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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

1避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 08:14:59 ID:wCRrWiVM0
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL: https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/

316避難民のマジレスさん:2020/10/15(木) 21:56:28 ID:m3k0meg20
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 1

質問
 私は完全に・完璧に正直であるなら、ほとんどあらゆる人を恨み、ときには憎んでいることを認めなければなりません。それは私の人生をとても不幸せに、苦痛にしています。私は、自分がこの恨み、この憎しみであることを、知的には理解しています。しかし、それに対処(抵抗)できません。私に対処法を示してもらえませんか。
K
 私たちのいう「知的に」とは、どういう意味でしょうか。私たちは何かを知的に理解しているというとき、それはどういう意味でしょうか。知的理解というようなものがあるのでしょうか。それともそれは、精神がたんに言葉を理解するだけということでしょうか。なぜなら、それが、私たちが互いに疎通し合う唯一の道であるからです。私たちはいったいどうやって・どんなふうに何かを、たんに言葉の上で、精神的に、本当に理解できるのでしょうか。それが、明らかでなければならない最初のことです-いわゆる知的理解は、理解にとって妨害でないのかどうか [ということが、] です。確かに理解とは統合的であって分割されず部分的ではないでしょう。私は何かを理解するかしないか、どちらかです。「私は何かを知的に理解している」と自分自身に言うことは、確かに理解にとって障壁です。それは部分的過程ですし、ゆえにそもそも・全く理解ではありません。
 そこで疑問はこうです-「恨み、憎んでいる私は、どのようにしてその問題から自由であるべきか、 [それに] 対処すべきか」です。私たちは問題にどのように対処するのでしょうか。問題とは何でしょうか。確かに、問題とは、何か動揺させるものです。
 私は恨んでいます、憎んでいます。私は人々を憎んでいるし、それが苦痛の原因になります。それに気づいています。私はどうすべきでしょうか。それは私の人生においてとても動揺させる要因です。私はどうすべきでしょうか。どのようにして本当にそれから自由になるべきでしょうか-ただちょっとの間(瞬間的に)それを脱ぎ捨てる(脱却する)のではなく、根本的にそれから自由になるのです。私はそれをどうすべきでしょうか。
 それが私にとっての問題です。なぜなら、それは私を動揺させるからです。もしもそれが私を動揺させるものでなかったなら、私にとって問題ではないのではないでしょうか。それが苦痛、動揺、心配の原因になるから、それは醜いと思うから、私はそれを取り除きたいのです。ゆえに私が嫌っているものは、動揺なのではないでしょうか。私は違ったとき、違った気分で、違った名前を、それに付けます。ある日、私はそれをこれだと呼び、他の日、何か他のものだと呼びますが、願望は、基本的に動揺させられないことです。そうではないでしょうか。楽しみは動揺させないから、私はそれを受け入れます。私は楽しみから自由になりたくないのです。なぜなら動揺がないからです-少なくとも今のところは(さしあたりは)。しかし憎しみ、恨みは、私の生においてとても動揺させる要因ですし、それらを取り除きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

317鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/16(金) 22:29:44 ID:1d4drIFg0
理解が言葉や観念だけでは本当の理解ではないというのじゃ。
むしろそれは本当の理解の妨害になるとまでいうのじや。
部分的にしか理解していないからなのじゃ。
全体として理解しなければいかんのじや。

318避難民のマジレスさん:2020/10/17(土) 21:41:45 ID:U9XfzBUM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 2

 私の関心事は動揺させられないことです。そして決して動揺させられない仕方を見つけようとしています。なぜ私は動揺させられるべきでないのでしょうか。見出すには、動揺させられなければならないのではないでしょうか。見出すには、ものすごい激変・変動、騒動、心配を経なければならないのではないでしょうか。私は動揺させられないなら、眠ったままでいるでしょうし、おそらくそれが、私たちのほとんどがたしかに欲しいものです-められ・静められること、眠りにつかされる(安楽死させられる・麻酔をかけられる)こと、どんな動揺からも逃げること、孤立、隔離(隠遁)、安全を見つけることです。私は動揺させられることを気にしないなら-本当に、ただ表面的にだけでなく、動揺させられることを気にかけないなら-なぜなら私は見出したいからです-そのとき憎しみに向かう、恨みに向かう私の態度は、変化を受けるのではないでしょうか。動揺させられることを気にかけないなら、そのとき名前は重要ではないのではないでしょうか。「憎しみ」という言葉は重要ではないのではないでしょうか。また人々に対する「恨み」も重要ではないのではないでしょうか。なぜなら、そのとき私は、その経験を言葉にすることなしに、恨みと呼ぶその状態を、直接に経験しているからです。
 憎しみと恨みがそうであるように、怒りはとても動揺させる性質です。私たちのほとんどは、怒りを言葉にすることなく、直接にそれを経験しないのです。私たちがそれを言葉にしないなら、それを怒りと呼ばないなら、確かに違った経験があるのではないでしょうか。私たちはそれを用語づけるから、新しい経験を縮小・削減したり、それを古いものの用語に固定させるのです。ところが、私たちがそれに名づけないなら、そのとき直接に理解される経験があるのです。この理解が、その経験に変容をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

319鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/17(土) 21:52:48 ID:1d4drIFg0
動揺とは苦とも言い換えられるじゃろう。
苦があるからそれから逃れたいと思うのじゃ。
苦がなければ変容もいらないからのう。
憎しみや怒りや怨みも同じなのじゃ。
それを言葉ではなくありのままに観る時、変容も起こるのじゃ。

320避難民のマジレスさん:2020/10/19(月) 20:45:32 ID:7jrpjuM20
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 3

 卑しさ(賤しさ)を例に取りましょう。私たちのほとんどは、賤しいとしても、それに気づいていません-お金のことについて卑しい、人を許すことについて卑しい、ご存じでしょう、ただ卑しいことです。私たちはきっとそれに慣れ親しんでいると思います。そこでそれに気づくと、どのようにしてその性質から自由になろうとしているでしょうか-寛大になることではありません。それは重要な点ではありません。卑しさから自由であるとは、寛大という意味を含んでいます。あなたは寛大にならなくてもいいのです。明白に、それに気づいているにちがいありません。あなたは自分の社会・協会、友人に大きな寄付をすることにおいてとても寛大であるが、より多くのチップを払うことについてひどく卑しいかもしれません-ご存じでしょう。私のいう「卑しい」とはどういう意味なのかを。人はそれを意識していません。それに気づくとき、何が起きるでしょうか。私たちは意志を使って・行使して寛大であろうとします。それに打ち勝とうとします。私たちは自分たち自身を修練して寛大であろうとする、等々です。しかし結局、何かであろうとする意志の行使は、やはりより大きな輪のなかの卑しさの一部です。ですから私たちはそれらのことを何もしないで、それに用語を付けないで、たんに卑しさの含む意味に気づくだけなら、そのとき根元的変容が起きるということが、わかるでしょう。
 どうかこれを実験してみてください。初めに、動揺させられなければなりません。私たちのほとんどが動揺させられることを好まないのは明白です。私たちは生の様式を見つけてしまったと考えます-大師、信念、何であろうと-。そしてそこに身を落ち着かせるのです。それはよい官僚職を得て、残りの人生をそこで働く・職務を果たすのに似ています。それと同じ精神をもって、私たちは取り除きたいと思う様々な性質に接近するのです。私たちは動揺させられること、内面的に安全でないこと、依存していないことの重要性がわからないのです。確かに、あなたが発見するのは、わかるのは、理解するのは、安全でないことにおいてだけ、ではないでしょうか。私たちは沢山のお金を持つ気楽な人のようになりたいのです。彼は動揺させられないでしょう。動揺させられたくないのです。
 動揺は、理解にとって本質的・必要不可欠です。安全を見つけようとするどんな試みも、
理解にとって障害です。私たちが何か動揺させているものを取り除きたいと思うとき、それは確かに障害です。私たちは一つの気持ち・感情を名づけることなしに直接に経験できるなら、そこに沢山のことを見つけるだろうと、私は思います。そのときもはや、それとの戦いはありません。なぜなら経験者と経験されるものは一つであるからです。それは本質的です。経験者が感情、経験を言葉にするかぎり、自分自身をそれから分離して、それについて決定を下します(それに対して作用します)。そういう行動は作為的な幻影の行動です。しかし言葉にすることがなければ、そのとき経験者と経験されるものは一つです。その統合は必要ですし、根元的に向き合わなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

321鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/19(月) 22:30:08 ID:1d4drIFg0
賎しさとか動揺は気付くことで消えるというのじゃ。
言葉にして分類すればそれは消えないのじゃ。
それは観念になるからのう。
自他の無い気づきによってそれは消えるのじゃ。

322避難民のマジレスさん:2020/10/20(火) 22:03:55 ID:pCc6rk3k0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 1

質問
 うわさ話は、自己開示・自己の正体を顕わにすることにおいて-特に他の人たちを私に開示することにおいて-価値があります。真剣に・本気で言って、なぜうわさ話を、あるがままを発見する手段として使わないのでしょうか。それがただ幾時代にわたって・長い間非難されてきたからといって、私は「うわさ話」という言葉に身震いし・おののきません。

 なぜうわさ話しをするのか、不思議に思います。それが私たちに他の人たちの正体を顕わにするから、ではありません。そしてなぜ他の人たちの正体が私たちに顕わにされるべきなのでしょうか。なぜあなたは、他の人たちを知りたいのでしょうか。なぜ他の人たちについての、このとてつもない関心 [があるの] でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはうわさ話しをするのでしょうか。それは一つの形の落ち着きのなさ、なのではないでしょうか。心配・悩みと同じように、それは落ち着きのない精神の表示です。なぜ他の人たちに干渉し、他の人たちがしている [こと] 、言っていることを知りたいというこの願望 [があるの]でしょうか。うわさ話しをするのは、とても表面的な精神-誤った方向に向けられた詮索・探究好きな精神-なのではないでしょうか。彼 [質問者] が他の人たちに-彼らのすること、彼らの思考、彼らの意見に-関心を持つことによって、他の人たちの正体が顕わになると、質問者は考えているように見えます。しかし私たちは自分たち自身を知らないなら、他の人たちを知るでしょうか。私たちは自分たち自身の考え方、行動の仕方、行い方を知らないなら、他の人たちを判断できるでしょうか。なぜ他の人たちについての、このとてつもない関心 [があるの]でしょうか。他の人たちが考え、感じ、 [それについて] うわさ話をしていることを見出したいというこの願望は、ほんとうは逃避ではないでしょうか。それは、自分たち自身からの逃避を、提供してくれるのではないでしょうか。それにはまた、他の人たちの生に干渉したいという願望もないでしょうか。他の人たちの [生]を取り扱わなくても、他の人たちの [生]に干渉しなくても、私たち自身の生が十分困難で、十分複雑で、十分苦痛なのではないでしょうか。そのうわさ好きの、残酷な、醜い仕方で、他の人たちについて考える時間があるでしょうか。なぜ私たちはこれをするのでしょうか。あらゆる人がそれをするのを、あなたは知っています。実際上、あらゆる人が他の誰かについてうわさ話をします。なぜでしょうか。 私が思うには、まず最初に、私たちは自分たち自身の考える [過程]、自分たち自身の行動の過程に十分に興味がないから、他の人たちについてうわさ話をするのです。私たちは、他の人たちがしていることを見たい、そして親切に・丁寧に言うと、おそらく他の人たちを模倣したいのです。一般的に、私たちがうわさ話をするとき、それは他の人たちを非難するためです。しかし寛大に・思いやりを持って拡大解釈すると、それは他の人たちを模倣するためです。
(´・(ェ)・`)つ

323鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/21(水) 21:32:15 ID:1d4drIFg0
他人の私生活を知りたいという欲は大抵の者にあるものじゃ。
そのために週刊誌とかワイドショーが多くの視聴者を集めるのじゃ。
それもまた逃避に過ぎないのじゃ。
自分の苦痛から逃避するために他人を模倣したいと思うのじゃ。

324避難民のマジレスさん:2020/10/24(土) 20:59:44 ID:NpTi/yjM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 2

なぜ私たちは他の人たちを模倣したいのでしょうか。それはすべて、私たち自身の方のとてつもない浅さを表示していないでしょうか。興奮が欲しくて、それを得るためにそれ自身の外側に行くのは、とてつもなく鈍い精神です。言い換えると、うわさ話は 一つの形の感動なのではないでしょうか- [それに]私たちは耽るのです。それは違った種類の感動なのかもしれません。しかし、興奮、散漫・逸脱を見つけたいというこの願望が、いつもあるのです。ほんとうに深くこの疑問に入るなら、自分自身に戻って来ます-それは、自分がほんとうにとてつもなく浅い [こと]、他の人たちについて話しをすることにより、外側から興奮を求めていることを、示すのです。今度あなたが誰かについてうわさ話をしているとき、自分自身を捕らえてください。あなたがそれに気づくなら、それはあなたに自分自身についてすごく多くのことを、表示してくれるでしょう。自分はたんに他の人たちについて詮索・探究好きなだけであると言うことによって、それを覆い隠さないでください。それは、落ち着きのなさ、興奮の感覚、浅さ、人々へのほんとうの奥深い興味-それはうわさ話とは何の関わりもない-の欠如を、表示しています。
 次の問題は、どのようにしてうわさ話を止めるのか、です。それが次の疑問なのではないでしょうか。あなたは、自分がうわさ話をしていることに気づくとき、どのようにしてうわさ話をするのを止めるのでしょうか。それが来る日も来る日も続く習慣、醜いものごとになってしまったなら、あなたはどのようにしてそれを止めるのでしょうか。その疑問が生じるでしょうか。あなたは、自分がうわさ話をしているのを知るとき、自分がうわさ話をしていることに気づき、そのすべての意味合いに気づくとき、そのとき「どのようにして私はそれを止めるのか」と、自分自身に言うでしょうか。あなたは自分がうわさ話をしていることに気づいた瞬間、それはひとりでに止まないでしょうか。「どのようにして」は、全く・そもそも生じません。「どのようにして」は、あなたが気づいていないときだけ、生じるのです。そしてうわさ話は、気づきの欠如を表示しています。今度あなたがうわさ話をしているとき、自分自身でこれを実験してみてください。すると、あなたが話していることに気づき、あなたの舌があなたをとりこにして・あなたの自制心を失わせていることに気づくとき、いかにすばやく、いかに即時に、うわさ話を止めるかが、わかるのです。それを止めるのは、意志の作用を要求しません。必要であるすべては、あなたが言っていることに気づくこと、意識すること、それの意味合いがわかることです。あなたはうわさ話を非難したり正当化したりしなくていいのです。それに気づいてください。するとあなたは、いかにすばやく自分がうわさ話をするのを止めるかが、わかるでしょう。なぜなら、それは、自分自身の行動の仕方、自分の行い、思考様式を、自分自身に顕わにするからです。その開示において、自分自身を発見するのです-そのほうが、他の人たちについて [うわさ話をすること] 、彼らがしていること、彼らが考えていること、彼らがどのように行うのかについてうわさ話をすることよりも、はるかにもっと重要です。
(´・(ェ)・`)つ

325鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/24(土) 22:05:48 ID:1d4drIFg0
他人を模倣したいのは興奮したいからというのじゃ。
それもまた逃避の一つなのじゃ。
そのような繰り返しを止めるにはそれに気付けばよいというのじゃ。
意志とは関係なくそれは止まるのじゃ。
それが厭離なのじゃ。

326避難民のマジレスさん:2020/10/25(日) 14:40:16 ID:N0Rb0.AY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 3

 新聞を毎日読む私たちのほとんどは、うわさ話、全世界の・世界的なうわさ話で満ちています。それはすべて、自分たち自身からの、自分たち自身の卑小さからの、自分たち自身の醜さからの逃避です。私たちは、世界の出来事への表面的な興味をとおして、ますます自分たちは賢くなってゆく、ますます自分たち自身の生を扱う能力を持つようになってゆくと、思うのです。これらすべては、確かに、私たち自身から逃避する仕方なのではないでしょうか。私たち自身があまりに空っぽで浅いのです。私たちはあまりに自分たち自身に怯えています。うわさ話が一つの形の豊かな・豪華な娯楽、自分たち自身からの逃避として作用するほどに、私たち自身があまりに貧しいのです。私たちは自分たちのなかのその空っぽを、知識で、儀式で、うわさ話で、集団会合・集団的出会いで-無数の逃避の仕方で充たそうとするので、そのためあるがままについての理解 [が重要になるの]ではなく、逃避が非常に重要になるのです。あるがままについての理解は、注意を要求します。空っぽであること、苦痛 [の状態]にあることを知るには、逃避ではなく、測りしれない注意が要るのです。しかし私たちのほとんどはこれらの逃避が好きです。なぜならそれらのほうがもっと快く・愉快でもっと楽しいからです。また私たちがあるがままの自分たち自身を知るとき、自分たち自身を取り扱うことがとても難しいのです。それが、私たちが向き合っている問題の一つです。私たちはどうすべきなのかを知らないのです。私は、自分が空っぽであること、苦しんでいること、苦痛 [の状態]にあることを知るとき、どうすべきか、それをどう取り扱うべきかを知らないのです。それで私たちはすべての種類の逃避に頼る・訴えるのです。
 問題はどうすべきか、です。明白に、もちろん逃避はできません。というのは、それはもっとも不合理で幼稚であるからです。しかしあなたは、あるがままの自分自身に向き合うとき、何をすべきでしょうか。初めに、それを否定したり正当化しないで、ただそれ-あるがままの自分-とともにとどまることは、可能でしょうか。それは極めて困難です。なぜなら、精神は説明、非難、同一化を求めるからです。それがそれらのものごとのどれもしないで、それとともにとどまるなら、そのとき、それは何かを受け入れているのと同じです。私が [肌の色が]茶色・褐色であることを受け入れるなら、それで、それは終わりです。しかし私がもっと明るい色に変わりたいと望むなら、そのとき問題が生じるのです。あるがままを受け入れることはもっとも難しいのです。逃避がないときだけ、それができるのです。そして非難や正当化は、一つの形の逃避です。ゆえに、なぜうわさ話をするのかについての過程全体を理解するとき、その不合理さ、残酷さと、それに関与するものごとすべてを悟るとき、そのとき、あるがままとともに残されるのです。そして私たちはいつも、それを破壊しよう、またはそれを他の何かに変えようとして、それに接近するのです。私たちは、それらのものごとのどれもしないで、それを理解しよう、完全にそれとともにあろうという意図をもって、それに接近するなら、そのとき、もはや私たちが怖がったものがないということが、わかるでしょう。そのとき、あるがままを変容させる可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

327鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/25(日) 21:57:29 ID:1d4drIFg0
うわさ話に夢中になっているのは全て逃避というのじゃ。
逃避をやめるためにはあるがままの自分と向き合わなくてはならんのじゃ。
否定も正当化も無くあるがままの自分と向き合うのじゃ。
肯定も否定も無くあるがままの自分と向き合う時にのみそれを変容させる可能性があるというのじゃ。
困難なことではあるがのう。

328避難民のマジレスさん:2020/10/26(月) 18:43:15 ID:tJzoXanI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 1

質問
 批判は、関係のなかで、どんな持ち場があるのでしょうか。破壊的 [批判]と建設的批判の間の違いは何でしょうか。

まず最初に、なぜ私たちは批判するのでしょうか。それは理解するためでしょうか。それともそれはたんに口うるさい・口やかましい過程でしょうか。私はあなたを批判するなら、あなたを理解するでしょうか。理解は、判断をとおして来るでしょうか。私は、あなたとの関係の意義全体を、表面的にではなく深く了解したいなら、理解したいなら、あなたを批判しはじめるでしょうか。それとも私は、あなたと私の間のこの関係に気づいて、それを静かに観察するでしょうか-私の意見、批判、判断、同一化、非難を投影するのではなく、何が起きているかを静かに観察するのです。そして私が批判しないなら、何が起きるでしょうか。眠りがちになる・眠りそうになるのではないでしょか。それは、私たちは口やかましく言っているなら眠らない、という意味ではありません。おそらくそれは習慣になるし、私たちは習慣をとおして自分たち自身を眠らせるのです。批判をとおして、関係についてのより深い、より広い理解があるでしょうか。批判が建設的であるか破壊的であるかどうかは、大事なことではありません-それは確かに不適切・見当違いです。ゆえに疑問は「関係を理解するであろう精神と心の必要な・必然の状態は何か」です。理解する過程は何でしょうか。どのようにして私たちは何かを理解するのでしょうか。あなたは自分の子供に興味があるなら、どのようにして自分の子供を理解するのでしょうか。あなたは観察するのではないでしょうか。あなたは遊んでいる彼を見守ります。あなたは違った気分の彼を研究します。あなたは彼に自分の意見を投影しません。あなたは彼にあれこれであるべきだと言いません。あなたは鋭敏に見守っているのではないでしょうか。活発に気づいているのです。そのときおそらく、あなたは子どもを理解しはじめます。あなたは常に批判し、自分自身の特定の人格・性格、性向、意見を常に注入し、彼があるべき、あるべきでない道を決定し、その他すべてをしているなら、明白に、その関係に障壁を造り出すのです。不幸にも、私たちのほとんどは、形造るため、干渉するために、批判するのです。何かを-夫、子ども、誰であろうと [との] 関係を-形造ることは、一定量の楽しみ、一定の喜びを、私たちに与えてくれるのです。あなたはそのなかに力の感覚を感じるのです。あなたは長・主人です。それには、ものすごい喜びがあるのです。確かに、そのすべての過程をとおして、関係の理解はないのです。たんなる賦課 [だけがある] 、あなたの性向、願望、願いの特定の様式に、もう一人を型どりたいという願望だけがあるのです。これらすべてが、関係の理解を妨げるのではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

329鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/26(月) 22:44:21 ID:1d4drIFg0
批判することは破壊的でも、建設的でもただ障壁を作り出し、理解の妨げになるというのじゃ。
それもまた逃避の一つに過ぎないのじゃ。
理解するにはただありのままに観察する事が大事だというのじゃ。
どのようにすべきとか思わずただ鋭敏に見守っている時に理解が在るのじゃ。

330避難民のマジレスさん:2020/10/28(水) 21:55:52 ID:hqpPt0vs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 2

 それから自己批判があります。自分自身に批判的であること、自分自身を批判し、非難し、正当化すること-それは自分自身の理解をもたらすでしょうか。私は自分自身を批判しはじめるとき、理解する [過程]、探検する過程を制限しないでしょうか。内省 [つまり] 一つの形の自己批判は、自己を展開するでしょうか。自己の展開を可能にするのは何でしょうか。常に分析的で、恐れて、批判的であること-確かにそれは展開するのを助けません。あなたがそれを理解しはじめるほどに、自己の展開をもたらしてくれるものは、どんな非難もない、どんな同一化もない、それへの常なる気づきです。一定の自発性がなければなりません。あなたは常にそれを分析し、それを修練し、それを形造っていることはできません。この自発性は、理解するために・理解にとって本質的 [・不可欠]です。私はたんに制限し、制御し、非難するだけなら、そのとき思考と感情の動きを中止する・止めるのではないでしょうか。私が発見するのは、思考と感情の動きのなかでです-たんなる制御のなかではありません。発見するとき、それについてどのように行動するのかを見出すことが重要です。私は観念に応じ、規範に応じ、理想に応じて行動するなら、そのとき自己を特定の様式に押し込むのです。それには理解がありません。超越がありません。私がどんな非難もなく、どんな同一化もなく、自己を見守れるなら、そのときそれを越えてゆくことが可能です。そういうわけで、自己を理想に近づけるこの過程全体が、全く間違っているのです。理想は自家製の神です。自己投影されたイメ-ジに順応することは、確かに解放ではありません。
(´・(ェ)・`)つ

331鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/29(木) 21:05:40 ID:1d4drIFg0
自分を批判することもあるがままに自分を観ていないことになるのじゃ。
それは一種の自己正当化に他ならないのじゃ。
批判する自分は正しいという自己揚棄なのじゃ。
非難も同一化もなく自己を観まもることが超越というのじゃ。

332避難民のマジレスさん:2020/10/30(金) 20:23:32 ID:eGllDJ6Q0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 3

 こうして、精神が静かに気づき、観察しているときだけ、理解がありうるのです-それは困難です。なぜなら私たちは活動的であること・活動していること、落ち着かなく、批判的であること、非難し、正当化することに、喜びを感じるからです。それが、私たちの存在の構造全体です。そして観念、先入観、視点、経験、記憶の をとおして、私たちは理解しようとするのです。これらすべての幕から自由であって、そのため直接に理解することは、可能でしょうか。確かに私たちは、問題がとても強烈であるとき、そうします。私たちはこれらすべての方法を経てゆきません-それに直接に接近します。この自己批判の過程が理解されて、精神が静かであるときだけ、関係の理解は来るのです。あなたが私 [の言うこと]を聴いていて、私が伝えたいと願うことに、あまり大きな努力もなしに付いていこうとしているなら、そのとき私たちが互いに理解し合う可能性があるのです。しかしあなたがいつのときも批判して、自分の意見を、書物から学んできたこと、他の誰かが自分に言ったこと、などなどを吐き出して・投げつけているなら、そのときあなたと私は関係していません。なぜなら、この幕が私たちの間にあるからです。私たちが共に、問題の論点を見出そうとしているなら-それは問題自体にあります-私たちの双方が、それの底・根底に行こう、それの真理を見つけよう、それが何であるかを発見しようと熱望しているなら、そのとき私たちは関係しているのです。そのときあなたの精神は鋭敏で受動的であり、何がこれの真理なのかを見ようと見守っているのです。 ゆえにあなたの精神は、どんな観念や理想にも、どんな判断にも、自分の特定の経験をとおして固めてきたどんな意見にも固定されるのではなく、とてつもなくすばやく・敏速でなければなりません。受動的に気づいている精神のすばやい柔軟性があるとき、理解は確かに来るのです。そのときそれは受け取る・受容の能力があるのです。そのときそれは敏感です。精神は、観念、先入観、-賛成でも反対でも-意見を詰め込まれているとき、敏感ではありません。  
 関係を理解するには、受動的な気づきがなければなりません-それは関係を破壊しません。反対に、それは関係をはるかにもっと生き生きさせ、はるかにもっと意義深くするのです。そのときその関係には、ほんとうの愛情の可能性があるのです。暖かさが、親密さ・親近の感覚があります-それはたんなる感傷や感動ではありません。私たちがそのように接近でき、あらゆるものごととその関係にあることができるなら、そのとき私たちの問題-財産の問題、所有の問題-は、たやすく解決されるでしょう。なぜなら、私たちは自分たちが所有するものであるからです。お金を所有する人がお金です。自分自身を財産と同一化する人が、財産や家や家具です。観念や人々についても同様です。所有欲があるとき、関係はありません。私たちは所有しないなら、他に何も持たないから、私たちのほとんどは所有するのです。私たちは所有しないなら、家具、音楽、知識、あれこれで自分たちの生を充たさないなら、空っぽの貝殻・殻です。そしてその貝殻がたくさんの音・雑音を出すし、その音が生活と呼ばれるのです。私たちはそれで満足しているのです。それの破裂・崩壊、急変・切断があるとき、そのとき悲しみがあるのです。なぜなら、そのときあなたは突然、あるがままの自分自身-あまり意味のない空っぽの貝殻-を発見するからです。関係の内容全体に気づくことが行動です、その行動から、真の関係の可能性、それの大いなる深み、それの大いなる意義を発見する [可能性]、愛が何であるかを知る可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

333鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/30(金) 23:10:46 ID:1d4drIFg0
先入観とか観念とか記憶による介入の無い精神が静かな観察をしているときだけ理解はあると言うのじゃ。
それら観念などがあれば理解は無いのじゃ。
関係性の理解は受動的な気づきからくるのじゃ。
その時、真の愛があると言うのじゃ。

334避難民のマジレスさん:2020/10/31(土) 20:06:35 ID:ZRMAMl/o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 1

質問
 神への信念は、よりよい生活への強力な誘因・動機でした。なぜあなたは神を否定されるのでしょうか。なぜあなたは、神の観念への人の信仰を蘇らせ・復活させないのでしょうか。

 問題を、広く智恵をもって見つめましょう。私は神を否定していません-そうすることは愚かでしょう。真実を知らない人だけが、無意味な言葉に耽るのです。知っていると言う人は、知りません。瞬間瞬間真実を経験している人は、その真実を伝達する手段を持たないのです。
 信念は真理の否定です。信念は真理の障害です。神を信じることは、神を見つけることではありません。信じる者も信じない者もどちらも、神を見つけないでしょう。なぜなら、真実は知られないものであるからです。知られないものへのあなたの信や不信は、たんに自己投影です。ゆえに真実ではありません。あなたが信じているのを、私は知っています。そしてそれは、あなたの生においてほとんど意味がないのを、私は知っています。信じている多くの人たちがいます。何百万もの人たちが神を信じているし、慰安を受けています。まず最初に、なぜあなたは信じるのでしょうか。それがあなたに満足、慰安、希望を与えてくれるから、あなたは信じるのです。そしてそれが生に意義を与えてくれると、あなたは言うのです。現実には、あなたの信念はほとんど意義がありません。なぜなら、あなたは信じて搾取 [・利用]する、信じて殺す、普遍的な神を信じて、互いに殺し合うからです。富裕な人もまた神を信じています。彼は無慈悲に搾取し、金を蓄積します。それから寺院を建てたり、社会奉仕家・慈善家になったりします。
 広島に原子爆弾を落とした人たちは、神が自分たちと共にいると、言いました。ドイツを破壊しようとイギリスから飛んだ・飛行機に乗った人たちは、神が自分たちの副操縦士・操縦助士であると、言いました。独裁・指令者、総理大臣・首相、将軍、大統領、すべてが神について話しをします。彼らは神への測りしれない信仰を持っています。彼らは人のために奉仕をし、よりよい生を作っているでしょうか。自分たちは神を信じていると言う人たちは、世界の半分を破壊してきたのです。世界は完全な悲惨 [の状態]にあるのです。宗教的不寛容をとおして、信じる者と信じない者としての人々の分割がありますし、宗教戦争につながっています。それは、あなたがいかにとてつもなく政治的精神を持っているかを、表示しています。
(´・(ェ)・`)つ

335鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/31(土) 22:02:51 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティは神を否定しないというのじゃ。
しかし、神を信じるのは満足を求めているからというのじゃ。
神を信じる者は金を貯めて戦争を引き起こすというのじゃ。
それはただ観念への囚われでしかないから悲惨を引き起こすのみなのじゃ。

336避難民のマジレスさん:2020/11/01(日) 12:31:02 ID:zvxCgIyg0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 2

 神への信念は、「よりよい生活への強力な誘因」でしょうか。なぜあなたはよりよい生活への誘因がほしいのでしょうか。確かにあなたの誘因は、清く単純に生きたいというあなた自身の願望であるにちがいないのではないでしょうか。あなたは誘因に頼るなら、みんなのために生を可能にすることに興味がないのです。あなたはたんに自分の誘因に興味があるのです-それは私の [誘因]とは異なっています-それで私たちは誘因のことでけんかするでしょう。私たちは、神を信じているからではなく、人間であるから、一緒に幸せに生きるなら、そのときみんなのためにものを産み出す・生産するための完全な生産の手段を共有するでしょう。智恵の欠如をとおして、私たちは神と呼ばれる超智恵の観念を受け入れるのです。しかしこの「神」、この超智恵は、私たちによりよい生活を与えてくれそうにありません。よりよい生活に導くものは智恵です。そして信念があるなら、階級分割があるなら、生産の手段が少数者の手中にあるなら、孤立化した国家 [・民族]と独立政権があるなら、智恵はありえません。このすべては明白に、智恵の欠如を表示しています。よりよい生活を妨げているのは、智恵の欠如であって、神への不信ではありません。
 あなたたちはみんな、異なった仕方で信じています。しかしあなたの信念は全く何の真実性もありません。真実は、あなたのあるがまま、あなたのすること、あなたの考えることです。あなたの神への信念は、たんに自分の単調な愚かな残酷な生からの逃避です。そのうえ・さらに、信念は必ず人々を分割します。ヒンドウ-教徒、仏教徒、キリスト教徒、共産主義者、社会主義者、資本主義者などがあります。信念、観念は分割するのです。それは決して人々を一つにまとめません。あなたは少数の人々を一つの集団にまとめるかもしれません。しかしその集団はもう一つの集団と対立しているのです。観念と信念は決して統合していません。反対に、それらは分離的で、崩壊的で、破壊的です。ゆえに、あなたの神への信念は、ほんとうは世界に悲惨を広げているのです。それはあなたに瞬間の慰安をもたらしたかもしれないけれども、現実には、戦争、飢饉、階級分割、分離した個人の無慈悲な行動という形で、あなたにもっと多くの悲惨と破壊をもたらしたのです。それであなたの信念は全く妥当性がありません。もしもあなたがほんとうに神を信じていたなら、もしもそれがあなたにとってほんとうの経験であったなら、そのときあなたの顔に微笑みがあるでしょう。あなたは人間を破壊していないでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

337鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/01(日) 21:41:20 ID:1d4drIFg0
神を信じるのはよりよい生活をもとめているからというのじゃ。
しかし、それはよりよい生活は与えてくれないのじゃ。
むしろ無智に導く逃避だというのじゃ。
神や何かの主義を信念として持つ者はそれによって分裂するのみなのじゃ。

338避難民のマジレスさん:2020/11/02(月) 18:53:42 ID:0QoXVJ3I0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 3

 では真実とは何でしょうか。神とは何でしょうか。神は言葉ではありません。言葉はもの
ごと・実体ではありません。測ることのできない、時間のものではないものを知るには、精神は時間から自由でなければなりません-それは、精神が、神についてのすべての思考から、すべての観念から自由でなければならない、という意味です。あなたは、神や真理について何を知っているでしょうか。あなたはその真実について、ほんとうは何も知らないのです。あなたが知っているすべては、言葉 [です]、他の人たちの経験や、或る瞬間のあなた自身のかなり漠然とした・あいまいな経験です。確かに、それは神ではありません。それは真実ではありません。それは時間の領域を越えていません。時間を超えているものを知るには、時間の過程が理解されなければなりません-時間は思考過程、なりゆく・なろうとする過程、知識の蓄積です。それが精神の背景 [・地盤]全体です。精神自体が、意識と無意識、集団と個人両方の背景 [・地盤] です。それで精神は、知られたものから自由でなければなりません-それは、精神が静寂にされるのではなく、完全に静寂でなければならない、という意味です。結果としての [静寂] 、決然とした・決断された行動から、実践から、修練から出てきたものとしての静寂を達成する精神は、静寂な精神ではありません。強いられ、制御され、形造られ、枠にはめられ、静かにしている精神は、静寂な精神ではありません。あなたは、一定時間、精神を表面的に静寂であるよう強いることに、成功するかもしれません。しかしそういう精神は、静寂な精神ではありません。あなたが思考の過程全体を理解するときだけ、静寂が来るのです。なぜなら、過程を理解することが、それを終わらせることであるからです。思考の過程の終わりが、静寂の始まりです。
 精神が、上の水準でだけでなく根本的に、ずっととおして-意識の表面的な [水準]とともにより深い水準でも-完全に静寂であるときだけ、そのときだけ知られないものが生じうるのです。知られないものは、何か精神により経験されるものではありません。静寂のみが経験されうるのです-静寂以外に何も [経験]されえません。精神が静寂以外に何かを経験するなら、それはたんにそれ自身の願望を投影しているだけです。そういう精神は静寂ではありません。精神が静寂でないかぎり、意識的、無意識的などんな形でも、思考が動き [の状態]にあるかぎり、静寂はありえません。静寂は、過去から、知識から、意識的とともに無意識的な記憶からの自由です。精神が使われず・使用中でなく、完全に静寂であるとき、努力の産物ではない静寂があるとき、そのときだけ、時間のないもの、永遠のものが、たしかに生じるのです。その状態は、覚えておく状態ではありません-覚えておく、経験する実体はありません。
 ゆえに、神や真理-何であれ-は、瞬間瞬間生じるものです。それは、精神が様式に応
じて修練されるときではなく、自由と自発性の状態においてだけ、起きるのです。神は精神のものごとではありません。それは自己投影をとおして来ません。それは、美徳、すなわち自由があるときだけ、来るのです。美徳は、あるがままの事実に向き合うことです。事実に向き合うことは至福の状態です。精神が、それ自身のどんな動きもなく、意識的、無意識的な思考の投影がなく、至福に満ちて、静かであるときだけ-そのときだけ、永遠のものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

339鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/02(月) 21:56:28 ID:1d4drIFg0
言葉はものこどそのものではないというのじゃ。
それ故に人は神も真実も知らないのじゃ。
静寂な精神によって永遠のものが生じるというのじゃ。
思考や意識的な心の働きが無い時だけそのような静寂があるというのじゃ。

340避難民のマジレスさん:2020/11/03(火) 19:15:23 ID:cjHTbEFw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 1

質問
 記憶は、あなたが言われるには、不完全な経験です。私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どうかこの観念を、そのすべての詳細において説明してください。

 私たちの言う記憶とは、どういう意味でしょうか。あなたは学校へ行くし、事実で、技術的な知識で満ちています。あなたは技師であるなら、橋を建てるために、技術的な知識の記憶を使います。それは事実に基づく・関する記憶です。また心理的な記憶もあります。あなたは私に何か楽しいことや楽しくないことを言いました。すると私はそれを持ち続けます。私は次にあなたに会うとき、その記憶-あなたが言ったり、言わなかったことの記憶-をもってあなたに会います。記憶には二つの面-心理的なものと事実に基づく・関するもの-があります。それらはいつも相互に関係しています。ゆえにはっきり切られません。事実に基づく記憶は、生計の手段として不可欠 [・本質的]であることを、私たちは知っています。しかし心理的な記憶は不可欠 [・本質的]でしょうか。心理的な記憶を持ち続ける要因は何でしょうか。侮辱や賞讃を、心理的に覚えておかせるのは何でしょうか。なぜ一定の記憶を持ち続けて、他のものを拒絶するのでしょうか。明白に、楽しい記憶は持ち続けて、楽しくない記憶は避けるのです。あなたは観察するなら、苦しい・痛みを伴う記憶は、楽しいものよりもっとすばやく脇へ置かれることが、わかるでしょう。精神は記憶です-どんな水準でも、それをどんな名前で呼ぼうとも、です。精神は過去の産物です。それは過去-すなわち記憶、条件づけられた状態-に基づいて・を根拠にしています。そこで、その記憶をもって、私たちは生に出会います。新しい挑戦に出会います。挑戦はいつも新しいのですが、私たちの応答はいつも古いのです。なぜなら、それは過去から出てきたものであるからです。それで記憶なしに経験することは一つの状態ですし、記憶をもって経験することはもう一つ [の状態]です。すなわち、挑戦があります-それはいつも新しいのです。私は古いものの応答をもって、条件づけをもって、それに出会います。それで何が起きるでしょうか。私は新しいものを吸収します。それを理解しません。そして新しいものを経験することは、古いものにより条件づけられるのです。ゆえに、新しいものの部分的理解があるのです。決して完全な理解はないのです。それが記憶の傷跡を残さないのは、何ごとについても完全な理解があるときだけです。
 挑戦があるとき-それはいつも新しいのです-あなたは古いものの応答をもって、それに出会います。古いものは新しいものを条件づけます。ゆえにそれをねじ曲げ、それに偏向を加え、ゆえに新しいものが古いものに吸収されて、それに応じて古いものを強めるほどに、新しいものの完全な理解がないのです。これは抽象的に見えるかもしれません。しかしあなたが少しきっちりと気をつけてそれに入るなら、それは難しくありません。現在の世界の状況・情勢は、世界の問題-それは常に新しいのです-への新しい接近、新しい取り組み方を要求します。私たちはそれに新たに接近する能力がありません。なぜなら、私たちは、自分たちの条件づけられた精神をもって、 国家[・民族]的、局地・地方的、家族的、宗教的な先入観をもって、それに接近するからです。私たちの以前の経験が、新しい挑戦の理解にとって障壁として作用しています。それで私たちは記憶を育成し、強めつづけるし、ゆえに決して新しいものを理解しないのです。決して充分に、完全に、挑戦に出会わないのです。それは、過去なしに、新たに、新鮮に、挑戦に出会うことができるときだけです。そのときだけ、それはその結実・成果、その豊かさをもたしてくれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

341鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/03(火) 22:25:26 ID:1d4drIFg0
記憶には二つの面があると言うのじゃ。
事実に基づく生活に役立つ面と、条件付けなどで生きることに制限を加えるものなのじゃ。
後者の性質に拠って新しい経験をすることはできないというのじゃ。
過去の記憶や経験に拠らない時にのみ新しいものごとにあい、その成果を得られるというのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2020/11/04(水) 20:37:32 ID:caBPdlkw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 2

 質問者は、「私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どんな意味で、それは不完全な経験なのでしょうか」と言います。それがたんに印象、記憶だけであるなら、明白にそれは不完全な経験です。あなたが言われてきたことを理解し、それの真理がわかるなら、その真理は記憶ではありません。真理は記憶ではありません。なぜなら、真理は常に新しく、常にそれ自体を変容させているからです。あなたは以前の講話の記憶を持っています。なぜでしょうか。あなたは以前の講話を導きとして使っているから、それを充分に理解しなかったのです。あなたはそれに入りたいのです。それで意識的、無意識的に、それは維持・保持されているのです。あなたは何かを完全に理解する、すなわち何かについての真理が全体的にわかるなら、何の記憶もないことを見つけるでしょう。私たちの教育は、記憶の育成、記憶の強化です。あなたたちの宗教的実践と儀式、あなたの読書と知識は、すべて記憶の強化です。それはどういう意味でしょうか。なぜ私たちは記憶にすがるのでしょうか。 [人は] 成長するにつれて、過去を、それの喜び、それの苦痛、それの楽しみを振り返る・回想することに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。若ければ、未来の方を見ます。なぜ私たちはこうするのでしょうか。なぜ記憶がこんなに重要になってしまったのでしょうか。私たちがどのようにして現在において全体的に、完全に生きるのかを知らないという単純で明白な理由のためです。私たちは未来への手段として、現在を使っています。ゆえに、現在は意義を持たないのです。私たちは未来への通路として現在を使っているから、現在において生きられないのです。私は何ものかになろうとしているから、自分自身についての完全な理解が決してないのです。自分自身を、今まさに私が何であるかを・今まさにあるがままの私を理解するには、記憶の育成を必要としません。反対に、記憶は、あるがままの理解にとって障害です。精神が記憶の網に捕らわれていないときだけ、新しい思考、新しい感情は来るということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。二つの思考の間、二つの記憶の間に間隔があるとき、その間隔が維持されうるとき、そのとき、その間隔から、もはや記憶ではない新しい存在の状態が、来るのです。私たちは記憶を持っています。そして継続の手段として記憶を育成します。記憶の育成が存在しているかぎり、「私」と「私の」が、とても重要になるのです。私たちのほとんどは、「私」と「私の」で作り上げられているので、記憶が私たちの生においてとても重要な役割を演じるのです。もしもあなたが記憶を持たなかったなら、あなたの財産、あなたの家族、あなたの観念は、それほど重要(というほどのもの)ではないでしょう。それで「私」と「私の」に強さを与えるために、あなたは記憶を育成するのです。あなたは観察するなら、二つの思考の間、二つの情動の間に間隔があることがわかるでしょう。その間隔には-それは記憶の産物ではありません-「私」と「私の」からのとてつもない自由があるのです。その間隔は時間がないのです。
(´・(ェ)・`)つ

343鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/04(水) 22:30:35 ID:1d4drIFg0
真理は記憶ではないというのじゃ。
言葉にも知識にも出来ず、今ここで常に新しいものであるというのじゃ。
記憶はそれを感じる障害になるだけなのじゃ。
記憶は自分と、自分のもので全てを解釈するから新しいものごとは感じられないのじゃ。

344避難民のマジレスさん:2020/11/05(木) 20:39:22 ID:n0q2q3AQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 3

 問題を違ったふうに見てみましょう。確かに記憶は時間なのではないでしょうか。記憶は、昨日・今日・明日を造り出します。昨日の記憶が、今日を条件づけます。ゆえに明日を形造ります。すなわち過去が、現在をとおして未来を造り出します。時間の過程が続いています-それがなろうとする意志です。記憶は時間です。時間をとおして、私たちは結果を達成したいと願うのです。私は今日は事務員・店員です。そして時間と機会を与えられるなら、経営者や所有者になるだろう。ゆえに、私は時間を持たねばなりません。同じ精神性・精神をもって、「私は真実を達成するだろう。神に接近するだろう」と、私たちは言うのです。ゆえに、私は実現するために時間を持たねばなりません-それは、何かであるため、達成するため、獲得するために、実践により、修練により、記憶を育成し、記憶を強めなければならない、という意味です-それは、時間における継続、という意味です。時間をとおして、私たちは時間のないものを達成したいと願います。時間をとおして、私たちは永遠のものを獲得したいと願います。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、記憶、すなわち時間のものをとおして、永遠のものを時間の網にかけられるでしょうか。時間のないものは、記憶、すなわち「私」と「私の」が止むときだけ、ありうるのです。あなたがそれの真理-時間をとおして、時間のないものは理解することも受け取ることもできないということ-がわかるなら、そのとき、私たちは記憶の問題に入れるのです。技術的なものごとの記憶は必要不可欠です。しかし、自己、「私」、「私の」を維持する [記憶]、同一化と自己継続を与える心理的な記憶は、生と真実にとって全面的に有害です。それの真理がわかるとき、虚偽はなくなります・離れ落ちます。ゆえに、昨日の経験の心理的保持はないのです。
 あなたは、うるわしい夕暮れを、野原の美しい木を見ます。そしてあなたは初めにそれを見るとき、それを完全に、全面的に楽しみます。しかしあなたは、それをもう一度楽しみたいという願望をもって、それに戻ります。あなたがそれを楽しみたいという願望をもって戻るとき、何が起きるでしょうか。楽しみはありません。なぜなら、今あなたを戻らせているのは、あなたに楽しむよう強要し、駆り立てているのは、昨日の夕暮れの記憶であるからです。昨日は記憶がなく、自発的な理解・評価、直接の応答だけがあったのです。今日は、あなたは昨日の経験を取り戻したい・再び捕らえたいと望んでいるのです。すなわち、記憶が、あなたと夕暮れの間に干渉し・介入しています。ゆえに楽しみはないのです。豊かさ、美しさの充足はないのです。また、あなたは友だちを持っています-彼は昨日あなたに何かを、侮辱やお世辞を言いました。それであなたはその記憶を持ち続けます。その記憶をもって、あなたは今日、友だちに会います。あなたはほんとうは友だちに出会わないのです-あなたはきのうの記憶を携えています-それが介入する・干渉するのです。それで私たちは、自分たち自身と自分たちの行動を、記憶で取り囲みつづけるのです。ゆえに新しさ、新鮮さがないのです。そういうわけで、記憶は生を、疲れて鈍く空っぽにするのです。私たちは互いに敵対して生きています。なぜなら、「私」と「私の」が、記憶とおして強められるからです。記憶は、現在の行動をとおして生き返ります。私たちは、現在をとおして、記憶に生命を与え・活気づけます。しかし私たちが記憶に生命を与えないとき、それは消えてしまい・消えてゆきます。事実の、技術的なものごとの記憶は、明白に必要です。しかし心理的な保持としての記憶は、生の理解、互いの疎通にとって有害です。
(´・(ェ)・`)つ

345鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/05(木) 22:36:12 ID:1d4drIFg0
記憶とは時間なのじゃというのじゃ。
時間を通して人は結果を達成したいという欲を持つのじゃ。
昨日の記憶にょって今ここにあることを取り逃がすというのじゃ。
記憶は自分と、自分のものを分別するものであるから生と真実には有害なのじゃ。
技術に記憶は必要であるが、生の理解には記憶が障害になるともいうのじゃ。

346避難民のマジレスさん:2020/11/06(金) 19:11:55 ID:emCATIgM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十八 「あるがまま」へ身を委ねること・任せることについて 1

質問
神の意志に任せることと、あるがままの受け入れついてあなたが言っていることとの間の違いは、何でしょうか。

 確かに大へんな違いがあるのではないでしょうか。神の意志に任せることは、あなたがすでに神の意志を知っている、という意味を含んでいます。あなたは、何か自分が知らないものに、任せていません。あなたは真実を知っているなら、それに任せられません。あなたは存在するのを止めます。より高い意志に任せることはありません。あなたがより高い意志に任せているなら、そのとき、その高い意志は、あなた自身の投影です。というのは、真実は、知っているものをとおして知られえないからです。それは、知っているものがなくなるときだけ、生じるのです。知っているものは、精神の創造です。なぜなら、思考は知っているものの [結果] 、過去の結果であるからです。そして思考は、それが知っているものを創造できるだけです。ゆえに、それが知っているものは、永遠のものではありません。そういうわけで、あなたは神の意志に任せるとき、自分自身の投影物に任せているのです。それは喜ばせ、慰めになるかもしれませんが、真実ではないのです。
(´・(ェ)・`)つ

347鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/06(金) 22:00:11 ID:1d4drIFg0
神の意志に任せるというが人は神の意志など知らないというのじゃ。
もっともな話なのじゃ。
何か高い意志があるというならば、それは自らの意志の投影に過ぎないのじゃ。
神の意志に任せるとは自分の意志に任せているだけだというのじや。
それはただの自分自身の慰めにすぎないのじゃ。

348避難民のマジレスさん:2020/11/08(日) 18:34:29 ID:ebQjNP9E0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十八 「あるがまま」へ身を委ねること・任せることについて 2

 あるがままを理解することは、違った過程を要求します-おそらく「過程」という言葉は正しくありませんが、私の意味することはこうです-あるがままを理解することは、たんに観念を受け入れたり、それに身を任せたりすることよりも、はるかにもっと難しく、もっと大いなる智恵、もっと大いなる気づきを必要とするのです。あるがままを理解することは、努力を要求しません。努力は散漫です。何かを理解するには、あるがままを理解するには、あなたは散漫であることはできないのではないでしょうか。私は、あなたの言っていることを理解したいなら、外側の音楽を、人々の雑音を聴くことはできません。私は自分の注意全体を、それに向けなければなりません。こうして、あるがままに気づくことは、とてつもなく難しく、困難です。なぜなら、まさに私たちが考えることそのものが、散漫になってしまったからです。私たちはあるがままを理解したくないのです。私たちは、先入観、非難、同一化のめがねをとおして、あるがままを見ます。これらのめがねを取り除いて、あるがままを見るのは、とても困難です。確かに、あるがままが事実です。真理です。他のすべては逃避です。真理ではありません。あるがままを理解するには、二元性の葛藤が止まなければなりません。なぜなら、あるがままとは他の何かになるという・なろうとする否定的応答は、あるがままの理解の拒否であるからです。私は傲慢さ・尊大さを理解したいなら、対極に入ってはなりません。なろうとする努力によって、またはあるがままを理解しようとする努力によってさえも、散漫であってはなりません。私が傲慢であるなら、何が起きるでむしょうか。私が傲慢さに名づけないなら、それは止みます-それは、問題自体に答えがある、それから離れてではない、という意味です。
 それは、あるがままを受け入れるという問題ではありません。あなたはあるがままを受け入れません。あなたは自分 [の肌の色]が茶色や白であることを受け入れません。まぜなら、それは事実であるからです。あなたは何か他のものになろうとしているときだけ、たしかに受け入れなければならないのです。あなたが事実を認識した瞬間、それはどんな意義も持たなくなります。しかし、過去や未来について考えるように訓練され・しつけられている [精神]、多種多様の方向に逃げ出すように訓練されている精神、そういう精神は、あるがままを理解する能力がありません。あるがままを理解することなしに、あなたは何が真実であるかを見つけられません。その理解なしに、生は意義がありません。生は、そこに苦痛と苦しみが継続する常なる戦いです。真実は、あるがままを理解することにより、理解されうるだけです。何か非難や同一化があるなら、それは理解されえません。いつも非難したり同一化している精神は、理解できません。それは、それがその中に捕らわれているものを、理解できるだけです。あるがままを理解すること、あるがままに気づくことは、とてつもない深みを開示します-そこに、真実、幸せ、喜びがあります。
(´・(ェ)・`)つ

349鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/08(日) 21:52:29 ID:1d4drIFg0
あるがままを理解することは、上のように神の意志を自分の意志と誤魔化すような欺瞞とは違った過程を必要とするというのじゃ。
それには努力も要らないというのじゃ。
過去や未来を考える精神にはあるがままを理解する能力は無いのじゃ。
今ここにあることだけが必要なのじゃ。
あるがままを理解できれば真実は理解されるのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2020/11/09(月) 19:09:12 ID:2UjGVukA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 1

質問
祈りに表現されたあこがれは、神への道ではないでしょうか。

 まず初めに、私たちは、この疑問の中に含まれた問題を、検討しましょう。それには、祈り、集中、瞑想という意味が含まれています。そこで、私たちの言う祈りとは、どういう意味でしょうか。まず初めに、祈りには、あなたが神、真実と呼ぶものへの嘆願、懇願があります。あなたは個人として、何か神と呼ぶものから導きを要求し、嘆願し、請い、求めています。ゆえに、あなたの接近は、報賞を求めること、喜びを求めることの一つです。あなたは、国家 [・民族]的、または個人的な困難 [の状態]にあります。それで導きのために祈るのです。またはあなたは混乱しています。それで明晰さを請います。神と呼ぶものに助けを求めます。これには、神が-たとえどんな神であろうとです。私たちは当分はその議論はしません-私とあなたが造り出した混乱を、きれいに片づけてくれるであろう、という意味が含まれています。結局、混乱、悲惨、混沌、ぞっとするような暴政、愛の欠如をもたらしてきたのは、私たちです。それで私たちは、それをきれいに片づけてくれる神と呼ばれるものが、欲しいのです。言い換えれば、私たちは、自分たちの混乱、悲惨、悲しみ、葛藤を、他の誰かに片づけてもらいたいのです。光と幸せをもたらしてくれるよう、もう一人に嘆願するのです。
 そこで、あなたが祈るとき、何かに向かって請い、嘆願するとき、それが一般的に生じるのです。あなたは求めるとき、受け取ります。しかしあなたが受け取るものは、秩序を造り出さないでしょう。なぜなら、あなたが受け取るものは明晰さ、理解をもたらさないからです。それは満足させ、喜びを与えるだけで、理解をもたらさないのです。なぜなら、あなたは要求するとき、自分自身が投影するものを、受け取るからです。どうして真実、神が、あなたの特定の要求に答えられるでしょうか。測ることのできないもの、言葉で言い表しえないものが、私たちの些細で小さな心配事、悲惨、混乱-私たち自身が造り出したもの-に、関心を持てるでしょうか。ゆえに、答えるのは何でしょうか。明白に、測ることのできないものは、測られるもの、些細なもの、小さなものに、答えられません。しかし、答えるのは何でしょうか。私たちは祈る瞬間、かなり静寂で、受け入れる・受容の状態にあります。そのとき、私たち自身の潜在意識が、瞬間的な明晰さをもたらします。あなたは何かが欲しい。それにあこがれています。するとそのあこがれ、そのおもねた・こびへつらった要請の瞬間において、あなたはかなり受容力があるのです。あなたの意識的、活動的精神は、比較的静かです。そのため無意識がその中にそれ自体を投影します。それであなたは答えを得るのです。それは確かに、真実からの、測ることのできないものからの答えではありません-それは、あなた自身の無意識的な応答です。それで、あなたの祈りが答えられるとき、自分が真実と関係していると混同して考えないようにしましょう。真実は、あなたのところに来るにちがいありません・来なければなりません。あなたはそこへ行けません。
(´・(ェ)・`)つ

351鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/09(月) 21:34:41 ID:1d4drIFg0
神への祈りは嘆願とか誓願に過ぎないというのじゃ。
それは欲の表れでしかないのじゃ。
そうであるから真実をもたらさないのじゃ。
祈りがかなうとしても、自分の欲したものを受け取れるだけなのじゃ。
自分の欲がかなうだけなのじゃ。

352避難民のマジレスさん:2020/11/10(火) 20:13:54 ID:n2jj.iZI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 2

 この問題には、もう一つの要因が関与しています-内なる声と呼ばれるものの応答です。私が言いましたように、精神が懇願し、嘆願しているとき、それは比較的静かです。あなたが内なる声を聞くとき、それは、その比較的静かな精神に、それ自体を投影しているあなた自身の声です。さらに、どうしてそれが真実の声でありうるでしょうか。混乱し、無知で、渇望し、要求し、嘆願している精神、それがどうして真実を理解できるでしょうか。精神が、自分自身のためでも、国家 [・民族]のためでも、もう一人のためでも、要求しない、渇望しない、あこがれない、求めないで絶対的に静かであるときだけ、それは真実を受け取れるのです。精神が絶対的に静かであるとき、願望が止むとき、そのときだけ、真実が生じるのです。要求し、嘆願し、懇願し、命令・指図にあこがれている人物は、自分の求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真理ではないでしょう。彼が受け取るものは、彼自身の精神の無意識の諸層の応答であるでしょう-それ [無意識の層の応答]は、それら自体を意識の中に投影するのです 。彼に命令するその静かな、小さな声は、真実ではなくて、無意識の応答であるだけです。
 この祈りの問題には、また集中の問題もあります。私たちのほとんどにとって、集中は排除の過程です。集中は、努力、強制、命令、模倣をとおしてもたらされます。そのため集中は排除の過程です。私は、いわゆる瞑想に興味があります。しかし私の思考は散漫です。それで私は自分の精神を、 [一つの] 映像・画像、イメ-ジ、観念に固定させて、他のすべての思考を排除します。この集中の過程、すなわち排除が、瞑想する手段であると考えられています。それがあなたのすることなのではないでしょうか。あなたは坐って瞑想するとき、自分の精神を [一つの]言葉、イメ-ジ、画像に固定させます。しかし精神はそこらじゅうさまよいます。他の観念、他の思考、他の情動の常なる中断・割り込みがあります。それであなたはそれらを押しのけようとします。あなたは自分の思考と戦うことに、自分の時間を費やします。この過程を、あなたは瞑想と呼ぶのです。すなわち、あなたは、何か自分が興味のないことに集中しようとしています。それであなたの思考は増加し、増大し、中断しつづけます。そのためあなたは排除に、避ける・かわすこと、押しのけることに、自分のエネルギ-を費やすのです。あなたは自分の選択した思考に、特定の対象に集中できるなら、ついに瞑想に成功したと、思うのです。確かに、それは瞑想ではないのではないでしょうか。瞑想は排除する過程ではありません-避ける [という意味] 、侵入してくる観念に対して抵抗を築くという意味での排除、です。祈りは瞑想ではありませんし、排除としての集中は瞑想ではありません。
 瞑想とは何でしょうか。集中は瞑想ではありません。なぜなら、興味があるところ、何かに集中することは、比較的たやすいからです。戦争、虐殺を計画している将軍は、とても集中しています。金もうけをしている事業家は、とても集中しています-彼は他のあらゆる感情を脇に置いて、自分が欲しいものに完全に集中しながら、無慈悲でさえあるかもしれません・まったく無慈悲であるかもしれません。何ごとでも興味のある人は、自然に、自発的に集中しています。そういう集中は、瞑想ではありません。それはたんに排除です。
(´・(ェ)・`)つ

353鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/10(火) 22:24:31 ID:1d4drIFg0
一般に言われる瞑想とは精神を一つの観念に集中させるものであるから、排除の過程に過ぎないというのじゃ。・
クリシュナムルティの言う瞑想とは排除ではないというのじゃ。
観察し、気付くためには何かを排除するのは危険であるからじゃろう。
何かを排除すれば見落としてしまうからのう。
そもそも集中は瞑想ではないと言うのじゃ。

354避難民のマジレスさん:2020/11/11(水) 21:07:35 ID:iUpUjRSA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 3

 それで瞑想とは何でしょうか。確かに、瞑想は理解です-心の瞑想は理解です。排除があるなら、どうして理解がありうるでしょうか。嘆願、懇願があるとき、どうして理解がありうるでしょうか。理解には、平和があります。自由があります。あなたが理解するもの、そこから、あなたは解放されるのです。たんに集中したり祈ったりすることは、理解をもたらしません。理解が、瞑想のまさに基礎、根本的過程です。あなたはそのために、私の言葉を受け入れなくてもいいのです。しかし、あなたは、とても気をつけて、深く、祈りと瞑想を検討するなら、それらのどちらも理解につながらないことを、見つけるでしょう。それらはたんに頑固さに、固定化に、幻影につながるだけです。ところが、瞑想は-それには理解があります-自由、明晰さ、統合・融合をもたらしてくれるのです。
 では、私たちの言う理解とは、どういう意味でしょうか。理解とは、すべてのものごとに正しい意義、正しい価値を与えることです。無知であるとは、間違った価値を与えることです。まさに愚かさの本性が、正しい価値の了解の欠如です。正しい価値があるとき、正しい価値が確立されるとき、理解が生じるのです。どのようにして正しい価値を確立するのでしょうか-財産の正しい価値、関係の正しい価値、観念の正しい価値を、です。正しい価値が生じるには、あなたは思考者を理解しなければならないのではないでしょうか。私が思考者、すなわち私自身を理解しないなら、私が選択するものは意味がありません。すなわち私が自分自身を知らないなら、そのとき、私の行動、私の思考はまったく・なんの基礎・根拠もありません。ゆえに、自己認識が瞑想の始まりです-あなたが私の書物から、権威から、 から拾い上げる知識ではなく、自己探求、すなわち自己気づきをとおして生じる知識です。瞑想が自己認識の始まりです。自己認識なしに、瞑想はありません。私が自分の思考の、感情の道を理解しないなら、私が自分の動機、願望、要求、行動の様式の追求、すなわち観念を理解しないなら-私が自分自身を知らないなら、考えるための基礎がないのです。自分自身を理解することなく、たんに求め、祈り、排除する思考者は、必然的に混乱、幻影に終わるにちがいありません。
(´・(ェ)・`)つ

355鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/11(水) 21:46:36 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティの言う瞑想とは理解そのものなのじゃ。
観察なのじゃ。
何かに集中して他のものごとを排除してしまえばそこに理解は無いのじゃ。
理解は気付くことから起こるからのう。
自分に気付く自己認識から瞑想は始まるというのじゃ。
そして瞑想から自己認識が始まるともいうのじゃ。
堂々巡りなのじゃ。

356避難民のマジレスさん:2020/11/12(木) 20:14:11 ID:1HJphfiA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 4

 瞑想の始まりは自己認識です-それは、思考と感情のあらゆる動きに気づくこと、自分の意識の層すべてを-表面的な層だけでなく、隠れた、深く隠された活動を-知ることです。深く隠された活動、隠れた動機、応答、思考、感情を知るには、意識的精神に平静さがなければなりません。すなわち、意識的精神は、無意識の投影を受け取るために静かでなければなりません。表面的、意識的精神は、その日常の活動、生計を立てること、他の人たちを欺くこと、他の人たちを利用する [・搾取する]こと、問題から逃げ出すことに-私たちの存在の日常の活動すべてに-携わって・従事しているのです。その表面的精神は、それ自身の活動の正しい意義を理解して、よってそれ自体に平静さをもたらさなければなりません。それは、たんなる厳しい管理により、強制により、修練により、平静さ、静けさをもたらせません。それは、それ自身の活動を理解することにより、観察することにより、気づくことにより、それ自身の無慈悲さが-それが召使いに、妻に、娘に、母などに、どのように話しかけるのかが-わかることによってだけ、平静さ、平和、静けさをもたらせるのです。表面的、意識的精神が、その理解をとおして、そのすべての活動に、こうして充分に気づくとき、それは強制により麻痺させられたり、願望により厳しく管理されて [静かになるの]ではなく、 自発的に静かになるのです。そのとき、それは、無意識の、精神の多くの多くの隠れた層の-人種的本能、埋もれた記憶、隠された追求、まだ癒されていない深い傷の-ほのめかし、暗示を受け取る位置にあるのです。それが永遠のものを受け取る位置にあるのは、これらすべてがそれら自体を投影してしまって理解されるとき、意識全体が重荷を負っていない [とき] 、どんな傷によっても、どんな記憶によっても、まったく足かせをはめられていないときだけです。
 瞑想は自己認識です。自己認識なしに、瞑想はありません。あなたがいつのときも自分の応答すべてに気づいているわけではないなら、自分の日常の活動を充分に意識し、充分に認識していないなら、たんに部屋に閉じこもって、自分の、自分の大師の写真の前に坐って瞑想することは、逃避です。なぜなら、自己認識なしに正しい考えはないし、正しい考えなしには、あなたのすることは、たとえどんなにあなたの意図が高尚であっても、意味がないからです。こうして祈りは、自己認識なしには意義がありません。しかし自己認識があるとき、正しい考え [があるし]、ゆえに正しい行動があるのです。正しい行動があるとき、混乱はないし、ゆえにあなたをそれから導き出す他の誰かへの懇願はないのです。充分に気づいている人は、瞑想しています。彼は祈りません。なぜなら、彼は何も欲しくないからです。祈りをとおし、厳格な統制をとおし、反復とその他すべてをとおして、あなたは一定の静けさをもたらせます。しかし、それはたんなる鈍さであり、精神と心を疲労困憊状態に陥らせるのです。それは精神を麻痺させることです。そして排除-あなたが集中と呼ぶもの-は、真実につながりません-どんな排除も決してできません。理解をもたらすものは自己認識です。そして正しい意図があるなら、気づくことは、あまり難しくありません。あなたが自分自身の過程全体を-たんに表面的な部分だけではなく、あなたの存在全体の総合過程を-理解することに興味を持っているなら、そのとき、それは比較的たやすいのです。あなたはほんとうに自分自身を知りたいなら、自分の心と精神を探し出して、それらの充分な内容を知るでしょう。知ろうとする意図があるとき、あなたは知るでしょう。そのときあなたは非難や正当化なしに、思考と感情のあらゆる動きに付いていけるのです。あらゆる思考とあらゆる感情が生じるままに付いていくことにより、あなたは平静さをもたらします-それは、強制されたのではなく、厳しく管理されたのではなく、なんの問題も、なんの矛盾も持たないことから出てきたものです。それは、風のない夜・夕べに、穏やかに、静かになる池に似ています。精神が静かであるとき、そのとき、測ることのできないものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

357避難民のマジレスさん:2020/11/12(木) 20:34:25 ID:1HJphfiA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 1
質問
 意識的精神は、無意識的精神について無知で [あり] 、[それを] 恐れています。あなたは主に意識的精神に呼びかけて・に取り組んでいますが、それで充分でしょうか。あなたの方法は、無意識の解放をもたらすでしょうか。どうすれば充分に無意識的精神に取り組めるのか、どうか詳細に・詳しく説明してください。

私たちは、意識的と無意識的精神があることに、気づいています。しかし私たちのほとんどは、意識的な水準で、精神の上の層においてだけ機能します。それで私たちの生全体は、実質的に・実際上それに制限されるのです。私たちは、いわゆる意識的精神に住んでいるので、 [そこから] たまに・ときにほのめかし、暗示がある [ところの] より深い無意識的精神に、決して注意を払わないのです。その暗示は今のところ、私たちの特定の意識的要求に応じて、無視され・軽視されたり、歪曲されたり、翻訳されたりするのです。そこで質問者は、「あなたは主に意識的精神に呼びかけていますが、それで充分でしょうか」と訊ねます。私たちのいう意識的精神とはどういう意味なのかを、見てみましょう。意識的精神は、無意識的精神とは違っているのでしょうか。私たちは意識を無意識から分割しました。これは正当化されるでしょうか。これは真実でしょうか。意識と無意識の間に、そういう分割があるでしょうか。意識が終わって無意識が始まる [ところの] 明確な障壁、境界線があるでしょうか。私たちは、上の層、意識的精神が活動していることに気づいています。しかしそれが、一日中活動してる唯一の道具でしょうか。もしも私がたんに意識の上の層にだけ呼びかけていたなら、そのとき確かに私の言っていることは、価値がないでしょう。それは意味がないでしょう。けれども私たちのほとんどは、意識的精神が受け入れたことにすがりつくのです。なぜなら、意識的精神は、一定の明白な事実に適応することが都合がいいことを、見つけるからです。しかし無意識は反逆・反抗するかもしれないし、しばしばそうします。それでいわゆる意識と無意識の間に葛藤があるのです。
 ゆえに私たちの問題は、こうなのではないでしょうか。実のところ、意識と無意識といったような二つの状態 [があるの]ではなくて、唯一つの状態があるのです。唯一の存在の状態があります-それは意識です。けれどもあなたはそれを、意識と無意識とに分割するかもしれません。しかしその意識は、決して現在についてのものではなく、いつも過去についてのものです。あなたは終わって・過ぎているものごとだけを意識します。あなたは、私が伝えようとしていることを、瞬間後で、意識するのではないでしょうか。あなたはそれを瞬間後で理解します。あなたは決して今を意識したり気づいたりしません。あなた自身の心と精神を見守ってください。すると、意識は過去と未来の間で機能していること、現在はたんに過去から未来への通路であることが、わかるでしょう。ゆえに意識は、過去から未来への動きです。
(´・(ェ)・`)つ

358鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/12(木) 21:42:34 ID:1d4drIFg0
意識は一つしかないのじゃ。
日常でも感じられる心の働きを意識と呼び、感じられない部分を無意識と呼ぶだけなのじゃ。
それは記憶に依存しているものであるからいつも過去のことになるのじゃ。
自らの心の働きを観察すればそれは過去と未来の間で機能しているとわかるのじゃ。

359避難民のマジレスさん:2020/11/13(金) 18:36:46 ID:H9FlaIWU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 2

 あなたは働いている自分の精神を見守るなら、過去 [への動き]と未来への動きは、 [そこに]現在がない過程であることが、わかるでしょう。過去は、楽しくないかもしれない現在からの逃避の手段であるか、または未来は、現在から離れた希望であるか、どちらかです。それで精神は、過去や未来に携わって、現在を捨てる・なげうつのです。すなわち精神は、過去により条件づけられ、インド人、バラモン、非バラモン、キリスト教徒、仏教徒などとして条件づけられるのです。その条件づけられた精神が未来の中にそれ自体を投影するのです。ゆえにそれは、どんな事実をも直接に、公平に・偏見なく見る能力が、決してないのです。それは、事実を非難して拒絶するか、それとも [事実を] 受け入れて、それ自体を事実と同一化するか、どちらかです。そういう精神は明白に、どんな事実をも事実として見る能力がありません。それが、過去により条件づけられている私たちの意識の状態です。そして思考は、事実の挑戦への条件づけられた応答です。あなたが信念の、過去の条件づけに応じて応答すればするほど、ますます過去の強化があるのです。その過去の強化は明白に、それ自体の継続です-それを未来と呼ぶのです。ですからそれが私たちの精神の、意識の状態です-過去と未来の間を前後に揺れている振り子です。それが私たちの意識です-それは、精神の上の層からだけでなく、またより深い水準からも成り立って・作り上げられています。そういう意識は明白に、違った水準で機能できません。なぜなら、それは、それら二つの前後の動きを知るだけであるからです。
 あなたはとても気をつけて見守るなら、それが常なる動きではないこと、二つの思考の間に間隔があることが、わかるでしょう。それはほんの一秒の極何分の一であるかもしれないけれども、振り子の前後の揺れ動きには、意義のある間隔があるのです。私たちは、自分たちの考えることが、未来へと投影される過去により条件づけられているという事実が、わかります。あなたは過去を許し・認めた瞬間、また未来をも許さなければなりません。なぜなら、過去と未来といった二つの状態 [があるの]ではなくて、意識と無意識の両方を、集団的過去と個人的過去の両方を含む一つの状態があるからです。集団的と個人的過去が、現在への応答において、一定の応答を発します-それが個人的意識を造り出すのです。ゆえに意識は過去についてのものです。それが、私たちの存在の背景・地盤全体です。あなたは過去を持った瞬間、必ず未来を持ちます。なぜなら、未来はたんに修正された過去の継続であるからです。しかしそれもやはり過去です。それで私たちの問題は、もう一つの条件づけ、もう一つの過去を造り出さずに、どのようにしてこの過去の過程に変容をもたらすのか、です。
(´・(ェ)・`)つ

360鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/13(金) 21:51:54 ID:1d4drIFg0
過去と未来は記憶に拠って作られるものじゃ。
記憶に依存している人間には過去と未来だけで現在が無いのじゃ。
過去の記憶が未来にも投射されているのじゃ。
それが不安を作り出すのじゃ。

361避難民のマジレスさん:2020/11/14(土) 16:05:40 ID:vnzMlciY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 3

 それを違ったふうに言うと、問題はこうです-私たちのほとんどは、一つの特定の形の条件づけを拒絶して、もう一つの形の、もっと広い、もっと意義のある、もっと楽しい条件づけを、見つけます。あなたは一つの宗教をあきらめて、もう一つを採り入れます。一つの形の信念を拒絶して、もう一つを受け入れます。そういう代用は明白に、生を、関係である生を理解することではありません。私たちの問題は、どのようにしてすべての条件づけから自由であるのか、です。それは不可能である。人間の精神は、決して条件づけから自由でありえない、とあなたは言うか、それとも実験し、探究し、発見しはじめるか、どちらかです。あなたは、それは不可能であると主張するなら、明白に競争・競技に加わっていないのです。あなたの主張は、制限された [経験]や広い経験やたんなる信念の受け入れに基づいているのかもしれません。しかしそういう主張は、探求、調査・研究、探究、発見の否定です。精神がすべての条件づけから完全に自由であることは可能なのかどうかを見出すには、あなたは自由に探究し、発見できなければなりません。
 今私は、精神がすべての条件づけから自由であることは、明確に可能であると、言います-あなたは私の権威を受け入れるべきである、ということではありません。あなたはそれを権威に基づいて受け入れるなら、決して発見しないでしょう。それはもう一つの代用であるでしょうし、それは意義がないでしょう。私が、それは可能であると言うとき、私にとってそれは事実であるから、そう言うのです。私は言葉であなたにそれを示せます。しかしあなたは、自分自身でそれの真理を見出すつもりであるなら、それを実験して、それにすばやく付いていかなければなりません。
 条件づけの過程全体の理解は、分析や内省をとおして、あなたにやって来ません。なぜなら、あなたが分析者を持った瞬間、まさにその分析者自身が、背景 [・地盤]の一部であるし、ゆえに彼の分析は意義がないからです。それは事実であるし、あなたはそれを脇へ置かなければなりません。自分が見ているものを検討し、分析する分析者は、彼自身が条件づけられた状態の一部であるし、ゆえに彼の解釈、理解、分析が何であろうとも、それはやはり背景 [・地盤]の一部です。ですからそのように逃避はないし、背景を打ち壊すことが不可欠 [・本質的]です。なぜなら、新しいものの挑戦に出会うには、精神は新しくなければならないからです。神、真理-何であれ-を発見するには、精神は新鮮で、過去により汚染されていてはなりません。過去を分析すること、一連の実験をとおして結論に達する・到り着くこと、主張と否定、その他すべてをすることは、まさのその本質において、違った形での背景の継続、という意味を含んでいます。あなたはその事実の真理がわかるとき、分析者が終わってしまったことを発見するでしょう。そのとき、背景から離れた実体はありません。背景としての思考だけがあるのです-思考は、意識的と無意識的、個人的と集団的両方の記憶の応答です。
 精神は過去の結果です-それ [過去]は条件づけの過程です。精神が自由であることは、どのようにして可能でしょうか。自由であるには、精神は、その振り子のような過去と未来の間の揺れ動きを、見て理解するだけではなくて、また思考の間の間隔にも、気づかなければなりません。その間隔は自発的です。それはどんな原因・因果関係をとおしても、どんな願いをとおしても、どんな強制をとおしても、もたらされません。
 あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ

362鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/14(土) 21:53:59 ID:1d4drIFg0
人は条件付けから拒絶して、別の条件付けを受け容れるだけというのじゃ。
それを分析しても分析する者が起こるから無意味なのじゃ。
思考の止まった間に静寂の時があるというのじゃ。
その時だけ条件付けからの自由がありえるというのじゃ。

363避難民のマジレスさん:2020/11/15(日) 16:36:28 ID:sCeJO2BA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 4

 あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ

364鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/15(日) 21:47:46 ID:1d4drIFg0
昨日の後半なのじゃ。
思考の隙間に注目なのじゃ。

365避難民のマジレスさん:2020/11/15(日) 21:54:53 ID:EYmr2PAU0
鬼和尚、いつもありがとうであります。

最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 1

質問
 私たちは逃避できない身体的、心理的必要としての性を知っています。そしてそれは、私たちの世代の私的な生における混沌の、根本原因であるように見えます。どうすれば私たちはこの問題を取り扱えるのでしょうか。

 私たちは、自分たちが触れるものは何でも、問題に変えてしまうのは、なぜでしょうか。私たちは神を問題にしました。愛を問題にしました。関係を、生きることを問題にしました。そして性を問題にしました。なぜでしょうか。なぜ、私たちがするあらゆることが問題、恐怖なのでしょうか。なぜ私たちは苦しんでいるのでしょうか。なぜ性が問題になってしまったのでしょうか。なぜ私たちは、問題とともに生きることに服従する・甘んじるのでしょうか。なぜそれらを終わらせないのでしょうか。なぜ来る日も、来る年も、自分たちの問題を持ち運ぶかわりに、それらに対して死なないのでしょうか。性は確実に今日的な意義のある・当を得た問題です。しかし第一の・主要な問題があります-なぜ私たちは生を問題にするのか、です。働くこと、性、金を稼ぐこと、考えること、感じること、経験すること-知っているでしょう、生きることにかかわること全体を-なぜそれは問題なのでしょうか。それは本質的に、私たちがいつも特定の視点から、固定した視点から考えるから、 ではないでしょうか。私たちはいつも中心から周辺に向かって考えています。しかし周辺が、私たちのほとんどにとって中心であるし、そのため私たちが触れるどんなことも表面的です。しかし生は表面的ではありません。それは完全に生きることを要求します。私たちは表面的にだけ生きているから、表面的な反動・反応だけを知っているのです。私たちが周辺でするどんなことも、必然的に問題を造り出すにちがいありません。それが私たちの生です。私たちは表面的なもののなかで生きています。そして表面的なものの問題すべてとともに、そこで生きることに満足しています。私たちが表面的なもののなかで、周辺で生きるかぎり、問題は存在しています-周辺は「私」とその感動・感覚です。それは客観化されることも主観的になることもできます。それは普遍的なものと、国と、精神により作り上げられた何か他のものと同一化されることもできます。
 私たちが精神の領域の中で生きるかぎり、複雑さがあるにちがいありません。問題があるにちがいありません。それが、私たちが知っているすべてです。精神は感覚です。精神は蓄積された感覚と反応の結果です。それが触れるどんなものも、必ず悲惨、混乱、終わりなき問題を造り出します。精神-昼も夜も、意識的、無意識的に機械的に働いている精神-が、私たちの問題のほんとうの原因です。精神はもっとも表面的なものです。私たちは精神を育成することに、それをますます利口に、ますます微妙に、ますますずるがしこく、ますます不正直で曲がったものにすることに、数世代を使ってきましたし、自分たちの生全体を使います-そのすべては、私たちの生のあらゆる活動において明らかです。まさに私たちの精神の本性そのものが、不正直で曲がって、事実に向き合う能力がないことです。それが問題を造り出すものです。それが、問題自体であるものです。
(´・(ェ)・`)つ

366鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/16(月) 21:06:51 ID:1d4drIFg0
性が問題という者に何も問題は無いというのじゃ。
それを問題にするのは宗教的な信念によるものなのじゃ。
観念によって作り出された問題に過ぎないのじゃ。
それを見ることができれば問題は何も無いのじゃ。

367避難民のマジレスさん:2020/11/17(火) 16:45:45 ID:pYh4Du5g0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 2

 私たちのいう性の問題とは、どういう意味でしょうか。それは行為でしょうか、それとも行為についての思考でしょうか。確かに、それは行為ではありません。食べることが、あなたにとって問題でないのと同じように、性的行為は、あなたにとって問題ではありません。しかしあなたは、他に何も考えることがないから、一日中、食べることや何か他のことについて考えるなら、それはあなたにとって問題になるのです。性的行為は問題でしょうか、それともそれは、行為についての思考でしょうか。なぜあなたはそれについて考えるのでしょうか。なぜあなたはそれを-自分が明白にしていることを-築き上げるのでしょうか。映画、雑誌、物語、女性たちの服の着方・着こなし方、あらゆることが、あなたの性についての思考を築き上げます。なぜ精神はそれを築き上げるのでしょうか。なぜ精神は、そもそも性について考えるのでしょうか。なぜでしょうか。なぜそれは、あなたの生において中心的論点になってしまったのでしょうか。こんなに多くのものごとが、あなたの注意を呼び起こし、要求しているとき、あなたは性についての思考に完全な注意を払うのです。何が起きるでしょうか。なぜあなたの精神は、こんなにそれに携わって・専心しているのでしょうか。なぜなら、それが究極の逃避の道・仕方であるからなのではないでしょうか。それは完全な自己忘却の道です。今のところ・さしあたり、少なくともその当座は・その瞬間は、あなたは自分自身を忘れられるのです-自分自身を忘れる他の道はないのです。あなたが生においてする他のあらゆることは、「私」、自己を強調するのです。あなたの事業、宗教、神、指導者たち、政治的、経済的行動、逃避、社会的活動、一つの党派に加わって他のを拒絶すること- そのすべてが、「私」を強調し、強さを与えているのです。すなわち、「私」の強調がない唯一つの行為があるのです。そのためそれが問題になるのではないでしょうか。ほんのわずかな瞬間・たった数秒間でも、究極の逃避への、自分自身の完全な忘却への道である唯一つのものごとが、あなたの生にあるとき、あなたはそれにすがりつくのです。なぜなら、それが唯一の、あなたが幸せである瞬間であるからです。あなたが触れる他のあらゆる論点は、悪夢に、苦しみと苦痛の源になるのです。それであなたは、完全な自己忘却を与えてくれる一つのものごとにすがりつくのです-それを幸せと呼ぶのです。しかしあなたがそれにすがりつくとき、それもまた悪夢になります。なぜなら、そのときあなたは、それから自由でありたい、その奴隷でありたくないからです。それであなたは再び・またもや純潔の、独身・禁欲の観念を、精神から考案するのです。そして抑圧をとおして、禁欲を守ろう・通そう、純潔であろうとします-そのすべてが、事実からそれ自体を切り離そう・断ち切ろうとする、精神の操作です。これもまた、何かになろうとしている「私」に、特定の強調を与えます。それであなたはまたもや、苦労に、困難に、努力に、苦痛に捕らわれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

368鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/17(火) 20:59:32 ID:1d4drIFg0
性についての行為には何も問題は無いというのじゃ。
性についての思考が問題を作り上げるのじゃ。
それは自分を一瞬でも忘れさせてくれるから囚われるのじゃ。
しかし、それはまた新たな苦を作り出すのじゃ。
苦から苦への連鎖になるのじゃ。

369避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 17:19:28 ID:CtskuhVw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 3

 あなたは、問題について考える精神を理解しないかぎり、性はとてつもなく難しく複雑な問題になります。行為自体は決して問題ではありえません。しかし行為についての思考が問題を造り出すのです。あなたは行為を守ります・保護します。あなたはだらしなく・いいかげんに生きたり、結婚に耽る・身を任せたりします。よって自分の妻を娼婦にしているのです-それは見たところ・外見上、すべてとても体裁よく見えます。それであなたはそれくらいにしておくことに満足するのです。確かに、あなたが「私」と「私の」-私の妻、私の子ども、私の財産、私の車、私の達成、私の成功-の過程と構造全体を理解するときだけ、問題は解決できるのです。あなたがそのすべてを理解して解決するまで、性は問題として残っているでしょう。あなたは、政治的、宗教的、どのようにでも野心的であるかぎり、野心-個人としてのあなた自身の名においてでであれ、国の、党派の、宗教と呼ぶ観念の名においてであれ-で養う・飼い育てることにより自己を、思考者を、経験者を強調しているかぎり、この自己拡大の活動があるかぎり、性的問題を持つでしょう。あなたは一方で自分自身を造り出し、飼い育て・養い、拡大しながら、他方で瞬間だけでも・当分の間だけでも、自分自身を忘れよう、自分自身を失おう・我を忘れようとしているのです。どうして二つが共存できるでしょうか。あなたの生は矛盾です-「私」の強調と「私」を忘れることは、です。性は問題ではありません。問題は、あなたの生におけるこの矛盾です。そして矛盾は、精神により橋渡しできません。なぜなら、精神自体が矛盾であるからです。あなたが自分の日常の存在の過程全体を、充分に理解するときだけ、矛盾は理解されうるのです。映画に行ってスクリ-ンの女性たちを見つめること、思考を刺激する本や半裸の写真を載せた雑誌を読むこと、女性たちを見るあなたの仕方、あなたの [視線] を捕らえる・つかむこそこそした視線・まなざし-これらすべてのものごとが、誤った自己の強調の仕方をとおして、精神を助長していると同時に、あなたは親切で、愛情を持って、優しくあろうとしているのです。二つは共存できません。霊的にせよそうでないにせよ、野心的である人は、決して問題なしではありえません。なぜなら、自己が忘れられるとき、「私」が存在していないときだけ、問題は止むからです。そして自己が存在していないその状態は、意志の行為 [・作用]ではありません。それはたんなる反応ではありません。性は反応になります。精神が問題を解決しようとするとき、それは問題をもっと混乱させ、もっとやっっかいに・面倒に、もっと苦痛にするのです。行為が問題ではなく、精神が-それは純潔でなければならないと言う精神が、問題です。純潔は精神のものではありません。精神はそれ自身の活動を抑圧できるだけです。抑圧は純潔ではありません。純潔は美徳ではありません。純潔は育成できません。謙虚さを育成している人は、確かに謙虚な人ではありません。彼は自分のうぬぼれ・高慢さを謙虚さと呼ぶかもしれません。しかし彼は高慢な・傲慢な人です。そういうわけで、彼は謙虚になろうと努めるのです。高慢さは決して謙虚さになれませんし、純潔は精神のものごとではありません-あなたは純潔になれません。愛があるときだけ、あなたは純潔を知るでしょう。愛は精神のものでも、また精神のものごとでもないのです。
(´・(ェ)・`)つ

370鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/18(水) 21:52:20 ID:1d4drIFg0
問題について考える時、それはとてつもなく難しく複雑な問題になるというのじゃ。
そこには欺瞞があるからなのじゃ。
自分のものという観念への囚われと、自分を忘れようとする逃避の矛盾になるのじゃ。
高慢な者が謙虚に成ろうと努力するのと同じなのじゃ。

371避難民のマジレスさん:2020/11/19(木) 17:23:51 ID:CtskuhVw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 4

 ゆえに、世界中でこんなに多くの人々を拷問にかけている性の問題は、精神が理解されるまでは、解決されえません。私たちは考えることを終わらせることはできません。しかし思考者が止むとき、思考は終わるのです。過程全体の理解があるときだけ、思考者は止むのです。思考者と彼の思考の間に分割があるとき、恐れが生じます。思考者がないとき、そのときだけ、思考に葛藤がないのです。言外に含まれていることは、理解しようとする努力を必要としません。思考をとおして、思考者が生じます。そのとき思考者は、自分の思考を形造ろう、制御しよう、それらを終わらせようとけんめいに努力します。思考者は架空の・虚構の実体、精神の幻影です。事実としての思考についての悟りがあるとき、そのとき事実について考える必要はないのです。単純で無選択の気づきがあるなら、そのとき事実に含まれているものが正体を現しはじめます。ゆえに事実としての思考は終わります。そのときあなたは、私たちの心と精神を食い尽くしている問題、私たちの社会構造の問題が、解決できるということが、わかるでしょう。そのとき性はもはや問題ではありません。それはそれの適切な持ち場があります。それは不純な・汚れたことではなく、また純粋な・浄らかなことでもありません。性はその持ち場があります。しかし精神がそれに支配的な・優越した持ち場を与えるとき、そのときそれは問題になるのです。精神は性に支配的な持ち場を与えます。なぜなら、それは何らかの幸せなしには生きられないからです。それで性は問題になるのです。精神がその過程全体を理解し、そして終わるとき、すなわち考えることが止むとき、そのとき創造があります。それは、私たちを幸せにする創造です。その創造の状態にあることは、至福です。なぜなら、それは、自己からとしての反応がない自己忘却であるからです。これは、日常の性の問題への抽象的な答えではありません。それが唯一の答えです。精神は愛を否定します。愛なしに、純潔はありません。あなたが性を問題にするのは、愛がないからです。
(´・(ェ)・`)つ

372鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/19(木) 22:55:14 ID:1d4drIFg0
性の問題は思考によるものであるから精神が理解されるまで解決されないというのじゃ。
思考する者が無い時に思考は止まるというのじゃ。
思考の過程全てに理解がある時だけ思考する者は止まるというのじゃ。
そして問題は無いと理解されるのじゃ。
その時だけ愛が理解されるのじゃ。

373避難民のマジレスさん:2020/11/20(金) 18:46:18 ID:eUuVdyI60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 1

質問
 あなたのいわれる愛とはどういう意味でしょうか。

 私たちは何が愛でないのか・愛でないものを理解することによって発見しようとしています。なぜなら、愛は知らない・知られていないものであるので、知っているものを切り捨てることによってそれに至らなければならないからです。知らないものは、知っているもので充ちている精神によって発見されえません。私たちがやろうとしていることは、知っているものの価値を見出し、知っているものを見つめることです。それが純粋に非難なく見つめられるとき、精神は知っているものから自由になるのです。そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それで私たちは肯定的にではなく、否定的に愛に接近しなければなりません。
 私たちのほとんどにとって、愛とは何でしょうか。私たちは誰かを愛していると言うとき、どういう意味なのでしょうか。私たちはその人物を所有しているという意味です。その所有から嫉妬が生じます。なぜなら、私が彼や彼女を失うなら、何が起きるでしょうか。私は空っぽで・空しい、失った気持ちになります。ゆえに私は所有を合法化します。私は彼や彼女を(確保)します。その人物を確保すること、所有することから、嫉妬があります。恐れと、所有から生じる無数の葛藤すべてがあります。確かにそういう所有は愛ではないのではないでしょうか。
 明白に、愛は感情・情緒ではありません。感情的であること、情動的であることは、愛ではありません。なぜなら、情にもろいこと・感傷性と情動は、たんなる感覚・感動であるからです。イエスやクリシュナについて、自分のや他の誰かについて泣く・涙を流す宗教的な人物は、たんに感情的、情動的であるだけです。彼は感動に耽っているのです-それは思考の過程です。思考は愛ではありません。思考は感覚の結果です。ですから感情的である [人] 、情動的である人は、とうてい愛を知ることができません。あらためて私たちは情動的、感情的ではないでしょうか。情にもろいこと、感情的であることは、たんに一つの形の自己拡大です。情動で充ちていることは、明白に愛ではありません。なぜなら、感情的な人物は、自分の感情が応答されないとき、自分の気持ちがはけ口を持たないとき、残酷でありうるからです。情動的な人物は、憎しみへ、戦争へ、虐殺・殺戮へと掻き立てられうるのです。感情的で、自分の宗教のために涙で充ちている人は、確かに愛がありません。
 許しは愛でしょうか。許しに含まれている意味は何でしょうか。あなたは私を侮辱します。私はそれを恨みます、それを覚えています。そのとき、強制をとおし、または悔い・後悔をとおして、私は「私はあなたを許す」と言います。初め、私は保留・保有します。それから拒絶します。それはどういう意味でしょうか。私がやはり中心人物です。私がやはり重要です。誰かを許しているのは私です。許しの態度があるかぎり、重要なのは私であって、私を侮辱したと思われている人ではないのです。ですから私が恨みを蓄積し、それからその恨みを否定するとき-それが許しと呼ばれます-それは愛ではありません。愛している人は明白に憎しみを持っていませんし、これらすべてのことに対して無関心です。同情、許し、所有欲の関係、嫉妬、恐れ-これらすべてのことは愛ではありません。それらはすべて精神のものなのではないでしょうか。精神が判定・調停者であるかぎり、愛はありません。というのは、精神は所有欲をとおしてだけ調停するからです。そしてその調停は、たんに違った形での所有欲です。精神は愛を腐敗させられるだけです。それは愛を生み出せません。それは美・美しさを与えられません。あなたは愛について詩が書けますが、それは愛ではありません。
(´・(ェ)・`)つ

374鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/20(金) 22:55:45 ID:1d4drIFg0
世間で言う愛とは所有であるというのじゃ。
確保して所有するから、他人がそうすると嫉妬があるのじゃ。
それは本当は愛とはいえないものじゃ。
感情とか情緒とか宗教にも愛は無いのじゃ。
思考とか精神、マインドには愛は無いと言うのじゃ。

375避難民のマジレスさん:2020/11/22(日) 08:42:41 ID:gsjWwTOg0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 2

 本当の尊敬がないとき、もう一人を尊敬しないとき-彼があなたの召使いであろうと友人であろうと、愛はありません。あなたは召使いに対して、いわゆる「目下の」人たちに対して、尊敬して親切で寛大でないということに、気づいたことがないでしょうか。あなたは目上の人たち、自分の上司、百万長者・大金持ち、大きな家と肩書きを持つ人、あなたによい地位、よい仕事・職を与えることができ、彼から何かを得られる人に対して尊敬を払います。しかしあなたは自分より下の人たちを蹴り飛ばします・足蹴にします。彼らに対して特別な言葉を持っています。ゆえに尊敬がないところ、愛はありません。慈悲のない、愍れみ・憐れみのない、許しのないところ、愛はありません。そして私たちのほとんどはこの状態にあるので、私たちには愛がありません。私たちは尊敬もなく、慈悲深くもなく、寛大でもありません。私たちは所有欲が強く、感情と情動で充ちています-それは殺すこと、虐殺すること、または何か愚かな無知な意図について統一すること、いずれかの道に向けられるのです。ではどうして愛がありうるでしょうか。
 これらすべてのことが止んでしまい終わりに至ったときだけ、あなたは所有しないとき、対象への献身をもってたんに情動的ではないときだけ、愛を知ることができるのです。そういう献身は、嘆願・哀願、違った形で何かを求めることです。祈る人は愛を知りません。あなたは所有欲が強いから、献身をとおし、祈りをとおして目的、結果を求めるから-それ [献身、祈り] はあなたを感情的、情動的にします-当然、愛はありません。尊敬がないとき、明白に愛はありません。あなたは、自分は尊敬すると言うかもしれませんが、あなたの尊敬は、目上の人に対してです。それはたんに何かを欲しがることから来る尊敬、恐れの尊敬です。あなたはもしも本当に尊敬を感じたなら、いわゆる最高の人とともに最低の人に対しても尊敬するでしょう。あなたはそれを持っていないから、愛はありません。何とほとんどの人たちは、寛大でも、許しも、慈悲深くもないことでしょう!あなたは(引き合う)とき、寛大です。見返りに何かが見えるとき、慈悲深いのです。これらのものごとが消え去るとき、これらのものごとが、あなたの精神を占有しないとき、精神のものごとがあなたの心を充たさないとき、そのとき愛があります。そして愛のみが、世界の現在の愚行・愚かさと狂気を変容させられるのです-左翼のであれ右翼のであれ体系・体制ではなく、理論ではないのです。あなたは所有しないとき、妬んで貪欲でないとき、尊敬しているとき、哀れみと慈悲を持っているとき、自分の妻、子供たち、隣人たち、不幸な召使いに対して配慮を持っているときだけ、本当に愛しています。
 愛は [それについて] 考えることができません。愛は育成できません。愛は実践できません。愛の実践、同胞愛の実践は、やはり精神の領域内にあります。ゆえにそれは愛ではありません。このすべてが止んでしまったとき、そのとき愛は生じるのです。そのときあなたは愛することが何であるかを知るでしょう。そのとき愛は量 [的] ではなく質 [的] です。「私は世界全体を愛している」と、あなたは言いません。しかしあなたは一つ・一人をどう愛するかを知るとき、全体をどう愛するかを知ります。私たちは一つをどう愛するかを知らないから、私たちの人類・人間への愛は架空・虚構なのです。あなたは愛しているとき、一(人)も多(数)もありません。ただ愛だけがあります。私たちの問題すべてが解決されうるのは、愛があるときだけです。そのとき私たちはその恵み・至福とその幸せを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/22(日) 23:54:43 ID:1d4drIFg0
所有する者には尊敬が無いというのじゃ。
それは自分のもちものであるからのう。
所有が無く欲も無い時尊敬はあると言うのじゃ。
それが愛なのじゃ。
全ての問題を解決できるのは愛がある時だけというのじゃ。

377避難民のマジレスさん:2020/11/23(月) 09:49:27 ID:OWAnVtK.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 1

質問
 死は生とどんな関係があるのですか。

生と死の間に分割があるのでしょうか。なぜ私たちは死を、何か生から離れたものとして見なすのでしょうか。なぜ私たちは死を恐れるのでしょうか。そしてなぜ死について書かれたとても多くの本があるのでしょうか。なぜ生と死の間に、この境界線があるのでしょうか。そしてその分離は本当でしょうか。それともたんに気ままな・恣意的な精神の事柄なのでしょうか。
 私たちが生について話すとき、私たちのいうのは、そこに同一化のある継続の過程としての生活、という意味です。私と私の家、私と私の妻、私と私の銀行預金、私と私の過去の経験-それが私たちが生によって意味することなのではないでしょうか。生きることは、無意識的とともに意識的な記憶における継続の過程です-それ [記憶]には、 様々な格闘、諍い、出来事、経験などを伴っています。そのすべてが生と呼ばれるものです。その対極に・それと対比して死があります。それは、そのすべてを終わりにすることです。対極すなわち死を造り出しておいて、それを怖れるとき(ので)、私たちは進んで生と死の間の関係を探そう(探ろう)とします。私たちは何かの説明でもって、継続への、来世への信念でもって、その割れ目・隔たりに橋を架けられるなら、満足するのです。私たちは輪廻転生や何か他の形の思考の継続を信じています。そのとき知っているものと知らないものの間に関係を確立しようとします。私たちは知っているものと知らないものを橋渡ししよう(に橋を架けようと)とします。よって過去と未来の間に関係を見つけようとします。私たちは生と死の間に何か関係があるのかどうかを探究するとき、それが、私たちがしていることなのではないでしょうか。私たちは生きることと終わることに、どう橋を架けるのかを知りたいのです-それが私たちの根本的願望です。
 そこで、終わり、すなわち死は、生きている間に知りえないのでしょうか。私たちは生きている間に、死が何であるかを知ることができるなら、そのとき問題を持たないでしょう。私たちがそれを怖れているのは、生きている間に、知らないものを経験できないからです。私たちの格闘は、私たち自身-それは知っているものの結果です-と、死と呼ばれる知らないものとの間に、関係を確立することです。過去と、精神が考え出す(思いつく)ことのできない何か、すなわち死と呼ばれるものの間に、関係がありうるでしょうか。なぜ私たちは二つを分離するのでしょうか。それは、私たちの精神が、知っているものの領域の中で、連続的なものの領域の中でだけ機能できるから、ではないでしょうか。人は、悲惨の、楽しみの、愛、愛情の、様々な種類の経験の一定の記憶を持った思考者として、行為者(actor 作者)として自分自身を知っているだけです。人は自分自身を連続しているものとして・自分自身が連続していることを知っているだけです-そうでないと自分自身が何ものかであるという回想(追憶)を持たないでしょう。そこで、その何かが終わりになるとき-それが死と呼ばれます-知らないものへの恐れがあるのです。それで私たちは知らないものを、知っているものの中に引き込みたいのです。私たちの努力全体は、知らないものに連続性を与えることです。すなわち私たちは生-すなわち死を含んでいるもの-を知りたくないのです。いかに継続して終わりにならないか・終わらないかを知りたいのです。私たちは生と死を知りたくないのです。いかにして終わることなく継続するのかを知りたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

378鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/23(月) 21:55:57 ID:1d4drIFg0
死と生は離れたものではないというのじゃ。
それは同じものの変化なのじゃ。
肉体がある時に生きるということがあり、それが止まることを死と呼ぶだけなのじゃ。
死は生の終わりであり、生は死の必要条件なのじゃ。
生がなければ死も無いからなのじゃ。
その二つを引き離すことは出来ないのじゃ。

379避難民のマジレスさん:2020/11/24(火) 18:06:36 ID:fFvb601s0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 2

 継続するものは新生がありません。継続(連続)性のあるものには、何も新しいものがありえません。何も創造的なものがありえません-それはかなり明白です。常に(そもそも)新しいものの可能性がありうるのは、連続性が終わるときだけです。しかし私たちが怖れるのは、この終わることです。日毎に私たちの経験、記憶、不幸を持ち越すことにではなく、終わることにおいてだけ、新生が、創造的なものが、知らないものがありうるということが、私たちはわからないのです。新しいものがありうるのは、古いものすべてに対して、毎日死ぬときだけです。連続性があるところ、新しいものはありません-新しいものとは創造的なもの、知らないもの、永遠のもの、神、何でもです。知らないもの、真実のもの、永遠のものを求める人物、連続的な実体は、決してそれを見つけないでしょう。なぜなら、彼は自分自身の中から投影するものだけを見つけられるし、彼が投影するものは真実のものではないからです。終わること、死ぬことにおいてだけ、新しいものが知られうるのです。生と死の間に関係を見つけよう、(連続するものと彼方にあると思われるものに橋を架けよう)と努める人は、架空の・虚構の真実でない世界、すなわち彼自身の投影に生きているのです。 では、生きている間に死ぬことは可能でしょうか-それは終わる、無としてある、という意味です。あらゆるものがますますなろう、またはますますなるまいとしているこの世界、あらゆるものが登り、達成し、成功する過程であるこの世界で生きている間に、そういう世界で死を知ることは可能でしょうか。すべての記憶を終わらせることは可能でしょうか-事実について [の記憶] 、自分の家に帰る道についての記憶などではなく、記憶をとおしての心理的安全への内面的執着、蓄積し、貯えてきて、そこに安全、幸せを求める記憶です。そのすべてを終わりにすることは可能でしょうか-それは、明日の新生があるように、毎日死ぬという意味です。生きている間に死を知るのは、そのときだけです。その死ぬことにおいて、その終わること、連続性を終わりにすることにおいてだけ、新生が、永遠であるその創造があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

380鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/24(火) 23:17:06 ID:1d4drIFg0
連続するものは新しいものはないというのじゃ。
それは記憶に依存しているからなのじゃ。
記憶に依存していればなにものかが連続しており、過去と未来が在ると思うのじゃ。
その連続性が無い時にのみ新しいものがあると言うのじゃ。
連続性の終わりが死であるというのじゃ。
死は終わりではなく新しいものの始まりなのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2020/11/25(水) 17:11:53 ID:RnRU.n1I0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 1

質問
 過去はただちに解消できるのでしょうか。それとも、それは必ず時間を必要とするのでしょうか。

 私たちは過去の結果です。私たちの思考は昨日と何千もの昨日に基づいています。私たちは時間の結果です。私たちの応答、現在の態度は、何千もの瞬間、出来事、経験の累積的結果(影響)です。ですから過去は、私たちの大多数にとって現在です。それは否定できない事実です。あなた、あなたの思考、あなたの行動、あなたの応答は、過去の結果です。そこで質問者は、過去が即時に一掃できるのかどうかを知りたいのです。それは、時間においてという意味ではなく、即時に一掃するという意味です。それとも、この累積的過去は、精神が現在において自由になるために時間を要求するのでしょうか。疑問を理解することが重要です。それはこうです-私たち各自は、常に変わり、常に変化する無数の影響の背景を伴った過去の結果であるので、その背景を、時間の過程を経ずに一掃することは可能でしょうか。
 過去とは何でしょうか。私たちのいう過去とはどういう意味でしょうか。たしかに、私たちのいうのは、年代的な過去という意味ではありません。 確かに私たちがいうのは、蓄積された経験、蓄積された応答、記憶、伝統、知識 [という意味] 、無数の思考、感情、影響、応答の潜在意識的(意識下の)倉庫、という意味です。その背景をもって真実を理解することは不可能です。なぜなら、真実は時間のないものであるにちがいないからです。それは無時間です。ですから、時間から出てきたものである精神をもって、時間のないものは理解できません。質問者は、精神を自由にすること、または精神、すなわち時間の結果であるものは、即時に存在しなくなることは可能であるのかどうかを知りたいのです。それとも、長い一連の試験を経て、分析して、それで精神をその背景から自由にしなければならないのでしょうか。
 精神は背景です。精神は時間の結果です。精神は過去です。精神は未来ではありません。それはそれ自体を未来の中に投影できます。精神は現在を未来への通路として使います。ですから、それが何をやっても、その活動、その未来の活動、その現在の活動、その過去の活動が何であろうと、それはやはり時間の網の中です。精神が完全に止むこと、思考過程が終わりになることは可能でしょうか。さて精神には明白に多くの層があります。意識と呼ばれるものは、多くの層を持っています。各層は他の層と相互に関係しています。各層は他に依存し、相互に作用しています。私たちの意識全体は、経験しているだけでなく、また名づけ、用語付け、記憶として貯えてもいます。それが意識の過程全体なのではないでしょうか。
 私たちが意識について話すとき、私たちのいうのは、経験すること、その経験を名づけたり用語づけること、それによりその経験を記憶にたくわえておくこと、という意味ではないでしょうか。違った水準で、このすべてが意識です。精神、すなわち時間の結果であるものは、背景から自由であるために、一歩ずつ分析の過程を経ることができるでしょうか。それとも時間から全く自由になって、真実を直接に見ることは可能でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

382鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/25(水) 21:51:41 ID:1d4drIFg0
過去とは精神であるというのじゃ。
それは記憶に拠って作られたものじゃ。
それを理解できれば瞬時に消えるのじゃ。
ただの観念妄想であったと気付くからなのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2020/11/26(木) 19:46:58 ID:T9jfcAc60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 2

 背景から自由であるには、あらゆる応答、あらゆるコンプレックス、あらゆる障害、あらゆる閉塞物(障害・妨害)を検討しなければならないと、分析者の多くは言います-それは明白に時間の過程という意味を含んでいます。これは、分析者は自分が分析しているものを理解しなければならない、自分が分析するものを誤って解釈(誤解)してはならない、という意味です。彼は自分が分析するものを誤って解釈するなら、それは彼を間違った結論に導き、ゆえにもう一つの背景を確立するでしょう。分析者は自分の思考と感情を、極わずかの逸脱もなく分析する能力がなければなりません。そして彼は自分の分析において一歩も失敗して(はずして・見失って)はなりません。なぜなら、間違った歩みをすること、間違った結論を引き出すことは、違った線に沿って、違った水準で、背景を再確立することであるからです。この問題もまた生じます-分析者は自分が分析するものとは違っているのだろうか。分析者と分析されるものとは接合した(共通の・共有の)現象ではないでしょうか。
 確かに、経験者と経験とは接合した現象です。それらは二つの分離した過程ではありません。それでまず最初に、分析することの難しさを見ましょう。私たちの意識の内容全体を分析して、よってその過程をとおして自由になることは、ほとんど不可能です。結局、分析者とは誰でしょうか。分析者は、自分が分析しているものと自分は違っていると思うかもしれませんが、違っていません。彼は自分が分析するものから自分自身を分離するかもしれませんが、分析者は自分が分析するものの一部です。私は或る思考を持っています。或る感情を持っています-例えば、私は怒っているとします。怒りを分析する人物は、やはり怒りの一部です。ゆえに分析されるものと共に分析者は、接合した現象です。それらは二つの分離した力や過程ではありません。ですから私たち自身を分析すること、展開すること、次から次へとぺ-ジをめくって私たち自身を見つめること、あらゆる反応、あらゆる応答を見張ることの難しさは、計算できないほど難しくて長いのです。ゆえにそれは、私たちを背景から自由にする道ではないのではないでしょうか。もっと単純でもっと直接の道があるにちがいないし、それが、あなたと私が見出そうとしていることです。見出すためには、偽りであるものを切り捨て [なければなりません] 、それにすがりついてはなりません。ですから分析は道ではありません。私たちは分析の過程から自由でなければなりません。
 そのときあなたは何を去ったのでしょうか。あなたは分析することに慣れているだけではないでしょうか。観察している観察者-観察者と観察されるものは接合した現象です-自分が観察するものを分析しようとしている観察者は、自分の背景から自由にならないでしょう。そうであるなら-そうなのですが-あなたはその過程を捨て去るのではないでしょうか。あなたは、それが偽りの道であることがわかるなら、それが偽りの過程であることを、たんに言葉の上だけでなく現実に悟るなら、そのときあなたの分析に何が起きるでしょうか。あなたは分析するのを止めるのではないでしょうか。そのときあなたは何を去ったのでしょうか。それを見守ってください。それに付いてきてください。すると、どんなに急速にすばやく、背景から自由になれるかがわかるでしょう。それが道でないなら、他に何を去ったのでしょうか。分析すること、探り、覗き込むこと、解剖すること、結論を引き出すことなどに慣れている精神の状態は、どんなものでしょうか。その過程が止んでしまったなら、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

384鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/26(木) 21:52:30 ID:1d4drIFg0
記憶から自由であるためには全ての観念を見る必要は無いのじゃ。
自分自身が見る者であり、見られるものであることに気付けば善いのじゃ。
それが自分を見る事になるのじゃ。
観察する者と観察されるものがあるという観念があれば記憶から離れることは無いのじゃ。

385避難民のマジレスさん:2020/11/27(金) 19:58:45 ID:n2jj.iZI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 3

 精神は空白であると、あなたは言います。その空白の精神の中にさらに進んでください。言い換えれば、あなたは、偽りであるとして知られているものを切り捨てるとき、あなたの精神に何が起きたのでしょうか。結局、あなたは何を切り捨てたのでしょうか。あなたは背景から出てきたものである偽りの過程を切り捨てたのです。そうではないでしょうか。一発(一撃)で、いわばあなたは全体を切り捨てたのです。ゆえに、あなたが分析過程と共にそのすべての含意(意味合い)を切り捨てて、それが偽りとわかるとき、あなたの精神は昨日から自由であるし、ゆえに時間の過程を経ずに直接に見る [能力がある] し、よって即時に背景を切り捨てる能力があるのです。
 疑問全体を違ったふうにすると、思考は時間の結果なのではないでしょうか。思考は環境の、社会的、宗教的影響の結果です-それはすべて時間の一部です。そこで思考は時間から自由でありうるでしょうか。すなわち時間の結果である思考は止まって、時間の過程から自由でありうるでしょうか。思考は制御され形作られえます。しかし思考の制御はやはり時間の領域の中にあるのです。そこで私たちの困難は-時間の、何千もの昨日の結果である精神は、どのようにしてこの複雑な背景から瞬時に自由でありうるのか-です。あなたは明日にではなく現在、今、それから自由でありえます。それは、あなたが偽りであるものを悟るときだけ、できるのです。偽りのものは明白に分析的過程です。それが私たちの持っている唯一のものです。強制をとおしてではなく、その過程の避けられない偽りを理解することをとおして、分析的過程が完全に止まるとき、そのときあなたは、自分の精神が完全に過去から分離されていることがわかるでしょう-それはあなたが過去を認識しないということではなく、あなたの精神が過去と直接の交流を持たないという意味です。それで、それは即時に、今、過去から自由になれるのです。この過去からの分離、昨日からのこの完全な自由は-年代的にではなく心理的に-可能です。それが真実を理解する唯一の道です。
 それをとても単純にすると、あなたが何かを理解したいとき、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。あなたが自分の子供を理解したいとき、誰かを、誰かが言っていることを理解したいとき、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。あなたは他の人が言っていることを分析し、批判し、判定していません。あなたは聴いているのではないでしょうか。あなたの精神は、思考過程は活動していないがとても鋭敏である状態にあります。その鋭敏さは、時間のものではないのではないでしょうか。あなたはたんに鋭敏で受動的に受け入れる(受容力がある)けれども、充分に気づいているだけです。そして理解があるのは、この状態においてだけです。精神が動揺し、問い、悩み、解剖し、分析しているとき、理解はありません。理解しようとする意図があるとき、精神は明白に平静です。もちろんこれは、あなたが実験してみなくてはなりません。私の言うことを真に受ける(信じる)のではありません。あなたは分析すればするほど、ますます理解しないということがわかるはずです。あなたは一定の出来事、一定の経験を理解するかもしれませんが、意識の内容全体は、分析的過程をとおして空っぽにすることはできません。それは、あなたが分析をとおした接近の偽りがわかるときだけ、空っぽにできるのです。あなたは偽りを偽りとわかるとき、そのとき何が真実であるかがわかりはじめます。そしてあなたを背景から解放することになるのは、真理です。
(´・(ェ)・`)つ

386鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/27(金) 23:32:46 ID:1d4drIFg0
思考は時間に拠っているから時間からは自由でありえないというのじゃ。
記憶に縛られているのじゃ。
思考に拠らない理解は時間によるものではないのじゃ。
時間を掛けず瞬時に理解できるのじゃ。
それが気づきなのじや。

387避難民のマジレスさん:2020/11/28(土) 11:18:52 ID:fukTh4tE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 1

質問
真理が来るために、あなたは観念をもたない行動を、主張されます。観念をもたずに、すなわち目的を視野にもたずに、いつのときも行動することは、可能でしょうか。

私たちの現在の行動は何でしょうか。私たちのいう行動とは、どういう意味でしょうか。私たちの行動-私たちがしたい、ありたいと思うこと-は、観念に基づいているのではないでしょうか。それが、私たちの知っているすべてです。私たちは観念、理想、約束・誓約、あるがままの自分たちとそうでないものについての様々な定式を持っています。私たちの行動の基礎は、未来の報賞か、罰への恐れです。私たちはそれを知っているのではないでしょうか。そういう行動は孤立させ、自己を閉鎖しています(孤立的、自己閉鎖的です)。あなたは美徳についての観念を持っていて、その観念に応じて、関係において生き、行動します。あなたにとって関係は-集団的でも個人的でも-理想に向かい、美徳に向かい、達成などに向かっている行動です。
 「私は勇敢でなければならない」、「私は模範に付いていかなければならない」、「私は慈悲深く・情け深くなければならない」、「私は社会的に意識しなければならない」、などといったように-私の行動が理想、すなわち観念に基づいているとき、その観念が私の行動を形造り、私の行動を導きます。私たちは皆「私が付いていかなければならない美徳の模範がある」と言います-それは、「私はそれに応じて生きなければならない」という意味です。それで行動はその観念に基づいています。行動と観念の間に大きな隔たり・深淵があります。分割があります。時間の過程があります。そうなのではないでしょうか。言い換えれば、私は慈悲深くないのです。愛していないのです。自分の心の中に許しがないのです。しかし慈悲深くなければならないと、感じるのです。それであるがままの私とあるべき私との間に隔たりがあるのです。私たちはいつのときも、その隔たりに橋を架けようとしています。それが私たちの活動なのではないでしょうか。
 では、もしも観念が存在しなかったなら、何が起きるでしょうか。一挙に、あなたは隔たりを取り去ってしまったのではないでしょうか。あなたはあるがままのあなたであるでしょう。「私は醜い。美しくならなければならない。どうすべきでしょうか」と、あなたは言います-それは観念に基づいた行動です。「私は慈悲深くない。慈悲深くならなければならない」と、あなたは言います。それであなたは、行動から分離した観念を導入します。ゆえにあるがままのあなたの真の行動 [・作用]は決してなくて、いつもあるであろうあなたの理想に基づいた行動があるのです。 愚かな人はいつも、自分は利口になろうとしていると、言います。彼は座って、なろうと働き、格闘して・もがいています。彼は決して止めません。「私は愚かだ」とは決して言いません。それで彼の行動、すなわち観念に基づいているものは、全く行動ではないのです。
(´・(ェ)・`)つ

388鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/28(土) 22:34:20 ID:1d4drIFg0
観念がある時には行動は無いというのじゃ。
なぜならば観念による行動は欲とか規範による反応であるからというのじゃ。
観念を持つ者は行動しているのではなく、ただ反応しているのみなのじゃ。
観念が無いと時こそ真の理想に基づいた行動があると言うのじゃ。

389避難民のマジレスさん:2020/11/29(日) 17:00:18 ID:e5flW1XM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 2

 行動とは、すること、動くことという意味です。しかしあなたが観念を持つとき、それはたんに行動との関係において、観念作用が続いている、思考過程が続いているだけです。観念がなければ、何が起きるでしょうか。あなたは、あるがままのあなたです。あなたは慈悲深くありません・無慈悲です。あなたは許していません。あなたは残酷で愚かで無思慮です。あなたはそれと共にとどまれるでしょうか。あなたはそうするなら、そのとき何が起きるか、わかります。私は自分が慈悲深くなく愚かであるのを認識するとき、それがそうであることに気づくとき、何が起きるでしょうか。慈善の心がないでしょうか。智恵がないでしょうか。私が慈悲深くないことを、言葉ではなく、作為的にではなく、完全に認識するとき、自分が慈悲深くなくて愛がないのを認識するとき、まさにそのあるがままを見ることこそに、愛がないでしょうか。私は即時に慈悲深くならないでしょうか。私が清潔であることの必要性がわかるなら、それはとても単純です。私は洗いにゆきます。しかしそれが、私が洗うべきであるという観念であるなら(私は洗うべきであるということが観念であるなら)、そのとき何が起きるでしょうか。そのとき清潔さは延期されるか、または表面的です。
 観念に基づいた行動は、とても表面的です。全く真の行動ではありません。ただ観念作用だけです-それはたんに思考過程が続いているだけです。
 人間としての私たちを変容させ、革新、償い、変容をもたらす行動-何と呼ぼうと-そういう行動は観念に基づいていません。それは、賞罰の連続とはかかわりのない行動です。そういう行動は時間がありません。なぜなら、時間の過程、計算する過程、分割し、孤立化させる過程である精神が、その中に入ってこないないからです。
 この質問はあまりたやすく解決されません。あなたたちのほとんどは、質問をして、「はい」とか「いいえ」とかいう答えを期待します。「あなたのいうのはどういう意味でしょうか」というような質問をして、それから深く坐って、私に説明させることはたやすいです。しかし自分自身で答えを見出すことのほうが、はるかにもっと困難です-問題がなくなるほどに、それほど奥深く、それほど明晰に、なんの腐敗もなく問題の中に入ることのほうが、です。精神が問題に向き合ってほんとうに静寂であるとき、それは起こりうるだけです。問題は、あなたがそれを愛するなら、夕暮れと同じほど美しいのです。あなたは問題と敵対しているなら、決して理解しないでしょう。私たちのほとんどは敵対しています。なぜなら私たちは、結果に、進めば起きるかもしれないことに、怯えているからです。それで問題の意義と範囲・視野を失うのです。
(´・(ェ)・`)つ

390鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/29(日) 23:33:39 ID:1d4drIFg0
観念がある行動は行動ではないばかりか、観念そのものとまで言うのじゃ。
行動は無く観念が続いているだけなのじゃ。
汚い自分を洗おうとする観念による行動は汚い自分を続けるだけというのじゃ。
観念に基づかない行動だけが変容を引き起こすというのじゃ。

391避難民のマジレスさん:2020/11/30(月) 19:12:14 ID:GB63TOaY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 1

質問
私はあなたの言うことを聴くとき、すべてが明確で新しく見えます。家では、古いもの、鈍い落ち着きのなさが、自己を主張します。私の場合、何が間違っているのでしょうか。

 私たちの生において、現実に起きているのは何でしょうか。常なる挑戦と応答があります。それが存在であり、それが生なのではないでしょうか-常なる挑戦と応答です。挑戦はいつも新しくて、応答はいつも古いのです。私は昨日あなたに会いました。そしてあなたは今日私のところへ来ます。あなたは違っています。あなたは修正されています。あなたは変わりました。あなたは新しいのです。しかし私は、あなたが昨日あったのと同じあなたの映像を持っています。ゆえに私は新しいものを古いものの中に吸収します。私は新たにあなたに出会わないのです。昨日のあなたの映像を持っています。それで挑戦への私の応答は、いつも条件づけられるのです。あなたはここでは当分は、バラモン、キリスト教徒、高いカ-スト、-何であろうと-であるのを止めます-あなたはあらゆるものごとを忘れます。あなたはただ聴いて、熱中して、見出そうとしています。あなたは自分の日常の生を再開するとき、自分の古い自己になります-自分の仕事、自分のカ-スト、自分の体制、自分の家族に戻っています。言い換えれば、新しいものは古いものにより、古い習慣、慣習、観念、伝統、記憶の中に、いつも吸収されているのです。決して新しいものはないのです。というのは、あなたはいつも古いものでもって新しいものに出会っているからです。挑戦は新しいのですが、あなたは古いものでもって、それに出会うのです。この質問における問題は、いつのときも新しくあるように、どのようにして思考を古いものから自由にするか、です。あなたは花を見るとき、顔を見るとき、空、木、微笑を見るとき、どのようにして新たにそれと出会うのでしょうか。私たちがそれと新たに出会わないのは、なぜでしょうか。古いものが新しいものを吸収して、それを修正するのは、なぜでしょうか。あなたが家に帰るとき、なぜ新しいものは止むのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

392鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/30(月) 21:40:31 ID:1d4drIFg0
記憶に依存していれば常に全ては古いものになるのじゃ。
過去の記憶から今見ているものごとが解釈されるからのう。
今は直ぐに古くなってしまうのじゃ。
記憶に依存しなければ全ては常に新しいのじゃ。

393避難民のマジレスさん:2020/12/01(火) 17:44:57 ID:v1y86gyc0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 2

 古い応答は思考者から生じます。思考者はいつも古いものではないでしょうか。あなたの思考は過去に基づいているから、あなたが新しいものに出会うとき、それに出会っているのは思考者です。昨日の経験がそれに出会っているのです。思考者はいつも古いものです。それで私たちは違った仕方で同じ問題に戻って来るのです。どのようにして精神を、思考者としてのそれ自体から自由にするのか。どのようにして記憶を-事実に基づく・関する記憶ではなく、心理的な記憶、すなわち経験の蓄積を-根絶するのか。経験の残り滓からの自由なしには、新しいものの受容はありえません。思考を自由にすること、思考過程から自由であって、それで新しいものに出会うことは、困難なのではないでしょうか。なぜなら、私たちのすべての信念、すべての伝統、教育におけるすべての方法は、模倣、真似ること、記憶すること、記憶の貯え・貯蔵所を築き上げることであるからです。その記憶が常に新しいものに応答しています。その記憶の応答が、考えることと呼ばれます。その考えることが新しいものに出会うのです。それでどうして新しいものがありうるでしょうか。記憶の残り滓がないときだけ、新しさがありえるのです。経験が終わり、終了し・終結し、終わっていないとき、残り滓があるのです。すなわち経験についての理解が不完全であるときです。経験が完全であるとき、残り滓はありません-それが生の美しさです。愛は残り滓ではありません。愛は経験ではありません。それは存在の状態です。愛は永遠に新しいのです。ゆえに私たちの問題は-家においてさえも、常に新しいものに出会えるでしょうか。確かにできます。そうするには、思考に、感情に、革命をもたらさなければなりません。あらゆる出来事が、瞬間瞬間考え抜かれるとき、あらゆる応答が-たんにいいかげんに・何気なく見られ、投げ捨てられるのではなく-充分に理解されるときだけ、あなたは自由でありうるのです。あらゆる思考、あらゆる感情が完全にされ・完了され、最後まで考え抜かれるときだけ、蓄積する思考からの自由があるのです。言い換えれば、各思考と感情が考え抜かれ、終了・終結されるとき、終わりがあるのです。その終わりと次の思考の間に空間があるのです。その静寂の空間に、新生があり、新しい創造性が起きるのです。
(´・(ェ)・`)つ

394鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/01(火) 21:32:42 ID:1d4drIFg0
認識が記憶に依存していれば、新しいものも古い記憶から解釈されてしまうのじゃ。
記憶によって認識したことから思考が生まれるから、思考は常に古いのじゃ。
記憶に無い新しいものごとは思考されないのじゃ。
それを理解できた時に静寂があり、新しいものを認識できるのじゃ。

395避難民のマジレスさん:2020/12/02(水) 18:20:24 ID:AaNyLhQ20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 3

 これは理論的ではありません。これは非実践的ではありません。あなたは、あらゆる思考と感情を考え抜こうとするなら、それはあなたの生において、とてつもなく実践的であることを、発見するでしょう。というのは、そのときあなたは新しいし、新しいものは永遠に永続するからです。新しいことは創造的ですし、創造的であることは幸せであることです。幸せな人は、自分が富裕であるか貧しいかに関心がありません。彼は社会のどんな水準、どんなカ-スト、どんな国に、自分が属しているかを気にしません。彼は指導者も、神も、寺院も、教会も [持ちません]、 ゆえに諍いも、敵も持ちません。
 確かにそれが、この現在の混沌の世界において、私たちの問題を解決するもっとも実践的な道ではないでしょうか。私たちが自分たちの意識の違った水準すべてにおいてこんなに反社会的であるのは、私たちが-私がその言葉を使っている意味において-創造的でないからです。私たちの社会的関係において、あらゆるものごととの関係において、とても実践的で効果的であるには、幸せでなければなりません。終わりがなければ、幸せはありえません。常なるなりゆきの過程があるなら、幸せはありえません。終わることのなかに、新生、再生・復活、新しさ、新鮮さ、喜びがあるのです。
 背景があるかぎり、精神、思考者が、自分の思考により条件づけられるかぎり、新しいものは古いものに吸収されるし、古いものは新しいものを破壊します。背景から、条件づける影響から、記憶から自由であるには、継続・連続性からの自由がなければなりません。思考と感情が完全に終わらないかぎり、継続性があります。あなたは思考をその終わりまで追求し、よってあらゆる思考、あらゆる感情を終わらせるとき、思考を完全にする・完了するのです。愛は、習慣、記憶ではありません。愛はいつも新しいのです。精神が新鮮であるときだけ、新しいものとの出会いがありうるのです。そして記憶の残り滓があるかぎり、精神は新鮮ではありません。記憶は心理的と共に事実に基づいています。私は事実に基づいた記憶についてではなく、心理的な記憶について話しています。経験が完全に理解されないかぎり、残り滓があります-それが古いものです。それが昨日のもの、過去であるものごとです。過去はいつも新しいものを吸収しているし、ゆえに新しいものを破壊しています。精神があらゆるものごとに新たに出会うのは、それが古いものから自由であるときだけです。そしてその中に、喜びがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/02(水) 21:31:35 ID:1d4drIFg0
思考とか感情をどこまで追及するならばそれが消える境地にまで達するのじゃ。
実際にそれは出来ることじゃ。
思考とか感情を終わらせれば新しいものに出会えるのじゃ。
そして喜びが在るのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2020/12/03(木) 06:52:42 ID:h1RGr7360
うむ。
確かに、永遠に続く苦しみの様に思われる強い感情や、負の思考も、やがて消え去ることを知っています。
Kの方法は、その思考、感情が消え去るまて考え抜き、感じ続けることでありますかね?
「観」の徹底を求めてるのでありましょうか?
呼吸への集中→雑念に巻き込まれて集中することを忘れる→そのことに気づいて集中に戻る→雑念が消える。
↑こちらの方が、だれでもできる楽な実践法のように思えるのでありますが、Kは、「集中」「止」が、「観」の徹底の邪魔をすると考えてるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

398避難民のマジレスさん:2020/12/03(木) 19:32:02 ID:hh98Jcm20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 1
質問
 情動に名づけることやレッテルを貼ることなしに、どうしてそれに気づけるのでしょうか。私は [ある] 感情に気づくなら、それが生じた後にほとんど即時に、その感情が何であるかを知っているように見えます。それともあなたは、「名づけてはいけない」と言うとき、何か違ったことを意味しているのでしょうか。

 なぜ私たちは何かに名づけるのでしょうか。なぜ私たちは花に、人物に、感情に、レッテルを貼るのでしょうか。自分の感情を伝達するため、花等々を叙述するため、または自分自身をその感情と同一化するため、のどれかです。そうではないでしょうか。私は伝達するために、何かに、感情に名づけます-「私は怒っている」。またはその感情を強めるため、解消するため、それについて何かをするために、自分自身をそれと同一化します。私たちは他の人たちに伝達するために、何かに、バラに名前をつけます。またはそれに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちは「それはバラです」と言って、急いで・すばやくそれを見て次に進みます。それに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちはそれを分類しておいて、よってその花の内容と美しさ全体を理解したと、思うのです。
 何かに名前をつけることにより、私たちはたんにそれをに入れただけです。それでそれを理解したと思うのです。私たちはそれをもっときっちりと見ないのです。私たちはどんなふうにでもそれに名前をつけないなら、それを見るように強いられるのです。すなわち私たちは花でも何でも、新しさをもって、新しい検討の質をもって接近するのです。私たちはまるで今まで見たことがなかったかのように、それを見ます。名づけることは、ものごとや人を整理する・処置するとても便利なやりかたです-彼らはドイツ人、日本人、アメリカ人、インド人であると言うことにより、あなたは彼らにレッテルを貼って、レッテルを破壊できるのです。あなたは人々にレッテルを貼らないなら、彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことは、はるかにもっと難しいのです。あなたは爆弾でレッテルを破壊して正しいと・正義だと感じることができます。しかしあなたはレッテルを貼らないで、ゆえに一個の・個々のものごと-それが人でも花でも出来事でも情動でも-を見なければならないなら、そのとき、それと自分の関係、後に続く行動との関係を考えるように強いられるのです。それで用語づけることやレッテルを貼ることは、何かを処理する-それを否定したり非難したり正当化したりする-とても便利なやり方です。
 あなたがそこから名づけてくる中核・核芯は何でしょうか。いつも名づけ、選択し、レッテルを貼っている中心は何でしょうか。私たちは皆、中心、核があると感じるのではないでしょうか-そこから私たちは行動しています。そこから判断しています。そこから名づけています。その中心、その核は何でしょうか。或る者は、それは霊的本質、神、などであると考えたいように思うのです。それでその核、その中心が何であるかを見出しましょう-それが名づけ、用語付け、判断しているのです。確かに、その中心は記憶なのではないでしょうか。同一化され、閉じ込められた一連の感動-現在をとおして命を与えられた過去です。その核、その中心が、名づけること、レッテルを貼ること、覚えておくことをとおして、現在を常食にするのです。
(´・(ェ)・`)つ

399鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/03(木) 21:51:42 ID:1d4drIFg0
>>397 そうじゃ、それを観察と呼ばないだけなのじゃ。
 実際は観察しているのであるがのう。

 そのようじゃ。
 集中なく観察をしろというのじゃ。
 困難なことじゃ。

400鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/03(木) 21:53:44 ID:1d4drIFg0
名づけるのはものごとや人を整理するのに便利であると言うのじゃ。
しかし、それは記憶による分別なのじゃ。
記憶により分別されてしまえばそれはもはや古いことになってしまうのじゃ。
今ここにいることはできないのじゃ。
過去の記憶に生きているのじゃ。

401避難民のマジレスさん:2020/12/04(金) 18:02:46 ID:SpAN1P/60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 2

 私たちは、それを展開する・紐解くにつれて、この中心、この核が存在しているかぎり、理解はありえないことが、やがてわかるでしょう。理解があるのは、この核の消散をもってだけです。なぜなら、結局、その核は記憶であるからです-名前、レッテル、同一化を与えられてきた様々な経験の記憶です。名づけられ、レッテルを貼られたそれらの経験をもって、その核から、経験の記憶の感動 [に応じ] 、楽しみと苦痛に応じて、受け入れと拒絶、あろう、あるまいとする決意・決心・決定があるのです。ですからその核は言葉です。あなたがその中心に名づけないなら、中心はあるでしょうか。すなわちあなたが言葉という見地に立って考えないなら、言葉を使わないなら、考えられるでしょうか。考えることは、言語化・言葉にすることをとおして生じます。または言語化は、考えることに応答し始めます。中心、核は、言語化された無数の楽しみと苦痛の経験の記憶です。どうかそれをあなた自身のなかに見守ってください。すると実体よりも言葉のほうがはるかにもっと重要になってしまったこと、レッテルのほうがはるかにもっと重要になってしまったことが、わかるでしょう。それで私たちは言葉を拠り所に・糧として生きているのです。
 私たちにとって真理、神のような言葉が-またはそれらの言葉が表す・表現する感情が-とても重要になってしまったのです。私たちが「アメリカ人」、「キリスト教徒」、「ヒンドウ-教徒」という言葉や「怒り」という言葉を言うとき、私たちが、感情を表す言葉です。しかし私たちはその感情が何であるかを知りません。なぜなら、言葉が重要になってしまったからです。あなたが自分自身を仏教徒、キリスト教徒と呼ぶとき、その言葉はどういう意味でしょうか。その言葉の裏の意味は何でしょうか-あなたはそれを決して検討したことがありません。私たちの中心、核が、言葉、レッテルです。レッテルが大事でないなら、大事なものは、レッテルの裏にあるものであるなら、そのときあなたは探究することができます。しかしあなたはレッテルと同一化されて、それに突き刺されている・それがこびりついているなら、前進できません。私たちはレッテルと同一化されています-家、形・姿、名前、家具、銀行預金、自分たちの意見、自分たちの刺激物等々と-。私たちはそれらすべてのものごと-名前により表されているそれらのものごと-です。ものが、名前が、レッテルが、重要になってしまったのです。ゆえに中心・核が言葉です。
(´・(ェ)・`)つ

402鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/04(金) 21:52:40 ID:1d4drIFg0
言葉や名前による分別が記憶から起こっているというのじゃ。
それが問題の核であるというのじゃ。
その核がなくならない限り理解はないというのじゃ。
仏教で言えば阿頼耶識じゃな。
今ここにあるものごとよりも、記憶による名前の方が現実と認識してしまっているからそれは消滅させなければならないのじゃ。

403避難民のマジレスさん:2020/12/05(土) 09:55:45 ID:fh1mgHQQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 3

  言葉がなく、レッテルがないなら、中心はないのではないでしょうか。分解・解消があります。空っぽがあります-恐れの空っぽではありません-それは全く違ったことです。何でもないもの・無としてあるという感覚があります。あなたはレッテルすべてを取り除いた・剥がし取ったから、というよりむしろなぜ自分が感情と観念にレッテルを貼るのかを理解したから、あなたは完全に新しいのではないでしょうか。あなたがそこから行動している中心はありません。中心、すなわち言葉は解消されたのです。レッテルは剥ぎ取られました。すると中心としてのあなたは、どこにいるのでしょうか。あなたはいます。しかし変容があったのです。その変容はほんの少し恐ろしい・ぎょっとするのです。ゆえに、あなたは、それにやはり関与しているものを続けないのです。あなたはすでにそれを判断し、自分がそれを好きか好きでないかを決定しはじめています。あなたは近づいている・来たりつつあるものの理解を続けません。すでに判断しています-それは、あなたが、そこから行動している中心を持っているという意味です。ゆえに、あなたは判断した瞬間、固定したままでいるのです。「好き」と「嫌い」という言葉が重要になります。しかしあなたが名づけないとき、何が起きるでしょうか。あなたはもっと直接的に情動を、感動を見ます。ゆえに、ちょうどあなたが花に名づけないときそれと持つような全く違った関係を、それと持ちます。あなたは新たにそれを見るように強いられます。あなたは人々の集団に名づけないとき、彼らすべてを全体・集合体として扱うのではなく、各個人の顔を見るように強制されます。ゆえにあなたははるかにもっと鋭敏で、もっと観察力があり、もっと理解があるのです。あなたはより深い哀れみ、愛の感覚を持ちます。しかしあなたが彼らすべてを全体として扱うなら、それは終わっています。
 あなたはレッテルを貼らないなら、あらゆる感情を生じるままに見なければ・凝視しなければなりません。あなたがレッテルを貼るとき、感情はレッテルと違っているのでしょうか。それともレッテルが感情を目覚めさせるのでしょうか。どうかそれをよく考えてください。私たちがレッテルを貼るとき、私たちのほとんどは感情を強烈にします。感情と名づけることは瞬時・瞬間的です。もしも名づけることと感情の間に隔たりがあったなら、そのときあなたは、感情が名づけることと違っているのかどうかを、見出せるでしょう。それで感情に名づけることなく、それを扱うことができるでしょう。
問題はこうなのではないでしょうか-怒りといったような、私たちが名づける感情から、どのようにして自由であるのか、です。どのようにしてそれを服従させ・征服し、昇華し、抑圧するのかではなく-それはすべて白痴的で・ばかげて幼稚です-どのようにしてそれからほんとうに自由であるのか、です。それからほんとうに自由であるには、私たちは、言葉のほうが感情よりももっと重要なのかどうかを、発見しなければなりません。「怒り」という言葉のほうが、感情自体よりももっと意義を持つのです。ほんとうにそれを見出すには、感情と名づけることの間に隔たりがなければなりません。それが一部です。
(´・(ェ)・`)つ

404鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/05(土) 21:55:29 ID:1d4drIFg0
言葉があるとき感情も起こり、好き嫌いも起こるというのじゃ。
そして執着が起こり、苦も起こるのじゃ。
言葉とレッテルが無ければ空があるのじゃ。
観念が無くとも意識は常に在るのじゃ。

405避難民のマジレスさん:2020/12/06(日) 13:25:06 ID:ephB6SPw0
うむ。科学、技術的な言葉、観念わ否定するのではなくて、感情、感覚などを蓄積した記憶に基づく観察を否定しているのでありますね。

最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 1

質問
 私たちの精神は、知られたものだけを知っています。私たちの中で、知られないもの、真実、神を見つけるように駆り立てるのは、何でしょうか。

あなたの精神は知られないものに向かって駆り立てるのでしょうか。私たちには、知られないもの、真実、神への衝動があるのでしょうか。どうかそれを真剣に考え抜いてください。これは修辞学的な問い・反語ではなくて、現実に見出しましょう。私たち各自には、知られないものを見出したいという内面の衝動があるのでしょうか。あるのでしょうか。どうしてあなたは知られないものを見つけられるでしょうか。あなたがそれを知らないなら、どうして見つけられるでしょうか。真実への衝動があるのでしょうか。それともそれはたんに知られたものへの拡大された願望でしょうか。私のいうことがどういう意味なのか、理解していますか。私は多くのものごとを知ってきました。それらは私に幸せ、満足、喜びをくれませんでした。それで今や私は、もっと大きな喜び、もっと大きな幸せ、もっと大きな生命力-何であれ-を自分にくれるであろう何か他のものを、欲しがっているのです。知られたもの-それは私の精神です-なぜなら、私の精神は知られているから、過去の結果であるからです-その精神が知られないものを求められるでしょうか。私は真実を、知られないものを知らないなら、どうしてそれを探求できるでしょうか。確かにそれは来なければなりません。私はそれを追ってゆけません・追いかけられません。私はそれを追ってゆくなら、何か自分が投影した知られたものであるものを、追っているのです。
 私たちの問題は、私たちの中で、知られないものを見つけるように自分たちを駆り立てるのは何なのかではありません-それは充分明らかです。それは、もっと安全で、もっと永久的で、もっと確立され、もっと幸せでありたい、騒乱・騒動から、苦痛、混乱から逃避したいという私たち自身の願望です。それが私たちの明白な駆動力です。その駆動力、その衝動があるとき、あなたは-ブッダに、キリストに、政治的とその他すべてに-すばらしい逃避、すばらしい避難所を見つけるでしょう。それは真実ではありません。それは知ることのできないもの、知られないものではありません。ゆえに知られないものへの衝動は、終わらなければなりません。知られないものへの探求は止まなければなりません-それは、累積する知られたもの、すなわち精神の理解がなければならないという意味です。精神は、知られたものとしてのそれ自体を理解しなければなりません。なぜならそれが、それが知っているすべてであるからです。あなたは、何か自分が知らないものについて考えられません。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。
 私たちの困難は、精神が知られたものに進んでいかないことです。それは、精神がそれ自体を [理解して] 、そのすべての動きが、どのように過去から現在をとおして未来にそれ自体を投影しているかを理解するときだけ、起きるのです。それは知られたものの一つの連続した動きです。その動きは終わりうるでしょうか。それは、それ自身の過程の機構が理解されるときだけ、精神がそれ自体とその働き、そのやり方、その目的、その追求、その要求を-表面的な要求だけでなく、深い内面的な衝動と動機を-理解するときだけ、終わりうるのです。これは全く困難な作業です。*あなたが見出すのは、ただ会議の中や講義においてや本を読むことにおいてではないのです。反対に、それは、思考のあらゆる動きへの常なる見守り、常なる気づきが要るのです-あなたが起きているときだけでなく、また眠っているときも、です。それは散発的な、部分的な過程ではなく、総合的な過程でなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

406鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/06(日) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
悟っていない者が知るのは記憶の中にあるものだけなのじゃ。
記憶に無いものごとは知られないのじゃ。
それでも知ろうとする意志は起こるのじゃ。
その意志をも観察して理解することで無くすのじゃ。
本当に知らないものが理解できるのはその後なのじゃ。

407避難民のマジレスさん:2020/12/07(月) 17:43:36 ID:0XbLwQ/k0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 2

 また、意図が正しくなければなりません。すなわち、私たち皆が内面的に、知られないものを欲しがるという迷信の停止がなければなりません。私たちが皆神を求めていると考えることは、幻影です-私たちは [求めて]いません。私たちは光を探し求めなくていいのです。闇がないとき、光があるでしょう。闇をとおして、光は見つけられません。わたしたちにできるすべては、闇を造り出すそれらの障壁を取り去ることです。除去は意図に依ります。あなたは光を見るために、それらを取り去っているなら、そのとき何も取り去っていません。闇の代わりに光という言葉を用いているだけです。闇を越えて・の向こうを見ることさえも、闇からの逃避です。
 私たちは、自分たちを駆り立てているのは何なのかではなく、なぜ自分たちには、そういう混乱、そういう騒動、そういう闘争と敵対が-私たちの存在の愚かなものごとすべてが-あるのかを、考慮しなければなりません。これらがないとき、そのとき光があります。私たちはそれを捜さなくていいのです。愚かさが去ったとき、智恵があります。しかし愚かであって智恵を持とうとする人は、やはり愚かです。愚かさは決して英知になれません。愚かさが止むときだけ、英知、智恵があるのです。愚かであって智恵を [持とう]、賢くなろうとする人は、明白に、決してそうあることができません。何が愚かさなのかを知るには、表面的にではなく、充分に、完全に、深く、奥深く、それに入らなければなりません。愚かさの違った層すべてに入らなければなりません。その愚かさの停止があるとき、英知があります。
 ゆえに、知られたものより何かもっと多くのもの、何かもっと偉大なものがあるのかどうかを、見出さないこと [が重要です] ・見出すのではなくて-それが私たちを知られないものへと駆り立てているのです-私たちの中で、混乱、戦争、階級差別、俗物性・根性、名声の追求、知識の蓄積[を造り出し]、音楽をとおし、芸術をとおし、こんなに多くの仕方をとおして逃避を造り出しているのは何なのかを見ることが、重要です。確かに、それらをあるがままに見ること、あるがままの私たち自身に戻ってくることが、重要です。そこから私たちは、進めるのです。そのとき、知られたものを脱ぎ落とすことは、比較的たやすいのです。精神が静寂であるとき、それがもはや何かを願って、それ自体を未来へと投影していないとき、精神がほんとうに静かで、深く平和であるとき、知られないものが生じるのです。あなたはそれを探し求めなくていいのです。あなたはそれを招待できません。あなたが招待できるものは、あなたが知っているものだけです。あなたは知らない客を招待できません。あなたは自分が知っているものを招待できるだけです。しかしあなたは知られないもの、神、真実-何であれ-を知りません。それは来なければなりません。それは、田畑が健全であるとき、土が耕されているときだけ、来れるのです。しかしあなたは、それが来るために耕すなら、そのときそれを得ないでしょう。
 私たちの問題は、どのようにして知ることのできないものを求めるのかではなく、精神の累積する過程-それは常に知られたものです-を理解することです。それは困難な作業です。それは、そこに散漫の、同一化の、非難の感覚がない常なる注意、常なる気づきを、要求します。それはあるがままと共にあることです。そのときだけ、精神は静かでいられるのです。どれほどの量の瞑想、修練も、言葉の真実の意味で、精神を静かにさせられません。そよ風が止むときだけ、湖は確かに静かになるのです。あなたは湖を静かにさせられません。私たちの仕事・努めは、知ることのできないものを追求することではなくて、自分たち自身の中の混乱、騒動、悲惨を理解することです。そのとき、そのものがぼんやりと・かすかに生じます-そこに喜びがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

408鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/07(月) 20:57:42 ID:1d4drIFg0
神とか真実を求めることさえ幻影だというのじゃ。
それはただ金とか権力のために神や真実に頼っているのかもしれんからのう。
神や真実を求めようとする自分を観る時にのみそれは止むのじゃ。
そして精神が平静に成った時に神も真実も来るのじゃ。

409避難民のマジレスさん:2020/12/08(火) 18:02:13 ID:Q/57jf6g0

18:30 (南ア) GDP-Q3
19:00  (独)  ZEW景況感調査-12月★★
19:00 (EUR) ZEW景況感調査-12月★★
19:00 (EUR) GDP 確定値-Q3★★
22:30  (米)  非農業部門労働生産性・改定値-Q3★★
22:55  (米)  レッドブック米週間小売売上高
24:00  (米)  OP NY CUT   (NYT 10:00)
 
01:00  (英)  London Fixing  (LDN 16:00)
03:00  (米)  3年債入札
06:45  (NZ)  製造業売上高-Q3

米大統領選の選挙人確定期限
  ★Rank★ FX証券各社を参考
中国・武漢市で最初の新型コロナ感染者出現から1年
ケロ様スレより無断借用。
(´・(ェ)・`)つ

410避難民のマジレスさん:2020/12/08(火) 18:03:20 ID:Q/57jf6g0
誤爆であります。
(´・(ェ)・`)つ

411避難民のマジレスさん:2020/12/08(火) 18:54:03 ID:ZQVqKKDE0
訂正、
403の後に、次の↓文章が抜けておりました。

最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 4

 私が感情に名づけないなら、つまり思考がたんに言葉のためにだけ機能していないなら、または私が言葉、イメ-ジ、象徴という見地に立って考えないなら-私たちのほとんどはそうします-そのとき何が起きるでしょうか。そのとき確かに精神は、たんに観察者だけではないのです。精神が言葉、象徴、イメ-ジという見地に立って考えていないとき、思考すなわち言葉から分離した思考者はありません。そのとき精神は静かなのではないでしょうか-静かにさせられるのではなく、それは静かです。精神がほんとうに静かであるとき、そのとき生じる感情は、即時に取り扱えるのです。感情が連続性・継続性を持つのは、私たちが感情に名前を付け、よってそれらを強めるときだけです。それらは中心に貯えられています-そこから私たちはそれらを強めたり、伝達するために、さらなるレッテルを貼るのです。
 精神がもはや、言葉で、過去の経験で作り上げられた思考者としての中心でないとき-それはすべて、貯えられ、範疇に、仕切りに入れられた記憶、レッテルです-それがもはやそれらのものごとを何もしていないとき、そのとき明白に精神は静かです。それはもはや縛られていません。それはもはや私という中心を持ちません-私の家、私の達成、私の仕事-それらはやはり言葉であり、感情に勢いを与え、よって記憶を強めているのです。これらのものごとが何も起きていないとき、精神はとても静かです。その状態は否定ではありません。反対に、その地点に至るには、あなたはこのすべてを経なければなりません-それは途方もない仕事・企てです。それはたんにわずかな言葉を習い覚えて、男子生徒のようにそれらを-「名づけないこと」、「名づけないこと」 [と言って]- 反復するだけではありません。そのすべての含意・意味合いを遂行する・徹底的にやり抜くこと、それを経験すること、精神がどのように働くのかを見て、よってあなたがもはや名づけていない地点に至ること-それは、もはや思考から離れた中心がないという意味です-確かにこの過程全体がほんとうの瞑想です。
 精神がほんとうに平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることが、可能です。他のどんな過程も、真実への他のどんな探求も、たんに自己投影的で、自家製であるし、ゆえに非真実です。しかしこの過程は困難です。それは、精神が、内面的にそれに起きているあらゆることに常に気づいていなければならない、という意味です。この地点に至るには、始めから終わりまで-これが終わりであるということではありません-判断も正当化もありえません。終わりはありません。なぜなら何かとてつもないことがなを起きている・続いているからです。これは約束ではありません。それはあなたが実験し、自分自身の中にますます深く入っていくことです。そのため中心の多くの層すべてが解消されるし、あなたはそれを急速にまたは怠けてできるのです。精神の過程-それがどんなに言葉に依存するか、言葉がどんなに記憶を刺激したり、死んだ経験を生き返らせ・復活させて、それに生命を与えるか-を見守ることは、とてつもなく興味深いのです。その過程のなかで、精神は未来や過去のどれかに生きているのです。ゆえに言葉が、心理的と共に神経学的にも途方もない意義を持つのです。どうかこのすべてを、私からも本からも学ばないでください。あなたはそれを他の一人から学んだり、本の中で見つけたりできません。あなたが学んだり本の中で見つけたりできるものは、真実ではないでしょう。しかしあなたはそれを経験できます。あなたは行動の中で自分自身を見守り、考える自分自身を見守り、自分がどのように考えるのか、感情が生じるままに、どんなに急速にそれに名づけているか、がわかることができます-過程全体を見守ることが、精神をその中心から自由にします。そのとき精神は静かであり、永遠であるものを受け取れるのです。
(´・(ェ)・`)つ

412鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/08(火) 21:51:46 ID:1d4drIFg0
言葉による名づけが無いならば、観察する者ではなく観察されるものであると気付くというのじゃ。
その時精神は静かになるのじゃ。
それもまた思考の過程を見守ることで可能になるのじゃ。
そして永遠であるものを受け取れるというのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2020/12/09(水) 17:42:28 ID:PfnRtg620
最初と最後の自由 第二部質疑応答 
二九 真理と嘘につい-て 1

質問
 あなたが言ってこられたように、真理は反復されるとき、どうして嘘になるのでしょうか。嘘とは、ほんとうは何でしょうか。嘘を付くことは、なぜ間違っている・悪いのでしょうか。これは、私たちの存在の水準すべての上で、奥深い、微妙な問題ではないでしょうか。

 これには二つの問いがあります。それで最初のものを検討しましょう-すなわち、真理は反復されるとき、どうしてそれは嘘になるのか、です。私たちが反復するのは何でしょうか。あなたは理解を反復できるでしょうか。私は何かを理解します。私はそれを反復できるでしょうか。私はそれを言葉にできます。それを伝達できます。しかし経験は確かに反復されるものではないでしょう。私たちは言葉に捕らわれて、経験の意義を逃し・見失います。あなたは経験をしたなら、それを反復できるでしょうか。あなたはそれを反復したいと思うかもしれません。それの反復、それの感動への願望を持つかもしれません。しかしいったんあなたが経験をしたなら、それは終わって・済んでいます。それは反復できません。反復できるものは感動と、その感動に生命を与えるところの付随する・一致する言葉です。不幸にも、私たちのほとんどは宣伝者なので、言葉の反復に捕らわれるのです。それで私たちは言葉を糧に生きているし、真理は否定されるのです。
 愛の感情を例に取りましょう。あなたはそれを反復できるでしょうか。「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉を聞くとき、それはあなたにとって真理でしょうか。あなたが自分の隣人をほんとうに愛するときだけ、それは真理です。その愛は反復できなくて、ただ言葉だけ[が反復できるの]です 。けれどもあなたがたのほとんどは、「あなたの隣人を愛しなさい」や「貪欲であってはいけない」という反復でもって、幸せで満足しています。それで他の一人の真理、またはたんに反復をとおしてあなたがしたことのある現実の経験は、真実にならないのです。反対に、反復は真実を妨げるのです。たんに一定の観念を反復するだけでは、真実ではないのです。
 これの難しさは、対極という見地に立って考えることなしに、問いを理解することです。嘘は、何か真理と対立したものではありません。嘘や真理という対立において、対比においてではなく、言われていることの真理を見ることができます。私たちのほとんどは、理解することなく反復するということを、ただ見てください。例えば、私たちは感情などに名づけることと名づけないことの議論をしてきました。あなたたちの多くは、それが「真理」であると考えて、それを反復するであろうと、私は確信します。一つの経験が直接の経験であるなら、あなたはそれを決して反復しないでしょう。あなたはそれを伝達するかもしれませんが、それがほんとうの経験であるとき、その裏の感動は去っています。言葉の裏の情動的満足は全く消失しています。
(´・(ェ)・`)つ

414鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/09(水) 21:45:42 ID:1d4drIFg0
理解とは反覆できないものというのじゃ。
何かを理解した瞬間は繰り返すことはできないからのう。
無理に繰り返せば嘘であり、欺瞞になるのじゃ。
直接の体験は反覆できないのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2020/12/10(木) 17:06:01 ID:XHLRsrnQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答 
二九 真理と嘘について 2

 例えば、思考者と思考は一つであるという観念を、取り上げましょう。それはあなたにとって真理であるかもしれません。なぜならあなたはそれを直接的に経験したからです。もしも私がそれを反復したなら、それは真実ではないのではないでしょうか-どうか、偽りと対比してではない真実です。それは現実ではないでしょう。それはたんに反復的なだけであり、ゆえに意義を持たないでしょう。おわかりでしょう。私たちは反復により、教義を造り出します。教会を建てて、そこに避難します。言葉と非真理が「真理」になるのです。言葉はものごとではありません。私たちにとってものごとは言葉です。そういうわけで、何かほんとうに理解しないことを反復しないように、極めて気をつけなければなりません。あなたは何かを理解するなら、それを伝達できます。しかし言葉と記憶は、それらの情動的意義を失ってしまいました。ゆえにそれを理解するなら、普通の・通常の会話の中で、見解・視野、語彙は変わるのです。
 私たちは自己認識をとおして真理を求めているし、たんなる宣伝者ではないので、これを理解することが重要です。反復をとおして、言葉により、または感動により、自分自身に催眠術をかけます。幻影に捕らわれます。それから自由であるには、直接に経験することが必須・肝要ですし、直接に経験するには、反復の、習慣の、言葉の、感動の過程の中で、自分自身に気づかなければなりません。その気づきがとてつもない自由を与えてくれるので、そのため新生・蘇生、常なる経験、新しさがありうるのです。
 他の問いは-「嘘とはほんとうは何でしょうか。嘘を付くことはなぜ悪いのでしょうか。これは、わたしたちの存在の水準すべてにおいて、奥深い微妙な問題ではないでしょうか」-です。
 嘘とは何でしょうか。矛盾-自己矛盾なのではないでしょうか。意識的、または無意識的に、矛盾することができます。それは意図的か、または無意識的か、どちらかでありえます。矛盾は、とても微妙か、または明白か、どちらかでありえます。矛盾における分裂がとても大きいとき、そのとき不均衡になるか、それとも分裂を悟ってそれを修復する・繕うことに取りかかるか、どちらかです。
 この問題を-嘘とは何か、なぜ嘘を付くのかを-理解するには、対極という見地に立って考えることなしに、それに入らなければなりません。私たちは、自分たちの中のこの矛盾の問題を、矛盾しないようにすることなしに、見られるでしょうか。この問いを検討する中での私たちの難しさは、私たちがあまりに直ちに・すぐに嘘を非難することなのではないでしょうか。しかしそれを理解するには、私たちは真理と嘘・虚言 [という見地に立って] ではなく、何が矛盾なのかという見地に立って、それについて考えられるでしょうか。なぜ私たちは矛盾するのでしょうか。なぜ私たち自身に矛盾があるのでしょうか。規範に添って、様式に添って生きようとする試みが-他の人の見地でも自分たち自身の見地でも、常に自分たち自身を様式に近づけること、常に何かであろうとする努力が-ないでしょうか。様式に順応したいという願望があるのではないでしょうか。その様式に添って生きていないとき、矛盾があります。
(´・(ェ)・`)つ


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