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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

300鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/30(水) 21:48:23 ID:1d4drIFg0

 そして更に上記の境界の縁によって六種の相が生じるというのじゃ。

 その六とは

 一つ目が智相、境界に依って心が起こり、愛と不愛を分別するのじゃ。
 
 二つ目が相続相、智に依って苦楽の覚心を生じ、相続して絶えないのじゃ。

 三つ目が執取相、相続に依って、境界を縁念として、心に執着を起こすからなのじゃ。
 
 四つ目が名字相、妄執に依って、仮名言の相を分別するからなのじゃ。

 五つ目が起業相、名字依って、名を尋ねて取執していろいろな業を作るからなのじゃ。

 六つ目が業繋苦相、業に依って報いを受けて自在にはできないからなのじゃ。

 このように無明から一切の染法が生じることを知るべきなのじゃ。
 これらは皆不覚の特徴である故なのじゃ。

 
 これは大体十二縁起と同じようなものじゃな。
 大乗の教義として無明から業によって縛られて苦から抜けだせない心のありようを説いたものじゃ。

301避難民のマジレスさん:2022/03/30(水) 22:51:36 ID:kqqE/TR.0
13.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号13-14)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号36-37)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲覺不覺ノ異同

復次覺與不覺有二種相。云何爲二。一者同相。二者異相。

    復(また)次に、覺と不覺と、二種の相有り。云何が二と爲す。一には同相、二には異相。

 同相者譬如種種瓦器皆同微塵性相。如是無漏無明種種業幻。皆同如性相。是故修多羅中。依於此義説一切衆生本來常住入於涅槃。菩提之法非可修相。非可作相。畢竟無得。亦無色相可見而有見色相者。
唯是隨染業幻所作。非是智色不空之性以智相無可見故。
 幻異相者。如種種瓦器各各不同。如是無漏無明。隨染幻差別。性染幻差別故。
     
     同相とは、譬へば種種の瓦器(ぐわき)皆同じく微塵の性相(しゃうさう)なるが如し。かくのごとく、無漏と無明との 
    種種の業幻も、皆同じく眞如の性相なり。この故に、修多羅の中(うち)に、此の義に依って、一切衆生は、本來
    常住にして、涅槃に入ると説く。菩提の法は、修すべき相に非ず、作(な)すべき相に非ず、畢竟無得(とく)なり。ま
    た色相のるべき無し。而も色相を見ること有るは、唯これ隨染業幻の所作なり。是の智には色不空の性(しゃう)
    あるに非ず、智相は見るべき無きを以ての故に。
     異相と言うは、種種の瓦器(ぐわき)、各各不同なるが如く、是くの如く無漏と無明との隨染幻の差別と、性染
    幻の差別となるが故に。

(´・(ェ)・`)b

302鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/01(金) 00:26:11 ID:1d4drIFg0

 更に又。、覚と不覚に二つの特徴があるというのじゃ。
 一つは同じという特徴であり、二つ目は異なるという特徴であるというのじゃ。

 例えば陶器が皆同じく泥土から作られている性質のものという特徴があるようなものじゃ。
 このように如来の無漏も衆生の無明といういろいろな表れも、実は真如の本性があるからなのじゃ。
 この故に経典には一切衆生は本来、常住にして涅槃に入るものと説いているのじゃ。
 
 仏道は修めるものがなく、作すべきものごともないのじゃ。
 何かを得ることもないのじゃ。
 色形もなく、しかも色形をみることがあるのは、ただ随染業の幻のせいなのじゃ。
 この智恵には色不空の性もないのじゃ。
 智恵の相は見るべきものもないからなのじゃ。

 
 異なる特徴とはいろいろな陶器が、皆違うようなものじゃ。
 このように無漏と無明との隨染幻の差別と、性染幻の差別があるからというのじゃ。


 これもまた真如の意義を説いているのじゃな。
 悟った者と悟っていない者は、真如の本性からは同じというのじゃ。
 しかし、無明に染まっている者と、法に染まった者の違いで差別があると言うのじゃ。

303避難民のマジレスさん:2022/04/01(金) 22:18:11 ID:2KCgQ.x.0
14.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号14-15)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号37-38)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第三 生滅因緣ノ義

復次生滅因緣者。所謂衆生依心意意識轉故。

    また次に、生滅の因緣とは、いはゆる衆生は、心に依って意と意識と転ずるが故に。

此義云何。  
以依阿棃耶識説有無明。不覺而起能見能現。能取境界*起。念相續故。説爲意。

    此の義いかん。  
    阿耶棃識(ありやしき)に依るを以て、無明有りと説く。不覺にして起り、能見(のうけん)、能現(のうげん)。能く境
   界を取り、*念を起して相續す。故に説いて意と爲す。

 此意復有五種名。云何爲五.

     此の意に、また五種の名有り。云何(いかん)が五と爲す。

 一者名爲業識。謂無明力不覺心動故。

     一には、名づけて業識と爲す。謂はく、無明の力にて、不覺の心動ずるが故に。

 二者名爲轉識。依於動心。能見相故。

     二には、名づけて轉識と爲す。動心に依って、能見の相あるが故に。

 三者名爲現識。所謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。隨其五塵對至。即現無有前後。以一切時任運而起常在前故。
     
     三には、名づけて現識と爲す。所謂(いはゆる)、能く一切の境界を現ず。猶ほ明鏡の、色像(しきざう)を現ずる
    が如し。現識もまた爾(しか)り。五塵に随って對至(たいし)すれば、卽ち現じて前後有ること無し。一切時に、任
    運(にんぬん)に起りて、常に前に在るを以ての故に。

 四者名爲智識。謂分別染浄法故。

     四には、名づけて智識と爲す。謂はく、染浄の法を分別するが故に。 

 五者名爲相續識。以念相應不斷故。住持過去無量世等善悪之業。令不失故。復能成熟現在未來苦樂等報無差違故。能令現在己經之事。忽然而念。未來之事不覺妄慮。是故三界虚偽唯心所作。離心則無六塵境界。

     五には、名づけて相續識と爲す。念相應して斷ぜざるを以ての故に。過去無量世等の善悪の業を住持して、
    失せざらしむるが故に。また能く、現在未來の苦樂等の報を成熟(じゃうじゅく)して差違すること無きが故に、能く
    現在・己經(いきゃう)の事を、忽然(こつねん)として念じ、未來の事を不覺に妄慮せしむ。是の故に三界は虚偽
    (こぎ)にして、唯心の所作なり。心を離るれば、則ち六塵の境界無し。     

(´・(ェ)・`)b

304鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 00:19:52 ID:1d4drIFg0

 また次は生滅の因縁についてなのじゃ。
 衆生は心によって意と意識を転じるというのじゃ。

 この意味は阿頼耶識があるから無明があると説くからなのじゃ。
 不覚にして起こり、能見、能現なのじゃ。
 能く境界を取り、念を起して相続するのじゃ。
 それを説いて意とするのじゃ。 

 その意にはまた五種の名前があると言うのじゃ。

 一つ目は業識なのじゃ。
 無明の力によって、不覚の心が動くからなのじゃ。

 二つ目は転識なのじゃ。
 動く心によって能見の相があるからなのじゃ。

 三つ目は現識なのじゃ。
 いわゆる一切の境界を現すからなのじゃ。
 鏡が色形を現すようなものじゃ。
 現識もまた同じようなものじゃ。
 五塵に従って対すれば、直ぐに現われて前後ありとするのじゃ。
 全ては自然に起こって常に主体の前にあるからなのじゃ。
 
 四つ目は智識なのじゃ。 
 染浄の法を分別するからなのじゃ。

 五つ目は相続識なのじゃ。
 念が相応じて断絶しないからなのじゃ。
 過去の無量世等の善悪の業を持ち運び、失くさないからなのじゃ。
 また現在未来の苦楽等の報いを成り立たせ、間違いがないからなのじゃ。
 現在や過去のことを念じて、未来のことを不覚に妄想させる能力が在るのじゃ。
 この故に三界は虚偽にして、ただ心が創るものなのじゃ。
 心を離れれば、六塵の境界もないのじゃ。

305避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 09:10:56 ID:2onbSBYc0
15.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号15-16)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号38-39)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 此義云何。
 以一切法皆從心起。妄念而生。一切分別則分別自心。心不見心無相可得 
 當知世間一切境界。皆依衆生*妄心而得住持。是故一切法如鏡中像無體可得。唯心虚妄。以心生則種種法生。心滅則種種法滅故。

     此の義云何(いかん)。
     一切の法は、皆心より起り、妄念より生ずるを以て、一切の分別は卽ち自心を分別す。心を見ざれば、相とし
    て得べき無し。
     まさに知るべし、世間一切の境界は、皆衆生の*無明妄心に依って、住持することを得。是の故に、一切の法
    は、鏡中の像の、體の得べきこと無きが如く、唯心にして虚妄(こもう)なり。心生ずれば、則ち種種の法生じ、心 
    滅すれば、則ち種種の法滅するを以ての故に。

 復次言意識者。*即此相續識。依諸凡夫取着轉深。計我我所。種種妄執隨事攀緣。分別六塵名爲意識。亦名分離識。又復説名分別事識。此識依見愛煩悩増長義故。
      
     また次に、意識と言うは、*卽ち此れ相續識なり。諸(もろもろ)の凡夫、取着(しゅぢゃく)轉(うた)た深きに依って、 
    我(が)と我所(わがしょ)とを計し、種種に妄執し、事に随って攀緣(はんえん)し、六塵を分別す、名づけて意識と 
    爲す。亦分離識と名づく。又復(またまた)説いて分別事識と名づく。此の識は見愛煩悩に依って増長する義の 
    故に。

 依無明薫習所起識者。非凡夫能知。亦非二乘智慧所覺。謂依菩薩。從初正信發心觀察。若證法身得少分知。乃至菩薩究竟地不能盡知。唯佛窮了。
 何以故。
 是心從本己來自性清浄。而有無明爲無明所染有其染心。雖有染心而常恒不變。是故此義唯佛能知。   

     無明薫習に依って起す所の識は、凡夫の能く知る所に非ず。亦二乘の智慧の覺する所に非ず。謂はく、菩薩
    に依るに、初めの正信より發心(はつしん)觀察し、若し法身(ほつしん)を証 すれば、少分の知を得、乃至菩薩
    究竟地(ぢ)も、盡(ことごと)く知るあたわず、唯佛のみ窮了(ぐうれう)す。
     何を以ての故に。
     是心の本より己來(このかた)、自性(じしゃう)清浄なり、而も無明有り、無明の爲に染(ぜん)せられて、其の染
    心有り、染心有りと雖も、而も常恒(じゃうごう)不變なり。是の故に、此の義は唯佛のみ能く知る。

 所謂心性常無念故名爲不變以不達*一法界故。心不相應忽然念起。名爲無明。

     所謂(いはゆる)、心性は常に念無し、故に名づけて不變と爲す。*一切法界に達せざるを以ての故に。心相應
    せず、忽然(こちねん)として念起るを名づけて無明と爲す。

(´・(ェ)・`)b

306鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 22:03:42 ID:1d4drIFg0

 この意味は、一切の法は皆心より起こり、妄念より生じて、一切の分別は自らの心を分別しているからなのじゃ。
 心を見なければ、何か見るべき心象もないのじゃ。
 世間の一切の境界は、皆衆生の無明妄心に依って、あり続けることを知るべきなのじゃ。
 この故に一切の法は、鏡の中の象が本体がないように、ただ心から創られた虚妄なのじゃ。
 心が生じれば、即ちいろいろな法も生じ、心が滅すれば即ちいろいろな法も滅するのじゃ。


 次に意識と言うのは、すなわち相続識のことなのじゃ。
 凡夫は皆、執着がとても深いから、我という観念や我が物という観念を計り、
 いろいろに妄想し、いろいろに妄執し、事に随って囚われ、六塵を分別するのじゃ。
 それらの働きを名づけて意識というのじゃ。
 またまた説いて分別事識と名づけるのじゃ。
  この識は見愛煩悩に依って増長するという意味からなのじゃ。

 無明薫習によって起こる識は凡夫がしることの出来ないものじゃ。
 また二乗の智恵で覚れるものでもないのじゃ。
 菩薩でも初正信より発心観察し、もし法身を証すれば、少しはわかるのじゃ。
 しかし菩薩の究境地でも総てしることはできないのじゃ。
 ただ仏陀だけが知り尽くすことができるのじゃ。

 なぜならばこの心はもとよりこのかた、自性は清浄であるからなのじゃ。
 無明のために染められて、染心があるのじゃ。
 染心があってもしかも常恒不変なのじゃ。
 それ故にこの意味はただ仏陀だけが知りえるのじゃ。

 いわゆる心性は常に念がないのじゃ。
 故に名付けて不変とするのじゃ。
 一切の法界に達していないからなのじゃ。
 心相応せず、忽然として念が起こるのを無明とするのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 22:32:04 ID:gUkKzeYA0
16.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号16-17)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号39-40)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲六種ノ染心

 染心者六種。云何爲六。
 一者執相應染。依二乘解脱。及信相應地。遠離故。

     染心(ぜんしん)とは六種有り。云何(いかん)が六と爲す。
     一には執相應染(しふさうおうぜん)。二乘(にじょう)の解脱と、及び信相應地とに依り、遠離(をんり)するが故に。
     
 二者不斷相應染。依信相應地修學方便。漸漸能捨得浄心地。究竟離故。

     二には不斷相應染 信相應地(ぢ)に、方便を修學するに依り、漸漸に能く捨して、浄心地(ぢ)を得、究竟(く
    きゃう)して離するが故に。

 三者分別智相應染。依倶戒地漸離。乃至無相方便地。究竟離故。

     三には分別智相應染。倶戒地に依って漸(やうや)く離れ、乃至無相方便地に究竟(くきゃう)して離するが故に。
 
 四者現色不相應染。依色自在地。能離故。

     四には現色(しき)不相應染。依色自在地(ぢ)に依り、能く離するが故に。

 五者能見心不相應染。依自在地。能離故。
 
     五には能見心不相應染。自在地に依り、能く離するが故に。

 六者根本業不相應染。依菩薩盡地得入如來地能離故。

     六には根本業不相應染。菩薩の盡地に依り、如來地に入るを得て、能く離るるが故に。     

 不了一法界義者。從信相應地。觀察學斷。入浄心地。隨分得離。乃至如來地。能究竟離故。

     一法界を了せざる義〔と〕は、信相應地より、觀察學斷して、浄心地に入り、分に随って離るるを得、乃至如 
    來地に、能く究竟して離するが故に。
 
 言相應義者。謂心念法異。依染浄差別而知相緣相同故。
 不相應義者謂即心不覺。常無別異。不同知相緣相故。

     相應の義と言ふは、謂はく、心と念法と異なり(なるも)、染浄の差別(しゃべつ)に依って、知相と緣相と同じきが  
    故に。
     不相應の義とは、謂はく、心に卽するの不覺は、常に別異無し。知相と緣相とを同ぜざるが故に。

(´・(ェ)・`)b

308鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/03(日) 22:02:45 ID:1d4drIFg0

 染心は六種あるというのじゃ。
 その六とは、

 一つ目は執相応染なのじゃ。
 二乗の解脱と、大乗の信相応地により厭離されるのじゃ。

 二つ目は、 不断相応染なのじゃ。
 信相応地に、方便を修学するに依って、次第に捨てることが出来て、浄心地を得て究めれば厭離できるのじゃ。

 三つ目は、 分別智相応染なのじゃ。
 具戒地に依ってようやく離れるのじゃ。
 或いは無相方便地を究めて厭離できるのじゃ。

 四つ目は、現色不相応染なのじゃ。
 依色自在地に依って、厭離できるのじゃ。

 五つ目は、能見心不相応染なのじゃ。
 自在地によって厭離できるのじゃ。

 六つ目は根本業不相応染なのじゃ。
 菩薩の最終境地から更に如来の境地に入って厭離できるのじゃ。

 
 一法界を修了していないという意味は、信相応地より観察学習して浄心地に入り、
 修業の進み具合に応じて厭離も次第に出来るからなのじゃ。
 そして最後に如来地によってのみ究めて厭離できるからなのじゃ。

 相応の意味とは、心と念法は異なるが、染、浄の差別によって知相と縁相が同じだからなのじゃ。

 不相応の意味とは、心に即する不覚は、常に別異がないからなのじゃ。
 知相と縁相が同じではないからなのじゃ。

309避難民のマジレスさん:2022/04/03(日) 23:33:54 ID:6QJo63rA0
17.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号18)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号40-41)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲染心ノ二礙

 又染心義者。名爲煩悩礙。能障眞如根本智故。
 無明義者。名爲智礙。能障世間自然業智故。

     又染心の義とは、名づけて煩悩礙と爲す。能く眞如根本智を障(さ)ふるが故に。
     無明の義とは、名づけて智礙と爲す。能く世間の自然(じねん)業智を障ふるが故に。

 此義云何。 以依染心能見能現。妄取境界遠平等性故。
 以一切法常静無有起相。無明不覺妄與法違故。不能得隨順世間一切境界。種種知故。

     此の義云何(いかん)。染心に依って、能見能現あり、妄(みだり)に境界(がい)を取って、平等性に違するを以て
    の故に。
     一切の法は、常に静にして、起相有ること無し。無明の不覺、妄(みだり)に法と違するを以ての故に、世間一
    切の境界に隨順することを得て種種に知ることあたわざるが故に。

▲第四 分別生滅ノ相

復次分別生滅相者。有二種、云何爲二。
 一者麁。與心相應故。
 二者細。與心不相應故。
 亦麁中之麁凡夫境界。麁中之細。細中之麁・菩薩境界。細中之細是佛境界。

     また次に、生滅の相を分別せば、二種有り。いかんが二と爲す。
     一には麤(そ)。心と相應するが故に。
     二には細。心と相應せざるが故に。
     又麤中の麤とは、凡夫の境界なり、麤中の細と、及び細中の麤とは・菩薩の境界なり。細中の細とは、是れ佛 
    の境界なり。

 此二種生滅依無明薫習而有。所謂依因依緣。依因者不覺故。依緣者妄作境界義故。若因滅則緣滅。因滅故不相應心滅。緣滅故相應心滅。

     此の二種の生滅は、無明薫習に依って有り。所謂(いはゆる)、因に依り緣に依る。因に依るとは、不覺の義の
    故に。緣に依るとは、妄(みだりい)に境界を作(な)すの義なるが故に。若し因滅すれば則ち緣滅す。因滅するが
    故に、不相應の心滅す。緣滅するが故に、相應の心滅す。

 問曰若心滅者云何相續若相續*。者云何説究竟滅。

     問うて曰はく、若し心滅せば、云何が相續せん。若し相續せば、いかんが究竟滅(くきゃうめつ)と説かん。

 答曰所言滅者唯心相滅。非心體滅。如風依水而有動相。若水滅者則風相斷絶無所依止。以水不滅風相相續。唯風滅故動相隨滅。非是水滅無明亦爾 依心體而動若心體滅者則衆生斷絶無所依止。以體不滅故心得相續唯癡滅故心相隨滅非心智滅。

      答へて曰はく、言う所の滅とは、唯心相の滅にして、心體の滅に非ず。風の、水に依っての動相有るが如し。
     若し水滅せば、則ち風相斷絶して、依止(えし)する所けん。水滅せざるを以て、風相相續す。唯風の滅するが
     故に、動相隨って滅す。是れ水の滅するに非ず。無明も亦爾(しか)り。心體に依って動ず。若し心體滅すれば、
     則ち衆生斷絶して、依止(えし)する所無し。體は滅せざるを以て、心相續することを得。唯癡(ち)の滅するが故 
     に、心相も隨って滅す。心智の滅するに非ず。

(´・(ェ)・`)b

310鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 00:22:38 ID:1d4drIFg0

 又染心という意味は、名づけて煩悩のさまたげとするのじゃ。
 真如の根本の智恵の障害となるからなのじゃ。
 無明の意味とは、名づけて智のさまたげとするのじゃ。
 世間の自然業智の障害となるからなのじゃ。

 この意味とは、染心に依って、能見能現があるからなのじゃ。
 みだりに境界を作って、平等性とは違う観念をもつからなのじゃ。

 一切の法は常に静かで、起こる相すらもないものじゃ。
 無明の不覚が妄りに法と違う観念を作るだけなのじゃ。
 世間一切の境界に随って、いろいろに知ることができないだけなのじゃ。

 
 第四 分別生滅の相なのじゃ。

 又次に生滅の相を分別すると、二種あるのじゃ。
 その二とは、

 一つ目が粗なのじゃ。
 心と相応じるからなのじゃ。

 二つ目は細なのじゃ。
 心と相応じないからなのじゃ。

 又粗の中の租とは、凡夫の境涯なのじゃ。
 粗の中の細と、細の中の粗とは菩薩の境涯なのじゃ。
 細の中の細は如来の境涯なのじゃ。

 この二種の生滅は無明薫習によってあるのじゃ。
 いわゆる因に依り、縁に依るのじゃ。
 因に依るとは、不覚の意味であるからなのじゃ。
 縁に依るとは、妄りに境界を作るからなのじゃ。
 
 もし因が滅すれば、即ち縁も滅するのじゃ。
 因が滅すれば不相応の心も滅するのじゃ。
 縁が滅すると、相応の心も滅するのじゃ。

311鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 00:33:34 ID:1d4drIFg0

 また聞いたのじゃ。
 もし心が滅すれば、どのようにして相続するのかと。
 もし相続しないのであれば、どうして究竟滅と説くのかと。

 答えたのじゃ。
 言うところの滅とは、ただ心の相が滅したのであって、心の本体が滅したのではないのじゃ。
 風で水の面が動くようなものじゃ。
 もし水がなければ風が動いたことはわからないのじゃ。
 水があれば風の動いたこともわかるのじゃ。
 風がなければ水は動かないが、水がなくなったわけではないのじゃ。

 無明もまた同じようなものじゃ。
 心の本体によって動きもあるのじゃ。
 もし心の本体が滅すれば、即ち衆生も断絶して、よるところもないのじゃ。
 心の本体は滅しないから、心は相続するのじゃ。
 ただ妄想がなくなるから、心の相も滅するのじゃ。
 心智が滅するのではないのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 00:35:00 ID:oC/z6xpc0
18.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号18-19)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号41-42)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第五 四種ノ法薫習

 復次有四種法薫習義故。染法浄法起不斷絶。
 云何爲四。
 一者浄法。名爲眞如。
 二者一切染因。名爲無明。
 三者妄心名爲業識。
 四者妄境界。所謂六塵。

     復次に、四(し)種の法薫習の義有るが故に、染法と浄法と起って、斷絶せず。
     云何が四と爲す。
     一には浄法、名づけて眞如と爲す。
     二には一切の染因、名づけて無明と爲す。
     三には妄心、名づけて業識と爲す。
     四には妄境界(がい)、所謂六塵なり。

 薫習義者。如世間衣服實無於香。若人以香而薫習故則有香氣。此亦如是。眞如浄法實無於染。但以無明而薫習故。則有染相。無明染法實無浄業。但以眞如而薫習故。則有浄用。

     薫習の義とは、世間の衣服(えぷく)、實に香(にほひ)無きも、若し人香(にほひ)を以て薫習するが故に、則ち香 
    氣有るが如し。此れも亦是くの如く、眞如の浄法は、實に染無し。但無明を以て薫習するが故に、則ち染相有
    り。無明染法は、實に浄業無し。但眞如を以て薫習するが故に、則ち浄用有り。

 云何薫習起染法不斷。
 所謂以依眞如法故有於無明。以有無明染法因故即薫習眞如。以薫習故則有妄心。以有妄心即薫習無明。不了眞如法故不覺念起現妄境界以有妄境界染法緣故。即薫習妄心。令其念著造種種業。受於一切身心等苦。

     云何が薫習し、染法を起こして、斷ぜざる。
     所謂、眞如の法に依るを以ての故に、無明有り、無明染法の因有るを以ての故に、卽ち眞如に薫習す。薫習
    を以ての故に、則ち妄心有り、妄心有るを以て、卽ち無明に薫習す。眞如の法を了せざるが故に、不覺の念 
    起って、妄境界を現ず。妄境界染法の緣有るを以ての故に、卽ち妄心に薫習し、其れをして念著し、種種の業 
    を造って、一切の身心等の苦を受けしむ。

 此妄境界薫習義則有二種。云何爲二。
 一者増長念薫習。二者増長取薫習  

     此の妄境界薫習の義に、則ち二種有り。云何が二と爲す。
     一には増長念薫習、二には増長取薫習なり。  
 
 妄心薫習義有二種 云何爲二。
 一者業識根本薫習。能受阿羅漢辟支佛一切菩薩生滅苦故。
 二者増長分別事識薫習。能受凡夫業繋苦故。       

     妄心薫習の義に二種有り、云何が二と爲す。
     一には業識根本薫習。能く受阿羅漢・辟支佛(びゃくしぶつ)一切の菩薩をして、生滅の苦を受けしむるが故に。
     二には増長分別事識薫習。能く凡夫をして、業繋(ごふけ)の苦を受けしむるが故に。       

(´・(ェ)・`)b

313鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 22:01:25 ID:1d4drIFg0

 また次に四種の法薫習があるから、染法と浄法とが起こって断絶しないのじゃ。

 その四つとは、

 一つ目は浄法、真如なのじゃ。
 二つ目は一切の染因、無明なのじゃ。
 三つ目は妄心、業識なのじゃ。
 四つ目は、妄境界、いわゆる六塵なのじゃ。

 薫習の意味とは、例えば世間の衣服には本来臭いはないが、もし人がお香で薫習すれば臭いがつくのじゃ。
 このように真如の浄法は本来、染がないものじゃ。
 ただ無明をもって薫習するから染相があるのじゃ。

 無明染法は本来、浄業がないものじゃ。
 ただ真如によって薫習するから浄用があるのじゃ。

314鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 22:04:38 ID:1d4drIFg0
 どのようにして薫習して、染法を起こして絶えないのかといえば、
 いわゆる真如の法に依って無明もあるのじゃ。
 無明染法の因があるから真如に薫習するのじゃ。

 薫習によって妄心もあるのじゃ。
 妄心があるから無明に薫習するのじゃ。
 真如の法を修了できないから不覚の念が起こって、妄境界を現すのじゃ。
 妄境界染法の縁があるから、妄心に薫習して、それに念着して、いろいろな業わ作って一切の心身の苦を受けるのじゃ。

 この妄境界薫習の意味にまた2種あるのじゃ。

 一つ目は増長念薫習なのじゃ。
 二つ目は増長取薫習なのじゃ。

  妄心薫習にも二種の意味が在るのじゃ。

 一つ目は業識根本薫習なのじゃ。
 阿羅漢や辟支佛、菩薩にも生滅の苦を受けさせるものじゃ。

 二つ目は増長分別事識薫習なのじゃ。
 凡夫に業繋の苦を受けさせるものなのじゃ。

315避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 23:04:24 ID:66RvJFcI0
19.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号20)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号42-43)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 無明薫習義有二種。云何爲二。
 一者根本薫習。以能成就業識義故。
 二者所起見愛薫習。以能成就分別事識義故。

     無明薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。
     一には根本薫習。能く業識を成就するの義を以ての故に。
     二には所起見愛薫習。分別事識を成就する義を以ての故に。

 云何薫習起浄法不斷。
 所謂以有眞如法故能薫習無明。以薫習因緣力故則令妄心厭生死苦樂求涅槃。以 此妄心有厭求因緣故即薫習眞如。 

     云何が薫習し、浄法を起こして斷ぜざる。
     所謂(いはゆる)、眞如の法有るを以ての故に、能く無明に薫習す。薫習の因緣力を以ての故に、則ち妄心を
    して、生死の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)せしむ。此の妄心に厭求(をんぐ)の因緣有るを以ての故に、卽 
    ち眞如に薫習す。 

 自信己性。知心妄動無前境界 修遠離法以如實知無前境界故。種種方便起隨順行。不取不念乃至久遠薫習力故無明則滅。
 以無明滅故心無有起。以無起故境界隨滅。以因緣倶滅故。心相皆盡。名得涅槃成自然業。

     自ら己(おの)が性(しゃう)を信じ、心は妄に動じたるのみ、前境界無しと知り、遠離(をんり)の法を修し、如實に、    前境界無しと知るを以ての故に、種種の方便もて、隨順の行を起こし、不取不念、乃至久遠(くをん)薫習力の 
    故に、無明卽ち滅す。
     無明滅するを以ての故に、心起こること有ること無し。起こることなきを以ての故に、境界隨って滅す。因と緣と
    倶(とも)に滅するを以ての故に、心相皆盡くるを、涅槃を得て、自然業を成(じゃう)ず名づく。
     
 妄心薫習義有二種。云何爲二。
 一者分別事識薫習。依諸凡夫二乘人等。厭生死苦隨力所能。以漸趣向無上道故。
 二者意薫習。謂諸菩薩發心勇猛速趣涅槃故。

     妄心薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。
     一には分別事識薫習。諸(もろもろ)の凡夫、二乘の人等に依って、生死の苦を厭(いと)ひ、力の所能に随って、    漸(やうや)く無上道に趣向するを以ての故に。
     二には意薫習。謂はく、諸の菩薩は、發心勇猛(ほっしんゆうみゃう)にして、速に涅槃に趣(おもむ)くが故に。

(´・(ェ)・`)b

316鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/06(水) 22:02:40 ID:1d4drIFg0

 無明薫習にも二つの種類があるのじゃ。

 一つ目は根本薫習なのじゃ。
 業識を成就することができるものなのじゃ。

 二つ目は所起見愛薫習なのじゃ。
 分別事識を成就するものなのじゃ。

 ではどのようにして浄法によって薫習して実践し続けることができるのかというのじゃ。
 いわゆる真如の法があるから、無明にも薫習することができるのじゃ。
 薫習の因縁力があるから、妄心を持つ者にも生死の苦をいやがり、涅槃を求めさせることもできるのじゃ。
 この妄心にも苦を厭い、涅槃を求めさせる因縁があるから、真如で薫習することもできるのじゃ。
 
 自ら己の性を信じて、心は妄想に動じているだけであり、もとより境界なしと知って、遠離の法を実践して、如実にもとより境界無しと気づくのじゃ。
 いろいろな方便をもって随順の行を起こし、何も取らず、何も念じる事無く、長年薫習力を実践すれば無明も滅するのじゃ。

 無明が滅すれば心が起こることもないのじゃ。
 心が起こらないのであるから境界もそれにしたがって滅するのじゃ。
 因と縁もともに滅するからなのじゃ。
 心の相が皆尽きることで涅槃を得て、自然業を成就するというのじゃ。

 妄心薫習にも二種あるのじゃ。

 一つ目は分別事識薫習なのじゃ。
 もろもろの凡夫や二乗の者達によって、生死の苦を厭い、各自の能力によってようやく無上道に向かうからなのじゃ。

 二つ目は意薫習なのじゃ。
 諸々の菩薩は発心勇猛にして、速やかに涅槃にいくからなのじゃ。

317避難民のマジレスさん:2022/04/06(水) 22:10:52 ID:7I2EyRWQ0
20.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号21-22)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号43)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 眞如薫習義有二種。云何爲二。一者自體相薫習。二者用薫習者。
 自体相薫習者。從無始世來具無漏法。備有不思議業。作境界之性。依此二義恒常薫習。以有薫習力故。能令衆生厭生死苦。樂求涅槃。自信己身有眞如發心修行。
 
     眞如薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。一には自體相薫習、二には用薫習なり。
     自體相薫習とは、〔眞如は〕無始世(むしせ)より來(このかた)、無漏の法を具し、備(つぶさ)に不思議の業有っ
    て、境界の性と作(な)る。此の二義に依って、恒常(ごうじゃう)に薫習す。薫習力有るを以ての故に、能く衆生を
    して、生死の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)し、自ら己身に眞如法有りと信じ、發心修行せしむ。

 問曰若如是義者。一切衆生悉有眞如等皆薫習。云何有信無信無量前後差別。皆應一時自知有眞如法。勤修方便等入涅槃

     問うて曰はく、若し是くの如きの義ならば、一切の衆生は、悉(ことごと)く眞如有り、等しく皆薫習せん。云何ぞ、
    有信(うしん)、無信、無量前後の差別(しゃべつ)あるや。皆應(まさ)に、一時に自ら、眞如の法有りと知って、勤
    修(ごんしゅ)し、方便して、等しく涅槃に入るべし。

 答曰眞如本一而有無量無邊無明。從本己來自性差別厚薄不同故。過恒河沙等上。煩悩依無明起差別。我見愛染煩悩依無明起差。別如是一切煩悩依於無明 起前後無量差別。唯如來能知故。

     答へて曰はく、眞如は本(もと)一(いつ)なり。而も無量無邊の無明有りて、本(もと)より己來(このかた)、自性
    (しゃう)差別して厚薄(こうはく)同じからざるが故に、恒河沙(ごうがしゃ)等に過ぐる上煩悩は、無明に依って起こり、
    差別あり。我見・愛染(あいぜん)の煩悩は、無明に依って起こり、差別有り。是くの如く、一切の煩悩は、無明に 
    依って起こる所の前後無量の差別あり、唯如來のみ能く知るが故に。

 又諸佛法有因有緣。因緣具足乃得成辨。如木中火性是火正因。若無人知不假方便能自焼木無有是處。
 衆生亦爾。雖有正因薫習之力。若不遇諸佛菩薩善知識等。以之爲緣能自斷煩悩。入涅槃者則無是處若雖有外緣之力。而内浄法未有薫習力者。亦不能究竟厭生死苦樂求涅槃。
 若因緣具足者。所謂自有薫習之力。又爲諸佛菩薩等。慈悲願護故。能起厭苦之心。信有涅槃。修習善根。以修善根成熟故。則値諸佛菩薩。示敎利喜乃能進趣向涅槃道。

     又諸佛の法は、因有り緣有り、因と緣と具足して、乃(すなは)ち成辨(じゃうべん)することを得るなり。木(もく)中
    の火性(くわしゃう)は、是れ火の正因なるも、若し人の知ること無く、方便を假(か)らずんば、能く自ら木を焼くこと、
    無有是の處(ことわり)有ること無きが如し。
     衆生も亦爾(しか)り、正因薫習の力有りと雖も、若し諸佛、菩薩、善知識等に遇(あ)ひ、之を以て緣と爲さず
    んば、能く自ら煩悩を断じ、涅槃に入ることは、則ち是の處(ことわり)無し。外緣の力有りと雖も、而も内の浄法
    に未だ薫習の力有らずんば、亦究竟(くきゃう)して、生死(しゃうじ)の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)すること
    能(あた)はず。
     若し因と緣と具足する者は、所謂(いはゆる)、自ら薫習の力有り、又諸佛菩薩等の爲に、慈悲願護せらる。
    故に能く苦を厭(いと)ふの心を起し、涅槃有ることを信じ、善根を修習(しゅじふ)す。善根を修すること成熟(じゃう 
    じゅく)するを以ての故に、則ち諸佛菩薩に値(あ)ひ、示敎利喜(じけうりき)し、乃(すなは)ち能く進趣して、涅槃の
    道に向ふなり。

(´・(ェ)・`)b

318鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/07(木) 22:09:25 ID:1d4drIFg0

 真如の薫習、つまり修業の実践にも二種あるというのじゃ。

 一つ目は自体相薫習なのじゃ。
 
 二つ目は用薫習なのじゃ。

 自体相薫習とは、真如ははじまりもない昔から、無漏の法をもっていて、不思議の業を備えており、境界の性となるのじゃ。
 この二つの意味で恒常に薫習するのじゃ。
 薫習力があるから、衆生に生死の苦をいとわしめ、涅槃を求めさせ、自ら真如法ありと信じて発心修業させることができるのじゃ。


 また聞いたのじゃ。
 もしこのようであるならば、一切の衆生はみんな真如があるはずなのじゃ。
 もしみんなよく実践修業するならば、法を信じたり、信じなかったり、無量の前後の差別があるのか。
 みんなまさに一時に真如の法ありと知るならば、実践に勤め、方便して涅槃に入るじゃろう。

 答えたのじゃ。
 真如はもとから一つであるのじゃ。
 しかし無量無辺の無明があり、もとよりこのかた自性差別して、厚薄が同じでないからなのじゃ。
 ガンジス川の砂より多い上煩悩は、無明によって起こり、差別あるものじゃ。
 我見、愛染の煩悩も無明によって差別在るのじゃ。
 このように一切の煩悩は無明によっおこる前後無量の差別が在るのじゃ。
 ただ如来だけがよく知ることが出来るのじゃ。

319避難民のマジレスさん:2022/04/07(木) 22:17:50 ID:feYdLU8s0
21.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号22)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号44)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 用薫習者即是衆生外緣之力。如是外緣有無量義。略説二種。
 云何爲二。一者差別緣。二者平等緣。
 差別緣者此人依於諸佛菩薩等。從初發意始求道時。乃至得佛於中若見若念。或爲眷属。父母諸親。或爲給使或爲知友。或爲怨家。或起四攝。乃至一切所作無量行緣以起大悲薫習之力。能令衆生増長善根。若見若聞得利益故。

     用薫習とは卽ち是れ、衆生外緣(げえん)の力なり。是くの如き外緣に、無量の義有り。畧して説くに、二種有り。
     云何が二と爲す。一には差別緣、二には平等緣。
     差別緣とは、此の人は、諸佛菩薩等に依って、初發意(しょほつち)に始めて道(だう)を求むる時より、乃至佛道
    を得(う)るまで、中(うち)に於いて、若しくは見、若しくは念ず。或ひは、眷属、父母、諸親と爲り、或ひは給使(き 
    ふし)と爲り、或ひは知友(ちう)と爲り、或ひは怨家(をんけ)と爲り、或ひは四攝(しせふ)を起こし。乃至一切の所 
    作、無量の行緣は、大悲を起す薫習の力を以って、能く衆生をして、善根を増長し、若しくは見、若しくは聞き、 
    利益(りやく)を得せしむるが故に。

 此緣有二種云何爲二。一者近緣速得度故。二者遠緣久遠得度故。是近遠二緣分別復有二種。云何爲二一者増長行緣。二者受道緣。

      此の緣に二種有り。云何が二と爲す。一には近緣(ごんえん)。速(すみやか)に度する事を得(う)るが故に。二
     には遠緣(をんえん)。久遠(くをん)に度する事をえるが故に。是の遠近(をんごん)の二緣を分別するに、復(また) 
     二種有り。云何が二と爲す。一には増長行緣。二には受道緣。なり

(´・(ェ)・`)b

320鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/07(木) 22:18:38 ID:1d4drIFg0

 また諸仏の法は因があり、縁があり、因と絵がともなって成るものじゃ。
 木の中にある燃える性質は、火の正しい原因であるが、もし人が知らず方法を使わなければ木を燃やせないようなものじゃ。
 衆生もまた同じなのじゃ。
 正しい原因の薫習の力があっても、しも諸仏、菩薩、善智識などに会ってもこれを縁としなければ、自ら煩悩を断ち、涅槃に入ることは出来ないのじゃ。
 外の縁の力があっても、しかも内の浄法にまだ薫習の力がなければ、また生死の苦を厭い、涅槃を求めることもできないのじゃ。

 もし因と縁とを持つ者は、いわゆる薫習の力を自らもっているのじゃ。
 また諸仏菩薩等のために慈悲で守られるのじゃ。
 それゆえに苦を厭う心を起こし、涅槃が在ると神事、善根を習い修めるのじゃ。
 善根を修めることが成熟すれば、すぐに諸仏菩薩にもあえて、教えを受けて喜び、実践して涅槃の道に向かうのじゃ。

321避難民のマジレスさん:2022/04/07(木) 22:40:23 ID:sL4UV/Rg0
あっ!途中で割り込んでしまったであります。
ごめんなさい。
n(´・(ェ)・`)n

322鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/08(金) 21:35:55 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 珍しいことじゃ。
 これもシンクロニシティじゃな。

323鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/08(金) 21:54:53 ID:1d4drIFg0

 用薫習とは衆生の外縁の力なのじゃ。
 このような外縁には無量の意義があるものじゃ。
 無量にあるものを略して説けば、二つになるのじゃ。

 一つ目は差別縁、

 二つ目は平等縁なのじゃ。

 差別縁とは、この縁を持つ者は諸仏菩薩に依って、初発意で道を求める時から、仏道を得るまで、
 中においてもしくは仏の身を見るか、あるいは功徳を念じるのじゃ。
 仏は或いは眷属となり、父母や親戚や召使や知友や恩人となるのじゃ。
 その者のために或いは四摂を実践したり、乃至は一切の所作、無量の行縁を以って大悲薫習の力を起こすのじゃ。
 そうすることで衆生のために善根を増長して、もしくは仏身を見させ、仏の声を聞かせて利益を得させるからなのじゃ。

 この縁にまた2種類在るのじゃ。

 一つ目は増長行縁なのじゃ。

 二つ目は受道縁なのじゃ。

324避難民のマジレスさん:2022/04/09(土) 00:03:21 ID:lmwiEF6E0
22.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号23)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号44-45)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

平等緣者。一切諸佛菩薩皆願度脱一切衆生。自然薫習常恒不捨。以同體智力故。随應見聞而現作業。所謂衆生依於三昧。乃得平等見諸佛故。
 此體用薫習。分別復有二種。云何爲二。
 一者未相應。謂凡夫二乘初發意菩薩等。以意意識薫習依信力故。而能修行。未得無分別心。與體相應故未得自在業修行與用相應故。

     平等緣とは、一切の諸佛菩薩は、皆一切の衆生を度脱せんと願ひ、自然(じねん)に薫習して 
    常恆(じゃうごう)に捨せず、同體の智力を以っての故に。應(まさ)に見聞(けんもん)すべきに 
    随って、作業(さごふ)を現ず。所謂(いはゆる)、衆生三昧に於て、乃ち平等に諸佛を見ること
    を得るが故に。
     此の體・用薫習を分別するに、復(また)二種有り。云何が二と爲す。
     一には未相應。謂はく、凡夫二乘初發意(しょほつち)の菩薩等は、意と意識との薫習を以っ 
    て、信力に依るが故に、而も能く修行すれども、未だ無分別心と、體と相應する事を得ざる   
    が故に。未だ自在業の修行、用(ゆう)と相應することを得ざるが故に。

 二者己相應、謂法身菩薩得無分別心。與諸佛自體相應得自在業與諸佛智用相應。唯依法力自然修行薫習眞如。滅無明故

     二には己相應。謂はく、法身の菩薩は、無分別心を得て、諸佛の自體と相應し、自在業を 
    得て、諸佛の智用(ちゆう)と相應す。唯法力に依って、自然に修業(しゅごふ)して眞如に薫習
    し、無明を滅するが故に

 復次染法。從無始巳來薫習不斷。乃至得佛後則有斷。浄法薫習則無有斷。盡於未來。此義云何。以眞如法常薫習故。妄心則滅法身顯現起用薫習故無用斷

     復(また)次に染法は、無始より巳來(このかた)、薫習して斷ぜず。乃至、佛を得て後、則ち 
    斷ずること有り。浄法薫習は、則ち斷ずること有ること無く、未來を盡くす。

 此義云何。
 以眞如法常薫習故。妄心則滅法身顯現起用薫習故無用斷

     此の義云何(いかん)。
     眞如の法は、常に薫習するを以っての故に、妄心則ち滅すれば、法身顯現して用(ゆう)薫習 
    を起す。故に斷ずること有ること無し。

(´・(ェ)・`)b

325鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/09(土) 21:24:32 ID:1d4drIFg0

 二つ目の平等縁とは、一切の諸仏は皆一切の衆生を解脱に導こうと願い、
 自然に薫習して常に永久に捨てることはないのじゃ。
 同体の智慧力をもってるからなのじゃ。

 まさに見聞きすべきことにしたがって、作業をあらわすのじゃ。
 いわゆる平等三昧によって即ち平等に諸仏をみることができるからなのじゃ。

 この本体と用を分別すれば、また二種あるのじゃ。

 一つ目は未相応なのじゃ。
 凡夫や二乗の者達や初発意の菩薩等は、意と意識との薫習をもっ信じる力で修業するのじゃ。
 それで修業はできるが、未だ無分別心と、体と相応することができないから未相応なのじゃ。
 さらにまだ自在業の修行、用とも相応じることもできないからなのじゃ。

 二つ目は己相応なのじゃ。
 法身の菩薩は無分別心を得て、諸仏の自体と相応し、自在業を得て、諸仏の智慧の用と相応するからなのじゃ。
 ただ法力によって、自然に修業して真如に薫習して無明を滅するからなのじゃ。

 
 また次に染法は始まりもない昔から、薫習して断たれることがないのじゃ。
 仏陀になれば断ずることはあるのじゃ。
 浄法薫習は断じることはなく、未来永劫にありつづけるのじゃ。

 この意味とは、真如の法とは常に薫習するから妄心が滅すれば法身が顕現して用薫習を起こすのじゃ。
 その故に断絶することはないのじゃ。


 真如の法は時空を超えて永遠にあり続けるということじゃな。

326避難民のマジレスさん:2022/04/09(土) 22:09:20 ID:b1ygbnlI0
23.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号23-24)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号46-47)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第六 眞如ノ自體相―六義

 復次眞如自體相者。一切凡夫聲聞緣覺菩薩諸佛。無有増減非前際生。非後際滅。畢竟常恒。
 從本以來自性滿足一切功徳。  
 所謂自體有大智慧光明義故。徧照法界義故。眞實識知義故。自性清浄心義故。常樂我浄義故。清凉變自在義故。具足如是過於恒沙不離不斷不異不思議佛法。乃至滿足無有所少義故名爲如來藏。亦名如來法身

     復次に、眞如の自體相とは、一切の凡夫と聲聞(しゃうもん)と、緣覺と、菩薩と、諸佛とに 
    増減有ること無く、前際に生ずるに非ず、後(ご)際に減するに非ず。畢竟常恆(じゃうごう)な
    り。
     本より巳來(このかた)、自性(じしゃう)に一切の功徳を滿足す。
     所謂、自體に大智慧光明の義有るが故に、徧照法界の義の故に。眞實識知の義の故に。自 
    性清浄心の義の故に。常樂我浄の義の故に。清凉不變自在の義の故に。是くの如く恆沙(ごう 
    しゃ)に過ぎたる、不離・不斷・不異・不思議の佛法を具足し、乃至滿足して、少(か)くるる
    こと無き義の故に、名づけて如來藏と爲す。亦如來法身とも名づく

 問曰上説眞如其體平等離一切相云何復説體有如是種種功徳。

     問うて曰はく、眞如は其の體、平等にして、一切の相を離るると説く。云何ぞ復た、體に
    是くの如く、種種の功徳有りと説くや。

 答曰。雖實有此諸功徳義。而無差別之相。等同一昧唯一眞如

     答へて曰はく、實に此の諸(もろもろ)の功徳の義有りと雖も、而も差別(しゃべつ)の相無く、等同一昧にして、唯一眞如なり。

 此義云何。 
 以無分別離分別相是故無二。
 復以何義得説差別。
 以依業識生滅相示。
 此云何示
 以一切法本來唯心實無於念。而有妄心。不覺起念見諸境界故。説無明心性不起即是大智慧光明義故。
 若心起見則有不見之相。心性離見即是徧照法界義故。
 若心有動非眞識知。
 無有自性。非常非樂非我非浄
 熱悩衰變則不自在 
 乃至具有過恒沙等妄染之義。對此 義故。心性無動」則有過恒沙等諸浄功徳相義示現。
 若心有起更見前法可念者。則有所少。如是浄法無量功徳即是一心。更無所念。是故滿足名爲法身如來之藏。   
     此の義云何。 
     無分別は分別の相を離るるを以て、是の故に無二なり。
     復何の義を以て、差別を説くことを得(う)るや。
     業識(ごっしき)生滅の相に依って示す。
     此れ云何が示すや。
     一切の法は、本來唯心にして、實に念無し。而も妄心有りて、不覺にして念を起こし、諸 
    (もろもろ)の境界を見るを以ての故に、心性起らざれば、卽ち是れ大智慧光明の義の故に。
     若し心、見を起こせば、則ち不見の相有り。心性にして見を離るれば、卽ち徧照法界(へん 
    ぜうほっかい)の義の故に。
     若し心、動あれば、眞の識知に非ず。
     自性有ること無く、常に非ず、樂に非ず、我に非ず、浄に非ず。
     熱悩衰變(ねつなうすいへん)にして、則ち自在ならず。 
     乃至具(つぶさ)に、恆沙(ごうじゃ)に過ぐる等の、妄染の義有り。對此の義に対するが故
    に、心性、動無ければ、則ち過恒沙等の、諸の浄功徳の相の義、示現する有り。
     若し心、起こること有って、更に前法の念ずべきを見る者は、則ち少(か)くる所有り。是く 
    の如き浄法の無量の功徳は、卽ち是れ一心にして、更に念ずる所無し。是の故に滿足するを
    名づけて、法身如來の藏と爲す。
(´・(ェ)・`)b

327鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/10(日) 21:57:24 ID:1d4drIFg0
また次に真如の自体相とは、一切の凡夫と声聞と縁覚と菩薩と、諸仏とに増減あることなく、
 以前に生じたのではなく、以後に減るのでもないのじゃ。
 時空を超えて永遠なのじゃ。

 もとよりこのかた自性は一切の功徳に満ち足りているのじゃ。
 いわゆる自体に大智慧光明の意義があるからなのじゃ。
 法界をあまねく照らすからなのじゃ。
 真実を識知するからなのじゃ。
 自性清浄心だからなのじゃ。
 常楽我浄だからなのじゃ。
 清涼で不変常在だからなのじゃ。
 
 このようにガンジス川の砂より多い、不離、不断、不異、不思議の仏法を具足して、ないしは満ち足りていて、かけるところがないからなのじゃ。
 名づけて如来蔵とするのじゃ。
 あるいは如来の法身とするのじゃ。

328鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/10(日) 21:58:01 ID:1d4drIFg0
 また聞いたのじゃ。

 真如はその本体が平等で、一切の相を離れると聞いたのじゃ。
 しかしそれならばその本体に、そのようないろいろな功徳があると説いているのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは実にいろいろな功徳があるといっても、そこには差別の相はなく、等同一味にして、唯一真如であるからなのじゃ。

 その意味とは、
 無分別は分別の相を離れるから無二なのじゃ。
 そうであればさらに差別を説くことはないのじゃ。
 業識生滅の相に依って示すだけなのじゃ。

 どのように示すかというと、

 一切の法は本来ただ心だけであり、実に観念はないのじゃ。
 それなのに妄心があって不覚であるから、観念を起こし、いろいろな境界を見るから無明と説いているのじゃ。

 心性が起こらなければ、即ち大智慧光明が起こるのじゃ。

 もし心が見るという観念を起こせば、見ないという観念も起こるのじゃ。
 心性が見を離れれば、法界を遍く照らすのじゃ。

 もし心に動じることがあれば、真の識知ではないのじゃ。
 それでは自性がなく、常ではなく、楽ではなく、我ではなく、浄でもないのじゃ。
 熱脳衰変であり、自在ではないのじゃ。
 さらにいろいろなガンジス川の砂より多い妄想に染まるのじゃ。

 この意味に対して、心性が動じなければ、すなわちガンジス川の砂より多いいろいろな清浄な功徳の相が現われるのじゃ。
 
 もし心が起こってさらに現前する法の観念があると見るものはまだ欠けているのじゃ。
 このような清浄な法の無量の功徳は、すなわち一心、つまり真如であるから観念もないのじゃ。
 この故に、満ち足りていることを、名づけて法身如来の蔵とするのじゃ。
 如来蔵じゃな。

329避難民のマジレスさん:2022/04/10(日) 23:48:38 ID:JBVywH4Y0
24.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号25-26)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号46-48)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第七 眞如ノ用
     
 復次眞如用者。所謂諸佛如來。本在因地發大慈悲。修諸波羅蜜。攝化衆生。立大誓願。盡欲度脱等衆生界。亦不限劫數盡於未來。以取一切衆生如巳身故。而亦不取衆生相。此以何義
 謂如實知一切衆生。及與巳身。眞如平等無別異故。
 以有如是大方便智。除滅無明見本法身。自然而有不思議業種種之用。即與眞如等徧一切處。又亦無有用相可得。
 何以故
 謂諸佛如來唯是法身智相之身。第一義諦無有世諦境界。離於施作。但随衆生見聞得益故説爲用

     復次に眞如の用(ゆう)とは、所謂、諸佛如來、本因地に在って、大慈悲を發(おこ)し、諸の
    波羅蜜を修し、衆生攝化(せふけ)す。大誓願を立て、等しく衆生界を度脱せんと欲し、亦劫數 
    (ごふしゅ)を限らず、未來を盡くす。一切衆生を取ること、巳身の如くなるを以ての故に、而
    も亦衆生の相を取らず。此れ何の義を以てぞ。
     謂はく、實に一切衆生と及び巳身とは、眞如平等にして、別異無しと知るが故なり。
     是くの如き大方便、智有るを以て、無明を除滅して、本法身(ほっしん)を見るに、自然にし
    て不思議の業。種種の用有り、卽ち眞如と等しく、一切處に徧ず。又亦用(ゆう)相の得(う)べ
    き有ること無し。
     何を以っての故に。
     謂はく、諸佛如來は、唯是れ法身智相の身(しん)、第一義諦(たい)にして、世諦の境界有る
    こと無く、施作(せさ)を離る。但衆生の、見聞(けんもん)して益(やく)を得(う)るに随ふが故 
    に、説いて用(ゆう)と爲す。 
    
 此用有二種云何爲二。
 一者依分別事識。凡夫二乘心所見者名爲應身。
 以不知轉識現故。見從外來取色分齊。不能盡知故

     此の用に二種有り。云何が二戸爲す。
     一には、分別事識に依る。凡夫・二乘の心の所見は、名づけて應身(じん)と爲す。
     轉識の現〔ずる所〕なるを知らざるを以ての故に、外(げ)より來ると見、色の分齊(ざい)を 
    取り、盡く知ること能はざるが故に。

 二者依於業識。謂諸菩薩從初發意。乃至菩薩究竟地心所見者。名爲報身。
 身有無量色。色有無量相。相有無量好。所住依果亦有無量種種荘嚴。随所示現即無有邊。不可窮盡。離分齊相。随其所應。常能住持。不毀不失
 如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行薫。及不思議薫之所成就。具足無量樂相故説説爲報身

     二には、業識に依る。謂はく、諸の菩薩、初護意より、乃至菩薩究竟地(くきゃうぢ)の心の 
    所見を、名づけて報身と爲す。
     身に無量の色有り、色に無量の相有り、相に無量の好有り。所住の依果も、亦無量種種の
    荘嚴(しゃうごん)有り、示現する所に随って、卽ち邊有ること無く、窮盡(ぐうじん)すべから 
    ず、分齊の相を離る。〔而かも〕其の所應に随って、常に能く住持して、毀(き)せず、失せず。

 如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行薫。及不思議薫之所成就。具足無量樂相故説説爲報身
 
     是くの如きの功徳は、皆諸の波羅蜜等の、無漏行薫と、及び不思議薫との、成就する所に 
    因って、無量の樂相を具足す。故に説いて報身と爲す。

(´・(ェ)・`)b

330避難民のマジレスさん:2022/04/11(月) 16:55:35 ID:wAVU2rfc0
鬼和尚、くまさん失礼します。
購読ゼミのスレのパパジとの対話と解説、お疲れさまでした。
次の予定が入っていなければ、以前途中で中断していたラマナ・マハルシとの対話を
そちらのスレをお借りして再開してもよろしいでしょうか?
もしOKでしたら明日から掲載していこうと思っています。

331鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:17:31 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 どんどんするとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

332鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:34:55 ID:1d4drIFg0

 また次に真如の用とは、いわゆる諸仏、如来達は本因地にあって、大慈悲を起こし、
 諸々の波羅蜜を修め、衆生を集めて解脱させるのじゃ。

 大誓願をたてて、等しく衆生界を度脱しようとして、年月を限らず、未来永劫に実践するのじゃ。
 一切衆生を見ること、己の身と同じと見るからなのじゃ。
 しかもまたそれは衆生があるという観念がないのじゃ。

 これはどのような意味であるか。
 いわく、実に一切衆生と自分の身とは真如平等であり、別とか異なることはないと知っているからなのじゃ。
 
 このような大方便、智恵あるから無明を除き滅して、本法身をみると自然にして不思議の業にいろいろな用があるのじゃ。
 すなわち真如と等しく、全ての場所に遍く現われるのじゃ。
 またまたそれであっても観念はないのじゃ。

 なぜであるかといえば、

 諸仏如来はただこれ法身智相の身であり、第一の真理であり、世間のことわりでの境界はなく、俗世の用を離れているのじゃ。
 ただ衆生が見聞きして利益を得られるようにするために、法を説いて利用させるのじゃ。

333鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:50:18 ID:1d4drIFg0

 この用にも二種在るのじゃ。

 一つ目は分別事識によるものじゃ。
 凡夫や二乗の心の所見は、名づけて応身とするのじゃ。
 仏の身を転識の表れであることを知らないから、外より来たと見るのじゃ。
 肉体の差別に囚われて、仏の智恵を全て知ることが出来ないのじゃ。

 二つ目は業識によるものじゃ。

 諸々の菩薩は初発意から究境地の心の所見を報身とするのじゃ。
 身には無量の色があり、色にも無量の相があり、相にも無量の好みが在るのじゃ。
 
 住む所もまた無量の飾りが在るのじゃ。
 現われた所にしたがって、辺もなく究めつくすこともできず、境界も無いのじゃ。
 しかもその所に応じて、常によく保って、壊れも失くしもしないのじゃ。
 
 このような功徳は皆もろもろの波羅蜜等の無漏の修行の実践と、不思議なる実践が
 成就したことに因って、無量の安楽のありさまを具えたのじゃ。
 ゆえに説いて報身とするのじゃ。

334避難民のマジレスさん:2022/04/11(月) 23:59:45 ID:ysLco47U0
25.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号26-27)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号48-49)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した 

 又爲凡夫所見者。是其麁色随於六道。各見不同種種異類非受樂相故爲應身。

     又爲凡夫所見者。是其麁色随於六道。各見不同種種異類非受樂相故爲應身。

 復次初發意菩薩等所見者以深く信眞如法故少分而見。知彼色相荘嚴等事無來無去離分齊。唯依心現不離眞如然。此菩薩猶自分別以未入法身位故。若得浄心所見微妙其用轉勝乃至菩薩地盡見之究竟若離業識則無見相以諸佛法身無有彼此色相迭相見故。


     復次に初發意(しょほっち)の菩薩等の所見は、深く眞如の法を信ずるを以ての故に、少分に 
    して見る。彼(か)の色相荘嚴等の事は、來無く去(こ)無く、分齊を離れ、唯心に依って現じて、    眞如を離れずと知る。然れども此の菩薩は、猶ほ自ら分別し、未だ法身(ほっしん)の位(くら  
    ゐ)に入らざるを以ての故に、若し浄心を得れば、所見は微妙(もめう)にして、其の用(ゆう)
    轉(うた)た勝(まさ)れり。乃至菩薩地盡くれば、之を見ること究竟(くきゃう)す。若し業識を 
    離るれば、卽ち見相無し。諸佛の法身(ほっしん)は、彼此(ひし)の色相迭(たがひ)に相(あひ) 
    見ることあること無きを以ての故に。

 問曰若諸佛法身離於色相云何能現色相
 
     問うて曰はく、若し諸佛の法身、色相を離るれば(るといはば)、云何ぞ能く色相を現や。

 答曰 此法身是色體故能現於色所謂從本巳來色心不二以色性即智故色體無形説名智身。以智性即色。故説名法身徧一切處現之色無有分齊随心能示十方世界無量菩薩無量報身無量荘嚴各各差別皆無分齊而不相妨此非心識分別能知以眞如自在用義故
  
     答へて曰はく、卽ち是れ法身(ほっしん)は、是れ色の體なるが故に、能くを現ず。所謂、 
    本より巳來(このかた)、色心不二なり。色性は卽ち智なるを以ての故に、色體形無きを、説い 
    て智身と名づく。智性卽ち色なるを以ての故に、説いて、法身は一切當(まさ)に徧ずると名づ 
    く。所現の色に分齊有ること無く、心に随って、能く十方世界の無量の菩薩、無量の報身、 
    無量の荘嚴(しゃうごん)、各各差別して、皆分齊無くして相妨(さまた)げず。此れ心識分別の 
    能く知る〔所に)非ず。眞如自在の用の義なるを以ての故に。
  
  (´・(ェ)・`)b

335避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 00:04:09 ID:ysLco47U0
>>330
n(´・(ェ)・`)n
わくてかであります。
よろしくお願いします。

336避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 08:48:30 ID:s83mPz9Y0
>>331
>>335
ありがとうございます。
それではよろしくお願いしますm(__)m

337鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 00:31:42 ID:1d4drIFg0

 また凡夫がみるものは眼耳鼻舌身意とか色声臭味触法等なのじゃ。
 六道輪廻の生まれにしたがっておのおのが見ることは同じではないのじゃ。
 いろいろな異類は涅槃常楽の相ではないから故に応身とするのじゃ。

 また次に初発意の菩薩等の所見は、深く真如の法を信じるだけであるから、少なくみるだけなのじゃ。
 色相の飾りなどは 来ることはなく、去ることもなく、観念を離れて、ただ心によって現われて真如から離れたものではないとしるのじゃ。
 しかしこのような菩薩はまだ分別があり、まだ法身の位に入っていないのじゃ。

 もし清浄な心を得れば、見るところは微妙になり、その用は大変にすぐれたものになるのじゃ。
 さらに菩薩の境地も終われば、真如を究竟的に見られるのじゃ。
 もし業識を離れれば、すなわち見る相もないのじゃ。
 諸仏の法身はかれこれの、身体の相好などを互いに見ることなどはないからなのじゃ。

338鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 00:40:22 ID:1d4drIFg0

 また聞いたのじゃ。
 もし諸仏の法身が身体の相好などを離れているならば、どのようにして見ればよいのかと。

 答えたのじゃ。
 法身とは肉体の本体であるから現れることができるものなのじゃ。
 いわゆるもとよりこのかた色心不二であるからなのじゃ。
 肉体の本性は即ち智恵であるから、身体の形がないことを智恵の身と名づけるのじゃ。
 智恵の本性は身体であるから、法身は全てに遍満していると説いているのじゃ。
 
 心に従って十方世界の無量の菩薩、無量の報身、無量の飾り、おのおのが差別して、なおまた皆分際がなくてもお互いにその働きを妨げないように出来るのじゃ。
 これは心の認識や思考分別によって知ることが出来ないものなのじゃ。
 真如の自在の効用の意義であるからなのじゃ。

339避難民のマジレスさん:2022/04/13(水) 06:41:59 ID:7I2EyRWQ0

26.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号27-28)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号49-50)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第八 生滅門ヨリ眞如門ニ入ル

 復次顯示從生滅門即入眞如門所謂推求五陰色之與心六塵境界畢竟無念。以心無形相。十万求之終不可得。
 如人迷故謂東爲西方實不轉衆生亦爾。無明迷故謂心爲念心實不動。若能觀察知心無念。即得随順入眞如門故 

     復(また)次に、生滅門より眞如門に入ることを顯示す。所謂(いはゆる)、五陰を(すゐぐ)す 
    るに、色と心とになり。六塵の境界、畢竟じて念無し。心に形相(ぎゃうさう)無く、十方 
    (じっぱう)に之を求むるに、終(つひ)に不可得なるを以てなり。
     人の迷ふが故に、東を謂って西と爲すも、方は實に轉ぜざるが如し。衆生も亦爾(しか)り。 
    無明の迷(めい)の故に、心を謂って念と爲すも、心は實に動ぜず。若し能く觀察して、心は無
    念なりと知れば、卽ち随順して、眞如門に入ることを得るが故に。 

●解釈分第二 對冶邪執

 對冶邪執者。一切邪執皆依我見。若離於我則無邪執。是我見有二種
 云何爲二。一者人我見。二者法我見。

     對冶邪執とは、一切の邪執は、皆我見に依る。若し我を離るれば、則ち邪執無し。我見に 
    二種有り。
     云何が二と爲す。一には人我見、二には法我見。

 人我見者依諸凡夫説 五有種云何爲五

     人我見とは、諸の凡夫に依って、説に五種有り。云何が五と爲す。

○一者聞修多羅説如來法身畢竟寂寞。猶如虚空。以不知爲破着故。卽謂虚空是如來性云何對冶。明虚空相是其妄法。體無不實。以對色故。有是可見相。令心生滅。以一切色法。本來是心。實無外色。若無色者。則無虚空相所謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故
 
     一に、修多羅(しゅたら)に「如來の法身(ほっしん)は、畢竟寂寞(じゃくまく)なること、猶ほ 
    虚空の如し。」と説くを聞き、著(ぢゃく)を破せん爲なるを知らざるを以ての故に、卽ち虚空 
    は是れ如來の性なりと謂(をも)へり。
     云何が對冶するや。虚空の相は、是れ其の妄法、體無にして實ならざるを明す。色に対す
    るを以ての故に、是の可見の相有って、心をして生滅せしむ。一切の色法は、本來是れ心ん 
    なるを以て、實に外(げ)色無し。若し色無ければ、則ち虚空の相無し。所謂一切の境界は、唯 
    心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心に 
    して、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故 
    に。

(´・(ェ)・`)b

340鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 23:41:30 ID:1d4drIFg0

 また次に生滅門から真如門に入ることを示すのじゃ。
 いわゆる身体の五つの要素を求めれば、肉体と心になるのじゃ。
 六塵の境界はつまるところ観念はないのじゃ。
 心にも形や特徴はなく、十方に求めて得られないのじゃ。
 
 人が迷って東を西といったりしても、方角は変化したりしないようなものじゃ。
 衆生も同じなのじゃ。
 無明の迷いがあるから、心に観念が在ると思うのじゃ。
 
 しかし実際には心は動じることはなく、もしよく観察して心は観念がないと気付けば、
 すなわち直ぐにも真如門に入れるのじゃ。

341鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 23:58:24 ID:1d4drIFg0

 退治邪執なのじゃ。
 邪な執着を退治する教えなのじゃ。

 一切の邪執はみんな我見によるのじゃ。
 もし我を離れれば、すなわち我執もないのじゃ。
 
 その我見にも二種あるのじゃ。

 一つ目は人我見なのじゃ。

 二つ目は法我見なのじゃ。

 人我見とは、もろもろの凡夫によって五種あるのじゃ。

 一つ目は、経典に「如来の法身は、畢竟寂寞なること虚空の如し」
 と、説いているのを聞いて、それが執着をなくすための方便であることを知らず、
 すなわち虚空が如来の本性であると思うことなのじゃ。

 どのように退治すべきか。
 虚空の相は 妄想であり本体がないことを明かすのじゃ。
 肉体に対するものとして説かれただけであり、これを見るべきものがあるとして心を滅するための方便なのじゃ。
 一切の身体のありようは、ただ心によってあるものであり、心の外に肉体は無いのじゃ。
 
 もし身体がなければ、すなわち虚空にもなんの観念もないのじゃ。
 いわゆる一切の境界はただ妄想で起こるからあると思うのじゃ。
 もし心が妄想による動揺を離れれば、一切の境界も滅するのじゃ。
 唯一の真如の心があまねくあるだけなのじゃ。

 これを如来の広大なる性智究極の境地というのじゃ。
 虚空の相のような観念ではないのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2022/04/14(木) 00:04:26 ID:f1WT1MX60
27.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号28-29)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号50)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○二者聞修多羅説世間諸法畢竟體空乃至涅槃眞如之法亦畢竟空本來自空離一切相以不知爲破着故即謂眞如涅槃之性唯是空
 云何對冶明眞如法身自體不空具足無量性功徳故

     二に、修多羅に、「世間の諸法は、畢竟體空なり、乃至涅槃・眞如の法も、亦畢竟空なり。
    本來自空にして一切の相を離る」と説くを聞き、著(ぢゃく)を破する爲と知らざるを以ての故 
    に、卽ち眞如涅槃の性は唯是れ空なりと謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。眞如法身は、自體不空にして、無量の性功徳を具足すると明かすが故 
    に。

○三者聞修多羅。説如來之藏。無有増減體備一切功徳之法。以不解故。即謂如來之藏。有色心法自性差別
 云何對冶以唯依眞如義説故。因生滅染義。示現説差別故。

     三に、修多羅に、「如來の藏は、増減有ること無く、體に一切功徳の法を備ふ」と説くを聞 
    き、解(げ)せざるを以ての故に、卽ち如來の藏は、色心の法の自相差別有りと謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。唯眞如の義に依って説くを以ての故に。生滅染の義に因って、示現す 
    るを、差別と説くが故に。

○四者聞修多羅。説一切世間生死染法。皆依如來藏而有一切諸法不離眞如。以下解故。謂如來藏自體具有一切世間生死等法。云何對冶。依如來藏從本己來。唯有過恒沙等諸浄功徳不離不斷不異眞如義故。以過恒沙等諸煩悩染法。唯是妄有性自本無。從無始世來未曾與如來藏相應故。若如來藏體有妄法。而使 曾永息妄者。則無有是處。

     四に、修多羅に、「一切の世間生死の染法は、皆如來藏に依ってり、一切の諸法は、眞如を
    離れず」と説くを聞き、解せざるを以ての故に、如來藏自體に、一切世間の生死等の法を具有 
    すると謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。如來藏は、本より巳來(このかた)、唯過恆沙(ごうじゃ)等の諸の浄功徳 
    の、不離・不斷・不異の眞如の義有るを以ての故に、過恒沙等の、煩悩の染法は、唯是れ妄 
    有(まうう)にして、性自(おのづか)ら本(もと)無なり。無始世(せ)より來(このかた)、未だ曾 
    (かつ)て如來藏と相應せざる以ての故に。若し如來藏の體に妄法有って、而も證曾(しょう 
    ゑ)して永く妄を息(や)めしめば(しむといはば)、則ち是の處(ことわり)有ること無し。

(´・(ェ)・`)b

343鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 00:31:44 ID:1d4drIFg0

 二つ目は経典に「世間のもろもろの法はみんな空である。
 涅槃や真如の法もまたつまるところ空である。本来自ら空であり一切の相を離れている」
 と、説いているのを聞いて、それが執着を破るためと知らずに、真如、涅槃の本性も空と思うことなのじゃ。

 これを退治するには、真如法身は自体、不空にして、無量の本性の功徳があると説くことじゃ。

 三つ目は経典に「如来蔵は、増減あることなく、本体に一切功徳の法を備えている」
 と、説いているのを聞いて理解できず、如来蔵は心身の法の自相に差別ありと思うこと無しの゛ゃ。

 これを退治するには、ただ真如の本当の意味を説くことじゃ。
 生滅染の義に因って現われることが差別と説くのじゃ。

 四つ目は経典に「一切の世間生死の染法は、皆如来蔵に依る。
 一切の諸法は真如を離れず」
 と、説いているのを聞き、理解できずに、如来蔵自体に、一切世間の生死等の法を具え持つと思うことじゃ。

 これを退治するには、如来蔵はもとよりこのかた、ただガンジス川の砂より多いもろもろの清浄な功徳の不離・不斷・不異の眞如の意義が在ると説くことじゃ。
 ガンジス川の砂より多い煩悩の染法は、ただこれ妄想であると思われているだけで、その本性は自ずからもともと無なのじゃ。
 始まりもない昔から今まで、煩悩の染法は未だかつて如来蔵と相応じたことはないのじゃ。
 もし如来蔵の本体に妄想の法があって、それを消して永く続いている妄想をやめさせようとするならば、この理がないと説くのじゃ。

344避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 08:11:57 ID:LnLW7KMw0
28.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号29-30)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号50-51)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○五者聞修多羅。説依如來藏故有生死依如來藏故。得涅槃。以不解故謂衆生有始以見始故。復謂如來所得涅槃有其終盡還作衆生。
 云何對冶。以如來藏無前際故。無明之相亦無有始。若説三界外更有衆生。始起者即是外道經説。又如來藏無有後際。諸佛所得涅槃與之相應則無後際故。

     五に、修多羅に、「如來藏に依るが故に生死有り、如來藏に依るが故に涅槃を得(う)」と説く 
    を聞き、解せざるを以ての故に、衆生に始有りと謂へり。始を見るを以ての故に、復(また)如 
    來所得の涅槃は、其の終盡(じうじん)有って、還って衆生と作(な)るっと謂(をも)へり。
     云何が對冶するや。如來藏は前際無きを以ての故に、無明の相も亦始有ること無し。若し 
    三界の外(ほか)、更に衆生有って、始めて起ると説かば、卽ち是れ外道經の説なり。又如來藏
    は、後際(ごさい)有ること無く、諸佛所得の涅槃も之と相應して、則ち後際無きが故に。

 法我見者。二乘鈍根故如來但爲説人無我。以説不究竟。見有五陰*生滅之法。怖畏生死妄取涅槃。
 云何對冶。以五陰法自性不生。則無有滅本來涅槃故。

     法我見とは、二乘の鈍根に依るが故に如來は、但爲めに、人無我(にんむが)と説く(きたま
    ふ)。説、不究竟(くきゃう)せざるを以て、五陰(ごおん)*生死の法有りと見て、生死を怖畏し、    妄(みだり)に涅槃を取る。
     云何が對冶するや。五陰の法は、自性不生なるを以て、則ち滅有ること無し。本來涅槃な
    るが故に。

○復次究竟離妄執者。當知染法浄法皆悉相待無有。自相可説。是故一切法從本巳來非色非心。非智非識。非有非無畢竟不可説相。
 而有言説者當知如來善巧方便。假以言説引導衆生。其旨趣皆爲離念歸於眞如。以念一切法。令心生滅不入實知故。

     復(また)次に、究竟(くきゃう)して妄執を離るとは、當(まさ)に知るべし、染法・浄法・皆  
    悉(ことごと)く相待して、自相の説くべき有ること無し。是の故に、一切の法は、本より巳來 
    (このかた)、色に非ず、心に非ず、智に非ず、識に非ず。有に非ず、無に非ず。畢竟じて不可
    説の相なり。
     而も言説有るは、當(まさ)に知るべし、如來の善巧方便、假(かり)に言説を以て衆生を引導 
    す。其の旨趣は、皆念を離れて眞如に歸せしめんが爲なり。一切の法を念ずれば、心をして 
    生滅して、實知に入らざらしむるを以ての故に。

(´・(ェ)・`)b

345鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 21:42:48 ID:1d4drIFg0

 五つ目は経典に「如来蔵に依って生死あり、如来蔵に依って涅槃を得る」
 と、説いているのを聞いて、理解できずに衆生に始まりが在ると思うことじゃ。
 衆生に始まりがあるから、如来が得る涅槃も終わりがあって、また還って衆生となると思うのじゃ。
 
 どのように退治すべきか。
 如来蔵は過去の限界がなく、無明の相もまた始めがないと説くのじゃ。
 もし三界の外に更に衆生があって、始めて起こると説くならば外道の説なのじゃ。
 また如来蔵には時間に縛られたものではないから永遠であり、諸仏の得た涅槃もまた永遠なのじゃ。

346鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 21:53:20 ID:1d4drIFg0

 法我見とは二乗の鈍根によるが故に、如来は人無我と説いたのじゃ。
 その説を究めていないから、五陰、生死の法があると見て、生死を恐れて妄りに涅槃をとるのじゃ。

 どのように退治するのか。
 五陰の法は自性不生であって滅もないのじゃ。
 本来涅槃であるからなのじゃ。

 また次に究竟して妄執を離れるとは、染法・浄法は皆ことごとくもって、しかも自相の説くべきことが無いとしるのじゃ。
 このゆえに一切の法は、もとよりこのかた色に非ず、心に非ず、智に非ず、識に非ず。有に非ず、無に非ずなのじゃ。
 つまり説くことができない相なのじゃ。

 それでも言説によって教えるのは、如来の巧みな方便であると知るべきなのじゃ。
 仮に言説で衆生を導いているだけなのじゃ。
 その趣旨はみんな観念を離れて、真如に還らせるためなのじゃ。
 一切の法を念じれば、心を生滅して、実際の智恵に入れるからなのじゃ。

347避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 22:34:18 ID:2AWfcS4w0

29.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号30-31)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号52)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲解釋分第三 分別發趣道相  

 分別發趣道相者謂一切諸佛諸所證道。一切の菩薩發心修行趣向義故
 略説發心有三種云何爲三。
 一者信成就發心。
 二者解行發心。
 三者證發心。

    分別發趣道相者謂う一切の諸佛諸證の道に、一切の菩薩發心修行して趣向する義の故に。
    略して發心を説くに、三種有り。云何が三と爲す。
    一には信成就發心。
    二には解行(げぎゃう)發心。
    三には證發心。

信成就發心者。依何等人。修何等行。得信成就堪能發心。

     信成就發心とは、何等(ら)の人に依り、何等の行を執し、信成就することを得て、能く發心 
    に堪ふるや。

 所謂依不定聚衆生。有薫習善根力故。信業果報。能起十善。厭生死苦。欲求無上菩薩。得値諸佛。親承供養。修行信心。經一萬劫。信心成就故。諸佛菩薩敎令發心。或以大悲故能自發心。或因正法欲滅。以護法因緣故能自發心。如是信心成就得發心者。入正定聚。畢竟不退。名住如來種中。正因相應。

     所謂、不定聚(ふじゃうじゅ)の衆生に依る。薫習と善根力と有るが故に、業の果報を信じ、 
    能く十善を起こし、生死(しょうじ)の苦厭(いと)ひ、無上菩薩を欲求(よくぐ)し、諸佛に値 
    (あ)ふることを得て、親承し供養(くやう)して、信心を修行す。一萬劫を經て、信心成就する
    が故に、諸佛菩薩、敎へて發心せしめ、或ひは大悲を以ての故に、能く自(みづか)ら發心し、 
    或は正法を滅せんと欲するに因って、護法の因緣を以ての故に、能く自ら發心す。是くの如
    く信心成就して發心を得(う)る者は、正定聚(じゅ)に入りて、畢竟じて退かざれば、如來の種
    中(しゅぢう)に住し、正因相應すと名づく。

 若有衆生善根微少。久遠巳來。煩悩深厚雖値於佛。亦得供養。然起人天種子。或起二乘種子。設有求大乘者。根則不定。若進若退。或有供養諸佛。未經一萬劫。於中遇緣亦有發心。所謂見佛色相而發其心。或因供養衆僧。而發其心。或因二乘之人敎令發心。或學他發心。如是等發心悉皆不定遇悪因緣
或便退失堕二乘地。

     若し衆生有って、善根微少(みせう)にして、久遠より巳來(このかた)、煩悩深厚(じんこう) 
    なれば、佛に値(あ)ひて亦供養することを得と雖も、然も人天(にんてん)の種子(しゅじ)を起 
    こし、或は二乘の種子を起こす。設(たと)ひ大乘を求むるものあるも、根(こん)則ち不定にし 
    て、若しは進み若しは退く。或ひは諸佛を供養すること有るも、未だ一萬劫を經ず。中(うち)
    に於て緣に遇ふて、亦發心すること有り。所謂、佛の色相を見て、其の心を發(おこ)し、或は 
    衆僧を供養することに依って、其の心を發(おこ)し、或ひは二乘の人の敎令(けうりゃう)に 
    因って發心し、或は他を學びて發心す。是の如き等の發心は悉(ことごと)く皆不定にして、遇
    悪因緣に遇はば、或は便(すなは)ち退失して、二乘地(ぢ)に堕す。

(´・(ェ)・`)b

348鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 00:58:04 ID:1d4drIFg0

 一切の諸仏が証明した發趣道相の者を分別して説くのじゃ。
 一切の菩薩が発心し、修行の役に立つように、略して説くのじゃ。
 
 その発心にも三種あるのじゃ。
 その三つとは、

 一つ目が信成就発心なのじゃ。

 二つ目は解行発心なのじゃ。

 三つ目は證発心なのじゃ。

 一つ目の信成就発心の者はどのような人に依り、どのような修行をして、信成就を得て、発心に堪えるのか。

 いわゆる不定聚の者、聖人でもなく悪人でもない人の発心なのじゃ。
 薫習と善根力とが有るから、善の果報を信じて十善を実践して、生死の苦を厭い、無上の菩薩を欲求して、諸仏にあって親しく供養して信心修行するのじゃ。
 一万劫も修行して信心が成就するから、諸仏菩薩は教えて発心させるのじゃ。
 或いは大きな悲しみの故に自ら発心するとか、正法を滅する者から法を守るために自ら発心するのじゃ。

 このように信心成就して発心する者は、不定聚から正定聚の不退転の菩薩になるのじゃ。
 さらに修行して進歩すれば、如来になる予定の者ともなるのじゃ。

349鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 01:05:08 ID:1d4drIFg0

 もし衆生が善根がすくなく、遠い昔から煩悩が厚ければ、仏にあって供養しても、人や天人になるか、二乗のものになるのじゃ。
 たとえ大乗を求める者があっても、根性が不定であるから修行も進んだり退いたりするのじゃ。
 あるいは諸仏を供養しても、まだ一万劫にもならないのじゃ。
 
 修行するうちに縁があってまた発心することもあるのじゃ。
 いわゆる仏の身体をみて発心するとか、僧侶を供養することで発心するとか、あるいは二乗の人に教えられて発心すると、他の教えで発心するとかなのじゃ。
 このような発心は、ことごとくみんな不定であり、たまたま悪因縁にあえば、大乗から退いて二乗になるのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2022/04/17(日) 05:50:20 ID:FI52RlnM0
30.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号31-32)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 復次信成就發心者。發何等心。 略説三種。云何爲三。
 一者直心。正念眞如法故。
 二者深心。樂集一切諸善行故。
 三者大悲心。欲抜一切衆生苦故。

     復(また)次に、信成就發心とは、何等の心を發(おこ)すや。 略して説くに三種有り。云何
    が三と爲す。
     一には直心(ぢきしん)。正しく眞如の法を念ずるが故に。
     二には深心(じんしん)。一切諸の善行を樂集(げうじふ)するが故に。
     三には大悲心。一切衆生の苦を抜かんと欲するが故に。

 問曰上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行

     問曰上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行

答曰譬如大摩尼寶。體性明浄。而有鑛穢之垢。若人雖念寶性。不以方便種種磨治。終無得浄。如是衆生。眞如之法。體性空浄。而有無量煩悩染垢。若人雖念眞如。不以方便種種薫修。亦無得浄。以垢無量無邊徧一切法故。修一切善行。以爲對治。若人修行一切善法。自然歸順眞如法。故
畧説方便有四種。云何爲四。

     答へて曰はく、大摩尼寶の、體性は明浄なるも、而も鑛穢(くわうゑ)の垢(く)有り。若し人 
    寶性を念ずると雖も、方便を以て種種磨治(まぢ)せずんば、終に無浄を得(う)ること無きが如
    し。是くの如く、衆生の眞如の法も、體性は空浄なるも、而も無量の煩悩染垢(ぜんく)有り。
    若し人、眞如を念ずると雖も、方便を以て、種種薫修せずんば、亦浄を得ること無し。垢(く) 
    は無量無邊にして、一切の法に徧ずるを以ての故に、一切の善行を修して、以て對法と爲す。
    若し人、一切の善法を修行せば、自然に眞如の法に歸順するが故に。
     略して方便を説くに四(し)種有り。云何が四(し)と爲す。
(´・(ェ)・`)b

351鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 23:58:42 ID:1d4drIFg0

 また次に信成就発心とは、どのような心を発するのかというのじゃ。
 略説して三種あるというのじゃ。

 一つ目は直心なのじゃ。
 正しく真如の法を念じる心なのじゃ。

 二つ目は深心なのじゃ。
 一切のいろいろな善行を実践するのじゃ。

 三つ目は大悲心なのじゃ。
 一切衆生の苦をなくすそうとする心なのじゃ。

 ここでまた聞いたのじゃ。

 上記に法界は一相であり、仏体は無二と説いているのじゃ。
 なぜただ真如を念じるのではなく、またいろいろな善行を求め学ぶべきなのか。

352鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 00:07:04 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 例えばでかい宝石の原石が本体は明るく清浄でも、まわりに石の滓とかがついていたとするのじゃ。
 もし人がその宝石の本来の性質を知っていても、いろいろな方法で磨かなかったら清浄にはならないようなものじゃ。

 このように衆生の真如の法も、体性は空で清浄であっても、無量の煩悩に染められた垢が在るのじゃ。
 そのような人が真如だけを念じても、方便でいろいろに薫修しなければ、清浄にはなれないのじ゜ゃ。
 そのような垢は無量無辺であり、一切の法にも遍くあるので、一切の善行を実践して対処するべきなのじゃ。
 もし人が一切の善法を実践すれば、自然に真如の法にも帰順することになるのじゃ。
 
 そのような方便を略して説けば、四種在るのじゃ。
 その四つとは。

353避難民のマジレスさん:2022/04/18(月) 02:27:07 ID:ETadziFU0
31.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号32-33)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53-54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○一者行根本方便 謂觀一切法自性無生。離於妄見。不住生死。觀一切法。因緣和合業果不失起於大悲。修諸福徳。攝化衆生不住涅槃以随順法性無住故。

     一には行根本方便。謂はく、一切の法は、自性無生と觀じ、妄見を離れて、生死に住せず。    一切の法、因と緣と和合し、業果失(う)せずと觀じ、大悲を起こし、諸の福徳を修し、衆生を
    攝化(せっけ)して、涅槃に住せず、法性の無住に随順するを以ての故に。。

○二者能止方便 謂慚愧悔過能止一切悪法。不令増長。以随順法性離諸過故

     二には能止(のうし)方便。 謂はく、慚愧悔過(けくわ)して、能く一切の悪法を止(とど)め
    て、増長せしめず。法性の、諸過を離るるに随順するを以ての故に。

○三者發起善根増長方便 謂勸供養禮拝三寶讃歎隋喜勸請諸佛。以愛敬三寶淳厚心故。信得増長。乃能志求無上之道。僧力所護故能消業障善根不退。以随順法性離痴障故。

     三には發起善根(ぜんごん)増長方便。謂はく、勸めて三寶を供養し禮拝(らいはい)し、諸佛 
    を讃歎(さんだん)し隋喜(ずゐき)し勸請(くわんじゃう)し、三寶を愛敬(あいぎゃう)する淳厚 
    (じゅんこう)の心を以ての故に。信は増長することを得(え)、能く無上の道(だう)を志求(し
    ぐ)ず。又佛法僧の力(ちから)に護せらるるに因るが故に、能く業障を消(せう)し、善根退(し 
    りぞ)かず。法性の、痴障を離るるに随順するを以ての故に。

○四者大願平等方便 所謂發願盡於未來化度一切衆生使無有餘皆令究竟無餘涅槃。以随順法性無斷絶故。法性廣大徧一切衆生。平等無二。不念彼此究竟寂滅故

     四には大願平等方便。所謂、發願(ほっぐわん)し、未來を盡くして、一切衆生を化度(けど)
    し、餘(あまり)有ること無からしめて、皆究竟(くきゃう)じて無餘涅槃せしむ。法性(ほっ
    しょう)斷絶無きに随順するを以ての故に。法性廣大にして、一切の衆生に徧して、平等無二 
    なり。彼此(ひし)を念ぜず、究竟寂滅の故に
(´・(ェ)・`)b

354鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:37:46 ID:1d4drIFg0

 一つ目は行根本方便なのじゃ。

 一切の法は自性無生と観て、妄見を離れて生死の俗世から離れるのじゃ。
 一切の法は因と縁が和合して、業の結果を生みだすと観るのじゃ。
 大慈悲を起こしていろろいな福徳を修めて、衆生を集めて教化して、涅槃にいかないのじゃ。
 法性が無住であることに随っているからなのじゃ。

 二つ目は能止方便なのじゃ。
 
 慙愧悔過して能く一切の悪法を止めて、増長させないからなのじゃ。
 法性がもろもろの過を離れていることに随っているのじゃ。

 三つ目は発起善根増長方便なのじゃ。

 仏と法と僧の三宝を供養し礼拝することに勤めてるのじゃ。
 諸仏を賛嘆し、喜び、教えを請い、三宝を愛敬することが厚い心を持っているからなのじゃ。
 信心が増長して、無上の道を志して求めるのじゃ。
 また仏法僧の力に護られるから、業の障害を消すことができて、善根も進んでいくだけなのじゃ。
 法性が愚痴の障害を離れることに随っているからなのじゃ。

355鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:43:07 ID:1d4drIFg0

 四つ目は大願平等方便なのじゃ。

 未来の尽きるまで一切衆生を残らず教化して、みんな無余涅槃に導くと発願するからなのじゃ。
 法性が断絶しないことに随っているからなのじゃ。
 
 法性は広大にして、一切衆生にもあまねく満ちて平等で一つであるからなのじゃ。
 自分とか他人とかの観念も無く、究境寂滅であるからなのじゃ。

356避難民のマジレスさん:2022/04/19(火) 15:49:10 ID:64/cpPPY0
32.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号33-34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 菩薩發是心故則得少分見於法身。以見法身故随其願力。能現八種。利益 衆生。所謂從兜率天。退人胎住胎出家成道轉法輸入於涅槃

     菩薩、是の心を發(おこ)すがに、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に、    其の願力に随ひ、能く八種を現じて、衆生を利益す。所謂、兜率天(とそつてん)より、退し、      
    人胎(にったい)・住胎(ぢうたい)し、出家成道して、法輸を轉じ、涅槃に入る。

 然是菩薩未名法身以其過去無量世來有漏之業。未能決斷。随其所生與微苦相應。亦非業繫。以有大願自在力故

     然れども、是の菩薩は、未だ法身(ほっしん)と名づけず。其の過去無量世來(このかた)有漏 
    の業、未だ能く決斷せず、其の所生(しょしゃう)に随って、微苦(みく)と相應す。亦業繫(ご 
    うけ)に非ず。大(だい)願自在力有るを以ての故なり。

 如修多羅中 或説有退堕悪趣者非其實退。但爲初學菩薩未入正位而懈怠者恐怖令彼勇猛故

     修多羅の中(うち)に、或(あるひ)は悪趣に退堕する有りと説く如きは、其の實退に非ず。但 
    (ただ)初學の菩薩、未だ正位に入らずして、懈怠するを、恐怖(くふ)せしめ、彼をして勇猛 
    (ゆうみゃう)ならしめん爲の故なり。

 又是菩薩一發心後遠離怯弱畢竟不畏堕二乘地。若聞無量無邊阿僧祇劫勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱以信知一切怯從本巳來自涅槃故

     又此の菩薩、一たび發心して後は、怯弱(こにゃく)を遠離(をんり)し、畢竟じて二乘地に堕 
    するを畏れず、又無量無邊阿僧祇劫に、勤苦(ごんく)難行して、乃(すなは)ち涅槃を得と聞く 
    も、亦怯弱(こにゃく)ならず。一切の法は、本より巳來(このかた)自(おのずか)ら涅槃なりと 
    信知するを以ての故なり。
(´・(ェ)・`)b

357鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 00:07:41 ID:1d4drIFg0

 このような方便を持つことのできる菩薩は、少し法身を見ることができるのじゃ。
 法身を観ることができるから、その願力に従って、八種の如来の生涯のできごとを表して衆生を助けられるのじゃ。
 その八種とは、兜卒天から降りて、胎に入り、胎の中で成長して、生まれて、出家して、悟りを得て、法輪を転じて、涅槃に入るのじゃ。
 
 しかしこのような菩薩もまだ法身とは名づけられないのじゃ。
 その過去の無量の生の有漏の業はまだ断たれておらず、その生まれに従って僅かな苦をうけるのじゃ。
 
 それは業に縛られたからではないのじゃ。
 大願自在法力があるからなのじゃ。

 経典の中に、或いは悪趣に堕ちる者もあると、説いているのは実は堕ちたのではないのじゃ。
 ただ初学の菩薩でまだ、正式な道に入っておらず怠ける者がいるから恐れさせて勇猛にさせるためなのじゃ。

 またこの菩薩は、一度発心して後には怯弱を厭離して、二乗に堕ちることを恐れないのじゃ。
 また無量無辺阿曽祇劫という長年月も実践修行して、涅槃を得ても怯弱ではないのじゃ。
 一切の法はもとよりこのかた、自ら涅槃で在ると信じ、知っているからなのじゃ。

358避難民のマジレスさん:2022/04/20(水) 00:12:28 ID:KBYeStX60
33.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○解行發心者當知轉勝。以是菩薩。從初正信巳來。於第一阿僧祇劫將欲滿故。於眞如法中。深解現前所修離相。

     解行(げぎゃう)發心とは、當(まさ)に知るべし、轉(うた)た勝(しょう)なり。是の菩薩は、 
    初(しょ)の正信(しょうしん)より巳來(このかた)、第一阿僧祇劫に於いて、將(まさ)に滿ぜん
    と欲するを以ても故に、眞如の法中に於て、深解(じんげ)現前して、所修、相を離る。
 
 以知法性體無慳貪故。随順修行檀波羅蜜

     法性の體は、慳貪(けんどん)無しと知るを以ての故に、随順して檀波羅蜜を修行す。

 以知法性無染離五欲過故。随順修行。修行尸羅波羅蜜。    

     法性は染無くして、五欲の過を離ると知るを以ての故に、随順して尸(し)羅波羅蜜を修行す。

 以知法性無垢離瞋悩故随順修行羼提波羅蜜

     法性は苦無く、瞋悩(しんなう)を離(はな)ると知るを以ての故に、随順して羼提(せんだい)
    波羅蜜を修行す。

 以知法性無身心相離懈怠故随順修行。毘黎耶波羅蜜

     法性は身心の相無く、懈怠を離ると知るを以ての故に、随順して毘梨耶(びりや)波羅蜜を修
    行す。

 以知法性常定體無亂故随順修行禪波羅蜜

     法性は常に定にして、體に亂無しと知るを以ての故に、随順して修行禪波羅蜜を修行す。 

 以知法性體明離無明故。随順修行般若波羅蜜

     法性は體明(あきらか)にして、無明を離ると知るを以ての故に、随順して般若波羅蜜を修行  
    す。
 (´・(ェ)・`)b

359鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 23:52:53 ID:1d4drIFg0

 解行発心とはとても優れた発心なのじゃ。
 このような発心を持つ菩薩は、初心で正しい信仰を持ち、一あそぎ劫で修行を終えようとするのじゃ。
 それ故に真如の法の中において深く理解して、観念の相を離れるのじゃ。

 法性の本体はけちくさいものではないから、それに随って布施の完成を修行するのじゃ。

 法性は染がないから、五欲の過ちを離れていると知って、それに随って戒の完成を修行するのじゃ。

 法性は苦がなく、怒りや悩みも離れていると知っているから、それに随って忍耐の完成を修行するのじゃ。

 法性は心身の観念がなく、怠けることもないと知っているから、それに随って精進の完成を修行するのじゃ。

 法性は常に定であり、本体に乱れがないと知って、それに随って禅定の完成を修行するのじゃ。

 法性は本体が明らかであり、無明を離れていると知って、それに随って智恵の完成を修行するのじゃ。

360避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 00:11:44 ID:oV2MQ03.0
34.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34-35)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55-56)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○證發心者。從浄心地乃至菩薩究竟地。證何境界。所謂眞如。以依轉識説爲境界。而此證者。無得境界。唯眞如智名爲法身

     證發心とは、浄心地より、乃至菩薩究竟地に至までなり。何の境界を證するや。所謂、眞 
    如なり。轉識に依るを以て、説いて境界と爲す。而も此の證は、境界有ること無し。唯眞如
    智のみ。名づけて法身と爲す。
     
 是菩薩一於念頃。能至十方無餘世界。供養諸佛請轉法輪。唯爲開導利益衆生。不依文字。或示超地。速成正覺。以爲怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫。當成佛道以爲懈慢衆生故能示如是無數方便不可思議    

      是の菩薩、一念の頃(あひだ)に於て、能く十方無餘の世界に至って、諸佛を供養し、轉法 
     輪を請(しょう)す。唯(ただ)衆生を開導し利益(りやく)せんが爲なり。文字に依らず。」或ひ
     は地(ぢ)を超えて速に正覺を成(じょう)ずと示す。怯弱(こにゃく)の衆生の爲なるを以ての
     故なり。」或ひは無量阿僧祇劫に於て、當に成佛すべしと説く。懈慢の衆生の爲なるを以て
     の故なり。」能く是くの如き無數(むしゅ)の方便を示すこと、不可思議なり。

 而實菩薩種性根等發心即等所證。亦等無得超過之法。以一切菩薩皆經三阿僧祇劫故。
 但随衆生世界不同。所見所聞根欲性異故示。所行亦有差別

     而も實に菩薩の種性(しゅしゃう)は、根等しく、發心卽ち等しく、所證も亦等しくして、超 
    過(てうくわ)の法有ること無し。一切の菩薩は、皆三阿僧祇劫を經(ふ)るを以ての故に。
     但随衆生の世界同じからず、所見・所聞・根・欲・性異なるに随ふが故に、所行を示すこ 
    とも亦差別有り。

 又是菩薩發心相者。有三種心微細之相云何爲三。
 一者眞心無分別故。
 二者方便心自然徧行利益 衆生故。
 三者業識心。微細起滅故

     又是の菩薩の發心の相には、三種の心微細(みさい)の相有り。云何が三と爲す。
     一には眞心。分別無きが故に。
     二には方便心。自然に徧(あまね)く行じて、衆生を利益 するが故に。
     三には業識心。微細(みさい)に起滅するが故に。

 又是菩薩功徳成滿於色究竟處。示一切世間最高大身。
 謂以一念相應慧無明頓盡名一切種智自然而有不思議業能現十方利益衆生。

     又是の菩薩は、功徳成滿(じゃうまん)して、色究竟(しきくきゃう)處に於いて、一切世間の 
    最高大の身(しん)を示す。
     謂はく、一念相應の慧(ゑ)を以て、無明頓(とん)に盡くるを、一切種智と名づく。自然にし 
    て不思議の業有り、能く十方に現じて、衆生を利益す。

 (´・(ェ)・`)b

361鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/21(木) 23:34:26 ID:1d4drIFg0
 証発心とは、浄心地より、菩薩の最後の境地に至るまで持つものじゃ。
 何の境界を証明するのか。
 いわゆる真如なのじゃ。
 転識によるから境界にすると説いているのじゃ。
 しかもこの証明は境界がないのじゃ。
 ただ真如の智恵だけなのじゃ。
 法身と名づけるのじゃ。

 このような菩薩は一念の間に、十方の世界に至る事が出来て、諸仏を供養して転法輪を請うこともできるのじゃ。
 ただ衆生を導いて、利益するためなのじゃ。
 文字によらず、或いは境地を超えて、速やかに正覚を得られると示すのじゃ。
 怯弱な衆生のためなのじゃ。

 あるいは無量あそぎ劫において成仏すると説くこともあるのじゃ。
 怠けて慢心している衆生のためなのじゃ。
 このように不可思議の無数の方便を示すことが出来るのじゃ。

362鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/21(木) 23:47:33 ID:1d4drIFg0

 しかも実は菩薩の本性の根幹は等しく、発心も等しく、証も等しいものであり、過ぎたりするところもないのじゃ。
 一切の菩薩は皆、あそぎ劫において成仏するが故に。

 ただ衆生の世界が同じではなく、見る所や、聞く所や、六根や欲や本性が異なるが故に、菩薩の所業もまた差別があるだけなのじゃ。
 またこの菩薩の発心の相にはまた三種の心の微細な相があるのじゃ。

 その三つとは、

 一つ目は真心なのじゃ。
 分別がないからなのじゃ。

 二つ目は方便心なのじゃ。
 自然に遍く修行して、衆生を利益するからなのじゃ。

 三つ目は業識心なのじゃ。
 微細に起こり滅するからなのじゃ。

 またこのような菩薩は功徳が満ち足りていて、色究境所においても、一切世間の最高大の身を示すのじゃ。
 一切相応する智恵をもって、無明を瞬時に滅するのを一切種智と名づけるのじゃ。
 自然にして不可思議な技をもっているのじゃ。
 十方に現れることが出来て、衆生に利益を与えるのじゃ。

363避難民のマジレスさん:2022/04/22(金) 17:05:55 ID:xzr0rbR60
35.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号36.)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号56-57)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲一切種智ノ問答

 問曰虚空無邊故。世界無邊。世界無邊故。衆生無邊。衆生無邊故。心行差別亦復無邊。如是境界不可分齊。難知難解。若無明斷。無有心想云何能了名一切種智

     問うて曰はく、虚空無邊なるが故に、世界無邊なり。世界無邊なるが故に、衆生無邊なり。衆生無邊なるが
故に、心行の差別も亦復(またまた)無邊なり。是くの如く、境界は分齊すべからず。知り難く解(げ)し難し。若し無
明斷ぜば、。心想有ること無し。云何ぞ能く了するを一切種智と名づくるや。
 
 答曰一切境界本來一心。離於想念以衆生妄見境故。心有分齊。以妄起想念。不稱法性故不能決了。

     答へて曰はく、一切の境界は、本來一心にして、想念を離る。以衆生妄(みだり)に境界を見るを以ての故に、
心に分齊(ぶんざい)有り、妄(みだり)に想念を起こし、法性(ほっしょう)に稱(かな)はざる以ての故に、決了する能
(あた)はず。

 諸佛如來。離於見想無所不徧心。眞實故即是諸法之性。自然顯照一切妄法有大智用無量方便随諸衆生所
應得解。皆能開示種種法義是故得名一切種智

     諸佛如來は、見想を離れて、徧せざる所無し。心、眞實の故に(なるが故なり)。卽ち是れ諸法の性(しゃう)な
り。自體〔は〕一切の妄法を顯照し、有大智用(ゆう)・無量の方便有り。諸の衆生、應(まさ)に解(げ)を得べき所
に随って、皆能く種種の法義を開示す。是の故に、一切種智と名づくるを得。

▲自然業智ノ問答

 又問曰。若諸佛有自然業。能現一切處。利益衆生者一切衆生。若見其身。若覩神變若聞其説無不得利云何世間多不能見。

     又問うて曰はく、若し諸佛に、自然業有り、能く一切處に現じ、衆生を利益(りやく)せば、一切の衆生、若しは
其の身を見、若しは神變を覩(み)、若しは其の説を聞いて、利を得ざること無けん。云何ぞ、世間多く見ること能
(あた)はざるや。

 答曰。諸佛如來法身平等徧一切處。無有作意故而説自然但依衆生心現衆生心者。猶如於鏡。鏡若有垢色像。不現如是衆生心。若有垢法身不現故

     答へて曰はく、諸佛如來の法身は、平等に一切處に徧じて、作意(さい)有ること無きが故に、自然と説く。但
衆生の心(しん)に依って現ず。衆生心は、猶ほ鏡の如し。若し垢有れば、色像は現ぜず。是くの如く、衆生の心
も、若し垢有れば、法身は現ぜざるが故に。

 (´・(ェ)・`)b

364鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 00:11:58 ID:1d4drIFg0
 また聞いたのじゃ。
 
 虚空は無辺であるから、世界も無辺なのじゃ。
 世界が無辺であるから、衆生界も無辺なのじゃ。
 衆生界が無辺であるから、観念の差別もまた無辺なのじゃ。

 このように境界は量る事ができないものじゃ。
 知り難く、理解もし難いものじゃ。
 もし無明が断たれれば、観念はないのじゃ。
 とのようにして全てを知ることを、一切を知ることのできる智恵と名づけられるのか。

 答えたのじゃ。

 一切の境界は本来一心であり、観念を離れたものじゃ。
 衆生は妄りに境界を見るから、心に量ることも在るのじゃ。
 妄りに観念を起こして、法性に適合しないから、理解も出来ないのじゃ。

 諸仏如来は観念を離れて、遍く存在するのじゃ。
 真実であるからなのじゃ。
 それがすなわち諸法の本性なのじゃ。
 
 自体は一切の妄法を明らかにして、大智恵の用いる無量の方便があるのじゃ。
 もろもろの衆生が理解できるように、いろいろに法の意味を開き示すのじゃ。
 この故に一切種智と名づけられるのじゃ。

365鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 00:23:02 ID:1d4drIFg0
更に又聞いたのじゃ。

 諸仏に不可思議な技があるというのじゃ。
 一切の場所に現われて、衆生に利益を与える事が出来るのじゃ。
 姿を現してみせたり、神通力を見せたり、説法したりすれば衆生は必ず利益を得るじゃろう。
 世間ではそのようなことを聞かないのはなぜなのか。

答えたのじゃ。

 諸仏如来の法身は、平等に一切の場所に遍く在り、作意がないから自然と説くのじゃ。
 ただ衆生の心によって現われるのじゃ。

 衆生の心は鏡のようなものじゃ。
 もし鏡に汚れた垢があれば何も写らず形は現われないのじゃ。
 衆生の心も同じく、心に垢があれば、仏も現われないのじゃ。

366避難民のマジレスさん:2022/04/23(土) 00:30:03 ID:Dnnbff0c0
36.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号37)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号57-58)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

●正宗五分第四 修行信心分

 巳説解釋分。次説修行信心分。
 是中依未入正定聚衆生故。説修行信心。
 何等信心云何修行。
 畧説信心。有四種云何爲四(上來ハ大乘ヲ明シ今ハ正シク起信ヲ明ス)

      巳(すで)に解釋分を説けり。次に修行信心分を説かん。
      是の中(うち)、未だ正定聚(じう)に入らざる衆生に依るが故に、修行信心を説く。
      何等の信心を、云何が修行するや。
      略して信心を説くに、四(し)種有り。云何が四と爲す。

●四種ノ信心 

 一者信根本。所謂樂念眞如法故。

     一には、根本を信ず。所謂、眞如の法をするが故に。

 二者信佛有無量功徳常念親近供養恭敬發起善根。願求一切智故

     二には、佛に無量の功徳有りと信じ、常に念じて、新近(しんごん)し、供養し、恭敬(くぎゃう)して、善根をし、一
切智を(ぐわんぐ)するが故に。

 三者信法有大利益。常念修行諸波羅蜜故

     三には、法に大利益有りと信じ、常に念じて、諸(もろもろ)の波羅蜜を修行するが故に。

 四者信僧能正修行自利利他常樂親近諸菩薩衆求學如實行故

     四には、僧は、能く正しく、自利利他を修行すると信じ、常に樂(この)んで、諸の菩薩衆に親近し、如實行を求
學(ぐがく)するが故に。

▲五門ノ修行 

 修行有五門能成此信。
 云何爲五。一者施門。二者戒門。三者忍門。四者進門。五者止觀門

      修行に五門有り、能く此の信を成(じゃう)ず。
      云何が五と爲す。一には施門(せもん)、二には戒門、三には忍門、四には進門、五には止觀門なり。

(´・(ェ)・`)b

367鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 23:45:02 ID:1d4drIFg0
 既に解釈分を説いたのじゃ。
 次は修行信心分を説くのじゃ。

 これを読む者の中で、まだ正定摂、つまり悟りをひらくことが定まっていない者のために修行信心分を説くのじゃ。

 どのような信心を、どのように修行するのか。
 略して説けば四種在るのじゃ。

 その四つとは、

 一つ目は根本を信じるのじゃ。
 いわゆる真如の法を安楽に観察し念じるからなのじゃ。

 二つ目は仏に無量の功徳があると信じて、常に念じて親近し、供養し、うやうやしく敬って善根を発起するのじゃ。
 一切智を願い求めるからなのじゃ。

 三つ目は法に大きな利益が在ると信じるのじゃ。
 常に念じてもろもろの波羅蜜を修行するからなのじゃ。

 四つ目は僧は正しく修行して自他の利益をもたらすと信じるのじゃ。
 常に好んでもろもろの菩薩衆に親近し、如実の行を求め学ぶからなのじゃ。

 そしてまたその修行にも五つの門があるのじゃ。
 この五門によって信心も成就するのじゃ。

 どのような門なのか。

 一つ目は布施の門なのじゃ。

 二つ目は戒の門なのじゃ。

 三つ目は忍耐の門なのじゃ。

 四つ目は精進の門なのじゃ。

 五つ目は止観の門なのじや。

368避難民のマジレスさん:2022/04/24(日) 07:48:58 ID:N9PuVr0M0
37.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号37-38)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号57-58)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲第一 施門  

 云何修行施門。
 若見一切來求索者。所有財物随力施與。以自捨慳貪。令彼歡喜。若見厄難恐怖危逼随巳堪任施與無畏。若有衆生來求法者。随巳能解方便。爲説不應貪求名利恭敬唯念自利利他廻向菩提故

     云何が、施門を修行するや。
     若し一切の、來って求索(ぐさく)する者を見ば、有らゆる財物、力に随って施與(せよ)し、自ら慳貪(けんどん)を
捨つるを以て、彼をして歡喜せしめ、若し厄難(やくなん)・恐怖(くふ)・危逼(きひつ)を見ば、己が堪任するに随っ
て、無畏(むゐ)を施與(せよ)す。若し衆生、來って法を求むる有らば、己が能く解するに随って方便して、爲めに
説いて、應(まさ)に名利恭敬(くぎゃう)を貪求すべからず。唯自利利他を念じ、菩提に廻向(ゑかう)するが故に。

▲第二 戒門  

 云何修行戒門。
 所謂不殺。不盗。不婬。不兩舌。不悪口。不妄言。不綺語。遠離貪嫉欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者。爲折伏煩悩故。亦應遠離憒閙常處寂静修習少欲知足。頭陀等行。乃至小罪心生怖畏慚愧悔不得輕於如來所制禁戒。當護機嫌。不令衆生妄起過罪故

     云何が、戒門を修行するや。
     所謂、殺せず、盗せず、婬せず、兩舌せず、悪口(あくく)せず、妄語せず、綺語せず、遠離貪嫉(とんしつ)・欺
詐・諂曲(てんこく)・瞋恚(しんい)・邪見を遠離す。若し出家の者は、煩悩を折伏(しゃくぶく)せん爲の故に、亦應
(まさ)に憒閙(くわいねう(にょう))をし、常に寂静に處して、少欲知足、頭陀等の業を修習(しゅじふ)し、乃至小
罪にも、心怖畏を生じ、慚愧し、改悔(かいげ)して、如來の制する〔したまふ〕所の禁戒(ごんかい)を輕んずるを
得ざるべし。當(まさ)に機嫌を護って、衆生をして、妄(みだり)に罪過を起こさしめざるべき故に。

▲第三 忍門  

 云何修行忍門。
 所謂應忍他人之惱心不懷報。亦當忍於利衰毀譽稱譏苦樂等法故

     云何が、忍門を修行するや。
     所謂、應(まさ)に他人の惱(なやま)すを忍んで、心に報を懷(いだ)かざるべし。亦當に利衰・毀譽・稱譏(しょう
き)・苦樂等の法を忍ぶべき故に。

▲第四 進門  

 云何修行進門。所謂於諸善事。心不懈退。立志慳強。遠離怯弱。當念過去久遠己來虚受一切身心大苦。無有利益 。是故應勤修諸功徳自利利他遠離修苦

     云何が進門を修行するや。
     所謂、諸の善事に於て、心、懈退せず、志を立つること慳強(けんがう)にして、怯弱(こにゃく)を遠離し、當に過
去久遠己來、虚しく一切身心の大善を受けて、利益有ること無きを念ずべし。是の故に、應に勤めて、諸の功
徳を修め、自利利他して、遠かに衆苦を離るべし。
(´・(ェ)・`)b

369鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/24(日) 23:47:57 ID:1d4drIFg0

第一の施門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 もし衆生が法を求めてきたならば、あらゆる財物を力の限り施して自分が貪欲を捨てることで喜ばせるのじゃ。
 もし衆生が厄難、恐怖、危険が逼迫しているところを見たら、自分が出来る限りのことをして、恐れがない状態を施すのじゃ。

 もし衆生が法を求めてきたならば、自分が理解している限りのことを方便して説いて、名利や尊敬されることを求めてはいかんのじゃ。
 ただ自他の利益のために説いて、悟りの道に回向するためなのじゃ。

 第二の戒門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 いわゆる殺さず、盗まず、婬せず、両舌せず、悪口をせず、妄語をせず、綺語をしないことを守るのじゃ。
 貪欲、嫉妬、詐欺、怒りや邪見を遠離するのじゃ。
 もし出家の者であれば、煩悩を折伏するために、騒がしい街中から遠ざかり、常に静かな所に定住して、小欲知足をで貪欲を厭離するのじゃ。
 
 小さな罪にも心から恐れ、慙愧して、後悔して、如来が制定した禁戒を重んじるのじゃ。
 まさに他人の悪心を起こさないようにして、妄りに罪過を作らせないようにするのじゃ。

 第三の忍門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 いわゆるまさに他人から悩まされることを忍んで、報復したいという思いを心から遠ざけるのじゃ。
 また正に利衰、毀誉褒貶、苦楽等の法を忍ぶべきであるからなのじゃ。

 第四の進門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 もろもろの善事を心が怠けずに実践して、堅く強く志を立て、怯弱を遠離するのじゃ。
 久遠の過去からの大善を実践しても、その利益を願わないようにするのじゃ。
 正に勤めてもろもろの功徳を修めて、衆苦がないようにするのじゃ。

370避難民のマジレスさん:2022/04/25(月) 00:26:17 ID:ZMugjDbA0
39.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号40-41)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号60-61)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次依是三昧故則知法界一相。謂一切諸佛法身。與衆生身平等無二即名一行三昧。當知眞如是三昧根本。若人修行漸漸能生無量三昧

     復次に、是の三昧に依るが故に、則ち法界一相なりと知る。謂はく、一切諸佛の法身と衆生とは、平等無二
    なり。卽ち一行三昧と名づく。當に知るべし、眞如は是れ三昧の根本なり。若し人、修行すれば、漸漸に能く、
    無量の三昧を生ず。

 或有來生無善根力。則爲諸魔外道鬼神之所惑亂。若於坐中現形恐怖。或現端正男女等相。
 當念唯心境界則滅終不爲惱

     或(ある)は衆生有り、善根の力無ければ、則ち諸魔・外道・鬼神の爲に惑亂せらる。若くは坐中に於て、形(か
たち)を現じて恐怖(くふ)せしめ、或(あるひ)は端正(たんしゃう)の男女(なんにょ)等の相を現ず。 
     當に唯心を念ずべし。境界は則ち滅して、終(つひ)に惱を爲さず。

 或現天像菩薩像亦作如來像。相好具足。或説陀羅尼。若説布施持戒忍辱精進禪定智慧。或説平等空無想無願。無怨無親。無因無果。畢竟空寂是眞涅槃。
 
     或は、天像・菩薩像を現じ、亦は、如來像を作(な)して相好具足し、或は陀羅尼を説き、若くは、布施・持
戒・忍辱・精進・禪定・智慧を説き、或は平等・空・無想・無願・無怨・無親・無因・無果・畢竟空寂なる、是
れ眞の涅槃なりと説く。

或令人知宿命過去之事。亦知未來之事。得他心智辯才無礙能令衆生貪著世間名利之事。
 
     或は人をして、宿命・過去の事を知り、亦は未來の事を知り、他心智・辯才無礙を得せしめ、能く衆生をして、
世間名利の事(じ)に貪著(とんぢゃく)せしむ。
   
 亦令使人數瞋數喜性無常準。或多慈愛多睡多宿多病其心懈怠。或率起精進後便休廢生於不信。多疑多慮。或捨本勝行。更修雜業。若著世事種種牽纏。
 
     又令使人をして、數(しばしば)瞋(いか)り・數喜びて、性に常準なからしめ、或は多く慈愛し、多睡(たすゐ)・多
宿・多病にして、其の心を懈怠ならしむ。或は卒(にはか)に精進を起こし、後便(のちすなは)ち休廢(くはい)して、
不信を生じ、多疑・多慮ならしめ、或は本(もと)の勝行(しょうぎょう)を捨て、更に雜業(ざふごふ)を修し、若くは世
事に著(ぢゃく)して、種種に牽纏(けんてん)せらる。
     
 亦能使人得諸三昧少分相似皆是外道所得非眞三昧 或復令人。若一日若二日若三日乃至七日。住於定中。得自然香美飲食身心適悦不飢不渇。使人愛着。

     亦能く、人をして、諸の三昧の少分の相似を得せしむ。皆是れ外道所得にして、眞の三昧に非ず。或は復、
人をして、若くは一日、若くは二日(ににち)、若しは三日(さんにち)乃至七日(しちにち)、定中(ぢゃうちう)に住して、
    自然の香美(かうみ)の飲食(おんじき)を得て、身心適悦(しんじんちゃくえつ)して、不飢・不渇ならしめ、人をして
    愛着せしむ。

  或令人食無分齊。乍多乍少顔色變異。
  以是義故行者常應智慧觀察勿令此心。堕於邪網。當勤正念不取不着則能遠離是諸業障

     或は人をして、食に分齊なく、乍(たちま)ち多くし乍ち少くし、顔色を變異せしむ。
     是の義を以ての故に、行者は常に應(まさ)に、智慧もて觀察し、此の心を邪網に堕せしむることなかるべし。當
    に勤めて正念にして、不取・不著(ふぢゃく)ならば、則ち能く、是の諸の業障(ごふしゃう)を遠離すべし。

 應知外道所有三昧皆不離見愛我慢之心。貪着世間名利恭敬故
 眞如三昧者。不住見相。不住得相。乃至出定亦無懈慢。所有煩惱漸漸微薄。

     應に知るべし、外道所有の三昧は、皆不離見愛我慢の心を離れず。世間の名利恭敬に貪著(とんぢゃく)する
    が故に。
     眞如三昧とは、見相に住せず、得相に住せず、乃至定(ぢゃう)を出づるも、亦懈(げ)慢無し。所有の煩惱、漸
    漸に微薄(みはく)なり。
     
 若諸凡夫不習此三昧。法得入如來種性。無有是處
 以修世間諸禪三昧多起味着依我見。繫屬三界。與外道共。若離善知識所護則起外道見故

     若し諸の凡夫、此の三昧法を習せずして、如來の種性(しゅしゃう)に入るを得(う)る、是の處(ことわり)有ること
    無し。
     世間の諸禪三昧を修すれば、多く味著(みぢゃく)を起こし、我見に依って、三界に繫屬(けぞく)するを以て、外
    道と共(とも)なり。若し善知識の所護を離るれば、則ち外道の見を起こすが故に。

(´・(ェ)・`)b

371鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/25(月) 23:35:57 ID:1d4drIFg0
 また次にある人が信心して修行しても、前世からの多くの重罪悪業の障害がある故に、邪魔諸鬼のために悩乱させられることもあるじゃろう。
 或いは世間の仕事等のために、種々に時間を縛られ、或いは病苦に悩まされたりする者達もいるじゃろう。
 このように多くの障害があったりするじゃろう。

 このようなことがある故に、まさに勇猛精進して、昼夜常に諸仏を礼拝し、誠の心で懺悔して、教えを請い願い、教えを受けたら歓喜して菩提に回向するのじゃ。
 このように常に実践して休まず、止めなければ、もろもろの障害も免れるのじゃ。
 善根が増長するからなのじゃ。

 第五の止観門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 言う所の止とは、一切の境界の想念を止めて、シャマタの観に随順するのじゃ。
 
 言う所の観とは、因縁生滅の相を分別して、ヴィパッサナー観に随順するのじゃ。

 どのようにして随順するのか。
 この二つの法を少しずつ実践して、互いに離れる法ではないから、並べて現前するのじゃ。

 もし止を実践したいという者が居れば、静かなところに住んで、座禅して意を正すのじゃ。
 そして呼吸に依らず、形色に依らず、空に依らず、地水火風に依らず、乃至見る聞く等の知覚に依らないようにするのじゃ。
 一切の諸法も憶念に従って皆除き、一切の想念を除く実践をするのじゃ。
 一切の諸法は皆本来無想にして、刹那に生まれず、刹那に滅することもないと念じるのじゃ。

 また常に心の外の世界においては境界は無で在ると念じ、心によって除くことの出来ない心に至るのじゃ。
 心がもし乱れたら、すぐに集中し直して、正しい念に戻るのじゃ。
 この正しい念とは、唯心であり他に境界がないと正に知るべきなのじゃ。
 そしてまたこの心も自らの特徴はなく、刹那に得ることの出来ないものじゃ。

 もし座禅から立って、去来進止の動作をすることがあれば、全ての時において方便を念じて、ありのままに観察するべきなのじゃ。
 その実践に習熟すれば、その心は止まるのじゃ。
 故に少しずつ功徳が増大し、真如三昧に入れるのじゃ。
 煩悩を征服して、信心も増長して、ついに不退転の境地になるのじゃ。

 ただ疑惑や不信や、誹謗や、重罪の業障、我があるという慢心、怠けるというような煩悩を持つ者は除くのじゃ。


372鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 00:01:59 ID:1d4drIFg0

 以上のような煩悩のある者には入れない境地なのじゃ。



 また次にこの三昧に入れば、法界は一相と知れるのじゃ。
 なぜならば一切諸仏の法身と、衆生の心とは平等で一つであるからなのじゃ。
 それをすなわち一行三昧と名づけるのじゃ。
 真如は正に三昧の根本と知るべきなのじゃ。
 もし人がそれを修行すれば、少しずつできるようになり、無量の三昧を生じるのじゃ。

 あるいは善根の力がない衆生がいれば、即ち諸々の魔、外道、鬼神に惑乱させれられるのじゃ。
 もしくは座禅の最中に、魔が形を現して恐れさせ、あるいは美男美女の心象を表したりするのじゃ。

 そのような時にはまさに唯心を念じるべきなのじゃ。
 そうすれば境界は即ち滅して、悩まされることも無くなるのじゃ。

 そのような魔はあるいは天人、菩薩の心象を現したり、相好を備えた如来を現し陀羅尼や、布施、持戒、忍耐、精進、禅定、智恵の完成を説いたりするのじゃ。
 あるいは平等、空、無相、無願、無怨、無親、無因、無果、畢竟空寂であるこれが涅槃であると説いたりするのじゃ。
 あるいは人に宿命通や過去未来のことを知ったり、他人の心を知り、自由な弁才を得さしめて、名声に執着させたりするのじゃ。

 あるいは人に喜怒の念をたびたび起こらせて、平静な心をなくさせるのじゃ。
 あるいは愛着を多くさせて、多く眠り、多く宿り、多く病を得させて怠けさせるのじゃ。
 あるいは人をいきなり精進させて、次には実践を休ませたり止めさせて不信を生じて、疑いや慮りを多くさせるのじゃ。
 あるいはもともとの優れた法わ捨てさせ、つまらぬ法を修行させて、あるいは世間の仕事に執着させて、いろいろに惑わせるのじゃ。


373鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 00:18:34 ID:1d4drIFg0

 また人にもろもろの三昧に似た境地を得させるのじゃ。
 そのようなものは外道の得るものであり、真の三昧ではないのじゃ。
 あるいは人に数日の三昧において自然の香味を得させて、心身を喜ばせて飢えず渇せず、愛着させるのじゃ。
 あるいは人の食欲を際限なくして、多食や小食にしたりして病で顔色を悪くするのじゃ。
  
 このような魔があるから、修行者は、常に正に智恵を持って観察して、心を邪見の網に落ちないようにするのじゃ。
 正に勤めて正念を保って、何も取らず、何にも執着しないならば、このもろもろの魔の業障を遠離することができるのじゃ。
 
 外道の教える三昧は皆、見愛、我慢の心を離れられないと知るべきなのじゃ。
 世間の名利や尊敬の心を貪り執着するからなのじゃ。

 真如三昧とは、見る相に心を止めず、得る想念にも心を止めず、定を出ても怠け心や慢心が無いのじゃ。
 もっていた煩悩も少しずつなくなっていくのじゃ。

 もしもろもろの凡夫がこの三昧を習得しないで、如来になることはないのじゃ。
 
 世間の諸三昧を修得すれば、多くが三昧に執着して、我見をもって三界に縛られるから外道と一緒なのじゃ。
 もし善知識の守りから離れれば、すなわち外道の見解を起こすからなのじゃ。

374避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 00:51:12 ID:TPvzETQk0
n(´・(ェ)・`)n
お詫びと訂正。
前回掲載時、38をとばしてしまいました。
本日の鬼和尚訳、>>371 及び >>372の1行目 に該当する部分が、38↓であります。

38.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号39-40)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号59-60)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次若人雖修行信心。以從先世來多有重罪悪障故。爲邪魔諸鬼之所惱亂。或爲世間事務種種牽纒。或爲病苦所惱有如是等衆多障。礙是故應當勇猛精勤。晝夜六時禮拝諸佛。誠心懺悔。勸請随喜。廻向菩提。常不休廢。得免諸障。善根増長故

     復次に、若し人、信心を修行すると雖も、先世(せんぜ)より來(このかた)、多く重罪悪業の障有るを以て故に、
邪魔諸鬼の爲に惱亂せられ、或は世間の事務の爲めに、種種索纒(さくてん)せられ、或は病苦の爲に所惱まさ
る。是くの如き等の衆多の障礙(しゃうげ)有り。是の故に、應當(まさ)に勇猛精勤(ゆうみょうしゃうごん)して、晝夜
六時に、諸佛を禮拝(らいはい)し、誠心(じゃうしん)に懺悔し、勸請(くわんじゃう)し随喜して。菩提に(ゑかう)すべ
し。常に休廢(くはい)せざれば、諸障を免(まぬか)るるを得、善根増長するが故に

*【纏牽】てんけん:まといつなぐ。束縛

▲第五 止觀門 

 云何修行止觀門。
 所言止者謂止一切境界相随順奢摩他觀義故

     云何が、止觀門を修行するや。
     言ふ所の止とは、謂はく、一切境界の相を止(とど)めて、奢摩他(しゃまた)觀に随順する義の故に。

 所言觀者謂分別因緣生滅相。随毘鉢舍那觀義故

     言ふ所の觀とは、謂はく、因緣生滅の相を分別して、毘鉢舍那(びばしゃな)觀に随順する義の故に。

 云何随順以此二義漸漸修習不相捨離雙現前故

     云何が、随順するや。此の二義、漸漸に修習(しゅじふ)して相捨離せざるを以て、雙(なら)べて現前するが故に。

 若修止者住於静處端坐正意不依氣息不依形色不依於空不依地水火風。乃至不依見聞覺知。一切諸想随念皆除亦遣除想。以一切法本來無想念念不生念念不滅

     若し止を修する者は、静處(じゃうりょ)に住し、端坐して意を正し、氣息に依らず、形色(ぎゃうしき)に依らず、空
に依らず、地水火風に依らず、乃至見聞覺知(けんもん)に依らず、一切の諸想も、念に随って皆除き、亦除想
を遣(や)る。一切の法は、本來無想なるを以て、念念に生ぜず、念念に滅せず。

 亦常不得随心外念境界。後以心除心。若馳心散即當攝來住於正念。是正念者當知唯心無外境界。即復此心亦無自相。念念不可得

     亦常に、心外に随って境界を念じ、後(のち)、心を以て心を除くことを得ず。心若し馳散(ちさん)せば、卽ち當
(まさ)に攝し來(きた)って、正念(しゃうねん)に住すべし。是の正念とは、當に知るべし、唯心にして外(ほか)境界
無し〔きなり〕。卽ち復、此の心も亦、自相無し。念念に不可得(とく)なり。

 若從坐起去來進止有所施作於一切時常念方便随順觀察
 久習淳熟其心得住。以心住故漸漸猛利随順得入。眞如三昧。深伏煩惱。信心增長速成不退。唯除疑惑不信誹謗重罪業障我慢懈怠。如是等人所不能入

     若し坐より起(た)ちて、去來進止に施作する所有れば〔るも〕、一切時に於て常に方便を念じて、随順觀察す
べし。
     久習(くじふ)淳熟すれば、其の心住することを得(う)、故に漸漸に猛利(みゃえうり)にして、眞如三昧に随順し、
得入(とくにゅう)し、深く煩惱を伏(ぶく)し、信心增長して、速(すみやか)に不退を成(じゃう)ず。唯疑惑・不信・誹
謗・重罪業障・我慢・懈怠を除く。是の如き等(とう)の人は、入ること能(あた)はざる所なり。
(´・(ェ)・`)b

375避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 00:56:56 ID:TPvzETQk0
40.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号42-43)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号61-62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲眞如三昧十種ノ利益  

 復次精進專心修學此三昧者現世當得十種利益云何爲十

     復次に、精進して、專心に此の三昧をする者は、現世に當る十種の利益を得べし。云何が十と爲す。

 一者常爲十方諸佛菩薩の所護念
 二者不爲諸魔悪鬼所恐怖
 三者不爲九十五種外道鬼神の所惑亂
 四者遠離誹謗甚深之法重罪業障漸漸微薄
 五者滅一切疑惑諸悪覺觀
 六者於諸如來境界信得增長
 七者遠離憂悔於生死中勇猛不怯
 八者其心柔和捨於憍慢。不爲他人所惱
 九者雖未得定於一切時一切境界處則能滅損煩惱不樂世間
 十者若得三昧不爲外緣一切音聲之所驚動

      一には、常に十方の諸佛菩薩の爲に、護念せらる。
      二には、諸魔・悪鬼の爲に、能く恐怖せられず。
      三には、九(く)十五種の外道・鬼神(じん)の爲に、惑亂せられず。
      四には、甚深(じんじん)の法を誹謗することを遠離し、重罪業障、漸漸に微薄なり。
      五には、一切の疑惑と、諸の悪覺觀(かくくわん)とを滅す。
      六には、諸の如來の境界に於て、信、增長することを得。
      七には、憂悔(うけ)を遠(をん)離し、生死の中(うち)に於て、勇猛にして怯(けふ)ならず。
      八には、其の心柔和にして、憍慢(けうまん)を捨て、他人の爲に惱まされず。
      九には、未だ定(ぢゃう)を得ずと雖も、一切の時(じ)、一切の境界の處に於て、則ち能く煩惱を減損して、世
     間を樂(たのし)まず。
      十には、若し三昧を得れば、外(げ)緣一切の音聲の爲に驚動せられず。

▲修觀ヲ勸ム  

 復次若人唯修於止則心沈歿或起懈怠不樂衆善。遠離大悲是故修觀
 修習觀者當觀一切世間有爲之法無得久停須臾變懷一切心行念念生滅以是故苦。應觀過去所念諸法恍忽如夢。應觀現在所念諸法猶如電光。應觀未來所念諸法猶如於雲歘爾而起。應觀世間一切有身。悉皆不浄種種穢汚無一可樂

     復(また)次に、若し人、唯、止をのみ修すれば、則ち心沈歿(こころちんもつ)し、或は懈(げ)怠を起こし、衆善を
    樂(ねが)はず、大悲を遠離す。是の故に觀を修す。
     觀を修する者は、當に、一切世間有爲の法は、久しく停(とど)まるを得(う)ること無く、須臾(すゆ)に變懷(ゑ)す。
    一切の心行は、念念に生滅す。是を以ての故に苦なりと觀すべし。應に、過去に念ぜる所の諸法は、恍忽とし
    て夢の如し觀ずべし。應に現在に念ずる所の諸法は、猶ほ電光の如しと觀ずべし。應に、未來に念ずる所の諸
    法は、猶ほ雲の、歘爾(こつに)として起るが如しと觀ずべし。應に、世間一切の有身は、悉く皆不浄にして、種種
    の穢汙(ゑま(わいお))、一として樂むべき無しと觀ずべし。

(´・(ェ)・`)b

376鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 22:57:40 ID:1d4drIFg0

 また次に精進して心を専らにしてこの三枚を修行する者は、現世で十種類の利益を得るのじゃ。

 その十とは、

 一つ目は、常に十方の諸仏に護られるのじゃ。
 二つ目は、もろもろの魔もの、悪鬼も恐れなくなるのじゃ。
 三つ目は、95種類の外道、鬼神に惑乱されないのじゃ。
 四つ目は、とても深い意味がある法を誹謗しなくなり、重罪の悪業も少しずつへっていくのじゃ。
 五つ目は、一切の疑惑と、邪悪なる法を滅するのじゃ。
 六つ目は、もろもろの如来の境界において、信じることが増して行くのじゃ。
 七つ目は、愁いや悔いを遠ざけ、生死の中において、勇猛で怯えなくなるのじゃ。
 八つ目は、心が柔和になり、驕りや慢心を捨てて、他人に悩まされないのじゃ。
 九つ目は、まだ定に入れなくとも、一切の時や境界の所で、煩悩を減らして世間を楽しまないのじゃ。
 十では、もし三昧を得れば、外からの全ての音声に驚き動じることがなくなるのじゃ。

377鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 23:06:05 ID:1d4drIFg0

 また次にもし人がただ止観の止だけを実践すれば、心が沈んで、あるいは怠けたり、もろもろの善を願わなかったりして、慈悲の心もなくなるのじゃ。
 このために観も修行するのじゃ。

 観を修行する者は、まさに一切世間の有為の法は、ながく止まることがなく、瞬時に変り壊れるものと観るのじゃ。
 一切の心の働きは、刹那に生じ、滅するから苦になると観るのじゃ。
 まさに過去に念じた諸法は、ぼんやりとして、夢幻の如しと観るのじゃ。
 今念じている諸法は電光の如しと観るのじゃ。
 未来に念じるはずの諸法も、雲がもくもくと起こるようものと観るのじゃ。

 世間の一切の肉体も、ことごとくみんな不浄であり、種々の穢れがあり、一つも楽しめるものがないと観るのじゃ。

378避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 23:32:36 ID:GrWkzV0M0
41.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号43-44)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲大悲觀   

 如是當念一切衆生從無始時來皆因無明所薫習故令心生滅巳受一切身心大苦現在即有無量逼迫。未來所苦亦無分齊難捨難離而不覺知衆生如是甚爲可愍

     是くの如く當に念ずべし。「一切の衆生は、無始の時より來(このかた)、皆無明に薫習せらるるに因るが故に、
    心をして生滅せしむ。巳(すで)に一切の身心の大苦を受け、現在に卽ち無量の逼迫有り、未來の所苦も亦分
    齊無く、捨し難く離し難くして、而も覺知せず。衆生は是くの如く、甚だ愍(あはれ)むべしと爲す」と。

▲大願觀   

 作是思惟即應勇猛立大誓願。願令我心離分別故徧於十方修行一切諸善功徳。盡其未來。以無量方便救拔一切苦惱衆生令得涅槃第一義樂

     作是(こ)の思惟を作(な)し、卽ち應に勇猛に大誓願を立つべし。「願はくは、我が心をして、分別を離れしむる
    が故に、徧(あまね)く十方に於て、一切の諸善功徳を修行し、其の未來を盡し、無量の方便を以て、一切の苦
    惱の衆生を救拔(くばつ)し、涅槃第一義の樂を得せしめん」と。

▲精進觀  

 以起如是願故於一切時一切處所有衆善。随巳堪能。不捨修學心無懈怠 
 唯除坐時專念於止若餘一切悉當觀察應作不應作 
 若行若住若坐若臥若起皆應止觀倶行 所謂雖念諸法自性不生而復即念因緣和合善悪之業苦樂等報不失不懷。雖念因緣善悪業報而亦即念性不可得。

     是(かく)の如きの願を起すを以ての故に、一切の時・一切の處(しょ)に於て、有らゆる衆善、己(おのれ)が堪能
    (かんのう)に随って、修學するを捨せず、心に懈怠無し。
     唯坐する時のみ專(もっぱ)ら止を念ずるを除く。若し餘の一切にも、悉(ことごと)く當(まさ)に、應作と不應作とを
    觀察すべし。 
     若くは行、若くは住、若くは坐、若くは臥(ぐわ)、若くは記、皆止と觀とを倶(とも)に行ずべし。所謂、諸法の自性
    は、不生なりと念ずと雖も、而も復(また)、卽ち因緣和合する善悪の業・苦樂等の報は、不失不懷(ゑ)なりと念
    ず。因緣善悪の業報を念ずと雖も、而も亦、卽ち性(しょう)は不可得なりと念ず。
 
 若修止者對治凡夫住着世間能捨二乘怯弱之見。
 若修觀者對治二乘不起大悲狹劣心過遠離凡夫不修善根 
   
     若し止を修すれば、凡夫の、世間に住著するを對治し、能く二乘怯弱(こにゃく)の見を捨す。     
     若し觀を修すれば、二乘の、大悲を起さざる狹劣(けふれつ)の心過を對治し、凡夫の、善根を修せざることを
    遠離す。

 以是義故是止觀二門共相助成不相捨離若止觀不具則無能入菩提之道

     是の義を以ての故に、是の止と觀との二門は、共に相助成(あひじょじゃう)して、相捨離せず。若し止と觀と具
    (そな)はらざれば、則ち能く菩提の道に入ること無し。

(´・(ェ)・`)b

379鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 00:26:23 ID:1d4drIFg0
 このように念じるのじゃ。

 「一切衆生は始まりもない昔から無明に薫習されているから、心をして生滅させるのじゃ。
  すでに一切の心身の大きな苦痛を受けて、現在にも無量の逼迫があるのじゃ。
  未来に受けるであろう所の苦も限界なく、、捨て難く、遠ざけることも難しく、知覚もできないのじゃ。
  衆生はこのようにとても哀れむべきもの」

 このように思って勇猛に大誓願を立てるのじゃ。
 
 「願わくばわが心が分別を離れるが故に、遍く十方において一切の諸善功徳の法を修行し、
  未来の尽きるまで、無量の方便をもって、苦悩の衆生を救済し、涅槃第一義の楽を得させよう」

 このような誓願をすれば、どんな時や所でも自分が出来る限りのあらゆる善行と修学を捨てず、怠け心もなくなるのじゃ。

380鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 00:35:20 ID:1d4drIFg0

 ただ座禅する時のみ止の行をするのは除くのじゃ。
 他の時にはことごとく自分のしたことやしなかったことを観察するのじゃ。

 行住坐臥や話すときに皆止観をともに行じるのじゃ。
 いわゆる諸法の自性は、不生であるがまた因縁和合する善悪の業、苦楽の報いは失うことも壊れることもないと念じるのじゃ。
 因縁善悪の業の報いを念じるといっても、なおまたまた性は得られるものではないと念じるのじゃ。

 もし止を修行すれば、凡夫の世間に住み執着することを退治して、二乗の怯弱い見解をすとるのじゃ。
 もし観を修行すれば、二乗の大悲を起こさない狭く劣った心の過失を退治して、凡夫が善根を修行することもできるのじゃ。

 このような意義があるから、この止観の二門は、共に相助成して、相捨離することもないのじゃ。
 もし止観を修行しないならば、悟りの道に入ることも出来ないのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 12:40:04 ID:D5cVyf3c0
42.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号44-45)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62-63)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲防退方法勸生浄土文  

 復次衆生初學是法欲求正信其信怯弱以住於娑婆世界自畏不能常値諸佛親承供養懼謂信心難可成就意欲退者當知如來有勝方便攝護信心謂以專意念佛因緣随願得生他方佛土常見於佛。永離悪道如

     復(また)次に、衆生、初めて是の法を學(がく)し、正信(しゃうしん)を欲求(よくぐ)するに、其の信怯弱(こにゃく)に
    て、此の娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸佛に値(あ)って、親承し、供養すること能(あた)はざるを畏(おそ)る。
    懼(おそら)くは、信心成就すべきこと難(かた)し謂(おも)ひ、意に退せんと欲する者は、當(まさ)に知るべし、如來に
    勝方便有りて、信心を攝護す。謂(い)はく、專意念佛の因緣を以て、願に随って、他方の佛土に生ずるを得(う)、
    常に佛を見て、永く悪道を離る。

 修多羅説 若人專念西方極楽世界阿彌陀佛。所修善根廻向願求生彼世界即得住生 
 常見佛故終無有退。若觀彼佛眞如法身常勤修習畢竟得生住正定故

     修多羅に、若し人、專(もっぱ)ら西(さい)方極楽世界の阿彌陀佛を念じ、修する所の善根を廻向(ゑかう)して、
    彼(か)の世界に生ぜんと願求(ぐわんぐ)すれば、卽ち住生することを得と。
     常に佛を見るが故に、終(つひ)に退すること有ること無し。若し彼の佛の眞如法身を觀じ、常に勤めて修習(しゅ
    じふ)すれば、畢竟して生ずることを得。正定(しゃうぢゃう)に住するが故に。

▲正宗五分ノ第五(テキストは表記は四) 勸修利益分  

 已説修行信心分。次説勸修利益分。
 如是摩訶衍諸佛秘藏。我已總説
 若有衆生欲於如來甚深境界得生正信。遠離誹謗。入大乘道當持此論思量修習究竟能至無上之道。
 若人聞是法已。不生怯弱當知此人定紹佛種必爲諸佛所授記
 假使有人能化三千大千世界。滿中衆生令行十善。不如有人於一食頃正思此法過前功徳不可爲喩

     已(すで)に、修行信心分を説けり。次に勸修利益分を説かん。
     是くの如きの摩訶衍(ゑん)は、諸佛の秘藏なり。我已に總じて説く。
     若し衆生有って、如來甚深(じんじん)の境界に於て、正信を生ずることを得て、誹謗をし、大乘の道(だう)に入
    らんと欲せば、當(まさ)に、此の論を持して、思量し修習し究竟(くきゃう)し、能く無上の道(だう)に至るべし。
     若し人、是の法を聞き已(おは)って、怯弱(こにゃく)を生ぜざれば、當に知るべし、此の人は定(さだ)んで佛種を
    紹(つ)ぎ、必ず諸佛の爲に授記せられん。
     假使(たとひ)人有って、能く三千大千世界の中(うち)に滿てる衆生を化(け)して、十善を行ぜしめんも、人有っ
    て、一食頃に於て、正しく此の法を思はんには如かじ。前の功徳に過(く)ぐること、喩(たとへ)と爲すべからず。
(´・(ェ)・`)b

382鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 23:33:01 ID:1d4drIFg0
 又次に衆生が初めてこの法を学んで、正信を欲求する時、その心が怯弱でこの娑婆世界に居るから諸仏に会って親しく供養できないことを恐れたりするかもしれん。
 恐らくは信心が成就することは難しいと思って、やめてしまうかもしれんのじゃ。
 そのような者達は如来に勝れた方便があって、信心の者達を擁護することを知るべきなのじゃ。

 いわく専らに念仏すれば、その因縁で願うとおりに、他の仏土に生まれることができるのじゃ。
 そこで常に仏陀を見て、永久に悪道を離れられるのじゃ。

 経典にはもし人が専らに西方浄土の阿弥陀如来を念じて、修めるところの善根を回向して、その世界に生まれたいと願うならばいそこに生まれると説いているのじゃ。
 そこで常に仏陀を見ているのであるから退転することはないのじゃ。
 もしその阿弥陀如来の真如法身を観じ、常に勤めて修行すれば、最終的には西方に行けるのじゃ。
 それが正しい定であるからなのじゃ。

 既に修行信心分を説いたのじゃ。
 次は勤修利益分を説くのじゃ。

 このような大乗は諸仏の秘蔵なのじゃ。
 我はそれを総じて説いたのじゃ。

 もし衆生が如来の甚だ深い境界を信じて、誹謗を遠離して、大乗の道に入ろうと思うならば、正にこの論をもって、思量して、実践を究めれば無上の道に入れるのじゃ。
 もしこの法を聞き終えて怯弱を生じない者がいるならば、そのような者は仏陀の世継ぎとなり、必ず諸仏に悟れると予言されるのじゃ。
 たとえ三千世界に満ちるほどの人を教化して十善を実践させても、その功徳は食事の時間ほどの間でもこの法を思うことで起こった功徳にはかなわんのじゃ。
 その功徳は比べることも出来ないほどなのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 23:55:33 ID:aUvETSdc0
43.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号45-46)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号63-64)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次若人受持。此論觀察修行若一日一夜所有功徳無量無邊不可得説。假令十方一切諸佛各於無量無邊阿僧祇劫。歎其功徳亦不能盡。何以故謂法性功徳無有盡故。此人功徳亦復如是無有邊際

     復(また)次に、若し人、此の論を受持して、觀察し修行すること、若くは一日一夜ならんも、所有(しょう)の功徳  
    は、無量無邊にして、説くことを得べからず。假令(たとひ)、十方一切の諸佛、各(おのおの)無量無邊(へん)阿僧 
    祇劫に於て、其の功徳を歎ずるも、亦盡くすこと能(あた)はず。何を以ての故に。謂はく、法性(ほっしゃう)の功徳
    は盡くること有ること無きが故に。此の人の功徳も、亦復(またまた)是の如く邊際有ること無し。

     
 其有衆生於此論中毀謗不信所獲罪報經無量劫受大苦惱是故衆生伹應仰信不應毀謗以深自害亦害他人斷絶一切三寶之種以一切如來皆依此法得涅槃故。一切菩薩因之修行得入佛智故
 
     其れ衆生有って、此の論の中(うち)に於て、毀謗(きぼう)して信ぜずんば、獲(う)る所の罪報は、無量劫を經て、    大苦惱を受けん。是の故に衆生は、但(ただ)應(まさ)に仰(あふ)いで信ずべし。不應(まさ)に毀謗して〔すべから 
    ず〕、以て深く自ら害し、亦他人を害し、一切三寶の種を斷絶すべからず。一切の如來は、皆此の法に依って、 
    涅槃を得たまへるが故に。一切の菩薩、之に因って修行し、佛智に入るを以ての故に

 當知過去菩薩已依此法得成浄信現在菩薩今依此法得成浄信未來菩薩當依此法得成浄信是故衆生應勤修學
 
     當に知るべし、過去の菩薩は、已(すで)に此の法に依って、浄信を成(じゃう)ずることを得たり、現在の菩薩は、
    今此の法に依って、浄信を成(じゃう)ずることを得、未來の菩薩は、當に此の法に依って、浄信を成ずることを得 
    べきが故に。衆生應に勤めて修學すべし。

     
●流通分     

 諸佛甚深廣大義 我今随分總持説
 廻此功徳如法性 普利一切衆生界

      諸佛の甚深(じんじん)廣大の義を 我、今、随分し總持して説きたり、
      此の功徳の法性(ほっしょう)の如きを廻(めぐら)して、普(あまね)く一切衆生界を利せん。

以上で、『大乘起信論』おわりであります。
鬼和尚、ありがとうでありました。
次に取上げるべきおすすめの書籍があれば、ご教示いただきたく、お願い申し上げます。
(´・(ェ)・`)b

384鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:49:20 ID:1d4drIFg0
 また次にもしある人がこの論を受持して、観察して修行すること一日か、一夜であったとしても、得る功徳は無量無辺であり、説くこともできないほどなのじゃ。
 たとえ十方の一切の諸仏が各々、無量あそぎ劫もその功徳を賛嘆しても、尽きないほどなのじゃ。
 なぜなのか。
 
 法性の功徳は尽きないからなのじゃ。
 この人の功徳もまた限界がないほどなのじゃ。

 もしある衆生がこの論を誹謗して信じないならば、得る罪報は無量劫も大苦悩をうけるほどなのじゃ。
 そうであるから衆生はこの論を信仰するのじゃ。
 誹謗したりすれば、深く自分を害し又他人をも害して、一切の三宝の種子を断つことになるのじゃ。

 一切の如来は皆、この法によって涅槃を得たのであるから。
 一切の菩薩は、これによって修行して、仏智に入るからなのじゃ。

 まさに知るとよいのじゃ。
 過去の菩薩は既にこの法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 現在の菩薩は今この法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 未来の菩薩はまさにこの法によって、浄信を成就することができるじゃろう。
 衆生はまさに勤めて修行し学ぶとよいのじゃ。

 諸仏の甚だ深く広く大きな法の意味を、我は今、意味の通りに従って記憶して説いたのじゃ。
 この法性の如き功徳を、回向して遍く一切衆生に利益を得させるのじゃ。

385鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:50:27 ID:1d4drIFg0
>>383 ご苦労さんだったのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。
 つぎはまだないから休むとよいのじゃ。

386鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/30(土) 22:07:46 ID:1d4drIFg0

 まとめなのじゃ。

 この論は大乗の教えを総じて説いたものじゃ。
 そうであるから時々二乗が劣っていると、書いてあるが妄想であるから捨てて善いのじゃ。

 この論で重要なのは真如というものが衆生にあると説いたところなのじゃ。
 全ての観念を捨てれば、真如に至れると実践の法も教えているのじゃ。
 それが大事なのじゃ。

 全ての衆生に真如はあるのであるから、自分は悟りを得られないのではないかとか、思わなくて善いのじゃ。
 真如は心の奥底にあり、観念がなければ誰でもたどり着けるのじゃ。

 そして真如は不空であり、大きな功徳があるというのじゃ。
 大抵の大乗の経論等には、空の法を説いているから、全ては空と説くのじゃ。
 しかしこの論では、空とはただ執着や観念を捨てるための方便であるというのじゃ。
 その方便によってたどり着いた、真如は空ではなく、大きな功徳があると言うのじゃ。

 その功徳とは当然ながら悟りの功徳なのじゃ。
 一切の苦から逃れ、永遠の喜びに回帰する大きな功徳なのじゃ。
 それがこの論で最も記憶すべき重要な教えといえるのじゃ。

387避難民のマジレスさん:2022/06/22(水) 23:07:37 ID:dsxzq4TQ0
『パーマティー』和訳

帰敬偶
 1.我々は、[まず]、不死であり、無限の幸福であり、無限の知であるブラフマンに 帰命する。[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない二種の無明に助けられ1、 この主宰者(ブラフマン)は、[現象世界を構成する]虚空と風と火と水と地となって仮現(vivarta)した2。また、こ[のブラフマン]から、現象世界の中の動くものと動 かざるもの3一(それには)種々なものがある一もすべて、生じたのである。
 2.この[ブラフマンの]息がヴェーダであり、眼差しが五元素(虚空・風・火・水・ 地)であり、微笑が動くものと動かざるものであり、眠りが[現象世界の]最終的掃滅である。
 3.[次に]我々は,永遠なるヴェーダとバヴァ神(シヴァ神)に帰命する。[このう ち、ヴェーダには]六種の補助学(ańga)4が付属しており、種々の不変化詞(avyaya) が含まれている。一方、また、[バヴァ神にも]六種の部分(ańga)5と種々の特質 (avyaya)6が備わっている。
 4.[次に]、我々は、マールタンタ神(太陽神)とティラカスヴアーミン神(力一ルッティケーヤ神)7とマハーガナパティ神8に帰命する9。[というのは、これらの神々は]あらゆることをかなえてくれる[ので]、万人の崇敬の的だ[からである]。
 5.[次に、我々は]『ブラフマ・スートラ』の著者ヴェーダ・ヴヤーサ10に帰命する。 [彼は]ハリ神(ヴィシュヌ神)の知的能力の化身であり、[種々な聖典の]創造主(著者)11で[も]ある。
 6.[最後に]我々は、[『ブラフマ・スートラ註解』の著者]シャンカラー[彼は]清らかな知を備え、海のように深い慈悲の心を備えている一に帰命する。そして、師 (シャンカラ)の著した明析かつ深遠な『註解』を[本書『パーマティー』の中で]解 説してゆくつもりである。
 7.我々の言葉は汚れていても、師の著作に触れることで清められるのである。ちょうど、路上の水がガンジス河に流れ込んで清められるように。

脚注
1二種の無明とは、「無始の実体」としての無明と「それぞれ前の誤認より生じた潜在印象」としての無明である。
2仮現とは、不二一元論学派に特有の考え方で、『ブラフマ・スートラ』が現象世界をブラフマンの展開と考え、両者に同等の実在性を認めていたのに対し、シャンカラ以後は現象世界 にブラフマンより低い実在性しか認めないという仮現説に変わってゆき、プラカーシャートマン(890-980 頃)において、いわゆる仮現説が成立した。
3動くものと動かざるものとは個人存在のことである。
4六種の補助学(ańga)とは、祭事学・音韻学・韻律学・天文学・語源学・文法学である。
5六種の部分(ańga)とは、全智者性・充足・無始の悟り・独立性・常に損なわれることのない力・不可思議な力であるなお、 (4)と(5)のańgaは、原文では、これら二種の意味を含 む掛詞となっている。
6種々の特質として、Vedākarupataru、は、次の十種(avyaya)を 挙げている。智・離欲・主宰者・苦行・真実・忍耐 ・堅忍・創造者性・自己覚醒・支配者性。なおこの語も、原文では、不変化詞(avyaya)との掛詞になっている。
7シヴァ神の息子で軍神として名高い神である。
8シヴァ神の息子で象の顔と人間の体を持ち、知恵の神・障害を取り除いてくれる神として崇拝されている。
9Vedāntakalpatruは、典拠として次の文を引用している。「常にア−デイトヤを供養し、スヴァーミンのティラカ(額標)をつけ、マハーガナパティを供養する者は必ず成功を得るだろう」。
10ヴェーダ・ヴヤーサとは、ヴェーダの編者ヴヤーサのことで、彼は、伝説上の聖仙である。『マハーバーラタ』や諸プラーナも、伝説上彼の編纂とされている。
11彼が創造主に比せられるのは、ハリ神の知的能力の化身であることによる。


文中、文末の数字には、脚注が付されているが、くま判断で、本文理解に必須と思われるもの以外は、原文表記は省略した。
(´・(ェ)・`)つ

388避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 07:43:44 ID:buUDcD120
くま質問
脚注の>「無始の実体」としての無明   とは、ブラフマン=全て、に含まれている「無明」という意味でありましょうか?
全てであるから、有も無もなく、従って、本来無い、「無明」、みたいな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

389鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/23(木) 23:11:08 ID:1d4drIFg0
↑ それは始まりもない昔からある無明という意味じゃな。
  本来実体としては無いものであるが、衆生には実体としてはたらくからそのようにいうのじゃ。
 ただ自分が昔からあるという観念なのじゃ。

390避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 23:52:11 ID:sirSeXnI0
『パーマティー』序論  
1.『註解』冒頭文の趣旨説明
1.1。ブラフマンは考察の対象に価しないという反対主張  p201-202  

  [反対主張]疑問の余地のないものや無意昧なものは、賢者の考察の対象[に価し] ない。[疑問の余地のないものとは]、たとえば、思考器官(manas)と結合した感覚 器官が、明るい光のもとで接触した壷12である。また[無意昧なものとは]、たとえば、 烏の歯である。そして、[もし、ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら]、このブラフマンも、[疑問の余地がなく無意昧なものであると いう点では、壷や烏の歯と]同様である13。従って、[ブラフマンには]、領域を覆うもの(vyāpaka)[である疑問の余地があり意味のあるものであるという性質]14とは相反する[領域に存在する性質、すなわち、疑問の余地がなく無音味なものであるという性質]が認められる。[従って、ブラフマンは考察の対象に価しないのである。]
  詳論すれば以下の通りである。[ウパニシャッドでは、アートマンとブラフマンの同一 性が次のように説かれている]。すなわち、[アートマンだけが]偉大であり(brhatva)、 [身体等を]成長させる[存在]である(brmhatva)。従って、アートマンだけがブラフマンと呼ばれるのである」15と。身体・器官・統覚機能(buddhi)・思考器官16ー [それらは]、「これ」という語(経験)の対象の対象(idamkārāspada)17である一とは異なり、こ[のアートマン]は、「私」という直接経験(aparokusāubhava)一[それは]疑いの余地がなく錯倒することのない[経験]である一によって、虫や蛾から神々や聖仙に至るあらゆる生命体に広く知られている。それ故、[アートマンは]考察の対象[に価し]ない。というのは、この世の中に、「私は存在しているのかいないのか」と疑う者は誰もいないし、「私は存在しない」と錯倒した[考えを抱く]者はいないからである。

脚注
12ニヤーヤ学派の知覚論では、直接知覚は、対象一感覚器官一思考器官一アートマンが結合した時に得られるとされている。この種の結合が存在しかつその時に外界の光が不足していなければ、常に正しい知覚が得られるのである。
13『ブラフマ・スートラ』は、冒頭のスートラⅠ.1.1で、その書の考察の対象がブラフマンであることを述べ、スートラI.1.3では、そのブラフマンが、聖典すなわちウパニシャッドから知られることを述べている。この立場は、ヴェーダーンタ学派の基本的立場であり、『ブラフマ・スートラ註解』も複註『パーマティー』もそれを受けついでいる。ここで反対主張が提示しているのは、この立場に対する疑問である。
14領域を覆うもの(vyāpaka)とか領域を覆われるもの(vyāpya)とは、推論において用いられる概念で、・・・丁寧な脚注がつづくが、長いので省略する。
I5ここでは・Brahmanの語義を/brh(増大する)、/brmh(成長させる)という語源から説明しているのである。
16個人存在は、アートマンとその添性を構成する五種の構成要素よりなる。すなわち、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)語・手・足’排便器官・生殖器官の五種の行動器官、(4)視覚・聴覚・臭覚・味覚、触覚の五種の感覚器官(5)統覚機能・思考器官という内官からなる。
17「これという語(経験)と訳したidamkāraという語は、私という語(経験)と訳(し)たahamkāraという語と対をなしており、ahamkāraという語か、ahampratyaya(私という観念)やahamanubhava (私という経験)と同義であるということに見られるように、語レベルと観念や経験レベルのものの両者を含み込んだ語である。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、いつもありがとうであります。

391鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:15:08 ID:1d4drIFg0

 ↑どういたしまして、またおいでなさい。

392鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:24:51 ID:1d4drIFg0

 これはバーチャスパティミシュラが書いたバーマティーの主要部分の抜粋なのじゃ。
 シャンカラが書いたブラフマ・スートラの注解をさらに注解したのじゃ。

 最初にブラフマンとアートマンが一つであり、自己を疑うものはいないから、考察するべきではないという反対意見が出されたのじゃ。
 想定問答なのじゃ。

393避難民のマジレスさん:2022/06/24(金) 23:51:41 ID:IwvwqAX.0
つづき    p202-203
  「『私はやせている。私は太っている。私は行く云々』という表現(経験)に見られ るように、私という語は、身体の属性[を表わす語]と同格関係(sāmānyādhikarnya) 18にあるから、その対象が身体である」というのは誤りである。何故なら、[「私」とい う語(経験)の]対象がそれ(身体)であるとすると、「子供の頃、両親[と共に過ご した]経験を持つ同じ私が、老人となって、[今]、孫達[と共に過ごすこと]を楽しんでいる」という再認識(pratisamdhāna)は存在し得ないことになるからである。と いうのは、子供の頃の身体と老人になった時の身体には、再認識の手がかりとなるもの一もし、そ[の手がかり]があれば、[両者の]同一性が確認しうるのだが が、 全く[認められ]ないからである。従って、変化してゆくものの中にあって変わるこ となく存在するものは、それら(変化してゆくもの)とは異なってい。たとえば、花 びら[を繋ぎとめている、花輪の]糸が、それら(花びら)とは異なっているように。 それと同じように、身体は、子供の頃[から老人になるまで]次々と変化していっても、「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく[身体中に]存在している[ので、それは]それら(身体)とは異なっているのである。また、 夢の中で[人問の身体とは]別の神の身体を得て、そ[の神の身体]にふさわしい楽し みを味わい、目が醒めた時、自分の身体が人問のものであるのを見て、「私は神ではなかった。人間だったのだ」と、[夢の中の]神の身体を拒斥することがある、[その時]でも、「私」という語(経験)の対象は拒斥されない。[このことからも、「私」という
語(経験)の対象が]身体と異なることは明らかである。また、[聖者は]、ヨーガの力で虎となり、[人問の身体と]別の身体[を得て]も、アートマンに変わりがないことを体験している。それ故、「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。この[「私」という語(経験)の]対象が、器官ではないのも、同じ理由による。というの は、「私は、[以前、視覚を通して物を]見ていた。その同じ私が、今、[触覚を通して物に]触れている」という[経験に見られるように]、「私」という[語(経験)の]対象は、[用いられる]器官が異なっても、再認識されているからである。一方、こ[の 「私」という語(経験)の対象]が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、[「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というの は]、統覚機能や思考器官19は、[行為する時に用いられる]手段[であるから]、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現[に用いられる「私」という語]の対 象ではありえないからである。従って、[「私」という語(経験)の対象が身体等と]同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、「ベッドが叫んでいる」など[の表現]と同じように、ある種の比喩的用法(aupacārikā)だと[考えるの が]正しいのだ、と我々は思っているのである。

脚注
18 同格関係は、語レベルでは、複数の語の示す対象が同一であることを示し、存 在レベルでは、複数の属性が同じ基体に存在することを示す語である。
ここでは前者の意味で、「私」という語は「太っている」という語と同格関係にあり、「太っている」とい う語の示す対象は身体であるから、「私」という語の対象も身体ということになる。
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

394鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/25(土) 22:53:08 ID:1d4drIFg0

 ここでは私という主体が肉体ではないと説かれるのじゃ。
 さらに意思決定のための器官や思考のため器官も私ではないと説かれるのじゃ。
 それらは主体によって用いられる手段に過ぎないからというのじゃ。
 言葉によって私が行為するとか、決定するとか、思考するというのは比喩として用いられるだけなのじゃ。

395避難民のマジレスさん:2022/06/25(土) 23:25:00 ID:GCyNwt.I0
つづき   p203-204
  それ故、全く自明な「私」という経験(anubhava)によって理解されるアートマンは、 「これ」という語(経験)の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。このことが、[まず、これまでの論議により]確認された。
  [また、アートマンが、考察の対象に価いしない第二の理由は、それが]無意味なものだからである。詳論すれば以下の通りである。この[アートマンの考察]に関して、 [ヴェーダーンタ側が]主張しようとしている[考察の]意味(目的 prayojana)は、 輪廻の止滅(samsāranivrtti)すなわち解脱(apavarga)である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに[人々が]開眼(anubhava)しないところにある。 [従って]ありのままのアートマンが知られれば、[輪廻は]止滅するはずである。[これがヴェーダーンタ側の主張であろう]。しかし、この[輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識(ātmayāthātmyajñāna)もまた無始である。[従って、 これらはたえず]共存している。[それ故、ありのままのアートマンが知られたところで]、どうしてこ[の輪廻]が止減したりしようか。というのは、[これらは]相反する ものではないからである。また、[人々が]ありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という万人に自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。[従って]ウパニシヤッドが千[集まって]も、[このアートマンを]別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、[「私」という自明の]経験と反するからである。実に、聖典は、千[集まって]も、壷を布に変えるこ とはできないのである。それ故、[「私」という自明の]経験と反するから、[アートマンとブラフマンの同一性を説く]ウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と[理解するのが]正しい。[これが]我々の考えである。
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/26(日) 22:46:26 ID:1d4drIFg0

 以上のような手段によらない直接経験の主体は、疑問の余地もないものであるから考察に値しないというのじゃ。
 
 さらに二つ目の理由が語られるのじゃ。
 それは無意味であるからというのじゃ。
  
 アートマンの知識とは輪廻があるかぎり存在するものであるというのじゃ。
 その知識によって輪廻がとまるわけではないからというのじゃ。
 
 私という直接経験が得られればアートマンに開眼するというのじゃ。

 そして知識によってアートマンがブラフマンに変化するものできないというのじゃ。
 その知識は比喩でしかないから無意味というのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2022/06/26(日) 23:28:57 ID:D5cVyf3c0
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 204-206 104左/229

  「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象で ある客観は、光と闇のように本性が相反しており、[主・客が]互いに入れ換 わること(itaretarabhāva)は起りえない。[この事実は]広く認められているので、そ(主観と客観)の諸属性に関しても、互いに入れ換わることはなおさら起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤り(mithyā)であると[理解するのが]正しい。[にもかかわらず・・・・]

  [反対主張者が]このような(先に紹介したような)考えを抱いて[まず]疑問を提示し、[それに対し、師シャンカラが答えているのが]「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]は[云々の箇所]である。このうち、「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]はから誤りであると[理解するの]が正しいまでが、[反対主張者の]疑問の箇所であり、にもかかわらず以下が、[それに対する]答えの個所である。この[答えの箇所には]にもかかわらず(tathā api)と述べられているので、疑問の個所に、たとえ...であっても(yady api)[という語]を[補って]読むべきである。[この箇所は]「私」という観念の対象[である主観]と「これ」という観念の対象[である客観]は、と言うぺきところであるが、[ここで]「汝」[という語]が用いられているのは、[主・客が]完全に異なることを暗示するためである。その典拠は、「『汝』という語は、『私』と いう語と相入れない(pratiyogin)。しかし、『これ』という語はそうではない。何故なら、『これが(ete)私達である。この(ime)私達が座っている』という用法が、よく 見られるからである」と[いう章句にある]。主観(visayin)とは、純粋精神を本質と するアートマンのことであり、客観(visaya)とは、物質を本質とする統覚機能・器 官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)[が対象と呼ばれるの]は、 純粋精神であるアートマンを対象化する(visinvanti)22するからである。[すなわち、 アートマンを]束縛したり、[形態のないアートマンを]自己の形態で規定したりなどするからである。[このように主・客の]本質が完全に相反するところに、相互附託の 起りえない理由があり、[その]例として、光と闇のようにと[述べられているのである]。というのは、光と闇のように明らかに異なる存在(samudācaradvrttinī)23か互 いに[相手の]本質を共有しあっていると考えることは、決して誰にもできないから である。[このことが本文中では、主・客が]互いに入れ換わることが起りえないと述べられているのである。[主・客が]互いに入れ換わるとは・[主・客が]互いに[相手の]性質を有すること(itaretaratva)・[主・客の]同一性(tādātmya)等[の意味]である。[そして]それ(互いに入れ換わること)が起りえない時にというのが、[文の脈略である]。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通 して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22ここでは、対象(visaya)の語源を/vis(束縛する)という動詞から説明しているのである。
23
(´・(ェ)・`)
(つづく)

398避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 10:44:15 ID:mgKnwXpc0
くまなりまとめ1。『パーマティー』序論  1.『註解』冒頭文の趣旨説明 

反対主張 
(一)考察の対象に価しない理由1
1、賢者の考察の対象は、疑問の余地があるものであるべき。ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら、このブラフマンは、疑問の余地が無い。(論理的反対主張)
2、(語源的には、)アートマンが偉大であり(brhatva)、 身体等を成長させる[存在]である(brmhatva)ので、ブラフマンと呼ばれるのであり、身体、感覚、思考等とは異なる。
3、身体、感覚、思考等は、経験を通して観念を介して間接的に知れるものであるが、「私」という「直接経験」は疑いの余地が無い。
4、私という語は、身体の属性を表わす語と同格関係にあるから、その対象が身体である
 というのは誤りである。
 加齢に従い身体は変化するが、

 変化してゆくものの中にあって変わることなく存在するものは、それら変化してゆくものとは異なっている。
 「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく身体中に存在しているので、それはそれら(身体)とは異なっているのである。
 「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。又、器官でもない。
 「私は、以前、視覚を通して物を見ていた。その同じ私が、今、触覚を通して物に触れている」という経験に見られるように、「私」という語(経験)の対象は、用いられる器官が異なっても、再認識されているからである。
 一方、この 「私」という語(経験)の対象が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というのは、統覚機能や思考器官19は、行為する時に用いられる手段であるから、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現に用いられる「私」という語の対象ではありえないからである。従って、「私」という語(経験)の対象が身体等と同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、ある種の比喩的用法だと考えるのが正しいのである。

脚注
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。

  全く自明な「私」という経験によって理解されるアートマンは、「経験」の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。

(ニ)考察の対象に価しない理由2
 アートマンを考察の対象にすることが無意味だからである。
 ヴェーダーンタ側が主張しようとしている考察の意味(目的)は、 輪廻の止滅すなわち解脱である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに人々が開眼しないところにある。 従ってありのままのアートマンが知られれば、輪廻は止滅するはずである。これがヴェーダーンタ側の主張であろう。しかし、この輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識もまた無始である。従って、 これらはたえず共存している。それ故、ありのままのアートマンが知られたところで、どうしてこの輪廻が止減したりしようか。というのは、これらは相反する ものではないからである。また、人々がありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。従って、このアートマンを別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、「私」という自明の経験と反するからである。従って、アートマンとブラフマンの同一性を説くウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と理解するのが正しい。

何やら、説得力のある反対主張と思えてしまうくまであります。
(´・(ェ)・`)ゞ

399鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/27(月) 23:07:57 ID:1d4drIFg0
 ↑そのような理解でよいのじゃ。

 それに対する反論として、まずは主客が入れ代わったりしないことをシャンカラは述べているというのじゃ。
 光と闇のように主客はあいいれない性質であるというのじゃ。
 つまりアートマンと、意思とか思考の機能はいれかわることはないというのじゃ。
 相互に依託する事もないというのじゃ。


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