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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

2702曳馬野:2015/10/03(土) 03:09:46 ID:JPiKJZkg

悟りは 悟りでも、レベルの違いがあるのでした。ですから、われわれも、小さな気付きをいくつもする中で、ちょっとずつ ちょっとずつ、雪だるまチックに大きくなっていくような感じもしてます(*゚ー゚)ゞですけれど、あまり大悟してしまいますと、もう、この世に生まれ変わってくる必要がなくなるのだそうですよ....。


まあ、志恩さんはそのように納得されたのはそれでよろしいです。しかしね雅春先生は、「いよいよと云うところは神想観によらなければならない」と云われています。神想観して光明一元の状態を見つめ続けた後で自分が消えて、精神でない普通に言う心でない大実在である事に気づくと云われています。

その大実在であると気づいたままで、目を開け五官で感じる世界を見た時にどのように生きられるかが問われるのです、自分の肉体も心も含めて。目を閉じていた時の光明一元の世界のままに、全てのすべてである大実在のままに、全てを自分としていられるかということです。それができて初めて神想観で入れ替わった実在の我として、永遠の我として生きているということになります。

そこにこそ観念で思うことでない自他一体のいのちの世界を生きている神の子の世界があります。それで初めて現象は無いの実現です。目を閉じて神想観している時だけ「唯一つの實在があるそれは永遠の我と云うものである」ということで目を開けたとたん現象の差別界を感じてしまうのでは 肉体の我から神の子への入れ替わりが行われていません。

こんなところに「人間神の子の自覚より進んで神の子人間の自覚にいるべし」の聖経の言葉の意味があります。人間神の子という言葉には、肉体人間が神想観して神の世界を見ている段階の様子があります。神の子人間という言葉には、神想観して実在に入れ替わった人間、全てのすべて光そのものに置き換わりきった人間の様子があります。

自分というものの存在を残したままで、それを大きくしていくのは我が大きくなってしまう可能性を否定できません。すべてに感謝し出来る心境は自分が消えていますから、神の子の所業ということになります。私には皆さんの神の子の自覚というものが180度の回転で、肉体人間の私を此処において観念として神の子を実相世界の存在としているように見えます。神想観して360度の回転がなされて此処がこのまま実相の世界であると完全にいのちの世界と入れ替わった人間が誕生しているかどうか。

自分という存在感をどんどん消してゼロにまでして、消すに消せない本来の存在に行き着こうする禅と、神想観の実修により我が消え去り實在に至るのはやり遂げた暁は同じものになります。大悟十八回、小悟数知れずで、神の子の自覚も我の消える状態により同じことが言えます。相手の如何を問わずに目を開けて今ここ実相世界であると云い得る人になられますように。


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