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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

322今里祐二:2003/01/16(木) 03:28
>>319 訂正

誤) 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
正) 仏身を離れて南無妙法蓮華経はありません。

323犀角独歩:2003/01/16(木) 09:45

祐二さん:

これだけ、衆目に恥を晒す人も珍しい。
「僕は日寛教学を一歩進めた」とは、それはよほど。寛師の文献を精査、読了されたのでしょうか。誇大妄想という言葉以外、思いつきません。

(a)久遠元初とは何ですか。

> 釈尊の本因の時

日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。

(b)自受用報身如来とは何ですか

> 日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事

日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか

『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

これは要山の相伝です。
日蓮の御書と相伝の区別も付かないようですね。
また、ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。勘違いしているのでしょうか。

(d)日蓮が本仏と何故言えますか

> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。

日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。
日蓮の言を聞いているのです。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか

> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。

なぜ、差し支えないのですか。

> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。

> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。

仏身とは何ですか。


(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。

> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。

受け取れません。
寛師教学どころか、あなたの述べていることは異問異答の鰻理論、いわゆる外道の論議としか映りません。

だいたい、また、訳のわからないことを言って煙に巻いています。
では、あなたは日蓮が釈迦であると考えているわけですか。
そうではないのであれば、その「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。

324犀角独歩:2003/01/16(木) 09:46

―323からつづく―

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

> (f)の答えと同じです。

「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。


(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか

> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。


(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。

>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。

これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。

> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。

これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。


(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

> これに対する答えは(e)の答えと同じです。

答えになっていません。

> 以上、お答えしました。

私は日蓮の言で、と言ったのです。
それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。

>> 本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。
> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?

まず、日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。
また、私がいつ全否定しましたか。また、勝手に想像・憶測で、恰も私が言ったように記して罠を仕掛けるのはやめてください。

> 相伝

では、日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。

> 「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。

道理を表にすることを私は否定するわけではありません。
では聞きますが、700年も前の日蓮の事跡、文字(文証)で書かれたこと以外で、いったい、何で知ることができるのですか。言うところの道理は、文証を基礎にしない限り、知ることも考えることもできないはずです。だから、文証が重要なのでしょう。それとも、あなたは文証を離れて、日蓮の事跡を知り、ただちに道理によれると言うわけです。まさか夢や幻想に基づいているわけではないでしょう。

故に、引用される『女人往生抄』、また天台釈は、まず文証の正しい選定を基礎にして道理を考えるものであるはずです。しかし、あなたは文証は答えられない、けれど、道理だという。ここでいう「道理」は文証によらないわけですから、単にあなたの想像憶測で、そうあって欲しいという願望の賜物に過ぎません。そんなものは道理とは言いません。

以上、11の質問に就き、相も変わらず、聖人の言を引いていません。
道理という単語に名を借りたあなたの考えを書き連ねたばかりです。

もはや、これ以上、繰り返しても同じことでしょう。
要は、あなたの日蓮本仏という考えは、日蓮の言に依れない、夢想・想像の願望を「道理」という言葉でカモフラージュして肯定したものであると、私は考えるざるを得ない。なぜならば、日蓮の言に拠っていないので、日蓮の教えに従っているとは言えないからです

325みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/16(木) 09:49
>今里さん
一仏一土、仏の三身(法身・報身・応化身)、本地垂迹、久遠実成、本仏・迹仏、これらの概念は了解されているでしょうか。

「久遠」「元初」「自受用」「報身」「如来」。それぞれを理解されているでしょうか。

伝統的な天台法華宗の教理、そして伝統的な日蓮法華宗の教理を理解しないと、それの大胆な読替としての日寛の日蓮本仏説は了解がつかないと思いますよ。


あと、だれかが仏であることを証明できるのは、仏だけです。
他人が開悟したかどうかは、開悟した人にしかわからないからです。
それ故、禅門では、印可は師家しか与えられないのです。

326犀角独歩:2003/01/16(木) 10:02

祐二さん:

> 320

なんですか、これは?
また、「簡単な罠」という奴ですか(爆)

先にも、あなたが「日蓮を変なおじさんと言った」ときにも記したことです。

私は自分の言っていることに対しては責任は負いますので、自分の発言に就き質問されるのはわかりますが、自分が言ったことでないことを、“恰も私が言ったことのように”仕掛けて質問される“罠”には答えかねます。質問するのであれば、私が言っていることに就き質問してください。

320質問の構成は、実に誘導尋問の性格を帯びています。
的確な、私の過去の発言に基づくものに変えてください。
先に「罠を仕掛けた」と公言して憚らないあなたです。
ここは、私も用心してかからせていただきます。

しかし、それにしても、(2)の質問を読んで思ったのですが、先には「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」と記していましたが、今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。

327今里祐二:2003/01/16(木) 12:58
>今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。

不正な事の代表事例として挙げているのです。

独歩さんのお考えは以下のようなものですね。
>>42
>戒壇之漫荼羅は疑わしいと言われれば、真筆である証拠を示せばよいのです。
>唯授一人は疑わしと言われれば、事実である証拠を示せばよいのです。
>真偽未決・相伝書が日蓮の教えでない言われば、その証拠を示せばよいのです。
>法華経は後世の創作であると言われれば、釈尊の真説である証拠を示せばよいのです。

>>306 で、初めて質問した時の反応はこうでした。

>仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。

独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。

再度質問します。

1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。

2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。

<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。

<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。

以上です。お答え下さい。

328犀角独歩:2003/01/16(木) 14:42

祐二さん:

>> 仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。
> 独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。

何の証拠をですか。
言いがかりはやめてもらいたいですね。
あなたは仏徒ではないと言ったまでです。

そして、あなたが言う「道理」は、日蓮の言を挙げない自分自身の考えに基づくものであるわけです。そして、さらにそれは寛師よりも優れたものであるそうですね。たしか、日寛教学全面肯定であったはずが、いつの間にか自分の考えのほうが優れている変わってしまいました。これから、どんなふうに変わるんでしょうかね。

再度の質問とのことですが、あなた、日本語がわかりませんか。
私に対する質問の形に変えてくださいといったのです。

329犀角独歩:2003/01/16(木) 14:43

質問を変える理由については、既に326に記したとおりです。

330無徳:2003/01/16(木) 15:23
satさん今日は:

>三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念で
>すが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えに
>くいものと思われます

>言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さ
>ないという事は、表裏一体なのだと思います。

とのことその通りでしょうね、私も決して創価学会も総本山側も歴史的
総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。
ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。

>私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも
>思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換
>済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか

とのこと、おそらく創価学会内部におられる方々はsatさんとほぼ同様
な感じを抱いているであろうことは想像されます。何故かならば現在の
鵺的な日本社会においては、独裁的権力があからさまな形で現前する事
は有り得ないと思われるからです。(国家権力そのものが鵺的)その為に
何処をどう攻めたら変革が可能になるのかさえ判りません。

したがって、権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず結果と
して官僚化し制度として自己正当化を図ってしまうという最悪の状況と
言えます。このことは現在の日本の若者達が自らのレゾンデートルを得
られない為に、そのエネルギーの捌け口が見つからないところから来る
フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れま
せん。

>しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもっ
>てバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示
>板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のような
>ものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。

本当にそうですよね!問答名人さんが別のスレッドでこの掲示板の存在
そのものが富士門流の再構築に繋がっているとの趣旨の発言をされてい
ましたが同感です。更にこの掲示板の在り方そのものが現代的サンガの
萌芽であると私も感じています。大いなる期待を込めて私も参加させて
いただいております。

331犀角独歩:2003/01/16(木) 21:27

なぜ、私は今里さんの質問に答えないかを、ちょっと補足しておきます。

すぐ前で言えば、327において、今里さんは私に対して、

> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか

と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。

この(1)の質問は、実は私の言葉ではなくて、質問者今里さん本人が言った言葉なのです。すなわち、306に

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない

このように私に問いかけているわけです。私はこれに対して、315において

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…

「これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう」

と応じています。ところがこの今里さん自身が言い出した言葉は、恰も私が言った言葉の如くに扱い、320において、私への質問と姿を変えます。そして、その質問はまた327において繰り返されています。それが(1)の質問です。

自分の言った言葉の意味を相手に問うという、この異常な在り方に、私は何度となく、「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と記してきたのにも拘わらず、自分が言った言葉の意味を私に問うという通常ではあり得ない質問を投げかけたわけです。

自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。なぜ、あなたが言った言葉について、私が答えなければいけないのですか。

あなたのこのような狡猾な罠を仕掛けては、自分に有利なように議論を運ぼうとする。先には日蓮を「変なおじさん」と言い、恰も私がそのように考え言っている如き印象をロムの人々に与えようとするあくどい手段も取っています。私はこのような不正直な態度は日蓮本仏を真面目に考える人々に対する裏切り行為であると指摘しておきます。

そして、自分が言った言葉を恰も私の言葉のように繕いながら、自分の言葉である「釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠」を「今里祐二は末法の本仏」・「池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録」とどこが違うのかという質問を投げかけています。ここで実に不誠実であるのは「今里祐二は末法の本仏」という自分の言葉に就き、327において「不正な事の代表事例として挙げている」と言っている点です。つまり、この質問はどのように答えても、答えた相手は不正な事を弁明したように仕組まれていることがわかります。

このスレッドは213に管理人自ら「当掲示板のルールに則って正々堂々と論線を張られることを要望」と仰っている。私も、今里さんとの議論が始まったのち、296において、「正々堂々と論じ合いましょう」と私は呼びかけた。それにも関わらず、あなたは実に卑劣な罠を仕掛けてきた。。

自分で言った事を恰も私が言ったようにして質問し、その誘導は間違いなく不正な弁明とレッテルが貼れるように仕組まれた狡猾な質問。私は、この在り方を公然と批判するものです。あなたの態度は日蓮本仏論者の面汚しです。

332今里祐二:2003/01/17(金) 12:14
独歩さんへ

>自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。

なるほど。
ところが僕は、>>232 において、ほぼ、この質問に対する答えと呼んで差し支えない発言をしています。
この考え方に立てば、誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます。

この>>232 の発言に対し、独歩さんは>>237-238 のような反応をされ、僕の発言を否定しています。
誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せる考え方・信心のあり方を、
独歩さんは否定されているのだから、独歩さんには「対案」を示す義務があると思うのです。

>あなたは仏徒ではないと言ったまでです。

僕の事を「仏徒ではない」と断言できる独歩さんは、さぞかしご立派な「仏徒」なのでしょう。
釈尊の名誉を守るためにも

>> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか

>と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。

などと逃げ回らずに、質問に答えていただけませんか?

333sat:2003/01/17(金) 14:07

>>330 無徳さん:

いつもご示唆ありがとうございます。

>私も決して創価学会も総本山側も歴史的総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。

お気持ち大変よくわかるような気がします。「歴史的総括」を為さないならば再構築を目指す人々の手によって明らかにしていくしかありませんね。正本堂問題のみならず・・だと思います。学会は一貫して唯一無二の反戦平和団体だと標榜し、その根拠を「三代会長の収監」に依拠し歴史付けています。しかし、往事、総体において学会が戦争賛美していたことは紛れもない事実ですし、宗教弾圧などと言うならば、大本教の第二次弾圧でも同じく治安維持法と不敬罪が摘要され、信徒3000余人の検挙、拷問などで16人を死に至らしめ、活動拠点はことごとく破壊されたとされているのですから、学会の比ではありません。

戦後、いずれの新興宗教も多かれ少なかれ権力構造の下支えとして機能しているかと思いますが、そういった欺瞞性もより明らかにされ、歴史の審判を待つべきだろうと思います。本掲示板では教義に関して、様々な視点から史実考証が為されていますが、戦中戦後の新興宗教の史実考証もきっちりとしておいた方がいいかもしれませんね。集団は凝固したものではなく、誕生し、発達し、持続し、分解する・・つまり、集団はそれ自体の歴史を持っているのですから。

>権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず・・フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れません。

フラストレーションが持続して緊張が高まると、攻撃的な行動をとることによって緊張を一時的に解消する場面がよくあります。学会においても、被害者意識がそのまま加害者意識になっていると思える光景は日常良く目にします。集合的場面に特有の、ある種の内部圧力から直接生じているこれらの行動は、その圧力を強化し集団を結晶化を助けますし、同調傾向、逸脱に対する抵抗、部外者に対する攻撃につながっているかと思います。

学会は集団全体としての強い親和性を素地とした統合性に特徴がありますが、そこには、言語的コミュニケーションを超えた強固な連帯感が認められ、そうした統合性をもって機能し、下位集団としての指導者群と従属者群の地位が分化しているかと思います。また攻撃を通じて組織を強化し、再び全体として社会に反抗する構えをとっているかのようにも見えます。

問題は、その抵抗なり反社会的行動が、しばしば「みせかけ」に過ぎず、組織維持手段と組織目標としての欺瞞性を有していることであり、それは単なる位相として現れたものではないということでしょうか。

334犀角独歩:2003/01/17(金) 16:54

今里さん:

自分の言葉でないものに答える義務はありません。この点については331に記しました。
ちゃんと読みましたか。

逃げ回っているとかなんとか、人の書いたことを全然、読まないで勝手なことを言っていますね(爆)
そうやって煽れば、怒って、「簡単な罠」に引っかかけようと、まだやっているんですか。331に記したとおりです。

姑息な手段はやめなさい。なんだか観ていて恥ずかしくなります。
いま、ここであなたが記し続けていることは、日蓮本仏ではなくて、あなた自身の人格は如何なるものであるのかを暴露し続けているようなものですよ。

また、あなたは日蓮本仏を何一つ、証明することはできなかった。
この点については何も触れていないけれど、どうしたのでしょうか。
私が立てた(a)〜(j)に対して、あなたの答えになっていない言い訳に就き、323、324に再度、答えになっていない点を言い、質問をしています。あなたはそれに答えていない。解答はどうなっていますか。

こちらに自分の言葉で質問をかけて、自分にかかった火の粉を払うような真似はやめるべきでしょう。

ところで

> 232 において、ほぼ、この質問に対する答えと呼んで差し支えない発言をしています。この考え方に立てば、誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます。

あの寛師より一歩進んだとあなたが自画自賛するのはこのことですか。
これで、釈尊が覚者・仏であると根拠づけられると、どんなふうにして日蓮が本仏と言うことになるんですか。ちょっと、文章をもう一度、記しましょうか。

> お釈迦様の教えの正しさは大聖人様に依存している

この文を次の文章と整合性が取れていませんね。次のところで「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作…羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい…もしそうであったとしても」と法華経が釈尊の直説でないことを認めているのに、その直説でないものの正しさ?は日蓮に依存しているとは如何なる意味なのでしょうか。

> お釈迦様には、未来に大聖人様が出現されるという大確信

どんな証拠があるんですか。

> 法華経…お釈迦様…羅什三蔵…仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、大聖人様は身をもって教え示されたと思います。

ここでいう妙法蓮華教はまあ妙法蓮華経の打ち間違いでしょうが、それにしても、何を言っているんだかさっぱりわかりません。
だいたい、石山で使う真偽未決書では

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし」

と法華経を斥けて、ただ題目の五字七字であるというのに、あなたの場合はその題目を取らず、“実用上”羅什訳「妙法蓮華教」を取るそうですが、これまた御書とも、寛師とも違いますね。これも「日寛教学より一歩進んだ」、成仏しようぜ、今里教というヤツですか。

先にも記しましたが寛師教学は同体異名の相伝を以て釈尊=日蓮を説明します。
この点から、あなたは「日寛教学より一歩進んだ」と先に記しましたね。どんなふうに進んだんですか。自分の言葉なんですから、ちゃんと説明してもらえませんか。

しかし、今回のあなたの書き込みでは「釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます」というわけですから、まるで日蓮本仏なんか関係ないような口ぶりになってきましたね(笑)

335犀角独歩:2003/01/17(金) 17:19

今里さんへの323、324の未回答の質問

(a)久遠元初とは何ですか。
> 釈尊の本因の時
【問】日蓮の言と言っているのです。

(b)自受用報身如来とは何ですか
>日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事
【問】日蓮の言と言っているのです。

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
>『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)
【問】ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。

(d)日蓮が本仏と何故言えますか
> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。
【問】日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。日蓮の言を聞いているのです。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
【問】なぜ、差し支えないのですか。
> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
【問】では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。
> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
【問】仏身とは何ですか。

(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。
【問】「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
> (f)の答えと同じです。
【問】「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。

(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
【問】日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。

(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
(独歩)これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。
【問】↑反論がないということは認めわけですか

> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。
これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。
【問】↑反論がないということは認めわけですか

(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか
> これに対する答えは(e)の答えと同じです。
答えになっていません。
【問】答えてください。

> 以上、お答えしました。
【問】私は日蓮の言で、と言ったのです。それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。

> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
【問】日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。

> 相伝
【問】日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。

336ガンコ(冬眠中):2003/01/17(金) 19:09

将棋には千日手というのがあるそうです。
お互いに同じ手ばかりを三回だか四回くりかえすと、これはもういつまで経っても終わらないとみなされ、はじめからやりなおすのだそうです。

議論なんかでも確認のために同じことを繰り返し問うたり答えたりすることはあるでしょうけど、それが三回も四回も続くとねえ・・・
しかもつぶやきすれっどなんですよ、ここは。

管理人さん、なんとかしてちょうだい。

337犀角独歩:2003/01/17(金) 21:09

問われても、答えない専門のガンコさんならではの、いい提案しますね(笑)

今里さん風日蓮本仏主義は、

・日蓮の遺文には全然よらない
・文章は要らない。道理があればいい
・道理の基準は自分が決める
・自分の考えは寛師より一歩進んだものだ

議論の仕方は

・簡単な罠を仕掛けて相手を引っかける
・自分が言ったことを相手のせいにする

という特徴によっていると私には見えます。

有師とも、寛師とも、福重師とも、もちろん、応師とも違い、さらには現石山教学とも違う、固有の自己主張であることはわかりました。これは石山とは無縁の考えですね。
これ以上、議論を続けても、まあ時間の無駄であることは確かと思います。

もちろん、ガンコさんが私に塩を送るわけはないでしょうが、この申し出には一理あります。

ほら、ガンコさん、こういうときは「大先輩」を呼んでこなくちゃ(笑)

338五月雨:2003/01/17(金) 21:26

ガンコさん

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ガンコさんは趣向をかえるそうですので、楽しみにしておりましたが、はや今日は十七日ですね。いつになったら趣向を変えたお話をお聞かせ下さるのかと、首を長くしてお待ちしておりました。ここに御出現とは思いませんでしたよ、「…カルトっぽいか」のスレッドに早くお出ましをお願いします。冬眠から早く目覚めて、顕正会のタメにもならないお話をまたお聞かせ下さい。

今里さんと独歩さんのお話し合いは、独歩さんの気の長いお付き合いに感心しておりましたが、独歩さんも今里さんが早くご自身の過ちに気付かれることを願っておられるのではないでしょうか。(間違っていたらゴメンなさい)
明日は今里さんも、独歩さんのご質問に正々堂々とお答えになられるでしょう。
もう一日待って差し上げたらいかがでしょうか、ガンコさん。

339今里祐二:2003/01/18(土) 03:59
独歩さんへ

>また、あなたは日蓮本仏を何一つ、証明することはできなかった。

仰るとおり、証明することは出来ていません。相伝書の類を「真偽未決」と否定されたら誰も出来ません。
「信解」出来るか、出来ないかという所でしょうね。

>「簡単な罠」に引っかかけようと、まだやっているんですか。

これは独歩さんがいつも使っている手口を真似してみただけです。「証拠を出せ、証拠を!」というやり方です。
結局、独歩さんも出せませんでしたね(^^)

ガンコさんから「千日手」というご指摘もありますし、まぁ、この辺で終わりにしましょう。

340問答迷人:2003/01/18(土) 08:29

今里さん

横レス失礼しますね。

>結局、独歩さんも出せませんでしたね(^^)

それは違うと思いますよ。今の議論は、今里さんが「日蓮本仏」を主張されたことから始まっています。だから、釈迦が仏である事の証明は、この議論には直接の関係はないし、その上、独歩さんは釈迦が仏であると主張しているわけではありませんから、元々、独歩さんには、根拠を出す義務なんか無いですよ。

あたかも、独歩さんにも、根拠を示す責任があるようにこじつけて、ご自分が日蓮本仏の根拠を示せなかったことをチャラにしようとしても、単に、往生際が悪いだけだと思います。しかも、「ガンコさんから「千日手」というご指摘もありますし、まぁ、この辺で終わりにしましょう。」等と、逃げを打つのは、いかにも不誠実で卑怯だと思います。お会いした今里さんの御印象からは想像出来ませんでした。残念です。

341みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:00
>今里さん
 これは千日手とはちょっと違いますね。独歩さんが囲碁のルールで戦っているのに、今里さんが連珠(五目並べ)のルールで戦っている、そういう議論でした。ようするに、議論になっていないのです。

 そして、投了を宣言しないかぎり、試合が終わらないのです。囲碁の試合は、双方が「もう良いですよね」と終局に同意するか、片方が「負けました」と言って投了しない限り終わりません。どんなに傍目から見て勝ち負けの形成が明かであってもです。まして、囲碁対連珠の試合なのですから、「負けました」と投了しない限り、決して負けませんよね。

 わたしがいくつか、今里さんに質問しましたが、あれは、今里さんが、どの程度、仏、成仏、本仏について理解しているか、具体的なイメージを持っているかを確かめるためです。私の感想は、今里さんは、なんら具体的なイメージを持っていないと言うことです。今里さんのお答えは、すべて断片的で、ひとことでした。また「判りません」という答えもいくつかありました。

 本当にものごとが分かっているのなら、そのものごとについて饒舌に語らざるを得ないのです。それが仏教というものの持つ宿命です。なぜなら、仏教が指し示していることがらは、言葉では語り尽くせないからです。決して伝えられないからです。しかしもしある人が仏教についてなにか分かっているなら、言葉を尽くして、条理を尽くして相手に伝えようとするのです。それ故、饒舌に成らざるを得ません。しかし饒舌に仏教について語る人は、それが決して相手に伝わらないことを知っています。それは仏教とは、同じ気づきを気づいたもの同士、同じ境涯の者同士にしか分からないことだからです。言語は、必ず誤解されます。それでも語らなければならないというあきらめと絶望の上に語られる言葉、それが仏教の言葉です。

 禅門が、「不立文字」といいながら、あれだけ膨大な禅籍を残しているのは、そういう事情からです。彼らは言語に絶望していたが、それでも言語以外のメディアを持たなかったのです。

 日蓮だってそうでしょう。本尊抄を富木常忍をはじめとする門下が本当の意味で理解するとおもって発語していたとは思えません。なぜなら、本尊抄は日蓮の覚りそのものの表明だからです。それでも何万分の一の可能性を信じて発語する、それが仏教の言葉の持つ性格です。

 「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。すくなくともあのHPのタイトルは変えた方が良い方と思います。今里さんには、あの呼びかけに責任はもてないでしょう?(あとトップページに「成仏しようぜ!」という文字列が入っていないので、googleでトップページがヒットしません。TITLEタグとALTタグを使って、ソースに「成仏しようぜ!」という文字列を入れたほうが良いと思いますが)

342みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
 とりわけ、321の今里さんの発言、
> 「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
これは何が言いたいのですか? すいませんが説明してくださると大変助かります。誰かが考えてくれるのですか? あなたは法華講から籍がなくなったと聞いています。あなたを指導してくれる、指導教師なんてもはやいないのでしょう? あなたは一人で考えるしかないんですよ。

 今里さんは、即身成仏ということが分からないのだと思います。そして即身成仏と言うことが、この身の上に起こりうると、考えられていないのでしょう? ちがいますか。

 一般論ですが、これは、日蓮正宗(含む、創価学会、顕正会)の人全般に言えることです。即身成仏といいながら、彼らはこの人生に於いて、この身で成仏するとは本気では思っていません。それが端的に表れているのは、「仏界の生命が湧現する」という言い方です。あれは、自分は成仏していないが、ときどきは仏界の生命が出ていることもあるのだと言い訳する機能を果たしています。そして、即身成仏が、ほんとうに今世・現信に開覚することであるというあたりまえのことを隠蔽する機能を果たしています。

 さらに一般論ですが、これは現在の日本仏教の他宗派でも同じです。開悟が現身に可能であるとは、彼らは本気では思っていません。たとえば、現在の曹洞宗では悟りについて語ることはタブーであるそうです。もしそうであるなら、それはあそこまで悟りをとりつめて考えた道元に対する裏切り行為です。

 今里さんは、仏教についての基礎教養がないと思います。こまごまとした指摘はとりあえずしませんが。

 先日紹介した三冊の本は、ぜひ読んで欲しいです。あの程度の基礎教養もなしに、仏教一般や日蓮一般について語るのは、おかしな事です。あれで十分ではありませんが、最低限度です。あの三冊は新書や文庫です。安いですし、大学生や高校生レベルで読める内容の本ですので、ぜひ読んでください。

 それと、今里さんがどの程度、日蓮遺文や六巻抄や文段に親しんでいるのか知りませんが、すくなくとも真跡現存と曽存の日蓮遺文は繰り返し読んでください。そして、「日寛教学全面肯定」と言うのであれば、日寛教学を理解していないとおかしいでしょう。そのためには六巻抄や文段も繰り返し読む必要があります。

343みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
 そしてそれらを理解するためには、天台法華宗と日蓮法華宗の教理を理解する必要があります。そのために何を読んだらいいかは、今日はご紹介しません。もし必要になったら言ってください。いくらでも文献をご紹介しますから。

 デカルトを読まずにフッサールを理解することができないように、またフッサールを読まずにハイデガーを理解することができないように、日蓮を理解するためには日蓮が読んだ文献、日蓮の思想形成の礎となった文献はできるだけ読まないと理解できないのです。また日寛もそうです。彼らは、他宗を含む広汎な仏教に関する教養があるのです。当時の学僧ならどの宗派に所属していても、当然読んでいる文献というのがあったのです。そういう教養を共有することを抜きにして、彼らの文献だけ読んでも、彼らが何を言っているのか分かるはずがないのです。前提となる教養が欠けているのですから。

284
> みかんさんの >>127 に賛同したのは、僕自身にそのような『信』の自覚があるからです。

 よくわかりません。その自覚の根拠はなんですか。わたしは127で「「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。 」と言いました。それに対し、今里さんは259で「開目抄や本尊抄をよく理解できる、などという大それたことを言ったわけではありませんです」と言ったのにもかかわらず、284で「僕自身にそのような『信』の自覚がある」とおっしゃる理由が分かりません。260で私は「智慧の眼の一分が開いていたら、開目抄なり本尊抄が理解できるというのは、日蓮が菩薩であり智慧の眼の一分を開いているからです。唯仏与仏であるから、お互いにわかるのです。わからないなら、智慧の眼の一分が開いていません」と申し上げました。今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。

 あともう一つ繰り返しますが、だれかが仏であるかどうかを判断できるのは仏だけです。それは他人の境涯は、同じ境涯か上の境涯の人にしか分からないという、仏教の基本的な原理があるからです。だから、われわれ凡夫には、日蓮や釈迦が仏であったかどうかは、原理的には判断できません。

 また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。

 今里さんが今なさるべき事は、自分が何が分かっていないかを了解することです。何が分かっていないかを了解すれば、何を学べばいいか分かるからです。とにかく、最低、先日紹介した三冊を読んでください。すべてはそれからです。

344菱村正敏:2003/01/18(土) 09:05
 釈迦を仏とたてるのは、仏教のお約束だからそもそも証拠をだして証明す
る云々というお話、この際はなじまないかなと思います。まぁ宗派によって
は他仏を本尊としてあがめ優劣関係はあるのでしょうが、さりとて釈迦を仏
とする思考は捨てられていないと存じます。

「江戸のカタキを長崎で」という次元ならば、今里氏の反論も益なしとは
言えませんがね。ちょいとズレてるかもしれません。ただ、日蓮本仏云々は
当時の日蓮の脳裏に何度かよぎったかもしれない。それも夢のある話です。

 また、信仰は個人の自由ですし、霊感商法まがいの勧誘でなければ、
わたしは掲示板などで無責任ととられかねない発言を書き込んでも「可」だ
と思います。ここにおられる脱会者?の方々、つまり日蓮本仏などを吹聴して
第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任を
とったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

 つぶやきでした。

345五月雨:2003/01/18(土) 10:00

> また、信仰は個人の自由ですし、霊感商法まがいの勧誘でなければ、
わたしは掲示板などで無責任ととられかねない発言を書き込んでも「可」だ
と思います。

自分の言葉に責任などいらへんと言うてんのかなぁ、このお方。

>ここにおられる脱会者?の方々、つまり日蓮本仏などを吹聴して
第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任を
とったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

なのに、脱会者は勧誘した責任をどう取ったかなんて、上の言葉と矛盾してるんと違うの。

脱会者は責任を感じているから、自分の言葉には責任を持って書き込んでいるのに、ホンマになに言うてんねん、と思うわ。アキレルわ。

関西弁でつぶやいてみました。

346五月雨:2003/01/18(土) 10:41

今里さん

問答迷人さんが仰ったように、私も今里さんの態度は不誠実だと思います。
オフ会で「証明出来ないからといって正しくないとは限らない」と今里さんはお話されていましたが、「証明出来ないものは正しくない」のではないですか。
ここの掲示板は、正しさを証明するのが目的のひとつだと思います。証明出来ないのが分かっていながら、議論を始められた今里さんの本当の目的はなんだったのでしょう。

吉本新喜劇で、コテンパンにやられた人がむっくり起き上がって「今日はこれくらいにしとってやるわ」と言うのと、今の今里さんは同じ状態です。
きっとロムされている方全員がズッコケたでしょう。

独歩さんとの議論?は終了されたようですから、質問をさせて頂きます。
今里さんはご自分の主張されることに、何の責任も感じないのは何故ですか。今里さんのサイト「成仏しようぜ!」に書いた事柄を読んだ人が真に受けて、死ぬ時に成仏しなかったら今里さんに責任はないのでしょうか。
今までの今里さんのレスを読んでいたら、今里さんの『無責任』さばかりしか感じられませんでした。
今里さんにとってのご本仏日蓮大聖人様も、今里さんの心得違いを悲しんでおられることだと思います。

344の菱村さんが(初めましてですね、ご挨拶が遅れました)書いておられるように、

>つまり日蓮本仏などを吹聴して第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任をとったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

このご指摘の責任を感じなくてはいけないと思うのですが。いかがですか。

347菱村正敏:2003/01/18(土) 11:59
五月雨さん。どこの誰だか存じませんが・・・。

> 自分の言葉に責任などいらへんと言うてんのかなぁ、このお方。

 ちょいと意味が通じてませんでしたか。わたしが申し上げたいのは
相手に対して「無責任」と求める姿勢は結構ですが、いわば脱会された
ご自身たちは当時折伏をとおして第三者に対していくらかの「無責任」な
行為をされたんじゃありません?平たく言えば日蓮本仏なる言を基本に
して宗教勧誘されたんでしょ?今と過去とは違うと言われるかもしれま
せんがね。過去の「無責任」な言動をもちいた宗教勧誘を自らの目が
開いたからといって過去の問題を案外とさらりと流してませんか?それとも
折伏した人たちに対して「俺は無責任なことをした」などとと謝罪して
まわったとでも?

349犀角独歩:2003/01/18(土) 12:20

既に問答名人さんが総括をされたので、私は敢えて、この既述については屋上屋を重ねることはしないことにします。

みかんさんが記されたことは、特定個人における批判などという狭隘さとは格段の階梯をなすのであって、日蓮仏教を、否、通じて仏教を志す人々の道標とたり得る重要なものであると思います。

私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」からです。ハッサン氏は以下のように言っています。

「カルトのいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできない』教義である。それは非常に複雑なため、解くのに何年もの努力が必要だということになっている…
教義は受け入れるべきものであって理解すべきものではない(という)。それゆえ、教義は、漠然としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければいけない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる」

また、さらに言えば証明できない“確信”とは如何なるものであるのかという問題もあるでしょう。よく上げますが、ヤスパースの妄想の定義 (1)間違った考え (2)強い確信 (3)訂正不能 という指標に就き、その考えが間違ったものであるかどうかを判定するのは証明にかかっています。

証明を重要視する必要性はここにあります。罠を仕掛けた本人が言う、証明を迫ることが罠であるなどと言う類とは次元を異にしています。

また、日蓮に限定してみれば、日蓮もまた、それまでの系譜に従い、この文献的に証明に非常に熱心な人でした。その点はまた寛師もそうであったでしょう。ただし後者は、その教義体系の基礎に相伝・口伝を採り入れた点で、日蓮とは趣を変えていると私は思っています。しかし、たぶん、寛師には現代における祖書学その他の科学的な手法とは無縁であったろうし、そもそも精師の説法を聞いてこの道に入ったという人物でもあり、さらに天台檀林能化という地位からも相伝の文献的成否を問う位置にはいなかったのでしょう。さして、彼ができたことは中古天台・恵心流口伝を批判し、けれど、そのモチーフに則って新たな体系を虚構することであったのでしょう。

350犀角独歩:2003/01/18(土) 12:38

> 344 菱村正敏さん:

私、五月雨さんが示した違和感、ちょっとわかる気がするんですね。
これは批判などということではないのですが、要するに「皆さまは折伏された方たちにどのような責任をとった」という問いかけを読んで直ちに思うのは、「だったら、菱村さんはどうなの?」という疑問が生じるからです。まあ、菱村さんご自身に転教体験がなければ、該当しないのかも知れませんが、その辺の事情が見えないので、自分のことだけを棚上げにして語っていないかという疑問が生じるわけです。

以前、実は問答名人さんご自身が、この点については書かれています。

―― 今まで多くの方に、間違った事を伝えてしまった、その罪滅ぼしのためにも、益々、聖人の祖意を明らかにすべく、懸命に努力して参りますので、今後ともよろしくお願い申し上げます ――

むしろ、この掲示板を管理される理由も、このお気持ちにあると拝察しております。
そして、この言葉を受けて私も記しました。

―― 私もかつて問答名人さまのように、折伏をした相手に謝って歩いたものです。その中で3歳からの幼馴染がいるのです。親が牧師さんであったことから、徹底した論争をしていました。私は勢い込んで、「もし、日蓮正宗・創価学会が間違っていたら、俺の命をやる」とまで言ったのです。その友人に、脱会したとき、私は頭を下げに行きました。彼は「お前、間違っていたら、命をくれるといったよな」私は黙って頷きました。「本当だったら、さあ、ここで死んでもらおう……と言いたいことだけれど、これからの人生、命をくれてやるから、自分の罪滅ぼしに使ってくれ。まあ、キリスト教が正しいってきまったわけじゃないしな」と、そう言ってくれたのです。
考えてみれば、本気で仏教を考え直そうと思ったのは、この時からでした。――

さらに、一つの紹介もしました。

―― オウム真理教であったという私の友人は、300人もオウムに入れました。脱会後、その300件の家族を訪問し、脱会を進め、謝罪して歩いたといいます。もちろん、すべての脱会に成功はしませんでした。家族や本人から罵倒され、蔑まれ、恨み言を投げつけられながら、それでも彼は自己責任を果たし続けたのです。
私は彼に心から敬意を表しています ――

私の折伏は40年の長きに亘りましたので、この尊敬する友人のように、その全員に歩き回ること自体、物理的に不可能な状態にあります。ですから、かつての知人に会うとき、私はまず、脱会の事実を告げ、謝罪し、許しを請うてから、新たな人間関係を構築するように努めてきました。もちろん、それで贖罪になったということではありません。

いずれにしても、以上のように、既に自己責任に基づく既述がなされておりますので、菱村さんのご発言は、それを知る五月雨さんに、むしろ、私にとっても違和感を以て受け止められた次第があるのであろうと思います。

351犀角独歩:2003/01/18(土) 12:43

私は今回のやり取りのなかでもっとも心に響いた既述は、実はアネモネさんが292に記したことでした。

「今里さんの説明如何によっては、私だって再び本仏論を信じることだってあるかもしれません」

この真摯な叫びに、誠実、正々堂々と応えるべきであったのではないのかという点が、いちばん惜しまれます。

352今里祐二:2003/01/18(土) 12:59
みかんさんへ

>「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。

お釈迦様のような仏に成りたい……、ではダメですか?

>> 「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
これは何が言いたいのですか? すいませんが説明してくださると大変助かります。誰かが考えてくれるのですか? あなたは法華講から籍がなくなったと聞いています。あなたを指導してくれる、指導教師なんてもはやいないのでしょう? あなたは一人で考えるしかないんですよ。

僕が生きている間に、僕自身がお釈迦様のような立場になることは有り得ない、ということです。

>今里さんは、仏教についての基礎教養がないと思います。こまごまとした指摘はとりあえずしませんが。

知識量が少ない事は何度も認めていますので、あんまり突っ込まないで下さい(^^)
ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。
僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

>今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。

そうです。
「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です。

また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。

これは「お互い様」という気がしますが(^^)

353みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 14:37
>>352 今里さん

> これは「お互い様」という気がしますが(^^)


>>301 を参照。
301 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2003/01/14(火) 23:23

>今里さん こんばんは
大変ですね。
あのですね、すぐに返事を付けるようですが、おそらく、今里さんは他の発言者がどういう意味を込めて言葉を使っているかよく分からずに、返事をしているように見えます。
それはなぜかというと、元信仰者には信仰者がどういう気持ちであるかはよく分かります。しかし、信仰者には、無信仰者や元信仰者がどういう気持ちであり、どういう意図で言語を使用しているかがさっぱり分からないからです。
なぜならば、元信仰者には信仰者の使用する言語のルールが分かるが、信仰者には元信仰者の使用する言語のルールが分からないからです。
という訳なので、相手がどういう意図で言語を使用しているか自分なりに了解がつくまで、時間をかけて返事をする癖を付けた方が良いです。
(後略)




> 「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です

そんなことは、盲信の人でも思います。なぜ絶対の確信だと言えますか。わたしだってかつてはそう思っていましたよ。

http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&amp;KEY=1029381997&amp;START=639&amp;END=639&amp;NOFIRST=TRUE
639 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2003/01/13(月) 01:12

 具体的に説明します。

 我(アートマン)という概念自体が日本にはないので、わかりにくいのです。我とは、あるものがあるものであることの確実な根拠あり固定的な性質です。それが確実にあり、しかも過去から未来まで永遠にあるというのが、我の思想です。
(略)
 もう一つ例を出します。日顕書写の本尊は破門前は創価学会員にも、尊いものに見えた。ところが、破門後は忌み嫌われるようになり、尊いものに見えない。。
 逆に、日寛書写の本尊は、創価学会員には尊いものに見える。ところが、法華講の人にはコピー本尊として尊いものに見えない。
 ところが、信仰心のない人には、ただの掛け軸に見えるでしょう。
 さらに、シロアリやシミにとっては餌でしかないかもしれません。
 そのように、見る立場、見る視点、見る時期によって、同じものがまったく違うように見える。本尊それ自体には、尊いという実体はない。それが無我(アナートマン)ということです。

354今里祐二:2003/01/18(土) 15:26
問答名人さんへ

僕が言いたかったのは
「お釈迦様を供養する功徳よりも大聖人様を供養する功徳の方が百千万億倍大きいのだから「日蓮本仏」でいいじゃん、あんまり細かいこと気にすんなよ」ということです。ども、お騒がせしました。

五月雨さんへ

>証明出来ないのが分かっていながら、議論を始められた今里さんの本当の目的はなんだったのでしょう。
>吉本新喜劇で、コテンパンにやられた人がむっくり起き上がって「今日はこれくらいにしとってやるわ」と言うのと、今の今里さんは同じ状態です。

「大聖人様を御本仏と信じるのは当たり前」と思っている人としか議論したことがなかったので、ここでは随分ズッコケてしまったみたいですね。ウケてもらえただけで満足です(^^)

アネモネさんへ

>そもそも罵倒されようと、中傷すれようと、誹謗されようと、自分が絶対的信を傾ける「日蓮本仏論」を徹底的に展開していくのが、今里さんが本仏と崇める日蓮のやり方ではないでしょうか。

大聖人様は果位の立場にある仏様ですが、お釈迦様を絶対に信じるという因位の立場を表にして法を説かれました。ですから鎌倉時代の文献的な証拠をいくら集めても「日蓮本仏論」など出てこないのだと思っています。

オフ会の時も「思考停止」という言葉が出ていましたが、僕は「釈尊が何故仏と言えるのか?」という所まで疑問を持って考えていました。「釈尊だって俺と同じ人間だし、子供も作ってるし…」って。
「釈尊は何を悟ったんだろう?」ってずーっと考えてて、ある日気付いたんです。
「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
時系列的に逆転しているところがスゴイんですが(笑)。まぁ、らせんの様なイメージで理解しました。

そう考えたら、もう、何もかもが納得出来るようになりました。
法華経には内容などほとんどなくて褒め言葉ばかりしか書かれてない事、釈尊が器物崇拝を禁じた事、一念三千の事……。

御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。

そういう僕自身の宗教体験を元に、HPを作ったり掲示板に出てきたりしています。
教義の細かい所など、僕にとってはもうどうでもいいことですが、他人を説得する時は中々そういうわけにはいきませんね。

それでは。

355アネモネ:2003/01/18(土) 15:33
菱村正敏さん

恐らく、今回の今里さんへ対するレスにおいて、私アネモネが一番「責任」という言葉を投げかけたと思っております。また過去のレスにおいても、「責任」という言葉を多く書いてきたと自覚しておりますので、その立場から少し書き込みたいと思います。

>相手に対して「無責任」と求める姿勢は結構ですが、いわば脱会されたご自身たちは当時折伏をとおして第三者に対していくらかの「無責任」な行為をされたんじゃありません?

その通りでしょう。その過去の行為をもっとも痛感し苦しみ、そして自分の振る舞いが果たして本当に正しいと言い切れる行為だったのかどうかを、厳しく自己に問いかけ追及した結果、組織を離れているものだと思います。少なくとも、私に関してはそうです。自分の無責任な言動を棚上げしているのではありません、自分の言葉に責任をもつべきだ主張するのは、他人事として書いているのではないのです。過去の自らの行為を悔悟した結果の主張なのです。
今里さんへのレスにも書きましたが、信仰を語ることにおいて、掲示板のレスだろうが個人のサイトだろうが、多くの人の目に触れる公の場ですから、このことは、軽く考えないでほしいのです。繰り返しになりますが、宗教を語るということは、場合によっては読む人の人生を変えてしまうことが往々にしてあるからです。このことは、重く考えなければならないということを、理解して頂きたいです。

仮に、掲示板だから、無責任な発言も「可」と許されるとしても、最低限、責任の持てない自分の憶測や思い込みであることを言い回しにおいて慎重にあってほしいのです。科学的分析で証明できないことを、最もらしく断定して記述することが、どれだけ人を惑わすものなのかという問題認識、大切ではないでしょうか。
しかし、このことは、今里さんだけが責められることではないのです。組織を上げて煽動してきた宗教教団の持つ体質なわけです。それがこの掲示板の意図する、問題提議でもあったわけです。

356アネモネ:2003/01/18(土) 15:34
(つづき)

>平たく言えば日蓮本仏なる言を基本にして宗教勧誘されたんでしょ?今と過去とは違うと言われるかもしれませんがね。過去の「無責任」な言動をもちいた宗教勧誘を自らの目が開いたからといって過去の問題を案外とさらりと流してませんか?それとも折伏した人たちに対して「俺は無責任なことをした」などとと謝罪してまわったとでも?

謝罪をして回ることはひとつの方法でしょう。しかし、謝罪をしてまわっても、過去の無責任な発言が撤回され責任がとれるというものではないでしょう。大袈裟でもなんでもなく、人の人生を変えてしまっていることだってあるわけですから、ここで組織を離れる決断をした人の内心としては、取り返しのつかないことをしてきたと苦しい思いを抱えているのです。そのくらい、自己を追求しているわけです。自分に対して厳しさを課しているというわけです。それが同時に社会への責任にも通じるものでもあるわけです。

いったん発した過去の言葉の完全な責任をとることは、残念ながら出来ません。だから、言葉には慎重ですし、このことにまさに気づいたところで、今できることは何かといえば、たとえ掲示板の投稿といえども、自分の言葉に責任をもっていく姿勢を崩さないということが先行されるわけです。
それが、宗教を語るものの姿勢として求められること。当然のことではないでしょうか。
あまりにもそのことに対して、みんなが無神経であったということに気づいてほしいものです。

そのような観点から今回の議論において、自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、宗教に対する誠実さははっきり目に見えていたと私は思います。
多くのカルト性の強い教団は、世の中を救うと称しながら、実は証明できないことを最もらしい言葉で信じ込ませ、世の中の人々を惑わしているのが現状なのではないでしょうか。
証明できないことにも真理はあるという。しかし、単純に真理でない確立のほうが遥かに高いはずです。にも関わらず、そちらに対する意識はまるで抜けおちているわけです。
さらにそこには、証明できないけれども、信じる者は救われ、信じない者は地獄行きと、二極論で強迫し脅していくのが常套手段なわけです。
今里さんは、そういう手法のカルト性や危険性に無神経なわけですね。なぜ無神経でいられるのかというと、自分が無責任であることに甘んじているからではないでしょうか。人々を救うはずの宗教が、実は救いを求める人々を惑わし不幸に導いている現実的側面があることに目が向いていない。現証というなら、そのことこそ現証ではないかと言いたいくらいです。
しかも、宗教が原因で不幸になった人に対してすら、信心が足りないからとか、過去世の業だとか、またまた証明できないことでもってさらに苦しめているのも事実です。全て言葉に対して無責任だから、発せられる無神経な言葉なのです。

みかんさんが、痛快なレスをなさっていました。まさに宗教を語る者は、文献に対する研鑚と自己への追及、そして社会への洞察を怠ってはならないと思います。そんなこともせず、それどころかそのような自分の姿勢に開き直るばかりか、真摯な姿勢で臨んでいる人を簡単に見下しながら、自分の言動には責任を全く回避するような人の言葉こそ、私は信用できないと判断し、そしてそのような人の言葉こそ世間を惑わすものではないかと公然と批判します。

357アネモネ:2003/01/18(土) 15:43
今里さん

>ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

その結論が正しいか否かの議論をしているわけです。そのことをみんなが指摘しているのに、なぜその意味が理解できないのでしょう。
それが正しいことのように断定して話す以上は、証明しなければならない立場に立つということです。それが出来ないことがわかった以上は、言葉の表現に慎重にならなければならないわけです。そういう責任を感じるようになることも、仏教徒の振る舞いとして求められることではないでしょうか。今里さんには、そういう姿勢が微塵も感じられないのです。
このような指摘や忠告は、うるさいだけなのかもしれませんね。
しかし、今里さんの語る言葉は、どれもこれも信用できないというのが私感想です。

>「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です。

井の中の蛙大海を知らずとは、まさに今里さんのことだと思います。
開き直っておられるようですが、決して誉められたことではないでしょう。しかも浅学だったことを自ら認めながら、なんら自己批判を持たない。それどころか、教義研鑚に対して真摯な姿勢の人に対して、見下す姿勢さえ改めないわけです。それが成仏を目差すという今里さんの振る舞いなわけです。

>僕が生きている間に、僕自身がお釈迦様のような立場になることは有り得ない、ということです。

とのことですが、「成仏しようぜ!」と呼びかけることこそ、釈迦のような立場で人々を煽動する言葉ではないでしょうか。今里さんのことの言葉を問題にする人は、皆そのことを指摘しているのだといえます。なのに、なぜその指摘をどこまでも交わし続けることができるのか、私にはわかりません。本当に今里さんは、成仏を目差しているのでしょうか。心の底から目差しているならば、この指摘に対して真剣に自己を追求するものではないかと思います。

>また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。
これは「お互い様」という気がしますが(^^)

立証できない結論を今里さんは理屈抜きで信じている。その心情をわかってもらえないことを、「理解されない」ととっているのかもしれませんが、そうではないと思います。今里さんの信じたい気持ちはわかるのです。なぜならば、みんな過去は信じていたからです。しかし、そういう議論ではないということを今里さんは理解していないのです。そういう「思い」は、どうしたって議論にはならないのです。議論になっていないことすら気がついていないようですが。今里さんの本仏論は、「鰯の頭」だったというところでしょうか。

>「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。…御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。

そういうのを、鰯の頭というのだと思います。自己の探求、追及、そして自己批判にまったく欠けているものだと思います。今里さんの個人的信仰観とみなされるものだということです。そのことをもって、これが真理なんだわかってくれということの危うさにも目を向けてください。
単に、自分の都合のいいように解釈して自己陶酔しているだけだと感じます。そういうのは「信」でもなければ、覚りでもないでしょう。自己への厳しさを捨てた、ただの盲信だと感じます。
私は。そのような宗教観からは、卒業したつもりでいます。

359エド:2003/01/18(土) 16:53
はじめまして。
とても興味深く拝見させていただいております。
一寸ご教示願いたく、質問させて頂きます。

独歩様。
>私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」
>からです。ハッサン氏は以下のように言っています。(略)

では、証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなものがありましょうか?

360みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 23:26
>>354 今里さん

> 「釈尊は何を悟ったんだろう?」ってずーっと考えてて、ある日気付いたんです。
> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
> 時系列的に逆転しているところがスゴイんですが(笑)。まぁ、らせんの様なイメージで理解しました。

「釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」という時の、「御本尊様」って何ですか?

361今里祐二:2003/01/18(土) 23:49
アネモネさんへ

>>ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

>その結論が正しいか否かの議論をしているわけです。

僕は正しいと信じています。
まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。

「責任」について色々言われていますが、アネモネさんは御本尊様を否定している事がどういう事か解っていないようです。
これまで、そして現在も多くの人達が「御本尊様を信じていれば成仏できる」と信じています。
それを否定するのであれば「対案」を出すべきです。

たとえば「鰯の頭を信じれば成仏できる」「大黒様を拝めば成仏できる」「マニアにしか解らんような教学話をゴチャゴチャやってれば成仏できる」等々です。
否定するだけで「対案」を示さないのは無責任な態度ではないですか?

>自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、

独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません。
自らリスクを負って「こうすれば成仏できる」と言わない限り、無責任なのは独歩さんの方です。

>>359 エドさん

ナイスです♪

362今里祐二:2003/01/18(土) 23:50
みかんさんへ

>「釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」という時の、「御本尊様」って何ですか?

みかんさんが「不一不異」という事を理解されているという前提で答えます。

大聖人様が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様です。

363無徳:2003/01/18(土) 23:56
Satさん今晩は:

>「歴史的総括」を為さないならば再構築を目指す人々の手によって
>明らかにしていくしかありませんね。正本堂問題のみならず・・だ
>と思います。

その通りですね。創価学会に限らず顕正会も法華講も更には正信会も
その組織を構成する人々が、我こそ正しく他が間違っていると言った
正当意識を払拭し、それぞれが富士門流の再構築という視点で日蓮仏
法の原点に帰るべきでしょうね。

その為にも、我々がそれぞれの組織の指導者達が紡ぎ出す共同幻想と
も言うべき迷妄を打ち砕く事が何より先決と思います。兎にも角にも
それぞれの組織の指導者たちがお山の大将意識ではお話になりません。

その意味でもリゾーム的な現代的サンガの形成がなにより要請される
と思います。ネットに集う一人一人が中心であり尚且つ周辺を担う事
が何より大切な変革の起爆剤となり得ることでしょう。

satさんのご活躍を心より期待いたします。今後ともお互により良き情報を
交換してまいりましょう。

364さかなこ:2003/01/19(日) 01:37
みかんさん>

日蓮さんの御書をよりよく理解するための前提としてこれだけは
覚えておかないとだめーな基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて
安い本があったら教えてくださいm(__)m

がっかーいんさんに御書難しい。。というとみんな読みやすいといふ。。
日蓮さんは後世のことを考えて現代人にも読みやすく書いてくれたといふ。。
読みにくいとおもうているのはあたしだけなのだらうか。。。

365みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/19(日) 12:16
>>364 さかなこさん
> がっかーいんさんに御書難しい。。というとみんな読みやすいといふ。。
論文は読みにくいです。手紙は比較的読みやすいと思います。論文も空海や親鸞や道元に較べれば読みやすいとは思います。

> 日蓮さんは後世のことを考えて現代人にも読みやすく書いてくれたといふ。。
それはでたらめです。

> 基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて安い本

そういう概説書みたいなのはちょっと心当たりがないです。それに習うより慣れろだと思うし。
日蓮の遺文を読む場合、現代語訳か注釈のついたもので読みはじめるのがよいです。堀日亨編の御書全集(いわゆる創価学会版の御書)をいきなり読もうとしても、挫折します。あるいは誤読します。それに堀日亨の御書全集は句読点が極端に少ないし、字も小さいし、配列も独特なので、使いにくいです。(もちろん現代語訳や注釈が間違っていることもありますけどね)創価学会版の御書講義の本は、日蓮正宗独特の文底読みを採用していて、日蓮の原意を損なっているのでお薦めしません。

増谷文雄『日蓮 書簡を通してみる人と思想』(筑摩叢書78 筑摩書房 品切れ)

『日蓮文集』(岩波文庫、書き下しおよび古文 注釈付き 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400333051X/

『中公クラシックス 日蓮』(中央公論新社 現代語訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121600150/


辞典は創価学会版の『日蓮大聖人御書辞典』(絶版)が、一番良いと思います。サイズが小さい割に、項目が多いし、しかも出典も明記されているからです。ただ、これも日蓮正宗教学や創価学会教学独特の解説をしている箇所がありますが、それさえ気を付ければ、役に立つ辞典です。


あと日蓮の概説書はいっぱりありますが、次の二冊が良いかも。
佐藤・小島・小林『日蓮大聖人の生涯と思想』(第三文明社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476061265/

末木文美士『日蓮入門―現世を撃つ思想』(ちくま新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480058559/


あと、大石寺門流と他門流一般で、読み方が違う重要箇所があります。それも気を付けた方が良いです。

「開目抄」(真跡焼失)
一般「したし父母」
大石寺「しうし父母(主・師・父母)」

「本尊抄」
原漢文「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
一般「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの国に立つべし。」
大石寺「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」

どちらが正しいかは解釈に依ります。私の考えでは、「開目抄」は「したし父母」が読みとして自然だと思います。「本尊抄」は「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」が漢文訓読上、自然だと思います。

366山の王:2003/01/19(日) 12:28
また、話がずれていますね。
日蓮が本物であるかを文献的に証明できなければ、普遍性がないという話をしていたんじゃないの。

成仏でいる対案がなければ無責任というのは一見すると筋が通っていると思えるけれど、けれど、今里の言っていることが成仏できることが証明できないんだから、まるで反論になっていないんじゃないの。

367山の王:2003/01/19(日) 12:53
それにまた、ぜんぜん、質問に答えない上、自分で「この辺で終わりにしましょう」と言っておきながら、まだ独歩さんの悪口を書き連ねている。
別に独歩さんの味方しようと思わない。しかし、ひどいね。端で見ていて気分悪い。
366の「今里」は、さん忘れ。

368山の王:2003/01/19(日) 13:10
だいたい、なんで日蓮さんが本仏のわけ?
日蓮さんはお釈迦さんに帰命しているからこそ、自分の書いた御本尊に「南無釈迦牟尼仏」って書いているわけでしょう。
それで釈迦=日蓮だというのが日寛さんの言葉にあったって、それは日寛さんの言葉でしょう。
あと、本仏ってなんなの。
それで成仏できるって言われても、ぜんぜんわかんないよね。

369アネモネ:2003/01/19(日) 14:09
今里さん

>「御本尊様を信じていれば成仏できる」と信じています。

それは今里さんの内心の自由ですから、よろしいのではないでしょうか。そのことについては、私はなんら立ち入っているつもりはないです。ただし「成仏しようぜ!」と誘いかけている以上、個人的信仰の領域を超えていることなので、誘いかける言葉に責任を持ってほしいと意見させて頂きました。信じているの一点張りでは、なんら責任を持っていないのです。正しさを証明しなければならないのです。そのことが文献から立証できないのなら、自ら実際に成仏してから世間に誘いかけて頂きたいものです。その場合には、成仏とはどのようになることなのかまで、人々に語り連ねるところまで説明が出来なければならないのです。お釈迦様のような仏様では、説明になっていません。


>アネモネさんは御本尊様を否定している事がどういう事か解っていないようです。

私がいつ否定したのでしょうか。曲解されては困りますが、私は一度たりとも御本尊様を否定などした覚えはありません。今里さんの信心が、鰯の頭的信心だと感想を述べたまでです。それを「御本尊を否定した」などと曲解してレッテルを貼られては迷惑です。

だいたい御本尊とは何なのでしょうか


>それを否定するのであれば「対案」を出すべきです。

何の対案でしょう。私は御本尊様を否定した覚えはありませんので、対案の出しようがありません。

>否定するだけで「対案」を示さないのは無責任な態度ではないですか?

繰り返しますが、否定などしていないのですから、対案を出すことなど要求される覚えはありませんし、無責任呼ばわりされる筋合いもありません。

>独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません。
自らリスクを負って「こうすれば成仏できる」と言わない限り、無責任なのは独歩さんの方です。

今里さんは、私がいうところの責任における認識が全然わかっていないようです。私が何度も言っていることは、自分が発する言葉、つまり今里さん自身が発言している言葉に責任を持ってほしいと言っているのです。今里さんはご自分が信じている、「御本尊様を信じていれば成仏できる」ということで「成仏しようぜ!」と世間に誘いかけているわけです。この「御本尊様を信じていれば成仏できる」ということに対してどのような責任を今里さんが持つのかです。その責任の持ちようこそ、証明しかないのではないでしょうか。信じているだけでは、証明になっていないわけで、今里さんの「成仏しようぜ!」はどうしたって無責任な誘いであることは免れないということ、理解できませんか?

そもそも、成仏の方法を「案」として提示すべきなどという今里さんの言葉は、仏教にはそぐわないような違和感を感じます。
私は、正しいことが証明されないことを、あたかも正しいと断定して誘いかけるような無責任なことに慎重な立場をとっているのです。そのような責任の持ち方が、今里さんには理解できないということでしょうか。

それから、人の投稿を正しく理解せずに曲解してとらえ、あたかも「御本尊様を否定した」というレッテルを勝手に貼るのは卑怯です。言葉を正確に理解して頂きたいですし、理解できないのであれば、自分には理解できないと誠実にお答え頂きたいと思います。

370五月雨:2003/01/19(日) 16:50

今里さんに、アネモネさんの言葉が届かないのはどうしてなんでしょうね。
日本語が通じないなんてことはないでしょう、ご自身に都合の悪くない返事は返されていますもの。ところが一番肝心な「日蓮本仏論」についての問い掛けにはだんまりを決め込むか「あまりいじめないで下さい」などと逃げ回り、あげくに自分の言葉を他者が言ったかのような“罠”を張る。
オフ会でお会いした時に受けた今里さんの人間性から、掲示板における今里さんのお振る舞いはちょっと信じられない思いがしています。
ご自分でご自分の人間としての品性を、ここまで貶めなくてもいいように思うのですが。

それにしても、この鰻の論理に挟まれた無徳さんとSatさんの意義ある議論が霞んでしまったように思います。勿体無い限りです。

371今里祐二:2003/01/19(日) 17:20
アネモネさん

>私は一度たりとも御本尊様を否定などした覚えはありません。

これは大変失礼しました。申し訳ありませんでした。
でも、それだったら、独歩さんではなく僕の意見を支持して下さい。

>だいたい御本尊とは何なのでしょうか

日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。

>信じているだけでは、証明になっていないわけで、今里さんの「成仏しようぜ!」はどうしたって無責任な誘いであることは免れないということ、理解できませんか?

前回「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」と言いました。
無責任と言われても、それ以上の責任は取れないわけで、…困りましたね(^^)

>正しいことが証明されないことを、あたかも正しいと断定して誘いかけるような

宗教って、そういうもんじゃないですか。

>無責任なことに慎重な立場をとっているのです。

そんなに慎重にならなくても、臨終の時にはキッチリ清算されると思いますよ。
また、そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

372犀角独歩:2003/01/19(日) 17:30

今里さん:

ちょっと待った。
いったい何なのだね。
山の王さん(はじめまして)も書いてくれたが、339に「まぁ、この辺で終わりにしましょう」と書いた故に、こちらとしては、335に整理したように質問に何ら答えないこともさらに追究をしなかったのです。それにも関わらず、「独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません…無責任なのは独歩さんの方」と、おわりにしたはずが、質問されたことを応えない卑怯な態度を取っておいて、批判するとはいったい、どういうつもりなのかね。

まずはこの点について、弁明を聞かせてもらいましょうか。

373犀角独歩:2003/01/19(日) 17:45

エドさん:

> 証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなものがありましょうか?

できる限り、仰る意を正確にお聞きし、お答えしたいと思います。
この「宗教」とは、どのような意味でお使いになっていらっしゃいますか。
宗教教団の意味ですか、それとも分類上の意味…たとえばキリスト教、仏教といった…、それとも、教えの意味ででしょうか。

エドさんが引用された、349において「のいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできない』教義である」というハッサン氏の言葉を引いたわけですが、ここで言われていることは「教義」ということです。ですから、上述、仮に私が記したなかで言えば「教え」に該当します。

それなのに、「証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなもの」と「宗教」という言葉に代わって質問がなされていますね。これはそのような批判の対象にならない教義を持つ宗教(団体、分類)はなにかというご質問なのでしょうか。

374みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/19(日) 17:49
>今里さん。
>> 362
> みかんさんが「不一不異」という事を理解されているという前提で答えます。

「不一不異」というのは仏教一般で使用される言葉ですので、それだけでは何と何の「不一不異」を言っているのか分かりません。
1-1)何と何の「不一不異」ですか?
1-2)そしてそれはどういうことがらを示していますか?

> 大聖人様が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様です。

2)それは、「日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。」と言われるところのあの木製の物質ですか? それともそれが関わる何かですか?


>>354
> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。

3)それは、一体どういう事ですか? 釈迦が何をどのように悟ったのですか? その悟りの内容はどういうことですか?

> そう考えたら、もう、何もかもが納得出来るようになりました。

4)何がどのように納得がいきましたか。それは具体的にどのようなことですか?


>>305
> お釈迦様のような仏様に成ること

5)「お釈迦様のような仏様に成ること」とは具体的にどのようなことですか?

375犀角独歩:2003/01/19(日) 17:52

今里さん:

あなたはアネモネさんに対して、

> そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです

などと言っています。
出てきても意味がないのはあなたのほうでしょう。その点について、私は237、238に

「あなた、こんな所に出てきても意味がないんじゃないのかな。
自分の本仏論を抱きしめて悦に入っていれば好いんだから。
言葉をやり取りすること自体、意味ないでしょう、あなたには(笑)

まあ、本仏論なんて看板背負って出てきても、説明も何も出来ないかけ声だけじゃ、退屈ですね。
独りよがりの好い気分、聞いたって、何の参考にもならないし、本仏論というのはただの思いこみなのかと。
思い込んでいる人とは会話は成り立たず、ただ、説明も出来ないことを押しつけられるだけでは、公開の議論の場にはふさわしくないでしょうね」

と嗤ったわけです。結果はまさにそのとおりなのであって、何一つ説明できないばかりではなく、それぞれ問いを投げかけた人々を軽蔑し、不誠実、卑怯の限りを尽くしたうえで、ついにはアネモネさんに斯様な言辞を投げつけている。

私は、もう一度、237、238に記したことを告げるものです。

376犀角独歩:2003/01/19(日) 18:18

みかんさん:

鰻と鰯頭のは横に置いて、少し真面目に質問をさせてください。

『開目抄』の「しうし父母」は「終始父母」の可能性は、どのようにお考えですか。

『本尊抄』の「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」につき、私は、みかんさんとは考えを異にし一般の読みのほうではないかと考えてきました。その理由は、『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」との整合性です。ここが同じく三つの法門となる本門本尊について同じく論じているとすれば、整合性がなければならない、となれば、『本尊抄』「釈尊為脇士」は「釈尊の脇士と為(な)り」でなければ、辻褄が合わないと思えるわけです。この点は、どのようにお考えになられますか。

377ワラシナ:2003/01/19(日) 18:52
「上野国立博物館の大日蓮展を見てきた。」

1、臨滅度時の御本尊の大きさに驚いた。
2、「観心本尊抄」「立正安国論」の御真蹟を拝し得た有難さ。
3、2時間半かかってみた。どうしてもその位の時間が必要になる。
4、入り口の券売機で1300円入れる時は500円硬貨が使えない。
5、一度は実物を見ておくと色々と着想が湧いてくる。あの展示物に限って宗祖の筆記された文字のサイズを見れば、宗祖はやはり大き目の字の方を好んでお書きになっているとしか思えなかった。

378今里祐二:2003/01/19(日) 19:51
>>372 独歩さん

>まずはこの点について、弁明を聞かせてもらいましょうか。

アネモネさんより
>自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、

と、独歩さんと比較した質問をされたので、それに対する反論です。

僕は「文証」を出せないし、これ以上独歩さんとやり合う気もありません。
無礼に感じられた点がありましたらお詫びします。申し訳ありませんでした。

379今里祐二:2003/01/19(日) 20:13
>>374みかんさん

1-1)何と何の「不一不異」ですか?

釈尊が凡夫であった時に拝んでいた御本尊様と、僕が現在拝んでいる御本尊様とが不一不異という事です。

1-2)そしてそれはどういうことがらを示していますか?

質問の意味がよく理解できません。

2)それは、「日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。」と言われるところのあの木製の物質ですか? それともそれが関わる何かですか?

そうですが、御本尊様の事を「木製の物質」と見ている間は、信心が成立していないと思います。

>> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
3)それは、一体どういう事ですか? 釈迦が何をどのように悟ったのですか? その悟りの内容はどういうことですか?

これは釈尊の悟った内容を言ったのではなく、僕がそのように感じたという事です。

4)何がどのように納得がいきましたか。それは具体的にどのようなことですか?

一言では言えないのでHPの方で、みかんさんご自身が判断してください。
http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

5)「お釈迦様のような仏様に成ること」とは具体的にどのようなことですか?

具体的には、なってみなければ判らないと思います。

380エド:2003/01/19(日) 20:47
独歩様。

他意はありません。宗教としたのは、ただ単純に「教義とは特定の宗教の教え」と考えたからです。

>私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」からです。

との引用をされたことから、「“証明”できる教義」の存在も認めていらっしゃると推察申しあげました。
あらためてお伺い致します。
“証明”できる「教義」(教え)とは、どのようなものでしょうか?

蛇足ですが、“教義”については広辞苑には次のように記載されております。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【教義】
特定の宗教や宗派の信仰内容が真理として公認され、信仰上の教えとして言い表されたもの。
教理。ドグマ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

381アネモネ:2003/01/19(日) 23:05
今里さん

>それだったら、独歩さんではなく僕の意見を支持して下さい。

支持を得たいのならば、最低限、議論に対する姿勢を改めて頂きたいと思います。内容はもちろんのこと、議論に対する姿勢からして、私は今里さんを支持する気になれないのです。

>そうですが、御本尊様の事を「木製の物質」と見ている間は、信心が成立していないと思います。

木製の物質ではないのですか?とすると、何なのでしょうか。

>前回「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」と言いました。
無責任と言われても、それ以上の責任は取れないわけで、…困りましたね(^^)

オフ会のときにも、「困りましたね」とつぶやいておられました。この歳、とことん困って追求して頂きたいと思います。
しかし、「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」とのご発言から察するに、今里さんは地獄に落ちるかもしれないことをそんなに重大には考えてはいないような印象を受けますね。それは裏を返せば、成仏するということもそんなに重くは考えてはいないということでしょうか。
なのに、「御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした」と感涙に浸っている。成仏と地獄をさして重く考えているとも思えないのに、何をそんなに感涙することがあるのか、まるでピンとこないです。

>宗教って、そういうもんじゃないですか。

私はそうは思いません。
今里さんはそれで納得して済ませているかもしれませんが、私は宗教を求めるものとして、それで宗教とはそういうものだと納得して済むことは出来ないと思っております。あくまでそこを探求し、追求していく自分でありたいと思っています。また、その点においては、文献などの研鑚に努力を惜しまず長年の思索を経てきている方に対しては、敬意を持って耳を傾け、学ばせて頂きたいと思っています。そして、自らの思索や社会への洞察も怠らない。それが今の宗教を求める私に出来る、責任をもった姿勢と振る舞いに通じるものと考えるからです。

>そんなに慎重にならなくても、臨終の時にはキッチリ清算されると思いますよ。

ご自分のことはそれで済むでしょう。しかし、今里さんの誘いに乗って信心を始めた人はどうなのでしょう。一緒に清算されても、自分には責任はないよと思っているということですか。宗教とはそんなもんだよと言って、終るのでしょうか。救われないとはこのことかと感じます。

>また、そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです。

私がですか?
冗談じゃない。今里さんのように無責任でいい加減な態度のロムを読むと、黙ってはいられないのです。そのような姿勢に甘んじている人の無責任な言動に対して、批判的に意見する私の言葉は、自ら責任を持って書き込んでいます。
今里さんに限りませんが、大御本尊様さえ信じていれば人間としての振る舞いは二の次、三の次という方、組織の中でも多く見てきました。
それが本当の仏教なのかといつも疑問に思ってきたのです。組織に疑問を持ったのもそんなことからでした。そのような問題提起もこめて、私は掲示板に参加してきたつもりです。
責任を感じるからこそ、この場で問題提起をしてきたともいえるのです。私の掲示板参加の意識は、根本的に今里さんの意識とは根本的に違うものだと思います。

382みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/20(月) 09:09
>>376 独歩さん

「終始父母」という読みははじめて見ました。そのような説を唱えている方がいらっしゃるのですか。もしよろしければ、お名前とか、何という本に出てくるかとか教えて頂ければ幸いです。

 報恩抄との整合性については、考えてみたいので、時間を下さい。


「本尊抄」の読みについては、

「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの国に立つべし。」
と読むためには、漢文はたとえば、
「此時地涌千界出現為本門釈尊之脇士可立一閻浮提第一本尊於此国」
のような語順でなければならないという理由からです。(漢文を読むことはある程度できますが、書く訓練は受けていないので、間違っているかもしれません。)

原文が「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
であるので、
「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」
としか読めない、ということです。

また、「本尊抄」の中の二つの記述の間で整合性が取れていると考えるからです。つまり「一閻浮提第一本尊」=「南無妙法蓮華経の主題」の脇に「南無釈迦牟尼仏」=「本門釈尊為脇士」が書かれている、ということを表している文章だと、私は読むわけです。
かつて(1997年)わたしはとある文章で以下のように書きました。
以下引用
===
「その本尊の為体、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。文殊・弥勒等の四菩薩は、眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣・月卿を見るがごとし。十方の諸仏は、大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表するが故なり。かくのごとき本尊は、在世五十余年にこれなし。八年の間、ただ八品に限る。」
「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿。十方諸仏処大地上。表迹仏迹土故也。如是本尊在世五十余年無之。八年之間但限八品。」

「この時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇土と為す一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。」
「此時地涌千界出現本門釈尊為脇土一閻浮提第一本尊可立此国。」

 これらの記述は、中央に「南無妙法蓮華経」と大書きされ、その向かって左脇に「南無釈迦牟尼仏」、右に「南無多宝如来」とあり、さらにその右脇に「南無上行菩薩」「南無無辺行菩薩」、左脇に「南無浄行菩薩」「南無安立行菩薩」とあり、下方には諸々の菩薩・天・人など十界の衆生が描かれる日蓮の本尊の構成を顕している。
 下方にどの尊格が書かれているかなどの、本尊全体の構成は必ずしも一定ではないが、中心部分はほとんど変わらない。その中心部分を略記するなら次のようになる。

  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多宝如来
南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

385犀角独歩:2003/01/20(月) 13:19

380 エドさん:
(この掲示板では「さん」付けとなっていますので、そのようにさせていただきます。私にもそのようにお願いいたします)

> 「“証明”できる教義」の存在も認めていらっしゃると推察申しあげました。

この点については、存在の否定・肯定といった二極思考として考えているのではなくて、「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように語っている」のがカルト理論であるという意味です。

少し言葉を継げば、「証明できない教義」とは「証明できないことによって組み立てられている教義」という意味です。

その意味において、証明できる事実の積み重ねによって教義は構築されているべきであるという考えはあります。

しかし、証明できない教義に対して、証明できる教義があるという二者択一を言っているわけではありません。

> “証明”できる「教義」(教え)とは、どのようなものでしょうか?

ここで議論されていることであれば、日蓮の真跡か否か、日蓮が実際に説いた教義であるかどうかという証明に基づく限定を設定して、日蓮本仏論については考えるべきだということです。

386さかなこ@暇なOL:2003/01/20(月) 13:36
>>365

みかんさんどうもありがとうございました(^o^)丿
でも絶版になってるものが多いのですね(´・ω・`)
「あなたの大きさに気付いたときににあなたはいない。。」人生って
上手くいかないものなのですね(´・ω・`)
我が家にある本は御書講義全集はがっかーい版のなので
ちと問題がありそうです。

質問したいなあ。。と思っていた個所を独歩さんが訊いて下さったので
このままお話をロムいたしましゅる。

387犀角独歩:2003/01/20(月) 13:36

みかんさん:

有り難うございます。

実は私自身、自然な訓読としては石山読みであると個人的には思っています。
しかし、日蓮は先に挙げたとおり『報恩抄』において三つの法門中、本門本尊を「本門の教主釈尊」と定義しています。題目の(南無)妙法蓮華経、つまり、漫荼羅中尊に等しい言については「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし」であるといいます。(蛇足ですが、本門戒壇については何ら説明もありません)

故に自然な訓読と思える「本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊」では『報恩抄』にいう“本門本尊・教主釈尊が脇士にもなる”不都合が生じてしまうと思えるわけです。実際、『報恩抄』では「上行等の四菩薩脇士となるべし」と明確に脇士についても定義されています。そのことから見れば、「本門の釈尊を脇士と為(な)す」では脇士の定義が異なるという不都合も生じることになります。

これはけっして、みかんさんを批判してなどと言うことではなく、一つの難問を、ここに考えてみる試論と言うことで、ぜひ『報恩抄』との整合性のご賢察をお聞かせいただきたいと願うものです。

388犀角独歩:2003/01/20(月) 14:27

―387からつづく―

一つ記し落としました。

> 「終始父母」…説を唱えている方…お名前…本

申し訳ありません。これは私の勝手な想像を記したまでのことです。
焼失した『開目抄』真跡、該当部分が「しうし」か「したし」か、今となっては憶測の域を出ませんが、「しうし」という仮名書きであったとすれば、他にも様々な可能性が考えられるのではないのかと思って記したことでした。

389犀角独歩:2003/01/20(月) 14:40

みかんさん:

もう1点、ご意見をお聞かせいただきたいのです。

『本尊抄』の「其本尊為体本師娑婆上」の文につき、この本尊に掛かるのは、その前文「但召地涌千界説八品付嘱之」にということになります。それで、ここでいう「之」はさらに前文の「本門肝心於南無妙法蓮華経五字」です。となると、本尊は南無妙法蓮華経と見えます。たしかにここまで読むと本尊は「南無妙法蓮華経」であると思えます。

ここで目を引くのは「本師」の二字です。「其本尊」は「本師娑婆上」というわけです。さらに前を見れば、「我等己心釈尊五百塵點乃至所顕三身無始古仏」であり、その仏は寿量説法の次第の如く娑婆にあって「仏既過去不滅未来不生」であるというわけです。その仏が本師であるとなりましょうか。

私にはここの文「其本尊」に始まる部分の結論は「来入末法始此仏像令出現歟」にこそあるのではないのかと思うわけです。

前文ばかり読めば、言われるところの本尊は字像を漫荼羅として座配、図示すれば事足りるように思えます。けれど、ここには確かに「仏像」の二文字があります。

「南無妙法蓮華経」が「仏像」かといえば、これは苦しい。つまり、この仏像とは本師・本尊の仏像という意味にならないでしょうか。そうなると、本尊とは図示漫荼羅というより、寿量仏、『報恩抄』にいう「本門の教主釈尊を本尊」であり、その仏像ということにならないのかと私には思えるわけです。

ここで「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空」の件は本尊を南無妙法蓮華経としてしまうと、本尊・本師・宝塔ともに南無妙法蓮華経となってしまいます。そうなると「仏像」の二文字の意味がまったく取れなくなります。

この点を、みかんさんは、どのようにお考えになりますか。
ご賢察をお聞かせいただければ有り難く存じます。

390犀角独歩:2003/01/20(月) 16:45

つぶやきです。

「来入末法始此仏像令出現歟」の文の後には「本門壽量品本尊竝四大菩薩」の文が来るわけですから、本尊を漫荼羅とすると漫荼羅の横とは別として、さらに四大菩薩を置くという配置になります。しかし、本門壽量品本尊を寿量仏・教主釈尊仏像と見做せば、いわゆる一尊四士の奉安となります。この場合、やはり、本門壽量品本尊を仏像と見做すほうが自然であると私には感じられます。

一つの可能性として、よく言われることですが、本尊=教主釈尊=妙法蓮華経ということは、もちろん、考えられます。しかし、この説明は「仏像」の説明には少しもなっていないように思えます。

では、「為体」と示されるところは何事かとなります。

「宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿十方諸仏処大地上表迹仏迹土故也」の「釈尊脇士上行等四菩薩」を、先より取り沙汰している「地涌千界出現本門釈尊為脇士」の石山読み「本門の釈尊の脇士と為し」と対校して読めば、「釈尊は上行等四菩薩の脇士」とせざるを得なくなります。しかし、もちろん、釈尊の脇士=上行等四菩薩であることは「本門壽量品本尊竝四大菩薩」の文との整合性からも明らかなように思います。

この文を読んで着目するのは「塔中」の二文字です。前文の「宝塔」を受けているのでしょうから、塔中とは「宝塔の中」の意であることは疑う余地はありません。この「中」はどこまでの範囲を言うのでしょうか。宝塔品の文で勘えれば、涌出の宝塔の中には元より多宝如来が在り、そこに釈迦牟尼仏が並座するとなります。そして、神力をもって衆をして虚空の上げるというわけです。「塔中妙法蓮華経」の文を取り敢えず依用すれば、宝塔の中には妙法蓮華経の五字が掛かりそこに多宝如来が元より在り、次いで釈迦牟尼仏が並座したということになります。その他の衆は虚空にあり、他方迹仏は大地からこれを仰ぎ見ているという記述です。

文字で書かれているので、宝塔が漫荼羅には書き込まれていないけれど、宝塔品の記述に従えば、塔中には他方如来と釈迦牟尼仏しか在らず、さらに本尊抄の記述を足せば、その塔中に妙法蓮華経の五字もありということになるのでしょうか。

ところでこの塔とは、他方如来の為の宝塔であるという点があまり取り沙汰されていないように私は思います。『開目抄』でも、この点は明瞭に「多宝如来、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じ」とあり、この塔は多宝如来塔であることは、はっきりしています。

もし、日蓮漫荼羅がこの宝塔を図したものであるというのであれば、多宝如来塔を図したというに異ならないことになるわけです。ここでこの宝塔=漫荼羅が末法の為の本尊であるというのであれば、それは取りも直さず、多宝如来塔信仰確立になってしまわないのかという疑問が私にはあります。

以上はあくまでつぶやきですが。

391菱村正敏:2003/01/20(月) 16:47
横レス失礼。

 日蓮の本尊観あるいは本尊定義には整合しており矛盾があるまいという
前提にたつと「本尊抄」の当該漢文の読みを、本来しない苦しい読み方を
しないと不都合になりますね。それはココでたまに言われているところの
坊主の学問・教養になっちゃうんではないでしょうか?

 ですから、独歩さんのような立場のかたは、このような順逆の読み方を
認知していく手段としては、当時に書かれた誰かの書物で同例をさがして
示すことも必要ではないでしょうかね。

 ここの読みについては本尊論資料(臨川書店)404頁・549頁あた
りを、もし見ていなければどうぞ。

392今里祐二:2003/01/20(月) 18:47
アネモネさん

>木製の物質ではないのですか?とすると、何なのでしょうか。

僕は「木製の物質」であることを否定などしていませんが…。もう少し落ち着いてよく読んでみてください。

戒壇の大御本尊様は、大聖人様が滅後の衆生の為に御自身の御身代りとして残されたもので、
自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束です。

ところで仏教には「色心不ニ」という教えがあります。
初歩的な事なので説明は省きますが、「色」を離れて「心」はありません。
「色」を離れて「心」を立てるのが外道の特徴で、「宇宙根源の法則」などがその代表事例です。
つまり「木製の物質」である所の戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はないのです。

>「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」とのご発言から察するに(略)

僕は自分が地獄に落ちることはないと確信を持っています。

>>宗教って、そういうもんじゃないですか。
>私はそうは思いません。

それでは宗教って、どういうものなのですか?

>ご自分のことはそれで済むでしょう。しかし、今里さんの誘いに乗って信心を始めた人はどうなのでしょう。

成仏できると信じています。

>今里さんのように無責任でいい加減な態度のロムを読むと、黙ってはいられないのです。
>今里さんに限りませんが、大御本尊様さえ信じていれば人間としての振る舞いは二の次、三の次という方、

これは「必ず文証を示す」という、この板のローカルルールのようなものを破った、という事ですか?
僕は大聖人様の御真筆だけを文上のままで読んでいけば独歩さんのような結論に成らざるを得ないだろうという事は解っていたので、
「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」という事を言いたかったのです。
僕の文章力が未熟で、不快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんでした。

それにしても、ここ数日間では、誰よりもたくさん謝っているんですけど…。

393犀角独歩:2003/01/20(月) 19:26

菱村正敏さん:

ここで私が問いを設けたのは、みかんさんがどのようにお考えになるのか、という興味に基づくものです。これは私が個人的にみかんさんのお考えに興味があるからです。

395犀角独歩:2003/01/20(月) 19:45

今里さん:

また、勝手に私の考えを曲解して載せています。
このように私が言っていないことを記すことを何度も抗議してきたはずです。
いい加減にしてください。

> 独歩…「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」
私はこんなことは一度たりとも言っていません。エドさんに答えた如く「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように語る」ことは無責任である言っているのです。
あなたの392の記述の如くに、です。

それにしても「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

396犀角独歩:2003/01/20(月) 19:52

【390の訂正】

誤)宝塔品の記述に従えば、塔中には他方如来と釈迦牟尼仏しか在らず
正)宝塔品の記述に従えば、塔中には多宝如来と釈迦牟尼仏しか在らず

誤)ところでこの塔とは、他方如来の為の宝塔である
正)ところでこの塔とは、多宝如来の為の宝塔である

397犀角独歩:2003/01/20(月) 20:03

今里さん:

395の、私の記述は撤回し、以下のように書き換えます。

「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

398犀角独歩:2003/01/20(月) 20:41

みかんさん:

私は宗派教義から文を読み解くことを不謹慎であると思います。
ですから、日蓮本仏義に否定的でありながら、しかし、純粋に、漢文読みとしてのみ、石山読みを採り、しかし、本佛義を採らないみかんさんの在り方に深く賛同するものです。

しかし、何か非常に重い質問を寄せさせていただきました。
いつもご賢察を載せられるみかんさんのご意見を伺ってみたいという気持ちからです。
それ以上の意味はありません。
読み直してみて、過去にもこの掲示板でもやや論じあったことですが、一長一短に答えを書き連ねられるほど、簡単なことでないことは理解しております。
お暇な折にでも、お記しいただければ有り難く存じます。

399エド:2003/01/20(月) 21:12
独歩さん

>ここで議論されていることであれば、日蓮の真跡か否か、日蓮が実際に説いた教義であるかどうか
>という証明に基づく限定を設定して、日蓮本仏論については考えるべきだということです。

その教義が日蓮の真跡か否か、日蓮の実際に説いた教義であるかどうかを証明できるのか否か、それを
精査検証されているという意味ですね。するとそれは文献学的な証明の範疇で、日蓮の教義(おしえ)
そのものが証明できるか否かという問題とは異なる、ということになりましょう。了解いたしました。

>「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、
>それを逆手にとって真>理のように語っている」のがカルト理論であるという意味です。

ハッサン述べるところの「カルトは証明できない教義によって成り立っている」という“教義”(doctrine)
は、いわゆる教義(教え)の内容に対しての言及であり、限定された条件による史学的ないし文献学的論証
に限られたことではないと考えます。
極論ですが、独歩さんの言葉を借りるならば、世にあまたある宗教の教義はすべて「証明できないことを、
さも証明できることとして論じ」「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように
語っている」と言えるのではないかと。その是非、その意図的であるかどうかは別として。
そこで独歩さんの見解をお聞きしてみたかったわけです。独歩さんを決して批判するつもりではありません。 

宗教の教義は科学のように合理的論証によって証明されるものではなく、信者も、教義そのものに証明を
求めてはいない、というのが現実ではないでしょうか。そこにカルト付け入るる隙もあるのでしょう。
現在、カルトに対しては世界共通認識としての定義が定まっておらず、ハッサンのカルト定義をそのまま
鵜呑みにし、文節を取り出してそれにあて嵌めることにのみ熱心である傾向を随所で見かけているのですが、
それに少々抵抗を感じておりました。それで、先のぶしつけな質問になった次第です。

独歩さん、飛び入りトピずれにお相手して頂きましてありがとうございました。

400困ったという字:2003/01/20(月) 21:32
つぶやきスレッドということなので挨拶は省略させてもらいます

今里サン、過去ログをしっかり読んでから書き込むようにしなさいな。
本仏論も血脈論も本尊論も、あなたは過去ログをなにひとつまともに読んでいないとしか思えないよ。
あなたの書き込みに真摯さを感じているロム者はほとんどいないんじゃないかな。

過去ログというのは、基礎的な知識、ということなんですよ。
あなたの発言は俗にいう「唐人の寝言」以下に思えます。
あなたの書き込みを読んでいると、あなたの信じている宗教はなんと無力な宗教だろうという気がします。

この掲示板は宗教ゴッコの場ではありません。
もちろん自分の信仰を宣伝したり勧誘したり押し付けたりする場でもありません。

401犀角独歩:2003/01/20(月) 21:38

エドさん:

非常にご賢察をお示しくださり、有り難うございます。
私自身、いわゆる破壊的カルト・マインド・コントロール論を無謬に扱うわけでなく、今後、蓄積されるデータによって逐一、書き換えられていく前提で引用しています。これは当然のことです。近日では、専門家から Abuse という視点を加味し、破壊的カルトの心理操作は Abuse の下部構造として機能しているという興味深い仮定も示されています。

「世にあまたある宗教の教義はすべて」以降の記述はまさに私の懐く疑問なのです。ただし、証明ができない故にその教義による宗教を捨て去るという極論を言うのではなくて、社会的批判の俎上に立ちながら、修正されるべき点は修正されて然るべきと考えています。

また、ご質問のみならず、ご賢察をさらにお聞かせ願えれば有り難く存じます。

402今里祐二:2003/01/20(月) 21:39
独歩さん

>「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

僕のような信徒の立場からすれば「御相伝」という事になるのですが、大石寺自体に「御相伝」と呼べるべきものがないそうですし…
日有上人の頃からそのような考えが現れたとするなら、日有上人が「大聖人様が本仏だ」と悟られたという事になります。そして日寛上人の代で教義としてほぼ完成したのでしょうね。
仏様の悟りとまではいかなくても、信徒としての分々の悟りはあると思いますし、そういうものの積み重ねが「日蓮本仏論」ではないかと思っています。

その考えが正しいか間違いかは、客観的に判断できるものではなく、正しいと思える人は信じ、そう思えない人は信じない、という事になるかと思います。

>戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

これは独歩さんの仰るとおりだと思います。証拠があれば皆が安心できます。でも証拠は無い…。
証拠が無いから偽者だ、と言う事も出来ないわけで、これも、正しいと思える人は信じ、そう思えない人は信じない、という事になるかと思います。

だた、これは僕の考えなのですが、「戒壇の大御本尊」を否定してしまったら、もう後は「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていないと思います。「戒壇の大御本尊」の代わりになるものを出せる人は誰もいないのですから。

ですので、僕は「信じるしかない」という立場に立っています。

403困ったという字:2003/01/20(月) 21:47
>、「戒壇の大御本尊」を否定してしまったら、もう後は「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていないと思います

具体的にその理由を述べてもらいたいと思いますが、つぶやきスレッドではなく、新たなスレッドか本尊スレッドでお願いしたいです。


>戒壇の大御本尊」の代わりになるものを出せる人は誰もいないのですから。

代わりになるものが必要なのですか?
必要だとしたらそれは何故ですか?

404犀角独歩:2003/01/20(月) 21:51

○色心不二

「色心不二」は著名なところでは湛然著『法華玄義釋籤卷第十四』十不二門に挙がります。決して「初歩的な事」などではありません。

一色心不二門者。且十如境乃至無諦。一一皆有總別二意。總在一念別分色心。何者。初十如中相唯在色性唯在心體力作縁義兼心色。因果唯心。報唯約色。…

(手許に訓読テキストがないので、雑駁に読み下しますが)
一に色心不二門とは、且く十如境乃至無諦、一々に皆総別の二意あり。総じて一念は分別して色心あり。何者ば。初めに十如の中、相は唯色に在り、性は唯心に在り、体力作縁の義は色心を兼ねる。因果は唯心、報は唯色に約す…

と説明は延々と続きます。日蓮はこの義を踏襲するのは至極当然のことなのですが、真跡中「色心不二」は『木絵二像開眼事』に一カ所見えるのみです。ここでは

「仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」

とまず生きておわした三十二相の仏に対して、仏の木像・画像は梵音声とを欠く(故に三十一相)で、心も欠くので天地雲泥の相違があるといいます。
けれど、

「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり」

といい、仏像・画像の前に法華経を置けば純円の仏となるといいます。すなわち、これは法華経が梵音声を不可見無対色で仏像・画像に書けないところを法華経を仏の梵音声なので、置くことによって三十二相を具足することになると言うほどの意味合いでしょう。すなわち、ここに色不二を説明として使用し、

「意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。」

というのです。(梵音)声は色法。仏の心より色(梵音声)をあらわす。また、(梵音)声を聞いて心を知る。色(梵音声)が心(仏の御意)を顕すのである。色(梵音声)心(仏御意)不二なるが而二とあらわれて、仏の御意はあらわれて法華の文字となる。文字は変じてまた仏の御意となる、と言います。

これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。

もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。

なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。

405犀角独歩:2003/01/20(月) 22:00

402 今里さん:

このような記述のされ方で在れば、議論の余地があると思います。
また、記された日蓮本仏確定の過程は類推として、説得性はあると思います。

> 戒壇之漫荼羅…でも証拠は無い

かつて、ワラシナさんが科学的に放射性炭素による年代測定を提案されたことがあったと記憶します。

もし戒壇之漫荼羅が750年前に実際に作られたものであるとすれば、これは国宝であると見てよいはずです。ですから、是非ともその真偽を科学的に調査するべきであると私は思います。

> 「戒壇の大御本尊」を否定…「日蓮仏法の混乱」という事態しか待っていない

私はこのようには思いません。
また、実際、混乱するとしても、否定されるべきが否定され混乱するのは致し方のないことであると思うばかりです。

ただ、そうなると信じる立場は道標を喪うという危惧はそのとおりでしょう。
しかし、実際、その危惧は始まっています。故に事実認定に基づく新たな信仰の確立がそれを信じ勧めてきたものの責務ではないのかと私は考えているわけです。

406犀角独歩:2003/01/21(火) 12:02

○有師・化儀抄に見る「本尊」観

有師の本尊観はたしかに際だった特徴を示します。

(1) 当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし…未断惑の導師を本尊
(2) 釈尊の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人
  …四依弘経の人師…地涌菩薩
(3) 只十界所具の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり、是れ則ち法華経
  …法華経計りに限りて本尊とする

この(1)(2)は共に日蓮を本尊とすることを言います。
しかし、ここでは実は日蓮本仏義は展開されていません。(1)に「未断惑の導師」といい、(2)に「人師」という如く、有師の日蓮観は日蓮=人師という枠組みから出ていません。ただし、「四依弘経の人師」とはその次下に「末法四依の人師、地涌菩薩にて在す」といい、すなわち地涌菩薩であるといいます。この菩薩道の人師は釈尊の因行、すなわち「我本行菩薩道」、同じく菩薩行を本尊としているのが有師の本尊観です。もちろん、ここでは釈尊・日蓮同体論は見えません。

そして、もう一面(3)には「十界所具・所図・本尊…法華経・本尊」という別立ての本尊観を示します。これは興師古写本?を遺す『本尊問答抄』以来の法華経題目本尊論の系譜でしょう。しかし、有師に人法一個思想は見られません。

この人法一個という思想は、恰も石山独一の論の如く石山信徒で思っている人があるようですが、文献で見る限り、この考えは房州我師が先行するのであって、郷門の系譜であることが指摘できます。

では、有師における日蓮と漫荼羅のこの対象はいったい、何を意味するのか。「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」というときの日蓮は、おそらくは日蓮御影本尊を指しているのではないかと私は考えます。重須より、日蓮御影像の背に十界漫荼羅を置く奉安が定まっていた興門において御影・漫荼羅奉安形式に基づいて説明されるのが、日蓮・漫荼羅本尊観なのではないのかと私は読みます。

そして、重要な点、この奉安は人(仏)・法一体を示すものではなく、人=菩薩−因行・法をそれぞれ示すのが本来の意義であったということです。因行−日蓮、文字通りの「人」と漫荼羅という法を示す奉安形式であったのだと、有師の記述からは考えられます。

有師の発想は人師・菩薩本尊、法華経本尊の二本立てであったと知れるわけです。

407犀角独歩:2003/01/21(火) 13:21

○「日蓮本仏」の初出

日蓮本仏論を初めて述べるのも、実は石山ではありません。
文献では『五人所破抄見聞』であるというのが一致した意見です。
ここに

「不軽ト日蓮トハ本仏也。威音王仏と釈迦仏とは三十二相八十種好の無常の仏陀、不軽と上行とは唯名字初信の常住の本仏也」(富要4-1)

とあります。

著述は妙蓮寺5代眼師の著述と言われてきましたが、現在、これを直ちに鵜呑みにする学者はおりませんでしょう。著述年代は富要の文末で見る限り、

「伝写本云
 康暦二庚申年六月四日書畢
 本化末弟日眼在御判」

とあるので、西暦にして、1379年の書と見られると思いしや、この点は実に疑わしい。その理由はまず「康暦二」という年はなく、「天授三」とすべきであるけれど、この年は「庚申」ではなく「己未」です。また、伝写本で、真筆を見ません。

しかしながら、『五人所破抄見聞』というこの書は、誰が一体、いつ記したものかは日蓮本仏義発生の大きな鍵を握っているのは事実であろうかと思います。

なお、伝眼師述のこの書においても、いわゆる人法一個は論じられず、漫荼羅についても独自の見解を示しています。すなわち、

「本仏ヲ貴ム人ハ本国土妙の大曼荼羅ヲ信仰シ奉ル也」

と言います。いわば、本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本箇妙、仏果を合論して得るという伏線があるようにも受け取れます。

いずれにしても、ここに「妙蓮寺・日限」の名を残す以上、この思想系譜を同寺に見ることはさほど蛮勇とは思えません。

となれば、日蓮本仏義は妙蓮寺に緒を見、人法一個は保田妙本寺、そして、一大秘法開合六秘の人法本尊の展開は寛師に、徐々に前説を当宗、批正しながら形成されていったのでしょう。もちろん、これは雑駁な記述であって、実際はさらに詳細な事情がありますが、大まかに言えば、そのように概観できます。

日蓮本仏義は、少しも石山のオリジナルではなく、また、他山に見られる故に唯授一人の相伝でもないことは、しかし、概観できようかと思います。

408犀角独歩:2003/01/21(火) 13:23

【407の訂正】

誤)徐々に前説を当宗、批正しながら形成
正)徐々に前説を踏襲、批正しながら形成

409犀角独歩:2003/01/21(火) 13:26

すみません、もう1カ所訂正

誤)本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本箇妙
正)本因の菩薩行・日蓮、本国土妙・漫荼羅を以て本果妙

410犀角独歩:2003/01/21(火) 15:00

○そもそも本仏とは何か

私は本仏という言葉について、そもそも非常に違和感があります。
この言葉の意味するところがあまりに曖昧であり、かつ石山教学では少なくとも二つの本仏論が混在し、論者がどちらを以て語っているのか不明瞭であることが多いからです。

二つの本仏論とは現石山などで言われる、一つは本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊、もう一つは本仏=釈尊=日蓮の二つです。寛師を学んだ人であれば、寛師教学の至極は後者であることを了解しているでしょうが、現在流通しているいわゆる教学入門書などでしか読んでいない人は前者であると思っているはずです。

次に、そもそも本仏とは何でしょうか。この語彙は既に文句、玄義に見られます。ここでは「本仏・迹仏」の対句で見られ、次いで釋籤では「開權顯實即識迹佛之所從生。開迹顯本即識本佛之所從生」と記されます。誤解がないように記しますが、この場合の本仏・迹仏は同体なのであって、ただ、開顕顕実を迹仏・開迹顕本を本仏といい、通じて釈尊一仏における「顕」れの相違を論じるのみです。

寛師が、こんな基礎を知らないわけはありませんから、いわば、釈尊・日蓮の同体を基本にして、開迹顕本を迹仏・開脱顕種を本仏ほどの意味で論を立てたのであろうと推測されます。いわゆる本種迹脱の伏線です。(断るまでもありませんが「開脱顕種」は意を示すためにここに造語した言葉です)

しかしながら、現行、言われる日蓮本仏というのは、この点とまったく趣を変えているように窺えるわけです。

一体、台学でいうような迹仏を簡んで本仏というのか、あるいは垂迹仏を簡んで本(地)仏をいうのか、あるいは権仏を簡んで本仏というのか、はたまた非仏を簡んで本仏というのは、あるいはそれ以外なのか、釈然としません。時には根本仏を本仏という如く言も見られますが、これでは「心実相・我一切本初」の如くであり、あるいは全知全能の神の如く、本来の仏陀−覚者という本来の意味からも脱線し、聖書の如き絶対者に日蓮を仕立てる如きは、まさに石山歴代の言とも相違するところとなります。

日蓮本仏論を語るのであれば、まずはこの点を整理し、人に披露し、整然と論を宣べるべきであると私は思います。

411犀角独歩:2003/01/21(火) 17:17

石山系譜における「本仏」を探っていたところ、道師の『御伝土代』にその語彙の使用がありました。

「日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の“本仏”なり」

 日蓮聖人の仰ったこと。本地は寂光である地涌の大士上行菩薩は六万恒河沙の上首である。久遠実成釈尊の、最初に結縁し道心を発(おこ)せしめた第一の御弟子である。
 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常に在って滅せず、我れ本(もと)菩薩の道を行じて成ずる所の寿命、今猶未だ尽きず復(また)上の数に倍する本仏である。

先文は上行菩薩を嘆じ、後文は本門教主を嘆じています。ここに「本仏」語が見えます。言うまでもなく、「我本行菩薩道」の引文は寿量品三妙合論中、本因妙を顕すとする文ですから、この「本門教主」本仏は、疑いなく寿量仏・釈尊を指しています。

ところがこれは、いまは日蓮本仏を言う石山にとって、まことに都合の悪い文章であるわけです。それ故、『日蓮正宗要義』では、あろうことか

「久遠実成無作三身 乃至 我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり」(聖典600)
と本因妙の仏といわれるのは、文底観心の重では上行菩薩が久遠実成の三身であることを暗示されるもので、もし教相の本果仏をとるならば「我本行」以下は“必要がない”文となる。(要義251頁)

と、目師から唯授一人の血脈付法の正師と持ち上げる石山4代の文章を添削し、「必要がない」と言い切っています。これが石山がいう唯授一人の正体かと呆れ果てます。
要は歴代の言であっても、現行の教学からして都合悪ければ、「必要ない」と切り捨てることによって成り立っているのが日蓮本仏論である好見本として、ここに提示しておきます。

(注:六万恒河沙は正しくは六万 [河-可*亘] 河沙です)

412犀角独歩:2003/01/21(火) 18:16

さて、もう少しだけ『御伝土代』を。

「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや」

ここに「三身即一の有縁の釈尊」と明確に釈尊の名前が見られます。411に挙がった本仏です。
ここを『日蓮正宗要義』で見ると、

「釈尊が表現として三大秘法抄の人本尊を受けるもので、大曼荼羅能弘能顕の仏、日蓮大聖人を指されている。文によってのみ義を判ぜず、義をもって文を見なければならない。日興上人日目上人日道上人と相伝して御影を仏と拝し、大曼荼羅即日蓮大聖人と拝する信条の本義の上から文を見極めることが大切であろう」(同251頁)

これまた曲解の限りを尽くしています。

そもそも、この文は前文の「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」を受けるのであって、もし、この「釈尊…日蓮大聖人」と読み替えてしまえば、「法華本門の日蓮は日蓮等の四菩薩を脇士となす」となってしまい、まるで意味をなさなくなります。
それに「日興上人日目上人日道上人と相伝」した血脈付法の“法主”の言を本義の上から読み替える必要が、どこにあるのでしょうか。この本の著述は宗務院であって、歴代ではい。つまり、付法にあらざるものが付法の言を読み替えろと言っているのに等しいことになります。
いったい、道師とは如何なる人物であるというのでしょうか。末の不付僧が読み替えなければならない文章を書いたとは、よくぞ言ったものだと、ここでも呆れものです。

なお、この著述のなかで「御影を仏と拝」すると明言されています。石山僧俗の中には御影を仏像と拝することに異議を唱える人がいますが、少なくとも、ここでの記述ではこのようになっている点は記憶されるべきでしょう。

もう一点。「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」と、道師もまた「二千二百三十余年」であることを記しています。しかしながら、戒壇之漫荼羅は「二千二百二十余年」です。
たしか石山では目師から道師が戒壇之漫荼羅を別付されたとするのですから、道師はなんと、その戒壇之漫荼羅を無視して、他の「二千二百三十余年」と記された漫荼羅を取り沙汰していることになるわけです。

文を「必要ない」と切り捨てたり、「読み替え」たりしなければ、辻褄が合わない教義であると道師を物笑いにしているのが、この『日蓮正宗要義』の該当の記述と見えます。

413犀角独歩:2003/01/21(火) 19:09

昨日、今日と2日間。時間が空きましたので、まとめて少し投稿させていただきました。
が、気が付いたら、こちらはつぶやきすれっどでした。
今後は、それぞれの項目に投稿させていただきます。
管理人さん、すみません。

414今里祐二:2003/01/21(火) 19:38
独歩さん

>>404
>これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。

ここは独歩さんと意見を異にしますので、以下理由を述べます。

第一点は『木絵二像開眼事』は木絵二像についての御指南で、大聖人様が顕された御本尊様に対しての記述ではないという事。

第二点は、大聖人様は『日蓮は広略を捨てて肝要を好む』(法華取要抄)と言われるように、肝要を好まれたお方です。
『木絵二像開眼事』の冒頭に『仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。』
とありますが、大聖人様御自身は、可見有対色の三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕すことにより、御本尊様を直ちに三十二相具足の純円の仏とされたのではないかと推察しています。
『仏に三十二相有り、皆色法なり。』という事ですので、戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つのではないかと考えています。

>もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。

この点はご指摘の通りです。ただ「そうではない」という証拠も無い訳で…。

>なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
>つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。

これは、みかんさんからご指摘を受けた時は僕自身まだよく解っていませんでした。ご教示ありがとうございました。その後自分なりに考えた事があるので記してみます。

『下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

「自受用身は本、上行日蓮は迹」と優劣を論じる場合と「自受用報身如来の御當體」と大聖人様を直ちに「自受用報身如来の御當體」と論じる二種類があるのは、大聖人様の御生涯の中での優劣を判じる為ではないかと考えました。
御幼少の頃、蓮長と名乗られていた頃、あるいは立宗宣言された後も、御食事を召し上がっておられる時、用を足しておられる時、等々、いわゆる普通の人間として生活しておられる時は「自受用身は本、上行日蓮は迹」。

それに相対して、出世の本懐を遂げられた時、つまり戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様の大慈大悲の御一念は「自受用報身如来の御當體」そのものであるのではないか、という事から、その時の大聖人様の御一念をそのまま顕した「戒壇の大御本尊」を「自受用報身如来の御當體」というのではないかと考えました。

415今里祐二:2003/01/21(火) 19:38
(つづき)
つまり僕達信徒が帰命しているのは、いわゆる普通の人間として生活しておられる時の大聖人様ではなく、出世の本懐の時・戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様である、ということです。
ただ、出世の本懐の時の大聖人様は、普通の人間として生活しておられる時の大聖人様に依存してしか存立し得ないので、分別として分ける事は出来ても、実際には分ける事は出来ないと考えています。

戒壇の大御本尊様をお顕しになった時の大聖人様の御一念が、本当に「自受用報身如来の御當體そのもの」であったかどうかは、他人にはうかがい知る事の出来ない事であり、証明は不可能です。
またこの事は、いわゆる物質としての戒壇の大御本尊様が「100%大聖人様の御真筆である」という事が証明されても、その戒壇の大御本尊様が「自受用報身如来の御當體である」という事は証明されない、証明不可能という結論になると思います。

ここまで考えて「やはり仏法とは信に始まり信に終わるのだなぁ」と思いました。
もちろん、これは信徒としての僕の考えであり、他人に押し付けるものではありません。

>二つの本仏論とは現石山などで言われる、一つは本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊、もう一つは本仏=釈尊=日蓮の二つです。

僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。
一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。
(まぁ、独歩さんのされている提案に比べれば、ずいぶんカワイイものですが…)
大聖人様の事を釈尊に相対し百千万億倍勝れた仏と立てれば「不ニの尊体」と称し管長を大聖人様のごとく拝する悪弊も少なくなると思いますし、また、そのことによって血脈の尊貴が損なわれる事も無いと考えています。

困ったという字さん(はじめまして)、からのご提案もありますので、重ねての議論はスレッドを移動したいと思いますのでよろしくお願いします。

最後に、僕の不徳により、本来楽しいつぶやきの場であったこのスレッドが論争の場のようになってしまったことを謹んでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

416犀角独歩:2003/01/21(火) 20:23

今里さん:

うん。まあ、一所懸命に頭を捻ったのはわかります(笑)
ここはつぶやきなので端的に2点だけ。

> 戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つ

考えは何でも成り立つでしょう。でも、その考えが日蓮によるからこそ、日蓮(正)宗というわけでしょう。今里さんの考えであれば、今里宗になってしまう。日蓮の正しい宗であれば、日蓮に根拠を求めるべきであると言ってきたわけです
私は文を挙げているのだから、今里さんも文を挙げればよいわけです。
例えば私だって自分の考えを延々と記すことが可能ですよ。でも、それじゃ、ジャッジのしようがなくなります。

ちなみに『木絵二像開眼事』では「三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏」という記述があります。これは明快ですね。日蓮が仏像を否定しているなどと少しも見えません。

ですから、同じように、どうすれば、日蓮漫荼羅が日蓮本仏であるか、その根拠を示せば、皆が納得するということになります。

> 本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべき

これは要するに寛師教学全面肯定を覆したと取っていいわけですね。

私は、この掲示板で書いてきて、いつも言っていることですが、前言を覆すことは恥ずかしいことではないと思います。みかんさんのご指摘を受けて考えを変えた、私は立派なことであると思いますよ。

いずれにしても今里さんが日蓮本仏義を宣揚したいと考えたいのであれば、どのような方法が最も効果的か、と言うことです。
自分の考えを書き連ねることなのか、それとも日蓮の言をもって説明することなのか、どちらが説得性性があるか、私は自明であると思うわけです。

まあ、ご健闘をお祈りします。
ここはつぶやきなので、これ以上、突っ込むことはしないことにします。

417アネモネ:2003/01/21(火) 20:37
今里さん

>戒壇の大御本尊様は、大聖人様が滅後の衆生の為に御自身の御身代りとして残されたもので、自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束です。

もはや私には、日蓮正宗のお約束だから、それが正しいんだと信じることはできないところに来ています。そういう思考が組織の論理であり、そのような論理や思考が、果たして本当に教祖の示す教えだったのだろうか、というのがこの掲示板で長く考えてきたところであると思うんですね。
このことはおわかり頂けるでしょうか。
また、何度も書いていることですが、絶対に日蓮正宗は正しいとアナウンスを受け指導されながら、実際にその組織の中で活動をしている人たちの姿に目を向けると、僧俗ともに仏教徒とは思えない心無い姿ばかりがどうしても目につきます。今里さんはお感じになられたことはないでしょうか。私は、そのことが掲示板に参加するキッカケとなり、また私の大きな問題意識でもあるのです。それは日蓮正宗に限らず、現代宗教が抱える最大の問題ではないだろうかとさえ思い、自分に問い掛けてきました。それは同時に、社会問題でもあるとも思うからです。

そしてそのことを、私が意識するよりももっと前から意識を持って取り組まれ、しかも、ただ思索にふけるだけではなくて、体系的に文献を深く研鑚されてこられた方々が、この掲示板に貴重な内容を記して下さってきているわけです。
これまでの掲示板の流れの中で、日蓮正宗のお約束として教えられてきたことが、長い歴史の中、解釈や他門の流儀なども加えられながら、教団の都合でかなり変遷し教祖の教えからおよそかけ離れたものとして、今日に伝えられてきている可能性もあるということがわかってきたわけです。
またその変遷の内実こそ、私が問い掛けてきた組織の論理そのものだったのではないかということにも気づかされます。

つまり日蓮正宗の歴史をひもとくことは、即現代宗教の抱える問題にも通じることだったともいえるわけです。

しかし、そんなはずはないという思いで信じ続ける人もいるでしょう。でも私はその道は選びません。感情的に信じたいという思いに固執して、立証されてわかってきたことに目を背けることは止めました。なぜならば、信じるべきものが教えられていることとは違っているかもしれないからです。そのことを、重大に受け止めようと思いました。もちろん間違っていないかもしれない。その可能性も残っていますが、それだけでは私はもはや絶対に信じるという気にはなれないですし、当然、そのわずかな可能性に賭けて、これが成仏の道だと断定して人に語ったりはしません。「信じている」という感情論でもって、人の大事な人生を左右することはしたくないと思っているからです。

組織の中では、お約束が絶対ということで通ることでしょう。しかし、この掲示板ではその言葉だけでは何の意味も力も持たないわけです。その言葉に納得させるだけの力を持たせたいならば、なぜそれが絶対と言い切れることなのかの根拠を示さなければならないという、非常に厳格なところにまで議論はきているわけです。
もちろん、これは掲示板で明文化されているルールなどではありません。今里さん流に自由に書いてかまわないのです。しかし、証明できないことを断定する表現で記された場合は、どうしても突っ込みが入ってしまうのは避けられません。突っ込みを回避しようとつぶやきスレッドに書いても、それを黙って見過ごすわけにはいかない人はたくさんいると思われます。

418アネモネ:2003/01/21(火) 20:37
(つづき)

>つまり「木製の物質」である所の戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はないのです。

この一文はとても理解できないのです。あの戒壇の大御本尊様と称している板曼荼羅を離れて、大聖人の心はないということでしょうか。そう指導されているとしても、私はそれをそのまま信じませんし、疑問に思うところでもあります。あの板曼荼羅に固執して離れない多くの人たちの人としての振る舞いそのものが、真偽を証明しているようなものだという見方だつて出来ようかと思われます。
しかし、この板曼荼羅については、菊水護国さんが記されている

383>当宗は本来、器物・物質信仰ではありません。その根本に有る法を拝しているのです。

こういうことであるならば、私も受け入ることは出来るでしょう。
しかし、あの板曼荼羅でなければならないという日蓮正宗の教義に関しては、それが本当に日蓮の意図したところなのかどうか、疑問を抱いています。


>僕は自分が地獄に落ちることはないと確信を持っています。

この点については、個人的な信仰観でしょうから、私の意見はこれ以上は挟まないことにします。

>それでは宗教って、どういうものなのですか?

私の宗教との関わりは、小学校2年生のときからですから、人生の大半の時間の流れの中に、信仰があったわけですね。オフ会でもお話した通り、キリスト教でしたから、今里さんから言えば外道の信仰です。しかし、絶対を理屈抜きで信じるという行為は、どちらも同じでした。だからこそ今里さんは、「宗教とはそんなもんでしょう」という言葉も出たものでしょう。しかしこの発言、日蓮正宗だけが正しいと言いながら、宗教とはそんなものだと、外道となんら変らないことを認めていることにもなりはしないでしょうか。この時点で今里さんは、潜在的には日蓮正宗といえども、結局は外道と同じだと思っていることになるかといえます。
まあ、それはそれとしても、ともかく私は、その当たり前に思ってきた「宗教とは」というそのあり方が、果たしてそれが本当にそうなのかということを、掲示板に参加した頃から考え続けてきています。
考えているところですので、こういうものですというお答えはできません。

宗教は支配者によって、常に利用されてきた歴史の側面もありますね。そのことが本当の教祖の教えを捻じ曲げられ違ったものになって今日に伝えられてきている側面があるわけです。日蓮正宗は750年間正しく教義を伝えてきたということからして、疑わしいわけです。だからこそ教祖の真の教えとは何だっただろうかという探求が、いま求められることであり、その探求の先にようやく、宗教とは、また仏教とは、ということが言えるのではないでしょうか。

419アネモネ:2003/01/21(火) 20:38
(つづき)

>成仏できると信じています。

お気持ちはわかりますが、しかし「信じている」では人の人生に対して責任を持っているとはいえないですね。感情論に逃げているだけです。
「宗教とはそんなものだよ」と納得してその先は一切考えない。証明できない真理もあるからと納得してその先は一切考えない。この一切考えないというところが、今里さんのいう「信心」ということになっているわけですね。ところが、かつて、みかんさんと独歩さんが仏教における「信」について、貴重なことを記している箇所がありました。そこでは仏教の「信」とは、私たちが今日当たり前に思っている「信」とは、かなり違っているものかもしれないということが示唆されていたかと思われます。
成仏を求めて「信じている」を通そうと思うならば、まずは仏教における「信」とは何かという問題を自分に問い掛けてみられることも大事ではないでしょうか。わかっているつもりのことが、実は全然わかっていなかったということ、よくあることです

>これは「必ず文証を示す」という、この板のローカルルールのようなものを破った、という事ですか?

いいえ、私はそのようなルールで意見を挟んでいるのではありません。自由に発言なさるのは構わないと思っています。しかし私は、自分の持つ問題意識において、そこに記されている内容に問題ありと判断したら、レスとして意見を挟ませて頂きます。そして今里さんの考え方、そして私の考え方がたとえ平行線であっても、その違いにおいてどちらがどうかということは、個々のロムされている方々のの内心の自由なご判断にお任せするところです。

>僕は大聖人様の御真筆だけを文上のままで読んでいけば独歩さんのような結論に成らざるを得ないだろうという事は解っていたので、
「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」という事を言いたかったのです。

結局今里さんは、目先の議論の展開のみに囚われたところで、レスを繰り返してきたということでしょう。つまり大局的にものごとを捉えておられなかったのだと思います。
今里さんは、まず結論ありきで自らを縛り、そのことだけのために、突っ込みを避けたり、質問を交わしたり、罠を仕掛けたり、言い訳をしたりとしてきたといえるのではないでしょうか。しかしそれでは、議論は堂々巡りになるばかりでした。
考えてもみて下さい。この場で大事なことは、真実は何であるかの探求だと思います。証明されない結論は、この場では真実の結論だとはみなされないわけです。つまり、今里さんの信じている動かし難い結論が、必ずしも日蓮聖人の真の教えであるとは言い切れないということです。そのことをどのように自分の中に受け入れるかは、それは個々の自由です。感情的にそれでも信じると受け止める人もいるでしょう。しかし、議論の場にその思いを持ち出されても、いつまでも堂々巡りする不毛な議論になるだけなのです。
「信じている」は感情論だということ、そこをまず認識して、感情論に逃げないところで議論をして頂きたいと思います。感情論に入ると、真実が見えてこない場合が多いということ、おわかりいただきたいと思います。
しかし、内心において感情的に信じつづけるということ、これは自由なんです。そのことまでは私は立ち入らないつもりです。

420アネモネ:2003/01/21(火) 20:40
(つづき)

ここではロムの方も含めて、みんな真実を求めているといえます。真実を求めているが故に、科学的な分析から証明されてしまったことからは目を反らさない姿勢を大事にしているのでしょう。そうした過程においても、正しいと信じていたものと辻褄が合わなくなってきているわけです。
ですから、まず今里さんの信じる結論は、否定するのではなくて横に置いておいて、なぜ独歩さんが御真筆にこだわるのかということを、とことん追求して考えてみられてはどうでしょうか。そのための質問ならばどんどんなさっていいと思います。ロムの方々にも再認識のうえでも大変勉強になることと思われますね。
くれぐれも目先の感情論のために、相手を罠にかけようとする行為は、ご自分が損をするだけですから、止められたほうが良いでしょう。

>僕の文章力が未熟で、不快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんでした。

考えを文章に著すということは、これは本当に大変なことです。またここの掲示板には文筆業を生業としている方も多くロムされていますから、どうしても言葉の言い回しには厳格になります。言い回しひとつが、死活問題になることを心得て書き記しているわけです。
ですから、そのような人から今里さんの文章を見るならば、「信じている」思いだけで断定して記述することの危険性がどうしても目についてしまうのです。それは見逃すことが出来ないのです。
ネット社会において趣味であれ仕事であれ、文章を公表するということはもう立派な言論活動を意味します。そこにはプロも素人もなく、言葉ひとつが命取りにもなるというわけです。素人だから見逃されるということにはならないのです。それが開かれたネット社会の危険性でもあるわけです。ですから、今里さんご自身のためにも、くれぐれもこのことは心得ておかれることを申し上げたいと思います。

>僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。

要するに、これが今里さんの「案」というものですね。しかし教義が信徒の思いから出る「案」で決まっていくというのもおかしなものかなと思いますが。

>一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。

まさにこのように宗門組織の秩序のために、教祖の教えを超えて、教義は変遷してきたのでしょう。そのように個々の人間の幸福よりも、組織の秩序が優先され、それを守ることがあたかも仏法を守ることのように教えられて、大胆な新しい解釈を教祖の教えとして正当化する必要が生じ、偽書が生まれてきた。
偽書成立のシュミレーションを、わざわざ今里さんが示されたようなものではないかと感じます。

スレッドを変えるというご提案ですが、仏教における「信」について議論するスレッドを立て、そこで論じ合うことが良いのではないかとご提案いたします。

421犀角独歩:2003/01/21(火) 21:00

416のちょっと、補足です。

『法華取要抄』の引用がありましたが、その少し前を

広略を捨てヽ要を取るや。答へて曰く、玄奘三蔵は略を捨てヽ広を好む、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨てヽ略を好む、千巻の大論を百巻と成せり。日蓮は広略を捨てヽ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり

つまり、

広・玄奘・四十巻の大品経を六百巻
略・羅什・千巻の大論を百巻
要・日蓮・上行菩薩所伝の妙法蓮華経

しかし、これは本尊について論じるところではありません。なぜならば、この『法華取要抄』に「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり…本門の三つの法門之を建立」の明文が見られます。この三つの法門については、より具体的に、『報恩抄』に

「三つあり…一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし」

とあり、「本門の教主釈尊を本尊」は日蓮の取り定めるところです。殊、本尊に限って言えば、この明文ははずせません。『法華取要抄』の述作は文永11年(1274)5月24日53歳、『報恩抄』は建治2年(1276)7月21日55歳です。

少なくともこの時期に日蓮は本尊・教主釈尊、題目・妙法蓮華経を分別して論じるのであって、引用されるところの(肝)要は、この題目を論じたと以外は読めません。

ですから、「三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕す」という想像は残念ながら、日蓮の真跡が指示しないことになります。


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