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TK師との会話

1TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

238TK:2013/12/28(土) 22:29:22
ゆうこさん

>ブッダは、最近知ったために
>正直、どこから読んでも感動で、

あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。

あなたごときに、分かる内容ではありません。

誤読です。

あなたは元々妄想壁の強い酔っ払いになる傾向にあった人です。

そのようなものに一切近づかないように心がけないとなりません。

あなたにはとても危険な匂いがします。

>・・・これまで好き放題生きて来て反省してここにたどり着いたのに
>また逆戻り?という戸惑いを感じますが

放逸に生きろと言っているのではありません。

出来るだけ高い「理想」を持ってください。

人の為、善をなすなどです。

そうすると、生き方がしっかりしてくるのです。

239ゆうこ:2013/12/29(日) 07:03:18
TK様

>あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。

・・・すみません、おっしゃっている酔っ払いの定義が
まだよく理解できておりません・・

が。

>そのようなものに一切近づかない

という生き方を標榜した事がない
(むしろ求めたり、無意識に慣習として取り入れたりしてきた)
ので、新しいチャレンジとして努力したいと思います。

>出来るだけ高い「理想」

その理想に、
すでに感動して標榜としている聖典の言葉
・ウソをつかない・無駄口をたたかない・淫を行わない等
人の生活の上で、まっとうと思われる戒めはそのまま標榜したいと思いますm(__)m

今朝は目覚めて、少し心もとない気分です。

手を合わせる神棚もないし
ちら見する聖典もない・・

それらは、
日々、自分を律することを意識できる大切な時間と思っていました。

いかに何かに依存していたか、という証拠
ということになるんでしょうね・・

お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?
(腹を立てたりした時に悩みます)
そもそも、これまで仕入れて無意識になっている知識を無くせないし・・

などなど、ちょっと弱いスタートダッシュですが・・・

>人の為、善をなす

頂いたアドバイスを帰ってからもう少しじっくり考えますm(__)m

時間なので、今日も1日がんばってきます!!
Reありがとうございます。

240ラピ。:2013/12/29(日) 09:52:01
みなさまおはようございます!

@(*・ω・*)ポッ

ゆうこたんのコメントを見て
なるほど〜と思いました。

酔っ払いとは「信者」とも言えます。

自分以外の人や教えを信じて生きるという状態です。

例えばですがスピ系酔っ払いであれば
スピの教えを盲目的に信じて
自分の判断をスピ系に任せてしまう、といった状態です。

それでは的確な判断ができません。

TK師がこういわれていましたね。

>私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。

>何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
>物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。

まさしくその通りでした。
初めの師とのやり取りを今見ると
「私ってあほやな」としか言いようがない状態だとわかります。

でもその時は気づいていなかった。
スピ系信者で、変なものを信じていたために
きちんと人の話が聞けていませんでした。

私は「ポジティブシンキング」信者だったのです。
(昔の私のブログを見たらわかりますね(笑)

でもさらなる昔の私にはそれがありませんでした。
(途中スピ系信者になってましたが、
私はもともと そんなこと、大っ嫌いでした。)

なぜなら自分の「善」というものを信じていて
それ以外の教えは必要なかったからです。
(仏教もスピ系の教えもその頃は一切知りませんでした)

もし、自分以外のものに「善」の判断を預けてしまうと
自分の「善」と「自分以外の教えによる善」にずれが必ず生じます。

そういう時、どうしましょう?

教えをとって、自分の「善なる判断」を無視しますか?

いいえ。

それでは自分を生きていることになりません。

そんなときは迷わず、「自分の善」です。

それが自分を生きるということ。

自分以外のものに自分の「善なる判断」を任せてはいけない、ということです。

私は第一の実践の前に
自分にとってどういう生き方がいいか、
何日もじっくり問いました。

そしてしっかり問うて得た答えを指針に
生きることを決心しました。

>お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
>自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?

自分は今までの経験から何を感じたか。
自分は人がそれをしていてどう思うか?
自分は人に何をしてもらったらうれしいだろうか。
自分がどう生きれば納得できるだろうか。
自分が周りの人のためにできることはなんだろうか。

いろんな問い方があると思いますが
「自分」によく問うてみるといいと思います。

理想は人それぞれなので人の数だけあります。

自分の善なる納得する答えを得たら
迷わずその生き方をするといいと思います。

私はそうでした。

それが
「自分を捨てて喜んで何でもしよう」という指針です。

単純なこの言葉のみを指針に生きました。

この指針は自分がじっくり問うて得たものでした。

そして私は私の人生をかけてそれを実践したのでした。

241TK:2013/12/29(日) 09:55:05
ゆうこさん

>>あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。
>
>>・・・すみません、おっしゃっている酔っ払いの定義が
>>まだよく理解できておりません・・


強度の妄想癖の持ち主であるという事だ。

譬えるなら、ドンキホーテとその従者のサンチョ、それが君だ。

物凄く気色の悪い人物という事だ。


>>そのようなものに一切近づかない
>
>という生き方を標榜した事がない
>(むしろ求めたり、無意識に慣習として取り入れたりしてきた)
>ので、新しいチャレンジとして努力したいと思います。

君は今までの自分の生き方を承認してもらいたくて私の話を聞いているのかね。

こちらには君の癌の部分が丸見えなんだよ。


>出来るだけ高い「理想」


>その理想に、
>すでに感動して標榜としている聖典の言葉
>・ウソをつかない・無駄口をたたかない・淫を行わない等
>人の生活の上で、まっとうと思われる戒めはそのまま標榜したいと思いますm(__)m


このままで泥酔状態から抜けられるとでも思っているのか。

177
>激流段階の実践では規制が主になりますが、
>ワクワク段階の実践では自由が主体となるのです。

あの内容は自らの「自由意志」の成長を阻害して「バカ」になるための教だ。

そのようなものを一切頼りにせずに、もっと自分の「自由意志」を伸ばせ。

それが「自分の足で」地に足つけて、歩くという事だ


>今朝は目覚めて、少し心もとない気分です。

>手を合わせる神棚もないし
>ちら見する聖典もない・・

依存対象が無い事による、禁断状態だ。

中毒症状が重度である事を表している。


>それらは、
>日々、自分を律することを意識できる大切な時間と思っていました。

「自由意志」の成長が阻害されて、ほとんどバカだな。


>お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
>自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?

自分の中に最低でも「善悪」と言う基準があるだろう。

酔っぱらっているのもいい加減にしろ。

>(腹を立てたりした時に悩みます)

他とのバトルを避けちゃだめなんだよ。

酔っ払いの典型だな。

スピ系汚染もここまで来ると、死ぬまで酔っ払いだ。

気色悪い。

まともな人間と話をしている気がしない。

自分自身では無く、自分の外を頼りすぎたことが全ての原因だ。

242TK:2013/12/29(日) 10:39:12
ラピ。さん、コメントが良い。

さすが「元」だけある。

>自分自身では無く、自分の外を頼りすぎたことが全ての原因だ。

自分を信頼できれば、その分外は頼らなくてよくなる。

外に依存するから、自分自身に自信が持てない。

この二つは相関関係だ。

ここがパズルのピースだ。

もっと自分自身に自信を持って、自分の思考に自信を持って、
どんな問題でも解決できるのだ、不可能はないとこのように自分自身を信じて、
そうやって歩みを進めていく。

「余の辞書に不可能の文字はない」これだ。

ナポレオン・ボナパルト - Wikiquote
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88

243ラピ。:2013/12/29(日) 14:14:25
☆TK師

>さすが「元」だけある。

てへ。(まったく自慢できませんね(笑)

私はどちらの生き方も精一杯して
どちらの状況の状態も経験しています。
(スピ系も本当の実践も 両方)

ちょっと前までは両方、「とことん」ということは同じだったので
両方の生き方が表現上でごちゃ混ぜになっていましたが
なんだかわかってきました。

実践の姿勢としては
第1の実践を例にするといいみたいですね。

第3の実践はいわゆる「とことんスピ系」でした。

しかし、「とことんスピ系」を 私がとことんしたところで
単なるスピ系信者どまりで終わりだったでしょう。

私の基本は「とことん」でしたが
方向性が間違っていれば
「とことん」も意味がないことがわかりました。

だから実践前に自分の方向性、基準をしっかり決めることが大切ですね。

それはスピ系などで言われていることを基準にするのではなく
自分自身の中にある「よいこと」を基準にする、ということです。

そして決心したら「とことん」です。


、、、TK師に出会えなければ
私はとことんスピ系やったんかな、、、、。

出会えてよかったです、、、、。

チャンスを逃さなくてよかったです。

@(*・ω・*)ポッ

244ゆうこ:2013/12/29(日) 19:56:59
TK様ラピ様

コメントありがとうございますm(__)m

出直してきます!

245TK:2013/12/30(月) 07:40:03
ラピ。さん

>TK師に出会えなければ
>私はとことんスピ系やったんかな、、、、。

一寸先は闇で、怖いのはやはり次のケースだったろう。

>ラピ。さんは私の説く真実の教えによって至りましたが、
>これが私に出会うよりも前に、
>自らの誤認による覚者に出会わなかったことが不幸中の幸いでした。
>
>折角の素養のある者が、みすみす死ぬまで酔っ払いになるのですから、
>それは今の至った後のラピ。さんが一番よく知っているはずです。

君の当初のピントのずれ方は、
自らの悟りの誤認による他の酔っ払いサイトの者と、
一緒に酒を飲みあいながら同調してしまうレベルだった。


http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。
>
>
>この世界の真実を知る!


凄い酔っ払い。

私は全く君の事を酔っ払い以上の評価などしてなかったが、
他の酔っ払いサイトでは、よく来て下さいましたとか挨拶された後、
君はニセの成就認定まがいの印可を授けられて、
他のサイトのエセ自称覚者とその一派に仲間入りで、
死ぬまで永遠にカクセンジャーだ。

世界を救うんだとか言いながら、同調している事だろうな。

世界を救う、笑える〜、これが覚者の言葉だと、爆笑だ、
地球防衛軍の間違いじゃないのか。

あのような酔っ払いにならずに良かったな。

今君の前に取り組む世界などあるのかね、良かったな。

このように、君も一歩間違えば、他のサイトの酔っ払いのようになっていた、
その差など、「運」だ、僅かなものなのだ。

君も彼岸に至ってその獲得した眼で周りを見渡して、
至れた事が「まれ」な現象だと言うことが分かったろ。

酔っ払いの彼らは一生懸命なだけにお気の毒なのだが、
あれで死ぬまで永遠にあれやって酔っ払いのままでこの世界を終えるんだ。

その者たちの聞く姿勢の無さは、
私に出会った当初の君の私に対しての聞く姿勢の無さと同じようなものだ。


マタイの福音書 7章13-14
>狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
>そして、そこから入って行く者が多いのです。
>
>いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

スッタニパータ559-560
>わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。
>もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。
>
>かれは(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、
>そなたらにとって、いとも得がたいことであるが、わたしは、
>その<さとった人>なのである。
>バラモンよ、わたしは(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。

246TK:2013/12/30(月) 08:04:23
>私は「ポジティブシンキング」信者だったのです。
>(昔の私のブログを見たらわかりますね(笑)

実際はポジティブシンキングに問題があったわけではない。

実は、全うな精度の実践が出来ていなかったと言うのが原因だ。

私の指導の下でなら、ポジティブシンキングでも「激流」は起きる。

ポジティブシンキングも、ポジとネガの立派な相対の原理の上での実践だ。

スッタニパータを読んで感動しますとかほざいている酔っ払いも、完全に誤読だ。

自分の良いように解釈して、劣った精度で取り入れて、
分かった気になっているんだ。

元々が激流の実践のその正体は「妄想を駆使したバカを極める為の実践」なのだ。

つまり、激流の実践は鈍った精度の実践をすることにより、それは緩流となり、
何ら効果を得る事もできず、そのバカになる害の部分だけが作用して頭がボケ、
それを平安を得たと勘違いする一生何かに憑りつかれた亡者のような酔っ払いの人生を送る事になるのだ。

これが世にゾンビのようにうごめく、あのエセ覚者も含めた気持ち悪い者達、
妄想狂の酔っ払い現象のからくりだ。

あの者たちを見ていると、世界を救うとか、妄想に踊らされて気持ち悪いだろ、
あんな風に亡者のようにはなりたくないものだな。

つまり、激流の実践に必要不可欠は、精度の高い眼力だ。

自分に無ければ、導師にそれを求める以外に無い。


マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
>自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>
>兄弟に向かって、
>『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。


ただし、激流の実践に突入するためには精神の面での資格が必要だ、
人間としての幸せを掴むための生き方で限界まで行って、
もうそれ以上にどうしても先に進む事の出来なくなったと認められた者だ。

その者にとっては、それがどんなに地獄でも、進むしか他に手が無いのだから、
その者はこちらが指示しなくても自分でその先に進む事だろう。

君も、そして私も独力でその先に歩みを進めたように。

運よく私の方が彼岸に到着できた、そして君にもその方法を教えたんだ。

だから、重要な事は人間としての幸せの掴み方の限界まで突き進む事だ。

この方向で歩めたなら、たとえ限界まで行きつかなくても、
それはそれで幸せな人生を送れる。

247ラピ。:2013/12/30(月) 16:10:06
☆TK師匠

私は師は求めていませんでしたので
誤認覚者を師とは絶対しなかったと思います。

そもそも覚者に興味がありませんでしたから。(笑)

だから私の場合、それは大丈夫です。

ただ、最近 誤認覚者に
せっかく素質のありそうな人がはまってしまっているケースを見ました。

どうなるんでしょうね。もったいない。


思い出すものがあったので書きます。
(同じようなことを書くかもですが)

私は第一の実践をやり遂げ、第二の実践に飛び込まざるを得ませんでした。

この第二の実践はまさしく相対原理を使ったものでした。
その頃はそうであることも知らず
どんな瞬間も実践し続けました。

そしてついに彼岸へ。
しかし、その時自我がすべて消滅することはありませんでした。

命がけで彼岸に足を踏み入れたけど
渡り切れませんでした。

ちなみにこの経験が最後の激流の時に
かなり役に立ちました。

この第一の激流に何年も私はいたので
(よくやったなぁと思います(笑)
激流がどういうものかわかっていました。

(ちなみにこの頃だったらブログなんて書けなかったと思います。
皆さんの知らないラピ。です(笑)

だから師に出会って激流が起こった時
「これだ!」とわかり
師に伝える前に勝手に激流に飛び込みました。

そしてついに残っていた自我が消滅しました。


話は戻りますが第二の実践で至ることができず帰ってきた私ですが
第二の実践が終了した後、
「もうがんばった、十分頑張った。もういいやろ」
と思い、実践から離れ
幸せや楽しみを味わう決心をしました。
(こう決心するあたり、実践の名残がありますが)

そしてブログを書き始めました。

このおかげでネット上でいろんなお友達ができました。

そうですね、いろんなことにわくわくしていたと思います。

ただただその瞬間を楽しもうと思い
(これもスピの教えのひとつですね)
楽しもうとしていました。

ブログでの出来事は楽しかった出来事の一つです。

そしてこのネット上でのいろんな出来事があったからこそ、TK師に出会えました。

そうでなければ私はTK師の存在を知ることはなかったです。

すべてはつながっていてどの出来事も私にとって必要だったと思っています。


第二の実践の終了後、
私は中途半端な状態でした。

下手をしたら私は永遠にそのまんま中途半端でした。

でもTK師に出会うことができました。

TK師とのやり取りの中でも私はもう、
「今のままで十分」というのがありましたので
そして今の状態が「正しい」状態だと思っていたので
TK師に否定されたとき正直腹が立ちました。

そして訳が分かりませんでした。

でももし、かつての私が本当にその状態でいいと思ってしまったのなら
今の私はありません。

そこで終了です。

でも私はまだまだで まだ先があったのでした。

その先にこそ、本当は私が
本当に求めているものがあったのでした。

でもそれすらもわかっていなかった。

覚者から見たら、私はまだまだで
でもその「まだまだ」がわかっていない状態。

掲示板でもそのような人がたまに現れていましたね。

もったいない。

まだまだ先があるのですよ。

でも私もそうなってたかもしれなかった。

そう思うと、今の状態が「最高である」と思っている人に
「まだその先があるのよ」と伝えたい。

そもそも「最高」なんてないのですよ。

、、と話がそれました、てへ。



>その者にとっては、それがどんなに地獄でも、進むしか他に手が無いのだから、
>その者はこちらが指示しなくても自分でその先に進む事だろう。

はい。そうなったら進むしかありません。

もう後ろに道はなかったので戻ることもできず
進むしかありませんでした。

248TK:2013/12/30(月) 18:18:25
>私は師は求めていませんでしたので
>誤認覚者を師とは絶対しなかったと思います。

確かに君は最初に師は求めていなかった。

しかし、何も求めていなくて私の所へ来たわけではなかった。

君は自分が如何ほどの状態に居るのかの評価を「求めて」いたんだ。

「求める」ものがある以上、君の期待に応えうる回答をする者が現れたら、
エゴの世界の人間の特性で、
君のエゴの期待にかなうような回答をする者には同調がおきる。

私は君に対しては酔っ払い以上の評価はしなかったから、


>TK師に否定されたとき正直腹が立ちました。
>
>そして訳が分かりませんでした。

あの時の君がもし私では無く誤認覚者を尋ねたら、
君はかなりの評価をされ酔っ払い同士の納得のいく状況がその場で出現していた。

なぜなら、滑稽な話だが、同レベルの者同士だから話が通じるのさ。

私とその時の君とでは異次元だ。

例えば自らの誤認による覚者が「理解」と言う言葉をやたら連呼するが、
今の君なら「理解」それ自身すでに異次元ですとなるなだろ。

ところが、最初の君なら誤認の者と同レベルだから、
評価などエゴの喜ぶ行為をされようものなら、
喜んで意気投合しみんなで一緒に酔っ払い戦隊カクセンジャーで世界の為に取り組みをしたりするんだよ。(笑)

君が本当に最初から何も求めるものが一切なくて私の所に来たのなら、
こうはならないのだろうが「求める」ものが僅かにでもあればそうはいかないものだ。


http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。
>
>
>この世界の真実を知る!


これ、自らの誤認による覚者と同じ次元ですよ、今思えばバカみたいでしょうが、
話通じますよ。

ところがこれが異次元の私が相手だと、
あなたは凄い妄想狂ですねと言う単なる酔っ払いである評価しかされない事になる。

自らの誤認による覚者と私と二人が同時に君の目の前にいたら、
恐らく私は君から選択される事はありませんでしたね。

運とタイミングで、大きく人の進路は異なるものです。

249ラピ。:2013/12/30(月) 18:40:44
☆TK師

>君は自分が如何ほどの状態に居るのかの評価を「求めて」いたんだ。

はい。その通りです。
私はTK師に 私が今どんな状態であるかを見てほしくてメールしました。
それが始まりでした。

ただし、これはTK師にしか問うことはありませんでした。

なぜなら、それまでにTK師の実践された内容を知り、
「私のやってきたことと共通するものがある。
この方なら私についてなにかわかるかもしれない」と思ったからです。

私のような実践をしている方を
それまでは見たことがなかったんです。

そしてTK師はその実践をやり遂げて至ったと!

私はその頃、自分の実践の意味が分かっていませんでしたから
TK師ならわかってくださるかもしれない、と思いました。

だからこの時点ですでに
TK師以外の人に「評価を求める」選択はありませんでした。

今こうやって思い出してみると、
やはり、私はTK師にしか求めなかったし
教えを請うことはなかったと思います!

はい!

TK師!ありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

250TK:2013/12/30(月) 19:21:19
>私のような実践をしている方を
>それまでは見たことがなかったんです。

確かに君は当初から私と自分は同じだと表現していた。

君のような変わり者と私のような変わり者が生きている間に話しできる確率など稀中の稀のようなものだ。

私も君には感謝している、
他の者のために私が達成したものが役立てることができたのだから。

251名無しさん:2013/12/30(月) 20:36:42
☆TK師

出会えてよかったです。

ほんとうに、ほんとうにありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

252ラピ。:2013/12/30(月) 20:43:15
251の書き込みはラピ。です〜。

@(*・ω・*)ポッ

253TK:2014/01/02(木) 08:32:37
あけましておめでとうごさいます。

昨年は、私にとってもラピ。さんと言う成就した人が出たので、
記念すべき年だったと思います。

色々とズラズラ書いてきましたが、実際にメンタルの成長と言う点において、
人より抜きんでたと言う事実はあります。

自分で言うのもなんですが、能力、ストレス、様々な点において、
悟った者は既に他者と対当ではありませんが、しかし、これが、
今の劣った科学では全く認知されているものではありませんから、
一般社会生活においても、他からは単に出来る人とか、
本人とっても当たり前ですけが能力的にもゆとりで生活していける、と言うものです。

特に業務上等での特徴は「瞬間」的な行動が極まっています。

例えば業務上においては「言葉」は仕事の道具、
真剣勝負の昔においては剣に値するものとも言えるのですが、
恐らく太刀打ち出来る人と言うのは居ないでしょうね。

これ、かなり一般の人より抜きんでています。

自分自身でも知らない間に、対話相手と決着がついたりしていますから。

ほとんど本人も知らない間にですよ。(笑)

これは、他者は太刀打ちできるはずはないですよね。

後、主な気付く点と言うと、利き腕では無い方の手とかも、
知らない間に効果的な動き方をしていて利き腕と差が無くなって来たりしていて、
かなり行動面において効率さが増しています。

悟る前の利き腕に負担のかかる行動形態の時より、
物事をこなすのに体をひねる事が少なくなったなあと思います。

これ、みなほとんど本人も知らない間に、
行動や言葉の方が勝手に自動的に適格な動き方をしていきます。

これが、悟った者のメンタル状態で獲得できた「フロー」というものの一端です。


フロー (心理学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)


悟りとはこのように人類においては良いことづくめの素晴らしいものなのですね。

悟りとはこのようなものですから、これが早く科学的に解明されれば、
さらに輝かしい人類の歴史が広がってくると思います。

もちろん、他者の文章から、他者の人相から、
他者を見抜けるあるがままの「眼」というものも獲得できますね。

このような現象を早く科学的にはっきりとした位置付をしてもらいたいものです。

特にこのような事を語るのも、資格制度にしてもらえれば、
世の中の自らの誤認による覚者というものはいなくなるのです。

あれは、世の中の一番の混乱の元ですよ。

こちらからみると、世界を救うのだとか、
物凄く滑稽極まりない妄想狂のドンキホーテみたいな言葉のやり取りしているのですが、
見ているこちらとは裏腹に、
本人同士はあの酔っ払い行動に真面目になってしがみ付いているわけで、
これ、本当に良くないと思います。

悟りと言うのは、私がここに掲げた能力面のアップ等の面が必ず付随するものであり、
屁理屈で納得したりしているような、そんなものでは無いのです。

沢庵禅師が説いた「剣禅一致(不動智神妙録)」、即ち剣が技術の修得、
禅はメンタルの修得、この二つが一致すると能力は格段のアップをします。

この修得度合こそを例えば、企業が人材を登用する基準に据えられたら、
その企業の発展において、かなりの期待に資する事ができるものであると思います。

また、従業員研修などにも、
これを獲得できるような要素を効果的に取り入れる手段があったなら、
業務成績がアップする事請け合いですね。

そのためには、この現象を現代の遅れた科学がもっと理論的な解明をしてくれなければ、
先へは進みません。

254ラピ。:2014/01/02(木) 10:03:25
みなさま、あけましておめでとうございます!

TK師、いつもありがとうございます。
私にとっても去年は今までにない素晴らしい年でした。


私は、悟りを目的とせず
日常、自分が感じたことに対して
真剣に取り組んだ結果、今があります。

ちなみに悟りについて思いを巡らせていた時は
全く見当違いになっていました。
だからそれは必要ありませんでした。(笑)


人それぞれ道があると思います。

それをしっかり極めてくださいね。

あ、でも方向性は大切ですよ。

方向が反対だと
頑張れば頑張るほど離れてしまいますからね。

皆様、今年も充実した年になりますようお祈りしています。

二度とないこの時を、後悔ないよう、がんばってくださいね。

255wai kei:2014/01/02(木) 11:45:03
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

一日足らずで終わりました。とりあえず、ご報告まで。
益々のご健勝をお喜び申し上げます。

敬具

256ラピ。:2014/01/02(木) 21:27:06
☆wai keiさん

waiさん、ご訪問&書き込み、ありがとうございます.!

とてもうれしいです。
@(*・ω・*)ポッ

どうぞ、今年もよろしくお願いします。

257TK:2014/01/02(木) 22:25:57
wai keiさん

明けましておめでとうございます。

お久しぶりです。

旧ハンドルatomです。

たまにサイトは見させていただいてます。

私は実際の経典知識については大して無いもので、大変詳しく説明されていて、
とても参考になります。

今年もよろしくお願いします。

258349:2014/01/03(金) 10:36:58
waikeiさんのサイト
もしよろしければ、教えてください。

259ラピ。:2014/01/03(金) 22:35:48
☆349さん

はい!

wai keiさん、私からお伝えさせていただきますね。


釈尊は何を教えたのか?@和井恵流
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008

260349:2014/01/04(土) 14:59:45
ラピさん、wai keiさん

ありがとうございます。
実践の参考にさせていただきます!

261TK:2014/01/05(日) 12:02:12
wai keiさんと以前話をしていた頃は、
私は私自身を途上の者と表現しておりました。

この表現は結構好きだったのですが、
最近自らの誤認によるエセ覚者とその一派のサイトを訪れた際、
この表現にケチを付けられましてね。

至っているのに、
途上の者とわけの分から無い頓珍漢な矛盾したことを言ってるなみたいな、
文句を言われたのです。

それでここでは、
此の岸から激流を渡って彼岸に至った者を略して「至った者」と言う表現になっています。

悟った者と言う表現も、私やラピ。さんの段階なら誤表現ではありません。

途上の者と言う表現を使っていたのは、
実は今私が確実に至っていると表現できる所のまだ先があります。

私はその所までたどり着けた経験は持っていますが、まだ確実なものと言えません。

それが以前wai keiさんにお話しした「0」の領域です。

しかし、ここまで来て対話を交わした者の中で、
誰一人私の足元にも及ばないものばかりの現実に照らしたら、
この前の自らの誤認によるエセ覚者に文句を言われた通り、
「至った者」と言う表現の方が混乱が起きなくていいと思いました。

なぜなら、私が途上と称しいるその先の段階の話など、ラピ。さん以外は誰一人、
一切必要な者などいないのですから。

ラピ。さん自身はこのことは話をしてありますから。

誤認のエセが「至った者」で本物の私が「途上の者」と言う表現と言うのも、
以前は内容によるガチンコ勝負を実験的にやっていた部分はあるのですが、
今は誤認のエセ本人はともかくとして、
それ以外の人には紛らわしい表現だろうと思いました。

必要な者がいて初めてできる話も、必要な者がいなければ用がありません。

このような不必要な先まで話をすると、
また酔っ払いのゾンビー人間が多数出現するだけです。

私はこの者たちが出現しても一切無視(無記)としますから。

私は気のふれた者たちを相手にするほど、物好きではありません。

ちなみに、仏典で言う彼岸を聖書では神の国と言いますが、
新約聖書ではここに至るまでの方法しか載っていませんが、
釈迦の仏典では私が述べるその先をターゲットとした話になっています。

これは決して聖書の教えが劣っているとかというものでは無く、
ここで前にも話しましたが、イエスの伝道期間の短さに起因すると思います。

恐らくイエスの活動期間は3年未満、
そうすればおのずと多くの者に必要である部分に話のターゲットは絞られるわけです。


スッタニパータ725
>かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
>かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。

解脱も色々な分類法があるようなのですが、おおまかに二つあるのです。

これは、「個の存在の解脱」と「マインドの解脱」と表現を変えても良い。

激流の彼岸とは「マインドの解脱」で成就できるのです。

(続きます)

262TK:2014/01/05(日) 12:04:16
(続きです)

「マインドの解脱」は悪魔即ちサンスカーラに打撃を与え続ける事で、
激流が発生し、やがて善悪の彼岸に至ることが出来ます。

「マインドの解脱」は善悪識別を超えると言う意味です。

識別作用の消滅すなわち意識の焦点化機能の消滅で「対象」が消滅します。

つまり、私やラピ。さんの前には世界も無ければ、あなたもいない、
「対象」の一切が消滅した何も無い境地、
すなわち釈迦の言う識無辺処の次の「無所有処」です。

これ物質的な肉体をまとってこれを述べてるから、話が通じないのですが、
物質的な肉体が無くなってしまえば、
現象化させるための「対象」が無いのでこれそのものです。


善悪の超越、
これをヴェーダの奥義書であるウパニシャッドでは知者の解脱であると記述がありました。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89


知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。



実は心臓から「個の存在」と言う、
マインドレベルよりもっと深い位置の感覚が発せられていました。

サンスカーラの作用の影響を受けるレベルより、ずっと深部です。

これは深い瞑想に入ると遭遇することが出来ますが、マインドレベルを滅却し、
さらにさまざまな既成の固定観念も次々と見つけだし滅却し、
そうすると最後残ったものとしてこの心臓から発せられているある種の感覚に突き当りました。

この感覚を取り外すと、
頭のてっぺんから足の先まで自分自身が消失し「個の存在」と言う
マインドレベルの我よりさらに深い位置のものが消滅する事でもう一つの解脱に達しました。


アートマン - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3

>ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。


これが心臓すなわちサンスクリットでフリダヤ(hrdaya 心臓あるいは心)の解脱です。

そして、さらにその先がある、
それが釈迦が究極としているニルヴァーナすなわち「0」です。

私はここまで一通り辿り着け自らの中で実証できましたが、
それをまだ確実なものに出来ていない、それが以前の途上の者の表現の根拠ですね。

場合によっては、今頃生きてなかったかもしれませんが。

今の私の所まで来ると、エゴの推進力が利用できないので、ま、
のんびり行くしかないわけです。

263ラピ。:2014/01/06(月) 00:08:52
☆TK師

はい!

まだまだ途上ではありますが
今は激流を渡り終えて ある意味終了しましたので
今のこの状況に慣れつつ、
しばらくはくつろいでいようと思います。

言語化もまだまだですが
これからも表現させていただきます。

TK師、いつもいろいろ表現してくださってありがとうございます。

@(*・ω・*)ポッ

264TK:2014/01/06(月) 07:03:12
ラピ。さん

>まだまだ途上ではありますが
>今は激流を渡り終えて ある意味終了しましたので
>今のこの状況に慣れつつ、
>しばらくはくつろいでいようと思います。


釈迦の言葉で五上分結と言うもので言えば、1色貪、2無色貪、3掉挙、4慢、5無明、
マインドの解脱で1〜4までは成就したことになる。

残る5番目、無明の構成要素が次のものだ。

知覚と言う名前の紙が敷いてあるとすると、
その上に個の存在と言う名前の皿が置いてあって、
その皿にマインドの我という名前の物が入っている。

君の場合は、この中のマインドの我という名前の物を撤去する事に成功したんだ。

あと残る二つだが、EO氏の話によれば、生命維持に絡むものだから解脱死と隣り合わせだ。

ま、ここまで来るとエゴも無し無理なトライも出来るはずも無し、と言う所だ。

265ラピ。:2014/01/07(火) 23:30:18
☆TK師

はい!

いつもありがとうございます!

もう、私の大好きだった実践(笑)はできませんが
それそのものの状態に慣れつつ
それものであります。

それだけで今は十分です。

でもそのうちに この微妙な違和感、
それを頼りに進んでいくかもしれませんし、
進まないかもしれません。

@(*・ω・*)ポッ

266TK:2014/01/09(木) 00:15:14
ラヒ。さん

二つの解脱。

まずは善悪の超越。

ターイッティリーヤ・ウパニシャッド
知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。


君が成就したんだよ。

常住できるのはこの解脱までだ。

次は心臓(フリダヤ 心臓又は心)の解脱だ。

この先は解脱死と隣り合わせだし。

カータカ・ウパニシャツド
解脱
 >〔14〕己が心臓の中に巣喰える一切の欲望が放ち逐われし時、応死の身は不死となり、この世ながらに梵を得るなり。
 >〔15〕この世ながらも、心臓の繋縛のすべてが断尽せられし時、応死の身は不死となる。以上にて教説終わる。


>もう、私の大好きだった実践(笑)はできませんが
>それそのものの状態に慣れつつ
>それものであります。
>
>それだけで今は十分です。


解脱死でオシャカになったらシャレにもならないかもね。

大パリニッバーナ経6・10(ブッダ最後の旅)
>「心の安住せるかくのごとき人はすでに呼吸がなかった。
> 欲を離れた聖者はやすらいに達して亡くなられたのである。
>ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。
>あたかも灯火の消え失せるように、心が解脱したのである。」

267TK:2014/01/09(木) 19:43:14
他の誤認のニセ物覚者のサイトを見て回っていましたが、
いい加減やめたらどうなんだと言いたくなりました。

「相対と言う原理」はニセ者が理解する事はたやすくありません。

世の中を変えたければ、ニセ者はもう一度修練して本物になれば良いだけです。

ニセ者のままで進もうとしない事です。

それは世にデタラメをまき散らすことになり、
世の中にとって害になる行為でもありますが、
それより自分自身にとって良くありません。

釈迦も2度師を変えたくらいですから、至ったと思っても、
少し経ってみたらまだそれでは無かったという事はあるでしょうし、
自分で僅かにでも疑いが出てきた時には、
その僅かな疑いをそのままにして突き進んではなりません。

それは自分自身にとっても害をなす行為です。

それでは、相対の原理について話しますが、ただし、
理屈だけ取って行くような真似はしないでください、これは、
解脱による識別の超越により自ら体現できるものなのです。

仏典を良く読むと矛盾した二つの内容が出てくる事に気づくはずです。


スッタニパータ969
>智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。
>奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

スッタニパータ520
>安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、
>生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。


同じスッタニパータの中のこの「善」について、
捨て去れと言ったり喜べと言ったり、
一体どっちを取ればいいのだろうかと思いませんか。

ちなみに「善悪を捨て去り」と言う方を取った人は外れです。

見て回った自称覚者と言う人の中には、こういう人もいましたよ。

ポジとネガ、両方に偏らないで中間で行くのが良いのですみたいな者が。(笑)

これは相対の原理と言います。

善と悪、肯定的と否定的、正しいと正しくない、自己と世界、
これ等は全てこの関係性の所のものです。

善行を実行し悪行を無くせば、その実践の成果は善悪の両者が無くなるのです。

善行だけになりはしないのです。

肯定的を採用し、否定的を無くしていけば、
最終的にこの肯定的否定的の両者は無くなります。

全てが肯定的だけになることはありません。

(続きます)

268TK:2014/01/09(木) 19:43:46
(続きです)

私も実践時には全てが善になるものと思って善行を行っておりましたが、
最終的に善行も悪行も、
そもそも目の前から全ての「対象」が消えたもので何もできなくなりました。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。


善行をやって行くはずなのに、善行をやっていたらある時、善悪が消滅して、
すなわち経典にある内容「善悪を捨て去り」の通りになったのです。

私は決して初めからこれが分かっていたわけではありません、
最終的にそのようになって、
初めて善を為し悪を為さない行為の実践で善も悪も何もできなくなることで成就を迎えるものだな、
と言うことが、実現して初めてわかりました。

「為すべき事を為し終える」と言う事の成就です。

為そうと思えば為すことが出来るにもかかわらず、
善も悪も無いとか救いようのないデマの教えに従って、
善行を為さないのとは訳が違うのです。

私とて善行を為せるものなら、まだ、為しますよ、
為したくてももう為せないのです、このようにはっきり断言できなければ、
善も悪も捨て去っての成就、すなわちその人は覚者ではありません。

つまり、私は善行を為す行為は捨てていません、
どこまでもどこまでも善行を為そうとするその方向性で、
最終的に「行為そのものが」消えたのです。

これは、はっきり言いますが知者の解脱です、
理屈でわかった気になって持って行ってもそれは違いますから、
そのような事は絶対にやらないで下さい。

それよりも、至った我々から見たら、
全然至っていない人たちのそれは覚者のフリをしても、
丸裸同然にこちらには丸見えですから、どうか、
覚者のフリをして人々に間違いを教えばら撒くのではなく、
もう一度最初から修行をやり直してください。

特に商売をされている方なら、
背に腹は変えられません等の理由もあるかもしれませんが、
単なる覚者気分を味わいたい、そのようなつまらないエゴを捨てられずに、
自らを汚すことは愚かな事だと思います。

特に私の書込みを見るなりあわてて次々に削除する事で必死に逃げ回った自称覚者と名乗る方などは、
お早めにお気づきになられた方がよろしいかと思います。

はたで見ている分には皆がそろいもそろって妄想の中で遊び泳いでいる姿を目にするのは
ほのぼのとする部分が無いわけではありませんが、
本来激流の実践法に対してほのぼのとか楽しみ半分で接していたら、
その報いは必ず自らに永遠の罰と言う形で帰ってきます。

そのような姿勢や実践精度で接するものでは無いのですから。

まさに、豚に真珠を与えてはならないとイエスが言っていた通りです。

269ラピ。:2014/01/09(木) 23:11:22
☆TK師

まさしくその通りです。

自称覚者、 もっともらしく書いてるけど
こちらからしたらでたらめばかり。

自称覚者をグルとして信じている人たちが
あまりにも哀れです。
正直、かわいそうに、と思います。

(ま、信じている人たちも
自分がその自称覚者をグルとしているので
自業自得と言えばそうなんですが)

そして自称覚者は自分が至っていると信じ込んでいるので
堂々と偽の教えをばらまいているのですね。

でも、それらの言葉ってズバリ、受け売りなんですよね。

んでもって覚者の言葉を引用して
それを解説してるものの、
とっても的外れとなっております。

それでいいんですかね?自称覚者さん。
あなた自身が
よくないカルマを生み出していますよ。


>解脱死でオシャカになったらシャレにもならないかもね。

はい〜!
@(*・ω・*)ポッ

270TK:2014/01/11(土) 09:35:23
誤認の覚者の前には確実に「対象」がある。

「世界」がある。

つまり、無所有処(何も無い境地)ですらないという事だ。

そして、その者には確実に「我」がある。

しかし、その者は風車が怪物に見えてしまうドン・キホーテだ。

したがって、これは我では無いとか勝手な妄想に埋もれて、
我があるにもかかわらず我が無いと言う妄想に浸っている。

なぜこのような事が起こったのか、その一番の原因は、
自らの劣った精度の眼による実践に主な原因がある。

実は本来激流の実践法であるべきものが、
同じ実践方法を言っているのに緩流になってしまう事に起因している。

これでは、悟れるとは反対のただ単に、感謝できないものに感謝したり、
人間としての感覚を麻痺させて頭がボケる事を平安と勘違いした、
悟りとは別物を悟りと勘違いした妄想狂、風車が怪物に見えてしまう、
ドン・キホーテと従者のサンチョだ。

私がここで、このような者とは逆行する教えを説いているのは、
このような酔っ払いになってしまってはその者の一生が、酔っ払いのままで、
それで人生お終いになる事を知っているからだ。

そして、
その者は広くその自分が落居っている酔っ払いの酒を広く世間にばら撒こうとしている、
酔っ払い人間を多数産出しようとしている。

まさに、「末法の世」だ。

世の中には人々に危害を及ぼす怪物を倒す正義の味方ウルトラマンと言うのがいるとすると、
もう一方は風車が怪物になって見えてしまうドン・キホーテと言うものがいる。

自らの誤認によるエセ覚者とは、この風車が怪物になって見えてしまうドン・キホーテの事を言う。

つまり、自分が酔っ払った同じ酒をまた、世界に振る舞おうとしているのだ。

私がここで、大いに裁いて結構とか、感謝できないものに感謝しなくて良いと言うのは、
単なる風車が怪物に見えてしまい従者をその巻き沿いにするドン・キホーテではなくて、
前者の正義の味方ウルトラマンの方になってもらおうとしているからだ。

激流の彼岸とは、常に戦士である事をやめたら辿りつけない所だ。

私は達成するまで戦士である事を決して捨てなかった、
達成したら戦士が捨てることなく勝手に消えた、これが完全勝利だ。

ラピ。さんは、第2次激流の実践がうまくヒットしたので、そこで得るものもあり、
私の導きのもと彼岸へは僅か一日で至ることが出来た。

もし、この第2次激流が精度の劣った実践だったなら、
それは激流にすらならず緩流となり、単なる酔っ払いのままで何ら達成する事も無く、
やがて自らの誤認により何ら達成してもいないのに達成したと妄想を抱き、
酔っ払いの者になっていた。

その場合に今のラピ。さんはない。

何が誤認覚者とラピ。さんの大きな違いだったか、それは、第1次実践の際、
宗教書やスピ系に一切かかわっていなかったことが不幸中の幸いだったことだろう。

つまり、実践の内容は何ら精神世界の知識も無く、
純粋に自分の中から導き出されたものだ、
それが第2次実践の激流を創る事に大きく起因している。

つまり、多くの者たちは激流どころか、
激流に飛び込む崖っぷちにすら立っていない者たちが、激流の実践法を振り回し、
それでは、単に人間としての感覚がマヒして頭がボケた死ぬまで妄想狂だ。

宗教書やスピ系知識や誤認の覚者が無くとも、一たび激流にさえ飛び込んでしまえば、
あとはその者には進むしか手が無くなる。

バカな者たちよ、バカな者たちよ、
折角人間として生まれてきたと言うのに酔っ払いになるために生まれてきたのか、
お前たちは。

271ラピ。:2014/01/11(土) 11:21:30
☆TK師

>何が誤認覚者とラピ。さんの大きな違いだったか、それは、第1次実践の際、
>宗教書やスピ系に一切かかわっていなかったことが不幸中の幸いだったことだろう。

はい。確実にそうです。
本当にそうだと思います。
そんなもん、知らなかったですから。

でも普通に生きていて、自分自身の疑問にぶつかり、
自然に実践していました。

私が小学生の時でした。

これが私の後悔しない生き方でした。
それをしただけ。
それがいわゆる「実践」となりました。

実践、小学生でもできたんですよ。

これから言えることは、
スピ系は一度捨てて、
人間らしく人間として
自分の「善」を拠り所に
精一杯日々を生きることです。

スピ系の理論を振りかざして
のらりくらり
きれいごとを並べるだけ。

その時は心地よいかもしれませんが、、、、。

そんな楽ちん路線を行く人に激流が起こるはずがありません。
(それでいいという人には何も言うことはありません)

でも、せっかく人間の世界に生まれてこれたのだから
このチャンスを逃さないほうがいいのではないでしょうか。

頭で考えるのではなく
しっかり自分らしく精一杯頑張ってください。

単にそれだけ。

スピ系の本を買わなくてもいい。
自分の「善」を信じて頑張るだけ。

今世で至れなくても
その経験が次の世でそれが生かせるはずです。

無駄なことはありません。

私は常に精一杯やりました。

本当に精一杯やってよかった。

必死になってがんばってよかった。

ほんとうによかったと
今思います。

本当にあきらめず
精一杯がんばってよかったです。

ほんとうによかったです。


TK師、本当にありがとうございます。

TK師のかつての実践の書き込みがなかったら
TK師の実践を知ることもなく、
私がTK師にコンタクトすることもなかったと思います。

272ラピ。:2014/01/11(土) 12:18:25
ちなみに、
人それぞれに道がありますので
私の方法そのものが適していない方もいるかもしれません。

でも、少なくとも、
今、自分の中にある問題に対して
それを誤魔化すのではなく
ちゃんと向き合い、よく考えれば
どの様な方も今の状況でできることがあります。

人それぞれの段階があります。

私の精一杯も、その都度
自分のその時の精一杯でした。

激流の実践に比べたら
小学校から始めた第一の実践は
とても甘いです。
(でも それすらもできない人もいますが)

でも、それでもその実践が必要だったのです。

だから、まずは今の自分の問題がいったい何なのかを知り、
それに対して
今、できることからやっていく。

それが大切だと思います。

どんな時も「自分の善」を信じてくださいね。

私も自分を信じてがんばりました。

273TK:2014/01/12(日) 10:34:17
激流の実践、これを私は約1年間で渡り彼岸を成就した。

ラピ。さんの激流はもっと長かったと言う。

この差は、たまたまテキストとしたものの違いであったと言える。

私はここにも書いたが、新約聖書と釈迦の僅か2冊の仏典。

私はあえて最低限を心がけ、これだけになった。

理論的に分かっていてそのテキストを利用したわけではなかった。

私にとっての一番の取り組み課題は、「悪魔(サタン)」対策だったのだ。

私は悪魔と戦う手段を探して、このテキストを取り入れる事としたのだった。

日常実践、禅定にタパス(苦行)。

ラピ。さんとの激流期間の違いは、
たまたま取り入れたテキストの違いによる先達が残した手掛かりの違いと言える。

例えば私は激流の実践時、釈迦の経典をテキストにしていたので、
有る時は純粋に空間認識を利用する実践をしていた。

空間を認識し、その空間に自分の思考を含む感覚が浮かんでいる、
そのような実践法です。

これは、この空間認識を利用する事により、
肉体と空間との境界線を無効にする実践でした。

形のある世界を脱出する第一プロセスですね。

つまり、ラピ。さんの激流時の実践より、
私は釈迦の経典と言う先達の手掛かりをもとに進めた分だけ、
効果的に進む事が出来たと言えることでしょう。

今の私やラピ。さんには私がこの際に利用した空間認識すらありませんが。

誤認覚者の前には世界はおろか空間すらあるのですよ。

完璧にふざけた、あれは従者を引き連れたちんどん屋の世界ですね。

こんな者が覚者と言う事態、バカも休み休みです。

「対象」を超えるためには、まず最初に空間認識は消滅させなければならないのです。

私が一番面食らったものは、私はある時、
全ての次元を次々と上昇し突き進んでいき、最終的にある領域に突入した。

突入したと言う表現より、様々な次元を突き進んだその果てに、
最終的にこの宇宙を全て脱ぎ捨ててしまったと表現するとちょうどピッタリの表現だ。

帰還した後、この経験がなんだったのか、文献類を探したが見当たらない。

至高体験のあの光のチャラチャラみたいな世界は、それとは違うし、
なんでそんな究極でもないまがい物を人々はさも究極の至高のように表現したりしているのだろうと思いました。

私はそれまで、世界各地に存在する様々な教えの究極はみな、
同一の所を指していて、至れば自分もそれが分かると思っていたからです。

それはこの宇宙に存在する言葉では一切表す事は出来ないものなのだが、
あえて便宜上「ゼロ」と表現するのが一番近い表現だ。

旧約聖書の光と闇が分かれるより以前だ。

そこでは時間が無い、僅か0.1秒も100億年も皆一緒だ、今すらない。

これが釈迦の教えを取り入れた結果として明らかになった究極だ。

それは、そこに至るまでの過程としての否定語でしか表すことが出来ない。

下手すれば、生還すら出来ない。

私は一旦死んで生き返ったんだ。

私の場合はその後に、フリダヤ(心臓又は心)の解脱、
次いで今いるマインドの解脱が明らかになった。

新約聖書だけでは、マインドの解脱までしか明らかには出来なかったんだ。

確かにイエスの3年未満の活動期間で取り上げるような内容では無い。

274ラピ。:2014/01/12(日) 18:12:10
☆TK師

いつもありがとうございます!


私はすっごく長〜い激流でしたね。
激流では一瞬も気が抜けなくて命がけです。

激流だからちょっとでも気を抜いたら流されてしまう。
気を抜いたら溺れ死んでしまう、ということです。

他人事みたいですが、よくやりましたねぇ(笑)

しかしかなりの遠回りをしていました。


師の「ゼロ」の体験についてのこの書き込みは
大変貴重だと思われます。

しかし私にはそれは明らかになっていないので
それを想像すれば、誤解しかねません。

だから、そうなんだ、とそのまま受け止めておきます。
あとで、分かるかもですしね。

師匠、ありがとうございます!

しかし、経典ってほんと見事ですね。

275名無しさん:2014/01/12(日) 19:04:29
>273、274
あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?

276ラピ。:2014/01/12(日) 20:48:25
☆273さん

次元なんてありませんよ。

277TK:2014/01/12(日) 21:18:17
面白い。

名無し
>>273、274
>あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?


>師の「ゼロ」の体験についてのこの書き込みは
>大変貴重だと思われます。
>
>しかし私にはそれは明らかになっていないので
>それを想像すれば、誤解しかねません。

対照的だ、しかし、ラピ。さんは想像できないから安心ですよね。

278ラピ。:2014/01/12(日) 21:46:40
☆TK師

はい、妄想できません。

@(*・ω・*)ポッ


ちなみに そうでないことを想像しても
それは単なる妄想になってしまいますので
それよりは現実的にしっかり生きて
日々、精進されたほうがいいと思いますよ。

はい!

279275:2014/01/12(日) 22:17:31
>276-278
あの〜想像も何も、私達が住んでいるこの世界は「3次元」なんですが・・

とにかく、少なくとも、ここで軽く100回以上登場している「次元」という言葉
「次元上昇」「低次元」「高次元」「異次元」などは、もう利用しない方がいいと思いますよ
何も知らない人達に妙な誤解や妄想を生むだけだと思います

280ラピ。:2014/01/12(日) 22:34:09
☆275さん

想像とは
>あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?
これに関してのことですよ。

この疑問が浮かんだ、ということは
すでに想像(妄想)しているんです。

ちなみに何も知らない人達って誰ですか?
そして275さんは何か知っているのですか?

281ラピ。:2014/01/12(日) 22:38:47
276の私の書き込みは
275さんへのお返事でした。

訂正いたします。

@(*・ω・*)ポッ

282TK:2014/01/12(日) 23:22:19
名無しってやっぱりバカだったんだ。

無視したほうが良いんじゃねーの。

うつると悪い。

表現の自由にまでちょっかい出してきた。

283名無しさん:2014/01/12(日) 23:31:24
>281-282
実に面白いですねw

>この疑問が浮かんだ、ということは
>すでに想像(妄想)しているんです。

いえいえ、現実社会の常識的には異次元も人間の次元上昇もないんです
だから、逆にあなた方が想像(妄想)しているようにしか見えないんですよ

あなた方は、次元という言葉を誤用しているのではないでしょうか?
次元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A1%E5%85%83

百歩譲ったアドバイスとして、「意識のレベル」とかいった表現に
置き換えてはいかがでしょうか?そうすれば、大袈裟さも胡散臭さも
半減する可能性はありますよ

284名無しさん:2014/01/12(日) 23:37:35
>名無しってやっぱりバカだったんだ。
>無視したほうが良いんじゃねーの。

私にはバカを相手にいい気になっているバカにしか見えないのですが、
そんなあなたがバカは無視した方がいいって思うのであれば、それは
それでいいんじゃないですか?私は、どうでもいいですからw

285TK:2014/01/12(日) 23:44:26
名無しが力んでら。

おもしれぇ。

286名無しさん:2014/01/12(日) 23:56:28
>285
ファイナルアンサー?w

マジでおもしれぇww

287TK:2014/01/13(月) 00:16:10
やっぱりこいつバカだ。

288名無しさん:2014/01/13(月) 00:33:55
>やっぱりこいつバカだ。

やっぱりTKって奴はバカだ

実に面白いよ、あんた方ww

289TK:2014/01/13(月) 00:46:08
やーめた。

遊んでやるのもくだびれた。

こいつはいつも遊ばれるために出てくるんだ。

290ラピ。:2014/01/13(月) 08:36:18
☆283さん

>いえいえ、現実社会の常識的には異次元も人間の次元上昇もないんです

そう思い、そうだと信じてるのなら
それでいいんじゃないですか?

この掲示板を見る必要もないですね。

なぜならあなたの中ではそれが真実だからです。
こちらの言葉なんて、必要ないでしょう。

どうぞそれらを信じて生きてください。

>百歩譲ったアドバイスとして、「意識のレベル」とかいった表現に
置き換えてはいかがでしょうか?

別に100歩譲らなくてもいいですよ。
単刀直入にどうぞ。
どんな表現がぴったりなんです?

「意識レベル」という言葉も
聞く人によっては十分胡散臭いですね。

ちなみにあなたが言われている「意識レベル」の
意識ってなんですか?

「私」という意識だったりしますか?

それともエゴ?

意識レベルってそのエゴのレベルですか?

291TK:2014/01/13(月) 12:51:29
「裁いてはいけません」これは聖書にイエスの言葉として出てきますし、
ごちゃ混ぜスピ系や精神世界は意味も分からず、
教相判釈をしようとする知恵さえ働かせない、
とても科学の時代の人間とは思えない愚行に酔いしれて拾って喜んでます。

あなたは酔っ払いになりたいですか、それともしらふで居たいですか。

酔っ払いになりたければ、死ぬまでスピ系で酒を浴びていて下さい。

これは、「裁いてはいけません」この言葉だけで完結している内容ではありません。

実は「裁きなさい」と言う指示も含んだ言葉なのです。

全く反対の言葉ではないですか、と思う近視眼の人もいるでしょうか。

しかし、並べ方を工夫すると一つの言い回しに、
両方の意味が矛盾せずに使える言葉なのです。

この件については「裁いてはいけません」がこの件については絶対的に「裁きなさい」なのです。

「やってはなりません」の規制用語のみが出てきているから、
今の時代では紛らわしいのです。

反対に、「裁きなさい」でこの言葉が表された方が、
今の時代には理解される言葉になります。

私もこのような事を教えてくれる協会があったら、探究者当時もしかしたら、
通ったかもしれませんが、あるいは宗教学者とかいたらと思いますが、
まず聞いたことないですね、
みんなイエスの名前だけ掲げたニセ者がやっているのです。

宗教学者にしろ教会にしろみなニセ者がやっているのです。


マタイの福音書 5章38-39
>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

マタイの福音書 5章43-44
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。


この内容にはある一つの共通した線があるのです。

「以前はこの内容の実践を続けてきましたが、あなたがたについては今度は次に進みなさい。」


マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

「イエスは律法や預言者を廃棄、即ち、
今までのその人たちが教えてきた内容を駄目だとしてしまうのではなく、
さらに次の段階に進ませるための内容をあなたがたに授けに来たのです。」

(続きます)

292TK:2014/01/13(月) 12:51:59
(続きです)

このように読むと、これを言われたマタイと言う人たちはそうなんだと、
全ての人がそうだと言っているわけではありません。

つまり、2段階の教えの内容の内のマタイたちは1段階目はクリアーできたんだよ、
次2段階目だよ、と言う内容なのです。

これ、私の一次実践と二次実践にそのままあてはまります。

スピ系にバカな人たちが沢山出た理由は、一次実践をクリアーできてもいない人が、
直接二次実践内容に手を出した、また、手を出せと命令した、この禁を犯した罪です。

これで、イエスの教えはまともに伝わるどころか、
世界中に多くの酔っ払いを算出する結果となりました。

これ私が覚者と認めるEO氏が説いていた、まずは、
人間としてのサバイバル能力が必要だ、
と説いた事にもイエスの教えが合致するのです。


TK師との会話 - 悟りや幸せへの道
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12104/1373075256/226

>このように正反対の教えですが、
>実はEO氏という賢者もまず悟りの実践よりも前にサバイバル能力の実践が必要なのだと説いていました。
>
>悟った我々の所では永遠の戦いの放棄の実現なので、
>サバイバル能力のような戦闘力は一見まるで逆の内容ですが、
>これこそがまずは必要なのであると説いているのです。
>
>理由として、この実践をする事でチャクラの機能が成熟して整うのだと言うことです。
>
>チャクラはともかく、考えてみても人間らしいまともな生き方ですよね。
>
>この実践こそ必要なのです。
>
>EO氏によるとこの過程を飛ばして行法に飛びつくような者においては、
>頭がぼけてゆきそれを安心と勘違いし、
>その者には何ら知的成熟すらも起こることは無いという事である。
>
>私が酔っ払いと表現する状態と酷似しています。
>
>私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。
>
>何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
>物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。


ちなみに次が「裁きなさい」の実践内容です。

>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。


次が「裁いてはなりません」の実践内容に合致するものです。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

一見すると「裁きなさい」と「裁いてはなりません」
この二つは全く別の共通点の無い実践内容に思えるかもしれませんが、
実は一つの共通ラインに乗っています。

(続きます)

293TK:2014/01/13(月) 12:52:29
(続きです)

この共通点は両方を「裁きなさい」と言う一つの言葉で表す事によって見えてきます。

その為に「裁いてはなりません」の実践内容を「裁きなさい」と言う表現を使って説明します。


>しかし、並べ方を工夫すると一つの言い回しに、両方の意味が矛盾せずに使える言葉なのです。
>
>この件については「裁いてはいけません」がこの件については絶対的に「裁きなさい」なのです。


「物質的な現象」について裁いてはなりません、
「自分の内面の悪魔(サタン)」を裁きなさい(悪魔又は煩悩と識別しなさい)、
と言う意味なのです。


マタイの福音書 15章11
>口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。

(自分の外から入る情報が汚れているのではなく、自分の中が汚れているのです。)

マタイの福音書 15章18-20
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。
>悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
>これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」


スッタニパータ439
>ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
>勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。


わかりましたか。

「裁いてはなりません」と言う言葉が独り歩きをしたおかげで、
本当のイエスの実践はほとんどの人が出来なかったので神の国へは至れませんでしたね。

「裁きなさい」と言う言葉で両方の第1次実践と第2次実践をくくれば、
共通ラインは見えてきます。

すなわち、第1次実践では物質的現象を裁きながら実践しなさい、
これがクリアーできた人は第2次実践として自分の内面を裁きなさい、
という事になります。

実は私がここで「裁いて大いに結構です」、このように説明したのは、
これが本当のイエスの教えだからです。

つまり、ニセ者は自分が至っていないので、受け売りしかできないと言う手段では、
こういう間違いを世の中にばら撒くという事をしでかすのですから、
ニセ者は止めて下さい。

あなたたちは罪を犯すだけなのです。

本当に世の中には至った私の眼で見ても、ニセ者はあっちにもこっちにも居ますが
驚くほどに至った人はいません。

聖書がこれだけ全国に普及しているにもかかわらずです。

つまり、本当の聖書が説ける人はいないのですから、
私の教えはさも珍しい類のものである事でしょう。

天然記念物と言った方が良いのか、私、ニセ者と違って本物ですから。

294wai kei:2014/01/13(月) 15:14:25
TK師、素晴らしい教えを、有難うございます。

295TK:2014/01/13(月) 22:39:47
wai keiさん

久々ですね。

ラピ。さんと言う人が成就したのです。

私が言うのもなんですが、奇蹟に等しいと思います。

言葉では表現できないくらいに尋常ではない事をしないと、成就できませんから。

うれしくて、私もまた、掲示板を少し汚してます。

296wai kei:2014/01/14(火) 00:22:36
> wai keiさん

> 久々ですね。

ほんとうに、お久しぶりです。
その節は、大変お世話になりました。

貴方が私の前に現われてくれなかったら、
わたしは釈尊の真の教えに、出会うことが出来なかったでしょう。
そして、当時、密教の「ゾクチェン」に傾倒していた私に
「ゼロ」を教えて下さったのも貴方でした。
再び、ネットの世界で、こうしてお会いすることが出来て、
大変うれしく想っております。


> ラピ。さんと言う人が成就したのです。

はい、おめでとうございます。
とても、素晴らしいことだと思います。
mixiメールが、ラピさんから届いたときは、本当に驚きました。


> 私が言うのもなんですが、奇蹟に等しいと思います。
> 言葉では表現できないくらいに尋常ではない事をしないと、成就できませんから。

そうでしようね。
昔よりも現代の方が、遥かに難しくなっていますから。
私を含めて、「 酔っぱらい 」 のオンパレードですからね。
まさに「 百鬼夜行 」 の世界になってすますから。


> うれしくて、私もまた、掲示板を少し汚してます。

いえいえ、毒も薬も自在に使い分けて操るあなたの姿は、
それだけで、私を含めた、多くの人々の道しるべとなってます。
これからも、大いにご活躍下さるよう心よりお願い申し上げます。

私も、最後の「激流」に、これから足を踏み入れつつあります。
TK師が説いて下さった「ワクワクの実践」を、これから本格的に始めます。
これからも、どうぞよろしく、ご指導のほど、お願い申し上げます。

和井恵 拝

297ラピ。:2014/01/14(火) 07:48:16
みなさまおはようございます!
いかがお過ごしでしょうか?
@(*・ω・*)ポッ


☆TK師

いつもすばらしいお話をありがとうございます!


☆wai keiさん

先日はブログに拍手、ありがとうございます。

こうやってwai keiさんとTK師の会話を見れるのが
とてもうれしいです。

wai keiさんはこれからワクワクの実践を本格的に始められるのですね。
応援しています!



今日もよい日ですねぇ!

@(*・ω・*)ポッ

298TK:2014/01/14(火) 23:44:26
wai keiさん

今考えると、二段階の実践の中の一段階目は重要でした。

全然苦しくなくて生きがいのある楽しめる実践ではありますが、
それでも意気込みは、自分の全人生をかけて挑むくらいの姿勢は必要です。

これは「理想」だけが全ての骨格ですから、
「自己犠牲」とか「人のため」とか「弱きを助ける」とか、
「平和」とか理想というものは色々なものがあります。

この自分の理想のために、全精力で臨んでいく、
このような姿勢で進んで行くのです。

宗教書は全く不要、実は内容的に害になります。

第一次実践は善を求める基本があれば、それだけで充分です。


大パリニッバーナスッタンタ(ブッダ最後の旅)5・27

>スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。


聖書にしろ仏典にしろ、
人間から卒業する為の方法が主流に書かれているようなものですが、
人間としての幸せを追求できるものがそれをしようともしないで手を出すと、
現状のようになる訳です。

ヤゴが水の中での生活をしっかりしなければ、
やがて空に飛び立つこともできないように、
幼虫のままの生き方を全うする事をほっぽらかして、
飛び上がる方法ばかり研究しても、
結局いつまでたっても成長できず空に舞う事は出来ませんが、
それとは反対に幼虫としての生活をしっかり全うすれば、
時期が来れば羽で空を飛べるようになっているのです。

やがてすっかり成長することが出来れば、それ以上水の中で生きたくても、
生きることが出来なくなってくる、
その時にはテキストを利用して上に上る方法を学び空に羽ばたけます。

熟する前に、本来やるべき事を捨てて本見て空を飛ぼうとしても、無理ですね。

熟して空に出れば、今ままで水(エゴ)が無ければ動けないと思っていたのに、
水(エゴ)が無くても動けるんだ、何と快適なんだろうとなる訳です。

第1段階目の実践は重要であり、これをなおざりにした者が酔っ払いとなるのです。


大パリニッバーナスッタンタ(ブッダ最後の旅)3・33

> アーナンダよ。これらの八つの解脱がある。その八つとは、どれどれであるか?
>
>(内心において)〈物質的なもの〉という想いをいだいている者が(外において)〈物質的なもの〉を見る。
>これが第一の解脱である。


我々は精神体である前に、
物質としての人間が物質としての周囲に働きかける幸せの求め方というものがあったわけですね。

(続きます)

299TK:2014/01/14(火) 23:45:14
(続きです)

私もラピ。さんもこのプロセスを踏んでました。

「現実的な行為」を主体とした実践です。

反対に「内面」に比重をかけたら元も子もありません。

ですから、不快が出たら、それを理想実現の原動力として、
行為で解決していくということで、ここで内面重視の感謝して喜んでとやったら、
その不快を受け入れてしまった分行為はもう不要なのです、
つまりこれが酔っ払いですよ。

まず、外を自分の理想で裁く実践もしない者が、自分の中を裁こうとしても、
そんなのうまく行くわけがない、これがバカの始まりです。

自分も物質、周りも物質、ここで物質同士の理想実現のための第一の戦場なのです。


居るんですね、不快も含む全てに感謝してとか、この手のものにかぶれて、
世界にそれを広めるんだ、この手の酔っ払い集団が。

誰しも見えない先を進んでいくのですから、
この人たちのように外れくじを引いてしまっても仕方がありませんが。

私は本当に、あの一時実践のままでずっと行けたら、
それでも良かったと思っています。

たぶんラピ。さんもそうだと思います。

所が、
ウルトラマンの前にどんな必殺技を駆使しようとも倒せない強大な敵怪獣ゼットン(理想を阻む最大の障害)が現れると、
さすがの無敵も無敵では無くなってしまう。

私もラピ。さんもそうプロセスなんですね。

お先真っ暗の崖っぷち、ここが、ようやく激流のスタートラインでした。

でも、ほんとに、あのままで行けたらそれはそれで私は幸せでしたので、
私はそれでも良かったです。

それくらいの生き方をしていて、心からの充実感も自信も、味わってましたから。

ま、再びあの時の幸せは、もうここに至ってしまうと逆立ちしても味わえませんが、
人間としての幸せは人間としての幸せで、それは良いものでした。

今は良いも悪いもありませんから。

人間としてそこまでの生き方が出来た人が、
場合によっては次に進むのだと思いました。

見えない先を進んでいく中でも、
私は引くクジ引くクジが運よくみな当たっていたみたいな恵まれたところがあったと思います。

ラピ。さんは1次実践○、2次実践△、3次実践×、4次実践○、
私の評価ではこんな感じでしょうか。

特に3次実践は、
2次で少し空いたところ(空っぽ)に変なものが入り込んでしまった魔境と言う所です。

失敗は成功の母と言いますから、それはそれで、
貴重な経験としてこれから接する人たちのために活かしていけると思います。

300ラピ。:2014/01/15(水) 08:50:23
みなさま、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

>熟して空に出れば、今ままで水(エゴ)が無ければ動けないと思っていたのに、
>水(エゴ)が無くても動けるんだ、何と快適なんだろうとなる訳です。

まさしくそうです。
今とても快適です。嘘みたいです。

「エゴ」が消滅して初めて「エゴ」というものが何なのかが
わかりました。

その「エゴ」を本当の私だと思ってたのですが
それがある時突然消えた。

そしてこれは何?

となりました。

>ラピ。さんは1次実践○、2次実践△、3次実践×、4次実践○、
>私の評価ではこんな感じでしょうか。

まさしく私の第3の実践は×で使えないですね。

私は常に実践はしていました。
でもその実践の方向が正しくないと意味がない、ということですね。

かつてのブログはまさしく第3の実践のひとつです。
ちなみにそれがなければ、ブログを書いてませんでした、、、。

第2次は「エゴ」が消えるのが怖かった。
だから中途半端でした。だから△

第3はスピの実践。
私はこの時、人としてそれまでやっていなかったことを
やり遂げました。

十分やったので、その分時間はかかりましたが
手放せました。

十分やったからこそ、手放せたのですかね。

私の道のりは時間がかかってますが
それでもその都度、がんばりました。

それらは単にそれだけで私には問題ないのですが
でも、これから人にお伝えするものとしては
第3の実践はよくない。

そう今判断しています。

>特に3次実践は、
>2次で少し空いたところ(空っぽ)に変なものが入り込んでしまった魔境と言う所です。

そうですね。
第2の実践で一部、空っぽになりましたが
エゴは消滅できていなかったので
宙ぶらりん。

そこで一部からっぽのまま スピ系の知識を
何の困難もなくできていたわけです。

この「何の困難もなく」が問題で
まだあるエゴを消滅させるのに「激流」が必ず必要なのですが
そのころの私にとって激流は縁遠いものでした。

激流はスピ系やってる時では起こらなかったです。

まぁ、「幸せ〜」とかやっていたのだから
起こるはずないですかね(笑)

ということはスピ系、ずっとやってると
緩流に永遠に浸かっているだけ、という感じになりますかね。

地に足がついてない感じ、とも言えるかもしれません。。

だから師に出会ってスピをすべて手放し
一からやり直し。→激流

第2の実践の「一部空っぽ」が
すべて第4で「空っぽ」になったというわけです。

今、はっきり言えることは
スピ系やめて、
今の境地に至れてよかった、ということです。

TK師 ありがとうございます。

301ゆうこ:2014/01/16(木) 19:25:03
TK様ラピ様 こんばんわ。

上記、拝読致しましたが
酔っ払いの定義について改めて確認させて頂いていいですか?

不快を理想実現の原動力として、
行為で解決していくべき所で、それをやらず
内面重視の対処をしてしまうと
行為がなくなり、物質同士のぶつかりのチャンス(激流)を逃すということでしょうか?

今までを振り返ってみて
「もうお手上げ」とか「死ぬか生きるか」という局面で
いわゆる「苦しいときの神頼み」や
精神修行のつもりで本を読んで考え方を変えたり
「感謝して喜んで」をやったりしてました。

何の力も(考えも)頼らず
自力のみで真正面から受け止めた事はなかったかもしれません・・・

全部自己責任と受け入れる事と
神様に頼ったり精神修行する事の違いがわかりませんでした。

少なくとも今回のお二人からのアドバイスのように
「一切の精神世界を断って自分の力(考え)だけで」
と意識したことはなかったです。

あくまでも
「自分が向上する途上で良かれと思って何かを参考にしたのだから、
それも自力本願のうち」
みたいな、曖昧な対処だったわけです。

今は自力での『結果主義生活』を送っていますが

これまで何度か経験したアレは、激流だったんでしょうか・・。
死ぬ程の辛さや頭が真っ白になったあの時に
神様に祈ったり感謝したら、
とても救われたような気持ちになって楽になったんですが

それは、
せっかくのチャンスを暖流として処理してしまったということなんでしょうか。

302TK:2014/01/16(木) 19:59:41
ゆうこさん

>それは、
>せっかくのチャンスを暖流として処理してしまったということなんでしょうか。

そう言う事ですね。

つまり、あなたはその時に負けたのです。

過酷な現実からの逃避の一手段で他のものを掴んだだけです。

気持ちが弱くなり、逃げ場を探して掴んだものですね。

我々は崖っぷちに立ち、さらなる激流の中に身を投じ先に進みました。

我々はその追い詰められた時逃げ場を見つけよう等としたのではなく、
さらに命を落しても仕方がないような実践をしてましたから。

気持ちが負けなかったのです。

ラピ。さんも崖っぷちでは宗教とかスピ系とか精神世界ではなく、
さらなる能力開発にトライしたのですから、
あなたたち現状から逃げ腰になった人たちとは違うのです。

303ラピ。:2014/01/16(木) 21:45:32
☆ ゆうこさん

>神様に祈ったり感謝したら、
>とても救われたような気持ちになって楽になったんですが

救われたのだとしたら
ゆうこさんを救う存在があった、ということになりますね。

楽になった=自分を救う存在を求めてしまって激流終了
と言えます。

祈ることは「対象」の存在を認める行動となっていた
とも言えます。

対象がなければ祈れない。
祈る対象がなければ、何を何に祈ればいいのでしょうか?
対象がなければそれはできません。

別の言い方だとゆうこさんを救う存在=対象 と言えます。

救える対象があるから救えるのであり、
救ったり、救われたりは
対象が消滅したらできないのです。


だからそういう存在(神)すらも捨てて進まなければなりません。

でもゆうこさんがその激流を経験しているのなら
激流は並大抵の出来事ではないことをわかってらっしゃると思います。

だからそういう存在を捨てても突き進むということは
とても大変なこと。

何にも頼れないのだから 自己責任で進むしかありません。

TK師と同じく、私も命がけでした。

ちなみに、激流が起こった時、
本当につき進むのなら祈る暇はないんですね。

祈ってる間に流されてしまいます。

その時にある意志すべてを使って
激流に逆らって渡らなければならないのです。

304TK:2014/01/16(木) 22:11:28
テレビのヒーローものが模範です。

テレビのヒーローは強大な敵が現れ負かされる事も時にはありますが、
その後やがて不死鳥のように再びよみがえりと言う筋書きです。゜

つまり負けたままではいない、真剣に倒す術を考え、
そして鍛錬を積み再び問題に不死鳥のように立ち向かう。

ヒーローが敵に負けて、その時の精神状態をごまかすすべとして、酒飲んだり、
やれスピ系だ、感謝して喜んで、こんなお話聞いても面白くもありませんし、
したくもありませんね。

こんなことやっていたら、そのうち誰か現れて、
主人公のほっぺたを平手打ちして「目を覚ませ」なに、逃げているんだ、
物語ならこのようになりますね。

こういう負け犬人生を歩んだ人がいたという事です。

ちなみに私が激流に飛び込む崖っぷちに立った時には、
私にはまだ足りないものがある、それが何か、
まずそれを何か掴まなければならない、
このように戦う姿勢の放棄はしませんでした、テレビのヒーロー的な進み方でしたよ。

今の、この苦しさから逃げるすべは、こんな負け犬な生き方は私はしませんでした。

305ゆうこ:2014/01/17(金) 07:35:56
お返事ありがとうございますm(__)m

20代の頃、病気で激痛の日々
やけになって投薬を止めた頃に友人に連れられて初めて入った教会で
牧師が偶然、同じ病名の癒しを話しておられ
席についたあと、イエス様のような幻が近寄ってこられて
言葉でない言葉をかけられお腹も暖かくなって
後日、すっかり病理が消えていて医者を驚かせた経験をしました。
(当然、洗礼を受けましたが)

あの頃は、身体の痛み程度で
悩みといっても青いものでしたから、あれを激流とは言えないと思いますが

いとも簡単に、外の対象に見を委ねる経験の始まりだったかもしれません。

お手上げになった時は大いなる何かに丸投げして気を楽にする、という
無意識の思考回路を見直す機会を
今、頂いているので
これから起こる事に対して自力で勝てるよう
心身の精進、怠らずに今日もがんばってきます!

306ゆうこ:2014/01/17(金) 19:14:34
>激流に飛び込む崖っぷちに立った時には、
私にはまだ足りないものがある、それが何か、
まずそれを何か掴まなければならない、
このように戦う姿勢

イエッサーです!(敬礼!)

(最近ほんとに、心身ともにフル稼働な感じで
それで風邪がうつらないかもしれません^^;)

採用の件で、何日も悩んで
以前なら、やっぱり「神頼み」的なスタンスが無意識に出たと思うんですが
今朝、TK様のヒーロー物語になぞらえた例えで考え直してみました。

現場が大変、という時に
「なるようになるさ」とか『引き寄せの法則』とか「神社に祈りに行く」
とか言う上司が居たら
もう、OH人事OH人事、引き寄せならぬ、どん引きですよねw

幸い、今の私は、そういうスタンスはとらずに
現実的にあの手この手を尽くしておりましたが
さきほど、以前勤務されていたベテランの方がヘルプできると返事をくれて
明日は皆に良い報告ができそうです。

結果はどうあれ、
ぽやぁ〜っとした『大いなるものに丸投げ姿勢』を
きっぱり捨てるよう意識することは
組織の中でも大事な姿勢だと改めて感じています。

ベテランさんに頼らざるを得ない日以外は
無休で、できる限りのカバーは続きますが
「逃げない」前提で動いていると、お客様にも楽しい笑顔で対応できるし
キャパの限界を試している途中の感じがしています。

てことは、まだ、キャパの端っこの、崖っぷちではないようです。

・・・がんばりますm(__)m

307TK:2014/01/18(土) 08:38:09
ゆうこさん

>(最近ほんとに、心身ともにフル稼働な感じで
>それで風邪がうつらないかもしれません^^;)

一たび「理想」の向けて走り始めたら、忙しくなり、むしろ望むところになっていきます。

その「理想」が本当の意味で自分の生きている事実の甲斐になったという事です。

全身全霊を込めて、打ち込めると言う事です。

それが生きている事の幸せです。

308TK:2014/01/22(水) 17:55:48
ラピ。さん

実践│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1758.html

これ少し内容が変ですよね。

>自分の理想に向かってできることが何かあるのに
>しないのはもったいないですよ。
>
>今できることを
>どんどんやっていくべきです。
>
>とことんやって
>やり尽くしたところが
>
>彼岸

彼岸の前に「崖っぷち」が来なければ、激流には入れません。

ラピ。さんは私に出会うことがなければ、残念ですがあのままずっと行ってました。

私に出会ったばかりのラピ。さんは、私の話に対して上から目線だし、
聞く姿勢は無いし、
その部分に関してはこの掲示板のゆうこさんの方ができてましたよ。

断言いたしますがスピ系ほど駄目な教えはありません。

感覚が麻痺して頭がボケたことを平安を得たと捉え違いしているような人たちが、
「彼岸」の訳が無い。

ラピ。さんの第三次実践は第二次実践で少し空いた穴に、
あなたの今までの経験や免疫の無い種類のエゴがはまり込んだ典型的な魔境状態でしたね。

今の所までくればともかく、あの第二次の中途半端状態は、
更に今の所まで進まない限りそのようになるのです。

ヒットした実践は、第二次でした。

スピ系を一生懸命やるのが理想ですは、私は死ぬまで酔っ払いです、と同じです。

いくら一生懸命にやっても、
やればやるほど酔っ払いになるだけと言う考えれば末恐ろしい実践が世の中には存在していて、
現実に右見ても左見ても悟った人が見当たらないその主な原因がこれですね。

309ラピ。:2014/01/22(水) 20:22:15
☆TK師

私の第2の実践がヒットしたのなら
そしてそれだけではなぜ至れなかったのかを
思い出していました。

その都度精一杯やっているので
忘れていることが多いのです。

まず、第2は自分を信じて
自分の限界に挑戦でした。

自分を信じていました。

それでは至れなかった。

第4の実践は何も信じることなく
ひたすら実践しました。

この時、私の気持ちは
「死んでも構わない」
これほどの決心でした。

それによって
うまく自分を捨てて実践することができたのですね。

そして実際「自分」は消滅しました。

ちなみにこの道は私の道であって
他の人にいいのかどうかは定かでありません。


師が引用された私の記事は
言葉が足りないですね。

やり尽くした、というのは
私の第2や第4の実践中でのことです。

だから激流が起こった後のことです。


私ってほんとダメダメでした。

すみませんでした。

310TK:2014/01/22(水) 22:13:01
ラピ。さん

>まず、第2は自分を信じて
>自分の限界に挑戦でした。
>
>自分を信じていました。
>
>それでは至れなかった。
>
>第4の実践は何も信じることなく
>ひたすら実践しました。

激流段階の実践は、それ以前の理想段階の実践と、当然異なる部分が出てきます。

何も信じることが無かったのではなく、
導師である私を徹底的に信じてもらいました。

疑問を私にぶつける事すら禁止しましたね。

信じると疑うは相対の原理の上に成り立つ立派な激流突破のための実践法なのです。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。
>勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」

スッタニパータ186
> [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、
>聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。

スッタニパータ559
>わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。
>もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。

311TK:2014/01/23(木) 07:17:09
ラピ。さん

ちなみに、ラピ。さんの第二次激流のスタートは、
第一次実践の自分が一心に信じてきた生き方が否定されたことにより、
何が何だか分からなくなったところからスタートを切っています。

これが激流に飛び込む前の崖っぷちに相当していました。

312ラピ。:2014/01/23(木) 08:40:36
みなさん、おはようございます。

☆TK師

私の最後の激流の流れですが
まず師の言葉によって私の中に葛藤が起こりました。

その葛藤が第2の実践の時と同じ状態であったのを思い出し
(ちなみにこの頃、その激流の様子をほとんど忘れていました)
第2の実践が激流を渡り、彼岸へ足を突っ込んだ出来事であったのなら
この葛藤が私の「道」であろう、と直感しました。

第2の時はとても怖かった。
自分が消えそうで怖かったのです。

だから自分にしがみついてしまい
「エゴ」が消滅しきれませんでした。

ただし、そこでの経験が私の経験となって
私は彼岸からそれを持って帰りました。

私の経験として残りました。

そして私は第4の実践の開始前、その経験により
この実践が激流を起こすものだと わかりました。

さて、ここで第2の激流を思い出しました。

言葉にしてしまえば軽く聞こえるかもしれませんが
第2の激流は本当に、本当に命を懸けるとはこのことで、
一秒たりとも気が抜けない
真剣勝負そのものでした。

その激流にまた飛び込むのです。

ただし、第2と第4の実践に大きな違いがありました。

まず第2の実践によって得たこと(=消滅したもの)があること。

(私はこの頃、第2の経験のおかげで
思考が起こらない、空っぽができるようになってました。
最後の激流の時、起こった思考は1日で3個くらいです。
ただし、私の特性でしょうか、
そういう思いすらも切り捨てることができていましたので
起こった思考も数秒です。
思考が起こったら、あるいは起こる前に即座に切り捨てることができました。
あとはひたすら実践のみ。)

そしてTK師の存在です。

TK師はあの激流を渡り終え、今生きている。

私はTK師の存在が私の道を保証してくれる気がしてなりませんでした。

TK師が渡った道を私も渡るのだ。

TK師のいるところに私も行くのだ、と思いました。

なにより、TK師の言っていることがわからないので
それがわかるようになりたかった、、、。
(これが一番の動機だったりする。(笑)

そして激流に飛び込みました。

師を信じることによって激流に飛び込めたのですね。

激流中は
「死んでも構わない。
ここでやめたら死ぬのも同じだ」という気持ちでした。

激流中は死ぬ決心ができていましたので
ひたすら実践しました。

「何があってもやめない」

という決心でした。

大げさに聞こえるかもですが本当にそうでした。

あとはなにも信じず、何も思わず
ひたすら実践を自分に命令し続け
実践し続けました。

(ちなみにこの時点で 
そう命令する自分が本当の自分だと思ってました。
ところがどっこい、でした(笑)

だから正直言って
本物の激流に飛び込むなんて私からはお勧めできません。

どうしようもなくなって飛び込まざるを得ない人が
自分の意志で飛び込むのです。

命を懸けなくても渡れる激流は偽物です。

なぜなら激流によって確実に「エゴ」が消滅するのです。
それほどのものなんです。

消滅する覚悟が必要です。

ちなみに本物の激流が起こること自体もまれかもしれません。


>第一次実践の自分が一心に信じてきた生き方が否定されたことにより、
>何が何だか分からなくなったところからスタートを切っています。

はい。
第1の実践の生き方が私のすべてだと思って
精一杯しました。

だからそれを否定されたことは
私自身の存在を否定されたのも同じでした、その時は。

そこから何を信じていいかわからなくなりました。
なにもわからなくなりました。

ここからですね。

@(*・ω・*)ポッ


激流を渡り終えたら彼岸です。

私は今はおかげさまでくつろいでおります。

TK師、ありがとうございます。

313TK:2014/01/25(土) 10:52:42
人には善悪識別というものがあります。

もちろん解脱した我々にはこれはありません。

その個人において善と判断できることはやった方が良い事、
悪と判断したことはやるとまずい事と言う、
これが最も根源的な部分の理想の元なのですが、
解脱した者以外はどんな人間にもある訳で、
極悪犯罪人の死刑囚みたいな人であってもこれはあるのです。

つまり、悪と分かっていてやるから悪なのです。

法律に触れるような事であったとしても、善と言う判断の元の行為なら、
たとえ法で裁かれるような行為であったとしてもそれは善行なのです。

ここで善を拠り所とした理想とあえて話をしているわけで、
確かに理想と言うと外見的には未来を切り開く行為なのですが、実は、
この理想そのものが自らの過去に起こったものを原因として、
今その者の中に理想として結晶化しているものですから、
善を拠り所とした理想に取り組むという事は、
自らの過去に対して挑戦している事をそのまま意味しています。

例えば、私などは、
子供時代は談笑ひとつない家族同士がいがみ合っているようなドロドロした環境に生まれ虐げられながら生きてきて、
「対人恐怖症」とか、子供の頃から様々を経験してきています。

あれが悪いこれが悪い、理想の環境ではなかった、
私に言わせればですが、
そんなアマちゃんみたいなことを言っていても仕方がありません、
こんな虐げられ続けた子供時代を通ってきた私が解脱できて他の多くの者が解脱できないのですから、
みなさん大丈夫です。

私は家のドロドロしたカルマ全てと戦うつもりで解脱しましたら、
解脱と同時に家の中からあのドロドロとした雰囲気が一掃されすがすがしいものになりました。

自分の生きてきた環境に決してめげることは無い、
だったら捻じ曲げられ続けた私の子供時代はどう説明するのだという事になりますね。

例えば過去に虐待を経験した、例えば私などは善を拠り所とした理想として、
弱い者をかばおうと言うような理想の形になって私の中に結晶化しておりました。

子供時代に親に話を無視され寝たふりされ続けたり、
私のこのような経験も、弱い者の言葉を立場をしっかり保障する、
守って見せると言うような理想の形となって私自身の中に結晶化しておりました。

ですから、その者の理想をどこまででも追及すると、その中には、
その者の過去が全てあらわれていると言う原理です。

その意味で、みなさん、自分の善を拠り所とした理想というものに、
思いっきり取り組んでみて下さい。

私もそのプロセスを通って、解脱までたどり着けたのです。

今は善悪の彼岸に私はいます。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド
知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。


スッタニパータ715
>(輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
>なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」




くれぐれも、解脱もしていないのに、善も悪も無いんだ、
このようなバカな酔っ払いにだけはならないで下さい、
死ぬまで酔っ払いのままでその人は人生を無駄に終わらせる事になります。


ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、
>──これが諸の仏の教えである。


まずは、為すべき事を為す前に、為し終えた段階の人のまねしたらお終いです。

宿題が終わってもいないのに、終わって楽々遊びまわっている人の真似をして、
「善も悪も無いんだ」そんな都合の良い話があるようにホラを吹くのがスピ系でしたね。

人々をたぶらかす、悪魔サタンですね。

314ゆうこ:2014/01/25(土) 20:07:24
TK様







泣きました。




今、『家族や会社のために一生懸命やる事』を標榜しているのは
まさしく
今まで、自分が至らなかったために悔んでいる事に対する挑戦です。


仕事にかまけて長男との時間を失なった事。
離婚した事。
伴侶への思いやり。(前夫・現夫)
娘に障害を持たせた事。
親への感謝が薄かった事。
家業の手伝いが遅くなった事。
組織の中で足りないあれこれ。
気遣いの足りなさ。
お客様への奉仕。

>その者の理想をどこまででも追及すると、その中には、
その者の過去が全てあらわれていると言う原理です。

>理想そのものが自らの過去に起こったものを原因として、
今その者の中に理想として結晶化しているものですから、
善を拠り所とした理想に取り組むという事は、
自らの過去に対して挑戦している事をそのまま意味しています。





宿題はまだ終わっていません。

夏休みなんか夢見ず
一生かけて精進しますm(__)m

315ラピ。:2014/01/26(日) 10:28:46
☆ゆうこさん

ゆうこさんの清き道をこれからも応援しています。

精一杯生きていれば、
どんな人も必ずその道を歩いているのですね。

かつての私もそんなことを知らずも、精一杯がんばり、
その道を歩いてきました。

精一杯生きることは素晴らしいことですよね。

316TK:2014/01/26(日) 14:13:15
ゆうこさん

>泣きました。

それはそうですよ。

今、ようやく青春ドラマを演じようと言うわけですから。

一体どこへ寄り道をしていたのやら。

317ゆうこ:2014/01/26(日) 18:31:00
TK様

・・・^^;泣いたのは・・・

TK様の辿られた道を読んで泣いたのです・・

私なんかアマちゃんも甘ちゃん、激甘人生だと痛感しました。

だから、TK様の過去を読んで奮い立ったのです。
こんなもんでヘコたれてる場合やない、と。

一生かかっても卒業できないくらいの宿題抱えてんのに
就活してた自分のあほさがわかったのです。

そんなあほにも

>みなさん大丈夫です。

と、優しい言葉をかけてもらったので泣いたのです。

タイッティリーヤ・ウパニシャッドの引用は
正直、理解できませんでしたが
TK様のわかりやすい言葉に心がぎゅーっとしました。

>らぴたん
>精一杯生きることは素晴らしいことですよね

・・・おばちゃんはね、
「しらけ世代」とゆー青春時代を送った人間で
どっかに「一生懸命ダサイ」的な刷り込みが残ってたりして
そーゆーカケラを粉砕するのも、意識しなきゃいけないんですよ。

しらけ→バブル→バブル崩壊て、
ろくな青春じゃありませんでしたが^^;

>今、ようやく青春ドラマを演じようと

老体にムチ打って、
心身ともにフルスロットル(←どっかで聞いたなぁ)です(*`‥´*)=3
       ↑
   ・・・煩悩が少なくなってるのは『老い』のメリットですけどね!

・・昨日TK様に泣かされて目が腫れてた1日でしたが^^;
熱血青春時代、明日もがんばりますm(__)m

318TK:2014/01/27(月) 01:02:45
ゆうこさん

>TK様の辿られた道を読んで泣いたのです・・

お涙ちょうだいのつもりではありませんでしたが。

私は子供の頃から自分の悩みとか人に相談する事は無いのです。

親に悩んだりしている素振りすら察しられないようにして平然としていました。

姉と比較されて私の方は常に親からバカ扱いされてましたし、
環境がそういうものでは無かったので、しかし、それが幸いして、
人を頼らず自分で考え抜く習性を獲得しました。

一番最悪なのは、
苦労も何もないよく金持ちのボンボンとか言われる人種だと思いますね。

子供の頃にドロ沼のような虐げられた環境におかれて苦労ができているほど、
良い経験できていると思いますよ。

苦労に感謝しなくてはね。

私は雰囲気で異次元言葉は豊富使い回すので、
言葉で私を見抜くのは困難かもしれません。

病弱で病院から小学校通ってたこともありましたが、あの時も実は楽しかった。

恵まれてますよ。

病気で苦しくても体育の授業は休みません、
弱みを人に見せない習性がありましたから、
表面平然とした顔を繕ってやり過ごしてましたので、
その無理から骨格異常が起きてました。

今は懐かしい当時のレクレーションです、子供心で、
いくら無理しても身体というものは耐えてくれるものなのだと信じていた部分がありました。

今考えると、
不思議な事に激流の実践を子供の頃にデモンストレーションしていたようなものでした。

それでも、第一次探求では、死んだ方が楽なのかもしれないし、
人類は滅亡するのが幸せになる方法なのかもしれないと真剣に考えていました。

そんな中で手に入れた生き方が善を拠り所にして理想で生きると言うものでしたので、
ここで紹介しているわけです。

319ラピ。:2014/01/27(月) 07:25:33
みなさん、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ


☆ゆうこたん

>「しらけ世代」とゆー青春時代を送った人間で
>どっかに「一生懸命ダサイ」的な刷り込みが残ってたりして

なるほどです。
どの時代にもそういう人はいるものです。
でも私からしたら そう人が「かわいそうだなぁ」って思います。

せっかく生きてこられたのにもったいないです。

今、このできるチャンスを逃してしまったら
次のチャンスも逃してしまう可能性大です。

今この世界に生きているということだけで
確実にチャンスを得ているのですから
それをいかさないともったいない。

私からしたら、しらけている人のほうがかっこ悪いです。

私は後悔だけはしたくなかったから、
「あの時、がんばっていれば、、、」という風にだけはなりたくなかったから、
どんな時も自分の決めたことを一生懸命しました。

ただ、ぼんやりとしらけて生きるなんて
かつての私ではそんな生き方 耐えられませんね(笑)

私は精一杯生きて本当によかったです。

精一杯生きることをしっかりしないと、
それを卒業することはできないです。

ゆうこたん、これからも応援しています!

@(*・ω・*)ポッ


あ、ちなみにですが しらけて生きるのも自由だと思います。

ただ、「私」はそういう生き方が「嫌だった」というだけです。
でもそのおかげで、今があります。

320ラピ。:2014/01/27(月) 07:47:17
☆TK 師

私も第一の実践開始が小学校の時でした。

誰かに言われたわけでもないけど
自分が幼いながらもそれまでに経験してきたことを元に
自分なりに考え 得た答えを精一杯実践しました。

この実践は私にとっては特別なものではなく
当然の流れだったと思います。

この「私」という人間であったなら、当然でした。

この「私」に生まれてよかったです。

TK師、いつもありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

321TK:2014/01/29(水) 06:50:36
私はドロ沼の過去に拘るより、未来に進む、その方が好きです。

どうせ与えられたコマの中でしか動けない、しかし、
それでも精一杯やれば切り開けます。

悟ったところで、
行動面の出すパターンは今までの持ち駒の中の組み合わせでしかない。

過去の自分の泥沼にこだわるより、未来に、私はそのような歩み方をしました。

だから、自分の過去にバツ印を付けまくるスタンスは私は好みではありません。

確かにトラウマはありましたが、しかし、それは、
決して虐待された経験のない者の憶測するようなものではありません。

私は自分が虐げられた事より、
自分を虐げた者の真似をして私自身が幼い頃に弱い生き物などを虐めたことがずっと大人になってまで、
この時の罪悪感がトラウマとなって私の無意識下にまとわりついていました。

それは、
激流の実践時来る日も来る日も私の前に巨大な亡霊になっては現れて私を襲ってきました、
発狂すれすれとはこの事です。

私の理想は弱者を守り抜くと言うのは、
こういうものの結晶化した形だったのです。

ですから、善を拠り所とした理想の中には過去の全てが現れてきます、
それに思いっきり取り組めば、必ず開ける、そのように思います。

私は自分の生まれ生きたドロ沼環境など恨んだこともありません。

家は貧しく、こずかいも大してもらえませんでしたので、
他の者がアイスキャンディー買うのを指咥えて見てたら店の人がくれたとかありましたが、
唯一子供心ながら他の者がうらやましいと思ったことは、
他の者が母親と遊んでいるのを目にして、
私もあんな風に自分の母親に相手してもらいたかったと言う思いが子どもの時に確かにありました。

私が最初に恋愛をした時に、
なぜかこの「甘えたい」と言う気持ちがこみ上げてきて、
相手の女性に自分の中からおかしな気持ちがこみ上げてくるが、
自分でもなんだかよく分からないこれは一体何だろうとか言ってました。

相手の女性からもそういうものなんじゃないとか言われてましたけど、ですから、
いまだに私は人に甘えるのは下手です。

私の持ち駒の行動パターンの中に「人に甘える」と言うパターンが欠如しているのです。

ま、もっとも、人に甘えるより、自分の力で先を切り開く事の方が私にはあっています。

解脱にまでこぎつけたのも、この「末法の世」において人を頼らなかった点が幸いしたものです。

人を手掛かりに利用して成就出来たラピ。さんは、今の世にあっては凄く運が良かったのです。

人をたよって成就にこぎつける人は今の世では恐らく稀です。

至った眼で右見て左見て、この事実を知るというものです。

自らが苦悩する大元は親の行動パターンを無意識の内に収集してしまっている事に原因はあります、
しかし、私が想起で来た私の前世と照らしたら、
それはしてしかるべき必要な苦悩なのです。

みんな意味があるのです。

デタラメにドロ沼過去にバツ印を付ければ良いというものではありません。

過ぎた過去より、
その経験を有効に活かして善を拠り所とした理想で未来を構築する方が私は好きです。

322ラピ。:2014/01/30(木) 08:19:41
みなさま、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

私にも私の出力パターンがあります。

ただし、スピ系の実践の時に
パターンがちょっと変わりました。

第1、第2の実践の時は
どちらかというと私は黙々と実践する 静かな人でした。

でも第3のスピリチュアル実践の時は変わりたくて
一生懸命、自分の殻を破ることに専念しました。

その時なりの、「こうありたい」という理想の自分がありましたから
そうであるよう、がんばりました。

その時のパターンが今、生かされています。


私の激流は「私」との戦いでした。

TK師も書かれているように
激流は発狂すれすれの状態です。

だから激流と言います。命がけです。

「私」には「私」の命がかかっていますから
「私」はかなりの抵抗をしてきます。

「私」が悲鳴を上げても私は実践をやめませんでした。
私が「私」に負けるわけにはいかなかった。

「私」も自分が消滅したくないからかなりの抵抗を見せます。

それでも私はやめませんでした。

私と「エゴ」の真剣勝負でした。

ちなみに私の至れた理由のひとつに
本物に接することができた=師匠に出会うことができたこと
があると思います。

@(*・ω・*)ポッ

323TK:2014/01/31(金) 07:07:17
ズラズラと書いてはきたが、人間忘れてはならないもう一つの重要な事がある。

それは、
今までの生きてきた中で悪い部分だけをさらけ出してはならないという事だ。

親は、親だから絶対に子供である自分に、飯を食べさせる義務があるとか、
面倒見る義務があるとか、私は子供であるから、
親が子供である自分の面倒を見るのは当然だ当たり前だと思っている人間は最低だ。

確かに親も人間だ、自分の思い通りにだけ動くなどと思ったら大間違いだ。

世間一般の常識に照らしたら評価でき出来ない部分もあれば評価できる部分もあるだろう、
これを両方合わせ持って人間であるという事を忘れてはならない。

つまり、必ず自分も恩を受けているというものだ。

私は受けた恩を横において、
悪い部分だけをああだこうだ言いまくる人間は1000回、
いや10000回地獄に落ちて生まれ変わって出直して来いと言う。

我々のテーマは、受けた善、受けた悪、それを無意識に吸収し、
その中で受けた善を伸ばし、悪を減らす、
これが人間としての理想的な進み方というものだ。

324TK:2014/02/02(日) 09:31:20
ラピ。さんに、最初に出会ったころは聞く姿勢もないし、まだ、
ラピ。さんが激流の地獄に突き落とせかどうかも分からなかった。

実は激流の地獄に突き落とすには「聞く姿勢」は必要不可欠な要素の一つなのである。

4カ月が過ぎた頃、機は熟してきていた。

スッタニパータ
>(師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、
>この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、
>完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住む。
>四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、
>諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。
>しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」


それまでの私は、他所で激流実践の内容を解説はしても、これは、
普通の者が実践できるものではないと思っている所もあって、
どこか全貌を明かせずに公開していた部分があった。

しかし、この時ばかりは、
この人物こそ激流の地獄に突き落とす事をためらう必要が無いとの判断から、
その実践内容の全貌で踏み切った。

このような判断が私の中に起きたのは、私が至ってから初めての出来事だった。

進めていくうちに、本人の過去の経験である第2次激流実践の成果で、
激流の基礎段階は既にクリアーできている事も判明した。

実は独自の第2次激流実践で中途半端な空っぽ状態を獲得したまま終了していた結果、
おかしなものを掴んで魔境状態に陥っていたのだった。

それは一種のチャネリング、
低次元階層に意識の焦点を合わせる事で意識にある種の平安状態の反応を起こさせると言う程度の低いものに捕まっていた。

それと精度の劣ったスピリチュアルだ。

汚染の発生源となっていたのである。

それと激流でできた空っぽの中に、
今まで免疫のない種類の世俗の汚染が容易に入り込んでしまっていたと言う点だ。

私も、EO氏の書籍で、この手の魔境の実例がある事は知っていたが、
実はラピ。さんが至るまでラピ。さんがそれと同じものだと気が付かなかった。

本物が係わる事で抜け出せる、
それは本物はそれが全て魔境である事をEO氏の書籍によらずとも当たり前の事として知っているからだ。

だからこそ、本物なのであるが。

独力でこの状態から抜け出すことは至難の業だ。

お前は死ぬまで酔っ払い、何度この言葉を浴びせたか知れない。

心当たりの人物は、ニセ者では無く本物に相談する事だ。

本物はその状態から、抜け出させてあと残りの一歩を踏ませる事が可能だ。

ラピ。さんは残りのあと一歩は僅か一日で、
第2次実践で終了の際に持ち帰っていた独自の経典(至るための方法)をヒントに激流の彼岸に渡る事に成功した。

元々激流の実践は精神の極限状態を発生させる特殊性から、
その時その時にオリジナルな技法が出現する可能性が極めて高い。

ちなみに、悟るための手段は、悟りとは求めたら得られない、だから、
「悟りを求めず他者の幸せのために自分を捨てて」、
これが無限ループを交わすための悟りに至るための真っ当なスタンスという事になるのだが、
ある言い回しと似てるだろ、
つまり大乗から「救済」と言う上から目線の言葉一つを除くとこの悟りに至るためのスタンスに早変わりすると言うわけだ。

折角の悟りに至るためのポイントを掴んだこの工夫された方法も、
この「救済」と言うゴミのおかげで単なるガラクタに色あせてしまう。

このように大乗もその一環から考案されたものと言えなくもない特性を持っている。

小乗にしがみ付く者もいるだろう、しかし、時代の変遷による大乗の流れは必然、
なぜなら、
今の組織化した社会は在家環境で悟りに至るための「激流」を発生させる事が可能だからだ。

悟りに至るためには「求めたら絶対的に得られない」、
自分を捨てる手段として他者の存在を利用する(相対の原理による利他)、
これが悟るためには最も効果的な方法である。

現代の在家環境、
こんなに優れた悟りに至るための環境的な特色を活かさない手は無い事になる。

325ラピ。:2014/02/02(日) 15:59:10
みなさま、こんにちは!@(*・ω・*)ポッ

TK師、いつもありがとうございます。

TK師にはじめてメールをしたのが昨年の1月14日でした。
そして私が至ったのが5月13日でした。

スッタニパータに書かれているように、偶然でしょうか?
どうなんだろう。
本当に4か月の出来事でした。


>本物が係わる事で抜け出せる、
>それは本物はそれが全て魔境である事をEO氏の書籍によらずとも当たり前の事として知っているからだ。

>だからこそ、本物なのであるが。

まさしくそうだと思います。

私も至った今だから分かるのですが
私たちにないものがある人は
私たちにからしたら不自然なのでわかっちゃうんですね。

「おかしい」(例えば魔境である)と。

でもご本人はとっても真面目にそうであることを信じているので
指摘しても受け入れられないことが多々あります。

そしてそれはかつての私もそうでした。

はい、本当に聞く姿勢がなかったです、初めは。
師匠の言っていることのほうが変で
「この人、何言ってるんだろう?」というのが
初めのころの私の感想でした。(すみません(笑)

そして至り、掲示板を始めていろんな人と対話する中でそれは
「そういうことだったんだ」とわかりました。

師も言われているとおり、聞く姿勢は大切ですね。

私もそうでしたが
まだ至ってない時は師匠より自分のほうが正しいと思ってましたので
師から言われる言葉にかなり反抗していました。

でも、あまりにもそれが続くので
「まてよ?何かがおかしい。
私は何か違っているのではないか?」
という思いがよぎりました。

ここからやっと聞く姿勢ができてきました。

今まで私が正しいと思っていることを一度捨てて
師の言葉を信じてみよう、と決心しました。

実はTK師を「師匠」と呼び始めたのは実は
5月11日でした。(おそい!(笑)

この時、初めて「この方は師と呼べる人だ」と
私の中で確信しました。

私は一度も師を求めたことがありません。
そんな私が師と出会えるとは!

すごく不思議な気持ちになりました。

そして師との出会いに感謝しました。

そこから師の言葉のみを信じて進む決心をしました。
自分を信じることなく。

そして激流が起こったのをきっかけに
師すらも手放して一人で激流に勝手に飛び込みました。


>お前は死ぬまで酔っ払い、何度この言葉を浴びせたか知れない。

懐かしいですね。ほんと何度も言われました。

そういわれるのが嫌で
「師と同じ状況になりたい!師の言っていることがわかるようになりたい!」
と思ったことを思い出します。


>心当たりの人物は、ニセ者では無く本物に相談する事だ。

>本物はその状態から、抜け出させてあと残りの一歩を踏ませる事が可能だ。

そうですね、そうだと思います。

ニセ物では無理でしょうね。
いろんな掲示板やブログを見ていたらわかるのですが
ニセ物では激流を起こすことはできないでしょうね。

ニセ物は激流を渡っていないので
人を激流に突き落とすことはできないでしょう。当たり前です。

ちなみに残りの一歩を踏ませるのは
至った誰もができるものではないかも、と思っています。

私は今はそれができるかどうか微妙です。
これからの流れに身を任せます。

でももし、そういう出会いがあったら
私も迷わず、激流に突き落とすかもしれませんが。


私は師匠のおかげで無事、至ることができました。

もし、本当にこの道を進みたいのなら
このチャンスを逃すべきではないと思います。

そしてどれだけ真剣であるかも大切なポイントになると思います。

326ラピ。:2014/02/02(日) 15:59:51
ちなみに私がまだ至ってないスピ系をしていたころ、
実はその時に感じていたことを書きます。

スピ系によって人は「願望を持たされている」ようです。

本当は求めてもいないものを「持たなければ損だ」と願望を持ち、
そしてその願望を実現するために
スピ系で言われていることを実践し続けている。

私は実は別に特に願望がなかったのですが
(この頃、空っぽが成就できていたから
そうだったのかもしれませんが。)
スピ系を見ていると「お金」や「愛」などの願望を
「持たなければならない」という感じを受けました。

だからスピ系をしていた私は
何かしらの願望を「持っていなくてはならなかった」。

スピ系には「求めることが必要だ!求めなくてはならない!」
という思想があったのではないかと思います。

私はもともと興味のなかった「相対世界での願望」をある意味持たされ
それに向かって頑張っていました。

変な言い方ですが
無理やり願望を持っていました。願望なんてないのに。(笑)

酔っぱらって信じるって、
自分の判断すらも麻痺させてしまうのです。

持ちたくもない願望を持たされて
本当に酔っ払いのように、言われるがままに進んでしまう。
そして私はそれを「実践」としていました。

でもそれは決して激流を起こすものではなかった。
だからダメなんですね、成就の道を歩きたい人にとっては。

(酔っ払いがいいのなら
それはそれで自由だとは思いますが。
でも永遠に酔っ払いでしょうけど、そのままなら。)

ちなみにこのスピ系の実践では 何度も言われていますが
相対世界を卒業することはできません。

求め続けて
永遠に求め続けて。

一つがかなったら次の願望。

束の間の喜びを得るけども
それも束の間。

そして叶わない願望もあるけど
さらにポジティブシンキングで進んでいく。

スピ系をしている人ならわかると思いますが
そこでは永遠に続く幸せなんてないのです。

だから束の間の幸せが終わったらすぐに次に向かってがんばる。

自分の「幸せでない感情」にふたをして幸せだけを求めて
ひたすら奴隷のように歩き続けるのです。
(奴隷という例えは厳しいでしょうか?
でもある意味、願望の奴隷となっているのです。
私はそうだったかもしれません)


>それは一種のチャネリング、
>低次元階層に意識の焦点を合わせる事で意識にある種の平安状態の反応を起こさせると言う程度の低いものに捕まっていた。

この私の状態は、至った師匠からしたら、
酔っ払い以外のなにものでもなかったでしょうね。

そして、かつての私のブログから、
その私の状態について違和感を感じていた人もいたかもしれません。

今の私にならわかります。
スピ系の酔っ払い。

偽物の平安に酔いしれて
師匠の言葉に反抗していた私。

「私はこんなに楽しいのに、(この「楽しい」は曲者です(笑)
この人は何を言っているのだ。
この状態がおかしいわけがない」

これはその頃気づかなかった私の本音でした。

でも至った今の私からすると、
かつての師匠とのやり取りは
「あ〜。私ってバカやなぁ、、」としか言いようがないものでした。

でも師匠はそんな私にもちゃんと対応してくれました。

ちなみに至ってない時は
師匠がちゃんと対応していてくださっていたにもかかわらず、
私はそれに気づかず、まともに聞けてませんでした。

ちなみにこの掲示板でも
師匠はきちんと皆さんに対応してくださっています、実は。
(そうだとわからない人もいるでしょうか?いそうです(笑)


もし、かつての私と同じような状態の人がいるなら
ちょっと立ち止まってみてください。

そしてこの掲示板に書き込んでみてください。

私たちからして、どう見えるかがわかります。

私たちは書き込んでくださった人のエゴがまるわかりですので。

あと、「至った」人も募集しています。
対話してみませんか?
スレッド「悟りに至った方たちとの対話」でお持ちしていますよ!

@(*・ω・*)ポッ

327ラピ。:2014/02/02(日) 22:07:29
>実は独自の第2次激流実践で中途半端な空っぽ状態を獲得したまま終了していた結果、
>おかしなものを掴んで魔境状態に陥っていたのだった。

この頃を思い出していました。

これから書くことは言葉に表すと
誤解を受けるかもしれませんが
例えを使いながら書いていきます。

だから「そうなんだ〜。ふぅ〜ん。」というくらいで読んでもらったら、と思います。

第2次の激流実践で「その頃の私にとっての限界」に至った後、
(実はまだまだ限界ではなかったのですが、その頃はそう思っていました。
まだ消滅したくなかったのかもしれない。)
私は人間に戻ることを決心し、
いろんな周りにいる人の様子から学びながら
人間に戻りました。

ま、この言い方も例えですが
実際、第2の実践で私は人間でなくなっていました。(笑)

普通ができなくなっていた。
普通がどういうことかわからなくなっていました。

でも第2の実践でぎりぎり(でもまだまだ)のところに行った後、
まだ残ってる意志で人間に戻る決意をしました。

戻る時は周りにいる人たちから学びました。

人の意識の場所はどのあたり、とか
人はどのように存在しているのかとか
人とはどういうものだとか
学びながら戻ってきました。

まっさらな赤ちゃんが人間を見て そこからある意味学び
人間になっていくのと同じような感じです。

その頃の私と 赤ちゃんの違っている点は
私は人間になる様子を「私」という意志のある状態で通ってきたということです。

この道も実は数年単位です。

激流を渡り終えたわけではなかったので
戻ってくる間中、激流の残骸があり とても大変でしたが。

でも意志を落としながらその意志が落ち着くところまで
戻ってきました。

意志を落としました。

ある意味、落としたのです。落ちたのです。

そして戻ってきた理由は覚えていますが
「まだ、私がやっていないことがあるからやってみたい」というものでした。

私は小さいころから実践づくしだったので
人として持つであろう願望があまりありませんでした。
(ちょっとはあったけど、実践優先でした)

それをきちんとしっかり味わってみたかった。

だから戻る決意をしました。

そして戻って来てそれまでやっていなかったことにいろいろ挑戦しましたが、
(前にも書いている通り、)
結局その願望を無理やり持って
それを叶えるためにスピ系で言われている
「こうすればとい」というものを実践していくだけでした。

ある意味、願望が叶ったときは幸せでした。
でもそれは相対的世界の幸せで
それに私は違和感を持っていました。

「絶対的幸せがいい!」って常に思っていました。

わたしが人間になって思ったことは
終わりのない願望を持ち続けるって
大変だなぁ、ってことでした。

もう、私はその世界からは卒業して
そこから解放されていますが、
「人」として生きることは大変なんだなぁって思いました。

328ラピ。:2014/02/02(日) 22:10:05
>それを叶えるためにスピ系で言われている
>「こうすればとい」というものを実践していくだけでした。

「こうすればとい」は
正しくは「こうすればいい」です。

@(*・ω・*)ポッ

329TK:2014/02/03(月) 18:41:08
ピッタリ4カ月とは、ゴロが良かったですね。

成道記念は5月13日、これも5月12日の翌日なので覚えやすい。

>進めていくうちに、本人の過去の経験である第2次激流実践の成果で、
>激流の基礎段階は既にクリアーできている事も判明した。

実はここはポイントの一つで利点でもあり難点でもありの部分でした。

うまく行き僅か1日で渡れましたが、
中途半端であれ曲がりなりにも以前の実践で至れている部分が災いして、
下手すると激流が起こし難く先に進む推進力が発生させられ無い可能性が無きにしも非ずでした。

それが次の判断の理由の一つ。

>しかし、この時ばかりは、
>この人物こそ激流の地獄に突き落とす事をためらう必要が無いとの判断から、
>その実践内容の全貌で踏み切った。

とにかく推進力(激流)が得られなければ、停滞するしかありません。

いよいよとなれば、タパスと言う切り札が無いわけではありませんでしたが、
そのカードは切らずに済みました。

確かに第2次実践は良く頑張りました。

ただ者ではありません、しかし、激流の実践とはそういうものなのですから、
軽はずみな気構えで踏み込める領域では無いのです。

この中途半端な成就でフローを手に入れたのです。

ちなみに、体が動かせなくなった、これ、
エセ覚者にどういうものか回答してもらって本物判定の審査基準の一つにしたらどうですかね。

どうも、この世界、公的資格制度みたいなものが無いと、
でたらめがあちこち出回っていて、既に収拾がつかずの状況ですから。

この件についてなら、日常生活に影響が出る内容についてですし、
私はそういうものには関心が無いんだ、では済ませられません。

私の書き込みを削除しまくりながら、必死に逃げたあのエセ、
信者ゴロゴロひきつれて、みんなで一緒に地獄ツアーも良いかもしれませんが、
あんなデタラメが、世も末です。

末法の世と言いますから、善意なら許される、
むしろあれがでたらめと知っている我々の方が責任があるようなものですね。

我々は善意すらありません。


君の不完全な成就は「自分を捨てて」これが無かったのです、なぜなら、
君は「自分を捨てて」の実践を否定されて、
その代りに第2次実践がスタートしたのですから。

その時の最後に君が乗り越えられなかった壁、つまり恐怖心の正体は保身でした。

どのみち頑張っても、あの段階では超えられない壁でしたね。

自分を捨てないイコール保身ですから。

ベクトルが違っていたのです。

確かに、私に出会ったばかりの君に、
人のためと言う言葉を最初にぶつけた時の反応は、
全く持って自分のため以外ほとんど関心ありません的な反応でしたからね。

それが至れない原因でした、最後の恐怖心の正体が「保身(自分を大事にしたい)」なのですから。

その結果、個人的な部分の空っぽだけが成就して、すなわち、
EO氏の言う所の魔境がその空っぽの中に入り込んだ訳です。

私は「自分を捨てて」、これを君に成就させたわけです。

激流の実践は強烈なインパクトがあり印象強いものではありますが、
最近私が重要視しているのはむしろ、
激流に飛び込む前の此の岸の外れの崖っぷちに至るまでの方です。

ラピ。さんにしろ、
激流に飛び込む以外に無いところまで追いつめられたわけですね。

ここに立った者は否が応でも激流に進みますが、
この飛び込み台に立ってもいない者はやはり激流の実践内容に手を出す資格が無い。

このあたりは私もEO氏と同様の結論です。

資格が無い者は、
本当の意味での激流は作り出せないで形だけを真似した精度を落した緩流で、
やっている気分だけの酔っ払いになっていました。

相手にするだけ無駄と言うだけに済まず、害を及ぼす事になる事が、
今までの実験でほぼ確実であることが掴めています。

しかし、私にとっては激流の実践だけが全てではありません、
光の存在から教えられたその前の第1次実践も充分に幸せで私にとっては価値のあるものでした。

それが善を拠り所とした理想の実現です。

スピ系の実践が理想ですは単なる酔っ払いですが、
地に足つけた人間としての生き方を精一杯生きぬくという事です。

330ラピ。:2014/02/03(月) 21:26:48
☆TK師匠

師匠、いつもありがとうございます。

師匠と出会ったころ、
私は激流というものがどんなものだったのかを忘れており、
激流とは縁の遠い日々を送っていました。

師匠のおかげで激流を思い出せたのです。
激流が起こったのです。

師匠、ほんとうにお見事でした。

本物でなければ私に激流を起こすことはできなかったでしょう。


>君の不完全な成就は「自分を捨てて」これが無かったのです、なぜなら、
>君は「自分を捨てて」の実践を否定されて、
>その代りに第2次実践がスタートしたのですから。

そうですね!
今思い出すと私は第2の実践は「捨てる」どころか
「どんな苦境にあっても自分を捨てない」
というスタンスでした!

消えそうになる「自分」を保つよう
意志を使っていましたから。

その通りです!!!!



>その時の最後に君が乗り越えられなかった壁、つまり恐怖心の正体は保身でした。
>どのみち頑張っても、あの段階では超えられない壁でしたね。
>自分を捨てないイコール保身ですから。
>ベクトルが違っていたのです。


そうですね。
第2実践の時はとても怖かったです。
消えそうになる自分を保つのをがんばっていましたが
それは恐怖と隣り合わせでした。
怖い感情が常に付きまとっていました。
でも怖くてもあきらめず実践し続けました。
私、しつこいのです。(笑)

そしてかなり自分を追い込みましたが
そのままでは自分を捨てることができなかった故に
超えられない壁がありました。

だからその時は至り切ることができませんでした。

でも第4の実践は 師のおかげで
いつの間にかその壁を飛び越えていました。

うんと、壁そのものが消滅したのです。

ちなみに師匠からいただいた
私を変えた言葉の一つは「下から」でした。

この言葉はすごいと思います。



>最近私が重要視しているのはむしろ、
>激流に飛び込む前の此の岸の外れの崖っぷちに至るまでの方です。

ほんと、そうですね。
まずはそこからですね。

だから私の激流の話なんて
「へぇ〜。そうなんだ」くらいにしていただいて、
皆様はしっかりと「今の自分」を生きていただきたいと思います。

どうぞ、真実の自分でいてください。

@(*・ω・*)ポッ

331TK:2014/02/03(月) 22:13:08
>ほんと、そうですね。
>まずはそこからですね。

この界隈誤認覚者も含めて、右も左も次のような人ばかり見るのです。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


こうのように酔いしれて、
そうだと信じ込んでいる人たちばかりを沢山目にするのです。

だいたい、このようなことしてて至れると思いますか。

本人は彼岸か彼岸の近くにでもいるつもりなのでしょうが、
彼岸に上がるまでは、激流の中です。

激流が一番彼岸に近いのです。

私は理想時代から激流の彼岸に至るまで最初から最後まで戦いを捨てませんでした。

これは腑抜けと言うのか酔っぱらっているだけですね、
このようなことをしてても永遠に彼岸には行けずに単なる頭がボケた人のままで寿命が終えるだけです。

これでは、死ぬまで酔っ払いと言われてもしかたありません。

だから、公的資格制度でも作ってもらいたいと思うのです。

なぜなら、至る前の人はこのような人たちに惑わされます。

至った我々から見たら、とてもではないが、まともではない、
夢遊病者か亡霊かと呼ぶしかありませんが。

332ラピ。:2014/02/04(火) 00:53:19
師匠、酔っ払いの模範的な記事を引用してくださいましたね。(笑)

かつての私、、、。

「あ〜あ、、、」です。

みなさん、こんな記事をかつて書いてごめんなさい。
ここで訂正させていただきます。

この記事は全く的を得ていません。


ちなみにこの記事、
誤認覚者と同じようなことを書いているなぁ、、、。

このレベルにとどまると、どうしようもなくなっちゃうよ。
そんな人のなんと多いこと、、、。

そして私にもその可能性があったのね、、、。
(-_-;)


>今まで 「私」と思っていたものが
>無くなってしまうのれす。
>そして 真実の私 に気づきます。

この文、とってもへんてこりんです。

誤認覚者(かつて師の記事を削除しまくって逃げた人もそうでした)が
そう表現しているのをよく見ます。

私もそう表現していたんですね。

すみません。

これはまったくの間違いです。
そしてかつての私はそうだと思い込んでいただけなんですね。

単なる妄想にひたっているだけですね、これは。

333TK:2014/02/04(火) 07:07:32
>誤認覚者(かつて師の記事を削除しまくって逃げた人もそうでした)が
>そう表現しているのをよく見ます。
>
>私もそう表現していたんですね。

そうですね、ですから、私に出会うより先にこちらの人に出会ってしまうと、
同類同士で変に話が合う分、一緒に世の中変えましょうとか言う事になって、
今は無かった可能性があると思います。

始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ベースになっているのは覚者の文献だと思います。

だから一番ベストはそれは違うんだと言う、判定する人の存在が必要なのですね。

公的資格制度でもあれば、多くの人たちの混乱は起きなくて済みます。

メンタルの修得の尺度を計る資格は人類にとっては必要なものですが、
なぜこうも、軽く見られているのか、これこそ現代科学の遅れの部分です。

人材を採用する企業も、重要な人間判定要素の一つになりますね。

現代の人類の行き詰まりの突破口はここだと思います。

ただ何々宗の僧侶の資格とかは何の目安にもなりません。

家によくお経読みに来る坊さんも、単なるしきたり上の存在ですから、
読経してもらってお礼を言って、その方々の生活の糧であるお布施を渡して、
その後はこちらがお話を聞かせてあげて終了、このようなものですからね。

他のサイトでは、このような誤認による覚者に付き従うもの多数いました。

我々から見たらこの人たちは永遠にさまよい続ける亡者の群れです。

虚しいですね、この人たちに未来は無い、
本来は現象を裁きながら実践しなさいとか、
不快な事に感謝などする必要ありませんとか、
こちらを歩ませなければならない人たちなのですから。

334TK:2014/02/04(火) 19:15:54
これ、本当にすごいですね。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


悟る前のラピ。さんの文を読んで、
悟ってなくても悟ったと言う想いこみだけでこれだけ紛らわしいものが書けるのです。

我々が見ればこんなガセ、
私の書込み削除しまくったあの人物と全く同じ完全100パーセント酔っ払いだと分かりますが、
残念ながら一般の方々には例のサイト同様見分けがつくはずがあまりせん。

しかも、言っている本人も自分が至った覚者だと信じているのです。

これ、何を勘違いしいるのかも私には手に取るように分かります、
私の前ではみんな丸裸ですね、
この人には「無」と言う対象となる意識がしっかりとあって、
それが至った状態だと思い込んでいるのです。

>今この瞬間に溶け込んでると

これがこの「溶け込んでいる」と言う表現の根拠なのです。

これは至った我々とは全く別物です。

本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

このように、至った覚者の状態などを書いた物を読むと、
自分もそれと同じだと勝手に錯覚して思い込んで、
酔っぱらいのエセの覚者が一丁出来上がりとなるわけです。

簡単に人間と言うのは誤認が起きますから、
至った覚者の状態を書いてあるものなどできるだけ読まない事です。

エセに従う信者たちもいい加減に目を覚ましたらいいのにと思うのですが。

私はこの者たちとそれにつき従う者たちを、
風車が怪物に見えるドンキホーテと従者のサンチョと呼ぶのです。

至ってしまえば楽々ですが、至る前の人たちにとっては、
このようなトンでも勘違いの人たちが沢山いるので、
手探りで断崖絶壁を歩いているようなものです。

恐ろしや恐ろしや。

はやく、公的な認定制度が出来ることを切に望みます。

剣禅一致、すなわち技術の修得とメンタルの修得、この二つが一致して、
本当のその者の能力の尺度なのです。

現代の科学は、技術の修得の部分しか解明できてない劣ったものですから、
早くもう一つの方にメスを入れることが出来なければ、
「フロー(ゾーン)」と言う現象も解明できないし、この先社会はもっと悪い方に行きます。

現代の状態は、これみんな劣った科学がもたらした醜態というものですよ。

情けない。

335ラピ。:2014/02/04(火) 21:19:22
みなさま、こんばんは!

TK師、いつもありがとございます!


>これ、本当にすごいですね。

訳すると
「これ、本当に妄想すごいですね。」
になりますかね。


>>今この瞬間に溶け込んでると

今の私たちの状態ではあり得ない状況ですねぇ。



>始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ほんとそうなんです。

師の言葉を早くからちゃんと聞いていたら
間違っていたことが早くわかっていたかもしれませんが
初めのころは大まじめにそうであると信じていたのです。

だからちゃんと話を聞けていませんでした。

でもどうにか
自分の信じていたものを捨てることができてよかったです。


私の昔のブログに賛同できる方は
スピ系による被害を受けています。

私の昔のブログは偽の情報です。

昔の記事を削除してしまってもいいのですが
参考になると思い今は残しています。

かつての私の記事のような話が
全く参考にならないということの
参考になると思っています。

それに、昔のラピ。と今のラピ。の違いが
記事を比べたらわかると思います。

えらい違いです。次元が違いますから。(笑)

でも、将来 記事を削除するかもしれませんが
そうでないかもしれません。

@(*・ω・*)ポッ

336TK:2014/02/04(火) 22:26:02
>本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

無想と想に非ずは全くの別物ですからこれが悟りだなどと、
この界隈はかなり滑稽な状態です。

それにつき従う信者の群れ、あれもかなり悲しい。

私は独学ですが、何でまあ信者と言う人たちは、そろいもそろってエセの後を追う、
ああも悲しい定めにいるのでしょう。

あの人たちから見ると、こちらがエセに見えているでしょうから、
現実とはそんなものですよ。

337TK:2014/02/07(金) 18:24:23
袋小路に追い込まれた者には私は激流の門を開くだろう。

私は人と寄り添う事を求めているような者に、
ここで寄り添う相手になるつもりはない。

理由は簡単だ、精神世界のテーマで寄り添う相手になるなど、真っ平御免だからだ。

同士をもとめるなら、精神世界以外のテーマでの同士を求めるべきだ。

酔っ払いの烏合の衆というのが、それだからだ。

これが世の中一番最悪のごちゃ混ぜグループ。

私は理想で生きる事を説くが、それは精神世界以外で実行するという事だ。

これをやらずして精神(内面)世界をテーマにたむろする人間など真っ平御免だ。

だから、当たり障りのない適当な理由を付けて、
はいさようならをしたケースは今までもあったかもしれない。

人のぬくもりを求める者もいるだろう、しかし、それは精神世界以外で求める事だ。

人が仲良く寄り添って、そういう理想の実現は精神世界に求めるものでは無い。

それを卒業した者が、次の段階として精神世界の「孤立」に入る。

私など理想時代は、まず、
寝る時以外は家になど居る事はほとんど無く
常に誰かと活動をしていて一人で居る事はほとんどなかった。

その後の、激流の実践時代は、理想時代とは打って変わって孤立に入った。

だから、この界隈狂ってるんだ、
精神(内面)世界を寄合のテーマに傷を舐めてくれる友を求めたり、
その者は精神世界では無くて違う所でそれをやってくれ。

精神世界は、理想の実践段階とは打って変わって、
世からの孤立が本質的なスタンスだ。

スッタニパータ
> そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、
>完全な戒律を受けた。それからまもなく、
>このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、
>怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、
>無上の清らかな行いの究極
>──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが
>──を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。
>なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。



私はこのような中途半端な要素を少しでも感じた者に対しては、
まともに取り合わずに、
当たり障りのない適当な理由を付けてはいさようならとする事だろう。

心当たりの者がいたら、自らの内面を良く見てみろ、私の前では丸裸だ。

激流段階の者にとっては、
現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
他者を自分の実践対象として存分に利用し、
なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私やラピ。さんはその実践の成就者という事になる。

激流段階の者にとって、在家環境で日常生活のまま、孤立の立場の実践が可能なのだ。


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