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2021/5/2 私的言語は可能か?

97横山信幸:2021/07/20(火) 22:59:36
久保さんの「感覚は身体態勢である説」に対して、その機能主義っぽいところなどでは大いに分かる気がするのですが、何か物足りない気がするところもあり、何が足りないのかをはっきりさせたくていろいろと考えてきました。その一つがぼくの「感覚は物語の質的な内容である説」であり、また「身体態勢なしでも感覚できるのじゃないのか説」でした。

考えてみると、僕は「身体態勢説」に2つの点で物足りなさを感じてるように思います。

①一つは、それが「感覚」という、ある意味で世界の質料そのものとも言えるようなものを、「身体がある」というようなずいぶんと人間的な常識を前提とするような規範でもって形式化してるように見えるところです。

②もう一つは、本当にすべての感覚が身体態勢でもって現れ語りえるのか、というところです。

これまで前者に関する疑念を問いたくて、いろいろ質問させてもらったのですが、思索が混乱してしまい僕の考えがまとまるのはもう少し時間がかかりそうです。なのでこちらの方はもう少し時間をかけてゆっくりていねいに考えてみたいと思います。

ただその前に、後者についてすこし質問させてもらいたいのですが、よろしければみなさんの考えを教えてください。


問い)
「痛い」「楽しい」「せつない」などの感覚語についてはそれがその本人の「身体の態勢」として現れてきて理解することができるというのは分かるようにも思うのですが、
「赤い」「ドの音」など見えや聞こえなどに関する感覚語はそれが「身体の態勢」として現れるとは考えにくいようにも思われます。
「赤い」という感覚に対して例えば「『赤い』と思う」や「『赤い』と語る」という身体反応まで含めて「身体の態勢」と考えるのならば分かるようにも思うのですが、また、逆に「赤い」は感覚ではないとするのであれば分かる気もするのですが。あるいは「赤い」の感じを身体態勢として解釈する仕方があるのでしょうか。そこらへんのところはどうなるのでしょうか。つまり

質問1)「『赤い』と思う」は「身体の態勢」の一つになるのか
質問2)「赤い」は感覚なのか
質問3)あるいは「赤い」の感じをそのまま「身体の態勢」として解釈できるのか
質問4)その他の解釈があれば教えて欲しい

です。
よろしくお願いします。


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