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2021/5/2 私的言語は可能か?

47久保共生:2021/07/16(金) 23:34:34
>>32
>発表の時に久保さんがウィトの論考的な二値理論からの脱却を訴えられていたのは、もしかすると、「身体の態勢」が経験から「元からあった真なるもの」を取り出すだけのものではなくて、主体が経験世界と向き合うときにそこでその都度はじめて何を真とするかが決まるのである、という話に通じる論説だったかもしれない

その方向の解釈でお願いします。
「私の感覚が世界の側にすでに答えとして第一義的に存在して」いるとは考えません。

>〈「身体」がそのように反応したからその「感覚」である〉のでは無くって、〈「私」がそのように感じたからその「感覚」が生じると同時に、その「感覚」が起こったからそのように感じる「私」が生じた〉とする必要があるように思われるのです。
全く的外れかもしれませんが、「感覚を意味づけるのは身体ではなく、私が語る物語である」という感じでしょうか?
もしそういうことならば、一部異論があります。

確かに「物語」には感覚(あるいは感情的なもの)を意味づけるきわめて重要な機能があると思います。
そして実際、身体の態勢を無視して何かしらの物語が語られることもあると思います。
けれども、身体の態勢の把握が感覚(あるいは感情)を意味づける上で、全く何の機能も果たしていないとは思えないのです。

こんな経験はないでしょうか?
自分の今の感情を語ってみたものの、いまいちしっくりこない、ピンとこない、腑に落ちない、という経験です。
僕は何度もあります。
では、なぜこんなことが起こるのでしょうか?
僕は、そこで語られた「物語」が今の自分の身体の態勢とあまり適合していないからだと思います。

つまり、身体の態勢にはそこで語られた物語の妥当性を判定する役割があるのではないでしょうか。
ただしこの妥当性の判定は、所謂真理条件的な判断とは異なることは、発表の時にも述べたと思います。
僕は、世界を分節化し意味づけるのは何も真理条件的な観方だけではないと考えます。
身体の態勢の把握も、世界の分節化に大いに寄与していると考えています。


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