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反戦議論のための本棚〜最近の購入本/読了本は?

37末丁伽:2003/10/05(日) 13:40
〜続き〜
 問題はこの「見えざる」という点にあるであろう。これは無自覚といいなおしてもいい。われわれは誰もが原理とその原理に基づく規範をもっており、大部分の日本人はけっして無規範とはいえないが、それが何に基づくかを自覚していないことは否定できない。これはたいへんにおもしろい特徴だが、同時にこのことは、自己の原理の自覚的な選択的把握ではないから、その意味では個人主義でないといえる。いわば、彼らのいう「宗教」すなわち自己を支える原理を、彼らは、何々教徒もしくは何々主義者という形で自覚的に把握しているが、われわれはそうではないということである。このことは、その原理を個人の決断によって意識的に破棄し、個人の選択によって別の原理を意識的に把握することがないということを意味している。
「あたりまえの研究」山本七平著 文春文庫11p−16p
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という三大経典宗教などの信者のいう「宗教」と日本人が考える宗教とでは意味がまるで違う。日本で宗教といえば、迷信くさい奇跡が売り物の新興宗教のようなものを連想する。習俗と化したような伝統宗教は、宗教とはあまり考えていないのである。
経典宗教の民が考える宗教とは、「こころのうしろ側」にあって、その人を支えている原理と、その原理に基づくその人の絶対的な規範を意味する言葉なのである。むろんそういうのが、「宗教」ならば、日本にもある。有り過ぎるほどある。ただそれを自覚していないだけである。
すなわち自己を支える原理を、彼らは、何々教徒もしくは何々主義者という形で自覚的に把握している。しかし、日本人はそうではない、ということである。
だから問題は、終わりの「その原理を個人の決断によって意識的に破棄し、個人の選択によって別の原理を意識的に把握することがない」という言葉にある。すなわち日本人は、日本に蔓延(はびこ)る擬似宗教から自由になれない、ということを意味する。
日本社会は非宗教的社会といわれるーーしかし、これは実は「宗教」という明確な分野が社会にない、あるいは宗教と非宗教の境界がないということではないのか。従ってあらゆる組織や対象がすでに極めて宗教的である(宗教とはいわないが、実質は宗教)か、宗教的狂信や法悦の世界の道となりうるということなのではないか。
国及びその機関の官庁から町内会に至るまで、あるいは大企業から零細企業、大学から幼稚園の教育機関から病院や警察に至るまで、あらゆる人の集まる所が極めて宗教的な迷信臭い社会なのではないか。日本は、ムラ社会という限り、ムラの宗教に呪縛されたアフリカやアマゾンの原住民と(基本的には)同じなのではないか。
となれば、日本というムラ社会あるいはムラ宗教の中にあって、皆が戦争に賛成なのに、反対するのは、非国民とされ、「私は戦争に行かない」等という行動を選べるはずもない。


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