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Web誌友会 板/2

1トキ:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

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管理人「トキ」 敬白

4288不生の仏心を求めて:2014/09/08(月) 16:35:30 ID:zTvAOV2w
ついでにお聞きします。無門関23に『不思善悪』の公案があります。
善とも悪とも考えない時の人間の本来のものはいかなるものか、というものです。

他人が善を行っているか、悪を行っているか、が問題でなく、その事を善である、悪であると認識する心とは何でしょうかということです。
本心、実相の心とか言われる、実在の心とは何かということです。

雅春先生自身が無門関解釈を書かれているのですから、それは禅の話で生長の家と関係無いというものではないと思っています。
如何に生きるかと心というか、思いを関係させていく生き方に疑問を持っています。

4289a hope:2014/09/09(火) 00:09:22 ID:cEpBaIdo

>>4284 〜4286 ユタカさま

そうですね。
現象の世界には素直に拝めないことも多いですよね。
わたし自身もたくさん家族がおりますし、仕事もしてますから、
現象生活をしていく上で、人間関係等で悩むことも多々あります。

でも、わたしたちには「生長の家の教え」がありますから、とても心強いですね。

最近は、わたしはどんなに心が不安になっても、聖典を拝読したり、
神想観をすることでほとんど自分の中で解決できるようになってきました。

すべてに感謝できるようになることがとても大切だとわたしも感じています。

4290a hope:2014/09/09(火) 00:12:15 ID:cEpBaIdo

>>4287「 仏心」さま

<<●私の思うところとは少し違いますね。」天地一切のもの」は顕れているモノそのもの、人間が意を通して何かを考えたそのことは、
「考え、思想、念」であり縁に触れて心に浮かんだものであり、一瞬の後には何も存在していないもの、であり、端から『天地一切のもの』ではないということです。>>



↑の「仏心」さまお考え方が、もし、

「考え、思想、念」つまり人間の『心』が実在ではなくて、「顕れているモノそのもの」つまり現象に見える『物質』だけが実在するというお考えでしたら、


それって、唯物論なのではないですか?


それでは「仏心」さまのHNである『仏心』も実在しないものとお考えですか?


聖経「甘露の法雨」には、

神が一切のものを造りたまふや
粘土を用い給はず、
木材を用い給はず、
槌を用い給はず、
鑿を用い給はず、
如何なる道具も材料も用い給はず、
ただ、『心』をもって造りたまふ。
『心』はすべての造り主、
『心』は宇宙に満つる実質、
『心』こそ『全能』の神にして遍在したまふ。・・・

とあり、神(仏)の心がすべてのもの(天地一切のもの)を作ったと詠われています。


ですが、一方で「生長の家の教え」では「現象人間の迷いの心」の方は「無い」と否定していますから、
「仏心」さまがおっしゃる<<人間が意を通して何かを考えたそのこと>>というのが、
「現象人間の迷いの心」のことで、「仏心」さまのお考えが、その「現象人間の迷いの心」が天地一切のものではないという意味であれば、
そのことに関してはわたしもそうなのではないかとも思いますが、神(仏)の心は実在だとわたしは信じています。
(つづく)

4291a hope:2014/09/09(火) 00:15:26 ID:cEpBaIdo
>>4290つづき

<<貴女は「実相世界を悟っていない人間には、実相と現象との区別がハッキリつかないわけですから」と言われる。
とすれば何と和解し、何とは和解してはいけないのですか、>>


(a hope の答え)

真説に和解し、虚説には和解しなければいいのだと思います。

以下をご参考にしてください。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4056

――――――――――――
●虚説とは、「迷い」や「誤れる見解」のことである。
それでは、「迷う」「誤れる見解をする」とはどんなことか?

それは、自分自身や相手(対象物)の実相を見ず、悪であると思ってしまうこと。
または、罪を見てしまうこと。
つまりは、本来無い仮相の現象に心を捉われてしまうこと。


○真説 (虚説と和解しないために)
「迷わない」「正しい見解をする」とはどんなことか?

それは、自分自身や相手(対象物)の実相だけを見つめ、すべては善であると思うこと。
または、罪を見ないこと。
つまりは、実相世界の完全円満さを常に喜ぶこと。

――――――――――――

4292a hope:2014/09/09(火) 00:18:28 ID:cEpBaIdo
>>4291つづき

<<真象であれ顕れたもの、現象であり消え去るものです。真象を好ましいもの、偽象を好ましくないものと普通考えますね、
でも念の世界を超越しない限り、因縁の世界から抜け出せないということのようです。>>


(a hopeの答え)

――――――――――――
●「虚説(迷い・サタン・異端・邪説・雑念)」→【現象世界に投映されると】→ 暗黒化し、「罪」「病」「死」など(仮相)が現れて見える。    
           
○「真説(真理・神・生命・愛・知恵)」→【現象世界に投映されると】→光明化し、「真」「善」「美」などの(実相)が現れてくる。

――――――――――――


真説が現象世界に投映されたものが、真象(実相の投影)で、虚説が現象世界に投映されたものが偽象(仮相の投影)であるとわたしは理解しています
因縁の世界から抜け出すためには、念を超越するというよりも、虚説を否定し、真説ののみを実行すればいいのだと思います。

4293a hope:2014/09/09(火) 00:20:42 ID:cEpBaIdo
>>4292 つづき

<<実相は無相か有相かの議論をしたことがあります。
生長の家の実相を観るという場合の『実相』はそのものに相があるのか(理念)、
『真象』を指して実相と云っているのか、貴女はどう考えますか。 >>


(a hopeの答え)

わたしは実相世界を悟っていないですから、あくまでも聖典を拝読して解釈しているだけなので、
実相が無相か有相かなどということは実際のところはわかりません。
ですが、今現在のわたしの理解力だけでお答えさせていただきますと、
無相である実相(真説・正しい理念)が、現象世界にが投影され、芸術的活動で表現されたものが「美」であり、
道徳的活動で表現されたものが「善」であり、それらの現象人間の目でも確認できる真象が有相の実相なのではないかと思います。


『真、善、美と三つを同列に並べて説明する人がありますが、真とは本当にあるものということで、
「本当にあるもの」の道徳的活動が善であり、「本当にあるもの」の芸術的活動が美であります。
人生の目的とは何ぞや?といいますと、人生に「真」すなわち「本当にあるもの」すなわち実相を表現することであります。
実相が、本当の姿が、本当にあるものが実現したとき、人生に価値が実現したというものであります。
本当にあるものでないものには価値があるはずがないのです。
有るからこそ価値があるのです。なかったら価値がない。有るものだけが価値があるのです。』
「生命の實相」第13巻 p138 後から4行目〜



「仏心」さまが、素晴らしいご公案をたくさんくださるので、今回も、わたし a hopeはとてもお勉強させていただいています。
心より感謝いたします。 合掌。

>>4288に関しては、後日お答えさせていただきますね。

4294ユタカ:2014/09/09(火) 22:58:55 ID:N20ePDNw
>でも、わたしたちには「生長の家の教え」がありますから、とても心強いですね。

本当にそうですね。。
現象無し!! LooK into reality !!

「実相を観る」と、日本語ではちょっと難しいけど、英語で、Look at   ではなく Look into reality

と雅春先生がテープで仰って下さるのがありますが、それがとても分かりやすいですね。

そして、生長の家の先生に聞いたことは、嫌な事、拝めない事を見ても、それをいかに感謝として見るか楽しくゲームをする様にやっていくといいよ。。。

そしてね。。。。

教団にいる人もいない人も、今、難しい問題を与えられているのは、皆さんが高級霊だから、難しい拝めないような問題をどう解決するか神様に与えられているのだそうです。

本当に、現在は、昔の雅春先生時代の生長の家が大好きな人ほど、難しい問題を与えられていますね、みんな、みんな高級霊だそうです、とても素晴らしいですね!!

みんな生長の家高級神の子 素晴らしい!! みんな高級霊だから お釈迦さまだから、わざわざ難しい事をしてくれて、「これを拝んでご覧!!」としているところが素晴らしい!!

神の子同志の磨きあい!! 拝んだ人から感謝充満実相世界、みんな 神の子 有難う!!

4295ユタカ:2014/09/09(火) 23:00:26 ID:N20ePDNw
あのう・・ 上記の・・・

誰か、スペルチェックお願いします。

4296a hope:2014/09/11(木) 09:29:14 ID:cEpBaIdo

>>4294 ユタカさま

素晴らしいご投稿をありがとうございます!!
生長の家の教えは、「感謝」の教えですものね。


Look into reality!! (スペル間違いはないと思いますが・・・。)

直訳すると『(現象の中の)「本物」だけを観ぜよ!』みたいな意味でしょうか?


本来、「悪はない」のですから、現象に現れているすべての「不都合なこと」(悪と見えること)も、
自分の観方を変えればすべてが「感謝すべきこと」(善)になるということですね。

自分を苦しめている不都合な出来事に感謝できたとき、救われるのは誰でもない自分自身なんですよね!

4297a hope:2014/09/11(木) 09:36:01 ID:cEpBaIdo
>>4288 「仏心」さま


――――――――――――――――

ついでにお聞きします。無門関23に『不思善悪』の公案があります。
善とも悪とも考えない時の人間の本来のものはいかなるものか、というものです。

他人が善を行っているか、悪を行っているか、が問題でなく、その事を善である、悪であると認識する心とは何でしょうかということです。
本心、実相の心とか言われる、実在の心とは何かということです。

雅春先生自身が無門関解釈を書かれているのですから、それは禅の話で生長の家と関係無いというものではないと思っています。
如何に生きるかと心というか、思いを関係させていく生き方に疑問を持っています。

――――――――――――――――

わたしは無門関の『不思善悪』のお話も知りませんし、雅春先生の無門関解釈も未読ですが、その上で「仏心」さまの、

<<他人が善を行っているか、悪を行っているか、が問題でなく、
その事を善である、悪であると認識する心とは何でしょうかということです。
本心、実相の心とか言われる、実在の心とは何かということです。>>

というご質問にお答えさせていただきますね。

(a hopeの答え)

実相世界には存在しない「善」と「悪」の区別を認識する心とは現象人間の「迷いの心」であり、
実相の心とは、神の心、仏の心に他ならないと思います。

4298不生の仏心を求めて:2014/09/11(木) 19:47:07 ID:zTvAOV2w

(a hopeの答え)

実相世界には存在しない「善」と「悪」の区別を認識する心とは現象人間の「迷いの心」であり、
実相の心とは、神の心、仏の心に他ならないと思います。

_____________________________________________________________________________________________________
色々お答え下さりありがとうございます。a hopeさんの考えは承知しました。
ただ和解に関しまして真説に和解し、虚説には和解してはならない。とありました。
そこで判らないのです。善悪を認識する心は迷いの心であるといわれる。
真説虚説の判断は何によってなされるのでしょうか。
先の戦争では家族を亡くし言葉にできない辛酸をなめた人は大変多いと思うのです。
国体を守るためには戦争もやむなしとの考え方があります。結果に於いて戦に負けたのです。負けても今の日本はあります。
この場合に戦争はすべきであるというのは、真説なのでしょうか、虚説でしょうか。
雅宣総裁の発言は虚説であると貴女は言われます。虚説であると判断する心は、『本心』なのでしょうか。

「実相の心とは、神の心、仏の心に他ならないと思います。」は呼び名を変えただけのことで、どんなものかの説明にはなっていないのではありませんか。

4299トンチンカン:2014/09/11(木) 20:22:48 ID:JWwiWw8o

マサノブ爺さんは、<理性>で判断すると講釈していましたよ!!



<小閑雑感> (参考)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2008年11月10日
理性と教典解釈 (2)

 前回は、茅ヶ崎市の男性からの質問に答えたので、今回は厚木市の女性の質問に答えよ
う。まず、ここでのテーマは「教典の解釈」であって「真理の解釈」ではないことを確認
しておく。

 厚木市の女性は、古い時代に書かれた教典を現代人が読む場合、その解釈が昔のものか
ら変わる必要があることは認める。が、そうやって打ち出された新しい解釈が正しいか否
かをどうやって判断するか?−−という点を質問したのだ。私はこの時、黒板に「理性」
という文字を書いた。人間には理性があるから、それによって判断することができるとい
う意味である。そして、理性をめぐるイスラーム内部の考え方の違いについて触れたのだ
った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



・『真説虚説の判断は何によってなされるのでしょうか』


・マサノブ爺さんは、『人間には理性があるから、それによって判断することができる』
 と言っておりますが・・・

4300不生の仏心を求めて:2014/09/11(木) 20:48:50 ID:zTvAOV2w
トンチンカン女史さん

・『真説虚説の判断は何によってなされるのでしょうか』

・マサノブ爺さんは、『人間には理性があるから、それによって判断することができる』
 と言っておりますが・・・
________________________________________________________________________________________

引用の文章にはそんなこと一言も書いてないでしょう?朝日みたいな思い込み発言はやめましょう。

4301転載家:2014/09/12(金) 03:15:43 ID:???
ますます冴え渡る異才「トンチンカン」氏のマサノブ評*(5097)
日時:2014年09月10日 (水) 07時47分
名前:怒れる信徒 某



サーチャーさんが此処に転載していただいている「トキ掲示板」の異才「トンチンカン」氏のマサノブ評、今回は特に痛快、痛快そのもの。

大ヒマ人・マサノブ君は、又もや、似つかわしくないHN「不生の仏心を求めて」という名で登場したが、又もやボコボコに叩かれてしまった。

雅宣君、次のHNを「モグラたたきで叩かれし者」に変えたら?

両者のご健闘をお祈りする次第です。尤も、マサノブ君は全然「トンチンカン」氏の異才に歯が立たぬが・・・

4302a hope:2014/09/12(金) 09:06:53 ID:cEpBaIdo

少しテキストの内容を進めたいと思います。

「生命の實相」第14巻 p57 9行目〜

「生長の家」倫理学の特色といたしますところは、存在を「実相(ほんとうにあるもの)」と「仮相(まよい)」とに別けることであります。
そして「実相」だけが存在するのであって、その「実相」は完全であるというのであります。
例をあげていえば、人間に結核病を惹き起こす毒物としての結核菌は、それは仮相(かりのすがた)であって実相ではないのであります。
この場合、われわれが仮相(まよい)の結核菌を認め、許し、それに触れ、それを培養することにすれば、われわれ人類は滅びるのであります。
なせなら「仮相(まよい)」を実在だと思ってこれに和解し「仮相(まよい)」をことさらにのさばらせれば、実相はますます隠れるほかはないからであります。

ところが、神は結核菌を人間を害するようには作ってい給わないのであります。
結核菌は人間に対して無害に造られており、実在の世界においては、人間と結核菌とは調和して互に生かし合っているのであります。
調和が実相であって、「実在する結核菌」の本当の相(すがた)なのであります。
それで「結核菌と和解する」とはこの本当の姿を認めて、その心の投影(かげ)として自然に結核菌と人間とを互に相侵(あいおか)さない状態に至らしめるので、
われわれを害する「仮相(まよい)の結核菌」を認め、それに栄養を与え、培養するということではないのであります。
大体、「仮相」というものは、あるように見えても本来無い――「無いもの」と和解のしようがないのであります。
それでわれわれが和解するとは、ただ「本来あるもの」と和解するほかはない。
それでわれわれが、「天地一切のものと和解せよ」という場合は、
仮相(まよい)――われわれに対して毒性または敵性をもって顕れているウソのスガタ――に和解するのではなくて、
実相(すなわち、われわれと本来調和し、われわれと互に生かし合っているそのものの内性)と和解することなのであります。

4303a hope:2014/09/12(金) 09:08:34 ID:cEpBaIdo

>>4302 a hope所感)

ここの部分には「生長の家」倫理学の核心が「結核菌と人間との和解」を例にあげてとてもわかりやすく説明されていると思います。

この文章の「結核菌と人間との和解」について書かれている部分を、「【地球】と【人間】の和解」に置き換えて読んでみると、
「生長の家」の教えにより、どのように【地球】と【人間】が和解すべきかがとてもよくわかります。

4304a hope:2014/09/12(金) 09:15:28 ID:cEpBaIdo

「【地球】と【人間】の和解」(※注 a hope が聖典の言葉を置き換えた文章です。)


「生長の家」倫理学の特色といたしますところは、存在を「実相(ほんとうにあるもの)」と「仮相(まよい)」とに別けることであります。
そして「実相」だけが存在するのであって、その「実相」は完全であるというのであります。

例をあげていえば、【地球】に【自然破壊】を惹き起こす毒物としての【人間】は、それは仮相(かりのすがた)であって実相ではないのであります。

この場合、われわれが仮相(まよい)の【人間】を認め、許し、それに触れ、それを培養することにすれば、【地球】は滅びるのであります。

なせなら「仮相(まよい)」を実在だと思ってこれに和解し「仮相(まよい)」をことさらにのさばらせれば、実相はますます隠れるほかはないからであります。


ところが、神は【人間】を【地球】を害するようには作ってい給わないのであります。

【人間】は【地球】に対して無害に造られており、実在の世界においては、【人間】と【地球】とは調和して互に生かし合っているのであります。

調和が実相であって、「実在する【人間】」の本当の相(すがた)なのであります。

それで「【人間】と和解する」とはこの本当の姿を認めて、その心の投影(かげ)として自然に【人間】と【地球】を互に相侵(あいおか)さない状態に至らしめるので、
【地球】を害する「仮相(まよい)の【人間】」を認め、それに栄養を与え、培養するということではないのであります。

大体、「仮相」というものは、あるように見えても本来無い――「無いもの」と和解のしようがないのであります。

それでわれわれが和解するとは、ただ「本来あるもの」と和解するほかはない。

それでわれわれが、「天地一切のものと和解せよ」という場合は、
仮相(まよい)――【地球】対して毒性または敵性をもって顕れている【人間】のウソのスガタ――に和解するのではなくて、
実相(すなわち、【地球】と本来調和し、【地球】と互に生かし合っている【人間】そのものの内性)と和解することなのであります。


(a hopeが聖典の言葉を入れ替えたことに不快を感じる方がいらしたら、心からお詫びいたします。)

4305a hope:2014/09/12(金) 09:18:54 ID:cEpBaIdo

>>4304 a hope所感)


<<例をあげていえば、【地球】に【自然破壊】を惹き起こす毒物としての【人間】は、それは仮相(かりのすがた)であって実相ではないのであります。

この場合、われわれが仮相(まよい)の【人間】を認め、許し、それに触れ、それを培養することにすれば、われわれの【地球】は滅びるのであります。

なせなら「仮相(まよい)」を実在だと思ってこれに和解し「仮相(まよい)」をことさらにのさばらせれば、実相はますます隠れるほかはないからであります。>>


この場合の「仮相(まよい)」とは、地球に自然破壊をもたらすという罪深い人間(悪)を実在だと認めてしまう自分自身の「心の迷い」のことだと思うので、
わたしたちが、その「心の迷い」を否定せずに和解してしまうと、その自然破壊する人間の仮相の姿をのさばらす結果になってしまうということなのだと思いました。

<<それでわれわれが、「天地一切のものと和解せよ」という場合は、
仮相(まよい)――【地球】対して毒性または敵性をもって顕れている【人間】のウソのスガタ――に和解するのではなくて、
実相(すなわち、【地球】と本来調和し、【地球】と互に生かし合っている【人間】そのものの内性)と和解することなのであります。>>

これが、本来の生長の家の信仰の姿であり、「人類光明化運動」なのだと思います。
つまりは、「自然破壊などすることのない神の子人間に感謝せよ!」ということなのだと思います。

4306a hope:2014/09/12(金) 09:23:13 ID:cEpBaIdo

>>4298「仏心」さま

(仏心さまご質問)
雅宣総裁の発言は虚説であると貴女は言われます。虚説であると判断する心は、『本心』なのでしょうか。

(a hopeの答え)

雅宣先生のご著書やブログ、祈りの言葉などを拝見していると、雅宣先生は「地球に自然破壊をもたらす罪深い人間」を認めていらっしゃるようにしか見えないのです。
ですから、「雅宣先生の教え」は「生長の家」の倫理学から見ると「虚説」となってしまうのです。
「虚説」であるかないかは、わたしの『本心』が判断しているのではなくて、「聖典の教え」をわたしが解釈するとそうなってしまうのです。

この説明で、わたしがなぜ、「雅宣先生の教え」が「虚説」であると感じているかわかっていただけたでしょうか?

あくまでも、わたしは順をおって、「生命の實相」をお勉強し、解釈し、感じたことを素直に発言しているだけです。

>>4299でトンチンカンさまが転載してくださった雅宣総裁の御文章に、

<<人間には理性があるから、それによって判断することができるという意味である。>>
というご発言がありますが、「生長の家」の聖典を唯物的思想を持つ人間の理性で解釈しようとすると、
すべて否定しなくてはいけなくなります。

わたしは雅宣先生が「生長の家の教え」の基本である「人間神の子」を信仰していらっしゃるようにはまったく見えないのです。

4307a hope:2014/09/12(金) 23:02:51 ID:cEpBaIdo

トキさま ユタカさま 仏心さま みなさま こんばんは!

a hopeは、明日から数日間でかける用事がありまして自宅を離れるので、
いつものように書き込みができません。

ですが、わたしの返事がなくてもご自由にご参加くださいね!

来週中には戻る予定でいます。

それではみなさま、良い週末をお迎えください!!

4308ユタカ:2014/09/13(土) 00:20:48 ID:N20ePDNw
a hope様 いっていらしゃい! お帰りをお待ちしてま〜す、a hopeさま不在でも書きます。
>>4260 わたしは、先月までこのweb誌友会テキスト「生命の實相」をもとに、「悔い改め」(生まれ更わり)についてお勉強してきました。
そしてこの「悔い改め」には旧我(偽我)の否定、と新我(真我)の肯定が必要だと知りました。

完全円満な実相世界の立場から観れば、「環境破壊し続けている人間」というのは明らかに旧我(偽我)であり、
妄想であり否定しなければならない存在です。

そして、本当の「悔い改め」には「環境破壊などすることのない自然と大調和している人間」の肯定が必要だということになります。


ですから、本来の「生長の家の教え」によって、環境問題に対応した運動をしていくのであれば、
この「悔い改め」真理を応用すればいいのだと思います。

それには、やはり「環境破壊などすることのない自然と大調和している人間」=「神の子人間」の実相を礼拝することが基本だと思います。


ですが、雅宣先生の運動を拝見していると「人間の実相礼拝」よりも「現象の自然」を礼拝しているように見えてしまうのです。


<<私の疑問は、③の実相論を信じる方が、①,②のような総裁の存在を肯定していることが、分からないということです。>>

わたしは、雅宣先生の存在自体を虚説だと思っているのではなく、雅宣先生の教えと運動の仕方が本来の「生長の家の教え」ではないと思っているのです。


今まで何度も発言してきましたが、雅宣先生の存在自体は、信徒に本来の「生長の家の教え」とは何かを考えさせてくれるためにあらわれた、
ありがたい大観世音菩薩さまだと思っています。

--------------------------------------------------------------------------------------------
何か、ahopeさまのこの御文章が、ちょっと良く分からないのですが、

生長の家の本来の教えを実相から観た教えとして、 現象の環境運動とごちゃ混ぜになっていませんか?
1>ですから、本来の「生長の家の教え」によって、環境問題に対応した運動をしていくのであれば、
この「悔い改め」真理を応用すればいいのだと思います。
2>それには、やはり「環境破壊などすることのない自然と大調和している人間」=「神の子人間」の実相を礼拝することが基本だと思います。
3>ですが、雅宣先生の運動を拝見していると「人間の実相礼拝」よりも「現象の自然」を礼拝しているように見えてしまうのです。

ユタカは、この間の宇治の大祭に行って実際の雅宣先生を見ていました、この目ではっきりと!
先生は、歩かれながら参加者を拝んでくれていました、奉仕の我々の事も神の子として拝んでくれていました。これは私が自分の目で確認しましたので2>の引用はクリアです。
3>は、宇治や教化部では神の子、感謝のお話を沢山聞けます。前ほどではなくなりましたが。
で、最後
4>
わたしは、雅宣先生の存在自体を虚説だと思っているのではなく、雅宣先生の教えと運動の仕方が本来の「生長の家の教え」ではないと思っているのです。

a hopeさま、私は総裁の本を良く読んでいなかったときは同じように思っていましたが、宇治の練成や大祭奉仕で変わりました、何とこのユタカが総裁の本まで買ってしまったのです。
で、話は元に戻らせていただくと、a hopeさまは、実相を拝むことが生長の家のすべてのことで、環境のことも環境を侵していない実相を拝むことこそが生長の家の教えで、総裁はそれをしていないというように読めるのですが?そうでしょうか?

私は、宇治に行って、楠本先生に沢山聞いて、総裁の事は、総裁がすべての実相を拝んでくれていたからこそ、今こそ環境問題に動いて下さったとわかりました。総裁は、すでに、a hopeさまの仰る「環境破壊などすることのない自然と大調和している人間」をすでに拝んで、
そして、「今やらねばならないことを精一杯して下さっていらしゃる」ことがわかりました。

a hopeさま 総裁は信徒を神の子として拝んで、今必要な最前線の運動の指揮を執る素晴らしい総裁だと私は急に目覚めました。

4309ユタカ:2014/09/13(土) 00:30:49 ID:N20ePDNw
a hopeさま
ユタカがせっかく総裁の本を買ったので、a hope様が、実相、」実相 実相 」 と 実相 とばかり仰るので、
現象世界にいることもしっかりと認識して欲しいので、読んでみてください。

>「罪なし」の教えと裁判員制度
Q 「人間本来罪なし」という生長の家の教えに触れていますと、裁判員制度でも志裁判員に選ばれた時、みんな神の子さんに見えて、極悪犯でもとても裁くことが難しく、冷静に判断できません。反面、本当は死刑にしたいと思えるのに、という場合もあると思います。
どうしたらよいでしょうか?(四十九歳 女性)

A 午前中の話の中でも少し触れましたが、この質問は、「実相」と「現象」を混同しているように思いますね。この二つを区別することは易しいようでいて、なかなか難しいのでります。裁判員制度とか、警察力、その他の法律で定められた社会のさまざまな仕組みというのは、これは現象界における我々の”心の作品”です。
我々が議会で法律や条例としていろんな制度を提案し、それを可決して制度が運用されるようになる。裁判員制度も同じでありまして、従ってこれは「現象処理」の問題である。

午前中、私が「人間に罪はない」とか「神の子である」とか「仏様である」という話をしたのは、「実相において」人間は皆そうだという意味であります。
ところが、実相においては皆すばらしい神の子であるけれども、現象世界に生まれて自由を与えられると人間は「迷う」ことがあるとという話もしました。

本来人間は神の子であるにもかかわらず、迷って、神の子にふさわしくない行動をすることがあります。 そういうことがあった場合には現象処理が必要です。(以下略)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
実相 実相のa hopeさま

総裁の書かれていることのどこが間違っていますか? その間違えを教えて下さい。

4310ユタカ:2014/09/13(土) 00:33:48 ID:N20ePDNw
訂正
>裁判員制度でも志裁判員

裁判員制度でもし裁判員   に もし と差し替えてお読み下さい。

4311ユタカ:2014/09/13(土) 00:38:25 ID:N20ePDNw
ユタカは

生長の家ってどんな教え? から謹写引用しました。。。よろしくです。

4312a hope:2014/09/13(土) 00:42:44 ID:cEpBaIdo

>>4308 4309 ユタカさま

web誌友会ご参加ありがとうございます。
たくさん質問をいただいているのですが、わたしは明日から出かけるのでお返事ができません。

できれば、わたし個人に対する質問はこれ以上は控えていたでけるとありがたいです。

このweb誌友会は、あくまでも「生命の實相」のお勉強会ですから、わたしは雅宣先生に関することでも、
「生命の實相」の真理に照らし合わせて発言しています。
ユタカさまも、ご参加くださるのであれば「生命の實相」の内容にそってお話を進めていただけないでしょうか?
どうぞよろしくお願いいたします。

それでは、ユタカさま、みなさまおやすみなさい!

4313ユタカ:2014/09/13(土) 00:47:06 ID:N20ePDNw
あくまでもユタカ個人の解釈ですと 神の子なのに迷って という箇所は

本来の実相を忘れて  ということかな?と解釈しました。

裁判員の問題を仰っている箇所を謹写しましたが、 環境も、現象の環境問題もこれと同じに考えていいと思いますが、どうでしょうか??

4314ユタカ:2014/09/13(土) 01:45:23 ID:N20ePDNw
>このweb誌友会は、あくまでも「生命の實相」のお勉強会ですから、わたしは雅宣先生に関することでも、
「生命の實相」の真理に照らし合わせて発言しています。


そうですか。ですが、私も仏心様と同じで

a hope様の解釈が理解できないので、生命の実相に沿って勉強しているような実感がないのですよ。。。

野狐禅のような気もします。。。

4315a hope:2014/09/13(土) 07:57:36 ID:cEpBaIdo

>>4314 ユタカさま

<<a hope様の解釈が理解できないので、生命の実相に沿って勉強しているような実感がないのですよ。。。
野狐禅のような気もします。。。>>

強烈なご批判をありがとうございます。 合掌。


これからしばらくa hopeはこのweb誌友会で聖典のお勉強はできませんので、
仏心さまや、ユタカさまに是非、正しい「生命の實相」の解釈をご教示していただきたいです!!


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第27回 web誌友会 案内

期間  9月1日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第14巻 倫理篇〈下〉p34〜p126まで
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

web誌友会を長く続けていくには、ある程度の秩序が必要かとも思います。
現在 a hopeは、p55〜の「和解の倫理」を自分なりに解釈中です。

その時に仏心さまから、「雅宣総裁」と「虚説」に関する質問をいただいたので、
自分の解釈に照らし合わせて、自分なりのお答えをさせていただきました。

わたしに他意はなく、ただ、真理を知りたいだけですのでどうぞよろしくお願いいたします。

訊け管理人さま、トキさまその他のみなさまにも、是非参加していただきたいです。

自宅を離れましても、スマホから閲覧はしていますので時々参加させていただくかもしれません。

みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

4316トキ:2014/09/13(土) 22:18:54 ID:S.HsjIYs
 本題と合わないかもしれませんが・・・・。

 武道の世界などでは、「守」「破」「離」が大事だと言われます。(これ、武道の達人
からの耳学問です。)

「守」・・・・師匠の格をまねる事。つまり先生の真似をすること。

「破」・・・・師匠の格に至る事。つまり先生と同じ事ができること。

「離」・・・・師匠の格を破り、自分の格を出す事。つまり、自分の個性がでること。

 信仰の世界の場合、なかなか師匠を超えるというのは難しい点があります。
ただ、長年、信仰をしていると、その人なりのスタイルができるのも事実です。
 行をし、勉強をしているなかで、聖典に書かれている事が自分のものと体感できる
境遇になります。

 例えば、現在の総裁は総裁なりに勉強をして、彼のスタイルでの「生長の家」を作った
し、本流復活派の人たちも、同じように、彼らのスタイルでの「生長の家」を作ったと
言えるでしょう。そういうスタイルは、他の人にも参考になる点はあるとは思います。
 
 が、それらは、その人の信仰のスタイルではあっても、自分にあうか、どうかは別の
話だと思います。つまり、応用としての自分の信仰はあくまでも自分のスタイルであって、
他の人に応用して「効果」があるか、どうかは別の話です。そうすると、自分一人での
信仰の場合は「応用」は大事ですが、みんなで勉強をする場合は、やはり「基本」が
大事だと思います。

 そもそも、生長の家の場合、「師匠」とは、基本的に谷口雅春先生のことだと解釈す
るべきだと感じます。そして、基本とは、生命の実相などの聖典だと考えます。

 これらの聖典を熟読して、その上で、現在の自分の生活にどう生かすかは、各人が精進
すべき課題だと思います。不特定多数が参加するネット上での誌友会での勉強は、この
「基本」にこだわっていくことが大事かな、と感じています。

 みんなで勉強をしていきましょう。

4317トキ:2014/09/14(日) 19:19:04 ID:bXsTMpmc
 生命の実相の第14巻を拝読しましょう。まずはp4です。

 「われ罪の子」の自覚が忽然と消えて、「われ神の子」の自覚に入るのが本当の「生まれ更わり」
でありますが、この「われ神の子」の自覚を得る、というのは、罪を犯しながら、その罪を犯して
いる自分を「これで神の子だ、これで真我だ」と自慢自賛することではありません。罪が外に犯さ
れているのは、まだ「われ罪の子」という偽存在のわれの自覚が潜在意識内に残っているからこそ、
それが具象化して出て来るのでありますから、その偽存在のわれの自覚を「神の子なり」「真我な
り」と名称を付けかえてみましても、それは何も真に「神の子」が自覚されているわけではない。
偽存在のわれに本物の名前を付けかえてみたとて、それは贋物に本物の商標を付けて発表するのと
同じであって、本物の商品を発表することにはならない。本物の商品に本物の名前をつけて売り出
してこそ「本物」を発表したことになるのであります。

(生命の実相第14巻 p4より謹写)

 これは、信仰をする人はよく考え、自戒すべき部分だと思います。

 藤原敏之先生は、「信仰にも筋金が必要だ」と言われました。この筋金がないで、単に「人間、神の子」
という言葉だけで自分の言動を考えると、何をやっても許される、という事になりかねないです。

 あなたは必ず救われる、という本の42pで藤原敏之先生は、信仰の根本は「信」であると書いておられま
した。大事なのは、この「信」だと思います。そこから見るからこそ、日常生活の全てが正しく導かれてい
くと思います。

4318ユタカ:2014/09/15(月) 02:22:09 ID:N20ePDNw
信 から見ると日常が正しくなる。???

意味が良く分かりません。

信 は大切だけど、現在のような運動だと信 って生まれにくくない?

罪が見えるのは、まだ、清まっていないのか。。 前世からの業もあるだろうし、いつになったらきよまれるんだろうか?

4319トキ:2014/09/15(月) 19:06:49 ID:IbMkY2ZM
 人間=神の子の真理は、ひとつ間違うと、自分の言動を全て正当化する手段ともなりえます。
何をしようともその人の本質は神の子だ、ということになると、殺人をしようが、詐欺をしよ
うが、問題がない、ということになりかねません。

 そうではない、人間は神の子であり、自分も神の子である、という自覚が強くなると、自然
と言動が神の子らしくなる、という事だと思います。

4320トキ:2014/09/15(月) 19:17:06 ID:IbMkY2ZM
 悪い習慣を治したい、という人は多いです。この点についても、生命の実相の第14巻には書かれています。
自分の本質が神の子である、という事を知る事が大事なんですね。

-------------------------------------------------------------------------------------

 また「悔い改め」とは、一悪一悪と順次悪を減じて、一善一善と順次「善」を積み立ててゆくということで
はありません。全体の悪が、クラリと光の方向へ転向してゆくことなのであります。

(中略)

 以前には、「この自分は悪いからぜひ治さなければならない」と思いながらも治らなかった。ところが
今気がついてみると、治そうと思いもしないのに治っていたのであります。これでみても、「自分は悪いから
ぜひ治そう」と決心することが悔い改めではない。「悪い自分は無い」と知って、「神と一体である自分」を
見出したときに、そこに「ニセ物のわれ」と「本物のわれ」との置き換えが行われるのであることがわかるで
しょう。悔い改めというのは努力によって「ニセ物のわれ」を捩じ直すことではない、「ニセ物のわれ」を
カラリと捨てて、「本物のわれ」に転向することだということがこれでおわかりでしょう。

14Pより、謹写

4321ユタカ:2014/09/15(月) 23:16:57 ID:N20ePDNw
>>人間=神の子の真理は、ひとつ間違うと、自分の言動を全て正当化する手段ともなりえます。
何をしようともその人の本質は神の子だ、ということになると、殺人をしようが、詐欺をしよ
うが、問題がない、ということになりかねません。

ひぇ〜〜怖いです。
そんな事考えたこともありませんでした。。。
神の子だから、何でもやって許される・・・。恐ろしいですね。。。

その前に、a hopeさま、 強い批判の言葉を書いてしまい、貴女を怒らせててしまい大変申し訳ありませんでした。。
私には攻撃の意思はありませんので、どうか、気を取り直してください、よろしくお願いいたします。

今日は、自動車の安全点検に行って待ち時間に沢山生命の実相を読み進めることができました。そして、往復路で楠本先生の講話を聴ききながら勉強していました。外の景色はたわわに実った稲刈りでした。。。

でっかい声で、ありがとうございま〜〜〜す!! って叫びました。

本当に、有難うございます な世界しかないのが「生命の実相」ですよね。。。

有難うございま〜〜〜す!!!!!

4322ユタカ:2014/09/16(火) 00:12:47 ID:N20ePDNw
第四章 和解の倫理
p57 ここに和解の倫理がハッキリと顕れているのであります。
和解するのは誰と和解するのかというと、「自分を害する家ダニ」と和解するのではないのであります。
「害する者」と和解するのは「害する者」をのさばらせることになるのであります。

たとえば、結核菌 という人間を害する敵と和解することを考えてみます場合、結核菌は人間を害する者だと思いながら結核菌と「和解するつもり」でことさらに結核菌を培養して、これを呼吸器に吸い込むということにいたしましたならば、いかにも結核菌と人間とは和解したように見えるかもしれませんが、

それは、 「実相の結核菌」と和解したのではないのであります。


「生長の家」の倫理学の特色といたしますところは、存在を「実相ほんとうにあるところのもの」と「仮相迷い」とに分けることであります。

そして「仮相 まよい」は存在するように見えても、それは非実在(ない)というのであります。

そして「実相」だけが存在するのであって、 その「実相」は完全であるというのであります。

p、58
大体(だいたい)「仮相」というものは、 あるように見えても「本来無い」− 「無いもの」と和解しようがないのであります。

4323女狐に憑かれたノブタ:2014/09/16(火) 00:22:08 ID:???

 『谷口雅春先生の御著書が高校の教科書になった』

 読みたい人はURLは勝手にしらべて、

 この掲示板には勿体無い記事だから。

4324ユタカ:2014/09/16(火) 00:24:57 ID:N20ePDNw
p、58それで、われわれが「天地一切のものと和解せよ」という場合は、
仮相--われわれに対して毒性または敵性をもって顕れている ウソのスガタ----に和解するのでなくて、

実相----(すなわち、われわれと本来調和し、われわれと互いに生かしあっているその物の内性)と和解することなのです。

p59 対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの,人そのものの実相を見てそれと実相において和解してしまいますと、相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆らいまたは害しなくなるのでありますが、「迷い」に対したり「誤れる見解」に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。(途中略)

だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。
「誤れる見解」は 実相世界にはない、それは「虚説」すなわち「無い説」でありますからわれわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。

虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象、不幸 病気、災厄等があらわれてくるのであります。

=================================

生長の家の教えは本当に間違いなく素晴らしいと思います。

間違った運動を指揮する総裁はいない!!  総裁先生素晴らしい!!

すでに、実相においてはすべてが調和している、実相円満完全。 有難うございます!!!

と、いうことでしょうか??  ユタカにはそういうように思えて、、生長の家ほどの偉大な教えは他には無いと思いすので、教えに沿って教えの通りを歩んでいきたい。。。。

4325ユタカ:2014/09/16(火) 00:52:06 ID:N20ePDNw

ユタカは SAKURAさんと同じで、自分で謹写させて頂いて、感動して感動の連続でした。

素晴らしい生命の実相のお勉強をさせて頂いて、本当にありがとうございます。

a hopeさん、 どうか、お勉強した真理を裁きにするのでなく、実相への感謝に変わると素晴らしいと思います。 合掌。。。

4326ユタカ:2014/09/16(火) 01:19:30 ID:N20ePDNw
そして・・・

自分も、、、、総裁、教団の悪口を言いたい放題、書いてごめんなさい。

心から、大反省しています。

4327a hope:2014/09/16(火) 09:38:48 ID:EsxzJUlc
みなさま、おはようございます!

まだ外出中ですが、ユタカさまに質問です。

ユタカさまはわたしに現象もしっかりと見るようにとご指摘下さいましたが、
ユタカさまは現象の雅宣総裁をご覧になって、
どの部分が実相でどの部分が仮相(迷い)だと思われていますか?

それとも、現象に現れて見える総裁のお姿全てが実相の現れであるから、
その姿に和解すべきであるとお考えですか?

4328ユタカ:2014/09/16(火) 12:58:21 ID:N20ePDNw
A hopesさま ご質問有難うございます。
>雅宣先生のご著書やブログ、祈りの言葉などを拝見していると、雅宣先生は「地球に自然破壊をもたらす罪深い人間」を認めていらっしゃるようにしか見えないのです。ですから、「雅宣先生の教え」は「生長の家」の倫理学から見ると「虚説」となってしまうのです。>「虚説」であるかないかは、わたしの『本心』が判断しているのではなくて、「聖典の教え」をわたしが解釈するとそうなってしまうのです。>この説明で、わたしがなぜ、「雅宣先生の教え」が「虚説」であると感じているかわかっていただけたでしょうか?
ーーーーーーーーーーーー
 このa hopeさまの見解ですと、谷口雅春先生が、人類の悩みを憂いて、その人たちを救おうとして出発した人類光明化運動も、谷口雅春先生が神の子の人間の「実相」を観ないで、悩み、苦しみ、病気の人達の「現象を認めて運動をしているから、生長の家の教え自体が虚説というようになってしまうと思いますが、どうでしょうか?
 先生も、そのような現象の方々をみて愛の心で出発したと思ったのです、またそのようなこともどこかの聖典に書いてありました。、雅宣先生の場合は同じように地球環境運動をなさっているととおもいました。
そいういう意味で、a hopeさまの神の目で愛の目で現象として見えていると処を見てほしいといいました。 ですから大雨で死者がでているのですから、環境運動はとても大切だと私はこう思うようになりました・
 A hope様は聖典に書いてあると仰いますが、聖典、生命の実相はまだまだ半分もここではお勉強が終わっていませんし、聖典といわれるものは他にもまだまだ沢山ありますので、この時点で、雅宣先生のお話を」 「聖典の教え」 を自分で解釈すると虚説になる。
と「聖典」っしゃるとこが私には、野狐禅 (ひとりよがりという感じで私は使いました)に陥りそうだとおもいました。何か、言葉足らずですみませんでした。。。

二番目の質問には、、、
私は教団に復帰しての信徒で、疑問や納得できない処を宇治の楠本長老に何度も何度も質問に行き、そして祈ったり、講話を聞いたり、と、それは、前に練成の様子を書いたのでそれを読まれて下さると分かると思います。そしてついに「有難い!!」と心から思えるようになりました。自分の中でとても納得いたしました。もう私は、昔のユタカではありません。
総裁のなさることを、理解して、総裁を神様として拝んでおります。
今、私の中では、雅宣総裁は、とても大切な 神様の顕れとして総裁先生のことを信じています。

そして、生長の家の運動は、すべて生長の家の大神さまが指揮を執って下さっていることを信じております。

ユタカ 拝

4329ユタカ:2014/09/16(火) 13:07:01 ID:N20ePDNw
a hopeさま

現象を見て というのは a hopeさまが実相にとらわれているように思いましたので、
そのように書いてしまい、大変失礼いたしました。

4330ユタカ:2014/09/16(火) 13:12:54 ID:N20ePDNw
>ユタカさまは現象の雅宣総裁をご覧になって、
どの部分が実相でどの部分が仮相(迷い)だと思われていますか?

そういう意味で、
総裁の実相は神様の顕れで、現状の地球に対して危機感を直観して運動をされているので、そういう意味では現象だと思います。

4331ユタカ:2014/09/16(火) 13:24:26 ID:N20ePDNw
>それとも、現象に現れて見える総裁のお姿全てが実相の現れであるから、
その姿に和解すべきであるとお考えですか?


現象と自分が見ていると
それは現象で、無い現象と和解できないと、ここでお勉強しました。 実在の総裁を拝むのが和解と思います。

4332ユタカ:2014/09/16(火) 13:45:14 ID:N20ePDNw
自分=見ている人 です

4333ユタカ:2014/09/16(火) 14:12:40 ID:N20ePDNw
>総裁の実相は神様の顕れで、現状の地球に対して危機感を直観して運動をされているので、そういう意味では現象だと思います。

「そういう意味」というところに注意して読んで下さい。実相と現象にあえて分けるならです。

ですが、生長の家の運動ですから、神様の運動であると思っていますよ、ユタカは。

4334ユタカ:2014/09/16(火) 14:47:01 ID:N20ePDNw
または、
a hope様のご質問には、最初に現象と仮定されているので、

無い現象に対して、 無いことの質問にはお答えできません。となるのかな???

ちょっと、よくわかりません。。。 すみません、、、。

4335a hope:2014/09/16(火) 20:38:28 ID:cEpBaIdo

トキさま ユタカさま みなさま ただいま戻りました!


わたしのいない間も、web誌友会を続けてくださってありがとうございました。 合掌。

ユタカさま、わたしはユタカさまのことを怒ってなどいませんし、少しも気分を害してなどいませんのでご安心くださいね。

わたしのいない間に、ユタカさまから、わたしa hope宛にたくさんのご質問をくださいました。

時間をかければ、すべてに誠実にお答えすることもできるのですが、今、とても躊躇しています。

なぜなら、質問者のユタカさまご自身が>>4325で、わたしに

<<a hopeさん、 どうか、お勉強した真理を裁きにするのでなく、実相への感謝に変わると素晴らしいと思います。 合掌。。。>>

とご提案してくださっているからです。

もし、わたしが、ユタカさまのご質問に聖典「生命の實相」の真理をあてはめながらお答えすれば、
ユタカさんのお言葉を借りれば、それらのわたしの「答え」の全てが、
また、「お勉強した真理」で「雅宣先生の教え」を裁くということになってしまうからです。

先にも言いましたが、わたしが雅宣先生のことに言及したのは、「仏心」さまからの質問があったからで、
それに誠実にお答えしただけなのです。

それはあくまでも、「雅宣先生の教え」に関してa hope個人の素直な見解を述べただけであって、
雅宣先生の人格や行動を批判したわけでも、悪口を言ったわけでもないので、「裁いた」という自覚がないのです。

それに、a hopeの見解が正しいものであるとは主張していません。

反対に、『正しい「生命の實相」による見解を教えてください』とお願いさせていただきました。

ユタカさまのご投稿内容は何度も拝見していますが、ユタカさまにわたしの見解が解っていただけないように、
わたしにも、ユタカさまの見解は理解できないのです。

ユタカさまとわたしは、おそらくこのまま「雅宣先生の教え」や「現教団の運動方針」の件で討論を続けても、
平行線だと思われます。

それでも、ユタカさまのご質問にお答えした方がよいでしょうか?

それとも、「雅宣先生の教え」と「運動」に関しては今後言及しないということで、
純粋な「生命の實相」のお勉強会に戻りましょうか?

4336ユタカ:2014/09/16(火) 22:34:25 ID:N20ePDNw
a hopeさま

ユタカは、あまり出演しないので、a hopeさまのご自由になさってくださいね。

今回は、宇治にいって悦びのあまり飛び出してしまいました。

4337a hope:2014/09/17(水) 09:25:28 ID:cEpBaIdo

>>4336 ユタカさま

わたしも宇治の練成は何度か受講していますから、その素晴らしさは充分わかっているのです。

今回、加美野先生が宇治別格本山を去られるという情報が流れていて本当に残念に思います。

ですが、すべてが神さまの御心によって動いているような気もします。


ユタカさま、わたしは今までずっと管理人トキさまの大きな愛に甘えて、
このweb誌友会板で自由に発言させていただいてきました。

これからも自由に発言させていただくつもりです。

ですから、ユタカさまもこれからも自由にご参加、ご発言くださいね!

ユタカさまのご質問には、ユタカさまのご要望があればお答えさせていただきます。

4338ユタカ:2014/09/17(水) 23:47:21 ID:N20ePDNw
トキさま

ユタカのPCだと、最新50と検索では4000までしか出てこないのですが、
4000番代が見れなくて話にならないのですが、ユタカのPCのせいか、トキ様の方ですか?

上にあがると、しばらく見えなくなってしまい話が全文見れなくて途切れ途切れで読むので、話がつながっていない気がします・

4300番位から再度閲覧する方法を教えて下さい。

ラスト50と検索では4000までしか出てこないのですが・・・・。ユタカだけ???

4339a hope:2014/09/18(木) 01:12:32 ID:cEpBaIdo

ユタカさま 杢さま(志恩さま)

実相哲学を論じる部屋で、杢さま(志恩さま)からご要望がありましたので、
ユタカまのご質問にお答えしたいと思います。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1387360729/494

(ユタカさまからは、「ご自由になさってくださいね」とのお返事をいただいていますものね)

4340a hope:2014/09/18(木) 01:18:14 ID:cEpBaIdo

(ユタカさまご質問)

>>4309
<<実相 実相のa hopeさま
総裁の書かれていることのどこが間違っていますか? その間違えを教えて下さい。>>


(a hopeの見解とユタカさまの>>4309ご質問へのお答え)

『虚説』というのは誤った思想であり見解である。
いわゆる『悪』と見えるもの(「罪」「病」「死」など)は誤った思想や見解が現象世界に投映されたものである。

――――――――――――――――――――――
●「虚説(迷い・サタン・異端・邪説・雑念)」→【現象世界に投映されると】→ 暗黒化し、「罪」「病」「死」など(仮相)が現れて見える。    
           
○「真説(真理・神・生命・愛・知恵)」→【現象世界に投映されると】→光明化し、「真」「善」「美」などの(実相)が現れてくる。
―――――――――――――――――――――

「虚説に和解してはならぬ」という場合の『虚説』とは、あくまでも「(誤った)思想・見解」のことであって、
現象に現れて見える雅宣総裁のお姿のことをさしているのではない。


だからユタカさまが総裁の実相を見つめ「総裁は信徒を神の子として拝んで、今必要な最前線の運動の指揮を執る素晴らしい総裁」
「間違った運動を指揮する総裁はいない!!総裁先生素晴らしい!!」と信じきることは、
もしかしたら正しい信仰の姿なのかもしれない・・・と、わたしは感じています。


ですが、実際に雅宣先生の思想・見解の表現されたご著書・ブログ・祈りの言葉等を拝見してみると、
わたしには、どうしても雅宣先生のご思想やお考え方に、現象を実在とみている『実相・現象二元論』や、
人間の罪や悪を認めた『善・悪二元論』のいわゆる『虚説』が見えてしまうのです。
それは、ユタカさまがご紹介してくださった、>>4309の「生長の家ってどんな教え?」の抜粋文からも確認できます。

<<午前中、私が「人間に罪はない」とか「神の子である」とか「仏様である」という話をしたのは、「実相において」人間は皆そうだという意味であります。
ところが、実相においては皆すばらしい神の子であるけれども、現象世界に生まれて自由を与えられると人間は「迷う」ことがあるという話もしました。
本来人間は神の子であるにもかかわらず、迷って、神の子にふさわしくない行動をすることがあります。 そういうことがあった場合には現象処理が必要です。>>

上の抜粋文は完全に二元論的考え方なので、わたしには違和感だらけなのですが・・・。


『実相においては皆すばらしい神の子であるけれども、現象世界に生まれて自由を与えられると人間は「迷う」ことがある』(実相・現象二元論)

本当に、現象世界に人間が生まれて「迷う」ことがあるのでしょうか?
「現象なし」「迷いなし」が生長の家の「実相一元」の教えなのだとわたしは認識しています。


『本来人間は神の子であるにもかかわらず、迷って、神の子にふさわしくない行動をすることがあります。』(善・悪二元論)

現象的に罪を犯してしまった人には「社会的制裁」等の現象処理も確かに必要かもしれませんが、
「生長の家」の創始者、谷口雅春先生は、そのように「実相」を悟らないために苦悩している人類に大慈悲の心を起されて、
「生長の火」をかざして人類光明化運動を始められて「生長の家」を出現されられたのですから、
その「生長の火」をまことに法燈継承されている「生長の家」の総裁であれば、
「そのような人には『人間神の子』の真理を伝道し、魂の救済をしてあげましょう。」
というご指導をされるのが当然なのではないかとわたしは感じてしまいます。


もし、わたしのこの見解が正しくて、「雅宣先生の教え」が虚説であった場合、
現在、雅宣先生は信徒の思考や考え方に大きな影響を与える「生長の家」の総裁ですから、
その教えを信仰する立場の信徒も皆、『虚説』を信仰していくことになってしまうのです。

そして『虚説』が現象世界に投映されれば、世界は暗黒化されてしまいます。

わたしは、雅宣総裁の実相を信じ礼拝するということは、総裁の「誤った教え」つまり『虚説』には絶対に和解せず、あくまで「NO」と拒絶し、
生長の家の総裁として大きな使命をもって現教団を守ってくださっている雅宣先生の実相のお姿には大いに感謝し、
そのお姿に和解すればいいのではないかと感じています。

4341a hope:2014/09/18(木) 09:23:05 ID:cEpBaIdo

「仮相(かりのすがた)は本来「無」と知るのが実相への和解」p59


だから、真に和解するとは、「ものそのもの」の完全なる実相を認めその実相と和解することであります。

「家ダニ」を見たならば、吸血鬼であるその仮相を見ず、互に調和した場所において相侵し相傷つけないように造られている「完全なる家ダニ」と和解することであります。

結局「和解する」とは、その「実相」を見て、その実相において完全を観ることであります。


対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの、人そのものの実相を見て、それと実相において和解してしまいますと、
相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆いまたは害しなくなるのでありますが、
「迷い」に対したり「誤れる見解」に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。

「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。

「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまされてしまうのであります。

だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。

「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。

「誤れる見解」は実相の世界にはない。

それは「虚説」すなわち「無い説」でありますからわれわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。

虚説に和解したら自分の完全なる実相が眩(くら)まされ、完全なる実相が眩まされたならば、
その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。

4342トキ:2014/09/18(木) 09:43:41 ID:Yzq10b2Y
>>4338

ユタカ様

 お問い合わせ、ありがとうございました。

 トキの端末では、そういう現象が出ませんでした。他の皆様のパソコンやスマートフォン
などではどうでしょうか? 一度、試して下さり、ご報告をいたただければ幸いです。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

4343トキ:2014/09/18(木) 09:56:49 ID:Yzq10b2Y
 横レス、失礼します。

 私のやや近所にラーメン屋さんができましたが、しばらくしてご主人が来て

「ぜんぜん、はやらない。」

と嘆かれるので、気の毒になり、食べに行った事がありました。
ところが、一口たべて、味が悪いと思いましたが、何となく言いにくく、
その旨を言わずに帰ってきたことがありました。その後、そのラーメン屋さんが
閉店した事をしり、「ああ、あのとき、正直に言ってあげたらよかった」
と後悔をした事がありました。もちろん、そのラーメン屋さんも神の子ですから、
実相は祝福し、讃嘆する必要はあるのですが、だからこそ、ご本人の事を大事に
思うのなら、その人が長期的な視点で見たら、幸福になるような態度を取る事が
大事だと考えます。

 これを現在の教団で言うと、今の教団の指導部の方針は信徒からはほとんど支持さ
れない、おかしな指導を繰り返しています。外部からも、教団は呆れられている
のが実情です。

 このような指導が続くと、ご本人達も不幸だし、それ以上に教団の信徒さんが
もっと不幸です。この時に、その言動の非なる事を教えてあげ、修正するように発言
をすることは、ある種の愛念かと感じます。

 対して、総裁を支持する人の中には、高給につられてヨイショの発言を繰り返す
人もいれば、本心では疑問を感じながらも集団心理に流されて総裁万歳を叫ぶ人も
います。私見では、こういう事は、信仰という観点からは良くないと思います。

 もちろん、憎しみや怨みの念で相手を攻撃するのはよくないですが、忠告をする
事は、別の観点から大いに賞賛されるべきだと思います。

4344a hope:2014/09/19(金) 10:22:53 ID:cEpBaIdo

>>4343トキさま

気の毒なラーメン屋さんと雅宣先生がダブりますね。

人間の魂の救済をするのが宗教なのだとわたしは思うのです。
地球環境を守って、現象人間の命を守るのが宗教の使命ではないですよね?

「現象は心の影」なのですから、地球環境だって人間の心が「実相(神)」に目覚めれば必ずよくなると思うのです。

わたしには、雅宣先生や本部は、その本来の「生長の家の教え」をないがしろにして、
本末転倒の運動をされているように見えてしまいます。

でも、わたしにそう見えてしまうのは、わたし自身に実相をみる力が足りないからなのです。

ますます、三正行に励まなくてはいけませんね!

4345トキ:2014/09/19(金) 19:56:30 ID:NerXWxVU
 生命の実相第14巻に「悪をなす自由」という章があります。

 「人間が悪をも犯しうる自由をなぜ神が与えたのだろうか、という疑問は
読者からたびたび提出される疑問である」

 教団であれ、私達であれ、なぜ間違うか、「悪」をおかすのか。宿題ですね。

(つづく)

4346トキ:2014/09/19(金) 20:04:13 ID:NerXWxVU
 谷口雅春先生は、こう書かれていますね。

 「善とは何であるか。それはまっすぐというだけではない、
善とは人格(すなわち自由の主体)が、その自由なる生命の
発露として正しい道に乗ったことを善という。強制されて正
しい道にのったのは善ではない。」

 と説かれ、

 「本当の善というものは、そして本当の生活というものは、
彫刻においえてノミの運びが横にも縦にもそれる自由がありな
がら、なおかつノミが正しい輪郭を穿ってゆくところに美が
あるように、生活において不正にそれる自由がありながら、な
おかつ正しい生き方をしてゆくところにあるのである。」

とも説かれています。

(生命の実相第14巻 20pと21p)

 間違いをしない人間はいませんが、間違ったとわかったら、
正しい方向へと方針を変える自由も人間は神様から与えられて
います。ただ、それに気がついていない人に、実際の周囲の評価
を教えてあげる事は、決して間違いではない、と信じています。

4347トキ:2014/09/19(金) 20:18:19 ID:NerXWxVU
>>4344

a hope様

 そうですね。新人が誘えないのは、この環境の話があるからです。
新人さんが話を聞きに来る動機は、信仰の話を聞きたいのです。それが、
実際には、どこかの雑誌に出ていたような、環境保護の話では、聞きに
来た人には時間の無駄なんです。

 別に環境保護が間違い、という訳ではないです。が、優先順位はあき
らかに間違っています。本部の職員は高い給料をもらっているので、し
たがうのは当然ですが、私のような末端のヒラ会員は、自分の魂の向上
という本来の目的に向かいたいです。

4348不生の仏心:2014/09/20(土) 13:16:02 ID:zTvAOV2w
>>自分の魂の向上という本来の目的に向かいたいです。

自分の魂の向上、なんというふざけた目的、自然と共に生きることは自分なんてものを抱えていてはできませんよ。

自分もなく他もないところ自他一体ではないですか。

自分の事なんて忘れたときにこそ命は輝くのでは。個の救いなんて言う人は欲かきさんじゃないの。

自分の魂の向上が本来の目的ですか、笑っちゃいます。

4349トキ:2014/09/20(土) 13:31:44 ID:Mecku48I
>>4348

 そうですね。では、大笑いして下さい。
私は、無視して続きを書きます。(笑)

4350不生の仏心:2014/09/20(土) 15:06:49 ID:zTvAOV2w
>>本部の職員は高い給料をもらっているので、したがうのは当然ですが

高い給料もらう本部職員であればトキさんは、信仰に関係なく言うことを聞くとな、 ホントあきれる日和見さんだね

4351トキ:2014/09/20(土) 19:55:44 ID:Mecku48I
「悔い改めとは自卑にあらず」とう御文章が生命の実相第14巻にあります。

 すこし書いてみますね。

 ”それから、「悔い改め」ということは、「自分は悪い」と感ずることではないのであります。”

と谷口雅春先生が書かれていますね。ちょっと、考えてみましょう。

(つづく)

4352トキ:2014/09/20(土) 20:05:30 ID:Mecku48I
 続けて、”「悪い自分」が無くなるということであります”と書かれているのですね。

つまり、11pには、”「自分は悪い」と思うだけでは悔い改めの動機に来ているだけで、
本当の悔い改めにはなっていないのであります。しかしわれわれは別に「自分は悪い」
と思わなくとも、「天地を貫く生命が自分に宿って自分を生かしているのである、そ
の天地を貫く生命こそ本当の自分である」と解って「われの置き換え」が完全にでき
ましたならば、釈迦のように始めから「天上天下唯我独尊」と悟っても、もはやその
人は悔い改めができているのであります。”

と書かれています。そして、13pでは、

 ”後悔と悔い改めとは文字がよく似ていますから混同しますが、悔い改めは、「悪いわ
れ」を置き換えて捨ててしまって更正してしまうのでありますが、後悔というのは、
「悪いわれ」をいつまでも持ち越して、それに引っかかってクヨクヨ思うことであり
ます。”

とも書かれています。

”よく似ていますが、根本的に相違しているのであります”

と書かれているのであります。

4353不生の仏心:2014/09/20(土) 20:10:42 ID:Y5abQZiU
>>「自分は悪い」と感ずることではないのであります。

「自分は良い」と感ずることでもないのであります。

4354a hope:2014/09/21(日) 09:55:45 ID:cEpBaIdo

>>4348 仏心さま

<<自分もなく他もないところ自他一体ではないですか。
自分の事なんて忘れたときにこそ命は輝くのでは。個の救いなんて言う人は欲かきさんじゃないの。>>

↑はトキさまへのメッセージかも知れませんが、横レス失礼します。
仏性さま、「生長の家の教え」では、そういう考え方はしないと思います。

 丁度、今月のテキスト第14巻、第三章にそのことに関連した文章がありますので、
謹写させていただきますね!

4355a hope:2014/09/21(日) 09:57:16 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第14巻 第三章 自他一体と個性生命 
「芸術における個性と普遍」 p34 〜

自と他は一体である。
神とわれは一体である――この事実を認めることが倫理の根本であり、あらゆる善徳はここから流れ出るのであります。
それならば普遍的な大我のみあって、個性生命というものはないのでしょうか。
個性生命とは、無いものを有るかのごとく観ずる迷いでありましょうか。
「自分は阿弥陀仏と一体である」「全体の生命と一体である」ということは、個性生命は本来無い物であって、
個性を没して全体の中に埋没することでありましょうか。
そういうふうに説く思想家もありますけれども、「生長の家」では、そうは説かないのであります。
個性を発揮すればするほど、全体の生命の中に溶け込むことになると説くのであります。・・・(以下略)

4356a hope:2014/09/21(日) 10:01:17 ID:cEpBaIdo

(a hope所感と、仏心さまへの反論)

ですから、個人がその人の個性を発揮して、その人なりの方法で魂を向上させれば、
自他一体の真理が働いて同時に他の人も救われることになるのではないかと思います。

特に、相手の辛い心情に同悲の心を起こすことにより、魂を共振させ、
その上で自分が実相一元の心情になれば、相手も同時に魂を向上させるのではないでしょうか?

この一連の行為が、以前紹介させていただいた「祈り合いの神想観」なのだと思います。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4265

だから、「個人の魂の向上」=「人類全体の魂の向上」であり、それこそ「人類光明化」の基本だとわたしは信じています。

4357不生の仏心:2014/09/21(日) 10:30:19 ID:q9uMnXHU
a hopeさん
引用の文意と私の発言が違うかどうかは知りません。

個性生命は本来無い物であって、個性を没して全体の中に埋没することでありましょうか。
個性を発揮すればするほど、全体の生命の中に溶け込むことになると説くのであります。
_____________________________________________________________________________________
個性を没して全体の中に埋没する、これ言葉のマジックでは、個性を没することができますか?
個性を発揮すればするほど、全体の生命の中に溶け込むことになる、溶け込んだ状態の時の意識なるものはどんなものでしょうか?

『個性』とはどんなものでしょうか?その個性を最大発揮するにはどうすればよいですか?

4358不生の仏心:2014/09/21(日) 10:49:57 ID:q9uMnXHU

特に、相手の辛い心情に同悲の心を起こすことにより、魂を共振させ、
その上で自分が実相一元の心情になれば、相手も同時に魂を向上させるのではないでしょうか?
_____________________________________________________________________________________________
同悲の心だけでなく同喜の心を起こして総裁の魂と共振させて自他の魂を向上させてみてください。
慈悲喜捨と云いますが、捨徳とはどんなものでしょうか?

魂の存在とはどんなものでしょうか?肉体無しで魂有りなんですね生長の家は。

4359a hope:2014/09/21(日) 11:15:24 ID:cEpBaIdo

仏心さま

またまた、たくさんのご公案をいただき心より感謝いたします。 合掌。

わたしは「生命の実相」を悟っていないので、今自分のできる限りの能力で聖典を解釈しての所感をのべているにすぎません。
だから、自分の中では「個の生命(魂)」と「永遠の生命」との関係ははっきりとはわからないのです。

それでも、仏心さまのご公案を神想観をして神様からの知恵をかりながらじっくり考えてみたいのですが、
残念ながら、今日はこれから家族と出かけるので夜遅くにならないと戻りません。

お返事は、今日はできませんのでご了承ください。

それでは、仏心さま みなさま 素敵な休日をお過ごしくださいね!

4360a hope:2014/09/22(月) 12:57:24 ID:cEpBaIdo

(仏心さまからのご質問①)

個性を没して全体の中に埋没する、これ言葉のマジックでは、個性を没することができますか?


(a hopeお答え)

仏心さまのこのご質問の意図するところがよくわからないのですが、
『個性を没して全体の中に埋没する、』とのご指摘の文章は、一部分であって全体をみると、

<<「自分は阿弥陀仏と一体である」「全体の生命と一体である」ということは、個性生命は本来無い物であって、
個性を没して全体の中に埋没することでありましょうか。>>

という、読者に対して語りかけている、もしくは質問して是非を問うような形になっていますよね?

これがどうして言葉のマジックなのでしょうか?


一般的に考えると『個性を没して全体の中に埋没する』とは、頂点に立つ者の専制体制等の社会的状況の中で、
なにかしらの社会的制裁等があるため、個人の「人格の自由」(発想・意志・行動等の自由)が発揮できない状態、
もしくは自分の現状の社会的立場を守るため、自ら「人格の自由」を発揮しない状態みたいなものではないでしょうか?

言い換えると、『個性を没して全体の中に埋没する』とは他から強制的に、もしくは自ら進んで個人の「人格の自由」を抑圧したような状態で、
否応なく全体の流れに身を任せているような状態だと思います。

一方、テキスト中のその後の文章「一個の時計の生命」の例を拝読すると、
「生長の家の教え」では『個性を没して全体の中に埋没する』という状況に陥ることは
「ありえないこと」であるという結論になっています。

そこのところの文章を、続けて謹写させていただきますね。

4361a hope:2014/09/22(月) 13:08:41 ID:cEpBaIdo

>>4355つづき p34 後から3行目〜

これを例にあげて説明するならば、「全体の生命」とは一個の時計の生命と同様な訳であります。

一個の時計の生命は仮に時を精確に計ることにあるとするならば、時計の各個の構成部分が、
この時計全体の生命の中に溶け込むということは、時計の各個の構成部分が(たとえば歯車なら歯車が)
その個性を精確に発揮することであります。

すなわち、一個の歯車は、その歯車としての個性――すなわち、歯の刻み方が正しく、温度によっても直径を増加せず、
精確なる速度で一定の方向へ完全な回転の仕方をするという個性――を完全に発揮することが、
時計の生命の中に歯車の個性を溶かし込むということになるのであります。

歯車の個性が発揮されればされるほど、時計の全体としての生命はいっそう完全に発揮されます。
だから、この場合は、歯車の個性を全体の生命の中に没し去るという語は当てはまらないのであります。
個性を没し去るのではなく、個性を生かせば生かすほど全体の生命に貢献することになるのであります。

右廻りの歯車はできるだけ完全に右廻りに廻転するのがよく、
左廻りの歯車はできるだけ完全に左廻りするのがよいのであります。
右廻りの歯車がその個性を没して、停(とま)ってみたり、左廻りになってみたりするのは、
全体の生命を生かすことにはならないのです。

このことがわかるならば、芸術においても、個性を生かした作品ほど、
その作品に全体の生命(普遍的生命)というものが生きているということになることがおわかりになるでありましょう。

4362a hope:2014/09/22(月) 13:16:05 ID:cEpBaIdo

(仏心さま 質問②)

個性を発揮すればするほど、全体の生命の中に溶け込むことになる、溶け込んだ状態の時の意識なるものはどんなものでしょうか?


(a hopeのお答え)

神との一体感を感じながらの個人の使命達成ですから、
素晴らしい「生き甲斐」を感じることができるのではないでしょうか?

4363a hope:2014/09/22(月) 14:48:43 ID:cEpBaIdo

(仏心さま 質問③ ④)

『個性』とはどんなものでしょうか?
その個性を最大発揮するにはどうすればよいですか?

(a hopeのお答え)

仏心さまのこの二つの質問のお答えには、聖典の内容を拝読していただくのが一番だと思われますので、
以下にテキストの文章を謹写し、その文中からお答えになる部分抜粋し(a hopeのお答え)に換えさせていただきます。

4364a hope:2014/09/22(月) 14:49:45 ID:cEpBaIdo

「行為における個性と普遍」p35 

行為における個性と普遍は、時計において、歯車の行為が個性を完全に発揮するほど、全体の時計の生命を完全に生かすという実例で明らかになったであろうように、
個性もわざと発揮してやろうと思って突飛な行動をとったり、わざと奇矯な行いをしてみたりすることが個性を発揮することでもないことは明らかであります。

個性とはその位置におかれたる小生命(大生命に対する)が与えられたる使命であり役割です。
歯車の歯の間隔(ピッチ)の精確さや、その一定の廻転比率や、回転速度などは、
これを時計全体の生命の遂行の上に歯車が与えられたる使命であり役割であるがゆえに、それは個性として尊ばれるのです。
だから個性を発揮するということは、その一個の歯車が本来設計されている使命のとおりに完全に生きるということであります。

設計されたる使命以外にのさばり出る「我儘勝手」ということは、この歯車の譬えをもっていえば、
わざと正円にならずに歪(いびつ)になってみることや不整な一方に片寄った長短ある歯車となってみることであって個性を発揮することにはならないのです。
そんな不整なでたらめになってみることは、誰でもルーズになりさえすれば、なれることであるから、個性を発揮したとはいえないのであります。

個性とはその人(または物)でなければ、他のものにはできないところの特色でなければならないのです。
すなわちその人(または物)が、大生命から設計されたとおりの特色(使命)を発揮するのが個性を発揮するということなのであります。

4365a hope:2014/09/22(月) 14:51:32 ID:cEpBaIdo

(仏心さまの質問③)

『個性』とはどんなものでしょうか

(聖典のお答え)

個性とはその位置におかれたる小生命(大生命に対する)が与えられたる使命であり役割です。


(仏心さまの質問④)

その個性を最大発揮するにはどうすればよいですか?

(聖典のお答え)

個性とはその人(または物)でなければ、他のものにはできないところの特色でなければならないのです。
すなわちその人(または物)が、大生命から設計されたとおりの特色(使命)を発揮するのが個性を発揮するということなのであります。

4366不生の仏心:2014/09/22(月) 21:22:44 ID:zTvAOV2w
a hopeさん
いろいろ書いて下さりありがとう
後ほど整理して返事しますね。

4367a hope:2014/09/22(月) 22:07:48 ID:cEpBaIdo

>>4358 仏心さま

<<同悲の心だけでなく同喜の心を起こして総裁の魂と共振させて自他の魂を向上させてみてください。>>


(a hopeのお返事)

仏心さまのおっしゃっている意味がよくわからないのですが、「同喜の心」というのは、相手の「喜び」に共感する心という意味でしょうか?

もしかして、雅宣先生や純子先生が八ヶ岳の森のオフィス周辺で毎日キノコ狩りをしたり、
マウンテンバイクに乗ったり、ハーブを栽培したりして優雅に自然と共に生活を送っているその喜びに魂を共振させて、
お二人のように魂を向上させなさいという意味でしょうか?

だとしたら、実相を見る力不足のわたしにはそれはとても無理です。

現在の日本には、人生に悩み苦しみ今日を生きて行くのだけでも精一杯の人たちが沢山いるのに、
わたしには、雅宣先生や純子先生はそんな人たちの悩みや苦しむ魂にはまったく無関心のように見えてしまうのです。
わたしには、お二人は自然と共に生きて行くことを喜んでいらっしゃるだけで、
「生長の家」出現の精神である人類の魂の救済に関しては全く無関心のように見えてしまうのです。
ですから今のわたしには、そのように見えてしまうお二人の「喜び」に自分の魂を共振させるなどということは、申し訳ありませんがとてもできません。

これはわたしの正直な気持ちですが、その他にもたくさんの「生長の家」の信徒の方が同じように感じていらっしゃるのではないかと思います。

4368a hope:2014/09/22(月) 22:10:04 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑤)

<<慈悲喜捨と云いますが、捨徳とはどんなものでしょうか?>>


(a hopeのお答えというか、ウィキペディアによるお答え)

仏教の「慈悲喜捨」について、少しwebで調べてみました。
これは別名「四無量心」のことですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%BF%83

そして、「捨徳」とは、この説明の中の「捨無量心」にあたるものだと思います。

捨無量心――相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す。
単なる無関心を「無智捨」と呼び、捨無量心とは似て非なるものとして、修行者に注意を促している。 (a hopeがウィキペディアの文章より抜粋し、まとめた文章です)

4369a hope:2014/09/22(月) 22:11:58 ID:cEpBaIdo

>>4366 仏心さま

ことらこそ、読んでくださってありがとうございます。 合掌。
お返事楽しみにしています!!

4370a hope:2014/09/23(火) 19:54:23 ID:brQxC10.

>>4358
( 仏心さま ご質問⑥)

魂の存在とはどんなものでしょうか?肉体無しで魂有りなんですね生長の家は。

(a hope お答え)

今はちょうどお彼岸なので「霊魂」についてお勉強すると、ちょうどいい霊供養になるのかもしれません。
以前、肉体が亡くなっても存在し続ける個人の霊魂に関しては、以前このweb誌友会でもかなり詳しくお勉強しました。
(テキストは「生命の實相」第9・10巻 霊界篇>>3626 から>>3750まで)

先ほどさっと読み返してみましたが、志恩さまやトキさまレンゲソウさま、神の子さんなどが、
小林春恵先生のご著書を紹介してくださっていたりして、
とても和やかな雰囲気の中でお勉強が進んでいた様子が伝わってきました。

このようなweb上でのお勉強会であっても、「生長の家の教え」や「生命の實相」をまじめにお勉強していると、
今は現象世界を去られた「生長の家」の大先輩方の御霊が、霊界からお導きくださったり、
ご加護してくださっているような気がします。
本当にありがたいです。合掌。

仏心さまも「魂の存在」について本当のことが知りたいのであれば、聖典を拝読されるのが一番確かだと思います。

これもとても不思議な現象ですが、今回の仏心さまのわたしへの質問への「お答え」になる文章が、
今ちょうど勉強しているテキストの箇所にページをおって順番に現れてくるのです。
やはり、わたしには、何かのお導きがあるような気がしてなりません。
(今回の質問のお答えは、14巻p37から説明されています。)

そこにも、霊魂が死後も存在するということを証明する事例がいくつか紹介されていますが、
前述した霊界篇にはさらにたくさんの事例が紹介され、解説も詳しくされています。
熟読されれば、「生長の家」が死後の霊魂の存在をどのようにとらえているかがわかると思います。

以上で、仏心さまからのご質問にはすべてお答えしました。
それでは、仏心さま、お返事をどうぞよろしくお願いいたします。

4371不生の仏心:2014/09/23(火) 20:18:05 ID:zTvAOV2w
『個性』と『個性生命』と同義語として引用で使われているようなので、先に『個性』を取り上げます。

◎『個性』とはどんなものでしょうか、に対し

●個性とはその位置におかれたる小生命(大生命に対する)が与えられたる使命であり役割です。

○「その位置に置かれた小生命」とは現象に顕現したものを指しているのでしょうか?
「与えられたる使命であり役割です。」誰が与えたのでしょうか。あなたはご自分の使命がはっきりわかりますか?すべての人それぞれが自分の使命をどうしたら知ることができるのですか?
生まれながらに中共の人の使命とは中国に尽くすことになりませんか?
創価学会二世にして学会の教義を信じている人の使命とは学会に尽くすことになりませんか?縁があればこそその位置に置かれたのですからね。

◎その個性を最大発揮するにはどうすればよいですか?に対し

●個性とはその人(または物)でなければ、他のものにはできないところの特色でなければならないのです。すなわちその人(または物)が、大生命から設計されたとおりの特色(使命)を発揮するのが個性を発揮するということなのであります。

○上の個性と同じで『個性』をはっきり知ることか出来なければ、発揮することができないように聞こえます。『個性の説明』であって、個性の自覚に至る説明にはなっていないと思いますが。「大生命から設計されたとおりの特色(使命)」とはどの人間に与えられたのでしょうか?「その位置に置かれた小生命」とはどの人間を指しているのでしょうか?
ちなみにあなたの他人ではできない特色は何ですか?
日曜に教区の錬成があり、最終日の会議の後で久し振りに講師会長と話をしました。理誌100萬運動時の青年会執行委員会の副執行委員長の一人です。本流が何とかという人たちと同時代に活動した人です。彼はその時「使命」を感得して生きていたのでしょうか?そして時代が下り今講師会長として教区の練成会の指導をしている、今の彼は使命を感得していないのでありますか?以前の強化部長、本流を形成する御仁の○○氏から誘いを受けたけれど行かなかったと話していました。彼に大生命が付与した使命とは何でしょうか?彼は時代時代生長の家とともに組織の役を受け生きてきました。「使命」を自覚できていない時に当たり、どのように生きていけば使命を感得できるのでしょうか?その答えは引用の範囲には書かれていないように思います。

4372不生の仏心:2014/09/23(火) 20:51:19 ID:iJ7jcr4U

●「自分は阿弥陀仏と一体である」「全体の生命と一体である」ということは、個性生命は本来無い物であって、個性を没して全体の中に埋没することでありましょうか。

○智慧の言葉にある『宇宙には唯一つの實在がある。それは「永遠の我」という実在である。』と云う時、「自分は阿弥陀仏と一体である」「全体の生命と一体である」と云うように「自分」と「阿弥陀仏」とか「全体の生命」と「一体」とかいうような、「自分」とか「一体」とかの感覚が存在しますか?私は「「無我」「無心」でいるときには「自分」「一体」とかの分離感はありません。「個性」をどういう意味で使っているかが問題でしょう。
「個性」を「個性生命」と同義語として同一文で使うことがマジックに感じるのです。

●一般的に考えると『個性を没して全体の中に埋没する』とは、頂点に立つ者の専制体制等の社会的状況の中で、なにかしらの社会的制裁等があるため、個人の「人格の自由」(発想・意志・行動等の自由)が発揮できない状態、もしくは自分の現状の社会的立場を守るため、自ら「人格の自由」を発揮しない状態みたいなものではないでしょうか?
言い換えると、『個性を没して全体の中に埋没する』とは他から強制的に、もしくは自ら進んで個人の「人格の自由」を抑圧したような状態で、否応なく全体の流れに身を任せているような状態だと思います。

○これは現象界での「行動」についての事であり、生命に「永遠の我」「全体の生命」と名付けるものと「個性生命」と名付けるものとが存在するかと云うテーゼの説明になっていますか?「個性生命」と云うものが永遠の存在であるか、肉体同様の仮存在なのかの説明にはなっていないのではありませんか?『個性』が巷で言う肉体あるが故の後天的に獲得した性格を指すのでなく、実相の世界と云われる永遠性のある世界に於いて個別の永遠性のあるものとして人間が存在するのか、そしてその実在人間に『個性』が存在するのか、それらがはっきりした上でなくては、話が進まないと考えます。

智慧の言葉にある『宇宙には唯一つの實在がある。それは「永遠の我」という実在である。』

この意味をお分かりですか?どのように受け取られていますか?

4373不生の仏心:2014/09/23(火) 21:57:02 ID:zTvAOV2w
●仏心さまのおっしゃっている意味がよくわからないのですが、「同喜の心」というのは、相手の「喜び」に共感する心という意味でしょうか?
もしかして、雅宣先生や純子先生が八ヶ岳の森のオフィス周辺で毎日キノコ狩りをしたり、
マウンテンバイクに乗ったり、ハーブを栽培したりして優雅に自然と共に生活を送っているその喜びに魂を共振させて、
お二人のように魂を向上させなさいという意味でしょうか?

だとしたら、実相を見る力不足のわたしにはそれはとても無理です。

○これは異な事を云われる。よく言われるように、『同悲の心』を起こし相手の悲しみを取り込んだうえで実相を観ることにより、相手の悲しみは無の本性を現して消える、それによって実相を観る力も付き、悲しみに泣きくれる人も共に救われる、相共に救われるとあなたが言ったのです。泣きくれることが錯覚より来るのと同じで、雅宣総裁が誤れる「喜び」に浸っているというのであれば、『同悲』と同じで先ず「喜びを同じく」した上で彼の実相を観るということを何故しないのでしょうか?悲しみには共感するけれど喜びには共感しないというのですか?

●霊魂が死後も存在するということを証明する事例がいくつか紹介されています

○之については以前書きましたが、『魂の向上』を果たし地上を卒業し高級霊界?にいずれ移行するということでありますと、訓練して魂の向上をしなくてはならない『魂』は何時存在に入ったのでしょうか?神の構図として天皇中心の地上世界が存在すると云いながら、地上を卒業した高級霊が存在するとするのなら、霊界にも天皇は存在し、地上を去った天皇(天皇の魂)は地上では最高権威者であったわけですが霊界ではどのようなことをされているのですか?
個別霊が永遠であるとすれば、霊界を含む一切の 人間の数は決まっているということになります。地上にはいつまで人間は誕生するのでしょうか?低級霊の住む天体から生まれ変わって来るというような事を云われていますが。神の子がなぜ低級霊と呼ばれるような魂に何時成ったのでしょうか?

4375a hope:2014/09/24(水) 09:46:15 ID:cEpBaIdo

仏心さま 

お返事をたくさんありがとうございます。
そしてまたまた、a hopeへのたくさんのご公案があって本当にうれしいです。合掌。

わたしは聖典を拝読していてその内容に感動はしますが、その内容について「考える」ということはまったくしません。

ですが、、仏心さまからご公案をいただくとそのことに関して自分の力で考えなくてはいけなくなるのです。

それが、とても自分自身のお勉強になっているような気がします。

ひとつひとつ、ゆっくりお返事させていただきますね!

4376a hope:2014/09/24(水) 10:04:16 ID:cEpBaIdo
>>4375補足

わたしは聖典を拝読していてその内容に感動はしますが、その内容について「考える」ということはまったくしません。

わたしは聖典を拝読していてその内容に感動はしますが、その内容【の真偽】について「考える」ということはまったくしません。

4377a hope:2014/09/24(水) 19:32:15 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑦)

「その位置に置かれた小生命」とは現象に顕現したものを指しているのでしょうか?


(a hopeのお答え)

「甘露の法雨」の『人間』の項目に

・・・神は人間の光源にして
人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源はなく、
光源の無き光はなし。
光と光源とは一体なるが如く
人間と神とは一体なり。・・・

というくだりがありますが、仏心さまご質問の「小生命」(大生命に対する)は、
わたしには、この「甘露の法雨」の『人間は神より出でたる光なり』というイメージがとてもぴったりときます。

実相一元・善一元の絶対的世界におられる神さまが、光だけの世界では闇の暗さがわからないからと、
自分の分身である小生命(神の子)を相対的世界である現象世界(暗の世界)に放射されました。

小生命は本来「光そのもの」ですから、そのままの姿であれば、暗の世界を明るく照らすだけで、
やることなすことすべてが「善行」となってしまいます。

でも、すべての小生命が「光そのもの」の姿であったら、現象に「暗」はなくなりってしまい、
それでは誰も「光」(善)とは何かがわかりません。

そこで、神さまは、わたしたち現象人間に「人格の自由」をお与えくださり、
悪をも、罪をも犯す自由をお与えくださったのではないかと思います。

ですが実際には、現象世界のすべての出来事はスクリーンに映った仮相であって、
小生命そのものは本来「光そのもの」ですから、現象世界で人間が悪や罪を犯しているように見えているのは、
スクリーン上で映画俳優たちが上手に悪役を演じているようなものであって実在ではなく、
わたしたちに映像で「悪」や「罪」を見せてくれることで、「善」とはなにかを教えてくださっているのだと思います。


前置きの説明が長くなってしまいましたが、ですから、「その位置に置かれた小生命」というのは、
神さまから現象世界に放射された位置(現象世界に映されているその立場)ということになるのではないでしょうか?

4378a hope:2014/09/24(水) 19:34:48 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑧)

「与えられたる使命であり役割です。」誰が与えたのでしょうか。

(a hopeのお答え)

大生命(神さま)です。

4379a hope:2014/09/24(水) 19:36:11 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑨)

あなたはご自分の使命がはっきりわかりますか?


(a hopeのお答え)

はい。大きな使命としては人類光明化ですが、小さな使命としては自分自身が実相を悟ることです。

4380a hope:2014/09/24(水) 19:37:40 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑩)

すべての人それぞれが自分の使命をどうしたら知ることができるのですか?


(a hopeのお答え)

三正行に励めばいいと思います。

4381a hope:2014/09/24(水) 19:38:49 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑪⑫)

生まれながらに中共の人の使命とは中国に尽くすことになりませんか?
創価学会二世にして学会の教義を信じている人の使命とは学会に尽くすことになりませんか?


(a hopeのお答え)

人それぞれ置かれた立場がちがいますが、すべての出来事に意味があるとは思います。
それが本当の使命かどうかは、その人が「本当の生き甲斐」を感じるかどうかで判断できるのではないでしょうか?
今のわたしにとっては「生長の家の教え」が「本当の生き甲斐」=「悟り」へ向かう最高の指針となっていますから、
自分のできる方法で「生長の家」に尽し、恩返しをしたいと思っています。

4382a hope:2014/09/24(水) 19:40:42 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑬⑭)

上の個性と同じで『個性』をはっきり知ることか出来なければ、発揮することができないように聞こえます。
『個性の説明』であって、個性の自覚に至る説明にはなっていないと思いますが。
「大生命から設計されたとおりの特色(使命)」とはどの人間に与えられたのでしょうか?
「その位置に置かれた小生命」とはどの人間を指しているのでしょうか?


(a hopeのお答え)

上でもお答えしましたが、『個性』=『使命』をはっきり知るためには、三正行が大切だと思います。
すべての人間が神から放射された光であり「神の子」なのですから、すべての人間に使命は与えられているはずです。

だから、「その位置に置かれた小生命」とは、すべての人間を指していると思います。

4383a hope:2014/09/24(水) 19:41:44 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑮)

ちなみにあなたの他人ではできない特色は何ですか?


(a hopeのお答え)

ここにきて、急に、就職試験の面接を受けているような気分になりました(笑)。
真面目にお答えしますね。

「あきらめないことです。」

4384a hope:2014/09/24(水) 19:44:31 ID:cEpBaIdo

(仏心さま ご質問⑯⑰⑱)

日曜に教区の錬成があり、最終日の会議の後で久し振りに講師会長と話をしました。
理誌100萬運動時の青年会執行委員会の副執行委員長の一人です。本流が何とかという人たちと同時代に活動した人です。
彼はその時「使命」を感得して生きていたのでしょうか?
そして時代が下り今講師会長として教区の練成会の指導をしている、今の彼は使命を感得していないのでありますか?
以前の強化部長、本流を形成する御仁の○○氏から誘いを受けたけれど行かなかったと話していました。
彼に大生命が付与した使命とは何でしょうか?
彼は時代時代生長の家とともに組織の役を受け生きてきました。
「使命」を自覚できていない時に当たり、どのように生きていけば使命を感得できるのでしょうか?


(a hopeのお答え)

「生長の家」の講師会長として教区の練成会の指導もされている方でしたら、
わたしになど相談しなくても十分ご自分でお答えがわかっていらっしゃるのではないでしょうか?


<<彼はその時「使命」を感得して生きていたのでしょうか?>>

本当の生き甲斐・喜びを感じていらしたなら、そうだったのではないでしょうか?


<<彼に大生命が付与した使命とは何でしょうか?>>

「生長の家」にご縁があった方だったらすべての方が、人類光明化という使命を神さまから与えられているのだと思います。


<<「使命」を自覚できていない時に当たり、どのように生きていけば使命を感得できるのでしょうか?>>

何度もいいますが、三正行だと思います。
生長の家の信仰の基本に戻ることだと思います。


今日のお返事は、ここまでにさせていただきます。 感謝 合掌。

4385a hope:2014/09/24(水) 19:51:49 ID:cEpBaIdo

(補足)

わたしの言う「三正行」とは、

聖典・聖経の拝読
神想観
愛行

の三つですが、雅宣先生の祈りの言葉、神想観、讃歌、ご著書等は含んでいません。

4386a hope:2014/09/25(木) 09:48:11 ID:cEpBaIdo

みなさま、おはようございます。

仏心さまのご公案に答えてばかりですと、テキストの内容が進まないのでテキストの方も少しずつお勉強していきますね。


「虚説に和解してはならぬ」p60

虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。
『生長の家』誌友の中で近ごろ脱線し「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり、
「現象も真我のあらわれである」という説に惑わされたりした人がありました。
その理由は、われわれは天地一切のものと和解しなければならないから、「物質はある」という説と和解したとき、
本当の真理がかえってわかるのだという理論から、虚説に対しても一応は耳を傾けなければならないというわけだったのであります。

われわれは天地一切の実在(もの)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。
「人は二人の主に使えることはできない」という諺があります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。
迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界がままならぬ相(すがた)にあらわれてくるのであります。

・・・ (略)・・・

「なんじの敵を愛せよ」といったイエス・キリストでさえも、「サタン」に対しては和解していないのであります。
イエスが四十日四十夜、精神統一の修行をしている時、そこに幻のように現れたサタンに対しては、イエスはそのサタンの邪説に耳を傾けようとしないで、
「神を試むべからず、サタンよ退け、主なるなんじの神を拝し、ただそれのみの事(つか)うべし」と、一喝しているのであります。

この場合、サタンとは異端、邪説、妄説、妄想、雑念のことであります。

「ただ神のみ――ただ実相のみを観よ」ということが、「主なる汝の神を拝し、ただこれのみに事(つか)うべし」ということです。

そのほかの妄説妄想には決して、耳を傾けてはいけない。

ただ「サタンよ、去れ」と一喝しているところに、イエスの示されたる「サタンに和解するな」との範例をわれわれはみなければならないのであります。

4387a hope:2014/09/25(木) 09:50:05 ID:cEpBaIdo

>>4386 a hope 所感)

ユタカさまが >>4309で雅宣先生の「生長の家ってどんな教え?」中のご指導内容をご紹介くださり、
わたしが>>4340でそれは二元論で虚説になってしまうのではないか?
と意見させていただいた根拠となる文章が上に謹写させていただいた「虚説に和解してはならぬ」です。


<<「ただ神のみ――ただ実相のみを観よ」ということが、「主なる汝の神を拝し、ただこれのみに事(つか)うべし」ということです。>>

とここには、はっきり、「ただ神のみ――ただ実相のみを観よ」と書かれていますよね。


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