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富士山本門寺について教えて下さい

100彰往考来:2007/03/03(土) 08:40:19

>100 の続きです。

 さて御影が保田妙本寺に移された時期ですが、『鋸南町史』では建武元(1334)年に一旦小泉久遠寺に移され、さらに暦応5(1342)年に保田妙本寺に移されたとしていました。ところが、佐藤博信氏の『中世東国日蓮宗寺院の研究』(2003年、東京大学出版会、52頁)には、「(御影像が)当時すでに妙本寺に存在したことは、そのお首切れの共切れに、表は題目、裏は暦応5(1342)年に富士(大石寺蓮蔵坊)から安房(妙本寺)に遷座されたことを示す日郷自筆の墨書銘があることからも、明白である。御影像を奉安する御影堂は、同年に創設したと考えられる。以上、鎌倉修郷師の御教示。」とあり御影像は日郷師が暦応5(1342)年に富士大石寺から保田妙本寺に遷座したとしています。日郷自筆の墨書銘が正筆であるなら日郷師が御影を富士大石寺から保田妙本寺に持っていったということになりますが墨書銘が正筆であるかどうかは不明です。いつ誰が持っていったかはともかく、〝大石寺御影〟は現在富士大石寺御影堂にある嘉慶2(1388)年10月13日に仏師越前法橋快恵により作られた等身大の御影像より古いことだけは確かでしょう。
〝大石寺御影〟が鎌倉時代の作であるという説は否定されるというが私の主張で若干考証します。私が〝大石寺御影〟を鎌倉時代のものではないと考えるのは、この御影が強装束(こわしょうぞく)であるからです。
確実に鎌倉時代の肖像画とみられるものに強装束(強衣装ともいいます)は少ない(まずないでしょう)のです。例えば、神護寺に所蔵される「伝・頼朝像」は「鎌倉時代の遺品として極めて貴重なもの」(森暢『鎌倉時代の肖像画』1971年、みすず書房、1頁)とされ歴史の教科書にも載っていましたが、「頼朝像は十四世紀中ごろのもので足利直義が自分と尊氏の肖像画を神護寺に納めたものである」(北脇洋子『日本史のなかの世界史』1998年、三一書房、53頁)と、「伝・頼朝像」は鎌倉時代のものではないという説が現在では有力になりました。北脇洋子氏は同書で「そうすると神護寺にある三像、つまり今までは頼朝・平重盛・藤原光能といわれてきた像は、おのおの足利直義・尊氏・足利義詮の像と変更されることになるが、その根拠などについては米倉迪夫氏の著書(引用者注:米倉迪夫『絵は語る4 源頼朝像 沈黙の肖像画』1995年、平凡社。同書は2006年に平凡社ライブラリーで『源頼朝像 沈黙の肖像画』として再刊。平凡社ライブラリー版は『絵は語る4 源頼朝像 沈黙の肖像画』の第2刷(初版第1刷に若干の訂正を加えたもの)を底本とする)を読むことをお勧めしたい」(『日本史のなかの世界史』53頁)と「頼朝像は十四世紀中ごろのもので足利直義が自分と尊氏の肖像画を神護寺に納めたものである」というのが米倉迪夫氏の説であることを紹介しています。米倉迪夫氏の同書を紐解いてみると、同一時期に描かれたとされる藤原兼経両像のように摂関大臣図では強装束であるのに対して藤原兼経出家後の僧侶図では柔装束(やわしょうぞく)であるなど、所属する社会集団によって差がある(米倉迪夫『源頼朝像』2006年、平凡社ライブラリー、60頁)と指摘されています。つまり鎌倉時代では祖師像を含む僧侶図は通常柔装束なのです。祖師像などの法体像で装束の描き方は、鎌倉時代は一般に丸みがあり室町時代へいくにつれて直線的になるという特徴があります。従って保田妙本寺の〝大石寺御影〟の製作年代が鎌倉時代とは考え難く、作風から南北朝(1336〜1392年)時代か室町時代初期の作品と考えます。“日郷自筆とされる”墨書銘に暦応5(1342)年とあり、この年に保田妙本寺の御影堂がつくられたことから、〝大石寺御影〟が暦応5(1342)年のころの作である可能性もあると考えます。暦応5(1342)年であれば保田妙本寺蔵の〝大石寺御影〟が現在富士大石寺御影堂にある嘉慶2(1388)年10月13日に仏師越前法橋快恵により作られた等身大の御影像より古いという考えとも矛盾しません。

by 彰往考来


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