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Japanese Medieval History and Literature

541筆綾丸:2008/01/07(月) 19:48:22
発酵の後醍醐味
NAO4@吟遊詩人さま
さすが小泉先生ですね。
「多聞院英俊日記」にある「酒の火入れ」は、パスツールの低温殺菌法
(pasteurization)と同じだ、と見抜いたのも、たしか小泉先生でしたね。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4166604996.html
http://www.bunshun.co.jp/yonda/suii/suii.htm
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=01&event_id=4409
『宸翰英華』への言及は『天皇の書』にありますが、『宸翰英華』を通覧しますと、
僭越ながら、同一天皇の複数の書から、なぜこれを撰ぶかな、と感じたものがあり、
とりわけ、後醍醐の書などは、ほかにいいのがあるのにな、と思いました。

『宸翰英華 乾坤』で、興味深く思ったのは、「正親町天皇宸筆般若心経」(大覚寺蔵)
でした。「今茲辛酉革命當不未決之元号杖議無行矣頗違先代芳躅朕耻之時也(中略)永
禄四年九月日」とあります。
辛酉革命の改元は、901(延喜)、961(応和)、1021(治安)、1081(永保)、1141
(永治)、1201(建仁)、1261(弘長)、1321(元亨)、1381(南朝弘和、北朝永
徳)、1441(嘉吉)、1501(文亀)、1681(天和)、1741(寛保)、1801(享和)、
1861(文久)で、非改元は、中国かぶれの三善清行の建言以後、永禄4年(1561)と
元和7年(1621)の、わずか二度だけなのですね。
辛酉革命の改元は、神武の即位を踏まえてか、二月が通常のようですが、正親町は九月
まで改元を模索したものの、ついに諦めて、呵責の念に駆られながらも、代わりに、
紺紙に金泥で写経して大覚寺に奉納した、という事情だったようですね。しかし、なぜ
大覚寺なのか。
永禄4年と云えば、将軍義輝が還京して、まがりなりにも幕府は洛中に存在したのだか
ら、改元もできたはずですが、なぜ駄目だったのか。
正親町は、践祚が弘治3年(1557)で即位が永禄3年(1560)なので、即位翌年の改元は
宜しくない、というような先例でもあったのか。
あるいは、改元に必要な堂上家が食い潰して地方の大名に居候していたため、そもそも
杖議が成立しなかったということなのか。




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