀元二千六百年奉祝の記念として後世に遺すに足るべきもの」として企画されたので、筆綾丸さんがおっしゃっているように、非常に立派なものですね。
某県立図書館で気軽に頼んだら、職員の方が二人がかりで台車で運んで来られて、少し恐縮したことがあります。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneika-jigyokeika-gaiyo.htm
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神の声?仏の声?
久しぶりに『古今著聞集』を通読してみたのですが、
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巻第一 神祇「八幡に通夜の夜、夢に北条義時は武内宿禰の後身と知ること」
誰と聞き侍りしやらん、名をば忘れにけり。その人、八幡に参りて通夜したりける夢に、御殿の御戸をおしひらかせ給ひて、誠にけだかき御声にて、「武内」と召しければ、・・・
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この「誠にけだかき御こゑ」とは誰の声なんですかね。
八幡の本殿に祭られているのは誉田別尊(応神天皇)、比※大神[※口+羊]、息長帯比賣命(神功皇后)ですから、一応、この三者が候補者になりますが、実はこの直前の段に、
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「興福寺の僧八幡に参籠し、夢に春日・八幡両大明神の託宣を得たる事」
興福寺の僧の、いまだ僧綱などにはのぼらざりけるが、学生にては侍りけれども、いと貧しかりければ、春日社に参りて申しけれども、そのしるしもなかりければ、寺のまじらひも思ひたえて、八幡に詣でて七日こもりて祈念しけるに、或る夜夢に、ゆゆしげなる客人の参り給へりけるに、大菩薩御対面あるよしなり。客人、「某と申す僧やこもりて候」と申し給ひければ、「さること候ふ」と答へ申させ給ひけり。・・・・
--------------------
とあって、こちらでは八幡大菩薩の声となってますね。
中世人の感覚だと義時化身譚の方も八幡大菩薩と考えるのが素直かもしれませんが、しかし武内宿禰と会話している訳ですから、どちらかといえば神話的人物の方がふさわしいような感じもする、と。
そして、女性の声ならばそれと記述するのが自然のようにも思えるし、御本殿中央にいるのは応神天皇だから、ま、応神天皇なのかな、とは思うのですが、他方、中世の説話・伝承の世界では神功皇后の存在感は相当大きいので、神功皇后であってもおかしくはないかな、と。
結論は、結局のところよくわからん、と。
(引用は新潮日本古典集成「古今著聞集」上より)
参考:石清水八幡宮御本殿
http://www.iwashimizu.or.jp/5/j/8/index.htm
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同種の話
『古今著聞集』には、後嵯峨院も石清水八幡宮で「鈴のこゑ」のような声を聞いたという話が出てきますが、こちらは橘成季ではなく、後世に別人の手により「なよ竹物語」(「鳴門中将物語」)が編入されたものと考えられていて、義時化身譚との比較は慎重に行う必要がありますね。
---------------------
第八十七代の皇帝、後嵯峨天皇と申すは、土御門天皇の第三の皇子なり。父の御門、寛喜三年遠所にて御事ありし後は、御めのと大納言通方卿のもとに、かすかなる御すまひにてわたらせ給へば、御位の事はおぼしめしもよらず。大納言さへ身まかりにければ、仁治二年の冬の比、八幡へ参らせ給ひて、御出家の御いとま申させ給ひけるに、暁、御宝殿のうちに、「徳はこれ北辰、椿葉の影ふたたび改まる」と、鈴のこゑのやうにて、まさしく聞えさせ給ひければ、これこそ示現ならめと、うれしくおぼしめして還御ありけり。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-kokonchomonju-gosaga.htm
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そして、この話は『増鏡』にも出てきます。
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その冬ころ、宮いたうしのびて、石清水の社にまうでさせ給ふ。御念誦のどかにし給ひて、少しまどろませ給へるに、神殿の中に「椿葉の影ふたたびあらたまる」といとあざやかにけだかき声にてうち誦じ給ふ、と聞きて御覧じあげたれば、明け方の空すみわたれるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかにみえつる御夢ならんとあやしくおぼさるれど、人にものたまはず。とまれかくもあれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu4-tuchimikadoinojino-arisama.htm
---------------------
後嵯峨院は格別に石清水八幡宮への崇敬が深くて、実に28度も御幸があり、これは歴代治天の参拝回数記録のトップだそうですから、実際に何か神秘的な体験をしたのかもしれないですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/iwashimizu-ryakushi-sanpai.htm
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ホイホイ答える神。
小太郎さま。
ご無沙汰しております。
『明月記』文暦2年(1235)閏6月22日条所載、同月20日田中幸清書状によると、朝廷への訴訟に臨んで石清水神人らが東宝殿の御戸を叩き、「訴訟ヲハ憐とハ思食ぬカ、アハレ御戸の開ヨカシト申」したら、扉が自然に開き、東御殿が「鳴動」した。これを見聞して、神人等数百人が「声を放ち叫喚し、涙を流して平伏」(訓読筆者)したそうです。
どうも、戸を開けてくれたり、御殿に示現してくれたりと、八幡の神は非常に分かりやすくて親切ですね。ここには、「怪異」と言われて卜占が必要とされるような厄介な暗号性は微塵もなく、問いかけに対する直截で単純な回答という、中世の神に独特の性格があるように思われます。
NAO4@吟遊詩人さま。
『亀卜』は表紙が中々コミカルでしょう。
執筆陣および論文題目を見ても、コンパクトながら画期的な内容だと思います。
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石清水周辺の清らかでない方々。
>kariさん
ご無沙汰しております。
いつもご配慮、ありがとうございます。
>八幡の神は非常に分かりやすくて親切ですね。
確かにそうですね。
笑ってしまうくらい、分かりやすい反応をしてくれます。
ま、実際には神様に存分に活躍してほしい人たちが、いろんな演出をしたり、適当な話を作ったりしている訳で、当時であっても、それらを素直に信ずる人もいれば、冷ややかに眺めている人もいたんでしょうね。
早川庄八氏に「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」(『中世に生きる律令−言葉と事件をめぐって』)という論文がありますが、私は石清水のことを勉強し始めたばかりの頃にこの論文を読み、以来、石清水周辺の連中はどうも胡散臭いのが多い、という強固な偏見を抱いています。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hayakawa-shohachi-iwashimizu.htm
-
松花堂弁当
>小太郎さま、>kariさま
石清水八幡宮には参詣したことがないのですが、
京阪電車で何度か横を通り過ぎたことがあり、その印象では人家が男山に迫り、ケーブルカーまであって、古の趣はないのかなあなどと思いました。
恐らく、中世には「静寂」と「暗闇」が存在したのでしょうか。
自分の印象を確かめようと、航空写真を見てみますと、八幡駅から見ると奥の方に結構広い森が広がっているのですね。これは行ってみたくなりました。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE&lr=lang_ja&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
ところで、この航空写真を見ていますと、「松花堂跡」というのが気になりました。(↑縮尺を少し小さく(+方向)してくだされ。)
それで、検索をかけてみますと、「松花堂」は石清水八幡宮の僧で、書道家であり、文人なのですね。松花堂は十字に仕切った箱を作り、絵の具箱や茶会のタバコ盆などとして使っていて、後世、大阪の商人がこれにヒントを得て、「松花堂弁当」を作ったとか。
http://www.kkr.mlit.go.jp/naniwa/03/newspaper/47_4.html
いやー勉強になりました。
また品位を下げてしまいました・・・ ご勘弁を
>kariさま
>『亀卜』は表紙が中々コミカルでしょう。
実は、「ポケモン」かと思ってしまいました。
また品位を下げてしまいました・・・ ご勘弁を
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(これではいけない)の謎
>NAO4@吟遊詩人さん
私も石清水八幡宮に参詣したのは一度きりです。
それも一人でブラブラ歩いただけなので、石清水の歴史に詳しい人と一緒に、また行ってみたいですね。
今日は『日本中世史を見直す』(悠志社、1994)を読み直していたのですが、佐藤進一・網野善彦・笠松宏至氏の対談記録の中に、佐藤氏の次のような発言がありました。
佐藤氏が、現在残っている「平政連諫草」は長崎左衛門尉に渡す前の草稿だろう、と考えている根拠を述べている部分です。
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おそらく割り注でやったものか、本来入るべきでないものが説明的に入ったか、そんな感じです。精選して提出した文章ではありえない。そういう前提に立って考えると、貞時を諫めているんですが、第一条の最初のページの終わりから五・六行目に、貞時が出家して後、政務に熱心でなくなり「時々有偃息之志」(これではいけない)といっています。この「偃息」という言葉ですが、これは『古今著聞集』(巻一一、画図一六)の中に「ふるき上手どものかきて候おそくづ(偃息図)の絵なども御覧も候へ」とある「おそく」に当り(偃は呉音)、男女同衾の意味です。
『古今著聞集』はカナ文ですから、「ソク」が「息」なのか「側」なのか、これではきめられませんが、「偃側」でも同じ意味であることは、『本朝文粋』(巻一二)の鉄槌伝によって知られますし、養老令の医疾令の中に、医針生(医生と針生)が学習すべき経典を示した条があり、針生は、素門、黄帝針経等の外に「兼ねて流注・偃側等の図・・・・を習へ」とある。この偃側の図も、同じ意味でしょう。ともかく江戸時代には、『古今著聞集』のこの語(おそくづ)に「偃息図」の字を当てています。さて政連の『諫草』に「時々偃息の志あり、日々政務に接(まじ)はりがたきのよし、おぼしめさるるか(政務をとるのがいやだとお思いなのですか)」などというのは、よっぽどつっこんだ諫言だと思いますね。こういったものを黙って受け取ったかどうかということも、疑問なんだけれども。
---------------
「時々有偃息之志」の現代語訳が(これではいけない)であるはずはないのですが、何故、(これではいけない)がついているのか。
不思議なり。
参考:ウィキペディア「春画」
(※リンク先、注。この項目には性的な表現や記述が含まれます。閲覧はご自身の責任で行ってください。免責事項もお読みください。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%BB
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(無題)
☆多摩郷土誌フェア開催のご案内☆
今年も立川にて恒例の、多摩郷土誌フェアが開催されます。
第20回多摩郷土誌フェア
◆開催期間◆??平成20年1月25日(金)〜27日(日)
◆時間◆??10:00〜19:00(最終日は17:00まで)
◆会場◆??オリオン書房ノルテ店(多摩モノレール立川北駅前パークアベニュー3F)
◆参加市町村◆??八王子.立川.武蔵野.三鷹.青梅.府中.昭島.調布.町田.小金井.小平.日野.東村山.国分寺.国立.福生.東大和.東久留米.武蔵村山.多摩.稲城.羽村.あきる野.西東京(久しぶりに出展します).瑞穂.日の出.奥多摩.檜原.??以上28市町村
※??なお、今年は小平市が主催担当致します。
※??販売書籍に関しましては、当日、現地まで行かないと詳細は分かりませんが、在庫があれば、新たに多摩市の関戸合戦、東村山市の正福寺展図録等の販売がされるのではないかと思います。
お時間等がございましたら、是非ともお出かけくださいませ。
まずは、ご案内まで。
????※wakasa百姓※
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坊ちゃんと桃太郎
http://www.bk1.jp/product/02939370
北イタリアを旅しながら、寝る前に、この本を少しずつ読みました。
http://www.liberonweb.com/asp/libro.asp?ISBN=8854502359
本屋に『坊ちゃん』の伊訳があり、表紙におどろきました。肖像権がどうなってるの
か、わかりませぬが、左から三人目は、学習院初等科時代の日本国皇太子です。
http://www.japanitalytravel.com/banner/genova/genova3.html
ジェーノヴァで、この美術館に入ると、桃太郎のパネル展示や鎌倉期の百万塔や平安期
の密教具などがあり、Chiossoneめ、ずいぶん漁りやがったな、という感じでしたが、
入館者は私だけの、うら悲しい斜陽美術館でした。
小太郎さん
おひさしぶりです。
小松茂美『天皇の書』に、『懐風藻』を初見とする「宸翰」の用例の説明がありますが、
後醍醐の置文(元弘三年八月廿四日付、宗峰国師宛)の末尾に、殊染宸翰貽言於龍華耳
(ことさらに宸翰を染め、言を龍華にのこすのみ)とあり、紀元二千六百年奉祝記念の
『宸翰英華』という表題の出典は、この六朝時代風の四六駢儷文のような気がしますね。
後醍醐の荘重な駢儷体に敬意を表して、帝國學士院は、はじめ、『宸翰龍華』としたが、
龍華などという抹香臭い語は時節柄宜しくない、という強硬な異見が出て、龍の代わり
に十六弁のはなぶさが撰ばれ、昭和19年12月に発行された・・・と考えてよいならば、
原拠の置文にある龍華(龍華下生三会)から弥勒菩薩の救済観念が消え去って、敗戦
間際の何か不気味なものが、たちのぼってくるような感じがしました。
-
(これではいけない)再論
「平政連諫草」の関係部分、佐藤進一氏自身の読み下し文で紹介すると、
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これに因て禅閣(貞時)御在俗の時専ら覇業を扶け、御出世の今漸く政要に疎なり。この条、評定裁判は両国吏に任せ、引付探題は七頭人に委ぬ。功なり名遂げて真に帰し実に趣く。時々偃息の志あり。日々政務に接(まじわ)りがたきのよし思食(おぼしめ)さるるか。
------------
となります。
ちなみに、真に帰す、とは出家することだそうです。
さて、(これではいけない)はやはり謎なのですが、先に紹介した佐藤進一氏の発言は、老碩学による膨大な学識に裏打ちされた非常に高尚な猥談なので、あるいは佐藤先生が興に乗って暴走してしまい、とても活字にできない薀蓄を延々述べられて、編集者が「これではいけない」と思わず叫び、テープ起こしの時に「本来入るべきでないものが説明的に入った」、というようなことは、ま、たぶんなかったんでしょうね。
ちなみに佐藤先生が言及されている『本朝文粋』の「鉄槌伝」は本当に素晴らしい名文なので、身体論で著名な斉藤孝氏には、是非とも『声に出して読みたい日本語 』に追加採用していただきたいと思います。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/
>大竹雅美さん
いらっしゃいませ。
研究会情報もお寄せください。
>筆綾丸さん
おひさしぶりです。
『宸翰英華』命名の経緯、真実味がありますね。
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天皇の書
>筆綾丸さま
お久しぶりです。やはり、ご旅行でしたか。
話題にされていらっしゃった『天皇の書』(小松茂美著、文春新書)
書店で取り寄せてみました。1140円というのは新書にしては高いなあと思っていたのですが、現物を見て、納得いたしました。
普通の新書2冊分くらいの厚みがありますね。これに匹敵するのは、「新書アフリカ史(講談社現代新書)」くらいかなあと思ってしまいました。
中身も実にマニアックな感じがします。新書でこんな本を出すなんて、出版社にしても著者にしても、なかなか素晴らしいと思います。ただ、あまり部数は出ないでしょうね・・・
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『書物の中世史』
今日は五味文彦氏の『書物の中世史』(みすず書房、2003)をパラパラめくっていたのですが、「中世の知の体系・ネットワークを明らかにしようとつとめた」(あとがき)作品ですから、引用される文献が非常に広範かつ多彩で、内容を追いかけて行くだけでも大変ですね。
自分が読んだことのない書物については、五味氏の流れるような文章で説得されると、ついついそうかな、と思ってしまうのですが、『五大帝王物語』など、自分でもそれなりにしつこく読んだ文献については、五味氏との感覚の違いを多々感じます。
五味氏は『五代帝王物語』の特徴の第一として御霊信仰の影響が強いことを挙げていて、まあ、確かに『五代帝王物語』には怨霊話・化け物話が多いことは多いのですが、その書き方も、対象との距離を失って、怨霊話・化け物話を本気で信じ込んで書いているというよりは、読者の反応を予想しつつ、けっこう楽しんで書いているように思えます。
私としては、五味氏が第七の特徴として挙げている「『古今著聞集』に見える「興言利口」のような話が見える点」を、もっと重視したいですね。
例えば、五味氏も引用している三条公房に関する記事は、
-------------
同時に三条太政入道公房公のありしを、世の中、おそろしからぬ太政入道と名けたりし、をかしくぞありける。此の三条の相国禅門は極てしれたる人にて、申べき事ありて今出川の第へわたりたりけるに、乗ながらやり入れさせて、中門廊に車よせて、手づから裏無を取いでて、堂上にはきて、公卿座に居て、対面して帰にけり。傍若無人の振舞をかしかりけり。
-------------
となっていて、作者は笑い好きで、相当辛辣ですね。
こういうタイプの人が書いた作品の第一の特徴として御霊信仰の影響が強いことを挙げるのは、私には非常に違和感があります。
五味氏は最後の方で、
-------------
『五代記』の執筆の時期はすでに見たように後宇多の治世の時代であるが、その時期には嘉元二年に後深草院が亡くなり、翌年には亀山院がなくなるなど、相次いで後嵯峨の子が亡くなっている。そのことから後嵯峨が御霊になって祟っているのではないかと思われたことであろう。そこでかつて後嵯峨に仕えて出家入道した作者が後嵯峨の治世を点検して御霊にはならないことを確かめた上で、さらにその後嵯峨が遺した意思にもとづいて政治が行われるように、と書き記したものと考えられる。
-------------
と書かれていますが、後深草院・亀山院が若年で相次いで亡くなったのならともかく、後深草院は62歳、亀山院は57歳ですからね。
まあ、ひとつの時代が終わったなという感慨は多くの人が持ったでしょうが、兄弟の相次ぐ死は後嵯峨院が御霊になって祟っているのが原因だ、などと思った人はいなかったでしょうね。
そんなことを裏付ける史料はただのひとつもなく、『五代帝王物語』の特徴の筆頭に御霊信仰の影響をあげる五味氏の頭の中に浮かんだ、豊か過ぎる想像力の産物だと思いますね。
http://www.msz.co.jp/book/detail/07077.html
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勝手に宣伝・鎌倉遺文研究会第138回例会の御案内
日時:1月31日(木)18:00〜
場所:早稲田大学文学学術院第2研究棟6階第7会議室
報告者:谷口榮氏
題目:「武士の城と屋敷」
[報告者の一言]
吾妻鏡には、城・要害・柵などの軍事的な施設とともに、館・宅・家などの武士の屋敷に関する用語も登場する。
これらの武士が所有する諸施設と用語を整理し、その用法について、発掘された事例や考古学的な面も加えながら検討を行いたい。特に吾妻鏡において館の用い方は一定の規則があり、治承4年12月12日条は、象徴的な存在だと思われる。
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/top.html
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遠いのですが。
またちょっと紹介させてください。
少人数ですが、中々に濃いメンバーが集まりつつあります。
「実隆公記」を読む会
下記のとおり会のご案内をいたしますので、ご参加の程お願いいたします。
なお、資料準備の関係上、参加希望の方は、あらかじめ担当者(下記連絡先)までご連絡いただけると幸いです。
記
日 時:2008年2月9日(土) 14:00〜
場 所:就実大学 附属図書館3階 スタディルーム(岡山市西川原1−6−1)
※図書館を初めてご利用される方は、2階の入り口で閲覧手続きまたは利用証の発行手続きを行ってください。ゲート前で、中の職員に呼びかけてくだされば結構です。身分証が必要となります。
その他:終了後は、懇親会を予定しています。
http://www.shujitsu.ac.jp/web/department/cultural/kibi/index.html
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鞍馬天狗
NAO4@吟遊詩人さま
『天皇の書』では、後宇多法皇の施入状が、法名を梵字で署名していて、興味深いものが
ありますね(173頁)。なんでわざわざ、サンスクリットなんだ、と。
また、後深草の消息が、天皇の年賀状としてもっとも早い遺例の一通である、というのも
面白いですね。
http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/bonzisyo/bindex.html
後宇多法皇の梵名がサンスクリットで正確に理解できれば良いのですけれども。
『宸翰英華』の中の後醍醐の書に、サンスクリットを記したものがあるのですが、
天皇の書で、印欧語族の記入があるのは、この2例だけかもしれませんね。しかも、
横書きであるべきものが縦書きであるという、いわば倒錯的なエクリチュールで
あり・・・。
暗殺前の永禄8年(1565)3月14日に、義輝、花を鞍馬寺に観る、という文章が『史料
綜覧』にあり、なんか佳い文章だな、と思いつつ、NHKの木曜時代劇『鞍馬天狗』
をみてました。
http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kuramatengu/
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勘返状
>筆綾丸さま
私にとりましては、「天皇の書」とシンクロするかのように、昨日は東博で開かれております「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」見てまいりました。
小岩の「第7回 史料講読講座」で上京するついでに、上野に立ち寄ったわけですが、いやー素晴らしかったです。「宸翰」あり、藤原家の名筆あり、書は全く分からない私でも、芸術性のあるのが良く分かります。結構来場者がありまして、ほどほど並びました。
●勘返状
って面白いと思いました。送り主は、わざと行間を空けておき、送られたほうは返答を、その空いた行間に書き込んで送り返すという方式ですね。これって、今のメールのレスの返し方に似ているじゃありませんか。相手の文に引用符「>」を付けて書いて、その下にレスを各方式。
>後宇多法王の施入状 >梵字
そう言われてみると、梵字ですね。板碑にも梵字が書かれていますから、この時代に梵字が出てきてもおかしくはないのでしょうが、「宸翰」であるというのが珍しいのでしょうか。
>鞍馬天狗
このところ、フィクションは避けたい気分があって、注意していなかったのですが、配役を見ると、興味をそそられます。
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日本史史料研究会研究選書
既にご存知の方も多いと思いますが。
http://www.iwata-shoin.co.jp/backnews/ura/ura490.htm
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
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御堂関白記
「宮廷のみやび―近衞家1000年の名宝」が東博で始まりましたね。前回の「大徳川展」の大混雑を思うと、東博へ行くのは気が引けますが、やはり国宝「御堂関白記」などはみたいものです。10年年以上前、日本古文書学会の巡検で陽明文庫において対面して以来となりそうです。また、重文の「春日鹿曼荼羅図」も必見でしょう。偶然か、フジテレビ「鹿男あをによし」にも関連しています。破天荒なストーリーと思いつつも、原作者の万城目学さんはその点はしっかりと押さえているようです。
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『天皇の書』、私も読んでみました。
小松茂美氏は1925年生まれとのことで、けっこうなお年ですね。
2006年に出した『天皇の書』も、相変わらずの元気一杯・気力充実ぶりで、独特の良い味を出してますね。
細かいことを言うと、
---------------
翌文永五年の八月、兄の後深草上皇に四歳の皇子(後の伏見天皇)がいるにもかかわらず、わずか二歳の幼児にすぎないこの新皇子(世仁親王=後宇多)を皇太子とした。わが家系から皇位のチャンスを失った後深草上皇が、失意のあまり深い怨みを抱いたとしても不思議ではない。絶望の果てに、落飾入道を決意する。驚いた関東申次(鎌倉幕府取次役)の権中納言西園寺実兼(20歳)が、幕府の執権時宗(18歳)に愁訴した。結果、後宇多天皇(世仁親王)の皇太子には後深草上皇の皇子(煕仁親王=伏見天皇)が立つことになった。以後、家系紛糾の激化を避けるため、交互の皇位継承を定める両統(大覚寺統と持明院統)迭立(かわるがわる即位する)が成立したことは、周知のとおり。(157p)
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となっていますが、煕仁親王の立太子は文永五年(1268)ではなく、建治元年(1275)で、7年間ほどずれてますね。
また、
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(伏見天皇は)以後、十年間の東宮時代を経る。やがて、「アシザマナル事サエイデキテ践祚」(『神皇正統記』)の運びとなった。が、これは幕府の前執権北条時宗の計らいであった。退位した後宇多天皇(大覚寺統)は二十一歳、代わって即位した伏見天皇(持明院統)は二十三歳であった。(170p)
---------------
とのことですが、時宗は伏見天皇が即位した弘安十年(1287)の3年前に死んでいますので、時宗の計らいということはなかったでしょうね。
この「アシザマナル事サエイデキテ践祚」の事情は今まで謎だったのですが、細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史−権威と権力』の第五章「飯沼大夫判官資宗-平頼綱政権の再検討-」で、非常に説得的な説明がなされていますので、小松茂美氏にも教えてあげたいところですが、ま、昔から細かいことは気にしない豪快な方みたいですから、大きなお世話でしょうね。
私がブチブチ書いたこと以外にも歴史的事実に間違いは多いでしょうが、少なくとも書の分析にはあまり関係しないはずなので、決して『天皇の書』の価値と魅力を損なうものではないと思います。たぶん。
>筆綾丸さん
>後宇多法皇の梵名
「梵名」というのも、変な響きですね。
しかし、後宇多の書の見事さには、正直、圧倒されます。
>NAO4@吟遊詩人さん
>勘返状
まさにメールのやりとりと同じですね。
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申込書
昨日の横綱決戦はいい相撲でしたね〜!すばらしい!
さて、水戸光圀の『鎌倉日記』を見たくて、先日問い合わせをしていた水府明徳会様から丁寧なお返事をいただきました。
よ〜し、早速利用申し込みだ!と、申込書をプリントアウトしたのですが…。
住所・氏名・年齢・電話番号・職業まではともかく、
「〜以下の欄に記入。記入なき場合、史料利用許可が下りないことがあります」
として求められたのが、
「所属学会」
…が、学会入ってないとだめなの?!
「主な研究歴」
…いや、主なも何も書くほどのことなどありませんです。
「論文・著作等」
…へなちょこ卒論しかないんですが…
というわけで、素人さんお断り、といわれているのかなあと思ったのですが、
もういいや、気づかなかったふりをして出してしまおう、と開き直ることにしました。
明日は証明写真を撮ってきます。
なんか襟元のきちんとした服を探さないと…。
そんなことを心配している割には、せっかく東京に行くんだし、自由が丘が近そうなので、
なんかおいしいもんでも食べてこよう、とグルメガイドをチェックしたりしてもいるのでした(笑)。
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私の名はバジラムン
NAO4@吟遊詩人さま
『天皇の書』にも、
? 土御門書状、後鳥羽加点
の勘返状がありますね。
「加点(がってん)をして返事をかき加えた書状は、平安時代からあった。それを、古い
時代には鹿爪らしい言葉を使って勘返というたが、何となく物々しすぎるので、加点状の
方がよいと思う。合点という人もある」(中村直勝『日本古文書学 中』948頁)
として、いくつかの勘返状があります。
? 冷泉為相書状、万里小路宣房加点
? 藤原定家書状、藤原実房加点
? 某書状、西園寺実兼加点
? 後醍醐消息、後宇多加点
また、相田二郎『日本の古文書 上』には、
? 尊円親王書状、後光厳加点
があります。
上記の例から言い得るのは、加点者はより高位の者である、ということで、各々におい
て、前後を逆転させると、おそらく勘返は成り立たないだろう、ということでしょうか。
小太郎さん
結構、誤謬があるのですね。うーむ・・・。
後宇多の梵字の署名に関係して、前後の天皇の法名を列挙しますと。
土御門ー行源、後嵯峨ー素覚、後深草ー素実、亀山ー金剛源、後宇多ー金剛性、
伏見ー素融、後伏見ー行覚・・・
ここで、昔からわからぬことなのですが、承久3年7月8日に出家した後鳥羽の法名で、
あるいは良然と云い、あるいは金剛理と云うのですね。
http://www.saigyo.org/cgi-bin/cr2.cgi?gotoba-txt
前者は顕教的な命名の如くであって聖覚を戒師として出家すれば良然となり、後者は密教
的な命名の如くであって仁和寺の道助法親王を戒師として出家すれば金剛理となる、とい
うことなのか。ではなぜ、法名が顕密体制の如くなのか。頓珍漢な疑問なのかもしれませ
ぬが、これがどうもわからぬのです。
金剛源や金剛性の金剛は、空海の灌頂名「遍照金剛」に由来し、両界曼荼羅の金剛を表象
するのでしょうが、後鳥羽には、なぜ二通りの法名があるかの如くなのか。金剛理として
の隠岐の後鳥羽は、流麗なサンスクリットで署名していたのかもしれない・・・。
『日本古文書学 下』(917頁)の「後宇多法皇宸筆伝法灌頂作法奥書」(大覚寺文書)
に、例の梵字の署名があり、バジラムンという発音表記がありました。後宇多の法名は
バジラムンで、後鳥羽は、理にあたる梵字が不明ですが、バジラなんとか、となるのかも
しれませんね。
-
重富島津家
>阿哈馬江さま
ご無沙汰いたしております。岩田書院のコラム?なかなか面白いですね。日本史史料研究会研究選書のこともありますが、アマゾンの話も面白い。そういえば、アマゾンって品切れになっていても、ジュンク堂に問い合わせすれば在庫にあるということがよくありますからね。マーケットプレイスの不思議な値段も理由が分かりました。
>水戸御史大夫さま
>「御堂関白記」
>「春日鹿曼荼羅図」
しっかり見てまいりました。鹿島神宮は格式が高いのですね。
>小太郎さま
参戦ありがとうございます。
>小松茂美氏
まえがきしっかり書かれていますね。
>はぎつきみたえさま
>水戸光圀の『鎌倉日記』
いよいよ始動ですか。イチョウ?
閲覧の成功お祈りしています。
>筆綾丸さま
>勘返状
そうでしたか。どうもありがとうございました。
やはり、親しき間なのでしょうね。
●重富島津家
先日、第7回史料講読講座の後の飲み会で、「島津」が面白いという話がでておりましたが、私も最近島津の分家筋って、面白いかもしれないなあと思っていたところです。例の越前島津家ですが、重富島津家とも呼ばれ、かの久光公も継いでいたのですね。篤姫を見ていて気がつきました。
-
ヴァジャラ
NAO4@吟遊詩人さま
> 勘返状
以前、誰か忘れましたが、ある文化人が、どこかで、電子メールの返事で、自分の文章が引用されてそれに対する回答がなされることに不快感を覚える、と書いていたのを見た覚えがあります。この人、勘返状を見た事がないんだなぁ、と思ったものです。
>「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」
> いやー素晴らしかったです
そうですか。平日の朝一番ならば、それほど込んではいないと思いますが、キッカケもないし、フトコロも豊かでないし...
> 岩田書院のコラム?
面白いし、勉強になりますが、ちょっと書き過ぎかな、と思うこともありますね。
昨年秋、本郷での史学会大会のときは、釈さま、如月さま、高遠さま、葵さまと話をしている間、岩田社長はじめ出版関係者の方々には背を向けるようなカタチになっておりましたが、岩田書院の箱入ハードカバーの学術書を二冊も買い、散財したのであります。
なお、
釈さま、
御父君の御介護、お見舞い申し上げます。
筆綾丸さま
> 後鳥羽の法名で、あるいは良然と云い、あるいは金剛理と云う
『皇室制度史料 太上天皇』に何か書いてあるのではないかと思いまして、手元にあるコピーをひっくり返してみましたが、当該の部分をコピーしなかったためでしょうか、お目当ての情報は見つけられませんでした。
> バジラなんとか
モンゴル人に多い人名(または人名の一部)の「オチル」は、チベット語経由で入ったものですね。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssk.html
-
明日
久しぶりに鎌倉遺文研究会の例会に出ようかと思って、暫く前からスケジュールを調整していたのですが、今日になって一瞬にして全てが崩壊しました。
ま、ひと頃と違って、夜に少し論文を読める程度の余裕が出てきたので、遺文研も次の機会を待つことにします。
ところで、昨日から黒田智氏の『中世肖像の文化史』(ペリカン社、2006)を読んでいるのですが、同書に出てくる亀山院皇子の良助法親王という人物は非常に奇妙な伝説に彩られていて面白いので、後で少し紹介しようと思います。
>筆綾丸さん
>バジラなんとか
当時の人にとっても、異国風の何とも不思議な響きだったんでしょうね。
気になります。
>NAO4@吟遊詩人さん
>まえがき
若い頃は苦労したんでしょうけど、地位を得てからは●●さも●●●て、●●●●の●●●人でもありますね。
-
Vajra
http://en.wikipedia.org/wiki/Vajra
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0303/sin_k114.html
金沢文庫本日本図(称名寺藏)は、蒙古襲来後の14世紀前半の製作のようですが、金剛源
の亀山法皇あるいは金剛性の後宇多法皇に、Vajra=金剛杵=シューニャ(空)=
日本国・・・というような世界認識はあったのか、と思いました。
・・・中世〈日本〉の宗教的思考・思惟は、こうして〈国土〉とそれを生み出した聖な
る鉾、そして〈国土〉を支える聖なる柱を独鈷の〈かたち〉としてイメージすることに
よって、〈日本〉を三国世界の中心軸に位置づけたのであった。そしてさらに、独鈷の
シンボリズムは拡張され、〈日本〉を独鈷杵、震旦を三鈷杵、天竺を五鈷杵として表象
する三国世界=金剛杵とするイメージ世界さえ生み出していったのであり、それが中世
〈日本〉の三国世界をシンボリックなイメージとして〈かたち〉づくったのである(『龍
の棲む日本』52頁)。
『史料綜覧巻九』を眺めていると、大永7年(1527)7月13日の「御湯殿上日記」に、
「御倉職中興某、酒饌を献ず」とあり、おどろきました。
これは銘酒「柳」の中興家でしょうが、御倉職を務めていたのですね。 同時期の御倉職
に立入宗康という名がありますが、中興家は政治的駈け引きで立入家に負けたのか、ある
いは、あんまり宮中御用達としての旨味がないので手を引いたのか、酒の質が落ちた
のか・・・。
-
またまた伊勢参り
2/1たまたま休みが取れたので、伊勢に日帰り遠征いたしました。
前回行ってから、日が経っていないせいか、だいぶ伊勢市の地理が分かってきました。
目的地は、「歴史系イベント情報」に載っている皇學館大學の佐川記念神道博物館「福富家文書展」と、以前から気になっていた「斎宮歴史博物館」。
(1)福富家文書展
こじんまりとやっておりました。見学者は私しかなく、好きなだけ見入っておりました。中世の文書だけでなく、近世のものも混じっており、その文書が保存されていた木の箱も展示されておりました。中世文書というのは大体神社仏閣に伝わるのでしょうが、古くから続く武家や公家の家には、こういう風に伝わるんだなあと思った次第です。まあ、家宝でしょうからね。
皇學館大學は、神宮徴古館と道(御幸)を挟んで、反対側にありますから、前回行ったときもちょっとだけ覗いており、何も迷うことなく、行ったのですが、同じ敷地にある神宮文庫にも立ち寄りました。神宮文庫では、慶光院関係の書籍をあたってみました。いくらかありますね。ただ、あまり時間がなかったので、閲覧は申し込まなかったのですが。注意点は閲覧できる日が、
木・金・土に制限されているので、閲覧可能な日に行くことでしょうね。
(2)斎宮歴史博物館
驚くほど立派な建物で、資金が潤沢だなあと思った次第。素人にも分かりやすいように、展示に大分工夫がされておりました。
ただ、啓蒙目的に走りすぎて、収蔵品のアピールが今一つかなあと思った次第です。映像展示もやっていて、他に客が殆どいなかったせいもあって、勧められるがままに、3種類全部見てしまいました。
最大の目的は、ここの図書コーナーにある、斎宮関係の論文集、書籍であったのですが、まあ大体欲しい情報は入手できました。
映像で、勅使と斎宮の役人が話すシーンがあるのですが、古文(当たり前ですが・・)で話していたのに驚きました。
>阿哈馬江さま
>キッカケもないし、フトコロも豊かでないし...
研究者はなかなか大変ですね。そのようなご発言なんとなく、感動してしまうのですが。
>「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」
は、どうも歴史に興味があるという方だけでなく、「書」に興味があるという方も多いようです。普通はあまり人だかりしていない古文書が、逆に人だかりしています。御堂関白記も人気がありましたが、藤原佐理の書もなかなか。
>鈴木小太郎さま
>暫く前からスケジュールを調整していたのですが、今日になって一瞬にして全てが崩壊しました。
何かお仕事大変そうですね。頑張ってくだされ。
>黒田智氏の『中世肖像の文化史』(ペリカン社、2006)
>同書に出てくる亀山院皇子の良助法親王という人物は非常に奇妙な伝説
面白そうですね。ご紹介いただける日を楽しみにしております。
>筆綾丸さま
>銘酒「柳」
私も、これほど隆盛を極めた銘柄が、衰退したのは、どうしてなのだろうかと思っていたのですが。
>龍の棲む日本 黒田日出男著
面白そうですね。
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宗教戦争
NAO4@吟遊詩人さま
強行軍でしたね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E6%B3%95%E8%8F%AF%E3%81%AE%E4%B9%B1
京都の富裕な町衆は法華宗のようでしたが、中興家は天文法華の乱のとき、滅亡したのか
もしれませんね。
小太郎さん
『日本中世史を見直す』(悠思社)で、「これではいけない」のところをみましたが、
なんだかわからないですね。
すこしあとに、「御倉」の議論がありますが、これが面白いですね(40頁〜)。
網野 後醍醐は地頭の所領の二十分の一を徴収して、御倉に出させていますね。新政の
法にも、「正税以下色々の雑物等、所出二十分の一を以て御倉に進済すべし」と
あります。(中略)これによって見ても、後醍醐がこの用途の徴収を本気でやっ
たことは確実ですし、ここで天皇直属の「新御倉」が京都に設置されたのでは
ないでしょうか。多分、土倉を「御倉」としたのではないかと思いますが、こう
した所出二十の一の徴収という方式が、後醍醐以前にあったのかどうかです。
佐藤 所出二十分の一に関連して言うと、そういう取り方をするには所出というか、
土地の生産高を把握しなければいけない。それでどうも貫文表示に切り換える必
要があったのではないか、と思っています。
笠松 所出の何分の一とかいうのは、所得税みたいなものですか。
網野 そうですね。
佐藤 幕府の立場で全体に生産高の二十分の一とかするというのは、古い発想からは
出てこないですね。
網野 そう思いますね。建治元(1275)年の御家人交名では、負担がすべて貫高になっ
ていますから、その素地はこの頃には出来ていたと思いますが、それを課税の
制度としたことが考えられるとすれば、やはり得宗領ではないでしょうか。
こういう新規の課税は、中国にはもっと進んだシステムがありますぜ、というふうな
渡来僧の入れ知恵だったのかどうか・・・。
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企画展のお知らせと勝手な宣伝各2題
皆さんこんばんは、企画展と研究会のお知らせをいたします。
>企画展その?
埼玉県立文書館にて、斉藤古寿(ひさとし)氏所蔵文書が、埼玉県立文書館に寄贈されたことを受けまして、中世文書10点を現在展示中であります。
期間 1月22日から2月24日まで(休館日は月曜日)
場所 埼玉県立文書館1階展示室
アクセス JR浦和駅西口から、徒歩10分 埼玉県庁裏で、国道17号線沿い。
展示している文書一覧
1 永禄3年(1560)10月17日 北条氏康感状
2 永禄4年(1561)9月 8日 乙千代丸(北条氏邦の幼名)判物
3 永禄7年(1561)6月18日 北条氏邦印判状
4 永禄9年(1566)閏8月2日 北条氏邦知行宛行状
5 永禄11年(1568)12月6日 北条氏邦諸役免許状
6 元亀3年(1572)7月26日 北条氏邦知行宛行状
7 元亀3年(1572)7月26日 北条氏邦知行宛行状
8 元亀3年(1572)7月26日 北条氏邦印判状
9 天正2年(1574)9月1日 北条氏邦印判状
10 天正16年(1588)1月3日 北条氏邦受領書出
です。
北条氏邦は、北条氏康の三男で武州鉢形(埼玉県寄居町)城主として、主に西上野(群馬県の高崎市・沼田市など)の領国進出の先方となります。しかし天正18年(1590)の小田原合戦では、鉢形城で籠城するも結局降伏します。氏邦は、前田利家の軍門に下り、以後、加賀前田家に従い慶長2年(1597)8月8日に亡くなります。
また斉藤家は、戦国時代から、秩父地方で良質の炭が生産される定峰谷の炭焼き職人の責任者だったそうです。特に戦国期に炭に関する史料が登場するのは大変珍しいものですので、是非見学にいらしてください。
>企画展その?
『国宝の真髄に迫りたい 室町時代武家文書のすがた』 国宝上杉家文書の世界?
場所 伝国の杜 米沢市上杉博物館
期間 2月9日から3月9日まで 休館月曜日
今回の目玉は 元徳四年 2月29日 木戸宝寿宛足利高氏書下(足利尊氏の初見文書)
が展示されるそうです。これだけでも必見の企画展ですので、お知らせいたします。
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp
>シンポジュウムのお知らせその?
シンポジウム「中世小田原城と石垣山一夜城、そして近世小田原城へ」を開催。
天正18年(1590)に天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた小田原合戦は、戦国時代の終わりを告げるとともに近世の幕開けとなる、わが国の歴史上の転換点にあたるできごとでした。
小田原北条氏は、小田原城を関東進出の拠城として規模を徐々に拡大し、この合戦に備えて城と城下町を周囲約9kmに及ぶ土塁と空堀を張り巡らす戦国時代最大級の城郭を築きました。
一方、秀吉は石垣山に東日本では最初の総石垣による城郭を築き、小田原方を兵糧攻めしたのです。
これによって小田原方は降伏し、小田原城は徳川家康の支配下に置かれ、後に石垣を張り巡らした城郭へと姿を変えていくのです。
この合戦をとおして、小田原城と石垣山一夜城を比較するとともに、戦国時代の小田原の歴史について考えます。(主催者のコメントより)
【日時】平成20年2月11日(月・祝)
【会場】小田原市民会館 小ホール
【定員】300名(当日先着順)
【内容】
9:30 開会
9:40 基調講演? 戦国期の小田原城と城下(國學院大學講師 森幸夫氏)
10:20 基調講演? 東日本における織豊城郭の出現(織豊期城郭研究会代表 中井均氏)
11:10 基調講演? 発掘調査に見る小田原城(文化財課職員)
11:50 休憩
13:00 特別講演 小田原北条氏の関東進出と支配(静岡大学教授 小和田哲男氏)
14:40 シンポジウム
「中世小田原城と石垣山一夜城、そして近世小田原城へ…」
16:30 閉会
詳細は・・・http://www.city.odawara.kanagawa.jp/
小田原市生涯学習部 文化財課
電話番号 0465-33-1717
にお願いいたします。
>シンポジュウムのお知らせその?
栃木県中世考古学研究会第10回研究会を開催。
特別シンポジュウム 唐澤山城の重要性を探る
栃木県中世考古学研究会では、第10回を記念し、特別シンポジュウムとして、保存への機運が高まりつつある唐澤山城の重要性について考える機会を設けたいと思います。今回の研究会は、唐澤山城と佐野の遺跡群について文献史学、考古学、地域史研究の立場から発表をいただき、検討を深めるものです。中世城館の歴史に興味のある方のご参加と活発なご議論をお待ちしています。(主催者のコメントより)
記
1 日 時 平成20年2月23日(土)午前10時〜午後4時30分
2 場 所 佐野市城北地区公民館(堀米町1173)0283−24-5772
3 参加費 1,000円(資料代等)
4 内 容
10:00〜10:05 主催者あいさつ
10:05〜10:15 趣旨説明
10:10〜11:20 唐澤山城の歴史的意義 峰岸純夫氏
11:20〜12:00 石垣の変遷から見た唐澤山城の意義 齋藤慎一氏
12:00〜1:00 昼 食
1:00〜1:30 唐澤山城調査の現状 出居 博氏
1:30〜2:00 唐澤山城の城下町 江田郁夫氏
2:00〜2:30 佐野氏の城館跡について 茂木孝行氏
2:30〜3:00 佐野の遺跡群とその特徴 大澤伸啓氏
3:10〜4:30 討 論(司会・齋藤弘氏、荒川善夫氏)
4:30 解 散
5 主 催 栃木県中世考古学研究会
6 共 催 安蘇史談会・唐澤考古会
7 参加申し込み メールまたは葉書にて、下記までご連絡ください。
斎藤弘 メール bxf04042@watv.ne.jp
〒326-0338 栃木県足利市福居町602
この唐沢山城は、佐野氏の居城で北関東でも最大級の山城です。
皆様ふるってご参加ください。 以上皆様にお知らせいたします。
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雪
雪!ですね。
北国の方、受験生の方、その他この雪で大変な思いをしている方がたくさんいらっしゃると思います。
私みたいに予定のない人間には、久しぶりの雪、ちょっと嬉しいのですが。
冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(清原深養父)
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今日は出社が大変
>筆綾丸さま
>天文法華の乱のとき、滅亡したのかもしれませんね。
ダメージはあったかもしれませんが、↓によると、甘すぎる柳酒が、二段仕込、三段仕込の酒に負けていったということのようです。消費者の嗜好の変化と、技術革新に負けたということでしょうか。
http://www.kikusui-sake.com/home/story_6.html
>相国入道さま
>『国宝の真髄に迫りたい 室町時代武家文書のすがた』 国宝上杉家文書の世界?なんかとても惹かれるものがあります。しかし、米沢は遠いかな。
謙信以前の上杉家文書というのは、上杉憲政から伝わったものなのでしょうか?
>はぎつきみたえさま
昨日は、雪合戦、雪だるま作りやらされてしましました。
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エソテリックな後宇多院
NAO4@吟遊詩人さま
興味深い記事ですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125203.html
吾妻鏡建長4年(1252)3月19日の宗尊親王関東下向のくだりには、意味不明の用語が一杯
ありますが、道中、かなり酒も飲んでるようですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125209.html
同年9月30日と10月16日には、禁酒令の記述もありますね。田舎の鎌倉でも、これだけ酒
が出回っていたところをみると、京都・奈良・大坂は凄かったのでしょうね。
ひさしぶりに『増鏡』(講談社学術文庫)を眺めてみますと。
「さしぐし」の亀山院剃髪のところに、
「さて九月の初めつかた、中の院は御髪おろさせ給ふ・・・・御法名金剛覚と申すなり」
とあって、金剛源ではなく金剛覚となっているのですね。
また、「浦千鳥」の後宇多潅頂のところに、
「遊義門院の御髪にて梵字ぬはせ給へり」
という不思議な一文がありますね。これは、遊義門院の遺髪で後宇多院が自分の法名
バジュラムン(金剛性)を何かに縫われた、という意味でしょうか。とするならば、
なんと言いますか、後世の刺青にも通ずるような至上の愛の表現ということになりま
すか。あるいは、遊義門院の法名を梵字で何かに縫われた、という意味なのでしょう
か。・・・いずれにせよ、密教は esoteric で、よくわからない。
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