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つぶやきすれっど2

72犀角独歩:2002/12/22(日) 23:40

ところで、ガンコさん、「大先輩」はどうしたかな。

73犀角独歩:2002/12/23(月) 10:44

我々が若いとき、法論・議論というのは命がけでした。もし、言葉に窮し、論拠を示せず、公正に見て、明らかに負けと認められるとき、負けた相手の宗教に転宗を余儀なくされるか、また、そうしないまでも所属集団から『脱会状』、あるいは『自己批判書』を書かされたものでした。

そうしないで、逃げてしまう者には、宗教・思想を問わず、卑怯者のレッテルが貼られ、2度とまともに相手をしてもらえないというのが常であったのです。仮に相手が過激派などの学生運動家であれば、「総括」と言われて、鉄パイプでリンチを受け、死ぬか、半殺しにされた者でした。もちろん、そのような私刑が正しいと言うことではありません。折伏は、それくらい、命がけであったということです。実際、我々は、大学のキャンパスで学生運動盛んなりし頃、そんな修羅場をくぐりながら、布教をしていました。

それに比べて、ここにおける議論は甘っちょろい、仏教でいう「無慚無愧」が罷り通る有様には溜息が出る思いがします。

特定団体に所属する若い青年達は、信仰を、どんなに批判されて、自分が回答不能になるような事態に至っても、枉げないことであると解釈しているのだろうと想像しています。それが非公開の個人的現場であるのであれば、それはそれでよいでしょう。しかし、ネットいう斯かる公開の場で、その有様を示すことは、単に恥を晒しているだけと見られていることは留意されるべきである、「恥さらし」を信仰とは言わないことも書き留めたいと思います。

74sat:2002/12/23(月) 12:18
日本人は、西欧人と違って、依存と自立との深刻な葛藤が存在しえないとか、自他の間の身分化な体験、いわゆる「間」のない状態を目指して事を行う特性があるといった意見が数多くあります。

それはそれとして、私達が生きてる現代は、幼児期から青年期において何らかの精神的外傷を受けることも多く、同時に①父親不在(父親像の無力化とか父性の喪失)や、②母子関係の強化が行われてきたようです。親自身が社会疎外の渦中にいればなお更です。

土井健朗氏は、①恨み、②すね、③ひがみなど、攻撃性を内に秘めた感情は、甘え(相手との一体感への求め)の不満に基づいていると指摘しています。攻撃は「依存欲求の不満」による反応であると・・
注目すべきことは、土井氏の指摘するこういった転移性の攻撃は全く他人と感じられた人には向けられないで、むしろ甘えるこができるのではないかという幻想期待を抱いた人に対して向けられていくということではないでしょうか?

甘えと攻撃とは、いずれも対人関係を求める行動であり、この場合の攻撃とは「相手に対するもとめ」の表現であるような気がします。攻撃の対象となる人というのは、単なる個人を指すばかりでなく、特定の団体に所属する人もまた含まれていくのではないでしょうか?
カルトからの依存・・そして自立に向けた攻撃・・つまり、対象の結合を「依存」と見て、攻撃を「自立」への努力と見ることは変でしょうか?

75sat:2002/12/23(月) 12:27

しかし、自立へ向けた努力、この場合法論とか議論といった意味合いになるのでしょうが、それまでの依存関係を断ち切るには至らず、新たな依存欲求を求めて再び彷徨う・・ネットの特殊性も含めて、それが現代なのかもしれません。

76犀角独歩:2002/12/24(火) 03:58

satさん:

『甘えの構造』ですね。なるほど。
しかし、「対象の結合を『依存』と見て、攻撃を『自立』への努力と見ること」はできるでしょうが、私は、そんな精神構造を却下します。もちろん、satさんの分析を非難するのではありません。

現代の若者の精神的特徴分析には、ほぼ同感です。
父親不在はそのとおりで、母子関係の強化は、むしろ、母言病というべきであると思われさらにパラサイトシングルという病弊が加味されるべきであろうかと思います。

「依存欲求を求めて再び彷徨」ことをさせないために、甘えの構造を理解したうえで、敢えて「甘ったれるな」と、私は言うわけです。

77富士桜:2002/12/24(火) 04:55
犀角独歩さん:
お返事が遅れてしまい申し訳ありません。
生半可なお返事にはいかないと思い、何日か読み返しながらのレスになります。
.
前置きはどうでも好い事と思いでしょうが、すぐにお返事を出さなければ逃げ出したと思われるのは御止め下さい。
おそらく「そのような書き込みはしていない」と言われるでしょうが、なにかしらの意図が感じられる文脈は不快です。
.
まず取り留めもない発言、批判と言う事でしたので、確かにそのような荒れた文面であった事は認めます。
取りあえず、独歩さんの文面参考に自分なりに分けました。

78富士桜:2002/12/24(火) 04:56
<独歩さん御自身が日蓮大聖人の再誕>について
.
>こんな馬鹿なことを言うわけはないでしょう。
第一、私は日蓮の無謬生を否定したわけです。日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である、このように記したわけです。
しかし、このような日蓮の実像を明らかにする責任を過去40年の信仰生活のなかで私は負ったということを言ったかも知れません。事実、そう思っています。
.
これは自分が一番最初に送らせて頂いたメールへの返答に記されていた最後の部分なのですが、内容に関しては個人的な文面と判断しますので、私が独歩さんにこのメールを送り返します。
これが「再誕」を感じさせるか、否かは、御自身で公開し御意見を伺うなり、そうではないとおっしゃっていただければ良いと思います。
しかし、誰がどのような意見を書き込んだとしても、少なくても、自分は「再誕」を思わせる文面と判断します。

79富士桜:2002/12/24(火) 04:58
<一連の批判>について
.
>> 今このような内容を書かれるのでしたら、直接に所属の寺院に言うべきであって、インターネットで情報を開示するにはそぐわない内容だと思います。
>これは富士桜さんの考えであって、それ以外の考えを排斥する根拠は元よりないでしょう。私は開示するべき内容であると判断するが故に記しているのです。見解の相違というのです。決めつけないでいただきたい。
.
「決めつけ」とはなんですか?独歩さん御自身が勝手に言っているだけの事です。よく文面を見て頂きたいです。「〜思います」と書いています。
「〜でなければいけない」などと決めつけていますか?
そして、それ以外の考えの排斥する根拠ですか。
.
法華講連合会の会合に参加する事への独歩さんの非難が入った為、出ようが出まいが、確かにそれこそ個人の自由であるし、そこへ批判された事への反応の問題です。
.
>さて、今回、私が投げかけた投稿上の疑問は以下の部分だけです。
「集団の中で好い子に振る舞うこと、組織の中でいい人と思われるように振る舞うことに拘っていませんか。」
.
先にも自分で公開しましたが、個人的に送った独歩さんのメールにその内容は記しました。
.
>そして、このように返されれば、私は単に「そうですか。好い子という言葉は不適切でしたね。お詫びします」と終わったことでしょう。
.
そのようにお詫びされた覚えは全くありませんし、撤回もされていないでしょう。
.
確かにそのようなお詫びが入っていたとしたら、おっしゃる通りにあのような長ったらしい批判レスは書く必要もなかった事でしょうし、それに附随していく批判も新たに考え直していた事と思います。
.
しかし、その後の独歩さんの書き込みは、
.
>28 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/12/13(金) 08:50

富士桜さん:
メールでのご返信有り難うございます。
機会がありましたら、お会いし、ゆっくりお話しましょう。
.
とだけ記されています。
しかし、自分が「なんだなんだ?これは?」と思い始めた書き込みは
.
>3 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/12/17(火) 23:31

皆さん、特定の個人の顔色、気にしながら投稿するのはやめよう。
.
>4 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/12/19(木) 05:24

言うまでもないことですが、誰が何を信じようとそれは自由です。その勧誘をすることも自由でしょう。しかし、反面、信じないと言うことも自由です。勧誘に反対することも自由です。
また、集団の功利面を主張するのも自由です。しかし、反面、被害に遭ったら、それを主張することも自由です。
.
と言う内容に続いていました。
この期間内にこの発言にあてはまる方はどなたもいらっしゃいませんでしたし、自分が個人的に送ったメールのみの内容にしかあてはまらない内容と感じておりました。
さらにやーこさんのレスに際し独歩さんは
.
>9 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/12/19(木) 10:03

私が批判したという一人は、富士桜さんのことであるのはROMの人もわかります。
(中略)
それなのに、それまで、長い時間と文章量、電話などを通じて話し、納得したという本人が、そんな私とのやりとりがなかったような投稿をすれば、「まだやっている?」という驚きの返信になるのはむしろ当然のことです。
.
直接HNを記して自分宛におくる批判なら対処のしようもありますが、だれに書いているんだかなんだか訳のわからないようなレス。独歩さんの意図は自分には理解出来ません。
.
>私が批判したという一人は、富士桜さんのことであるのはROMの人もわ.
かります。
.
だったら直接自分宛に書き込めばいいではないですか。
なんなんですか?
当然この辺から急激に敵意を抱く感情になった事は認めます。
だいたいそこまで法華講連合会について何か言われた事ありましたか?そこまで驚かれるほどのやり取りは、一体いつの事をさしているのですか?
自分でも確かに「ファン」と言ってたくらいですから、独歩さんの言葉には、こと自分宛のレスには敏速に反応して来ましたし、過去電話で一度、メールで一度だけお話を頂きましたが、
.
>しかし、オフ会、電話で話した内容について、ここで「言った言わない」は記しても、元より、取られ方が“ずれて”しまうわけですから、水掛け論になるでしょう。故にここに記した内容に基づく以外にないことになります。
.
この言葉で終了されてしまうのでしたら、掲示板内において、「何度となく」とどれほど自分宛に記してきたとおっしゃるのか、全く見当もつきません。
しかし、前回にも書きましたが、そう言った団体と「距離を置く」事は自分なりに独歩さんのおっしゃる事は理解し、わかりました、と答えた事はあると思います。

80富士桜:2002/12/24(火) 05:00
<法華講連合会批判>について
.
>ここの掲示板では少なくても5人の石山僧侶と、7人の日蓮宗僧侶が閲覧しています。
これは個人のプライバシーに関わることなので、その名前は記しません。
.
日蓮宗の御僧侶はお一方だけ察する事は出来ますが、日蓮正宗御僧侶が御覧になっている事は自分にも確認しようがありませんし、どのようにこの人数を信じていいのかわかりません。言うだけならいくらでも言えるのも自由ですが。
この場を借りて。
もし、本当に日蓮正宗の御僧侶の方が御覧になっているのでしたら、どの御僧侶の方でも所化さんでも結構です。どうぞ自分宛にメールを下さい。
自分は日蓮正宗の御僧侶への信頼は、この掲示板によって判断する訳ではありませんが、どのような内容であろうとも揺らぎませんので、自分のようなアホな法華講員に確認させて下さい。ここの掲示板についての事実関係のいくつかはお聞きしたい事があります。お願いします。
.
>また、論点を変えれば、私が石山に異があり、例えば『大日蓮』『大白法』に、私の考えを掲載するように希望したとき、それが掲載されるでしょうか。それは不可能でしょう。
.
不可能か可能かは自分には判断出来ません。
.
>私とは意見を異にするけれど、例えば今泉さんの意見が正当に扱われたことがあったでしょうか。「批判する相手のいない場所での批判」という点で、私を批判をしているとお見受けしますが、何より一方的なのは常に力を持った団体のほうである点が見落とされています。
.
はたしてそうなんでしょうか?
今泉氏に関しては詳しい事情は存じ上げませんが、破門に先駆けて「弁疎」があると聞いていますが、その場において逃げも隠れもせずお話する、とだけ内容は書かれていたのを見ましたが、その後はどうなったのか、本当に破門になったのかどうかは、自分は知りません。
力を持った団体のみが一方的なのかどうかは、ハッキリ言って今泉氏に限っては自分はそうは思えません。今泉氏にも何らかの誤解はあった事と感じます。
仏縁を切る事は、相当な意味を持つと聞いています。特に破門に関しては一個人と言えども団体の力によって一方的になされるとは日蓮正宗に関してはそうは思えません。

81富士桜:2002/12/24(火) 05:02
<独歩さんの法華講連合会役員>の誤解について
.
>誤解があるようですね。私は先の投稿でも記したように、生まれながらの法華講ではありません。それ故、連合会役員を歴任した経験はありません。
このような読み違いによる批判の責任をあなたはどう取るのですか。
.
この件に関しては、確かに自分の認識不足と反省し、撤回させて頂きます。
.
ここは自分の反省の意味も含め認識不足の確認の為書き込みます。
.
四月のオフ会、二次会の折り、自分は独歩さんが
「顕師は恩人ですよ。」と言う内容のお話をされていた事。
自分は御法主上人猊下直々に御目通りの叶う方々は一般信徒ではまず、お聞きした事がありませんでした。特に直接お話されるような方は本当に特別な方と思っていました。
「大白法」などにも、必ず役員の御目通りの席でのお言葉、と書かれてあったり、また、以前独歩さんが登山の昔ながらの参詣は、最後の最後に大奥において所属寺院の御住職の許可証(?)を提出し猊下と対面する趣旨のお話を聞いた覚えがありました。
自分の所属の坊には総代さんがいらっしゃるんですが、そのような方々や寺族、または役員でなければ
「やっぱり猊下と御目通りは叶わないんだな。」
と思い込んでいました。
.
そして登山会の事についても、
.
>私(たち)はまだ支部お目通り登山というものがなかった時代に、自分たちの赤誠から、一度だけというつもりで、そのような登山会を企画して行ったと記したのです。その後、、連合会主導で支部登山が定例化したのです。
連合会が定例化したことに、私が何の責任を負うというのでしょうか。
.
についても
「独歩さん達が始めた事がきっかけで、今の登山会の原形があるのか。」
と聞き違えていた点です。
確かに独歩さんには何の責任はありません。勝手に自分が大きく捉え過ぎていました。
.
大変申し訳ありませんでした。

82富士桜:2002/12/24(火) 05:03
<いじめ>等の発言について
.
> 「いじめ」に捉えられ気味…捉えられても仕方のない内容での批判ではないでしょうか。
などという被害者ぶった発言は、私は見苦しいと思います。
.
勘違いしないで頂きたいです。自分はいじめられた、とは言っていませんし、被害妄想と書き込まれていましたが、やーこさんの発言が自分へ「いじめ」と捉えてのお話でしたので、外から見れば自分へ対し「いじめ」に捉えられても仕方のない言葉なのではないですか?と問いかけただけですが。
.
自分は独歩さんに毛頭いじめられただのと思ってはいませんし、この程度でいじめと思うほどやわじゃないですから、御心配なく。
自分は「怒り」ですから。
.
>「好青年」という表現が気に入らないようなので、これは撤回しましょう。しかし、あなたが私のファンであるなど言う文面をここに記された点は、私にとっては極めて不快です。取り下げてください。
.
了解しました。このお話が始まったと同時に自分はとっくにそのような域ではレスをしていません。おっしゃる通り、正式に取り下げます。
.
>既に成人として認められ、あなたの記述に従えばマンションも購入するという大人が
> 「いじめ」に捉えられ気味…捉えられても仕方のない内容での批判ではないでしょうか。
などという被害者ぶった発言は、私は見苦しいと思います。
.
マンションは銀行審査が通れば誰でも買えるんではないでしょうか。
こんな事が大人の価値基準に値するのか、またそんな例を出す必要があるのでしょうか。
.
しかし被害者ぶったと申しますが、自分から言わせてもらえば、ぶったも聖人もないですよ。
.
>それを、私に言えない雰囲気があるだ何だと記して反論できないことまで私にかぶせて「いじめ」とは何たる言い方かと思うわけです。
.
と申しますが、
.
>皆さん、特定の個人の顔色、気にしながら投稿するのはやめよう。
.
等の提案発言から
.
>「顔色に関係なく書き込みました」ということですが、ここで、多岐に亘って、私を批判したわけですから、その部分に関しては責任をもってこちらのレスに応えてください。
その覚悟があってのことでしょうから。
.
と、このようなレスの「覚悟」とはどう言うことでしょうか。
.
>私は今回、大いに曲解した独歩像を、ここに長々と記され、正直、言えば気分は悪い。
.
当然でしょうね。
自分もこのような話のやりとりにとっととケリをつけて終わらせたいもんです。けして自分も気分のいいもんじゃありませんし、こんな朝方まで書き込みをしているのもいい加減にしたいもんです。
なかなか書き込みに応じるのもこれだけの労力を必要とするのは改めて感じるのは正直な所ですが。
.
書き込みたい事、また書き込みに応じていない部分もまだありますが、余りにも長く渡ってしまう為にここまでのお返事を書かせて頂きました。
.
しかし、日を追う度に、特に感じている事。
今回は記せませんでしたが、独歩さんが創価学会から法華講に移り、その法華講内での出来事は、やっぱりここだけは軽はずみには書けない場所でしたので追って書き込みします。自分にも身に覚えのある事がありますので。
.
単なる言い訳なんですが、良い調子で書いていても、所詮自分も学会に所属して来た訳でもなく、いきなり法華講に入った立場なので、積年の感情にはあまり立ち入れる場所ではない気がして構成しなおしています。
今回は以上です。

83犀角独歩:2002/12/24(火) 08:42

えーと、面倒くさいので、私が富士桜さん「独歩さん御自身が日蓮大聖人の再誕」と思わせたという、わざわざ、私に送り返してきた文章を以下に貼ります。
これで、私自身が日蓮を再誕を漏らしたことになるかどうか、ROMの皆さんで、判断してください。
もちろん、私はそのようなつもりで書いていません。
この読み違いが、私は富士桜さんの文章全体にあると思うわけです。
このような添付は私は嫌ですが致し方ありません。

***** 以下、添付です *****

私が真剣に教学を学び直そうと思ったきっかけは、やはり、石山との訣別からでした。
それまでの自分は教義を信じているつもりが、「与えられた解釈の仕方(つまりは日蓮本仏論など)を信じさせられていたのに過ぎなかったことに気が付いたわけです。

結局、石山の虚構にまず気づき、その具体的な意味を文献的に説明しておくことが自分の役割であると考えたからでした。

ある日蓮宗僧侶が「あなたの名前は200年間は語り継がれるだろう。あなた自身が日蓮を語るしかない。けれど、生きている間に報われることはないだろう」、そんな予言めいた感慨を私に語ってくれた人がいました。果たして、200年後まで私が語り継がれるか否かは別として、私が今記し続けていることは、なかば日蓮から託された使命に基づくような思いがあります。

母は私を懐妊するとき、雲の中を歩いていき、天上にある寺院に到り、その御宝前で実に立派な僧侶から男児を受け取った夢を見たといいます。夢をお告げを信じることが尋常であるか否かは別として、私の40年に及ぶ苦難の道すがらは、750年目に与えられた我が今生の使命を果たすための前方便であったと考えています。

84犀角独歩:2002/12/24(火) 09:24

ちょっと、今日から3日間、忙しいので、掻い摘んで誤解のあるところだけ、書いておきます。

1点目。私は「自分が日蓮の再誕といっていない」ということについては、上述の貼り付けから判断してください。

2点目。私が「皆さん、特定の個人の顔色、気にしながら投稿するのはやめよう」と記したのは、学会員であれば池田大作さん、石山であれば顕師、顕正会であれば浅井さんを指してのことです。富士桜さんが、なぜ、自分に当て嵌まるなどと思うのか、このような誤解に基づいて、長々と書かれても、日蓮再誕と同様、言う言葉は一つ、「誤解です」


3点目。切り文で、さらに誤解していること。

>> そして、このように返されれば、私は単に「そうですか。好い子という言葉は不適切でしたね。お詫びします」と終わったことでしょう。
> そのようにお詫びされた覚えは全くありませんし、撤回もされていないでしょう。

などと文を切り取ってしまっていますが、私はそのあとに、

>> 何をこんなに長い批判文を寄せる必要があるのか、この点では私は理解に苦しみます。

と続けているのです。つまり、この文章の主意は「お詫び」「撤回」にあるのではなくて、「長い批判文を寄せることが理解できない」というところにあります。これまた誤解に基づく発言です。

私が言っていないことを言ったと言い、あなたに言ったことではないことあなたに言ったと言い、さらに趣旨を取り違えた抗議となっています。

少し冷静になって書いたほうがいいでしょう。
このような誤解に基づく記述を、これまた延々と記述して、自分に言われた言葉に、抗議をしてよいのですか。

上述の点、誤解であると、富士桜さんは認められますか。
困った者ですね。

85犀角独歩:2002/12/24(火) 09:57

だいたい、こんな個人的な恨み節、公開の掲示板を使ってやることは管理人さんに対して、失礼でしょう。
会って話しましょう。電話をください。それとも、こちらから、かけますか。
文句があるのでしょう、応じましょう。

86犀角独歩:2002/12/24(火) 11:49

もう、出かけなければならないのですが、もう一点だけ。

ここで石山僧が閲覧していると書くのは書けるということで証明できないと。
私も閲覧者のプライバシーを公開することはできません。

で、こうすればよろしい。
富士桜さんの寺院住職に、あるいは知ってる石山僧に、ここの掲示板の存在を告知し、石山僧として、私の記述に破折を加えるということを提案します。
公開法論です。
これならば、正式に石山僧が閲覧していることを富士桜さんが確認し、議論できます。
ただし、議論の内容は怨恨、憎悪という感情論で、相手に何を言ってもよいなどというものではなく、完全な証拠主義に基づく、公正な議論です。
坊さんを引っ張ってきてください。

個人的な文句は85に記したとおり、会ってお聞きしましょう。
もちろん、私のほうも言わせていただきます。

87犀角独歩:2002/12/24(火) 12:06

余計ながら、もう一点。富士桜さんへ。

> どうぞ自分宛にメールを下さい。

と、坊さんに呼びかけておきながら、名前にアドレスが入っていませんよ。
これでは、相手がメールの差し出しようがないでしょう。

88五月雨:2002/12/24(火) 13:43

横レス失礼致します。

富士桜さんの独歩さんへのお返事を読ませて頂いて思うこと。
まだ信心三年の富士桜さん、甘いなぁということ。まだ日蓮正宗の現実が見えていないのでしょうね、そして吹き込まれた理想論に燃えているのでしょう。

信仰歴の浅い富士桜さんの文章を読むと、信仰歴は浅いのにこの信心特有の「他者への蔑視」を感じます。悪いことには直ぐに染まってしまうのですね。
自分の信じている宗教は一番正しくて、それを信じない人間を徹底的に否定するから憎悪も生まれてくるのでしょう。ハッサン氏はこう言ってますね。

「破壊的カルトは、どんな種類の反対も我慢できないのである。人々は賛成するか(または入会候補者とみなされるか)、さもなければ敵である」

富士桜さん、どんな種類の反対も我慢できなくて、目の前が見えなくなってませんか、富士桜さんのレスは独歩さんへの個人攻撃になっていますよ。独歩さんの人格をどの位傷つけているか分っていますか。

富士桜さんが「なんなんだこれは」と思われた独歩さんのレスは、富士桜さんの誤解から生じたものというのはご理解されましたか。どうも富士桜さんのレスを読んでいると読み違えの部分がかなりあるようにお見受けするのです。きっと怒りが邪魔をして正しく読み取れないのかもしれません。私にも経験があることです。

独歩さんの言われる恨み節にしか私にも聞こえない富士桜さんのご返事のレスです。どうぞ今一度冷静になって考えてみられたらいかがでしょうか。

言うに事欠くと最後は個人攻撃、この構図を宗創戦争で嫌というほど見てきましたが、本当にみっともないばかりです。こんな事はこの掲示板では止めて頂きたいと思います。
感情的にではなく、冷静に独歩さんとお話されたらいかがでしょうか。


>この場を借りて。
もし、本当に日蓮正宗の御僧侶の方が御覧になっているのでしたら、どの御僧侶の方でも所化さんでも結構です。どうぞ自分宛にメールを下さい。
自分は日蓮正宗の御僧侶への信頼は、この掲示板によって判断する訳ではありませんが、どのような内容であろうとも揺らぎませんので、自分のようなアホな法華講員に確認させて下さい。ここの掲示板についての事実関係のいくつかはお聞きしたい事があります。お願いします。

私はこの文章に富士桜さんの「甘さ」を見ました。私も43のレスに石山僧侶に同じ様に呼びかけていますよね、あれから何日経ちました?いまだに石山僧侶は書き込んでいません。個人メールなら発言出来るのでしょうか、皆が見ている場所で発言しないのは、それを腰抜けと言うんでしょ。こんな日蓮正宗の僧侶へご信頼するのはご自由ですが、この現実はどう見ますか。

また、今泉さんのことも詳しい事情は知らないけれど、とご意見を述べられていますが、詳しい事情を知らないならば、知ることから始めらたらいかがでしょう。

http://homepage2.nifty.com/syousyu/index.htm 今泉さんのサイト

http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageListForm/syousyu MLです。


ここには石山僧侶も書き込んでいますよ。時々同門同士で詰り合あったりして、とても見ていられなかったりしますけど。

また「日蓮の再誕」については、富士桜さんは「産湯相承事」と結びつけて、独歩さんの文章をそう解釈されたのではと推測するのですが、そんな解釈をしてしまう富士桜さんは石山義から外れているということだけは、ひと言付け加えさせて頂きます。

89トゴシ:2002/12/24(火) 16:22
ちょ〜〜っくっだらねぇぇーつうの。
なんだかめっちゃひどいよねえ。
貼り付けメール(んなの、ひどいね、おちおち個人メールもかけないね)
でひらうかぎり

 独「集団の中で好い子に振る舞うこと、組織の中でいい人と思われるように
   振る舞うことに拘っていませんか」
 富「大変に厳しく、痛い言葉ではあったのですが、なぜかわかりませんが、
   暖かく感じました」

これで、終わったん、ちゃうわけ?
それがなんで、こんな悪く口言いになっとんの?
僕が模範解答をしたげる

 独「イイ子ぶってねえかい」
 富「いや、そんなことないすっ」
 独「あ、そか、悪りいわりい」

 独「特定の人の顔色見て書くなよ」
 富「それって、オレのことっすかぁ!」
 独「あんでえ? 学会の池田、お山の顕チャン、正信会の浅井のことだろが」
 富「あ、そうすか、なあんだ、てっきり自分のこと、言われたと思った、
   ダハハ(照笑)

て、感じにさあ、確認しながら、会話すりゃいいってぉの。それがさあ、
 「これはボクちゃんのことを、書いているに違いない、
  チクショー、悔しい、怒ったる、悪口、タップシ書いたる、
  えーい、もっと書いたる、なんたって、日蓮正宗はじぇったいに
  ただしいんだもん。脱会者と学会はアホタレやからに」
富士桜のお兄ちゃん、自意識過剰の被害妄想、なんでも自分の悪口言われている
思っちゃるよんだねえ。
で、エスカレートして、何でもかんでも言いたい放題、で「イイ子ぶりってたな、
あやまれ、あやまれ」ったってさあ、自分のほうがあやまんなきゃいけんこと、
多くなっちゃってもんねえ。ダメだなあ、こりゃ、なあ。

では、ごいっしょに〜、よっ
♪〜 富士のサクラは、触らぬ癇にたたりなしぃ♪〜
♪〜 それを独歩のオジさん伐っちゃった(爆)♪〜

お山のサクラの伐採でアレンジしてみたよ、チャンチャン、
あ、そうそう。おいらの父ちゃん、お山の坊さん、、、ウソだよん

90みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/24(火) 17:48
宗教を一応職業にしている人たちが、アマチュアの前で恥をかく、しかもインターネットで恥をかくリスクを犯すとは思えませんけどね。

わたしは1995年以来、宗教関係のネットを見てきましたが、日蓮正宗の僧侶が(名乗って)ネットで書き込みをするのをみたことがありません。名乗らなくてもおおよそ見当はつきますが、日蓮正宗の僧侶だろうと思われる人の書き込みを見たことはありません。
他宗の僧侶はたくさんあります。

91三学無縁:2002/12/24(火) 19:14
わたしもそうなんですが、「元正宗系」というのは「言葉」に敏感になる傾向があります。
と、いっても、自分の言葉には鈍感になってしまいがちなんです。
ひとつには、正宗の思考形態に染まってしまっていて、それがなかなか払拭できないんです。
ようやく払拭できたとしても、今度は正宗時代の残滓を消そうとして、必要以上に「言葉」にこだわってしまう場合があります。
わたしなんて、約二十年もそれであがいていました。

正宗の信仰をもっているひとはその信仰を自分を高める糧にしてほしいですね。
往々にして正宗系のひとは、布教することが信仰だと思いがちなのですが、それは信仰でもなんでもなくってサークルゲームなんです。
組織といい教団といい、もともとそれは個人の信仰と二律背反するもののような気がします。

「ご」僧侶とか「ご」宗門とか「御」「法主」上人「げいか」「様」という言い方も、外からみれば「異様」なものです。
昔は正宗でも住職のことは「和尚」といっていましたが、せいぜい「和尚さん」で「和尚さま」ともいわなかったものです。
大石寺の住職だってせいぜい「上人」どまりで、内輪の坊さんも「げいか」なんて呼んだりはしていなかったようです。
妻帯したり妾をつくったり、外でこどもをつくったり、什器を売って酒代や博打につかったり、明治維新以降の正宗でもよくあったことです。
「代々僧侶」といったところで明治維新からがせいぜい、「代々法華」に比べれば新参者でしかないわけです。
つまり「代々法華」からみたら坊さんなんて偉くもなんともないわけです。
だからどんなに偉そうな坊さんでも「代々法華」にはさからうことはしませんね。
坊さんを敬うようにさせたのは創価学会でした。
それは、正宗の坊さんは他宗の坊さんとは違う、という考え方を徹底するための方策にしかすぎなかったわけです。
現実に、なぜ僧侶が偉いのか、を説明できるひとがいたらぜひ教えていただきたいと思います。

正宗の坊さんは、在家なんて相手にしていませんね。
彼らは「げいか」しか見ていませんから、「ひきこもり」に近いです。
はなっから「在家ごときがなにをいうか」というかんじですよ。

だからみなさんも、あまり「幻想」をもたないで、ふつうに信仰すればいいのでは。

という、つぶやきでした。

92ガンコ:2002/12/24(火) 19:18
タイゾウさん。
ただでさえクチのわるい人がますますヒドクなっている。
つぶやきだからって、あんまりじゃありません?
キザクラさん、気にしちゃいけません。

93トゴシ:2002/12/24(火) 19:54
気にしなきゃだめだよおお、あに言ってんの、ダンゴさん。
♪〜坊さんなんか出てこない、出てこない、出てこないったら出てこない
♪〜在家の心配しやしない、しやしない、しやしないったらしやしない
♪〜自分の心配それだけよ、在家は金だけ運んでこい・・・・♪♪

94三学無縁:2002/12/24(火) 20:16
トゴシさん、いわずもがな、ですよ。
秘すればこそ、って言葉もあります。
挑発しても無駄なものは無駄なんです。
どうも、トゴシさんの挑発は「嫌よ嫌よは良いのうち」のように感じるのは考えすぎでしょうか。

ところでお住まいは池上線ですか目蒲線ですか、あ、都営線もありましたね。

95アネモネ:2002/12/24(火) 20:40
独歩さんの>71のレスの中に書かれている

>独り善がりの社会から乖離した独善主義、しかし、そういう人から見ると世間のほうが独善と見える、この180度の見解の相違がどこから生まれるのか、よくよく考えてみる必要があると思うわけです。

このことは、本当に真剣に考える必要があると思いますね。
かつて、日本へ仏教が伝来してから、大雑把にとらえても明治維新までの間、仏教は日本の中で最高水準の学問だったといえるでしょう。比叡山で学ぶ学僧は、現代に置き換えれば東大出のエリート僧とみなされるでしょうし、また中国へ渡って仏教を学ぶ学僧は、さしずめバイリンガルといったところでしょうか。
重要な外交を担ったり、文化の交流をはかったり、時には政治の参謀として重用されることもありと、あらゆる歴史の局面に学識をもつて活躍してきたのが日本の仏教界だっという側面があるのかもしれません。しかし、それは残念ながら、日本が近代化するまでの話でしょう。近代化とともに、仏教は日本の中で国の舵取りを担う最高水準の学問ではなくなったわけです。
欧米先進国の科学的な学問に押され、ここ百年の間には、むしろ逆に今日に伝えられてきた仏教の歴史的信憑性が、科学的に検証されるようになったわけです。このことで、正しいと信じられてきたことが、実はお釈迦さまの教えでなかったというものもたくさんあるわけですね。
大きなところでは、法華経が釈尊が直接説いたものではないことなど、日蓮正宗にとって非常に都合の悪いことが証明されてきたのだと思います。180度の見解の相違とは、恐らく、学問的地位の逆転という見方もできるかと思います。

しかしこれは推測ですが、石山僧の中枢の方々は、そうしたことをとっくにわかっていらっしゃるのではないでしょうか。わかっていて、敢えてそのことを信徒には明かさない。
だから、ネットなどにおいそれと自らの教団の存亡に関わるような、墓穴を掘るレスなどするわけはないでしょうね。
しかも、歴史的事実を信徒に明かさないどころか、謗法という言葉を巧みに使って、そうした科学的検証などが耳に入らないように盲信させているわけです。もちろん、その目的は仏法のためなどという高い志のものなどではなく、ただ未来永劫にわたって、日蓮正宗の教団が金銭的に支えられるためでしょう。早い話が、今の僧侶方のお家安泰のため。そう、日本国の安泰や民衆の安寧のためではないのです。ただし、教団の繁栄は必ずや民衆の幸福につながるものという、言葉のトリックが信徒にはしっかりと刷り込まれているので、私がここに書いた指摘などは、なかなか気がつかないものだと思います。

話を学問的地位ということに戻しまして、宗教的なことで科学的に証明されないこともあるでしょう。しかしそれでも、少なくとも証明されてしまったことは受け入れるしかないわけです。それすら受け入れることを無視して、ただ自分は信じているの一点張りでは議論にならないわけです。
仏教が近代化という時代の波に乗れなかった原因のひとつに、形骸化ということがあるでしょう。形骸化とともに、人々は僧侶の教えを心から求めなくなってしまったわけです。ただ、葬式と法事のためだけの仏教です。それは求めなくなった民衆が悪いのではなくて、葬式仏教とまで揶揄されるほど形骸化してしまった仏教界そのものに原因があるわけです。
日蓮正宗もその例外ではありません。むしろ、他の教団のほうがその危機意識を持って、歴史に乗り遅れまいと模索をしているくらいです。ところが、日蓮正宗はおめでたいほど、僧俗ともにシーラカンスなわけです。

ところが、日蓮聖人という方、私の目からみると、形骸化ということを最も嫌った方ではないかと思われます。それは、日蓮聖人の生涯を通した行動原理そのものが物語っていると感じるものです。
お寺の行事に参加し、言いなりになっていることが信心だと思う姿は、本当に犠牲を払って仏教を研鑚した人の目から見れば、まさに形骸化された仏道に自己満足しているだけのことに映るのは無理もないことでしょう。
形骸化された教団から教えられる信心は、形ばかりの信心ということも言えると思います。

96三学無縁:2002/12/24(火) 20:43
アネモネさんの発言・指摘に全面的に同意します。

97アネモネ:2002/12/24(火) 21:03
三学無縁さん、心強いご賛同、ありがとうございます。

98モモ:2002/12/24(火) 22:19
なにやらマナー違反の投稿が続けてあるようですね。
掲示板の規定からしてマナー違反の投稿は断固削除すべきです。
ロム者に大変失礼です。

99やーこ。:2002/12/24(火) 22:48
99番目ですか。そもそも、私がかっとなったのは悪かった。
しかも、喧嘩に近い論争をやめさせるつもりが、水掛け論になってしまったのは
私の責任です。すみませんでした。富士桜さん、独歩さん、もう、やめてください。

信じる人信じない人の問題はこれ以上、やっても平行線のままだと思います。
現実を見ないで信じきってしまうのも、思い切って信仰をやめてしまうのも、
どちらでもいいのじゃないかと。

それから、管理者様、私の存在は消してください! といいましたので、
もう、消してください。五月雨さん、ほかみなさんへの宿題を残したままになってしまいますが、
もう、投稿もROMもしませんし、OFF会にも来ません。
私は悪魔教に入ることにしましたから。でなければ、他の「カルト」に行って、
自分の悪い思考を止めるつもりですので。この掲示板が原因ではないのは
行っておきます。自分の作った詩を見て、富士門流信仰にそぐわなくなったと
みましたから。アーティスト「マチルダ・キサラギ」として、活動して、
ますます壊れた表現家になろうと思って。自閉症は自閉症のままでいいんです。
とじこもりはとじこもりのままでいいんです。ご心配をおかけした皆様方、
ありがとうございました。そして、ごめんなさい。何かあったら、もうアクセス
しませんので、メール下さい。
moon0630@docomo.ne.jp(文字制限あり)
moon0630@itpmail.itp.ne.jp
http://myhp.cafesta.com/@darkmooon0630
http://plaza.rakuten.co.jp/darkmoon0630
みなさん、さようなら。

100モモ:2002/12/25(水) 00:56
誤解を招くのは心外なので補足します。
私が大変失礼に感じた投稿は88のレスです。

>富士桜さんの独歩さんへのお返事を読ませて頂いて思うこと。
>まだ信心三年の富士桜さん、甘いなぁということ。
>まだ日蓮正宗の現実が見えていないのでしょうね、そして吹き込まれた理想論に燃えているのでしょう。

人の心の何が分かるのでしょうか。決めつけは相手に対し失礼でしょう。
何が分かって「甘いなぁ」と仰るのか私には理解できません。投稿者の認識が「甘いなぁ」ということなら理解できますが。その根拠は次の通りです。

>信仰歴の浅い富士桜さんの文章を読むと、信仰歴は浅いのにこの信心特有の「他者への蔑視」を感じます。

なに人を高みから見下しているのですか。「まだ信心三年」「信仰歴の浅い」「信仰歴が浅い」という言辞でもって人を差別、侮辱していることに気が付かれていないようです。
「他者への蔑視」という表現はそのまま投稿者にもあてはまりますね。

>富士桜さんのレスは独歩さんへの…

これを読み替えてみましょう。

「五月雨さんのレスは富士桜さんへの個人攻撃になっていますよ。富士桜さんの人格をどの位傷つけているか分っていますか。」
そしてロム者も傷つけています。

>富士桜さんが「なんなんだこれは」と思われた独歩さんのレスは、富士桜さんの誤解から生じたものというのはご理解されましたか。どうも富士桜さんのレスを読んでいると読み違えの部分がかなりあるようにお見受けするのです。

正直いいますが私もこのレスに対し「なんなんだこれは」と思ったのです。どういうことか様子を見るためにも黙っていたまでです。「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう。一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか。

>どうぞ今一度冷静になって考えてみられたらいかがでしょうか。
>言うに事欠くと最後は個人攻撃、この構図を宗創戦争で嫌というほど見てきましたが、本当にみっともないばかりです。こんな事はこの掲示板では止めて頂きたいと思います。
「本当にみっともない」「止めて頂きたい」という言辞はそのまま投稿者にも当てはまります。
私からも投稿者にお願いします。「どうぞ今一度冷静になって考えてみられたらいかがでしょうか。」

なお独歩さんと富士桜さんの件について私はは中立の立場であり、不利な立場に付け込んだ驕慢の言を指摘しているということをひと言付け加えさせて頂きます。

101sat:2002/12/25(水) 02:25

独り言モードですが、
今まで信じていたものは何だったんだ・・・唯一絶対と信じ込まされていたものは何だったんだ・・みたいになると全てが180度違って見えてきます。

記憶を消し去り、リセットし、これまでの時間を取り戻すことができれば、どんなにか楽になるだろうと思います。
が、実際のところ、そうはいかないところがつらいところですね。捨てたくても完全に捨てきれない・・

修正可能な誤謬を発見する過程で、真の正しさはそのどこかにあるのだ・・
或いは自分で見過ごしていたものや、発見していないものがあるかもしれない・・
精査していけば、間違っていると思う自分が間違っていることがわかるかもしれない・・
などと私自身色んなことを考えてしまいます。

ネットの色んな掲示板を見て感じることですが、バトルは先ず批判をする権威を体内に取り入れ、禁じられた衝動の興奮を他人に投影することから始まるような気がしています。
その場合、自分自身に対しては厳格ではなく、他人に対して厳格となりがちです。

批判を取り入れることによって、どんなものが否定されるかということを自分は知っていますから、自己防衛のメカニズムが働いて不快な自己批判をどこかでごまかそうともしますよね。

その意味から考えれば、他人を激しく非難するのは、自分の罪悪感の代理の意味を持っているような気がします。自分で自分の罪に気付いてくるようになると、非難も同時に激しくなりますから。

でも、取り入れられた批判が内在化し、そのために自分の過程を自覚するようになるとき、その厳しさは自分に向けられ始め、そして他人に対する不寛容さは次第になくなっていくのではないかと思います。

しかし問題はその先にあり、この段階に来ると自己批判と罪悪感によって起こされるもっと大きな不快を耐えなければならなくなるのではないかと・・と感じるこの頃です。

102管理者:2002/12/25(水) 07:49

>98
なにやらマナー違反の投稿が続けてあるようですね。掲示板の規定からしてマナー違反の投稿は断固削除すべきです。ロム者に大変失礼です。

とのご指摘がありました。管理者は、現時点では、削除すべき、という判断に到っておりませんが、精査してみたいと存じます。その上で、掲示板のルールに照らして、対処、あるいは容認を決めたいと思いますので、少し時間を賜りたいと存じます。

103犀角独歩:2002/12/25(水) 09:27

富士桜さんと私の件は2人の問題なので、ここでこれ以上、この場所を使うのはどうかと思ったので、会って話すことを申し出たのです。
それにも関わらず、まだ、そのことを蒸し返す、これによって、また繰り返されている構造を理解できないのかと思うわけです。

私の「好い子ぶり」発言に関しては、メールで判事が来た段階で、「暖かく感じました」という一言を受け取ったので、その点で終わっていました。
ところがロム者が、それを蒸し返した。
さらにここで醜い様相を呈するようなので、個人面談で事を決すると私は記しているのに、また蒸し返す。こういう周囲の無配慮が掲示板を荒らしている原因にもなっているのに、荒らしているほうが荒らしていると気づかないわけです。

また、更にいえば、今回の件は先に記したとおり、私にとっては富士桜さんとの件は、メールの受け取りをもって、終止符が打たれていたわけです。つまり、当事者は、やーこさんと私であったわけです。けれど、菊水護国さんから「やめよう」という仲裁が入ったから私はその後、やーこさんのことに触れていなかった。やーこさんも悲鳴を上げ続けていました。99でもさらに悲鳴を上げている。可哀想であるという気持ちが年を食っている私にはあるわけです。

繰り返しますが、この件は言い出したやーこさんが「やめて欲しい」といい、さらに私は富士桜さんと私で話し合いで決するといっているわけです。
なぜ、蒸し返し続け、たき付け、囃し立てるのですか。

こういうことを記すのではなくて、富士門を考え直すことにここの意義があったのではないでしょうか。

104犀角独歩:2002/12/25(水) 09:40

モモさん:

あなたは五月雨さんに対した投稿はすべてモモさん自身に“言い換えられる”ことではないのですか。

モモさんは五月雨さんを「わかったような言い方」と批判した。しかし、今度、私がロム者の立場からモモさんの言葉を観察すれば、その言葉は発言したモモさん本人に当て嵌まると見えるわけです。

それと、もう一点、最近で言えば、アネモネさん、私は、あなたの「二元論」発言に対して、質問しているわけです。それには答えようともしない、批判するだけして、それに対して質問されると答えない、こういう不誠実な対応をしておいて、他人の非ばかりを論う自分自身に気づけない。そのために、あなた方の言葉を使えば「なんなんだ」という思いはこちらにもあります。

皆さんへ:

繰り返しますが、当事者間の問題は当事者で、を原則にしてすることが問題は明快になります。これは他のロムの方にもお願いをしておきたいと思います。

もちろん、賢明な意見を寄せてくださること…直前の例で申し上げれば、satさんのように…は、その限りではありません。事に乗じて、人身攻撃を重畳的に繰り返し、感情的にエスカレートするようなやり方は、ともかく自重し合いませんか、と提案しておきます。

105犀角独歩:2002/12/25(水) 09:41

【103の訂正】

誤)メールで判事が来た段階で
正)メールで返事が来た段階で

106犀角独歩:2002/12/25(水) 11:19

モモさん:

読み直し、不適切であると思うので「モモさんは五月雨さんを「わかったような言い方」と批判した」という部分は撤回します。

ところで、たびたび「ロム者」という言葉が出てきますが、このロム者には、五月雨さん、私は入らないのですか。

それと、

> 正直いいますが私もこのレスに対し「なんなんだこれは」と思ったのです。どういうことか様子を見るためにも黙っていたまでです。「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう。一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか。

という部分の「このレス」は私の「好い子ぶり」発言を指すのですか。
ということは、これはモモさんが個人が私に向けた言葉と判断できます。
そこで、おたずねしますが、そのあとに続く、「「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう」の意味がまったく理解できません。
これも私に向けられた批判なのでしょうか。意味を説明していただけませんか。
さらに「一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか」とは、これは私に言っている言葉ですか。「一方的に分かったような言い方」と決めつけるあなたの言葉は、あなたの言葉を使えば「失礼」には当たらないのですか。

以上、私という当事者が、発言当事者モモさんにお尋ねすることです。お応えください。批判された私にはそれに質問をし、かつ答えを受ける権利があります。
他の方には申し訳ありませんが、ご意見無用にお願いしたいと思います。

モモさんの「失礼」に当たらない模範的な在り方をここに示してください。

107犀角独歩:2002/12/25(水) 12:32

satさん:

> 唯一絶対と信じ込まされていたものは何だったんだ・・みたいになると全てが180度違って見えてきます

この意見にはまったく同感です。
ここは、その180度違う視点の違う信仰価値に基づく議論が可能かどうかの実験場みたいなところであると思えます。2年前、私は、この議論を可能にするものは、証拠主義に基づく方法論であると思ったわけです。これは学者の議論でも同様ですね。まったく違う意見で正否を事実が証拠となって認定していくやり方です。証拠を挙げられない学者に発言権はありません。しかし、ここの掲示板はそれほど、厳格な場ではありませんので、いつしか感情論がまかり通ることになるのでしょうか。意識しないと、水は低いところに流れていってしまうわけですね。

証拠に基づく論理的証明→感情的反論→論理的証明批判

というあってはいけない流れがいとも簡単に起こります。
以上のような流れは実は歴史の中に常にあったことですね。誰にでも手に入る岩波新書で挙げれば、J・B・ビュアリが書いた『思想の自由の歴史』はそれにもとづく記述であったし、森島恒雄の『魔女狩り』もそうでした。宗教者であってもA・D・ホワイトの『科学と宗教の闘争』という名著もありました。ここでは明らかにされたことは科学を宗教がどれほど、感情論によって抑圧し、進歩を妨げてきたかと言うことでした。しかし、現代は、その闘争後にあるのですね。

通常、証拠によって自分の考えを覆された場合、次に自分の持論を証明できる証拠が見つかるまで、それに甘んじなければならない、そこでまた、必死に学ぶわけです。まあ、私はまるで証拠主義で、さらにしがみつくものもありませんから、単純に優れた証拠、それを挙げる人には敬服します。ここで、もっとも駄目なやり方は「始めに答えありき」ですね。これでは時代に逆行してしまいます。もっと言えば、人間のようやくと手に入れた自由精神に違反することになるわけです。もったいないことです。

自分の考えと違うと、証拠も何もかまわず、感情的反発だけで心が占められてしまうこと…誤解がないように断りますが、これはここの投稿者・ロム者の特定の個人を指しているのではありません…。そして、異なる意見の人間への人格攻撃に終始し、それで勝敗を喫し、論理的証明まで覆してしまうわけです。これでは魔女狩りです。

この原因は様々に考えられます。その足がかりとしては、先にsatさんが挙げられた日本人特有の心理「甘えの構造」もあるでしょう。集団信仰の現場であれば、古典的な社会心理学的に見れば、権威主義的人格化ということもあります。魔女狩りとナチズムは、実は同じ心理構造によって支えられているという分析でした。現代的に言えば、破壊的カルト・マインド・コントロールという分析視点も有効であるというのが、satさんと私の共通認識であろうかと思います。

ここで重要なことは、この判断肢は複数で、かつ統計的であればあるほど、また、証拠主義に基づけば基づくほど、より精査され正確になるということですね。
ところが信仰集団は、これを認めさせない。判断肢(地図)はただ一つ、教団と指導者、そして教義です。

実は180度の違いというのは、ここの部分に由来することなのであろうと思います。
ですから、複数の判断肢を持つ人間と、一つの判断肢しか持たない違いが180度なのであろうと思うわけです。180度の違いを埋める方法論 ― 証拠主義 ―、もはや議論は成り立たず、一つの判断肢しか持たない側からの一方的な感情論で埋め尽くされてしまいますね。ですから、このときはまた、共通の基盤、証拠主義に戻って冷静な議論を始めればよいのだ、まあ、そうできる同士で議論をしていけばよいのだというのが、私の考え方です。

108sat:2002/12/25(水) 19:02

中村元氏の原始仏典の訳本なんか読んでみますと、仏陀自身がとても合理的かつ実証的な思考の持ち主であったような気がしました。「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」とか「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。」といった訳文がとても印象に残っています。

犀角独歩さんの「証拠に基づく論理的証明」や「証拠主義に基づく方法論」には大変共感いたしますし、信仰の次元においてもコペルニクス的展開が可能かもしれません。と同時に本掲示板の趣旨から見れば、それはフェーズ1なのかもしれません・・

精査してみて、そこから様々なものを発見していく段階をフェーズ1とすれば、次の段階は私達を取り巻く現状や社会、或いは未来に向けて、新しく見出したフェーズ1の視点に基づいて多様な示唆を提示していく・・こういったフェーズ2に至れば、本掲示板は大変価値あるものとなるような気がします。

更には、フェーズ2によって、新しい視点そのものが証明という観点から精査されていくのだろうとも思います。温故知新はフェーズ1とフェーズ2のワンセットによって、常に有効な手段になるのではないでしょうか?
ゲーテのファウストにある「日に新たに、また日々に新たなり」の言葉とか、ベルグソンのいう絶えざる進歩や前進を遂げていく「創造的進化」という言葉が思い浮かびます。

109sat:2002/12/25(水) 19:03

「感情論がまかり通ることになる」とのご指摘は、私達にとって言葉の意味を改めて考えさせられます。言葉の背景には発言者の感情が含まれている訳ですし、受け手側も理解していく背景に感情があるわけですから、僅かなボタンの掛け違えがいつまでたっても修正されるどころかますます乖離していくということは日常でもよくありますね。

富士門流の各組織や団体も類似点は、集団全体としての親和性を素地とした統合性にあるのではないでしょうか。そのいずれも、言語的コミュニケーションを超えた強固な連帯感があるかと思います。また、そうした統合性をもって、機能するときには、下位集団としての指導者群と従属者群の地位が分化し、連携と協力の活動を行うといういわばヒエラルキー構造を形成していくのだろうと思います。

カルト問題とも関連してきますが、集団構造は、その集団が対社会的にどの程度半価値的であるかに依存する面が大きいというパラドックス的な結合要因も見逃してはならないような気もします。集団によっては、それは必ずしも恒常的ではなく、ある状況下においてのみ妥当し、時とともに変動するとしても、反社会的であれば、それだけ構造は組織化され、ヒエラルキーを強固にしていくのではないでしょうか。

攻撃を一種のカタルシスとして見れば、攻撃を通じて組織は強化され、再び全体として社会に反抗する構えをとるようになります。それ故、反社会的価値体系の担い手としての集団組織と攻撃行動とは相補完的関係にあると言えるのではないかと思います。この場合の攻撃は組織維持の手段であるばかりか、同時に組織の目標ともなっているのであって、単に集団過程の位相として現れるものではないような気もします。

集団構造の側面からみれば、攻撃行動が反社会性を強化するか、社会化を促進するかの契機となる条件は、まず当事者が全体としての集団過程にどの程度関与していたかということだと思います。更に付け加える点は、指導者や従属者の役割をとる成員の固有のパーソナリティなのでしょう。自己顕示性格の強い人はしばしば全過程において、或いは特定位相(攻撃行動)において指導性をとりますから、彼の性格を集団過程が要請するとも言えるのではないかと思います。

ある成員の攻撃行動が単なる状況的・位相的な怒りの感情の表出か、それとも社会に対する根深い敵意の態度の表現かという重要な岐点に関連してくると思います。もし、敵意の態度の現われなら、攻撃行動のカタルシスの効果はもたらしませんね。また、更に言えば、現象的には攻撃をしなかった集団構成員に一層の敵意を認めることもできます。このようなパーソナリティの形成に、過去の生活体験(生育環境での体験)と素質が複合的に関わっているのだと思います。

110犀角独歩:2002/12/25(水) 19:33

シャキャムニについても同様の感慨を実は私も懐いていました。
世界で最も早く合理精神に目覚めたのはシャキャムニであったのでしょうね。

この掲示板における記述を、フェーズ(phase)として、とらえる視点は新鮮でした。
phase2とセットというのは、もっともながら、そこまでのグローバリゼーションまで、運ぶのは至難の業ですね。しかし、方向は、そうあるべきと思います。

反対意見を憎悪、憤慨に置換する手法は、人心操作の基本ですね。
また、論理性を感情論に置き換えるのも同様でしょう。これが攻撃行動(衝動)へと変換できれば、組織側の人心操作は功を奏したことになります。この場合、個人の行動を操作する基本が“権威”であって、その実質的な行動は“服従”ですね。まあ、個人レベルでは仲間意識なんかもそうなのかもしれません。

なお、私は学会から離れるのと併せて、ユング、また、ベルグソン、ショーペンハウエルなども含めて、いわゆるインド学の影響延長にある人々にかなり慎重になっており、それ故、その引用は控えてきました。

先だってから、それらをさり気なく引用されるsatのご投稿を拝見しながら、懐かしいなと。あ、これはもちろん、批判ではありませんよ。

特にユングは、意見が分かれるのであって、基本的には宗教病理研究なのでは、スポイルされますが、小田晋師などは、別段、そうでもありませんね。新鮮な感じがします。

一点だけ、質問させてください。

> 攻撃を一種のカタルシスとして見れば

この点を、もう少し、補足いただけませんか。

111sat:2002/12/25(水) 19:34
間違い:半価値的であるか
修正:半価値であるか

・・です。すみません

112犀角独歩:2002/12/25(水) 19:48

失礼、呼び捨てになっていました。もちろん

誤)satのご投稿
正)satさんのご投稿

です。お詫びし訂正します。

113犀角独歩:2002/12/25(水) 20:02

もう、出かけなければならないのですが、もう一点だけ。

> 言葉の背景には発言者の感情が含まれている訳ですし、受け手側も理解していく背景に感情がある

ええ、ここで「180度」も関係しています。
この感情を不瞋恚、慈悲とするのが仏教の在り方でしょう。
しかし、全体主義、カルト集団では、この鉄則を内部にだけ、通用させ、反対論者に憎悪と瞋恚を煽るわけです。この段階で、仏教教義から逸脱します。いまの学会を含む石山教学範疇の集団が、わかっていながら、あえて犯すタブー、集団煽動の方法論でもあります。

114無徳:2002/12/25(水) 20:12
皆さん今晩は、仕事が一段落したものですから久しぶりの書き込みです。

今更ながら、言葉のやり取りの難しさを皆さんの議論を拝見していて痛
感します。

 かつて私も独歩さんとの意見交換のおりに言語使用の困難さを感じて、
直接お会いして話す事がなにより肝要と思い、池上でのミニオフ参加して
独歩さんと直にお話しすることが出来ました。

お会いしての会話は、やはり掲示板でのやり取りとは趣が異なりました。
それはそれで又違った難しさはございますが、とにかく互いの息使いを感
じながらの話し合いですから、なにより相手を思いやる心がなければ反っ
て危ないことになりかねません。(笑)

 掲示板での発言から受ける独歩さんの強い感じの表現とは違って、大変
理性的で知的な中に優しさを感じさせる好青年、いや好男子かな!であり
ます。

日蓮御坊も普段いろいろな方とお会いしてお話をなされたこと思います
が、常に「四箇の格言」を前面にしてお話されるはずもありません。それ
どころか御消息文を拝するかぎり、話される相手を包み込まずには置かな
い様な慈愛と思いやりに満ちたお姿と言葉が溢れておられたことと推察さ
れます。

 むろん、他宗のお坊さんと公場対決のような形でお話しなさる時は激し
い気迫と、あの開目抄に見られるような強い確信で言語を駆使なされたこ
とでしょう。しかし、おそらくその時ですら深い慈悲のお心を以ってなさ
れたことと確信します。

 とにかく言葉と言うものは文章によって確定した形になってしまうと、
時間の流れや心的な情動を失いがちです。したがって、相手に対しての心
情や客観的見方を表現しきれない処から来る誤解や偏見を生みがちです。

 お互いにそれらのことを理解し、それを踏まえたうえで論議しないと、
いたずらに感情的になってしまい結果として相手に誤解を与へたり傷つけ
てしまうことになりかねません。
ましてや、それぞれの方が置かれている状況が千差万別ですから、お互い
に相手を理解し思いやる心無くしては真の会話は成立しないと思います。

 もちろん相手が、こちらが全く受け入れられない様な言動をすることが
あるでありましょう。しかし、その時でも相手を理解しようとの思いやり
が不可欠と思います。ただし、どう見ても間違ったことを言っていると思
われた時は冷静に指摘してあげることが慈悲かもしれません。

 その辺の兼ね合いが大変難しいと言えば難しいですが、やはり、相手を
思いやる心が基本といえましょうか、いずれにしましても、この掲示板に
集う方々の多くは、それぞれ立場は違っても、日蓮御坊の弟子を自認なさ
れる方々と推察します。であるならお互い日蓮御坊の精神に立ち返るしか
ありませんですよね!

長々と記しましたが、これらのことは自分自身に言い聞かせつつ自戒す
る為にも書かせていただきました。どうか失礼の段がございましたらご寛
恕ください。

115富士桜:2002/12/25(水) 22:36
独歩さん、そしてロムされている皆様への謝罪文
.
先ほど独歩さんに電話をもってお詫びさせて頂きました。
しかし、それだけではずうずうしく思い、また、この掲示板を見ていられる方に失礼にあたると感じ(散々失礼な書き込みを続けていたとは思われるでしょうが)正式にここで書き込ませて頂きます。
.
この度の件は、独歩さんに自分自身の個人的な怒りにまかせた投稿による「過ち」であった事を認め、ここへ謝罪いたします。
独歩さん、申し訳ありませんでした。
また、個人的な電話による謝罪にも寛大に応じて頂いた事を本当に感謝しています。
.
舌の根も乾かないうちから180度違うこの書き込みも、最初こそ確かに怒りに任せての投稿でしたが、何度も打ち直しているうち、読まれている方々にも散々指摘されていましたが、自分自身は以外に早く冷静になってしまっていました。
自分自身が仕掛けたはずなのに、仕事もプライベートも嫌な気持ちでここ数日過ごしていました。
しかし実際独歩さんを相手に、あそこまで書いてしまった以上ひっこみがつかなくなっていた、と言うのが本音です。
.
多岐に渡り個人攻撃を書き込んだ為に、独歩さんから自分への返答を求められる場所も当然あるかとは思いますが、これ以上またここへ書き込んでしまうと、文字だけでは限界がある、と今回感じました。
.
これは自分の書き込みに対する対処の問題に関しての認識ですので、今後は実際にお会いして、自分も聞きたい事、または言いたい事は、、、とりあえず同じ東京なので自分の方からお伺いさせて頂きます。
.
また今回自分が引き起こした独歩さんへの個人攻撃において、お怒りの方も納得されない方もいらっしゃると思います。
反省の念も込めまして、お一人ずつに必ず返答します。今度こそ名前の所にメアドを入れておきましたのでお叱りの言葉を入れて下さい。
.
また正式に独歩さん、または管理人さんにはこの掲示板を通じお許しは得ていないのですが、これを機にここを立ち去る事、これこそ独歩さんの意に反する事と思いますので、今後も書き込まさせてもらいたい意志がある事を明記させて頂きます。
.
以上です。

116モモ:2002/12/26(木) 01:11
犀角独歩さん:

>ところで、たびたび「ロム者」という言葉が出てきますが、このロム者には、五月雨さん、私は入らないのですか。

「掲示板を閲覧している第三者」という程の意味です。

>> 正直いいますが私もこのレスに対し「なんなんだこれは」と思ったのです。どういうことか様子を見るためにも黙っていたまでです。「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう。一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか。
>という部分の「このレス」は私の「好い子ぶり」発言を指すのですか。

違います。3の「特定の個人の顔色…」のレスを指します。故にこの部分は私が独歩さんに向けた言葉ではないので、それ以下の質問は意味をなさないと考えます。
「一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか」とは100のレスで直前に引用したレスを指します。
また私が失礼に感じたのは信仰歴を云々して相手をさげすむような表現です。「まだ信心三年」「甘いなぁ」「信仰歴の浅い」「信仰歴は浅い」などのような言辞は差別的だと考えます。

>当事者間の問題は当事者で、を原則にしてすることが問題は明快になります。これは他のロムの方にもお願いをしておきたいと思います。

という意見には賛成です。私が問題視しているのは当事者間の問題に、一方をかばい一方をさげすむようなレスが入ったことです。
蒸し返した張本人のレスはまさしく88のレスです。私はそれを問題視しているのです。実に無礼なことです。

>それと、もう一点、最近で言えば、アネモネさん、私は、あなたの「二元論」発言に対して、質問しているわけです。

すぐさま追って投稿させていただきます。よろしくお願いします。

117アネモネ:2002/12/26(木) 02:08
富士桜さん

今回、個人的感情にせよ、あれだけのレスを書き込むそのパワーはすごいものがあったなと、ある意味で感心してみていました。確かに第三者にとっては不快な内容もあったのかもしれませんが、そんなことより公開の場を使ってでも訴えたい自分の内なる思いをみつめる良い機会だったのではないでしょうか。少なくとも、人の目を気にせず、体当たりなさっていた印象です。
確かに掲示板は荒れたかもしれませんが、荒らしただけの発見もまた、第三者も含めてそれぞれにあったかもしれませんね。
掲示板のルールに明文化できるものではありませんが、私の中では、そういうのも有りだと思っています。人間同士のことなんですから、感情の行き違いはありますね。それをはっきりさせることも、ときには大事だと思います。
まずは直接のお電話で、意思の疎通をはかられたこと、本当に良かったです。今後また直接お会いになって、膝を交えて話をなされば、さらに新しい発見もあることとお察しします。これからも自分の思いや考えを、どんどん綴っていかれますように。

118sat:2002/12/26(木) 06:38

犀角独歩さん:

亀レスになりました

>懐かしいなと。

心情的にとてもよくわかるような気がします(笑)私はいまだ創価学会員ですから。


> 攻撃を一種のカタルシスとして見れば> この点を、もう少し、補足いただけませんか。

人の攻撃性を規定する因子としては、人が「言語」と「記憶」をもち自らの歴史性を担う精神的存在であることを考慮しなければならないと思います。集約すれば、①同一視、②投射、③記憶の三点かと思います。

①の同一視ですが、これは人は他者の苦痛を感じることができるという意味で書きました。サディスティックな感情は人特有の感情であり、同一視の典型かと思います。

②の投射ですが、これは自分の内的攻撃性を他者に投影し、自分の防衛のために他者を攻撃するということになります。これは犀角独歩さんのご指摘にある集団現象としての魔女狩りにも当てはまるのではないでしょうか。

③の記憶ですが、人は過去を現在に持ち込む記憶能力がありますよね。八つ当たり take it out on の it は慢性的なフラストレーション・憎悪・復讐心・執念を指すとも言われているようです。

攻撃を①衝動的攻撃と②計画的攻撃に分けて考える人もいるようです。衝動的攻撃は抑制と抑圧能力減退によって起こるものであり、最小の契機で衝動の爆発の起こる状態を「攻撃性失禁」と称しているようです。それに比較して「計画的攻撃」は、投射によって起こり、決意と実行の間にはある一定の時間を必要とします。これが人特有の攻撃パターンだろうと思います。

或いは、子供などを見ていますと、その攻撃性は外界の人や物に向けられているのをよく目にします。「甘えの構造」の中で、依存欲求の転移性攻撃といったことを前述しましたが、攻撃性を自己に内在する不安からの脱却とか、自己充足的な活動とみなした場合、こういったことと関連してくるのではないかと思います。

攻撃は当然相手の報復の危険をもたらすのでしょうが、報復に対する不安から攻撃が一層激烈で容赦ないものとなる悪循環が成立してくるようにも感じます。これも多分、人のもつ記憶・同一視・投射からくるのではないでしょうか。

「人は山の中で孤独になるのではなく、群集の中で孤独になるのだ」といった言葉がありますが、他と関わりなく孤立存在することは、個人にとって耐え難いものがあり、また集団にとっても、継続的に存続維持することそのものが不可能だろうと思います。集団が集団足りうるためには、組織規範と外界規範といったダブルスタンダードにおいて外界に向かって攻撃を仕掛けていくことがカタルシスにつながっていくということにもなるのでしょうか。カルトがカルトたる所以は、そういったところにもあるような気もします。

集団間の葛藤に問題を転じますと、比較的固定した支配的序列が、新しい異質な侵入者によって、結果的に集団内のシステム崩壊につながっていくといった前兆段階において、攻撃性の亢進や触発が起きるということかもしれません。外界に向かって・・

119モモ:2002/12/26(木) 09:09
犀角独歩さん、アネモネさん

>> 二元論で考えることは有効な思考方法であると同時に危険が伴う場合があると思います。

アネモネさん>私もこの発言は意味がとれないのですが、私の前のレスの説明が二元論だということなのでしょうか。

そうではなくて、一般論として「信じる、信じない人の理論」という二元論があるということです。そして

独歩さん>これは至極当たり前のことでしょう。
独歩さん>さらに言えば、二元論で考えるか・考えないのかという二元論もまたあるわけですね。

という意見もあります。

独歩さん>それは私の意見として、このモモさんの2行が、どうして、私の質問の「差別という語に敏感に反応する」の答えになっているのかが、わからないのです。
独歩さん>ちょっと、補足してもらえませんか。

私は「信じる人の理論」「信じない人の理論」を相対的に考えているということです。

独歩さん>石山教義の差別性、しかし、よく考える必要があるのは事実ですね。
独歩さん>「信じない人の理論」を無視する信じている人の論理を「独善」と呼ぶのだと、私は思います。独り善がりの社会から乖離した独善主義、しかし、そういう人から見ると世間のほうが独善と見える、この180度の見解の相違がどこから生まれるのか、よくよく考えてみる必要があると思うわけです。

「信じない人の論理」を無視する信じている人の論理であれば差別ですが、信じている人の理論と相対的に信じていない人の理論を考えることは有効だと私は考えるからです。
故に「信じない人の理論」という言葉を即、差別ととるのはいかがなことでしょうか、と思ったのです。ここの独歩さんのレスに信じる、信じないの考え方が明瞭、簡潔に示されていると思います。

120アネモネ:2002/12/26(木) 09:46
モモさん

たぶん、まだ私の言っていることが理解されていない気がします。
もう一度、自分の言葉と私の言葉をよく考えてみて下さい。
「アネモネさんの言っていることは、信じてない人の言葉だと思います」
言葉は正確ではないかもしれませんが、そのようなニュアンスのことをモモさんは私に言ったわけですね。これは掲示板でも自ら認められたことでした。
この言葉の持つ意味が「信じる人、信じない人」という二元論的発想なのではないでしょうか。自分を信じる人とみなし、私を信じない人とみなした二元論です。
一方、私は、「信じる、信じない」は内心の問題であって、本当のところは誰も立ち入れない話だと言ったわけです。この人は信じる人、この人は信じない人などと、安易に他人が選別できることではないと言っているわけです。そんなことを意識するなと。「信じる人の言葉、信じない人の言葉」と人を分けて考えたりしないで、まっすぐ教義を検証すべきだと言っているのです。それは、石山が指導している内容とは違っているからモモさんには馴染めないことかもしれませんが、石山の指導が二元論的思考であるということは、気がついておられますか?
私の言っていることのほうが相対的なのではないでしょうか。モモさんが、私も含めて信じていないとみなす人の言葉、どことなく肝心なところを都合よく聞き流しているのではないかと、感じるときがあります。掲示板の書き込みを通しても、モモさんが人の話を相対的に捉えているとはなかなか思えないというのが、率直な感想です。

>「信じない人の論理」を無視する信じている人の論理であれば差別ですが、信じている人の理論と相対的に信じていない人の理論を考えることは有効だと私は考えるからです。

モモさんはまだ私の言っていることが理解できてないようです。私に対して、「信じてない人」となぜレッテルを貼るのでしょう。それが差別だといっているわけです。石山の理論から言えばそういうことではないでしょうか。百歩譲って、モモさんには石山流の差別の気持ちはないとしても、私としては、私がここに書くことも含めて、モモさんに話すことも、「信じてない人の話」とレッテルを貼られることは不本意なわけですね。差別された気分にもなるわけです。それこそモモさんが五月雨さんに発していた言葉ではありませんが、私の心の内の何がわかるのでしょう?といったところです。
「信じていない人の論理」とレッテルを貼ることが、二元論的であり、差別思想にもつながる考え方ということ、もう一度考えてみて下さい。
相対的に考えようと思うのであれば、自分の尺度で人にレッテルを貼らないことだと思います。

>ここの独歩さんのレスに信じる、信じないの考え方が明瞭、簡潔に示されていると思います。

この独歩さんのレスは、重要なひとつの問題提起ではむないでしょうか。モモさんも信仰者として、このレスに納得するだけではなくて、このことを真剣に考える必要がかるのではないかと思います。
ちなみに私は、この問題提起は非常に重要なことだと思い、>95で現時点での考えをまとめております。

121sat:2002/12/26(木) 11:12

二元論、或いは「信じない人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、

素朴な質問ですが・・

仏教(極めて曖昧な表現ですが)を、①合理的な思惟として見ていくのか、②認識論として見ていくのか、③哲学等諸学全般の中で見ていくのか、④救済原理として見ていくのか、⑤自身の信仰という次元で見ていくのか、⑥はたまた別の視点で見ていくのか・・・で、ベースとなる議論や考え方や解釈や方向性も違ってくるのではないかと思いますが、掲示板の趣旨に沿えば一体どこに戻っていけばいいのでしょうか?

話題に即していなかったら無視してください。

122sat:2002/12/26(木) 11:33

間違い:二元論、或いは「信じない人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、
修正:二元論、或いは「信じる人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、

すみません

123犀角独歩:2002/12/26(木) 12:36

富士桜さん:

昨晩はお電話、有り難うございます。
ちょっと、打ち合わせ中でゆっくりとお話ができずに残念でしたが、近いうちに必ずお会いしましょう。

今回の件は私の「好い子」発言に就き、周囲からの不満が上がったことに、大きな原因があったのでしょう。この点を私は率直に認め、反省し、謝罪の意を表します。

しかし、このような私の投稿に対して、誠実なメールを下さったことには「オフ会開催案内」328で既に謝辞を述べたとおりです。

私は「議論は常に生産的であれ」と思っています。
ですから、意見の相違もまた、生産の助とできれば、過去の経緯がどうであれ、良い結果として生かせるのが議論であると思います。

> これを機にここを立ち去る事、これこそ独歩さんの意に反する事と思いますので、今後も書き込まさせてもらいたい意志がある事を明記させて頂きます

ええ、そのとおりです。
寛大な管理人さんもそれを望んでおいでであろうと拝察します。

議論は分かれ去るためにあってはならないものですね。繰り返しますが「議論は常に生産的であれ」ですね。

では、再会を楽しみにしております。また、投稿を期待しています。

124犀角独歩:2002/12/26(木) 12:38

無徳さん:

ご無沙汰しています。
ご投稿の内容、よく噛み締めさせていただこうと思います。
有り難うございました。

125犀角独歩:2002/12/26(木) 12:42

> 118 satさん:

解説、有り難うございます。
たいへんに整理されていて、参考になりました。

126犀角独歩:2002/12/26(木) 14:20

モモさん:

信・不信ということ、私は、これは二元論ではなく、二極論、より正確に言えば、二極思考という視点で考えなければならない問題であると思います。

辞典に拠れば

にげん 【二元】
事物が異なる二つの原理で成っていること。また、その原理。「物心―の哲学」

とあり、けれど、「二極」という成句は載らず、「極」は

きょく 【極】
(1)物事のそれ以上行く先のない最後。きわまり。きわみ。果て。極限。

という意味を持つとのことでした。
この意味からすれば、モモさんがいう「信じる人・信じない人」という観点は、二元論ではなく二極論になっていませんか。

私は仏教に言われる信・不信は元来、移り変わり、定まらない心的状態を、いちおう二つに分けて信を目標とするのでしょう。そして、完全な信の状態は、ほぼ成仏・記別と同義に扱うのが法華経ではないでしょうか。

蓮祖にしても、彼の『開目抄』における自問自答のなかに於いても、「我が身法華経の行者にあらざるか。此の疑ひは此の書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑ひを強くして答へをかまうべし」と、厳しく論を構えるほどなのであって、その700年後の我らが容易に「私は信じている」などという事自体、まあ、モモさんの言葉を使えば、蓮祖に対して「失礼」に当たるでしょう。

そして、ここで重要な点は、この記述において「信」の対語に日蓮が置くのは不信ではなく、「疑」です。そして、「疑ひを強くして答へをかまう」というのです。

この信・疑の対句関係は、聖人の特質ではなくて、天台已来の系譜です。
例えば、玄義には「斷大“疑”生大“信”」と言う如く、また「動執正“疑”」に「断疑生“信”」という如くです。

そもそも石山教学では、真偽未決の『教行証御書』を採り、その下種の特性を金剛宝器戒というのです。「此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず」という一文をもって、受戒を説明します。ここで、一度、受戒をした者を「信じない者の論理」と排斥することはできないことになるわけです。信・不信は証悟に至る道程なのであって、その課程において、信・不信のレッテルを貼ることは、私は実に相手に対してというより、何より教化の師・日蓮に対して、実に「失礼」なことに当たるでしょう。何故ならば、下種の衆生を皆成仏をするというのが、少なくとも石山義で言う日蓮の教えであるからです。

石山義では真偽未決の『経王殿御返事』の「日蓮に怨(あだ)をなせし人々は、先(ま)づ必ず無間(むけん)地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成って成仏すべし」という一節を採って、文句記の因謗堕悪・必因得益、所謂、毒鼓の縁に充て、本仏の種熟脱の長遠の師弟関係を宣べることを詮とします。これらの定石がモモさんは「自分を石山を信じる人の理論」といいながらまったく考慮されていない点で、石山義、日蓮義、妙楽義、天台義に至っていない見受けざるを得ないわけです。

更に言えば、私はモモさん「信じない人の理論」という一節を読んで直ちに想起したのは、石山教学、日蓮教学でも、仏教でもなく、キリスト教です。「唯一絶対・全知全能の神を信じなさない」「信じる者は救われる」、そして、この神は証明することができない故に正しいというキリスト教の神学系譜です。

この点は、しかし、モモさん独りの問題ではなく、日本仏教全体が抱える問題点です。西欧化のなかで、仏教の根本仏をキリスト教の全知全能の神の如くに見立てる傾向が、近代、強く起こり、その解釈を日蓮の考えであると誤謬され現在に至っています。この点は、むしろ、みかんさんがお詳しいところでしょう。

キリスト教の信は何もわからなくても成立しますが、日蓮が言う信は、常に「疑」の克服の上に成り立っています。その意味から、私から見ると、モモさんの言う「信じる人の理論」は日蓮的ではなくて、キリスト的であると思えるわけです。

あと、「失礼、失礼」を連発する前に、自分が相手に対して、失礼に当たらないのかを少し考えてみる余地があるのではないでしょうか。私から見る限り、モモさんの対応は実に失礼なものになっていると映じます。

127みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 14:59
信について。

わたしは漢文仏典を読む機会が多少ありましたが、その際に引っかかったのが「信」という感じの意味でした。これは現代日本語の信じるとは違う意味なのではないかとずっと考えていました。そうでないと理解できない用例が多いからです。

漢文仏典で使用される「信」ということばは、信・疑、信・不信が対になったことばではありません。もし宗教団体の信者が自分が信仰している、信じているとういことを「信」だと思うので有ればそれは誤りです。その人は「信」を得ていません。
宗教の信者の信は相対的なモノであり、自分は絶対の確信を抱いている、この信は揺らぐことはないと今は思っていても、機縁さえあれば容易になくなってしまうモノです。

わたしが漢文仏典で見てきた「信」とは全く別のことです。それは慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなることです。
法を慧眼で見、知るということは、事実を事実として体験したということですから、それは揺らぐことがありません。それはのどが渇いたら水を飲むとか、眠くなったら寝るというのと同じぐらい当たり前のことです。「のどが渇いたら水を飲む」ということを信じる人などいません。それはナンセンスです。それは事実として誰でも知っていることです。そのような有りようが、仏教における「信」の意味です。そして「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。

128みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 15:04
×感じ
○漢字

ですね。

余談ですが、レッド・ツェッペリンのStairway to Heaven の最後の[When all is one and one is all, to be a rock not to roll.]
(全てが一であり、一が全てであるとき、巌のように確かな物となり、揺らぐことはない)という神秘主義的表現は、そういう「信」であるのだろうなと思っています。

129みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 15:09
127を書いた後で、独歩さんの126を読みましたが、126の内容と私の127は矛盾しませんので念のため。

仏教(特に禅宗)では「疑団」ということを大事にします。疑団がなければ菩提心もないし、「信」も起こらないわけです。一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」です。

130犀角独歩:2002/12/26(木) 19:15

> 漢文仏典…「信」…慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなること
> 一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」

こう記されると、ようやくと仏教で言う「信」が見えてきます。

これに反して、現在、言われるような「絶対的信仰」のようなものは、外来思想で変形したものであると見ることを私は指示します。

以前、これらの点について、バカバットギータのバクティ(誠信)思想の影響であるという岩本裕師の説を紹介したことがあったのですが、特に浄土系の人に反発を受けた記憶があります。

一部、紹介すると、

「バクティ
 =誠信。バクティとはある特定の神への絶対的帰依を意味する」『極楽と地獄』

「バクティー(誠信)を説くバーガヴァタ教の信仰が西北インドに盛んに行われていた。……仏教ともバーガヴァタ派とも関係の深いヨーガは哲学の基本経典の『ヨーガ=スートラ』はおよそ西暦300年頃に編述されたと考えられているが、この経典の始めにプラニダーナという語がバクティと同じ意味に用いられている。これは明らかに自力的なプラニダーナが他力的なバクティに解釈し直されたことを意味しており、当時の西北インドにおける宗教思想を示すものと言わねばならぬ」『布施と救済』

この点についてはたしか、ワラシナさんが「信」の起源を仏典に探り、興味深い論考をまとめていたと記憶します。みかんさん、ご存じありませんか。ご本人がロムしてくださっていたら、是非ご紹介いただければ参考になるのですが。

「バクティ(仏教への影響)
 バクティ思想が水のみなぎりさかまくように西北インド方面の宗教界に渦巻いていたことを示し、自力的な菩薩行をモットーとする仏教徒もこれを無視することができなくなり、自らの教説の中に採り入れて、理論的調和をはからざるをえなかったことを示すといわねばならぬ」極楽と地獄』

ところで、岩本師は、このバクティが浄土思想の「信」に強い影響を与え、仏教からかけ離れた恩寵説の信仰を生じさせたとも指摘するわけです。

「称名念仏ということは、仏の恩寵を懇請することであり、バクティと同じ宗教的態度である」(同)

「ヒンドゥー経のバクティ(誠信)思想が仏教に受容されて本願思想が展開し、これが大乗仏教の菩薩思想と結合し、さらに西アジア方面の宗教思想(救済)の理念を受容して、阿弥陀仏と極楽の信仰があらわれた」『布施と救済』

というわけです。しかし、浄土系の学者は恩寵説、本願思想、それよりなにより、阿弥陀如来が仏教から生まれたものであるという見解なので、この点に否定的になるわけです。シンクレティズムを否定する理由が私にはわかりません。

オウムで知られるバクティ(ヨーガ)の起源をバカバットギータに求める緒論です。
すぐ見てわかるとおり、これらのバクティに係る信の有様はみかんさんがご紹介くださったところとは違い、実にキリスト教的です。キリスト教の信の様態はバカバットギータに言うバクティ(誠信)、あるいは浄土教と強い親和性があるように見えます。

「念仏しようという善意志と信心とは全くアミダ仏の恩寵の賜物
この思想は明らかにキリスト教の恩寵説と全く同じであり、アウグスティヌス(354−430)の言葉を借りれば「恩寵の賜物」Gratuitum donum「神の恩恵的な恩寵」Gratia Dei gratuitaであり、したがって「恩寵が功徳を与えるのであって功徳によってそれが与えられるのではない」Gratia dat merita, non meritis daturということである」『極楽と地獄

と岩本師は指摘します。

さらに中国では、キリスト教の流伝は、既に貞観9年(635年)で確認できるというので、天台から時を経ず、恩寵説の信は仏教にも影響を与えはじめたと見てよい気もします。

「信」の意味も、再考してみる必要があろうかと思われますね。

131犀角独歩:2002/12/26(木) 23:41

モモさん:

「失礼」だと、何度か、私は書いたけれど、若いあなたのこと、気にもしていないかも知れないけれど、鷹揚に構えて、自在にレスしてください。
誤解なきよう、私はそんなに個人のそのものには批判的ではありませんから。
集団には厳しいけれどもね(笑)
まあ、レスを楽しみにしていますよ。

132無徳:2002/12/27(金) 00:37
独歩さん今晩は:

 こちらこそご無沙汰しました。仕事に追いまくられ精神的にも余裕を失って
いました。まだまだ、修行が足りませんですね反省していますがこれも我が力
量のしからしむ故かも知れません。

 独歩さんのご活躍には本当に頭が下がる思いです。ただ、私も独歩さんもこ
れまでは解体作業を主に成して来たのではないかと思います。

 ただ、私は力量の不足の故に、自らの心的領域に住む共同幻想の解体に追わ
れていましたが、独歩さんは一歩先んじて大きな組織との対決の中で共同幻想
の解体を担ってこられたものと思います。

 創価学会や法華講更には顕正会と、まさに共同幻想を紡ぎだす巣窟との対決
でしたね、しかし、最近私は年齢的に先が見えてまいりました故か解体作業だ
けでは気が済まなくなってまいりました。

 残された人生を建設的な作業に振り向けたい衝動に駆られます。もちろん新
たな建設のためにはまずは解体作業が不可欠ではありますが、いつまでも強大
な組織や絶対者との対決を試みても空しく感じるのは私だけでしょうか?

 この掲示板の目指すコンセプトも富士門流の再構築では有りませんでしょう
か?問答迷人さんのご意見を賜りたいと存じます。

 なんとしても、この目の黒いうちに新たな日蓮仏法の燭光を見ずして旅立つ
のは口惜しい気が致します。むろん、私如きが出来うる事は限られたものと自
覚してはおりますが、独歩さんや更には様々な形でこの掲示板に集う方々と共
に草の根的に共同戦線を張れたらと思わずにはおれません。

 特に私より一回りもお若い独歩さんであれば成し得る領域は大変広く、また
その力量も十分に備わっておられると確信いたします。かってに期待や確信を
されても迷惑とは思いますが、おそらく、誰かが成さねばならない使命を持っ
ていることで有りましょう、私も出来うる範囲でその使命の一端を担えれば幸
いと思っております。

 来年は私にとって6回目の未年です。つまり、還暦というわけであります。
新しい年に向かっての決意表明みたいな投稿になってしまいましたが、皆様に
とっても縁り良き建設的な未年となられることを祈りつつ筆を置かせていただ
きます。おやすみなさい!

133今里祐二:2002/12/27(金) 02:48
独歩さんへ

>漢文仏典…「信」…慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなること
> 一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」

「慧眼を開くことによって、……」か、素敵な言葉ですね。

僕自身は、御書の中で当たり前のように語られている「輪廻転生」ということと、
石田次男さんや福島源次郎さんを通じて教えていただいた「無我」ということ、
この二つを「同時」に理解することが出来ず、ずーっとそこに引っかかっていたのですが、
ある日、ふっと「別に、解らなくても良いんじゃない」と思うことが出来て、
それ以降は仏法に対しての迷いはほとんどなくなったような気がします。(気のせいかも…(^^:

理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;

僕の理解した一念三千では、大聖人様が自受用報身如来様でないと困るので、
独歩さんが主張されている

>日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である

という考えは、おそらく一生受け入れることは出来ないでしょうが、
独歩さんの広大な知識をベースにしたカキコにはいつも勉強させていただいています。

ではでは。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

134モモ:2002/12/27(金) 04:57
アネモネさん、レス拝見しました。

「アネモネさんの言っていることは、信じてない人の言葉だと思います」
というような発言は撤回し、おわびいたします。もとより「レッテルを貼る」つもりはなかったのですが…。
申し訳ありませんでした。

135アネモネ:2002/12/27(金) 09:14
モモさん

今回は逆に、私の語気の強いレスが、モモさんを傷つけたかもしれませんね。モモさんがレッテルを貼るつもりはなかったこと、わかっています。
独歩さんの126のレスを読んで、私がなぜこの「信じていない人」という言葉に敏感に反応してしまうのか、その理由は恐らく、私自身がキリスト教を経験しているからなのだろうと、新たな自己分析を得ました。
もともと私はモモさん自身のことを非難しているわけではないです。「信じていない人の言葉」とその言葉に神経質に反応したからといって、逆にモモさんに対して偏見を持っているわけではないですから、気にしないでください。
ただ、刷り込まれた考え方そのものを、この掲示板を通して考え直してみてもらいたかったのです。それを伝えたくて、オフ会の3次会のときから続けて、多少語気も強くなりました。そして、やっとこの問題に向き合ってくれたのでは、という感触を得た気がします。
モモさんが自分の名誉のために反論してくれたことで、独歩さんやみかんさんから、仏教における「信」の本当の意味、本当の捉え方を示していただき、かえって良い方向を得たと思います。
あまりに当たり前に使っている言葉というのは、ほとんどの人がそのまま疑問に持つことなく、考えなおしてみることもなく、やり過ごしているものですが、実はそこに非常に重要な、ある意味で根源的ことが潜んでいるものなのかもしれませんね。
私にとっても大変勉強になりました。

136sat:2002/12/27(金) 11:22

懐疑とは本来、「うかがう」「正確に調べる」「求める」「探る」などを意味していたようです。その意味から考えますと、懐疑によって求められているのは懐疑ではなく真理であるということになりますでしょうか。懐疑が払拭されない限り、探求は続くのだから徹底的に懐疑家であるべきだと・・

一方で、信は疑を生みだし、疑いは信を深めていく・・その往還において理性は有効ではあるが、理性によって絶対的な信に到達するものでもないと・・

絶対的な信(表現が適切かどうかわかりませんが)に到達した後に来るものは何でしょうか?心の平安なのでしょうか?誓願なのでしょうか?救済なのでしょうか?それとも?


無徳さんの「解体から再構築へ」との示唆は大変共感いたします。

137問答迷人:2002/12/27(金) 12:09

無徳さん

>この掲示板の目指すコンセプトも富士門流の再構築では有りませんでしょうか?問答迷人さんのご意見を賜りたいと存じます。

仰るとおりです。当初は、富士門流と言うものの、実際は大石寺門流の再構築を目指して出発しましたが、現在は、掲示板のコンセプトは結果的に拡大され、文字通り、北山本門寺、西山本門寺、保田妙本寺を含む、富士門流の再構築を目指す事となったと思っています。

138犀角独歩:2002/12/27(金) 13:35

無徳さん:

有り難うございます。
また、お会いし、お話ができればと思っております。
そうですか、無徳さんは未年でいらっしゃいますか。
還暦といえども、あと20年はばりばりと共同幻想を壊していただかなくては。
20年プラスすると顕師の年齢です(笑)

139犀角独歩:2002/12/27(金) 13:36

今里祐二さん:

> 「輪廻転生」…「無我」

考えるのをやめるには勿体ないテーマです。
私の好きな御遺文

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」

> 石田次男さんや福島源次郎さん

懐かしい名前ですね。石田さんの『現代諸学と仏法』、5回は読み直しました。
内外相対で畢え、残りは宿題でしたね。
福島さんは、よく池袋の勉強会に参加したものでした。文句も付けましたが(笑)
『蘇生の選択』もあの当時は新鮮に感じたものでした。
お二方とも、生命論批判と四句分別を論ったことは有意義であったと思います。
その残りのほうがはるかに多いのですが。

> 慧眼を開くことが出来た

ならば、羨ましい。

> 一念三千…大聖人様…自受用報身如来様でないと困る

これは中世以降の秘密荘厳論的理解なのでしょうね。
『就註法華經口傳』に闡明な

「第廿二 自我偈始終(しじゅう)の事
 御義口伝に云はく、自とは始めなり、速成就仏身の身とは終はりなり、始終自身なり。中の文字は受用なり。仍(よ)って自我偈は自受用身なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)とは一念三千なり。伝教の云はく、一念三千即自受用身、自受用身とは尊形を出でたる仏と。出尊形仏(しゅっそんぎょうぶつ)とは無作の三身と云ふ事なり云云。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり云云」

というところでしょう。
さらに恵心流の伝に、天台勝釈迦劣・止観唱法華劣が日蓮勝釈迦劣・題目勝法華劣に解釈し直され、さらに寛師においては日蓮・釈迦を名異体同と決するに至り、さらに人法体一にまでまとめた日蓮本仏論、中世の系譜ですね。これが本当に日蓮自身の教えであればよかったと、私も思います。そうすれば、こんなに苦しまずに済みました(苦)

>> 日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である
> という考えは、おそらく一生受け入れることは出来ないでしょうが、

まあ、そう決めつけないことです。『立正安国論』に

「人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。譬へば猶(なお)水中の月の波に動き、陣前(じんぜん)の軍(いくさ)の剣(つるぎ)に靡(なび)くがごとし」

と言われる如きです。

> 独歩さんの広大な知識…

いやいや、そんなことをお書きいただいては他のロムの方に嗤われます。

お会いできることがあるかも知れません。その時はまた、ゆっくり語らいましょう。

140犀角独歩:2002/12/27(金) 14:04

satさん:

横から失礼します。

> 信は疑を生みだし、疑いは信を深めていく・・その往還において理性は有効ではあるが、理性によって絶対的な信に到達するものでもないと・・

ここで「理性」を挟むところにオリジナリティを感じます。

仰るとおり、理性で信に到達するのではなく、到達させるのは「行」であるというのが仏道なのでしょうね。となれば、信疑の往還は学でしょうか。掲示板では表しがたい部分ですね。

141sat:2002/12/27(金) 14:46

犀角独歩さん:

ご示唆いただいた「行」とはどのように理解していけば宜しいのでしょうか?
①関与と、②定型化でしょうか?

142犀角独歩:2002/12/27(金) 14:56


satさん:

いやいや、そんな深い意味で申し上げたわけではないんですよ。
また、私がそうであると思っているというより、信行学の設定というのは、そんな形になっているのであろうと、その程度のことです。

ところがこの行の問題は、ご承知のとおり、トランス、忘我、乖離などと言われる精神病理に抵触する問題と背中合わせですね。実は悩んできたところなのです。
satさんは、いわゆる「仏道修行」の行は、どんなふうに考えていらっしゃいますか。
自分の管見を述べず、質問申し上げて恐縮です。

143sat:2002/12/27(金) 15:51

犀角独歩さん:

信に至る「行」とは何か・・

正直いって、どこから絞りこんでいけばいいのか・・私にはとても難しいです。
皆様のご意見をお聞かせいただければ・・というのが偽らざるところです。

人の持つレセプター(生理学的側面や社会的関与側面)を外して、孤独な沈思黙考の中で真理を求めようとするのではなく、関与や定型化を必要とするのかなあと簡単に考えてしまったのですが・・

ブッダから今日に至るまで、仏教における行の変遷と、その意味付けみたいなものを、一度整理してみたほうがいいかもしれませんね。この辺になると全く私はうといのです。

ご指摘のトランスレーションの問題もありますし、マインドコントロールやカルト問題にも関連してきますし、組織論理を信仰論理にすげ替えている集団信仰の誤謬を考えていく上でも必要かもしれません。また本掲示板の他のスレッドにある本尊とか信仰対象そのものにも関連してきますし・・

すみません、質問の回答にならなくて。

144犀角独歩:2002/12/27(金) 16:16

satさん:

有り難うございます。
要領の良い答えをいただいたら、かえっておかしなことですから、当然のレスと拝見しました。そうなんですよ、ここのところが難しい。

まあ、社会心理学的な言い方をすれば、少し病理から離れても、「個人的リアリティ」に分類されるわけですね、行の実感というのは。

やや横道ですが、薬師如来、薬王菩薩なんていう「薬」に関する仏菩薩は仏教にはありますね。法華経でもありますし、さらに良医の譬えもあります。たぶん、これは仏教集団のなかでは日常的に薬物…、まあ薬草その他であったでしょうが、使用されていたことを物語っていると思います。また、例えば歌というのも当然、精神作用はありますでしょうね。

ここら辺を整理しないと、仏教は社会的認知を受けようもないという思いが実は私にはあるわけです。悩みますね。

145sat:2002/12/27(金) 17:07

犀角独歩さん:

こちらこそ有難うございます。
本掲示板は「気づき」の世界でもありますね。

146今里祐二:2002/12/27(金) 17:33
独歩さんへ、レスありがとうございました。

>>「輪廻転生」…「無我」

>考えるのをやめるには勿体ないテーマです。

考えを止めた、というよりも、
理解できなくても、そのことを不安に感じることが無くなった、といった感じです。

例えが適当かどうか判りませんが、光には「粒」という性質と「波」という性質があることが広く知られています。しかし、「粒」という性質と「波」という性質は物理的にはまったく異質の事態です。
そして、光が「粒」として観測されるか「波」として観測されるかは観測者(観測方法)に依存しています。何故そうなるのかは解明されていません。

僕は「輪廻転生」と「無我」もこのような関係ではないかと考えています。

>懐かしい名前ですね。石田さんの『現代諸学と仏法』、5回は読み直しました。

5回はすごいですね。僕は通読は3回ぐらいです。
福島さんから「『現代諸学と仏法』、読んで理解できたかい?」と聞かれて、
「うーん、半分ぐらいは解りました」と答えたら、
「半分も解るとはすごいなぁ」とひやかされました。……今となっては懐かしい思い出です。

>内外相対で畢え、残りは宿題でしたね。

僕は残りの宿題はすべて大聖人様にお任せして、ちゃっかり答えだけ教えてもらうという方法をとりました。
『蒼蝿驥尾に附して万里を渡る』ってやつです。楽でいいですよ(笑)

>お会いできることがあるかも知れません。その時はまた、ゆっくり語らいましょう。

よろしくお願いします。
それと、僕はこれからお正月モードに入るのでしばらくカキコできません。
それでは、よいお年をお迎え下さい。

147犀角独歩:2002/12/27(金) 17:35

satさん:

「気づき」ですか。善い言葉ですね。

前にみかんさんが「信・疑、信・不信が対になったことばではありません」と書かれていましたが、もっともなことであると思うわけです。たしかに天台已来の系譜で信疑は対句に見えますが、これは因果的関係であって対句ではありません。

よく私は言うのですが、自然科学などで疑があった場合、その解から得るものは「知」ですね。これは「覚」と言ってもよい気がします。現代的な言葉で探せば、satさんが書かれた「気づき」かもしれません。ここに信の介在する余地は元来ないのであろうと思ってきました。そう、みかんさんの言葉をまた引けば「のどが渇いたら水を飲む」というような至極当たり前の認識として現前するのでしょう。ただ、そのことに気づけるかどうかですね。

そういえばたしか、いちりんさんが「気づき」で初期経典を説明してくれていたと思いました。その延長にあるこの掲示板も、仰るような気づきの場となれば、たいへんに意義深いものになると思います。

148犀角独歩:2002/12/27(金) 17:42

今里祐二さん:

> それでは、よいお年をお迎え下さい

有り難うございます。
今里さんもよいお年をお迎えください。

149モモ:2002/12/28(土) 05:45
五月雨さん

あれ以来投稿されなくなってしまったようです。相当こたえたことが拝察されます。
私もずいぶんときつい言い方をしてしまって申し訳ありませんでした。
しかし富士桜さんについて五月雨さんが仰るような方ではないことは115のレスをみれば明らかです。
他の方は五月雨さんに物を申すのを遠慮されているようです。批判する人は批判される結果になるゆえ、自分が泥をかぶるのもどうかと思ったのですが、これ以上マナー違反の投稿がエスカレートするようであれば誰かが指摘しなければなりません。
どうか気になさらなず、これからも投稿されてください。よろしくおねがいいたしします。
それでは良いお年をお迎え下さい。

150五月雨:2002/12/28(土) 09:01
モモさん

私が何に相当こたえなければなりませんか?
モモさんのレスを私は微笑ましく読ませて頂いております。私が富士桜さんに宛てたレスに、モモさんの必死の抗弁は私の書いたことが、余程モモさんの気持ちに突き刺さったのかと思っておりました。

>他の方には申し訳ありませんが、ご意見無用にお願いしたいと思います。

独歩さんがこう書かれていますので、私は意見を控えていただけです。
マナー違反の投稿をした記憶もありませんから、これからも投稿させて頂きます。
心優しいご心配を有り難うございました。モモさんも良いお年をお迎えください。
でもその前に、独歩さんにお返事を書く宿題が残っていますね、私も楽しみにしております。頑張って書いて下さい。

151犀角独歩:2002/12/28(土) 09:52

モモさんのマナー違反の指摘というのは偏っているのだよな。
要するに同信の人についてのことは厳しく指摘するのに、“だった人”へのマナー違反には無頓着。

本人は書くのも面倒でしょうから、「だった」私が代わりに書きます……と書いて投稿しようと思ったら、先に書かれていました。まあ、いいか、このまま、投稿します。

五月雨さんに「相当こたえたことが拝察」なんて書いていますが、これは外れです。「自分の子供ぐらいの年齢の青年の言うことだから、まあ、言わせておいて上げましょう」、その程度です。関西弁だと「アホくさ」とでも言うのかな。

富士桜さんを非難していると誤解されては心外なのですが、「3年」じゃ、何もわかりませんよ。わからないと言えるのは3年目の記憶が年食った我々にはあるからです。20年、30年…私は40年いたわけですが…と信仰組織で生きてきた人間からみれば、3年と聞いて、「まだまだ」「甘いな」というのは、むしろ実感のこもった発言であると、私は思います。繰り返しますが、富士桜さんを批判しているのではなく、信仰世界のあくまで一般論です。

「まあ、20年もすれば、あなた方にもわかるかもしれない。しかし、若いあなた方が考える、そんなもんじゃないんだよ」というのは先に生きてきた人間の実感なんですよ。そして、無駄にした時間を、同じように若い人たちに無駄にさせたくないと言う親心は、いつの時代も子供には伝わらないわけです。

「五月雨さんに物を申すのは遠慮」しているのではなくて、そんな大人の分別発言を至極当然のこととしてとらえて、自分も若いときはそうだったなと懐古の一時を過ごしているのですよ。わからないかもしれませんね、若い人には。おまけに信仰上で「である人」は「だった人」には懐疑的になるように組織的に訓練されていますからね。なおさら伝わらないのでしょうね。

「マナー違反にもの申す正しい行い」みたいな自己像を感じるけれど、まるで見当違いをしているんだよな、モモさんは。

私は感情的なマナー違反というのもそれはあると思う。けれど、問われたことに答えもしない在り方こそ、意見を交わす掲示板ではマナー違反であると思うわけだ、そんな意味ではモモさんは実にマナー違反なのだけれど、…あさんとのやりとりなんか特にそうでしたね、もちろん、私の問いかけにも感情的な指摘はあっても答えは少ない…、そんな自分のことは見えないものだよね。

まあ、「だった」側の言葉はスポイルしてしまうだろうけれど、書かないとね。
また、批判だ、失礼だと言われてはかなわないのだけれどもね。伝わらなければ、そんな言葉が返ってくるのでしょう。

152アネモネ:2002/12/28(土) 11:45
モモさん

横から口出しして申し訳ないですが、

>他の方は五月雨さんに物を申すのを遠慮されているようです。批判する人は批判される結果になるゆえ、自分が泥をかぶるのもどうかと思ったのですが、これ以上マナー違反の投稿がエスカレートするようであれば誰かが指摘しなければなりません。

ここのところの五月雨さんに対する、モモさんのレス、>98と>100からよーく読んでみると、なにか、自分の個人的感情を、ロム者の代弁という形で意見されているようですね。どのくらいの数のロム者がいるのかわかりませんが、自分の思いが、ロム者全体の思いと同じであるなんてことあるんでしょうか。それこそ、多くのロム者ひとりひとりの心の内のなにがわかる…といったところではないかと感じます。私なんかも、ロム者のひとりでしたが、モモさんが感じる憤りのようなものは覚えなかったです。

よく、この掲示板でカルトにおける組織の代弁ということが聞かれてきましたが、個人的感想を、集団の言葉の代弁として大きくとらえて発言するモモさんの心理、どこか共通しているのかもしれませんね。
個人的感想は、個人的感想として述べたほうがいいのではないかと、これは私の個人的感想です。

それと、モモさんのいうマナー違反とは、どういうことなのかも、わかりにくいですね。本来、応酬禁止のスレッドですから、私も含めて、ルールを超えたレスをしてしまっているのは確かでしょう。しかし、管理人さんの懐の深さもあって、とりあえずレスは続けられてきました。誰が何を意見するかは基本的には自由ですし、その意見に対して、また誰が何を発言するのかも基本的には自由でしょう。
だけど、モモさんの「失礼、マナー違反」は、何か相手の発言を遮ろうとしている心理が働いてないでしょうか。全くこれは私の個人的印象ですが、解決した話ながら、「信じていない人の言葉」と言ってしまうのと同じ心理的発言ではないかとさえ感じます。
理論の摩り替えと、言論封鎖みたいなものを感じますね。
自分に向けられたレスではないにも関わらず、「失礼、マナー違反」と非常に感情的になってしまう今の心の状態が何に因るものなのか。それを自分自身でみつめてみることが、今のモモさんにとって大事なことではないかと、余計なことながら、私の意見です。

153モモ:2002/12/28(土) 12:16
五月雨さん、犀角独歩さん

レス拝見しました。ああ、そうなんですか、的外れですか、というのが感想です。自分も言いすぎたのではと心配していたのです。
信仰歴はやはり長くなければ分からないものなのでしょうか。私は信仰は子供の時からしているのでほぼ「年齢=信仰歴」となります。私の場合はもう少し世間を知るべきなのだと思います。
私は正宗信者ですが別に吹き込まれた理想像に燃えているわけではありません。御戒壇様には少なくとも何らかの力があると思うし、かといって今の大石寺の状況はいろいろほころびがある、というのも理解しております。

また、そうしたら代々法華も一代法華に対して同じような構図が成り立つと思いますが。彼らは「一代じゃ信仰は分からない」とでも思っていることでしょう。

>私は感情的なマナー違反というのもそれはあると思う。けれど、問われたことに答えもしない在り方こそ、意見を交わす掲示板ではマナー違反であると思うわけだ、そんな意味ではモモさんは実にマナー違反なのだけれど、…あさんとのやりとりなんか特にそうでしたね、もちろん、私の問いかけにも感情的な指摘はあっても答えは少ない…、そんな自分のことは見えないものだよね。

今後気をつけます。

154モモ:2002/12/28(土) 12:29
犀角独歩さん

126のレス拝見しました。二元論と二極論を混同していた感があると思います。

>更に言えば、私はモモさん「信じない人の理論」という一節を読んで直ちに想起したのは、石山教学、日蓮教学でも、仏教でもなく、キリスト教です。「唯一絶対・全知全能の神を信じなさない」「信じる者は救われる」、そして、この神は証明することができない故に正しいというキリスト教の神学系譜です。

キリスト教、というより、理系的な考えの下でそういう事を考えたまでのことです。信じない立場の論理と信じる立場の論理ではお互いかみ合わないのでは、というようなことを考えていたということです。

155モモ:2002/12/28(土) 12:46
アネモネさん

レス拝見しました。ご指摘の点は考えてみます。しかし、先にも申し上げましたが一般論としていうのならともかく、ある意見に対して信仰歴を云々するような表現は拝見していて不快感を感じたまでです。
信仰歴とは相対的なのだから、たとえば「信仰歴○○年のお前に何がわかる」なんて頭から言われたら、誰でも反発したくなると思います。独歩さんの26のレスとも通じるところがあると思うのです。

156アネモネ:2002/12/28(土) 13:18
モモさん

私の推測ですが、五月雨さんや独歩さんは、信心歴(信仰歴)として書いていますが、それは実際のところ「カルト歴」として読めばいいのではないかと思うのです。
つまり三年やそこらでは、石山組織のカルト性はなかなか見抜けるものではないと。
だけど、何十年もどっぷりつかってから気がついたのでは、遅すぎるわけですね。組織を離れることは出来ても精神の脱カルトには、信仰歴の年数だけかかるといわれ、結局人生を棒に振ることになってしまうということを、身をもって体験している者として訴えたかったのではないかと、私には読めました。
そのことを五月雨さんは日頃、痛切に感じているだけに、思わず意見されたのだろうと思います。(五月雨さん、違っていたらごめんなさい)
だけどこのような公の場では、安易に「カルト歴」とは書けない状況もあるわけです。日蓮正宗が「カルト」か否かを断定するような書き方は、慎重でなければならないわけですね。モモさんにとっても、日蓮正宗がカルトだと決め付けられることはまだ抵抗があることと思います。だけど、お寺の中での人間関係などをよく観察していくならば、その傾向性は否めないこと、モモさんも体験してこられたのではないかと思います。
ですから、そこを察して五月雨さんのレスを読めば、「カルト歴20年」の長さは、奢りの言葉などではなく「カルト歴3年」を「甘い」と言うのは、本当の忠告というるものかと思いますよ。語気の強さは、軽蔑などではなくて、訴えたい思いの強さですね。それだけ若い石山信徒のみんなのことを、心配しているのです。

157アネモネ:2002/12/28(土) 13:39
訂正です

誤→精神の脱カルトには、信仰歴の年数だけかかるといわれ、
正→精神の脱カルトには、カルト歴の年数だけかかるといわれ、

信仰歴という言葉、すぐ出てしまいますね。組織歴と置き換えてもいいかもしれません。
「信」は一生のことかもしれないですね。組織を離れても、「信」を追い求めているのが、組織を離れた「だった人」の多くの心の内でしょうか。

158犀角独歩:2002/12/28(土) 13:53

モモさん:

> 信仰歴はやはり長くなければ分からないものなのでしょうか

長くしないとわからないことはたくさんあります。
しかし、善い悪いで言えば、しないほうがよいこともたくさんあるでしょうね。

> キリスト教、というより、理系的な考えの下でそういう事を考えた

なるほど。けれど、理系であれば絶対信などというものが介在しないことは、解されるでしょうね。疑→解→知・覚のあとに、まあ置けば信がある程度です。

アネモネさん:

> 独歩…信心歴(信仰歴)…「カルト歴」として読めばいいのではないか

さすが、賢察ですね。私についてでは、そのとおりです。
まあ、平ったく言えば、自分がやっていたことが信仰ではなく、信仰をしようとする善意を利用されていただけと気付くのにはそれなりに人生を経験し、勉強もし、客観眼もつけないとわかるはずはないという意味でした。

159五月雨:2002/12/28(土) 14:17

アネモネさんも独歩さんも私の気持ちをよく分かってて下さる、見透かされているようです。
独歩さんにはついに関西人の思考までご理解頂いているようで、嬉しく思います。「アホくさ」思っておりました(笑)

>そのことを五月雨さんは日頃、痛切に感じているだけに、思わず意見されたのだろうと思います。(五月雨さん、違っていたらごめんなさい)

いえ、アネモネさん、合っています。私は正直に申し上げて脱カルトの最中です。自分が居た組織がカルトだったとは自分でも信じたくないのですが、カルトの定義にこれほど当て嵌まってしまったら、認めたくなくても認めざるを得ませんでした。これが私の脱カルトの始まりでした。学会で石山で信じてきたことは何だったんだろうかと、真実を探しました。その真実は受け入れ難く、自分が信じてきたものが崩れていく様にどれほど泣いたか分かりません。21年の長きに亘って自分の人生だった信心が日蓮聖人の教えと何ら関わりのない、虚偽だったことには後悔にさい悩まされましたが、もう過ぎ去った時間は取り返し様がありません。
だから、今まさに人生を無駄にしようとする人には老婆心ながら、ついご忠告申し上げたくなるのです。
忠言は耳に逆らうと言いますから、聞いて下さらない方もいます、でもそれも仕方のないことです。一度経験して痛みを味合わないと分からないのも人間ですから。
独歩さんの言われるように「それなりに人生を経験し、勉強もし、客観眼もつけないとわかるはずはない」のでしょう。


>レス拝見しました。ああ、そうなんですか、的外れですか、というのが感想です。自分も言いすぎたのではと心配していたのです。

モモさん、少し拗ねているようなカワイイお返事をありがとう。また、ご意見して下さいね。

162トゴシ:2002/12/29(日) 19:07
モモさん、がんばれよなあ

163モモ:2002/12/30(月) 06:16
レス拝見しました。そういうことなら理解はできます。忠告は忠告として心に留めておきたいと思います。
しかし、内心の自由ということをいうならば、必要以上の表現はどうかと思います。誤解されても仕方ありません。
私も発した言葉を曲解され、攻撃モードになったことがあります。

あと前から思っていたのですが「石山」とは蔑称であり、差別表現であることを指摘しておきます。
大石寺を厳しく批判する意味からその方が都合がよいのだろうと思って何も言わないでおきましたが。

164モモ:2002/12/30(月) 06:18
皆様、本年いろいろお世話になり、まことにありがとうございました。
どうか良いお年をお迎え頂きたい存じます。

165犀角独歩:2002/12/30(月) 08:00

モモさん:

> 「石山」とは蔑称であり、差別表現であることを指摘しておきます。

「石山」という表現は“大石寺59世堀日亨上人”が『富士宗学要集』のなかでも使用している言葉です。蔑称でも、差別用語でもありません。テキスト・データ版富士宗学要集で検索したところ、亨師の言として“51ヒット”ありました。「石山」が蔑称であり、差別表現であるとすれば、亨師こそ、大石寺を「石山」と蔑称し、差別表現をした張本人となりますが、如何でしょうか。

それとも亨師は大石寺を蔑如、差別、批判した人であったというのがモモさんの主張なのでしょうか。

もし、そうでないのであれば、調べもせず、是の如き、莠言を吐くことは批判されなければならないでしょう。

> 大石寺を厳しく批判する意味からその方が都合がよいのだろうと思って何も言わないでおきましたが

ということは、モモさんが大石寺を批判、蔑称、差別するのに、都合好い以上の意味はなく、他の使用者とは無関係です。

誤解がないように言っておきますが、私自身、大石寺を石山と記し、多くの指摘をしてきましたが、それは蔑如するためで、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません。単に知れる厳正な事実を列挙した作業に過ぎません。

166管理者:2002/12/30(月) 09:18

160と161に、禁止事項に該当するレスがありましたので、削除しました。掲示板のルールをお読みいただき、レス戴きたいと存じます。

167問答迷人:2002/12/30(月) 09:27

116091ゲットしました。

168犀角独歩:2002/12/30(月) 10:25

【165の訂正】

誤)それは蔑如するためで、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません
正)それは蔑如するためでも、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません

169犀角独歩:2002/12/30(月) 11:20

たしか三学無縁さんも指摘されていましたが、石山系というのは言葉に敏感すぎると思えるわけです。それはもっと言えば、呼称の仕方に既に敬意、あるいは蔑如まで意味が決められているという、世間ではあり得ない、特殊性があることを、理解しないとならないといことです。

たとえば、日蓮を「日蓮大聖人」と言わないだけで、もう軽蔑的に見ていると考えます。これが「日蓮聖人」でも「日蓮上人」でもだめで、まして、「日蓮」と尊称を省くことはとんでもないと考えるようです。私自身、このような傾向があったのですが、この言語の操作性に気づき、呼称の幅を広げた経験があります。

元来、興目両師…現石山信徒であれば、この書き方も蔑称と考えるかも知れません、日興上人・日目上人と書くべきであると…は「日蓮聖人」と申状その他に記述していたわけですから、興目の流れを自負すれば、この呼称が妥当と言うことになるでしょう。たしかに既に道師『御伝土代』に「日蓮大聖人」の記述は見られ、また寛師は大人・聖人の両義を含めて「大聖人」の呼称を置いています。以降、石山では「大聖人」が決定したかと思われるかも知れませんが、これはやや違います。例えば明治44年、石山正師の時代、監を亨師に採ったという熊田葦城師発刊の書名は『日蓮上人』です。ここには戒壇之漫荼羅の写真も掲載されていました。では上人と記した熊田師は日蓮を他山並みに拝していたかというと、そうではなく、石山に帰伏した人であったわけです。これは一例です。

同じように、私は他派・異論に対するとき、自分の尊敬する日蓮を「日蓮」と一般的に記します。元より、その無謬性を信仰するわけではありませんから、学的・科学的分析に抵触する場合は、この一般の呼称がふさわしいと個人的には考えるからです。しかし、それは日蓮を軽蔑してでも、侮辱してでもありません。一つの事象を客観的に考えようとするとき、その基本に尊敬、本仏、その他の固定概念を含む尊称を付してしまうと、それだけで、客観性を失い、厳正を期せない故の配慮です。また、歴史的位置では、蓮祖と記すことが妥当であると思います。信仰その他の情動的に表現したければ、聖人とも記し、それぞれ使い分けています。けれど、通じて、蔑如するような動機は微塵もありません。けれど、「日蓮大聖人」と呼ぶことが信仰に含まれると思う人々は過敏に反応するのかも知れません。

なお、無徳さんの如く、「日蓮御房」との呼称は鎌倉時代当時の僧侶を呼ぶ一般的な尊称であって、言語の起源を日蓮に求めるのであれば、僧侶全般は、日蓮も含めて充てるのに、この「御房」は至当であろうかと思います。

以上、記したことで重要な点は日蓮を日蓮大聖人と呼ぶ人は「信心のある正しい人」で、呼び捨て…実際は単なる客観的記述なのですが…にしたり、「聖人」「上人」「御房」と呼ぶ人は「信仰心のない間違った人」という固定観念で推し量ると、結局、私の書き込みのみならず、世の学術的文章、歴史文章もすべて読み違えることになるという点です。

いずれにしても呼称に尊敬・軽蔑などの感情を含めるのは学会を含む石山系信徒の際だった特徴に過ぎず、その固定観念で発言と発言者を見るとすべてを読み違えることになるということを、過去の自分の反省を含めて、記しておきたいと思います。

呼称そのものが蔑称、差別表現、批判を含むとは限らない、含むと考えるのは単なる信仰上の固定観念に過ぎないと言うことを記しました。

170犀角独歩:2002/12/30(月) 13:40

富要等に見られる略記

石山 → 大日蓮華山富士大石寺
北山 → 富士山本門寺
西山 → 富士山本門寺
要山 → 富士山要法寺
房州 → 中谷山妙本寺
小泉 → 富士山久遠寺

延山 → 身延山久遠寺
中山 → 正中山法華経寺

などが見られます。
上述でわかるとおり、興門流では富士を山号に採るところが5カ所もあり、さらに富士山本門寺と記述しただけでは北山、西山の区別はできず、久遠寺と記しただけでは小泉と身延の区別が付かないのです。

以上のような事情から石山その他の略記は、何の感情的な動機もなく使用され、今に至っています。

いったい、何を根拠に「石山」が蔑称、差別表現などといわれるのか、皆目、見当が付きません。

モモさん、根拠を示してください。

171ワラシナ:2002/12/30(月) 16:07
no151 犀角独歩さん発言の下記部分に触発された呟き。

ー「おまけに信仰上で「である人」は「だった人」には懐疑的になるように組織的に訓練されていますからね。なおさら伝わらないのでしょうね。ー

0、特に、、「である人」は「だった人」には懐疑的になるように、、という部分の表現の適確さに感心した。学会顕正会を通して、教団権力維持のため奴隷的青年部だけを意図的に組織現役者に選別していたように思う。顕正会に入った時が、初めて本当の自覚的入信動機を持った時だったが、それ以前10代後半から20代前半までは知識と教養がまるで欠けていたから、他の教団員の組織体験談の微妙な部分の意義が、当時は分からなかった。が話は確実に記憶にとどめていた。

1、具体的に言えば、会内の権力が戸田路線から池田路線に変節した事に反発していた人々の話の意義がわからなかったのである。もし当時これがわかっていて、自分らしい生き方ができていたら、色々な意味で自分の可能性、才能開花に役立つような未知な人々との善い出会いが早くやってきて、もっと中年期の現在を輝かせていた筈だという後悔になっているのである。

2、そこでなぜ、あの時そういう知恵が湧かなかったのか、今となって色々反省するのであった。その理由として、三つ考えた。

2−1、言わば青年初期の心理として、これから未来に向かっていこうとする時の生き方にある、一種の本能指向性の欠点面というか「大きく賑やかでエネルギーとパワーを感じさせるような集団に身を寄せれるのが暗黙のベスト選択とする」という生き方の持つ危険性に無知だった事、と思うのである。誰も「しょぼくれた寂しそうな世界」に飛び込んでいこうとはしなかろう。そう思って自分は、学会の中でははやりそうで元気そうで、自分の可能性が開かれそうな世界と人を選んで接触を求めていったのだけれど、内部反体制派を心の中では軽視していたのであった。(彼らの話の真実を知ろうともせずに、、これが、今となっては大失敗)理由は、といえば、恥ずかしい話、簡単に言えば、自分が組織奴隷青年部だったから、に尽きる。「である人」は「だった人」には懐疑的になるように、、という文言を胸に突き刺さるように感じてしまった背景には以上の前提が働いているのである。

2−2、上のように愚かで浅はかな判断しかできなかった事の理由として大きいのは、文芸的な教養の欠如だったと思う。あの当時もっと長編小説や詩歌や推理小説など読書のつみかさねがあったなら、もっと「臆病で?マイナーな生き方のもつ積極的価値」に気づけただろうと後悔している。

2−3、自分には孤独僻があって友人を積極的に増やそうとしなかった事。先輩の忠告助言の意図真意がその当時は全く理解できていなかった事。その理解できていなかった事をその場で問いたださず聞き流してしまっていた事。ただ、先輩の話の方にも自分の失敗談を入れるなり表現技術上の一工夫が必要だったとは、思うのだが、これは5年年上の学生部だと同じ青年同士になってしまって、人生全体が駄目になる本格的失敗談は体験していないので、これは初老期の先輩との交流不足の必要を物語っていると思うのである。


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