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富士山本門寺について教えて下さい

13波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2002/10/11(金) 14:49
富士山本門寺については画期的な研究が現宗研の石川師から発表されましたよ。

小野寺氏は北山にも出入りしていろいろ困ったことがあったんだよね。

14菊水護国:2002/10/30(水) 10:23
小野寺日了に告ぐ。
平成11年8月10日の、我らとの約束に従い、早く「法皇僭称行為」を中止せよ。
さもなくば、再び出向くぞ。今度は徹底して、街宣活動を展開するぞ。
HP上での事でも許さん。

15菊水護国:2002/10/31(木) 09:29
拝啓、小野寺さん。
以下の文面を、今年暮れに送る予定です。
小野寺さん、見てたら自ら、中止してください。
それまでに自主的に中止したら、書面は送りません。

「小野寺日了よ。
 汝速やかに法皇僭称行為を止め、今上の帝に陳謝せよ。
 貴殿の行いに3つの大罪あるなり。
 本来、法皇号は一度皇位についたお方の称号である。
 しかるに、貴殿は皇位についた事も無く、法皇号を僭称するは天皇を僭称するも同様なり。
 また、皇位に着くには日嗣の皇子即ち皇太子の地位におつきにならねばならぬため、皇太子の僭称にもつながるなり。
 貴殿経歴には南朝正当血統とあるが、日本国南北朝合一の砌、後小松天皇に天壌無窮の霊位が継承されたのである。
 それ以来、天孫の霊位は今上の血統にあるのである。
 皇位は血類で継承するのではなく、霊位を継承するのである。
 だからこそ、桓武天皇五世の子孫でも、将門の行為は反逆なのである。
 さらに霊位継承には、即位、大嘗の二礼を行わねばならぬが貴殿は何時、その二礼を行ったのか。
 また皇太子には、桐壺御剣と皇位宣揚守曼荼羅の継承が不可欠であるが、貴殿にはそれがあったか否か。
 さらに貴殿が出家を名乗るからには、得度の師匠が必要であるが、貴殿の戒師はだれか、度帳はあるのか。

 すなわち貴殿は「法皇号」を僭称する故に「法皇、天皇、皇太子」の三称号の僭称を犯していることになる。
 この行為は、天壌無窮皇国の歴史の中で、最大の大罪なり。
 ここに、赤子菊水護国、国父今上の帝になりかわり、貴殿に宣告するものなり。

 日了、速やかに法皇僭称行為を止めよ。
 書面到着後一ヶ月以内に、法皇僭称皇位中止の期限を返答せよ。
 返答無き場合は、中止の意思無きものとみなし、我が組織及び同盟友好組織一丸となり、
 抗議活動を開始する。
 この活動には一死かける故に、貴殿も一死をかけて返答されよ。
 
 平成  年  月  日
        政治結社○○  主催 菊水護国。

16菊水護国:2003/02/03(月) 10:30
最近、あまりにも馬鹿馬鹿しくなって、私は彼の事には既に手を引いたのですが、彼の御仁は未だに「日了法皇」と名乗っているようです。
ただし、書籍は「小野寺直」であり、中には「小野寺直識」とあります。どれが正式氏名なのか。
ところで、彼は、僧侶なのか在家なのかさっぱりわかりません。
僧侶なら「剃刀の師匠」は誰なのでしょうか。それとも実は在家なのでしょうか。
もし僧侶であり、法名が「日了」なら、既に捨て去った俗名を書籍上用いるのは不当ですし、ああ、分からん。

17犀角独歩:2003/02/04(火) 09:01

違う違う菊水護国さん。

小野寺直識は「小野寺直 識(しる)す」と読むんでしょうね。
ただ、続けて書くのは変で、名と「識」は少し間を空け記し、字の大きさも変えるほどの配慮は必要です。そうなっていなければ、名前と間違えられても、たしかに仕方がないですね。

18菊水護国:2003/02/04(火) 10:31
ははは、そうだったんだ(爆)。
でも配置からすると、そう読めたんですがね。
いずれにしても、俗名を使ってることは確かでしょうね。

19犀角独歩:2003/02/05(水) 21:24

> 18

俗名というか本名(笑)
だって、坊さんじゃないでしょう。

羊羹、いまでも好物?
榮太郎は喰わないか(笑)

20日蓮信者:2003/04/01(火) 19:42
手元に、昭和61年に出版された『大本尊ふたたび出現す』玉井禮一郎著と云う本があります。
著者の玉井氏は昭和29年に日蓮正宗に入信、昭和36年に創価学会に入会という信仰歴の長い人ですが
小野寺日了にだまされ、本因妙大本尊を信用して、提灯持ちの本を出版し、本門正宗機関誌『後醍醐』の
編集長もしました。

後に、玉井氏は小野寺日了とは断絶し、自分がだまされた原因と彼のもつ経歴のいいかげんさを
暴露した小冊子を発行しました。

それによれば、本門寺の日蓮聖人『生身の御影』は、以前は禅宗のものとして使用していたとか
小野寺家も代々、禅宗で日目上人とは関係無いとのことです。

しかし、信仰歴も長く出版を手がけている玉井氏をコロッと欺けるというのは、なかなかのものと
いえるかも知れません。

玉井氏によれば詐欺師に騙されたという事のようです。

21本門正宗を斬る(顕正会):2003/08/28(木) 00:16
①「本因妙大本尊」の誑惑
 小野寺の誑惑の最大なるものは、大石寺にまします「本門戒壇の大御本尊」を否定せんとして、「本因妙大本尊」と称する贋造本尊を建てたことである。
 この贋造本尊は、大聖人が文永11年12月に御書顕されたいわゆる「万年救護の御本尊」(保田妙本寺蔵)を板に模刻し、裏書を大聖人の御筆跡に似せて書き入れたものである。
 この贋造「板本尊」について小野寺は
「末代に之を残さんが為に大聖人はこの紙本の『大本尊』を板に彫され弘安2年10月12日、『令法久住』の為に開眼して、『板の大本尊』を『本因妙大本尊』と御自ら称せしめられたのであります」
また
「日蓮大聖人は弘安2年10月、日興上人に法の内付属に当たってこの大本尊を自ら板に彫し『勅宣・御教書』を得て『本門寺』を建立し、この『大本尊』を『冨士山本門寺』の本堂に奉安置し、末法尽未来際救護の根本本尊をしなさいと、御付属さあれたのであります」

22本門正宗を斬る(顕正会):2003/08/28(木) 00:19
また
「日蓮大聖人御自ら和泉公日法師を助手として板に彫され、弘安2年10月12日開眼供養の大御本尊」
などと妄語を並べている。一読、これが大石寺に「戒壇の大御本尊」に関わる史実・いわれ等を盗み”スリカエ”た「作り話」であることは。大石寺の信徒なら誰でもすぐわかろう。

この「本因妙大本尊」なるものが、真っ赤な贋造物であることを、以下立証する。
(一)道理
①そもそも御真筆御本尊の模刻などということは、後人のなすことであって、御本尊の当体そして御書顕の本主にてまします日蓮大聖人が、どうして模刻などをなsる必要があろうか。
 ゆえに、もし文永11年12月の御本尊が、小野寺の云うごとく「本門の事の戒壇の大御本尊の『設計図』」(後醍1号)ならば、その「万年救護本尊」を直ちに板に御みずから認められるべきで、5年後
大聖人が模刻するなどということは、絶対にありえない。
いわん文永・建治の御本尊は未究竟である。弘安2年に至って未究竟の本尊を模刻して「出世の本懐」などと、大聖人がどうして仰せられようか。
②もし、「本因妙大本尊」なるものがそれほど大事な本尊ならば、必ず代々にわたって厳格に付嘱護持されるべきである。しかるに500年もの間も行方不明、かる出所も曖昧などという事自体、誑惑たることを物語っている。
「井出の御洞に隠されたのではなかろうか」(大本尊再び出現す<以下「再現」と略称>156頁)などの作り話は、まさに弘法の「三鈷」の誑惑と同類である。

23本門正宗を斬る(顕正会):2003/08/28(木) 00:20
(二)文証
 「本因妙大本尊」なるものには、その存在を証明する文証が全く無い。
 謗書には「この本門の大御本尊の相続無くしては日蓮大聖人の血脈相承は有り得ない」
などと云って、その血脈を日興上人・日目上人・日道上人、そして日郷・日伝・日宣等と立てているが、興・目・道の三師にその文証がないのは当然であるが、郷・伝・宣等の邪師にもその記録が全くない。

24本門正宗を斬る(顕正会):2003/08/28(木) 00:21
「日興跡条々事」を曲会
 小野寺は、「『日興が身に宛て給わる所の弘安2年の大御本尊は日目に之を授与す。本門寺に懸け奉る可し』と記され」などと、あたかも「日興跡条々事」の御文における「弘安2年の大御本尊」がそれに当るごとく書いているが、この厚かましさは、「精神鑑定」の必要すら感ずる。
 文永11年の御本尊を模刻した「本因妙大本尊」なるものが、どうして「弘安2年の大御本尊」と云えるのか。汝はこの御文の意を盗み取るべく、贋造本尊の彫刻・開眼の日付を「弘安2年10月12日」としたのであろう。

25犀角独歩:2004/08/24(火) 09:14

『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』287の空き缶さんの投稿でも取り上げられている万年救護本尊の石碑を見てきました。これは「本因妙大本尊」作成に当たって拓本を取った素と言われたものです。東京谷中・領玄寺にひっそりと建っています。

領玄寺・万年救護本尊石碑
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ryogenji_mannenkugo.jpg

石山・大講堂安置本尊も万年救護本尊でした。
この大本尊の珍重は大したものです。あちらこちらに写しがあるのですね。
これは妙本寺の中世の運営となんらかの関係があるのでしょうか。
それとも、他で写しを持っていたところが、それを元にした模写をさらに濫用した結果なのでしょうか。

関連するかどうか。ここ22の書き込みで本門正宗を斬る(顕正会)さん(はじめまして)が「そもそも御真筆御本尊の模刻などということは、後人のなすことであって、御本尊の当体そして御書顕の本主にてまします日蓮大聖人が、どうして模刻などをなsる必要があろうか」と書いておりますが、至極尤もなご意見であろうかと思います。
顕正会員でありながら、本尊彫刻を否定するということは彫刻である「本門戒壇之大御本尊」も否定することなのでしょうから、ご立派なご意見であると思った次第です。

26藤川一郎:2004/08/24(火) 11:44
独歩さん
横レス失礼します。
この21から24の見解は全て、浅井さんの「叱咤痴犬抄」の引用であります。
独歩さん御指摘の部分も浅井さんの文章そのままです。
ですから、この見解は浅井さんの見解ですので、顕正会員としては当然の御意見でしょう。

27犀角独歩:2004/08/24(火) 12:04

藤川さん、お久しぶりです。

そうですか。浅井さんは彫刻模刻反対論者だったわけですね。
そうなると丸木楠板彫刻「本門戒壇之大御本尊」を否定する言辞を吐いていたと言うことですね。これはこれは味わいのあるお話を承りました。

有り難うございました。

28藤川一郎:2004/08/24(火) 12:53
そもそも最近の顕正会員は「板で彫られた御本尊」があることすら知らない。
また、戒壇の御本尊が板であることすらも知らない。
浅井さんがどんな言説を述べようと顕正会には全く打撃はない。

以上、大爆笑な現今の顕正会を申し述べました。

29犀角独歩:2004/08/24(火) 13:26

> 顕正会員…戒壇の御本尊が板であることすらも知らない

これはそうですよね。
知り合いの日蓮宗僧侶のところに現役の顕正会員がやってきて「国立戒壇、戒壇の大御本尊」とあまりにうるさいので、わたしのサイトにアップしてある該当の写真を見せたそうです。

そうしたら、その顕正会員曰く「なんですか、この真っ黒い写真は!」
で、「だから、それが、君らが言う『戒壇の大御本尊』だろう」
「へっ? これなんですか…」と呟いて帰ってしまったとのことです。
拝したこともないものを信じさせられている彼らの頭の中の「戒壇の大御本尊」というのはどんなふうにイメージされているんでしょうか。

30犀角独歩:2004/08/24(火) 13:29

ここは小野寺さんのことを記すスレッドでした。失礼しました。

もっとも本因妙大本尊の基の石碑を実見すると、見てみなくても、誤謬に変わりなしという感慨を懐かざるを得ませんが。

31ラスカル:2005/12/10(土) 16:09:37
ちょっと横レス失礼します(といっても一段落?)いろいろなスレッドを少しずつ読んだのですが、「三大秘法」と「戒壇堂」は違うと言う事で宜しいのでしょうか。一大秘法を三大秘法(本門の)本尊・題目・戒壇の南無妙法蓮華経と読み、具体的な信・学・行の対象に準えると、五百塵点成道・久遠実成のシャクソン〈本仏を顕す仏像〉【人本尊】・法華経の五字(七字)【法本尊】・十界漫陀羅【人法一箇】が宗旨の核心と考えてよいのでしょうか。

32ラスカル:2005/12/10(土) 16:15:59
宗旨というのは、鎌倉時代の僧・日蓮の教えを「肝要」に見れば、と言う意味でお願いします。

33犀角独歩:2005/12/10(土) 16:25:59

ラスカルさん

> 「三大秘法」と「戒壇堂」

違います。三大秘法とは、日蓮の真偽未決書での成句です。
一大秘法は日寛の造語です。
開合六秘といいます。本門本尊に人と法、本門題目に信と行、本門戒壇に義と事。
一般的な戒壇は理と事といい、理は理論上、事とは築壇、建築される戒壇の建物をいいます。

> 宗旨の核心と考えてよいのでしょうか

ラスカルさんが記したことは、日寛以降の大石寺の考えです。
ここでは本門本尊を衷心と考えますが、一般的には本門題目が、ということになります。

34ラスカル:2005/12/10(土) 16:54:55
返答ありがとうございます。日寛教学と言う事は、日蓮在世の当時は、理の一念三千、事の一念三千、【仏】五百塵点成道・久遠実成シャクソン、【法】法華経五字(七字)【僧】法華経の行者(日蓮) 三宝の僧は「サンガ」といって、出家者とか信徒の集まりを表わしていると聞いたことがありますが。三宝というか本尊、教義、修行方法を考えようとすると何を鑑みて判断すればよいのか。という疑問になりました。

35犀角独歩:2005/12/11(日) 08:49:14

ラスカルさん

次々と疑問を持たれること、たいへんにけっこうだと思います。
思えば、わたしは、中学2年の時、初めて教学試験を受けて依頼、ずっと教学を考え続けてきました。いまは創価学会、日蓮正宗から、遙か遠くまでやって来ましたが、それでも考え続けています。40年の歳月が流れたことになります。
疑問を持ち、その解を得る、すると新たな疑問が涌き、また、解を得…、この繰り返しによって、時には難解な茨の樹海に迷いこともあります。

わたしがここの掲示板に来てから5年の歳月が過ぎたのだと思います。
先駆の問答さんが提示する疑問は新鮮でした。信仰者として、機械的にタブー視される本質をズバリと切り込んでいました。ここでの熟考は、多くの示唆と解をわたしに与えてくれました。また、出会えた多くの人々から、多くのことも学べました。
もし、この掲示板がなければ、わたしの解を得る速度は、それまでと同様、もっと遅々としたものであったでしょう。

しかし、反面、解を得る他面、また、応答をするために記した文書量にいや増して倍する読書量は、学生時代と比べものになりません。わたしは学生時代、年間100冊を目標にしていましたが、その頃の入門書の類に比し、ここでの議論で必要な文献は、実に濃厚で難解なものを手に取らなければなりません。わたしの知る限り、三学無縁さんは2トントラック2台分の書籍を蔵していましたし、彰往考来さんは、ご本人のお仕事の関連を除いて、石山に係る書籍資料だけで500冊以上を蔵し、読破されているとのことでした。
一字三礼さん、れんさん、独学徒さん、また、その他の方々も多くの資料を蔵され、何より、それをコレクションとするのではなく、熟読玩味し、自分なりの解を得続けておられます。顕正居士さんという賢哲のご参加も得、問答さんが運営されるこの掲示板は、まさに歴史的現場となっています。

余計なことを記しましたが、「千里の道も一歩から」と言います。
わたしもかつて歩いた道です。受けたご質問に関しては、出来る限り、お応えすることといたします。

> 日蓮在世の当時は、理の一念三千、事の一念三千

まあ、この点は、これでよろしいかと存じます。
三宝の整理の仏・法は、そのとおりでしょうが、僧については、教学的な態度からすれば四菩薩、法師等と考えられますが、門派意識としては、かくの如きであろうと思います。

> 三宝の僧は「サンガ」といって、出家者とか信徒の集まりを表わしている

サンガ(sanga)は僧伽と漢字で充てられ、集まりを意味しました。その僧だけが独立して出家者を指すようになりました。しかし、元来は四部衆といい、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷=男の出家者・女の出家者・男の在家信者・女の在家信者を言ったものです。

> 本尊、教義、修行方法を考えようとすると何を鑑みて判断すればよいの

これは確かに大問題です。
何度も繰り返し記してきたことですが、たとえば初期天台文献には本尊という語はありません。日蓮が言う場合、台密から、真言の影響の系譜があるのでしょう。
天台の段階ですら、本尊義はないわけです。ですから、元来、本尊と法華経は結びつかないものなのですが、日蓮、ひいては、この門派においては、本尊は重大な意味を有しています。教義も同様で、ことに日寛以降に創案整理された日蓮本仏論は移植を放っているわけで、ここに勝劣意識が発揮されることによって現在の有様があります。
修行法は、もちろん、この門派では、唱題に勝るものはありません。
しかし、修行は修行をして何をするのかという社会における存在価値が問われるのが現在です。また、信仰集団の有様を見ていくと、会活動そのものが、修行であるかのような論調であり、ここでは本来の修行の有様は喪失しています。

なお、一念信解を、ただ言われたとおりに信じ込めばいいという出鱈目な教え込みは、会員の思考能力を閉塞し、奴隷にする悪しき教義となっています。
一念信解とは、あなたが、ここで繰り返し、行っているように疑い考え、問い、聞き、考え、また、学び、そして、唱え、人のために役立ち、そのような繰り返しのなかで、漸くとたどり着ける一分の信、わずかな解をいいます。この信解は集団組織のなかで指導者の話を聞いて、即座にわかった気になるような感情とは、根本的に意味を異にしています。

36犀角独歩:2005/12/11(日) 08:55:13

【35の訂正】

誤)解を得る他面
正)解を得るために

誤)移植を放っている
正)異色を放っている

37ラスカル:2005/12/11(日) 10:56:39
犀角独歩さん、ありがとうございます。霧がかった道が開けるように諦めないように頑張りたいです。私の宗祖大聖人との縁は創価学会で、座談会にちょこちょこと顔をだしてました。小さい頃の話です。時を経るに連れて学会から離れる存在になり幽霊会員になってしまいました。自分の努力の足り無さがあったのでしょうが、反創価学会の人々の書き込みを見ると全体的に何かしらの違和感を感じて不具合になる人々が多いみたいです。私は霊感など超能力は鈍い方ですが社会の関心はいろいろなヒトの内面・現象にあって創価学会も変容してきたのかもしれません。迷ったら原点へ帰れというような言葉がありますが、いろいろな人の書き込みを見て人生修行の研纂に役立てれば良いなと思います。

38犀角独歩:2005/12/11(日) 11:09:17

ラスカルさん

> 諦めない

そうですね。それはとても大切なことです。

> 反創価学会の人々の書き込みを見ると全体的に何かしらの違和感を感じて不具合になる人々が多いみたいです

そうでしょうね。かつて、わたしも感じたものでした。
それが反学会の立場になると、まったく逆に見えるようになるから不思議です。
さらに学会でも、反学会もなくなると、両方を違和感と思え、さらに進むと、かつて通った道だなと思い出になります。歩んでいく先は見えないものですが、歩んできた道は認識できます。宗派はまるで違いますが、わたしの好きな青木新門さんは半歩先行く人がいちばん頼りになると記していました。

なんなりと、お気軽にお尋ねください。

39ラスカル:2005/12/11(日) 12:07:56
お気遣いありがとうございます。でも、議論は無理がでるので質疑応答のスレッドを立てた方が良いでしょう。

40犀角独歩:2005/12/11(日) 12:11:48

ラスカルさん、「素朴な疑問」は、そのためのスレッドです。

41天蓋真鏡:2007/01/22(月) 12:35:35
「束力原頁」?、建武の新政もいろいろ大変だったらしいです。後醍醐天皇が密教の加持祈祷をしていたのは事実なのでしょう。21世紀にあっては三国四師等日蓮の法門の大系を纏め信者学者行者の理解を得る事が住持などの責務ではありませんか。

42素朴:2007/01/23(火) 14:58:12
本当に素朴な疑問ですみません。ご教示頂ければ幸甚です。

道郷問題において石山の主張は理解しておりますが、保田側の見解はどうなんでしょう。
以前、某冊子において保田側の資料を一部公開しておりましたが、
内容的には、目師は郷師を大変信頼なされており、郷師に会いたいと恋慕の情を募らせていたと
いう内容を読んだことがあります。私にはその目師の手紙の真偽もわかりませんし、
目師がどのように郷師を思われていたのかも不明でございます。

どなたがご教示いただけませんでしょうか。

43顕正居士:2007/02/16(金) 17:52:41
道郷両師とその後継者・後援者による大石寺領をめぐる百年紛争の経過については
2ちゃんねるに昨日、妙本寺文書に基づいた、よくまとまった投稿がありました。

80-82番

http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1169849897/l50

44犀角独歩:2007/02/17(土) 09:29:08

顕正居士さんのご紹介、閲覧しました。
たしかに、よくまとまっていますね。

45れん:2007/02/17(土) 10:45:34
日道が石山に押し掛けたという同時代の記録はないですね。日道は南条館の後身である下之坊に住していたのが同時代の記録に見えます。房山日伝師の石山図には石山西坊地は南条時光の子息南条左衛門三郎から日行が相続した旨が記されます。日道の時点では石山に関わってなかった。つまり、実質的に争論を行ったのは、西坊地を得た日行と東坊地の支配者たる日郷師門下という構図であったのでしょうね。
ただ、日目より最後の自筆漫荼羅を授与された日盛の日目滅後の事績が分明でないのは後の日道門下により事績が消された可能性もあるのではと愚考します。

46独学徒:2007/02/17(土) 14:27:34

2チャンネルの記事拝見しました。
どなたかは存じませんが、顕正居士さんが評価されるだけの事はあるのでしょうね。

係争の流れは理解できるのですが、何故、郷門が御影を遷座したのかがわかりません。
文献上は日時は、御影の返還は要求しましたが、所謂「万年救護大本尊」の返還を求めたことは聞き及びません。
また、日時が御影の返還を求めたのは小泉久遠寺に対してであり、中谷山妙本寺ではありませんね。
複雑ですが、この係争は目師の後継者がどうというものではなく、「大石寺」という建物・土地の相続権争いということではないのでしょうか。
そうでなければ、日郷が日伝という稚児貫首を次に指名する理由がありません。
日伝は稚児貫首ですので、日伝の文書がどこまで信憑性があるかは疑問が残ります。
西坊地の初代支配者は日興であり、東西の坊地の主が東=日目、西=日興というのが、興風談所の見解であったと思いますが、この二仏並座ならぬ二師支配制が妥当な見解であるとすれば、西坊地の相続は日興⇒日代⇒日行という系図が考えられると思います。
ただし、日代と日行の間に、代官として日道が関わった可能性はあると思います。
かたや東坊地は、日目⇒日郷⇒日伝ですが、実際には日目⇒日仙(代官)⇒日郷⇒日賢(代官)⇒日伝となるのだと思います。
日代日仙の問答を契機に、東西統一貫首の必要性が求められ、係争が勃発したと考えれば、大石寺の主住争いの中身は本尊やら相伝やらではなく、建物・土地の支配権の争いということだと思うのです。

47れん:2007/02/17(土) 16:39:30
独学徒さん
大筋で独学徒さんの仰る如くと存じますが、一点だけ疑点を申し上げれば、西坊地の初代支配者が日興というのはやや違うのではと存じます。というのも、日興や日目への南条氏よりの石山の不動産の正式な寄進状や譲状はありません。その点では日興や日目やその門弟は“管理人”ではあっても「支配者」ではなかったでしょう。石山の西坊地は時光から庶子の左衛門三郎へ、東坊地は時光から時綱へ相続され、興目両師の死後、それぞれ日行と日郷に寄進されたという流れだと思うのですが?

48犀角独歩:2007/02/17(土) 18:24:14

独学徒さん
れんさん

石山を日興・日目が2分していたというのは信憑性のあることなのでしょうか。
興風の文書理解というのは、基本的に日興正嫡、興目相続、日蓮本仏、彫刻肯定という臭みがあって、危なっかしくて、無批判に採用する蛮勇が生じません。

重須に檀所を構えたわけですから、日興はここが本拠で、特に石山に拘る理由はないように思えます。執行師だったか失念しました。日興は身延で地頭と不和で山を下り、上野に着くも、ここは日目が主で休まるところではなく、ようやくと安堵したのは重須であったという記述を読みました。要は南条という地頭は日目とのつながりが強く、実質的中心者は日目で、日興はお飾り的な閑職となり不快な面持ちであったのが石山という場所であった。となれば、そこを2分するほどの力もなかったように思うのですが、この点はどうでしょうか。

49独学徒:2007/02/17(土) 19:27:21

犀角独歩さん、
れんさん、

ご意見ありがとう御座います。
私の投稿は少々乱暴だったと思います。

私は大石寺の歴代に、日郷や郷門僧の入る余地は無いと思っています。
当然、大石寺が正統な日蓮の血脈を伝えるだとか、彫刻が出世本懐などという議論に同調する気はさらさらありません。
しかし、たとえそれが横領であったとしても、裁判の結果だったにせよ、東西を最初に知行したのは日行であり、そして正式に裁判の結果知行することになったのは日時である事は、妙本寺文書からも明らかです。
ところが郷門は、あくまでも東坊地の知行を争論したのであって、一度たりとも西坊地の知行に乗り出していないし、実際知行もしていないと思います。
ある意味、郷門は東西はそれぞれの当主によって納められるべきといった、二当主制を支持していたように感じます。
西坊地側は、日代の退出の悲劇もあって、東西を統一した知行者を立てるべきと思っていたのかは分かりませんが、実際問題として、東坊地の知行に乗り出しているわけです。

私は大石寺が正しい云々の議論ではなく、大石寺の歴代系譜は、現在大石寺が主張している通りで良いと思います。
日蓮から日道は勧請歴代で、日行が実質的な初代当主だろうと思っています。
繰り返しになりますが、そこには日郷や郷門僧の入る余地は無いと思います。

「2ちゃん」での日郷が大石寺の第4世だなどとの議論は、私からしてみれば的外れな議論だと思います。

50れん:2007/02/17(土) 19:36:19
犀角独歩さんの仰るとおりですが、さらに言えば、南条氏は石山の主僧と目された日目にすら石山の不動産を譲渡することが出来なかったということです。当時の資料から察するに、興目在世の石山の不動産はあくまで南条氏の所有で、西坊地=日興、東坊地=日目という図式は、当時の資料からは立証できません。ですから、わたしは興目両師を支配者ではなく管理者と書きました。興目両師は南条氏にとって“帰依僧”ですから、南条氏は当然僧俗の筋目を守り師弟の礼をもって両師に給仕されたでしょうが、当時の資料を読むと、現実には上野南条氏は地頭職ながら貧乏な地頭の部類に入る様で、石山の所有権を興師または目師に寄進ないし譲渡できる程裕福ではなかったのではと考えます。日興は「大石持仏堂本尊日代闍梨」と脇書した漫荼羅を元享年間に書写しておりますから、この時期、日代師を石山の興師の坊を代官として日代に管理させたことはあったろうと思いますが、あくまで管理で、土地の所有権は南条氏であって西坊地の所有権が日興−日代と相続されたことはなかったと愚考します(この点、日目と東坊地の関係も同様と考えます)。興目在世の石山は建物たる坊そのものの管理は各々の坊の住僧がおこなったでしょうが、土地の所有権は地頭の南条氏の経済的理由により興目両師に寄進譲渡出来ずに南条氏にあった。で、興目両師の死後、時光氏の子息の時代に、各々有縁の僧にやっと相続または寄進するに至る。だらだら書きましたが、ここのあたりの経緯に、石山初期の係争の淵源があるのではないかと思います。

51れん:2007/02/17(土) 19:45:18
犀角独歩さんへの投稿文を作成している間に、独学徒さんの御投稿がありました。独学徒さんのご意見に同感です。参考になりました。

52犀角独歩:2007/02/17(土) 19:47:16

独学徒さん
れんさん

有り難うございます。
「泣く子と地頭には勝てぬ」という格言があります。
子は関係ありませんし、南条が分からず屋の地頭であったと思いませんが、仰るような権限を有していたのでしょうね。
そのうえで二分律はあったのかどうか。さらに日目の日興への態度とはどんなものであったか。富士から消された日郷の実像はどうであったか。
さらにご賢察を窺えることを楽しみにしております。

53独学徒:2007/02/17(土) 20:42:06

犀角独歩さん、
れんさん、

早々のご返信恐縮です。
また、れんさんには、一部私の愚考にご賛同も戴き、ありがとう御座います。

>二分律はあったのかどうか。

興目両師の代は分かりませんね。
しかし日郷及び郷門の態度は、あくまで東坊地の知行に拘ったように感じられます。
西側に手を伸ばした形跡は見当たりません。その意味で日郷や郷門の態度は、上野は二分律制でとの考えがあったように感じられます
私は日郷の小泉蓮蔵坊(後の富士山久遠寺)への御影遷座は、西坊地?の日興が重須に御影を遷座(これも?ですが)した故事に習ったのではないか、などと愚考しているのです。

つまり日郷及び郷門では、西坊地と重須の知行は日興・日代それ以降は、色々あって日行。東坊地と小泉は日目・日郷以降郷門僧、このような意図があったのではないかと思索をしています。

また私は日目の日興に対する態度は、重須側や執行師ら日蓮宗側の言い分は、的を射ていないと思います。
日目は弟子分への本尊授与を日興に依頼し、授与書を加えて授与していたことが、日興本尊授与書の筆跡鑑定からも明らかになっています。
それは日興晩年近くまでそうであった事を考えれば、日目が日興と仲違していたとか、反目していたなどということは考えられません。

54犀角独歩:2007/02/18(日) 07:21:10

> 日目が日興と仲違…反目

これは、ちょっとニュアンスが違うと思います。
そのようなことを言っているのではなく、日目は、いま考えられるような師資の関係とは違っていたのではないかということです。

石山が東西2分していた。もし、これが事実であれば、師弟間でこんなことをするでしょうか。この二等配分は対等関係ではないでしょうか。もし師として立てるのであれば、こんな肩を並べるような真似は断じてしないでしょう。だいたい、弟子の分際で師匠在生の時から、半分を管領するなど、不届きな所行といえませんか。

仮に日目がこのようなことができたとすれば、その背景は、上野が自分の縁故であるから、そして、新田卿といい、小野寺の流れという当時の身分制度では、日興の出を圧する血筋をもった日目は人脈といい、財産といい、日興を凌駕していたと想像できます。日蓮との関係は、日目を凌ぐものの、実質的な財力、権力は日目が勝っていたのではないのかというのが、わたしの見方です。

漫荼羅その他のことは、当時の規律として、日興門下では日興以外は書かないと言う決まりを守っていただけではないでしょうか。
たとえば、いまの正信会が、石山を批判したところで、では、自前で本尊を書くかと言えば、そうはしていない。では、石山に従っているかと言えば従っていない、漫荼羅を自分が書写しなければ従っているということにはなっていません。この点は、創価学会も、顕正会も同様です。それぞれ、石山に矢を射ながら、本尊については、石山のものを使っています。

また、妙本寺、上行院、住本寺といった文献を見るに、その相伝譜は日蓮・日目で、そこに日興が介在することが確定するのは後代のことではないでしょうか。

現代の例を採るのはナンセンスかも知れませんが、大石寺の正嫡は、その相不の実否はどうとしても、「御法主上人猊下」であることは論をまちません。ところが、その膨大な財力と人力を誇る「名誉会長」は、それを凌駕し、会員の上に君臨しています。実際、大石寺内にその財力を持って、自分の名前を刻み続けたのですが、実質的中心者である「御法主上人猊下」は、これを苦々しく思っていました。

わたしが石山二分管領という資料から受けるイメージは以上のようなところです。ストレートな言い方をすれば、金と人脈にものを言わせて、師匠を凌駕する不届きな奴という印象しか懐けないということです。

55独学徒:2007/02/18(日) 09:06:51

犀角独歩さん、

>石山が東西2分していた。もし、これが事実であれば、・・・不届きな所行といえませんか。

私はむしろ逆の考えでいます。
日興は重須に居たわけです。その重須にいる日興に対して常に居場所を確保されていたと考えます。
その場に日興はいなくとも、常に日興の存在を意識し続けた、それが日目であろうと考えます。
日目は最後、天奏の途上で亡くなるわけですが、「富士山本門寺」この構想が日蓮ではなく日興の独自思想であれば、この命がけの天奏もまさに日興を意識したもであり、師日興の意思を実現せんとする行動だと思います。

>漫荼羅その他のことは、当時の規律として、・・・石山に矢を射ながら、本尊については、石山のものを使っています。

日目の行為と、学会・顕正会等の所業とは一緒に出来ないと思います。
日目は弟子分へ授与の曼荼羅を日興に申請し、そこに授与書を加えて授与していたわけですから、勝手に印刷本尊を配布していることとは全く逆の行為だと思います。

>また、妙本寺、上行院、住本寺といった文献を見るに、その相伝譜は日蓮・日目で、そこに日興が介在することが確定するのは後代のことではないでしょうか。

以前ブログで紹介したことがありますが、日郷の直筆系譜にも日興の介在はあります。
日興を入れた系譜と入れない系譜(受法と学法)と二種あって、たて分けられてとはいえると思います。
郷門僧の書写する曼荼羅に、「日目上人遺弟」の文言が入るのは日要以降ですので、むしろ日目直授相伝(学法)が強調されはじめることの方が後代成立ではないでしょうか。
日尊についても、重須で日興の講義中に破門になった故事は有名ですが、郷門以上に日興の介在を意識した系譜ではないかと考えます。

>師匠を凌駕する不届きな奴という印象しか懐けないということです。

私は日目また日目の後続者達が日興を敬い、決して不届きなものではなかったことを、その後の事跡などから判断しています。
先にも記しましたが、日目と日興の関係は、一部の重須や日蓮宗系の方の考えよりは、興風談所の考えが妥当だと考えます。

56犀角独歩:2007/02/18(日) 10:39:52

独学徒さん

> 日興に対して常に居場所を確保されていた

その目的であれば、隠居坊を一つ置けば住むことです。
大石寺の実質的責任者を、日興にするか、日目にするか、半分にするかということですよ。わたしが師を仰ぐならば、自分をさておいて、師を立てます。半分ではなく全部を師のものとします。それが師資の道です。

> 「富士山本門寺」…天奏もまさに日興を意識した…師日興の意思を実現せんとする行動

そうでしょうか。では、なぜ、日目の『申状』は「日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す」としているのでしょうか。ここに日興の弟子といわず、日蓮の弟子といっています。

日道・日行は「日蓮聖人の弟子日興の遺弟」としていることとは好対照をなしていませんか。

> 日目…勝手に印刷本尊を配布していることとは全く逆の行為

いや、そのようなことをいっているわけではありません。
印刷本尊など例に出していません。もし、創価学会で例を採れば、むしろ、模刻板を挙げる方が至当でしょう。しかし、そのようなことからいったのでもありません。書写という観点からです。

日興は、日蓮から本弟子六人に認められると共に漫荼羅書写に関する允可を得ていたのではないでしょうか。日目が晩年まで、漫荼羅を書かなかったのは、日興から、その允可がなかったからでしょう。漫荼羅の書き方がわからなかった、もしくは許可をされなかったということではないですか。その意味からわたしは記したのです。

> 郷門僧の書写する曼荼羅に、「日目上人遺弟」の文言…日目直授相伝(学法)が強調されはじめることの方が後代成立ではないでしょうか。

教学的な確定としては、そうでしょうが、日目の本尊は日興とは違います。しかし、日郷の本尊は日目と似ています。このことがいったい、何を意味するかです。

> 日尊…破門になった故事は有名…郷門以上に日興の介在を意識

意識することと、認められることは別のことでしょう。

> 日目と日興の関係は、一部の重須や日蓮宗系の方の考えよりは、興風談所の考えが妥当だと考えます。

考え違いをされては困るのは、わたしは重須・日蓮宗からなど、ものは言っていません。独歩して自分の考えを述べているのです。その点では、興風談所も全く関係ありません。

ここでの議論は独学徒さんとわたしの議論なのであって、独学徒さんが興風談所を負い、わたしが日蓮宗を負った議論ではありません。

わたしは重須とも日蓮宗とも、興風談所とも考えは違います。
もし、そこかしこに異論を言うのであれば、直接、いいます。

57犀角独歩:2007/02/18(日) 11:30:27

もう少し創価学会のことについて、補填しておきます。

独学徒さんが関わっている創価学会と、わたしが関わった創価学会は違います。わたしがいた創価学会は、平成2年までのそれです。
御本尊を独自印刷も、頒布もしていませんでした。
日達さんに申請をし、下付されていました。授与書は「創価学会会長/法華講総講頭/池田大作」と必ず、ありました。石山に申請し、本尊は下付されていました。信徒となるということは、末寺に出向き御授戒をするという意味でした。
創価学会は表向きでは、石山をよく立てていましたし、日達さんに尊敬を示していました。

しかし、正本堂建立後から、雲行きは怪しくなっていきました。
わたしが、石山二分の記事を見て、思い出したのは、以下の事件です。
日興を僭称する偽作板本尊を安置する妙光寺の出来事です。
何か会議が、ここで開催されました。その時に、池田さんは、「猊下」の末座に据えられたと激怒したのです。
創価学会の主張は会長と「猊下」は横並び、並座でなければならないというものでした。この話を聞いたとき、正直、わたしは「そんなばかな」と思ったのを覚えています。

東西に分けて二分したという記事を読んだとき、この事件が彷彿と思い起こされたということです。

日目が「日蓮聖人の弟子」を名乗るということは、僧侶社会を少しでも見聞してきたわたしからすれば、僭越だと思います。強い師匠であれば、場合によっては破門するでしょう。

しかし、日興はそれができなかったか、もしくはしなかった。。
天奏までできる日目の財力と人脈は看過できなかったのではないか、穿った言い方をすれば、そう見えます。
この点でも、あの傲慢な態度を取った創価学会会長を直ちに破門できなかった石山の風景とダブります。

要は、日目というのは、弟子にしては頭が高い。ただし、それは出身がなせる業で、当人はあまり悪気もなく、自覚がなかった、日興も気にしていなかったのかも知れません。しかし700年を経たいま、端から見た日目の態度を弟子にあるべからざる態度と映じると言うことです。

58天蓋真鏡:2007/02/18(日) 14:40:08
横レス失礼します。●日蓮仏法≒漫荼羅は一子相伝では無くて日蓮の判形(形式)で無ければ成らない。●六弟子任命、墓守輪番制は事実なのでしょうか。

59独学徒:2007/02/18(日) 16:05:30

犀角独歩さん、

>その目的であれば、隠居坊を一つ置けば住むことです。・・・それが師資の道です。

日興は既に重巣に拠点を移していたわけで、本来日目一人の官僚でよいはずです。
しかし日目はそうしなかったところに、日興に対する敬意をみます。

>日目の『申状』は・・・日道・日行は「日蓮聖人の弟子日興の遺弟」としていることとは好対照をなしていませんか。

日目の例と、日道・日行の例を一緒に出来るかどうかはわかりません。仰せの趣旨であれば、むしろ日道は「日目の遺弟」、日行は「日道の遺弟」と記すべきだと思います。
日目の天奏は、事実命がけであったわけで、その行為・行動は日興遺弟としての振舞に微塵も相違なしといえると思います。

>日興は、日蓮から本弟子六人に認められる・・・その意味からわたしは記したのです。

元徳三年十二月に日目が書写した本尊が保田妙本寺にありますので、本尊書写自体は日目も行っていたと思います。

>日目の本尊は日興とは違います。しかし、日郷の本尊は日目と似ています。このことがいったい、何を意味するかです。

この点は正直判断できません。似ているものもありますが、そうでないものもあります。
小泉久遠寺の日目守と、同寺所蔵の日郷本尊は確かに似ていると思います。
こちらも以前ブログで紹介しましたが、日郷本尊は主題直下の例をとれば「日蓮聖人」と「日蓮御判」と記すものが混在していますし、主題などは独特の書風が感じられます。
保田妙本寺は写真を撮らせてくれないので、具体的に鑑別できないのが現状です。

>意識することと、認められることは別のことでしょう。

であれば、尊門の歴代には日興が明らかに認められると思います。

>考え違いをされては困るのは、・・・わたしが日蓮宗を負った議論ではありません。

仰ることは分かりますが、そもそも私が「重須側や執行師ら日蓮宗側の言い分は・・」と記したのは、>48の「執行師だったか失念しました。日興は身延で地頭と不和で山を下り、・・・」に対してです。確かに重須系や日蓮宗側からかような議論があることを、見聞した記憶がありました。それに対して、私は現在のところ興風談所の東西分離制といいますか、そのような考えの方を支持しているということです。

>もう少し創価学会のことについて、補填しておきます。・・・

私は創価学会と宗門のような不純な関係は、日興・日目の関係とはまったくダブりません。
日目は日興の高弟であることは動かないと思います。

60犀角独歩:2007/02/18(日) 16:49:14

独学徒さん

> 日興は既に重須に拠点を移していた

そうですね。では、なぜ、弟子日目は日興に随身給仕しなかったのでしょうか。
弟子でありながら、なぜ日興の膝元にいなかったのでしょうか。
石山は、たかだか南条の氏寺でしょう。管領は南条家だったのではないでしょうか。

>仰せの趣旨であれば

違います。日道・日行の例ではなく、「日目は日蓮聖人の弟子」だと言っているところに重があります。日興の弟子と日目が言っていない点はどうですか。

> 日目の天奏は、事実命がけであったわけで、その行為・行動は日興遺弟としての振舞に微塵も相違なしといえると思います。

これは決めつけでしょう。日目は「日蓮聖人の弟子」といって、天奏しているではないですか。日目の天奏が命がけであったことは事実としても、日興につなぐのは短絡でしょう。日目は日蓮聖人の弟子といって天奏をしたのですから、日蓮のために為したことでしょう。
また、本門寺と天奏と、どのような関係があるでしょうか。

> 元徳三年十二月に日目が書写した本尊が保田妙本寺にありますので、本尊書写自体は日目も行っていたと思います。

では、なんのために、日興から本尊を下げてもらったのでしょうか。矛盾しませんか。この会通はどうなりますか。

> であれば、尊門の歴代には日興が明らかに認められる

具体的な例を挙げてください。
上行院には、日興のどの本尊が懸かっていたのでしょうか。
日像は帝都弘教をし、菩薩号を授かるに、日蓮に大菩薩号を先駆けました。
では、日尊は油小路に土地を配領し、日興をどのように扱ったのですか。

>わたしが日蓮宗を負った議論ではありません。

執行師の例を引きましたが、それはあくまで例です。
わたしは、大石寺から、なぜ日興が退出したかという点から考えています。

> 東西分離制

しかし、実際のところ、日興は重須で弟子を育成していたのは、事実ではないですか。ここは檀所で、日興の管轄です。
しかし、大石寺は南条の氏寺、日興が云々という話とはならないでしょう。
当時の大石寺を、いまのような本山のように扱った議論は現状からずれていると思いますが、この点はどうなんでしょうか。

また、東西分離は、では、誰がしたのですか、日興ですか、日目ですか、それとも南条ですか。独学徒さんは、日目だというわけでしょう。
日興が師匠なのに、日目がすること自体、既に外れていませんか。
日興がしたのであればわかります。
だいたい、譲座本尊など、伝説に過ぎないわけです。では、日目が大石寺の住職であり、かつ、日興にその半分を与えたという証拠は何を以て言うわけでしょうか。

> 日目は日興の高弟であることは動かない

同じことを繰り返すことになりますが、わたしは日目が日興の高弟ではないとは、ひと言も言っていませんよ。日興の弟子なのに、日蓮の弟子を名乗ったと言っているのです。孫弟子の分際で、直弟子を名乗ったという意味です。僭越でしょう。

61れん:2007/02/18(日) 18:04:36
横レス失礼します。
議論の参考までに申し上げると、日道申状二通の内、富要に掲載された延元元年の物は堀師が「日寛上人補足して現申状を作りて其志を満せり」との説を紹介しており、延元の日道申状に関しては、日寛の手が入っている可能性がある故、全文を日道作とは断定出来ないところで、「日蓮聖人の弟子“日興の遺弟”日道」の署名も額面通りには受け入れがたいものがあります。もう一通の日道申状は、日時の三師伝の奥に筆写された日道申状の草稿(宗学全書に収録)で、写本の時代が日寛より遥かに日道に近いこともあり、こちらは信頼できる部類のものと愚考します。その三師伝奥の日道申状では日道は「日蓮聖人の弟子日道」と記しており、日郷の申状でも「日蓮聖人の遺弟日郷」日尊の申状でも「日蓮聖人の門弟日尊」とあります。このように日目門弟は署名は概ね日目の申状の署名式に倣っております。この点重須系の日代が「駿河国富士山隠侶日興の遺弟日善・日代・日助等」日妙が「日蓮聖人の弟子日興の遺弟等」と、重須日興膝下の諸師が日興の遺弟と明記しているのと対照的ですね。

62れん:2007/02/18(日) 19:39:29
横レスその2
>尊門の歴代には日興が明らかに認められる
独学徒さんが言われたのは日尹師書写本尊のことでしょうか。京都要法寺蔵日尹師書写漫荼羅には「応安三年十月十三日、富士日興上人日目上人日尊上人、日尹(花押)/沙弥尼妙義授与之」とあり、この当時の尊門の法統意識が分かりますね。
日目筆申状には写真を見るに「日蓮聖人弟子日目」とありますが、「副進(中略)一通 先師日興上人申状 元徳二年」と日興に“先師”と冠していることは注意するべきところでしょう。
重須は、正中二年十一月十三日付けの石河能忠「寄進状」に「右ニ日れんしやう人のみゑいたたせ候間、ひやくれんあさりの御房、妙源かししやうたる間、いちゑんふしうにゑいたいをかきりてきしんしたてまつる所也」とあり、その濫殤を示すものですが、日興の死後、日興の後継者たる日代が重須を出した背景は日代の「目安」によると地頭の石河氏との不和もあると思われ、重須もまた石河氏の私寺(日代目安に「彼の所は妙源私に寄進の地なり」とあり)氏寺という性格であったと言えるでしょう。重須は正中年間に下りますが正式に日興に寄進されたから、日興は安住出来ただけの話であるとも思います。

63独学徒:2007/02/18(日) 19:47:27

犀角独歩さん

> 弟子日目は日興に随身給仕しなかったのでしょうか。・・・管領は南条家だったのではないでしょうか。

日目・日仙・日善の連名で書かれた、「日興上人御遺跡事」には、「日興上人の仰せによって支配し奉る事件の如し」というわけですから、日目が重須で給仕しなかったことも、全ては師日興の仰せによったのだと解釈しています。

>日興の弟子と日目が言っていない点はどうですか。

日興・日目の時代は、「天台沙門」と名乗るべきか、「日蓮聖人の弟子」と名乗るべきかの時代であって、師日興が「日蓮聖人の弟子」と名乗るべきといっている以上、師の仰せに従順に従ったのだと思います。

>これは決めつけでしょう。日目は「日蓮聖人の弟子」といって、・・・本門寺と天奏と、どのような関係があるでしょうか。

決めつけといってしまえば、全てが決めつけになってしまうと思います。
「日蓮聖人の弟子」との名乗りは、日興の思想によっている以上、この一事をもって日興と日目との間を云々は出来ないと考えます。


>では、なんのために、日興から本尊を下げてもらったのでしょうか。矛盾しませんか。この会通はどうなりますか。

これは自分の弟子は、日興の弟子でもあるという意思表示ではないかと考えています。

>具体的な例を挙げてください。

現に要法寺の本堂は日興の曼荼羅ですし、尊門が日興を歴代系譜から外してした事跡の方こそ、上代文書から現代に至るまで私は存じ上げません。

>しかし、実際のところ、日興は重須で弟子を育成していたのは、事実ではないですか。ここは檀所で、日興の管轄です。

この点は全く異議御座いません。


>しかし、大石寺は南条の氏寺、日興が云々という話とはならないでしょう。・・・この点はどうなんでしょうか。

日目の態度は、あくまでも日興の仰せによっているのではないかと考えています。
大石寺が南条の私寺というのが、私は良くわからないのですが、何か南条家の文書か何かにそうあるのでしょうか。

>また、東西分離は、では、誰がしたのですか、日興ですか、日目ですか、それとも南条ですか。独学徒さんは、日目だというわけでしょう。

違います。
私は東西分離を日目がした等は判断できません。
よってこの点は、興風談所の見解を支持していると申し上げているのです。
今すぐにその文献を引くことが出来ませんが、興風誌上で読んだ記憶があります。

>孫弟子の分際で、直弟子を名乗ったという意味です。僭越でしょう。

私は日目が僭越な弟子だとは思いません。
どこをどうとっても、日目は日興の弟子としてなんら問題を感ずるところはありません。

64独学徒:2007/02/18(日) 20:08:31

れんさん、ご教示ありがとう御座います。

>独学徒さんが言われたのは日尹師書写本尊のことでしょうか。

私が実見したものは伊豆實成寺の過去帳ですが、日蓮・日興・日目・日尊となっていました。

65犀角独歩:2007/02/18(日) 23:10:12

独学徒さん

詳しくは、明日、改めて、記しますが、回答が堂々巡りになっている箇所がいくつかあります。

>> …本門寺と天奏
> 「日蓮聖人の弟子」との名乗りは、日興の思想によっている以上、この一事をもって日興と日目との間を云々は出来ないと考えます。

これは仰っている意味がよくわかりません。
わたしが申し上げたのは、本門寺=戒壇ではないわけで、日目は、天奏に際して、本門寺について、何ら主張はしていないのではないかということです。
日興が云々とは関係ありません。

>> 日興から本尊を下げてもらったのでしょうか。矛盾しませんか
> 自分の弟子は、日興の弟子でもあるという意思表示

では、何のために、日目は自分で本尊を書いたのかと、堂々巡りしてしまいます。

> 大石寺が南条の私寺というのが、私は良くわからないのですが、何か南条家の文書か何かにそうあるのでしょうか。

いえ、そうは言っていません。逆にお尋ねしますが、では、大石寺の住職が日目であるという文献はあるのかという質問です。

>> …東西分離…独学徒さんは、日目だというわけでしょう。
> …私は東西分離を日目がした等は判断できません

先に「日興に対して常に居場所を確保…日興の存在を意識…日目」というのは、日目が日興に東地を安堵したという意味ではないのですか。では、誰がしたのですか。

日目がしたのでなければ、東西分割は南条か、日興がなしたこととなり、日目を云々する理由はないと思いますが、如何ですか。

いずれにしても、この点ははっきり申し上げておきますが、わたしは、それが日興であれ、日目であれ、それら人物を個人崇拝する気はありません。

どうにも、興風の言っていることは、まず、日興ありき、次に日目ありきで、論を立てている臭みがあって、素直に受け入れられないというのが、正直な気持ちです。ですから、個人崇拝に掛かる議論であれば、どうぞ、ご勝手に崇拝してくださいということになります。

物事には、常に功罪というものがあるのであり、日目は神でも仏でもありません。間違いもあったでしょう。善いところもあったでしょう。その両面を事実に基づいて見る科学的見識が必要ではないでしょうか。日目は絶対に日興に弟子として無謬であるといった議論は、はじめの一歩で躓いていると思いますが、如何でしょうか。

66独学徒:2007/02/18(日) 23:31:12

犀角独歩さん、

犀角独歩さんのご意見は、一つのご意見として受け止めたいと思います。

しかし私はあくまでも、日目が僭越な弟子だとは思いません。もちろん無謬だなどとも思いませんが、無謬でないことが=僭越な弟子、とはならないと思います。
日目が僭越な弟子であったという上代文書は皆無であろうと存じます。もし日興が日目を僭越の弟子と断じた文書があるならご教示願いたいと思います。
そもそも何故、日目が僭越の弟子といわれなければならないのかが理解できないのです。
私の理解力では、恐らくこの先も堂々巡りになってしまうと思います。もちろん創価学会での信仰歴からのすりこみもあるでしょうが、いくら議論をしても、感情論も含め私は日目が僭越な弟子との見解には至らないと思います。

67犀角独歩:2007/02/18(日) 23:36:12

【65の訂正】

誤)日目が日興に東地を安堵
正)日目が日興に西地を安堵

68犀角独歩:2007/02/19(月) 06:48:48

独学徒さん

わたしの挙げた質問に応えたことにはなっていませんよ。
それは単なる感情論でしょう。
このような形では議論は打ち切るべきだとは思えません。

日興が身延を下りたことは事実でした。
ついで、石山を出たのも事実です。
檀所を作るのならば、石山でもできたのではないでしょうか。
わたしはこの点に不審を懐きます。
日興は上野で、何を感じたのだろうかという追想です。
詳しくは記しませんが、日興は彼の場所を去ることに無念ではなかったのかどうか。身延といい、上野といい、そこは日興にとって安住の地ではなかったのではないか。となれば、そこでいったい、日目はどう振る舞ったのかと付随的に考えると、わたしの日目への評価は下落します。

なお、天奏については、結局のところ、最後、日尊が代奏をした顛末が、日目もやろうとしていたことと考えるのが自然であると思います。
つまりは、日蓮の信仰を認めてもらうこと、これは他宗を斥けて、唯一法華のみといった日蓮の目指したものとは違っています。いわば、現在の宗教法人の許認可のような風景ではないでしょうか。
鎌倉で興った日蓮集団が、その布教の認可を洛中に願い、それが認められたという顛末です。本門寺構想とも、戒壇院の建立とも程遠いものと思えます。
ただ、それ以降の文章構成などを見ていったとき、富士山本門寺戒壇院が上行院であるといった理想…、夢想に近いのかも知れませんが、あったとは思えます。

引き続き、ご回答をいただければと存じます。

69れん:2007/02/19(月) 09:30:56
横レスその3
独学徒さん
>64
独学徒さんの典拠は伊豆実成寺の過去帳でしたか。いずれにせよ、日尊の後継者の日尹が自筆漫荼羅に日興日目日尊日尹と自らの系譜を書いている以上、初期日尊門流には日蓮日目といういわば日興を無視した系譜の概念はなかったでしょうね。
日興上人御遺跡事についてですが、文中の日興仰による上野(石山)六人老僧による“支配”とはあくまで「日蓮聖人御影並御下文〈薗城寺申状〉」にかかるもので、石山の土地の所有権に懸かるものではないですね。少なくとも、石山を含め大石ケ原の土地に関しては、日興日目在世は一貫して南条氏の所有の所領であり、経済的な困窮から南条氏は日興はおろか日目にすら大石ケ原の領地を寄進できなかった事実は認識する必要があります。日伝図によれば大石ケ原の南条氏の所領の土地は西方が南条左衛門三郎、東方を惣領時綱による相続が確認できる以上、大石ケ原の所領の坊地の土地を西東に分けて自分の息子二人に相続させたのは南条時光その人であると見るのが至当で、その時光の息子達が一人に絞って寄進せず、それぞれ有縁の僧に相続または寄進してしまったのが、そもそもの後の相論の遠因でありましょう。
日目もときどき重須に住していたことは日目“与民部日盛書”に「先年重須にて労リ候しも…」と確認できるところであり、日目が奥州や重須にあって石山不在の時日盛が留守居をしていたことが日盛“与又五郎殿書”(本状は又五郎らを介して日目へ呈上、日目の与民部日盛書はもとはその紙背にかかれたものを相剥したもの)に確認できますね。

70れん:2007/02/19(月) 10:06:16
横レスその4
日興の重須移転の背景を考えますと、犀角独歩さんが仰るごとき事由も有るだろうと思えます。
泣く子と地頭には勝てずという言葉があるように、身延離山の背景には「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」という、地頭の日興との決別があった。上野の場合は、そのような師弟決別の悲劇はなかったけれど、時光はどちらかというと、姉の子である日目を肉親の情から重んじたような風景が見えます。日興が石山が開山した日と伝えられる日に書写した大幅の漫荼羅(当初の石山仏前に懸けられた漫荼羅でしょうか)を日目に授与していることも領主である南条時光の意を汲んでのことでしょうね。
重須移転も甥の日目を重んずる南条氏の意を汲んでのこととも考えられます。しかし、北山に伝わる棟札に記される年号とは裏腹に、日興に重須の坊地が寄進されたのは日興晩年でそれまでは重須でも借地住まいであったことも確かですね。しかも、日興みずから重須の後継者に指名した日代が、日興死後、地頭等との不和からこれまた擯出・離山にいたるところ、日興の意志は滅後には地頭には反故にされた。このように見ると、やはり「泣く子と地頭には勝てぬ」が現実だったのでしょうね。

71犀角独歩:2007/02/19(月) 10:26:32

れんさん
独学徒さん

「日蓮聖人の弟子○○」との点のご教示、有り難うございます。
これは仰るとおりでしょうね。考えを改めることとします。
また、日目門下が日興を飛び越えていないようであるとのことも合点しました。
慎んで御礼申し上げます。

特に資料を手放しに申し上げれば、日興が南条へ赴いたのは、日目の縁故で客人として仮寓したという風ではなかったのかと思えます。

今風の表現をすれば、地主・南条で、借主は日目、そこに日興が客人扱いで寓居した。それに対して、重須は、借主が日興その人になったので、ここでようやく日興は安住の地を得たということになりますか。

わたしは日興において、最も重宝した弟子は寂仙日澄その人ではなかったのかという立場です。天台に章安がある如く、日興のイマジネーションは、この希有の天才によって言語されたのではないのか。それを資した日順もまた英才ではあった。しかし、とても日澄には及ばなかった。その夭逝は、すなわち日興の挫折ともなっていったと思っています。
檀所に日順、大坊に日代。これは実質、日興が直接経営する重須でのことです。一方の石山のことは、副次的で日目は霞んで見えます。

たしかに日目の勲功は、否定されるものではないにせよ、日興の生涯から考えて、興風や、石山の解釈のような特別扱いをやめて、実像を見たい。そのためには、手放しの賞賛は、いったん、置かないと前が見えないという思いです。

72犀角独歩:2007/02/19(月) 10:27:38

【71の訂正】

誤)言語されたのではないのか
正)言語化されたのではないのか

73れん:2007/02/19(月) 11:24:44
犀角独歩さん
>71
日興の南条での扱いは、まさに仰る通り、客人(昔はまろうどと読みましたっけ?)であったと考えます。現代的に言えば、まさに地主南条、借主日目、客人として寓居日興ということになりますね。重須は借り主が日興となり、後には寄進もされましたから、漸く安住したということですね。
>日興…最も重宝した弟子は寂仙日澄…
これも仰る通りですね。ただ日順に比して、著作が全く伝わっていない、日順血脈には日澄の著作の書名があげられていますが、自筆はおろか写本すら悉く失われているのが残念です。日澄で伝わっているものは、石山に法華取要抄写本(日目所持本)北山に下山抄・頼基陳状の日澄自筆写本と忘持経事等十一通ならびに曽谷入道殿許御返事の信伝写本が原本が日澄写本と明記されているもの、保田妙本寺に日澄自筆の日蓮遺文の要文が残る位でしょうか。日澄の夭折は日興の挫折でもあったとはまさに至言と存じます。
私には、日興にせよ日目にせよ手放しに称賛したりまた逆に貶したりはせず、評価を上げたり下げたりする気はなく、日興からの風景、日目からの風景のそれぞれを有りの儘に描写してみたいと思っております。
その点、これからも皆様の御高見を拝聴させて戴ければと存じております。

74犀角独歩:2007/02/19(月) 13:07:15

れんさん

>日興にせよ日目にせよ手放しに称賛したりまた逆に貶したりはせず、評価を上げたり下げたりする気はなく、日興からの風景、日目からの風景のそれぞれを有りの儘に描写してみたいと思っております。

このお考えに賛同します。
今回は、日目を少し悪し様に言ってしまった点、ようやく反省しております。
ただ、不要な賞賛がある場合、語義は強まってしまいがちなものです。

75独学徒:2007/02/19(月) 21:24:26

犀角独歩さん、
れんさん、

ご教示ありがとう御座います。
また昨日は、私の感情任せの発言で、まるでダダをこねるような状態となってしまいました。
大変失礼致しました。

彫刻本尊と日蓮本仏を脱却し、仏像本尊義を受入れたことで、創価・石山教学とはきれいさっぱりお別れできたと思っていましたが、まだまだ一つの山を越えたに過ぎなかった事を痛感しました。
こんな私ですが、引き続きご教授の程、お願い申し上げます。

76犀角独歩:2007/02/20(火) 16:16:06

独学徒さんの日目への熱い思いが見ることができました。

77しゅんかん:2007/02/24(土) 17:46:41
独学徒さん、以下の点ご教示の程お願致します。

当スレNo46
>日時が御影の返還を求めたのは小泉久遠寺に対してであり、中谷山妙本寺ではありませんね。

〇①(正慶二年、まず佐野氏の館に奉り。建武元年、小泉へ)石山→小泉久遠寺へ。
 ②中谷山妙本寺には弘安二年日法師作の御影さま(堀上人は保田の御影は、帰って来るのが望ましいと
 富士日興上人詳伝に述べられていたようですね)石山→保田
 ③重須の日法師作「生きませる祖師」(さだかではございませんが石山よりの遷座?と云う文を
 読んだ様な記憶があるのですが?資料が出てきません)石山→重須

真実はさて置きこのような事が語られているのは事実でしょうか?

余談
現在、石山に奉安されております御影さまは石山云う処の日法師作ですね。
小泉久遠寺の御影さまは日法師作では無いとしましても、石山→の御影さまが
多いですね。実成寺の日法師作「おいびつ祖師」も石山は石山→などとと発したり
してはいないでしょうね。

78独学徒:2007/02/24(土) 20:52:20

しゅんかんさん、ご質問の件ですが記憶のままに書かせていただきます。
ここには私より詳しい方が沢山いらっしゃいますので、修正等は諸兄にお願いしたいと思います。

①と②については、事実関係はどうあれ、一応は語られていると思います。
③については、私は初耳でわかりません。

②については、日櫻貫首と日成学頭とでは見解が違っていたと記憶しています。
日櫻貫首は伝承通り弘安ニ年日法作と説法されますが、日成学頭は聖人滅後身延にて日興上人が作成といいます。
また日成学頭は御影の首に書かれた日郷による謂書を、石山から保田への遷座の証文としているようです。
こちらは私は未見です。
日櫻貫首の弘安ニ年日法作の根拠は保田の伝承でしょうが、某他山の歴代が江戸期に保田の御影を和紙に墨書しており、そこに弘安ニ年日法作とありますので、少なくとも江戸期には弘安ニ年日法作を外部に対して主張していたと思われます。
他山歴代の墨書は私も実見しました。どうも某研究者らが多数写真を撮って行かれたようですので、いずれどなたかの論考に出てくるのではと思います。

それから石山の御影は、所謂「本門戒壇ノ大御本尊」の余った木で作ったといわれるもののことを、仰られていると思いますが、所謂「本門戒壇ノ大御本尊」自体が後世作成のものである以上、日法作はありえないでしょう。
また御影堂の御影は石山自身が言うように、日時の代に越前法橋快恵によって彫刻されたものとみて間違いないと思います。
小泉久遠寺の御影は、今は本善寺の御影ですね。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Temple/Kyushu/honzenji.jpg

實成寺の御影は、「日尊笈の御影」との伝承ですから、石山から遷座等の伝承はありません。

いずれにしましても、確実に日法作である御影は、未だ一体も見聞きしません。全て後世作成のものです。

79しゅんかん:2007/02/25(日) 00:35:03
独学徒さん、早速のご教示有難うございます。
>②・・・日成学頭は聖人滅後身延にて日興上人が作成といいます。
〇そうなんですか!鏡円坊の興師・法師合作の祖師像、妙法寺の朗師作厄除けの祖師など興師、朗師、向師等
像の出来は良いようですが、法師以外の上人の像物真偽不明と云った感を持っていますが。
>③については、私は初耳でわかりません。
〇私の勘違いかもしれません、すいませんでした。
>・・・日法作はありえないでしょう
〇そうですよね。
>今は本善寺・・・
〇そうですか!現在、日向市にあるのですね。
>實成寺の御影は石山から遷座等の伝承はありません。
〇安堵いたしました。こちらも石山→御影さまとしますと一体、法師作と云われる
御影さまが一時的にしましても、石山へ何故に法師の御影さまが集まるのだと思ったしだいです。
>・・・確実に日法作である御影は・・・
〇そうなのですか!私が調べました処、ざっと30体程の法師作と云われます祖師像(合作も含め)
がございますが、真実ではないとしますと法師の彫刻だと思われる物は何れだとお考えでしょうか。

80独学徒:2007/02/25(日) 10:11:01

しゅんかんさん、

>〇そうですか!現在、日向市にあるのですね。

いえ、これは今の小泉久遠寺にある御影が、かつては日向本善寺にあった御影であるということです。
小泉久遠寺は火災で御影を焼失した際に、かつて法縁であった日向本善寺より御影を譲り受けているということです。確か明治のころと記憶しています。


>法師の彫刻だと思われる物は何れだとお考えでしょうか。

日法作と伝わる御影は沢山ありますが、ほとんど後世作成のものと思っています。
かの伝日法彫刻の板曼荼羅(妙本寺蔵)も、後世作成のものであろうと思います。
御影については、本当に日法作であれば、重要文化財クラスになっていてもおかしくありません。
しかし日法作の御影は文化財の中にありません。これは専門機関の鑑別の結果、日法作と判断できないということであり、日法が御影を彫刻したということは、伝承であって事実ではないという、一つの証左であろうと思っています。

81しゅんかん:2007/02/25(日) 19:18:11
独学徒さん

本善寺、詳細なご説明有難うございました。

独学徒さんまでではないですが、私も日法師の彫刻物が多過ぎ欺瞞に感じておりました。これでは日法師は仏道修業等出来ず、真の仏師か?・・・
独学徒さんのお説ですと日法師は彫刻の名人であったと後人が推察出来ない事に成りませんでしょうか?

82れん:2007/02/25(日) 19:52:11
横レス失礼します。
独学徒さん、保田妙本寺の正御影の首に書かれた郷師による謂書とは初耳でした。ということは、当御影は文和二年(一三五三)の郷師帰寂までには保田に御遷座されたということで間違いなさそうですね。富士門流の御影の中では相当古い御影の部類に入りますね。なお、伝日法師彫刻板本尊は富士久遠寺の所蔵ではないでしょうか?保田にもありましたっけ?
私の気になるのは日蓮書状断簡(断簡278、係年推定弘安二年十月二十六日)に「又若明年まていきてたか□をはするならは、なつのころは人を…御わたりありて御らむあるべし」(墨色が薄く所々読み辛い)云々とあり、檀越某氏に明年(弘安三年)の夏に生きていれば身延に参詣して何かを「御らん」にいれたい旨が記されていることで、御覧に入れたいそれが何なのか気になりますね。これが玉沢にある蓮師説法図絵に描かれているような一尊四士なのか、気になるところです。

83独学徒:2007/02/25(日) 21:22:31

れんさん、

>伝日法師彫刻板本尊は富士久遠寺の所蔵ではないでしょうか?保田にもありましたっけ?

紛らわしい表記で申し訳ありませんでした。
先に記しました妙本寺の板曼荼羅とは、山梨県の法華宗寺院の妙本寺のことです。伝日法彫刻板曼荼羅を所蔵する寺院です。
http://fujigoko.tv/furusato/bunka/act08.html

こちらは寺伝では、日法が日春の33回忌に彫刻したというものですが、「大過去帳」を定本とした「日蓮正宗富士年表」の記述を、仮に無批判に採用したとすれば、日春寂1311年、日法寂1341年ですので、年代的に合わないというのが私の疑問点です。

しゅんかんさん、

>日法師は彫刻の名人であったと後人が推察出来ない事に成りませんでしょうか?

そうですね。
しかし確実な事跡が無いことも事実のようです。
日法が彫刻師であるという伝承が、どこまで遡れるかですね。

身延の行学院日朝による「元祖化導記」には
『三十、御身骨を身延山に移し奉ること
 或る記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、十月二十一日池上より飯田まで、二十二日湯本、二十三日車返、二十四日上野南条七郎宿所、二十五日甲斐の国に入りたまへり、同十月二十九日御そ木を取り、御影像建立之れ在り、作者日法、七七日御仏事御入堂之れ在り、一百ケ日御墓立て了んぬ、軈て御舎利奉納等と云云。』
とありますが、これは日澄の「日蓮聖人註画讃」に由来するものと思います。

聖人滅後、身延で彫刻された御影といえば、「日順雑集」にも出てくるところですが、蓮祖ゲームならぬ連想ゲームをすれば、保田の御影は調査の価値ありということでしょうか。
仮に保田の御影が日法作というならば、何故に「不動愛染感見記」が文化財になったのに、御影の方はならなかったのか不思議なところです。
ただ保田の御影は、岡山方面の某研究者らも注目しているようですので、それなりに価値のあるものならば、いずれ論考として発表されるところでしょう。

84独学徒:2007/02/25(日) 21:47:12

日澄撰「日蓮聖人註画讃」の日法彫刻に関する記述を、富士教学研究会談議所にアップしました。

http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html

85しゅんかん:2007/02/26(月) 21:50:03
独学徒さん

七七日御仏事御入堂之れ在り、とは池上の祖師像を指しているものですね、この祖師像は国の重文ですね。
ですが、一木三体と謳っている身延山、比企谷妙本寺は国の重文ではない。
叉、「不動愛染感見記」が文化財、御影の方はならなかった。
なるほど、おっしゃられている点ごもっともと存じます。
独学徒さんの真贋考証の一途を垣間見させていただき、大変勉強になりました。

86独学徒:2007/02/26(月) 22:12:40

しゅんかんさん、

>七七日御仏事御入堂之れ在り、とは池上の祖師像を指しているものですね、

いえ、これは違うと思います。
池上の祖師像は、聖人七回忌に造立です。
ここでいう「七七日御仏事」とは、7×7=49の所謂「四十九日法要」の事です。

「元祖化導記」と「日蓮聖人註画讃」の記述は、全く一緒と言っていいと思います。
「元祖化導記」の「或る記」とは、「日蓮聖人註画讃」のことでしょうかね。

87しゅんかん:2007/02/27(火) 20:49:19
独学徒さん

〇すいません、全く私の早とちりで間違っていました。
私のファイルミスで「日法上人は、おすがたを作り、77日(11月29日)に奉安し」を池上
のデターとしていました。
この様な初歩的なミスにまで一々に訂正、御教示戴き大変恐縮しております。

①身延派の言として、池上の祖師像は最古の像と云われていますね、尚且つ重文です。
ですがご存知のように、一木三体「身延山、比企谷妙本寺」身延山は存じ上げておりませんが、
妙本寺のそれは鎌倉市の重文ですね。
身延山、比企谷妙本寺は日法師作とは疑わしいと。一木ですから池上も疑わしくなりますね。

②石山は興師、身延下山にさいし板本尊と御影さまをお連れしたとなっていますね。としますと
石山は「七七日御仏事御入堂之れ在り」と、この御影さまを指していると云うことになりますね。
石山が返却を求めたのでしたら、この御影さまが(保田、現蔵)か(小泉久遠寺、元蔵)
と云う事になってしまいます。ですが保田の御影さまは重文でもないと、しますと焼失した
小泉久遠寺の御影さまが法師作の物に当たるかも?となりますでしょうか。

「七七日御仏事御入堂之れ在り」この一文をもって先人たちは日法師を彫刻の名人に仕立てたかも
しれないと。

88独学徒:2007/02/27(火) 21:52:40

しゅんかんさん、

>身延山、比企谷妙本寺は日法師作とは疑わしいと。一木ですから池上も疑わしくなりますね。

もともと池上の祖師像は、日法作とは言っていないと記憶していました。
池上の祖師像を日法作とする、文書なり文献なりをご存知でしたらご教示下さいませ。

>焼失した小泉久遠寺の御影さまが法師作の物に当たるかも?となりますでしょうか。

小泉の焼失した御影が日法作は無いと思います。
小泉の御影が、真実日法作であれば、何時の代かに保田に遷座していることでしょう。
私個人の意見としましては、どうも日法が御影を彫刻したというのは疑わしいということです。

89鳥辺野:2007/02/28(水) 16:24:18
皆さんお久しぶりでございます。保田妙本寺蔵の大石寺正御影の写真がこのページ(7ページ)にでていました。
http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs?OF=600&BD=13&CH=5

90独学徒:2007/02/28(水) 18:32:47

>89

かつて大縫さんがご紹介下さいましたが、ビデオ「日蓮聖人の世界」からのキャプチャーですね。

91鳥辺野:2007/02/28(水) 18:48:08
>90
そうだったんですか。知りませんでした。ビデオからなんですね。
>89
実物を見た印象は、等身大と云うよりは人間の大きさの1.2倍くらいはあると思いました。実際には正御影の後ろに板本尊(というより額)が掛かっています。

92独学徒:2007/02/28(水) 19:41:42

鳥辺野さん、

>実物を見た印象は、等身大と云うよりは人間の大きさの1.2倍くらいはあると思いました。

私も最初はおきな御影だと思いましたが、身延の御影を見て保田の御影が小さく感じました。
掲示板にアップされている御影画像は、まるっきりビデオのキャプチャーだと思います。
背景の色もそのままです。
ビデオは継命新聞社で今でも購入可能です。
日蓮聖人の世界展には参加したのですが、当時はあまり興味が無かったので、保田の御影の写真が飾られていたことなど気にも止めないでいました。

93独学徒:2007/02/28(水) 19:43:18

訂正です。

誤:私も最初はおきな御影
正:私も最初は大きな御影

94鳥辺野:2007/02/28(水) 22:26:09
独学徒さん、
>身延の御影を見て保田の御影が小さく感じました
へー!身延山の御影ってそんなに大きいのですか。やはり写真だけでは判らないものですね。一度は行ってみたいのですが、最近仕事が忙しくて休みがとれないんですよねー。(笑)奥の院にあるといわれる万年救護の板本尊と共に一度は見てみたいです。最近の休みの過ごし方は、この掲示板や独学徒さん、犀角独歩さんのホームページで勉強させて頂くことが日課となっております。話がそれてしまいましたがこれからもどうぞ宜しくお願い致します。

95彰往考来:2007/02/28(水) 22:43:51

>77 重須の日法師作「生きませる祖師」

何を議論されているのかよく解らないのですが、北山本門寺蔵の御影は作風からみて江戸時代のものです。こんなものが日法作であるはずはありませんよね。
ついでにいうと、保田の御影は室町初期頃のもののようですね。もちろん日法作ではありませんが、それはそれとして古いものではあります。ま、しかし古いからといって日法作と主張するのは10年ワンパターンの考えですね。よくある話ですが信徒をバカにした金もうけ主義にすぎません。


彰往考来

96鳥辺野:2007/02/28(水) 23:22:13
彰往考来さん
おひさしぶりです。
>保田の御影は室町初期頃のもののようですね
ということは今の大石寺正御影は石山からの遷座ではなく、保田で造立されたということでしょうか?

97しゅんかん:2007/03/01(木) 14:01:00
独学徒さん
仕事でお返事が遅くなりました事お許し下さいませ。
>文書、文献・・・
〇とは古文書等の事を指されて要るのでしょうが、私はそれらの書は一切拝見致しておりません。(拝見したいのですがまだ出会えません、独学徒さんのHP以外では)
独学徒さんがご存知で無いと云う事ですから日法師作は疑わしいかもしれませんね。私の言は一般に手に入る近現代の書物に依るものです。先に触れましたが、相当数の日法作、祖師像が存在し疑わしいと思っておりました、独学徒さんの考証を了解いたしました上で唯一可能性が池上に在るのかと思ったしだいてす。池上の祖師像はご存知の様に大正14年に稲田海素氏らが胎内品、造立銘を発見され旧国宝になり現在重文ですね。(日法師作であれば重文等にと記されました処に由来します)この旧国宝→重文により日法師作と云う可能性はあるでしょうか?と思ったしだいです、が他方一木三体ですから可能性無しかもと疑問を抱いているしだいてす。

98顕正居士:2007/03/01(木) 17:02:23
池上の祖師像は祖滅6年に蓮華阿闍利日持などが発願し造立したと銘文にあるそうです。
しかし仏師が誰であったかは不明のようです。これも伝説では日法なのですが、
祖師像はみんな日法で、幾体あるか見当も付きません。池上祖師像の由来はその通り
らしいから、日法が本当に彫刻の名人で作者であったら、彼の名があっても変ではないと
思いますね。

99彰往考来:2007/03/03(土) 08:39:40

>96
保田妙本寺蔵大石寺正御影について

富士大石寺から持ち去られ保田妙本寺にあるとされる大石寺正御影の資料を紐解いてましょう。
『鋸南町(きょなんちょう)史』(昭和58年(初版:昭和44年、鋸南町)、国書刊行会、492頁)には
「二、宝物
1宗祖御像御丈け二尺六寸木像座像    一体
弘安二年甲州波木井郡山中において弟子日法彫刻、正応元年日興上人駿河国上野郷に移し、ついで、建武元年日郷上人小泉久遠寺に移し、更に暦応五年当山に移した。
正木日記八月十日の条に言う。
「もとは素彫なりしを元禄十五年日賢上人の代彩色を施し、又明治二年に再び施したるものの如し、彩色庸工の手に成りし為にいたく尊厳を傷つけたるはおしむべし」
今本堂に祀る。」
とあり、保田妙本寺では自寺にある御影について
・弘安2年、日法師の作とされること(ホント?)
・正応元(1288)年に上野郷に移されたこと
・日郷師により建武元(1334)年に一旦小泉久遠寺に移され、さらに暦応5(1342)年に保田妙本寺に移された
と主張されていることが解ります。またこの像の大きさは79センチ(二尺六寸)で大石寺の越前法橋快恵による御影は85センチ(二尺八寸)ですから、保田妙本寺の御影は富士大石寺の御影より6センチほど小さいということになります。元禄15(1702)年の日賢上人の代に素彫に彩色を施し眉間白毫相になったと思われますが原型を留めていませんので、はたして本当に古い御影であるのかという疑問もあります。つまり後世のものにすり替わっている恐れすらあるわけです。
 ここで、正応元(1288)年に上野郷に移されたとありますが、これは日興上人の身延離山を指すと考えます。日興上人の身延離山は大まかに言って正応元年説と正応2年説があり、『日興上人身延離山史』(昭和52年4版(初版:昭和36年)、富士学林研究科、143頁)や『富士年表』(昭和56年、富士学林、56頁)の正応2年の項などを読む限り富士大石寺では正応2年説です。正応元年説は「正応元年十二月十六日、即ち『原殿御書』を認められた日、或はその直前頃離山された」(『日興上人身延離山史』137頁)というのが一般的ですが、保田妙本寺第14世日我師の「申状見聞」(『富士宗学要集 第4巻 疏釈部〔1〕』昭和53年、創価学会、112頁)に「正応元年12月5日、身延ヲ御離山」とあるように保田妙本寺では正応元年12月5日説のようです。12月5日というのは同日付の「波木井清長の誓状」(『富士宗学要集 第8巻 史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、10頁)を根拠とします。いずれにせよ『鋸南町史』では身延離山の時に御影が上野郷(現在の富士大石寺)へ移されたとしているわけです。弘安2年の作とするならそうなるでしょうが、疑問符がつきます。

100彰往考来:2007/03/03(土) 08:40:19

>100 の続きです。

 さて御影が保田妙本寺に移された時期ですが、『鋸南町史』では建武元(1334)年に一旦小泉久遠寺に移され、さらに暦応5(1342)年に保田妙本寺に移されたとしていました。ところが、佐藤博信氏の『中世東国日蓮宗寺院の研究』(2003年、東京大学出版会、52頁)には、「(御影像が)当時すでに妙本寺に存在したことは、そのお首切れの共切れに、表は題目、裏は暦応5(1342)年に富士(大石寺蓮蔵坊)から安房(妙本寺)に遷座されたことを示す日郷自筆の墨書銘があることからも、明白である。御影像を奉安する御影堂は、同年に創設したと考えられる。以上、鎌倉修郷師の御教示。」とあり御影像は日郷師が暦応5(1342)年に富士大石寺から保田妙本寺に遷座したとしています。日郷自筆の墨書銘が正筆であるなら日郷師が御影を富士大石寺から保田妙本寺に持っていったということになりますが墨書銘が正筆であるかどうかは不明です。いつ誰が持っていったかはともかく、〝大石寺御影〟は現在富士大石寺御影堂にある嘉慶2(1388)年10月13日に仏師越前法橋快恵により作られた等身大の御影像より古いことだけは確かでしょう。
〝大石寺御影〟が鎌倉時代の作であるという説は否定されるというが私の主張で若干考証します。私が〝大石寺御影〟を鎌倉時代のものではないと考えるのは、この御影が強装束(こわしょうぞく)であるからです。
確実に鎌倉時代の肖像画とみられるものに強装束(強衣装ともいいます)は少ない(まずないでしょう)のです。例えば、神護寺に所蔵される「伝・頼朝像」は「鎌倉時代の遺品として極めて貴重なもの」(森暢『鎌倉時代の肖像画』1971年、みすず書房、1頁)とされ歴史の教科書にも載っていましたが、「頼朝像は十四世紀中ごろのもので足利直義が自分と尊氏の肖像画を神護寺に納めたものである」(北脇洋子『日本史のなかの世界史』1998年、三一書房、53頁)と、「伝・頼朝像」は鎌倉時代のものではないという説が現在では有力になりました。北脇洋子氏は同書で「そうすると神護寺にある三像、つまり今までは頼朝・平重盛・藤原光能といわれてきた像は、おのおの足利直義・尊氏・足利義詮の像と変更されることになるが、その根拠などについては米倉迪夫氏の著書(引用者注:米倉迪夫『絵は語る4 源頼朝像 沈黙の肖像画』1995年、平凡社。同書は2006年に平凡社ライブラリーで『源頼朝像 沈黙の肖像画』として再刊。平凡社ライブラリー版は『絵は語る4 源頼朝像 沈黙の肖像画』の第2刷(初版第1刷に若干の訂正を加えたもの)を底本とする)を読むことをお勧めしたい」(『日本史のなかの世界史』53頁)と「頼朝像は十四世紀中ごろのもので足利直義が自分と尊氏の肖像画を神護寺に納めたものである」というのが米倉迪夫氏の説であることを紹介しています。米倉迪夫氏の同書を紐解いてみると、同一時期に描かれたとされる藤原兼経両像のように摂関大臣図では強装束であるのに対して藤原兼経出家後の僧侶図では柔装束(やわしょうぞく)であるなど、所属する社会集団によって差がある(米倉迪夫『源頼朝像』2006年、平凡社ライブラリー、60頁)と指摘されています。つまり鎌倉時代では祖師像を含む僧侶図は通常柔装束なのです。祖師像などの法体像で装束の描き方は、鎌倉時代は一般に丸みがあり室町時代へいくにつれて直線的になるという特徴があります。従って保田妙本寺の〝大石寺御影〟の製作年代が鎌倉時代とは考え難く、作風から南北朝(1336〜1392年)時代か室町時代初期の作品と考えます。“日郷自筆とされる”墨書銘に暦応5(1342)年とあり、この年に保田妙本寺の御影堂がつくられたことから、〝大石寺御影〟が暦応5(1342)年のころの作である可能性もあると考えます。暦応5(1342)年であれば保田妙本寺蔵の〝大石寺御影〟が現在富士大石寺御影堂にある嘉慶2(1388)年10月13日に仏師越前法橋快恵により作られた等身大の御影像より古いという考えとも矛盾しません。

by 彰往考来

101しゅんかん:2007/03/03(土) 17:30:56
日法師作の御影像の多さに端を発した理由ですが、独学徒さんはじめ、顕正居士さん、彰往考来さん、
のご教示により日法師作の御影像は現在の処、一つも存在し得ないとの説、一々に納得致しました
しだいでございます。

独学徒さん、
>「不動愛染感見記」が文化財・・・
〇「大変勉強になりました」
>文書なり文献なり・・・
〇「とは、文書なり文献なりをもって論じなさいと解釈いたしました、勉強させて頂きました
有難うございます。」

顕正居士さん、
>彼の名があっても・・・
〇私も同感です。刻まれているだろうと思っていました。


彰往考来さん、
>身延離山の時に御影が上野郷(現在の富士大石寺)へ・・・
〇「七七日御仏事御入堂之れ在り」が身延離山時の御影にあたると思うのですが石山がどの様に
云っているのか私にはまだ答えが見出せていません。
>御影が強装束・・・
〇なるほど、この時代による差異は多くの事柄で見てとる事が出来ますね、建築、焼き物
図画、織物等。見識の深さに驚くばかりです。

独学徒さん、顕正居士さん、彰往考来さん、私の初歩的な疑問に懇切丁寧なご教示を戴き
ありがとうございました。
「独学徒さんに於かれましては、私のミスに付いても訂正ご教示を入れていただき
恐縮しております」
管理人さんはじめ皆様方、この板は「富士山本門寺について教えて下さい」でありました、
日法師の御影を長く論じた事をお詫びいたします、大変申し訳ございませんでした。

102鳥辺野:2007/03/04(日) 21:25:57
彰往考来さん
>強装束
なるほど、そういった点で室町時代作と。私は不勉強なもので弘安二年は無くとも、正応元年造立くらいなのかな?等と思っておりました。大変勉強になりました。ありがとうございます。どうぞこれからも御教示ください。

103独学徒:2007/03/04(日) 22:23:37

彰往考来さん、
鳥辺野さん、

強装束について、資料が手元に無いので、ネットでググッてみました。

以下のHPの記述などは、彰往考来さん御紹介の論考とは違った見方のようです。

http://www.pref.chiba.jp/syozoku/e_bunka/bunkajyouhou/bunkaisan/choukoku/choukoku/sirahama24.html

本文中に「強装束は平安時代末にあらわれ、鎌倉時代に普及した。」とあります。
このような考えですと、むしろ「強装束」は鎌倉時代作成の可能性が高いといえますね。

但し、保田の御影が眉間白豪相であることを考えれば、宗祖在世中の作成は無いだろうと思います。
平賀の「本地白毫高祖尊像」の云われのように、首から上だけ古くから伝わる地蔵菩薩等の仏像から取ったというなら話は別ですが。

104鳥辺野:2007/03/04(日) 22:54:49
独学徒さん
有難うございます。それにしても・・・。これは私の個人的な意見となってしまいますが、「宗祖在世中造立」というのはやはりおかしいと思います。蓮祖は誰よりも久成の釈迦佛を大切に思われた方です。それを差し置いて自分の像を造って奉れ、はないと思います。あるとすれば日興師や日朗師をはじめとした弟子たちの時代ではないでしょうか?蓮祖ほどの方なら「そんな物造る暇あったら法華経広めてこい!」と言われそうですが(笑)日興師らは大本門寺建立の時法華経を広めた功労者として本堂に崇拝の対象として安置しようとしたのではないかと思います。尚私個人的には御影像安置派ですので本堂、仏壇等に御影は有って良いと思います。

105れん:2007/03/05(月) 07:37:31
横レス失礼します。
身延の日蓮御影の件ですが、日蓮遷化後すぐの造立に関しては、直弟子の記録には無いので後世の伝説に過ぎないと思います。
日順雑集には「身延山には(中略)聖人御在生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり」とあり、「日尊上人御一期図」によると日蓮三回忌には身延に御影堂が建立されていたことが知れるので、日順雑集と合わせて考えますと、日蓮の住房を日蓮遷化後に御影堂に作り替え、その中に安置した日蓮御影の建立の願主も日興であることが分かります。この御影が保田妙本寺の正御影とするのが、同寺学頭の鎌倉日誠師の御見解と思います。
日法作の日蓮御影としては岡宮光長寺所蔵のものは日法作として信用出来るのではと思います。

106鳥辺野:2007/03/07(水) 00:50:39
れんさん
>岡宮光長寺
同寺の二世は日法師ですものね。

107れん:2007/03/08(木) 10:20:21
鳥辺野さん
岡宮光長寺蔵の日法師作と伝承されている蓮祖御影は美濃氏の著書に写真が掲載されていたと記憶しております。大変素朴な感じの木像で、こちらは日法師の物かもしれないと思いました。

108鳥辺野:2007/03/10(土) 14:46:46
れんさん
蓮祖の御影(画像も含めて)ってひとつとして同じような物が無いですよね。もしかすると最初に造られたものは本当に素朴な造りだったのかもしれませんね。

109れん:2007/03/10(土) 19:34:45
鳥辺野さん
木像を見るかぎり、正直いいまして、それぞれ違うというのが印象ですが、絵像で言えば、先ずは中山法華経寺の御影でしょうか?石山の鎌倉末期の御影や讃岐本門寺の御影も顔形が似たりよったりですから、これらの古い御影の絵像から推測する限り蓮師は丸っこい顔付きの方であったろうというのが個人的な感想です。
興師は正応元年(1288)の原殿書で「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人奉書候へとも、未た木像は誰も不奉造候」と本門本尊が久成仏であることを示されておりますが、興師直弟では「戒壇安置は漫荼羅の図の如く仏像安置」に変容し、さらに室町中期頃には富士門僧が言うところの本門本尊が久成仏から蓮師御影に置換されています。
富士門流において日蓮御影が本門本尊とされていった裏には、素朴な祖師信仰の継承と、富士門僧が仙波等で摂取したであろう中古天台の「本因妙修行とは常不軽の立行也」(玄義私類聚)「俊範御義に云わく、釈尊の本因の行とは不軽菩薩也」(等海口伝抄)といった思想から蓮師の「日蓮は是れ法華経の行者也。不軽の跡を紹継するの故に」(聖人知三世事)等の自覚を再解釈していき、久成仏の因位名字即の姿を蓮師の相に観るに至り、日蓮御影本尊という考え方に行き着いたものと愚考しております。

110鳥辺野:2007/03/10(土) 20:28:58
れんさん
私は中山の絵像の表情は保田妙本寺の御影の顔に似ているという印象を受けました。と云うより、彰往考来さんが99で説明されたように、妙本寺が大石寺御影を元禄十五年と明治二年に彩色を施した時、中山の絵像の顔に似せて化粧をしたのでは?と私は思いました。
>本門本尊が久成仏から蓮師御影に置換
その件私も同感でございます。

111彰往考来:2007/03/10(土) 21:25:02

>107 れんさん

美濃氏の著書にある写真を富士教学研究会
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/1/11/
に投稿しましたので参考にしてください。

彰往考来

112彰往考来:2007/03/11(日) 17:24:38

>103 独学徒さん

強装束について富士教学研究会の談議所
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html#TH_ST11

に私の所見を投稿しました。

管理人さまへ

本来ならばこのスレッドに所見を投稿すべきですが、画像を添付したほうが理解しやすいので独学徒さんの談議所に投稿しました。ご了解ください。

彰往考来


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