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Japanese Medieval History and Literature

516kari:2007/12/31(月) 14:51:34
これかな・・・。
NAO4@吟遊詩人さま
「東寺百合文書」た17、永和元年宝荘厳院方評定引付に丹波国葛野荘の領家として、仁和寺とならび「比丘尼 保安寺」とあります。「東寺百合文書」ユ1−19、貞和5年9月日丹波国葛野荘雑掌言上状では領家として「室町准后<今者保安寺>」とあり、同荘は室町院から比丘尼保安寺に伝領されたもののようですね。『続史愚抄』暦応3年5月30日条によると、後醍醐天皇の娘である懽子内親王(のちの光厳上皇妃。宣政門院)が京都西郊の「保安寺」に入室していますが、この人物はこれに先立つ元徳2年に伊勢斎宮に卜定されています(「女院小伝」『大日本史料』6編6冊168頁)。

伊勢との結びつきは、このあたりが起源でしょうか。
阿哈馬江さまのご回答をお待ち申し上げます。

やや気になる問題がありまして。
『御湯殿上日記』『実隆公記』『言国卿記』『親長卿記』などによりますと、

文明6年8月27日 後土御門院皇女(二歳。のち仁尊。母藤原兼子)、和泉国保安寺(宝安寺とも)に入室。
文明12年8月19日 保安寺宮、不例。
文明13年10月23日 保安寺宮、和泉より参内して代始を謝す。ついで、同宮領遠江国村櫛庄延年名の年貢を催促す。
文明16年9月30日 保安寺宮、同宮領の事につき、和泉より参内。
長享元年12月23日 保安寺宮、鹿苑寺にて薙髪。
明応元年10月9日 保安寺宮、大神宮を参詣して帰京・参内。
天文2年1月3日 保安寺仁尊女王、薨ず。

ということなのですが、この保安寺は明らかに和泉にあるのですね。
さっきの保安寺は山城の西にあります。
地名辞典を引けばよいだけの話ではありますが、一体どういうことなのでしょうか。




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