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2021/5/2 私的言語は可能か?

1ウラサキ:2021/04/15(木) 17:48:55
浪速区民センター 第4会議室にて 13:00-17:00
前半をウラサキ、後半を久保共生さんが担当します。

《参考図書》
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』第256〜271章
野矢茂樹『語り得ぬものを語る』18「私にしか理解できない言葉」
永井均『哲学の密かな闘い』第7&8章「語り得ぬものを示す(1)(2)」

なお、ウィキペディア「私的言語論」の説明も参考になるかと思われます。

74久保共生:2021/07/20(火) 11:38:16
>物的身体を持たず、声だけでヘンゼルと交流している「かまど」という存在がヘンゼルにたいして「せつない」という声を発すれば、その声も「身体態勢」になると理解して良いのでしょうか

「かまど」の状況設定があまりよく分からないので答えづらいですが、普通に考えて、そもそも身体を持たないなら、身体の態勢も考えられないでしょう。

ちなみに、カントとライプニッツの対立についてはあまり分かりませんが、感覚(身体の態勢)と身体はどちらかがどちらかに先立つような類のものではないと考えます。
つまり、身体なき感覚(身体の態勢)などありえないし、感覚(身体の態勢)なき身体も然りです。
尤も、後者は「死体」という例が挙げられるかもしれませんが、死体としての身体は物的身体(body)であり、僕がここで言っている意味での身体ではもはやありません。

75横山信幸:2021/07/20(火) 11:49:03
久保さん、
なるほど。では、例えば、世界を開闢させた神を考えるとしても、その世界のなかに自身の身体をもたないとすると、その神はその世界のなかで「感覚」を持ち得ない、ということですね。その神が感じているものがあったとしても少なくともそれは「感覚」と呼べるようなものではない、とそう理解してよいでしょうか。

76久保共生:2021/07/20(火) 12:14:53
いきなり神を持ち出されてもどう答えてよいのか分かりません。
神=世界と考えるのなら、「その神が感じているものがあったとしても」という文の意味が分かりません。
「世界が感じる」という文の意味が分からないので。

そうではなく神がこの世界の外側の存在だと言うのならば、僕には思考不可能です。
どうぞお好きに理解してください、としか言えません。

77横山信幸:2021/07/20(火) 12:53:07
そうか、「神」では話が飛び過ぎましたか。
えっと、何とかもう少し掘り進めたいのですがむずかしいかもしれないです。

永井がライプニッツ原理、カント原理というのを「哲おじ」か何かで言ってましたが、
ライプニッツ原理「何が起ころうが起きたことが現実」というのと、カント原理「現実か否かは関係によってきまる」というやつです。
それになぞらえて言うとすると、僕は何を感じようが起こってきたものが「感覚」というライプニッツ原理的な捉え方から逃れられないのです。「世界があるけどそこに私の身体がないこと」は可能だとしか思えず、逆に「世界があるのに私の感覚がないこと」はあり得ないとしか思えないのです。しかし、僕がそのようにとらえている「感覚」は久保さんが問題とされているものとかなり違うものですよね。それがどう違うものなのか知りたいと思っているのですが、どうも混乱してしまいます

78ウラサキ:2021/07/20(火) 13:10:45
>>77
横山さん、
「世界があるけどそこに私の身体がないこと」状況とは、「私が死んだ後のこの世」のことでしょうか?
それとも「私とは物理的に離れた(現在の)どこか」のことでしょうか?

79横山信幸:2021/07/20(火) 14:02:21
スミマセン一部訂正)

僕は何を感じようが起こってきたものが「感覚」というライプニッツ原理的な捉え方から逃れられないのです



僕は「何を感じようが起こってきたものが感覚」というライプニッツ原理的な捉え方から逃れられないのです

80横山信幸:2021/07/20(火) 15:12:15
>>78
ウラサキさん、

僕が「世界があるけどそこに私の身体がないこと」と言ってるときの「私の身体」というのには、「世界を感覚する感覚器官」としての身体という意味と「世界にたいして働きかける器官」としての身体という意味とが考えられると思われます。
まず、「世界を感覚する感覚器官」としての身体について、それが無いのに感覚があるというのはある意味では矛盾のようにも思われますが、感覚器官なしで直接感覚をとらえるということが絶対にあり得ないかというとそんなこともないようにも思われます。例えば「心眼」などです。だから「感覚器官は無い。でも『心眼』などによってやっぱりはっきりと感覚があって世界があることははっきりしてる」などと言える可能性はないわけじゃないと思われます。
次に、「世界にたいして働きかける器官」としての身体については、それが無くて感覚があるというのは、ぜんぜん矛盾でもないので、こちらの方が問題なく「運動器官は無いけど、感覚がはっきりとあって世界があることははっきりとしてる」と言えると思われます。
なので、原理的な可能性の話として「世界があるけどそこに私の身体がない」という状況は十分想定可能なように思われます

81ムラタ:2021/07/20(火) 15:59:15
>>80

>原理的な可能性の話として「世界があるけどそこに私の身体がない」という状況は十分想定可能なように思われます

それは想定不可能だと思います。
横山さんが例に挙げられておられる「かまど」の例は、実のところ身体をそこに密輸入しているのではないでしょうか。
身体がない存在というからには大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない存在になろうかと思います。まさかそういった存在が世界をもつなどとは横山さんも考えませんよね?

横山さんが身体がない存在としてそういった徹底的な存在を考えないでその代わりに「かまど」のような身体がないということを徹底していない存在を想定していることは、実は横山さんも世界が存在するためには身体が必要であることを密かに認めている証左ではないでしょうか?

82横山信幸:2021/07/20(火) 16:28:56
>>81
>身体がない存在というからには大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない存在になろうかと思います。まさかそういった存在が世界をもつなどとは横山さんも考えませんよね?

そうですか。これはほとんど誰にも伝わりませんか。いや、ちょっと逆にビックリしています。僕にはまったく『大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない、そのような存在が世界をもつ』ことができるとしか思えないのです。『現に世界は開いてここにある。しかし、私の体はどこにも見つからない』という状況が、なぜ想定不可能なのか、僕の方が分からない感じで戸惑っています。

83久保共生:2021/07/20(火) 16:59:02
>>82
>大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない、そのような存在が世界をもつ

霊魂のような何らかの心的実体のようなものを想定しているようにしか読めないんですが、それで良いのでしょうか?
もしそうなら、想定不可能とまでは言いませんが、現代ではあまり支持する人はいないように思います。

84ムラタ:2021/07/20(火) 17:18:56
>>82
<大きさがなければ重さもない、どこにあるとも言えない存在>は『現に世界は開いてここにある』と言うことができないはずです。
なぜなら、どこにも位置を占めない存在はその存在の定義上世界に目を向けるその始点を有しないのですから。
どこにも位置しない存在がある場所に存在するという矛盾が生じていると思います。

85横山信幸:2021/07/20(火) 17:21:51
>>83

かまどの話の結構最初の方から、僕はかまどとともに霊魂の例もあげていましたが、そのように僕としては身体のない私を思うとき、まさに『霊魂などの心的実体』や『世界の開闢者としてのみ存在する私』みたいなものを思っています。
確かに現代では支持する人は少ないでしょうけれども、僕の思索の好みとして、問題を可能な限り解体して、ありそうかどうかという問題よりも原理的にあり得るかどうかという問題を突き詰めたいと思う方なので、ついついとんでもない方に思索が飛んでしまいます。
それでも僕には、この身体のない主体が原理的にどこまで可能なのかを問うて思索を掘り進めることは、身体の態勢の必要性を探るための真っ当な問いだと感じています。
でも皆さんにとってはお呼びでない感じだったかもしれないですね

86横山信幸:2021/07/20(火) 17:29:59
ムラタさん、
>>84

>どこにも位置を占めない存在はその存在の定義上世界に目を向けるその始点を有しないのですから。どこにも位置しない存在がある場所に存在するという矛盾が生じていると思います

しかし、『私が現に世界を開いている』という言明と、『その発言には矛盾がある』という言明を比べるとき、僕は前者に優位があると感じます。それはすでに現実の事実として成立してしまっているからです。矛盾律は相当に重い原則だと思いますが、それでも前者を退ける力まではないように思います

87横山信幸:2021/07/20(火) 17:36:55
だからその矛盾の解消は『現に世界が開いている』の方ではなく『世界に目を向ける始点を有しなければ世界は視覚的に開かない』などの方を疑うべきことになると思われます

88横山信幸:2021/07/20(火) 17:39:56
あるいは『身体がなければ世界に目を向ける視点を有することができない』なども疑れるかも知れないと思います

89横山信幸:2021/07/20(火) 18:18:38
久保さん、

ではちょっと無理して、霊魂のような物的身体をもたない心的実体が世界を開いていたと想定してください。そこには世界が開いてるのですから、某かの感覚があるはずと言って良いように思います。なので、そこに生じる感覚は身体の態勢ではない感覚ということになりそうに思うのですが、これはもう問うてはならない想定になるのでしょうか

90横山信幸:2021/07/20(火) 18:40:10
そしてもしそこに「身体の態勢ではない感覚」の可能性があるのなら、そこのところに感覚とはなにかの問いをさらに深める視点を見つけられる気がしてならないのです。そんな風に思索を深めるための思考実験なら、わりと羽目を外した方が面白いと思っていろいろ思索を飛ばしたのですが、あまりに飛びすぎると、人に伝わらなくなってしまい、自分自身でも問いを見失いそうになってしまいました。
いろいろお騒がせして申し訳ない(あんまり申し訳なくもないのかな)そこももうよく分かりません

91久保共生:2021/07/20(火) 19:01:21
>>89
そもそも僕が「身体の態勢」という用語を持ち出したのは、「心的実体は存在しない」とする現代の唯物論的見方を前提として受け入れた上で、たとえそれを受け入れたとしても行動主義や機能主義等の還元主義的思想に問題があることを指摘するためです。
なので、「心的実体は存在しない」という前提それ自体を疑うのであれば、「身体の態勢」という用語は、おそらく何の役にも立たないと思われます。

92久保共生:2021/07/20(火) 19:11:42
その上で僕の意見を述べるとすれば、

>霊魂のような物的身体をもたない心的実体が世界を開いていたと想定してください。そこには世界が開いてるのですから、某かの感覚があるはずと言って良いように思います。

というのは、疑わしいと思います。
身体なき何者かが世界を開いていたとしても、だからといって感覚があるはずと結論するのは早計ではないでしょうか。
確かに、仮定より世界は開けていますよ。
しかしどこに感覚があるのでしょうか?
どうやって「痛み」を感じればよいのでしょうか?

93横山信幸:2021/07/20(火) 19:22:44
久保さん、みなさん、
お騒がせしました。この問い、自分ではずいぶん面白くて、いい感じの思索に繋がりそうな気がしたので調子にのってよく考えてないままにコメントを連ねすぎました。結局、考察をあまり深められずにしょぼってしまいました。もう一度よく考えます。それからコメントするようにします。

94横山信幸:2021/07/20(火) 19:55:12
久保さん、
>>92

>確かに、仮定より世界は開けていますよ。しかしどこに感覚があるのでしょうか?どうやって「痛み」を感じればよいのでしょうか?

「痛み」は感じられないかもしれませんが、例えば「見え」の感覚は感じられてると言ったりすることはできると考えました

95ムラタ:2021/07/20(火) 20:21:32
横山さん

もう一度よく考えるとおっしゃっておられるのに恐縮ですが、一応返信だけ。

>『私が現に世界を開いている』という言明と、『その発言には矛盾がある』という言明を比べるとき、僕は前者に優位があると感じます。それはすでに現実の事実として成立してしまっているからです。

横山さんが身体を持たずに世界を現に開いているならその理屈も通るでしょう。
けれども横山さんは身体を持って世界を開いているはずなので、その理屈は通らないと思います。
すでに現実の事実として成立してしまっているのは、身体なしに世界が成立している事ではなく、むしろ身体を持って世界が開けているという事の方でしょう。

96横山信幸:2021/07/20(火) 20:30:26
ムラタさん、
そこについても反論あるのですが、ちょっとしっかりと自分の考えを深めて固めてから反論するようにします。きちんと僕が深めようとしている意図を共有してもらえるような話し方をするには、僕自身がこの問いをもっとしっかりと理解する必要がありそうです

97横山信幸:2021/07/20(火) 22:59:36
久保さんの「感覚は身体態勢である説」に対して、その機能主義っぽいところなどでは大いに分かる気がするのですが、何か物足りない気がするところもあり、何が足りないのかをはっきりさせたくていろいろと考えてきました。その一つがぼくの「感覚は物語の質的な内容である説」であり、また「身体態勢なしでも感覚できるのじゃないのか説」でした。

考えてみると、僕は「身体態勢説」に2つの点で物足りなさを感じてるように思います。

①一つは、それが「感覚」という、ある意味で世界の質料そのものとも言えるようなものを、「身体がある」というようなずいぶんと人間的な常識を前提とするような規範でもって形式化してるように見えるところです。

②もう一つは、本当にすべての感覚が身体態勢でもって現れ語りえるのか、というところです。

これまで前者に関する疑念を問いたくて、いろいろ質問させてもらったのですが、思索が混乱してしまい僕の考えがまとまるのはもう少し時間がかかりそうです。なのでこちらの方はもう少し時間をかけてゆっくりていねいに考えてみたいと思います。

ただその前に、後者についてすこし質問させてもらいたいのですが、よろしければみなさんの考えを教えてください。


問い)
「痛い」「楽しい」「せつない」などの感覚語についてはそれがその本人の「身体の態勢」として現れてきて理解することができるというのは分かるようにも思うのですが、
「赤い」「ドの音」など見えや聞こえなどに関する感覚語はそれが「身体の態勢」として現れるとは考えにくいようにも思われます。
「赤い」という感覚に対して例えば「『赤い』と思う」や「『赤い』と語る」という身体反応まで含めて「身体の態勢」と考えるのならば分かるようにも思うのですが、また、逆に「赤い」は感覚ではないとするのであれば分かる気もするのですが。あるいは「赤い」の感じを身体態勢として解釈する仕方があるのでしょうか。そこらへんのところはどうなるのでしょうか。つまり

質問1)「『赤い』と思う」は「身体の態勢」の一つになるのか
質問2)「赤い」は感覚なのか
質問3)あるいは「赤い」の感じをそのまま「身体の態勢」として解釈できるのか
質問4)その他の解釈があれば教えて欲しい

です。
よろしくお願いします。

98横山信幸:2021/07/20(火) 23:15:55
↑「赤い」「ドの音」と書きましたがそれらは「赤い」と知覚判断される以前の感覚そのもの「ドの音」と知覚判断される以前の感覚そのもののことだとして読んでください

99久保共生:2021/07/20(火) 23:42:25
>>94
>「痛み」は感じられないかもしれませんが、例えば「見え」の感覚は感じられてると言ったりすることはできると考えました

これは、重要な点をスルーしてしまっているように思います。
世界が開かれているため、世界はある。それは良い。
けれどもそこから、一体どうして「見え」などというパースペクティブ性が登場してくるのでしょう。
ここに説明のギャップがあると思います。
僕の考えでは、「見え」というパースペクティブ性は、身体によってその都度開かれる世界が限定され、しかも身体運動と連動して世界の相貌が変化してゆくところに成立すると考えます。
したがって、身体なき世界の開闢者が「見え」という観念を持つことはないと思われます。

100久保共生:2021/07/21(水) 00:11:22
>>97
「赤い」は感覚なのか、と問われたら、僕としての返答は、「場合による」です。
「赤い」を感覚(すなわち身体の態勢)として捉えるのか、知覚(世界の相貌)として捉えるのかは、ちょうどルビンの壺を「壺」と捉えるのか、「横顔」と捉えるのか、と問うているのと同じことです。
とはいえ、「赤い」というのは、普通には、身体の態勢よりも事物の相貌(あるいは事物の性質)と見做されることが多いのではないでしょうか?
ですから、「赤い」や「ドの音」を「感覚語」と呼ぶのは必ずしも適切ではないと思います。

勿論、「赤い」が感覚として捉えられることもあり得ます。
例えば、「赤い色ってどんな感じがする?」と問われたとき、「暖かい感じがする」とか「よく目立つ」とか「興奮する」などといった回答があるでしょうが、ここにおいては、「赤い」は世界の相貌(あるいは事物の性質)としてではなく、それに対する身体の態勢の様態にとして把握されています。

他にもご質問があるかもしれませんが、とりあえず重要な点にしぼって返答しておきました。

101久保共生:2021/07/21(水) 00:42:34
一点補足。

例えば「痛い」というような一般に感覚語と見做される言葉が、感覚(身体の態勢の把握)としてではなく、知覚(事物の相貌あるいは、事物の性質の把握)として捉えられることも、決してあり得ないことではありません。
なかなか例を考えづらいですが、例えば次のような場合などはどうでしょう。
ごつごつした椅子に対して、「この椅子、痛いから、別の椅子と交換しよう」というような場合です。
この場合、ここで用いられている「痛い」という語は、身体の態勢の様態を述べたものというよりもむしろ、椅子の相貌(あるいは椅子の性質)について言及したものと考えるべきではないでしょうか。

102久保共生:2021/07/21(水) 01:21:18
もう一点補足。

>>98
>「赤い」「ドの音」と書きましたがそれらは「赤い」と知覚判断される以前の感覚そのもの「ドの音」と知覚判断される以前の感覚そのもののことだとして読んでください

この考えは、「感覚素材に判断が加わることで知覚となる」というような、生理学でよくみられる考え方が暗に前提されているように思います。(この点もウラサキさんの誤解と同様のものに見えます。>>19 参照)
僕はこの考え方がそもそも間違っていると考えており、知覚を構成する原的感覚など存在しないと主張します。

103久保共生:2021/07/21(水) 01:40:05
感覚的素材を把握し、それに判断を加えることで知覚となる、というのは、全く妥当性のない臆見です。
我々は、周囲世界を端的に知覚しているのであり、何らかの感覚素材を媒介にしてそこに判断を加えているわけではありません。

また、「感覚そのもの」などというのも存在しないと言うべきでしょう。
感覚とは、周囲世界に対してどのような態度をとるか、どのようなかかわり方をするか、ということの把握です。
つまり、それは世界との関係仕方の把握のことであり、「感覚」なるものそれ自体が実体としてどこかに存在するわけではありません。

104横山信幸:2021/07/21(水) 07:50:23
久保さん、ていねいな説明ありがとうございます。
勘違いしてた部分があることがすこしはっきりしました。でもそれによって逆にもっとわからなくなってしまったところもあります。

僕は、感覚が経験の質料的内容にあたるもので、知覚がその内容を形式によって分節化したもの、という風に捉えていましたので、そもそもその語用理解が間違っていたのですね。
定義として
「感覚(すなわち身体の態勢)」で、「知覚(世界の相貌)」
としちゃうってことなのですね。

そして、僕は、「質料的内容」と「形式」の両者が、一方的関係あるいは相互的関係によって連関することによって世界の構成がなされると考えていたので、感覚と知覚の間にもそのような相互の連関があるのかなと思っていたのですが、それも違ってそれぞれ互いの関わりなしに独立して成立するという感じなのですね。

ここまで合ってますか。

(これが合ってないとしたらさらに教えてもらう必要がありそうですし、合ってるとしてもいろいろ新しい疑問が湧いてきます。)

(あと、「見え」についてそれがあるためには身体が必要かどうかに関しても聞きたいことがあるのですが、僕の考えがちょっとややこしいことを思っていて説明しにくいので、これは直接お会いしたときに質問させてもらいたいと思っています。時間があるときによろしくお願いします)

105久保共生:2021/07/21(水) 10:45:53
>感覚と知覚の間にもそのような相互の連関があるのかなと思っていたのですが、それも違ってそれぞれ互いの関わりなしに独立して成立するという感じなのですね。

感覚と知覚が独立して成立するとは考えていません。
むしろ、両者は一つの世界把握、あるいは一つの状況把握における二側面です。

私が今身を置いている世界の状況を把握するためには、私は何を把握すればよいでしょうか?
周囲世界の相貌把握(知覚)は勿論重要ですが、それだけでなく、その世界に対して私の身体がどのような関わり方をしているかという、身体の態勢の把握(感覚)もやはり、状況把握ための重要な契機でしょう。
例えば、「蛇が怖い」という状況を語るとき、「蛇」の相貌把握と同時に、その蛇に対する自分の態度、身構えの様態も把握していると言えるでしょう。

したがって、知覚と感覚は「互いの関わりなしに独立して成立する」とは言えません。
一つの世界経験のうち、世界の側にスポットライトを当てるか、身体の側にスポットライトを当てるかの違い、といった感じでしょうか。

106横山信幸:2021/07/21(水) 11:13:43
久保さん、
>>105

>感覚と知覚が独立して成立するとは考えていません。むしろ、両者は一つの世界把握、あるいは一つの状況把握における二側面です。

つまり、感覚と知覚の間には因果関係や論理的必然関係はないけれども相関関係はあり得るということでしょうか。


では、《感覚と知覚による世界把握において、感覚されたり知覚されたりする経験的な質料の内容というものはどういう位置づけになってくるのでしょうか》。それは、そんなもの無いのか、問えないのか、それとも意図的に扱わないのか。
その扱いがどうなるのかという点が私的言語問題の中心になってくるようにも思えます。

107久保共生:2021/07/21(水) 12:24:39
>感覚と知覚による世界把握において、感覚されたり知覚されたりする経験的な質料の内容というものはどういう位置づけになってくるのでしょうか

改めてお聞きしたいのですが、「経験的な質料」って何のことでしょう?
どういったものを想定されていますか?

もし、「知覚判断の素材になるもの」ということでしたら、上でもお答えした通り、僕の回答は「そんなものは存在しない」です。
ですが、「感覚されたり知覚されたりする経験的な質料」と仰っているので、そんな感じでもないように思われます。

108横山信幸:2021/07/21(水) 12:55:17
久保さん
>>107

僕の考えている「経験的な質料の内容」というものはおそらく「知覚判断の素材になるもの」に一致するのじゃないのかと思います。形式によって分節化される以前の、形式とは独立なものとしての「経験の内容」です。「赤」という感覚知覚があったときに、「それを他の赤やさまざまの色と比較して「赤」に分類され、それによって「赤」と呼ばれることになるという分節化」がなされる対象としての、その分節化とは独立な、何者でもないカオスとしての世界経験の内容です。
それは「そんなものない」ということになりますか

109久保共生:2021/07/21(水) 19:56:16
>>108

僕は、感覚素材に判断や解釈を加えることで知覚が成立するという考え方を誤りだと考えます。
なぜなら、感覚素材など我々の世界経験から見出されたものではなく、二次的・反省的に作り出された概念にすぎないと考えるからです。
世界の相貌は端的に立ち現われるのであって、その相貌が「感覚素材を加工したものだ」というのは、何の正当性もない臆見にすぎないと考えます。
したがって、「知覚は判断だ」という主張も、誤りと考えます。
なぜなら、判断されるべき感覚素材なるものがそもそも存在しないからです。

110久保共生:2021/07/21(水) 20:33:29
少し踏み込んだ議論をしますが、頑張って読んでいただけると嬉しいです。

例えば、チェッカーシャドウの錯視を見てください。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%89%E3%83%BC%E9%8C%AF%E8%A6%96
AとBのタイルの色が異なって見えますが、これは、まずAとBの色の感覚素材を受け取り、そこに判断や解釈を加えて異なった色に見えるということなのでしょうか?
けれども実際には、我々は何の判断や解釈を俟たず、端的にAとBが異なった色に見えるのであり、感覚素材なるものを媒介する必要はありません。

ところで、そもそもタイルAやBの色の感覚素材とは一体何なのでしょうか?
この錯視図は、「色の見え方(知覚的相貌)は状況のコンテクストに依存する」という事実を明確に示しています。(AとB以外の背景を消せば同色にしか見えなくなるので)
けれども、感覚素材は状況のコンテクストから切り離された独立自存するなにものかなのでしょうか?
しかし状況から切り離された感覚素材など、単なる哲学的思考における抽象化の産物にすぎないでしょう。
「ド」の音なども同様です。
状況から切り離された純粋な「ド」の音の感覚素材など存在しません。

知覚的相貌は、いつもその都度の何らかの状況のコンテクストのもとでの世界の相貌です。
チェッカーシャドウの錯視図であっても、その知覚的相貌に状況の意味がすでに読み込まれているからこそ、何の判断や解釈を俟たずとも錯視が起きうるわけです。
したがって、状況のコンテクストに依存しない純粋な感覚素材など、そもそも我々が知覚できないものであり、そんなものの存在を想定する意味はないでしょう。

では、感覚素材は、状況から切り離され独立自存しているものではなく、その都度の状況のコンテクストに基づけられたものだと理解すればどうでしょう。
けれどもこのように理解すると、感覚素材は知覚的相貌と同等の権利を持ちうるのであり、そこに新たに判断や解釈等を加える必要はなくなるわけです。
このように理解された感覚素材は、もはや知覚以前のなにものかではなく、知覚的相貌そのものになるでしょう。

かくして、「感覚素材」なる概念は、我々の知覚の在り方を理解する上で無用の長物であり、混乱をきたすだけのものだというわけです。
事実はシンプルであり、「知覚的相貌は端的に立ち現われる」というだけのことです。

111横山信幸:2021/07/21(水) 20:35:38
>>109
そうですか。それはちょっとびっくりでした。そういうことなら、これまで僕はまったく勘違いしてましたので、話が食い違うはずです。
しかし、そうすると私的言語批判はややこしいことになりそうな気がするのですが、そこもまたもう少し考えてから質問させてもらいたいことが出てくると思いますので、そのときはまたよろしくお願いします。

でも、その前にあともうひとつ。質問させてください
二次的反省的だとしても逆算的に知覚や感覚を、形相と質料に分けて分析することはできるのでしょうか。できるとすればその意味では「質料」はあると言ってもよいような気がするのですが、そのような逆算的な意味では〈「経験的な質料の内容」はある〉と言うことはできるでしょうか。

112横山信幸:2021/07/21(水) 20:52:22
>>110
>感覚素材は状況のコンテクストから切り離された独立自存するなにものかなのでしょうか?しかし状況から切り離された感覚素材など、単なる哲学的思考における抽象化の産物にすぎないでしょう

確かに独立自存できない哲学的思考による抽象化の産物かもしれませんが、それでも、〈何者でもないカオスとしての内容〉は「ある」と言っても良いように僕には思えるのですけど、久保さんの世界モデルではやはりそのような「経験的な質料の内容」は「ない」とされるべきなのですか

113横山信幸:2021/07/21(水) 21:11:43
久保さんの「知覚」や「感覚」からの世界の切り取り方と、僕の思っている「質料」と「形式」からの世界の切り取り方が、ずいぶんと違うことは何となくわかりましたが、違いすぎて整理して考えるのに時間がかかりそうです

114久保共生:2021/07/21(水) 22:43:38
>〈何者でもないカオスとしての内容〉は「ある」と言っても良いように僕には思える

「ある」と言っていいんじゃないでしょうか。
僕が否定しているのは、知覚を構成する感覚素材なるものの存在です。
世界がほとんど分節化されず、混沌とした相貌を呈することは、普通にありうるでしょう。
但し、それもれっきとした知覚的相貌であり、知覚以前の感覚素材など持ち出す必要はありません。

115久保共生:2021/07/21(水) 23:01:15
>>113

>久保さんの「知覚」や「感覚」からの世界の切り取り方と、僕の思っている「質料」と「形式」からの世界の切り取り方が、ずいぶんと違う

確かにそうですね。
「質料」と「形式」によって認識論を展開するのは、カントを代表として決して珍しい考え方ではないとは思いますが、一方でこうした構図への批判も結構あるように思います。
僕の議論もある意味で、「質料」と「形式」による認識論からの脱却を念頭に置いています。

ちなみに、「感覚素材」のような存在を明確に否定している哲学者で思い浮かぶ者としては、メルロポンティの他に、大森荘蔵などが挙げられます。
あるいは、心理学者ですが、J.J.ギブソンもその一人です。
ご参考までに。

116横山信幸:2021/07/21(水) 23:12:12
久保さん、ありがとうございました。
ずいぶん分かってきたので、逆にずいぶん混乱しています。これをスッキリさせるにはまだまだ質問させてもらう必要がありそうですが、混乱し過ぎて、何を質問したら良いのかもわからない感じになっています。しばらく時間をかけてていねいに整理する努力をしたいと思います。
その後でできれば質問させてもらえたら良いなあと思っています。そのときはまたよろしくお願いします

117久保共生:2021/07/21(水) 23:31:16
>>111
>二次的反省的だとしても逆算的に知覚や感覚を、形相と質料に分けて分析することはできるのでしょうか。

分析することは可能でしょうが、その分析は我々の知覚や感覚の在り方として、実情に見合わないものになってしまわざるを得ないのではないかと思います。
例えば上で挙げたJ.J.ギブソンも、従来の知覚についての説明が、あまりにも現実の我々の知覚経験とかけ離れたものであることを悟ったため、従来の知覚理論を放棄することになります。

尤も、現実との適合性にはある程度目をつぶって、一つの世界設定として捉え、そこからどんなものが導かれるのかを思考するのは、決して無駄なことではないとは思いますが。
まあそういうのも、哲学の醍醐味の一つではありますし。

118久保共生:2021/07/21(水) 23:36:24
>>116
はい、是非またよろしくお願いします。

119横山信幸:2021/07/21(水) 23:54:24
久保さん、これ、これだけで4時間の発表して欲しいです

120ウラサキ:2021/07/22(木) 07:26:03
>>119
 久保共生さんの哲学思想は「私的言語論」の枠内でお話しして頂くにはあまりに気宇壮大なもののようです。
 11月以降に又、部分的にでもまとめを発表して頂ければ、と思います。

121久保共生:2021/07/22(木) 09:10:10
分かりました、ちょっと考えておきます。

122横山信幸:2021/07/22(木) 09:14:49
個人的なメモとして)
ここまで僕が久保さんや他の方の話を聞いて今問いたいけど問題がぼんやりしているので時間をじっくり考えたいと思っている点は大きく2つあります。
一つめは、「感覚=身体態勢」でもって経験的な質料の問題に取って変えられるだけの思索の土俵になり得るのかという疑問。経験に対する問いを限定しすぎて問うことのできる領域が狭まっているのではないかという点です。
もう一つは、「質料ー形式」による世界の捉え方が、ホントに久保さんの言われるように現実に適合できないのか。そこのところをもう少し詰めないと、「感覚=身体態勢」説でもって私的言語の不可能性を論証するのは難しいように思えるからです。
すみません。自分で考察すべき論点の覚書として記させてもらいました。とくに返信を求めるものではないです

123名無しさん:2021/11/24(水) 01:01:56
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