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富士山本門寺について教えて下さい

35犀角独歩:2005/12/11(日) 08:49:14

ラスカルさん

次々と疑問を持たれること、たいへんにけっこうだと思います。
思えば、わたしは、中学2年の時、初めて教学試験を受けて依頼、ずっと教学を考え続けてきました。いまは創価学会、日蓮正宗から、遙か遠くまでやって来ましたが、それでも考え続けています。40年の歳月が流れたことになります。
疑問を持ち、その解を得る、すると新たな疑問が涌き、また、解を得…、この繰り返しによって、時には難解な茨の樹海に迷いこともあります。

わたしがここの掲示板に来てから5年の歳月が過ぎたのだと思います。
先駆の問答さんが提示する疑問は新鮮でした。信仰者として、機械的にタブー視される本質をズバリと切り込んでいました。ここでの熟考は、多くの示唆と解をわたしに与えてくれました。また、出会えた多くの人々から、多くのことも学べました。
もし、この掲示板がなければ、わたしの解を得る速度は、それまでと同様、もっと遅々としたものであったでしょう。

しかし、反面、解を得る他面、また、応答をするために記した文書量にいや増して倍する読書量は、学生時代と比べものになりません。わたしは学生時代、年間100冊を目標にしていましたが、その頃の入門書の類に比し、ここでの議論で必要な文献は、実に濃厚で難解なものを手に取らなければなりません。わたしの知る限り、三学無縁さんは2トントラック2台分の書籍を蔵していましたし、彰往考来さんは、ご本人のお仕事の関連を除いて、石山に係る書籍資料だけで500冊以上を蔵し、読破されているとのことでした。
一字三礼さん、れんさん、独学徒さん、また、その他の方々も多くの資料を蔵され、何より、それをコレクションとするのではなく、熟読玩味し、自分なりの解を得続けておられます。顕正居士さんという賢哲のご参加も得、問答さんが運営されるこの掲示板は、まさに歴史的現場となっています。

余計なことを記しましたが、「千里の道も一歩から」と言います。
わたしもかつて歩いた道です。受けたご質問に関しては、出来る限り、お応えすることといたします。

> 日蓮在世の当時は、理の一念三千、事の一念三千

まあ、この点は、これでよろしいかと存じます。
三宝の整理の仏・法は、そのとおりでしょうが、僧については、教学的な態度からすれば四菩薩、法師等と考えられますが、門派意識としては、かくの如きであろうと思います。

> 三宝の僧は「サンガ」といって、出家者とか信徒の集まりを表わしている

サンガ(sanga)は僧伽と漢字で充てられ、集まりを意味しました。その僧だけが独立して出家者を指すようになりました。しかし、元来は四部衆といい、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷=男の出家者・女の出家者・男の在家信者・女の在家信者を言ったものです。

> 本尊、教義、修行方法を考えようとすると何を鑑みて判断すればよいの

これは確かに大問題です。
何度も繰り返し記してきたことですが、たとえば初期天台文献には本尊という語はありません。日蓮が言う場合、台密から、真言の影響の系譜があるのでしょう。
天台の段階ですら、本尊義はないわけです。ですから、元来、本尊と法華経は結びつかないものなのですが、日蓮、ひいては、この門派においては、本尊は重大な意味を有しています。教義も同様で、ことに日寛以降に創案整理された日蓮本仏論は移植を放っているわけで、ここに勝劣意識が発揮されることによって現在の有様があります。
修行法は、もちろん、この門派では、唱題に勝るものはありません。
しかし、修行は修行をして何をするのかという社会における存在価値が問われるのが現在です。また、信仰集団の有様を見ていくと、会活動そのものが、修行であるかのような論調であり、ここでは本来の修行の有様は喪失しています。

なお、一念信解を、ただ言われたとおりに信じ込めばいいという出鱈目な教え込みは、会員の思考能力を閉塞し、奴隷にする悪しき教義となっています。
一念信解とは、あなたが、ここで繰り返し、行っているように疑い考え、問い、聞き、考え、また、学び、そして、唱え、人のために役立ち、そのような繰り返しのなかで、漸くとたどり着ける一分の信、わずかな解をいいます。この信解は集団組織のなかで指導者の話を聞いて、即座にわかった気になるような感情とは、根本的に意味を異にしています。


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