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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

2686純粋教理批判:2015/09/26(土) 16:57:43 ID:DD4jWV6M
>人間中心主義という言葉を聞いて「おのれの言葉をもって真理となすこと」と定義
する人がどれだけいるでしょうか? この言葉は、肯定的にも否定的にも使えると
思いますが、おそらく純粋教理批判様の言われるような定義を思い浮かべる人はほ
とんどいないのではないでしょうか。

わたしはこのように定義いたしました。ほかの人がこのように定義しようがしまいが、関係のないことです。具体的な事例も示しました。問題はないと考えます。

もちろんふつうの人がこのように定義する必要はありません。宗教が環境問題に取り組むときにこうした定義が必要になるだろうということです。

>そのお考えを前提にすると、神と実相を生み出した別の存在がある、という
結論になると思います。そう考えてもいいのでしょうか?

そうですね。神と実相(おそらく複数の実相が存在するとおもいますが)ははじめから存在したと考えることもできますし、べつのなにものかがつくったとも考えることは可能でしょう。しかし後者の場合だと、究極の創造者を想定しなければならず、けっきょくは神一元の世界ということになってしまいそうです。

究極の出来事を考えるにあたって問題になるのは時間ということになるでしょう。はじめから存在したということは、無限の過去から存在したということでありますから、時間の経過は事実上不可能ということになります。

カントの二律背反(アンチノミー)がこのことを示しています。二律背反は思考の対象が非在であることを示しているのでしょう。時間というものはほんらいないものなのでしょう。しかし人間は時間の概念なしには事物の変化を考えることはできないので、どうしても二律背反におちいってしまうと考えられます。

神と実相ははじめから存在した。わたしはこのように考えますが、時間の概念を当てはめてこれを考えはじめた途端に、人は二律背反におちいることになります。

いずれにしても外部のことはなにもわかりません。外部はあると想定するしかない、外部が何であるかは想像するしかない、ということです。


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