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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
2714
:
曳馬野
:2015/10/04(日) 20:19:16 ID:JPiKJZkg
天皇より総理大臣の内示をうけていた海軍大将・鈴木貫太郎は三島・龍沢寺に使いをやり、臨済宗僧侶・山本玄峰に会いたい旨を伝えた。そして昭和20年3月25日、赤坂の旧乃木邸の向かいにあった内田眼科病院の内田博士の邸宅でふたりは密かに会った。これは、玄峰老師の弟子で秘書でもあった田中清玄の自伝(『田中清玄自伝』文芸春秋・1993年刊)ではじめて世に出た事実である。
このとき、鈴木はこう言った。「実は今、私は陛下から大任を命ぜられようとしています。しかし、私は政治は嫌いです。『武人、政治に関与すべからず』という明治陛下の御勅語を金科玉条としてきた者としては、その信念に反することにもなり、どうしたら良いものか、非常に悩んでおります」
すると老師は次のように応えた。「あなたは日常の政治家ではないし、総理になる人でもない。総理になる者は、世の中の悪いことも、いいこともよく知っていて、いいことに尽すことのできる人です。あなたは純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。名誉も地位もいらん、国になりきった人が必要だ。あなたは二・二六で、一度はあの世に行っている方だ。だから生死は乗り越えていらっしゃる。お引き受けなさい。ただし戦争を止めさせるためですよ」
この瞬間から、鈴木貫太郎の戦終工作がはじまった。もっといえば、この瞬間に、尽きかけていた日本の命運は首の皮一枚でつながったのである。8月14日の最後の御前会議、鈴木首相は日本の無条件降伏を主旨としたポツダム宣言受諾の是非を6名の大臣らに諮り、結果は賛否3対3となる。最後は天皇陛下の聖断を仰ぐ形に、鈴木はもっていったのだ。そして天皇は、即座に受諾を宣する。鈴木(と天皇)の終戦工作は、ここに見事に完結したのである。
その後も、玄峰老師は鈴木首相を通して天皇にさまざまな示唆をあたえる。天皇の肉声による終戦の詔勅「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」は玄峰老師の授けた言葉であり、戦後の幣原喜重郎首相に「象徴天皇制」の案を授けたのも老師だったといわれる。
戦時下、老師の下には米内光政(海相)、吉田茂(首相)、安倍能成(学習院院長)、岡田啓介(首相)、岩波茂雄(岩波書店社長)など軍に反対の立場をとる人物が大勢出入りしたが、老師が自らもとめて会ったのは鈴木貫太郎ひとりだったという。ついでにいえば、東条英機(首相)が人を介して面会を求めてきたときは、「お会いしても無駄じゃろう。東条さんは、日本の大黒柱じゃ、アジアの大船じゃと、我慢や我見にとらわれたままわしに会っても、とてもわしの言うことは分からんじゃろう」と断っている。
http://nobless.seesaa.net/article/256573159.html
より引用
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