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2021/5/2 私的言語は可能か?
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:
久保共生
:2021/07/21(水) 20:33:29
少し踏み込んだ議論をしますが、頑張って読んでいただけると嬉しいです。
例えば、チェッカーシャドウの錯視を見てください。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%89%E3%83%BC%E9%8C%AF%E8%A6%96
AとBのタイルの色が異なって見えますが、これは、まずAとBの色の感覚素材を受け取り、そこに判断や解釈を加えて異なった色に見えるということなのでしょうか?
けれども実際には、我々は何の判断や解釈を俟たず、端的にAとBが異なった色に見えるのであり、感覚素材なるものを媒介する必要はありません。
ところで、そもそもタイルAやBの色の感覚素材とは一体何なのでしょうか?
この錯視図は、「色の見え方(知覚的相貌)は状況のコンテクストに依存する」という事実を明確に示しています。(AとB以外の背景を消せば同色にしか見えなくなるので)
けれども、感覚素材は状況のコンテクストから切り離された独立自存するなにものかなのでしょうか?
しかし状況から切り離された感覚素材など、単なる哲学的思考における抽象化の産物にすぎないでしょう。
「ド」の音なども同様です。
状況から切り離された純粋な「ド」の音の感覚素材など存在しません。
知覚的相貌は、いつもその都度の何らかの状況のコンテクストのもとでの世界の相貌です。
チェッカーシャドウの錯視図であっても、その知覚的相貌に状況の意味がすでに読み込まれているからこそ、何の判断や解釈を俟たずとも錯視が起きうるわけです。
したがって、状況のコンテクストに依存しない純粋な感覚素材など、そもそも我々が知覚できないものであり、そんなものの存在を想定する意味はないでしょう。
では、感覚素材は、状況から切り離され独立自存しているものではなく、その都度の状況のコンテクストに基づけられたものだと理解すればどうでしょう。
けれどもこのように理解すると、感覚素材は知覚的相貌と同等の権利を持ちうるのであり、そこに新たに判断や解釈等を加える必要はなくなるわけです。
このように理解された感覚素材は、もはや知覚以前のなにものかではなく、知覚的相貌そのものになるでしょう。
かくして、「感覚素材」なる概念は、我々の知覚の在り方を理解する上で無用の長物であり、混乱をきたすだけのものだというわけです。
事実はシンプルであり、「知覚的相貌は端的に立ち現われる」というだけのことです。
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