私見 : 二重母音規則がそこまで面倒なものだとも思えませんし、1番で問題無いかと思われます。まぁ別に2番でも
構いません。綴りには表れませんし、どちらにせよ別に支障は無いでしょう。ちなみに3番も良い案だとは思うのですが、
逆の見方をすれば「音は i,u と違わないのにアクセント位置の為に y,w と綴りを分ける必要があるとは面倒だ」とも言える
わけで(これはエスペラントの複数語尾 -j に関しても同様の事が言えますが)かえって改悪だという意見が出る事も考え
られます。と言っても仮に oy 案を採用するとすれば逆に oi は全廃されるわけですので、実際にところは別に改悪でも
何でもないでしょうが。まぁ結局のところ、そもそも今更になってあえて綴りを変更する程の問題でもないのでは、という
気も致します。もし当時のボーフロンと話をする機会があったとすれば、3番を勧めていたでしょうが。
あと、いささかこじつけめいて聞こえるかもしれませんが、むしろエスペラントの規則の方がイドよりも複雑だという主張を
する事も可能です。イドは仮に oi を oy にするにせよ、その際には全ての oi が oy に変わるわけです。変わらないにせよ、
必ず1音節と数えられた上 o の側にアクセントが来るわけです。そう考えればスッキリしています。一方エスペラントは現在
綴りの中に oi と oj の両方が存在します。音としては同じ「オイ」であるにも関わらず、アクセント位置を整える為に2通りの
綴りを使い分けねばならないわけです。そういった不規則性に比べれば、現在のイドの規則の方が余程シンプルだという
考え方だって成り立つでしょう。
例えば、イドの形容詞 speciala は語尾 -a を略さずにそのままの綴りであれば「スペツィアーラ」と読んで、
語尾 -a を略して special という綴りになれば「スペーツィアル」と読むのでしょうか?
それとも語尾 -a を略すか否かに関わらず「スペツィアール」「スペツィアーラ」となるのでしょうか?
実は、Eのu^の音は皆様ご存知のことと思いますが、u の音と等価なのですね。
どこかの参考書に u の発音は日本語よりも口を丸く窄めてとか(これは正しい)、u^ の
発音はさらに、口を窄めてとありましたが、誤りですね。
jの音も i から。実際の発音上で口の形から比較するとは等価といえないものも(母音扱いの i は
口を左右に広げて発音することが要求される。特にアクセントがある場合は自然にそうなる。)
理論的には i という音価の母音を子音扱いとしたのが j であるのということで、i と様相が異なる
yを採用することには躊躇われたものと私には思われます。
それは、語彙の多くは学習者の便宜を図ってラテン語族やゲルマン語族等から拝借したものが
多いのですが、基本構成部の単語はなるべく音節の短い単語を善しとしたので、アクセントの
位置の固定という大原則もあって、多くのラテン系言語の様に母音との位置関係で i 、u が
子音の様に扱われることを避けると同時にu^ とj子音の音が u と i の母音がベースに
なっていることを学習者に知らしめたかったのでしょう。
なるほど、I set that とI said thatは区別が難しいタイプですか。
開音節構造の場合、日本人は音をかな文字で認識しているからほぼ間違えませんが、閉音節はそうではないですね。
あと、laughとloveの違いが微妙だと思ったり・・・・・。韓国語も英語も欠陥言語ですね。その理論では。
特に韓国語は閉子音がほとんど口構えだけで聞こえませんし。
それでも普通に通じているから、実際の運用では文脈その他で結構何とかなります。
また、アルカの場合pap(厚い)は「パッp」のように高音で短く、
pab(馬)は、「パーp」のように低音で長く発音するので、文脈以外でも以外に判別できるようです。
>>自分たちの母語に「l」と「r」の音の区別がないために、これらをうまく区別できないliistoとriistoが
>>互いに誤解してしまうといった対話も作れないことはないが、現実にそうなる危険は少ない。
>>例えばドイツ語の代名詞「sie」などは、「s^i」か「ili{彼等}」か「vi{あなた、あなたがた}(格式ばったとき)」のどれかを意味するというのに、
>>そのことで混乱することはめったにない。
ということらしいですが、知っててなおRiを採用するのはいかにもヨーロッパ人、という感じですね。
実際「Mi estas liisto.」と「 Mi estas riisto.」は、両方とも「私はリイストです」となるという事実があるんですけどね。
それは韓国語でもそうですし。
じゃあイドはというと、彼(il)、彼女(el)、その人(lu)と一見riismoととれる。
でもEsのRiismoは彼、彼女の語自体否定するので違うといえます。
as-al vao, as-al vao.
vol nams e lanaeld it ma ae vao.
yqp, an ixt-ax me melidia.
tatespon tan koa tan iv-e ladet aa.
mirs-al akn e pa/pi os tal sod e eld.
dina, an in-a xil os kof em mirs-e fi kon lanaeld na.
an es-i raan e koa axt-if kon lanaeld vao a.
aa, do axt-ux kon lanaeld man hac e lanaeld et ma cek tot piakap xa.
saia man lanaeld et lidleld en lad-e yu sa galtatoo sal a.
til passo ol yol-e x.
alfi, man yolan e lanaeld it di olta ea san-e eld tu.
an na-i nil al toz e lanaeld.
Ŝi estas dentisto. という表現が多くなると思います。
特に
Ŝi estas pianisto. という表現は英語圏では多数派になりつつあります。
尤も、pianiste と言うのはラテン語圏では女性名詞だと記憶が私にはありますが。。。
似たものとして、ano(= membro) が典型例です。
次に
3.amiko
の場合は、ハッキリ男性という定義があります。
が、例えば、
Ŝi estas mia amiko.といった場合 ŝi と li を取り違えたというより amiko は女性で
あると通常にエスペランチストなら捕るでしょう。
我々、日本人、それからFeministoは特にこういう言い方をしてもかまわないと思います。
私が好んで聞いているRadio Polonjaはポ−ランド語の影響を強く受けている所為かどうか
は分かりませんが、特に男女の区別をハッキリさせる傾向にあります。
Idoのように明確にヨーロッパ語を自認するものと異なり、我々エスペランチストがそれに
習わなくてはならない謂れは無いのですね。
NPIVにも amiko には通性の定義があります。
似たものとして、ulo
La vorto, 'frida' sence ne tute egalas al 'malvarma'.
Cetere, la vorto, 'malvarmujo' povus havigi al si diversajn sinifojn depende
kazoj, en kiuj oni trovigxas. Bv. diveni.
って言ってたんですよね。
1905年に発表された『Fundamento de Esperanto』の序文の冒頭にも
Por ke lingvo internacia povu bone kaj regule progresadi kaj por ke ĝi havu plenan
certecon, ke ĝi neniam disfalos kaj ia facilanima paŝo de ĝiaj amikoj estontaj ne
detruos la laborojn de ĝiaj amikoj estintaj, (後略)
と書いてありますね。
でも、さすがに現在では zamanhofa Esperanto を支持する人たちでも、こんな言い方はし
ませんよね。
今は
Kelke da serpentoj manghas kelke da bufoj.
こういう言い方はむしろ日本人の方が馴染み易いかもしれないですね。
kelke(幾つか)には相応しい日本語が無いのでmulteに変えれば、
「へびいーっぱい、かえるいーっぱい、たべたよ」的な。
kelkaj serpentojだとニュアンスが違うんですよね?(まとまり感がない)
ニュアンスの差を出すために、苦肉の策で考え出した言い方って感じがします。
ニュアンスは違うけど、英語のsame of the 〜に近い言い回しにも思えます。
same なんて形容詞なのに、こう書くと名詞扱いみたいですから。
言語なんてどれも、結構無理して、はったりでできているのかも。