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反戦議論のための本棚〜最近の購入本/読了本は?
28
:
末丁伽
:2003/10/05(日) 13:36
全体と部分の矛盾
これまで、私はかなり官僚役人の悪口を言ったようだ。しかし公人として、組織の内にある時は、問題を起こすことになってしまう存在でも、私人としての各個人は、国のことを思い働く温厚で立派な人たちなのである。しかしそれがひとたび組織の公人として集団で働く者になれば、ネコがトラになるように豹変するのである。各局の利益が各省の利益にならず、各省の利益が必ずしも国益にならない。
全体と部分、組織の一員としての個人と、組織そのものとは、まるで違う。公人として立派でも私人として問題という事もある。これと同じように、国は単に国民各人の集合ではない。
それなのに、平和主義者は、いくつか奇妙な信念を前提にモノを考える。
デュルケム以来の社会学の基本的命題に「国家とは、単なる個人の集合体ではない。ということは、個人の信念の算術的合計は、国家の政策とはなりえない」というのがある。
各個人はみんな、めいめいの私利私欲の追及という悪徳の発揮にのみ思いがあって、社会全体のことなど少しも考えない。それなのに、市場機構における予定調和の鉄則は結果として最大多数の最大幸福という美徳が達成される。個人における悪徳の追及は、結果として全体としての最大多数の最大幸福という美徳を達成してしまうことになる(マンデヴィルの背理)。
逆に、個人が自分自身を富ませるために貯蓄をする。消費をそれだけ手控える、そういう消費が減るということは、有効需要がそれだけ減る。消費が減ったぶんの何倍かだけ国民総生産すなわち国民所得が減る。社会全体が貧しくなってしまうわけだ(ケインズの背理)。
こういう例に見られるように、個人と社会との間の並行主義は、かならずしも、成立しない。個人の信念の合計は、かならずしも国家の意志とはなりえない。かならずしも国際社会の意向ともなりえない。
難しく考えなくても、事実、前世界大戦で、出兵していく息子に親は「お国のために立派に闘い死んで来い」と表向きは言ったという。しかし本音は逆で「生きて帰って来い、絶対死ぬな」であったろう。戦争など誰も望んではいなかった。それなのに戦争した。息子は死んで欲しくない、そう願った。しかし大勢死んでしまった。
このように個人の願いと国のする事とは、必ずしも合わない。もちろん平和をみんなが願っても平和にならないというのが現実だ。
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