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富士山本門寺について教えて下さい

99彰往考来:2007/03/03(土) 08:39:40

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保田妙本寺蔵大石寺正御影について

富士大石寺から持ち去られ保田妙本寺にあるとされる大石寺正御影の資料を紐解いてましょう。
『鋸南町(きょなんちょう)史』(昭和58年(初版:昭和44年、鋸南町)、国書刊行会、492頁)には
「二、宝物
1宗祖御像御丈け二尺六寸木像座像    一体
弘安二年甲州波木井郡山中において弟子日法彫刻、正応元年日興上人駿河国上野郷に移し、ついで、建武元年日郷上人小泉久遠寺に移し、更に暦応五年当山に移した。
正木日記八月十日の条に言う。
「もとは素彫なりしを元禄十五年日賢上人の代彩色を施し、又明治二年に再び施したるものの如し、彩色庸工の手に成りし為にいたく尊厳を傷つけたるはおしむべし」
今本堂に祀る。」
とあり、保田妙本寺では自寺にある御影について
・弘安2年、日法師の作とされること(ホント?)
・正応元(1288)年に上野郷に移されたこと
・日郷師により建武元(1334)年に一旦小泉久遠寺に移され、さらに暦応5(1342)年に保田妙本寺に移された
と主張されていることが解ります。またこの像の大きさは79センチ(二尺六寸)で大石寺の越前法橋快恵による御影は85センチ(二尺八寸)ですから、保田妙本寺の御影は富士大石寺の御影より6センチほど小さいということになります。元禄15(1702)年の日賢上人の代に素彫に彩色を施し眉間白毫相になったと思われますが原型を留めていませんので、はたして本当に古い御影であるのかという疑問もあります。つまり後世のものにすり替わっている恐れすらあるわけです。
 ここで、正応元(1288)年に上野郷に移されたとありますが、これは日興上人の身延離山を指すと考えます。日興上人の身延離山は大まかに言って正応元年説と正応2年説があり、『日興上人身延離山史』(昭和52年4版(初版:昭和36年)、富士学林研究科、143頁)や『富士年表』(昭和56年、富士学林、56頁)の正応2年の項などを読む限り富士大石寺では正応2年説です。正応元年説は「正応元年十二月十六日、即ち『原殿御書』を認められた日、或はその直前頃離山された」(『日興上人身延離山史』137頁)というのが一般的ですが、保田妙本寺第14世日我師の「申状見聞」(『富士宗学要集 第4巻 疏釈部〔1〕』昭和53年、創価学会、112頁)に「正応元年12月5日、身延ヲ御離山」とあるように保田妙本寺では正応元年12月5日説のようです。12月5日というのは同日付の「波木井清長の誓状」(『富士宗学要集 第8巻 史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、10頁)を根拠とします。いずれにせよ『鋸南町史』では身延離山の時に御影が上野郷(現在の富士大石寺)へ移されたとしているわけです。弘安2年の作とするならそうなるでしょうが、疑問符がつきます。


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