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2021/5/2 私的言語は可能か?
23
:
ムラタ
:2021/07/14(水) 14:07:25
>>22
要らぬ容喙かもしれませんが、久保君の言うところの身体というのは皮膚に閉ざされた延長としての身体(body)を指しているのではなく、全くそれとは別カテゴリーである、もっと広がりを持った、世界ー内ー存在としての身体ではないでしょうか。
その身体(非bodyとしての身体)というのは、閉ざされた皮膚を超えて例えば杖、メガネ、ハサミのように広がりを持っているし、のみならずそれは精神ー身体の二項図式としての身体(body)ではなく、誤解を恐れずに言えば、精神的な存在でもある、心身統一体(この身はbodyの意)として生きられた世界における身体ということになるでしょう。
「身体」と表現するよりも「身」と表現したほうがいいかもしれません。「身体」と表現すると延長としての閉ざされた肉体(body)という方へ引っ張られ易いですから。
24
:
おぐす
:2021/07/14(水) 15:51:30
少々私見を述べます。
確かに「身体の態勢」という概念は掴みづらい面があります。久保さんの述べるに「身体の態勢」それ自体を語ることは極めて困難」なので、レジメでは相貌とか類似性との相関から語っているのだと思っていました。
類似性は喩の構造とも重なってくるので「身体の態勢」の論述自体は、表現史からみても喩の起源から考えてもウラサキさんの指摘するような「自然科学的知見を後付け的に読み込んだ解釈」ではないと思います。
久保さんが考察していた心身問題の関心から眺めれば、身体と心は「耳で聴いて、心で感じている」のように「耳」と「心」を順列的に記述できるような対応関係でもない。「耳」は聴覚器官ですが「心」も「それ自体を言語化するのは極めて難しい」概念なので心身問題のアポリアも存在するのでしょう。
ムラタさんの身体(非bodyとしての身体)=「身」という観点とも重なりますが、以前「久保氏」が言及していた市川浩も「<身>の構造」という論理を展開していましたね。「精神としての身体」論の延長で考察するのもいいかもしれません。それがウィトゲンシュタインの「私的言語」を考察する場合に用いる方法として妥当か否かは判断できませんが。
レジュメに関して言えばP6にいたる「まとめ」の部分で久保さんのおっしゃりたい意図は部分的にはよく分かります。
25
:
久保共生
:2021/07/14(水) 17:20:08
>>22
>「もの悲しい曲」と感じた時に、どのように「身体」や「態勢」が関わっているのでしょうか?
上でも述べたように、身体の態勢それ自体を語るのは極めて困難です。
なので、「もの悲しい曲」と感じたときの身体の態勢がどのようであるかというのもかなり説明しづらいですが、一応強引にでも言語化してみます。
まず、一般に喜びを感じているときには身体が軽く感じられ、活動力が増すのに対し、悲しみを感じているときには身体が重くなり、活動力が低下します。
その証拠に、典型的な喜びの表現は、飛び跳ねたりして身体を大きく動かすのに対して、悲しみの表現は、力なく俯いたりといったものになります。
したがって、一般的傾向として、アップテンポで軽快な曲は、喜びの感情との親和性が高く、明るく楽しく感じられるのに対し、スローテンポで重々しい曲は、悲しみの感情と親和性が高いのだと思われます。
一例を挙げてみましょう。
ベートーヴェンピアノソナタ「悲愴」の第1楽章の冒頭を聴いてください。
ttps://www.youtube.com/watch?v=4oNplMM2K0k&ab_channel=Kawaz
冒頭の極端な低音密集和音の強打が、この曲の性格を特徴づけています。
一般に、低音密集和音は厚ぼったく重く、濁った感じになりがちなので、避けられる傾向にあるのですが、この曲ではそれを前面に押し出すことによって、悲しみの感情との強い親和性を示していると思われます。
26
:
ウラサキ
:2021/07/14(水) 20:38:02
いずれにせよこの「身体の態勢」というのは、
通常の日本語をかなり歪めた用法だと思います。
27
:
久保共生
:2021/07/14(水) 20:53:32
>>26
僕は正直これ以上的確な表現を思いつきません。
一応、通常の表現だと「身体状態」とでも言えばよいかもしれませんが、この表現では、単なる物理的身体の物理的状態と誤解される可能性が高いと考えたので、あえて「身体の態勢」という特殊な表現をしています。
勿論、なるべく日常語を用いて説明した方がよいのは確かですが、時には、そうした手垢のついた表現が誤解を招く恐れもあると思います。
ウラサキさんは、もっと良い用語を思いつきますか?
28
:
久保共生
:2021/07/14(水) 21:20:52
もう一点。
僕が「身体状態」ではなく、「身体の態勢」という言葉を使用している理由は、他にもあります。
それは、今回はあまり主題的には取り上げませんでしたが、感覚することを「状況把握」の一契機として捉えているからです。
つまり、おのれが身を置く状況の把握には、単に周囲の事物の状態の把握のみならず、その事物に対する自分の身体反応や態度の把握も含まれると考えます。
例えば「蛇が怖い」という状況を語るとき、単なる「蛇」という事物のみならず、その蛇に対するおのれの身体反応や身構えといったものをも把握しているわけです。
このような理由があって、「身体の態勢」という表現をしています。
ちなみに、「態勢」を辞書で調べると、「ある物事に対する身がまえや状態。かまえ。様子。」とあります。
やはりこれ以上的確な表現はないように思われます。
29
:
久保共生
:2021/07/14(水) 22:25:48
>>20
>しかしそれでも、感覚を身体態勢としてとらえようとするのは、その「夕日」を「夕日というもの」ではなくて形式化されないある経験そのものの感覚としてとらえることは現実的には不可能なことなので、それを身体態勢という一つの形式に当てはめて概念化する作業だ、という意味合いがあるように思われるのですが、どうでしょうか。
感覚概念の形成については「身体態勢という一つの形式に当てはめて概念化する作業」と言ってよいと思います。
>「感覚は身体態勢」説が一つの形式化作業なのであれば、それはいろいろな世界把握のやり方のなかの一つでしかないのではないか、という疑念が湧いてきます。
僕も勿論、身体の態勢の把握以外にも世界把握の様式はあると考えています。
それこそ今回批判した真理条件的な世界把握だって存在すると思っています。(感覚の意味を理解するのに真理条件的な意味観を持ち出すのは不適切というだけです。)
>例えば〈「身体態勢」の代わりに、ある主体の「物語」をもってそれが感覚だとする〉というようなやり方も可能なのではないか
横山さんの考えはあまり分かりませんが、個人的に「物語」というワードはとても興味深いです。
僕は「感情」とは何かを考えていたりするのですが、今のところ僕の見方では、感情とは身体の態勢の把握を含んだ物語なのではないかと考えています。
ただこれについては、僕もまだほとんど考えが纏まっていません。
30
:
ウラサキ
:2021/07/15(木) 19:11:18
期せずして「身体の態勢」という「私的言語」の実例を提供して頂いたことを感謝致しますm(_ _)m
31
:
久保共生
:2021/07/15(木) 21:03:41
>>30
ほんともう、なんでそんな煽りっぽい言い方をされるのですか?
僕はウラサキさんの無神経さをある程度知っていますから(そして僕も割と無神経なタイプなので)許容しますが、人によっては相当怒ると思いますよ。
だって「私的言語」ってその当人にしか理解できない言葉ですよね?
ってことは、「あなたの言ってることは誰にも伝わらないですよ。」とでも仰りたいのでしょうか?
普通に失礼でしょう。
いや、失礼以前にそもそも、単にウラサキさんに対して伝わっていないというだけのことなのに、勝手に「他の人にも伝わらない」と決めつけるのは極めて不当でしょう。
もう少しよく考えて発言していただきたいです。
一点思ったことを書いておきます。
僕は、思想を他者へと伝達する行為は、一方向的なものではなく、互いの歩み寄りが大切だと思っています。
僕は、ウラサキさんに自分の考えを伝えようと、拙いながらもそれなりに頑張って説明したつもりですが、それに対してウラサキさんは「通常の日本語を歪めている」とか「私的言語の実例」だとか言って、まともにこちらの考えを理解する努力を欠いているように思われます。
人と対話する気がなければ、そりゃあ、人の考えなんて分かりませんよ。
まだ大して議論を尽くしたわけでもないのに、私的言語認定なんてしないでいただきたい。
32
:
横山信幸
:2021/07/15(木) 23:56:28
僕のいう「物語」と久保さんの「身体の態勢」の違いについて思うことを、すこし書きます。(まだぜんぜん整理できないので思いつきのメモ書きでしかありませんが)
「身体の態勢」というのは、個別な経験の質的内容を身体を経由させて「モノ化」させることによって、本来、形式化したり分節化したりすることがかなわないものを語り得るものにするというシステムなのかなぁと解釈ました。
つまり、「身体の態勢」において「経験的質的内容」が「ことば化」されるときの、そのことばの身分というは、感覚が身体において起こることに注目し、その身体内の経験的事実と身体態勢を同一者とすることができるものとして考えるので、それによってその経験的質の内容を正しく忠実に取り出すことができるものととらえらられるのではないか、という解釈です。
しかし、そう考えるとその捉え方は、私の身体態勢であるところの私の感覚が世界の側にすでに答えとして第一義的に存在していて、主体はその答えを後から第二義的に忠実に取り出してくるものとするシステムになってるのではないかと、僕は疑ってしまいます。
しかし、一方で、発表の時に久保さんがウィトの論考的な二値理論からの脱却を訴えられていたのは、もしかすると、「身体の態勢」が経験から「元からあった真なるもの」を取り出すだけのものではなくて、主体が経験世界と向き合うときにそこでその都度はじめて何を真とするかが決まるのである、という話に通じる論説だったかもしれないとも思われてなりません。
また、話が飛びますが、僕はリクールをよく知らないのですが、リクールの「物語論」では読書がテキストを追創造することでテキストを補完し、それによって世界と積極的に向き合えるようになるということを言っているらしいです。
この話を「身体の態勢論」と重ねて考えると、(ここからまた僕の妄想が暴走するのですが)世界を身体化して捉えることによって感覚を言葉化すると把握するとしても、僕はそのときに、経験的質の内容を主体の身体が受けとってそれを対象化すると同時に、経験的質の内容を受けとることの反作用によって主体自身が対象化される、という双方向の働きかけがあると考えたい気分になります。
つまり、〈「身体」がそのように反応したからその「感覚」である〉のでは無くって、〈「私」がそのように感じたからその「感覚」が生じると同時に、その「感覚」が起こったからそのように感じる「私」が生じた〉とする必要があるように思われるのです。
そう思うと、「感覚」を言葉化するときに必ずしも「身体」は必要ないのではないかと疑いたくなってきます。
(もう何を言いたいのか論説が飛んでしまって、また、ハチャメチャになってしまっているのですが、とりあえず続けます)例えば、「かまど」が「熱い」と感じたときにその「熱い」は必ずしもかまどの身体反応が無くてもかまどが体験した様々な冒険譚のストーリーのなかで某かの位置付けがされる言葉なのであれば、そのことによって「熱い」には意味があるとすることができるでしょうし、かまどの「身体」はその「物語」のなかで「かまどの感覚」を位置づけるのに必ずしも必要ではないと思われます。そう考えると、かまどでなくて、人間でもその感覚を言葉化するのに「身体」は必ずしも必要とは言えないのではないか、という疑問はまだ僕のなかで根強いのです。
今回も、結局、人に伝わるような話にまとめることはできなかったように思われますが、それでもここまで書いてしまったので、「書き込む」をポチっとしてしまいます
33
:
ウラサキ
:2021/07/16(金) 04:08:14
久保共生さん、「無神経な」表現ですみませんm(_ _)m
どうか読解力の無い者の妬みと思って、笑い飛ばして下さい。
ただ先日の会でも、述べたとおり、私は「私的言語」の積極的役割を評価しており、決して罵倒しているわけではございません。
むしろ哲学という Sprachspiel においては重要な役割を果たすことが多いと感じています。
34
:
横山信幸
:2021/07/16(金) 06:51:50
ウラサキさんは「「無神経な」表現ですみませんm(_ _)m」とされながらも、「身体の態勢」を「私的言語」としたこと自体は撤回せずに、逆に評価する意図でそう言ったのだとされているように見えます。それはいまだに、久保さんの言う「身体の態勢」が誰にも伝わらない言葉であると考えていると受け取れる気がするのですが、そうなのでしょうか。
35
:
横山信幸
:2021/07/16(金) 07:08:58
罵倒であったり攻撃的発言であったりそのような言動については、言った者と言われた者の二者以外の人が何を言うかが(我々のような自由な哲学議論をしようとしている集団にとってこそ、逆にそのことが)たいへん重要であると、僕はあるとき痛感しました。なので、今回横から割り込む形になってますが発言させてもらいました
36
:
ウラサキ
:2021/07/16(金) 08:01:22
私には「身体の態勢」という語の意味の解釈が横山さん、ムラタさん、おぐすさんとでそれぞれ少しずつ異なっているように見えました。
このように受けて取る側でそれぞれ解釈が異なるのも私的言語の特徴の一つではないかと思います。
勿論、日常言語や哲学ではそういう例がよくあります。
もしかしたら「私的言語」という語自体も私的言語なのかもしれません。
37
:
横山信幸
:2021/07/16(金) 09:31:27
ウラサキさん、
私の質問は、ウラサキさんが、久保さんの言う「身体の態勢」が誰にも伝わらない言葉であると考えているのかどうかです
38
:
ウラサキ
:2021/07/16(金) 09:42:09
発言した当人が「伝わった」と認定すれば伝わったことになる言葉だと思います。
39
:
横山信幸
:2021/07/16(金) 10:27:01
ウラサキさん、
回答ありがとうございます
そうしたらウラサキさんの「「身体の態勢」という「私的言語」の実例を提供して頂いた」という発言が「あなたの言ってることは誰にも伝わらないですよ」という意味ではないと解釈して良いのですよね。良かったです
40
:
ムラタ
:2021/07/16(金) 11:04:50
>>36
私的言語であるからにはその言語が(現実的でなく)原理的に翻訳不可能であったり習得不可能である必要があるはずです。
「身体の態勢」や「私的言語」という言語のどこにそんな原理的不可能性があるというのでしょうか? 単に目下のところ解釈にぶれがあるというだけのことのように思えます。
そんなことよりも、相手を嘲弄する(と普通相手に解釈される)ような
>>30
の発言は議論の建設性を損なうルール違反の発言だと思いました。こんな発言がまかり通ると匿名掲示板のような非生産的で愚劣極まりない議論になってしまうでしょう。それに議論の成立ということのみならず(こちらのほうがより大切なことだと個人的には思いますが)人間関係の成立という意味においても不適当だと感じました。
>>33
の釈明も自分で相手を嘲弄しておいて、「笑い飛ばしておいてください」はあんまり身勝手だろうとはたで見ていて思いました。
横山さんの件などでも感じましたが、ウラサキさんにはどうも相手に礼を失しやすい傾きがあるのではないでしょうか。ほとんど無意識にしていることと思いますが気を付けてほしいと思います。
41
:
火雨
:2021/07/16(金) 11:16:56
横からの書き込みですみません。横山さんの「夕日」や「かまど」の例に興味があります。ボードレールの「コレスポンダンス」に近いのかな、と思いました。
42
:
久保共生
:2021/07/16(金) 12:56:08
>>36
言葉の意味の解釈って、よっぽど厳密な学術用語以外はたいていぶれがあるものだと思うのですが、ウラサキさんの中では、解釈にぶれがあるものは全て私的言語なんでしょうか?
例えば、「民主主義」という言葉でも、人によって解釈の相違があるでしょう。
では、民主主義は私的言語なんでしょうか?
43
:
ウラサキ
:2021/07/16(金) 13:14:22
「民主主義」は一般の辞書にも定義が書いてありますので、私的言語とは思いません。
ハイデガーが使う「本来性(Eigentlichkeit)」などは、私的言語ではないかと疑っています。
44
:
久保共生
:2021/07/16(金) 13:58:58
>>43
>「民主主義」は一般の辞書にも定義が書いてありますので
それは確かにそうなんですが、辞書的定義を参照してすら、まだ解釈にかなりのぶれが生じる余地があると思うのですが、いかがでしょう?
例えば、「日本は民主主義か?」と問えば、おそらく結構意見が分かれるような気がします。
僕の予想では、「はい」と答える人の方が多いとは思いますが、一方で「もはや日本では実質的に民主主義が成立していない」とか「日本には民主主義の理念が全く根付いていない」という意見もきっと出てくると思います。
これらの意見の相違は、辞書的定義に帰れば解消するものではなく、またどちらが真でどちらが偽かを明確に判定することはできないと思われます。
僕としては、「民主主義」とハイデガーの「本来性」との間には、程度の差こそあれ、私的言語か否かを分ける本質的な違いがあるとは思えないのですが。
45
:
ムラタ
:2021/07/16(金) 18:46:12
>>43
私的言語は原理的に翻訳不可能な言葉、つまりほかの言葉で言い換えられる可能性が原理的に閉ざされた言葉であって、言い換えることによって表現されうるのならそれは私的言語とは言えないでしょう。
ハイデガーの「本来性」等の言葉は確かに解釈のぶれの大きな言葉ではあろうと思いますが、仮にある人が「本来性」を「本来性A」という意味に解釈し、また別の人が「本来性B」という解釈をしたとしてもその「本来性A」とか「本来性B」という解釈はほかの言葉に換えられうる(翻訳可能)のですから、ウィトの想定した私的言語からは外れたものになるだろうと思います。
46
:
横山信幸
:2021/07/16(金) 23:28:21
火雨さん、
僕はボードレールも「コレスポンダンス」もまったく知らなかったので、ネットでいくつかの解説を読んでみました。とても興味深かったですが、やはりそのようなちゃちな調べ方では、まだ全然よく分からないでいます。「私」と「神としての世界」がいちいちきちんと響き合い、それによって世界が「イマココのコレ」として現れてくる…みたいな感じの話かなと勝手にイメージしました。
その解釈であってるのでしたら、僕の(コレも勝手に思っている)「『物語』による世界解釈」と関連するところが大きいように思います。
ただし、僕の思っているものはかなりぼんやりしていて、自分自身でのよく分からないものです。
それでも、
○個物としてのカオスな経験が主体によって物語として構成され、また同時に、その経験によって主体が構成される。
○その構成される世界が物語となることでそこに意味が現れ、それによって主体や世界が何者かとして語られ得る権利を持つ。
○それゆえ、主体は直接的な身体を持たなくても客体としての世界と関係することができるので、「グレーテルのかまど」の「かまど」のような身体態勢の活動をもたない存在でも、幽霊霊魂のような、そもそも身体を持たない存在でも、主体として世界を語り得る可能性を持つ。
みたいなところはイメージしています。
そして、そんな感じでしか考えていませんので、そこで生じる世界像としてはあまりはっきりしたものではなくて、ボードレールも「コレスポンダンス」もそのような世界像の一つのモデルとしてアリだと思われます。でも、(僕の今の解釈では「コレスポンダンス」がライプニッツの予定調和的世界像に近いものに思えてて、その詩の中の『unite』って言い方なんか『モナド』そのものに見えて仕方ないので、それが実際に予定調和だとして話しますが、)そのような予定調和な世界でなくても、僕の思う物語は世界を構成できてしまう気がするので、ちょっと違うかもしれないとも思います。
ボードレールを知らないままに適当に思いつきを語ってしまいました。ぜんぜん見当違いの話になっていたら赤面だなあと思いつつ、「書き込む」をポチッとします
47
:
久保共生
:2021/07/16(金) 23:34:34
>>32
>発表の時に久保さんがウィトの論考的な二値理論からの脱却を訴えられていたのは、もしかすると、「身体の態勢」が経験から「元からあった真なるもの」を取り出すだけのものではなくて、主体が経験世界と向き合うときにそこでその都度はじめて何を真とするかが決まるのである、という話に通じる論説だったかもしれない
その方向の解釈でお願いします。
「私の感覚が世界の側にすでに答えとして第一義的に存在して」いるとは考えません。
>〈「身体」がそのように反応したからその「感覚」である〉のでは無くって、〈「私」がそのように感じたからその「感覚」が生じると同時に、その「感覚」が起こったからそのように感じる「私」が生じた〉とする必要があるように思われるのです。
全く的外れかもしれませんが、「感覚を意味づけるのは身体ではなく、私が語る物語である」という感じでしょうか?
もしそういうことならば、一部異論があります。
確かに「物語」には感覚(あるいは感情的なもの)を意味づけるきわめて重要な機能があると思います。
そして実際、身体の態勢を無視して何かしらの物語が語られることもあると思います。
けれども、身体の態勢の把握が感覚(あるいは感情)を意味づける上で、全く何の機能も果たしていないとは思えないのです。
こんな経験はないでしょうか?
自分の今の感情を語ってみたものの、いまいちしっくりこない、ピンとこない、腑に落ちない、という経験です。
僕は何度もあります。
では、なぜこんなことが起こるのでしょうか?
僕は、そこで語られた「物語」が今の自分の身体の態勢とあまり適合していないからだと思います。
つまり、身体の態勢にはそこで語られた物語の妥当性を判定する役割があるのではないでしょうか。
ただしこの妥当性の判定は、所謂真理条件的な判断とは異なることは、発表の時にも述べたと思います。
僕は、世界を分節化し意味づけるのは何も真理条件的な観方だけではないと考えます。
身体の態勢の把握も、世界の分節化に大いに寄与していると考えています。
48
:
横山信幸
:2021/07/17(土) 00:24:29
久保さん、
なるほど、身体の態勢をもたない「かまど」がもし意識を持っていたとしても、そこでの感覚の言語化は不十分なものでしかないということですね。そうかもしれないという気もします。
しかし、それって単に程度の差でしかないような気もするのですが、どうなのかなあ。よく分からなくなってきました。じっくり考えてみたいと思います
49
:
横山信幸
:2021/07/17(土) 00:35:58
久保さん、
それと、世界の言語的分節化にとって真理条件が不要かもしれないという話についても、いろいろと興味深く思っているところがあります。僕は、ウィト哲学において「探究」が「論考」を否定したと評されることについて、その通りだと思うところとそうではないと思うところとを両方思っていまして。
「論考」的二値論理についても否定されるべき点もあるのは認めますが、基本的に《記述言明は「肯定」と「否定」の組合せによって構成される》とする論考の言語論は「探究」でも継続して生きていられるし生きてなければならないとも考えています。
その辺りで、久保さんの「論考」批判についてもう少し深め合える問いがありそうに思っています。
なので、来月の例会で7月の続きを話し合えたらうれしいなあと思っています
50
:
横山信幸
:2021/07/17(土) 00:51:18
付け加え)
僕は、「論考」がダメだったのは、どんなに頑張っても、よりどころのはっきりしないあやふやなものでしかあり得ないはずの言葉について、その意味を明確に確定できるとしてしまったところだと考えています。
でも、記述言明は必ず肯定と否定の組合せによって構成されなければならないとしたことは、ぜんぜんダメじゃないと考えています。
そして、論考の言語論は、そこのところが明確に分けられて評価されるべきだと考えています
51
:
横山信幸
:2021/07/17(土) 01:03:53
スミマセン。しつこく。
久保さん、
>「感覚を意味づけるのは身体ではなく、私が語る物語である」という感じでしょうか?
そんな感じですが、少し修正するなら、「感覚を意味づけるのは私が『語る』物語」ではなくて、「感覚を意味づけるのは、私が読むことで物語として『完成する』物語」という感じになると思います。
52
:
ウラサキ
:2021/07/17(土) 09:42:58
>>49
横山さん、
「基本的に《記述言明は「肯定」と「否定」の組合せによって構成される》とする論考の言語論は「探究」でも継続して生きていられるし生きてなければならないとも考えています。」
とのことですが、ウィトはブラウワーの講演を聴いた後も、論理主義(=実在論)的な真理観を維持していたということでしょうか?
53
:
横山信幸
:2021/07/17(土) 10:15:46
ウラサキさん、
僕は上で
>僕は、「論考」がダメだったのは、どんなに頑張っても、よりどころのはっきりしないあやふやなものでしかあり得ないはずの言葉について、その意味を明確に確定できるとしてしまったところだと考えています。でも、記述言明は必ず肯定と否定の組合せによって構成されなければならないとしたことは、ぜんぜんダメじゃないと考えています
と書いたのにも重なりますが、
僕も後期ウィトゲンシュタインは論理主義的な排中律を守る真理観からは離れたと理解しています。
しかし、それでも、記述言明は必ず肯定と否定の組合せによる世界の分節化以外には構成されないことは疑っていなかったと思います。
その意味で僕は、論考の言語論のそこのところの「世界は論理主義的確定的に存在するとする側面」と「記述言明は肯定と否定の組合せによって分節化可能になるという側面」が明確に分けられて評価されるべきだと考えています
54
:
横山信幸
:2021/07/17(土) 10:25:52
前にも言ったかもしれませんが、僕のイメージでは「論考」と「探究」の関係は、アインシュタインの「特殊相対論」と「一般相対論」です。「特殊」が「一般」のかなり限定された一例でしかなく、使えないところではぜんぜん使えない法則、みたいなものとしてとらえています。それでも「一般」によって乗りこえられてより深い理解に導かれたけれども、乗り越えられただけで完全に否定されたわけではない、みたいな
55
:
おぐす
:2021/07/17(土) 13:06:11
少しく哲学的なシェーマから遠ざかるきらいも感じつつコメントします。
横山さんがおとぎ話に出てくるような「かまど」について言及するくだりで、火雨さんの「かまど」や「夕日」への関心の寄せ方がいかにも火雨さんらしく面白いと思いました。「グレーテルのかまど」という番組タイトルがどのような主旨によるものかは存じませんが、グリム兄弟が採話した寓話では「かまど」は、グレーテルが魔女をたくみに誘導して押し込んだ「かまど」です。魔女は熱いかまどの中で叫びうめきつつ焼き殺されます。
ユングやベッテルハイムによれば魔女は母親ですね。グリムに蒐集された多くの寓話も、初版では「魔女」や「継(まま)母」は実母です。民話は子どもを支配し呑みこもうとするグレートマザーの側面を率直に語りますから。「かまど」は子どもが口唇期の不安や依存関係を脱するための母殺しのアイテムでしょうか。
ユング的な象徴が「かまど」だとすれば、横山さんのいう「手足も内蔵も目も耳も無いのに見えて聞こえる主体」は、いまだ主体と環界の分節化が十分になされず、身体の部位の把握も未分明な身体全体で環界を感受する乳児期の状態を彷彿させます。おとぎ話を好む幼児期や学童期の子どもは、たぶんに乳児期の心性の延長にあるので、寓話の世界に馴染みやすいと思われます。
以上のような精神分析学的な民話解釈を好まないむきもおられるでしょうが、私が面白いと思ったのは火雨さんが「かまど」の例からボードレールのコレスポンダンスを連想したことです。ボードレールはサンボリズムの枠を越えて自らと美醜との関係をあらゆる喩 寓意、比較によって表現しましたが、光や音や色彩や匂いを意図せず五感で受けとめるボードレールの資質は「かまど」が感受する寓話の世界と類似性があるのかもしれません。火雨さんの発想そのものが万物照応的ですね。
56
:
ウラサキ
:2021/07/17(土) 13:52:58
>>53
「論理主義的な排中律を守る真理観からは離れた」と
「記述言明は必ず肯定と否定の組合せによる世界の分節化以外には構成されないことは疑っていなかった」
この二つの命題は両立しないように私には思えます。
57
:
横山信幸
:2021/07/17(土) 18:51:29
ウラサキさん、
僕が
「論理主義的な排中律を守る真理観からは離れた」と
「記述言明は必ず肯定と否定の組合せによる世界の分節化以外には構成されないことは疑っていなかった」と分けて話したのは、
「世界は論理主義的確定的に存在するとする側面」と
「記述言明は肯定と否定の組合せによって分節化可能になるという側面」とを分けて考えたいという意図で言ったことで、
前者は、「記述の内容に関する確定可能性の無さ」についての話であり、
後者は「記述を有意味に捨てるための言語システム」についての話です。
なので、僕にとってはまるで別の話になるとしか思えないです。
また、記述を肯定と否定の組合せとする以外の有効な言語システムを僕には、思いつかないのですが、これを否定するとしたら記述文の有意味性というのはもう問わないとする立場になるのでしょうか。
58
:
横山信幸
:2021/07/17(土) 18:53:03
スミマセン
後者は「記述を有意味に捨てるための言語システム」
→
後者は「記述を有意味にするための言語システム」
59
:
久保共生
:2021/07/18(日) 00:11:11
なるほど、少し分かってきたかもしれません。
とりあえず、考えたことを書いておきます。
横山さんの言う「肯定」と「否定」は、伝統的な二値論理の真偽とはまた別物、というより、より広い概念ととらえるべきでしょう。
つまり、伝統的な真理条件的意味論は、「肯定」「否定」という分節化のためのシステムの中の特殊な一様態にすぎないというわけですよね。
こうした真理値よりも広い意味での「肯定」「否定」においては、排中律は必ずしも成り立つわけではなく、グラデーション(中間領域)を認めうる。
「もの悲しい感じの曲」か否かを明確に線引きすることはできないし、強い肯定や、弱い肯定などもありうる。
けれども、たとえこうした曖昧さを認めたとしても、そこにはやはり、世界を分節化するための「肯定ー否定システム」が存在していることは確かだと思われる。
「論考」の世界観は、完全に分節化され既に意味が決定されているスタティックなものだが、我々の把握している世界は実際にはそんなに明確に分節化されたものではなく、まるで印象派の絵画のように、境界線が曖昧で、連続的であり、しかもその都度変化しうるものである。
すなわち、「肯定ー否定システム」というのは論考で想定されていたようなスタティックなものではなく、もっとダイナミックなものと考えなければならない。
横山さんの仰りたいことは大体こんな感じでしょうか?
もしそういうことならば、僕も異論はありませんし、とても納得できます。
60
:
横山信幸
:2021/07/18(日) 00:43:08
久保さん
>もの悲しい感じの曲」か否かを明確に線引きすることはできないし、強い肯定や、弱い肯定などもありうる。けれども、たとえこうした曖昧さを認めたとしても、そこにはやはり、世界を分節化するための「肯定ー否定システム」が存在していることは確かだと思われる
はい、僕もまさしくその通りのことを考えています。
61
:
火雨
:2021/07/18(日) 16:33:30
>横山さん
「コレスポンダンス」について補足です。ボードレールの「コレスポンダンス」の捉え方には一般的に少し幅があるのですが、僕の理解ではまずは知覚と感覚が交錯するものと考えています。特に横山さんの「夕日」や「雀」の例は、知覚からくる経験が感覚にうったえるような何か交錯を起こしてるように見えます。実は僕自身も過去に似たような経験があり、散歩中、遠くの山の頭頂に鳥が消えてった瞬間、自分の右手人差し指があたかも山の頭頂であるかのような感覚が現れました。この経験はそれっきりで、以降現れていませんが、僕にとってはこれが「コレスポンダンス」的な経験なのだと思いこんでいます。この経験ではもちろん「身体の態勢把握」が現れてはいますが、それプラス知覚との交錯が起きていることで、感覚の拡張が起きてるように思います(以前の会で山内さんが紹介してくださったハクスリー『知覚の扉』を思い出します)
さらに、一般的な「コレスポンダンス」解釈には知覚や感覚だけでなく、その当事者や自然が持つ「物語」や「歴史」も交錯する、と捉えられることが多いです。この場合では「記憶」の概念が重要となるのかな、と考えています。「夕日」や「雀」ではなく、「かまど」の例の場合はこちらの「コレスポンダンス」解釈が適用できるのではないかと思います。(「かまど」には感覚器官がないので、久保さんの定義上知覚も感覚も発生しないため)
ライプニッツとの親和性については、横山さんに言われて初めて、そうなのかもしれない、と思いました。たしかにボードレールの件の詩からは、世界や自己を既にある1つの規定されたもの、として捉えてるように感じます。横山さんの言うような「経験によって主体が構成される」ような余地はボードレールには足りないかもしれません。(しかし、「コレスポンダンス」に影響を受けた他の詩人たちはその限りではないのかなと感じます。)
話を広げるばかりで申し訳ありませんが、僕の中ではホットな話題でしたので横槍を入れてしまいました。本筋から外れるようでしたらすみません。
>おぐすさん
僕の横槍をフォローしてくださり、ありがとうごさいます。たしかに横槍を入れること自体が「コレスポンダンス」的な行為になってますね(笑)
おぐすさんの精神分析的な例も個人的には興味深いです。「かまど」のように身体感覚が未分化な状態が(良かれ悪しかれ)寓話という形で表現されるているのには何かしら必然性があるだろうと思います。ちなみにEテレの『グレーテルのかまど』はお菓子を作る番組で、「かまど」は魔力で材料を用意してくれます。「かまど」が持つ身体感覚の未分化性は「魔力」のメタファーになっているのでしょう(※僕の勝手な解釈です)。
62
:
横山信幸
:2021/07/18(日) 21:08:38
火雨さん
僕の解釈した「コレスポンダンス」はやはり少しズレてたかもしれませんね。なるほど、知覚と感覚の交錯ですか。しかし、僕の思っていたものと違っていたからこそ、とても世界が広がる思いがして、なんだかよく分からないところに深く連れて行かれる気もしました。面白いです。そんな風に「交錯」してしまうと世界がどうやって成立するのかできないのかを考えてみたいと思います。思索が広がるし深まるし横やり良いですね。良いです。とてもありがたいです。
63
:
おぐす
:2021/07/18(日) 22:26:24
火雨さん、ご指摘のようにコレスポンダンスは知覚と感覚の交錯にとどまらず、詩人の詩作の現場においては「記憶」による美的再編が重要な方法になっていると思います。記憶による知覚と感覚の再編によって、相反する諸要素がひとつのアマルガムとして表出される。ボードレールもどこかで「芸術は美の記憶術である」と述べていましたね。
火雨さんの中でのホットな話題はコレスポンダンスから、いずれバフチンのポリフォニーやカーニバル理論までゆくのかなと勝手に邪推しています(笑)。論議も広がるのでおおいに横槍を入れて下さい。
64
:
久保共生
:2021/07/18(日) 23:30:07
火雨さん、とても興味深い横槍なので、コメントさせてください。
まず、知覚と感覚の交錯ということについては、実はそれほど珍しいものではないと思います。
そもそも僕は両者を、一つの世界把握の二側面として捉えており、感覚と知覚を完全に分離できるとは思っていません。
分かり易い例は、上でも書いた気がしますが、触覚的なものの把握です。
「この毛布はふかふかだ」と言うとき、それは毛布の相貌の把握であると同時相即的に、おのれの身体の態勢の把握でもあります。
勿論、こうした知覚と感覚の交錯は触覚的経験以外でも(勿論場合によっては夕日や雀の声のようなものでも)可能だと考えます。
もう一点。火雨さんが、
>一般的な「コレスポンダンス」解釈には知覚や感覚だけでなく、その当事者や自然が持つ「物語」や「歴史」も交錯する、と捉えられることが多いです。
と仰っているのがとても興味深いです。
僕は、知覚(すなわち世界の相貌)と感覚(すなわち身体の態勢)を不可分の一つの世界経験として語る語りの様式を、「物語」と呼びたいと思っています。
さらに言えば、この物語行為こそが、人間精神の最も豊かなものを構成しているのであり、所謂「心」と呼ばれているものの本質ではないかと考えています。
ただ、これについてはまだほとんど考えが纏まっていません。
もし何かヒントになりそうなことがあれば、是非書き込んでください。
65
:
横山信幸
:2021/07/19(月) 19:09:04
火雨さん、
いま「コレスポンダンス」のその視点を自分勝手に都合の良い解釈ばかりしてとても面白がっています。
また一つ教えてください。
「コレスポンダンス」における知覚と感覚と物語と歴史の交錯と言われるその「交錯」というのは、知覚と感覚のどっちがどっちか分からなくなり、物語と歴史のどっちがどっちか分からなくなってしまうような混乱みたいなことですよね。それって、そこで得られるもともとの経験自体が「カオス」なものでしかないって感じなのでしょうか
66
:
横山信幸
:2021/07/19(月) 21:04:56
スミマセン。また口走りが暴走してしまいました。↑こんな書き方で「カオス」って何を聞いてるのか分からないですね。聞き流してください失礼しました
67
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 01:05:22
少し長くなるかもしれませんか、僕の「物語」の世界構成の妄想の話をさせてください。
僕は「コレスポンダンス」における知覚と感覚と物語と歴史の「交錯」について、それは経験自体の「カオス」性を表すものじゃないかという妄想したのですが、次のようなことを考えたからです。
ある意識がある。その意識の下では現実にさまざまな感覚が起こってくる。その意識は自身が「かまど」という名で呼ばれるものであること、その感覚の対象として世界が立ち現れること、その世界のなかにはヘンゼルやグレーテルという子供がいて彼らと話をすることが出来ること、を知覚し、理解する。そこでは過去の記憶と現在と未来への展望を持つこともでき、子供らとの会話や過去から未来へと続く時空間のなかに「己や他者が世界のなかで生きて存在している」という物語を構成することもできる。
しかし、その「かまど」は身体を持たない。「かまど」の感覚を受けとめる「身体体勢」はどこにもない。それでも「かまど」はヘンゼルやグレーテルと話をしては喜んだり悲しんだり、彼らが作るお菓子を見て色彩を感じ、匂いを味わい、それがどんなに素晴らしい感覚であるかを語ることもできる。ヘンゼルが悲しんでいるのを見ることもできるし、それを見て己が悲しむこともできる。
身体がないのにどうしてそんなことができるかと言うと、その感覚を「かまど」と「ヘンゼル」と「グレーテル」があじわう「物語」として構成し、その「物語」のなかでの位置づけがどんなであるかを構成することそのものを「感覚」の意味として語れるように分節化である、としてしまえるからである。
(その分節化作業は、必ずしも確定的な法則に則ってなされていると決まってるわけではなく、ただただ行き当たりばったりででたらめな、たまたまそのように語られてしまっただけのでっち上げかもしれないし、必然的な運命によって決まったものかもしれないし、それはどっちが真であるわけもなく、問うても仕方ないことであるような、ただただ、その都度そうなっているだけの規定によって分節化がなされる。
「そこでは過去の記憶と現在と未来への展望を持つこともでき」とはじめに書いたが、それも「カオス」な「感覚」にたいしてそれを「過去の記憶」と「現在の思考」と「未来への展望」だとして物語を解釈し後から意味づけただけのものだとも言えるし、「ヘンゼル」や「グレーテル」さえその実在を後から位置づけただけのものだとも言える。)
そして、その物語による分節化によって、物語世界ははじめて意味を持ち、同時に「かまど」自身も己が物語世界のなかの登場人物として意味を持つことができる。
そうして「かまど」は、世界開闢をするだけのなんの意味も持てない単なる「コギト」ではなく、きちんと世界のなかの人物として意味を持てるようになる。
場合によっては、そこにある火を焚く道具が「かまど」の身体であるとすることで「ヘンゼル」と「かまど」の会話がスムーズになり、「かまど」の人格が捉えられやすくなるかもしれない。その時にはその会話の便利さを根拠にしてその道具を「かまど」の身体だとしても良いかもしれない。それでも「かまど」の身体がその物体や物体の態勢であることはその根拠が後から付けられたものでしかない。
あるいは、「かまど」の身体は「ヘンゼルにある」とすることも「グレーテルにある」とすることも「世界の全体がかまどの体である」とすることさえできるかもしれない
以上が僕の考えた「かまど」のファンタジーです。
しかし、このような想定は可能でしょうか。僕には可能だと思えますが、これが本当に可能であるなら、
「世界のなかに感覚があるためには、必ずしも「身体態勢」が必要なわけじゃない」
ということが言えるように思えます。
それどころか「私」さえ不要かもしれません。
世界が元々なんの実体もない「カオス」でしかないところから、何故かたまたま「感覚」が生じたのを、適当に設えた「物語」をかこつけてそれでもって後づけで「実体」や「私」があることにしてしまっただけの出来事が「世界」かもしれない、とも考えられるからです。
まだまだファンタジーな空想でしかないのですが、何か、哲学めいた思索に繋がりそうな気がして、さらにいろいろと空想を巡らしています。
68
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 07:23:18
もう少ししつこく書き込みさせてくださいスミマセン
ぼんやり思っているのは)
「感覚」も含めて世界を分節化するときの分節化の方法がつねに「その都度」的なものでしかないとし、あらゆる感覚も存在者も私も他者も過去も時間も空間も何もかもが
69
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 07:29:35
その都度の分節化によってその都度立ち上がってくるだけのものとするのであれば、「感覚」とともに私の「主体性」も「他者」も「時間」「空間」も「歴史」「物語」も「物理的存在」もがどれも一度に分節化されてその都度立ち上がってくるように思われます。そしてそれらの関係しあいっこによって、ある感覚も「ある感覚」として意味づくように思えます。なので、「身体態勢」のみに「感覚」の意味付けの責任を負わせるのは、物的身体を先行させて世界を立ち上げる世界把握に見える。
と、そういう感じがあります
70
:
久保共生
:2021/07/20(火) 08:30:45
>「世界のなかに感覚があるためには、必ずしも「身体態勢」が必要なわけじゃない」
なんだか「身体の態勢」というのをまるでモノみたいに捉えておられるように見えますが、身体の態勢というのは、身体の周囲世界に対する関わり方のことですよ。
まさか感覚の成立には、身体と世界の関わりは必要ないとは仰いませんよね?
一切の外的刺激を想定しない「痛み」や「眩しさ」、あるいは周囲世界とは無関係な「平衡感覚」なんて、意味不明ですから。
もう少し問いを修正して、「身体を持たない者が、感覚の意味を理解できるか?」と問うてみてはいかがでしょうか?
それと、「かまど」ではファンタジーが過ぎて、いまいち状況設定が飲み込めないので、もう少し現実的な例を考えた方が良いのではないかと思います。
例えば、AIなどはどうでしょう。
「会話システムが搭載されたAIは、身体がなくても感覚の意味を理解できるか?」など。
やはり「かまど」である必要があるのでしょうか?
71
:
久保共生
:2021/07/20(火) 09:41:07
>「身体態勢」のみに「感覚」の意味付けの責任を負わせるのは、物的身体を先行させて世界を立ち上げる世界把握に見える。
横山さんもウラサキさんと同様の誤解をされているように思われます。
僕の想定している「身体の態勢の把握」とは、単なる「物的身体」の把握ではありません。
これはほんとに何度も強調していることですが、やはりなかなか伝わりませんね。
メルロポンティが『知覚の現象学』において、こうした「物的身体」あるいは「客観的身体」という見方を何度も何度もしつこく批判していましたが、やはりそれだけこの見方から脱却するのは難しいのでしょう。
「身体の態勢の把握」については僕も何度も説明していますが、僕以外だと
>>23
のムラタさんの返信も参考になるかと思います。
僕からも改めて説明しておきます。
身体の態勢の把握とは、単なる「物的身体」の状態を把握することでは決してなく、自分が周囲世界に対して、どのような態度で関わっているかという関わり方の様態を把握することです。
したがって僕は、身体の態勢の把握を状況把握の一契機と考えています。
すなわち、自分が今どのような状況にあるかを把握することとは、周囲世界の相貌の把握(知覚)のみならず、その世界に対してどのような向き合い方をしているかを把握すること、すなわち身体の態勢を把握することである、というわけです。
例えば「痛み」の意味にしても、それは私の身体に現れる点的印象のようなものではありません。
私は痛みという感覚の意味を、自分と世界との関わり方の一つの様式として把握するのです。
但し、ここで言う「関わり方の把握」とは、機能主義的な物理的なものの連関仕方の観察的把握とは全く異なるものであることは、強調しておかねばなりません。
客観的観測によって把握するのではなく、おのれの身体の態勢によって、自分の世界に対する関わり方を知るわけです。
72
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 10:15:58
久保さんの問いにおける「感覚」と僕の問うているものはやはりちょっと違うのかもしれません。
>「身体を持たない者が、感覚の意味を理解できるか?」
という問いに対して僕は、それが「できる」とするところから問うていって「その理解が成立するためには物語の立ち上げができれば可能だろう」ということを考えたのです。
今僕はカントとライプニッツの世界把握の違いを追っているのですが、ライプニッツは「質料が形式に先立つ」とし、カントは「形式が先立たねば質料とて質料たりえない」としています。
今話し合っている「感覚」について、僕はそれを身体や言語に先立つ経験としてとらえているところがありますが、久保さんはもしかするとカントっぽい捉え方をされているのかもしれないという気がしています
73
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 10:21:04
久保さん、教えてください
>自分が周囲世界に対して、どのような態度で関わっているかという関わり方の様態を把握することです
そうであれば例えば、物的身体を持たず、声だけでヘンゼルと交流している「かまど」という存在がヘンゼルにたいして「せつない」という声を発すれば、その声も「身体態勢」になると理解して良いのでしょうか
74
:
久保共生
:2021/07/20(火) 11:38:16
>物的身体を持たず、声だけでヘンゼルと交流している「かまど」という存在がヘンゼルにたいして「せつない」という声を発すれば、その声も「身体態勢」になると理解して良いのでしょうか
「かまど」の状況設定があまりよく分からないので答えづらいですが、普通に考えて、そもそも身体を持たないなら、身体の態勢も考えられないでしょう。
ちなみに、カントとライプニッツの対立についてはあまり分かりませんが、感覚(身体の態勢)と身体はどちらかがどちらかに先立つような類のものではないと考えます。
つまり、身体なき感覚(身体の態勢)などありえないし、感覚(身体の態勢)なき身体も然りです。
尤も、後者は「死体」という例が挙げられるかもしれませんが、死体としての身体は物的身体(body)であり、僕がここで言っている意味での身体ではもはやありません。
75
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 11:49:03
久保さん、
なるほど。では、例えば、世界を開闢させた神を考えるとしても、その世界のなかに自身の身体をもたないとすると、その神はその世界のなかで「感覚」を持ち得ない、ということですね。その神が感じているものがあったとしても少なくともそれは「感覚」と呼べるようなものではない、とそう理解してよいでしょうか。
76
:
久保共生
:2021/07/20(火) 12:14:53
いきなり神を持ち出されてもどう答えてよいのか分かりません。
神=世界と考えるのなら、「その神が感じているものがあったとしても」という文の意味が分かりません。
「世界が感じる」という文の意味が分からないので。
そうではなく神がこの世界の外側の存在だと言うのならば、僕には思考不可能です。
どうぞお好きに理解してください、としか言えません。
77
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 12:53:07
そうか、「神」では話が飛び過ぎましたか。
えっと、何とかもう少し掘り進めたいのですがむずかしいかもしれないです。
永井がライプニッツ原理、カント原理というのを「哲おじ」か何かで言ってましたが、
ライプニッツ原理「何が起ころうが起きたことが現実」というのと、カント原理「現実か否かは関係によってきまる」というやつです。
それになぞらえて言うとすると、僕は何を感じようが起こってきたものが「感覚」というライプニッツ原理的な捉え方から逃れられないのです。「世界があるけどそこに私の身体がないこと」は可能だとしか思えず、逆に「世界があるのに私の感覚がないこと」はあり得ないとしか思えないのです。しかし、僕がそのようにとらえている「感覚」は久保さんが問題とされているものとかなり違うものですよね。それがどう違うものなのか知りたいと思っているのですが、どうも混乱してしまいます
78
:
ウラサキ
:2021/07/20(火) 13:10:45
>>77
横山さん、
「世界があるけどそこに私の身体がないこと」状況とは、「私が死んだ後のこの世」のことでしょうか?
それとも「私とは物理的に離れた(現在の)どこか」のことでしょうか?
79
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 14:02:21
スミマセン一部訂正)
僕は何を感じようが起こってきたものが「感覚」というライプニッツ原理的な捉え方から逃れられないのです
→
僕は「何を感じようが起こってきたものが感覚」というライプニッツ原理的な捉え方から逃れられないのです
80
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 15:12:15
>>78
ウラサキさん、
僕が「世界があるけどそこに私の身体がないこと」と言ってるときの「私の身体」というのには、「世界を感覚する感覚器官」としての身体という意味と「世界にたいして働きかける器官」としての身体という意味とが考えられると思われます。
まず、「世界を感覚する感覚器官」としての身体について、それが無いのに感覚があるというのはある意味では矛盾のようにも思われますが、感覚器官なしで直接感覚をとらえるということが絶対にあり得ないかというとそんなこともないようにも思われます。例えば「心眼」などです。だから「感覚器官は無い。でも『心眼』などによってやっぱりはっきりと感覚があって世界があることははっきりしてる」などと言える可能性はないわけじゃないと思われます。
次に、「世界にたいして働きかける器官」としての身体については、それが無くて感覚があるというのは、ぜんぜん矛盾でもないので、こちらの方が問題なく「運動器官は無いけど、感覚がはっきりとあって世界があることははっきりとしてる」と言えると思われます。
なので、原理的な可能性の話として「世界があるけどそこに私の身体がない」という状況は十分想定可能なように思われます
81
:
ムラタ
:2021/07/20(火) 15:59:15
>>80
>原理的な可能性の話として「世界があるけどそこに私の身体がない」という状況は十分想定可能なように思われます
それは想定不可能だと思います。
横山さんが例に挙げられておられる「かまど」の例は、実のところ身体をそこに密輸入しているのではないでしょうか。
身体がない存在というからには大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない存在になろうかと思います。まさかそういった存在が世界をもつなどとは横山さんも考えませんよね?
横山さんが身体がない存在としてそういった徹底的な存在を考えないでその代わりに「かまど」のような身体がないということを徹底していない存在を想定していることは、実は横山さんも世界が存在するためには身体が必要であることを密かに認めている証左ではないでしょうか?
82
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 16:28:56
>>81
>身体がない存在というからには大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない存在になろうかと思います。まさかそういった存在が世界をもつなどとは横山さんも考えませんよね?
そうですか。これはほとんど誰にも伝わりませんか。いや、ちょっと逆にビックリしています。僕にはまったく『大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない、そのような存在が世界をもつ』ことができるとしか思えないのです。『現に世界は開いてここにある。しかし、私の体はどこにも見つからない』という状況が、なぜ想定不可能なのか、僕の方が分からない感じで戸惑っています。
83
:
久保共生
:2021/07/20(火) 16:59:02
>>82
>大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない、そのような存在が世界をもつ
霊魂のような何らかの心的実体のようなものを想定しているようにしか読めないんですが、それで良いのでしょうか?
もしそうなら、想定不可能とまでは言いませんが、現代ではあまり支持する人はいないように思います。
84
:
ムラタ
:2021/07/20(火) 17:18:56
>>82
<大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない存在>は『現に世界は開いてここにある』と言うことができないはずです。
なぜなら、どこにも位置を占めない存在はその存在の定義上世界に目を向けるその始点を有しないのですから。
どこにも位置しない存在がある場所に存在するという矛盾が生じていると思います。
85
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 17:21:51
>>83
かまどの話の結構最初の方から、僕はかまどとともに霊魂の例もあげていましたが、そのように僕としては身体のない私を思うとき、まさに『霊魂などの心的実体』や『世界の開闢者としてのみ存在する私』みたいなものを思っています。
確かに現代では支持する人は少ないでしょうけれども、僕の思索の好みとして、問題を可能な限り解体して、ありそうかどうかという問題よりも原理的にあり得るかどうかという問題を突き詰めたいと思う方なので、ついついとんでもない方に思索が飛んでしまいます。
それでも僕には、この身体のない主体が原理的にどこまで可能なのかを問うて思索を掘り進めることは、身体の態勢の必要性を探るための真っ当な問いだと感じています。
でも皆さんにとってはお呼びでない感じだったかもしれないですね
86
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 17:29:59
ムラタさん、
>>84
>どこにも位置を占めない存在はその存在の定義上世界に目を向けるその始点を有しないのですから。どこにも位置しない存在がある場所に存在するという矛盾が生じていると思います
しかし、『私が現に世界を開いている』という言明と、『その発言には矛盾がある』という言明を比べるとき、僕は前者に優位があると感じます。それはすでに現実の事実として成立してしまっているからです。矛盾律は相当に重い原則だと思いますが、それでも前者を退ける力まではないように思います
87
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 17:36:55
だからその矛盾の解消は『現に世界が開いている』の方ではなく『世界に目を向ける始点を有しなければ世界は視覚的に開かない』などの方を疑うべきことになると思われます
88
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 17:39:56
あるいは『身体がなければ世界に目を向ける視点を有することができない』なども疑れるかも知れないと思います
89
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 18:18:38
久保さん、
ではちょっと無理して、霊魂のような物的身体をもたない心的実体が世界を開いていたと想定してください。そこには世界が開いてるのですから、某かの感覚があるはずと言って良いように思います。なので、そこに生じる感覚は身体の態勢ではない感覚ということになりそうに思うのですが、これはもう問うてはならない想定になるのでしょうか
90
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 18:40:10
そしてもしそこに「身体の態勢ではない感覚」の可能性があるのなら、そこのところに感覚とはなにかの問いをさらに深める視点を見つけられる気がしてならないのです。そんな風に思索を深めるための思考実験なら、わりと羽目を外した方が面白いと思っていろいろ思索を飛ばしたのですが、あまりに飛びすぎると、人に伝わらなくなってしまい、自分自身でも問いを見失いそうになってしまいました。
いろいろお騒がせして申し訳ない(あんまり申し訳なくもないのかな)そこももうよく分かりません
91
:
久保共生
:2021/07/20(火) 19:01:21
>>89
そもそも僕が「身体の態勢」という用語を持ち出したのは、「心的実体は存在しない」とする現代の唯物論的見方を前提として受け入れた上で、たとえそれを受け入れたとしても行動主義や機能主義等の還元主義的思想に問題があることを指摘するためです。
なので、「心的実体は存在しない」という前提それ自体を疑うのであれば、「身体の態勢」という用語は、おそらく何の役にも立たないと思われます。
92
:
久保共生
:2021/07/20(火) 19:11:42
その上で僕の意見を述べるとすれば、
>霊魂のような物的身体をもたない心的実体が世界を開いていたと想定してください。そこには世界が開いてるのですから、某かの感覚があるはずと言って良いように思います。
というのは、疑わしいと思います。
身体なき何者かが世界を開いていたとしても、だからといって感覚があるはずと結論するのは早計ではないでしょうか。
確かに、仮定より世界は開けていますよ。
しかしどこに感覚があるのでしょうか?
どうやって「痛み」を感じればよいのでしょうか?
93
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 19:22:44
久保さん、みなさん、
お騒がせしました。この問い、自分ではずいぶん面白くて、いい感じの思索に繋がりそうな気がしたので調子にのってよく考えてないままにコメントを連ねすぎました。結局、考察をあまり深められずにしょぼってしまいました。もう一度よく考えます。それからコメントするようにします。
94
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 19:55:12
久保さん、
>>92
>確かに、仮定より世界は開けていますよ。しかしどこに感覚があるのでしょうか?どうやって「痛み」を感じればよいのでしょうか?
「痛み」は感じられないかもしれませんが、例えば「見え」の感覚は感じられてると言ったりすることはできると考えました
95
:
ムラタ
:2021/07/20(火) 20:21:32
横山さん
もう一度よく考えるとおっしゃっておられるのに恐縮ですが、一応返信だけ。
>『私が現に世界を開いている』という言明と、『その発言には矛盾がある』という言明を比べるとき、僕は前者に優位があると感じます。それはすでに現実の事実として成立してしまっているからです。
横山さんが身体を持たずに世界を現に開いているならその理屈も通るでしょう。
けれども横山さんは身体を持って世界を開いているはずなので、その理屈は通らないと思います。
すでに現実の事実として成立してしまっているのは、身体なしに世界が成立している事ではなく、むしろ身体を持って世界が開けているという事の方でしょう。
96
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 20:30:26
ムラタさん、
そこについても反論あるのですが、ちょっとしっかりと自分の考えを深めて固めてから反論するようにします。きちんと僕が深めようとしている意図を共有してもらえるような話し方をするには、僕自身がこの問いをもっとしっかりと理解する必要がありそうです
97
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 22:59:36
久保さんの「感覚は身体態勢である説」に対して、その機能主義っぽいところなどでは大いに分かる気がするのですが、何か物足りない気がするところもあり、何が足りないのかをはっきりさせたくていろいろと考えてきました。その一つがぼくの「感覚は物語の質的な内容である説」であり、また「身体態勢なしでも感覚できるのじゃないのか説」でした。
考えてみると、僕は「身体態勢説」に2つの点で物足りなさを感じてるように思います。
①一つは、それが「感覚」という、ある意味で世界の質料そのものとも言えるようなものを、「身体がある」というようなずいぶんと人間的な常識を前提とするような規範でもって形式化してるように見えるところです。
②もう一つは、本当にすべての感覚が身体態勢でもって現れ語りえるのか、というところです。
これまで前者に関する疑念を問いたくて、いろいろ質問させてもらったのですが、思索が混乱してしまい僕の考えがまとまるのはもう少し時間がかかりそうです。なのでこちらの方はもう少し時間をかけてゆっくりていねいに考えてみたいと思います。
ただその前に、後者についてすこし質問させてもらいたいのですが、よろしければみなさんの考えを教えてください。
問い)
「痛い」「楽しい」「せつない」などの感覚語についてはそれがその本人の「身体の態勢」として現れてきて理解することができるというのは分かるようにも思うのですが、
「赤い」「ドの音」など見えや聞こえなどに関する感覚語はそれが「身体の態勢」として現れるとは考えにくいようにも思われます。
「赤い」という感覚に対して例えば「『赤い』と思う」や「『赤い』と語る」という身体反応まで含めて「身体の態勢」と考えるのならば分かるようにも思うのですが、また、逆に「赤い」は感覚ではないとするのであれば分かる気もするのですが。あるいは「赤い」の感じを身体態勢として解釈する仕方があるのでしょうか。そこらへんのところはどうなるのでしょうか。つまり
質問1)「『赤い』と思う」は「身体の態勢」の一つになるのか
質問2)「赤い」は感覚なのか
質問3)あるいは「赤い」の感じをそのまま「身体の態勢」として解釈できるのか
質問4)その他の解釈があれば教えて欲しい
です。
よろしくお願いします。
98
:
横山信幸
:2021/07/20(火) 23:15:55
↑「赤い」「ドの音」と書きましたがそれらは「赤い」と知覚判断される以前の感覚そのもの「ドの音」と知覚判断される以前の感覚そのもののことだとして読んでください
99
:
久保共生
:2021/07/20(火) 23:42:25
>>94
>「痛み」は感じられないかもしれませんが、例えば「見え」の感覚は感じられてると言ったりすることはできると考えました
これは、重要な点をスルーしてしまっているように思います。
世界が開かれているため、世界はある。それは良い。
けれどもそこから、一体どうして「見え」などというパースペクティブ性が登場してくるのでしょう。
ここに説明のギャップがあると思います。
僕の考えでは、「見え」というパースペクティブ性は、身体によってその都度開かれる世界が限定され、しかも身体運動と連動して世界の相貌が変化してゆくところに成立すると考えます。
したがって、身体なき世界の開闢者が「見え」という観念を持つことはないと思われます。
100
:
久保共生
:2021/07/21(水) 00:11:22
>>97
「赤い」は感覚なのか、と問われたら、僕としての返答は、「場合による」です。
「赤い」を感覚(すなわち身体の態勢)として捉えるのか、知覚(世界の相貌)として捉えるのかは、ちょうどルビンの壺を「壺」と捉えるのか、「横顔」と捉えるのか、と問うているのと同じことです。
とはいえ、「赤い」というのは、普通には、身体の態勢よりも事物の相貌(あるいは事物の性質)と見做されることが多いのではないでしょうか?
ですから、「赤い」や「ドの音」を「感覚語」と呼ぶのは必ずしも適切ではないと思います。
勿論、「赤い」が感覚として捉えられることもあり得ます。
例えば、「赤い色ってどんな感じがする?」と問われたとき、「暖かい感じがする」とか「よく目立つ」とか「興奮する」などといった回答があるでしょうが、ここにおいては、「赤い」は世界の相貌(あるいは事物の性質)としてではなく、それに対する身体の態勢の様態にとして把握されています。
他にもご質問があるかもしれませんが、とりあえず重要な点にしぼって返答しておきました。
101
:
久保共生
:2021/07/21(水) 00:42:34
一点補足。
例えば「痛い」というような一般に感覚語と見做される言葉が、感覚(身体の態勢の把握)としてではなく、知覚(事物の相貌あるいは、事物の性質の把握)として捉えられることも、決してあり得ないことではありません。
なかなか例を考えづらいですが、例えば次のような場合などはどうでしょう。
ごつごつした椅子に対して、「この椅子、痛いから、別の椅子と交換しよう」というような場合です。
この場合、ここで用いられている「痛い」という語は、身体の態勢の様態を述べたものというよりもむしろ、椅子の相貌(あるいは椅子の性質)について言及したものと考えるべきではないでしょうか。
102
:
久保共生
:2021/07/21(水) 01:21:18
もう一点補足。
>>98
>「赤い」「ドの音」と書きましたがそれらは「赤い」と知覚判断される以前の感覚そのもの「ドの音」と知覚判断される以前の感覚そのもののことだとして読んでください
この考えは、「感覚素材に判断が加わることで知覚となる」というような、生理学でよくみられる考え方が暗に前提されているように思います。(この点もウラサキさんの誤解と同様のものに見えます。
>>19
参照)
僕はこの考え方がそもそも間違っていると考えており、知覚を構成する原的感覚など存在しないと主張します。
103
:
久保共生
:2021/07/21(水) 01:40:05
感覚的素材を把握し、それに判断を加えることで知覚となる、というのは、全く妥当性のない臆見です。
我々は、周囲世界を端的に知覚しているのであり、何らかの感覚素材を媒介にしてそこに判断を加えているわけではありません。
また、「感覚そのもの」などというのも存在しないと言うべきでしょう。
感覚とは、周囲世界に対してどのような態度をとるか、どのようなかかわり方をするか、ということの把握です。
つまり、それは世界との関係仕方の把握のことであり、「感覚」なるものそれ自体が実体としてどこかに存在するわけではありません。
104
:
横山信幸
:2021/07/21(水) 07:50:23
久保さん、ていねいな説明ありがとうございます。
勘違いしてた部分があることがすこしはっきりしました。でもそれによって逆にもっとわからなくなってしまったところもあります。
僕は、感覚が経験の質料的内容にあたるもので、知覚がその内容を形式によって分節化したもの、という風に捉えていましたので、そもそもその語用理解が間違っていたのですね。
定義として
「感覚(すなわち身体の態勢)」で、「知覚(世界の相貌)」
としちゃうってことなのですね。
そして、僕は、「質料的内容」と「形式」の両者が、一方的関係あるいは相互的関係によって連関することによって世界の構成がなされると考えていたので、感覚と知覚の間にもそのような相互の連関があるのかなと思っていたのですが、それも違ってそれぞれ互いの関わりなしに独立して成立するという感じなのですね。
ここまで合ってますか。
(これが合ってないとしたらさらに教えてもらう必要がありそうですし、合ってるとしてもいろいろ新しい疑問が湧いてきます。)
(あと、「見え」についてそれがあるためには身体が必要かどうかに関しても聞きたいことがあるのですが、僕の考えがちょっとややこしいことを思っていて説明しにくいので、これは直接お会いしたときに質問させてもらいたいと思っています。時間があるときによろしくお願いします)
105
:
久保共生
:2021/07/21(水) 10:45:53
>感覚と知覚の間にもそのような相互の連関があるのかなと思っていたのですが、それも違ってそれぞれ互いの関わりなしに独立して成立するという感じなのですね。
感覚と知覚が独立して成立するとは考えていません。
むしろ、両者は一つの世界把握、あるいは一つの状況把握における二側面です。
私が今身を置いている世界の状況を把握するためには、私は何を把握すればよいでしょうか?
周囲世界の相貌把握(知覚)は勿論重要ですが、それだけでなく、その世界に対して私の身体がどのような関わり方をしているかという、身体の態勢の把握(感覚)もやはり、状況把握ための重要な契機でしょう。
例えば、「蛇が怖い」という状況を語るとき、「蛇」の相貌把握と同時に、その蛇に対する自分の態度、身構えの様態も把握していると言えるでしょう。
したがって、知覚と感覚は「互いの関わりなしに独立して成立する」とは言えません。
一つの世界経験のうち、世界の側にスポットライトを当てるか、身体の側にスポットライトを当てるかの違い、といった感じでしょうか。
106
:
横山信幸
:2021/07/21(水) 11:13:43
久保さん、
>>105
>感覚と知覚が独立して成立するとは考えていません。むしろ、両者は一つの世界把握、あるいは一つの状況把握における二側面です。
つまり、感覚と知覚の間には因果関係や論理的必然関係はないけれども相関関係はあり得るということでしょうか。
では、《感覚と知覚による世界把握において、感覚されたり知覚されたりする経験的な質料の内容というものはどういう位置づけになってくるのでしょうか》。それは、そんなもの無いのか、問えないのか、それとも意図的に扱わないのか。
その扱いがどうなるのかという点が私的言語問題の中心になってくるようにも思えます。
107
:
久保共生
:2021/07/21(水) 12:24:39
>感覚と知覚による世界把握において、感覚されたり知覚されたりする経験的な質料の内容というものはどういう位置づけになってくるのでしょうか
改めてお聞きしたいのですが、「経験的な質料」って何のことでしょう?
どういったものを想定されていますか?
もし、「知覚判断の素材になるもの」ということでしたら、上でもお答えした通り、僕の回答は「そんなものは存在しない」です。
ですが、「感覚されたり知覚されたりする経験的な質料」と仰っているので、そんな感じでもないように思われます。
108
:
横山信幸
:2021/07/21(水) 12:55:17
久保さん
>>107
僕の考えている「経験的な質料の内容」というものはおそらく「知覚判断の素材になるもの」に一致するのじゃないのかと思います。形式によって分節化される以前の、形式とは独立なものとしての「経験の内容」です。「赤」という感覚知覚があったときに、「それを他の赤やさまざまの色と比較して「赤」に分類され、それによって「赤」と呼ばれることになるという分節化」がなされる対象としての、その分節化とは独立な、何者でもないカオスとしての世界経験の内容です。
それは「そんなものない」ということになりますか
109
:
久保共生
:2021/07/21(水) 19:56:16
>>108
僕は、感覚素材に判断や解釈を加えることで知覚が成立するという考え方を誤りだと考えます。
なぜなら、感覚素材など我々の世界経験から見出されたものではなく、二次的・反省的に作り出された概念にすぎないと考えるからです。
世界の相貌は端的に立ち現われるのであって、その相貌が「感覚素材を加工したものだ」というのは、何の正当性もない臆見にすぎないと考えます。
したがって、「知覚は判断だ」という主張も、誤りと考えます。
なぜなら、判断されるべき感覚素材なるものがそもそも存在しないからです。
110
:
久保共生
:2021/07/21(水) 20:33:29
少し踏み込んだ議論をしますが、頑張って読んでいただけると嬉しいです。
例えば、チェッカーシャドウの錯視を見てください。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%89%E3%83%BC%E9%8C%AF%E8%A6%96
AとBのタイルの色が異なって見えますが、これは、まずAとBの色の感覚素材を受け取り、そこに判断や解釈を加えて異なった色に見えるということなのでしょうか?
けれども実際には、我々は何の判断や解釈を俟たず、端的にAとBが異なった色に見えるのであり、感覚素材なるものを媒介する必要はありません。
ところで、そもそもタイルAやBの色の感覚素材とは一体何なのでしょうか?
この錯視図は、「色の見え方(知覚的相貌)は状況のコンテクストに依存する」という事実を明確に示しています。(AとB以外の背景を消せば同色にしか見えなくなるので)
けれども、感覚素材は状況のコンテクストから切り離された独立自存するなにものかなのでしょうか?
しかし状況から切り離された感覚素材など、単なる哲学的思考における抽象化の産物にすぎないでしょう。
「ド」の音なども同様です。
状況から切り離された純粋な「ド」の音の感覚素材など存在しません。
知覚的相貌は、いつもその都度の何らかの状況のコンテクストのもとでの世界の相貌です。
チェッカーシャドウの錯視図であっても、その知覚的相貌に状況の意味がすでに読み込まれているからこそ、何の判断や解釈を俟たずとも錯視が起きうるわけです。
したがって、状況のコンテクストに依存しない純粋な感覚素材など、そもそも我々が知覚できないものであり、そんなものの存在を想定する意味はないでしょう。
では、感覚素材は、状況から切り離され独立自存しているものではなく、その都度の状況のコンテクストに基づけられたものだと理解すればどうでしょう。
けれどもこのように理解すると、感覚素材は知覚的相貌と同等の権利を持ちうるのであり、そこに新たに判断や解釈等を加える必要はなくなるわけです。
このように理解された感覚素材は、もはや知覚以前のなにものかではなく、知覚的相貌そのものになるでしょう。
かくして、「感覚素材」なる概念は、我々の知覚の在り方を理解する上で無用の長物であり、混乱をきたすだけのものだというわけです。
事実はシンプルであり、「知覚的相貌は端的に立ち現われる」というだけのことです。
111
:
横山信幸
:2021/07/21(水) 20:35:38
>>109
そうですか。それはちょっとびっくりでした。そういうことなら、これまで僕はまったく勘違いしてましたので、話が食い違うはずです。
しかし、そうすると私的言語批判はややこしいことになりそうな気がするのですが、そこもまたもう少し考えてから質問させてもらいたいことが出てくると思いますので、そのときはまたよろしくお願いします。
でも、その前にあともうひとつ。質問させてください
二次的反省的だとしても逆算的に知覚や感覚を、形相と質料に分けて分析することはできるのでしょうか。できるとすればその意味では「質料」はあると言ってもよいような気がするのですが、そのような逆算的な意味では〈「経験的な質料の内容」はある〉と言うことはできるでしょうか。
112
:
横山信幸
:2021/07/21(水) 20:52:22
>>110
>感覚素材は状況のコンテクストから切り離された独立自存するなにものかなのでしょうか?しかし状況から切り離された感覚素材など、単なる哲学的思考における抽象化の産物にすぎないでしょう
確かに独立自存できない哲学的思考による抽象化の産物かもしれませんが、それでも、〈何者でもないカオスとしての内容〉は「ある」と言っても良いように僕には思えるのですけど、久保さんの世界モデルではやはりそのような「経験的な質料の内容」は「ない」とされるべきなのですか
113
:
横山信幸
:2021/07/21(水) 21:11:43
久保さんの「知覚」や「感覚」からの世界の切り取り方と、僕の思っている「質料」と「形式」からの世界の切り取り方が、ずいぶんと違うことは何となくわかりましたが、違いすぎて整理して考えるのに時間がかかりそうです
114
:
久保共生
:2021/07/21(水) 22:43:38
>〈何者でもないカオスとしての内容〉は「ある」と言っても良いように僕には思える
「ある」と言っていいんじゃないでしょうか。
僕が否定しているのは、知覚を構成する感覚素材なるものの存在です。
世界がほとんど分節化されず、混沌とした相貌を呈することは、普通にありうるでしょう。
但し、それもれっきとした知覚的相貌であり、知覚以前の感覚素材など持ち出す必要はありません。
115
:
久保共生
:2021/07/21(水) 23:01:15
>>113
>久保さんの「知覚」や「感覚」からの世界の切り取り方と、僕の思っている「質料」と「形式」からの世界の切り取り方が、ずいぶんと違う
確かにそうですね。
「質料」と「形式」によって認識論を展開するのは、カントを代表として決して珍しい考え方ではないとは思いますが、一方でこうした構図への批判も結構あるように思います。
僕の議論もある意味で、「質料」と「形式」による認識論からの脱却を念頭に置いています。
ちなみに、「感覚素材」のような存在を明確に否定している哲学者で思い浮かぶ者としては、メルロポンティの他に、大森荘蔵などが挙げられます。
あるいは、心理学者ですが、J.J.ギブソンもその一人です。
ご参考までに。
116
:
横山信幸
:2021/07/21(水) 23:12:12
久保さん、ありがとうございました。
ずいぶん分かってきたので、逆にずいぶん混乱しています。これをスッキリさせるにはまだまだ質問させてもらう必要がありそうですが、混乱し過ぎて、何を質問したら良いのかもわからない感じになっています。しばらく時間をかけてていねいに整理する努力をしたいと思います。
その後でできれば質問させてもらえたら良いなあと思っています。そのときはまたよろしくお願いします
117
:
久保共生
:2021/07/21(水) 23:31:16
>>111
>二次的反省的だとしても逆算的に知覚や感覚を、形相と質料に分けて分析することはできるのでしょうか。
分析することは可能でしょうが、その分析は我々の知覚や感覚の在り方として、実情に見合わないものになってしまわざるを得ないのではないかと思います。
例えば上で挙げたJ.J.ギブソンも、従来の知覚についての説明が、あまりにも現実の我々の知覚経験とかけ離れたものであることを悟ったため、従来の知覚理論を放棄することになります。
尤も、現実との適合性にはある程度目をつぶって、一つの世界設定として捉え、そこからどんなものが導かれるのかを思考するのは、決して無駄なことではないとは思いますが。
まあそういうのも、哲学の醍醐味の一つではありますし。
118
:
久保共生
:2021/07/21(水) 23:36:24
>>116
はい、是非またよろしくお願いします。
119
:
横山信幸
:2021/07/21(水) 23:54:24
久保さん、これ、これだけで4時間の発表して欲しいです
120
:
ウラサキ
:2021/07/22(木) 07:26:03
>>119
久保共生さんの哲学思想は「私的言語論」の枠内でお話しして頂くにはあまりに気宇壮大なもののようです。
11月以降に又、部分的にでもまとめを発表して頂ければ、と思います。
121
:
久保共生
:2021/07/22(木) 09:10:10
分かりました、ちょっと考えておきます。
122
:
横山信幸
:2021/07/22(木) 09:14:49
個人的なメモとして)
ここまで僕が久保さんや他の方の話を聞いて今問いたいけど問題がぼんやりしているので時間をじっくり考えたいと思っている点は大きく2つあります。
一つめは、「感覚=身体態勢」でもって経験的な質料の問題に取って変えられるだけの思索の土俵になり得るのかという疑問。経験に対する問いを限定しすぎて問うことのできる領域が狭まっているのではないかという点です。
もう一つは、「質料ー形式」による世界の捉え方が、ホントに久保さんの言われるように現実に適合できないのか。そこのところをもう少し詰めないと、「感覚=身体態勢」説でもって私的言語の不可能性を論証するのは難しいように思えるからです。
すみません。自分で考察すべき論点の覚書として記させてもらいました。とくに返信を求めるものではないです
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