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2021/5/2 私的言語は可能か?
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:
横山信幸
:2021/07/15(木) 23:56:28
僕のいう「物語」と久保さんの「身体の態勢」の違いについて思うことを、すこし書きます。(まだぜんぜん整理できないので思いつきのメモ書きでしかありませんが)
「身体の態勢」というのは、個別な経験の質的内容を身体を経由させて「モノ化」させることによって、本来、形式化したり分節化したりすることがかなわないものを語り得るものにするというシステムなのかなぁと解釈ました。
つまり、「身体の態勢」において「経験的質的内容」が「ことば化」されるときの、そのことばの身分というは、感覚が身体において起こることに注目し、その身体内の経験的事実と身体態勢を同一者とすることができるものとして考えるので、それによってその経験的質の内容を正しく忠実に取り出すことができるものととらえらられるのではないか、という解釈です。
しかし、そう考えるとその捉え方は、私の身体態勢であるところの私の感覚が世界の側にすでに答えとして第一義的に存在していて、主体はその答えを後から第二義的に忠実に取り出してくるものとするシステムになってるのではないかと、僕は疑ってしまいます。
しかし、一方で、発表の時に久保さんがウィトの論考的な二値理論からの脱却を訴えられていたのは、もしかすると、「身体の態勢」が経験から「元からあった真なるもの」を取り出すだけのものではなくて、主体が経験世界と向き合うときにそこでその都度はじめて何を真とするかが決まるのである、という話に通じる論説だったかもしれないとも思われてなりません。
また、話が飛びますが、僕はリクールをよく知らないのですが、リクールの「物語論」では読書がテキストを追創造することでテキストを補完し、それによって世界と積極的に向き合えるようになるということを言っているらしいです。
この話を「身体の態勢論」と重ねて考えると、(ここからまた僕の妄想が暴走するのですが)世界を身体化して捉えることによって感覚を言葉化すると把握するとしても、僕はそのときに、経験的質の内容を主体の身体が受けとってそれを対象化すると同時に、経験的質の内容を受けとることの反作用によって主体自身が対象化される、という双方向の働きかけがあると考えたい気分になります。
つまり、〈「身体」がそのように反応したからその「感覚」である〉のでは無くって、〈「私」がそのように感じたからその「感覚」が生じると同時に、その「感覚」が起こったからそのように感じる「私」が生じた〉とする必要があるように思われるのです。
そう思うと、「感覚」を言葉化するときに必ずしも「身体」は必要ないのではないかと疑いたくなってきます。
(もう何を言いたいのか論説が飛んでしまって、また、ハチャメチャになってしまっているのですが、とりあえず続けます)例えば、「かまど」が「熱い」と感じたときにその「熱い」は必ずしもかまどの身体反応が無くてもかまどが体験した様々な冒険譚のストーリーのなかで某かの位置付けがされる言葉なのであれば、そのことによって「熱い」には意味があるとすることができるでしょうし、かまどの「身体」はその「物語」のなかで「かまどの感覚」を位置づけるのに必ずしも必要ではないと思われます。そう考えると、かまどでなくて、人間でもその感覚を言葉化するのに「身体」は必ずしも必要とは言えないのではないか、という疑問はまだ僕のなかで根強いのです。
今回も、結局、人に伝わるような話にまとめることはできなかったように思われますが、それでもここまで書いてしまったので、「書き込む」をポチっとしてしまいます
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