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富士山本門寺について教えて下さい

1問答迷人:2002/02/26(火) 13:51

1 名前: チョンガー 投稿日: 2001/01/21(日) 20:22

富士山本門寺は、王仏冥合を条件とする本門戒壇であり、その起源は古く千二百五十三年
の日蓮大聖人の立宗に始まり、その御遺命に従った直弟子、日目上人は後醍醐天皇へ度々
進言し、その宗旨を理解した、後醍醐天皇の勅願に依って開山された、仏教の結論である本
門戒壇の本門正宗である。

今日、西山・北山・池上・讃岐等の各山が本門寺号を名乗るのは後醍醐天皇の勅願
に依って当富士山本門寺が成立した事に依ってである。諸山は当本門寺の各坊して
の位置に在ったのであるが、この宮方の象徴的富士山本門寺は、程なく、駿河の守
護大名、今川義元による富士山本門寺本堂焼き討ち事件により、本堂を失い各山が
本門寺号を名乗る様になった。

以上、http://www.alphatec.or.jp/~tochihal/index.html#INDEXより抜粋。

実は本門寺、1631年に今川義元によって焼失させられた経緯があるんです。
それまで人々は現在の富士市の地名を取り「大石寺」と呼んでいました。
そう、大石寺と名乗るお寺さんがどうにも静岡の「富士宮市」にあるようですが、
本当は「富士市」になくてはいけないんですね。
まあ焼失の際、血脈が途切れたりしたら終わりだったんですが、小野寺左京さんが
大泉寺で本尊を守ってくれたからこそ、現在の本門寺があるわけです。
さて、ここから歴史のカラクリがあって面白いんですが、この焼失した大石寺に
目を付けた人がおりました。名前は「敬台院日詔」、徳川家康のひ孫娘です。
彼女は自分の夫を弔うお寺を欲しがっていました。
しかし当時、幕府は財政難だった事からお寺を新造する事を禁止していました。
しかししかし断る事も出来なかったんです。
この敬台院さんのお祖父さん、非常に徳川家に貢献した人でこの人無しでは
徳川家の繁栄はありませんでした。しかし結局は織田信長にいちゃもんつけられて
切腹させられてしまった過去があったんです。
頼みを断れない幕府は考えました。「そうだ!ウソウソ引越し作戦だ!」
そう「富士市」大石寺焼失の翌年、お引越しという名目で「富士宮市」に
大石寺という同じ名前の全く違うお寺が建てられたのです。 ありゃりゃん。

以上、http://www1.linkclub.or.jp/~taji/kiji3/hon.htmlより抜粋。

簡単に言うと、富士山本門寺とは、日目上人の折に後醍醐天皇の勅願に依って立てられた、本門の戒壇である、という事ですね。
西山・北山・池上・讃岐等の各山が本門寺号を名乗っているのは、富士山本門寺があってのゆえである。という事です。
戒壇の御本尊は、日蓮大聖人が弘安二年十月十二日如実に像にされた「本因妙大本尊」だそうです。

もし、富士山本門寺の主張が正しければ、
すでに、本門の戒壇は建立されているという事。
また、本門の本尊が、富士山本門寺にあり、
富士宮の大石寺にあるのは、本門の本尊とは違う、という事になります。

この、富士山本門寺について、ご存知の方がいらっしゃれば、
情報を教えて下さい。

64独学徒:2007/02/18(日) 20:08:31

れんさん、ご教示ありがとう御座います。

>独学徒さんが言われたのは日尹師書写本尊のことでしょうか。

私が実見したものは伊豆實成寺の過去帳ですが、日蓮・日興・日目・日尊となっていました。

65犀角独歩:2007/02/18(日) 23:10:12

独学徒さん

詳しくは、明日、改めて、記しますが、回答が堂々巡りになっている箇所がいくつかあります。

>> …本門寺と天奏
> 「日蓮聖人の弟子」との名乗りは、日興の思想によっている以上、この一事をもって日興と日目との間を云々は出来ないと考えます。

これは仰っている意味がよくわかりません。
わたしが申し上げたのは、本門寺=戒壇ではないわけで、日目は、天奏に際して、本門寺について、何ら主張はしていないのではないかということです。
日興が云々とは関係ありません。

>> 日興から本尊を下げてもらったのでしょうか。矛盾しませんか
> 自分の弟子は、日興の弟子でもあるという意思表示

では、何のために、日目は自分で本尊を書いたのかと、堂々巡りしてしまいます。

> 大石寺が南条の私寺というのが、私は良くわからないのですが、何か南条家の文書か何かにそうあるのでしょうか。

いえ、そうは言っていません。逆にお尋ねしますが、では、大石寺の住職が日目であるという文献はあるのかという質問です。

>> …東西分離…独学徒さんは、日目だというわけでしょう。
> …私は東西分離を日目がした等は判断できません

先に「日興に対して常に居場所を確保…日興の存在を意識…日目」というのは、日目が日興に東地を安堵したという意味ではないのですか。では、誰がしたのですか。

日目がしたのでなければ、東西分割は南条か、日興がなしたこととなり、日目を云々する理由はないと思いますが、如何ですか。

いずれにしても、この点ははっきり申し上げておきますが、わたしは、それが日興であれ、日目であれ、それら人物を個人崇拝する気はありません。

どうにも、興風の言っていることは、まず、日興ありき、次に日目ありきで、論を立てている臭みがあって、素直に受け入れられないというのが、正直な気持ちです。ですから、個人崇拝に掛かる議論であれば、どうぞ、ご勝手に崇拝してくださいということになります。

物事には、常に功罪というものがあるのであり、日目は神でも仏でもありません。間違いもあったでしょう。善いところもあったでしょう。その両面を事実に基づいて見る科学的見識が必要ではないでしょうか。日目は絶対に日興に弟子として無謬であるといった議論は、はじめの一歩で躓いていると思いますが、如何でしょうか。

66独学徒:2007/02/18(日) 23:31:12

犀角独歩さん、

犀角独歩さんのご意見は、一つのご意見として受け止めたいと思います。

しかし私はあくまでも、日目が僭越な弟子だとは思いません。もちろん無謬だなどとも思いませんが、無謬でないことが=僭越な弟子、とはならないと思います。
日目が僭越な弟子であったという上代文書は皆無であろうと存じます。もし日興が日目を僭越の弟子と断じた文書があるならご教示願いたいと思います。
そもそも何故、日目が僭越の弟子といわれなければならないのかが理解できないのです。
私の理解力では、恐らくこの先も堂々巡りになってしまうと思います。もちろん創価学会での信仰歴からのすりこみもあるでしょうが、いくら議論をしても、感情論も含め私は日目が僭越な弟子との見解には至らないと思います。

67犀角独歩:2007/02/18(日) 23:36:12

【65の訂正】

誤)日目が日興に東地を安堵
正)日目が日興に西地を安堵

68犀角独歩:2007/02/19(月) 06:48:48

独学徒さん

わたしの挙げた質問に応えたことにはなっていませんよ。
それは単なる感情論でしょう。
このような形では議論は打ち切るべきだとは思えません。

日興が身延を下りたことは事実でした。
ついで、石山を出たのも事実です。
檀所を作るのならば、石山でもできたのではないでしょうか。
わたしはこの点に不審を懐きます。
日興は上野で、何を感じたのだろうかという追想です。
詳しくは記しませんが、日興は彼の場所を去ることに無念ではなかったのかどうか。身延といい、上野といい、そこは日興にとって安住の地ではなかったのではないか。となれば、そこでいったい、日目はどう振る舞ったのかと付随的に考えると、わたしの日目への評価は下落します。

なお、天奏については、結局のところ、最後、日尊が代奏をした顛末が、日目もやろうとしていたことと考えるのが自然であると思います。
つまりは、日蓮の信仰を認めてもらうこと、これは他宗を斥けて、唯一法華のみといった日蓮の目指したものとは違っています。いわば、現在の宗教法人の許認可のような風景ではないでしょうか。
鎌倉で興った日蓮集団が、その布教の認可を洛中に願い、それが認められたという顛末です。本門寺構想とも、戒壇院の建立とも程遠いものと思えます。
ただ、それ以降の文章構成などを見ていったとき、富士山本門寺戒壇院が上行院であるといった理想…、夢想に近いのかも知れませんが、あったとは思えます。

引き続き、ご回答をいただければと存じます。

69れん:2007/02/19(月) 09:30:56
横レスその3
独学徒さん
>64
独学徒さんの典拠は伊豆実成寺の過去帳でしたか。いずれにせよ、日尊の後継者の日尹が自筆漫荼羅に日興日目日尊日尹と自らの系譜を書いている以上、初期日尊門流には日蓮日目といういわば日興を無視した系譜の概念はなかったでしょうね。
日興上人御遺跡事についてですが、文中の日興仰による上野(石山)六人老僧による“支配”とはあくまで「日蓮聖人御影並御下文〈薗城寺申状〉」にかかるもので、石山の土地の所有権に懸かるものではないですね。少なくとも、石山を含め大石ケ原の土地に関しては、日興日目在世は一貫して南条氏の所有の所領であり、経済的な困窮から南条氏は日興はおろか日目にすら大石ケ原の領地を寄進できなかった事実は認識する必要があります。日伝図によれば大石ケ原の南条氏の所領の土地は西方が南条左衛門三郎、東方を惣領時綱による相続が確認できる以上、大石ケ原の所領の坊地の土地を西東に分けて自分の息子二人に相続させたのは南条時光その人であると見るのが至当で、その時光の息子達が一人に絞って寄進せず、それぞれ有縁の僧に相続または寄進してしまったのが、そもそもの後の相論の遠因でありましょう。
日目もときどき重須に住していたことは日目“与民部日盛書”に「先年重須にて労リ候しも…」と確認できるところであり、日目が奥州や重須にあって石山不在の時日盛が留守居をしていたことが日盛“与又五郎殿書”(本状は又五郎らを介して日目へ呈上、日目の与民部日盛書はもとはその紙背にかかれたものを相剥したもの)に確認できますね。

70れん:2007/02/19(月) 10:06:16
横レスその4
日興の重須移転の背景を考えますと、犀角独歩さんが仰るごとき事由も有るだろうと思えます。
泣く子と地頭には勝てずという言葉があるように、身延離山の背景には「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」という、地頭の日興との決別があった。上野の場合は、そのような師弟決別の悲劇はなかったけれど、時光はどちらかというと、姉の子である日目を肉親の情から重んじたような風景が見えます。日興が石山が開山した日と伝えられる日に書写した大幅の漫荼羅(当初の石山仏前に懸けられた漫荼羅でしょうか)を日目に授与していることも領主である南条時光の意を汲んでのことでしょうね。
重須移転も甥の日目を重んずる南条氏の意を汲んでのこととも考えられます。しかし、北山に伝わる棟札に記される年号とは裏腹に、日興に重須の坊地が寄進されたのは日興晩年でそれまでは重須でも借地住まいであったことも確かですね。しかも、日興みずから重須の後継者に指名した日代が、日興死後、地頭等との不和からこれまた擯出・離山にいたるところ、日興の意志は滅後には地頭には反故にされた。このように見ると、やはり「泣く子と地頭には勝てぬ」が現実だったのでしょうね。

71犀角独歩:2007/02/19(月) 10:26:32

れんさん
独学徒さん

「日蓮聖人の弟子○○」との点のご教示、有り難うございます。
これは仰るとおりでしょうね。考えを改めることとします。
また、日目門下が日興を飛び越えていないようであるとのことも合点しました。
慎んで御礼申し上げます。

特に資料を手放しに申し上げれば、日興が南条へ赴いたのは、日目の縁故で客人として仮寓したという風ではなかったのかと思えます。

今風の表現をすれば、地主・南条で、借主は日目、そこに日興が客人扱いで寓居した。それに対して、重須は、借主が日興その人になったので、ここでようやく日興は安住の地を得たということになりますか。

わたしは日興において、最も重宝した弟子は寂仙日澄その人ではなかったのかという立場です。天台に章安がある如く、日興のイマジネーションは、この希有の天才によって言語されたのではないのか。それを資した日順もまた英才ではあった。しかし、とても日澄には及ばなかった。その夭逝は、すなわち日興の挫折ともなっていったと思っています。
檀所に日順、大坊に日代。これは実質、日興が直接経営する重須でのことです。一方の石山のことは、副次的で日目は霞んで見えます。

たしかに日目の勲功は、否定されるものではないにせよ、日興の生涯から考えて、興風や、石山の解釈のような特別扱いをやめて、実像を見たい。そのためには、手放しの賞賛は、いったん、置かないと前が見えないという思いです。

72犀角独歩:2007/02/19(月) 10:27:38

【71の訂正】

誤)言語されたのではないのか
正)言語化されたのではないのか

73れん:2007/02/19(月) 11:24:44
犀角独歩さん
>71
日興の南条での扱いは、まさに仰る通り、客人(昔はまろうどと読みましたっけ?)であったと考えます。現代的に言えば、まさに地主南条、借主日目、客人として寓居日興ということになりますね。重須は借り主が日興となり、後には寄進もされましたから、漸く安住したということですね。
>日興…最も重宝した弟子は寂仙日澄…
これも仰る通りですね。ただ日順に比して、著作が全く伝わっていない、日順血脈には日澄の著作の書名があげられていますが、自筆はおろか写本すら悉く失われているのが残念です。日澄で伝わっているものは、石山に法華取要抄写本(日目所持本)北山に下山抄・頼基陳状の日澄自筆写本と忘持経事等十一通ならびに曽谷入道殿許御返事の信伝写本が原本が日澄写本と明記されているもの、保田妙本寺に日澄自筆の日蓮遺文の要文が残る位でしょうか。日澄の夭折は日興の挫折でもあったとはまさに至言と存じます。
私には、日興にせよ日目にせよ手放しに称賛したりまた逆に貶したりはせず、評価を上げたり下げたりする気はなく、日興からの風景、日目からの風景のそれぞれを有りの儘に描写してみたいと思っております。
その点、これからも皆様の御高見を拝聴させて戴ければと存じております。

74犀角独歩:2007/02/19(月) 13:07:15

れんさん

>日興にせよ日目にせよ手放しに称賛したりまた逆に貶したりはせず、評価を上げたり下げたりする気はなく、日興からの風景、日目からの風景のそれぞれを有りの儘に描写してみたいと思っております。

このお考えに賛同します。
今回は、日目を少し悪し様に言ってしまった点、ようやく反省しております。
ただ、不要な賞賛がある場合、語義は強まってしまいがちなものです。

75独学徒:2007/02/19(月) 21:24:26

犀角独歩さん、
れんさん、

ご教示ありがとう御座います。
また昨日は、私の感情任せの発言で、まるでダダをこねるような状態となってしまいました。
大変失礼致しました。

彫刻本尊と日蓮本仏を脱却し、仏像本尊義を受入れたことで、創価・石山教学とはきれいさっぱりお別れできたと思っていましたが、まだまだ一つの山を越えたに過ぎなかった事を痛感しました。
こんな私ですが、引き続きご教授の程、お願い申し上げます。

76犀角独歩:2007/02/20(火) 16:16:06

独学徒さんの日目への熱い思いが見ることができました。

77しゅんかん:2007/02/24(土) 17:46:41
独学徒さん、以下の点ご教示の程お願致します。

当スレNo46
>日時が御影の返還を求めたのは小泉久遠寺に対してであり、中谷山妙本寺ではありませんね。

〇①(正慶二年、まず佐野氏の館に奉り。建武元年、小泉へ)石山→小泉久遠寺へ。
 ②中谷山妙本寺には弘安二年日法師作の御影さま(堀上人は保田の御影は、帰って来るのが望ましいと
 富士日興上人詳伝に述べられていたようですね)石山→保田
 ③重須の日法師作「生きませる祖師」(さだかではございませんが石山よりの遷座?と云う文を
 読んだ様な記憶があるのですが?資料が出てきません)石山→重須

真実はさて置きこのような事が語られているのは事実でしょうか?

余談
現在、石山に奉安されております御影さまは石山云う処の日法師作ですね。
小泉久遠寺の御影さまは日法師作では無いとしましても、石山→の御影さまが
多いですね。実成寺の日法師作「おいびつ祖師」も石山は石山→などとと発したり
してはいないでしょうね。

78独学徒:2007/02/24(土) 20:52:20

しゅんかんさん、ご質問の件ですが記憶のままに書かせていただきます。
ここには私より詳しい方が沢山いらっしゃいますので、修正等は諸兄にお願いしたいと思います。

①と②については、事実関係はどうあれ、一応は語られていると思います。
③については、私は初耳でわかりません。

②については、日櫻貫首と日成学頭とでは見解が違っていたと記憶しています。
日櫻貫首は伝承通り弘安ニ年日法作と説法されますが、日成学頭は聖人滅後身延にて日興上人が作成といいます。
また日成学頭は御影の首に書かれた日郷による謂書を、石山から保田への遷座の証文としているようです。
こちらは私は未見です。
日櫻貫首の弘安ニ年日法作の根拠は保田の伝承でしょうが、某他山の歴代が江戸期に保田の御影を和紙に墨書しており、そこに弘安ニ年日法作とありますので、少なくとも江戸期には弘安ニ年日法作を外部に対して主張していたと思われます。
他山歴代の墨書は私も実見しました。どうも某研究者らが多数写真を撮って行かれたようですので、いずれどなたかの論考に出てくるのではと思います。

それから石山の御影は、所謂「本門戒壇ノ大御本尊」の余った木で作ったといわれるもののことを、仰られていると思いますが、所謂「本門戒壇ノ大御本尊」自体が後世作成のものである以上、日法作はありえないでしょう。
また御影堂の御影は石山自身が言うように、日時の代に越前法橋快恵によって彫刻されたものとみて間違いないと思います。
小泉久遠寺の御影は、今は本善寺の御影ですね。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Temple/Kyushu/honzenji.jpg

實成寺の御影は、「日尊笈の御影」との伝承ですから、石山から遷座等の伝承はありません。

いずれにしましても、確実に日法作である御影は、未だ一体も見聞きしません。全て後世作成のものです。

79しゅんかん:2007/02/25(日) 00:35:03
独学徒さん、早速のご教示有難うございます。
>②・・・日成学頭は聖人滅後身延にて日興上人が作成といいます。
〇そうなんですか!鏡円坊の興師・法師合作の祖師像、妙法寺の朗師作厄除けの祖師など興師、朗師、向師等
像の出来は良いようですが、法師以外の上人の像物真偽不明と云った感を持っていますが。
>③については、私は初耳でわかりません。
〇私の勘違いかもしれません、すいませんでした。
>・・・日法作はありえないでしょう
〇そうですよね。
>今は本善寺・・・
〇そうですか!現在、日向市にあるのですね。
>實成寺の御影は石山から遷座等の伝承はありません。
〇安堵いたしました。こちらも石山→御影さまとしますと一体、法師作と云われる
御影さまが一時的にしましても、石山へ何故に法師の御影さまが集まるのだと思ったしだいです。
>・・・確実に日法作である御影は・・・
〇そうなのですか!私が調べました処、ざっと30体程の法師作と云われます祖師像(合作も含め)
がございますが、真実ではないとしますと法師の彫刻だと思われる物は何れだとお考えでしょうか。

80独学徒:2007/02/25(日) 10:11:01

しゅんかんさん、

>〇そうですか!現在、日向市にあるのですね。

いえ、これは今の小泉久遠寺にある御影が、かつては日向本善寺にあった御影であるということです。
小泉久遠寺は火災で御影を焼失した際に、かつて法縁であった日向本善寺より御影を譲り受けているということです。確か明治のころと記憶しています。


>法師の彫刻だと思われる物は何れだとお考えでしょうか。

日法作と伝わる御影は沢山ありますが、ほとんど後世作成のものと思っています。
かの伝日法彫刻の板曼荼羅(妙本寺蔵)も、後世作成のものであろうと思います。
御影については、本当に日法作であれば、重要文化財クラスになっていてもおかしくありません。
しかし日法作の御影は文化財の中にありません。これは専門機関の鑑別の結果、日法作と判断できないということであり、日法が御影を彫刻したということは、伝承であって事実ではないという、一つの証左であろうと思っています。

81しゅんかん:2007/02/25(日) 19:18:11
独学徒さん

本善寺、詳細なご説明有難うございました。

独学徒さんまでではないですが、私も日法師の彫刻物が多過ぎ欺瞞に感じておりました。これでは日法師は仏道修業等出来ず、真の仏師か?・・・
独学徒さんのお説ですと日法師は彫刻の名人であったと後人が推察出来ない事に成りませんでしょうか?

82れん:2007/02/25(日) 19:52:11
横レス失礼します。
独学徒さん、保田妙本寺の正御影の首に書かれた郷師による謂書とは初耳でした。ということは、当御影は文和二年(一三五三)の郷師帰寂までには保田に御遷座されたということで間違いなさそうですね。富士門流の御影の中では相当古い御影の部類に入りますね。なお、伝日法師彫刻板本尊は富士久遠寺の所蔵ではないでしょうか?保田にもありましたっけ?
私の気になるのは日蓮書状断簡(断簡278、係年推定弘安二年十月二十六日)に「又若明年まていきてたか□をはするならは、なつのころは人を…御わたりありて御らむあるべし」(墨色が薄く所々読み辛い)云々とあり、檀越某氏に明年(弘安三年)の夏に生きていれば身延に参詣して何かを「御らん」にいれたい旨が記されていることで、御覧に入れたいそれが何なのか気になりますね。これが玉沢にある蓮師説法図絵に描かれているような一尊四士なのか、気になるところです。

83独学徒:2007/02/25(日) 21:22:31

れんさん、

>伝日法師彫刻板本尊は富士久遠寺の所蔵ではないでしょうか?保田にもありましたっけ?

紛らわしい表記で申し訳ありませんでした。
先に記しました妙本寺の板曼荼羅とは、山梨県の法華宗寺院の妙本寺のことです。伝日法彫刻板曼荼羅を所蔵する寺院です。
http://fujigoko.tv/furusato/bunka/act08.html

こちらは寺伝では、日法が日春の33回忌に彫刻したというものですが、「大過去帳」を定本とした「日蓮正宗富士年表」の記述を、仮に無批判に採用したとすれば、日春寂1311年、日法寂1341年ですので、年代的に合わないというのが私の疑問点です。

しゅんかんさん、

>日法師は彫刻の名人であったと後人が推察出来ない事に成りませんでしょうか?

そうですね。
しかし確実な事跡が無いことも事実のようです。
日法が彫刻師であるという伝承が、どこまで遡れるかですね。

身延の行学院日朝による「元祖化導記」には
『三十、御身骨を身延山に移し奉ること
 或る記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、十月二十一日池上より飯田まで、二十二日湯本、二十三日車返、二十四日上野南条七郎宿所、二十五日甲斐の国に入りたまへり、同十月二十九日御そ木を取り、御影像建立之れ在り、作者日法、七七日御仏事御入堂之れ在り、一百ケ日御墓立て了んぬ、軈て御舎利奉納等と云云。』
とありますが、これは日澄の「日蓮聖人註画讃」に由来するものと思います。

聖人滅後、身延で彫刻された御影といえば、「日順雑集」にも出てくるところですが、蓮祖ゲームならぬ連想ゲームをすれば、保田の御影は調査の価値ありということでしょうか。
仮に保田の御影が日法作というならば、何故に「不動愛染感見記」が文化財になったのに、御影の方はならなかったのか不思議なところです。
ただ保田の御影は、岡山方面の某研究者らも注目しているようですので、それなりに価値のあるものならば、いずれ論考として発表されるところでしょう。

84独学徒:2007/02/25(日) 21:47:12

日澄撰「日蓮聖人註画讃」の日法彫刻に関する記述を、富士教学研究会談議所にアップしました。

http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html

85しゅんかん:2007/02/26(月) 21:50:03
独学徒さん

七七日御仏事御入堂之れ在り、とは池上の祖師像を指しているものですね、この祖師像は国の重文ですね。
ですが、一木三体と謳っている身延山、比企谷妙本寺は国の重文ではない。
叉、「不動愛染感見記」が文化財、御影の方はならなかった。
なるほど、おっしゃられている点ごもっともと存じます。
独学徒さんの真贋考証の一途を垣間見させていただき、大変勉強になりました。

86独学徒:2007/02/26(月) 22:12:40

しゅんかんさん、

>七七日御仏事御入堂之れ在り、とは池上の祖師像を指しているものですね、

いえ、これは違うと思います。
池上の祖師像は、聖人七回忌に造立です。
ここでいう「七七日御仏事」とは、7×7=49の所謂「四十九日法要」の事です。

「元祖化導記」と「日蓮聖人註画讃」の記述は、全く一緒と言っていいと思います。
「元祖化導記」の「或る記」とは、「日蓮聖人註画讃」のことでしょうかね。

87しゅんかん:2007/02/27(火) 20:49:19
独学徒さん

〇すいません、全く私の早とちりで間違っていました。
私のファイルミスで「日法上人は、おすがたを作り、77日(11月29日)に奉安し」を池上
のデターとしていました。
この様な初歩的なミスにまで一々に訂正、御教示戴き大変恐縮しております。

①身延派の言として、池上の祖師像は最古の像と云われていますね、尚且つ重文です。
ですがご存知のように、一木三体「身延山、比企谷妙本寺」身延山は存じ上げておりませんが、
妙本寺のそれは鎌倉市の重文ですね。
身延山、比企谷妙本寺は日法師作とは疑わしいと。一木ですから池上も疑わしくなりますね。

②石山は興師、身延下山にさいし板本尊と御影さまをお連れしたとなっていますね。としますと
石山は「七七日御仏事御入堂之れ在り」と、この御影さまを指していると云うことになりますね。
石山が返却を求めたのでしたら、この御影さまが(保田、現蔵)か(小泉久遠寺、元蔵)
と云う事になってしまいます。ですが保田の御影さまは重文でもないと、しますと焼失した
小泉久遠寺の御影さまが法師作の物に当たるかも?となりますでしょうか。

「七七日御仏事御入堂之れ在り」この一文をもって先人たちは日法師を彫刻の名人に仕立てたかも
しれないと。

88独学徒:2007/02/27(火) 21:52:40

しゅんかんさん、

>身延山、比企谷妙本寺は日法師作とは疑わしいと。一木ですから池上も疑わしくなりますね。

もともと池上の祖師像は、日法作とは言っていないと記憶していました。
池上の祖師像を日法作とする、文書なり文献なりをご存知でしたらご教示下さいませ。

>焼失した小泉久遠寺の御影さまが法師作の物に当たるかも?となりますでしょうか。

小泉の焼失した御影が日法作は無いと思います。
小泉の御影が、真実日法作であれば、何時の代かに保田に遷座していることでしょう。
私個人の意見としましては、どうも日法が御影を彫刻したというのは疑わしいということです。

89鳥辺野:2007/02/28(水) 16:24:18
皆さんお久しぶりでございます。保田妙本寺蔵の大石寺正御影の写真がこのページ(7ページ)にでていました。
http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs?OF=600&BD=13&CH=5

90独学徒:2007/02/28(水) 18:32:47

>89

かつて大縫さんがご紹介下さいましたが、ビデオ「日蓮聖人の世界」からのキャプチャーですね。

91鳥辺野:2007/02/28(水) 18:48:08
>90
そうだったんですか。知りませんでした。ビデオからなんですね。
>89
実物を見た印象は、等身大と云うよりは人間の大きさの1.2倍くらいはあると思いました。実際には正御影の後ろに板本尊(というより額)が掛かっています。

92独学徒:2007/02/28(水) 19:41:42

鳥辺野さん、

>実物を見た印象は、等身大と云うよりは人間の大きさの1.2倍くらいはあると思いました。

私も最初はおきな御影だと思いましたが、身延の御影を見て保田の御影が小さく感じました。
掲示板にアップされている御影画像は、まるっきりビデオのキャプチャーだと思います。
背景の色もそのままです。
ビデオは継命新聞社で今でも購入可能です。
日蓮聖人の世界展には参加したのですが、当時はあまり興味が無かったので、保田の御影の写真が飾られていたことなど気にも止めないでいました。

93独学徒:2007/02/28(水) 19:43:18

訂正です。

誤:私も最初はおきな御影
正:私も最初は大きな御影

94鳥辺野:2007/02/28(水) 22:26:09
独学徒さん、
>身延の御影を見て保田の御影が小さく感じました
へー!身延山の御影ってそんなに大きいのですか。やはり写真だけでは判らないものですね。一度は行ってみたいのですが、最近仕事が忙しくて休みがとれないんですよねー。(笑)奥の院にあるといわれる万年救護の板本尊と共に一度は見てみたいです。最近の休みの過ごし方は、この掲示板や独学徒さん、犀角独歩さんのホームページで勉強させて頂くことが日課となっております。話がそれてしまいましたがこれからもどうぞ宜しくお願い致します。

95彰往考来:2007/02/28(水) 22:43:51

>77 重須の日法師作「生きませる祖師」

何を議論されているのかよく解らないのですが、北山本門寺蔵の御影は作風からみて江戸時代のものです。こんなものが日法作であるはずはありませんよね。
ついでにいうと、保田の御影は室町初期頃のもののようですね。もちろん日法作ではありませんが、それはそれとして古いものではあります。ま、しかし古いからといって日法作と主張するのは10年ワンパターンの考えですね。よくある話ですが信徒をバカにした金もうけ主義にすぎません。


彰往考来

96鳥辺野:2007/02/28(水) 23:22:13
彰往考来さん
おひさしぶりです。
>保田の御影は室町初期頃のもののようですね
ということは今の大石寺正御影は石山からの遷座ではなく、保田で造立されたということでしょうか?

97しゅんかん:2007/03/01(木) 14:01:00
独学徒さん
仕事でお返事が遅くなりました事お許し下さいませ。
>文書、文献・・・
〇とは古文書等の事を指されて要るのでしょうが、私はそれらの書は一切拝見致しておりません。(拝見したいのですがまだ出会えません、独学徒さんのHP以外では)
独学徒さんがご存知で無いと云う事ですから日法師作は疑わしいかもしれませんね。私の言は一般に手に入る近現代の書物に依るものです。先に触れましたが、相当数の日法作、祖師像が存在し疑わしいと思っておりました、独学徒さんの考証を了解いたしました上で唯一可能性が池上に在るのかと思ったしだいてす。池上の祖師像はご存知の様に大正14年に稲田海素氏らが胎内品、造立銘を発見され旧国宝になり現在重文ですね。(日法師作であれば重文等にと記されました処に由来します)この旧国宝→重文により日法師作と云う可能性はあるでしょうか?と思ったしだいです、が他方一木三体ですから可能性無しかもと疑問を抱いているしだいてす。

98顕正居士:2007/03/01(木) 17:02:23
池上の祖師像は祖滅6年に蓮華阿闍利日持などが発願し造立したと銘文にあるそうです。
しかし仏師が誰であったかは不明のようです。これも伝説では日法なのですが、
祖師像はみんな日法で、幾体あるか見当も付きません。池上祖師像の由来はその通り
らしいから、日法が本当に彫刻の名人で作者であったら、彼の名があっても変ではないと
思いますね。

99彰往考来:2007/03/03(土) 08:39:40

>96
保田妙本寺蔵大石寺正御影について

富士大石寺から持ち去られ保田妙本寺にあるとされる大石寺正御影の資料を紐解いてましょう。
『鋸南町(きょなんちょう)史』(昭和58年(初版:昭和44年、鋸南町)、国書刊行会、492頁)には
「二、宝物
1宗祖御像御丈け二尺六寸木像座像    一体
弘安二年甲州波木井郡山中において弟子日法彫刻、正応元年日興上人駿河国上野郷に移し、ついで、建武元年日郷上人小泉久遠寺に移し、更に暦応五年当山に移した。
正木日記八月十日の条に言う。
「もとは素彫なりしを元禄十五年日賢上人の代彩色を施し、又明治二年に再び施したるものの如し、彩色庸工の手に成りし為にいたく尊厳を傷つけたるはおしむべし」
今本堂に祀る。」
とあり、保田妙本寺では自寺にある御影について
・弘安2年、日法師の作とされること(ホント?)
・正応元(1288)年に上野郷に移されたこと
・日郷師により建武元(1334)年に一旦小泉久遠寺に移され、さらに暦応5(1342)年に保田妙本寺に移された
と主張されていることが解ります。またこの像の大きさは79センチ(二尺六寸)で大石寺の越前法橋快恵による御影は85センチ(二尺八寸)ですから、保田妙本寺の御影は富士大石寺の御影より6センチほど小さいということになります。元禄15(1702)年の日賢上人の代に素彫に彩色を施し眉間白毫相になったと思われますが原型を留めていませんので、はたして本当に古い御影であるのかという疑問もあります。つまり後世のものにすり替わっている恐れすらあるわけです。
 ここで、正応元(1288)年に上野郷に移されたとありますが、これは日興上人の身延離山を指すと考えます。日興上人の身延離山は大まかに言って正応元年説と正応2年説があり、『日興上人身延離山史』(昭和52年4版(初版:昭和36年)、富士学林研究科、143頁)や『富士年表』(昭和56年、富士学林、56頁)の正応2年の項などを読む限り富士大石寺では正応2年説です。正応元年説は「正応元年十二月十六日、即ち『原殿御書』を認められた日、或はその直前頃離山された」(『日興上人身延離山史』137頁)というのが一般的ですが、保田妙本寺第14世日我師の「申状見聞」(『富士宗学要集 第4巻 疏釈部〔1〕』昭和53年、創価学会、112頁)に「正応元年12月5日、身延ヲ御離山」とあるように保田妙本寺では正応元年12月5日説のようです。12月5日というのは同日付の「波木井清長の誓状」(『富士宗学要集 第8巻 史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、10頁)を根拠とします。いずれにせよ『鋸南町史』では身延離山の時に御影が上野郷(現在の富士大石寺)へ移されたとしているわけです。弘安2年の作とするならそうなるでしょうが、疑問符がつきます。

100彰往考来:2007/03/03(土) 08:40:19

>100 の続きです。

 さて御影が保田妙本寺に移された時期ですが、『鋸南町史』では建武元(1334)年に一旦小泉久遠寺に移され、さらに暦応5(1342)年に保田妙本寺に移されたとしていました。ところが、佐藤博信氏の『中世東国日蓮宗寺院の研究』(2003年、東京大学出版会、52頁)には、「(御影像が)当時すでに妙本寺に存在したことは、そのお首切れの共切れに、表は題目、裏は暦応5(1342)年に富士(大石寺蓮蔵坊)から安房(妙本寺)に遷座されたことを示す日郷自筆の墨書銘があることからも、明白である。御影像を奉安する御影堂は、同年に創設したと考えられる。以上、鎌倉修郷師の御教示。」とあり御影像は日郷師が暦応5(1342)年に富士大石寺から保田妙本寺に遷座したとしています。日郷自筆の墨書銘が正筆であるなら日郷師が御影を富士大石寺から保田妙本寺に持っていったということになりますが墨書銘が正筆であるかどうかは不明です。いつ誰が持っていったかはともかく、〝大石寺御影〟は現在富士大石寺御影堂にある嘉慶2(1388)年10月13日に仏師越前法橋快恵により作られた等身大の御影像より古いことだけは確かでしょう。
〝大石寺御影〟が鎌倉時代の作であるという説は否定されるというが私の主張で若干考証します。私が〝大石寺御影〟を鎌倉時代のものではないと考えるのは、この御影が強装束(こわしょうぞく)であるからです。
確実に鎌倉時代の肖像画とみられるものに強装束(強衣装ともいいます)は少ない(まずないでしょう)のです。例えば、神護寺に所蔵される「伝・頼朝像」は「鎌倉時代の遺品として極めて貴重なもの」(森暢『鎌倉時代の肖像画』1971年、みすず書房、1頁)とされ歴史の教科書にも載っていましたが、「頼朝像は十四世紀中ごろのもので足利直義が自分と尊氏の肖像画を神護寺に納めたものである」(北脇洋子『日本史のなかの世界史』1998年、三一書房、53頁)と、「伝・頼朝像」は鎌倉時代のものではないという説が現在では有力になりました。北脇洋子氏は同書で「そうすると神護寺にある三像、つまり今までは頼朝・平重盛・藤原光能といわれてきた像は、おのおの足利直義・尊氏・足利義詮の像と変更されることになるが、その根拠などについては米倉迪夫氏の著書(引用者注:米倉迪夫『絵は語る4 源頼朝像 沈黙の肖像画』1995年、平凡社。同書は2006年に平凡社ライブラリーで『源頼朝像 沈黙の肖像画』として再刊。平凡社ライブラリー版は『絵は語る4 源頼朝像 沈黙の肖像画』の第2刷(初版第1刷に若干の訂正を加えたもの)を底本とする)を読むことをお勧めしたい」(『日本史のなかの世界史』53頁)と「頼朝像は十四世紀中ごろのもので足利直義が自分と尊氏の肖像画を神護寺に納めたものである」というのが米倉迪夫氏の説であることを紹介しています。米倉迪夫氏の同書を紐解いてみると、同一時期に描かれたとされる藤原兼経両像のように摂関大臣図では強装束であるのに対して藤原兼経出家後の僧侶図では柔装束(やわしょうぞく)であるなど、所属する社会集団によって差がある(米倉迪夫『源頼朝像』2006年、平凡社ライブラリー、60頁)と指摘されています。つまり鎌倉時代では祖師像を含む僧侶図は通常柔装束なのです。祖師像などの法体像で装束の描き方は、鎌倉時代は一般に丸みがあり室町時代へいくにつれて直線的になるという特徴があります。従って保田妙本寺の〝大石寺御影〟の製作年代が鎌倉時代とは考え難く、作風から南北朝(1336〜1392年)時代か室町時代初期の作品と考えます。“日郷自筆とされる”墨書銘に暦応5(1342)年とあり、この年に保田妙本寺の御影堂がつくられたことから、〝大石寺御影〟が暦応5(1342)年のころの作である可能性もあると考えます。暦応5(1342)年であれば保田妙本寺蔵の〝大石寺御影〟が現在富士大石寺御影堂にある嘉慶2(1388)年10月13日に仏師越前法橋快恵により作られた等身大の御影像より古いという考えとも矛盾しません。

by 彰往考来

101しゅんかん:2007/03/03(土) 17:30:56
日法師作の御影像の多さに端を発した理由ですが、独学徒さんはじめ、顕正居士さん、彰往考来さん、
のご教示により日法師作の御影像は現在の処、一つも存在し得ないとの説、一々に納得致しました
しだいでございます。

独学徒さん、
>「不動愛染感見記」が文化財・・・
〇「大変勉強になりました」
>文書なり文献なり・・・
〇「とは、文書なり文献なりをもって論じなさいと解釈いたしました、勉強させて頂きました
有難うございます。」

顕正居士さん、
>彼の名があっても・・・
〇私も同感です。刻まれているだろうと思っていました。


彰往考来さん、
>身延離山の時に御影が上野郷(現在の富士大石寺)へ・・・
〇「七七日御仏事御入堂之れ在り」が身延離山時の御影にあたると思うのですが石山がどの様に
云っているのか私にはまだ答えが見出せていません。
>御影が強装束・・・
〇なるほど、この時代による差異は多くの事柄で見てとる事が出来ますね、建築、焼き物
図画、織物等。見識の深さに驚くばかりです。

独学徒さん、顕正居士さん、彰往考来さん、私の初歩的な疑問に懇切丁寧なご教示を戴き
ありがとうございました。
「独学徒さんに於かれましては、私のミスに付いても訂正ご教示を入れていただき
恐縮しております」
管理人さんはじめ皆様方、この板は「富士山本門寺について教えて下さい」でありました、
日法師の御影を長く論じた事をお詫びいたします、大変申し訳ございませんでした。

102鳥辺野:2007/03/04(日) 21:25:57
彰往考来さん
>強装束
なるほど、そういった点で室町時代作と。私は不勉強なもので弘安二年は無くとも、正応元年造立くらいなのかな?等と思っておりました。大変勉強になりました。ありがとうございます。どうぞこれからも御教示ください。

103独学徒:2007/03/04(日) 22:23:37

彰往考来さん、
鳥辺野さん、

強装束について、資料が手元に無いので、ネットでググッてみました。

以下のHPの記述などは、彰往考来さん御紹介の論考とは違った見方のようです。

http://www.pref.chiba.jp/syozoku/e_bunka/bunkajyouhou/bunkaisan/choukoku/choukoku/sirahama24.html

本文中に「強装束は平安時代末にあらわれ、鎌倉時代に普及した。」とあります。
このような考えですと、むしろ「強装束」は鎌倉時代作成の可能性が高いといえますね。

但し、保田の御影が眉間白豪相であることを考えれば、宗祖在世中の作成は無いだろうと思います。
平賀の「本地白毫高祖尊像」の云われのように、首から上だけ古くから伝わる地蔵菩薩等の仏像から取ったというなら話は別ですが。

104鳥辺野:2007/03/04(日) 22:54:49
独学徒さん
有難うございます。それにしても・・・。これは私の個人的な意見となってしまいますが、「宗祖在世中造立」というのはやはりおかしいと思います。蓮祖は誰よりも久成の釈迦佛を大切に思われた方です。それを差し置いて自分の像を造って奉れ、はないと思います。あるとすれば日興師や日朗師をはじめとした弟子たちの時代ではないでしょうか?蓮祖ほどの方なら「そんな物造る暇あったら法華経広めてこい!」と言われそうですが(笑)日興師らは大本門寺建立の時法華経を広めた功労者として本堂に崇拝の対象として安置しようとしたのではないかと思います。尚私個人的には御影像安置派ですので本堂、仏壇等に御影は有って良いと思います。

105れん:2007/03/05(月) 07:37:31
横レス失礼します。
身延の日蓮御影の件ですが、日蓮遷化後すぐの造立に関しては、直弟子の記録には無いので後世の伝説に過ぎないと思います。
日順雑集には「身延山には(中略)聖人御在生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり」とあり、「日尊上人御一期図」によると日蓮三回忌には身延に御影堂が建立されていたことが知れるので、日順雑集と合わせて考えますと、日蓮の住房を日蓮遷化後に御影堂に作り替え、その中に安置した日蓮御影の建立の願主も日興であることが分かります。この御影が保田妙本寺の正御影とするのが、同寺学頭の鎌倉日誠師の御見解と思います。
日法作の日蓮御影としては岡宮光長寺所蔵のものは日法作として信用出来るのではと思います。

106鳥辺野:2007/03/07(水) 00:50:39
れんさん
>岡宮光長寺
同寺の二世は日法師ですものね。

107れん:2007/03/08(木) 10:20:21
鳥辺野さん
岡宮光長寺蔵の日法師作と伝承されている蓮祖御影は美濃氏の著書に写真が掲載されていたと記憶しております。大変素朴な感じの木像で、こちらは日法師の物かもしれないと思いました。

108鳥辺野:2007/03/10(土) 14:46:46
れんさん
蓮祖の御影(画像も含めて)ってひとつとして同じような物が無いですよね。もしかすると最初に造られたものは本当に素朴な造りだったのかもしれませんね。

109れん:2007/03/10(土) 19:34:45
鳥辺野さん
木像を見るかぎり、正直いいまして、それぞれ違うというのが印象ですが、絵像で言えば、先ずは中山法華経寺の御影でしょうか?石山の鎌倉末期の御影や讃岐本門寺の御影も顔形が似たりよったりですから、これらの古い御影の絵像から推測する限り蓮師は丸っこい顔付きの方であったろうというのが個人的な感想です。
興師は正応元年(1288)の原殿書で「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人奉書候へとも、未た木像は誰も不奉造候」と本門本尊が久成仏であることを示されておりますが、興師直弟では「戒壇安置は漫荼羅の図の如く仏像安置」に変容し、さらに室町中期頃には富士門僧が言うところの本門本尊が久成仏から蓮師御影に置換されています。
富士門流において日蓮御影が本門本尊とされていった裏には、素朴な祖師信仰の継承と、富士門僧が仙波等で摂取したであろう中古天台の「本因妙修行とは常不軽の立行也」(玄義私類聚)「俊範御義に云わく、釈尊の本因の行とは不軽菩薩也」(等海口伝抄)といった思想から蓮師の「日蓮は是れ法華経の行者也。不軽の跡を紹継するの故に」(聖人知三世事)等の自覚を再解釈していき、久成仏の因位名字即の姿を蓮師の相に観るに至り、日蓮御影本尊という考え方に行き着いたものと愚考しております。

110鳥辺野:2007/03/10(土) 20:28:58
れんさん
私は中山の絵像の表情は保田妙本寺の御影の顔に似ているという印象を受けました。と云うより、彰往考来さんが99で説明されたように、妙本寺が大石寺御影を元禄十五年と明治二年に彩色を施した時、中山の絵像の顔に似せて化粧をしたのでは?と私は思いました。
>本門本尊が久成仏から蓮師御影に置換
その件私も同感でございます。

111彰往考来:2007/03/10(土) 21:25:02

>107 れんさん

美濃氏の著書にある写真を富士教学研究会
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/1/11/
に投稿しましたので参考にしてください。

彰往考来

112彰往考来:2007/03/11(日) 17:24:38

>103 独学徒さん

強装束について富士教学研究会の談議所
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html#TH_ST11

に私の所見を投稿しました。

管理人さまへ

本来ならばこのスレッドに所見を投稿すべきですが、画像を添付したほうが理解しやすいので独学徒さんの談議所に投稿しました。ご了解ください。

彰往考来

113れん:2007/03/11(日) 19:32:52
>110 鳥辺野さん
保田の正御影が江戸時代・明治時代に彩色が施されたとのこと、案外、鳥辺野さんの仰るように、中山の絵像の御影の彩色を参考にされた可能性はあると私も思いました。


>111 彰往考来さん
ご教示有難うございます。光長寺の御影も江戸時代ですか…。としますとやはり確実に日法師の“彫刻”にかかる御影というのは存在しないということになりますね。やはり日法師が彫刻の名手という伝承は所謂伝説の域を出ないということになりますね。


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