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聖典引用 板

2623アクエリアン:2013/10/27(日) 23:40:21 ID:f9aisZqc
ラルフ・ウォルドー・トライン著 「幸福はあなたの心で」を日英両語で読む

Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-011.htm#TopOfText

第二章 宇宙における至高の真理③

In a sense there is nothing in all the great universe but law. If this is true there must of necessity be a force behind it all that is maker of these laws, and a force greater than the laws that are made. This Spirit of Infinite Life and Power that is behind all is what I call God. I care not what term you may use, be it Kindly Light, Providence, the Over Soul, Omnipotence, or whatever term may be most convenient. I care not what the term may be as long as we are agreed in regard to the great central fact itself.

ある意味では、この大宇宙には法則のほかに何ものもないとも言えるのである。もしこのことが真実であるならば、その法則の背後にはこれらすべての法則の創造者である「力」が存在しなければならないし、その「力」は創造せられたる法則よりも偉大なるものでなければならないのである。この凡てのものの背後に存在する“無限生命”にして“無限力”なる“霊”を私は称して「神」とよぶのである。私は諸君がそれを何と呼ぼうと意に介しない。大慈、光明、摂理、超越霊、全能者又は諸君が最も便宜と思われるどんな名称で呼んでも差し支えないのである。宇宙には一切の本源者が存在するというこの中心的な大事実を、私たちが一致して認める限り、その名称如何は何ら意に介する必要はないのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」(日本教文社)より

ある意味では、壮大な宇宙にあるのはその法則だけだともいえる。それが真理なら、その法則の背後に何らかの力があってさまざまな法則を生み出しているはずだし、その力はさまざまな法則よりもさらに偉大なもののはずだ。すべての背後にあるその「無限の生命と力のスピリット」を、わたしたちは神と呼ぶ。呼び方は何でもかまわない。「優しい光」でも「恩寵」でも「至高の魂」でも「遍在」でも、わかりやすい言葉なら何でもいい。その偉大な中心的な事実についての理解が一致している限り、呼び方は何でもかまわない。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」(サンマーク出版)より

>>2615
第二章 宇宙における至高の真理①
>>2616
第二章 宇宙における至高の真理②

2625アクエリアン:2013/10/28(月) 20:52:23 ID:f9aisZqc
ラルフ・ウォルドー・トライン著 「幸福はあなたの心で」を日英両語で 読む

Chapter 2 - The Supreme Fact Of The Universe

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-011.htm#TopOfText

第二章 宇宙における至高の真理④

God, then, is this Infinite Spirit which fills all the universe with Himself alone, so that all is from Him and in Him, and there is nothing that is outside. Indeed and in truth, then, in Him we live and move and have our being. He is the life of our life, our very life itself. We have received, we are continually receiving our life from Him. We are partakers of the life of God; and though we differ from Him in that we are individualized spirits, while He is the Infinite
Spirit including us as well as all else beside, yet in essence the life of God and the life of man are identically the same, and so are one. They differ not in essence, in quality; they differ in degree.

【語句】partaker:苦楽などを共にする人

そういう訳で、私はこれを神と呼ぶが、神はこの無限者なる太霊であって宇宙の至るところに遍在し給うのである。そしてそれゆえに、一切のものは神より生まれたものであり、神の内にあり、神の外にあるものは一つとして存在しないのである。さればまことにも、真理をもととして論ずれば、神の内に私たちは生き、動き、我々の存在を保っているのである。「神」こそは私たちの「生命の生命」であり、我々の「生命」そのものであるのである。私たちは私たちの生命を神より承けた、そして今も間断なく生命を注がれ承けているのである。私たちは神の生命を分かち有(も)つものである。私たちは「個性化した霊」として出現したという意味で「全体生命」から分離したようではある。神は、我々及び諸他の一切のものを包容する無限者なる霊であり、その精髄においては、「神の生命」と「人間の生命」とは全然同一なのである。だから「神の生命」と「人間の生命」とは一体であるのである。それはその精髄においてその性質において異ならないのであって、その程度において異なるに過ぎないのである。

谷口雅春先生訳「幸福はあなたの心で」(日本教文社)より

神とは神ご自身のみによって宇宙全体を満たすこの「無限のスピリット」なのである。すべては神から生まれ、神のなかにあり、神でないものは何もない。したがって、わたしたちは神のなかで生命を得て、動き、存在しているわけで、神はわたしたちの生命であり、人生そのものなのだ。わたしたちは神から生命を授けられたのだし、いまも授けられ続けている。わたしたちは神の生命の一部なのだ。わたしたちと神は違うが、それはわたしたちが個々のスピリットであるのに対し、神はわたしたちすべてもわたしたち以外のすべても包み込む「無限のスピリット」であるからで、本質的には神の生命と人間の生命は同じひとつのものなのである。本質的な違いがあるわけではなく、それは程度の違いに過ぎない。

吉田利子訳「人生の扉をひらく「万能の鍵」」(サンマーク出版)より


>>2623
第二章 宇宙における至高の真理③

2626a hope:2013/10/29(火) 08:14:11 ID:/9IAdiFk

▣ 自然の祈り

ああ、神は偉大なるかな。
見わたすかぎり無限にひろがる大宇宙に数知れぬ多くの星を造りたもうたのである。
その星の中には太陽の二十万倍も大きな星があるのである。
それが、宇宙があまり広大なために小さな星に見えているのである。

ああ、神は偉大なるかな。
偉大なる″神の生命″を私は宿して人間として生まれてきたのである。
ああ、私の生命は偉大なるかな。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2628a hope:2013/10/30(水) 09:03:48 ID:/9IAdiFk

▣ 礼拝の祈り

神はすべてである。
すべてのものは神から生まれたのである。
だから神がこうしていろいろのものの姿にあらわれていられるのである。

机も鉛筆もペンもインキも紙もことごとく神のあらわれである。
だから私はすべてのものの内に神が宿ることを知り、一枚の紙、一本の鉛筆でも大切にする。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2629うのはな:2013/10/30(水) 11:14:28 ID:wCSq1zyk
      急ぐと焦ると

 生長の家本部へ修行に来ている「ひとのみち」信徒がある時「ひとのみちでは急ぐということは善くないと
申しますが、昔から『善は急げ』という諺がございます、善事は急ぐべきでしょうか。それとも善事でも急いでは
ひとのみちに反くことになりましょうか」とお尋ねになったことがあった。

 生長の家では、「常に時は今である」と言う。それは今の瞬間に久遠永劫の力がかかって、動こうとしていることを知れという
ことである。水道の栓を一つ捻らねば永劫にその栓を捻じる時はこないのである。
われわれの行動の支点は常に「今」にかかっている。「今」よりほかに何事も成す時はない。

「今」を見逃す者は永劫に実行の機会を見逃すことになる。だから「善は急げ」である。
しかし、現象界は一定の時間的順序で展開するから、今水道栓を捻じっても、ただちには浴槽の水が一杯になるものではない。
水道の栓を捻じった時、心の世界ではすでに浴槽の水は一杯になっているのである。

 それが形にあらわれるには時間経過を要する。すでに満たされている心の世界を信じないでその時間経過を待ち遠しく焦る者は
事を破壊するのである。種子を播いた時、すでに心の世界でその種子は芽が出ている。形の世界ではある時間経過の後芽が出る。
その時間経過を待たずに急いで土を掘り返して見る者は事を破壊する者である。
だから焦らず、善は急いで今を生かせである。

  『生命の實相』第23巻 宗教問答篇  谷口雅春 先生著

2630かぴ:2013/10/30(水) 11:24:21 ID:oEnYKIyI

   逆境に処して斯く祈れ

 若しあなたを不正にいじめる者があったり、不正に待遇する者があったり、正しいあなたの収入を不正に少くしたり奪ったりするものがあったり、あなたを誤解する者があったとしても、その相手を直接怨んだりしてはならないのである。

 キリストは斯う云う場合「悪に抗する事勿れ」と教えている。

 悪の存在を見てそれに抗したり、悪を認める心によって悪は消えることはないのである。

 あなたの信仰を変えよ。そして「自己にとって相応しき善なる者は自己の心の波長によって引寄せられて来るのである。自分は彼らを愛するが故に、彼らは決して私を害することはないのである。今彼らが私に敵対しているように見えても、それは一層善なるよき物が来る過程である。」かく思念することによって実際一層よき物が来るのである。

( 谷口 雅春先生著  「新版 幸福を招く365章 」より )

2631アクエリアン:2013/10/30(水) 18:29:25 ID:hIJRxoBg
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸福は あなたの心で」を日英両語で読む

Chapter 3 - The Supreme Fact Of Human Life

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-016.htm#TopOfText

第三章人間生活における最大の真理①

From the great central fact of the universe in regard to which we have agreed, namely, this Spirit of Infinite Life that is behind all and from which all comes, we are led to inquire as to what is the great central fact in human life. From what has gone before, the question almost answers itself.

前章において私たちがその結論に同意したるところの宇宙における最大なる中心的真理ーー即ち、凡てのものの背後には無限なる大生命の霊が存在し、それからして万物が発生したのであるという真理ーーよりして私たちは人間生活における最大の中心的真理は何であるかの提題に導かれて行くのである。既に前述したところの真理よりして、この問題に対する回答は自然に引き出されて来るのである。曰くーー

(谷口雅春先生訳)

先にお話しした宇宙の中心にある偉大な事実、つまりすべての背後に「無限の生命のスピリット」があって、そこからすべてが生じるという事実。そこから生まれるのは、人生の中心にある偉大な事実とは何かという問いかけである。これについての答えは、その前提を考えればすぐにわかるだろう。

(吉田利子さん訳)


The great central fact in human life, in your life and mine, is the coming into a conscious, vital realization of our oneness with this Infinite Life, and the opening of ourselves fully to this divine inflow .

人間の生命ーーあなた方の生命も私たちの生命も引っくるめてーーその最大の中心的真理はわれわれの生命はこの大生命と一体である、したがって、私たちはこの真理を意識的に生き生きと自覚すれば、意識的に神の生命の聖なる流れに充分完全に自分の心の窓を打ち開き得るはずであるということである。

(谷口雅春先生訳)

人生の偉大な中心的な事実、あなたの人生やわたしの人生の偉大な中心的事実とは、わたしたちがこの「無限の生命」とひとつであることに気づき、肝に銘じて、充分に自分を開いて聖なる流れを受け入れることだ。

(吉田利子さん訳)

>>2625
第二章 宇宙における至高の真理④

【参考資料】
■アマゾンブックレビューより転載

新選谷口雅春選集 9 幸福はあなたの心で

これは素晴らしいです。 By きらく- 2011/6/15

謝 世輝氏著「願望をゼッタイかなえる信念の魔術」に この本は良書と紹介してあったので、読んでみま した。 これは素晴らしいです。 引き寄せの法則 などの本を読み、ある程度の理 解のある方なら、 きっと気に入ると思います。 訳者が、昭和41年に訳されたからか?
旧仮名遣い、旧漢字が多くて、ちょっと読みにくいかもしれませんが、 漢字には全部ルビがふってあるので大丈夫です。 「人生の扉をひらく「万能の鍵」」という本は、 他の方の訳により、新たに出版された本だそうで す。

2633a hope:2013/11/01(金) 08:52:57 ID:/9IAdiFk

▣ 歓びの祈り

神は光である。
神は光であるから明るい歓びの心をもちたまう。
私は神の子である。
神から明るい心を譲られていて、暗い陰気な心はけっしてもたないのである。
だから私は何を見ても愉しいのである。
歓びばかりがやって来るのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2634a hope:2013/11/01(金) 09:13:28 ID:/9IAdiFk

▣ 善き言葉の祈り

神は言葉によって一切のものを造りたもうたのである。
言葉で話す通りのものが自分の周囲にあらわれてくるのである。
私は人の欠点を話さない、美点のみを話すのである。
だから自分には善きことのみが集まってくるのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2637SAKURA:2013/11/01(金) 19:36:52 ID:3/pn4/Pc

「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑤   【転載編…】
>>2589投稿の続きです…。

「その理由は、その叔母さんが、あなたが好まない所の唯一人の人であるからです」
とマン女史は答えました。
何故叔母さんに深切にせんならんかと言うと“貴女が叔母さんを憎んでいるからだ。憎
んでいるから、深切にしなければならない“というのです。

「貴女は本当に叔母さんを好まないのではないのです。誰でも人を憎む時には自分自身に
憎むべきものがあって、その罪を相手に映して、相手を悪いと思うのです。あなたは自分
のよき住居をもち、それ相応の立派な家具や調度をもつ権利があると思っているのにそれ
が得られない――その自分に対して腹立たしいのです。その腹立たしさを叔母さんに罪を
かぶせようとするのです」


 誰でも人を憎む時には、自分自身に憎むべき欠点があって、自分を憎んでいるのだが、
その罪を相手に移して肩替りさせる。彼女も叔母さんに罪をかぶせて叔母さんは吝嗇坊で
私に金をくれないという風に憎むようになっているんだということを指摘した訳です。自
分が憎んでいる者程愛しなければならないということは、これは非常に大切なことなのです。

 愛している者を愛したって、何の値打もない。自分が生んだ子供を母親が愛する――当
り前のことです。別に徳が高いというものでない。むしろ、子供を愛しないのは気違い
か馬鹿かであって、愛する者を愛するのは当り前のことなんです。

 愛というものは、センチメンタルな“ 好き ”というような感情ではないのです。愛とい
うのは、実じ實相の中から出てくるところの自他一體の自覚なのです。自他一體、即ち自分と
他、相手と自分とが、肉體は別れているけれども、本来一つであるという自覚なのです。

 その本来一つであるところの自覚が出てこない間は、表面のセンチメンタルな心では
“あいつは虫が好かん”とか“叔母さんはけちん坊”だとか言って離れているけれども……
然しその奥底は、互いに一つの生命である神から生まれたのです。その内部から出てくるとこ
ろの、本来一つの自覚に基づいた意志の實践―何々せんと欲すという意志を實践する時
に、魂の進歩というものがあるのです。

 我々の魂の底には、通俗の言葉で言えば、“良心”という良き心が宿っている。佛教的
な言葉で言うと、所謂 “実相”とか“佛性”とかいうものが宿っているのです。實相にお
いては、皆佛であって一體でる。ところが表面のセンチメンタルな心では“好き”だと
か“嫌い”だとか色々言って、反撥したりしているのです。

                              つづく

2638SAKURA:2013/11/01(金) 21:42:37 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601>>2637 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑥   【引用編…】
>>2589>>2637 投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
此処で「気に入らない人!!」 「嫌がらせされている人!!」……
そのような人こそ【相手の実相…】を見なさいという事……これって!本当に、難しいです〜〜〜ョネ!!
何故なら〜♫〜 まず!私の【視・界…外の方達】から、非常に関わりたくないのに ><
【 尾・行 】とか?いろんな形で、【 四面楚歌 】つまりは〜♫ 一日中の見張りに見えます。…が?
これって?まず【情・報 を先・取・り】したい為なんでしょうかしら〜〜〜ン!首をかしげながら?

私にしますと、このような人は、まず【切・る…事】と〜〜〜更に!まず【この世に存在していないモノ】
このように見るようにしています此処昨今です。実は?“三日前…”でしたか?
「タタキ男の奥さん」でしょうかと。??一瞬!一瞬!変な感じ〜〜〜♫と思いながら?更に“マスク…”
をしていましたのが?雰囲気的にそのしぐさから?こちらに向けて〜〜〜♫フン!フン!と見せつけるように
近づいてすれ違いました。かなりの「形 ・ 成 経由…」でしたが?この女性の好みから〜♫
「タタキ男の嫁さんでしょうか?」との判断に至り〜〜〜【若さ…とは】若作りを本人はしているつもり?
外見上のみの様な感じが、こちらから見ますと見えて致し方なく?【心は〜〜〜何処〜〜〜】

■□ 何か〜〜〜“おかしな世界観…” その様に感じてしまうのです…。

まず!!興味がない訳ですから?私は、そのように一人一人の各自の個性がありますし、
【世界観…】は全くもちまして異なるのですモノ!!ですから〜〜〜♫ このような
人達の【 実・相 】を見る事より、【ノータッチ…かかわらない】まず!心で〜〜〜
唯今【 10月31日 ハロウイン……悪魔払い 】に徹する事でしょうかと??

【続々甘露の法雨…】にも、すべて〜〜〜が【心で作る世界…決定】します。
心!まずトラの“例え話…”を思いました。
■□ 良いも〜〜〜悪いも〜〜〜まず“切・る!!”事から始まる予感でしょうか???
最終的には〜〜〜今回の「マン女史」のお話の方は…【 実・相 】をみる訓練かと…
ケ−ス!バイ!ケ−ス!という事でしょうか???このように思いますネ!!!

再合掌

2639アクエリアン:2013/11/02(土) 12:11:26 ID:6oAY2dpc
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸 福は あなたの心で」を日英両語で読 む

Chapter 3 - The Supreme Fact Of Human Life

http://newthoughtlibrary.com/trineRalphWaldo/inTune/pages/in-tune-with-the-infinite-016.htm#TopOfText

第三章人間生活における最大の真理②

This is the great central fact in human life, for in this all else is included, all else follows in its train. In just the degree that we come into a conscious realization of our oneness with the Infinite Life, and open ourselves to this divine inflow, do we actualize in ourselves the qualities and powers of the Infinite Life.

これこそが人間生活における最大の中心的真理であって、この中心的な事実のうちに他の一切のことは含まれており、爾余の一切は付随的に発生するのである。私たちがこの無限の大生命と一体であるという真理を意識的に自覚し、自分自身を大生命の聖なる流れに、自分の心を打ち開き得る程度によって、私たちが実人生において大生命の徳と力とをどの程度現実化し得るかということがきまるのでる。

(谷口雅春先生訳)

これが人生の偉大な中心的な事実であり、すべてはここに含まれるし、すべてはここから始まる。どこまで意識して「無限の生命」とひとつになれるか。この聖なる流れにどこまで自分を開けるか。その度合いに応じて、わたしたちは自分のなかにある「無限の生命」の資質と力を実現することができる。

(吉田利子さん訳)

>>2631
第三章人間生活における最大の真理①

2640a hope:2013/11/04(月) 22:11:42 ID:/9IAdiFk

類纂・生命の實相 『人類無罪宣言』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生


   罪業もとよりかたちなし
   妄想顛倒のなせるなり
    ――― 親鸞 ――――

編者のことば①  (p1〜)

人間の不幸は、最近の精神分析の新しい発見によると潜在意識の深層に淀んでいて消えない ″罪″の観念の自己処罰だと解釈されています。
この意識の深層に横たわる罪の意識が消されるならば、自己処罰による人間の不幸が生じないで終熄(しゅうそく)する筈である。
戦争の発生すらも罪の意識を焼却するための自己処罰だと精神分析学者は言います。
多くの人たちが『生命の實相』を読むことにより、不治の病から癒された実例が体験としてあらわれているのは『生命の實相』の説く
「人間、本来、神の子にして罪無し」の真理が同書の雄勁(ゆうけい)なる文章の力となって読者の潜在意識に浸透し、
意識の深層にある罪の観念の蓄積即ち ″業″が消去せられるからなのです。
罪業本来無し、それはただ観念的存在なのであることを私は自分の体験によって実証したのです。
(つづく)

2641a hope:2013/11/04(月) 22:15:45 ID:/9IAdiFk
>>2640つづき)

編者のことば② 

私は昭和三十一年、宇治修練道場に於いて練成の手伝いに励んでいた頃、
後に述べるが如き家系に係る業因について悩んでいたのであるが、練成局長である徳久克己理事から、
『生命の實相』の各章から「罪本来なし」に関する文章を系統的にまとめて抜粋筆写して
潜在意識の中にある ″罪″の観念を徹底的に消去するよう勧められました。

その頃宇治では山を崩し、谷を埋める献労を中心とした練成をしていました。
私は昼間は山崩しに全精力を捧げ、夜は『生命の實相』をひたすら読み「罪本来なし」の問題にとりくんでいました。

私は新しい気持ちで『生命の實相』を読みはじめました。
入信まもなくの頃『生命の實相』十回通読を念願にたて、四回までは毎日毎日少しずつ読みましたが、
それからはわかりきった事を読むような気がして、思い出しては読む程度で八回通読しました。
今度はテーマを与えられた事によって、今までと全然違った感激をもって、読むことができました。
すると、今までわかったような気がしていたのが、実は漠然としていてさっぱりわかっていなかったことがはっきりしてきました。
(つづく)

2642a hope:2013/11/04(月) 22:18:38 ID:/9IAdiFk
>>2641つづき)

編者ことば③(p2〜)

先ず罪の問題を全て『生命の實相』から抜き書きしました。
次に谷口雅春先生のあらゆる御本から抜き書きしました。
しかしそれを系統的にまとめる事が難事でした。
何回もあきらめようとしましたが、その度に徳久先生から励まされ、終りに「祈りなさい」と言われました。

私は四時に起きて神想観をすることにしました。
二か月位つづけた時、目次がひらめきました。
それは、″苦行不要″ ″犠牲不要″ ″神罰なし″ ″罪なし″ ″懺悔″ ″因果を超越する″でした。
私は希望に燃えてまとめ出しました。

その頃、それまで三回も流産してその後、子供が宿らなかったわが家に、神の子が宿りました。
そしてこれまでの研究を「人類無罪宣言」としてまとめ上げた時、長男が生まれました。
谷口先生から行孝(ゆきたか)と御命名いただきました。
(つづく)

2644a hope:2013/11/05(火) 00:02:23 ID:/9IAdiFk
 (>>2642つづき)


編者のことば④(p3〜)

この事は谷口先生が、『生長の家』誌三十三年号の「明窓浄机」に次のようにお書きいただきました。

>生長の家宇治修練道場の楠本加美野講師夫人が去年の暮ちかく玉の如き男子を出生せられたことを爰(ここ)に報告しておきたい。
同夫人はこれまで三回も流産された。これについては楠本講師が、まだ青年時代の頃の自分自身の親不孝の罪の具象化、
又は家系につながる両親の跡嗣(あとつぎ)は得られない業因の具象化であって、
もう永久に自分には血のつながれる跡嗣が得られないかも知れないと心配されていたのであるが、
徳久克己理事が飛田給や宇治の職員に『生命の實相』を繰返し精読する機縁を与えるように、
それぞれ或る問題に視点を集注して、特に或る事項に関する抜き書きを職員たちに命ぜられた。
楠本加美野講師に割当てられた事項は、「罪本来なし」という真理に関して記述してある『生命の實相』中の文章を特に注目して、
書き抜いて筆写して整理することであった。
ところが楠本講師がその「罪本来なし」の真理と取り組んで筆写しておる内に、
「自分の親不孝の罪業も家系に伝わる両親の跡嗣となる子供が代々得られないという業因も本来なし」ということが
徹底的に潜在意識に印象されるようになったのである。
そこで今まで潜在意識中につかまれていた流産の業因が消えてしまって、玉の如き男児が得られることになったのである。
この実例によって、業というものは何処に存在しているかといえば、潜在意識の中につかまれているのであって、
聖典読誦の繰返しによって潜在意識を浄化すれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は
消えてしまうものだということが証明されたのである。<
(つづく)

2646再掲:2013/11/05(火) 02:00:04 ID:???

名前:SAKURA 投稿日: 2013/11/04(月) 21:58:30 ID:FDHLkvKk
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ 

■□「古きよき時代…雅春先生の時代の真理の伝・道…」但し?【 回・想】に思いふけるのは?
本当に!今を活かす事に繋がるのでしょうかとも?

2647SAKURA:2013/11/05(火) 03:08:16 ID:aWzD9cbE
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>2637>>2638 の投稿から “思考…範囲” をひろめますと〜♫

■ 類纂・生命の実相   【 人 類 無 罪 宣 言 】     谷口雅春著
                        楠本加美野 編    日本教文社

■□ 第五章 宗教上の 「罪の赦し」 について   P.166〜167頁まで

…中略…
神想観は罪あるままで勘弁する意味では罪を赦すのではありません。円満無罪の実相の中へ溶け込
むことによって、罪(悪念の運動慣性)が無くなるのであります。負債を支払わないで勘弁してもら
うのではなく、実相の富があらわれて来るから、負債が自然に支払われて来るのであります。プラスが
出て来るから自然にマイナスが消滅するのです。貧しいままで、相手から卑屈に負債を免じてもらう
のではなく、自然に富んで来て負債を支払いうるようになるのであります。その例もずいぶんありま
す。悪癖のある人が悪癖のあるがままで人々から我慢されるようになるのではなく、悪念の運動慣性
が破壊されるからその悪癖が無くなるのであります。タバコや、飲酒や、吃語癖などが神想観で自然
に治ったのはそれであります。病気の人が病気のままでもその病気を我慢してもらって、人から迷惑
がられなくなるのではなく、神の子無病に実相があらわれるから自然に病気そのものが影を消すので
あります。その例も無数にたくさんあります。約言すればすべて他から我慢してもらう意味では罪が
赦されるのではなく、罪の運動慣性が消滅せしめられる意味において罪が赦され、罪がけされること
になるのであります。…中略…
                          (一部抜粋)

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
さて!今回の『聖典板…』上記の皆様方が投稿されています“内・容”に???
【 罪の無罪宣言 】です。…が?最近、よく考えてしまいます。…が?
当時の事です…。私が、まだまだ?新米の頃?という表現になりますでしょうか?
やはり【親・不・孝…】をしておりましたから???当時の私は、一度この書籍を拝読しました時!
この衝撃的な “コトバ…”

■ 【罪・は・無・い!!】
この様に、今では、恥ずかしいのですが?勝手に思いまして、“気…”が楽になりました。何故ならば?
皆様もご存知の「甘露の法雨…」の冒頭に、
【天地一切のものに感謝せよ!!…中略…汝らの兄弟のうちに最も大なる者は汝らの父母である。】と…
此処から、いつも〜いつも〜私の“心の中は?闇の世界”という具合に、暗く打ちのべされていました。
それは ><
■「タタキ男…出・会・い(人をだます手口)」が〜〜〜“原因”です。此処から?
すべての『歯車が狂い…』まさに【人生の汚点…烙・印】でしたでしょうかと。??当時?その時に、
【人 類 無 罪 宣 言】この書籍本を読みまして、しかも“途中…リタイア?”なのでしたが?(微笑)

当時の私の“魂…”では〜〜〜勝手な判断にて「モ〜〜〜ウ!罪が無い!!」のだと思えたのです。
【罪…】これは【包み隠す…表れが…罪なのです】
これに【縛りつけられますと〜〜〜罪は、永遠なのです】この様に思えるようになりました次第です。

そうしますと【罪…】・【罪・業】は?どうしますと無くなるのでしょうか!!
■それは“愛”=“慈愛精神”から始まり、そこから「道…心の扇」が開かれてゆくのでしょうかと??

「楠本先生」の素晴らし〜〜〜イ【愛の精神】そして【慈愛精神】へと繋がり、更には、
そこから【天・国・の・門】が〜〜〜開いたものと、改めて“確信”ができました。『感謝…』です…。
そうです〜〜〜ョネ!強い〜強い〜【意・識】が繋がり…先生の慈愛精神が【罪・業】が消す事になった
のです〜〜〜ョネ!!そして〜多々なる「奇・蹟」が生まれたモノと、思う次第です。
ここが“ポイント”でしょうか?

まず【罪は本来無いとの自覚…】とは〜〜〜?
「無・意・識」の中から、何か“施しの精神”が生まれる【慈・愛】これが【愛…】なのですから?
これが生じますと【人間…神の子!!】の目覚めができ始めて〜〜〜【罪・業】が消えていく!!

ですので【無・罪・宣・言】とは、まず、
相手に対していつも【慈・愛・精・神・が・永・遠・に・つ・づ・く・事!】がカギでしょうかと??
この様に思うのです。
                                再合掌

2648a hope:2013/11/05(火) 09:24:44 ID:/9IAdiFk
>>2644つづき)

 編者のことば⑤(p4〜)

この記事を読んだとき初めて、何故いままで流産していたか。なぜ今回子供が誕生したかがわかりました。
私は生まれるとまもなく実父に離れ、十三歳の時継父が出来たわけですが、その二人の父と母を憎んでいました。
飛田給練成をうける事により、二人の父に母に感謝できるようになりました。

その後、婚約を断りに行った時、そこで二十数年ぶりに実父に再会出来、更に数年後、結婚が成立する時、
楠本家の先祖が明らかになったわけです。

こうして結婚する過程に親とか先祖に調和して多くの人々から祝福された結婚でしたが、
子供が宿ったと喜ぶと間もなく流産しました。
また子供が宿ると不思議に夫婦の間に険悪な空気が流れて、後で考えると馬鹿馬鹿しい事で争い、
その結果流産してしまいました。
二度目の流産の後二人は深く反省しました。
今度宿った時、三度目には調和した生活をして立派な子供を生もうと二人はそれぞれ精進して、
三度目の妊娠に備えました。
そうして三度目が宿りました。
しかしその努力はむなしく、二人の間には又も険悪な空気が流れ出しました。
それは二人の力ではどうすることもできませんでした。
それが業の催しだったのです。
そして終(つい)に流産してしまったのです。
何故流産するか、あらゆる面から考えましたが、その当時は不明でした。
私達夫婦の間には、子供が出来ると不幸になるような不可抗的な力があるように思えました。
(つづく)

2652a hope:2013/11/06(水) 08:49:51 ID:/9IAdiFk
>>2848つづき)

編者のことば⑥(p5〜)

しかしながら真理は私を救ってくれました。
前記のように『生命の實相』の全巻の中から「罪本来無し」の真理を重点にして抜粋し、
その筆写が「人類無罪宣言」の一冊にまとまるほどに原稿用紙に整理された時、
家系連綿とつづいた ″業″が消えたとみえて、私の家庭に長男が恵まれたのです。
本書はこうして綴られた、『生命の實相』中の業因を消去する聖句の部分の類纂であるわけです。

楠本家には何代かにわたって、つねに、もし子供が生まれたら子供一人を遺して親は死ぬ。
親と子とは両立できない恐ろしい業因が連綿としてありました。
私は結婚しました。
そして、その連綿継続した業因が消えないままで、もし子供が出来たら私たちは子供一人を遺して、
生き別れか死に別れの運命にあったのです。
親が死ぬか、子供が死ぬか、それがその時まで子供が次々と流産した深いわけでした。

それは恐ろしい家系につながる ″業″でした。
しかし私が、『生命の實相』の中から「業本来無し」「罪本来無し」の項目に関する文章を抜粋して筆写して、
その研鑽が徹底して「本来、人間・神の子、罪業無し」の真理が私の潜在意識の奥底に印象された時、
その業因が消えて長男が生まれたわけです。
そしてその後、尚、二人の子供も出来、今は全く幸福な家庭に恵まれているのです。
(つづく)

2653a hope:2013/11/07(木) 08:45:24 ID:/9IAdiFk
>>2652つづき)

編者のことば⑦(p6〜)

こうして筆写類纂した「人類無罪宣言」の原稿と子供の写真を谷口先生に献上し、
お礼を申しあげたく先生のお宅にお伺いしましたとき、輝子奥様から「よかったね」と喜びのお言葉をいただきました。
そのとき私はお礼の言葉も言えず、感謝感激のあまり、その場に慟哭するかのように泣いてしまったのでした。
今度、この類纂された『生命の實相』中の「人類無罪宣言」が原著者谷口雅春先生の御厚志で世に出ることになったのです。

私と同じように罪の観念で苦しんでいる人、先祖代々から「悪業」によって苦しんでいる方は、
先ず『生命の實相』の中から特に、 ″罪業本来無し″の真理を抜粋類纂したる本書を読まれて
罪業の観念を消去せられるが良いと思います。
イエスは「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」と言いました。
更に進んで『生命の實相』全巻をくり返し通読されることにより、凡ゆる種類の要素から人間は解放され、
″罪・業本来なし″の真理が心の底に確立され、家庭に幸福は訪れ、事業に繁栄は来たり、
全人類に戦争の業苦なき永久平和の楽園が招来されること疑いはないのです。

ここに、『生命の實相』の説く真理によって家系につづく罪業の束縛から解放されて再び人生に楽園を奪還し得た証し人として、
本書をすべての人類にお薦めしたいと思うのです。

昭和四十七年十二月八日   楠本加美野しるす



以上、

類纂・生命の實相 『人類無罪宣言』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生  (日本教文社) より

「編者のことば」の謹写をさせていただきました。

感謝合掌

2654a hope:2013/11/07(木) 08:57:42 ID:/9IAdiFk

「罪本来無し」は今月のweb誌友会のテーマでもあります。

「潜在意識が浄まれば、すべての罪業は消える!」って、素晴らしい真理だと思いませんか?

「人類無罪宣言」楠本加美野先生ご講話 
https://www.youtube.com/watch?v=8r5Q7nMza_Q

こちらも素晴らしいですよ!

2657うのはな:2013/11/09(土) 16:05:49 ID:fljG76iQ

『生命の實相』戦前版 第十二巻より  光明掲示板第二
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=568

2658アクエリアン:2013/11/09(土) 23:33:28 ID:sNQQ/oh6
ラルフ・ウォルドー・トライン著「幸 福は あなたの心で」を日英両語で読 む

が、投稿できません。

NGワードが含まれている、?

NGワードとは何なのか、分かりません。

この投稿はこの掲示板歓迎されていないなんでしょう。

ということでこれはやめます。

2659トキ:2013/11/10(日) 09:50:43 ID:ka8gZUjc
>>2658

アクエリアン 様

 ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

 この掲示版には、毎日、営利目的の投稿が多数来ています。
毎日、それらを削除すると共に、営利目的の投稿をされないプログラムを
組んでいます。それらが誤作動して、真面目な投稿がなされない場合があり
ます。

 この場合、別板へ投稿をされ、本板への移転希望と書かれるか、または、
管理人宛にメールで送って下されば、管理人が代理投稿をします。

tokirijicyo@yahoo.co.jp

です。

 折角のご投稿ができない、という事で、たいへんすみませんでした。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

2660アクエリアン:2013/11/10(日) 10:04:19 ID:eNK.dsZ.
トキ様

レスありがとうございます。

なるほど、掲示板運営者側のプログラムに引っ掛かったというわけですね。

了解しました。

2661トキ:2013/11/10(日) 10:06:28 ID:ka8gZUjc
>>2660

 そうです。お手数をかけて、ごめんなさい。

なお、別板に投稿をして、こちらには、『別板の何番にこういう文章を書いたので、
ご覧下さい」と書いて、リンクを貼る方法もあります。よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2662SAKURA:2013/11/10(日) 15:32:35 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…&引用編… 】
>>2500>>2501>>2504>>2507>>2522>>2523>>2539>>2554>>2563>>2566>>2567>>2571>>2582>>2589
>>2601>>2637>>2638 の投稿の続きです…。       

【  女性の本質  】             谷口雅春著
――― 女というもの ―――   
■ 愛は一切のものを産み出す母・・・・・ その⑦   【転載編】
>>2589>>2637>>2638 投稿の続きです…。

反撥したりしているのは、表面に浮んでいるもやもやとした雲みたいなものであって、
そんなもやもやしたものに従うのは本当の愛ではないのです。本当の愛というものは、内
部から出てくるところの、彼と我とは本来一つであるという佛の命の實相を自覚する――
そこから押し出してくるものが本当の願いであり、本当の愛なのです。

 表面の心では憎くても、内部から押し出してくる本当の良心、本当の愛に従って相手を
愛し切るという努力の中に魂の進歩というものがある訳なのです。

「そうおっしゃると、私があの叔母を憎んでいる限り、私自身の生活を正しく生きる努力
をしていないということになるんでございますか?」
「その通りです。叔母さんは、いわば囮に使われた羊のようなものなのです。目的は別に
あるのです。真に叔母さんを愛し、その美点を見つけるように努めなさい。あなた自身の
愛が満足されたならば、あなたはあなた自身を憎むこともなくなり、その反映として叔母
さんを憎むこともなくなります」

 本当に叔母さんの美点を見つめて、それを愛するように努力していると……その愛が満
足されたら、自分自身が満足感を得るから、自分を憎むことがなくなる。自分自身を憎む
ことがなくなったら、その反映として、叔母さんを憎むことがなくなるという訳です。

 それから、その婦人は、一生懸命に叔母さんの美点を見つけ、出来るだけ叔母さんに深
切な言葉を言うために、時々御機嫌伺いに出かけて行ったり、親類の者としては自分一人
しかいないのだからと思って、世話してあげることにしたのです。

                           つづく

2663a hope:2013/11/11(月) 07:51:59 ID:/9IAdiFk

▣ 真心(まごころ)の祈り

真心というのは、ま’こ’と’の心なのである。
人間の真(まこと)の心は、″神の心″が宿っているのであるから、
真心を出したとき神の力がわき出てくるのである。
真心を出したとき、他の人々の真心にふれて、
他の人から信じられ、愛され、悦ばれる。
真心を出したとき、何でも親切にできて失敗しないのである。
私はきっと真心をだします。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2665a hope:2013/11/13(水) 07:48:57 ID:/9IAdiFk

▣ 心清まる祈り

月の光の静かなるがごとく、私の心も静かであって、
少しも腹を立てたり、悲しんだり、不平に思ったりすることはないのである。

なぜなら私は神の子であって、神に導かれ、神に護られ、
善きこと、うれしいことのほか何ごとも私に近づいてこないからである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2668a hope:2013/11/15(金) 08:37:57 ID:/9IAdiFk

▣ 愛を深める祈り

私は″神の子″である。
神は愛であるから、″神の子″の私も愛である。
愛の深い人は憎まないのである。
だから私は人を憎まないのである。

たとい人が意地悪をすることがあっても、
その人がまちがっているのであって、
気の毒な人だと思ってその人を赦すのである。
赦しの大きいものほど愛が深く、人物が大きいのである。
私は″神の子″で人物が大きいのである。
ありがとうございます。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2671a hope:2013/11/17(日) 12:15:24 ID:/9IAdiFk

類纂 『あなたは無限能力者』谷口雅春先生著
編者 楠本加美野先生 (日本教文社)

「編者 はしがきより」抜粋P3〜

・・・私は永い間 ″自分さえよければ″という考えをもっていた。今から思うと極端な利己主義者であった。
それは私の生いたちからきたもので根深いものがあった。又この世は生存競争、弱肉強食の世界である。
幸福に生きて行くためにはあらゆる手段を使って生存競争に勝たねばならないと思っていた。
生長の家に入信してもその考えは変わらなかった。
利己的信仰者は人生問題に遭うと『法華教』に書いてあるが、
その通り利己的信仰者であった私は生長の家を熱心にやっていながら終戦後生きる希望を失った。
その時、神性開発練成会をうけ、再び『生命の實相』を心読した。そして私は新生した。

自分の力でいきているのではなく、生かされている真実にめざめた。
そして生かしてくれている空気に、太陽に、あらゆる人の奥に愛を見出し感謝できるようになった。
生かされている私の生きる道は他を生かすことにある。
愛されている私の生きる道は愛行にあると、愛行に自分の使命を見出した。
自分の一生の方針が決まったのである。

更にこの書を編纂することによって、不幸も、苦痛も、競争者までもが、その人の生命を生長させるために与えてくれるものであり、
それを感謝して受けた時、その人の生命が最もすみやかに生長する、生長と共にその問題は解決するものであるという正しい解決法がわかり、
どんなに不幸と思えることの奥にも愛があるということがわかった。・・・

以上、謹写終わり

感謝 合掌。

2672SAKURA:2013/11/20(水) 23:05:21 ID:3/pn4/Pc

「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2608投稿の続きです
■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。【 転載・引用 】

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版) その① 】―――――−

   二 月 十三 日
 悲しいことがあれば、喜びの初めである。イエス・キリストも「幸蘄なるかな悲しむ者。
その人の慰められたん」と言っている。物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたよ
うな人が、その物質なる富が眼の前から剝落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あ
るいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。悲しむだけ悲しむ
がよい。涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。浄まり浄まったとき、本当の世界は物
質の世界でなかったということがわかるのである。浄まり浄まったとき、本当の人間は物
質の肉体ではなかったことを知るのである。「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見え
ているときにも、死んではいないのであって、彼が生きた程度に従って、より自由に生き
通ししていることを知るのである。

 人間は死なない。ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。この
ことについては、「生命の実相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

 肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、かえって人に迷惑をかけつつもついには
滅びるものである。陛下のために、国家のために、全国民のために、何か捧げて死するこ
とができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

先月…「歌手…加川良さんの “教訓の歌〜♫”」からも〜〜〜? (一部抜粋)

■□ 〜♫ 悲しい事は 悲しみなさい 気にする事はありません ♫〜
〜♫ あなたの大事な心に 関わるものでは ありません〜♫

このような“歌〜♫”からでも、フト!思うのです…。
やはり〜やはり〜■【 “心”からも問題が〜〜 >< 】


さて!「雅春先生の言葉」からでも、本日の【生命の実相の言葉…】に 〜♫
■【悲しむ事から…次の一歩が始まる事でもあるのですョネ】〜〜私も?かなり長い〜〜〜期間!!
この“悲しむ事の月日〜〜〜を抱き続けたカモしれません。…が?”
これって〜〜〜【執・着・カ・モ】〜〜〜と思いながら??長〜〜く思い続けてしまいました…。そして、
何故!どうして!このようになったのかを〜〜〜最近では、よく考える事が多くなりましたでしょうか?
さて【 先週…パートナーのお父さんがまた“九大病院… 】に診察…それで福岡に来られました。
勿論! “泊まり…”で〜〜〜す。此処で?問題があるのです…。
実は?私達の家は【テレビ…】を置いていません!!従いまして〜〜〜

強制的にパートナーの「お父様」には、【本…】を勧める事になります。前回から〜〜〜
「お気にいりの本…なのですが? バビロンの大富豪の本」を〜〜♫〜〜これを読んでいるところに、
横やり「普及誌…」を渡しますと、これも読んで下さいましたのです。

                              つづく

2673SAKURA:2013/11/20(水) 23:08:56 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2608>>2672 投稿の続きです
■□ 今日は、久しぶりに「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻  谷口雅春著(日本教文社出版) その② 】―――――――

>>2672投稿の続きです…。

■実は!とても嬉し〜〜〜イ! “言葉…”を頂きましたのです。
それは〜〜〜「思考力が強くなり、更に!視力も強くなった感じがするそうです。」という“コトバ…”です。
先日パートナーのお父さんは地元の“眼科…”に行きまして〜〜ルンルン〜〜
【診察の結果…】かなり〜〜〜“視力…”が戻ったそうです。…が?

■□これも『聖典の本』を読む…【良書の本】を読む事で“パートナーのお父様”の〜〜〜
【 心・の・進・化・の・模・様・が… 】でしょうか?

さて「九大病院…」の診察日…帰宅しまして?食事後なのです。…が?
当日の晩に……私から見ましても“ナンシ−さんのお父様”は、テレビがなく【退・屈…】そうで……
そこで、私はパソコンを開きまして【 Tub… 】にて?何か“リクエスト…”がありますか?
聞きますと、どうも〜〜〜「予科練…特攻隊の歌」を聞きたいとの事で【検・索…】です。

「予科練の歌 〜♫ 」が流れてきます〜〜〜。確か?“ナンシ−さんのお父様”は【海・軍…】
更に【海軍の方達の歌を検・索】しますと、お父様の口から“この人達は”大学…“かなり上の方とか?
そして、戦争が激しくなっていくと…ほとんどの優秀なる若者が?【お国の為…】という事で…
【死の恐怖…】を心に秘めて…【戦地へ…そして…戦死!!】
遠い〜遠い〜遠い〜目を一点に据えて…其処には云いようもない無言の空気が ><

戦火が益々とひどくなっていく最中?当時の“パートナーのお父様”は、まだ!中学生から〜
“海軍…”に入隊したとの事…しかも、その当時の時代の“学校様子…”が【 Tub… 】映像が出てきます。
おじ様の横顔は?いろいろな事を思い出されたのでしょう。
【特・攻・隊・の・友・情・の・場・面…とか?】思い出され…当時の【海軍の母船で…無線連絡(ハム)】
をしていて…暗号を流す事に…当然ですが?“飛行機”で?母船から飛び立つ友人達が〜〜〜果たして!
無事に帰還出来るのか?死との背中合わせ…【お国の為…】この言葉を何度も〜何度も〜

更に【 Tub… 戦艦 武・蔵 】なのですが?本当に【戦・艦・大・和】と同じくらいの大きな船が
映像として出てきます。
■本当に私の「亡き父」「おじ様」の【青・春・は・戦・争・体・験】だけど〜〜〜
其処には〜〜〜【永・遠・な・る・友・情…】が見えましたかと。

■□>>陛下のために、国家のために、全国民のために、何か捧げて死することができるならば光栄
これに過ぐるものはないではないか。<<

この言葉が瞼に浮かびます。戦争の時でも【人間関係の友情…】は、はるかに素晴らしいモノですネ!!
私の「亡き父」は【陸・軍】でした。…が?戦友仲間の集まりの【同窓会…】があり、度々【大・分】へ…

■□戦争が終わり…終戦直後…【帰還した兵士の皆様】
当時の仕事は、ほとんど【第一産業で…石・炭・採・掘・の・仕・事】しかなかったそうで〜〜〜す。
この事は?「亡き父」も同じ事を…言っておりました。

■この件のお話を〜〜〜いつか?「プログ…日本の歴史」として?現在の若者に
少しでも?時代背景を理解して頂く参考になればいいかしら〜〜〜ン!そのように考えまして
投稿記載してみようかと???思った次第なのです。…が?

                                        再合掌

2675SAKURA:2013/11/23(土) 20:27:21 ID:yk2sDVQ.
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。 『転載・引用』

■□ いのちの環   45    「生長の家普及誌」より……その①

■□━━━【 い・の・ち・の・回・廊 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

幸福には制限はない
幸福はどれ程ありすぎても
困ることはない。
自分を限るな。
自分がいくら幸福になっても、
それによって他人の幸福が
減るなどということはない。
幸福は無限である。
それどころか、かえって、
自分が本当に幸福になってこそ、
他人も又幸福になれるのである。
類は類を呼ぶ。
自分がいくら富んだとて、
他人にめいわくはかけぬ。
かえって自分が富めば富む程、
他人も富むのである。
多くは実る林檎の樹は、
自分が多く実れば実るほど、
人類を幸福にするのである。
                    谷口雅春著 「新版  叡智の断片」322ページ
■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

PS:「トキ様」 へ「観覧者の皆様」へ 
正直?雅春先生の今回の“コトバ…”最初!読みました時は、一瞬!ムカ〜〜〜ッ!となりました。…が?
今!新たに普及誌を開いて〜読み返しますと〜♫
なるほど!なるほど!そう〜〜〜ネ!と思ってしまいます。(微笑)まず『光・明・』・でも?
まずは、私自身が、太陽の如く【幸せなココロ…】にならなければ出来ない事なのです〜〜〜ョネ!!

                          つづく

2676SAKURA:2013/11/23(土) 20:29:42 ID:yk2sDVQ.
「トキ様」へ  「観覧者の皆様」へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。 『転載・引用』

■□ いのちの環   45    「生長の家普及誌」より……その②
>>2675 投稿の続きです

■此処で、私の【 体・験・談 】なのです。…が?
以前「東京のデパートでの販売」をしていました時、当時!売り上げが順調に伸びていました。
その時、反対の売り場の人は、私達に、向かって
「あなた達が全ての客をさらっていくので、こちらに廻ってこないのョ!」と愚痴をこぼしています。
私達はタダ!タダ!にこやかに『いらっしゃいませ〜♫』この言葉から始まります。
目の前のお客様に対しまして…“スマイルマーク”です。そうしますと、必ず!「お客様」が立ち寄って
下さいまして、色々な私どもの「商・品…」に目を向けて、試着していただける状況になります。…が?
時としては、単に試着…だけの事もあります。それでも?気軽に試着出来て良かった〜〜〜ヮ!この様な
気持ちを抱いて頂けれと思ったモノです。その際には、更に、色々な世間話の雑談を聞いて、それに
かなりの時間を要しましても…当然ながら、それでも購買しない事が、度々生じましても
「後で、考え直してきます。」とか??「下のコーナーで見て来ます。」とか??いわれます。
その時!私達は、“得上の笑顔…スマイル!”で「どうぞ、下の階の方へ見に行ってください…」と
気軽に「お客様のココロの負担…」を軽くするような行動を取らせて頂きましたのです…。

しかしながら、その時は売れなくても、後に「ア〜〜〜ッ!楽しかった〜〜〜ヮ」と云った感じの
響がお互いにありますから、また!何かの時にそれこそ『御・縁…』がありましたら〜♫
以心伝心と申しますか?「お客様」も、ほとんど!また“次回…来店”の形となりました。…が?

この様に「強制的な販売…」をしていない私達の経験を踏まえますと、ここの【2チャンネル…】の
投稿者の皆様達と、同様に「相手への気持ちの“やさしさ〜♫”がない場合は、売上!!更に
『生長の家…会員数』は、果たして“何処に行くのでしょうか??”この様に思いました。

やはり、これは【類・の・法・則】に乗っかる事とは、私自信が、如何に大きな波に乗る〜ココロ!
その“心…”とは、誰がみても【あの太陽のようなココロなる事】に、本当の【富…】をゲット出来るのですネ!!
『過去の私…』は、やはり!やはり!それがあったので〜〜〜す!!
まず!!【ココロ…その“…心…”が【類・の・法・則】さらには【無・限・供・給】なのです〜〜〜ョネ!

今日の【女子会 板】の投稿の中に「山本富士子様からの“コトバ…”」
『論・客』と言う言葉を頂き、これって〜〜〜どういう意味かしら〜〜〜ンと!
一瞬!当時の販売の方々の人達と同じ捉え方のレベルに見えました。…が?これも、彼女の同じ仲間の方々
でしたら……同じレベルの捉え方の【類・の・法・則】なのです〜〜〜ョネ!!
本当の【富…】は、誰もが“楽しめる心…”をこの【2チャンネル…にて伝える事】が出来る事でしょうかと??
拝読していて、逆に、私自信の“投稿文章…”を再確認し「ア!ソウダ〜〜〜ヮ!」と共感・思える人は、
私の仲間の方でしょうかと。??

■□この様に『販・売・の・時』と『光・明・化・の・時』も同じように思えて来ますかしら〜〜〜ン!

此処で?話は変わりますが〜〜〜続き投稿として「若い女性の言葉…」を抜粋投稿させて頂きます。
実に!シッカリした御自身の“ポリシー”があり…更には、説得感がありますでしょうかと。(日を改めて)
当に【同・じ・類・の・類・の・法・則】・の皆様方は、お忙しいと思いますが?閲覧下さいませ!!

2677a hope:2013/11/24(日) 20:43:42 ID:/9IAdiFk

▣ 感謝の祈り

感謝は神の波長に最もよくあう心の波長である。
私はまず神に感謝し、父母に感謝し、先生たちに感謝し、兄弟姉妹に感謝し、
友だちに感謝し、いっさいの人と物と事とに感謝するのである。

とくに今私は日本国と天皇の御恩に感謝するのである。

「ジュニア希望の祈り」谷口雅春先生著 (日本教文社 )

2678a hope:2013/11/26(火) 23:05:05 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第36巻 幸福生活篇 第三章「無礙の大道」より 抜粋 (p59〜)

(略)第一、この生長の家と申しますのは、皆さんも御存知でありましょうが、一宗一派に執(とら)われた宗教ではないのであります。いわゆる宗派とか、宗門というものに執われないのであります。一宗一派というと、もう囲いをめぐらしているから無礙(むげ)ではありません。そこで生長の家とは何もないのであります。

何かあったら引っかかるが、何もないから引っかかりようがない、だからこれは無礙の大道であります。宗教であるかというと思うと必ずしも宗教ではない。何かあったらいっさいを包むことはできません。「生長の家は仏教か」という人があったら「ハイ、そのようであります」とお答えします。生長の家は「キリスト教か」と言う人があったら「ハイ、そのようです」ともお答えします。

「それでは矛盾しているじゃないか」と言われれば「そのようであります」とお答えします。矛盾を包容するものでないとないと無礙の大道でないのであります。一昨年末、生長の家を教化団体として法人の申請をしようと思いまして文部省の係りの人の内意を伺いますと、生長の家を文部省ではどこの課で取り扱ったらいいのかちょっと見当がつかない。宗教なら宗教局で取り扱われねばならぬし、教化団体なら普通学務局で取り扱わねばならない。

文部省の見解では、生長の家をなんであるかとハッキリ認めるだけの認識ができていないから、せっかく申請書を出しても何局へその申請書が回るか、行き場所がわからないので、も少しはっきりと内容が闡明(せんめい)になってから申請しなければ、せっかくの申請書も行き場に困って戸惑うことになるから、しばらく待ってほしい、というような話であったのであります。
(つづく)

2679a hope:2013/11/27(水) 21:12:36 ID:/9IAdiFk
>>2678つづき)

ともかく、生長の家は正体がわからないものなのです。何か一定の固定したものであったら、それが何であるかということがわかるのですが、生長の家はこれといって一つも固定したものではないのであります。檜町の乃木神社前の生長の家本部建物へ道を聴くためにお集まりになっている人は、毎日三、四百人は集まっておられるのでありますが、その中のある人がある日のこと、女の人でありましたが、こういうことをお尋ねになったことがあります。

「わたしの夫は生長の家というものにあまり興味をもっていません。別に生長の家というものに反対ということもないけれども、それでもあまりわたしが生長の家へ出かけて行くことを喜ばれません。ですから、夫が会社へ出勤せられますと、さっそく夫から自由に解放されたというような気持で道場へ来て先生のお話を伺います。それがいつとなしにまた、夫に漏れると夫の機嫌が悪いのです。そこで先生どうしたらよろしいでしょう。わたしは、どうしても生長の家というものは、ありがたくて離れられないというような気持ちがするのですが、いったいどうしたらよろしいでしょうか」と言ってお訊きになったのであります。

その時にわたしが申し上げた言葉はどうであるかといいますと、「生長の家というのは、この講堂の建物のことを言うのじゃないのですよ。生長の家というのは家庭仲のよい家ということを言うのですよ。生長の家の聖典『生命の實相』の第一巻巻頭にどう書いてあるかといいますと、『汝ら天地一切のものと和解せよ』とこう書いてある。そのとおり天地一切のものと仲良しになったら、そこがそのまま生長の家なんです。

いわんや夫と仲よしにならねば、いくらあなたが生長の家の雑誌を読んでもあなたのいる処(ところ)は生長の家ということはできない。生長の家というのは、こういう講堂であるとか校舎であるとかいうような建物の名前ではないのですよ。本当に大調和な和解した仲よしになった人々の集まっている家ならそこが生長の家ですよ。ですからあなたが自分の家にお帰りになって夫と本当に仲がよくなったらそこが生長の家なのだから、生長の家へ行きたければ自分の家でご主人と仲良くしなさい。それが生長の家に行ったことになる」こういうように申し上げたのであります。
(つづく)

2680a hope:2013/11/27(水) 21:16:55 ID:/9IAdiFk
>>2679つづき)

「生長の家」に凝って家庭が破壊したなどという人がもしあれば、その人は『生命の實相』の第一ページだけすら読んで実行しなかった人だと言わねばなりません。生長の家というものは建物でもなければ、一個人の家でもないのであります。むろん、わたしの家ではありません。生長の家というのは宇宙の普遍内在の実相である。普遍内在の実相というのは、事物の内部にいたるところに満ちている本当の相(すがた)のことであります。

宇宙内在の本当の相(すがた)なるものは生々化育そのものであって、無限に伸びてゆく相をしているのであります。これが生長の家というものであります。ですから「生長の家」とはここに見よ、かしこに見よと言ってはないのであります。たとい『生長の家』の誌友名簿に登録してありましょうとも、真理に随(した)がって生々化育して伸びてゆくところの宇宙内在の相があらわれていなければ、その人は生長の家の人だとは言えないのであります。

だからわれわれは生長の家の道場に行きたいと思えばシッカリと脚下を踏みしめて、自分は生長の家の道場にいるかということを照顧(しょうこ)してみる必要があるのであります。講堂も道場ではありますが、家庭はいっそう「生長の家」の道場であります。いかにこの自分の家庭に円満完全なる生長の家を実現するかが、皆さんに与えられたる公案であります。
(つづく)

2681SAKURA:2013/11/27(水) 23:03:21 ID:.UaJe2uQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十四 日

■素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。素直に舅 姑の懐にとびついて来る
嫁はかわいがられる。素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがらる。夫婦仲
が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、それは互いに飛びつくよ
うな素直さをなくしたからである。神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■『素直に飛びつく人』は、一番いいです〜〜〜ョネ!!
【素・直・に・な・れ・る・事】が出来る事は、まず!“環境…”からもあるのでは、ないでしょうか?
それから『夫・婦・問・題』でも、「九州」と「関東」では随分と『夫婦の仲の捉え方』は?違うのでしょうか??

欧州でも、特にフランスでの男性は、女性には“誉め言葉…”が多いとか???
例えば?かなりの【年齢の女性…】でも、その人の魅力引き出す為に〜♫
「此処が素敵だと…」まずは『 賛辞の言葉 』が「男性の社交辞令」だとか?聞いた事があります。…が?

私が、福岡に帰郷しましてから、まず!思った事は【同世代の女性がかな老けてみえて…><】
“ビックリ…”した事があります。
                            つづく

2682SAKURA:2013/11/27(水) 23:06:24 ID:.UaJe2uQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681  投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2681 投稿の続きです…。
■【 何故?老けるのかを…… 】最近!分かった次第です。…が?

此処「福岡の夫婦の会話」から〜♫〜なのです。…が?
必ず「男性…」は、他の「女性」との【比・較・論】になるのでしょうか??

私達の世代は【日教組の教育…】です。従いまして、人一倍の『負けん気』がありまして、
どうしても、同世代の中では……特に「女性」は【競・争・意・識】がまず!強いですネ!!
例えで申しますと、他の同世代の「女性…」が、若く見えるとします。そうしますと…
「男性陣」は、まず!「言・葉…」から【比・較・論】に入って行きまして【欠点とか?】〜〜〜
いろんな角度での見方から「女性」は素直になるどころではなくなり、一年中『外見への…依存度』が、
本人自身の潜在意識に、奥深く入り込み〜♫ 『奥の細道…』かなり…奥の奥まで……でしょうか?
実に、大変な感じが致しますモノ!最終的には〜〜〜?

「若い?」或いは「老いて?」この【比・較・論】に入りまして【女性として扱われなくなる】のですョネ!!
ですのでかなり、老化現象の方が多くて〜〜〜私達を見ますと、必ず❤『形成病院に直行…』かと。

■その後の【後・遺・症】は???と私は思います。…が? 大丈夫なの〜〜〜><でしょうか?

【外・見・思・考】に走る…【素直に走ると言う事】なのでしょか?けれども〜
【真理・聖典の勉強】さらに【祈り…】はおろそかになるようでは?彼らの【素直な心での行動…】とは?
全て!全て!【物質化した欲求の価値観…結果】に、逆におかれている感じで〜〜〜す!!

【素直になるのは当たり前】で、此処で「舅・姑の問題」は、これは「おしん」の問題で……
その人の【精神修行】になるのでしょう!!

と云う事は・…・現在の私の於かれた【環・境】は、「吸血鬼とその仲間とか?」に、尾行されています。
ので……【素直に彼らを受け入れる気持ち】は飛んで行け〜♫ その気持ちにはならないし、
【素直に相談は〜〜〜出来る事も出来ない!】のでは?更に、今の私は「神との融合…」を深めていく事!
そこから〜〜始まりますでしょう。まずは【祈り…】に徹する事でしょうか??

余談ですが〜〜〜只今!「おたふく風邪」にかかり【祈り…】で何とか?体調が回復出来ているのです。
…が??

■□本当に【素直になれるような環境…】に行きた〜〜〜イ!そこはキット【天・国…】でしょうネ!!

                              再合掌

2683a hope:2013/11/28(木) 22:40:49 ID:/9IAdiFk
>>2680つづき)

その公案を説くために助言となり、導きとなるのは『生命の實相』という本であり、『生長の家』という雑誌でありますが、家庭をいかにして生長の家(生々化育の家)たらしめるかという公案を解くことが面倒くさいというので、家庭を放擲(ほうてき)して教化部の建物ばかりへやってきて「私は生長の家に熱心なのです」と言っても、そういう人は生長の家に熱心なのではありません。そういう人は、家庭を生長の家にするのに不熱心なのです。

家庭が整うて社会が整い、社会が整うて国家が整い、国家が整うて宇宙が整うのであります。整うとは円満完全にいっさいが諧和(かいわ)し、生々化育の普遍内在の実相が、現実界にあらわれてくるということであります。そこで生長の家は、そのように、宇宙の普遍内在の実相であり、一ヵ所の名前ではありませんが、その代り、その内在の生々化育の実践が完全にできる人は何宗教に属しておられてもまた属しておられなくとも、生長の家がそこに顕れたということになります。

この真理を伝える雑誌にわたしは最初『生長の家』という名前をつけましたが、この真理が弘(ひろ)がるにつれ、その出版または講演説法のために講師団のようなものが要るようになりまして、この講師団に教化団体「生長の家」と名づけることになりました。この団体は、宇宙の真理は生々化育の家であるということを人類に弘めて、そして人類全体を光明化するための団体でありまして、これは教化用の団体の名称で、宇宙内在の普遍実相である生長の家とはおのずから別であります。また皆さんの家庭が生々化育の大調和の家という意味での「生長の家」という場合と、教化団体の雑誌を読んでいるという意味での『生長の家』誌友という場合とも別であります。
(つづく)

2684a hope:2013/11/28(木) 22:43:03 ID:/9IAdiFk
>>2683つづき)

そこで冠詞とか形容詞とかをつけないで、単に抽象的に生長の家という場合、それは何処にあるかといいますと、宇宙普遍の原理そのものが生長の家でありまして、その原理を教えられたところの皆さんのお家が、本当にそれを実現した時に、あなたの家庭が生長の家となるわけで、それは普遍の原理が具象化したのであり、真理(コトバ)が肉体となったので、そこにあなたの家が無限に生長し、伸び、繁昌し、幸福になってくるということになるのであります。

その無限に生長し、無限に伸びてゆく宇宙の原理を体験するにはどうしたらいいかといいますと、宇宙の道に乗ればよいのです。そうか、そんなら、その宇宙の道というものに乗りたいから、その宇宙の道というものを見せてほしいと言われる人がありましても、その宇宙の道は「無礙の大道」というものであって、形がないから見せようがない、どこにも障りがないから触れてみようがない、これが生々化育の原理なのであります。

「我」という形がなくなれば衝突もない、争いもない。障りもない。障りがないから本当にわれわれが伸び伸びと伸びる、生々化育するのであります。何かに障りがありますと、われわれは本当に伸びるということができません。無礙になった時にのみ本当に伸び伸びと生長することができるのです。無礙になるとは無我になることです。我がなくなってなんの引っかかりもないようになる道を教えるのが生長の家であります。(略)

以上 謹写終わり

生命の實相 第36巻 幸福生活篇 第三章「無礙の大道」より、一部抜粋
谷口雅春先生著(日本教文社)

2689a hope:2013/11/30(土) 17:18:27 ID:/9IAdiFk

増捕新かな版 詳説 神想観 谷口雅春先生著 (日本教文社)

第五章 神想観と聖典読誦と感謝行並びに愛行P186〜


【神想観と聖典読誦】 神想観の根本として大切なのは聖典を充分お読みになることです。先ず、『生命の實相』を繰返し噛みしめてお読みになり、自分の「生命」の実相(ほんとうのすがた)が物質ではなく、神性であり仏性であることを充分現在意識に理解しておいて神想観しなければなりません。神想観は、「自分の内に神の生命流れ入って、自分の生命となっているのだ。自分の生命と神の生命とは一体である」ということを呼吸(いき)をととのえ、精神を統一して念じて、潜在意識の底の底までも、「我れは神と一体である」という自覚を得させるのでありますが、しかし現在意識は、何と言っても主働者でありまして、現在意識そのものが、「神とは何だ」ということがハッキリ理解されていませんでしたら「神と一体だ」と言っても、一体「何と一体だか」わけがわからないことになります。だからどうしても『生命の實相』を充分味わって読み、「神」というものをよく理解した上で「神と一体だ」と念ずる神想観をしなければなりません。

「神想観」をするということと、『生命の實相』の教えを読み、如来すなわち神の子たる者の生き通しの生命を悟ることは両方から互に相寄って吾々の信念と理解とを深めてくれるのであり、どちらも忽(ゆる)がせにすることはできないのであります。

生長の家は「神想観」」ばかりしていたら好いかというとそうでもない。「神想観は神想観を教える」と同時に、「神想観は日常生活を教える」ので、日常生活の意義が一変するのです。心の姿勢を正しくすれば、身体の姿勢は正しくなり、身体の姿勢が正しくなれば、常住坐作進退(じょうじゅうざさしんたい)、法にかなうことになり、従って実生活も軌道にのり万般の事物順調に行くようになります。しかし山に籠って自分だけ悟る式の神想観ではいけませぬ。これは「人類一体」の実相を如実に生きないことになさるのですからひとりよがりに陥らずに、市井(しせい)に交じって道伝えに努力し、「全人類が未だ悟らないのは私の努力が足りないからだ」と言いえる境地にならなければなりません。そのために人に真理を充分説き得るように真理の書を詳しく広く読むことも必要です。

「生長の家は静座法だ、坐り方だけ教えて貰えばそれでよいのだ」などと安易に理解されないようにすることも必要です。講演のみに偏ってはならないし、同時に神想観だけに偏ってもならないのです。脱線して行く誌友たちは、どちらかに偏りがあり、自分免許で悟ってしまって、「すでに得たり、もう得る処なし」と考えるからで、もう得る処がなければ、与える菩薩行をなすべきなのに、それをわすれ、自己満足した結果でありましょう。

2690a hope:2013/11/30(土) 17:23:37 ID:/9IAdiFk
(>>2689つづき)

【神想観の助業としての感謝行】 神想観をただ精神統一によって摩訶不思議な霊験を得る行法であるとのみお考えになっている方がありますと、躓(つまず)くのでありますから、感謝行というものが伴わねば、観念だけの神想観ではいわゆる野狐禅になってしまって、高慢、忘恩、無恥になって自己を滅ぼしてしまうことになるのであります。だから吾々は神想観の助業として感謝行ということが必要になるのであります。

感謝行と申しますと、常住坐臥常に心に「ありがたい」の念を失わないようにする心の上での行であります。「ありがたい」の反対は不平、不満足、怨み、腹立ち等であります。神想観は仮相を超越して「実相」を観る修行であり、不平不満足「実相」を隠して仮相に捉われる業行でありますから、両者は全く正反対であり、互に一方の効果を打ち消す働きをしていますので、神想観の功徳を完全に得ようとするには、日常生活において、不平不満足の反対、――感謝行を忘れぬようにすることが肝心です。

【神想観と現象処理】 吾々は神想観において、決して現象の不完全さと取組んではならないのである。神想観はただ神のみを思い、神のみを観るのである。それは往相精進(おうそうしょうじん)の行である。それは上に向かって進む。しかし神想観によって得たる真智により、現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

2691a hope:2013/11/30(土) 17:25:31 ID:/9IAdiFk
(>>2690つづき)

【真理を完全に悟るには――生長の家の三行】 「生長の家」の真理を体得するには、神想観や『生長の家』の読誦などという静的工夫の他に、動的の工夫が要るのであります。真理は生命そのものでありますから、そして生命は「動」が本態でありますから、動的の工夫に移って、真理というものは、初めてその潜在していた生命の正体――生かす力の正体をあらわすのであります。

存在(ものそのもの)の実相を完全に自己の心に把(つか)むには、一方に『生長の家』とか『生命の實相』のような真理の経典を読み、真理を正解して邪見を防ぎつつ、一方にその真理を信念にまで高めるために神想観を修し、その真理を愛行によって実践するほかはないのであります。「知」が「信」によって生命を吹き込まれ、更にそれを愛行によって実践するとき真理が生動するものとなるのです。

その時、吾らの心はもはや真理の皮相(ひそう)のみを眺めないで、完全に我が本来の実相の真生命と本当に一体になる。そして吾らは実相の周囲をもはやどうどう廻りしないで現実に実相と重り合う、この時こそ吾等は真理を完全に悟ったと言い得るのであります。

以上 謹写 終わり

感謝 合掌

2692閲覧者99:2013/12/01(日) 10:36:37 ID:SOToXT5M
  晴れときどき競馬とホークス いいちこ様ブログから

真理を知るには

 



 「如何なる言葉も、伝えんとする真理を完全に表現出来ない。 完全なる真理でないものは虚偽である。 人は虚偽の言葉を表現することによって辛うじて自己の伝えんと欲することを表現するのである。 されば言葉は沈黙にまさり、沈黙は言葉にまさるのである。 事物は存在すると同時に存在しない。 有であると同時に無である。 全宇宙にはただ一つのものがある。 それは創造者にして同時に被造物と現れ、心的存在にして物的表現をもち、善であると共に不善である ・・・・・」



 これはエマースンの論文の一節である。 真理を知るためには、文字そのものに捉われず、行間又は字間の間を縫って沈黙の間に鳴るヒビキを聴く事を要するのである。



 釈迦は四十年説法して「一字不説」と云い、禅宗では「言詮不及・不立文字」と云う。 不立文字と云いながら数千数万言を長口舌するもの禅であり、世尊陞坐して一字説かずして、文殊菩薩撃槌して「説法終れり」と云う。 われ既に生命の實相を説いてあますところなしと雖も、いまだ一字も説かず、これから、益々長口舌を揮わんとする所以も爰にあるのである。



 言語は沈黙にまさり、沈黙は言語にまさる。 共に真理にして真理にあらず。 黙して神想観して天地の啓示を受け沈黙のうちに得たる啓示を文章にあらわす。 不言にして多言、多言にして不言。 真理は無にして有、有にして無。 説いて説かず。 聴き方上手読み方上手が必要である。




                谷口雅春師  『生長の家』誌 昭和22年12月号

2693「訊け」管理人:2013/12/04(水) 11:45:44 ID:???


實相研鑽会「妻が夫にハイと言う限界について」
谷口雅春先生御結語より謹写――


◇実相の夫に従う

 梅津さんの言われた、商売の不得手な夫が奥さんに「この商売どうしたらいいのか、お前ひとつ教えてくれ」といわれるのに「私はもうハイの精神で、夫の言うことにばかり従うんだからもう私の意見は言いません」というのは、ハイじゃないと思いますね。夫は「教えてくれ」と言ってるんだから「ハイ」と言って教えたらいいんだろうと思いますがね。これはむしろ夫に対して反抗的に「もう何だって私の意見を言うものか」というような気持になっているのであって、素直に教えないのは本当じゃないと思います。
 夫に素直に従うということは、夫を神としてですね、実相の本当の夫に従うということでなければならないわけで、夫をいかに神として信頼しているか否か、という根本が定まらなければいかんと思うんですよ。その根本が定まらないところに、「夫はときどき間違うものである、夫は時には“泥坊せよ”とも言うものである。言うかもしれんのであるが、それに従ってもいいのであるか」という考えが起る。それは、すでに妻が夫の完全な実相を見ていないことである。だから妻の観る通りに夫が現れるということになって、やはり夫に“迷い”が現れる。そこでその“迷い”(の夫)の言う通りに従ったら、(正しい)夫の言う通りに従っているのでなくて、自分の迷いが夫に映ったその迷いを聴いて従っているのであって、自分で“自分の迷い”に従っているということになるわけです。
 だから先ず根本的に、夫を神の子として尊敬して、夫の実相を喚び出さなければいかんわけです。そしたら夫は悪いことは言わんわけですよ。「おまえ間男せい。わしはお前嫌いになったから、間男せい」なんていったって、ハイと素直に従うて「間男して来ようか」と、そんな馬鹿なことはないのですね。本当の夫はそんなこと言うもんじゃないということを、根本的に実相を拝んで実相の完全さを引出した上で、夫の要求を聴いて素直に従う、というのであれば間違いないと思うわけですよ。


◇夫の実相を喚び出す

 それから“夫が堕胎せよという、いやなら離婚する”というK婦人の話の場合、夫は必ずしも堕胎せよと言ってやしないんです。「堕胎するか離婚するか、どちらか二つのうち一つを選べ」と言っている。そうでしょう。だから、どっちが本当に夫の実相が呼びかけているのか、ということを聴かなくちゃいかんと思うのですよ。
 そうすると、夫の実相は神なんですから、神ならどう言うか。神なら“おろせ”とは言わん。そしたら、神のみに従うということが夫の実相に従うことになるわけだから、「それでは離婚さしていただきます」と素直に言って夫の実相の声に従う。「堕胎いたしません」と言うのも、夫の本当の声に従ったのですよ。その本当の夫の声に従ったから、夫は“もうこの妻を離婚する必要はない”と自然に実相が発露したというわけで、妻が夫の実相を喚び出さなくちゃいかんですよ。実相を喚び出さないで迷いを喚び出して迷いに従っていながら、「夫に素直に従っているんだ」と言うのは、根本的に間違っていると思います。だから、“神に従うことが即ち夫に従うことである”と完全に一致することになるわけであります。(拍手)

2694SAKURA:2013/12/05(木) 22:00:54 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十五 日

 どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。人に嫌
われるのは心に棘があるからである。これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざ
けるというような人は、これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろ
うと、みずから疑うバラの花のようなものである。

 とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、その一つ一つを抑えようとし
てもなかなか直るものではない。まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。とげとげし
い心を捨てるには「とげとげしい心」をアリとして抑えてもなかなか直る物ではない。暗
は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。「自分は優
しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、その反対の念を自
分自身にいって聞かせればよいのである。

                             つづく

PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■此処昨今は、私もいい気持ちになる事が〜〜〜ネガティブ感の一日が多いのです。そんな時は?やはり!
心がすさんでしまいます〜〜〜ョネ!あまり“ポジティブ=良い事”が考えれない感じになった現実は
もしかしますと?私自身の“心が塞がった感じ…”なのでしょうか??

■「とげとげしい……心」アリ〜♫   う・ふ・ふ

そん時には、やはり【神・想・観】をしてみるとか?【イメージ・トレーニング】とか?してみますと
心が安らぎ…ますから、一番いい事かと思うのです〜〜〜ョネ!
「心の難…」が来れば〜〜〜前以上に【精神の修行…】をして行く事でしょうか??

■■「心の光・・」を見つけるには〜〜〜やはり【神・想・観】が一番おススメで〜〜〜す!!

「トキ様」は?そう〜〜〜思いになりませんでしょうか?


再合掌

2695a hope:2013/12/08(日) 13:45:50 ID:/9IAdiFk

「生命の實相」第39巻 佛教篇 P20 9行目〜

…釈迦が弟子のところへ行かれたら弟子が熱病を患っていた。そこで釈迦は、お前にかつて教えてやったところの悟りに至る七覚支(かくし)というものをもう一度暗誦してみよ、こうその病弟子に言われた。弟子の比丘(びく)はそれを再び暗誦してみたらたちまち病気が治ったということが『阿含経』(あごんきょう)に見えている。

これを釈迦が神通力に秀でておいでになったのだと、こういうふうに考えるのは必ずしもまちがいでありますまいが、実はその比丘が病気になっていたのは、それは今まで悟りに至る七つの道を忘れておったからなのです。ところが釈迦がもう一度それを思い出して暗誦してみよ、こう言われて、その弟子が暗誦してみると、病気が治った。

これは生長の家で「『生命の實相』を読みなさい」と言うのと同じであります。比丘に対して、「暗誦してみよ、もう一遍口に出して言ってみよ」と言われると、弟子はすぐ謂えたから記憶にも確かに残っていたにちがいないのですが、それが明瞭(はっきり)と意識の上に出て来なかったために迷って病気になっていたのであります。

それで真理の書物はそれをお読みになって、その真理がよく解ったとしましても、それをもう一つ言葉に出して復誦するというところに、そこに本当の言葉の力というものが出て来るのであります。これが真言(しんごん)の力であり、あるいはお題目の力であり、阿弥陀仏の名号(みょうごう)の力であり、写経の力であり、言葉の力であり、言葉によって自己に内在する仏を招(よ)び出すということになるのであります。…

(途中もとても重要な内容であると感じていますが、中略させていただきます。)

P 24 8行目〜
…それでわたしは、「何よりもまず『生命の實相』をお読みなさい。再読または再読飽くまで真理に徹してください」とこう申すのであります。八回であれ、十回であれ、反復熟読してくださいましたならばおのずから悟るところがあり、その心境に従って病気その他いっさいの現象的不幸も自然自消(しぜんじしょう)することになるのであります。要するに現象界は遷(うつ)り変わる波の相(すがた)でありますから、悟りによって善き波を起こすことが必要になるのであります。…

以上 謹写 終わり

感謝 合掌

2696a hope:2013/12/08(日) 13:50:13 ID:/9IAdiFk

>>2695 a hope所感)

谷口雅春先生は、聖典の中で、

<<「何よりもまず『生命の實相』をお読みなさい。再読または再読飽くまで真理に徹してください」とこう申すのであります。八回であれ、十回であれ、反復熟読してくださいましたならばおのずから悟るところがあり、その心境に従って病気その他いっさいの現象的不幸も自然自消(しぜんじしょう)することになるのであります。要するに現象界は遷(うつ)り変わる波の相(すがた)でありますから、悟りによって善き波を起こすことが必要になるのであります。>>

と、こんなにハッキリと、そして強い口調で「聖典『生命の實相』を読みなさい」とご教示くださっています。
そして、きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方はそのご著書や、わたしが講演会等のテープを拝聴する限り、この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。
そして、その「悟り」によって、現象界にも数々の奇跡(人類光明化)が起こっていたのでしょうね。

「『生命の實相』拝読による悟り」これこそが、「生長の家出現の使命」を果たすために必要な最も基本的で、最も重要なことであるとわたしは確信しました。

「生長の家」にとって、その「悟り」なくしては、「日本国実相顕現」も、「世界平和」も『絵に描いた餅』となってしまう気がします。

2697流氷:2013/12/11(水) 13:23:22 ID:mEYFfSdA

『實相研鑽』第二集http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2698a hope:2013/12/12(木) 08:56:13 ID:/9IAdiFk
>>2696訂正

きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方は【そのご著書や、わたしが講演会等のテープを拝聴する限り、】この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。

きっと雅春先生の直弟子と言われる講師の先生方は、【わたしがそのご著書や講演会等のテープを拝読したり拝聴したりする限り、】この雅春先生のご教示を硬く守られていたのではないかと拝察できます。

2699a hope:2013/12/12(木) 08:57:45 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p70

たのしく生きるのが神の道である。
神は「生かす力」であるから生かさない神は神の道ではない。
憂愁にとざされている心は生命を生かさないから神が遠ざかった心である。
自分も生かし他も生かす楽しい心が神心(かみこころ)である。
人は神の子であるから楽しいのが本来である。
楽しくないのは「迷い」である。
その「迷い」からいろいろな不幸が生まれてくるのである。
「迷い」を覚ませよ。

( a hope より)
このお言葉は、大熊先生のブログでも紹介されています。
大熊先生のブログは、拝見すると元気になりますね!

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

それではみなさま、今日も元気に素晴らしい一日をお過ごしください!

2700a hope:2013/12/13(金) 09:23:54 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p71 (日本教文社)

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。
その光は太陽の光よりもなお明るい光である。
自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。
その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそわが生命であることが悟られる。
これこそ自分の本当の生命であったのだ――今生きつつある地上の生命の小さきことよ。
それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間を洩れて、地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。
迷いの雲間は裂ける。
本当の自分は輝き出でる。
地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照のである。

2701a hope:2013/12/13(金) 09:29:15 ID:/9IAdiFk
>>2700 訂正 最後の行

地上の生活を【照】のである。→ 地上の生活を【照らす】のである。

2702神の子さん:2013/12/13(金) 18:55:10 ID:thJx..Ls

  聖なる使命を与えられて 『生命の實相』頭注版 1巻より
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=112

2703a hope:2013/12/15(日) 12:37:48 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p68 (日本教文社)

第三章 世に勝つ原理(より抜粋)

    ○
神の絶対無限力を信じないものは、神を瀆(けが)すものである。
神の絶対無限力を瀆す、すなわち認めないということがすべての罪のうち最大なる罪であることは、イエス自身も「誠に汝らに告ぐ、人の子らの凡ての罪と、けがす瀆(けがし)とは赦されん。然(され)ど聖霊をけがす者は、永遠(とこしえ)に赦されず、永遠の罪に定められるべし」(「マルコ伝」第三章二八―二九)と言っている。

「聖霊」とは聖書のなかでは、神と本来一体なるところの「神の分霊(わけだま)」のことをいうのである。およそわれらが生きているのはこの聖霊を受けているからである。聖霊こそわが本体であり、「真の人間」であり、「本当の自分」であり、「神の子なる自分」なのである。「人 間 は 神 の 子 で は な い」 と か 、「神 の 子 で も 病 気 に か か る」 な ど と い う の は、こ の 「聖 霊」 を 瀆 す 罪 で あ っ て 「 永 遠 に 赦 さ れ ず 、 永 遠 の 罪 に 定 め ら れ る 」 と キ リ ス ト 自 身 が 宣 言 し て い る 罪  で あ る 。ところがキリスト教徒と自称しているところの人々の多くが、神の霊の宿れる人間を「神の子」と呼ばず、この「聖霊を瀆す罪」を犯しているということはなんと驚くべきことであろう。
(つづく)

2704a hope:2013/12/15(日) 12:40:22 ID:/9IAdiFk
>>2703つづき)

だから、敬虔なクリスチャンだと自身も認め、人も許しているような人の霊魂を霊媒に招霊(しょうれい)してたずねてみると「自分はまだ暗いところにいる」とか、「まだ病苦を持続して苦しみ続けている」とかいうような例が大変多いのは当然なことである。それはイエスの教えが悪いのではない。イエスの教えの真義を誤解しているキリスト教徒自身が悪いのである。その名称はキリスト教徒でも、キリストが第一にして最大なる罪――永遠に赦されない罪だと宣言している「聖霊を瀆す罪」平然として犯している反クリスチャンでありながら、みずからキリスト教徒と誣称(ふしょう)しているのであるからすざましいものである。

何故「すべての罪とすべてのけがす罪とは赦されても、聖霊を瀆す罪は永遠に赦されない」とイエスは宣言せられたのであろうか。――それは一つ一つの一局部的な行ないや考え方にまちがいがあっても、根本的に「人間は神の子である」との大真理を悟っていたならば、その人は「久遠生命」の本来相を通してすでに救われているのであるからである。

ところが聖霊を瀆す罪――すなわち「人間に宿る神性――神の子であるとの本来の資格」を押し込め認めない罪(神性隠蔽)を犯さば一つ一つの局部的な善行をいくら積んでいってもそれは一生涯毎日毎日一善を積み重ねていっても、百年で三万六千五百遍の善しか積み重ならない。その百倍の善を重なていっても、三百六十万の善しか積み重ならない。結局神――すなわち無限の善には永遠に到達しないことになるのである。

以上 謹写 終わり

2705a hope:2013/12/15(日) 12:42:51 ID:/9IAdiFk

(a hope所感)

文中に、『根本的に「人間は神の子である」との大真理を悟っていたならば、
その人は「久遠生命」の本来相を通してすでに救われているのであるからである。』
とありますが、
この大真理を悟らせるために、谷口雅春先生がわたしたち「生長の家」信徒に残して下さったのが、
聖典「生命の實相」なのだと思うのです。
ですから、誰でも、聖典「生命の實相」を真剣に拝読すれば必ず大真理を悟れて、
必ず救われると思うのです。
だって、そう聖典「生命の實相」に書いてあるのです。

これはわたしの個人的な意見ですが、現在の「生長の家」はこの「生命の實相」の文書伝道を忘れ、
それ以外の練成会や講習会等、または「生命の實相」以外の「生長の家」の書籍等を中心にしての伝道がメインになってしまっているような気がします。
わたしは、そこに「生長の家」の混乱の原因があるのだと思っています。
(この「生長の家」という意味は、教団のことでも、他の「生長の家」関係の団体さまのことでもありません。
「生長の家」の教えを信仰する信徒一人一人という意味で使わせていただきました)

わたしは自分自身が「反生長の家信徒でありながら、みずから生長の家の信徒であると誣称(ふしょう)している」
というような悲惨なことにならないために、これからも真剣に「生命の實相」を拝読しつづけ、
「人間は神の子である」の大真理をさとる努力をしたいと思っています。

※誣称(ふしょう)…誣(いつわ)って称(とな)える。(頭注より)

2706SAKURA:2013/12/17(火) 19:03:48 ID:d1sbFPns
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①

   二 月 十六 日

 常に新しくなるものは老いない。老いるとは常に新しくなれないことの別名である。人
体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、結局人間の細胞
は永遠に分裂増殖して死なないものであることを生物学上の実験によって確かめられた
という。人間の肉体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているため
に、常に新しくなれないからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命では
ないのである。ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

 人間の心もそのとおりである。常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。

 老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の惰力で生きており、過去の
惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。

 過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。これを称して型には
まるというのである。型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

                            つづく

2707SAKURA:2013/12/17(火) 19:06:54 ID:d1sbFPns
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。
―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2706 その①の投稿の続きです。…

PS:「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
この様に本当に【人・生・は・進・歩・向・上・の・魂を・磨・く・事】しょうか??しかし、
この“言葉…”を誤解されている方が、此の現状では?実に多いのでしょうかと??

「雅春先生の本」を読誦していますのに〜〜〜>< 【分・派・の・方・達】は何一つ??
「先生の言葉」の意味を理解せずに??自分流?都合のいい“解・釈・論”ですから??
久しぶりに?皆様の投稿を閲覧させて頂きますと…正直!理解の捉え方が、本当に都合のいい“解・釈・論”
での展開でしょうか??そのように思えてなりません。

閲覧していても〜〜〜相変わらずの【繰り返し論…のコメント】何一つ、進歩が見えずに?ただ!唯!
スル−!!スル−!!ばかりでは!!この様に、私一個人はみえてしまうのです。…が?
果たして、閲覧者の皆様(コメンタ−以外の方達)の中には、私と同様な…そのような見方をなされて
いる方も結構多いように思う次第なのです。…が?【 人それ…ぞれ〜♫】??

さて【老いる…】といいますのは、まず!【心が前に向いてなく遠くにボンヤリ人生の交差ばかりの
それは、現在存在するモノが見えない実現…又!出来ない悩み心の向上心の喪失でしょうかと??

■□━━━━『トーマス・カーライル』━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□

「我々にとって大切なことは、遠くにぼんやりと存在するモノに目をやることではなく、
手近にはっきりと存在することを実行することだ」

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□

これを読んで参りますと『甘・露・の・法・雨』にも・・・
「外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして 永遠に神の国を得ることを能わず。」

これと同じように、先ばかり〜遠く!遠く!をボンヤリ……見る人は、いつまでも『神・の・国』に入れも
せずに、さらには、『老・人・化』していくのです〜〜〜ョネ!!と…私はこの頃思えます。…が?
『理・想…』は、確かにいいのでしょう。…が?

■【理・想・と・夢・は・違・い・ま・す…】理想は?あこがれで終わります。…が?〜〜〜〜〜♫
『夢…青写真』が出来上がりましたら、まず!【出来る事からフルに起動する事…】でしょうか??

極めて“平・凡”でも??日々を活かす事は【夢の実現…】に到達する事ですし?
しかも〜〜【前・向・き】に向上していく過程があり、それが【精・神・の・向・上】にも繋がる…
最終的には、見受けられていく事でしょうか??

■□日々を活かす事は、「一日の区切り…」は【成・功・の・鍵…】でもあり?
【老人化しない法則…】でもあるのではと?この頃ではつくづく思います。

■【人間は魂の向上を目指す事!!】そして【日々を活かすのが人間!!】と思います…。
トキ様?閲覧の皆様?は〜〜〜どのように思われますでしょうか??
                                  再合掌

2708エマソンの光明思想と生長の家 ①:2013/12/18(水) 22:18:50 ID:Wf383SKY
理想世界誌昭和四十七年十月号
輪読のための青 年法語

■エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■一日のことば 本当の人間は肉体人間ではな い

「わたくしたちが通常「人間」と呼ぶ者--つま り食べたり、飲んだり、栽培をしたり、取引の 勘定をしたりしている人間は、わたくしたちが 自覚しているようには、人間そものものを表さ ず、人間を歪めて表現しているのである。その ような肉体人間を私どもは尊敬しない。しかし ながらその肉体人間が魂の器官となって、その 行為を通して、内なる魂を表現せしめるならば 、わたしはその前に跪かずにはいられないので ある」 「What we commonly call man, the eating, dri nking, planting, counting man, does not, as we know him, represent himself, but misrep resents himself.

Him we do not respect, but the soul, whose or gan he is, would he let it appear through his action, would make our knees bend. 」

(これはエマソンの「The Over Soul」という エッセイの一節である。このエッセイの完訳は 日本教文社発行の「エマソン選集」第二巻「精 神について」の篇に出ている。なかなか丹念な 訳であるから読まれたい。しかしその訳の中で 「精神」と訳出されている原語はSoulであるか ら、そのつもりで読まれないと意味が混同され るおそれがある。上記の訳は一層わかり易くSo ul を「魂」又は「内なる魂」と訳したのである 。)

明らかにエマソンは「肉体人間」と「本当の人 間」とを区別して、飲んだり食ったり田を耕し たり商売勘定をしている「肉体人間」を、その まま「本当の人間」だと思ったら間違いである ということを書いているのである。それだから 、私はエマソンを近代における光明思想の幽祖 であるといっているのである。しかし釈尊は2 千数百年前の古代においてそれを説いていられ るのである。

2709トキ:2013/12/18(水) 22:34:33 ID:0/huqta2
>>2707

SAKURA様

 難しい問題ですが、今のような価値観が多様化した時代では、生長の家の信徒が増えると、
一つにまとめる事はかなり難しいとは感じます。政治の世界では、小さな政府か大きな政府
か、という議論がありますが、教団が対社会的な動きをする場合、利益や意見が対立する問題
にはあまり教団自身が乗り出すのが難しくなると思います。

 そうすると、もっと地味な内容の動き、具体的に言えば、生活に密着した信仰の具体化が大事
になるかと思います。

 個人としての信仰者が目指すのは、そういう点になるような気がします。

2710エマソンの光明思想と生長の家②:2013/12/19(木) 18:47:11 ID:bdCntvMw
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■二日のことば

涅槃経にあらわれたる人間の実 相

涅槃経には釈尊が臨終の直前に見舞に来られ たところの人たちに対して、真理の説法をせら れた時の光景と、釈尊が直接彼らに ”真理” を伝授せられた説法とが載せられているので ある。

その涅槃経の ”金剛身品” に、金剛不壊 の実相身(本当の人間の身)のことが説かれて いる。釈尊と迦葉(かしょう)菩薩との対話の 一節を次に引用する。

「爾(そ)の時、世尊、後(また)、迦葉に告 げたまわく、”善男子、如来身とは是常住身、 不可壊身(ふかえしん)、金剛身、非雑食身( ひぞうじきしん)、即ち是れ法身(ほっしん) なり。”」

迦葉菩薩、仏に白(もう)して言(もう)さ く、

”世尊、仏の説き給う所の如き等の身を、われ 悉く見ず。唯、無常、破壊(はえ)、塵土(じ んど)、雑食(ぞうじき)の身をのみ見る。何 故かと言えば、如来は、今当(まさ)に涅槃に 入ろうとしていられるからである。”

迦葉菩薩の指摘したところの ”無常” と いうのは、釈尊の説かれる”常住身”に対して いわれた語であり、”破壊(はえ)”というの は、釈尊の所謂る ”不可壊身(ふかえしん) ” に対した語であり、”塵土(じんど)” というのは『創世記』にアダムとイブが ”土 の塵(ちり)” でつくられたとあるーー即ち 結局、滅して土に帰る唯物論的人間観の表現で あるのである。しかし迦葉菩薩が、今まさに涅 槃に入り、滅して土に帰ると、肉眼で見たとこ ろの人間は、エマソンに言わせると「人間その ものを表わさず、人間を歪めて表わしているの である。」

だから釈尊は迦葉に対して反論して次の如く 言っていられるのである。

「汝、いま、如来の身は ”不堅(ふけん)” である ”可壊(かえ)” であって、凡夫 (注・肉体人間)の身の如しと考えているが、 そんな考えを起こしてはならない。善男子よ、 汝、今当に知るべし、如来の身は無量億劫堅牢 (むりょうおくこうけんろう)にして壊(くだ)け がたいものである。如来の身は、現象界の人間 や天人のもつ身ではない。恐怖によって病気を 起こすような身ではない。雑食で栄養を摂らな かったら死ぬような身ではない。如来の身は ”非身是身(ひしんぜしん)” だ(この身に 非らざる身が是こそ実相の身なのだ)それは不 生不滅だ。習わずして知り、修めずして一切に 通達して残すところなく、有限の身ではなく無 量無辺にして限りがないから、去って去ること なく、来たって来ることなく、去来を超えてい るから足跡もない。鳥の飛んだ後の青空にその 翼の跡をのこさない如く、”知” という ” 知” はなく、”形” という形はない。” 知” があって ”形” を把(つか)めば 汚れるということもあろうが、”知” がなく 、”形” がなく、青空そのもののように畢竟 清浄なのが如来の身だ・・・・・・・」

まだまだ涅槃経には実相身の清浄無碍広大無 辺なることがかいてあるが、これだけ引用した だけでも充分理解できると思う。併し頭脳で理 解できるだけではなく、それを生命と生命とが 触れ、本質と本質が触れ、実相と実相とが相触 れて、直接的に全的に自覚されなければ、本当 の悟りではないのである。

>>2708
エマソンの光明思想と生長の家①

2711エマソンの光明思想と生長の家③:2013/12/20(金) 21:49:30 ID:iqd0ui12
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■ 三日のことば

人間の生命の本質について

エマソンに於いては、Soul という語を、生 命の奥の奥にある人間の ”本質” 又は ” 魂” という意味で使っているのである。これ を ”精神” と訳しても間違いではない。精 神という語は「精髄であるところの神(たまし い)」という意味をもっているからである。併 し、現代語として ”精神” という語が使わ れる場合には「あいつの精神はくさっている」 とか「あいつの精神はどうかしている」「精神 の退廃」とかいう風に、脳髄の作用として出て 来る一種の ”心の働き” を ”精神” と いう通俗語で表現することが多いのである。エ マソンのSoulという語を ”精神” と和訳さ れている場合、その”精神”という語をそんな ”脳髄のはたらきである精神” というよう な通俗な意味にとってはならないのである。そ れは ”人間の本質である魂” という意義に 解しなければならないのである。

そういう意味に解してエマソンのエッセイを 入江勇起男氏の訳を読んで行けば、エマソンの 真意味が光って来るのである。すなわち、

「人間の生命の本質である魂は一つの器官では なく、あらゆる器官を生かし働かせるものであ り、記憶、判断、比較の力のような一機能では なくて、これらを手足のように使うもの、一能 力ではなくて一つの光であり、知力または意志 ではなくて知力、意志の主であり、それらを含 む私どもの存在の背景をなすものである。つま り、Soul(魂)は何物にも属さない、また何物 にも所有されることのあり得ない無際限のもの である」というのである。

All goes to show that the soul in man is not an organ, but animates and exercises all the organs; is not a function, like t he power of memory, of calculation, of comparison, but uses these as h ands and feet; is not a faculty, but a light; is not the intellect or the will, but t he master of the intellect and the will; is the background of our being, in which they lie,--an immensity not possessed and that cannot be possessed.

このエマソンの人間のSoulの無際限を説くと ころは、涅槃経の「それは不生不滅だ、習わず して知り、修めずして一切に通達し、有限の身 ではなく、無量無辺にして限りがない」と説か れているのと同じ意義なのである。

>>2710

エマソンの光明思想と生長の家②

2712うのはな:2013/12/21(土) 04:20:11 ID:EEajPWOc
     『悟』への近道

 併しこの有難い法悦の境に達するにはどうしたら好いかこの有難い悟を得るにはどうしたら好いか、
これが問題なのであります。昔から悟を開いたと云ふ人はそう沢山にはいないのであります。
釈迦、キリスト以来名僧知識が出られましたけれども、それは数えるほどしか出ていないのであります。

 此のように悟を開くと云うことは、なまやさしいことではないのであります。生長の家では割合にやさしく悟が
開けるように工夫されているのであります。そこが今までの宗教と異うところであります。
『悟』の中味に違いはないのでありますけれども、導き方が大変やさしく出来ているのであります。
それは近道から直ぐ『悟』の世界へぶつ衝かるようになっているのであります。

 その近道はどんな近道かと申しますと、『物質はない』『肉体はない』と云う近道であります。
今まで多くの教祖がお苦しみになって道を開かれた、お釈迦様が悟の道をお開きになったのにも大変な
苦労がありましたが、それは『肉体はない』と云う近道をお通りにならなかったからであります。

 この肉体と云うものをあるとお認めになって、この『肉体』をどう始末したらよかろうかと云うので、
肉体を山へ籠らせ足り、飯も食はずに頑張ったりして苦行をして来られたのであります。肉体をアルとして取扱うから、
どうも、此の肉体が嵩張って其の取扱方が不便になるのであります。この肉体と云うものがあるとすると、肉体と云う奴はほかの
『肉体』を殺して殺生をして生きている、肉体と云うものがあるので人と人との争い、恨み、色々な地獄の真似のようなことをやっている。
そこでこの肉体と云う奴の始末をつけなければならない。

 その始末をつけるのには何うしよう?こう思って多くの教祖は苦しまれたのでありますが、生長の家では『肉体なし、物質なし』と、此の始末にあまる
『肉体』をば、言葉の力と、思いを変えることによって始末してしまったのであります。
真理は簡単であります。理屈を言えば沢山言えますし、又、『生命の實相』にはその疑問にお答えする為に八方から詳しい理論が書いてありますけれども、それは
理屈を言う人に対しては、理屈を以て相対する方便説法であって、要するにそれは始末に終えない『肉体』の物質性を打破って自由自在の境地に入れるように工夫がしてあるのであります。

 まあ考えて御覧なさい。『此の肉体はアルように見えてもナイのだ、本当の自分は神のいのちだ』
と─斯う気がついたときのスガスガしさ、もう何も食べなければならないとも心配しないし、働き過ぎたり、勉強し過ぎたと思って身体が悪くなると云う心配もない。活動写真がフィルムの影で
あるのと同じように、身体は心に『思う通り』の影なのだとわかりますから、そこで心配も取越苦労もなくなり、心が朗らかになるから、血液循環もよくなるのであります。

 『愛と光との生活』谷口雅春先生著  ※原文は旧漢字、旧仮名遣い

2713エマソンの光明思想と生長の家④:2013/12/22(日) 14:54:51 ID:bAijypnk
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

■エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■四日のことば**

超越的自己を自覚するために

わたし達は「本当の自分」ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、肉体が生活している「物質と見えている環境」の有様にのみ心を集中して生活している時には、この内在の「本当の自分」――――Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。

しかし或る瞬間―――それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や―――兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イ エスが「われはアブラハムの生まれぬ前 (さき)より在るものなり」と自覚され た時のような、肉体の年齢や時間を超越 して実在するところの自分を自覚するの であるーー諸君もそれを自覚するときが 来るのだーーそのためには毎日怠らずに 神想観を実修するがよい。

【参考資料】

自分の超越的自己を見出だそうとする必要はない。どちらにしてもそんなことは不可能である。自分の眼は、眼自体を見ることができるだろうか?
必要とされているのは、自分の記憶、心、身体、感情、思考との偽りの同一化を、執拗に脱落させていくことだけである。
この脱落には超人的な努力や理論的理解は不要である。
第一に必要とされているのは―――見ることができるものは見る者ではありえない、という―――ただひとつの理解だけである。
自分自身について知っていることは、すべて自分自身でも、知る者でもない。
内なる自己性は知覚することも定義することもできず、いかなる種類の対象にもなりえないものである。
束縛とは見る者とその対象となるあらゆる物事のまちがった同一化にすぎない。
解放は、このまちがいの単純な逆転からはじまるのである
・・・・・・・・
これは単純ではあるが、骨の折れる作業である。だが、その結果は、人生における解放意外の何ものでもない。
超越的自己はあらゆる伝統では聖なる耀きとされているからである。
原則的には自分の超越的自己は神(あなたが神をどう認識しようと)と同一の性質のものである。
究極的にはただ神のみが、われわれの眼をとおしてながめ、耳で聞き、口で話をするからである。

これこそがユングのメッセージであり、アメリカ原住民、タオイスト、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、キリスト教の聖者のメッセージでもある―――自分の魂の根底には人類自体の魂がある。

それは束縛から解放へ、恍惚から目覚めへ、時から永遠へ、死から不死へと導いてくれる聖なる超越的魂である。

ケンウィルバー著「無境界」より

>>2711
エマソンの光明思想と生長の家③

2714a hope:2013/12/22(日) 19:09:49 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第36巻 幸福生活篇 「第二章 ありのままの生活 四」より抜粋
 p47 2行目〜(日本教文社)

・・・人格の立派な人のなかには他(ひと)の世話になるということを非常にいやがって、自分でなるべく自分のことをしたいというような考えを持つ人がたくさんあります。「生長の家」の教えにも「自分ひとりで立て」という意味のことが書いてあります。

たとえば中風の人が杖に縋(すが)らなければ歩けないと信じて杖に縋っている。そのためにいつまでも中風がなおらない。そんなときに、すべて他に頼るような頼り心というものは悪いものであって、一人で立つようにしなければならない、生命は一人で立つのが本当であるから一人で立つようにしなければいけない、依頼心を起こすのはいけないと教えてあり、本当にその教えを信じて「ひとりで立つ」という心を素直に起こした人はその人の中風は治ってしまうのであります。

ところがそれも一つの※対機説法でありまして、依頼心ばかり起こしている人には依頼心を起こすのはいけないと説くのであります。みずから立つ力があることを忘れすべてに頼り、薬に頼り、あるいは他(ひと)の力に頼り、あるいは寄付合力に頼るような、そういうさもしい頼り心を持っている人には、そう説くことが相手を生かすことになるのであります。

しかしそれは対機説法であって、必ずしもあらゆる場合にあてはめてそれが真理だとは言えないのであります。宇宙は一体ですから本当は他給自足かつ自給他足であるのが本当なのです。頼り心を持つ人は他給自足とずるいことばかりを考えて自給他足を考えない。そこで「ひとりで立て」というのはそんな人に対する「喝(かつ)」なのであります。「ひとりで立て」といっても人間は決してひとりで生きることができないのです。

わしはだれにも頼らぬといっても、自分で稲を植えて、自分で収穫して、自分で蚕を飼って、自分で糸を紡いで、自分で織物をこしらえて、自分で染物をして、自分で縫ってと、そういうぐあいにひとりの力ではとうていそれはできないのです。そこで本当の真理はどうであるかといいますと自他一体が本当の真理であります。自給他足かつ他給自足ということになるのであります。このどちらが欠けてもいけないのです。
(つづく)

2715a hope:2013/12/22(日) 19:10:43 ID:/9IAdiFk
>>2714つづき)

いつも薬に頼り、物に頼り、人様のやっかいになることばかり考えている人には「自ら立て」「物質はない」「いのちはそれ自身で立つ」と申します。そこを『生命の實相』を読む人は、よく考えて読まなければならないのです。

真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。

対機説法を見て、こことここと矛盾しているなどとある場所の一句とこちらの場所の一句とを持って来て並べてみて、一方は「他(ひと)に頼るな、みずから立て」と書いてあるかと思うと、一方は「他給自足」だと書いてあるから大変矛盾しているなどと理屈を言う人は文字に引っかかっているのです。

文字は真理に到らしむるために書いてあるので、決して矛盾ではないのであります。言葉に引っかかれば矛盾であり、文字だけを見れば矛盾のように見えましても、矛盾ではない。右手を動かし左手を動かしましても右へも左へも行くためでなく、まっすぐに泳いで行くために右手を動かし左手を動かすのであります。目的は右にもなければ、左にもないのであります。

※対機説法・・・相手の機根(きこん)つまり素質に応じて理解のゆくように法(真理)を説くこと。また、その説法。

2716a hope:2013/12/22(日) 19:12:34 ID:/9IAdiFk

>>2714 >>2715 a hope 所感)

聖典『生命の實相』を拝読していて、わたしが心のどこかでいつも感じていた微かな疑問がここで解消されました。

その疑問とはなにかというと、

「『生命の實相』は神さまが谷口雅春先生を通して書かれた聖典だと言われていますし、
わたしもそう信じていますが、その内容の多くは谷口雅春先生以外の講師や信徒の体験談なのです。
それらの内容も神のオコトバ(絶対の真理)と言えるのだろうか?」

ということでした。

ですが、わたしが今回謹写させていただいた場所を拝読していて、わたしはその疑問をすっきり解消できました。

文中に、

「真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。」

とあります。

ということは、『生命の實相』はじめ、すべての聖典は、全文が対機説法だったのですね!
要するに、「真理」は言葉では直接言い表せないのだから、
『生命の實相』や他の聖典のコトバや文字に捉われていては「真理」は悟れないというわけですね。

聖典文中の矛盾と感じられることも、すべてが対機説法なのだから当たり前なわけですから、
そのコトバや文字に捉われることなく素直に拝読し、表面ではなく波動を捉え、
自己の魂に共振させるような読み方をすればいいのだと思いました。

クロールをするにしても、水中で休むことなく右手や左手、右足や左足をぐるぐるバタバタ動かして泳いでいれば必ずゴールに到着します。
そこで、立ち止まって「どうしてこういう風に体を動かすと前に進むのだろう?」
なんて考えていたらいつまでたってもゴールには到着しません。

聖典も、深く考えることなく、素直に拝読していれば、必ず「真理」に到着するようにできているのだと思いました。

2717アクエリアン:2013/12/23(月) 13:00:56 ID:bAijypnk
谷口雅春先生の青年法語の中で、超越的自己について説かれていますので、それに関連した、アメリカの光明思想家マリアンウィリアムソン女史のユニティマガジンの文章の一部を紹介させてもらいます。私は非常に感銘を受けた記事であります。
全文は下記のURLでどうぞ。
http://content.unity.org/homepageArchive/features/agingSpirituality.html

Aging Spiritually (霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.” I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact that the essential being I am inside myse lf is the same in my 50s as when I was only 15.
So who am I really?
Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self within?
Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

【語句】 appreciate:称賛する、感謝する、正しく 認識する
ponder:じっくり考える
encase:すっぽり包む dwell:住む

私の父がかつて次のように私に語ったこ とがありました。
「お前が年をとったとしてもお前は自分 が老いたとは感じないよ。」
私は父がこのことを語ったとき何を言お うとしていたのか、ということが、今の 私なら理解できます。 というのも、私は、私の内なる本質は、 15歳のときだろうが、50歳代のとき だろうが、不変なのであるという事実を 、ずっと考え続けているからです。
それでは、私とは一体いかなる存在なの でしょうか?
年齢とともに変わって行く一人の女性な のでしょうか?
あるいは、内なる不変の自己なのでしょ うか?
時間という要素に制約されている女性な のか?
あるいは、時間という要素の制約を超え た存在なのでしょうか?

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yes terday.” And that’s because in a way it was. If time, as Einstein declar ed, is merely an illusion of consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction; everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now, is the tr ue “I am.”

しばしば、かなり前に起きた事について 言及するとき、「それは昨日のことのよ うに覚えている」と言うことがある。そ して、それはある意味その通りだからな のです。もし、時間というものがアイン シュタインが言うように、単なる意識の 幻影でしかないのならば、一直線に進む 時間という概念そのものは、頭の中だけ のフィクションにしかすぎないというこ とになります。かつて起こったこと、今 起こっていること、そして将来起こるで あろうこと、これらのすべてのことは、 今この瞬間に起きているのです。永遠の 今という領域においてのみ、真の”私” が存在しているのです。

(続きます。)

2718アクエリアン:2013/12/23(月) 13:14:01 ID:xOsRIjpM
The eternal self dwells in eternity, and et ernity intersects linear time at only one point: the present. Who you are in this moment, therefore, is who you truly are. And from that esse ntial point of perfect being―created anew by God in every instant―m iracles flow naturally. Thoughts of love interrupt the past and open the f uture to new probabilities. No matter who you are, no matter how o ld you are, in the present, all things are possible.

久遠の自己は永遠のなかに存在するので す。そして、永遠と現象の直線的な、連 続する時間とは、ただ一つの地点ーーつ まり、現在ですねーーにおいて、まじわ るのです。この瞬間のあなたの姿が、そ れゆえに、あなたの本当の存在の顕れな のだということになります。そして、あ なたの本質は完全な存在である、つまり 真の自己は瞬間瞬間に神によって新たに 創造されているのだという絶対的な次元 から奇跡は自然に生まれてくるのです。 愛は過去を造り変えますし、未来に対し て新たな可能性を開くのです。現在のあ たながどのような境涯であろうと、何歳 であろうと、あらゆる可能性が開かれて いるのです。

The physical self ages, of course, but the spiritual self does not. As we identify more with the spiritual di mension of our lives, then our experience begins to shift from the c hangeable to the changeless . . . from limitation to limitlessness . . . fr om fear to love. As our journey through linear time gets s horter, our consciousness can in fact expand. And as it does, time itself is affected. The deeper we go into the love of God, the more we act ualize our earthly potential.

肉体の自己は、勿論、老化はまぬがれる ことはできませんが、霊的自己はそうで はないのです。私たちの思考が、もっと 霊的な次元に移行すればするほど、わた したちの経験は、不安定なものから不変 のものへ、限定から無限へ、恐怖から愛 へと転換しはじめるのです。わたしたち の意識が現象の時間の束縛から解放され る度合いにしたがって、わたしたちの意 識は本当に拡大していくのです。そして 意識が拡大していくと、時間そのものも 影響を受けます。わたしたちが神の愛の 中へ深く入っていけばいくほど、この地 上におけるわたしたちの潜在能力をより 多く実現していくのです。

The understanding of that which does no t change is the key to our power within a world that does. In aligning ours elves with the eternal self, we age not in a straight line leading from luscious youth to decrepit age, but rather like the flowering lotus openin g more and more to the light of the sun.

【語句】
luscious:甘美な、官能的な、きらびやかな

変化しない永遠の存在への覚醒が、この 無常の世界の中に潜むわたしたちのパワ ーを開花させるための鍵です。わたした ちの真の自己である永遠の自己に目覚め るとき、わたしたちは、甘美な青春期か ら老いぼれた老年期へという常識的な人 生のコースではなく、むしろ、蓮の花が 太陽の光に向かって花開くような年齢の とり方をするようになってくるのです。

Aging Spirituallyー((霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)
http://content.unity.org/homepageArchive/features/agingSpirituality.html

>>2713
エマソンの光明思想と生長の家④

2719るん吉:2013/12/23(月) 16:49:46 ID:fYlJIcas
アクエリアンさま

英文と訳 有難うございます。ぜひ
読ませて頂き 勉強します。私は英語を勉強し初めて1年半位になります。

たまにyountube で英文で投稿しますが、一番最初に投稿した時は(1年半前に)

3通も返信がきて(カナダ人、スウェーデン人、イギリス人から)嬉しかったんですが

この時が最高で、それからあとは、良い時でも1通の返信です。無しのつぶても有やす。(・・。)ゞ

自分は、自動詞や他動詞さえ知らなかったので、ほんとに1からです。アクエリアンさんのブログにお邪魔したことが

あります。甘露の法雨が英文でかかれてました。が詩はわたしには まだ難しいです。
主語 述語動詞 目的語 や補語等や(目的語が二つ続いてるから前の目的語がSVOOの間接目的語か?)
 というような順序で まだ文を作っていきまた文を読み解いていってる段階です。(私の
いつか、you tubeや海外掲示板上で(日本人の事をすごい勘違いしたコメントがまだまだ
いっぱいありますので)そんなでたらめなコメに対して正しい事柄を投稿したいと
思ってます。それにはやっぱり英語をがんばらないといけません。ので・・
この文、 保存させてもらいます。有難うございました。

2720アクエリアン:2013/12/23(月) 21:52:32 ID:BUfrVyJk
るん吉様

コメントありがとうございます。

英語学習頑張って下さい。

最近、英語学習に非常に参考になる動画を発見しました。
同時通訳者横山カズ氏の「パワー音読」という動画です。

https://www.youtube.com/watch?v=T5-FhsAJW58&feature=youtube_gdata_player

こういうやり方で、音読をやっていけば英語力は飛躍的に伸びていくのではないかと思っています。

このウィリアムソン女史の英語などはパワー音読の教材として潜在意識の中に内在化させていくのには理想的ではないのかと思っています。(勿論、この内容に共鳴していることが条件ですが)

又、甘露の法雨の英訳文なども音読するのには最適の教材だと思います。

もう1つ、おすすめの本があります。
林則行著「「銅メダル英語」をめざせ―――発想を変えれば今すぐ話せる―――」(光文社新書)です。
私も最近読みまして、大いに参考になりました。ビジネスのために英語を必要としている人にとって、参考になるのではないかと思っています。アマゾンの書評は非常に評価が高いですね。

2721るん吉:2013/12/24(火) 00:42:50 ID:fYlJIcas
アクエリアンさま

動画、有難うございます、拝聴いたしました。
ふむ・・・。音読は大事ですね。文法とで車の両輪のようなかんじですかね。
この人が同時通訳というところが説得力を持ちますね。

有難うございます。ぜひ参考にさせていただきますね。


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