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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

2677純粋教理批判:2015/09/25(金) 14:40:01 ID:DD4jWV6M
わたしがいっている人間中心主義はヒューマニズムです。トキさんがいっておられるのはエゴイズムです。両者はまったくちがいます。

論点をヒューマニズムとしての人間中心主義にしぼっていただくことをのぞみます。

自然破壊をいかにして正当化するか。正当化するにあたって大きな役割を果たしたのが一神教です。自然界の万物に神がやどるとする多神教やアニミズムでは環境破壊はとうてい正当化されるものではありません。多神教やアニミズムを否定する一神教のほうが、環境破壊を正当化するには都合のよい考え方であるのはたしかな事実です。

一神教であれば「牛は神があたえたものだ」とする言い方が成り立ちます。多神教やアニミズムにおいてもこうした言い方を成り立たせることはあるとおもいますが、それにはかならず「礼をもってなされなければならない」といったような条件がつくはずです。

こうした条件を取り払って人類の好き勝手ができるようにしたのが一神教であるともいえます。宗教と環境破壊はけっして無関係ではありません。生長の家では「感謝して食する」というはずですが、一神教は、多神教やアニミズムを奉ずる人類が当然のこととしてなしていたであろう感謝の思いでさえも取っ払ってしまったという気がしてなりません。

2678曳馬野:2015/09/25(金) 17:54:21 ID:JPiKJZkg

>>2677

「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、という人がいますが、「神が心に浮かべた理念が人間だ」といわれますね、そんな人に訊いてみたい、「あなたが神であるのなら、理念としての何物かを造ってみて下さい」と、性質としては神と同じと説いてはいるけれど、神が心に浮かべたものが人間と云うことになると、人間が理念として出来上がる前に神は存在したことになります。この言い方には創造主としての神と被創造物の人間とが別々に存在しているように聞こえる。

「神は姿かたちの無いもの」として説かれている生長の家で『人間は神だ』と云うことと『神とは人間の実相だ』とは同じことになりますので、人間も姿かたちの無いものと云うことになります。しかし人間がこのような姿かたちをしている元が理念と説いていると思います。

『人間』とは何なのでしょうか、この肉体はどのようなものなのでしょうか?人間なるものの誕生以前に神というものが存在したのでしょうか?人間は無始無終に生き通すものとも言われているのではないですか?神が作り出すまでは存在していなかったということですと、この辺も変です。

こういう点で生長の家の話には疑問を持ちます。一神教に関して別の観点から。

2679トキ:2015/09/25(金) 19:04:13 ID:C6YPV.Os
>>2677

純粋教理批判様

 ご投稿、ありがとうございます。アニミズムなどでは、確かに人間が好き勝手なことが
やりにくくなります。古神道やアイヌの信仰もそうですが、アメリカン・インディアンの
信仰などが、おそらくは純粋教理批判様の思考とかなり近いものではないか、と想像して
います。人間も生態系の一部という発想は、確かにアニミズムの信仰では大きな部分を
占めますから、環境破壊は起こりにくいでしょう。

 問題は、このようなアニミズムの信仰が現代の社会では主流派にはなり得ないことです。

 例えば、アメリカン・インディアンと言われる人たちでも、自動車に乗ります。小林よしのり
さんによれば、現代、北海道ではアイヌの純粋な生活をしている人は皆無に等しいと言います。
古神道にしても、現代の日本ではかなり信仰する人は少ないでしょう。その理由は単純で、
現代の人間には説得力が少ないからです。

 環境維持を声高に唱える生長の家本部の人たちも、北杜市の「職員寮」の写真を見ると、
ハイテクの建物であるのはすぐにわかります。

 確かにスピリチュアルな観点からは、アニミズムというのは勉強になるのは事実です。
しかし、現代のハイテクな時代に生きる人間に、近代はおろか原始時代の信仰が「環境に良い
から」と推進することは、実現の可能性という点ではかなりの問題はあると思います。

 それに、アニミズムの信仰にも危険性はあります。

 例えば、古代のマヤ文明の信仰などでは、人間を生贄にしていました。アニミズムは環境保護
という視点では良い点があっても、それ以外の点で問題がないわけではありません。暴走する
危険性はアニミズムでも同じだと考えています。

 それと。

 一神教が環境破壊の原因か、どうかは私はわかりませんが、これを肯定したとしても、例えば
アメリカン・インディアンの信仰では、天地の創造主という発想をします。これもアニミズムで
はあるが、一神教であると理解することが可能です。すると、一神教でも環境破壊にならない、と
考えることも可能です。問題は信仰の中身だと考えます。

 現象としての人間には、問題はありますが、同時に、神様から与えられた知恵というものがあり
ます。環境の問題は、人間に与えられた宿題ではありますが、知恵と愛とで十分に解決できるし、
それで十分だと思っています。

2680純粋教理批判:2015/09/25(金) 22:01:56 ID:DD4jWV6M
>>2678

わたしは神(外部)と実相は別個のものと考えています。それぞれが不生不滅と考えています(というか考えるよりほかはない)。人間とは何かというと、外部の侵入によって内部の内部へと収縮した実相と、実相と外部との相互作用によって生じた文字情報がつくりだした物質体とでもいうべき実体とで成り立っていると考えています。

神(外部)の思念ということでいえば、外部はつねにすでに人間を思念しているともいえます。たとえ思念していたとしても、外部は実相との相互作用なくしては人間をつくりだすことがでない、実相との相互作用があってはじめて外部の思念は人間をつくりだすことができる、とこのように考えます。

生長の家の考え方はわたしには説明できません。曳馬野さんの問いかけに、誰でもよいですから答えていただきたいとおもいます。

2681純粋教理批判:2015/09/25(金) 22:04:20 ID:DD4jWV6M
>確かにスピリチュアルな観点からは、アニミズムというのは勉強になるのは事実です。
しかし、現代のハイテクな時代に生きる人間に、近代はおろか原始時代の信仰が「環境に良い
から」と推進することは、実現の可能性という点ではかなりの問題はあると思います。

アニミズムの復活。いくらなんでもこのようなことを考える現代人は少ないでしょう。しかしもわたしが「アニミズムを復活させよう」というがごとき単純な提案をするはずがないでしょう。

トキさんにはどうもある種の傾向がおありのようです。人間中心主義の解釈もそうでしたが、ものごとをより単純な方向へと引っ張っていく傾向があおりのようです。わたしはむしろ複雑性について語っております。無限判断でしか到達できない複雑性について語っております。アニミズムに反しはしないがアニミズムで説明できる話ではないと考えております。

わたしは「複雑性」と呼ぶにふさわしい外部を語っているのです。複雑な外部へとつながること、このことをいっているのです。かつての人類はたしかに外部とつながっていたはずです。アニミズム信仰とは古代人が外部の神々(複雑性)とのつながりを抽象化することができずに、「今ここにある事物」をとおしてしか神々とのつながりを実感できなかったことによっておそらくは生じたものでしょう。

外部からはつねになんらかのメッセージが寄せられています。これをハイデッガーは「告げ知らせ」と呼び「語り」と名づけ「良心の呼び声」と哲学者らしからぬ命名をさえいたしました(ハイデッガーは現代人のなかでも最高の哲学者と考えられている人物です。原始的思考の持ち主ではありません)。

現代人が古代人とちがうところは左脳自我を発達させたことです。ものごとを抽象化する能力は古代人の比ではないでしょう。たしかに左脳自我は外部のメッセージを聞くことのさまたげにはなりますが、外部のメッセージにたいする認識を飛躍的に向上させたのも事実です。

外部からのメッセージを受け取った現代人が、外部からのメッセージが「今ここにある事物」から発せられていると考えるはずがありません。「アニミズムの復活を」などと考える必要はどこにもありません。

2682純粋教理批判:2015/09/25(金) 23:14:20 ID:DD4jWV6M
曳馬野さんが言っておられることとおなじかどうかはわかりませんが、「神とは人間の実相である」との奇異な表現に接したとき、ホープさんは「人間と人間の実相をわけて考えておられるのか」との印象をもちました。

人間と人間の実相が異なるのであれば「人間とは何か」の疑問がとうぜんのごとくでてまいります。文献を示すことはできませんが、生長の家の教えには「神は人間に自由なる意思をあたえた」とあるはずです。「神は人間の実相に自由なる意思をあたえた」とは書いてないはずです。

生長の家でいうところの人間とははたして何なのか。つきつめていえば「人間の実相」というものがあるのか、こうした疑問がとうぜんのごとくでてくるものと考えます。

2683純粋教理批判:2015/09/26(土) 12:52:55 ID:DD4jWV6M
人間中心主義といいアニミズムといい、トキさんはわたしの考えを意図的に矮小化してのらりくらりとかわそうとしておられるのでしょうか。

人間中心主義のときがそうです。わたしのいう人間中心主義とは「おのれの言葉をもって真理となすこと」と定義を伝えましたが、これにたいする応答はまったくなされておりません。

矮小化できぬとみるやべつのテーマに話をそらす。こういうお考えなのでしょうか。時間がおありのときに答えてください。

2684トキ:2015/09/26(土) 15:32:30 ID:WioOy7Dk
>>2683

純粋教理批判様

 ご投稿、ありがとうございます。時間がないので簡単になりますが、
ご容赦ください。

 最初にお尋ね申し上げたいのですが、

人間中心主義という言葉を聞いて「おのれの言葉をもって真理となすこと」と定義
する人がどれだけいるでしょうか? この言葉は、肯定的にも否定的にも使えると
思いますが、おそらく純粋教理批判様の言われるような定義を思い浮かべる人はほ
とんどいないのではないでしょうか。

 確かに、特定の信仰や政治的な信念を持つ人には、自分の主義主張を通すために
は手段を選ばない人もいます。それはそれで人間の歴史の上でいろいろな経験から
好ましくない、という教訓を得て、現在の人権規定という形になっています。

 イスラムの教えは、平和な教えですが、その信仰を悪用してテロや戦争をしている
人はたくさんいます。どんな信仰もイデオロギーも、この問題から逃れなれないとい
うのが私個人の考えであります。

 それはともかく、純粋教理批判様への返事は書きますが、同時に不特定多数の人が
この掲示板を読んでいることも理解をしています。純粋教理批判様を満足させられ
ないのは、うのはな様が言われるように、私が無能だからというのが最大の理由で
すが、同時に不特定多数の人も理解できる表現にする必要にある、という考えも
言い訳にしております。

 純粋教理批判様の提示される問題はどれも複雑な問題ばかりです。複雑な問題を
そのまま議論をしても、見ている人は混乱するばかりです。やはり、論点を整理し、
論点ごとに議論をするのが普通かと思っています。

 というのが、現時点での私の考えであります。

2685トキ:2015/09/26(土) 15:35:06 ID:WioOy7Dk
>>2680

>>わたしは神(外部)と実相は別個のものと考えています。

 そのお考えを前提にすると、神と実相を生み出した別の存在がある、という
結論になると思います。そう考えてもいいのでしょうか?

2686純粋教理批判:2015/09/26(土) 16:57:43 ID:DD4jWV6M
>人間中心主義という言葉を聞いて「おのれの言葉をもって真理となすこと」と定義
する人がどれだけいるでしょうか? この言葉は、肯定的にも否定的にも使えると
思いますが、おそらく純粋教理批判様の言われるような定義を思い浮かべる人はほ
とんどいないのではないでしょうか。

わたしはこのように定義いたしました。ほかの人がこのように定義しようがしまいが、関係のないことです。具体的な事例も示しました。問題はないと考えます。

もちろんふつうの人がこのように定義する必要はありません。宗教が環境問題に取り組むときにこうした定義が必要になるだろうということです。

>そのお考えを前提にすると、神と実相を生み出した別の存在がある、という
結論になると思います。そう考えてもいいのでしょうか?

そうですね。神と実相(おそらく複数の実相が存在するとおもいますが)ははじめから存在したと考えることもできますし、べつのなにものかがつくったとも考えることは可能でしょう。しかし後者の場合だと、究極の創造者を想定しなければならず、けっきょくは神一元の世界ということになってしまいそうです。

究極の出来事を考えるにあたって問題になるのは時間ということになるでしょう。はじめから存在したということは、無限の過去から存在したということでありますから、時間の経過は事実上不可能ということになります。

カントの二律背反(アンチノミー)がこのことを示しています。二律背反は思考の対象が非在であることを示しているのでしょう。時間というものはほんらいないものなのでしょう。しかし人間は時間の概念なしには事物の変化を考えることはできないので、どうしても二律背反におちいってしまうと考えられます。

神と実相ははじめから存在した。わたしはこのように考えますが、時間の概念を当てはめてこれを考えはじめた途端に、人は二律背反におちいることになります。

いずれにしても外部のことはなにもわかりません。外部はあると想定するしかない、外部が何であるかは想像するしかない、ということです。

2687純粋教理批判:2015/09/26(土) 18:51:57 ID:DD4jWV6M
神一元の世界では存在するのは神だけですから「神は人間に自由なる意思をあたえた」は「神は神に自由なる意思をあたえた」となります。たしかに違和感のある表現です。

生長の家の教理が、実相と現象、完全と不完全、霊と物質といった二項対立でできているということはすでに述べました。天地創造時の出来事というような究極の出来事を説明しようとするとき一元論は二項対立をもちいることができなくなる、という事態を上記の違和感は示しているものとおもわれます。

一元論に二項対立はほんらいない、ということです。神の一項しかないということです。神の一項しかないにもかかわらず二項対立を立てなければ真理を説明できない。このことからおそらくは矛盾や疑念が生じます。

人間というものは、実相という意味でも現象という意味でもほんらいないものなのでしょう。ないにもかかわらず、神にたいして人間という項を立てなければ真理を説明できない。それでやむなく人間という項を立ててしまうことになるのでしょう。

人間という項を立てたからには人間とは何かを説明しなければならなくなる。天地創造がいかにしてなされたかを説明しなければならなくなる。「神が人間に完全なる自由をあたえた」といわなければならなくなる。

一元論の真理とは「神が神を神した」これがすべてなのでしょう。二項対立にまどわされることなく雅春先生の教えが理解できれば問題などおこるはずがありません。真説と虚説の二項対立をたてるがごときやり方は、雅春先生の教えとは何の関係もないということです。

これ以上の長居は無用です。ではこれにて。

2688トキ:2015/09/26(土) 20:01:28 ID:WioOy7Dk
>>2686

純粋教理批判 様

 ご投稿、ありがとうございます。純粋教理批判 様はさすがに頭の良い方で、
私の投稿から以下のような結論を導かれました。感服しております。

>>しかし後者の場合だと、究極の創造者を想定しなければならず、けっきょくは神一元の世界ということになってしまいそうです。

 私はこの立場で考えております。

 しかし、これでは、純粋教理批判 様は全然、つまらないでしょうから、

>>神と実相(おそらく複数の実相が存在するとおもいますが)ははじめから存在したと考える

という前提で考えるといたしましょう。

 すると、この場合の実相は、いわばプレーをするグラウンドみたいなものであり、そこで
プレーをする選手が「神様」ということになります。この理解で間違いがないかしら?
間違いだったら、ごめんなさい。

 すると、それ以前の存在は、どうして生まれたのか、という疑問は当然に生まれます。究極の
創造者を想定しない、ということは、それ以降の説明を「わからない」とするしかありません。

 つまり、この説は、この点の説明を放棄することでしか成立しません。

 この掲示板なども、最初、トキという人物が掲示板を開設し、そこに、純粋教理批判 様という
頭の良い神様や、うのはな様のような女神様や、訊け管理人のような美男子の神様が登場して、
いろいろな投稿が来て、それで成立しているわけです。

 バーチャルな空間ですが、いろいろな主体が意識を持って文章を書かれていて、それに伴い
同意する投稿も反対する投稿も来るわけです。

 しかし、実際には、それぞれの投稿者は、リアルな人格を持っているわけで、このバーチャル
な空間での人格は、その一つのあらわれにすぎません。

 これが最初から、そうなっているというなら、それはその通りですが、しかし、一歩突っ込んで
探求すると、さらにある種の宇宙意志が働いているという理解が可能だと思います。

 現在の人間の科学や知見では、このレベルになると検証が不可能なので、ブラックボックス
にするしかありません。あとは信じるか、信じないか、ということです。

 私は、その議論で、最高の創造主が存在すると信じる立場でいます。

2689トンチンカン:2015/09/28(月) 10:24:28 ID:z9V4A.MQ

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『純粋教理批判』とのHNを使っての、「曳馬野ご一統」の ≪大アラシ≫ が吹き過ぎ
たのだが・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・『純粋教理批判 様はさすがに頭の良い方で』。。とは、トキ監理人お一人だけ・・

・大多数は、読みたくもナイ「哲学風文章」なので、アラシの過ぎるのを待っていた!!




(参考) <生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板>
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[603] マサノブ大センセイに問う・・・
頭の悪い信徒 - 2015年09月20日 (日) 10時32分


稀なる才能をお持ちの大哲学者・マサノブ大センセイは、『イデア論』と言うコトバを多
用されますが、『イデア』という外国語を使わずに、『イデア』を分かり易い日本語で置
き換えて頂けませんか?

 この横文字・カタカナ文字がわれわれの様な頭の悪い凡人にはよく分からないのです。
しかし、これが出来なければ、大センセイが本当に『イデア論』なるものを理解されてい
るとは思えないのですが・・・


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[669] 未だ、回答ナシ・・・・・
遮那王 - 2015年09月27日 (日) 09時56分


マサノブ大センセイは、「おのれの言葉をもって真理となそうとすることをイデア論とい
うのだ」という。しかし、これは、マサノブ大センセイの考えている「イデア論」の中味
の説明である。

われわれの教えて欲しいのは、「イデア論」というカタカナの外来語を的確な日本語で三
文字か四文字で置き換えて欲しいと云う事なのだ。

結局、マサノブ大センセイは答えられないのだ。マサノブ大センセイの言う「真理」とい
う言葉の中味も自分勝手なオカシナものだ。

マサノブ大センセイは、一般信徒には難解な哲学用語を多用して書いているが、全然、脚
が地に着いていない。信徒の悩みの解決指導など出来ない。これが、信徒の浄財から超高
給を得てパソコンと自然相手に優雅に遊び暮らす『宗教貴族マサノブ』の正体である。

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2690トキ:2015/09/28(月) 20:34:39 ID:KnbhRwFc
>>2689

 コメント、ありがとうございます。

 純粋教理批判様のような哲学的な観点からの批判は、おそらく多数の方からは反発が来る
と思います。ただ、外国人の中には、実相と神の関係について、理詰めでないと納得しな
い人もいるので、全く無駄というわけではあいとは思います。釈尊もキリストも、理論化
よりも、純粋に神様の言葉を伝えるという点に力点を置かれたと思います。が、時代を経過
すると、経典の編集が始まり、そこから教義の理論化が始まり、いつしか開祖や教祖の発心
よりも、教義の理論化や体系化に関心が集まります。西洋人ほどでもないですが、日本人
でも教義の理論に深い関心を持つ人がいるので、こういう問答が生じる可能性はあると思います。

 親鸞についても、嘆異抄で唯円が教学の過剰な理論化を嘆いています。臨済宗は理屈を
嫌うと言いますが、実際に公案をとくとなると、教義の勉強をしないと解けないと言います。

 私個人は、こういう教義の理論化や体系化が行き過ぎると、民集から乖離した存在に
なる危険性があると危惧はしています。が、そういう点について、質問が来る場合もある
ことは考えておくべきだとは思います。

 米国では、宇宙論の学者が宗教家や哲学者と宇宙について話し合いをする場面もある
みたいです。宇宙論についての著者の一人は、「自分は無神論者ではないが、反神論者
である。」という表現をしています。これは興味深い表現です。つまり宇宙論の学者で
も、創造神は認めるが、人間の自由を認めないような神様は認めたくないし、人間の世界
に矛盾がある以上、そういう不完全な世界を作った神様には反発をする、ということで
しょう。

(つづく)

2691トキ:2015/09/28(月) 20:36:36 ID:KnbhRwFc
訂正です。

❌ 民集から

⭕️ 民衆から

お詫びして、訂正をさせていただきます。

(つづく)

2692トキ:2015/09/28(月) 20:46:59 ID:KnbhRwFc
 こういう点は、谷口雅春先生も「神を審理く」で書かれていますが、それ自身は
当然のことかもしれません。しかし、生長の家はその立場に立たないのも事実です。

 その点は、私も、どう説明をしたらよいか、勉強したいと思います。

 あと、科学と宗教ですが、今の段階では、お互いにレスペクトをする、という姿勢
で必要にして十分だと思います。

 ビッグバン理論を提唱したベルギー人の物理学者であり、カソリックの司祭でも
あるジョルジュ・ルメートルの発言、つまり科学上の理論を宗教上の理論の正当化
に使うことに反対したのは、その発想の表れだと思います。

 本題ではないので避けますが、この点は彼の思想には私も賛成します。

 しかし、一般論として、その議論は知的な刺激にはなりますが、深入りすると
生活から乖離した信仰になる、という危険性があるのも知ることは必要だと個人
としては考えています。

2693曳馬野:2015/09/28(月) 21:02:08 ID:JPiKJZkg
臨済宗は理屈を嫌うと言いますが、実際に公案をとくとなると、教義の勉強をしないと解けないと言います。


こんなことどなたが言っていますか? 理の尽きたところに至るための公案だと思うのですが、臨済でも曹洞でも到るところは同じです、普通に言う心の消えたところに至るのに教義の学習が必要とは。

2694トキ:2015/10/01(木) 21:16:49 ID:6uiSa97I
>>2693


 すみません、他の方の相手をしており、遅くなりました。
お詫びします。

 個人名は出せませんが、最近、臨済宗の住職の方と知り合いになり、
いろいろな話をしております。臨済宗も優れた信仰ですが、一つ間違える
と問題がある、という話も聞きました。「禅病」という言葉もあるみたい
です。

2695曳馬野:2015/10/02(金) 02:47:48 ID:JPiKJZkg

http://www.geocities.jp/tierrakoya/hamabe/hibi/keiju/goroku.htm

ここに紹介されている青野敬宗老師は臨済宗での師家分上の(見性をしたと認められた)人でありながら曹洞宗の井上義衍老師のもとで大悟した人です。その住職に此処に書かれている意味で生命の実相に書かれている真理と臨済宗が同じか聞いてみて下さい。

2696トキ:2015/10/02(金) 18:09:00 ID:Kttdv9Ec
>>2695


 貴重な情報をありがとうございます。
今は多忙なので、後日、ゆっくりと拝見します。

 私の家の宗旨は臨済宗なので、臨済宗は馴染みがありますが、
臨済宗は修行が厳しく、その点は見習うべきだと思います。いろ
いろな宗派の人とも話し合いをする姿勢は大事だと感じています。

 「見性」で思い出しましたが、「青鞜」で有名な平塚らいてふ
さんも、禅の修行をして、「見性」を認められたと聞いた事があり
ます。その平塚さんは、生長の家が始まると、谷口雅春先生の教え
に共鳴されたときいています。「青鞜」の同人の中には、平塚さん
の紹介で生長の家に入信され、幹部になられた人もおられたとも
あります。

 その平塚らいてふさんですが、谷口輝子先生が、実際に会われた
時に拝見すると、文章から受ける印象とは違い、たいへん大人しい
感じの方だったみたいです。

閑話休題。

2697曳馬野:2015/10/02(金) 20:18:36 ID:JPiKJZkg

去りし世も来たらむ世にもうつつにも己ためして生きなむ我は

衣更へて母の教へを聞く子かな


この詩は悟りを開いた人の詩です。悟りを開く前から開いた後まで、こんな心で『生命の実相』を読んでこそ価値あるものと思います。
自分の心の在り様の為にこそ読むものでしょう「生命の実相」は。

2698トンチンカン:2015/10/02(金) 21:03:42 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
最近の『マサノブ爺さん』。。 ≪憤懣≫ ≪苛(いら)立ち≫ 腹ふくるるワザなり!!

全世界に拡散されていく、マサノブ爺さんの『品性の無さ』が・・『ご乱行の姿』が・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・恵美子お母さんの『軟禁問題』。。 宗教人として≪最悪≫なのです・・・


・相談する 『真の友人』 もなく、『自尊心』ばかりが強大過ぎて、近寄るモノも無い
 哀れなる人間なのです・・・

2699志恩:2015/10/02(金) 22:13:50 ID:6hRUvSRg
>>2696:

トキ様ー
>>「見性」で思い出しましたが、「青鞜」で有名な平塚らいてふ
さんも、禅の修行をして、「見性」を認められたと聞いた事があり
ます。その平塚さんは、生長の家が始まると、谷口雅春先生の教え
に共鳴されたときいています。「青鞜」の同人の中には、平塚さん
の紹介で生長の家に入信され、幹部になられた人もおられたとも
あります。

 その平塚らいてふさんですが、谷口輝子先生が、実際に会われた
時に拝見すると、文章から受ける印象とは違い、たいへん大人しい
感じの方だったみたいです。<<
_______________________________________________
トキ様

平塚らいてう(敬称略) という お懐かしいお名前が.......。
彼女のことは、昔は、われわれの習った中学の教科書にも載っており、
(今はどうか、知りませんけれど)

戦後日本に於いて「婦選運動」(女性にも参政権を という運動)を提唱し、
それを勝ち取った社会活動家として、世に知られたお方のお一人でした。

その社会運動をともにやっていたお方の中に、生長の家入信前の平岡初枝先生が
おられました。

元生長の家の全国講師でいらした亡き・平岡初枝先生のそれらのことにつきましては、
過去に光明掲示板に書かせて頂いたことがございましたが、

平岡先生の,かっての同志だった平塚らいてうが、禅の修行もされてたり、
生長の家の教えに共鳴されていたことは、私は、知りませんでした。
教えてくださって、ありがとうございました。

ネットで検索しましたら、

「平塚らいてう(姉が 大本教 信者)が
寄稿記事で『霊界物語』と  スウェーデンボルグ の関係を指摘しています。」

という短い文がありましたけれど、肝心のその記事の内容は載っていませんでした。


(*雑誌「青鞜」は、平塚らいてうが創刊。
「元始女性は太陽であった」という論説を 載せています)

光明掲示板より
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=546

2700志恩:2015/10/02(金) 23:45:13 ID:6hRUvSRg
先日、曵馬野さんがご紹介くださった 曹洞宗・井上義衍老師の 二人の息子さんで、
お二人とも見性されたという

(*「見性」とは、悟りを体験された経験があること。内なる本来の性を見た、気がついたという意味)

井上晢玄老師、井上貫道老師ご兄弟がお話されているYouTubeは、視聴させていただいております。

(ご兄弟のお父上である曹洞宗を復興させたという 井上義衍(ぎえん)老師は―
25歳で大悟,法を自由自在に説いた禅僧 500年に一人、曹洞宗中興の祖とされる禅僧でいらしたそうです。)

老師ご兄弟の父上・井上義衍老師(1894-1981)のこと、

25歳、覚王山日泰寺僧堂(上田祥山老師)に掛搭 そのうち、修行仲間と公案修行を放擲 只管打座に打ち込む 
一日再三誘われて意ならず市内新盛座へ出掛けて、
観劇の最中、俄かに忘我して満員の観衆もなく、自己もなく全く前後を忘ず。
明星一見の大事、絶学無為の真相を確証し竟る。大悟。

この後も、坐禅に打ち込む。
ある時一寺院の留守番を頼まれたるも、終日坐禅三昧の生活を送る
やがて静岡浜松の山寺貧乏寺・龍泉寺に住職す
而も、寺院の経済を顧みぬため寺院は全く困窮す

昭和26年位のことであるが、曹洞宗の道場では唯一悟りのことを言う優秀な某僧堂があったが、
そこに在籍して修行中の俊英たちが、その道場での修行を途中で放棄して、
続々と浜松の田舎の井上義衍老師の寺院に修行に集まったという

しかも、多くの者は道場には、静岡で独摂心をすると言って道場を出たらしい 
さらに、義衍老師のところには偽名で掛搭したとのこと 
師匠(得度をしてくれたお師匠さんや親)に知られ、道場にもどれと言われるのを恐れたのである 
破門覚悟の上での行動である

特に浜松の義衍老師の寺院は 曹洞宗公認の専門道場 ではないので、
そこにいても、住職資格獲得の何の足しにもならない ゆえに師匠に反対されるのは必定で、
師匠にだけはバレたくなかったのである

しかしながら、
他からも、井上義衍老師の寺院に参禅者が次から次へと訪れ、食料は乏しきも、
真剣な者の大叢林の観を呈すある時には食料が玉ねぎ1個しかなく
これを皆で分け合って食したという 玉葱僧堂と言われし由縁なり......

後略                      つづく

2701志恩:2015/10/03(土) 00:49:04 ID:6hRUvSRg
ところで、ご紹介くださった曵馬野さんは、見性されたという
お二人の曹洞宗の老師のお話、視聴されていらっしゃるのですか?

私は、お二人の老師のお話を聞かせていただいて、この方たちも本物なのでしょうけれど、
谷口雅春先生が、いかに 本物中の本物のお方でいらして、
いかにわれわれ一般人にもわかるように、悟りの真髄というものを、
容易にお説きくださっていたか、
私は、泣きたいほど、分からせていただきました。
____________________________________________________________
(曹洞宗)悟りへの道  井上哲玄老師 (兄上のほう)(3時間)
https://www.youtube.com/watch?v=Tubs63cHuzI

(曹洞宗)普勧坐禅儀 座禅の基礎 井上貫道老師 悟りへの道(約1時間半)
https://www.youtube.com/watch?v=nAuc6MCgyS0
-----------------------------------------------------------------------
再掲 部屋板/4
4832 :志恩:2015/09/18(金) 08:25:34
安谷白雲禅師著「禅の心髄 無門関」に、安谷禅師は、

⚫️「公案とは、どんなものか」・・という題で、書かれておられます。( P2)
最後の 結論のところだけを、転記させていただきます。

「いずれにしても、公案というものは、・・法の第一義、すなわち、

「衆生 本来 仏(ほとけ)なり」という、われわれの 大先天性 そのものを、
ズバリ取り扱うものである。

 言い換えると、やりとりのできない、絶対というわれわれの事実を、仮に、やりとりして
 見せる といったような 筋合いのものが、公案である。」
__________________________________________________
安谷禅師が述べられていますが、只管打座(ひたすら座禅を組むこと)も、公案を
解くことも、法の第一義である上記を、知るための修行の1つであると思いました。

樹木のいのちと、自分のいのちも 1ついのち、阿弥陀如来に生かされているいのちだと
知ることも、それにつながる意識。

しかしですね。
「大悟十八回、小悟数知れず・・・」

この言葉は、、日本語でお経を残したことで知られる 江戸時代の革命的な禅僧、
白隠禅師が語ったとされるお言葉だそうですけれど、
...、悟りは 悟りでも、レベルの違いがあるのでした。

ですから、われわれも、小さな気付きをいくつもする中で、
ちょっとずつ ちょっとずつ、
雪だるまチックに大きくなっていくような感じもしてます(*゚ー゚)ゞ

ですけれど、あまり大悟してしまいますと、もう、この世に生まれ変わってくる
必要がなくなるのだそうですよ....。

2702曳馬野:2015/10/03(土) 03:09:46 ID:JPiKJZkg

悟りは 悟りでも、レベルの違いがあるのでした。ですから、われわれも、小さな気付きをいくつもする中で、ちょっとずつ ちょっとずつ、雪だるまチックに大きくなっていくような感じもしてます(*゚ー゚)ゞですけれど、あまり大悟してしまいますと、もう、この世に生まれ変わってくる必要がなくなるのだそうですよ....。


まあ、志恩さんはそのように納得されたのはそれでよろしいです。しかしね雅春先生は、「いよいよと云うところは神想観によらなければならない」と云われています。神想観して光明一元の状態を見つめ続けた後で自分が消えて、精神でない普通に言う心でない大実在である事に気づくと云われています。

その大実在であると気づいたままで、目を開け五官で感じる世界を見た時にどのように生きられるかが問われるのです、自分の肉体も心も含めて。目を閉じていた時の光明一元の世界のままに、全てのすべてである大実在のままに、全てを自分としていられるかということです。それができて初めて神想観で入れ替わった実在の我として、永遠の我として生きているということになります。

そこにこそ観念で思うことでない自他一体のいのちの世界を生きている神の子の世界があります。それで初めて現象は無いの実現です。目を閉じて神想観している時だけ「唯一つの實在があるそれは永遠の我と云うものである」ということで目を開けたとたん現象の差別界を感じてしまうのでは 肉体の我から神の子への入れ替わりが行われていません。

こんなところに「人間神の子の自覚より進んで神の子人間の自覚にいるべし」の聖経の言葉の意味があります。人間神の子という言葉には、肉体人間が神想観して神の世界を見ている段階の様子があります。神の子人間という言葉には、神想観して実在に入れ替わった人間、全てのすべて光そのものに置き換わりきった人間の様子があります。

自分というものの存在を残したままで、それを大きくしていくのは我が大きくなってしまう可能性を否定できません。すべてに感謝し出来る心境は自分が消えていますから、神の子の所業ということになります。私には皆さんの神の子の自覚というものが180度の回転で、肉体人間の私を此処において観念として神の子を実相世界の存在としているように見えます。神想観して360度の回転がなされて此処がこのまま実相の世界であると完全にいのちの世界と入れ替わった人間が誕生しているかどうか。

自分という存在感をどんどん消してゼロにまでして、消すに消せない本来の存在に行き着こうする禅と、神想観の実修により我が消え去り實在に至るのはやり遂げた暁は同じものになります。大悟十八回、小悟数知れずで、神の子の自覚も我の消える状態により同じことが言えます。相手の如何を問わずに目を開けて今ここ実相世界であると云い得る人になられますように。

2703志恩:2015/10/03(土) 06:57:42 ID:6hRUvSRg
それから、申し上げたいことが ございます。

(曹洞宗)普勧坐禅儀 座禅の基礎 井上貫道老師 悟りへの道YouTubeの中で
貫道老師が、事実と違うということについて、具体例をもってお話されたところがあるのですが..
____
その1つ、、、
貫道老師 曰くー
①「アメリカで自動車事故を起こしたとき、事故を起こしたほうが、先に相手に謝ったら、
謝ったほうが 自動車保険や裁判などで、負けるから、謝ったら、ダメだということを、聞いたことがあるが、
それは、事実とは 違うそうですよ。

アメリカ、イギリスでは、そういうことはない。実際は、必ず 相手に謝るんだそうですよ。」
____
これにつきましては、アメリカのカリフォルニア在住で、元 弁護士を夫に持つ、職業婦人の私の妹に
電話のとき 確認しましたところ、

〃アメリカでは、すぐに相手に謝ると、不利になる...ということのほうが、事実なのだそうです。〃

②つぎは、いとこさんから聞いたという 植林のお話。(環境問題)
ドイツと日本の植林の違いについて。

植林は、日本よりドイツのほうが勝っていると、遠回しな言い方で語られました。

日本では、山の木を伐採するときは、今までの木々の全て伐採して、針葉樹だった山へ、広葉樹を
植え替えるというやり方をとっている。それが、日本の植林ね。

すると、木々は、全部が同じ高さになり、落葉樹、常緑樹というのが、混ざり合っていないから、隙間もないし、
枯葉が地面に落ちて、朽ちることもなくなる。すると、落ち葉がないので虫は来ず、虫がいないから、鳥もこない。
日本は、死んだ山になってると、いとこが言ってた。

しかし、片やドイツでは、丸刈りにせず、2割ほど、山の木々を伐採し、そこへ何割かの植林する。そういうやりかた。
だから、同じ高さにならず、
高い木、低い木があり、循環がよく、山は生きている。
日本は、海外から植林の方法を、間違って聞いている。
________
②については、事実かどうか、ドイツの植林について、ネットで調べても、それについては載っていませんでしたが、
ドイツの植林事業は、国自体が それに対することへの取り組み方も、日本よりも、優れているし、進んでいるということは、
貫道老師が言われた通りだと感じました。

ドイツに学ぶ、植林
http://www.chilchinbito-hiroba.jp/column/contents/forest/vol12.html

2704志恩:2015/10/03(土) 07:35:07 ID:6hRUvSRg
>>2702:曵馬野さん

白隠禅師でさえ、大悟18 ,小悟は 数知れずとおっしゃってるのですから、
われわれは、阿弥陀如来(神様)から、この肉体をお借りして、五感の世界で生きているのであり、

頭は、各々が自由に考え、自由に選択するように、作られておりますし...、
この現象世界では、そうは、年がら年中、われ実在に在り の心境では、生きられないと思います。

👀目玉だって、内側を観るようには できていない、外の世界を見るように、
車のヘッドライトのように、外向きに つけられているのですから。

ですから、時々は、瞑目合掌しましてね、外のことは、棚にあげておき、
内なる世界の 本来の性と向き合う、方法を宗教で
教えられていて、それを素直に実行できる人間は、普段も、なにが起きても、
神想観をし、時々は、本も読むことによって、自分の性を振り返り、
この現象世界において、大安心の心境で生きることが
可能になりますから、やはり、生長の家の教えは、そういうことを
だれでも、わかるように、教えてくださいましたから、とてもいい宗教だと思っています。

あなたに、いうようなことじゃないけれど、いわせてもらえば、
われわれは、自分が神だ、阿弥陀如来だと、知るんじゃなくて、阿弥陀如来のいのちに、生かされている
阿弥陀如来と ひとついのちの阿弥陀如来の子なのである、すべての人も、木やキノコたちも、阿弥陀如来に生かされている
同じいのちが通っているお仲間なのだと知る...ということが、幸せに生きる道なのだと思います。

だからといって、なにも批判しちゃいけないということも、ないと思います。
この曹洞宗の悟られたというお二人の井上老師だって、かなり、批判の言葉で語られているところがありました。

2705志恩:2015/10/03(土) 08:12:11 ID:6hRUvSRg
万教帰一と教えていただいていますから、行くつくところは、同じでしょうけれど、
YouTubeでのお二人の井上老師のお話によりますと、
今の仏教界では、悟るというためじゃなく、禅師をやってる禅師が、ほとんどだそうです。

現実には、お布施が入らないと 禅師たちも生きていけませんから。

公案を解くというのは、昔は、老師と僧侶達との間だけで、行われていたそうですが、
今は、公案 問答のやりとりを、有料にして、一般公開で、やるところが多いそうです。

そうしますと、ご住職、長老になったひとが、公衆の面前で、つまずいちゃ、まずいので、
あらかじめ、どう質問したら、どう答えるかというアンチョコが、セリフが、
決まってる。そんな台本が 前もって出来ているそうで、
昔のように、修行のために、しのぎを削る、ということは、実際は、今の仏教界では
ほとんど無くなっていると言われました。

釈迦だって、実は悟っていなかったのだ と言ってる禅師もいるそうです。

お二人の老師のように悟った人、他にも悟った老師も、一般人の悟った人も,,,少数でしょうけれど、
仏教界にも いるようですが、それは、いまでは 希少な存在のようです。

なにせ、仏教は、13も宗派がありますし、
生き残るのが 精一杯というのが、現状のようです。

先日、ぼるぼさんのご紹介で、1967年に 33歳のときインドに単身で渡り、今もなお
インド1億人の仏教徒を教え導いている佐々木秀嶺禅師という人がいて、
そのご活躍ぶりをYouTubeで視聴させていただきましたが
あのような、すばらしい日本人の僧侶も世の中には いるのですね。

2706志恩:2015/10/03(土) 08:31:04 ID:6hRUvSRg
これから出かけますので、失礼します。

2707曳馬野:2015/10/03(土) 09:22:13 ID:JPiKJZkg

今ある其の儘の事実と意識された事実と思っているものとは違います。

死もなくなると云われている聖経の世界には生まれ変わりはありません。

それぞれの道を行きましょう。

2708トンチンカン:2015/10/03(土) 17:02:10 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
≪ご乱行≫ ・ ≪言行不一致≫ ・ ≪我が儘放題≫ ・・・ マサノブ爺さん!!

いつまで 『恥をさらす』 のですか・・??  全世界の『信徒』に向かって・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・『それぞれの道を行きましょう』。。なんて・・・???


・『クモの糸』が待っている・・




(参考)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2707 :曳馬野 :2015/10/03(土) 09:22:13 ID:JPiKJZkg

今ある其の儘の事実と意識された事実と思っているものとは違います。
死もなくなると云われている聖経の世界には生まれ変わりはありません。

それぞれの道を行きましょう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2709トキ:2015/10/03(土) 17:30:31 ID:Yd1g4lPY
 20年ほど前に大きなお寺の管長をされている臨済宗の老師の方が自殺された
事があったそうです。病苦が原因とされていますが、その時、他の老師の方の間
でも見解が分かれたと聞いています。

 老師まで行かれた方でも、見解が異なるという見本かもしれません。

 臨済宗もたいへん優れた立派な教えですが、禅宗の場合、公案を何百もとかない
といけませんし、修行のためには、時間もお金も労力も必要になります。普通の
社会生活を送る人には、少しつらいような気がします。

 いわゆる新宗教の存在の意味は、忙しい社会人でも学べる、という点にあるので
しょうね。

2710志恩:2015/10/04(日) 18:36:18 ID:6hRUvSRg
《曹洞宗 をはじめとする 他宗教などの、生まれ変わりについての考え方》 ネット検索

⚪️曹洞宗を興し、難解な「正法眼蔵」を書いた 道元 も、「正法眼蔵随文記」を読むと、

〃 人は、何度も 生まれ変わっているので、

  今生に とらわれて、

 命を 惜しんではならないとして、宋で 寒い冬に 座禅に励んだ 〃と書いてあります。
___________________
ただ、禅宗自体には、生まれ変わりの思想はありません。また、仏陀も、言ってはいないようです。
諸法無我、諸行無常、涅槃寂静のなかには、生まれ変わりの考えはでてきません。

また、キリスト教でも、かつては輪廻転生が、聖書にありましたが、
中世だったか、神父さんたちの会議で、
今生をないがしろにする恐れのある考えとして、削除され、今日の欧米の社会には ないようです。

ヒンズー教には、古代インドの民族思想を受継ぎ、輪廻転生の考えがあります。
ウパニシャッド思想に、その起源があり、仏教も、この古代インドの思想を取り入れたようです。

厳密には、輪廻も 転生も 生まれ変わりのことですが、若干意味が異なるそうです。

カルマ(業)により、次の 転生が決まり、カルマを 解消して 解脱すれば、
この転生から 抜けられる とされています。

ヘミシンクを体験した人の話や、退行催眠で得られた話でも、死後の世界が詳しく書かれていて、
死後の世界で、時間(?)を過ごした後、赤ちゃんの魂となって、生まれ変わるそうです。

生まれ変わりについて、最初に科学的に研究した人は、
「生まれ変わりの刻印」や「前世を記憶する子どもたち」を書いた、
イアン-スティーヴンソン博士でしょう。

世界各地の 前世の記憶をもつ子供たちについて、調査し、生まれ変わりの可能性について考察しています。
さまざまな事例を 読むと、
誰かに教えられたとかは、何かで見たとかは、言えず、本当にあるのとしか思えません。

小さい子供が、ある日突如 知らない言葉を話し始めて、前世の事、死ぬ時の事を 詳しく話し、
しかも調べてみると、全く事実と一致していたら、生まれ変わりを信じざるを得ません。

前世の記憶は、物理的には 脳には存在しません。脳の深い部分で、宇宙のどこかと交信しているということでしょう。

日本でも、飯田史彦さんが書いた「生きがいの創造」だったか、生まれてくる前の両親の様子を、両親に話す子供のことがあったと思います。
もちろん、両親しか知らないことなので、びっくりしたそうです。


このような前世のこと、生まれてくる前のことを話すのは、小学校に入る前くらいまでの子供だけだそうです。

この頃は 脳梁が完成して、左右の脳が 連携可能になり、左脳が 優勢になります。

多くの著名な方も、信念として 持っておられるようですが、生まれ変わりが本当だとすると、
魂は、何か目的を持って、生まれ変わっているようです。


何かの目的を持って....です。

2711志恩:2015/10/04(日) 18:49:06 ID:6hRUvSRg
曹洞宗の御経で学んだ曹洞宗の門徒のお方の話   ネットより

《カルマの分割払い(三時)と 肉体 と 魂の御先祖霊》

今回、私は曹洞宗の門徒として曹洞宗の御経に触れていまして、
日本神道では解らなかった一面に触れました。その一つに【三時】がありました。

その【三時】で調べると解りませんでした。これは「三時」ではなくて、【三時業】のことでした。
三時業とは、
①順現業-現世において受ける業(カルマ)。曹洞宗では順現報受(じゅんげんほうじゅ)。

②順生業-次の生で受ける業。曹洞宗では順次生受(じゅんじしょうじゅ)。

③順後業-三回目以降の生において受ける業。曹洞宗では順後次受(じゅんごじじゅ)。

すなわち、私達が過去世で犯した罪による業(カルマ)は、今生において支払う分。次の世において支払う分。
そして、三回目以降に支払う分があるということなのです。つまり一時で全部は返せないので、三回の生を持って支払うローンのような話なのです。

この三回は定まっているので「定業」と呼び、他に報いを受ける時期が定まっていないものを「順不定業」と言っているわけです。

これを見ると、明らかに仏教は「輪廻転生」を説いているにも関わらず、仏教は輪廻転生を説いていないと主張する方が多かった事実に対して、
完全に仏教が形骸化しているとしか考えられません。

曹洞宗の「修証義」においては、「仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむなり」とあります。
まず、仏の教えを知るには、最初にこの三時業(カルマの支払い)のことをよく知っておきなさいです。

次ぎに「修正儀」は説きます。解り易く意訳しますと「しかあらざれば多く誤りて邪見に堕ちるなり。
ただ邪見に堕ちるのみに非ず悪道に堕ちて、長時の苦を受けます」。このことを知っていないと、誤った見知にはまってしまいますよと言うことなのです。

しかし、私達日本人はほとんど仏教徒ですが、こうした話は聞いていなかったがほとんどでしょう。私も今回知ったほどなのです。
つまり、僧侶達も檀家信徒に面と向かって三時を説いていないのです。

仏教では、今は末法期でお釈迦様の説かれた教えも形ばかりで形骸化し、正法が知られていないということも「三時業」を考えれば、そうしたことが言えます。
一部に、自分は仏教で悟りを得た聖者のような顔をして説かれる方がありますが、変ですね。こうした三時の話を聞いたことがありません。
でも、その人を聖者の様に拝する人は後を絶ちません。

仏教の「三時業」の教えを見れば、
この【業による因果】とは、何も自分が過去世において犯した罪だけが「応報(目には目・歯には歯)」として現れるのではないのです。

自分が生まれた家系が背負っている【業による因果】が存在してきます。そこに因果解消の【菩薩道】も存在してきます。これが意外と知られておりません。
為に誤った因果応報を言われる方がありまして、時にはそれが世間に悶着を起こすことがあります。

例えば、自分が被差別部落に生まれた時、お前は前世で人を差別したからだと言う意見があります。必ずしもそうではないのです。
そうした差別社会を無くそうとして、そうした家系に降りて来られる魂もあるのです。自分が身をもって差別される苦しみを知らないと、差別と戦えないからです。

被差別部落とはいわれの無い話です。古代において戦いに負けた者達が勝てば官軍・負ければ賊軍であまり人が住まない川原とか山奥の僻地に追いやられた出来事で有り、
個々の犯罪とは何の関係も無いのです。魂的に見ると、そうした歴史的なことも学ばないで差別する方の魂とは劣っているのです。何事も学べば自分が誤っていたと解る話です。

2712志恩:2015/10/04(日) 18:59:13 ID:6hRUvSRg
人間、生まれ変わる人もあれば、生まれ変わらない人もあれば、人それぞれのようです。

曹洞宗では、輪廻転生の話を持ち出すと、老師さんに叱られると書いている人がいました。

それは、自分が、生まれ変わるかどうかなどという
先のことは考えず、今生に いのちを込めて、生きよ!
今、今、今のことを大事に考えて、今を真剣に生きよ!というお諭しとのこと。

2713志恩:2015/10/04(日) 19:36:51 ID:6hRUvSRg
>>2709 :トキ 様ー:2015/10/03
 20年ほど前に大きなお寺の管長をされている臨済宗の老師の方が自殺された
事があったそうです。病苦が原因とされていますが、その時、他の老師の方の間
でも見解が分かれたと聞いています。

 老師まで行かれた方でも、見解が異なるという見本かもしれません。

 臨済宗もたいへん優れた立派な教えですが、禅宗の場合、公案を何百もとかない
といけませんし、修行のためには、時間もお金も労力も必要になります。普通の
社会生活を送る人には、少しつらいような気がします。

いわゆる新宗教の存在の意味は、忙しい社会人でも学べる、という点にあるのでしょうね。
________________________________________________________________

その自殺された老師と お寺の名は、伏せますけれど、

その老師は、東京大学 文学部東洋史学科を卒業。大学院で学んだ後、⚪️⚪️寺に入られた。

突然 病に倒れられて、鬱状態になり、御講話の休み時間に首をつられたそうですね。
その管長である老師が中心になり、座禅をやったり、御講話もされていらしたそうですから、
そのお方が、
思いつめられて、自殺を決行されることになるなんて、実に お気の毒なことです。

どなたさまでも、肉体的苦痛は、この世に生をうけ、肉体があるかぎり 味わないとは限りませんから、
トキさまが、おっしゃるように 新宗教の存在の意味は、大きいと私も思っております。

2714曳馬野:2015/10/04(日) 20:19:16 ID:JPiKJZkg
天皇より総理大臣の内示をうけていた海軍大将・鈴木貫太郎は三島・龍沢寺に使いをやり、臨済宗僧侶・山本玄峰に会いたい旨を伝えた。そして昭和20年3月25日、赤坂の旧乃木邸の向かいにあった内田眼科病院の内田博士の邸宅でふたりは密かに会った。これは、玄峰老師の弟子で秘書でもあった田中清玄の自伝(『田中清玄自伝』文芸春秋・1993年刊)ではじめて世に出た事実である。
 
このとき、鈴木はこう言った。「実は今、私は陛下から大任を命ぜられようとしています。しかし、私は政治は嫌いです。『武人、政治に関与すべからず』という明治陛下の御勅語を金科玉条としてきた者としては、その信念に反することにもなり、どうしたら良いものか、非常に悩んでおります」
 
すると老師は次のように応えた。「あなたは日常の政治家ではないし、総理になる人でもない。総理になる者は、世の中の悪いことも、いいこともよく知っていて、いいことに尽すことのできる人です。あなたは純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。名誉も地位もいらん、国になりきった人が必要だ。あなたは二・二六で、一度はあの世に行っている方だ。だから生死は乗り越えていらっしゃる。お引き受けなさい。ただし戦争を止めさせるためですよ」
 
この瞬間から、鈴木貫太郎の戦終工作がはじまった。もっといえば、この瞬間に、尽きかけていた日本の命運は首の皮一枚でつながったのである。8月14日の最後の御前会議、鈴木首相は日本の無条件降伏を主旨としたポツダム宣言受諾の是非を6名の大臣らに諮り、結果は賛否3対3となる。最後は天皇陛下の聖断を仰ぐ形に、鈴木はもっていったのだ。そして天皇は、即座に受諾を宣する。鈴木(と天皇)の終戦工作は、ここに見事に完結したのである。
 
その後も、玄峰老師は鈴木首相を通して天皇にさまざまな示唆をあたえる。天皇の肉声による終戦の詔勅「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」は玄峰老師の授けた言葉であり、戦後の幣原喜重郎首相に「象徴天皇制」の案を授けたのも老師だったといわれる。
 
戦時下、老師の下には米内光政(海相)、吉田茂(首相)、安倍能成(学習院院長)、岡田啓介(首相)、岩波茂雄(岩波書店社長)など軍に反対の立場をとる人物が大勢出入りしたが、老師が自らもとめて会ったのは鈴木貫太郎ひとりだったという。ついでにいえば、東条英機(首相)が人を介して面会を求めてきたときは、「お会いしても無駄じゃろう。東条さんは、日本の大黒柱じゃ、アジアの大船じゃと、我慢や我見にとらわれたままわしに会っても、とてもわしの言うことは分からんじゃろう」と断っている。

http://nobless.seesaa.net/article/256573159.html より引用

2715曳馬野:2015/10/04(日) 20:38:21 ID:JPiKJZkg

終戦前に戦争終結について意見した人が山本玄峰老師です。

戦後になって後出しの理屈をいくら述べても駄目です。今の軍隊は皇軍でないと吉田講師と内緒話をしている程度では、もっと酷い日本になっていたことでしょう。

こんなところにも本流派には納得できないのです。

2716トンチンカン:2015/10/05(月) 00:21:36 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『死もなくなると云われている聖経の世界には生まれ変わりはありません』 (曳馬野)

『輪廻転生』はナイ。。と言っているのでしょうか・・?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



<生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[738] マサノブ君は、自称・総裁と言っているが、大したことはない。この程度の真理の
理解力しかない! やはり『辞職』して貰わねばならぬ・・・
上泉信綱 - 2015年10月04日 (日) 20時29分


「トキ掲示板」(「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2)より・・・

2707 :曳馬野(=マサノブ) :2015/10/03(土) 09:22:13 ID:JPiKJZkg

今ある其の儘の事実と意識された事実と思っているものとは違います。死もなくなると云
われている聖経の世界には生まれ変わりはありません。それぞれの道を行きましょう。

******************


マサノブ君は「曳馬野」というハンドルネームを使って、又、中途半端なことを言ってい
る。聖経『甘露の法雨』には、人間には「死」はナイと書かれている。だから人間には「生
まれ変わり」(再生=輪廻転生)はないのだと云っているのである。

この書き方であると、この世(三次元現象世界)に生きている人間は死んでも転生などは
しないと云う意味になるのであります。
(一応、「聖経の世界」と注釈を付けてはいるが、はなはだ意味が不明瞭である。)

したがって、マサノブ君も年老いていつかは死ぬでしょう。しかし、マサノブ君は人間に
は転生なんてあり得ないといっているのであるから、彼の個生命としての魂は一体どこへ
行くのでありましょか? まさか、宇宙大生命の生命の海の一滴の水のごとく個性を没し
てその中へ混入して消えてしまう、とでも考えているのであろうか。この考え方は、『生
命の實相』を正しく読んでいない者の考えで完全なマチガイであります。

2717トンチンカン:2015/10/05(月) 00:22:28 ID:z9V4A.MQ

(つづき)

『實相世界において、具体的な久遠生き通しの実在として生きている個生命としての實相
人間には、“死”というものはない。この實相人間である個生命は、無限の進化向上(無
限の實相顕現)を目指して、その生命進化道場である三次元世界へ自己の完全な自由意志
のもとに肉体人間として出生してきて、一定の生命進化(實相顕現)の階梯を昇る。所期
の生命進化過程を卒業すれば、肉体を捨てて霊界に戻り、次の生命進化の段階へ移る。地
球世界へ再度生まれ変わるか、地球以外の別の天体へ生まれ変わっていく。完全な自由意
志の下において、時には宇宙の摂理の作用によって。かくして、實相人間は久遠生き通し
の永遠生命であって死はないが、無限の進化向上を目指して“道場修業”のための修業着
(肉体)を着て地上に現われてきた肉体人間には、「肉体の死」はあり、生まれ変わり(輪
廻転生)が存在するのである。』



このように、解り易く行き届いて、マサノブ君は何故説かないのであろうか? 察するに、
宗教的な幾多の法罪を犯したマサノブ君は、死後、“閻魔の照魔鏡”の前に行くのが恐ろ
しいのである。

そして、霊界での苛酷な修行が待ち構えているのを潜在意識的に怖れている。「蜘蛛の糸」
をよじ登ろうとしても、イソベ若頭やユキシマ金庫番までもが救われたいと続いてよじ登
ってくるため、その(法罪の)重みに絶えかねて「蜘蛛の糸」は切れ続ける・・・無間地
獄の住人3人・・・

このやがて来るであろう恐怖感から逃れたいために、マサノブ君は、必死になって「輪廻
転生」の観念を払拭したいのが本音? 宇宙生命の海の水に溶け込んで大罪を免れたいと
の願望! しかし、この世の如何なる独裁者といえども、悪因悪果の因果律の法則、罪障
消滅のための輪廻転生は決して免れることは出来ないのである。

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2718志恩:2015/10/05(月) 03:58:46 ID:6hRUvSRg
>>2715 :曳馬野 さん
>>終戦前に戦争終結について意見した人が山本玄峰老師です。
戦後になって後出しの理屈をいくら述べても駄目です。今の軍隊は皇軍でないと吉田講師と内緒話をしている程度では、もっと酷い日本になっていたことでしょう。
こんなところにも本流派には納得できないのです。<<
___________________________________________
調べさせていただきました「鈴木貫太郎氏 と 山本玄峰老師 との戦争終結についての感動的な逸話」のこと

⚫️鈴木貫太郎氏は、昭和天皇の 侍従長 をされていましたが、
昭和天皇からの 信任が非常に厚く、天皇の強力な勧めで、1945年4月7日に、内閣総理大臣の座につかれました。

終戦の年の玉音放送があったのは、その年の 1945(昭和20)年8月15日、
 鈴木貫太郎氏は、当時 「77歳」(かぞえで78歳)。 

鈴木氏は、敬神の念 の 大変深い 人だったそうです。

で、鈴木氏が相談したというお相手の 
⚫️臨済宗・山本玄峰老師は、当時、「79歳」(かぞえで80歳)。

つまり,約 80歳 同士が、戦争終結についての やりとりを されたわけです。。

山本老師は 当時から、すでに著名な 高僧 で おられまして、
戦前戦後に 亘る 政財界要人 の心の師、影の指南役 として史上に不朽の地位を占めていました。

曵馬野さんが先に転記された通り
〃山本玄峰老師は、終戦勅語の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・・」の文句を授けた禅宗の高僧として知られており、 
戦後の「象徴天皇制」の生みの親とも云われており、全体としての活動軌跡は、「白隠禅師の再来、昭和最大の禅僧」と称されているそうですね。〃
__________________________________________
⚫️では、谷口雅春先生はおいくつでいらしたかといいますと、
当時、52歳でいらっしゃいました。 1930年に、自費出版で「生長の家」誌を出されて、まだ15年しか経っていない時代です。

片や、山本老師は、当時、80歳 にもなる年季の入った高僧で、世間にも名を轟かせている老師で、鈴木総理も約80歳でしたし、
それをですよ、
向こうからみたら、ご自分より、30歳も 年下の まだ名もあまり知られていなかった人間に、鈴木氏が相談するわけないじゃないですか。

戦争に負けている状況で、このまま戦争を続けたほうがいいか、やめたほうがいいかと、相談されれば、谷口雅春先生だって、
ちゃんと適切な回答をされたと思います。

同じ民族である日本人が他国と戦うんですから、皇軍だから、がんばれ,と、当時の状況では、当然のように だれだって、日本人なら応援するでしょう。
国民には、詳しいことについては、マスコミは一切情報を流さない時代だったのです。ですから、応援したって、しかたのなかったことじゃ、ないんですか?

終戦後になってから、じわじわ じわじわと、少しだけですが、GHQに占領されてしまった左翼に牛耳られたマスコミが、
偏った情報を 国民に晒し始めましたけれど。

その、左翼思想に日本全土が、真っ赤に染められた日本の国土を、谷口雅春先生は、日本人として嘆かれ憂いて、
本来の日本人らしい精神を取り戻したいという想いから、
 愛国の思想の復活のため、365日、1日の休みもとられず、雅春先生は、生長の家の教えをひろめることに心血を注がれておられました。

日本を愛する行為は、山本玄峰老師 も すばらしい愛国者の老師でいらしたけれど、谷口雅春先生は、別の角度から 推進されていたのですから、
決して、山本老師の愛国の想いと行為に、谷口雅春先生は ひけをとらないのではないのではないでしょうか!

自分の国を愛してこそ、他国も自国と同様に愛せるのだと思います。
本流は、どうとかって、谷口雅春先生のことをおっしゃりたいんでしょ? いちいち、卑下されて、変です。

2719志恩:2015/10/05(月) 04:09:53 ID:6hRUvSRg
山本玄峰老師
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kuromakuron/genpo.htm

鈴木貫太郎氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E

(靖国神社宮司を 務めた陸軍大将・鈴木孝雄は、鈴木貫太郎の次弟)

2720志恩:2015/10/05(月) 04:30:56 ID:6hRUvSRg
 「鳩山首相が ソ連へ行って、日ソ国交回復の交渉をして、全部の捕虜を即刻帰すという 交渉に成功した」陰に
谷口雅春先生がおられました。
________________________
前略

或る日、 〈註 = 昭和31年の9月の初め頃と思われる〉 何でもない日に、誌友会も白鳩会もない日の朝でございました。 女中が、

 「鳩山薫さんとおっしゃるお方が、お玄関にお見えになりまして “先生に是非会わせてほしい” とおっしゃっております」  と言うんです。
「あら、あの方なら、白鳩会にいつも来ていらっしゃる鳩山一郎夫人じゃないの、どうぞお上げしなさい」  と言って、
そして先生の部屋へ行って、

 「先生、貴方に何か御相談があるそうですから会って上げて下さいね、あの方の御相談だったら大切なことだと思いますから ・・・・ 」
と、執筆している先生にお願いして座敷にお通し申し上げました。

 そして谷口先生と私と、鳩山薫夫人と3人だけで、座敷で、何か人にもれたらいけない話でもあったらいけないからと思って
、女中にお茶を運ばせることを止めまして、私が台所からお茶を持って座敷に運びました。

 私は、あの日は、とても印象深く覚えているんです。 それでお盆にお茶をのせて座敷に参りましたら、
鳩山夫人は私に後向きに坐っておられます。 床の間からこっち向きに、谷口先生が坐っておられます。

 その時、私、鳩山夫人の姿を見ましたらね、羽織を着ておられるんですね。 茶色の縮緬の無地の羽織に、背筋に染紋が一つ、染抜の紋が付いておりました。

 それを見た途端に、私は、この紋付を着て訪れて下さったということは、この奥様が如何に真面目に、礼儀正しい気持で今日来られたか ・・・・ 。
 いつもの白鳩会には紋付なんて着てこられないから、今日は、余程何か重大なことで来られたのだろうと、私は瞬間的にそう思いました。 
そして、私は横に坐っておりましたら、簡単な面会で、サッとお帰りになったんですが、簡単だけれども、それは非常に重要なことでございました。


 今なら喋っていいと思いますから話しますが、鳩山夫人が谷口先生にね、

 「先生、主人はソ連に行くことについて、迷って居ます。 共産圏でございますから、主人は嫌いなんですけれども、首相として行くべきか、
或いはそんな共産圏なんか関わらない方がいいか迷っておりますが、谷口先生、主人はソ連を訪問することは、よろしゅうございましょうか、
お考えを教えて下さいませ。 私は主人のお使いに参りました」

と、おっしゃたんです。  そしたら皆さん、谷口先生のお答えになった簡単な言葉は何だったか、皆さん覚えて下さいませ。

 『ああ、僕はね、共産主義という思想は、いい思想だとは思っていません。 それは今も変りません。
 けれども世界の国々が仲良くなることだったら行ってらっしゃい』

 そう、おっしゃいました。

 そしたらもう、鳩山夫人は頭の良い方でございますから、その簡単な先生の言葉を聞いただけで、さっと畳に手をついてお辞儀をなさいまして、

 「有難うございました。 決心がきまりました」と言われて去って行かれたんです。


 「さあ、貴方があんな返事をなさったけれども、鳩山さんは身体が不自由な方だから、一人歩きの出来ないような病身の人だから、
遠いソ連まで行くのは、いくら飛行機でも大変ですね。 さあ、どうなさるでしょうね」

  それで、私は政治家ではございませんから 「日ソ交渉」 の役目なんですが、どういう交渉に行かれたのか、私は知りませんの、今でも ・・・・ 。

 けれども、ただ一つ、その時の功績を知っているのでございます。 その時の新聞には、雪のシベリアに日本の補虜が、数十万人だったか、
シベリアに抑留されているということでした。 その多勢の兵隊さんやら、民間人たちは、それはそれはもう地獄のような
苦しみの中で扱き使われていたのでございます。 

その捕虜の人々は、一人前の食事を食べさせて貰えないで、毎日毎日、お腹がすいている上に
重労働をさせられて “ああ疲れたなあ” と思って、一寸一服しようと思ったら、鞭がピュッピュッと来るような、
奴隷みたいな、人間としての扱いを受けていなかったので、もう捕虜の悉くが、ソ連を恨み、憎んでいたということは、後で帰って来た人から聞きました。

 その抑留されていた捕虜は、鳩山首相が帰って来られてから、長い期間でなく、間もなく全部帰って来たのでございます。
 鳩山首相がソ連へ行って、日ソ国交回復の交渉をして、全部の捕虜を即刻帰すという交渉に成功したんですね。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18729294.html

2721曳馬野:2015/10/05(月) 16:20:43 ID:JPiKJZkg
昭和18年生長の家5月21日生命新体制記に『盤珪の法語は光明思想と全く同一である』と書かれています。その盤珪禅師が以下のように言われている。

『一切の惑いは念を用いる故に、輪廻顛倒す。怒りの念出る時は修羅となり。愛欲を畜生とす。物を惜しみ好むを餓鬼とす。これ等を捨てずして死去る時は、永劫輪廻し、種々の形を受け替へ、生じ流転す。念をはなれば惑いなき故に、因果なし。因果なき故に、輪廻無し。念ある内は善を修すれば善の因果あり。惡をなせば悪の因果あり。念をはなれ妙智に叶いぬれば、生死因果なし。』

また『不生を信得して、四大分散の後、又生るるものか、生まれざるか。』答えて曰く『不生の場には、生まるるか生まれざるかの沙汰はなきなり』と 

また『病魔現前、臨終如何が平常心を得ん。』師曰く『我が者裡生死なし、何ぞ臨終あらん。種々分別の境界は、汝が一念心の計度する所なり。もし汝一念不生ならば、何ぞ煩悩の礙ふところあらんや。』と。

雅春先生が全く一緒であると云った、盤珪禅師の言葉です。実相と現象の二元論に落ちている人が可哀そう。こんな話は全く理解不能の人ばかりでは雅春先生も嗚呼如何がせんでしょうか。

2722志恩:2015/10/05(月) 17:50:27 ID:6hRUvSRg
盤珪禅師のお話は、過去に、身分いやしきものさんが、されてました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1387360729/?q=%C8%D7%B7%BE

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実相と現象は二元論のようですが、
私は、この2つは、海と波の関係みたいに感じています。
実相は「海」、現象は「波」のようなもののように感じています。

波は、白く泡だちながら、次から次へと姿を変えて 表れては 消えてゆきますが...
海に 包まれている

喩えは よくないけれど。

2723志恩:2015/10/05(月) 18:03:24 ID:6hRUvSRg
別途あります。実相を論ずる部屋より再掲
__________
74 :”あんふらまんす”に触れるもの:2014/01/13(月) 20:21:35 ID:5M8CrOnI

「万法すすみて…」

信仰観を確認できありがとうございました。
私の経験では、仕事や他への想いに没頭し、”思わずして”自我が失われた時、

自我一体(他がまるで私の中にいる)、万象が連関して全くの無駄がない、
という気づきを得ることがありますが、

その時、現象の私は確かに何か行動はしているように見えるのですが、
実際には”私”は「何もしていない」のです。

生長の家では、「我がなすにあらず…」という言葉がありますね。

その時、(何かを”為す”ためではない)「祈りは最大の行動」になり、
ただ、「何もしないことに全力を尽くす」といはそういう意味で、書いたのです。

(…少なくても、トキ様が危惧するような、
宗教指導者の言うことや書いてあることを考えなしに信じるということとは、
真逆の心境ではないでしょうか?…)

雅春先生は、

生長の家は簡単なのですよ、

「人間神の子、ありがとう」
この10文字に集約される。

と仰いましたが、
私の信仰はひたすら単純なもので、
それが生長の家で学んだことであり、
そのことへの畏敬と感謝の念のみといえるかもしれません。


また、「実相有相」論、「実相無相」論においては、
根を同じくする宗教姿勢への違和感が払拭できました。

お互いが事前に共感し合っていたり、出来合い浅いの理解の範囲などはともかく、
深い真理を学ぶには、個人の心と実際対面し、響き合いの中でしか学べないと考えておりますので、
これで失礼しますが、
学びをありがとうございました。

2724トキ:2015/10/05(月) 19:56:14 ID:XyWYROr.
 ちょっと、感想まで。

 山本玄峰老師は、臨済宗の偉大な指導者であり、現在でも、その評価は高いと
聞いています。田中清玄氏は、戦前は日本共産党の委員長でしたが、ご母堂の自決
を契機に「転向」をされ、山本玄峰老師の指導のもと、日本のために活躍をされま
した。個人的にも、山本玄峰老師は尊敬する宗教家の一人です。業績についても、
高く評価しています。

 それはそれで素直に賞賛すればいいのであって、それを他人を貶す手段に使う
のは、おかしいと思います。

 また、山本玄峰老師がご存命中は、確かに老師の人格に触れて、それなりに
救われた方がおられたとは聞ますが、山本玄峰老師が遷化されてからは、その人格
が書物などで紹介されることがあっても、著書なども少なく、山本玄峰老師の「教え」
で救われる人は多くないとも聞いています。そもそも、山本玄峰老師は、昭和36年
に遷化されたのですから、今日では、ほとんどの人が老師の顔も見たことがないと
思います。

 谷口雅春先生のように書物という形で残されると、義務教育を経た人なら誰でも
本を読んで救済が受けられる、ということになり、それはそれで人類に多大な貢献
をした、ということになります。

 それと、上の文章では、まるで山本玄峰老師が一人で戦争を止めたような印象を
受ける人がいるかもしれません。が、それは事実ではありません。

 昭和19年以降は、既に戦局は見込みがないことは誰の目にも明白となっており
海軍の高木惣吉少将を中心に終戦工作が内密に開始されていました。本題ではない
ので詳細は省きますが、当時、海軍は外部の多数の学者や文化人、経済人などを
シンクタンクとして交流しており、当然、その中には終戦工作に関わった人も
何人もいました。

 山本玄峰老師の終戦工作が事実だとしても、その中の一つと解釈すべきだと
は思いますが、高木惣吉少将らの終戦工作への評価を覆すほどのものではない、
と考えます。

2725志恩:2015/10/05(月) 20:07:47 ID:6hRUvSRg
トキ様

詳しい情報を 感謝申し上げます。
そうでしたか、私は、戦争や政治に疎いものですから、
上の文章をよみ、てっきり、
山本玄峰老師おひとりの力で、全てが、戦争終結に動いたのかと、早合点していました。

私も、他人を評価、絶賛するのは、良いけれど、
その他人を使って、人を貶める言い方をするのは、すごく悪い手法だと
トキさん同様に 思っております。

2726トンチンカン:2015/10/06(火) 12:49:50 ID:z9V4A.MQ

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『死もなくなると云われている聖経の世界には生まれ変わりはありません』
『それぞれの道を行きましょう』                   (曳馬野)

大嫌いな『生長の家』を辞めて、NPO法人「環境の家」とか「マサノブ教」を・・・
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・『それぞれの道を行きましょう』。。なんて言うのであれば・・・


・大嫌いな、大嫌いな、『生長の家』にいなくてもイイのですよ!!


・独立して。。ご自分のお好きな ≪道≫ を闊歩すればイイじゃありませんか?




(参考) <生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板>
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[756] 本当に、マサノブ(自称)総裁は、“大したことナシ”!!
観覧席 - 2015年10月06日 (火) 12時22分


この程度の理解なら、本当に“大したこと”はない!

“それぞれの道を行きましょう!”であれば、マサノブ君、大嫌いな「生長の家」を辞め
て、NPO法人「環境の家」とか「マサノブ教」を起ち挙げて独自の道を進めばいいので
すよ!!
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2727トンチンカン:2015/10/06(火) 15:59:54 ID:z9V4A.MQ

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< マサノブ君が、是非とも認識すべきこと! >

『教勢の急激なる低下』。。 『ご自身の≪言行不一致≫』。。 『ご自身の≪ご乱行≫』。。
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(参考) <生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板>
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[755] マサノブ君、宗教界から締め出されるかも??
上泉信綱 - 2015年10月06日 (火) 10時19分


< マサノブ君が、是非とも認識すべきこと! >


① 信徒達から次第々々に見放されつつある事、――― 「講習会」の衰退、「聖使命会
  員」の急減!


② インターネットの電波に乗って、全世界にマサノブ君の『言行不一致』振り(悪業)、
  特に「親不孝・兄弟との不調和」の事実が知れ渡ってしまったこと。


③ 前代未聞の、デッチアゲ自作自演の『法燈継承劇』の演出!


④ 自分が継承した教団自体を、自分の手で解体し、受け継いだ『御教え』を抹殺しよう
  としていること!


⑤ 現在の教団(実質的には「マサノブ教団」)に残っている信徒の大半は、パソコンを
  持たず、したがって実態を知らない。しかし、クチコミで実態を知りつつあり。だか
  ら、信徒脱退減少は益々続いて行く。


⑥ かくして、世界の宗教界から、マサノブ君は『落第宗教家』の烙印が押されつつあり!



■■ これ以上の恥をさらさず、マサノブ君よ、直ちに辞表を提出して『生長の家』教団
   から立ち去るべし!
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2728中道実相:2015/10/06(火) 16:18:12 ID:Htlris5w

死はない、という意味は、生命が永遠であるということです。

生命は永遠でありますので、何度でも生まれ変わります。

2729曳馬野:2015/10/06(火) 16:39:52 ID:JPiKJZkg

>>2728さん

じゃお聞きしますが、あなたは何時人間になりましたか?個別霊として永遠の存在と云われると云われるのであれば全宇宙、霊界も幽界も含めて、

それぞれ各人が分離した本体を持っていて輪廻を繰り返すというのであれば、全人間数は固定数となります。いつの日か地球上には人間がいなくなります。

地上天国なんてものはできませんね。地球は過度期の魂の住処、訓練の場所ということになりますから。地上を卒業した魂は高級天体に移行すると説いています。

そんな天体が在るのを見てきた人はいるのですか?ただ信じる、というのではカルトと変わりませんね。

人間が生まれ変わるのでしょう?人間ではない念の塊が生まれ変わるのではありませんか?

2730曳馬野:2015/10/06(火) 16:51:05 ID:JPiKJZkg

トンチンカンなことばかり言う人は>>2721の以下の盤珪禅師の言葉を生長の家の言葉で説明してください。肝心なところはスルーでア○なことばかり言わないでください。


昭和18年生長の家5月21日生命新体制記に『盤珪の法語は光明思想と全く同一である』と書かれています。その盤珪禅師が以下のように言われている。

『一切の惑いは念を用いる故に、輪廻顛倒す。怒りの念出る時は修羅となり。愛欲を畜生とす。物を惜しみ好むを餓鬼とす。これ等を捨てずして死去る時は、永劫輪廻し、種々の形を受け替へ、生じ流転す。念をはなれば惑いなき故に、因果なし。因果なき故に、輪廻無し。念ある内は善を修すれば善の因果あり。惡をなせば悪の因果あり。念をはなれ妙智に叶いぬれば、生死因果なし。』

また『不生を信得して、四大分散の後、又生るるものか、生まれざるか。』答えて曰く『不生の場には、生まるるか生まれざるかの沙汰はなきなり』と 

また『病魔現前、臨終如何が平常心を得ん。』師曰く『我が者裡生死なし、何ぞ臨終あらん。種々分別の境界は、汝が一念心の計度する所なり。もし汝一念不生ならば、何ぞ煩悩の礙ふところあらんや。』と。

雅春先生が全く一緒であると云った、盤珪禅師の言葉です。実相と現象の二元論に落ちている人が可哀そう。こんな話は全く理解不能の人ばかりでは雅春先生も嗚呼如何がせんでしょうか。

2731トンチンカン:2015/10/06(火) 21:41:36 ID:z9V4A.MQ

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「一人二役」でもって、≪屁理屈≫をこね回し、騒ぎまくっている。。 曳馬野爺さん?
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(参考) <生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板>
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[757] 怒り心頭? 又も、猛烈に屁理屈を展開しだしたマサノブ君!
武蔵坊弁慶 - 2015年10月06日 (火) 19時58分


本掲示板の上泉信綱殿の投稿文(『マサノブの真理の理解力は大したことはない』・『マ
サノブは世界の宗教界から締め出される?』をトンチンカン氏が「トキ掲示板」に転載さ
れた。それを読んだマサノブ君、怒り心頭に達した模様。早速、『中道實相』と『曳馬野』
の一人二役の掛け合い屁理屈問答で猛烈に屁理屈反論を展開している。下記の如くである。


*******************

「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

2728 :中道実相(=マサノブ):2015/10/06(火) 16:18:12 ID:Htlris5w
死はない、という意味は、生命が永遠であるということです。
生命は永遠でありますので、何度でも生まれ変わります。

2729 :曳馬野(=マサノブ):2015/10/06(火) 16:39:52 ID:JPiKJZkg
>>2728さん
じゃお聞きしますが、あなたは何時人間になりましたか?個別霊として永遠の存在と云わ
れると云われるのであれば全宇宙、霊界も幽界も含めて、それぞれ各人が分離した本体を
持っていて輪廻を繰り返すというのであれば、全人間数は固定数となります。いつの日か
地球上には人間がいなくなります。地上天国なんてものはできませんね。地球は過度期の
魂の住処、訓練の場所ということになりますから。地上を卒業した魂は高級天体に移行す
ると説いています。そんな天体が在るのを見てきた人はいるのですか?ただ信じる、とい
うのではカルトと変わりませんね。人間が生まれ変わるのでしょう?人間ではない念の塊
が生まれ変わるのではありませんか?

2730 :曳馬野(=マサノブ):2015/10/06(火) 16:51:05 ID:JPiKJZkg
トンチンカンなことばかり言う人は>>2721の以下の盤珪禅師の言葉を生長の家の言葉で
説明してください。肝心なところはスルーでア○なことばかり言わないでください。

***********************

2732トンチンカン:2015/10/06(火) 21:42:33 ID:z9V4A.MQ

(つづき)

<講評>

① 「神の子」實相人間としてのわれわれ一人一人は、今ここ現に實相世界において久遠
生命として生きているのであります。無限相を備えるその實相人間が、無限相の實相を一
つ一つ具体的に現すために三次元現象世界という舞台に(肉体人間として)仮りの相とし
て生まれ出て無限の實相顕現を体験する。(現象側から見れば個生命としての進化向上)。
仮の相(化現の)相であるから次の實相顕現舞台へ移るときには、肉体という衣を脱ぐ。
これが現象肉体人間の死であり、舞台が次々と変わって行く事を“輪廻転生”というので
あります。ここのところを『中道實相=マサノブ』は、實相と現象とをごちゃ混ぜにして
書いているのであるから、却って読む側が混乱してしまうのであります。マサノブ君は真
理を解り易く説明出来ないと云うことであり、彼自身が生命の實相の真理を正しく把握出
来ていないからであります。


② マサノブ君は「全宇宙(現界霊界幽界を含めて)の人間の数は固定されている。だか
ら、地球上の人間がすべて高級霊になって地球を去ってしまえば、いつかは地球上には人
間が一人も居なくなる」と書いている。彼は『生命の實相』を熟読していないことがここ
で見事に証明されているのであります。『生命の實相』には、―――

1、 宇宙のあらゆる天体は、生命進化のための場(道場)である、と書かれている。

2、 宇宙における現象界への霊魂の萌芽(めばえ)は常に間断なく創造されつつあるの
である、と書かれている。

以上のことは、實相世界は無限創造の世界である事からも容易に理解できることでありま
す。ただし、マサノブ君のように屁理屈を捏ね始めると、議論は真理の周りを永久に回っ
ていることになり、こう言えば,ああ言う・ああ言えば、こう言うで折り合えることは未
来永劫あり得ないのであります。このことが、マサノブ君には幾ら言っても分からない。
彼の心には「神の子」の標準がないからであります。理屈だけを思考の標準としているか
らであります。これを宗教音痴・霊的音痴というのであります。


③ マサノブ君は、「盤珪禅師の言葉を生長の家の言葉で説明せよ」という。われわれが
「生長の家」の信徒となったのは、「宗教界の“古文”を“現代語”で説明」する為では
ない。われわれ信徒は、開祖・谷口雅春先生と同じレベルの大悟徹底(悟り)に達してい
るわけではない。しかし、われわれ信徒は潜在意識の奥底で直観的に開祖・谷口雅春先生
の大悟徹底が正しい真実の真理である事を感じ取っているのであります。其処には理屈は
無いのであります。生命的直観であり霊的直観であります。だから、現代科学では説明で
きない奇蹟的体験が生ずるのであります。


マサノブ君に問う!

1、そこまで君が理屈を捏ねるならば、君の生命的体験としての「大悟徹底体験」がある
のかどうか? あれば、その時の情景描写を言葉と文章で示したまえ。

2、君自身の「マサノブ教」の教えによる問題解決の実例をいくつか示したまえ。

3、「マサノブ教」(サヨク唯物現象論)の教えに依って、人生諸問題を根本的に解決した
君自身の信徒指導体験のいくつかの指導実例を挙げて、詳しく解説したまえ。


以上の如き問いに答え得ずして、いつまでも屁理屈議論をしかけるべきではないのであり
ます。われわれ信徒は「信仰者」であり、学者・評論家ではない。マサノブ君、いい加減
に「屁理屈総裁」を辞職して学者評論家の世界へ入るべし! それが一番君に似合ってい
るのである。信徒は大迷惑しているのである。


最後に、早く「トキ掲示板」を閉鎖して、大閑人である屁理屈屋総裁マサノブの屁理屈発
散の場を与えることから撤退して頂けるよう「トキ管理人」氏にお願い申し上げる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2733曳馬野:2015/10/07(水) 00:05:34 ID:JPiKJZkg

●色眼鏡を掛けている人が、色眼鏡を外さずにものを見てると、必ず色眼鏡を掛けた色でしか見えないからね。色眼鏡を外したときの色なんて分かりっこないね。そのように、考え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なんて、無理だね。

2734トンチンカン:2015/10/07(水) 14:08:21 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『色メガネ』で見ている・・?

「マサノブ爺さん」は、どうして <「神の子」標準> のメガネで見ないのだろうか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



<生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板>
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[767] 深夜までパソコンにかじりつくマサノブ君 !
武蔵坊弁慶 - 2015年10月07日 (水) 13時50分


よっぽど腹を立てたらしいマサノブ君、やはり彼は「大閑人」(おおひまびと)、何とか
自己優位を保とうと必死のパッチ! 返答を書いた。まともな返答が書けないので、いつ
もの通りの屁理屈しか書けない。


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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
2733 :曳馬野 :2015/10/07(水) 00:05:34 ID:JPiKJZkg

●色眼鏡を掛けている人が、色眼鏡を外さずにものを見てると、必ず色眼鏡を掛けた色で
しか見えないからね。色眼鏡を外したときの色なんて分かりっこないね。そのように、考
え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なんて、無理だね。

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<講評>

① 「色眼鏡」の喩えは、開祖・谷口雅春先生も使われていた。それをチャッカリ利用し
た。いつもの自分に有利な『生命の實相』の中の言葉や文章を利用する。しかし、「色眼
鏡」の喩えは間違っている。どうして、<「神の子」標準>で考えられないのか? まあ、
ヘリクツ屋のマサノブ君には幾ら言っても無理だが、今一度、
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=kimidouge&mode=res&log=405
を君は読み返さなければなるまい。<サヨク唯物現象論>を思考基準として取り入れてい
る限り、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』は解らない。

2735トンチンカン:2015/10/07(水) 14:09:07 ID:z9V4A.MQ

(つづき)

② マサノブ君のヘリクツ議論の最大の弱点は、真理の体験的実証が為されていないと云
う事。「マサノブ教」の思想によって救済された個人的体験談、国家の救済体験が皆無、
つまり「マサノブ教」の左翼唯物現象論の実証体験談が皆無であると云う事で、実証され
ない空想の世界でマサノブ君は机上の哲学まがい論争を掲示板で仕掛けてきているのであ
る。実験的(体験的)に実証されない議論は屁理屈議論で無価値である。それを敢えて為
すマサノブ君は「生長の家教団」に於いては有害な獅子身中の虫である。だから総裁に値
せぬ人物ゆえ辞職して立ち去るべし、と忠告しているのである。



③ 何故、マサノブ君が「神の子」の思考標準を出せないのか? 「神の子」の思考標準
よりも、「サヨク唯物現象論」と言う思考基準を勝れたものと考えているのか? この答
えも『生命の實相』に書かれているが、マサノブ君は見落としているのである。『生命の
實相』霊界篇上巻163頁において、――― 肉体年齢の老若にかかわらず、「あの霊魂は
未だ若い」と霊界通信で表現されている。この意味は、地球世界への生まれ変わりの度数
も少なく、したがって霊的経験が少ない、即ち、その霊魂の真理理解という点に於ける“
霊性開発”レベルの低い霊魂という意味であります。まさしく、マサノブ君は、今生62
歳の爺さんであるけれども「霊的年齢」はまだまだ若い未熟な魂であるのであります。現
在の「生長の家教団」の悲劇は、まだまだ若すぎる霊的年齢の未熟な霊魂であるマサノブ
君が、霊性開発レベルの高い信徒の上位に「総裁」として座っていると云うことでありま
す。あらゆる面から考えて、「若すぎる未熟なタマシイ」であるマサノブ君は、総裁の椅
子から降り、教団を去って、彼の霊性開発度に応じた霊的環境の場へと移住していって貰
わねばならないのであります。



<忠告>

せっかくの秋の夜長、自然豊かな田舎へ信徒の浄財をふんだんに使って宗教貴族として移
住できたのだから、深夜までパソコンにかぎりついて放れない「自我虫」ではなく、耳を
窓外に向け、ホンモノの秋の虫の音に耳を傾けては如何かな、マサノブ君! そして「謡
曲」でも独吟しては・・・

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2736曳馬野:2015/10/07(水) 16:05:42 ID:y7R7X4O2

私を谷口雅宣総裁である、としか考えられない脳味噌で、その前提でしかものを見られないから、恥ずかしげもなく、私の書くものが左翼唯物現象論からのものとしか見えないのだね。

「そのように、考え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なんて、無理だね。」これは井上寛道老師のものだよ。

脳味噌あり、五官あり、の唯物論者は君たちだろ、目で見たものを根拠に滓頭で考える、縦横十字の一点もなき今に生きるというのが生長の家なんだが、時間空間の中で生きている唯物論者はどちらだろう。

斯く見えるというのなら目玉を穿り出せ、斯く聞こえるというのなら耳を取ってしまえ、斯く考えると言うならば脳髄を取ってしまえ、とは生命の実相の教えだろ。読んでないのかな、知らないのかな

2737トンチンカン:2015/10/07(水) 18:30:32 ID:z9V4A.MQ

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「井上寛道老師」のコトバであろうと、哲学者のコトバであろうと・・・

「マサノブ爺さん」の ≪実行動≫ が問題なのですよ!!
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・『恵美子お母さんの≪軟禁問題≫』・・ これが如何に素晴らしいのか、ご講義下さい?

2738曳馬野:2015/10/07(水) 18:47:08 ID:y7R7X4O2
私の言葉が問題でないのなら、私の言葉についてのつまらん能書きを転載しなさんな。

トンチンカンが云うこととすることが一致していないのだよ

だそうだの話なんて何の興味もないよ。「曳馬の御一統」と云い続けるアホと何ら変わらない話でしょう。

2739トンチンカン:2015/10/07(水) 18:52:04 ID:z9V4A.MQ

<生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板>
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[769] これがマサノブ「ヘリクツ議論」の典型! 答えに窮しているのが一目瞭然だ!!

武蔵坊弁慶 - 2015年10月07日 (水) 18時30分


やはり、今日もまたパソコンにかじりついていた。
二時間の間、如何に回答を書くべきかと考えていたらしいが、結局マトモな回答を正面か
ら書けないので、禅の老師の言葉を引っ張り出したり、「今」を引っ張り出したりしてヘ
リクツを並べ立て、最後は、捨てセリフ調で終わる。いつものパターン。こんな反・『御
教え』のヘリクツは、「生長の家」信徒であれば誰も書かない。とすると、マサノブ・ニ
セ総裁しか居ないことになる。


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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
2736 :曳馬野(=マサノブ) :2015/10/07(水) 16:05:42 ID:y7R7X4O2

私を谷口雅宣総裁である、としか考えられない脳味噌で、その前提でしかものを見られな
いから、恥ずかしげもなく、私の書くものが左翼唯物現象論からのものとしか見えないの
だね。「そのように、考え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なん
て、無理だね。」これは井上寛道老師のものだよ。脳味噌あり、五官あり、の唯物論者は
君たちだろ、目で見たものを根拠に滓頭で考える、縦横十字の一点もなき今に生きるとい
うのが生長の家なんだが、時間空間の中で生きている唯物論者はどちらだろう。斯く見え
るというのなら目玉を穿り出せ、斯く聞こえるというのなら耳を取ってしまえ、斯く考え
ると言うならば脳髄を取ってしまえ、とは生命の実相の教えだろ。読んでないのかな、知
らないのかな
********************


<講評>


① これが真理の周りを永久に堂々巡りしか出来ないヘリクツ学者・ヘリクツ評論家「マ
サノブ」のヘリクツ論法の典型である。


② 「曳馬野」君が「マサノブ」君でないと言い通すならば、結果的には「マサノブ」と
間違われるような文章を書いて「マサノブ」君に迷惑を掛けたことを詫びて「トキ掲示板」
から自発的に引き下がるのが常識人としての礼儀作法である。このことを何度指摘されて
も平気で書き続ける。『=マサノブ』と考えざるを得ないのである。


③ こんなことであるから、マサノブ君は、永久に真理(『御教え』)の奥堂に到達でき
ないのである。彼には真剣な求道心など全く無い。信徒の浄財の上にアグラをかいて優雅
な宗教貴族の、有り余る時間(大閑)を利用して議論好きな趣味の展開を楽しんでいるに
しか過ぎない。全く「生長の家」には不必要な存在。辞職して、信徒の浄財に頼らず、自
分の道を切り開いて行きたまえ!
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2740曳馬野:2015/10/07(水) 20:49:14 ID:y7R7X4O2

私の言葉が問題でないのなら、私の言葉についてのつまらん能書きを転載しなさんな。

トンチンカンが云うこととすることが一致していないのだよ


この日本語の意味が分からないのだねトンチンカンは

2741トンチンカン:2015/10/07(水) 23:31:16 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『恵美子お母さんの≪軟禁問題≫』・・ これが如何に素晴らしいのか、ご講義下さい?

「マサノブ爺さん」の ≪実行動≫ が問題なのですよ!!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2742トンチンカン:2015/10/08(木) 00:00:22 ID:z9V4A.MQ

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『トンチンカンが云うこととすることが一致していないのだよ』   (曳馬野)

『マサノブ爺さん』および、『曳馬野ご一統』に、そのまま 返上 いたします!!
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・≪言行不一致≫・・これは、『マサノブ爺さん』の ≪代名詞≫ みたいなモノです!


・これを 常用 するので、信徒から 顰蹙(ひんしゅく) をかっているのです・・・

2743曳馬野:2015/10/09(金) 06:18:08 ID:y7R7X4O2

3205 :トキ :2015/10/09(金) 01:09:10 ID:DxPu/lj2     全ての人間を”神の子″として拝むこと


あなたが”神の子″であるだけではなく、すべての人間が”神の子″であり、わたしたちと兄弟姉 妹であるのであるから、わたしたちはいかなる人間をも”神の子″として礼拝し、全ての人間を祝福してあげなければならないのである。人を軽蔑してはならない。

どんな不完全な状態がその人に現在 顧われておろうとも、その顕われだけを見て、その人間を根本的に蔑視するようなことがあってはな らないのである。

【【顕われのみを見ず、実相の完全さを見つめ、観じ、祝福することを継続するなら ば、実相の完全さが、必ずやがて顕われて来るに相違ないのである。】】


この言葉は耳触りが良くても、実現不可能であることを雅春先生、清超先生自ら証明しているのではありませんか?

トキさん自身雅宣総裁の実相が現れてはいないというし、本流派もどうしようもない総裁だという。であるならば雅春先生は、孫がね〜、と云い孫の不完全を認識し、死ぬまで孫の実相を観、祝福していたのでしょう。また清超先生も恵美子先生も我が子の実相を信じ見つめ祝福していたからこそ、何も言わずに逝かれ、本流派が云うがごとき現実があるとしても何も言わないのでしょう。

本流派の、総裁は駄目だの大合唱は、この真理は30年40年祈ったところで実相は顕れないのに、気分を高揚させるだけのものと証明しているのではないでしょうか?真理が正しければ雅春先生、清超先生恵美子先生が実践したのだから実相が現れているということになります。どちらでしょう。

2744曳馬野:2015/10/09(金) 06:36:29 ID:y7R7X4O2

 真理が正しければ雅春先生、清超先生恵美子先生が実践したのだから実相が現れているということになります


 【顕われのみを見ず、実相の完全さを見つめ、観じ、祝福することを継続するなら ば、実相の完全さが、必ずやがて顕われて来るに相違ないのである。】

 この真理を実践しているのが教団信徒ということになりませんか? 分派はこの真理を実践していない者達ということになります。

2745トンチンカン:2015/10/09(金) 07:26:57 ID:z9V4A.MQ

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「マサノブ爺さん」・・ またもや ≪責任転嫁≫ です!!

『トンデモ総裁』は、≪自己反省≫しないのです!! 全て周囲の人間が悪いのです!!
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2746志恩:2015/10/09(金) 07:42:57 ID:6hRUvSRg
あの有名な「親鸞」の息子・「善鸞」も、
雅宣総裁のように、開祖より 自分のほうが正しい と、

実父である「親鸞」の教えを 見下し、批判し、

別の教えを 創作し、私が 説く教えのほうが 正しいのだと主張されました。

歴史は 繰り返すと 言われておりますから、
その 現代版では ないでしょうか。

そして、その「善鸞」の主張した説教に同意して、元々の信者の中には、
息子の「善鸞」に ついていくものたちが 居たという、実話がございます。

過去の歴史では、「善鸞」は、しばらくのちに 失脚しております。
善鸞の説いた教えも、泡のごとく 虹のごとく 消えております。

雅宣総裁のご主張や、お考えが、ほんとうに正しいものなら、

今後、雅宣総裁が率いる 現・生長の家教団は、
ますます発展し、信徒数も ますます拡大し、
雅宣総裁の教えは、消えることなく未来永劫 存続していくものと推測致しております。

2747純粋教理批判:2015/10/09(金) 08:27:48 ID:yPuEDcac
>本流派の、総裁は駄目だの大合唱は、この真理は30年40年祈ったところで実相は顕れないのに、気分を高揚させるだけのものと証明しているのではないでしょうか?真理が正しければ雅春先生、清超先生恵美子先生が実践したのだから実相が現れているということになります。どちらでしょう。

削除責任者のトキさんがあらわれるまでこちらで書き込みます。頓珍漢君は「責任逃れ」といっているようですが、これはつまり子供の実相を祈っても実相が現れないのは子供の責任である、ということなのでしょう。ようするに「相手次第の真理」ということを頓珍漢君はいっているのではないでしょうか。

いくら祈っても相手次第で実相があらわれぬことがある。あらわれるかあらわれぬかは相手次第である。総裁相手だと誰が祈ったところで実相はあらわれない。すべての責任は総裁にある。祈った側に責任はない。本流がいいたいのはこういうことではないでしょうか。

2748志恩:2015/10/09(金) 08:56:52 ID:6hRUvSRg
   臨済宗の  盤珪永琢禅師(1622〜1693)の、「不生禅」についてですが、
ネットに、盤珪禅師が珍しく自らの教えを解説しているという書籍中の文が載っていましたので、ご紹介させていただきます。

(或る者が)「この頃お示しいただいた 不生の理について、近頃は有り難くおぼえるようになりました。
       しかしながら、凡夫心だからか、怒って 腹が立つことが 多いです。

   これを止めようと思って、怒りの心を止めますけれども、また生じてしまい、ついに止むことがありません。
   このようなことは、どのようにして止めれば良いのでしょうか」と問うた。

 禅師の御返答は

「その怒りを 抑えることは 悪い心得である。
 元から、この心は1つであり、その1つの心から出る怒りを止めようと思うなら、
 一心が2つになり、走る人を後ろから追いかけるようなもので、走るも自分、追うも自分となる。

この心を辿って申し添えるならば、茂った木の下を掃除しているのに、上から木の葉を散らすようなものである。
払い避ければ、サッパリとなるが、また後から散らすようなものである。

 止めようと思うのが悪いのである。だからこそ、その起こる念に関わらず、ただ止めようとも思わないのが良いのだ。
止めようとも、止めまいとも思わないのが、不生である」

と仰ったところ、彼の人はこの答えを納得し「さてもさても、ありがたや」といって去っていった。

    岩波文庫『盤珪禅師語録』136〜137頁、
________________________________________
つまり、不生禅というのは、自分の本来の 仏心が 会得されていないと、理解が進まないような教えであり、
そのために「明眼」を開くことが重要だとされています。仏心を 確信することが 肝心であるとされています。

一般的に、禅宗は「無」を強調すると 考えられておりますが、盤珪禅師は、そうではないのです。
不生というのは、仏心の明らかなる様子をそのままにしておくということで、いわゆる禅宗の「無」の状況とは違っている。

盤珪禅師が、「心」のありように注目したというのは、むしろ、「無」を教えられていたが、その弊害に毒されていない、
初期禅宗の禅僧が 持っていた 問題意識に近い心の探究で、初期禅宗の僧達が、常に目論んでいたことだったそうです。

ここで盤珪禅師がいわれているように、一心が 2つになり、それぞれ自分で逃げて、自分で追いかける、
というような喩えは、非常に理解しやすいように思います。

そこで、この質問者(或る者)が 聞いているように、怒りを抑えるには、どうすれば良いのでしょう?それは、
まず、怒りですらも、そのままにしておくこと、いわば、怒りを怒りとして、自分のものとしないということによって、

不生にしておくことが 肝心だといえるというように盤珪禅師は自ら説く「不生禅」について、解説されておられたそうです。

2749神の子さん:2015/10/09(金) 09:28:55 ID:ZjhdjGm6
>>2746

(雅宣総裁のご主張や、お考えが、ほんとうに正しいものなら、

今後、雅宣総裁が率いる 現・生長の家教団は、
ますます発展し、信徒数も ますます拡大し、
雅宣総裁の教えは、消えることなく未来永劫 存続していくものと推測致しております。)

これ雅春先生の教えに置き換えたらどうなるの?
雅春先生が正しければ分裂問題など起きなかったのでは?
正しいもの=雅春先生から、間違ったもの=雅宣さんが生まれたのは何故ですか?

2750志恩:2015/10/09(金) 09:49:29 ID:6hRUvSRg
2749;さん

>>これ雅春先生の教えに置き換えたらどうなるの?
雅春先生が正しければ分裂問題など起きなかったのでは?<<

正しく継承されていると信徒さんたちが思われていたら、分裂問題は起きていないと思います。

>>正しいもの=雅春先生から、間違ったもの=雅宣さんが生まれたのは何故ですか?<<

雅春先生や清超先生が祈っておられたのに、
雅宣さんのような人が生まれたということは、
それだけ、
人間知では、計り得ぬ、何か、大きな意味が隠されているからだと思っております。

大きな意味とは、今は、こういう意味ですとは、言えないのですが、
後になってから、わかることです。

雅宣さんにとっても、われわれ信徒にとっても、福音である深い意味合いが隠されていると思います。

ほんとうに悪い人など、だれもいないからです。

2751曳馬野:2015/10/10(土) 00:12:20 ID:y7R7X4O2


>>大きな意味とは、今は、こういう意味ですとは、言えないのですが、後になってから、わかることです。

これと同じことが天皇の事で書かれています、天皇の実相がいつか顕れます、信じられない人も否定だけはしないでくださいと書かれています。

然るに志恩さんは否定しますね、理解に苦しみます。

2752曳馬野:2015/10/10(土) 00:23:36 ID:y7R7X4O2

>>2748  志恩さん

盤珪禅師語録の引用以下はあなたの感想ですか?それとも作者のものですか?

2753志恩:2015/10/10(土) 03:51:32 ID:6hRUvSRg
作者の感想を引用しながら私の感想を少しだけ交えた部分もあります。紛らわしくてすみません。

2754志恩:2015/10/10(土) 06:01:54 ID:6hRUvSRg
盤珪禅師のことは、谷口雅春先生が、あちこちで取り上げていらっしゃいましたが、
不生禅を生きるとは、久遠の今を生きることだと、教えていただいていたと思います。

明日とか、今日とかの今ではなく。

不生不滅、不垢不浄、不増不減、の...般若心経の真義.....のことですが、
神様、仏様から戴いているいのちを生きる今、今、今、のこと。だったような。

(真実在は 本来、生じ来たることもなく。相対的な汚れもなく、相対的な浄さもなく。
増えたり、減ったりという相対的な変化もない。)

2755トンチンカン:2015/10/10(土) 23:23:51 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

『谷口恵美子先生』が、本日、92歳になられました。おめでとうございます!

大正12年10月10日、富山県高岡市でお生まれになられました。

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・このことは、「今の教団」では タブー なのですか・・??

2756志恩:2015/10/11(日) 10:43:50 ID:6hRUvSRg
独占板:うのはなさん

曵馬野さんは、曹洞宗から臨済宗から...公案のことから、様々な仏教関係のことを、
この度は、話題にされておられますが、

トキさんのまえに曵馬野さんと私は、仏教のことで、
会話をさせていただいておりました。その途中から、
臨済宗の件で、トキさんが、お書きになられたのです。

全部は、貼れませんが、その一部が、以下のものです。
これは、曹洞宗のことですけれど、
仏教をテーマにして、
トキさんがご投稿されるまえから、曵馬野さんと私はやりとりしていました。

過去にも、曵馬野さんの問いかけに、トキさんが答えられる場合もあり、
私宛に曵馬野さんが問いかけられたのに、私が答えない場合、
私の代わりにトキさんが答えて下さる場合もあり、

トキさんが、多忙のため、席におられない場合は、
トキさんの代わりに、私が答える場合もあり、いろいろだと思います。

ですから、あなたの受け取り方は、違うんじゃないかなと思います。
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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
2700 :志恩:2015/10/02(金) 23:45:13 ID:6hRUvSRg
先日、曵馬野さんがご紹介くださった 曹洞宗・井上義衍老師の 二人の息子さんで、
お二人とも見性されたという

(*「見性」とは、悟りを体験された経験があること。内なる本来の性を見た、
気がついたという意味)

井上晢玄老師、井上貫道老師ご兄弟がお話されているYouTubeは、
視聴させていただいております。略

2758トキ:2015/10/23(金) 20:39:43 ID:LaEeSjGM
 あの大空に輝く星々が秩序整然と一定の所に位置して、星座というものを形造って、
一定の法則の下に動いているのはそれは”万有引力”に依ると物理学者は説明するのです
けれども、あれは「多」の一元的統一を行う”愛の力”によるものであって、沢山の個々
別々の星が、愛の力によって一元的に統一されているからこそ、天体と天体との運行に
調和があって悲惨な大破壊を招く衝突が起こらないで済んでいるのであります。

 此の万有を結んでそれを調和ある姿に統一している処の万有引力と謂うものは、実は
神の愛というものが現れているものであって、「愛」というものがなかったら、この
太陽も銀河系宇宙も皆砕けてしまうのです。家庭の中にも、愛というものがあって、そこ
に個々別々の人間が一元的に統一されて初めて調和というものが見出されるのであります。

「新版 女の生き甲斐」 谷口雅春先生著、8ページより謹写

*宇宙論の本を読んでおりますが、この宇宙のことはわからないことが多いのに驚きます。
 が、家庭のことも、知っていると思い込んでいますが、案外、反省すべき点はあるかと
 感じます。脚下照顧。

2759トキ:2015/10/24(土) 21:40:19 ID:g.4JxnNU
*なぜ幸福になれないか

 人間に生まれてきた以上、みんな幸福になりたいと思っているんです。
しかし世の中はそんなに幸福そうな人ばかりではないでしょう。

 その理由が二つあるんです。一つは、心の法則を知らないからです。
心の法則というのは、だれも教えてくれませんね。大学に行っても教えて
くれません。

 第二が、幸福とは何ぞやということを知らない。幸福になりたいなりたい
と言いながら、幸福ってなんですかと聞くと、それはわからない、それじゃ
幸福になれないね。行き場がわからないだから。幸福ってなんですか? 

 皆さんよく考えてください。

 百人の人に一人ずつ聞いてみると、病気の人は病気が治ると幸福だと言う
よ。夫婦が仲悪い人は、仲良くなったら幸福だと言うよ。金がない人は金が
あれば幸福だと言うよ。家がない人は家が出来たら幸福だと言う。みんな違
うの。しかも、もっと根本的な幸福とは何かということを我々は知らなけれ
ばならない。

「人生をたのしく」 徳久克巳先生著、日本教文社 p23より

*根本的な幸福とは何か・・・・。普段、考えたこともない話ですね。
 これは、一度、じっくりと腰を据えて、聖典を読んで考えてもよい宿題
 だと思います。

  こういう宿題があると、本の読み方も変わると思います。

2766トキ:2015/10/26(月) 20:19:25 ID:U0EhhnCs
 多くの祈りが失敗するのは、余りにも自分自身を、神の前に弱小な者
として、出てこない方が神の目障りにならない様な卑しい乞食の様な存在
であるとして、卑屈にただ泣きつくような祈りをしているからである。

 「神が世界を進展せしめるための計画の一部分として、自分自身の
生きていることが、愛することが、進歩することが是非必要なのである。
自分というものは神の計画の中にはなくてはならない存在だ。」

ということを信じて祈るものにはその祈りが決して成就しないという
ことはないのである。

「祈りの科学」 新選 谷口雅春選集 第4巻 103ページより謹写

*アメリカのユニティー教会のステラ・デリル・マン女史と言われる
 方がおられます。その方は谷口雅春先生と親交があり、そのマン女史
 の好意により、女史の著作を引用する形で書かれた本です。

  誠に、真理は国境を越える、ということを示す良い例だと感じます。

2767トキ:2015/10/27(火) 22:03:29 ID:oR/3.tn6
白百合と牡丹の花

 或る時、白百合の花が、牡丹の花に「あなたは美しい花をつけていますねえ。
私もあなたのように色のついて花になりたい」と申しました。

 白百合の花はだんだん赤くなって、ちょっと見ると美しい鬼百合のような色に
かわって来ましたが、それは前のような尚さ(けだかさ)を失ってしまいました。
 そして前よりも人に可愛がられなくなりました。

 白百合は白百合で好い所があるのです。自分自身が持っている「そのまま」を
素直に出すのが一等好いのです。そのまま、吾々は「神の子」だからです。

「人生読本」 谷口雅春先生著 79ページより謹写

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 古い生長の家の講師の方は、個性を大事にすることをよく言われました。
信仰をしていると、何か、手本の通りにしなければならない、という印象があります
が、実際には、自己内在の神様が見本であり、手本ではないか、と感じます。

2768トキ:2015/10/28(水) 20:36:52 ID:/uQCNs42
五日の箴言 ”人間智慧”による一つの幸福は又別の不幸をつくる

 無論、科学文明の発達が必ずしも悪い面ばかりでないのは當然のことである。
公害を生ずることに気がつかなかったのは、その科学文明が、"人間智慧”ばかり
に頼りすぎていて、神の叡智の導きを受けることが乏しかった結果なのである。

 つまり「知識の樹の果」ばかり食して、真智の根元である「神の生命の樹の
實」を食することを怠った結果なのである。人間の知識を無限に積み重ねて
往ったら、ついに神に達すると思ってバベルの塔を積み重ねて往ったが、やが
てバベルの塔がくだける時が来るということは真実なのである。どうしても
私達は「大生命の樹の實」を食して大生命の中から真智を汲み出して来ない
限り、科学文明ますます発達して、公害ますます増加し、ついに地球上には
新鮮なる空気はなくなり、酸素は欠乏し、毒ガスばかりが充満するように
なること間違いないのである。

「白鳩」 昭和46年新年号 1月の箴言 谷口雅春先生 7ページより謹写

*最近、フォルクスワーゲンの違法ソフトの問題が問題になりました。
 測定のときだけごまかして問題をごまかそうという態度が、結果として、
 地球の空気を汚染し、露見して会社も大損をおいました。

  これは、フォルクスワーゲンだけではなく、私達も自戒するべき問題だ
 と思います。

2770トキ:2015/10/29(木) 22:15:17 ID:T67Txa1I
 昨年春、私の最も尊敬する加茂の杉田萩野先生が八十五歳の天寿を全うせられました。
この方のご主人は尚健在ですが、若い頃は大変な酒豪家だったそうです。生長の家に入信される
迄は女や酒の為に随分苦労せられた様です。しかし、この真理に触れて従順になられ、夫の事で
は何も干渉せず、只々お仕えになられました。或る年の消防の出初式の夜に、ご主人は泥酔して
帰ってこられて、出迎えた萩野さんの頭の上からヘドを吐き出されたのです。世の中でこれほど
不潔なものはありませんが、萩野さんは嫌な顔一つせずヘドに塗れながら深切に介護せられまし
た。酔って殆ど意識がないと思われたご主人が、これが動機で禁酒を実行せられたそうです。

「幸福への階段」 北尾巳代次先生著、日本教文社 84ページ

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 北尾先生は、奈良の教化部長を長年務められた先生です。薬剤師が本業であり、薬剤師の団体
でも役職を務められました。薬局をされ、お客さんにも伝道を熱心にされました。ご本も何冊も
出されています。

2771トキ:2015/10/30(金) 19:53:19 ID:ZZflnE5k
他を生かす事によって自分も伸びる

”神と一体である”という自覚は、神の生命はすべての人間に宿っているがゆえに、
「自分はすべての人間と一体である」という自覚を伴わなければならない。
「神の導きを受けて神の力によって、彼を圧倒してやろう」などと考えるほど
不合理なことはないのである。それは「神の導きを受けて神の力によって、
神御自身を圧倒しよう」と考えるような愚かな事であるのである。

 神は決して、他を圧倒しなければ自分が栄える事ができないような不合理な
ものを造り給わないのである。それは頭脳が胃袋を圧倒してやらなければ健康
になれないと考えたり、胃袋が腎臓を負かしてやらぬと自分が健康になれない
などと考える愚かさに似ているのである。一つの生命によって出現したすべて
の生理機関はその全てが健康になることによって自分もまた健康になるのである。

 それと同じように、他を圧倒するなどの野心を起こさず、他が健全に発達する
ように、自分の分野において最善を尽くしておれば、自分の伸びるし、他も繁栄
することになるのである。

「如意自在の生活365章」 谷口雅春先生著 日本教文社 旧版 132ページより謹写

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 「如意自在の生活365章」は、谷口雅春先生が85歳のときに出版されたご著書です
が、「今や八十五歳に垂ん(なんなん)とするわたしが、自分で書いた本に感動して
若返った感じがするのである。」と書かれています。

 信徒の皆さまは、おそらく、一度は目を通されたと想いますが、再読をお勧めします。

2776トキ:2015/10/31(土) 20:26:51 ID:Iwzn27RU
 私達がこの世に生活致しておりまして、その時には、そんなことをするのは仕方のない
ことだろう、生活しているんだもの、人間食べていかんばらならんし、そんなことは仕方
がないだろうと、肉体を持っていた時に思っておりましたことでも、霊界へ行って、霊界
から今度自分の生活を見ると(霊界へ行くと、これまでしてきたことを、パッとこう短い
時間に全部見るのだそうですよ)、そうすると、ああ、あの時のあのことがいけなかった
んだなあ、あれはやっぱり本当ではなかったんだなあ、と肉体を離れて自分の間違ってい
たことがしみじみとわかって、懺悔が出来る。

 この懺悔が出来て、ああいけなかった、すまんかったという事がわかると、同じ問題を
もう一遍やる必要がのうなるわけです。ところが、私達はそれがわかるまで、ああ自分の
やった事は間違いだったなあ、いけなかったんだなあということがわかるまで、何回でも
同じ事を繰り返してやる。」

「わが信仰の旅路」 小林春恵 著 日本教文社 53ページより

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 小林春恵先生は、越後で活躍をされた講師です。

 信徒の皆様は、聖典を拝読する事が大事ですが、弟子という立場からすると、こういう
先達のご本を拝読することも大事です。それは、同じ弟子という立場での体験が書かれて
いるからです。


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