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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

2748志恩:2015/10/09(金) 08:56:52 ID:6hRUvSRg
   臨済宗の  盤珪永琢禅師(1622〜1693)の、「不生禅」についてですが、
ネットに、盤珪禅師が珍しく自らの教えを解説しているという書籍中の文が載っていましたので、ご紹介させていただきます。

(或る者が)「この頃お示しいただいた 不生の理について、近頃は有り難くおぼえるようになりました。
       しかしながら、凡夫心だからか、怒って 腹が立つことが 多いです。

   これを止めようと思って、怒りの心を止めますけれども、また生じてしまい、ついに止むことがありません。
   このようなことは、どのようにして止めれば良いのでしょうか」と問うた。

 禅師の御返答は

「その怒りを 抑えることは 悪い心得である。
 元から、この心は1つであり、その1つの心から出る怒りを止めようと思うなら、
 一心が2つになり、走る人を後ろから追いかけるようなもので、走るも自分、追うも自分となる。

この心を辿って申し添えるならば、茂った木の下を掃除しているのに、上から木の葉を散らすようなものである。
払い避ければ、サッパリとなるが、また後から散らすようなものである。

 止めようと思うのが悪いのである。だからこそ、その起こる念に関わらず、ただ止めようとも思わないのが良いのだ。
止めようとも、止めまいとも思わないのが、不生である」

と仰ったところ、彼の人はこの答えを納得し「さてもさても、ありがたや」といって去っていった。

    岩波文庫『盤珪禅師語録』136〜137頁、
________________________________________
つまり、不生禅というのは、自分の本来の 仏心が 会得されていないと、理解が進まないような教えであり、
そのために「明眼」を開くことが重要だとされています。仏心を 確信することが 肝心であるとされています。

一般的に、禅宗は「無」を強調すると 考えられておりますが、盤珪禅師は、そうではないのです。
不生というのは、仏心の明らかなる様子をそのままにしておくということで、いわゆる禅宗の「無」の状況とは違っている。

盤珪禅師が、「心」のありように注目したというのは、むしろ、「無」を教えられていたが、その弊害に毒されていない、
初期禅宗の禅僧が 持っていた 問題意識に近い心の探究で、初期禅宗の僧達が、常に目論んでいたことだったそうです。

ここで盤珪禅師がいわれているように、一心が 2つになり、それぞれ自分で逃げて、自分で追いかける、
というような喩えは、非常に理解しやすいように思います。

そこで、この質問者(或る者)が 聞いているように、怒りを抑えるには、どうすれば良いのでしょう?それは、
まず、怒りですらも、そのままにしておくこと、いわば、怒りを怒りとして、自分のものとしないということによって、

不生にしておくことが 肝心だといえるというように盤珪禅師は自ら説く「不生禅」について、解説されておられたそうです。


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