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つぶやきすれっど2
1
:
管理者
:2002/12/15(日) 15:25
つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。
何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!
2040
:
れん
:2006/05/12(金) 10:38:24
犀角独歩さん
石山の四帖については、公開されていないですし、不現存説もありますので、内容を確認出来ない以上考証はできませんが、独歩さんのおっしゃるとおり、日有が日隆から渡された四帖抄にあやかって、または触発されて、当時の石山義を纏めた書である可能性も否定できませんね。石山蔵の三大秘法抄の古写本は、戦後発見され、発見当時は日時筆とされたものの、近時の興風談所の研究と筆跡鑑定により日時筆は否定され、筆者不明本(日主の署名花押が別の箇所に見えることから、日主所持本と考えられています)とされていますから、三大秘法抄と日時の繋がりは、無いとは存じます。
石山の四帖が日時の真書と仮定したとして、私の推定では、三師伝も、四帖の一部では…と想像しています。宗祖伝(一帖)日興伝(二帖)日目伝(未完ですが一応三帖)、残りの一帖に耳引法門を含む当時の石山義が記した…という推定です。まあこれについてはこれといった根拠は全然ないので、お気になさらずにご笑覧ください。
2041
:
れん
:2006/05/12(金) 10:49:49
追記
石山の四帖や耳引法門の初出はやはり、文献的には、日有の例の富要収録の雑雑聞書ということになりますね。年代は特定できませんが、まあ、有師老年の頃すなわち室町中期と仮定すればあたらずとも遠からずであろうと存じます。
なしさん、ご挨拶痛み入ります。私については、そんなにお気になさらずに結構です。目師に限らず上代富士門とくに石山は教義についての文献が少なく、考証が困難です。ですから、答えを早急に出すのではなく、ここでの皆さんの議論を拝聴して、一通り勉強してから結論を出しても遅くないと思いますよ。
2042
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 11:22:02
れんさん
ご回答、有り難うございます。
> 石山の四帖…公開されていない…不現存説
かさねての問で恐縮ですが、つまり、石山は、条々事や、示書のように真筆があるという主張があるのでしょうか。
この“帖”というのは、いまでいう和綴じ本の体裁を言うとのことでした。
これまた、何で読んだのか失念したのですが、日隆以前では巻本が主流で、帖と綴じられた本がなかった。故にいわば一種の出版革命の趣があり、大いに興隆したということでした。この手のことは、多分、彰往考来さんがお詳しいと思います。
申すまでもありませんが、四帖抄とは『法華天台両宗勝劣抄』。
つまり、四帖とは4冊の和綴本としたという意味で、これが日隆に始まる。となれば、それ以前にそのようなものはなかったのではないのかという類推も交えて、日時の時代には遡れないのではないのかという、まあ、書誌学といえるかどうかわかりませんが、そのような類推です。
2043
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 11:38:19
2042の自己レス
帖(じょう)というのは、辞典で調べると、和綴本ではなく、折り本を意味するのですね。
どうも、あぶなかっしい記憶のようです。
どなたか補完していただければ有り難く存じます。
2044
:
顕正居士
:2006/05/12(金) 15:02:39
「帖」は折本、つまり屏風のようなものです。源氏物語は54帖です。
四帖というのはそれが四つという以外の意味はありません。
2045
:
れん
:2006/05/12(金) 16:21:05
犀角独歩さん
今から十年程前に、石山で刊行した蓮祖の真筆影印集について同山に問い合わせた際、話のなかで、時師が石山の法門を纏めたものがある…というようなことを聞いた記憶があります。それが有師の言う四帖にあたるのか、また別物なのか、本当に時師筆なのか否かも存じ上げません。
まあ、石山にはそのようなものが有るらしい?という程度の認識です。
2046
:
れん
:2006/05/12(金) 16:23:51
追記
不現存説は、大黒師編「日興門流上代事典」によります。
2047
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 16:49:42
顕正居士さん
そうしますと「四帖抄」とは、どんな意味になりますか。
折本4冊でよろしいでしょうか。
れんさん
有り難うございます。
それにしても、近代以降の石山では四帖も、耳引もいわれなくなりましたね。
散失してしまって「猊下」もご存じないと言ったところでしょうか。
2048
:
顕正居士
:2006/05/12(金) 20:32:56
>>2047
折り本四部の著述という意味に過ぎず、日隆の抄とは無関係でしょう。
巻子本の次に行われた製本ですが、平安時代からです。経本は今もこの形です。
一帖抄、二帖抄、八帖抄、三帖和讃、観経四帖疏、古今六帖…。
帖数で呼ばれる著述は多いです。
製本の歴史
http://www.tokyo-seihon.or.jp/seihon/history-1.html
2049
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 21:57:38
顕正居士さん
ご教示有り難うございます。
どこかでたしか、帖としたことが、功を奏したといった記述を読んだのですが、いまは思い出せません。たしか日本への輸入も仰るように折本は中国には、かなり早い時期にあったようで、であれば、平安期に日本にあって然るべきかと存じます。ただ、「日蓮門下では」ということでもあったような。しかし、いまはこれまでといたします。
それにしても、日隆は「著述は古来三千余帖と伝えられている」(『日蓮宗教学史』P113)のに、取り分け、そのなかで四帖抄、一帖抄と切り出されていることに不思議を感じます。
2050
:
犀角独歩
:2006/05/13(土) 12:06:55
2039のわたしの応答に対して、なしさんからはいまのところ、返答はありませんが、もう少しだけ、申状ということについて、記しておきます。
日蓮が、鎌倉で布教をはじめようとしたとき、『立正安国論』を上申しました。
日蓮滅後、6人の派祖たち、また、その系脈に係る人々は、主に京に向けて申状を提出していったわけです。門下一般では、これを「国諫」と称し、捨邪帰正、一乗法華経帰依の旗印のように論じられてきました。
しかし、わたしは、この説明は、どうも納得がいかない。なぜならば、為政者というのは、常に複数の宗教者、複数の寺院を認めていて、ただ一つに帰依するなどということはなかったからです。
申状…、というより、国諫?と言われた行動を、わたしが「許認可」と言ったのは、たとえば、日蓮は新幕府の地、鎌倉で布教をはじめるのに上申をした、また、その門下は、やはり、日本の中心地である京都に向かい、上申をした。その内容は表面的には確かに自己正当の主張であったけれど、詰まるところ、為政者、国王に自分たちの教えが正しいことを認めてもらうことに主眼があった。これは結局のところ、布教基盤の確保、自己存在の確保という主眼があるわけで、つまるところ、現在の宗教法人の許認可とさほど、変わらない行為であると映じるからです。
しかし、取り分け、そのなかで、近代の国家神道のように、もしくは伝教当時の比叡山のように、その主導権を自らが握ることに主眼が置かれれば、その許認可内容はさらにランクアップしたものとなる、従来の主導権を握る、宗教権威に自らが取って代わる第一歩は、まず、弘教の認可の確保であり、次には為政者、国王の帰依、ついには、日本一国の宗教的主導権の掌握という概ね三段階を、日蓮は想定していたし、また、その意志を継いだ六弟子も標榜した。日蓮が密事とした本門戒壇構想もそんな一環にあったのではないのかとわたしは考えます。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html
時代を遡れば遡るほど、宗教というものは呪術性というか、祈祷的側面が色濃かったわけですが、その性質はいまの言葉で言えば、「国家安全保障」の、霊的というか、神的というか、ともかく防衛の一環を、実は担っていたわけです。
近代でも、他国が責めてきても、神風が吹いて日本は守られると、本気で信じていたのが日本人でした。ところが、東京中心に都市に無差別爆撃をし、非戦闘員を大量殺戮されたうえ、ついには、2度までも原爆を落とされたわけです。ここに日本人の神風信仰は潰えたのでしょう。
結局のところ、日本の戦後というのは、この手の霊的防衛論からの卒業にあったわけです。日蓮滅後から、近代日蓮主義は敗戦で、ようやくその終焉を迎えたわけです。ところが、いまの顕正会の類は、この幻想をいまだに懐いて、高校生を中心に仏教の右も左もわからない不勉強な連中を誑かしているわけです。
いずれにしても、日目が本当に42度も天奏をしたのだとしたら、高名3度で流罪2回の日蓮のような眼に、どうして遭わなかったのか、日尊はどうして、京に代奏ののちに上行院を持ち得たのか、朗門に目を向ければ、どうしても日像に菩薩号、日蓮は大菩薩号を下賜され、それでも、一国帰依でなかったのか、という歴史的事実と照らし合わせたうえで、国諫?であるとか、申状というものを再読してみれば、その本来の意味するところは、冷静に、客観的に判断できることになるだろうと思うわけです。
まあ、返答がなくても、つぶやきということです。
2051
:
れん
:2006/05/13(土) 17:54:25
犀角独歩さん
>2047
近代以降の石山…四帖…耳引もいわれなくなりましたね。散失…「猊下」もご存知ない…
独歩さんの仰るとおりですね。耳引との関連が予想される“日目上人直授相承”については、石山三十一代日因の三四月会合抄上巻に引用され、安政六年成立の大石要法血脈問答にも「唯授一人極秘の御大事とは大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて三十三箇の御相承と聞く」(富要第七巻10ページ)とあり、日目直授相承=三口一徹の相伝の存在を金口相承と並記しており、江戸後期まで確認できますが、近代以降は四帖も耳引も、目師直授相承さえもいわれなくなりましたから、独歩さんの仰るとおり、すでに散失してしまっていて、“猊下”ももはやご存知ないというのが真実かもしれません。
まあ、日有の頃の石山義における三箇秘法を左京日教の著述からみますと「当家には本門教主釈尊・本門戒壇・南無妙法蓮華経の広宣流布あるべき事の三箇の秘法と申すなり」(類聚翰集私)「三箇の秘法とは仏と土と教法なり」(日辰の造読論議に引用される大石寺顕応房=左京日教が会津実成寺泉養房へ宛てた消息文)ということになるのでしょうね。当時の石山ではこの三法門についての教義は日蓮から日目に伝承されたという主張していたということですね。
なお郷師の門下の日叡の後信抄に「本仏、本戒、本尊」とありますが、本来は、本仏、本戒、南無妙法蓮華経とでもあるべきですが、それが本尊とあるのは、案外、もしかしましたら文永十一年十二月の“大本尊”の図顕讃文を有する日蓮御筆漫荼羅の存在を念頭に置いていたが故かもしれません。日興門流上代事典によりますと日郷書写「万年救護本尊讃文」が日向定善寺に現存し「恐らく切紙相承の一種として日郷から日叡に授与されたものではないかと推測」(上代事典383ページ)されるからです。まあ、これは私の根拠薄弱な思い付きにすぎないのですが…。
2052
:
犀角独歩
:2006/05/13(土) 23:16:56
れんさん
> 大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて三十三箇の御相承
に該当するものは六巻抄ほか、日寛の公刊されている文献に確認できるものでしょうか。
2053
:
なし
:2006/05/13(土) 23:22:03
遅くなりすみません。
やはり恥の上塗りをやってしまいました。
「予が天奏の代として二度流難三度の高名これあり巳上」を目師を指してのことと勘違いして
二度流難三度の高名これありとは何のことでしょうか。と質問してしまいました。初歩の事なのに恥ずかしい。
独歩さんは申し状をを嘆願書と表現されました。申状には 請うの状とあります。嘆と表現しながら 請うの語意を
示されました。同じ大辞林で「嘆」の語意を示してみます。
【嘆/▼歎】
(1)感心すること。感動のあまり、うめき声やため息を出すこと。「―を発する」
(2)なげくこと。なげき。 「亡羊の―」「髀肉(ひにく)の―」
[ 大辞林 提供:三省堂 ]
--------------------------------------------------------------------------------
たん‐がん〔‐グワン〕【嘆願・×歎願】
(名)スル事情を説明して、ある事柄の実現を切に願うこと。「助命を―する」[ 大辞林 提供:三省堂 ]
[名](スル)事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。「釈放を―する」 大辞泉
--------------------------------------------------------------------------------
申状の請うは、嘆とは趣が違うのではと思いますが。請うは矜持を感じます。
独歩さんは天奏の背景には権益取得の狙いがあったされています。
真跡主義をとられる独歩さんが申状の中には一言の記述もないにもかかわらず
弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。と述べられています。
副えられたのは 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文 一通 先師日興上人申状 元徳二年 一、 三時弘経の次第です。
日目上人の申状が権益取得を願うという具体的な嘆願であった事実証拠を示す文献をお教えください。
以下、是○の問いの答えを記しました。
さて、日目申状が許認可・嘆願書の類ではないかという点について、説明しましたが、どうも、申状の文のみにとらわれて、わたしの記した意味がわからないようなので、やや補完します。
> 「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです
該当文章は『日興跡条々事』、日目譲状と称されるところですが、これを日興の真筆だといっているのは石山門下ぐらいのものです。
石山では日興真筆があると主張しますが、本日に至るまで、その影本を見せず、石山僧が論文まがいのものを発表し真筆であると言っているのに過ぎません。わたしは偽書説を採ります。偽書を以て証拠とするは笑止千万。この書は日興の真筆である証拠があればお聞きします。是一
是一の答え
『日興跡条々事』真筆か否かを私に問われても真贋を見抜く力などありません。富士門のいうには「日興跡条々事」を与えられる数日前に、日興上人より「最前上奏の仁、新田卿阿闍梨日目にこれを授与す一が一の中の弟子なり」と脇書のあるご本尊授与があったとの説明を信じるのみ。また文中に他筆もあると解説することは思うに筆跡は鑑定ずみということなのではと。
「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」との日興上人は仰せは事実に反するとは思えません。
しかし、日目の御伝土代に記されるところの問答において、相手が問答に詰まって閉口した。それが、ですから、朝廷に対する国諫でどんな意味を有するのかというのがわたしの問い返しです。意味を持ちますか、そんなことが。是二
是二の答え
早く尋ね聞こし食(め)され、急ぎ御沙汰ある、そんな機会があれば有効に働くのではという程度です。論理が通っても相手が受け入れるかどうかはまた別問題でしょうし。相手がいなければ話にもなりません。
2054
:
なし
:2006/05/13(土) 23:23:47
ー2053つづきー
> 目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか
この点については、既に記しましたが、どうも通じないようなので、やや補足しましょう。読み飛ばさず、一々の記述をしっかりと認識してください。
1.「請う」という言葉の意味は以下のとおりです。
こ・う こふ 【請う/乞う】(動ワ五[ハ四])
(1)ある物を与えてくれるよう、またある事をしてくれるよう相手に求める。
「この道の専門家に教えを―・う」「近日上映。―・う、御期待」「みどり子の乳(ち)―・ふがごとく/万葉 4122」
(2)願いの叶(かな)うよう神仏に祈る。
「天地(あめつち)の神を―・ひつつ我(あれ)待たむはや来ませ君待たば苦しも/万葉 3682」(三省堂提供「大辞林 第二版」)
日目の申状の場合、文面だけで読めば「末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められん」ことのみを請うているわけですが、本当にそれだけが趣旨なのか、というのがわたしの発題です。ですから、わたしが記したことは申状における文章だけの意味ではなく、所謂「国諫」と称された行為そのものがどのような意味のことなのかを記してきたことです。そのうえから、今一度、申状に戻り、読めば、許認可・嘆願を趣旨とした文章なのだろうという意味です。
日目の天奏が本当に42度に及んだのかどうか。この点については、日目寂150年後の書と覚しき『五人所破抄見聞』に載るところであるけれど、上古の文献にそれが見られず、単なる伝説の類、潤色の称賛ではないのかというのが、先に記したことです。となると、実質的に日目の天奏は、美濃の垂井で旅途上で寂した時に、日尊が代奏を果たした事跡に史実が見られる。では、この史実の顛末は、と言えば、日尊は、代奏の巧を嘉見せられ、土地を受け、上行院を建立した。つまり、この史実が示す顛末は、結局のところ、京都における布教の安堵、寺院土地堂宇の下賜ということになっているではないか、つまり、このことが申状の目的であったのだろうというのが、先のわたしの投稿の意味です。
> 申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません
ですから、文だけを読めば、あなたが言うようになるけれど、結果的には、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援にしかなっていないと言っているのです。違いますか。 是三
是三の答え
私は違う思いです、天奏の申状の文面も、副えられたものからして聖人のお心、日興上人のお心と寸分も違わぬものであり、表裏などまったく無いと思います。
天奏途上の遷化を聞き、為政者としては無視はしていてもその労苦は承知のはず、惻隠の情のわかぬはずはない。後に下賜があっても何も不思議ではないと思いますが。
下賜のそれが目的であったなどとは邪推の域であり牽強付会ではないかと思います。
頑固ですがどう読んでも独歩さんとは見解が異なります。
またもし、日目の意志に「国諫」という意志があったのであれば、日蓮のように流罪・死罪に及ばないのかは不思議である。それはつまり、「国諫」と称される申状を上申する行為が、言うほどの諫めを目的としたものではないから、もしくは、相手にされなかったかのどちらかということになる。であれば、問答が巧みであることにならないし、仮に問答が巧みであっても意味をなさないというのが、先のわたしの記したことです。日目が問答が巧みであったことが国諫に何か役立ちましたか。是四
是四の答え
聖人の赦免の例もあり、時の経過もあり、さわらぬ神に祟りなしを決め込んだのではないのでしょうか、勝手な想像ですが。
>そもそも、内裏に通された僧侶が、朝廷に言辞とは言え、痛烈な一矢など放ったら、その場で即刻、頚を刎ねられますよ(笑)
日目上人、元より望むところであられたのでは、。斬首がこわくて天奏などできないでしょう。熱原法難を経験しておられます。竜ノ口では四条金吾が殉死の覚悟を示しました。俗でも法の為なら惜しまぬ命を僧が惜しむでしょうか。
他のお弟子は申状に天台沙門と名乗り幕府の安寧を祈ったやに聞きます。へつらいにさぞや恩賞に与ったことでしょう。
独歩さんこれにて退散いたします。多くの誤りを指摘していただき、また多くの教示を賜りありがとうございました。しかし、通じもしない論に拘泥されるのは独歩さんらしくありません。
れんさん、後になりましたがご忠告ありがとうございました。私は去年新井田の本源寺に参詣しました。
車で行きましたが遠路でした。目師は奥州へも数度行かれ京への往復も数多く、最後の出発の模様はすさまじいものを感じます。痛む足をひきずり、雪の中お題目を唱えながら歩を進められたお姿は尊く、欲得の世界は離れられていたであろうと拝します。
2055
:
なし
:2006/05/13(土) 23:43:40
書き忘れました。
管理人さんつぶやきすれスレッドのルール違反を謝ります。
削除はおまかせいたします。
2056
:
犀角独歩
:2006/05/14(日) 00:02:27
なしさん
> 状の請うは、嘆とは趣が違うのではと思いますが
どうしてでしょうか。あなたが上げた嘆願の意味がそのまま、申状の文面ではないでしょうか。
> 日目上人の申状…事実証拠を示す文献をお教えください。
わたしがいう真蹟主義は文章だけから示すなどと言う狭量なことを言っているのではありません。先に上げたとおり、日尊の安堵がそれを示すのではないかと言っているのです。
> 『日興跡条々事』真筆か否かを私に問われても真贋を見抜く力などありません
では、話にならないでしょう。あなたは、真筆かどうかもわからず日興の文章だと言って、これを引用したわけですか。
そのようなあなたが、わたしに真蹟云々を問うというのはあまりに厚顔無恥、図々しすぎませんか。わたしには真蹟から説明しろと言い、自分は真蹟かどうかわからない。そんな無責任な遣り取りがありますか。あなたが、わたしに真蹟から説明しろと言うのであれば、自分が上げた文章が真蹟であるかどうかをまず示すというのが筋でしょう。
> 説明を信じるのみ
信じるのは勝手です。では、わたしも日目のやったことは許認可だったと信じるのみと、これを答にして善いのですか。他人に厳しく、自分に甘い。そんな遣り取りは成り立ちません。
あなたに課せられたことは、条々事が日興真筆の証拠をここに挙げることです。
> 相手がいなければ話にもなりません。
そうでしょう。ですから、もし、42度、日目が天奏をしたとすれば、相手にされず、話にならなかったことをあなたは認めたと言うことですね。
> 下賜があっても何も不思議ではないと思います
そうですか。そうなると、為政者が信心をしなくても土地を下賜してもらうことが、日目の目的であったとあなたは認めるわけですか。
それが、日蓮と日興と、少しも違わぬ意志であったと。
> 見解が異なります。
見解が異なるなどということは、どうでもいいのです。
わたしはあなたと頷きあうことを目的にしているのではありません。
わたしの興味は、事実は何か、それだけです。
2057
:
犀角独歩
:2006/05/14(日) 00:03:02
―2057からつづく―
> 勝手な想像ですが。
そうですね。まったく勝手な想像です。答にも何もなっていません。
ちゃんと回答しなければ駄目ですよ
> 日目上人、元より望むところであられた
臨む望まない話をしているのではなく、そうならなかったのは、なぜか。相手にされなかったか・実際に42度の天奏がなかったからか。そうでなければ、申状の文面は定型文で、国を諫めているなどと採られていなかったのどれかだろうと言っているのです。
> 他のお弟子は申状に天台沙門
石山のアナウンスや、重須文献を鵜呑みにしていませんか。たとえば、日向でも、日蓮の弟子として、申状を提出していますよ。ちゃんと文献を調べて書いたほうがいいですよ。
「申状…日蓮聖人遺弟日向申」(日宗全【向尊之部】P36)
「申状…日蓮聖人遺弟日高謹申」(〃【日高之部】P47)
「日祐日樹申状…日蓮聖人遺弟日祐日樹等謹言」(〃【日祐之部】P403)
以上、天台沙門とは書いていません。
> …聞きます
まさにそのとおり。聞いただけで信じたあなたは軽率です。
> へつらいにさぞや恩賞に与ったことでしょう。
こうした他を貶して自分の信じるものだけを養護するのは、冷笑を誘うだけですからおやめになったほうがいい。みっともないだけです。
> 通じもしない論
いや、別にわたしの論が通じないのは、自分に執着している方だけです。
寧ろ、これはあなた自分に当てはまることでしょう。
まあ、逃げて退散する以上、これにて終了ですか。
真実を何も掴めず逃げ去ることしかできない姿だけをさらして終わりにするのは、後に恥を遺すことになります。もう少しちゃんと回答していったほうがよろしいのではないでしょうか。
それより、その囚われた心を早く解放してあげたほうがよろしい。あなたの囚われた心が可哀想です。
2058
:
犀角独歩
:2006/05/14(日) 10:07:19
すでに日蓮門下も六派祖の時代に入ってからは、それぞれ、本拠を構えて、弘教、弟子の養育を行ったことを、各寺院の縁起などからも窺えます。
これはまた、換言すれば、僧侶が寺院を構えることは、その土地の地頭(国主)の認可なくしてはできないことであったという歴史的背景に基づくものです。
それは派祖に限らず、日蓮にしても、波木井の庇護と認可に基づいて、身延に久遠寺の堂を結んでいることからもわかります。日興が身延を離山したのも、その力関係では、地頭が勝っていることを物語っています。
日目が大石寺を開けたのも南条の認可であり、この地頭と僧侶の力関係は重須でも同様でしょう。
天奏は、現代で言えば、宗教法人の許認可を求める嘆願といったところと、わたしが記したのは以上の事情から類推するところで、この歴史的背景を通じて、申状を読まないとその意味を取り違えるだろうというのが一連の遣り取りでした。
それにしても、日目に係る資料を手放しで、ただひたすらに日目崇敬を懐くという有様は、所属団体の刷り込みが如何に大きなものであるか、その一例を見た思いがしました。一中一弟子については、先にれんさんと議論になりましたが、そんなことは何処吹く風という態度にも嘆息を禁じ得ないものがあります。
さて、京は、鎌倉に新幕府が樹立されようと、武家政権となろうと、日本人にとって、変わらぬ中心地であった。その中心地に寺院を建立し、布教の本拠とすることは、これまた、現代風の言い方をすれば、地方区から全国区への進出を目指す悲願であったわけです。天奏が意味することは、この日本の中心地、京都における布教とその本拠の安堵を、幕府も、地頭の、さらに上に位置する朝廷から勅許されることを求めるものであったのでしょう。そして、実際のところ、日尊は油六角小路の土地を受け、上行院を建立するに至ります。
このように京都を目指した日目が、では、単に京都進出だけにその意図があったのかという点は、先のれんさんが提出される日目に係る“相承”と大いに関連するとわたしは考えます。
真蹟遺文から見る限り、日蓮は本門戒壇の具体的内容の言及は見られません。題目についても、本尊についても、あれだけの言及をしているのに、殊戒壇については、その名目を挙げるばかりで、言及がないわけです。依って、わたしは、日蓮は戒壇思想を構築以前に死去したのではないのかと考えていました。しかし、この考えを覆すに足りる資料が存しました。『法華取要抄』の草案である『主要抄』『以一察万抄』です。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html
この提示をわたしは彰往考来さんから受けたわけですが、都守師の秀逸な分析は、わたしのそれまでの考えを覆すに足りる論攷でした。『善無畏抄』の件という、まさに日蓮宗にこの人ありと言うに相応しい優秀な学者であると、わたしは尊敬します。
横道に逸れましたが、派祖の時代、富士方で言えば、日興・日目の時代、では、戒壇義を含めた三箇秘法というのは、門下一般にとって、現在のように遍く知られたものであったのかという疑義は立ちます。わたしは、そうではなかったと考えます。いまですら、日蓮の戒壇義は不闡明であるわけですが、当時はさらにその名目すら“密事”に属したのではないかと思うわけです。ここから、れんさんがお示しの、日目三箇秘法直授、また、耳引法門ということも成り立っていたのではないのかという、歴史性は付加して考えてみる必要があると思うわけです。しかし、時代を経り、「三大秘法」という造語も漸々と定着すれば、密事は、門下教学の解釈に取って代わられ、日目直授相承は色も褪せ、やがて、忘れ去られていったという経緯であったのではないのかと、類推しているわけです。この点については、是非とも、れんさんのご賢察を窺いたいと希望します。
ともかく、天奏を目指した日目は、第一、帝都弘教の安堵、朝廷の帰依、ついには、日目直授、“要”の一密事、成就、すなわち、迹門戒壇に代わる、本門戒壇建立構想を、他の天奏をなす人々とは違い、懐いていたかも知れないという想像はできます。しかし、この想像を補強するためには、れんさんがお示しの日目直授の相承…、というか日蓮の特命があったかどうかに掛かると考えられます。しかし、いまとなっては、この点を証明することは困難を極めることでしょう。
なお、「一中一弟子」については、すでにれんさんの議論をしましたが、数カ年前にも指摘しましたが、ここに上がる「最前上奏仁」の最前が最も最初に上奏したという意味であるとする解釈は、石山でまことしやかに取り沙汰される以下の記事
1281 弘安 4 日興園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕(聖613)(富士年表)
と齟齬を来していることが指摘できます。
2059
:
れん
:2006/05/14(日) 20:40:39
犀角独歩さん
>2052
管見にはいったものでは、日寛にかかる文献では「金口の相承」の語は寿量品談義(富要第十巻所収)に見えますが、三口一徹の相伝は日寛の文献には見えず、石要血脈問答以外では日因の三四月会合抄上巻に日目上人直授相承に云くとして引用されている一文のみに見えるだけですね。
>2058
派祖の時代…その名目すら“秘事”…時代を経り、「三大秘法」という造語も漸々と定着…密事は、門下教学の解釈に取って代わられ、日目直授相承は色も褪せ、やがて忘れ去られていったという経緯であった…
私も歴史的経過を考える時、仰る通りと存じます。私の愚見では、近世から現代にいたる石山の三大秘法義はあの彫刻を中心に据えたものですが、石山上代に見える日目直授という本門三大秘法義が色褪せ忘れ去られた背景には、石山義としては新義といえるであろう彫刻を中心とする三大秘法義にたいする信仰とその後付け教学の影響があったと思えます。要するに忘れさられたということは、日目直授とされていた上代石山の三大秘法義と近現代石山の彫刻を中心とした三大秘法義は、異質であったからということを表していると思います。
初期日目門下の三法門は、日目には法華取要抄の写本(ただし公開されてないので、内容が草案か中山本かどうか不明)が石山にありますから、恐らくそれに準じたものと思えます。それを土台として、日蓮・日興からの師伝を付加したものが、日目の三法門観ではないかと思います。日興による付加とは門徒存知事に見える日興による本門寺(戒壇含む)建立地を富士に選定したということであるとは考えられます。
日目に近い時代に成立した初期郷門の日叡・後信抄の記述は、初期日目門下の三法門観を窺う一つの資料となるかと存じます。
以上、日目の三法門観についての資料があまりに少ないので、これが限度なのですが、雑雑ながら、賢察などというレベルには千万が一にも及びませんが愚見をしるしてみました。
2060
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/15(月) 07:47:03
>2043 犀角独歩さん
京都へ出張していましたので亀レスとなりました。ちょうど京都では「鴨川をどり」が開催されている最中で「鴨川をどり」を観ることができました。夜は先斗町(ぽんとちょう)で「鴨川をどり」に出演した芸妓さんもみえて皆で飲んで盛り上がりました。(エヘヘ)
さて「帖」(じょう)ですが、検証居士さんから詳細がレスされいますので、できるかぎり重副しないように進めます。「帖」とは「折本」のことをさします。巻物を軸からはずし、継ぎ紙を等分に折り重ねていき、前後に厚めの表紙をつけたものです。読経するときに手にもつ縦長のお経の形です。現在でも経文などはこの形が残っています。「折本」は一帖(いちじょう)二帖と数えます。
書誌学的にみれば、「折本」は中国では「経折装」(きょうせつそう)といって唐代から始まり、日本には平安時代に伝わったものです。
なお日隆師の『四帖抄』ですが北川前肇師講述『四帖抄に聞く(一)』(平成16年、本門法華宗学院、15頁)によれば日隆師の真蹟は兵庫県尼崎市の本興寺にあり、「折本」ではなく、「巻子本」(巻物)だそうです。
従いまして
>2042
帖とは4冊の和綴本としたという意味で、これが日隆に始まる。となれば、それ以前にそのようなものはなかったのではないのかという類推も交えて、日時の時代には遡れないのではないのかという、まあ、書誌学といえるかどうかわかりませんが
ということはございません。
2061
:
犀角独歩
:2006/05/15(月) 09:21:48
れんさん
ご賢察のご呈示、有り難うございました。参考になりました。
「日目には法華取要抄の写本」が本物であれば、さらに現実味を帯びますね。
公家出の日目に、直接、本門戒壇勅許の特命を、日蓮を課したなどというストーリーが証明されれば、これは面白いと思えます。ただ、これは、大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います。
それにしても、日目が美濃の垂井に寂したあと、その報告を富士方に告げる必要があったことはわかるのですが、日尊と日郷は、そこで別れ、そこから、まったく別の展開をしていくことは、実に不思議に感じます。
わたしの感覚すれば、二人で日目の遺志を継いで、代奏をし、六角小路に土地を拝領し、寺院建築の基礎ができた段階で、また、二人で富士に戻って、日目の墓も建立するということが通常の在り方ではないのかと思うわけです。
ところが、そうはなっていません。日目の遺骨を、垂井の荼毘の段階で、二分しているわけです。日尊は鳥辺山に塔したわけですが、日郷は、日目の遺骨半分を下之坊に持ち帰ったといいます。大石寺ではなく、下之坊です。そして、いまに至るまで、石山には日目の正墓すら造られなかったわけです。造られてなくなったのか・当初から造られなかったのかわかりません。ともかく、ないわけです。身延に日蓮の正墓、北山に日興の正墓があるのにもかかわらず、石山には日目の正墓がない。日郷が退出に当たってもって出たのかというと、そんな事跡もなかったように記憶します。いったい、日目の遺骨は何処へ行ってしまったのか。この点は、1年前にもれんさんと応答し合った点ですが、それ故、わたしは5年前から、石山で日蓮の灰骨と言われているものこそ、日目の遺骨であると考えてきたわけです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015567021/99
話が横道に逸れましたが、日目直授があったかどうか、わたしは血脈、相承の類は疑って掛かるほうですが、この日目に係る件については、れんさんのご呈示ということもあり、かなり興味を懐いております。
2062
:
犀角独歩
:2006/05/15(月) 09:27:14
2060 彰往考来さん
なかなかお楽しみであったようで(笑)
さて、四帖に係るわたしの記憶は、どうやらガセであったようですね。
顕正居士さんのご指摘と併せ、一点、思い込んでいた点を修正することができました。有り難うございました。
それにしても、そうなると、何故、『法華天台両宗勝劣抄』は四帖などと称されていたのでしょうか。この点がまた疑問と残りました。
2063
:
ラキ
:2006/05/16(火) 00:34:42
自由な茶寮掲示板を見ていましたが、浅井さんが独歩さんに対して法論を挑む事はないのに、きっと時が来れば破折してくれると、信じてる会員が居るのは、可愛そうです。
独歩さんから浅井さんに法論などめんどくさいかも知れませんが、申し込んだら、浅井さんの反応が楽しみなんですけど!・・・
それにしても、自由な茶寮掲示板てワイドショーを見てる感じで面白い。(・∀・)ニコッ
浅井会長さん〜独歩さんとの法論を会員達が期待してますよ〜〜
つぶやきでした。ヾ(≧∇≦)ノ"
2064
:
犀角独歩
:2006/05/16(火) 13:05:09
ラキさん
他の掲示板のことは他の掲示板で、が、まあ、原則ですが、「法論」という話ではないでしょう。
わたしは図形鑑別を通じて、石山の彫刻は日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模作為した模造品であるとしたわけです。そして、それを研究発表もし、講演もし、本にもまとめ、ネットでも公開しているわけです。であれば、この彫刻が従来の石山下の論調のとおりのものであることを証明するためには、図形を持っての反論しかないわけです。しかし、そのようなことを少しもできず、単に悪口雑言をもって人格攻撃しかできない。これは忍性良観が日蓮に行った手口と一緒です。つまり、道理から言っても、既に決着はついてます。つまり、浅井さんの負けです。
浅井さんの勝ちにしたければ、図形的特徴から、それを説明すればよろしいだけです。それができない悔し紛れに、悪口を言って、自分の取り巻きをそそのかし憎悪を煽り、発言者の人格を貶めて、その論説を考えることを、やめさせて、自説に呪縛させようとするという手口は、古今東西、悪しき先導者の常套手段です。
しかし、その本質は結局、負け犬の遠吠えに過ぎません。
客観的に見て、顕正会と浅井さんは、この悪人の手口に手を出してしまったわけです。これが、かつて、正本堂について、日達さんに、論を尽くして糺した同一人物の発言なのか、正直、目を疑うほかない愚考であったわけです。
結局のところ、この浅井さんにそそのかされた会員たちは、わたしの鑑別の内容に至ることなく、ただ人格攻撃に翻弄されて、浅井さんの話を鵜呑みにするというロボトミー化、社会心理学で言えば、憎悪に基づく代理状態に陥っているわけですから、このような心理操作下にある人はとは、法論どころか議論も成り立たないでしょう。
この掲示板の善き慣習は、挙証義務の励行ばかりではなく、人格攻撃にすり替えて、回答不能をごまかす悪意を断じて許さない管理者さんの姿勢にあります。
人格攻撃、悪口雑言を除けば何も残らない空虚な遣り取りは、結局、真実を見られない被害だけが残るということです。わたしは、ラキさんが感じるようにワイドショーのようであるとも、面白いと思いません。深刻な宗教被害の実例を見るだけです。
2065
:
ラキ
:2006/05/16(火) 15:29:08
>2063>>それにしても、自由な茶寮掲示板てワイドショーを見てる感じで面白い。(・∀・)ニコッ
>>>ラキさんが感じるようにワイドショーのようであるとも、面白いと思いません。
つぶやきで突っ込まれてしまいました(^^;
2063の該当箇所の発言は、ご指摘を受けて、安易な発言あると私も思いましたので、撤回させていただきます。
2066
:
犀角独歩
:2006/05/16(火) 16:43:25
あ、そうでした。ここはつぶやきでしたね。失礼しました。
2067
:
Taitsu
◆bnx86/FFP2
:2006/05/17(水) 04:00:49
解る人にはその偉大な功績、ドグマを打ち破った事実は良く解っている筈ですし、
無疑曰信を身体で示した功績は大きいと私は思っています。
どうやら迷える人達は「待った無し」の様です。
私にもお手伝いさせて頂きたく、色々模索中です。
ちょっとつぶやいてみました。
運良く犀の角の様に一人で歩いてる方のお目に留まって
連絡なんて頂けたら良いかな、なんて。。
あくまでもつぶやきです。
2068
:
れん
:2006/05/18(木) 21:27:26
亀レスにて失礼します。
2061
>大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います…
日尊が公家筋とは驚きました。日尊は、日興門流上代事典によりますと桓武平氏千葉氏族の一族亀卦川胤氏三男とのことで、どちらかというと武家出身の匂いがします。日道は日目の実家の新田小野寺氏出身で、日郷は保田文書によりますと清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とされる太田氏出身だったと記憶します。
もっとも小野寺氏について、ネットで検索してみますと、どうやら秀郷流藤原氏山内首藤氏族というのが史実のようですね。日目の直授についての話は、郷師の門弟日叡師の記述にも見えますし、道門では日時が文献化したという伝承もありますから、日尊系のみでなく、どうも日道系にも日郷系にも受け継がれた話だという感触がありますね。
2069
:
青門
:2006/05/19(金) 00:57:07
初めまして。文献だけをみて判断するとした場合、立正安国論をどこか時の権力者が受け入れていたら歴史は大きく変わったいたでしょうか。大して変わらないと私は判断します(あくまで文献だけをみて)。話を変えます。私自身の成長を考えると難に合うことや難問に立ち向かうことを望みますが、弱い私は苦労から逃げ気味です。しかし、信じて南無妙法蓮華経を唱えると大聖人が難を乗り越えられたのと同じくらい成長が頂けると思っています。でないと日蓮仏法の意味は無いのではないでしょうか。言いたかったことはどの宗派のひとも細かいことより大聖人の大慈悲を原点に一致団結できないのでしょうか。細かいこだわりも究極に凝縮すると単純なことです。大聖人の大慈悲が全てのひとにもあるんですから、それをどうやって引き出すかですよね。南無妙法蓮華経と唱える。ここから先のことはこれより大事なことじゃないですよね。間違い探しに陥り本質を忘れていたので反省で書き込みしました。乱筆乱文で失礼しました。つぶやきにつきお許し下さい。
2070
:
顕正居士
:2006/05/19(金) 02:00:22
日蓮宗主要本山と現在の包括法人
http://bukkyo.rissho.jp/inform/shugaku/shu_0141.htm
現状、過半は単称日蓮宗に所属しており、その余は小規模教団、単立です。
また日蓮宗学の専攻課程は立正大学仏教学部宗学科が唯一ですから、
すでに事実上、日蓮教団は統一されているのではないでしょうか。
2071
:
犀角独歩
:2006/05/19(金) 08:36:45
Taitsu さん
もしお時間等のご都合がつけば、、28日にオフ会にご参加なさってみては如何ですか。お誘い申し上げておきます。
れんさん
有り難うございます。
桓武平氏千葉氏というのは、その祖を桓武天皇とするのではありませんでしたか。
日目は武家南条の縁、けれど、小野寺家の末裔といい、新田卿をいいました。この場合も武家方ということになりますか。
美濃垂井での日目寂後、そこで、日尊、日郷が別れたと、先に記したのですが『日蓮宗事典』によれば
「日興滅後、日目に随い日郷と共に天奏上洛の任についてが、中途にして日目の遷化にあい、日郷を随えて天奏の役を果し、日郷は富士に帰り日尊は関西の遊化にあたり、暦応元年(1338)再び入洛、翌年2年六角油小路に上行院を建ててここに住した」
といい、わたしが記憶していたこととは違っています。以上の記述は『祖師伝』に基づく如くでした。
日目直授ということは、要は、日目が唯授一人相承をしたという話ではなく、日蓮・日目という直授に主眼があるのだと思います。ですから、京の日尊、富士の日道、保田の日郷等の系譜を潤色するのに、日蓮直授、さらに直授という経緯であったのではないでしょうか。
これが、天文法難以降、京の地盤を失った日辰、のちの要法寺系や、教学的根拠の一端を富士の求めた保田では、日教が北山において、一つの体系をものにしていたことなども相俟って、加上する経緯のなかで、権威を日興に求めた。その結果、「三箇秘法とは日蓮日目と御相承…御付法は日蓮・日興・日目と次第」といった折衷案を経て、蓮興目に落着していった歴史があるのではないのかというが、いちおうの、現段階でのわたしの考えです。
2072
:
れん
:2006/05/19(金) 10:16:31
犀角独歩さん
>2071
目師直授についてのご見解のご披瀝有難うございます。大変参考になりました。
桓武平氏は当然桓武天皇の子孫ですが、平朝臣姓を下賜されて臣籍降下した時点で皇族ではなく天皇の臣下ですし、千葉氏を出した桓武平氏が関東に土着したのは、中央では殆ど無位無冠で、新天地を関東に求め、子孫は関東に土着して武士化したという流れだったと記憶しております。ですから、私は武家という認識でおります。
目師の新田卿の卿も、小野寺氏の家系伝承ではその祖首藤資清が藤原道長の流れとされていたことによる命名でしょうが、やや時代は下るものの室町時代の公家・洞院公定撰の尊卑分脈によるとその首藤資清は「本姓守部」云々とあって、守部姓の資清が秀郷流藤原氏の猶子となって藤原朝臣姓を名乗ったのが史実の様で、わたしとしては小野寺氏を御堂関白道長の流れとするのには懐疑的です。まあ出自はどうあれ、小野寺氏は鎌倉幕府御家人として奥州に多く領地があり、日目のパトロンとして、その上奏の資金をカバーするだけの経済力は十分に有していたのは事実ですね。
2073
:
犀角独歩
:2006/05/19(金) 23:39:57
れんさん、仰る意味はわかりますが、そもそも僧侶になった段階で、無位も無冠もありません、出世間ですから。
ただ、仰るような系図的判断は、たしかに加上、潤色が伴うことですから、慎重に期すことに異論はありません。
わたしが公家方と言ったのは、その方面に発言と人脈を持つといった意味であると解していただければと存じます。
近代で言えば、華族制度は、廃されましたが、しかし、それでも、この人々は、かつて平民と言われた人々より、皇族との関係は、それでも濃厚です。
僧侶となって身分を捨てたとはいえ、また、その出自がかつて天皇家であったけれど、(また、そう主張していたに過ぎないにせよ)その後、無位無冠であり、武家となっていたとしても、実際のその影響力から、公家との接点を有していたのではないかとという意味での投稿であるとお考えいただければと存じます。
2074
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/20(土) 08:58:54
>2062 何故、『法華天台両宗勝劣抄』は四帖などと称されていたのでしょうか
日隆師の『四帖抄』ですが、北川前肇師講述『四帖抄に聞く(一)』(平成16年、本門法華宗学院、15頁)によれば、「現在の装幀は、本興寺二十八世の日顕上人の代に改めたもので、江戸時代の貞亨三年(一六八六年)正月二十三日の日付が記載されている」とありますので、あるいはこの時に「折本」から「巻子本」に改装されたのではないかと思います。
「巻子本」から「折本」はよくある改装ですが「冊子体」の本が「巻子本」に改装されることもまま行われたようです。
例えば、西本願寺所蔵で重要文化財に指定されている『歎異抄』の蓮如上人筆写本は、現在「巻子本」になっていますが、もとは半葉六行の「袋綴じ」であったものを江戸時代中期に今日のように改装されたと考えられています。
http://www.otani.ac.jp/tannisyo/a_tannisyo/tan_b.html
ただし北川前肇師は『四帖抄に聞く(一)』で『四帖抄』が「巻子本」であることについて、「当初よりの形態とみられます」(15頁)と記述しています。尼崎本興寺蔵の御真筆の形態をみてみないと判断できませんが、仮に当初から「巻子本」であったとするなら上述の「改装説」は崩壊することになり、再度なぜ「巻子本」でありながら「帖」と称されているのかという疑問は解消されません。
奉書紙・杉原紙・美濃紙などの和紙で1帖とは48枚を表わしますので、
http://www.hm2.aitai.ne.jp/~row/kazu/kazu.html
『四帖抄』というのは和紙192枚分量(=4帖)の『法華天台両宗勝劣抄』という書物なのですよ、という意味ではないかとも考えましたが少々こじ付けに近いものです。ただ日隆師には『一帖抄』もありますので、このような分量を示す略称があったとしても不思議はないでしょう。
私自身は「巻子本」でありながら『四帖抄』と称するのは「折本」から「巻子本」に改装されたためと考えています。
2075
:
独学徒
:2006/05/20(土) 16:31:18
横レスにて失礼します。
隆師の『四帖抄』について、「法華宗全書 日隆1」の解題では、第1巻:42紙、第2巻:46紙、第3巻:64紙、第4巻:59紙となっています。
また『四帖抄』という通称は、隆師自身命名によると出ています。
こちらの解題は、大平宏龍師のものですが、やはり巻子本は当初からの形態と出ています。
隆師の意図するところの「四帖」とは、なにか別の意味があるような気がします。
2076
:
れん
:2006/05/20(土) 20:02:40
犀角独歩さん
>2073
了解いたしましたm(__)m
2077
:
犀角独歩
:2006/05/21(日) 07:06:37
彰往考来さん
独学徒さん
貴重な情報と、ご賢察の披瀝有り難うございました。
参考になりました。
「帖」の意味するところ、振り出しに戻りました。
2078
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/22(月) 07:45:27
>2075 独学徒さん
>「法華宗全書 日隆1」の解題・・・やはり巻子本は当初からの形態と出ています
「法華宗全書 日隆1」の解題にも同様の記載がありますか。参考になりました。
2079
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/22(月) 12:33:57
こんなアホな行動をする議員が公明党にもいるのですね。まず政治をやりなさい。国民の血税でしょ!
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_05/t2006052003.html
2080
:
藤川一郎
:2006/05/22(月) 16:21:01
無位無冠と言う意味で言えば「僧侶は官位を越える」と言う考え方があります。
つまり本源的に申せば、天子拝謁は三位以上の位階を有する者、または四位以上の位階で役職に就いている者、即ち「公卿格」を有する者で無ければ、不可能なわけです。
それでも越階(おっかい)して拝謁する場合は、右近の橘(井桁橘)の下で公卿の口を通しての拝謁となる訳です。
俗に言う日像の拝謁は、井桁橘の下での拝謁であった為、法華宗は「井桁橘」の紋章となっているのです。つまり、正式な拝謁でなかった事を紋章からも顕しております。
ところがある一定の色衣を有する場合、無位無冠でも正式拝謁が可能となります。
有名なところでは、千利休は無位無冠でありました。利休とは居士号です。
しかし、天子面前での茶会のために、大徳寺で僧籍を取り「宋易」となった訳です。
単なる居士号では在家扱いですから、位階が必要になります。
それを僧籍で越えたのであります。
2081
:
今川元真
:2006/05/22(月) 18:51:57
横割失礼します。 ◆東大寺の対を為すように建てられた西大寺(称徳天皇が四天王を求めて建てたのが始まりだとか)◆十一面観音・四王堂 (聖徳太子)弥勒・薬師金堂、東西五重塔(光明皇后・聖武天皇)◆藤原仲麻呂、弓削道鏡、和気清麻呂の権力闘争。◆東大寺、西大寺、聖徳太子・最澄(比叡山寺・延暦寺)、ビルシャナ・大日如来・空海(金剛峯寺)、弥勒指向。◆鎌倉時代の西大寺、叡尊(真言・戒律の寺院)シャカ如来、愛染明王。
2082
:
犀角独歩
:2006/05/22(月) 21:07:44
そうそう。2080、藤川さんから、この手のご教示を期待していました。
2083
:
れん
:2006/05/23(火) 11:22:43
藤川一郎さん
>2080
無位無冠…「僧侶は官位を越える」…
有職故実の上からのご教示誠に有り難く拝受いたしました。
私の家は郷士の出で、こういったことには基本的に疎いので、大いに勉強になりました。
2084
:
れん
:2006/05/24(水) 19:20:27
彰往考来さん・独学徒さん
遅蒔きながら、2074・2075における隆師「四帖抄」の形態についての御賢察のご教示お礼申し上げます。また学恩に感謝申し上げます。
時師作という四帖見聞については不現存という説もあり、その当初の形態すら不明ということで、所詮、今となっては“伝説”の域を出ないもののようですね。となると、時師作の文献としては、公開されているものとしては三師伝・未公開分では妙法蓮華経色心実相境智根源口決ということになりましょうね。日時は目師の弟子民部阿日盛との師弟関係もあり、仙波で当時の台学の研鑚もした。当時の台学や石山を含む富士門の伝承や文献を参考にしつつ日有師に先駆けて初期石山の教義の基礎を築いたは日時師であろうことは、何となく想像しております。有師は、時師が築いた原初石山義を踏まえながらも、京都で面談したという日隆師の影響を受けて、諸聞書に見える法義を構築したというのが室町期の石山における教学の流れではないかと愚考しております。
取り急ぎ右お礼まで。
2085
:
犀角独歩
:2006/05/24(水) 19:30:08
れんさんに異論を述べる形になりますが、わたしは、日有以前の段階で石山は、廃寺売却の憂き目に遭っているだろうと思いますから、ここに上代からの脈絡を考えることは、手前味噌であると思います。
何もなくなっていたために、土地を買い戻し、諸堂を整備し、板マンダラ(伝・紫宸殿)も作り、教学は、律師と日隆のいただいて、これまた整備したのではないでしょうか。
美談化した石山の言い分を踏襲するのであれば、それなりの根拠を出すべきであると思います。
2086
:
れん
:2006/05/24(水) 21:57:58
犀角独歩さん
>2085
日有以前の段階で石山は廃寺売却の憂き目…
日時は興津氏法陽より「富士の上方上野郷内大石寺の東坊地者、法陽か雖為知行分之内、如本別当卿阿闍梨日時にさりわたし申也」云々の去状(静岡県史資料編六・六五五)をもって石山東坊地を領掌し、以後石山は日時門下が相続していきます。日時は、自身造立の日蓮御影像裏書きに「大施主、奥州法華宗等僧俗男女、野州法華宗等僧俗男女、武州法華宗僧俗男女、駿州法華宗等…」と記したように日目のパトロンであった奥法華衆たちの子孫と考えられる“奥州法華宗等僧俗男女”の支持をうけており、日時の時代はまだ、奥州法華衆等は石山の日時を支えるだけの財力はあったろうと思います。日影の時代は文献はないものの、おそらく日時を支持した奥州等の諸国法華宗も戦乱等により消長があり、檀越の財力も陰り、石山も衰微したのは事実でしょうが、日有以前に廃寺売却までになったか資料がなくわかりません。日有の御物語聴聞抄には日有代に留守居による石山売却が書かれており、保田日要の当体義抄聞書に「大石の日有上人、カシハ原ノ慶順法印に相ひ給はんが為に極月二十一日に寺出し玉へり。勤行の代は尾張阿へ仰せ付け、さて寺家の成敗は少輔・信濃・土作・作渡阿四人也。此の人をは無智とて宮内阿日掟を召してしばらくの住持と定めて美濃へ参らるる。日有判形し玉ふに彼の人を云へり、日有兎も角も云々。然るに彼の四人の方は日有死去と号し大石をのつとる、此の時日有下向有りて彼の末弟を折檻す云々…内の物をも彼の四人の業なると云々」とあり、これは事実と存じます。このように、日有段階での廃寺売却は史実なるも、日有以前の段階での石山の廃寺売却を示す資料は石山や富士他山になく、別に石山の肩を持つわけではありませんが、何もかもがなくなっていたわけではなく、微々細々ながら時師門の命脈をたもっていたというのが日有以前の石山と考えます。上代のからの脈絡を即断するものではありませんが、上代からの脈絡がまったく存しないということはまた云えないものではないかと考えております。
日有による、儀式やその裏付けとなる教学のさらなる肉付け作業は、ご指摘の通り律師や日隆、また慶順の法義からいただいたものを加上して整備したものですし、さらに板漫荼羅(伝紫宸殿)をつくり整備した堂宇に安置したのだと考えます。
“美談化した石山の言い分を踏襲”するつもりはありませんが、手前味噌にならないように、冷静に文献を読み、石山を含めた富士の思想を考えてまいりたいと思います。今後ともご批正のほどお願い申し上げます。
2087
:
顕正居士
:2006/05/24(水) 23:28:42
日時寂が1406年、日阿は翌年に寂し、日影が1407-19年在職。したがって日時寂と日有晋山
の間は13年に過ぎないのであって、何か大きな断絶があったとはいえないでしょう。
2088
:
犀角独歩
:2006/05/25(木) 05:13:02
れんさん
顕正居士さん
日有以前に廃寺とは、たしかに言葉が過ぎたかも知れません。
しかし、日目の教学的な資料を裏付けるものは残っていないことは、議論で落着していました。では、その後、日有にいたるまで、石山として、継承したものとは一体なんでしょうか。以下の点について、わたしはまるでその実像が見えません。このようなものが残っていない、すなわち、この期間、何もなくなっていた、いわば、廃寺同然という思いが生じることになったわけです。
そんなことはないというのであれば、
日目から日影に至る石山教学
日目から日影に至る石山の有様
という2点について、日目、日道、日行、日時、日阿、日影のそれぞれについて、それぞれどのような説明が立つでしょうか。
なにより、「時師が築いた原初石山義」とは、どのようなものでしょうか。
また、中興の祖、すなわち、日目から現代に至るまでで、石山史の中で再興した祖であるという日有の時代に、その本人がいない間に石山が売却されるという有様は、むしろ、石山そのものの不安定さを物語っていると映じますが、如何でしょうか。
たしかに、顕正居士さんが仰るように日影から日有までの間は13年。しかし、断絶というのは1年であっても、断絶は断絶です。また、なにより、そもそも、その13年の断絶より何より、そもそも日有以前の何を伝えたのか、その答がなければ、日有に始まったと見なすことは至当なこととなります。故に上記2項の明確な資料がない限り、あたかも断絶、廃寺同然という感は否めません。もちろん、それは印象であって、事実ではないかも知れません。となれば、上記2点について、どのような説明が立つのか、ご教示願えますでしょうか。
2089
:
れん
:2006/05/25(木) 07:29:24
犀角独歩さん
>日目から日影に至る石山教学…
日目には教学的にものしたものがないのは以前の議論の落着した通りです。日道は日時作の三師伝に引用される「日興上人御遺告」を記したという事跡と、問答記録と後信抄・日時の大石記に日道の述べたことが記録されているばかりです。私が日時が築いた「原初石山義」とは日時作の三師伝・日時が述べたことを記した大石記に見える日時の記述のことで、これが、日目から日影までの流れの中で文献上日時にかかる上記二文献が唯一この時期の石山の教学を物語るもので、日影は実質それを継承するのみであったろうと思います。その後は独歩さんのご指摘の通りで日有にいたり、律師・日隆・慶順等の影響のもと、石山として独自の法義が構築されたと考えます。
>日目から日影に至る石山の有様…
この点は、まだ、私の中では研究中とでも云うべきもので、まだ、こちらに記せるほどの見解がまとまっておりません。
これから仕事に出かけるので、取り急ぎですが、雑雑に記しました。至らぬ点はまたご批正ください。早々
2090
:
金龍
:2006/05/31(水) 00:37:38
以上のレスを拝見して、一つの疑問と言うか、もしかしたらと言う仮説が頭をよぎります。
そもそも、目師は尊・郷師の二人を連れて、寒風拭きぬく中に苦難の上奏と言う伝説ですが、
本当に「苦難の上奏」であったのかと言う疑問です。
目師の当時の年齢を考えると、既に伝法叶った道師が大導師として行くところを、
当時の石山一同が全く留めるという事は無かったという不思議です。
もしかすると、目師でなければならない理由が有り、仮に目師でなければならないとすれば、
多くの祖師の伝説に辻褄が合う場面が多くあると思います。
2091
:
犀角独歩
:2006/05/31(水) 08:21:53
> 2090
これは理に適った疑問であると思います。
宮崎師であったか、執行師であったか、失念しましたが、日目の日道相承を、この最期の天奏から疑義を呈していました。
要は、既に伝法相承を行ったのであれば、日目は隠居なのだから、一宗の代表として、天奏すべきは日道であるということです。
当時、血脈相承などということは、まだ行われていなかったにせよ、実質的な継承者が日道であったとすれば、たしかに「目師でなければならない理由」があったと考えることは理に適っています。このような類推経路にわたしは賛成です。
ただし、人間が自分の死期を特定できることは、なかなか難しいことです。ですから、最期の天奏に際、日目がそれを覚り、日道に相承してでかけたなどというのは、潤色の物語としてとらえるほうが事実に近いと思え、天奏を生きて石山へ帰る気で出たのであれば、日道に譲っていく必要もなかったというのも、また、一面の理に適った類推ということになります。
2092
:
藤川一郎
:2006/05/31(水) 10:11:45
>>2090
もちろん、目師で無ければ無かったんでしょう?
つまり天奏の手配は出来ていた。いや、もっと踏み進んで、宮中からのお呼び出しが日目上人宛にあったとのなら
代行では御不敬になる。
後醍醐天皇は建武の中興に際して、あらゆる寺院の長に「お呼び出し」をかけている。
もちろん、法華に強く関心があったと言うより、御自身の中興政権を護持できる霊的な存在を求めておられた。
これが御本意であったのであろう。
それが恐ろしいほどの田舎寺にまで、呼び出しをかけている。
考えてみたら、鎌倉幕府壊滅のために悪党まで集められた方である。
とにもかくにも政権維持の霊的保護の為には何でも取り入れるようなところがおありだったのでは?
2093
:
お暇庵
:2006/05/31(水) 11:25:37
藤川さん、これは面白い着眼ですね
後醍醐天皇は真言密教の伝法灌頂を受け自ら出家となって鎌倉幕府転覆と王権奪還を目指して怨敵退散の調伏をいたしていたことは事実です。中宮の御産祈祷と称し関東方調伏の祈祷を行い、更に興福寺や延暦寺などの寺社勢力を味方につけようとしていたことも(結果的には延暦寺にうらぎられますが・・・)
もともと武士の出自は源氏を始めとする下野した皇族縁故による(皇位権剥奪や権力遠慮)嫡男以外に寄って組織された護衛団の意味もありましたが、承久の乱に下克上にあって鎌倉北条家に皇位の交替まで云々され、官位や人事にまでの越権行為があったのは歴史的事実なことでしょう。
「正中の変」や元弘の変、幾度かの挙兵による蟄居や配流を経た後醍醐天皇が政権奪還のために利用しようとしたネットワークは高野から連なる連峰群に拠点を持つ修験・山伏系を始めとする山岳集団、木地師、職能・遊行者・白拍子などの芸能集団、忍者の元祖と言われる千早赤阪系の悪党山師。勿論その中には鎌倉にほど近い富士山岳の霊的ネットワークも視野に入っていたと思います。
結果的に鎌倉幕府が新田義貞と足利によって滅亡しますが、鎌倉を滅ぼしたのが新田家とは深長な意味合いが見て取れますね。
その後、建武の新政による後醍醐天皇と貴族中心の政治運営は荷担した武士達が報償面で不満を持ち、後醍醐天皇が政争に敗れて吉野の山中に逃げ込んだのも熊野地方には天皇を支えるこうした武士階級や貴族とは違うネットワークの基盤があったと思うのは自然なことではないでしょうか。
2094
:
金龍
:2006/05/31(水) 11:58:22
目師の上洛が、禁裏御采配とした場合、当然にそれに関わる人物はある程度の資格が存在したのではと考えます。
確かに、新田氏との関係を思考しつつも、大聖人入滅時に関わる伝説が私の頭には浮かぶのです。
池上入滅時には、興師は当然六僧の席があり、それぞれに遺言を託されています。
その中にして、一人少年であり「経一丸」後の日像がおりますが、諸説は色々でそれぞれの伝説が言われています。
興味深いのは、大聖人が帝都布教を託されたのが経一丸であり、形見として「歯」を自ら抜いて渡したという伝説です。
極論の展開をしてしまうと、虎王丸と経一丸、どこかに共通点があったのではと思っています。
時代背景として、二人を同一視するのは乱暴と思いますが、当時の記録がハッキリと確証が持てないとすれば、
大聖人在世当時に随時給仕をした少年は二人と言うことになります。
しかし、当家では虎王丸のみを主張し、経一丸は身延方の主張となりどちらも二人の少年の存在を明記していません。
宮中に入る前にここら辺の整理をしてみたら面白いと思います。
2095
:
犀角独歩
:2006/05/31(水) 12:22:13
藤川さん、質問。
> 代行では御不敬になる
では、日目の代わりに、日尊が代行したことは不敬ですか。
不敬ならば、何故、土地まで拝領したのでしょうか。
事実と一致しないように思えます。
2096
:
藤川一郎
:2006/05/31(水) 13:25:25
>>2095
そもそも、当人が亡くなってしまって後の代行と、当人生存中の代行では意味は違うでしょう。
現今の園遊会でもそうですが、当人がどんなに高齢でも召された当人が参ります。
それに対して、当人が亡くなってしまった場合、しかるべき代理人を園遊会に召すことがあると聞いております(確か映画監督でその例があったと記憶します)。
それとは少しも矛盾しないように考えます。
それに日尊師=日目師の代行というのは、現代の伝承から言えますが、本当に正式な代行だったのでしょうか?
日尊師は日尊師で御自分の資格で参内したと考えた方が自然だと思えるのですが。
当宗の伝承は伝承として、それとは別にそこにも疑問視してみるのも面白いでしょう。
2097
:
お暇庵
:2006/05/31(水) 13:34:08
金龍さん、はじめましてお暇庵と申します、よろしくお願いいたしますです。
すこし、お聞きしたいですのでお願いいたします。それは「大聖人在世当時に随時給仕をした少年は二人と言うことになります」なのですが、私の記憶に間違いがあれば訂正をお願いいたします。
確か目師は文応元年(1260)に伊豆仁田郡に出生され、文永九年(1272)走湯山円蔵坊にて出家(13才)興師に謁されたのは文永11年(1274年15才、76年に得度)で、宗祖に謁見叶うのは同年11月(数え18才)のことです、目師は弘安五年(1282)では数えで22才になり、宗祖身延在住の間は(18〜22才となり)わずかに4年あまりで少年とは言えないのではないですか。
また日像こと経一丸は朗門に入ったのが建治元年の7才(1275)目師より15才若いですね、同年12月に宗祖より本尊授与されています、その時に経一丸と名乗ったとあります。朗門であったために鎌倉小企谷妙本寺が本拠で、身延にも再三登ったと物の本にはあります、宗祖遷化の弘安五年には14才ですからこちらの方が少年と言えるのではないでしょうか。
ついでながら、像師は京都布教に再三チャレンジして三度の院宣で追放に会いながら、遂に後醍醐天皇の京都還幸の祈願を護良親王より令旨を得て祈祷し、還幸の報なって尾張・備中などの三ヶ寺の寺領を朝廷より寄進されました。
また、その祈祷成就の功として後醍醐帝より綸旨を賜り勅願寺としての立場と一乗円頓之宗旨を弘める勅許がもたらされています。日蓮宗はここで天下公認の宗派になったわけです。これは像師上洛41年目のことです。
後に京都洛中四条の地の像師開基の妙顕寺(四条門流といわれています)は足利将軍の祈祷所、北朝光厳院の祈願所も兼ね、宗祖諸門流の最高峰として洛中では妙顕寺を通さずして挙状と申し状を朝廷もしくは関係各所には上げられなかったと言うことです。
2098
:
金龍
:2006/05/31(水) 15:10:14
お暇庵さんこんにちわ。
確かに現存の歴史的な背景はその様に存じます。
ここは、少し遊んでみませんか。
お説の通り、目師は走湯での13才御出家、像師は宗祖入滅時14才。
しかし目師の記述は、他の日蓮門下に明記されているのでしょうか。
又、当家では像師の事は触れる文献は有りませんよね。
私が、折り触れて思うのは、富士門と他門の文献は互いに反する場面が多いという事です。
これらの伝承等を一蹴にして「不相伝」と言う言葉でかたずけるのでは無く、双方に何らかの共通点が見られないかと言う事です。
教義は別として、日蓮門下に伝わる伝承が如何なる背景で生み出されたかと言う疑問です。
確かに目師と像師は全くの別人と思いますが、事、稚児奉公の頃から考えると、本当に別人であったのかと言う突拍子も無い発想です。
仮に、虎王丸=経一丸と推論した場合、御肉牙の伝承にも繋がり、天奏の次第も目師であったと言っても大変に面白い仮説と思います。
私は、暴論かもしれませんが、虎王丸=経一丸とした場合、鶴丸の紋章使用にも納得する場面があるのです。
後醍醐天皇の宗教政策には確かに多くの教義と手を結び一宗一派に固まる事は無かったことは確かです。
さて、それだけで終わったのでしょうか。
建武以後、日本は戦国を迎え、後、徳川まで禁裏は実験を失い、大政委任が続く体制が続きます。
その中で、目師の伝統と像師の伝統とどちらが、禁裏で捉えられていたかと言う事に続くと思います。
公家文化と言う物は、武家風とは違い、あからさまに物事を表現することはありません。
江戸よりの使者が御所に上がる際。
「遠い関東より、ありがとう・・・・・、はよお帰りやす。」
の世界です。
話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。
2099
:
金龍
:2006/05/31(水) 15:26:13
藤川様こんにちは。
私は、尊師代理説に対して違う意見が有ります。
御所に於いては、「穢れ」を嫌います、その中でも「喪」は最大の「気涸れ」となり、御上への拝謁は控えるべきものと拝します。
現在の礼式ではその限りでは無いと思いますが、少なくても孝明天皇より上はそうであったと存じます。
では、目師の遷化後、何故に尊・郷師で御所に参内出来たかと言う事です。
私はここに、後醍醐帝の政策以上の物を感じるのです。
宗祖・開山・伝法と続く大導師に共通するものは何か。
その意義に、尊・郷師でもお役が叶ったと思うのです。
2100
:
犀角独歩
:2006/05/31(水) 16:07:24
藤川さん、有り難うございます。
その通りでしょうね。
では、もう一点。
「呼び出し」という表現を使われていましたが、日目の場合は、どちらですか。
呼び出されたのですか、それとも自分で行ったのでしょうか。
あと、日郷の天奏については、富士年表には
1345 興国 6 乙酉 後村上 足利尊氏 貞和 1 10.21 光明 滅後 64年
日興・日目13回忌 3.7 保田日郷、大聖人本尊を京六条坊門にて薩摩阿日叡に授与す(叡譜)3.14 保田日郷上洛して上杉管領に伝奏す(8ー373)3.15 保田日郷天奏により光明院より綸旨並びに嵯峨帝宸翰の法華経10巻を拝領す(
という記事が伝わります。
日尊は土地を拝領。日郷は法華経典。これら、顛末を見るに、どうも、国家諫暁などという朝廷を謗法罪悪視した様子は伝わりません。朝廷に認めてもらいに行っているという感じですが、これが天奏の実態と見て差し支えありませんか。
2101
:
犀角独歩
:2006/05/31(水) 16:19:07
それから、もう一点。
日尊が日目とは独自に天奏をしたのではないかという仮説は、説得性があります。
その理由は、日尊の天奏成就が石山にとって、何の意味もなしていないからです。
2102
:
お暇庵
:2006/05/31(水) 18:29:34
金龍さま、レスいただき有り難うございます
駄文に恐れ入ります
>話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
>一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。
金龍さまの見解はすこし、私どもには相容れないものがありそうです。この文調では何でも有りになってしまいませんか?
私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。
確かに口伝や相伝のたぐいは公開を前提としたものではないですから、表に出る事は少ないと思われますが、それでも延暦寺では口伝・相伝を書類化するために記家という専門僧侶をおき、そのための血脈相伝もあるのです。
これを言いますと飛んでもない分量になりますので、金龍さまの見解として、この議論は切り上げたいと思います。
有り難うございました、なお2097の文章に間違いがありました
>また日像こと経一丸は朗門に入ったのが建治元年の7才(1275)目師より15才若いですね
の「目師より15才」は8才の(目師出生1260、像師1268年)間違いです、謹んで訂正させていただきます。
2103
:
犀角独歩
:2006/05/31(水) 18:56:46
藤川さん、つい、投稿だけ読んで、質問をしてしまいましたが、ここは「つぶやき」なので、質疑応答付加でした。
お応えいただけるようでしたら、「素朴な疑問」のほうにでもお願いいたします。
よろしく、どうぞ。
2104
:
犀角独歩
:2006/05/31(水) 18:57:26
間違えました。付加ではなく「不可」でした。
2105
:
金龍
:2006/05/31(水) 18:59:23
拝復 お暇庵様
>話しがそれましたが、目師の天奏も又、何かのきっかけがあり、その背景があると思うのです。
>一般的には周知されない事があるのではと推論するのが面白いと思っています。
金龍さまの見解はすこし、私どもには相容れないものがありそうです。この文調では何でも有りになってしまいませんか?
私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。
とのお説、賜りました。
では、目師天奏と言う所に絞ってみたいと思います。
最終的には、目師自身が天奏を遂げることなく、従僧の尊・郷師により禁裏の奏上がなされた。
これは、富士門にかかる事実として捉えてよろしいでしょうか。
かかる、宗門の大事を遂げた従僧の尊・郷師は石山を離れ、目師天奏の次第は富士門下には伝わらなかったと言う事で良いでしょうか。
現在に残る文献をもって、偽書或いは「伝に曰く」と言われている事に関しては、全く効をそうさないと言う形であるのでしょうか。
「私どもはある程度の歴史的事実や資料を基にして文書として価値のなさそうな(偽書や風聞綴り)ものでも、当時の価値観や風習に則して判断をしたいところです。」
との見解には、どこを持って基準とするかが問題になると思います。
論議の切り上げ とのお言葉ですので、これでこの件に関してコメントはいたしません。
但し、私は教義の云々はさておき、いや、別として。
伝記伝承に対してのみ、色々な方面より意見があってしかるべきと思い、又、これからもそうあるべきと思います。
残念ながら、「判断」の基準が私には分かりませんので、判断に合わないとの結果である
「この議論の切り上げたいと思います。」
には大変に残念に思います。
これからは、議論の判断基準値を示しておいて頂ければ幸いです。
2106
:
お暇庵
:2006/05/31(水) 19:50:36
金龍さま、再々におそれいります
独歩さんが、2103でいみじくも書かれています様にこのスレッドでは質疑応答は禁止だそうです、私も大ボケで失礼いたしました。
失礼ついでに適当なスレッドがないので、お答えに変えさせて頂くとして、金龍さまは議論を進めさせるための判断基準をお求めですが、この掲示板は富士門とは書かれていますが他門の方も参加されますし、富士門と言っても石山だけではございません。
よって、大方の人の書き込みを見るまでもなく「ある程度の歴史的事実や資料を基にして」は当然の事と思います、その上で口伝的な事を主張するのであるならば、その根拠と依文は富士だけでなく、他門あるいは首肯するに足る学説を用いて証明する義務はあると思います。
この辺は他のスレッドを読んでいれば空気で分かると思います、何よりも個人の私信掲示板ではないですから、ここには論客も多いですので大方の批判に耐えうる論旨が望ましいと思いますが、こんな感じでしょうか。
以上にて失礼いたします
2108
:
今川元真
:2006/06/04(日) 10:58:02
劇画発想【日興私案】 「本化垂(しんにょう)亦天照太神宮」八百万神々の長・光神アマテラスが真の力を発揮。「日蓮聖人御影堂」御書遺文から法華経行者・日蓮を学ぶ。「法華本門寺根源」若くて綺麗な理想・南無妙法蓮華経本尊漫陀羅。
2109
:
励合人
:2006/06/10(土) 05:25:34
管理人様、素晴らしいサイトを提供して下さってありがとうございます。また博識ある皆様の貴重な投稿も丁寧な文面で時間を惜しみなく提供して頂いて感謝致します。
管理人様に提案なのですがサイトにカウンターをつけられたら如何でしょうか。どれくらいのロムの方がいらっしゃるのかと思いまして。常連の方々はあまり意識されてないと思いますが今後のサイトの発展を意識できるのにもカウンターがあれば分かりやすいと思いましたもので。新しい時代の幕開けになるサイトだと思いますので動向を見届けたいと思いました。
2110
:
管理者
:2006/06/10(土) 07:55:32
励合人 さん
ご参加有難うございます。
>サイトにカウンターをつけられたら如何でしょうか
ご提案有難うございます。
カウンターは当掲示板開設当初より、設置されています。ページの上部、タイトルの下、左側にあります。
現在のカウントは400720です。ご確認戴ければ幸いです。
2111
:
今川元真
:2006/06/10(土) 12:40:08
劇画用背景説 ●シャカ(諸行無常) ●大乗教(転輪聖王) ●ビシュヌ様→【密教】秘密一乗[大日如来]大乗現証→【法華】法華一乗[妙法蓮華]一念三千・因果倶時、十全完璧即戦力 ●シヴァ様→鬼道密教→天台神道⇔十二天羯摩曼陀羅or法華本門戒壇堂or金剛界胎蔵曼陀羅法華儀軌(仮称) ◆すいません。2チャンネルに書く事でした。
2112
:
今川元真
:2006/06/13(火) 19:02:01
シャカ・ライスカレー・ナンカレー、龍樹・惣菜サンド・カレーパン、大乗経典・いろいろなパン、鳩摩訳・惣菜パン、智豈頁・点心・究極パン、最澄・サンドイッチ・揚げパン・究極パン、円仁・焼きサンド、円珍・惣菜サンド、安然・揚げパン、日蓮・究極パン、牧口・ジャムパン、戸田・惣菜サンド、玄奘訳・ジャムサンド、西遊記・惣菜パン・惣菜サンド・揚げパン・サンドイッチ、道教・点心、鬼道密教・惣菜不調合サンド、天台神道・インスタント的菓子パン、 【少年サンデー「焼きたて!!じゃパン」からの例え】
2113
:
今川元真
:2006/06/18(日) 11:09:16
【魔力・神力・法力・仏力・信力・学力・功力】【金剛界胎蔵曼陀羅法華儀軌】【上行・シャカ在世、不軽・シャカ没後】【軍茶利明・大威徳明王・降三世明王・金剛夜叉明王・烏沙摩明王】【南無妙法蓮華経如来、四天王、不動明王、愛染明王】【題目、本尊、戒壇】【鳩摩訳、智豈頁選、最澄編、日蓮継】
2114
:
今川元真
:2006/06/19(月) 20:29:20
◆明王の王の字が一つ脱字でした。◆高野山奥院で弘法大師空海の遺体が髪が伸びていたそうです。公家の日記か何かには荼毘にふされた事が書かれてあったそうです。◆聖徳太子に未来予言の書があるらしいです。日蓮聖人が密教や超能力などを否定せずの人なら、漫陀羅本尊を宣揚できる僧が出現するのが「シャカ没後2000年以上後の末法時代」だとしたら[題目義・日蓮、本尊義・日寛、戒壇義・牧口]に求めたい。宗教で無くて学問として。◆聖書に付属する黙示録も21世紀にある私等の眼から見れば警告なのか予言なのか判らず。神が書かせた予言では無くて端なるケースバイケースの未来予知ならヒトの想像の範囲内とも考えられるのでは無いでしょうか。
2115
:
今川元真
:2006/06/21(水) 12:06:19
連続書き込みになってるけど一箇所一日一度で御勘弁っていうか此の書き込みで前提な疑問に区切りです。●大乗経典・定義白蓮華思想経典●聖徳太子、役小角、最澄、日蓮、山川智応、石原莞爾、牧口常三郎、戸田城聖●21世紀の仏教・シャカ(諸行無常)解脱、シャクソン(涅槃寂静)成仏 ●「親が存在しなければ、子も存在しない」で振り出しに戻るなら、シャカの言葉・原始経典から始めなければならないか
2116
:
一字三礼
:2006/06/21(水) 13:20:17
最近ちょっとがんばって書き込みをしておりますが、顕正居士さんとの対話にしても、犀角独歩さんとの対話にしても自分の投稿内容が非常に保守的だということに気付かされます。
れんさんと初めてお会いした時に、「お坊さんだと思ってました。」と言われたのもなるほどと思いました。
でも最近、見た目で、お坊さんではなく、少し年配のハンプティーダンプティーに似ていると言われました。
年配のハンプティーダンプティーって、、、。
2117
:
今川元真
:2006/06/21(水) 16:18:44
連続で無ければ良い? ◆嘘から出た卵。元意、真。 ◆数字の計算では何故か合わないけど、末法の様相には合う。事件事故が起こらない神仏の時代など無いと言われるなら其れまでです。 ◆悟りの立脚点は何か。から考えないと建て直しは無理でしょうか。
2118
:
犀角独歩
:2006/06/22(木) 12:02:23
かつての友人が、「成仏したいというのも、欲求なんだから煩悩じゃないの?」と言っていました。「なるほど」と妙に納得したものでした。
しかし実のところ、釈迦牟尼は成仏したところから50年、生き続け、人々を教化していたわけでした。それを修行と呼んでもいたようでした。
ところが仏教徒は成仏するために一所懸命、修行して仏になりません。今日日の仏教ともなると、人間であることに強い執着も見られます。
信じていることからも自由になること、そこに平安があること、釈迦牟尼はそんなことを教えたかったのではないのかとも思う昨今です。
2119
:
今川元真
:2006/06/22(木) 15:51:01
反神教or汎神教の違いか?
2120
:
藤川一郎
:2006/06/22(木) 16:50:13
>>2116
独歩さんも、顕正会からは「日蓮宗の僧侶」と言われてますが・・・。
何しろ「○○坊」ですからね。
2121
:
犀角独歩
:2006/06/22(木) 18:36:49
藤川さん、わたしが日蓮宗僧侶というのは、一種のブラックユーモアですね。
わたしは出家させる大器は、そうはいらっしゃらないと思います(笑)
2122
:
藤川一郎
:2006/06/25(日) 19:20:12
>>2121
まあ、日蓮宗でもお断り?(爆)
それはさておき下記オークションは全く落札者無く終了しました(笑)。
終わってからでないと、入札妨害と勘ぐられますので、今発表しました。
http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g42352086
2123
:
ラキ
:2006/06/27(火) 23:25:16
商魂たくましいですね(笑)
本尊て破門前は「貸し与え」だったはずなのに、売り渡し(販売)て意識があるんですね。
それにしても、破門されてから日寛上人本尊に交換するのに、3000円を取られて、貸し与えだから交換なら無料でも構わない気がします。
販売された物なら、再販売?で交換と行って、本尊を持っていくのは騙しじゃん!と今は考えますね。
所有権放棄した訳ではないので、返還請求して、オークションにでも掛けてみたいかも?w
2124
:
きゃからばあ
:2006/07/01(土) 11:33:09
少しつぶやきたくなりました。
学会2世として育ち、脱会後は法華講として活動し、なによりも大御本尊を信じて勤行・唱題をして、少しばかりの教学を学んできましたが、この掲示板に出会ってから悩んで悩んだ結果、今ではすっかり大御本尊に興味がなくなり、むしろ宗教そのものを信じなくなり、死後の世界すら信じていません。
といいながら家の御本尊に唱題しているので矛盾していますが…。
でも五逆罪よりも法華経の誹謗のほうが無間地獄に堕ちるなら、法華経なんて無いほうがいい。こちらの漫荼羅が良く、あちらが駄目でそれを拝んだら堕地獄なんていうならすべての漫荼羅はいらない。
釈迦も日蓮も、過去の偉人として尊敬はしますが、本仏とは思えません。
もちろん間違いだってあるし、失敗もあるのが普通です。
きっとあの頃の世間の苦しみ(戦争)を無くしたかっただけなのかもしれない。
そのために因果律を説き、真の平等を説いたのかもしれない。
おそらく法華経とは因果律と真の平等を説いたものだから、それを無視すると五逆罪よりも重く、逆に信じるとあらゆる仏を供養するよりも功徳が大きいのだと思う。
そして日蓮は法華経に唱題することで、自己開発・自己啓発・向上心・人間革命?、させる手段を発見したのではないでしょうか?
それと釈迦も日蓮も当時の堕落した僧侶(宗教人)に人々が惑わされていることを五濁悪世の原因と考え、そこには幸福はなく、だからこそそれらから人々を救いたかったのではないでしょうか?
変かもしれませんが私は学会に期待しています。宗教そのものを見極めて、本当に大切なことは抽象的な神仏に拝むことではなく、自己意識による改革・向上の方法を見つけることで、もし本尊が必要なら、万民でそれを協議し、そして選べばいいのであり、そして他力本願的な宗教を打破し、因果律と真の平等を基にした活動を展開して欲しい。
やっぱり抽象的な漫荼羅より、一人ひとりの命のほうが大切だと私は思います。
なお過去の投稿で名前にメールアドレスをリンクさせていましたが、迷惑メールが多いのでアドレスを無くしました。
2125
:
独学徒
:2006/07/02(日) 20:47:46
6月18日にブログにて、正信会と創価学会について少々批判的な内容を投稿しました。
なぜかそれ以降、掲示板では連日のように迷惑投稿がなされ、現在に至っています。
ひょっとして因果関係があったりして。
つぶやきでした。
2126
:
犀角独歩
:2006/07/03(月) 09:12:24
独学徒さん
この度は、‘ご法難’の由、ご苦労さまです。
また、拙書のご紹介、まことに痛み入ります。
貴ブログ、謹んで拝読いたしました。
正信会に対するご見解にはまったく同意です。
正信会のサイトの
> 熱原法難を通して師弟一箇の成道を得た法難の瑞相
というのは、いったい何を言っているのか理解に苦しみますが、いずれにしても、熱原信徒の篤信と法難を賛嘆したものなのでしょう。ところが、正信会各位、殊に彼の所の古文書研究をよくする人々は、彫刻の真偽を語らないわけです。そこに四弘誓願の衆生無辺誓願度は見られません。彼らの師である日達氏がいった「上求菩提下化衆生」も見られません。
熱原信徒の篤信と法難を賞賛するのであれば、自分たちも真実を語り、そこで遭う難から逃れない生き様を示して然るべきであると思うのです。
ところが、彫刻を信じる人々は、このような破戒に止施するわけでもなく、むしろ、荷担して、事実を語れば留難をなし、罪業を重ねます。また、在家のみで生きる人々もまた、自分の信じる‘本尊’を貶されたと思い、難を為します。しかし、彫刻の真偽を語ることは、事実を語ることであり、悪口ではありません。斯かる信に執着する人々は、何故、事実を見ようとせず、寧ろ、事実を語ることに難を為すのか、哀しむべきものがあります。
しかし、このようなことは先刻ご承知のことであり、昨年の流行語を使えば、まさに「想定内」のこと、致し方のないことなのかも知れません。しかし、難を為す人々もまた、事実を隠蔽することで組織、指導者に呪縛される被害者である以上、こちら側としては、一片の怒りも覚えず、ただ、憐憫の情を催すばかりです。
2127
:
きゃからばあ
:2006/07/03(月) 11:16:10
>2124
「すっかり大御本尊に興味がなくなり…、」
を、
「すっかり大御本尊を信ずる気持ちがなくなり、」
と訂正させてください。
あくまでも御本尊の真偽は必要であり、その結果を後世に残さなければいけないと考えています。
2128
:
犀角独歩
:2006/07/03(月) 14:44:11
きゃからばあさん
わたしもそう思います
2129
:
独学徒
:2006/07/03(月) 20:46:58
犀角独歩さん、”法難”お見舞い、誠に恐縮です。
>熱原信徒の篤信と法難を賞賛するのであれば、自分たちも真実を語り、そこで遭う難から逃れない生き様を示して然るべきであると思うのです。
全く仰せの通りだと思います。
興風談所の研究成果は、深く尊敬致します。
まさに正信に覚醒させられる思いすらあります。
しかし彫刻の真偽や、自分達の興味の無い、もしくは自分達にとって不利益な問い合わせには、どこまでも無視を決めむ態度、傲慢な言い草等には落胆します。
僧侶など所詮は皆この程度かと、溜息が出る思いです。
きゃからばあさん、
>あくまでも御本尊の真偽は必要であり、その結果を後世に残さなければいけないと考えています。
宗門の方の中に、このような真摯な方が居られる事を心強く思います。
心より尊敬申し上げます。
管理人様、
つぶやきスレッドでの返信、失礼致します。
2130
:
下学上達
:2006/07/03(月) 22:11:53
本門戒壇の大御本尊だけは、「この世での唯一の真実」と信じて来ましたが、
独歩さんのページなどを読ませて頂き、かなり落ち込んでいます。
本物は、いったいどこにあるんでしょうかね。
一度で良いから、拝んでみたいものです。
2131
:
犀角独歩
:2006/07/04(火) 00:16:30
独学徒さん
正信会、殊に興風檀所の人々、あれは“坊さん”なのですか。坊さんの格好をしているだけではないのですか。彼らが坊さん、僧侶という点には大いに疑問があります。頭を剃って、袈裟を着るだけなら、われわれだって、出来ます。彼らが坊さんだというのは、いったいどこから言えるのでしょうか。もちろん、これは独学徒さんへの詰問ではありません。わたしは彼らを坊さんだとはまったく思っていないという意思表示です。坊さんコスプレ、古文書オタク、衆生済度の意志はなく、仏教学界で認められて、いい気分になっているだけとしか映じません。
下学上達さん
本物の戒壇本尊、そんなものはないでしょう。そもそも、日蓮は会談と本尊と題目と言っているのです。
戒壇の本尊があるというのであれば、戒壇の題目、戒壇の戒壇もなければなりません。戒壇と本尊が別立てなのが日蓮の教義ですが、それを束ねれば秘事で一つであるというのが草案に見られるところではないでしょうか。
いずれにしても、本尊は「観心本尊」ではないでしょうか。
2132
:
犀角独歩
:2006/07/04(火) 00:18:03
【2131の訂正】
誤)会談と本尊と題目
正)戒壇と本尊と題目
2134
:
犀角独歩
:2006/07/04(火) 00:27:59
管理者さん
投稿したあとに、少し反芻しました。これは偽らざる感想です。しかし、管理者さんが、「坊さんコスプレ、古文書オタク」というのが、悪口等の投稿規約に該当するとご判断されるのであれば、2131、2132は削除してください。
2135
:
顕正居士
:2006/07/04(火) 05:33:30
正信会や創価シンパの離脱僧はろんなく坊さんです。カルト化しているとはいえ、日蓮正宗は
由緒ある伝統宗派の流れですから。そこで出家した人は坊さんです。宗派から擯斥されても、
宗派を替えても、坊さんであることに変りはありません。
ただし具足戒を受けている人を坊さんという国際標準からは、日本とチベットのニンマ派の方は
優婆塞(居士)です。
2136
:
B
:2006/07/04(火) 05:39:18
2131の掲示は独歩さんの人格、品性を表して面白い。
自らへの無礼には大変鋭敏でいらっしゃる。
偉大な独歩さんも、
意に副わぬ者に対してはかくの如くになられる。
削除より晒しておくべきでしょう。
「カラフル坊さんコスプレ、法華経オタク」はお気に入りのようだが
独学徒 さん
ブログどこにあるのかご紹介を
2137
:
顕正居士
:2006/07/04(火) 05:56:32
日本の坊さんの中でちょっと違うのは真宗の方です。無戒ですから。ほかは円戒です。
日本仏教の世界では真宗の方も同じ坊さんです。全く差異はない。しかし仏教の世界
を出ると違います。神官と同じに俗人として扱われます。ですから、真宗九家は華族に
列したのです。
なお、明治廃仏以後は四民の外である僧侶という身分は法律上はありません。僧侶は
宗教、ことに葬儀に与る職業に過ぎず、選挙権など国民の権利を有すると同時に、納税、
(兵役)などの義務を負います。したがって何が僧侶であるかは、明治廃仏以前の習慣
によるといえます。
2138
:
犀角独歩
:2006/07/04(火) 06:27:01
Bさん
「偉大」とは恐れ入りました(大笑)
ところで、わたしはどこに「カラフル」と書きましたか?
わたしがコスプレ、オタクではないかと記したのは、その言葉が気に入っているからではなく、わたしは、僧の僧たる所以は何かと、問うためです。
このようなことは日蓮にも見られるでしょう。以下の如き、引用、記述が見られます。
「法を護らざる者をば禿居士と名づく」
「多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是くの如きの人を名づけて禿人と為す。是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駈逐して出ださしめ、若しくは殺し若しくは害せん」
また、疑偽書には、さらに激烈を極め、
「食法がきと申すは、出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がきとて法をくらふがきと申すなり。当世の僧を見るに、人にかくして我一人ばかり供養をうくる人もあり。是は狗犬の僧と法華経に見えたり。是は未来には牛頭と云ふ鬼となるべし」
「遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を著たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし」
既得権ではあるまいし、出家、教師補認という免許を、あるとき、ある宗派から得れば、その後、終生、僧侶であるというのか、そもそも、僧侶とは何ぞや、かくあるべきかという問いです。
以下、よく引用するところです。この心情を言っているのです。
「坊さんのすべてが、もう一度、出家しなおしたら、どんなにすばらしいことかと思う。皮肉などで決してない。実感である。
三十三カ所霊場とは限らない。日本の寺々にはともすると、草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。かたちはでんとかまえているが、ひっくり返してみたら下のほうが腐りかけていた南瓜……。そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである」(『西国巡拝記』杉本苑子)
2139
:
犀角独歩
:2006/07/04(火) 06:49:07
なお、誤解があるといけませんから、一言、補足します。
わたしは、僧は宝であるという考えには、心から賛同しています。
原則として、僧侶には、最高の礼を以て、接しています。
しかし、破戒、無戒、一片の民衆共済の志も感じられない者には、歯に衣を着せず、断固、その非を問います。それは、わたしの意に副うか・否かということではない、僧の僧たる所以を滅ぼす悪行であるからです。
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