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反戦議論のための本棚〜最近の購入本/読了本は?

1ヤスツ</b><font color=#800000>(RqRGbk8w)</font><b>:2003/09/25(木) 19:48
脳内ソースに頼らずに議論をされている皆様は、きっと多くの資料本を日夜精読しておられることと思います。
そこで、「最近こんな本を買った」「今日読み終わった本はこれ」などのように、皆さんが「これまでに読んだ本」「最近読み始めた本、読み終わった本」などをご紹介いただくというのはいかがでしょう。
友達の家に遊びに行くとまず最初に本棚に目が行ってしまう人は少なからずいると思います。
その人の本棚を見ると、その人の思考法や傾向、趣味がわかって、その人に対する理解も進むというものです。

皆様が議論のタネ本にしている本……に限らなくてもけっこうなんですが、いろいろお教えいただいて足りない知識を埋める教材としていきたいと思います。

2大神:2003/09/25(木) 20:12
今日読み終わった本。
            「あややになりたい」

というのはつまらん冗談で(笑)、

「軍国の少年」 光人社ノン・フィクョン文庫 升本喜年

筆者は熊幼47期で、2年生時に終戦。

戦中、戦後直後の日本人の変遷が興味深かった。

3緑装薬4:2003/09/25(木) 21:00
ごめん・・・

「2ちゃんねるぷらす4」読み終わった(笑)

読者モデルの「愛コ」とかいう御仁
(23歳 主婦兼エロ漫画家)わ、まさかイカフライ御仁でわあるまいなぁ(笑)

4末入力(未入力じゃないよ):2003/09/25(木) 21:58
最近買った本はNHKの「趣味の園芸」と、「園芸ガイド」
[うわっ、私1人だけ浮くな。こりゃ。(まあいいや。浮いても。)]

内容的にはあまり変わり映えしなかった。以前は定期購読していたので、その時とあまり変わらないような・・・。

ただ、みかんのネットにミズゴケを入れて、球根の芽を網目から出して入れて、土を入れて、その順番で入れて、大き目の植木鉢には普通に土を入れて、球根を植えつけたネットを逆さにして乗せれば、ツリーのように真ん中が高くなり、花が咲くと見ごたえが有る。
場所をとらずにたくさん植え付ける事が出来て、真ん中に行くほど上の位置になるのは全てを眺める事が出来るので、いい考えだなあと思いました。

何気ない工夫がこんなに生きてくるものなんだなあ。

5D.R.:2003/09/25(木) 22:11
仮面ライダースピリットを買ってきた…

#なんか、サイド6じみてきたなぁ、このスレ

6柏葉英一郎</b><font color=#800000>(HCOHd/MU)</font><b>:2003/09/25(木) 22:45
最近は本を読んでいないなあ。
一番最後に買った本が亜紀書房から出ている、西岡力氏の「日韓誤解の深淵」と「コリア・タブーを解く」かな。
といっても今年の春先の話なんですけど(ここで反日韓国の問題をやっていたときに買った)。

傾向としては、やっぱり歴史物が多いですかね。
歴史小説では堺屋太一の「豊臣秀長」が一番面白かったかな。
あと、学研文庫から出ている戦史シリーズは結構読んでますね。
「日本戦史」「世界戦史」「バルバロッサ作戦」「中東戦争全史」などなど・・・・・・。
全部は読破していませんけど。

>仮面ライダースピリット

私も大ファン。
特に第一話の1号ライダーの話が良かった。

7ヤスツ</b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2003/09/25(木) 22:46
ちなみに、今日買ってきた本。
「大使閣下の料理人」17巻。(ビーフストロガノフと主人公・大沢公のスランプ、バリ島が、主なお題です)
「韓国人ウ君の『日韓の壁』ってなんだろう」(立ち読みしたらおもしろそうだったので。日韓友好を考える韓国人青年の本です)

こないだBOOK OFFで買った本。
「食卓の情景」「包丁こよみ」「むかしの味」(すべて池波正太郎のエッセイ集。包丁こよみは、剣客商売に出てくる料理のレシピ集です)

読みかけの本。
「江戸の料理史」(あともう少しで読了)
「韓国人とディベートする」(新しい本じゃないんだけど、争点を知るためにトイレ本として通読中)

途中で読むのを止めた本。
「江戸東京グルメ歳時記」(期待に反して、すげぇつまんない本だったから)

愛読書。
「怖い食卓」(人肉食のアンソロジー集で、筒井康隆の「定年食」から谷崎潤一郎の「美食倶楽部」まで、いろいろカニバリで読みであり)
「ラーメンの街に日は暮れて」(新横浜ラーメン博物館のガイドブックだが、これは内容云々よりそのコンセプトと装幀と遊び心が素晴らしい)
「学術小説 外骨という人がいた!」(赤瀬川源平による宮武外骨の伝記)

買おうと思ってるんだけどまだ買ってない本。
「私が朝鮮半島でしたこと1928年‐1946年」(薦められたんだけど、ちょっと高かったので)

注文済みで到着を待っている(というか、今日受け取り損ねた)本。
「間取りの手帳」(薦められたのだが、これはヒジョーに面白そうだったので。謎の間取りを持つ不動産物件の紹介本)

8ヤスツ</b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2003/09/25(木) 22:49
あ、もひとつ読みかけの本。
「仏教とはなにか」(中公新書。部屋の掃除をしてたら出てきたので再読中)
「国際政治学とはなにか」(中公新書。すでに壱学生氏は読了していますが、私はこの本を「電車の中で読む本」にしているので一向に先に進みません(^^;)。やっと二章に入ったとこ)

9麗屋:2003/09/25(木) 23:28
>仮面ライダースピリット
私はライダーマンの時がよかったな

10D.R.:2003/09/25(木) 23:46
「水の文化史」(文春文庫)
淀川,利根川,木曽川,筑後川など、日本の河川沿いの都市づくりや
その歴史,文化についてかかれています。
これがなかなか面白い。

「チベット死者の書」(ちくま書房)
死者が正しい解脱をするための手引きとして書かれたもの…らしい。
わかるようなわからんような話で、何度も読み返しているが…
とりあえず、「ポア」の正しい意味などはわかってきた…とおもう。

11しろ:2003/09/26(金) 00:18
突然お邪魔いたします。
「重光・東郷とその時代」岡崎久彦著
ちう本を今日買ってきました。事前情報とか無くて、本屋でテキトーに選らんだのですが。
満州事変〜敗戦までの歴史が、歴史イベント毎に書いてあるらしいのですが。。。

読んだ方って居られますでしょうか?

12ヤスツ</b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2003/09/26(金) 01:27
>>11
むぅ、その本は存じませんです。

リアル本棚の整理につい手を付けてしまい(^^;)、買ったのに読み始めるキッカケがなくて放置してある本が何冊もでてきてしまいました。
「江戸売り声百景」……これは、読了本。一時期、棒手振りの生活事情とかに凝っていたので(^^;)
「江戸商売図絵」……あ、これはとても興味深い本です。棒手振りの様子を書いた「図画本」なんですが。
「アメリカ素描(司馬遼太郎)」……とっくに読んだつもりでいたけど、内容をまるで覚えてない。もしかして読んでなかったのかもしれない(T_T) 最後の数ページで「やっぱり読んでた」ことに気づいたりするとヤダなー(^^;)
「歳月(司馬遼太郎)」……これは……合本になってて京極夏彦なみに重くてかさばるので読むチャンスがなくて(^^;)(<本は出先で読むかトイレで読むか寝床で読むかなので)
「どすこい(仮)」……その京極本だけど、これも読んでないなぁ。買って帯と目次読んだら満腹になっちゃって(^^;)
「漫画・金正日入門」……なんか売れてるらしいので買ってみまして、間に1冊挟みつつ、二日ほどで読了。新しい本というわけでもなかったんですね、これ。
「南方特別留学生が見た戦時下の日本人」……これはインタビュー本ですね。南方から日本に留学してた外国人への。これは積読になってて手を付けていません。
「海舟座談」……最晩年の勝海舟との座談を聞き書いた本ですね。いやあ、勝海舟という人はほんとにおもろいです(笑)

なんかこう、未読本が次々にでてきてイヤーンな感じ。
それでなお新刊は買うわ古書は買うわ……部屋がどんどん狭くなるぅぅぅ……

13ヤスツ</b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2003/09/26(金) 18:04
「私が朝鮮半島でしたこと1928年‐1946年」、たまたまどういうわけか手元にお金があったので買ってしまいました。
さっそく読み始めました。

14スレ汚しの匿名希望:2003/09/29(月) 17:14
いつも旬が過ぎてから登場するオレ。しかもsageでヒッソリと...(W

現在読んでいる本:「詭弁論理学」野崎明弘著 中公新書
中島みゆきを求めてブックオフに行ったら、お目当ての物は見つからずにこれを購入。(w
論理学のロの字も知らんので勉強のために買ったが、「三段論法の詭弁」のあたりで読むスピードが著しく落ち、奮闘中!

最近読んだ本:「風水先生」 荒俣宏 集英社文庫
荒俣センセの博物学はオモロイ。この本では香港での風水戦争を始め、日本の古都に如何に風水が取り入れられていたかを解説している。

心に残ったオモシロイ本:「怪人二十面相・伝」 北村想 ハヤカワ文庫 (恐らく絶版)
謎の怪人、二十面相の側から書かれた小説。
怪人二十面相は、実は人情に厚いストイックな努力家で、明智小五郎は、なんと自己顕示欲の塊のようなイケ好かない奴だったとゆうお話。
古本屋のセエルで乱読を目的にまとめ買いをした時の一冊たから、何の予備知識もなく読んだのが余計に面白かったのかも... 続編の「青銅の魔人」を探すも、これも絶版らしい。

15スレ汚しの匿名希望:2003/09/29(月) 17:16
>>12
「どすこい(仮)」は読みました。
京極夏彦はグラフィックデザイナーでもあるから、本の装丁はメチャ凝ってますね。
「どすこい(仮)」は、京極ファンには不評らしいですが、俺の場合この本から入ってゲラゲラ笑った後に、
京極堂シリーズ読みましたから、どっちも好きです。
しかし、京極の本は手が疲れる...

16ヤスツ</b><font color=#800000>(RqRGbk8w)</font><b>:2003/09/29(月) 20:59
>>13
「私が朝鮮半島でしたこと1928年‐1946年」読了しました。
なるほどねぇ。
1945年までの朝鮮半島の「生活ぶり」がよくわかって非常に興味深い本でした。

「包丁こよみ」「むかしの味」「食卓の情景」も読了しました。
食い物の本だと、なぜかピッチが上がってしまいます(^^;)

「間取りの手帳」も読了しました。
これはヒジョーにおもしろかった。カバーが変わった作りになっていて、剥がすと二つ折りにした「チラシ」みたいになっているとゆう。
内容は、不動産広告の「間取り図」ばかりを集めて、一言コメントを添えたものなんだけど、「この物件を設計した設計士の顔が見たい」と思いました。
なんだろう。
「6畳のワンルーム+バルコニー100畳」って(笑)「シャワー室が玄関の外にある」って(^^;)「15畳の部屋の中央に、キッチン、UB、トイレがアイランド状にある」って(つД`)
文字はほとんどないので読むのに時間はかかりませんが、非常に情報量の多い本でした(笑)
http://www.littlemore.co.jp/book/kobetsu/art/madori.html

17ROM河北人:2003/09/30(火) 23:25
>>「江戸商売図絵」……あ、これはとても興味深い本です。棒手振りの様子を書いた「図画本」なんですが。
長風呂するときに愛用していました。精神の土台に落語がある人間にとっては厭きずに見られる好著ですた

「カウラの突撃ラッパ -零戦パイロットはなぜ死んだか」
中野不二男、文春文庫・1991

豪州の日本軍捕虜収容所で昭和19年(1944年)に起きた暴動を追ったルポ。
最初は捕虜一号の実名(日本人捕虜は銃後での後難を怖れて偽名を使った)
を割りだす作業から暴動が起こされるまでの意思決定過程を発掘する。
筆者の足を使った取材は秀逸の域を越えている。

決死というより死ぬための蜂起-警備兵に正面からナイフなどを持つに
しろほぼ徒手空拳で突撃するという-を決める意思決定過程は
「空気の研究」(山本七平)に通ずるものがあり、すぐれて日本人論にもなっている。

日本人捕虜の実態-収容所内で投票が行われた-などという側面も発見か。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167279061/ref=sr_aps_b_1/249-8810642-6450754

18OKE:2003/10/03(金) 00:18
最近読んだのは、もう古い本なんですが(1984年刊なので、約20年前)
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(中公文庫)です。
最近はやりの失敗学のはしりでしょうか。
ノモンハンから2次大戦終戦までの日本軍の「失敗した」作戦を
おもに米軍と比較して日本軍の組織特性を述べるという本で、
題材は戦争に関するものですが、テーマは組織論ですね。
現代の、例えば企業組織にも通ずる話しでなかなか興味深かったです。

取り上げられているのは「ノモンハン事件」「ミッドウェー作戦」
「ガダルカナル作戦」「インパール作戦」「レイテ海戦」「沖縄戦」の6つ。

19未入カ:2003/10/05(日) 09:04
本ではありませんが、神戸のキリスト教教会の人が書いた、「戦争」についての
ページ。いろいろと面白かったのでご紹介。
http://www.geocities.jp/mongoler800/sensou-syukyou/sen-8.htm

三毛猫ナナさん、武蔵さんには特に読んでほしいですね。
もしお時間があればイカフライさんにもおすすめしたいと思います。

20末丁伽:2003/10/05(日) 13:33
負け猫とかムサイは1000%読みに逝かない。親切な私が全文転載してあげよう。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

http://www.geocities.jp/mongoler800/sensou-syukyou/sen-8.htm

6 日本に巣くうオロチ ― 平和を願えば、平和がくるか?

 国、大なりと、しかれども戦いを好まば必ず亡び、天下安らかと、しかれども戦いを忘れなば、危うし                中国古典
あなたがたの信仰通り、あなたがたの身になるように  マタイ福音書9章29節
 イソップ物語の有名な「アリとキリギリス」の話について調べる。すると、日本では、「親切なアリは、飢えているキリギリスに食物を分けてやった」と美しい結末で終わる。ところが原作も、欧米で出ている本は、そんな甘い話にはなってない。150近い種類本の例を調べたという人に言わせると、スペインの一例以外すべて「アリは、キリギリスが飢えて死ぬのを待っていて、その死体を食べ尽くした」と残酷な結末になっている。
イザという非常時に備えない集団や国は、滅びる。誰も助ける者はいない。むしろ死ぬか滅びるのを待ち、襲い、食えるものは食い尽くし、身包み剥いで持ち去る。世の現実とは、そういうものであることを子供の時から教えないと国も民族も滅びる、逆に怠け者で、自国も守ろうとしないそれは、攻め滅ぼしても良いという教育でもあるのだ。
月亭可朝が子供の頃、クラスで「どちらに成りたいですか」という先生の質問に、皆「アリです」という中、ただ一人「キリギリス」と言った。どんなに怠けても、最後は助けてもらえる。それならキリギリスの方がいいのに決まっている。彼は本音で選んだまでだ。
西成の三角公園ではそんな横着者ばかりが居る。生まれてこの方40、50年、物乞いで食いつないで一度も働いた事が無いという不思議な人たちがゴロゴロ居る。それがドンドン増えて大阪中いる。それでは国も市も持たない。
[こういう親切なアリの話が日本では、今だ語られているとは。それほど日本人は「人に親切にしてこなかった」という証しでもあろう。もし徹底的に人助けをすれば、必ず見える世界がある。それは「この世は、慈愛とか親切に感謝するどころか、さらに際限なく要求する横着者に満ちている」という事だ。甘えに甘えて、救済を当然と思い、もっとくれと要求する。それには際限がない。遊んで怠けても食え、生きれるのが、当然の権利のように考え出す。そして要求が叶えられないと暴力でもってしてでも奪おうとする。
使徒パウロはいう「働こうとしない者、食べることもしてはならない(テサロニケ第二3章10節)」と。実は愛を説く聖書の方がよほど厳しいのだ。其れはそれだけ慈善行為を実践したからそうなったのだ。]
この例に見られるように、日本人は非常時や戦争への備えがなさ過ぎる。困れば誰かが助けてくれる有難い(皮肉?)国である。しかし苦境のドン底にあって、泣けべども、叫けべども誰も絶対に助けてくれないというのがこの世界の現実なのである。だから日本の親切なアリの話は、世界の常識から言えばかなり変なのである。

21末丁伽:2003/10/05(日) 13:34
内向的自閉的で現実を見たがらない

戦争と平和について考える時、日本人は自国の事だけを思い、結論を出す。日本列島は極東と呼ばれているアジアの片隅といえども「地球世界の中にある」のだ。それを考えずに現実の平和も戦争もない(ついでに言うと、宗教や人生の事を考える時も自分と自分の心だけの事を思い、結論を出す、地球という人類社会の中に生きているのにである。それを考えずに現実の宗教も人生もないはずなのに)。とにかく日本人は、「自国さえ平和であれば良い」という感覚で、自分勝手なのだ。どんな国でも、国家は外国からの侵略に抵抗出来る軍隊を常備し守らないと滅びる。また対抗出来る軍事力をもたないと、他国から舐められ、脅しに屈するしかなくなる。それにグローバリズムの浸透で日本人は世界中で活躍し、旅行している(150万人が海外で生活し、年間2千万人以上が海外に旅行する)。
こういう国際化時代に、自国の領土を守るだけでは、軍隊の役目は終わらない。国土だけでなく「日本人の命と生活を守る」という使命を果たさねばならない。日本人が自国に居る場合は問題ないが、外国に居る場合が多々ある。その海外にいる日本人を守るのに、自衛隊を海外に派兵しなければならない。それをしないで守れるはずもない。
ところが、憲法によれば日本はどう読んでも軍隊を持てない、まして持てないものを海外に出す等という規定がその中にあるわけもない。それなのに、軍隊なのに名前だけ自衛隊と変えて軍備を所有して、海外派兵までしょうとしている。呼び方や解釈を変えることで「憲法を変えたに等しい」ことを何とかしてきた。しかし当に昔に、もうそういう騙し騙しの「なし崩し改憲」というやり方は限界に来ている。
だから、誰がどう考えても憲法そのものを変えるしかない。ところが、平和憲法こそ「平和の守りの護符」ぐらいに考えているので、国民が賛成しない。言霊信仰という迷信に取り憑かれているので改憲に応じられない。
そのため、 時代錯誤の憲法をお飾りか護符として大黒柱に貼り付けるか、神棚に祭り込んでおくというしかない状態が続く。それで法的根拠も歯止めもないままズルズルと軍備を拡充させ、海外に自衛隊を派兵させ、常駐させ、進駐から占領と、なし崩し的に軍事行動を起こし、侵略していく、―――過去来たと「全く同じ道」を歩みだそうとしている。憲法の条文は、絶対変えてはならない神聖な経典か祝詞かお経のように、信仰の対象みたいになってしまっている。そういう存在は「現実の虚構を隠す隠れ蓑」としてだけ利用され、平和に奉仕する条文なのでなく、「してはならない悪い戦争」に奉仕するものになる。

22末丁伽:2003/10/05(日) 13:34
神は「主義」が大嫌い

平和を作り出す人はさいわいである。かれらは神の子と呼ばれるであろう。
マタイ福音書5章9節
こういう平和を説かれるイエスの言葉が好きで、この信仰を持つ者も多いようだ。そうなればなお更、イエスは「どんな時にも武器を取らない絶対的な平和主義者だ。聖書全巻むろん平和を説いている」と、思う者も多い。しかし果たしてそうだろうか。
  剣をとるものはみな、剣で滅びる。マタイ26章52節
これらはイエスの言葉だ。しかし、イエスの弟子らは剣を捨てたわけではなかった。キリストの信徒にも多くの兵隊(マタイ福音書8章13節、使徒行伝10章他)がいた、彼らは軍隊を辞したわけではない。戦争の際、命じられた戦闘を拒否したはずもない。
それぞれが、自分の主義や考えに合う聖書の言葉の個所だけ取り上げ、自説の正しさをその根拠に使う。ところが聖書は、時には絶対平和であり、時には「絶対戦争、みな殺せ」とあるように、どの説も正しいとはしていない。要するに、神は「主義」というのが嫌いなのだ。善悪を知る木――これは神の言葉自体を絶対化する愚をいう。「神が絶対」なのであって「神の言葉が絶対」なのではない。神の言葉を神の様に絶対視して、これが一人歩きするなら、誤りだというのである。
善とは、神に従うことである。悪とは、神に逆らうことである。神に従う。それが善の本質のすべてである。逆に、神に従わない。これが、悪のすべてである。
だから、「神に従った殺人」も戦争も善で、「神に従わない」で、人を生かすのも戦争をしないのも「悪」なのである。かように、神に従うか、神に従わないかという一点に、事のすべては、尽きる(サムエル記上15章参考)。

23末丁伽:2003/10/05(日) 13:34
平和念仏主義

平和をみなが願えば平和になる。平和、平和と言ってれば、平和になる(念仏平和主義―司馬遼太郎)。軍隊があるので軍事行動が起こり、武器があるので戦う。だから軍隊を廃止し、武器を捨てればいい。その上で、非武装中立と叫び、武器を自ら捨て「絶対無抵抗」、「絶対平和」を誓えばいい。―――島国のゆえであろうか、日本には、こういう考えが非常に好きな人がいる。しかしこんな発想が果たして世界に通用するか、考えてみよう。
イザヤ・ベンダサンは、日本人は安全と水とはタダであると思っているといった。戦後の日本において、平和もデモクラシーもタダなのだ。だからこのようなオメデタイ信念がまかり通り、若干の政党まで出来るとなる。他の国では考えられない珍現象といえよう。
だれも戦争のことなど少しも考えずに、また口に出さなければ、けっして戦争は起こるはずはないと堅く思い込み、一つの信仰にまで高められる。そういう平和念力教徒が多数いる。「戦争なんか口にする奴がいるから戦争が起きる。そんな奴は平和の敵であり、人民の敵である、社会から抹殺してしまえ」となる。だれも戦争のことなんか思ってもみないことになったら、それだけで日本は安泰、つまり神州不滅というわけだ。
「戦争に負ける」なんて思う奴がいるから負ける。国民全体が必勝の信念でこりかたまっているかぎり、ついに神風が吹いて日本の勝利うたがいなし、というわけだったのだが、結果は「願い空しく」無残な敗戦だ。それにも係わらず、平和念力主義者はしぶとく生き残り「平和憲法を守れ」等といっている。 
しかし「戦争はイヤだ。心から平和を欲する」と言ってみても、戦争は起きる、のぞむものはかなえられるという念力主義は、地震や火事を忌み嫌うなら地震も火事も無くなる、と信じるようなものである、
こういう「平和をとなえ、願えば、平和がくる」という、心情的な「念力主義」は、なんの役にも立たない。それだけでなく、危険で有害ですらある。

24末丁伽:2003/10/05(日) 13:35
平和主義者が戦争を起こす

第二次世界大戦が終わったとき、イギリスの首相であった、かのチャーチルは、これは必要のない戦争であった。われわれがもっと早く戦争の決意さえしていれば、容易に防げた戦争であった、という。
確かに第二次世界大戦は、平和主義者のまき起こした戦争であった。
第一次大戦が終わった時、勝者も敗者もヘトヘトで、「ああもう戦争はいやだ。どんなことがあっても戦争だけはしたくない」と皆思った。ヨーロッパ各地は戦場となり、大都会は焼け野原の廃墟と化したのだから誰でもそう思った。その結果、不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)なんていう日本国憲法そっくりの国際協定ができて、国際紛争解決の手段としての戦争は、永久に放棄されるはずであった。
こんな風潮の中から、ヨーロッパに現れた運動の一つが平和主義である。ところが、たいへん皮肉なことに、このような空想的平和主義こそが、第二次世界大戦の大きな原因となったのである。
こういう平和主義的風潮のために、イギリスとフランスは条約上、当然許されている軍事行動がとれなかったのだ。みすみすヒットラーの征服のための進軍を許してしまう。ヒットラーは戦争なくしては手に入れられないような、あるいは戦争によってすら入手できないような獲物を次々に獲得し、その栄光は星辰にも達するかと思われた。空想的なまでの平和主義のおかげでヒットラーの征服は、ますます容易に、かつ迅速にすすんだのだ。

25末丁伽:2003/10/05(日) 13:35
平和で戦争などないと思う時、逆に戦争になった

歴史を調べてみると、パシフィストがいるとむしろ戦争が起こっている。絶対に一歩も引かない、必ず戦う、と両方が思っている時はなかなか戦争にはならない。
アメリカは、ベトナムぐらいは一週間で片付くと思って始めた。原始人の生活に戻してしまえば、敵は降伏すると。ところがそれはアメリカ的文明人の考え方だった。敵は今でも石器時代のような暮らしをしていたのだから参るはずもない。結局、ベトナム戦争では、五万八千人の米兵がムダ死にした。
昭和一六年一二月六日、開戦前夜のワシントンでは、だれもが戦争にならないと信じていた。日本がアメリカに戦争を仕掛けるなど、そんな馬鹿なことはないと全員が思っていた。日本国内も同じだった。ところが、何でもない小火が大火事になったのだ。
日本は神国だが、アメリカは民主主義の国で、国民はお坊ちゃんだから銃剣突撃をすれば泣いて逃げる、と思っていた。しかし戦争が始まると、アメリカの大学生は続々と軍隊を志願した。一方、日本の大学生は志願しない。だから、学徒動員が必要だった。
第一次世界大戦は、オーストリアの皇太子を暗殺した「セルビアの一弾」で始まったといわれ「こんな平和な時に、なんで戦争が始まるんだ。心配はいらないよ」と、みんなダンスパーティーをしていた。
ちょっと脅してやろうと思って、オーストリアは一カ月後にセルビアに最後通ちょうを出した。それを見たロシアが、オーストリアの勝手にはさせないと動員令を出した。その発令を見て警戒したドイツやフランスも動員令をかけた。まさか欧州で大戦争がぼっ発するわけがない、と思っていたから動員令を出したのである。
昭和一二年七月七日の北京郊外ろこう橋事件の時も、まさか泥沼の日中戦争に発展するとはだれも思っていなかった。日本軍の中には、「どうせ平和になるから、その前にひと稼ぎしておけば勲章がもらえる」と考える人はいたが、大戦争になると思った人はあまりいなかった。
このように平和に浸っている時のほうが、事件が起きやすい。それは油断しているからだ。平和主義者が両方にいるほうが危ない。両方本気のほうがケンカにならない。

26末丁伽:2003/10/05(日) 13:35
平行主義と念力主義

ひとりひとりの個人がよい人になれば、社会もよい社会になる。ひとりひとりが富むことが、国が富むことである。個人に関して成立する命題が社会全体に関しても成立するという考え方を個人と社会との並行主義(パラレリズム)という。
これを平和についての命題としてあらわせば、「国民のひとりひとりが平和をねがえば、国家も平和をねがうことになり、国際社会も平和をねがうようになる」ということになり、さらにこのパラレリズムが「ねがうことはかなえるることなり」式の念力主義に結び付くと、ひとりひとりが平和をねがえば、かならず世界に平和がもたらされるということになる。
ところが過去の歴史が証明しているように、誰もが平和を心から願ったのに、戦争になったという皮肉が多々有る。即ち「戦争はいやだ。心から平和を欲するーー」なんていくら言ってみたところで、その舌の根もかわらぬうちに戦争がぼっ発して来る。
こういう考えの他に、今はなんとなくうまくいっているのだから、現状でよいに決まっているとして、理論的に考えることを、いっさいやめてしまう人たちである。
現状は平和である、その日本には、平和憲法がある。だから、平和なのだ。ゆえに、この憲法は死んでも守らねばならない、なんてことになる。非常に奇妙な理屈であるので、反論する者も多い。
日本の戦後の平和は、憲法によって守られたわけではないということを説明するのに井沢元彦はこういう例を出す。
戦後半世紀にわたって一度も強盗に襲われたことがない銀行があったとしよう。
 「なぜ一度も襲われなかったのか?」こんな問いに対して、頭取が「ウチの銀行に」は、絶対に武力では物事を解決しないという社則があり、みんながそれを守っているからです」と答えたら、どうか?
 誰もが、この人は頭が少しおかしいと思うだろう。銀行が襲われなかったとしたら、それはたまたま運がよかったか、それとも警備システムが優れていたか、のどちらかで、「平和主義の社則を守ったから」ということは有り得ない。
「日本国憲法によって戦後の平和は保たれた」というのも、結局これと同じ主張なのである。私は日本の戦後平和は、 安保(日米安全保障条約)と自衛隊という「優れた警備システム」があったからこそ保たれたのだと思う。しかし、「進歩的文化人」をはじめとして日本には「戦後平和は憲法のおかげ」という理屈に合わないことを主張する人々が、まだまだたくさんいる。
どうして、そうなのか。
もう、おわかりだろう。コトダマである。
コトダマの世界では、「平和、平和」と「一億が火の玉」になって念じていれば即「平和」になるのである。つまり「平和憲法」というものがコトダマ信仰の対象になってしまっているからである。         
逆説の日本史3小学館発行294と295p

27末丁伽:2003/10/05(日) 13:35
コトダマ信仰は生きている

「万葉集」に「言霊の幸ふ国」とか「日本国は言霊の祐(たす)くる国」とあるように、言葉には不思議な霊力があると古代日本人は信じていた。言霊の信仰だ。それは祝福の言葉を述べれば幸福が来、呪詛(じゅそ)の言葉を述ベれば不幸に成るという信仰だ。祝詞はこの言霊信仰の上に成立した。だからほめたたえる言葉だけを使い、悪い言葉は絶対使わない。
日本国憲法は、もとは外国製だが、今はこの祝詞みたいになっている。憲法は国民と政府の間に結ばれた「契約」だ。契約であるから「不吉な事態」も想定して、対処できるようにしていなければならない。
しかし、今の憲法では、その不吉な事態即ち有事の際の規定がない。海外から侵攻を受けた時、国民の生命や財産をどう守るか等、何の規定もない。だからこれは欠陥契約だ。それなら、そこを直すべきなのだが、日本社会では、奇妙なことに、それ(憲法9条の改憲)をいうだけで「平和の敵」と非難される。
その理由については「言うだけで、そうなる」と思う言霊信仰の迷信があるからだ。
「祝詞」が読み上げられている最中に「夫婦の契りは永久に、と言ったって、どちらか先は死ぬ。だから、その時のことを今のうちに決めておこうよ」などと「本当のこと」を言えば非難される。これと同じだ。
有事立法とは、国家的変事の際に敏速に対処できるよう法律を制定することだ。しかし、この有事立法は、いわゆる進歩的文化人やマスコミには、極めて評判が悪い。
かって「平和憲法」を批判すると「軍国主義者」 「右翼」と言われたように、今は有事立法に賛成すると、同様な非難を浴びせられる。
そういう批判を浴びせる人々は、「まず有事立法ありきだ。それはおかしい」と言う。即ち「有事立法を制定すること自体が既に決まっているかのように言うのはおかしい、まず、それが必要なのかどうかを決めるべきだ」といいたいわけだ。
だが、そもそも広い意味での「有事」に対する備えとして「政府」や「国家」はあるのだから、決めなかった方がおかしいのである。
こういう人々の中には、最高学府を出た学者や弁護士やジャーナリストが大勢いる。彼らは、自分らの「改憲論者」ヘの非難が、言霊への迷信から来ていることに、気付かない。伝統的信心や思考とはこういうものなのであろう。
 防衛問題の議論を聞いていると、「軍隊を持てば侵略戦争をはじめる。だから持つべきでない」と考える者と、「軍隊しかも大軍隊を持たないと侵略されるので不安だ」と言う者が他方にいる。白と黒しかなく、灰色がない、極端なのである。それで現実は軍事費増、海外派兵の準備とすすんでいる。言葉や議論だけが現実と遊離して一人歩きしている。

28末丁伽:2003/10/05(日) 13:36
全体と部分の矛盾

 これまで、私はかなり官僚役人の悪口を言ったようだ。しかし公人として、組織の内にある時は、問題を起こすことになってしまう存在でも、私人としての各個人は、国のことを思い働く温厚で立派な人たちなのである。しかしそれがひとたび組織の公人として集団で働く者になれば、ネコがトラになるように豹変するのである。各局の利益が各省の利益にならず、各省の利益が必ずしも国益にならない。
全体と部分、組織の一員としての個人と、組織そのものとは、まるで違う。公人として立派でも私人として問題という事もある。これと同じように、国は単に国民各人の集合ではない。
それなのに、平和主義者は、いくつか奇妙な信念を前提にモノを考える。
デュルケム以来の社会学の基本的命題に「国家とは、単なる個人の集合体ではない。ということは、個人の信念の算術的合計は、国家の政策とはなりえない」というのがある。
各個人はみんな、めいめいの私利私欲の追及という悪徳の発揮にのみ思いがあって、社会全体のことなど少しも考えない。それなのに、市場機構における予定調和の鉄則は結果として最大多数の最大幸福という美徳が達成される。個人における悪徳の追及は、結果として全体としての最大多数の最大幸福という美徳を達成してしまうことになる(マンデヴィルの背理)。
逆に、個人が自分自身を富ませるために貯蓄をする。消費をそれだけ手控える、そういう消費が減るということは、有効需要がそれだけ減る。消費が減ったぶんの何倍かだけ国民総生産すなわち国民所得が減る。社会全体が貧しくなってしまうわけだ(ケインズの背理)。
こういう例に見られるように、個人と社会との間の並行主義は、かならずしも、成立しない。個人の信念の合計は、かならずしも国家の意志とはなりえない。かならずしも国際社会の意向ともなりえない。
 難しく考えなくても、事実、前世界大戦で、出兵していく息子に親は「お国のために立派に闘い死んで来い」と表向きは言ったという。しかし本音は逆で「生きて帰って来い、絶対死ぬな」であったろう。戦争など誰も望んではいなかった。それなのに戦争した。息子は死んで欲しくない、そう願った。しかし大勢死んでしまった。
 このように個人の願いと国のする事とは、必ずしも合わない。もちろん平和をみんなが願っても平和にならないというのが現実だ。

29末丁伽:2003/10/05(日) 13:36
野蛮な暴力が野蛮化を救う

戦争を憎んで否定するのは、個人の行為、心の内なる信念だ。しかし戦争そのものは、人間個人の問題ではない。人間の心の内なる問題ではない
戦争は、国家の政策の問題で、しかも高度に文明的な制度である。だから戦争は、個人の良心の問題として片付けられるほど、単純素朴な事柄ではない。
戦争は、国際紛争の解決を目的とした、巨大な努力の体系である。近代国家は、戦争において、その能率と規律とを最大限に発揮する。戦争は、人類がその文明史を通じて創造してきた高度に組織化されたある種のメカニズムであり、制度である。
 むろんその実態は、国同士が争う殺し合いの暴力だ。そういう暴力はどう考えても野蛮だ。ところが、野蛮だからそれをしないとなると「余計に野蛮」になる。
人類のために良かれと思って推進している平和主義は、とどのつまりは野蛮に帰って、事態を今より悪くすることになりかねない。
戦争を行うのは、人間だけだ。自然の姿を失ったから戦争をする、だから自然に帰れ、という。しかしそれは野蛮に他ならない。文明が崩壊した状態は、野蛮である。野蛮とは自然状態のことだからである。その実体は、弱肉強食の「本能のおもむくまま」の生存競争の過酷な生活だ。
文明社会は、今さら、自然に戻るわけにはいかない。自然とは文明社会がもっとも恥ずべきもの、百方手を尽くして避くべきもののはずである。ところが、日本人は自然が好きだ。自然を愛好し、人工は忌むべきものと考え排斥しょうとする。だが、人工こそ文明の核心である。これを大真面目で排斥するなど、正気のさたではない。
そんなに戦争が良くないのなら、戦争をやめればよい、という意見が常にある。
 しかし単にやめる、という事は、そのために払う努力を単純に一切廃止せよというに等しい。何もしない努力しないといういうことは、自然のままに放置せよという事で、文明を捨てて野蛮に帰れという事である。
人類のためによかれと思って推進している平和主義は、とどのつまりは野蛮に帰って、事態を今より悪くすることになりかねない。
一九三三年、アインシュタインとフロイトの間で、戦争と平和巡(めぐ)る往復書簡が交わされた。「国際連盟などの平和をめざす組織が、多くの人々の努力にもかかわらず、うまくいかない、なぜだと思われますか、フロイトさん」、というアインシュタインの質問に、フロイトはこう答えている。
人間の精神にはもともとエロス(生の本能)とタナトス(死の本能)があります。文明はタナトスを意識の深層に封じ込めましたが、タナトスはおりあらば活動しようと、機会をうかがっています。戦争はタナトスの活動です。ですから深層心理的にいえば、戦争を絶滅しようとすると、人間の精神は異常になるのです、と。
 だれしも戦争はいやだ、といっているのになぜ戦争はなくならないのか、の疑問に対するフロイトらしい悲観的な答は、残念ながら説得力があるように思える。しかしそんなタナトスというような死の本能が人にあるのだろうか。聖書で言う「死の天使である蛇・悪魔」のこと(第一コリント人への手紙10章9節―10節)なのだろうか。
 問題が起きるとその災いの原因、悪者即ち鬼探しをする(オニはたいてい自分とは無関係の場所、即ち島に居ると思っている)オニを探し出せばそれに総ての責任を背負わせ、それを退治する。すると一件落着で、オニの宝物を分捕り凱旋でメデタシ、メデタシとなると皆考えている。
 戦争の原因について同じで、たいてい特定の側人や民族や宗教や秘密結社やテロ組織を探し出し、それが戦争の原因と決め付け、退治する。しかしそれでは問題の真の解決にならない。戦争は自分と舞関係の島に居るオニにあるというより、我がうちに居るオニに始まり、人間集団の本性に根ざすもので、機能集団が共同休化する習性の為せるものと考える。(注1)
歴史を動かした戦争など諸事件をフリーメーソンの陰謀などという説がある。宗教やイデオロギーを問題にするものが多い。しかしその多くは、ヤラセでどうにかでっち上げ大義名分か、シンボル旗印みたいなもので、歴史を動かした真の原因ではない。
「日頃の心がけが悪い、だから問題が起きた」といえば、そうだと思う。これが日本人なのだ。だから一人一人の「日頃の心がけ」が世の中を良くもするし、悪くもする・・・云々と考え、国と国との戦争も因果応報の精神論か、人間の個人の、しかもその人の心の内なる問題としてしまう。しかしこういう日本人の大好きな考えに問題の解決などあるはずもない。

30末丁伽:2003/10/05(日) 13:36
絶対的平和主義者がいるとすれば

 事の真実を知る一つの方法にその考えを徹底的に追求するという手がある。平和を考えるには平和を、戦争を考えるには戦争を極端まで探求するのである。すると、今まで見えなかった真理が見えて来る。見えないものが見えて来る。
もし絶対的平和主義者がいるとすれば、そのひとは大変な軽率な政策論をもたざるをえない。いかなる事態となろうとも戦いや戦争を回避するということは、他人や他国のどんなヒドイ仕打ちでも不合理な要求でも、最終的には受諾するということ、あるいは人間の尊厳を否定することに繋がる。即ち無抵抗は、自分の信念や正義、モラルを蹂躙されてもかまわないという意味なのである。
またこれは、目の前で自分の子供が殺されても、自分の命さえあれば良いと平然と見過ごすようなものである。人間としての道を踏み外しても生きのびたいのか、基本的人権をないがしろにされてでも、奴隷にされてでもかまわないと思うしかない。
普通、人が生きていれば、“人間らしく生きるためには戦うしかない”と言う厳しい現実に直面するものである。
絶対に戦争をしないというのなら、初期の段階から国益をあまりに強く主張しないという政策をとらざるをえない。自国の主張はほどほどにし、国益が損なわれることがあっても、ほどほどの抵抗にとどめ、外国からの強い圧力には、つねに屈する覚悟がないとつとまらない。
中立とは本来相対的なものであって、相手あってのことである。
人類社会はつねに過程のことである。最終的な桃源郷しか考えない人には参る。
何が何でも平和第一で武器の類は一切持たない等と言えるというのであれば、事が今だに関係当事国間で「死活の問題となっていない」のだ。その良い例が野党時代の社会党である。政権につくや否や、それまでの平和憲法死守、非武装中立の路線を返上して、武装やむなしに豹変する。政策の責任者として現実を考えると、理想論や観念論など通用しないと気付くのである。

31末丁伽:2003/10/05(日) 13:37
善意が人を地獄へ導く

 西欧のことわざに「地獄への道は善意の石で敷きつめられている」というのがある。意味は「誠意や善意が地獄をつくる」ということである。
西成の釜ヶ崎は、この世で最も善意に満ちた人々の活躍している所だ。「情けは人の為ならず」で、良いことをしておけば、相手はありがたく思い、めぐり巡っていつかは自分によい報いになって返ってくるーーというのが、本来の意味らしい。しかし、誤解の「情けは、他人の為にならない」という誤解が正解になってしまうのが、この地なのだ。
最近は、ヒマで時間を持て余している金持の老人が増えて、ポランティアとか人助けをしたい人が増えている。おまけに捨てるのはもったいないような服や家具が増えている。そういう人々にとって格好の「善意と善意のゴミの捨て場」がここにある。そんな「押し売り善意」のお陰で、ここにはますます乞食や路上生活者が増え集まる。20年も30年も暮らして、毎日ブラブラ遊んでいる、中には数十年一度も働いた事がないという男も大勢いいる。どうしてそんな生活ができるかというと、食べるものは、この地域のあちこちの教会が集会後出してくれる。教会周りをしていれば、なんとか食える。それに四角公園では黙々と数十年も毎日、昼と夜21回も食事を出し続けているK牧師がいた。「良いものを食べさせてあげないと身体に悪い」と言いながらキリストのキの字も言わないで出していた(最近では市会議員候補者が後を継いでいる)。私はこういう慈善行為が彼らの自立を防いでいると思う。むろん、これは彼ら善意の徒が「愛の実践」と確信して続けているのであろうが、私には、「天国に導くのでなく、地獄に導いている」、としか思えない。
服は、カソリック教会の故郷の家では無料でくれる。問題は家であったが、最近シェルターなるものが出来て、それに入れば夜露はしのげる。そして遂に、マジメに働いていて税金を払っている者の方が、苦しい生活をしいられ、物乞いで遊び暮らしている輩のほうがよほど良い生活をしているという状態である。「こんな天国にいて、誰がマジメに働こうという気になるか」、そういう意味で、ここに来た人間は抜け出せない、この世の地獄の真中にある。
私はかように善意すなわち悪魔の愛(?)が人を地獄に、国をこの世の地獄である戦争に導く、と思う。
「戦争を神が命じるはずがない」と思う、慈愛の人、即ち善意の人(ヒューマニスト)は、愛の神が人の死後に地獄を用意しているなどとはとても思えない。だから彼らは地獄はないと考える、あってもこの世だけの事と思っている。
〜続く〜

32末丁伽:2003/10/05(日) 13:38
〜続き〜
そういう夢想の人に言おう、「戦争はこの世に地獄があることを教える好テキストである」、と。この世にあることは、あの世にある。あの世の事を教えるために、この世に地獄の一部を用意されたのであろう。現世とは“うつしよ”とも読めるように、常世の国の「映し」即ち影なのである。この世は常世という永遠の国に対し「仮の即ち一時の世」である。だから、本格的な天国や地獄というのは、来世にある。だからこの世の地獄などたいした事はないのである。
神は天地自然を創造し、ここに自分即ち神の子であり自分の似姿でもある人を住まわせた。自然という場は神でない。何時でも破壊するもの、人の身体も同じで土器のように落とせば粉々に砕ける極めて脆(もろ)いもの。―――これが聖書の背景にある自然や人間の大前提である。ところが、この世は何時までも有るのが当然、生きておれて当り前、平和であって当り前、国があって当り前となれば、ナゼ、ものを壊すのか、ナゼ、死なねばならないのか、なぜ戦争を神が命じるのか、さっぱり分からない。
地獄を知らないものは天国が分からない。断食して初めて、食べる喜びと意味が分かる。戦争で初めて平和の意味が分かる。毎日が日曜日というのはイイナと子供の頃は想っていたが、失業の今では「毎日が日曜日」なので、とても苦しい。たまに休むので休みの価値があるとわかる。
最近、閉じこもる(自閉症ではなく)子供、いや大人が増えている。すべて親に依存して生活しているのだ。どうしても自立が出来ない。彼らはたいてい親に暴力を振るう、あまりに異常ですさまじいので、親の方が負ける。それで親が考える、「この暴力は、ストレスが原因である、だから、ストレスのない環境に置くべきだ」と。心の中の闘い、葛藤(かっとう)が問題であるので、「闘うべき敵を無くせ」というわけである。いつも最適の環境に置く、食事も好物のご馳走で、寝ても起きても、どこに出かけて自由気まま、こずかいも欲しいだけやる、という。まるで天国みたいだ。それで精神科医に相談すると、「それで良い」といい、「ストレスを抑え、神経の苛立(いらだ)ちを抑える薬を出して置きましょう」という事になる。
世の中に生きていく事は、もめ事や問題が絶えず目の前に現れ、行く手を塞ぐ、それを払いのける、即ち問題を解決し、処理するということのはずである。それをしないで済むよう親が環境を整える、すなわち平和を常に維持する、――その結果、何時しか息子は自立すると信じる(*注2)。この親が、また両親とも教師という、となれば、教師とは何か、日本の学校とは何か、考え直すしかない。
かように親に依存する息子、国や市に依存する(西成の)大人、他国(アメリカ)に依存する国(日本)にすべて共通する言葉は、平和である。それで思う「戦争がない」とは、何か?どうしょうもない人間や社会や国を造ったのではないか。

33末丁伽:2003/10/05(日) 13:38
善意が国を戦争に導く

また、この「地獄への道は善意の石で敷きつめられている」という言葉は、誠意や善意さえあれば、事は必ずうまくいくという考えでもある。しかしこれは危険で、こういう考えが逆に人をとんでもない不幸に導くのだ。
この類似の言葉に「至誠、天に通じる」があろう。「誠を尽くす」、即ち物事を善意で処置すれば、必ずうまくいく、という考えだ。ということは、逆も言えて、「うまくいかないのは善意や誠意が不足していたからなのだ」、となる。私は宗教家(?)なのに、こういう考えを真っ先に否定する。人の良心とか、善意や誠意とか、至誠などというものなど、そもそも信じない、そういうものが人々に如何にないか(私はいい加減な人間なので、人は私と同じと想うので)、至誠などありはしない――と思う。そういうものこそが、天国を造るどころか地獄を造るのだという説に大賛成である。
たとえば、昭和のはじめから20年にこの国を支配し、日本人だけで三百万人、他の国々では二千万人以上を死に追いやって、日本を滅ぼすほどの大戦争をする愚行を犯した帝国軍人は、極悪人だということに最近までなっていた。しかし彼らは実像は、マジメで善意に溢れる涙もろい優しい人であったのだ。だからこそ彼らは戦火で倒れた人々の無念や悲しみを思うと、戦争を辞めるという決断が出来ないでいたのだ。理性的で冷酷な人間であれば、非情な決断も出来るというものである。(軍隊は典型的な官僚組織であり、その共同体の仲間内では和を尊ぶ穏健な人格者が出世する。しかし、軍部という共同体の利益は多くの場合、国家の不利益になる。これらについては前に述べた。)。
「至誠、天に通じる」という考えをすぐ信じる人は、素直でよろしい。しかし、まだそういう至誠を尽くしたという体験がないとも言えよう。現実は、ナカナカ至誠が天に通じないのだ。
“至誠、天に通じる”と信じるから、「和をもって貴しとなす」という言葉が有難たがられている。これが「何事も話合えば分かってもらえる」という信念に繋がる。日本の諺にはこういう人の良心を心底信じる楽観的見方に根ざすものが多い。ということは、恐らく「徹底的に話し合う」という事がなかったということなのではないか。「徹底的に話し合えば、分かり合えるなぞというほど、人は甘くはない」と分かるからだ。そもそも日本語や日本人は議論が下手で、一方的にしゃべりまくるだけの「念仏か、祝詞か、イヌの遠吠え」におわる。書かれた文章にも、契約というような捕え方はなく、「お守りの護符か、魔よけのしるし」ぐらいにしか理解していない。
こういう人間の現実への楽観的な見方は、戦争についての楽観論にもそのまま現れる。日本人は何事にも考えが非常に甘いのである。
戦争は、天然自然の災害のごとく、ある日ある時ある所に突如としてぼっ発するものと錯覚を起こす。戦争は、膨大な人命と物量を巻き込みかねない高度の組織的大事業である。いとも、気軽にほんの思いつきで始めるような、おっちょこちょいの国があるはずがない。
現在でも、我が国がこの国際社会の中で威信を保ちながら生き延びることは、たいへんな事業なのだ。手放しの平和論では、国際社会で一目おかれる平和国家を建設することはできない。

34末丁伽:2003/10/05(日) 13:39
宗教が戦争の原因か

よく聞く言葉に「宗教は嫌いだ、特にキリスト教は、中世ではプロテスタントとカソリックがズーと戦争してきた。今も北アイルランドでは両者が戦っている。中東では、キリスト教徒とイスラム教徒が戦争している。どちらも自分の方が正しいと言いながら」
というのがある。
しかし本当に宗教だけが戦争の原因なのだろうか、
徳川家康がまだ岡崎の小領主にすぎなかったころ、領内で一向宗の反乱が起った。
すべての宗教的反乱と同じように、この時の反乱も大変に鎮圧が困難だった。その大きな理由の一つが、鎮圧に向った彼の家臣が、熱心な一向宗の信徒だったからだ。この家臣は、家康が戦さに来ると戦い、家庫が去ると戦いをやめてしまった。
こういうことが明らかになれば、死刑だ。(おそらく現代でも国によれば死刑であろう)。家康は激怒して彼のところへ来た。しかし彼は、自分の家来を処刑することは好まなかったので、最後のチャンスを与えようと思い、次のように言う。
「処刑か改宗か、どちらかを選べ」
家臣は平然として答える。
「改宗はしません。処刑を願います」
と彼は、首を差し出した。家康は刀を抜いて振り上げたが、何を思ったか刀を下ろして鞘におさめ、
「こんな頑固者は、処刑してもしようがない」
という。
その瞬間、この部下は彼の方をふりむき、突然、
「ただ今、改宗いたしました」
という。家康は驚き、
「お前は何というひねくれ者だ。処刑するといえば改宗しないといい、処刑をやめれば改宗するという、一体、どういうわけだ」
と聞く。すると、家臣は答えていう。
「命が惜しくて改宗したといわれることは「侍の意地」が許しません。だがこれで私は、たとえ改宗しても、命おしさに改宗したのでないことが明らかになりました。だから改宗します」と。
これは日本人の考える宗教や生き方を知るのに、非常に面白い事件だ。もし、仮りに彼が処刑されたとすれば、彼は一向宗の殉教者だ。 改宗を拒否して処刑されたのだから。だが事実は、「彼は侍の意地に殉教した」のであっても、「一向宗に殉教したのではない」。
日本以外の国では、宗教とは命そのものか、命を意味づける原理である。ところが日本では、命を支える手段でしかない。だから命を賭けるほどのものではない。
家康の家臣の本音レベルの宗教とは、「侍の意地そのもの」であって、一向宗ではない。
これは今の日本でも同じで、どの宗教も大本は同じで、「分け上る麓の道は多けれど 同じ高峰の月を見るかな」で、宗派にこだわるのは愚かである、まして「そんな宗旨のゆえに戦争などするとは、愚か極まりない」と、たいてい思う。それは宗教をあくまで「自分の命を賭けてでも守るべきそのもの」と見ているのではなく、それに至る一手段に過ぎないと見ているからなのである。
ところが、日本以外の国では、宗教とは、命以上のものと考えられている。神とは、一個人の命以上に価値あるものと考え、信じる。だから、その神のためには命を惜しまないとなる、ゆえに宗教が戦争となる場合がある。それは本音と本音がぶつかるからである。
〜続く〜

35末丁伽:2003/10/05(日) 13:39
〜続き〜
ところが日本では、宗教は命に等しいほどのものでもない。あるいは、それ以上の「命を捨ててでも守るべきほどのもの」ではない。生きる目的ではなく、それに至る手段の一つであるか、本音ではなく、建前なのだからである。
それだから日本人には、宗教のゆえに戦争までする民族や連中の気が知れないのである。
それに西欧社会では、人間の繋がりを宗教に求める。人間の連帯は宗教にある。だから、宗教により人を判断する。宗教が違えば、考えも習慣の生き方も違うからである。(日本人場合は、生まれ故郷や学歴で判断する。宗教や宗旨の相違で人がまとまったり、離れたりする訳ではない。)そんなわけで、戦争が起きた時、原因を宗教のように考えてしまう。
プロテスタントの信徒とカソリック教徒が戦争しはじめたと聞けば、それは宗教上の対立が原因のように考えてしまう。諸外国では、人間集団を区別する時はたいてい宗教で判断する。しかし当の人間は普通、他人が考えるほどには、宗教上の違いなど問題にしていない。関心は銭金(ぜにかね)なのだ。即ち争いの多くは、貧富の差という経済的な対立が原因である。
木谷勤教授は「世界の歴史8」〈中央文庫〉という本で、千万人以上の人命を奪いドイツを以後、二百年も低迷させた典型的な宗教戦争である三十年戦争について、次のように述べる。
「三十年戦争は表面、宗教戦争でありながら、その実、最も露骨な現世的利益の戦いであった。だれもが信仰のためといいながら、じつはだれもが領土、金、権勢を求めていることは、もうどんなぼんやり者の目にもかくせなかった。中世以来、君主の行動をいつも正当化してきた宗教や道徳の鍍金は、君主自身の行動によって完全に削がれ、物質的利益という地金が赤裸々に露(あら)われ出たわけである。―――こうして一七世紀にヨーロッパの国際政治は、信仰の違いや善悪ではなく、もっぱら現実的利益によって行動する国家群によって動かされるようになった」28P
古代から中世と、ローマ人やゲルマン人たちがキリスト教を受け入れたといっても、それがそれまでの原始宗教とどこが違うのか、分かるはずもない。そういう風だから、信仰や宗旨を変えても、宗教改革が起こったとしても、それまでの考えも生活も習慣も以前とそんなに変わるわけもない。だから建前で宗教的真理や正義が主張されても、本音や本心でそのための戦いなんてだれも考えはしない。
 日本人は個人や英雄のスキャンダルがとても好きである。木は見えても森が見えない。戦争はそういう個人の事柄より民族や国民全体の集団心理、集団の性向が問題なのである。 そうなると英雄や偉人という個人が戦争を導いたと当然、思う。
しかし、王も将軍も祭司も宗教も、その民族や集団のシンボルで、神輿に乗せられた操り人形でしかないという事が多い。そうなれば、王や将軍が民や国を戦争に導いたというより、民や国が王や将軍を戦争に駆り立ていったのである。そうなれば戦争が民や国をつくり、戦争自体が戦争を作っていったのではないか。また宗教が、民や国を戦争に導いたというより、戦争が民や国を作り、その国、民が、宗教を作っていった、――と私は普通の反対を考える。

36末丁伽:2003/10/05(日) 13:40
見えざる宗教国家日本

日本の識者の間では、日本は宗教的な国でない、日本人は宗教に無縁な民という考えが強い。そして,自分はそのような変な宗教の信者でない、正常な社会に生きる正常人,正しい判断をする正しい人即ち「偏らない中庸を得た普通人」と確信するものが多い。
しかしこの世に宗教と無縁な民族があろうか。何かの宗教的思想や信念を持たない人間という者が存在しえるだろうか。たしかに西欧世界のキリスト教や、アラブ世界のイスラム教のように、宗教がこの日本国やこの社会の中で大きな影響力を持っていない、と思われている。果たしてそうだろうか?次の文はかなり長文だが、引用させてもらう。
 菊地誠氏が「こころのうしろ側」というおもしろい随想を雑誌に記しておられる。次にその一部を引用させていただこう。「ホノルルの空港を発って少しした頃であった。右の〈アメリカ人の〉お婆さんが、
『貴方の宗教は何?』
と尋ねた。私は正直に、
『父は浄土宗という宗教を持っていたけど,私はどんな宗教にもそれほど深くかかわらない』と答えた。その途端、二人は猛然として私に喰らいついた。
『貴方、宗教が無くて、いったいどうやって子供を育てますか?』
私も反撃せざるを得なかった。
『子供は、宗教が無くてもりつばに育てられると思いますよ。ただ間違いをしないでください。まごころ誠実さといったものは、宗教だけにしか無いとは、私は思っていないのです』
 これはしかし、全くの平行線であった―」
 こういう体験をした人は、けっして少なくないであろう。またこれを裏返したような体験、すなわちその平生の仕事ぶりや生活態度を見て「あなたに宗教が無いはずはない」といわれて返事に困った人もいる。これは、中東協力センタ―の川田専務理事から、うかがった話だが、宗教を問われて、菊地氏と同じような返事をしたところ、そんなはずは絶対にないといわれたという興味深い体験である。
 その人は氏の助手で、イギリスに留学しイギリス人と結婚しているイスラム教徒であった。いわば国際社会をよく知っているインテリである。その入が川田専務理事の答を聞いて驚いて反問したことは、それならなぜあなたは、泥棒もせず、嘘もつかず、悪いこともせず、だれも見ていないのに日々誠実に働き、まじめな日常生活を送っているのか、ということであった。彼にとっては、宗教の無い人間がそのような状態でいるはずはないのである.。―――――省略―ーしかし、われわれの社会に規範がないわけでなく、場合によっては、彼らの宗教ないしは宗教法よりもっと厳しい規範があり、それゆえに、日本は世界で最も安全で秩序立っている国、近代化とともに犯罪が減少していくという不思議な国だということもいえるであろう。こういう状態を比較宗教学者のヴェルプロフスキー教授は「日本には見えざる宗教法がある」と分析している。これは「まごころや誠実さといったものは、宗教だけにしか無いとは、私は思っていない」という菊地氏の言葉と関連する。というのは「見えざる宗教法」とは「見えざる自分を支える原理」とも言い換え得るからである。
〜続く〜

37末丁伽:2003/10/05(日) 13:40
〜続き〜
 問題はこの「見えざる」という点にあるであろう。これは無自覚といいなおしてもいい。われわれは誰もが原理とその原理に基づく規範をもっており、大部分の日本人はけっして無規範とはいえないが、それが何に基づくかを自覚していないことは否定できない。これはたいへんにおもしろい特徴だが、同時にこのことは、自己の原理の自覚的な選択的把握ではないから、その意味では個人主義でないといえる。いわば、彼らのいう「宗教」すなわち自己を支える原理を、彼らは、何々教徒もしくは何々主義者という形で自覚的に把握しているが、われわれはそうではないということである。このことは、その原理を個人の決断によって意識的に破棄し、個人の選択によって別の原理を意識的に把握することがないということを意味している。
「あたりまえの研究」山本七平著 文春文庫11p−16p
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という三大経典宗教などの信者のいう「宗教」と日本人が考える宗教とでは意味がまるで違う。日本で宗教といえば、迷信くさい奇跡が売り物の新興宗教のようなものを連想する。習俗と化したような伝統宗教は、宗教とはあまり考えていないのである。
経典宗教の民が考える宗教とは、「こころのうしろ側」にあって、その人を支えている原理と、その原理に基づくその人の絶対的な規範を意味する言葉なのである。むろんそういうのが、「宗教」ならば、日本にもある。有り過ぎるほどある。ただそれを自覚していないだけである。
すなわち自己を支える原理を、彼らは、何々教徒もしくは何々主義者という形で自覚的に把握している。しかし、日本人はそうではない、ということである。
だから問題は、終わりの「その原理を個人の決断によって意識的に破棄し、個人の選択によって別の原理を意識的に把握することがない」という言葉にある。すなわち日本人は、日本に蔓延(はびこ)る擬似宗教から自由になれない、ということを意味する。
日本社会は非宗教的社会といわれるーーしかし、これは実は「宗教」という明確な分野が社会にない、あるいは宗教と非宗教の境界がないということではないのか。従ってあらゆる組織や対象がすでに極めて宗教的である(宗教とはいわないが、実質は宗教)か、宗教的狂信や法悦の世界の道となりうるということなのではないか。
国及びその機関の官庁から町内会に至るまで、あるいは大企業から零細企業、大学から幼稚園の教育機関から病院や警察に至るまで、あらゆる人の集まる所が極めて宗教的な迷信臭い社会なのではないか。日本は、ムラ社会という限り、ムラの宗教に呪縛されたアフリカやアマゾンの原住民と(基本的には)同じなのではないか。
となれば、日本というムラ社会あるいはムラ宗教の中にあって、皆が戦争に賛成なのに、反対するのは、非国民とされ、「私は戦争に行かない」等という行動を選べるはずもない。

38末丁伽:2003/10/05(日) 13:40
結論

 聖書を読めば、ある場合は絶対(どんな場合も)に戦争せよと言われ、ある場合は絶対に戦うなと言われる。絶対とはどんな時でもどんな場合でもどんな相手でもということであるから、どんな時でもどんな場合でもどんな相手でも戦争をしてはいけないというのは、神の教えではない。戦争を命じている個所があるからである。無抵抗主義も時と場合と相手による。どんな時でもどんな場合でもどんな相手でも戦争をしろというのも神のものではない。どんなの、どんなが違う。神が命じられると、戦争であれ、戦争をしないのであれ、命じられた通りすべきなのである。そもそも絶対なのは神とその言葉だけであって、「戦争の是非」が絶対なのではないのである
どんな時でもどんな場合でもどんな相手でも戦争をしてはいけないというのは、誤りなのである。
日本に巣くうオロチは、平和念仏教でもって、さも“日本を救うか”と思わせる。それは60年前の世界大戦でも唱導されていたものであって、300万人以上の死者を出す戦争になった結果をしても止められない狂信と化している。大蛇(おろち)(愚かな智恵)に憑かれたとしか思えない。
アリは、有事に備えなかったキリギリスが死ぬのを待ち、死ぬと食べた。同様にアメリカは、平和念仏を唱えて、本気で「有事に備えようとしない日本」を食べようと虎視眈々と狙っているに違いない。
※ 注1
 戦争の原因について個人レベルの問題や結果だけを探求していたのでは、本質を見失う。特定の個人や民族や宗教や秘密結社やテロ組織を槍玉にあげても解決にならない」なぜそ
ういう原因を作り出した連中や国々が生まれたのか――そこまで探ぐらなければ、真の問題解決にならない。戦争は人間の本性に根ざすもので、(本書全体で述べているように)
軍隊のような機能集団が家族のような共同体化する習性の為せるものと考える。逆に家庭のような共同体が官僚のような機能集団と化することでも起きる。 
※ 注2
 人生は苛烈な闘争であろう。その闘争の終わる時が、人生の終わりであろう。働くということはライバルとの競争であり、問題の解決はそれを阻もうとする相手との闘いであろう。健康な時は外との闘い、病気になれば、身体の内にひそむばい菌やウイルスとの闘いであろう。精神的に病むものが多い。その多くはストレスが原因だけではないようだ。
 闘いの相手を無くしたための無気力や生きるにすべて保障されたゆえに「何も心配がない」という結果生まれたとしか考えられない、憂鬱から来るのだと思われる鬱病がある。これは心の糖尿病ではないかと思う。
 闘争相手や問題を外部に持たないものは、心の内に闘う相手や問題を創るということなのだろう。日本という平和な世の中では、心の中で戦争している多くの人が増えている。

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転載終了

39○○番長:2003/10/05(日) 20:17
毎度。

『戦争の罪を問う』カール=ヤスパース
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582762565/ref%3Dnosim/inktomi-jp-asin-books-22/250-1394825-7229066

戦争や平和、政治に関する本を僕は殆ど読みませんが、この一冊は大変興味深い
本やと思いました。タイトルこそ『戦争の罪を問う』と、さも反戦平和派人士好み
ですが、中身はさにあらずと云った所でしょう。
歴史上類例のない犯罪行為を行ったドイツが、先の大戦後のヨーロッパを、如何に
言い逃れと詭弁を弄して生きていったかが分ります。ナチスを語るとき、
ヴァイツゼッカーを初めドイツの政治家は、基本的にヤスパースの論理に拠った
発言をします。ドイツ人全体に罪はなく、ナチス党員や一部のホロコースト実行者
のみに、罪があるのだと。

『民族全体の刑事犯罪を問うのは不合理である。刑事犯罪者は常に個人あるのみ
である。また民族全体を道徳的に弾劾するのも不合理である。民族の性格と
いうことはいうけれども、民族に属するすべての個人がこうした性格を持つと
いうことはない』
上掲書p61

『一つの民族の集団的な罪とか、世界諸民族の範囲内の一民族群の集団的な罪とか
いうものは、政治的に問われる責任以外には、刑事犯罪としても道徳的な罪と
しても形而上的な罪としても、存在しない。集団を有罪と断定するのは、
月なみの無批判な考え方が安易さと傲慢さとのためにともすればおちいりやすい
誤謬である』
上掲書p64

『なんぴとも道徳的な罪と形而上的な罪とについては、ある誰かが人間世界において
審判者の地位を占めることを承認するようなことはできることではない。愛に生き、
この上なく緊密に結ばれた人たちが審判者である場合は可能なことでも、隔たりを
置いて冷ややかな分析を行う場合には、してはならない。神の御前では妥当な
ことでも、それだからといって人間が審判者たる場合にも妥当だというわけには
いかない。神は地上に神を代表する法廷をもたない。教会に属する官職も、
諸国家の外務官庁も、言論を通じて示される世界の世論も、神を代表する法廷
ではない』
上掲書p65

40ヤスツ </b><font color=#800000>(RqRGbk8w)</font><b>:2003/10/06(月) 02:39
本棚の整理をしていたら、読了本と資料として買って未読の本が何冊かでてきました。

「簡単アウトドア料理555」

「昭和日常生活史(1)」(結局(1)しか出なかったけど、昭和元年から昭和20年の12月
までの新聞記事などから見る「日常生活」「風俗」についての歴史をたどれる、非常に
価値ある本です。角川選書ですがたぶんもう絶版)

「職人」(岩波新書から出た永六輔の本。職人さんの「一言」を集めた本なんですが、
じいちゃんに叱られてるような、思わぬところにサクッとくる一冊。タイトルは失念し
ましたが、職人に限らず一般人のそういう一言を集めた類似書(無言録だったかな)
を永六輔はもう1冊出してるのですが、そちらもおもしろいのでオススメです)

「戦中用語集」(そろそろその姿がこの世から消えつつある戦中派が、「普段の言葉」
として使っていた戦中用語について説明を加えた本。岩波新書です)

「江戸売り声百景」(宮田章司による、棒手振りなどの売り声を紹介した本。内容・
分量は前述の「江戸商売図絵」に負けますが、8センチCDが付いてまして、宮田
師匠による売り声ライブの音源を実際に聞くことができます。CD聞きながらの通読
をオススメ)

41(;´д`):2003/10/06(月) 19:39
ども。
みなさん面白そうなもの読んでますねぇ。おいらはイッパンジンなのでフツーにフツーの本しか読みません。(笑)

現在『韓国けったい本の世界・韓日戦争勃発!?』という本を読んでます。
文芸春秋社から\1700くらいです。
まず本の紹介をしてストーリーのダイジェスト、次に解説と言う順番です。
内容はと言うとハングル板住人なら一度は浴びたことのある電波がてんこ盛りです。(笑)
著者が冷静にツッコミを入れていて笑えますが一気に読むと具合が悪くなります。

電波の浴びすぎには注意しましょう。

あと『20世紀少年』1〜14巻を古本屋で買ってきました。
これから読みます。

仮面ライダースピリットはその時代の人じゃないんですけど面白いですね。

まだ京極夏彦の『陰摩羅鬼の瑕』も半分しか読んでないし『笑う伊衛門』も20Pくらいしか読んでないんだけどなぁ。(笑)
あ。銀河英雄伝説も読み直してるんだけど5巻で止まっちゃってるな。つか読むのもメンドクセェっす。

42ヤスツ </b><font color=#800000>(RqRGbk8w)</font><b>:2003/10/12(日) 07:30
今週の国際派日本人養成講座は、
「ランドパワー(大陸国家)とシーパワー(海洋国家)」でした。
以下、一部抜粋。
----------------

■1.ランドパワー(大陸国家)とシーパワー(海洋国家)■

 世界の国々はランドパワー(大陸国家)とシーパワー(海洋
国家)に大別できる。この視点から地球史を眺めてみると、今
まで見えなかった側面が浮かんでくる。

 たとえば、米ソ冷戦は資本主義と共産主義の対立ではなく、
ユーラシア大陸のほとんどを占めた史上最大のランドパワー・
ソ連と、世界の貿易を支配するシーパワー・アメリカの対決だ
った。その最前線がユーラシア大陸のリムランド(外縁部)で
ある。リムランドはランドパワーとシーパワーが対峙する最前
線。東西ヨーロッパ、南北ベトナム、北朝鮮・韓国の間で冷戦
や熱戦が展開され、さらにその外側では、日本やイギリスがシ
ーパワー・アメリカの補給基地となった。アメリカの「封じ込
め政策」とは、まさにソ連をユーラシア大陸に封じ込めること
を狙いとしていた。

 ソ連が崩壊すると新たなランドパワーとして台頭してきたの
が、中国、イラク・イランなどのイスラム勢力、さらに独仏を
中核とするEUである。アメリカはイギリス、日本、台湾、オ
ーストラリアなどのシーパワー諸国を率いて対抗しようとする。

 今後の外交や防衛戦略を考える上で、シーパワー対ランドパ
ワーという視点は、西洋と東洋、ヨーロッパとアジアなどの地
理的区分よりは、より深い意味を持つと考えられる。この視点
から地球史を捉え直し、今後の我が国の進むべき道を説いたの
が、江田島孔明氏の「環太平洋連合」である。[1]

■2.それぞれの性格■

 ランドパワー(大陸国家)の代表は、古代ペルシャや元、近
代ではナチス・ドイツ、ソビエト・ロシア、中国の華北政権
(清、中華人民共和国)などである。主に大陸内部や半島部を
故郷とし、海から切り離された過酷な自然環境の中で、異民族
との生存競争を戦い抜く過程で、内には土着的、閉鎖的、専制
的となり、外には狡猾、残忍、獰猛さを身につけた。ユダヤ人
ホロコースト、ロシア革命、文化大革命など、歴史上の大流血
事件はランドパワーが引き起こしている。共産主義国はほとん
どがランドパワーである。

 ランドパワーは土地に執着し、さらに遮るもののない陸上で
他民族から身を守るために、少しでも国境線を遠くに広げよう
とする生存本能を持つ。そのために侵略的になりやすい。

 シーパワー(海洋国家)は、大陸の外縁部、島嶼部を生存圏
とし、土地所有よりも交易を重視する。古代ギリシャ、中国の
華中・華南政権(宋、明)、ベネツィア[a]、近代のオランダ
[b]、イギリス、アメリカなどがその代表である。海上交易を
生業とする所から、開明的、先進的、合理的、かつ自由主義・
個人主義的な性格を身につけている。交易は相互依存関係であ
るから、外交においても協調・同盟関係を志向する。ただしシ
ーパワー同士で海上の覇権を争うこともある。資本主義国は、
ほとんどがシーパワーである。


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