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近現代史綜合スレ

1とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

1130とはずがたり:2018/07/18(水) 12:09:06
韓国元慰安婦支援団体「挺対協」が「正義連」に名称変更
https://www.asahi.com/articles/ASL7J6WS7L7JUHBI033.html?ref=goonews
ソウル=武田肇2018年7月16日21時30分

 韓国の元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」(挺対協)は16日、組織改編を行い、新たに「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)の名称で活動に取り組むと明らかにした。挺対協は韓国で最大の元慰安婦支援団体。名称変更は1990年の発足以来初めて。

 発表によると、挺対協は、2015年の日韓慰安婦合意に対抗し、元慰安婦を対象に独自に福祉事業を行うために設立された「正義記憶財団」と組織統合する。

 今後は、①戦時性暴力の再発防止②日本軍慰安婦問題に関する調査・研究▽次世代に歴史を継承する活動に力点をおくという。理事長には尹美香(ユンミヒャン)挺対協常任代表が就いた。

 挺対協は元慰安婦の証言集の出版や生活支援を手がけ、ソウルの日本大使館周辺で毎週水曜日、日本に謝罪と賠償を求める「水曜デモ」を主宰している。11年には同大使館前に設置した「少女像」が日韓の外交問題となった。また最近はベトナム戦争での韓国兵による性暴力や、アフリカ・コンゴ紛争での性暴力の被害者も支援している。(ソウル=武田肇)

1131とはずがたり:2018/07/20(金) 18:45:27

大西洋は「大」、太平洋は「太」になった“本当の理由”
https://excite.co.jp/News/it_g/20180720/Itmedia_nl_20180719089.html
ねとらぼ 2018年7月20日 11時00分

「タイセイヨウ」「タイヘイヨウ」と音が似ているのもあって、ややこしい。

 ヨーロッパ、アメリカのあいだに位置する海は「『大』西洋」。アメリカ、アジアのあいだにあるのは「『太』平洋」。よく似ていますが、後者は「大」に点が入ります。テストでうっかり間違ってしまった経験がある人も多いのでは?

 この違いについて「太平洋は『Pacific Ocean』を翻訳したもの。Pacificには平和、太平という意味があるから『太』と書く」などと説明されることがありますが、これは誤りなんだとか。一体、どういうことなんです?

●大西洋は「大」、太平洋は「太」になった“本当の理由”

 16世紀、史上初の世界一周に成功したとされるマゼランは、ある大洋をラテン語で『Mare Pacificum(平穏な海)』と命名。この英語訳が「Pacific Ocean」で、日本語訳は「太平洋」――。このような説明は辞典などにも掲載されているものの、岩手大学名誉教授・米地文夫氏によると“短絡的な理解”とのこと。

 同氏の解説をざっくりまとめると「そもそも太平洋にはさまざまな呼称や書き方があり、スムーズに定着したわけではない」というものになります。

 例えば、イタリア人宣教師マテオ・リッチが17世紀初頭に作成した「坤輿万国全図」(こんよばんこくぜんず)では、太平洋がいくつかに分けられ、以下のような呼称が使われているとのこと。

・大東洋

・墨瓦蝋泥海

・寧海

 この他にも「東海」「東洋海」「大日本海」などさまざまな名前があり、太平洋という表現が初めて使われたのは、マゼランの航海から約300年後のこと。…

イギリス人宣教師が手掛けた「地理全誌」(1853〜1854年)に見られるそうです。しかし、ややこしいことに、その著者自身は点が入らない「『大』平洋」を用いているといいます。

※Pacific Oceanには「Grand Ocean」という呼び方も存在。米地文夫氏は、両者を合わせた「Grand Pacific Ocean」の訳として『大』平洋が採用されたとしている。

 また、明治初期の日本でも「『大』平洋」という書き方が見られ、「大」「太」のどちらも使われていたとか。この表現の混在は1903年、国定教科書に「『太』平洋」と記載されたことで収まったとのこと。

 つまり、歴史をさかのぼると「『太』平洋」「『大』平洋」はともに間違いではなかったというわけ。元も子もない話になってしまいますが、その片方「『太』平洋」だけが正解とされるようになった理由は「教科書にそう書いてあるから」ということができそうです。

●主要参考文献

・太平洋は当初「大平洋」であった ?(季刊地理学/米地文夫氏)

・How the oceans got their names(OxfordWords blog)

1132名無しさん:2018/08/12(日) 23:21:43
http://jyouhouya3.net/2013/07/_1950.html

2013/07/05
[貴重画像] ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

共有ツイートピンメールロシアのフォーラムで紹介されていた1950年代の日本の画像。撮影したのは旧軍パイロットのアメリカ人。日本に訪問した際に撮影したものです。似たような画像で、元米軍の方が、撮影した、昭和40年頃の自衛隊駐屯地の画像を見たことがありますが、日本のこういった画像は海外の方が持ってる場合もあるんだなぁと実感させられます。今回紹介する画像は、カラー写真で写りも綺麗です。
[貴重画像] ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

1133とはずがたり:2018/08/14(火) 13:43:29
平和教育に赤信号 沖縄県・ひめゆり資料館の来館者はほぼ観光客
2017年6月19日 07:55
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/103431

 沖縄戦の記録や証言などを展示している糸満市の沖縄県平和祈念資料館とひめゆり平和祈念資料館の県内の入館者数が低迷している。県資料館の2016年度の県内有料観覧者数(無料の学校団体除く)は7963人で、開業翌年の01年度と比べて8割減少。ひめゆりでは県内の利用状況が分かる小中高校の来校数が、ピークだった1995年度の140校から2016年度は72校と、ほぼ半減した。終戦から72年を迎え、沖縄戦の証言者が年々少なくなる中、施設関係者は「平和学習も含め、県民の関心の薄れを感じる」と危機感を抱いている。(学芸部・座安あきの)

 観光客を含めた全体の入館者総数も減少傾向。県資料館の16年度の入館者は37万2502人で10年前の06年度に比べて17%減。ひめゆりは同比約36%減の57万9865人となり、初めて60万人を割り込んだ。来館者のほとんどを観光客が占める。国内は減少傾向にあるが数年前から海外が増加し、県資料館の担当者は「全体的には下げ止まりつつある」と話す。

 一方、県内の入館者数は依然低迷が続く。県資料館の県内(有料)は開館効果があった00年度の約11万人を除くと、01年度の4万3820人が最多。08年度からは1万人を下回る。有料観覧者に占める県内の割合は05年度まで10%前後だったが、08年度以降は2%台で推移。県内小中高校の利用も00年度の368校(3万1947人)から、16年度は224校(1万8982人)に減った。

 県資料館は開館当初から、ひめゆりは08年度から県内の学校団体の入館料を無料にしているが、入館者の増加にはつながっていないという。識者や関係者は、県内客が低迷する要因の一つに、学校現場での平和教育の取り組みに課題があるとみている。

 平和祈念資料館学芸班長で、中学校で社会科を教えていた古謝将史さんは「県内の学校現場はここ数年、学力向上に力を入れ、校外学習行事を減らす傾向がある。一方で地域の身近な戦跡を活用した学習を進める学校も出始めている」と話す。「沖縄戦の体験者が少なくなる分、記憶を残す『場所』が一層重要になる。教育現場でも『場所』を活用し、共感する場面をどうつくるか、考えていく必要がある」と指摘した。

1134とはずがたり:2018/08/21(火) 12:37:42
正統史観年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-565.html

「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判

産経ニュース 2011.12.7 22:41
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n2.htm

ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874〜1964年)が、
日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の
大統領だったフランクリン・ルーズベルト
(第32代、1882〜1945年)について、
「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った
『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

1135とはずがたり:2018/08/23(木) 19:48:00
昭和天皇、戦争責任で苦悩=晩年の姿、元侍従が日記に
https://www.excite.co.jp/News/society_g/20180823/Jiji_20180823X137.html
時事通信社 2018年8月23日 16時35分



 昭和天皇が85歳だった1987年4月、太平洋戦争の責任をめぐり苦悩する姿を、元侍従の小林忍氏(故人)が日記に書き残していたことが23日分かった。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記されていた。

 小林氏は人事院出身で、74年4月に昭和天皇の侍従に就任。89年1月の昭和天皇逝去後も香淳皇后に仕え、2001年6月に皇太后宮職御用掛で退任した。06年7月に83歳で死去した。

 日記は74年から香淳皇后が逝去した00年まで27冊あり、家族が保管。共同通信を通じて、23日公開した。85歳だった昭和天皇が戦争責任を気に掛けていたとの内容は87年4月7日の欄に「昨夕のこと」として記述。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減を検討しており、同年2月には弟の高松宮が逝去した。

 これに対し、小林氏は「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と述べたと記している。

 75年11月24日の欄には、同22日の侍従長の話として、「訪米、帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、自信を失っておられる」と記述。訪米後の75年10月の記者会見で原爆投下や戦争責任についての発言が波紋を呼んでいた。「お上の素朴な御行動が反(かえ)ってアメリカの世論を驚異的にもりあげたことなど申しあげ、自信をもって行動なさるべきことを申し上げたところ、涙をお流しになっておききになっていた」と記している。 



Read more: https://www.excite.co.jp/News/society_g/20180823/Jiji_20180823X137.html#ixzz5OzsyonXa

1136とはずがたり:2018/09/02(日) 09:56:02

会津藩士への弔辞見つかる
汚名返上の思い伝わる史料
https://this.kiji.is/408526774184477793
2018/9/1 16:38
c一般社団法人共同通信社

 150年前の戊辰戦争で犠牲になった会津藩士の家族らが、戦争から22年後に移住先の青森県で営んだ法要で読み上げたとみられる弔辞6通が、仙台市の藩士子孫宅から見つかった。専門家は「朝敵の汚名を着せられ、一刻も早く名誉を回復したい会津出身者の思いが伝わる貴重な史料だ」としている。

 弔辞は仙台市の小池純一さん(70)が自宅で発見した。1890年5月、円通寺(青森県むつ市)で開かれた二十三回忌で男女6人が読んだとみられる。

 「弾丸を援軍のない城に受けたが、盾を布団に、矛を枕にして国のために戦死した」「諸君の忠義は世の中の称賛を浴びるだろう」などとつづられていた。

1137とはずがたり:2018/09/02(日) 09:59:43
1918年米騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95

騒動の広がり
第一次世界大戦による好景気がまだ続いていた1918年(大正7年)に伊勢の福寅一派の相場師の買いあおりにより米穀取引所における期米相場は遂に50円(1石当たり)に迫り、小売価格も1升30銭から50銭を超すに至り世の中は物情騒然となった[17]。

米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年(大正7年)8月1日には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)とのねつ造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。

東京市では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた[18]。しかし、8月10日に宮武外骨を発起人として山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による野外演説会を日比谷公園で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにも関わらず当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた[18]。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている[18]。東京市での暴動は、他の地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった[18]。

こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日頃からは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、9月12日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。

炭坑への飛び火
8月17日以降には、米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県峰地炭坑などにおいて、炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ち毀しや遊郭への放火などが起こった。出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど(陸軍のねつ造)、死者13名を数える惨事となった。陸軍が発砲理由とした坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は、陸軍が発砲を正当化するためにねつ造したコメントを、『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付)などが取材なしに記事化したことにより流布された可能性が高い[19]。

1138とはずがたり:2018/09/02(日) 09:59:59
>>1137
騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間に渡る一連の騒動は最終的に、1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された[20]。呉市では、海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙する中、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴[21]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。

被差別部落との関わり
米騒動での刑事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった[22]。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている[23]。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。

1920年(大正9年)、事態を重く見た原内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。

軍人の参加、警官による暴動への加担
呉市では、水兵が騒動に参加して検挙された。また、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。

政府対応
政府は8月13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出する事を発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。

平民宰相の誕生
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。

寺内は体調不良もあり8月31日に山縣有朋に辞意を告げ、9月21日に正式に辞表を提出した。

山縣は西園寺公望に組閣を命じたが、西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして9月27日に原に組閣が命じられ、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。

爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。

1140荷主研究者:2018/09/02(日) 22:14:57

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/218167?rct=n_hokkaido
2018年08/14 16:57 北海道新聞
検体求め倫理を逸脱? 北大教授、旧満州で人体実験か

 戦時下、北海道帝国大教授が軍の協力を得て、被験者の同意を得ずに人体を使った実験を行っていたことが明らかになった。背景には当時の外地の国民に対する人権意識の低さがあるが、近年、民生分野にも活用できる「デュアルユース(軍民両用)」の研究の是非が議論になる中、軍事と科学技術の距離は今も問われている。

 「この材料からどういふ方法で睾丸(こうがん)をとり出して薬品処理したかといふ事ですが(中略)相当重大な問題でもあり(中略)口を緘(とざ)して置きます」

 中国人から摘出した睾丸で染色体を観察する研究を行った北海道帝国大教授の小熊捍(おぐままもる)氏は、1939年の講演でこう述べ、手法の詳細への言及を避けた。当時は、医学研究について被験者の同意が不可欠とする国際倫理指針「ニュルンベルク綱領」が作られる前だが、小熊氏に非倫理的な人体実験との自覚があったことをうかがわせた。

 旧満州(現中国東北地方)では、関東軍防疫給水部本部(通称・731部隊)が36〜45年、生物兵器開発などのため中国人らに対する人体実験を繰り返した。犠牲者は2千〜3千人に上るとされる。

 31年の満州事変以降、日本の占領政策に抵抗する武装勢力による襲撃が相次いだ。戦時下の人体実験に詳しい神奈川大の常石(つねいし)敬一名誉教授(科学史)は当時の時代背景について「抗日運動に対する憎しみが日本で高まり、殺してもいいという考えが広がった」と語る。

 731部隊の上位部隊・関東軍の元参謀副長だった旧日本陸軍大将は回顧録で「某国立大学の外科教授が来訪し、匪賊(ひぞく)処分の機会を与えてくれと頼まれた」と振り返った。常石名誉教授は「満州は人体実験など『国内ではできない研究』ができるとされ、多くの研究者が訪れた。小熊氏も検体が欲しいあまり、非倫理的な手段をとったのだろう。資料を読む限り被験者の同意はなく、戦時とはいえ生命倫理に反する研究だった」と話す。

 見返りに軍は大学から優秀な人材を送ってもらえる利点があり、時流に乗って軍と科学者が互いに利用し合っていた構図が浮かぶ。

 各分野の科学者でつくる日本学術会議は2016年、軍事的な研究を行わないとする声明の見直しを議論。結局、昨年3月に従来の声明を継承することを決めたが、研究者の間には「自衛のための研究は許される」「基礎研究の段階では軍民の区別はない」などの声もある。戦後、科学者が一線を引いてきた軍事と科学技術の関わりは、転換点を迎えている。

 小熊氏について調べている北大大学院の川本思心(ししん)准教授(科学技術社会論)は「小熊氏の研究は軍事応用ではなく基礎的研究だが、社会環境によって研究者の良識のたがが外れ得ることを示している」と指摘。「重要なのは資金源だけでなく、研究結果がどう利用されるか。今の研究者も望んだ研究ができる環境になったとき、一線を越えないか深く考えるべきだ」と警鐘を鳴らす。(吉田隆久)

1141荷主研究者:2018/09/02(日) 22:20:54

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180814_13029.html
2018年08月14日火曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(上)勤労の日々/貴重な青春、無為に消費

火薬廠で働いていた当時の笠松さん(手前左)=1945年4月ごろ

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 大河原町の市場貞子(ていこ)さん(89)が火薬廠に動員されたのは1944年11月。旧白石高等女学校に通う15歳だった。

 「女の自分でも国のために働ける」。動員が決まった時は、不安よりも喜びが勝った。

 工場に入ると、身なりは一変する。セーラー服から作業着、スカートからもんぺ。頭には日の丸の鉢巻きを結んだ。

 寮の起床時間は午前5時。シューマンの「トロイメライ」が流れると、急いで身支度を整えた。

 食事は白米にサツマイモの葉を混ぜてかさを増やした「糧飯(かてめし)」やかゆ。粗末なものばかりだった。

 火薬廠の入り口に着くと、班長の市場さんが「白石高女隊100人入ります」と守衛に敬礼。履き慣れない地下足袋で「丘にはためく あの日の丸を…」と軍歌を歌いながら歩いた。

 敷地は530万平方メートルと広大で、入り口から持ち場まで歩いて1時間近くかかった。

 機銃火薬を定規に合わせて切断するのが市場さんの仕事。火薬はプレス機械で圧縮され、うどんのように落ちてきた。仕事は12時間勤務で夜勤もあった。

 45年3月に女学校を卒業するまで、火薬廠で働き続けた。「10代半ばの少女にとっては大変な重労働だった」と振り返る。

 火薬を取り扱うだけに仕事は危険を伴った。やけどを負ったり、機械で指を切断したりする人がいたという。

 中には命を落とす学徒もいた。旧角田中の男子生徒が作業中、機械の歯車にマントを引き込まれ、頭を強く打って亡くなる事故があった。

 「戦争で勝つにはみんなが働かなくちゃいけない」。旧大河原高等女学校から火薬廠に動員された笠松ヤエ子さん(88)=仙台市=は当時、自分の置かれた状況を当然のことと捉えた。

 終戦から時間がたつにつれ、考えが改まる。「二度と来ない青春を無為に消費させられた」。そんなやりきれなさを感じるようになった。

 一方で「女学校時代から学徒動員を取ったら何も残らない」とも思う。同級会の話題は火薬廠ばかり。当時歌った軍歌を合唱したり、習った手旗信号をしたりして昔を懐かしむ。

 貴重な学業の時間を戦争によって奪われた学徒たち。理不尽な目に遭いながらも、類を見ない経験を共にして互いの絆を強めた。

[メモ]第一海軍火薬廠は1939年、現在の柴田町船岡地区と角田市北郷地区に海軍火薬支廠として開庁し、41年に改称。機銃火薬や爆弾用爆薬の補充、供給のほか、東北開発が開設目的だった。太平洋戦争末期には学徒を含め毎日1万人が働き、終戦まで操業を続けた。

1142荷主研究者:2018/09/02(日) 22:21:31

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180815_13009.html
2018年08月15日水曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(中)戦火の中で/「敵機近づけぬ」神話も

陸上自衛隊船岡駐屯地に残る第一海軍火薬廠時代の防空壕。現在は立ち入り禁止となっている=柴田町

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 太平洋戦争末期、第一海軍火薬廠(しょう)(宮城県柴田町、角田市)の動員学徒らの間で一つの「安全神話」がささやかれていた。

 「蔵王連峰の影響で起きる乱気流のため、火薬廠に敵機が近づけない。阿武隈川から立ち上る霧で下界も見えない」

 実際には、多くの米軍機が火薬廠の上空を飛んでおり、単なるうわさ話にすぎなかった。

 話の信ぴょう性を高める事故が起こった。1945年3月10日未明。蔵王連峰の不忘山で、3機の米爆撃機B29が相次いで墜落した。

 旧白石中から火薬廠に動員された阿部雄次さん(89)=白石市=は「B29が落ちたぞ」と聞き、寮から蔵王連峰を眺めた。「確かに山が燃えていた」と振り返る。

 動員学徒は皆が皆、火薬の製造ラインに配置されたわけではない。阿部さんは防空壕(ごう)の掘削に汗を流した。「ただ国が勝つことだけを信じて働いた」と言う。

 動員学徒が火薬廠時代を追想した冊子「戦争の頃の思い出」では、旧角田中の卒業生が「火薬を作りながら、竹やりの訓練も受けた」とつづる。

 指導官は「隠れていて敵が来たら、一突きすればいい。一人一殺だ」と厳命。「アメリカが来たら、女は強姦(ごうかん)され、男は睾丸(こうがん)を抜かれる」とも語ったという。

 空襲警報が鳴ると、学徒たちは敷地内のあちこちにある防空壕に駆け込んだ。「暑いし、蚊が多いし、気持ちのいい場所ではなかった」と思い起こすのは、旧黒沢尻高等女学校(北上市)から来ていた小原崇(たか)さん(89)=北上市=だ。

 B29が火薬廠の上空に飛来することもしばしば。威嚇のためか、地上数メートルの高さまで急降下することがあった。「パイロットのゴーグルまではっきり見えた。おっかない顔だと感じた記憶がある」

 45年7月10日には、火薬廠周辺から仙台空襲の光景が見えた。空が真っ赤に染まっていたことだけが脳裏に焼き付いている。

 B29や仙台空襲を目の当たりにしても、不思議と怖さは感じなかった。「当時の自分たちには兵隊さんと同じような覚悟があったのかもしれない」と振り返る。

 結局、火薬廠は爆撃を受けずに終戦を迎える。大規模な軍需工場が標的にならなかった理由は不明だ。いずれにしても「安全神話」のおかげではないだろう。

 学徒たちの覚悟は幸いにも、空振りに終わった。

[メモ]1941年12月に太平洋戦争が開戦し、国は43年6月、労働力を補うため学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定。44年3月には動員の通年実施を決めた。同8月には学徒勤労令が発布され、第一海軍火薬廠にも学徒が逐次動員された。

1143荷主研究者:2018/09/02(日) 22:22:09

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180816_13012.html
2018年08月16日木曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(下)迎えた終戦/放心 絶望 交錯した感情

終戦直後、動員学徒が仲間からノートに寄せてもらったサインやメッセージ

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 1945年8月15日。今年の夏のように、うだるような暑さだった。

 正午、第一海軍火薬廠(宮城県柴田町、角田市)の工員が広場に集まった。旧黒沢尻高等女学校(北上市)から動員された佐々木静子さん(88)=北上市=もその一人だ。

 ラジオからの玉音放送は雑音も多く、よく聞こえなかった。「日本は戦争に負けた」。誰かがそう言うと、周りは一気に騒がしくなった。泣きだす人もいた。

 動員された旧制二高(現東北大)の学生は「慚愧(ざんき)、慚愧」と悔しがり、地面に拳をたたきつけた。

 一般の工員の一人は、やり場のない怒りを抑えられず、工場の椅子を倒し、そばにあった物を放り投げた。

 佐々木さんは「今まで頑張ったのは何だったのか」と放心状態になった。「戦争に負けたら男も女も奴隷として連れて行かれる」。そんなことを聞いていただけに絶望感にも襲われた。

 午後になると、動員学徒たちが再び広場に出てきた。旧制二高の学生は「日本は確かに戦争に負けた。だが、民族の誇りを失わず、国の再建のために頑張ろう」と年下の学徒たちを鼓舞した。

 「私は朝鮮で生まれ、幼い頃に日本に来た」。旧制中学のある生徒が立ち上がり、告白した。「日本が敗戦国となり、朝鮮に帰ることになる。けれど、日本国民だったことを忘れず、再建に力を尽くしたい」。声を詰まらせながら訴えた。

 佐々木さんは生徒の心情を思い、胸が苦しくなった。涙と汗でハンカチがぐっしょりとぬれた。

 敵機が上空を飛び交うごう音は、もう聞こえない。ジー、ジー、ジー。セミの鳴き声が久しぶりに耳に響いた。

 終戦により、数日で片付けを済ませ、古里に帰ることになった。動員学徒の仲間たちとの別れを惜しみ、佐々木さんら女学生たちはそれぞれ、ノートにサインを求めて回った。

 「作業中に明るい声で笑っていたね」。言葉を交わしたことのない二高生からこんなメッセージを贈られ、驚くような恥ずかしいような気分も味わった。

 「あの朝鮮出身の生徒は母国に帰った後、日本に戻ろうとし、スパイ容疑で処刑された」。後に風のうわさでそんなことを聞いた。

 火薬廠を離れてから73年。「さまざまな感情が押し寄せたあの日のことを忘れることはできない」。今年も終戦記念日を迎え、胸がざわめいた。

[メ モ]終戦後の1945年9月、米軍が第一海軍火薬廠に進駐。同11月に火薬廠が閉庁した後、米軍が敷地や建物を接収した。58年3月、火薬廠の接収を解除し、日本政府に返還。跡地には現在、仙台大や陸上自衛隊船岡駐屯地、角田宇宙センターなどがある。

1144とはずがたり:2018/09/05(水) 08:44:36

おお,未だお元気そうでなによりだ。今年は平成の最後にして余りにも多くの昭和人が逝ったからな。。

熊谷空襲
「戦争、国が人生奪う」 作家・森村誠一さん、終戦前夜を語る /埼玉
https://mainichi.jp/articles/20180828/ddl/k11/040/215000c
会員限定有料記事 毎日新聞2018年8月28日 地方版

埼玉県
 「人間の証明」などの作品で知られる作家森村誠一さん(85)は、終戦前夜の1945年8月14日夜から15日未明にかけ、故郷の熊谷市で空襲を経験した。闇夜を切り裂く焼夷(しょうい)弾に、川を埋め尽くした無数の遺体。玉音放送を聴いて感じた喜び。共同通信の取材に「戦争とは、国が人々の人生を奪うこと」と、平和への思いを語った。

 森村さんは当時12歳。8月14日深夜、米軍機が次々に落とす焼夷弾で、熊谷市中心部にあった自宅も瞬く…

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1145とはずがたり:2018/09/16(日) 20:24:48

発掘された「西郷どん」の新史実 最後の内戦、西南戦争
https://www.asahi.com/articles/ASL8T6W4WL8TUCLV005.html?ref=tw_asahi
編集委員・宮代栄一2018年9月16日18時59分

 元号が明治に変わって150年。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」など、その時代に注目が高まっている。近代日本を方向付け、日本最後の内戦となった西南戦争。熊本城炎上や田原坂(たばるざか)の戦いについて近年、発掘の成果をもとに研究が進み、新たな史実が見えてきている。

 事件は、1877年2月19日に起きた。官軍がこもる熊本城の天守閣が「謎の失火」で焼失。薩軍(鹿児島軍)の工作員が火をつけたという放火説のほか、官軍関係者による失火説などが従来は唱えられてきた。

 出火元とされる本丸御殿跡を、熊本市が1999〜2006年に発掘。報告書を作る過程で新事実が判明する。御殿の中でも「小広間」と呼ばれる部分が激しく焼けており、詳細な火元がほぼ特定されたのだ。

 市文化振興課によると、小広間は出土品などからみて、官軍幹部の執務室だった可能性が高い。小広間が位置するのは御殿の一番奥。そこまでに火をつけやすい場所はたくさんあり、「工作員がわざわざそこまで潜入して放火したとは考えにくい」と同課の美濃口雅朗主幹は推理する。

 ではなぜ出火したのか。「特定の軍関係者以外は入れない場所から火が出、かなり離れた天守閣に延焼するまで有効な消火活動が行われた節がない。官軍の幹部が自ら火をつけたとみていいのではないか」。この説は昨年、熊本市で開かれた西南戦争に関するシンポジウムで発表され、大きな反響を呼んだ。

 官軍による自焼説は、熊本博物…

1146とはずがたり:2018/10/03(水) 09:08:01
超特急の阪和電鉄の凄さはどっかで読んだことあったけど,それよりなにより昭和16年位迄豊かに白浜観光出来る人が多かったのは暗い世情だからこそ無理して遊んでたのかアメリカ並みの大衆消費社会の萌芽が日本にもあったのか元々日本人遊び好きなのに戦争でねじ曲げられて今でもこじらせているのか?

2017-05-04
天王寺駅の怪と阪和電気鉄道の歴史 前編【昭和考古学】
https://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/%E9%98%AA%E5%92%8C%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E9%A7%85#%E9%98%AA%E5%92%8C%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3%E8%B6%85%E7%89%B9%E6%80%A5

1147とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:18

中国の正体にやっと気付いたドイツ 「中独合作」は崩壊するのか?
https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/180806/wor18080610300006-n1.html
2018.8.6 10:30
【野口裕之の軍事情勢】

 憲法改正で「終身皇帝」への道筋を切り開いた中国の習近平国家主席は「独裁者」と批判されるが、「予言者」と称賛されたとは寡聞にして知らない。2017年、習氏はドイツのアンゲラ・メルケル首相と会談し、投資協定早期締結などを確認し、中独関係をこう表現した。

 「ドイツとの関係は、新たな段階に入ろうとしている」

 確かに、1年ちょっとたった現在、中独関係は「新たな段階」を迎えた。が、習氏も予想外だったに違いない。関係に陰りが見える点が新しい。中独蜜月を「中独合作」と警戒してきた小欄だけに、独伝統の「中華大好き文化」が消滅したとは思わない。ただ、冷戦時代の真っ最中に中国へ兵器&関連機器を供給していたドイツが、やっと邪悪な正体を正視するようになった、とは感じる。

 独メディアによると、独政府は8月にも、中国企業のライフェルト・メタル・スピニングの買収申請を却下する方針だった。同社は宇宙船や航空機の部品製造技術で知られ、原発など核関連分野にもノウハウを持つ。独政府関係者はDPA通信に「公的秩序や安全保障を危険にする可能性がある」と却下理由を明らかにした。もっとも、独政府の動きを察知した中国企業は自ら買収を撤回した。

 小欄も繰り返し批判したが、ドイツでは2016年に産業用ロボット大手クーカが中国家電大手・美的集団に買収された後、技術流出懸念が深刻化した。クーカの技術は米軍の最新鋭戦闘機F-35の機体製造に使われており、身売りは同盟国を裏切る行為。クーカ買収を機に17年、欧州連合(EU)域外企業による買収規制を強化。政府の審査・却下対象を国防関連からIT・通信や電力・水道など「戦略的重要分野」に広げた。スピニング社買収を却下すれば初適用となるはずだった。

 さらに、独経済・エネルギー省は7月、送電大手50ヘルツの株式を20%取得すると発表した。同社株式はベルギーの電力会社が80%を保有。中国国営送電会社・国家電網は豪州の投資会社が有する残り20%の取得を目指したが、独側が買い取った。50ヘルツは「脱原発」の下で再生可能エネルギー普及を目指す独戦略上極めて重要な企業で、中国は技術獲得を狙ったようだ。規制適用はEU域外企業が議決権の25%以上を取得することが前提で、政府が株式買い取り阻止に動いた。

今も昔もドイツが舌なめずりする対中貿易

 かくして、中国企業による独企業買収・出資件数は減少傾向にあるが、筆者は毎年の如くドイツにドキリとさせられる。

 例えば、2016年の伊勢志摩サミット=主要国首脳会議。先進7カ国は、東シナ海や南シナ海における中国の海洋侵出に対する厳しい現状認識を共有し、首脳宣言に盛り込んだ。中国をカネのなる木としか見られず、凶暴性を実感できぬ欧州勢にしては上出来だった。半面、ミキモト真珠島で、メルケル首相の夫君らが体験したサミットに伴うイベント=真珠の取り出しで「ドイツ・裏切りの歴史」が唐突に脳裏に浮かんだ。

 第1次世界大戦(1914〜18年)開始直後、大日本帝國はドイツに宣戦布告した。独降伏で「東洋の真珠」と呼ばれた文化都市・青島は日本統治となり、ドイツの一大権益は吹っ飛んだ。以来、後述するが、日本に恨みを抱くドイツの中国への肩入れは、日独伊三国同盟締結後もひそかに続けられた(とは註:ドイツを参考に君主権の強い憲法を作り,ドイツとしては中立を期待してた日本の裏切りと見えたであろう。)。

1148とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:28

 同盟関係を裏切るドイツのDNAを、中国は見逃さない。習氏は日本も標的に、「中独合作」の21世紀復活を謀る。

 習氏は2013〜14年にかけ、経済を武器に影響力圏を拡大していく《一帯一路》戦略を明らかにした。けれども、もっと早く「中独合作」は進行していた。中国製生活用品を積んだ試験運行の貨物列車がドイツに着いたのは08年1月。ドイツは今も昔も有数の武器輸出国であり、北京を出発して1万キロの旅を終えた列車は「中独合作」の幕開けに映った。“日独親善”に隠れ、しぶとく密着していた薄汚い近代史=中独関係の復活を予感した。

 ドイツが舌なめずりする対中貿易は1750年代以来の国家的課題で、英国に対抗し1885年、清国直行汽船への補助金を支出、英国に次ぐ貿易量を達成した。英国やフランスに比し帝国主義色が薄いドイツに、清国が日清戦争(1894〜95年)で日本の大脅威と化す東洋一の巨大堅艦《定遠/鎮遠》建造や、日露戦争(1904〜05年)で日本軍におびただしい数の犠牲を強いた旅順要塞の造成を要請したのもこの時代だ。

 その後、ドイツは帝国主義を強め、1897年にはドイツ人宣教師殺害を機に出兵、清国に山東省膠州湾岸の租借をのませた。以後、中心都市・青島は要塞・文化双方の顔を見せつつ急成長する。陸上兵力は2200人を数え、周囲の山や海岸に築いた砲台が援護。海上では独東洋艦隊が南太平洋の独植民地との間を遊弋した。

 一方で港/鉱山/銀行/鉄道/麦酒会社/学校/病院/ホテル/教会/食肉処理場を建設。郵政にも着手し、消印で青島が独支配下にあることを世界に宣言した。650種・数百万本もの木が世界中で集められ植樹(1240ヘクタール)されてもいる。

 先述したが、第1次大戦開始直後、日本はドイツに宣戦布告した。独降伏で「東洋の真珠」「小ベルリン」と称された青島は日本統治となり、一大権益が吹っ飛ぶ。ドイツの“日本嫌い”は「青島の恨み」が起点だと思っている。

 清国同様に対日戦略上、軍近代化を迫られた中国・国民党は満州事変(1931〜33年)後、独ワイマール共和国や次のナチス政権に接近。ドイツは1927〜38年まで軍事顧問団を送り続けた。 

 とりわけ、1934年より団長を務めたハンス・フォン・ゼークト退役陸軍上級大将(1866〜1936年)は、第1次大戦で壊滅状態に陥った独軍の再建と将来(電撃)戦への青写真を確立し「独軍の頭脳」と畏敬された名将。国民党の蒋介石前国民政府主席(当時/1887〜1975年)に、大規模・低練度だった国民党軍の装備や機動性の向上を具申した。後継団長アレクサンドル・フォン・ファルケンハウゼン退役陸軍中将(後に歩兵科大将に現役復帰/1878〜1966年)も、独式教育訓練を踏襲した。

 方針に沿い、8割が非近代兵器だった国民党軍に鉄帽/小銃/各種大砲をはじめ戦車や戦闘機まで輸出。ドイツで教育した中国人技術者運営の各種工廠では双眼鏡/狙撃銃用照準/小銃/機関銃/迫撃砲/装甲偵察車両/大砲/ガスマスクを生産した。国民党軍の軍装が独軍ソックリなのは当然といえた。毒ガス製造施設建設こそ中止されたが、化学研究所は独企業の支援で完成した。

 折しも、国民党軍の攻撃に日本軍が応じ第2次上海事変(1937年)が勃発するや、ファルケンハウゼンは蒋に消耗・ゲリラ戦に持ち込み大日本帝國陸海軍を疲弊させる作戦を進言。塹壕とトーチカが造る要塞線=ゼークト線に日本軍をおびき寄せんとした。日本軍は圧勝したが損害は予想外に大きかった。

1149とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:44
>>1147-1149
 軍事資源を産む鉱山・工業地帯と沿岸を結ぶ鉄道敷設でも中独は利害が一致。独技術を投じた貴陽〜南昌〜杭州や漢口(現・武漢)〜広州路線は、軍用としても日本軍を悩ませる。

 ようやく、独総統アドルフ・ヒトラー(1889〜1945年)の政策転換で「中独合作」は変質する。とはいえ「青島の恨み」はゾッとするほど根深い。1936年に(対ソ)日独防共協定を結びながら、対中武器密輸を継続。37年の中ソ不可侵条約で態度を硬化させたヒトラーが新たな兵器輸出を禁じるまで続く。

 それでも受注済み兵器は契約通り輸出され、完全な禁輸・顧問団撤退はドイツが満州国を承認した38年。国民政府と断交、“親日”の汪兆銘政権(1940〜1945年)を認めたのは、何と日独伊三国同盟締結後1年近くもたった41年になってだった。

「空母技術」を中国に売り渡したドイツ

 「中独合作」は今も存在する。中国化工集団公司がドイツの重機大手クラウス・マッファイを買収したときものけ反った。

 マッファイは磁気浮上鉄道の業界で一目置かれる。日本も実用化を目指すリニア・モーターカーもそうだが、磁気浮上技術は空母のカタパルト技術につながる。

 カタパルトは、滑走環境が制約される空母上にある艦上機を射出する、パチンコのゴムに例えられる。カタパルトの有無や性能は、艦上戦闘機の搭載兵器の数・重量や発艦機数など航空戦力に巨大な影響を及ぼす。高い技術力が必要で、空母を建造する中国が開発に困り果て、米国などより盗みたがっている筆頭格のシステムだ。しかも、マッファイ分社化後、他社との合併で再編された系列会社は、戦車大国ドイツでも屈指の戦車・自走砲メーカーとくる。

 ドイツの半導体製造装置メーカー=アイクストロンの、中国・福建芯片投資ファンドによる買収は2016年9月に承認されたが翌月、撤回となった。半導体製造装置は軍事技術の一角で、独経済・エネルギー省の「承認当時に安全保障情報を把握していなかった」との弁明は、あきれるほかない。

 ところで、外国の投資は被投資国の経済成長を促し、雇用を創出する。しかし、中国の対外投資は、投資で被投資国の企業を買収→開かれた外国市場内で先端技術をごっそり頂戴し→閉鎖された中国市場内で莫大な利益を上げる。やがて、「合法的」に頂戴した先端技術が生み出した中国の閉鎖市場における莫大な利益を元手に、巨大国営企業を設立する。

 巨大国営企業は、技術供与でお世話になった被投資国の企業と競合関係となり、被投資国の同業他社は、中国政府の為替操作支援を受けた中国巨大国営企業の攻勢を前に経営が圧迫される。

 独政府には、こんな言葉を贈ろう。

 「閉鎖的で排他的なやり方は正しい選択ではない」

 正論である。ただし、中国が入れぬ環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)を念頭に、習氏の口から出た言葉でなければ…。

1150とはずがたり:2018/10/09(火) 10:59:12
「慰安婦問題いじめ」右翼団体に相談しろと言う日本政府
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181009-00031805-hankyoreh-kr&pos=2
10/9(火) 7:37配信 ハンギョレ新聞

ニューヨークの日本領事館相談窓口で 右翼団体紹介して物議 民間団体「ひまわりJAPAN」、慰安婦記念碑設置に反対 「慰安婦は売春婦、報酬も十分に受けた」主張 歴史問題でいじめ主張自体が無理という指摘も
 ニューヨークの日本総領事館が、歴史問題でいじめにあった場合、相談を要請できる窓口として右翼団体を紹介し物議をかもしていると東京新聞が8日伝えた。

 駐ニューヨーク日本総領事館は、6月から「歴史問題によっていじめ被害を受けたり被害の事実を知っている人は領事館に連絡するなり、以下の民間団体に相談することを望む」という案内文をホームページに出した。日本総領事館が相談窓口の運営を委託した民間団体は「ひまわりJAPAN」という団体だ。米国に建てる慰安婦被害者記念碑建設反対運動の先頭に立ってきた団体だ。

 この団体は、ホームページで自分たちを「2016年6月ニューヨークとニュージャージーに住む日本女性たちが集まって結成し、米国に住む日本人に正しい日本の歴史を伝え子どもたちが日本人として誇らしく生きていくよう支援する団体」と紹介した。

 ひまわりJAPANは、ホームページに他の極右団体である「なでしこアクション」が作成した日本軍「慰安婦」資料集を載せた。資料集には「慰安婦は“慰安所”で売春婦として仕事をした女性」とし「報酬も十分に受けた」という主張が含まれている。この団体が結成後に主催した初の講演会には「LGBT(性的少数者)は子どもを産むことができない。生産性がない」という話で波紋を起こした杉田水脈・自民党議員など極右が参加した。

 日本の外務省は、慰安婦問題をめぐる韓日間の葛藤が尖鋭化すると、2014年からワシントンの駐米日本大使館と駐サンフランシスコ、駐ロサンゼルス領事館などに「慰安婦問題を含む歴史問題によるいじめ」にあった場合に相談できる窓口を作り始めた。

 一方、読売新聞はこの日、複数の韓日関係消息筋を引用して、カン・ギョンファ外交部長官が先月11日、ベトナムのハノイで日本の河野太郎外相に対し、年内に「和解・癒やし財団」を解散する計画を通知したと伝えた。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は先月25日、ニューヨークで安倍晋三首相に「慰安婦被害女性たちと国民の反対で和解・癒やし財団が正常に機能できず枯死せざるをえない状況」とし解散の方針を示唆したことがある。河野外相はこの出会いで、文大統領の早期訪日を要請したが、カン長官が文大統領の訪日は和解・癒やし財団の解散以後になるだろうと答えた同新聞は伝えた。

東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

1151とはずがたり:2018/10/12(金) 08:04:07

知りたかったなんで韓国・中国を初めとする諸国が黙っていたのかが書いてないが,当時は韓国とも国交恢復前どころかり李承晩ライン(1952.1.18宣言)の頃で日本の漁船とか拿捕しまくってた頃。国交がないから文句も着けてこなかったと見える。中国も1950年には大陸を失い(アメリカが傍観してたのが今にしてみれば最大の誤りであったねえ。1950.6の朝鮮戦争で一旦拡大が停まったのが大きかったか),中共が支配していたが1952年に日本は桑港平和条約と共に台湾と日華平和条約を締結して国交を恢復。昭和29年当時文句を云えるのは中華民国だったが国共内戦を抱えそれどころではなかったということか。

■ JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■
旭日旗がそのまま自衛艦旗として受け継がれた経緯
伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1427 ■ H20.04.14 ■ 9,690 部
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/wing1427.html

 海上自衛隊の艦艇が掲げる旭日旗(自衛艦旗)をご存じだろうか。日の丸から16条の旭光が出ているデザインである。各国の海軍軍艦は、それぞれの軍艦旗を掲げるが、「自衛艦」は国際的には日本海軍の軍艦であり、自衛艦旗はその「軍艦旗」にあたる。

 軍艦は国土の延長とされ、軍艦旗を掲揚する艦艇に行き会った民間船は自らの国旗を少し下げ、元の位置に戻す、という形で敬礼をするのが国際慣行である。

 実は自衛艦旗は戦前の日本海軍の軍艦旗そのままのデザインなのである。海軍が「海上自衛隊」、軍艦が「自衛艦」などと戦後の言い換えが進められた中で、なぜそのシンボルである軍艦旗のデザインがそのまま護られたのか。そこには軍艦旗を護ろうとした人々の陰ながらの苦心があった。

 昭和29年(1954年)の自衛隊創設の際に、当時の反軍的世論を鑑みて、軍艦旗のデザインも再考することとなり、米内穂豊画伯に図案作成の依頼が持ち込まれた。

 画伯は悩み抜いた末、結論に至る。
「軍艦旗は黄金分割による形状、日章の大きさ、位置光線の配合など実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがない。それで、軍艦旗そのままの寸法で1枚書き上げた。お気に召さなければご辞退致します。画家としての良心が許しませんので」

  “画伯の作品”は「創設する海自への影響」「国民感情」などを焦点に庁議にかけられたが、保安庁長官は裁可した。

 …説明を聞いた(自衛艦旗を最終的に承認した吉田茂)首相は、こう語っている。

「世界中でこの旗を知らぬ国はない。どこの海に在っても日本の艦だと一目瞭然(りょうぜん)で誠に結構だ。海軍の良い伝統を受け継ぎ、海国日本の守りをしっかりやってもらいたい」[1]

 こうして日本海軍の旭日旗は、そのまま海上自衛隊の自衛艦旗として引き継がれた。…

■参考■
1. 産経新聞、H20.04.03「【野口裕之の安全保障読本】軍艦旗救った画家の良心」、東京朝刊、5頁

1152とはずがたり:2018/10/21(日) 11:28:16
知ってはいけない──隠された日本支配の構造
http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/japan-taboo/
矢部宏治著

定価 本体予価840円 + 税
発売日 2017年8月16日
発行 講談社 現代新書
ISBN 978-4-06-288439-6
判型 新書判
ページ数 264ページ
旭屋書店さんの「本TUBE」に、著者・矢部宏治氏のインタビュー動画が公開されました!
【著者出演】知ってはいけない隠された日本支配の構造<前編>
概要
私たちの未来を脅かす「9つの掟」、
最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」とは?
なぜ日本はアメリカの意向を「拒否」することができないのか?
3分でわかる日本の深層!
みなさんは、世田谷区や中野区、杉並区の上空が米軍に支配されていることをご存じですか?

あるいは、米軍に与えられた治外法権が、日本の国土全体に及んでいることを知っていましたか?

「なにをバカなことを……」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

しかし、これらは複数の公文書によって裏付けられた、疑いようのない事実なのです。

じつは、私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相やエリート官僚でさえもよくわかっていない、「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を大きく歪めています。

そうした「ウラの掟」のほとんどは、じつはアメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としているのです。

3つの「裏マニュアル」ともいうべき最高裁の「部外秘資料」、検察の「実務資料」、外務省の「日米地位協定の考え方」を参照しながら、日米合同委員会の実態と対米従属の根幹に迫るとともに、日本における「真の権力構造」を徹底解明します。

累計17万部を突破したベストセラー『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』の著者・矢部宏治氏が、「戦後史の闇」に光をあてた渾身の決定版!

1153とはずがたり:2018/10/27(土) 15:38:44
まあ独裁者は客死した土地で眠るしか無いだろな。革命家への列席の栄誉なんか認められんだろう。

革命家墓地受け付けず
https://this.kiji.is/428803004221703265
2018/10/27 15:31
c一般社団法人共同通信社

 【ベルリン共同】旧東ドイツの共産党独裁政権を率いたホーネッカー元国家評議会議長(1912〜94年)の遺灰の埋葬先が死後24年たっても宙に浮いている。ホーネッカー氏には墓がなく、ドイツ共産党の革命家らが眠るベルリンの墓地に葬りたいと親族が表明。地元当局は90年のドイツ統一前から現地での埋葬は行われておらず「不可能」と説明したという。地元紙が22日伝えた。

 ホーネッカー氏は70年代から東ドイツ政権を率いてきたが、89年の民主化運動で失脚した。ドイツ統一後、娘が暮らす南米チリへの出国を許され、94年に同国で死去、火葬された。妻も2016年にチリで亡くなった。

1154荷主研究者:2018/11/03(土) 16:31:27

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201809/20180928_33047.html
2018年09月28日金曜日 河北新報
<原敬>「平民宰相」誕生100年(上)原点/東北蔑視に強い反感

原敬(原敬記念館提供)

 今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856〜1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

 17年9月8日の盛岡市の報恩寺。戊辰戦争で死亡した盛岡藩士らの50回忌に、立憲政友会総裁で、1年後に首相となる原の姿があった。

 「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。当時勝てば官軍、負くれば賊との俗謡(言い習わし)あり。其(その)真相を語るものなり」

 原は旧藩士を代表して祭文を朗読。記録に残る限り、12歳で経験した戊辰戦争について原が心情を口外したのは生涯でこの一度きりだった。

 原は幼名を健次郎という。1856年2月9日、盛岡藩士の家に生まれた。盛岡市本宮(旧本宮村)には今も生家が残る。

 戊辰戦争に敗れた盛岡藩は領地の召し上げ、70万両の制裁金といった新政府による重い処罰に疲弊していく。家老格だった原家は制裁金を用立てなければならない藩に備蓄米や骨董(こっとう)を献納。家屋の5分の4も売却して没落に至った。

 「よしこの家運挽回してみせる」。窮地に奮い立つ年若い原を、弟の誠は後にこう回想している。

 その言葉通りに19歳で上京。司法省法学校などで法学や歴史学を修め、郵便報知新聞の記者を経て外務省に入省。卓抜した交渉術から伊藤博文、陸奥宗光ら新政府の大立者に引き立てられ、政界に転じた。

 親交のあった新聞記者前田蓮山は著書「原敬伝」に「南部藩(盛岡藩)は亡(ほろ)びた。然るに天は、一人の復讐(ふくしゅう)者を残した」と記し、原を政治に駆り立てたのは薩長への恨みであったと断じた。

 その根拠が原の俳号「一山(いっさん)」だったと前田は論じる。東北をあざ笑う「白河以北一山百文」から採った俳号に原の反骨がみて取れるという。

 ただ、政治家原の深奥に薩長閥への恨みがあったことをうかがわせる史料は、いまだ見つかっていない。生前の原が長く残すよう指示した「原敬日記」(全83冊)にも。

 原敬記念館(盛岡市)の田崎農巳(あつみ)主任学芸員は「原が戊辰戦争の『復讐者』だったとは言い切れない。むしろ東北蔑視への反感の方が強かった」と推測する。

 「各種史料からせり出す原敬像は、歴史を公平中立に捉えようとする冷静な政治家だ。『藩閥政治と渡り合って賊軍の汚名をそそいだ平民宰相』のイメージは、戊辰戦争以来虐げられてきた東北の人々の思いが作り上げたのかもしれない」

[戊辰戦争]「鳥羽・伏見の戦い」に始まる新政府軍と旧幕府軍の内戦。薩摩、長州両藩を中心とする新政府軍は、仙台藩と奥羽諸藩に会津、庄内両藩の追討を命令。これに反発した陸奥、出羽、北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成して抵抗するも敗れた。

戊辰戦争殉職者50回忌で原がささげた祭文の碑=盛岡市内丸のもりおか歴史文化館

1155荷主研究者:2018/11/03(土) 16:31:47

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201809/20180929_33026.html
2018年09月29日土曜日 河北新報
<原敬>「平民宰相」誕生100年(下)信条/清廉潔白自ら奉じる

19歳から亡くなる直前までしたためた全83冊の「原敬日記」=原敬記念館収蔵

 今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856〜1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

 憲法や議会といった近代政治の道具立てが未整備だった明治前期。政府を牛耳る「藩閥政治」と言論の自由を求める「自由民権運動」の対立は日々激しさを増していった。

 盛岡から上京して5年、24歳になった原敬(はらたかし)(1856〜1921年)は、郵便報知新聞の記者として健筆を振るっていた。

 「理を以(もっ)て交わるの間に情を存し、情を以て接するの間に理を存す」。1880年の新聞論説「官民相対するの道を論ず」から、後の政党政治家原の信条が読み取れる。

 原は「官(藩閥政治)」と「民(自由民権運動)」の反目をいさめつつ、英国に倣った二大政党制の導入を提唱。平穏な政権交代による治安の安定、殖産興業の推進による国際競争力の強化をたびたび論じた。

 論説執筆から38年後の1918年9月29日、立憲政友会総裁の原を首相とする政党内閣が成立した。

 高校新設による教育の充実、地方鉄道網の整備など「平民宰相」の功績は数多い。一方で「平民出」らしからぬ政治判断が大衆の落胆を招く。

 男子普通選挙の即時実施を求める世論を「時期を見て」と一蹴し、衆院を解散してまで選挙法改正を阻止。野党は「西にレーニン、東に原」とやゆした。

 岩手大副学長の丸山仁教授(政治学)は「理想を実現するために現実的な手段を選択する政治家だった」と評する。

 立憲政友会員らによる汚職事件の処理に追われていた21年11月4日、原は東京駅で右翼テロの凶刃に倒れる。65歳だった。

 原内閣で朝鮮総督府政務総監を務めた水野錬太郎は、原が「平民宰相」と呼ばれる真の理由を「自ら奉ずるところが清廉潔白で、すべての行状がいかにも平民主義であったから」と振り返っている。

 「平民主義」の政治は、原の古里に今日も息づいていた。盛岡市議会の会派「盛友会」の名称は、原が率いた立憲政友会に由来する。

 盛友会幹事長の遠藤政幸議員は「常に市民目線で声を拾い、伝えるのが地方議会の使命。原さんが公利を追い求めたように、まちの隅々まで行き届く政治を目指したい」と話す。

1156とはずがたり:2018/11/06(火) 16:05:14
徴用工「解決済み」企業に説明、安易な和解警戒
2018年11月01日 16時06分
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20181101-OYT1T50101.html

 政府は、韓国大法院(最高裁)による元徴用工を巡る判決を受け、同様の訴訟を起こされている企業向けの説明会を始めた。「徴用工問題は解決済み」とする政府方針を説明し、損害賠償や和解に応じないよう周知を徹底する方針だ。

 韓国では係争中の同様の訴訟が計14件ある。新日鉄住金に対する今回の判決を受け、他の被告企業である三菱重工業や不二越などに対しても裁判所の賠償命令が相次ぐ可能性がある。

 説明会は、外務省や経済産業省、国土交通省、法務省が合同で10月31日から始めており、2日まで計3回開く。徴用工問題は1965年の日韓請求権・経済協力協定で解決済みとする政府の立場を改めて紹介し、韓国政府に国際法違反の状態の是正を求めている現状などを説明している。

(ここまで322文字 / 残り587文字)
2018年11月01日 16時06分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

1157名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:11
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181215-00000157-sph-soci
【平成回顧】〈1〉新元号発表会見の裏側…流行語「24時間タタカエマスカ」
1/2(水) 14:04配信 スポーツ報知
 天皇陛下の生前退位により4月30日で30年の歴史を終える「平成」。スポーツ報知では、平成の30年間を1年ごとにピックアップし、あらためて当時を振り返る。初回は平成元年。新元号ができるまでの経緯と、象徴的な場面としていまだに映像で流される「新元号発表会見」の裏側を追った。また、この年には栄養ドリンク「リゲイン」のCMがブレイク。話題を呼んだキャッチフレーズ「24時間タタカエマスカ」にも迫る。(この記事は2018年5月6日の紙面に掲載されたものです)

 平成が始まる3年半前の1985年7月。内閣内政審議室長に就任した的場順三氏は、新元号制定の担当者として水面下で動き始めた。頭を悩ませたのが秘密保持。的場氏によると、79年の元号法制定前後から、有事に備えて各界の学者らが選んだ「新元号候補」が存在していたという。今では知られた事実だが、当時は「天皇の生前に元号候補を決めていた」とは明かせない。自身の在任中、中曽根、竹下両首相ら以外には伏せていた。

 隠密活動を続けるなか、87年2月にアクシデントが起こる。候補考案者3人のうち2人が相次いで亡くなったのだ。建前上「天皇崩御後に元号考案を学者に依頼する」ことになっていたので、故人の案はボツ。急きょ新しい学者を見つけ、考えてもらう必要があった。大人数で探せば周囲にバレる。文科省職員と2人だけで選定。適任の学者2人をようやく探し出した。

 当時は天皇陛下の容体悪化によりマスコミの新元号スクープ合戦も過熱。ある候補の学者の自宅に依頼のあいさつに行くと、大勢の記者が張り込んでいた。考案者の名前もマル秘。自宅訪問を断念し、学者の会議に紛れて面会、ようやく依頼にこぎつけた。最終的に東大の宇野精一名誉教授(中国哲学)、九大の目加田誠名誉教授(中国文学)、東大の山本達郎名誉教授(東洋史)に考案を依頼。宇野氏が「正化」、目加田氏が「修文」、山本氏が「平成」を第一候補とし、郵送で届けられた。

 1989年1月7日午前6時33分、天皇陛下崩御。この時点でどれが元号に採用されるかは決まっていなかった。当日午後に予定していた新元号発表会見まで約8時間。有識者による「元号に関する懇談会」や衆参両院の正副議長の意見聴取、全閣僚会議など各機関の了承を経て決定する手はずだった。「各所でアレコレ議論されちゃったら、時間的に間に合わない。すんなり決まるよう、こちらが『誰もが納得できる1案』を提示しなければいけなかったんですよ」

 午前8時20分の臨時閣議が近づいた。3案を見つめていた的場氏に妙案が浮かんだ。元号をアルファベットの頭文字を使って表すと「修文」「正化」は旧元号の「昭和」の「S」と重なる。これは後々、不都合が起こるのではないか―。各会議ではポイントを絞って説明、熱弁が効いたのか各会議が全会一致で「平成」支持となった。まさに綱渡り。想定通りに改元手続きを進めることができた。

 胸をなで下ろしたのも束の間。後日、予想外の落とし穴が待っていた。元号の制定手続きの要領には「俗用されているものでないこと」の条件がある。人名や商品名に使われていればアウト。岐阜県のある村の小字(こあざ)に「平成(へなり)」という地名があったのだ。「中華料理店の屋号とかまでチェックし、探し尽くしたつもりだったんですが…」。幸い大事には至らなかった。「正直、小字まで調べられるか!って心境でしたよ」。新元号制定の立役者は、約30年前の冷や汗止まらぬ瞬間を、苦笑いで振り返った。(樋口 智城)

1158名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:28
>>1157

 ◆的場 順三(まとば・じゅんぞう)1934年9月15日、滋賀県生まれ。大蔵省主計局主計官などを経て、86年から内閣官房内閣審議室長。退任後は国土事務次官を務めた。退官後は中小企業金融公庫副総裁などを歴任。06〜07年に安倍内閣の内閣官房副長官を務めた。

 「新しい元号は『平成』であります」。小渕恵三官房長官は白木の額縁に飾られた「平成」の書を顔の右横に掲げた。傍らで会見をプロデュースした小渕氏秘書官・石附弘氏が安どの表情で見つめていた。

 テレビの生中継で新年号を発表するのは史上初。石附氏は見せ方次第で「新時代への期待感や雰囲気」が変わると考え、会見を重視していた。「昭和」は発表前に「新元号は光文」と報じられたほか、主要メディアがラジオで漢字の持つ独特の雰囲気を伝えられず、大衆の期待感を高められなかった経緯があった。

 各有識者と相談の上、まず「会見で年号が記された書を見せる」と決めた。「テレビの利点を生かせるのはこれしかないと思った。一発で『平成』を印象づけられる」。元号を披露する際の動きも研究。顔の横に掲げるのが最も印象的だと結論づけた。「半紙をアクリル板に貼り付ける」予定だったが、直前に相談したメディアに「カメラのフラッシュで光って見えない」と指摘され「半紙プラス白木の枠組み、アクリル板なし」となった。

 会見当日。石附氏は「平成」の文字を見て、書道につきものの「かすれ」がほとんどないことに気づいた。後に文字を書いた書家の河東純一氏に聞くと「確たる未来と新時代への力強さを見せるため、あえて抑えました」と説明された。テレビ会見の重要性は、全員が理解していた。

 後に小渕氏は、「ちびっ子に『テレビで見た平成オジサン』とはやされて困っているんだ」とうれしそうに話していたという。平成の幕開けを告げる会見は、昭和が作ったテレビ時代の集大成だった。

 ◆バブル時代の象徴フレーズ「24時間戦えますか」 「24時間タタカエマスカ」。栄養ドリンク「リゲイン」の広告に使われたキャッチコピーは、1989年の流行語大賞で銅賞に選ばれた。リゲインは製薬メーカー三共(現・第一三共ヘルスケア)が1988年4月に発売開始。翌年、俳優の時任三郎をCMのイメージキャラクターに起用すると、エネルギッシュな時代にマッチして大ブレイクした。

 時はバブル景気真っただ中。日本企業は次々と海外に進出。当時を知る同社関係者は「風邪薬のルルに代表される温かく優しい(企業)イメージだったので、挑戦的なコピーは経営陣の了承をすぐに得られたわけではなかった」と回想。「当時の事業部トップの決断でCMが誕生した。攻めたものであることは社内共通の認識だった」。世はイケイケの時代だったのだ。

 狙いは当たった。CD化したテーマ曲「勇気のしるし」は約60万枚の大ヒットに。忘年会シーズンのカラオケで定番となったのはもちろん、入社式や運動会、90年の夏の甲子園でまで流れるようになった。

 時任が出演したシリーズは15編作られ、91年に終了。働き方への意識の変化などとともにキャッチコピーも変わっていく。2014年に同社とライセンス契約したサントリーフーズから出た「リゲインエナジードリンク」のCMソングの歌詞は「24時間戦うのはしんどい」だった。

 働き方改革が進められ、今はパワハラや過労死が問題視される時代。このコピーが象徴するイケイケ時代は、今や「遠くなりにけり」だ。(甲斐 毅彦)

1159名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:39
>>1158

 【元号アラカルト】  

 ▼ルール 閣議決定された元号制定手続きによると〈1〉よい意味〈2〉漢字2字〈3〉書きやすい〈4〉読みやすい〈5〉これまでに元号又はおくり名として用いられたものでない〈6〉俗用されてないもの、の中から選ぶ

 ▼元号数 645年制定の「大化」から「平成」まで247個。漢字4文字は5つ、それ以外は2文字

 ▼使用漢字 トップは「永」の29回。「平成」の「平」は12回で19位、「成」は初使用だった。

 ▼過去に候補 「平成」は、明治の1つ前の「慶応」改元の際にも候補に。「大正」は過去5回の候補入りの末に採用。

 ▼決定機関 昭和以前は菅原道真の末裔「菅原家」が中心になって制定。平成から学者が考案し、政府が決定するシステムに。

1160名無しさん:2019/01/03(木) 14:56:22
会員が告白「フリーメイソンへの不正確な報道を正したい」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190103-00000002-courrier-soci

1161名無しさん:2019/01/19(土) 19:21:56
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190119-00055248-jbpressz-int
北方領土「二島先行」に世論が反対しなくなった理由
1/19(土) 6:35配信 JBpress
 (舛添要一・国際政治学者)

 1月14日、北方領土・平和条約問題をめぐって、モスクワで日露外相会談が行われた。これは、22日に行われる安倍首相とプーチン大統領の首脳会談の準備と位置づけられる。

 昨年(2018年)の11月14日、シンガポールで日露首脳会談が行われ、安倍首相とプーチン大統領は、1956年の日ソ共同宣言に基づいて、問題解決のための交渉を加速化させることで合意した。日ソ共同宣言を基礎にするということは、平和条約締結後に歯舞・色丹二島が日本に引き渡されるということである。

 しかし、国後・択捉については、これからの協議次第である。これは、「四島一括返還、その後に平和条約」という我が国の従来からの主張とは大きくかけ離れている。歯舞・色丹二島のみを切り離し、先行して返還することを是とする理由は何か。

■ 圧倒的だった「四島一括」より「二島先行」が多数派に

 12月8、9日に産経新聞社とFNNが実施した世論調査で、北方領土帰属問題についてどの案を目指すべきかを問うたところ、「歯舞・色丹二島返還先行、国後・択捉引き続き協議」が50.0%、「四島一括返還」が30.8%、「歯舞・色丹の二島だけでよい」が7.7%であった。

 かつては「四島一括返還」が圧倒的に多かったが、今回「二島先行論」が過半数になったとことに驚いている。しかもこの調査は、保守色の強い新聞社・テレビ局が行ったものだけに尚更である。他のマスコミの調査でも、6割前後が二島先行返還論に賛成しているのである。

 この変化はなぜ起こったのか。私は、日本人が北方領土問題への関心を失いつつあるからではないかと思っている。北方領土担当大臣が、四島の名称を正しく発音できない時代である。

 「戦後外交の総決算」という安倍首相の決意を評価する雰囲気が支配的になり、「四島一括返還、その後に平和条約」という日本のこれまでの主張が一気に反古にされそうである。それでも構わないということを、安倍首相は内外に説明することができるのであろうか。

■ 「日本は第二次世界大戦の結果を認めない唯一の国」

 タテマエ上は、「まず平和条約締結、そして二島返還、その後に四島を取り戻す」ということであろうが、平和条約を締結することがそんなにも重要なのであろうか。1956年の日ソ共同宣言以降は、平和条約が存在しているのと同じ状況にあり、日露両国民とも何の不便も感じていない。形式的には、平和条約締結が「戦後外交の総決算」となるのかもしれないが、実質的にはほとんど意味の無いことである。

 ロシアには国後・択捉を返還する意思はないので、二島先行返還論は、結局は二島のみ返還になってしまうということである。

 ロシア側は、北方領土は、第二次大戦の結果、ロシア(当時のソ連)が獲得したものであり、不法な占拠ではないと主張している。ラブロフ外相は、「北方領土」という呼称も批判しているし、16日の記者会見では、国連憲章107条(旧敵国条項)に言及し、「日本は第二次世界大戦の結果を認めない唯一の国」と批判した。そして、日露関係は「国際関係でパートナーと呼ぶにはほど遠い」と厳しい見方をした。

 このようなロシアが二島を日本側に引き渡すのは、一つの恩恵を与えることを意味し、経済支援など何らかの見返りが必要だとロシア側が考えて当然である。この論理を突き詰めれば、かつてアラスカをアメリカに売ったように、自らの領土を売却するということになる。

 二島の引き渡しにしても、歯舞島には軍関係者しかいないが、色丹島には約3000人のロシア人が住んでおり、土地の所有権をはじめ、彼らの処遇をどうするのか、旧日本人住民の権利や賠償をどうするのかといった様々な問題が出てくる。

1162名無しさん:2019/01/19(土) 19:24:21
>>1161

 北方領土解決策としては、従来の四島一括返還論と「二島+α」論がある。後者は、「平和条約締結後に歯舞・色丹二島が返還される、その後、国後・択捉については協議を進め、共同で開発を進めたり、日本人の自由往来を可能にする措置をとったりする」という考え方である。

 この考え方の人たちは、サンフランシスコ平和条約で千島列島の放棄を定めたときには、国後・択捉は千島列島に含まれていると解釈されていたと主張する。吉田茂首相は、両島を「千島南部」と呼び、歯舞・色丹の二島については「北海道の一部」という異なった表現をしたことを根拠とする。

 安倍首相がこの主張を取り入れて国境線の画定を行えば、ロシアとの間で協議がまとまるかもしれないが、従来の主張との整合性がとれなくなる。この点を考えると、解決が容易ではないことが分かる。安倍首相の支持基盤である保守層は、四島一括返還論に固執するであろう。

 四島一括論を弊履のように捨て去ると、それは他の領土問題にも影響する。竹島や尖閣諸島は、それぞれ韓国と中国が領有権を主張している。日本は容易に主張を撤回する国と見られれば、韓国や中国はますます態度を硬化させるであろう。

 一方、四島一括返還に固執すれば、一島たりとも永遠に戻ってこないという観測もまた成り立つ。つまり、時間が経てば経つほど、北方領土のロシア化が進み、返還はますます困難になる。従って、二島だけでも帰ってくるときにチャンスを逃すなというわけである。

 つまり、「時間の経過がどちらの側に有利に働くか」という観点からは、四島一括論者は日本、「二島+α」論者はロシアと考えるのである。そこで、前者は「焦る必要はない」、後者は「急げ」となる。

■ ロシアにとって認めがたい「北方領土への米軍駐留」

 交渉が順調に進む前提は、安倍首相、プーチン大統領の権力基盤が強固であることであるが、日本では春に統一地方選挙、夏に参議院選挙が行われる。その結果次第では、安倍首相のレームダック化の可能性もある。

 ロシアにとっては、アメリカ政府の意向も問題となる。ロシアが絶対に避けたいのは、返還した北方領土に米軍が展開することである。トランプ政権が、米軍を駐留させないことを日本側に約束できるのか、これも大きな論点である。

 先に北方領土に対する国民の関心が薄まっていることに言及したが、その背景には領土の経済的効用についての冷徹な視点が広まっているのではあるまいか。石油や金が大量に埋蔵されているような領土なら別だが、寒冷地の領土の資源的価値は大きくない。北方領土の場合、水産資源が最大の経済的利益をもたらすが、島を管理するためにかかるコストと経済的利益を天秤にかける発想が出てくるのも仕方ない。

 1970年代に中国が尖閣列島に対する領有権を声高に主張し始めたのは、周辺海域に石油資源が眠っているという観測が1960年代に出たからである。竹島に関しては、漁業資源以外にはめぼしいものはない。

 しかしながら、領土は、単に経済的利益のみならず、ナショナリズムのシンボルとして大きな意味を持っている。韓国が竹島を実効支配しているのは、反日ナショナリズムの砦にしたいからであるが、ナショナリズムは高くつくこともある。20世紀が生んだナショナリズムや民族自決主義のイデオロギーは21世紀には克服する対象と考えてもよいのかもしれない。

 いずれにしても、平和条約締結・北方領土問題の解決はロシアという相手との交渉次第である。両国の国民世論をはじめ、乗り越えなければならないハードルが山積している。

舛添 要一

1163名無しさん:2019/01/19(土) 22:52:43
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190119-00010003-wordleaf-pol
「2島返還プラスアルファ」論も記載 公開された「外交文書」とは?
1/19(土) 20:15配信 THE PAGE
 昨年末に公開された「外交文書」に、北方領土交渉に絡み、歯舞群島(はぼまいぐんとう)と色丹島(しこたんとう)返還を軸とした「2島返還プラスアルファ」論が記述されていたことがニュースになりました。アメリカでは一定期間を過ぎて公開された外交文書からさまざまな歴史の真相が判明する例がありますが、日本では外交文書の扱いはどうなっているのでしょうか。元外交官で平和外交研究所代表の美根慶樹氏に解説してもらいました。

2010年から30年経過した文書は原則公開に
 昨年12月19日、外務省は1950年代から80年代にかけての外交文書22冊を公開しました。

 1957年の岸信介首相の訪米や、沖縄返還交渉などに関する記録が主であり、その中には北方領土問題に関係する言及も含まれています。そのため、今回の外交文書公開は現在行われているロシアとの平和条約交渉と関連があるのではないかと注目されました。

 そもそも外交文書とは、外務本省と在外公館の間で交わされた電信や各国との交渉の記録などであり、それを綴じて「ファイル」になったものが保管されています。1冊のファイルはざっと5センチくらいの厚さですが、キリのよいところで綴じられます。大きさはA4版が大多数です。

 外務省では、2001(平成13)年4月の情報公開法施行に先立つ1976(昭和51)年から、自主的な取組みとして外務省「外交史料館」において戦後の外交文書の公開を開始しました。そして2010(平成22)年、外部有識者が参加する外交記録公開推進委員会を設置し、その審査を経た上で,国民の関心の高い外交記録を自主的に公開しています。

 2010年からは、30年を経過した外交文書は原則すべて公開されています(30年ルール)。公開された文書はだれでも閲覧可能であり、また、原則インターネットで見ることができます。なお、古い外交文書(実物)は外交史料館で閲覧できます。

交渉中などの理由で公開できない文書もある
 外交文書の公開からどのようなことが判明するでしょうか。公開されたものを見ていくのには、いくつか注意が必要です。

 第1に、1950年代から80年代に至る期間の外交活動のすべてが今回公開されたのではありません。公開されたのはごく一部です。同じ期間の記録でもすでに公開されていたものは多数あります。例えば今回公開された「岸総理第1次訪米関係一件」では第1巻、第2巻、第6巻というラインナップでした。国連や関連機関で進められてきた軍縮に関する諸交渉の記録はすでに公開されています。

 また今回の公開後も、未公開の文書は残るでしょう。外交文書全体の中ではごく一部ですが、ファイルの数で言えば、推測ですが、数十冊に上る可能性があります。

 第2は、公開の定期性です。外交文書の公開あるいは未公開が恣意的に決定されてはなりません。外務省もそのことについては注意を払い、定期的な外交文書の公開に努めてきました。最初の公開は前述したように1976年でしたが、それ以来、2年に約1.5回の頻度で公開が実施されています。

 しかしながら外交記録の中には、現在も交渉が進行中のため公開するのが困難なものがあります。国民の側からすればそのような例外は作らず、すべてルールに従って公開してもらいたいところですが、交渉中にこちらの手の内を見せてしまえば相手国との関係で著しく不利をこうむることになるので、原則として案件が終わったことを公開の条件とするのはやむを得ないでしょう。

 ロシアとの平和条約・北方領土に関する交渉の記録は膨大な量にのぼりますが、原則として公開されていないと思います。

1164名無しさん:2019/01/19(土) 22:53:18
>>1163

米国の外交記録公開で判明した「核密約」
 第3に、外交文書公開は米国が先輩格になっています。米国では民主的な外交の伝統が強く、情報公開法(FOIA: Freedom of Information Act)に基づき、作成後30年以内に外交文書を公開することになっています。30年以内に公開という点では日本と同じ、というより、日本は米国に倣ったのです。

 例外的に公開しないことがありうることは日米共通ですが、どの文書を例外とするか、つまり公表しないこととするかの判断は各国が独自に判断しています。その結果、例えば、日米間の特定の交渉に関する記録が、日本では公開されないのに米国で公開されることが起こります。そういうことが起こらないよう両国とも気を付けていますが、それでも時折生じています。ただし、日本が先で米国が後ということはなく、いつも米国の方が先になるので、研究者にとっては米国の公開記録が貴重な情報源となります。

 実際、沖縄返還の際(1972年)に日米間で核に関する密約があったことが米国で公開された外交文書から2007年に発覚しました。沖縄返還時の米国大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが、1969年11月19日から21日にかけての日米首脳会談のためにニクソン大統領に宛て作成したメモの中に、それをうかがわせる記述があったのです。

 そして、民主党政権時代の2010年、外務省は岡田克也外相の下で調査を行い、核の持ち込みについて、「広義の」という形容詞をつけてはいましたが、密約があったことを確認しました。

ファイルを開けてみないと詳しい中身は分からない
 第4に、外交記録は「ファイル」に収められています。ファイルがどのように作成されるか決まったルールはありません。執務上、便利なように作成されるといっても過言でないでしょう。ファイルは、首相の訪米であれば何冊にもなりますが、もっと簡単なケースであれば、他の案件と一緒に一つのファイルに収められることがあります。

 1冊のファイルの中には、さまざまな記録が収録されていますが、完璧な索引はありません。例えば、今回公開された岸首相の訪米に関するファイルの一つは、「岸総理第1次訪米関係一件 第1巻」です。外務省はその内容について簡単な説明を加えていますが、それだけで本当に必要な記録にたどり着くのは困難でしょう。他にも昭和天皇の「終戦の詔書」は「ポツダム宣言受諾関係一件」という名称のファイルに収められています。1945年9月27日の昭和天皇とマッカーサー連合国軍最高司令官との最初の会見記録は、「本邦における外国人謁見及び記帳関係雑件 米国人の部」の中に含まれています。要するに、ファイルを実際に開いてみなければ、書いてある中身は分からないのです。

 公開された外交文書を読み解く際には、以上に注意しつつ、どのような外交状況であったか経験と知識により補い、推測しながら能率よく記録を探すことが必要です。例えば、ファイルからは分からなくても、同時期に進められていた第三国との交渉や国内情勢にも注意が必要です。それを頭に入れておくと、ファイルの中の外交記録の背景が分かりやすくなります。

今回の公開に政府の意図は関係しているのか?
 最後に、今回の公開において日本政府が進めようとしているロシアとの平和条約・領土問題交渉に関係する意図が働いていたかの問題ですが、「歯舞、色丹プラスアルファ」に関する記述は政府の考えを記したものではなく、新聞報道の中で言及されたことでした。また「沖縄返還が北方領土問題の解決に役立つ」というのは、1950年代、ソ連との交渉が始まる前から常識でした。

 ロシアとの交渉記録は別にまとめられていることは前述しましたが、重要な記録はすべてそちらの方にあります。岸首相の訪米に関する記録の中で北方領土問題に関係する言及があったのは事実ですが、外務省としては現在の日露交渉への影響はないと判断して公開したと思います。

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■美根慶樹(みね・よしき) 平和外交研究所代表。1968年外務省入省。中国関係、北朝鮮関係、国連、軍縮などの分野が多く、在ユーゴスラビア連邦大使、地球環境問題担当大使、アフガニスタン支援担当大使、軍縮代表部大使、日朝国交正常化交渉日本政府代表などを務めた。2009年退官。2014年までキヤノングローバル戦略研究所研究主幹

1165名無しさん:2019/01/21(月) 07:58:20
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190121-00000004-kyodonews-pol
安倍政権、2島決着案を検討 北方4島返還「非現実的」
1/21(月) 2:00配信 共同通信
 安倍晋三首相は北方領土問題に関し、北方四島のうち色丹島と歯舞群島の引き渡しをロシアとの間で確約できれば、日ロ平和条約を締結する方向で検討に入った。複数の政府筋が20日、明らかにした。2島引き渡しを事実上の決着と位置付ける案だ。4島の総面積の93%を占める択捉島と国後島の返還または引き渡しについて、安倍政権幹部は「現実的とは言えない」と述べた。首相はモスクワで22日、ロシアのプーチン大統領との首脳会談に臨む。

 「2島決着」に傾いた背景には、択捉、国後の返還を求め続けた場合、交渉が暗礁に乗り上げ、色丹と歯舞の引き渡しも遠のきかねないとの判断がある。

1166名無しさん:2019/01/25(金) 01:19:16
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190124-00000188-kyodonews-pol
新元号は「日本を元気に」 衛藤首相補佐官が予想
1/24(木) 18:03配信 共同通信
 衛藤晟一首相補佐官は24日、東京都内で開かれた共同通信加盟社論説研究会で講演した。5月の新天皇即位に伴う改元で、4月1日に公表される新元号に関し「今回は喪に服する期間がない。『日本はもう一回、元気を出そう』という方向で選ばれるのではないか」と予想した。前回は昭和天皇逝去による改元だったが、今回は天皇陛下の退位と皇太子さまの即位による祝賀ムードの中で行われることを理由とした。

 新元号の選定に関し「有識者会議には絞り込んだ3案が示されると思うが、一つでも漏れたらボツになって次の案に代わるだろう」と語った。

1167とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:25
興味深い論攷である。

2018.12.08
「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々
戦争責任の苦悩も明らかになったが…
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58837
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究者

12月8日は、太平洋戦争開戦の日である。

この戦争を巡っては、昭和天皇が晩年の1987年まで「辛い」「戦争の責任のことをいわれる」などと悩んでいたことが、今年発見された資料で明らかになった(「小林忍侍従日記」)。

日本軍は緒戦で驚異的な快進撃を続けた。1941年12月に開戦するや、日本海軍は、真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊主力を戦闘不能ならしめ、またマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊主力を海の藻屑と葬り去った。

日本陸軍もこれに負けじと同月に香港を占領し、1942年1月にマニラ、2月にシンガポール、3月にラングーンおよび蘭印(オランダ領東インド諸島)をつぎつぎに占領、連戦連勝の凱歌をあげた。

続々ともたらされる勝報に、不安に苛まれていた天皇も気が大きくなっていった。1941年12月25日には早くも、

「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉庫次侍従日記」)

と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、

「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」(『木戸幸一日記』)

といって、喜びを隠さなかった。

そのため、同年4月にアメリカの空母部隊によって東京が初空襲されても(ドゥーリトル爆撃)、なかなか信用せず、すぐに避難しようとしないぐらいだった。

――よく知られるように、1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うなど大敗を喫し、戦争の主導権をアメリカ側に譲り渡してしまった。祝杯の準備までして戦果報告を待っていた海軍中央は、これに大きな衝撃を受けた。

この敗北は国民には伏せられたが、天皇には正確に伝えられた。天皇は6月7日に永野修身軍令部総長より報告を聞くや、

「之により士気沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるようにせよ」(『木戸幸一日記』)

といって、注意を与えた。残念な気持ちはあったものの、それほど動揺せず、むしろ大局的観点から士気を励ましたのである。

しかるに、天皇はいつまでもその態度を貫けなかった。同年8月、今度は南太平洋のガダルカナル島で日米の攻防戦がはじまった。日本軍は、米軍の本格的な反攻を読みきれず、戦力を小出しにして、いたずらに消耗を重ねていった。

1168とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:38


天皇も段々と不安になり、ガダルカナル島の戦況を尋ね、大丈夫か、どうなっているのか、確保できるのかと質問を繰り返した。

「近頃我戦果揚らざる傾向あるが如何」(『侍従武官城英一郎日記』)

これは、8月28日の「お言葉」である。3月には「戦果は早く挙がりすぎる」といっていたのに、この変化には驚かざるをえない。

数多の戦闘を重ねたにもかかわらず、日本軍は結局ガダルカナル島の確保を果たせなかった。そして12月31日、ついに同島からの撤退を決するのやむなきに至った。天皇はこの決定を受けて、

「ただガ島攻略を止めただけでは承知し難い。何処かで攻勢に出なければならない」(井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)

とこぼした。急速な戦局の悪化に焦った天皇は、もはや以前のようにどっしりと構えられなくなっていた。

1943年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年だった。米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。

4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。

天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。その頻度はいささか異常だった。

「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)

いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。1944年に入っても、

「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日、上同)

といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島のサイパン島まで陥落してしまった。

つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を残したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。

よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。

「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編『昭和史の天皇1』)

1169とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:50
>>1167-1169
つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。

「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)

こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできようはずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。

昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、

「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)』)

と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和の海上特攻につながったとの指摘が存在する。

これについては、本当にそんな発言があったのか疑う声も少なくない。『昭和天皇実録』にも、別の「お言葉」が採用されている。

「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(『戦史叢書 大本営陸軍部(10)』)

制海権・制空権がないなかでの逆上陸は、特攻的といえなくもない。これはこれでかなり厳しく重い「お言葉」ではあった。

天皇はいつ敗戦を覚悟したのか。これも諸説紛々たるところだ。

天皇が早く手を打たなかったので戦禍が拡大したとの批判がある一方で、ここまで待たなければ軍部を抑えられず、終戦処理など不可能だったとの見解もある。

いずれにせよ、1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。

そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。

単純な二者択一では実態に迫れない
以上をみてもわかるとおり、昭和天皇は戦時中たいへん多弁だった。一旦開戦した以上、大元帥としての役割を果たそうとしたのかもしれない。明治天皇はここまでではなかったので、これは昭和天皇に顕著な特徴だった。

もちろん、これのみをもって好戦的だと断ずるのは早計すぎる。昭和天皇の「お言葉」は、平時の平和志向のものも実に多いからだ。だからこそ議論を引き起こして止まない。

平和主義者か、軍国主義者か。そんな単純な二者択一から卒業しなければ、その実態に迫ることはできないだろう。来年の改元で、昭和もいよいよ遠くなる。これをより冷静で多元的な議論のきっかけにしたいところである。

1170とはずがたり:2019/02/01(金) 13:18:50

成金がお金を燃やす風刺画はいかにして出来上がったか?
http://onew-web.net/6125.html
2017/2/13

1171とはずがたり:2019/02/06(水) 08:52:32
残虐な日本兵をアピールしたい時期のアメリカの公文書だから多めに書いてあろうけど有る無しに関しては無かったとか云ってる奴の気が知れない。

2019.02.01 2019.02.02
南京大虐殺の犠牲者は「50万人」以上??アメリカ公文書「RG59-793.94/11631」が従来説を大きく覆す
https://rondan.net/14536

1172とはずがたり:2019/04/15(月) 14:23:41
ベルギー、過去の強制連行謝罪
数千人の子供を植民地から
https://this.kiji.is/486795004733604961?c=39546741839462401
2019/4/5 16:084/5 16:17updated
c一般社団法人共同通信社

 【ブリュッセル共同】ベルギーのミシェル首相は4日、同国がかつて植民地にしていたコンゴ(旧ザイール)など現在のアフリカ中部3カ国から1959〜62年、ベルギー男性が現地女性との間にもうけた子供数千人を強制的にベルギーに連れ去ったことを、国家として初めて謝罪した。欧州メディアが伝えた。

 ベルギーは現地で人種隔離政策を行い、ベルギー人と現地住民の結婚を法律で禁止したが、違反が目立ち、子供が多数誕生。ベルギー当局はこうした子供らの存在は政策遂行を妨げ植民地支配を脅かすと考え、本国の孤児院などに送っていた。

1173とはずがたり:2019/04/15(月) 14:26:15
ベルギー国王は可成り陰惨な植民地支配してた筈。その一環か延長かに起きた出来事か。

1174とはずがたり:2019/06/09(日) 22:28:46
日鐵め,日清戦争の賠償金で生まれ太平洋戦争にも組み込まれた反省や自己認識が全くないな

日鉄、北九州市の平和資料館に懸念 「戦争の内容多い」
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/516842/
2019/6/8 6:00 (2019/6/8 17:23 更新)

 北九州市が建設準備中の「平和資料館(仮称)」を巡り、新日鉄住金(現日本製鉄)八幡製鉄所が展示計画について「戦争に関する内容が多い」との懸念を市側に伝えていたことが分かった。資料館は終戦直前の八幡大空襲を映像やコンピューターグラフィックス(CG)で追体験できる展示などを予定。空襲の標的が同製鉄所や市街地だったとされ、結果的に県内最大規模の空襲被害となったことを踏まえ、識者は「歴史的な経緯に会社が敏感になっているのではないか」とみている。

 資料館は、戦争の悲惨さなどを考える機会を提供する目的で、市役所近くに約8億円を投じて建設予定。開館は2021年度の見込みで、18年11月の市議会では基本的な展示内容案などが示された。

 直前の同年10月31日、市は主要な関係先として新日鉄住金に同案を説明。西日本新聞の情報公開請求で市から開示された「対応メモ」で、同社は「当初聞いていた内容に比べ、戦争に関する内容が多いという印象」との見方を伝え、市側は「空襲の話なども避けては通れないものである」と理解を求めていた。

 八幡製鉄所総務部は取材に「17年12月に説明を受けた時は戦時中の市民生活の紹介を主体とするとのことだったが、(内容が)戦争そのものになっていると伝えた。設立趣旨は理解しているが、(建設については)否定も肯定もしない」との見解を示した。

 市総務局は今後、同社に関連資料の提供を要請する計画だが「今回の件は開館スケジュールには影響しない」としている。市は有識者による懇話会を本年度中に設け、展示案に対する最終的な意見を集める方針。

 九州大の施光恒(せてるひさ)准教授(政治学)は「製鉄所があったから北九州が発展したことも事実だろう。平和資料館が何を継承していく施設なのか議論を深め、コンセプトをしっかり固めるべきだ」と話している。

1175とはずがたり:2019/06/14(金) 15:19:39

可成り率直に語っていて好感が持てる。
>私は、歴代の総理大臣のうち、ベストは伊藤博文(1841〜1909)だと考えています。明治維新の原動力になったのは坂本竜馬(1836〜1867)でもなければ西郷隆盛(1828〜1877)でもなく、岩倉具視(1825〜1883)でさえない。木戸孝允(1833〜1877)だと私は考えております。
>自民党にも友人は少なくないですが、実は最も知人が多いのは国民民主党です。

榛葉さん激推しの小笠・掛川人だけど住民票あっても家広さんに投票してしまいそうだなぁ〜。

徳川宗家「第19代目」が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190613-00565651-shincho-pol
6/13(木) 6:00配信 デイリー新潮

反原発の“お殿様”
 新聞各紙は、政治経済評論家の徳川家広氏(54)が5月28日に会見を開き、今夏、参院選静岡選挙区から出馬すると報じた。まずは朝日新聞(電子版)の「参院選静岡選挙区に徳川家19代目 立憲が擁立発表」からご紹介しよう。

 ***

《立憲民主党は28日、夏の参院選静岡選挙区(改選数2)に、徳川宗家19代目に当たる政治経済評論家の徳川家広氏(54)を公認したと発表した。初代家康が駿府城を居城にしたこともあり、徳川氏は会見で「先祖代々縁が深い。土地勘も愛着もある」と述べた。

 徳川氏は徳川宗家18代当主・恒孝(つねなり)氏の長男。徳川記念財団の理事や家康をまつる久能山東照宮(静岡市駿河区)の祭司を務めている》

 徳川家というだけでもインパクトは充分だが、ご本人の経歴も華やかである。慶応大経済学部を卒業し、アメリカのミシガン大学大学院で経済学、コロンビア大学大学院で政治学の修士を取得した。

 また、国連食糧農業機関(FAO)に勤務後、2001年から日本でフリーの翻訳家として多くの書籍を上梓している。中でもジョージ・ソロス著『ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ』(講談社)はベストセラーになった。

 しかしながら、“華麗なる経歴”を見れば見るほど、「なぜ立候補するのか?」という素朴な疑問は増すばかりだ。そこでインタビューを依頼し、数々の疑問をぶつけさせてもらった。以下は、その一問一答である。

――改めて、なぜ出馬を決心されたんですか? 

徳川家広氏(以下、徳川):私は19代ですが、16代の徳川家達(1863〜1940)は1898(明治31)年に東京市長選に担ぎ出されそうになりました。そこで勝海舟(1823〜1899)に相談へ行ったんですね。

 すると勝から「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスされたそうです。

 家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、90(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。

 1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。貴族院に選挙はありません。人選は内閣が行い、陛下のご下命で就任いたします。(註:正確には満25歳に達した伯爵・子爵・男爵に叙されている者の同じ爵位の華族による互選で選ばれた)

 その後、家達は「よほどのこと」が起こり、国際政治の表舞台に立ちました。1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めたのです。

1176とはずがたり:2019/06/14(金) 15:19:53


 会議では保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に日英同盟が失効し、米・英・仏・日の四カ国条約を結びました。会議の結果に反発する世論も少なくなかったわけですが、だからこそ家達しかできない仕事だったのではないかと思っております。

 私も、今の日本では「よほどのこと」が起きていると判断して立候補を決断いたしました。今年4月に行われた北海道知事選に出馬するか検討していた際も、同じ問題意識を持っていました。

 日本は少子高齢化から人口減少社会に突入しました。加えて、公文書の改竄や、首相が省庁幹部と面談した際の議事録を作成しない事実が発覚するなど、日本が文明国の座から滑り落ちているという恐怖感を覚えます。怒りではございません。恐怖心です。日本で底なしの堕落と衰退が始まっているという恐怖があって、「これを建て直す必要があります」と有権者に訴える必要性を痛感しているのです。

――出馬会見では“反原発”を訴えました

 そもそも中部電力が持つ発電所のうち、浜岡原発は中電本社からの距離が最も遠いとされております。この姿勢が大問題ですし、危険な状態にあることは言うまでもありません。

 もし浜岡原発がシビアアクシデント(過酷事故)を引き起こせば、静岡県が人口稠密地帯です。更に東京と名古屋、大阪を結ぶ大動脈が壊滅的被害を受けます。もちろん私のルーツという観点からも、他人事ではございません。

 2011年に東日本大震災が発生し、参院選は13年と16年に実施されました。ところが静岡県選挙区で、原発問題は全く争点になっていないわけです。これは非常に問題ではないかと考えております。

 原発の現場レベルでは、メーカーや電力会社、経産省などの関係者であっても、「原子力政策を今のまま継続させることは無理」だと分かっているのではないでしょうか。

 そういう声が表に出ないのは、「確かに日本は原発ゼロにしなければならないが、そうすると自分の仕事はどうなるんだろう?」という不安や、仲間から「反原発を口にするなんて裏切り者だ」と非難されるのが辛いということがあるのだと思います。

 もちろん私は、「電力がなくても幸せに生きられる」などと主張したいわけではありません。そうではなく、「浜岡原発を廃炉とし、その跡地に火力発電所を建設すれば、誰も文句を言わないのではないですか?」と問いかけたいのです。

 世界最先端の火力発電所を建設することは、メーカーにとってもビジネスチャンスです。メイドインジャパンの名にふさわしいものが誕生すれば、世界的なニーズが起こるでしょう。また、日本が世界中で植林事業を行うなど、二酸化炭素の排出問題に関して断固たる姿勢を示すことも重要でしょう。

 日本における原発政策は失敗だったとはっきり受け止める。前向きに打開策、他のエネルギー政策を探す。それを強く訴えれば、静岡県選挙区で有権者の意識、考え方が変わる。それを日本中に広げていく、というのが私のビジョンです。

歴代総理大臣のベストは? 
――憲法改正には否定的という理解でよろしいでしょうか? 

徳川:安倍晋三首相(64)は憲法改正を既定路線のように語っておられますが、私は護憲を訴えたいと思っています。日本国憲法とは、進駐軍が資金力と軍事力にものをいわせ、日本人が嫌がる新憲法を無理矢理に呑みこませたということではありません。

 そもそも太平洋戦争で、日本人は全員が死ぬかというところまで追い詰められました。文字通りの一億玉砕です。そして、あの大戦を「自衛戦争」と呼ぶ人もおられますが、他国が日本の領土を侵略した事実はありません。

1177とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:07

 1943(昭和18)年、大本営は絶対国防圏を設定しますが、44年7月にサイパンは陥落します。国防圏が破られたら停戦交渉を始めるはずだったのですが、政府は戦争を続行してしまいます。

 神風特攻隊だけでなく、桜花(航空特攻兵器)、回天(人間魚雷)、震洋(爆装特攻艇)、伏龍(人間機雷)といった特攻・自殺兵器を開発します。(註:マルカッコ内は編集部が補った)

 惨(むご)いのは開発段階のテストで多くの若い兵士が命を落としていることです。そして最後には竹槍が登場しました。

 45(昭和20)年8月15日、終戦を迎えます。日本は何とか、あそこで踏みとどまったわけです。それも自然に停戦が成立したわけではありません。陛下の御聖断があったわけですが、そこに持っていくまでに大変な苦労が、あまり語られない苦労があったわけですね。

 あの時の日本人は「あの戦争が、あともう少し続いたら、みんな死ぬところだった」と真摯に反省し、それが帝国議会における新憲法の議論に反映されます。憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入した「芦田修正(編註:日本政府憲法改正小委員会において委員長の芦田均[1887〜1959]が加えた修正)」は、その代表例です。

 ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)も、「日本の皆さんで、しっかり議論してください」と言いました。貴族院も、自分たちの名誉と天皇陛下に対する忠誠心から、極めて真面目に議論しています。その上で日本国憲法が誕生し、陛下の御裁可をいただきました。これを“GHQの押し付け憲法”と評するのは無茶苦茶です。

 日本人が真摯に議論して作った憲法という事実を無視し、「もう憲法は時代に合っていない」とか「緊急事態条項を創設しよう」という指摘は、あまりに乱暴です。昨年7月に西日本を中心に大豪雨が発生しましたが、被害者の皆さんは改憲が必要だと指摘されたでしょうか? 

 敗戦における軍部の責任は否定できません。つまり憲法9条とは、「日本を敗戦に追い込んだ旧日本軍を復活させない」ことを主旨としたのです。警察予備隊、自衛隊を創った方々は、そのことを熟知していました。もっと言えば、自衛隊に入隊される方々も、同じです。

 中には漫画『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ:講談社)に憧れた人もいるでしょうが、それは極めて少数で、自ら戦争を引き起こすことはない、よほどのことがない限り戦場には駆り出されない、という前提で自衛官になられた人が大半でしょう。ですから、安保法制を審議した際、「裏切られた」という声が自衛官の方々からも漏れたわけです。

――徳川さんのような“エリート”が、ドブ板選挙を戦えますか? 

 戦前、徳川家は、国が認める特権階級でした。華族令で伯爵になりましたが、私の父である徳川恒孝(79)は、会津松平家の分家に産まれましたから華族ではありません。

 祖父の松平一郎(1907〜1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに行っておりました。終戦で収容所に入れられますが、父とその兄、私の祖母は御殿場に疎開しており、秩父宮さまの元に身を寄せておりました。秩父宮さまは立派な方なので、一切、ヤミ物資には手を付けられません。ですので皆さま、戦後の平均的な日本人の中でも、相当に貧しい暮らしをしておられたんですね。

 祖母は結核で片肺しかなかったのですが、それでも懸命に畑を耕しました。貧しい食べ物を3人で分け合い、たまに宮さまから卵を賜わると、父は泣いたそうです。旧華族は1000軒に達しましたが、あれほど貧しかったのは我が家だけだったでしょう。

 だから特権階級どころか、実情は庶民と全く変わりませんでした。皆さんと同じように空襲で逃げ惑い、疎開先でいじめられ、食糧難に苦しんだのです。戦争で本当に酷い目に遭ったという認識を持っているからこそ、そうした歴史的事実をすっ飛ばして改憲議論が行われるのには賛成できません。

 私がドブ板の選挙活動を行うことは当然ですし、それをしなければならないと思っております。日本人が滅亡寸前まで追い詰められたからこそ、私たちは1票を持っているのです。

1178とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:19

 政治家として、その貴重な1票を分けてくださいとお願いするわけです。敗戦を経て、日本人は自分たちの血で1票を購(あがな)いました。よく「日本人は戦わずして民主主義を手に入れた」と指摘する方もおられます。確かに内戦などが起きたわけではありませんが、充分すぎる犠牲を払っている。血まみれの1票なのですから、ドブ板選挙を行わなければ、政治家になってはいけないとも思います。

――安倍首相の選挙区は山口4区、つまり昔の長州です。「徳川家が長州に挑戦状」と面白おかしく書かれたら、どう感じますか? 

 実は薩摩の方々は、徳川幕府に対して非常に同情的だった歴史があります。篤姫、つまり天璋院(1836〜1883)は島津家の一門に産まれ、徳川家に嫁ぎました。薩摩の皆さまが徳川家を守ったという表現もできるでしょう。

 私の母親も薩摩の出身です。私には会津家だけでなく、島津家の血も入っています。実は旗本の子孫が薩摩藩の子孫と結婚したというケースは、意外に多いんです。薩摩人と江戸っ子は相性がいい。私は“黒潮連合”と呼んでいます(笑)。

 また私は、歴代の総理大臣のうち、ベストは伊藤博文(1841〜1909)だと考えています。明治維新の原動力になったのは坂本竜馬(1836〜1867)でもなければ西郷隆盛(1828〜1877)でもなく、岩倉具視(1825〜1883)でさえない。木戸孝允(1833〜1877)だと私は考えております。

 もちろん伊藤も木戸も長州人です。私は長州人というのは大したものだと思っております。確かに私が立候補すると、安倍首相のルーツが長州であることを面白おかしく書くメディアがあるかもしれません。ですが私としては、長州にそういう考えを持っているということは知ってほしいですね。

なぜ立憲民主党なのか? 
――なぜ立憲民主党から立候補されたのですか? 北海道知事選では自民党の候補として出馬すると報道されました。

徳川:北海道知事選では、自民党の皆さんと相談していたことが、たまたま記事になりました。しかし、他党ともやり取りはあったんです。北海道は衰退する日本の象徴と言えます。ここで対策を講じることができたなら、それは日本全体で参考になる政策でしょう。

 その経験を踏まえて、参院選では静岡選挙区から立候補することを決めました。なぜ立憲民主党かと言えば、私の考えは立憲民主党の政策と同じだからです。

 徳川幕府の最高法規の1つに、禁中並公家諸法度があります。天皇陛下の政治的中立が謳われており、これを当時の“憲法”と表現することが可能です。

 そして諸法度は制定されてから大政奉還までの250年間、ただの1行も変えられていません。天皇陛下から国政を預っているという意識を徳川家は強く持っていました。つまり徳川家の基本方針は、立憲主義と平和主義だったのです。

 また現在、日本の有権者の平均的な感覚は、立憲民主党の主張に近いと思うんです。自民党ではない。

 例えば、今の上皇が退位の意向を明らかにされた際、朝日新聞の世論調査では90%以上、産経新聞でも60%近くが賛成しました。つまり日本人の85%くらいが賛成したと考えられるでしょう。

 ところが当初、官邸も自民党も難色を示していたことは、皆さんもご記憶でしょう。天皇の政治的中立を問題視したわけですが、そんな話ではなかったのです。

 個人の幸福追求権や生存権という文脈で受け止められるべきことでした。上皇陛下は当時、「85歳になったので辞めさせてください」と国民に相談されたわけで、それに圧倒的多数の国民が共感と賛意を示した。それが今の日本人の感覚ですが、与党自民党の感覚はズレていたと思います。

1179とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:47
>>1175-1179
 丸山穂高議員(35)の戦争発言も、1つだけ良いところを見つけるなら、日本人全体の感覚と政治家の感覚がズレていることを、如実に示したわけです。これだけは不幸中の幸いと考えられます。

――反アベノミクス、反新自由主義も主張しておられます。

徳川:反原発、護憲、そして反アベノミクス(反新自由主義)が、私の主張の3本柱です。2008年のリーマンショックを経て、日本の経済学会も、新自由主義的な理論を主張する経済学者が増えています。

 しかし、それが散々たる結果に終わっているのは、私たちの生活実感からも明らかでしょう。どこの会社も苦しいのです。日本の人口の1%に満たない人はアベノミクスの恩恵を受けたかもしれませんが、残りの方は生活が苦しく、将来に対する不安を抱えています。

 バブル景気は1986年から始まったとされていますが、その前の経済水準と比べても現在は貧困が拡大し、経済格差は広がっています。

 国民の誰もが「おかしい」と思っているのですが、テレビを筆頭とする大手メディアは「安倍政権の経済政策はおかしい」と指摘しないため、誰も「おかしい」とは言えない状況になってしまっています。

 戦後、日本経済が生んだ最高傑作は、1979年にソニーが発売したウォークマンかもしれません。あれは日本ではないと開発されなかった。満員電車で通勤・通学する人たちが、「ぎゅうぎゅうの車内でも、なんとかプライベートな空間を確保できないか」と願ったのが原点です。

 普通の日本人の希望が反映されたわけですが、重要なのは、当時の日本人は“夢の新商品”を買うお金を持っていたということです。日本人なりの幸せが製品の形で具現、更に世界中に輸出され、「メイドインジャパン」の名を高めていった。

 ビデオデッキもそうです。当時の日本人は残業が多かったので、ニーズがあったんですね。当時の10万円というのは相当な高価格ですが、非常に早いスピードで普及していった。あの頃の日本には、しっかりとした中間層が存在していたのです。

――最近、立憲民主党の支持率が低下していることは、どうお考えですか? 

徳川:自民党で上手くいくように見えてしまっているのが原因でしょう。総理大臣が「高度経済成長の時代に戻れます」と旗を振り、国民もファンタジーを信じてしまう。信じざるを得ないという側面もあるでしょう。

 一方の立憲民主党は、結党して間もないという点もあります。ただ、野党共闘が進み、立憲民主党が「私たち日本人の伝統的な価値観に照らし合わせると、自民党の主張はここが間違っています」という主張をできるようになれば、きっと支持率は上がっていくと思います。

――政治家になろうと決心されたのは、いつ頃からですか? 

徳川:一昨年か去年というところでしょうか。私は翻訳と著述をしていましたので、活字文化の衰退を通して日本の衰退を実感するようになりました。

 北海道知事選もそうですが、もともと政治家の皆さんと話をする機会は多かったのです。自民党にも友人は少なくないですが、実は最も知人が多いのは国民民主党です。

 そういうことになりますと、私は旧民主党における右派に最も知り合いが多いということになります。とはいえ、政治家としてどこの党から出馬するか、各党の皆さんとお話をさせていただく中で、最終的に一番主張が合う立憲民主党にしました。

週刊新潮WEB取材班

2019年6月13日 掲載

1180とはずがたり:2019/07/12(金) 20:09:05
フィリピン戦没者遺骨収集“日本人ゼロ”疑惑…厚労省が隠蔽した真実
https://dot.asahi.com/aera/2019051700022.html?page=2
大平誠2019.5.20 07:00AERA

1181とはずがたり:2019/08/17(土) 17:40:34
戦没者を追悼する像が安置される平和祈念堂 参観収益減り運営の危機 運営する沖縄協会が寄付呼び掛け
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/444020
2019年7月12日 08:00

 沖縄県糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂を管理している公益財団法人沖縄協会(野村一成会長)が、参観料や資産運用収入の減少に伴う財政難に陥っている。経費節減に努めてきたが、経年劣化による補修工事などの予算確保に苦慮し、毎年約2千万円を財団の資産から取り崩している。このままでは継続的な運営も危ぶまれ、協会側は支援の寄付を募っている。

 1978年に開堂した祈念堂内に安置されている高さ約12メートルの平和祈念像は、戦没者を追悼し世界平和を希求する象徴として、芸術家の故山田真山さんが18年余りをかけて原型を制作。建造から41年がたち、数年後に1億円前後をかけて大規模な防水補修工事が必要になるという。

 協会によると、参観者は減少傾向で、2018年度の有料入館者は約6万1千人。参観料収益は17年度2032万円から18年度1797万円に減った。金融機関に委託した資産運用も、近年の低金利などの影響で思わしくないという。

 協会側は「協会のみの努力では予算確保が限界に来ている」とし、祈念堂の安定した管理・運営のため、県内外からの寄付を呼び掛けている。

 協会は16年から税額控除対象法人と認定され、寄付した人は税制優遇措置が受けられる。本年度の寄付目標は200人。新垣昌頼専務理事は「平和祈念のシンボルでもある祈念堂を守っていきたい。ぜひ協力をお願いしたい」と話した。

 東京都内の県関係者でつくる「三月会」の重田辰弥会長が9日、都内の協会本部を訪れ「窮状に役立ててほしい」と同会と個人分を合わせて計10万円を寄付した。

1182とはずがたり:2019/09/12(木) 14:41:37
インド訪問の英国教会大主教、植民地時代の虐殺現場でひれ伏す
https://www.afpbb.com/articles/-/3244048?cx_part=top_latest
2019年9月11日 23:23 発信地:アムリツァル/インド
[ インド アジア・オセアニア 英国 ヨーロッパ ]

インド北部アムリツァルにあるジャリヤーンワーラー・バーグ記念碑で、犠牲者を追悼する英国国教会のジャスティン・ウェルビー大主教(2019年9月10日撮影)。(c)NARINDER NANU / AFP
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【9月11日 AFP】英国の植民地下にあったインド北部アムリツァル(Amritsar)で1919年に起きた大虐殺をめぐり、英国国教会のジャスティン・ウェルビー(Justin Welby)カンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)は10日、個人の立場で謝罪の意を伝えるべく、事件現場でひれ伏した。この出来事をめぐって英政府は、これまで謝罪したことはない。

 インド・アムリツァルで1919年4月13日、武器を持たない男性や女性、子どもたちに向かって英国軍部隊が発砲。当時の記録によると、犠牲者は379人とされているものの、インド側の数字では計1000人近くとされている。


 アムリツァルを訪れたウェルビー大主教は、「政府当局者ではないので、英国政府を代表することはできない。だが私は、キリスト(Christ)の名の下に話すことができる」と発言。「犯された罪が及ぼした影響について、私は恥じ入り、申し訳ないと思っている。私は宗教の指導者であり、政治家ではない。宗教指導者として、ここで起きた悲劇を悼む」と語った。

 さらに、ウェルビー氏はフェイスブック(Facebook)への投稿で、現地ではジャリヤーンワーラー・バーグ(Jallianwala Bagh)と呼ばれる現場への訪問が「この場所で起きたことへの強い恥じらい」を喚起したとし、「英国の歴史に残る数々の深刻な汚点の一つだ。世代を超えて続く痛みと悲しみは、決してはねつけられたり、否定されたりしてはならない」と訴えた。

 100年前に起きたこの事件は、英国のインド統治における最悪の事態とされ、インド人のナショナリズムを高め、独立への支持を強固なものとすることにつながった。

 英国のエリザベス女王(Queen Elizabeth II)も1997年、インド訪問中に現地で花輪を手向けたが、失言癖で知られる夫のフィリップ殿下(Prince Philip)が、死者数に関するインド側の推定は「大きく誇張」されていると発言したと報じられ、見出しをさらった。(c)AFP

1183とはずがたり:2019/09/12(木) 14:42:00
(世界発2019)奴隷の子孫に補償、米で高まる声 初の「上陸」から400年
有料記事
https://www.asahi.com/articles/DA3S14172859.html
2019年9月11日05時00分

 黒人奴隷が英植民地に初めて連れてこられてから400年。米国で、奴隷の子孫への補償を求める声が高まっている。社会に深い傷を残す人種間の差別や格差が背景にあるが、かえって分断を深めるとの懸念も出ている。(ハンプトン=沢村亙)

 ■経済格差や人種偏見、背景

 6月19日、ワシントンの米下院司法委員会で…

残り:1690文字/全文:1840文字

1184荷主研究者:2019/09/15(日) 22:25:16

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48326750X00C19A8AA1P00/
2019/8/8 7:00 日本経済新聞 関西
明治元年、幻の大阪遷都論 大久保利通に前島密が反論

1185とはずがたり:2019/09/23(月) 19:41:51
2019年05月07日 08時00分メモ
第二次世界大戦中にナチス・ドイツとイギリスが繰り広げた「電波の戦争」とは?
https://gigazine.net/news/20190507-battle-of-the-beams/

1186とはずがたり:2019/10/09(水) 10:11:23
フランス紙記者が見る日韓対立「徴用工問題と似たようなことが戦後のヨーロッパでも起きていた」
2019年10月03日
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2019/10/03/109847/
取材・文/川喜田 研 撮影/長尾 迪

悪化の一途をたどり、改善の糸口も見えない日韓関係。日本と韓国の双方を取材するヨーロッパメディアのジャーナリストはこの問題を客観的にどう見ているのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第144回は、フランス「ル・モンド」紙の東京特派員、フィリップ・メスメール氏に聞いた――。

***

──いわゆる「徴用工訴訟問題」に端を発した今回の日韓対立を、メスメールさんはどう見ていますか?

メスメール 徴用工訴訟問題は、日韓双方が輸出管理の優遇対象国から排除する「貿易問題」や、韓国政府によるGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の破棄という「安全保障問題」といった、まったく別の問題にまで発展しています。私が気になるのは、両国の「対立」ばかりが注目されていて、個々の問題を切り分けた冷静な議論が行なわれていない点です。

政府、民間の両面で関係が修復不能に陥らないための努力が続いていて、話し合いのチャンネルが完全に閉ざされてしまったわけではありませんが、ここまでこじれると修復にはかなりの時間が必要でしょう。

両国の対立が深まった経緯を振り返ると、昨年10月に韓国の最高裁にあたる「大法院」が日本製鉄に対し、戦時中、徴用工として動員された韓国人4人へ1人あたり約1000万円の損害賠償を命じた判決がきっかけでした。この判決に対して、日本政府は徴用工への補償問題は「1965年の日韓請求権協定ですべて解決済み」と主張し、「司法の判断を尊重する」とする韓国政府と激しく対立しています。

ここで検証する必要があるのは、日韓請求権協定が結ばれた1965年当時の韓国の状況です。この合意は、日韓の和解を強く望んでいたアメリカの強い意向を受け、当時、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の独裁政権下にあった韓国と日本政府の間で結ばれたものです。このとき、朝鮮戦争で荒廃した韓国は戦後復興のために巨額の資金援助が必要な状況でした。一方、すでに戦後の経済成長が軌道に乗り始めていた日本は新たなマーケットを求めていて、韓国はそのひとつでした。

個人への補償分も含め、日本政府が韓国に巨額の賠償金を支払う形で合意に至ったわけですが、朴政権は経済復興を優先し、賠償金の大部分をインフラの建設などに使ったため、戦争や日本統治下での被害者には十分な補償が行なわれなかった。当然、「その責任は誰にあるのか?」という議論はあるでしょう。ただし、韓国には日本統治下で徴用工として働きながら未だに補償を受けられていない人たちが存在するというのは紛れもない事実で、人権的な観点で言えば、彼らが救済を求めて声を上げる権利そのものは否定できないと思います。

もうひとつ考慮しなければいけないのは、日韓請求権協定が結ばれた当時の韓国には、「自らの被害を名乗り出られずにいた人たち」が数多くいたという点です。これは従軍慰安婦問題にも共通することですが、韓国には戦後長い間、日本統治下で自分が徴用工や従軍慰安婦として働かされたことを心理的に「恥」と感じ、その事実を隠していた人たちが少なくありませんでした。

そうした「隠れた被害者」たちが、ようやく公に声を上げられるようになったのは独裁政権が終わり、民主化が始まった80年代後半に入ってから。つまり、日韓請求権協定が結ばれた65年時点で彼らの被害は表面化していなかったのです。

──65年時点では明らかになっていなかった「被害」があり、彼らが未だに補償を受けられずにいるという現実は無視できないと?

メスメール 第二次大戦後のヨーロッパでもこれと似たようなことが起きていて、戦争中に迫害されたユダヤ人の中にも、終戦直後には心理的な被害を名乗り出ることができなかった人たちが数多くいました。第二次大戦中にナチスの占領下にあったフランスでもユダヤ人に対する迫害はあり、その被害者たちの存在は1960年代後半になるまで、なかなか表面化しませんでした。

先日亡くなったシラク元大統領が、戦時中のユダヤ人迫害に対する政府の責任を初めて認めて謝罪したのは、終戦から半世紀を経た1995年のこと。このように、戦争や植民地支配などが残した傷は戦争が終わると同時に全貌が明らかになるわけではなく、30年、40年という長い年月を経て表面化するものも少なくないのです。過去の戦争や植民地支配がもたらした傷は、条約や賠償金だけで癒えるものではなく、それで不幸な歴史が消えてしまうわけでもありません。

1187とはずがたり:2019/10/09(水) 10:11:44
>>1186
例えば、ポーランドへの戦後補償についてドイツは「政治的・法的に解決済み」という立場を取っています。それでもナチス・ドイツのポーランド侵攻から80年の節目にポーランドで行なわれた、今年9月1日の式典にはドイツのシュタインマイヤー大統領が出席し、「かつて、独裁国家だったドイツの犠牲者となったポーランド国民の前に私は頭を下げ、許しを乞う」とポーランド語で謝罪の言葉を述べました。日本の安倍首相もアメリカに対しては、ハワイの真珠湾を訪問したときに、真珠湾攻撃の犠牲者たちに頭を下げ、哀悼の意を表していたではありませんか。

おそらく、日本政府が韓国に対してこれだけ強硬な態度を取っているのは、元徴用工の個人的請求権を認め日本企業への賠償を求めた韓国大法院の判決が、今後、他の日本企業への大量提訴に発展することを危惧しているからでしょう。しかし、そうした「現実的な理由」を差し引いても、両国間の歴史的背景を考えれば、強硬な態度が韓国側の強い反発を招くことは、日本政府にとって十分に予想できたことだと思います。

ちなみに日中間の徴用工問題について言えば、1972年の日中共同声明で解決済みということになっていますが、2000年代に入ってから、戦時中の中国人強制徴用について西松建設や三菱マテリアルなどの日本企業が賠償や和解に応じているケースもあります。

いずれにせよ、「補償の責任が誰にあるのか」という議論はともかく、徴用工の問題が「日本の植民地支配下で起きた」という歴史的背景があるのですから、日本政府は「補償問題はすべて解決済み」という公式な立場を頑なに繰り返すだけでなく、この問題の「当事者のひとり」として韓国政府と協力し、被害者の救済のためにあらゆる可能性を検討する必要があると思います。そのためには日韓両国がお互いをリスペクトする姿勢が欠かせませんが、現状はそれとは程遠いところにあるのが残念です。

──「嫌韓」や「反日」といった言葉に代表される、両国の感情的な対立の背景には何があると思いますか?

メスメール その点に関しては2点ほど指摘したいと思います。ひとつは、日韓両国の首脳の、あまりにも対照的な政治的バックグラウンドの存在です。

日本の戦争責任や従来の歴史認識に否定的な「右派的ナショナリズム」を背後に抱える安倍首相は、日本会議などに象徴される右派の支持を得るために、今回の徴用工を巡る問題でも、韓国に対して常に強硬な態度を取り続ける必要がある。

一方、学生時代から韓国の民主化運動に関わり、長く人権派弁護士として活動してきた経歴を持つ文在寅大統領にとっては、旧日本軍の朝鮮人将校だった朴正煕大統領が交わした日韓請求権協定は、忌まわしい独裁政権時代の遺物だと感じているはずです。こうした韓国の「左派的ナショナリズム」を背景に持つ彼も、日本に対して強硬な態度を貫かざるを得ない。

こうした日韓のリーダーの「極端に異なる政治的背景」が対立を必要以上に悪化させ、両国民の間に感情的な対立を引き起こしているように感じます。

──では、もうひとつのポイントは?

メスメール もうひとつは「メディアの問題」です。先日、大きな批判を受けた「韓国なんていらない」という週刊誌の特集が象徴的ですが、テレビや新聞、ラジオなども連日のように日韓対立を報じている。

しかし、冒頭でも述べたように、その多くは個々の対立点について丁寧な検証を行なうのではなく、単に日本政府や韓国側の公式見解を伝えるだけのものや、相手側の問題を批判するだけで、この問題について国民が深く理解し、議論するための材料を提供しているとは言い難い。しかし、本当はそれこそがジャーナリズムの果たすべき大切な役割のはずで、こうしたメディアの現状も両国の感情的な対立を深めている、大きな要因ではないかと思います。

繰り返しますが、過去の戦争や植民地支配によって生まれた傷は、簡単に癒えるものではありません。それは日韓の問題だけでなく、フランスを含め、かつて多くの植民地を支配したヨーロッパの国々も、そうした歴史がもたらした被害について、すべての責任を果たしているとは言い難い。その傷を癒すためには、過去の歴史と正面から向き合うことが必要ですし、何よりもお互いが敬意を持って、丁寧な対話を続けていくしかない。それは簡単なことではないと思いますが、結局、それ以外に解決の道はないと思います。

●フィリップ・メスメール
1972年生まれ、フランス・パリ出身。2002年に来日し、夕刊紙「ル・モンド」や雑誌「レクスプレス」の東京特派員として活動している

1188荷主研究者:2019/12/29(日) 19:18:44

https://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20191215/CK2019121502000039.html
2019年12月15日 中日新聞
火薬庫立哨台が門横に戻る 関ケ原の戦跡を後世に

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2019121402100338_size0.jpg
門の横に戻された立哨台に触れる岩津区長=関ケ原町玉で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2019121402100339_size0.jpg

 関ケ原町の旧日本陸軍の火薬庫「名古屋陸軍兵器補給廠(ほきゅうしょう)関ケ原分廠」の入り口にあり、終戦直後に仮置き場に放置されていた「立哨台」が、数十年ぶりに当時あった場所に復元された。地元住民は「あの頃を乗り越えて今の平和がある。そんな思いを、実際に見て、かみしめてほしい」と話す。

 名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠は一九一二〜四三年にかけて、滋賀県境に近い旧玉村(関ケ原町玉)から買収した軍用地(二百二十ヘクタール)に作られた。鉄筋コンクリート製倉庫の上に土を盛って木を植えたり、山腹に横穴を掘ったりと、米軍の飛行機から分からないように工夫されており、全体で二百カ所近く。その規模は当時、東洋一ともいわれた。

 火薬庫一帯の警備体制は厳重で、入り口の門のそばには、高さ二メートルの立哨台があり、衛兵が目を光らせていた。柵で囲われた用地に入るには、中に耕作地を持つ農民でも「門鑑(もんかん)」と呼ばれる木製の通行証を見せる必要があり、所持品検査もあったとされる。

 終戦後、火薬庫はすぐに閉鎖された。今では門柱や洞窟など一部が公開されているが、当時の面影はほとんど見られない。

 そんな中、地元の戦跡を後世に伝えようと、住民有志が五年前から、一帯の草刈りをするなど整備を進めてきた。その過程で、立哨台が本来の位置から七百メートルほどずれた場所に放置されていたことが判明。

 住民の間から「門柱の横の元の場所に戻そう」との声が高まり、十月、業者に依頼して移転、復元した。

 玉地区の岩津隆之区長(74)は「昔はここに大規模な火薬庫があり、地元住民でさえ入るのに厳しいチェックがあったということを、若い人たちにも知ってもらい、平和の思いを継いでいきたい」と願っている。

 (服部桃)

1189荷主研究者:2019/12/29(日) 20:01:49

https://www.yamagata-np.jp/news/201912/20/kj_2019122000352.php
2019年12月20日 09:22 山形新聞
「蔵王山測候所」現した姿 1940年代に観測、山形大・柳沢教授が写真入手

柳沢文孝教授が入手した「蔵王山測候所」の写真(山形大提供)

 蔵王周辺の自然環境などを調べている山形大の柳沢文孝教授は19日、1943(昭和18)〜47(同22)年に蔵王山の地蔵岳山頂で気象観測を行っていた「蔵王山測候所」の写真と地図を入手したと発表した。文献を通じて存在は知られていたが、建物の外観などがはっきりと分かる資料が見つかるのは初めてという。

 柳沢教授によると、測候所は第2次世界大戦時、軍用機の通過ルートの安全確保を目的に、風速などの情報を収集する施設だったとみられる。戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の許可を経て気象観測を行っており、そのころの観測データと現在のデータの比較解析から、現在の樹氷の衰退は山頂気温の上昇によると断定している。

 今回、柳沢教授が入手したのは、絵はがきとして使われていた写真。52年から使用されている「第五種郵便」の記載があることや、51年に蔵王が観光地百選に選ばれた際のスタンプが押されていることから、その当時に撮られたとみられる。地図は観光目的の内容で、地蔵岳山頂に測候所を意味する記載を確認。49年に山形大となった「山形高等学校」の位置が表記され、戦時中に印刷地図が作られたとは考えにくいことなども踏まえると、46年ごろに作成されたものと推測されるという。

 文献を通じ、測候所は平屋の一部3階建てで、平屋部分は居住スペースだと考えられてきた。それを裏付ける一つの資料となり、柳沢教授は「どのような施設だったかが写真で証明された」と価値を話している。

1190とはずがたり:2020/03/20(金) 00:27:57
「絶対に勝てるか」“抹殺できなかった公文書”が伝える昭和天皇の大声
残された重要史料が今に教えるもの
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68981

「太平洋はなお広いではないか!」

アジア太平洋戦争の開戦へ突き進む中、昭和天皇が杉山元参謀総長をこのように叱責したことはよく知られている。1941年9月5日のことである。

昭和天皇ははじめ、杉山に「日米事起こらば、陸軍としては幾許の期間に片づける確信ありや」と質問した。これに杉山は、「南洋方面だけは3ヶ月くらい」と答えた。

これに満足しなかった昭和天皇は、続けて問うた。「汝は支那事変[日中戦争]当時の陸相なり。その時陸相として『事変は1ヶ月くらいにて片づく』と申せしことを記憶す。しかるに4ヶ月の長きにわたり、いまだ片づかんではないか」。

厳しい追及を受けた杉山は恐懼(きょうく)して、「支那は奥地が開けており、予定どおり作戦し得ざりし事情」をくどくどと弁明した。これにしびれを切らした昭和天皇は、励声一番、最初に引いた発言を行ったのである。

「支那の奥地が広いと言うなら太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって3ヶ月と申すか」

杉山はこれに答えられず、隣にいた永野修身軍令部総長に「統帥部として大局より申し上げます……」と助け舟を出してもらったのだった。
別の史料では「絶対に勝てるか」と質問
以上は、当時の首相・近衛文麿の手記に見えるやり取りである(『近衛文麿手記集成』より。なお引用にあたって、表記を一部改めた。以下同じ)。

ところで、この場面を記録した別の史料があることを知っているだろうか。

杉山自身の記録がそのひとつである。より正確には、歴代の参謀本部戦争指導班(第20班)長が杉山の伝達事項を聞き取り、浄書・整理したもので、今日『杉山メモ』というかたちで公刊されている。

これを読むと、会話の内容が近衛手記と微妙に異なっている。

たしかに昭和天皇は、杉山にたいして「予定通り出来ると思うか。お前の大臣の時に蒋介石は直ぐ参ると云うたが、未だやれぬではないか」と同じ主旨の質問をしている。だが、その後の「太平洋はもっと広いではないか」という厳しい発言は記されていない。

昭和天皇にやり込められた恥ずかしい場面は、部下に伝達しなかったのだろうか。

そのいっぽうで、近衛手記にない記述も見られる。

昭和天皇は、大声で「絶対に勝てるか」と質問した。これに対して、永野が「絶対とは申し兼ねます」と言いながらも、「半年や1年の平和を得ても、続いて国難が来るのではいけないのであります。20年、50年の平和を求むべきであると考えます」などと答えた。

昭和天皇はこれに対して、やはり大声で「ああ分った」と答えたという。

この翌日(9月6日)、御前会議で「対米、(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」などとする「帝国国策遂行要領」が可決された。

その会議の最後、昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治天皇の御製を詠んだ。これは一般に平和への意志を示したとされている。

とすれば、「ああ分った」という声も、開戦同意の意味ではなかったのだろう。

杉山は、自分の意志がなく、押したほうに動くことから「便所の扉」とあだ名され、永野も、会議でよく居眠りしていた(若い後妻をもらったためと陰口された)ことから「ぐったり大将」とあだ名されていた。

昭和天皇が大声になったのも、こんなふたりへの苛立ちのあらわれだったのかもしれない。

焼却処分をまぬかれた重要文書
それはともかく、実はこの『杉山メモ』(の原形)を含む重要文書は、ほかの公文書と同じく、終戦時に焼却処分されるはずのものだった。

ところが、陸軍省軍務課庶務将校・中根吾一少尉が、高級課員山田成利大佐の許可を得て、これを密かに自宅に持ち帰り、ドラム缶につめて地下に埋めたことで、焼失をまぬかれた。

1191とはずがたり:2020/03/20(金) 00:28:13
>>1190

その後同文書は、各地で分割保管されるなどしながら、最終的に1960年6月以降、防衛庁防衛研修所戦史室にすべて移管された。

そしてこの史料群の一部が、のちに『杉山メモ』として公刊されるにいたったのである。なお同書以外の部分も、『敗戦の記録』『機密戦争日誌』として公刊されており、いずれも昭和史の研究に欠かせないものとなっている。

以上は、昭和史に通じたものにはよく知られたことだが、過日、昨今の杜撰な公文書管理に絡めてツイッターで言及したところ、思わぬ反響を引き起こした。そこで、今日に教えるところもあろうかと思い、あらためて記した次第である。

「大東亜共栄圏」の実態を明らかに
もうひとつ『杉山メモ』から貴重な記録を取り上げて、公文書が残された有り難みを噛み締めておきたい。

1943年11月、東京で大東亜会議が開かれた。東条英機首相、中華民国の汪兆銘行政院長、満洲国の張景恵国務総理、タイのワンワイタヤーコン首相名代、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバモオ首相が参加し、さらにオブザーバーとして自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が陪席し、「大東亜共同宣言」が採択された。

この宣言については、「大東亜各国」の共存共栄、自主独立の尊重、人種差別の撤廃などをうたったことから、現在でも高く評価する声がないではない。

だが、『杉山メモ』に収録された「大東亜政略指導大綱」を見ると、その裏事情が浮かび上がってくる。

「大東亜政略指導大綱」は、同年5月31日の御前会議で決定された「大東亜」地域に関する基本方針である。大東亜会議の開催も、これにもとづいて決定されたものだった。

その内容を見ると、フィリピンの独立などを打ち出すいっぽうで、一部の占領地については「帝国領土」とする決定が下されている。

 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努む。
つまり、現在のマレーシアやインドネシアにほぼ相当する地域を、日本の領土に組み込むとされていたのである。これは明らかに、「自主独立の尊重」などと相反するものだった。

だからこそ、上記の条項は「当分発表せず」と秘匿されなければならなかった。千言万語を尽くすより、この箇所は「大東亜共栄圏」の実態をよく示してくれている。

今日「大東亜共同宣言」が一部でしか評価されていないのは、こうした史料も関係しているのである。

大事な政治的記録は何らかのかたちで残る
中国の古典『春秋左氏伝』に、こんな話が載っている。

春秋時代、斉の崔杼(さいちょ)が荘公を殺した。史官はこれを「崔杼、荘公を弑(しい)す」と記録した。「弑す」とは主君を殺すという意味である。

怒った崔杼はこの史官を殺した。ところが、その弟が史官を継いで、また「崔杼、荘公を弑す」と記録した。崔杼はふたたび史官を殺した。それなのに、またその弟が史官を継いで、やはり「崔杼、荘公を弑す」と記録した。さすがの崔杼も、ついに記録の改竄を諦めた――。

どんなに消そうとしても、大事な政治的記録は何らかの形で残されてしまうものなのである。この『左伝』の箇所がたびたび参照されるのは、そうした真実を衝いているからにほかならない。

もちろん、「役人は殺されても記録せよ」と言いたいのではない。そんな使命感に訴えなくても、何らかの記録は残されるだろう。というのも、記録を完全に破棄してしまうと、政治家/上司に「官僚/部下が勝手にやった」などと責任を押し付けられるリスクがあるからだ。

仮に公文書自体は完全に処分されているとしても、担当者が身を守るために記したメモや日記、下書きなどは数年後に出てくるのではないか。

終戦時にさえ抹殺できなかった公文書の存在は、そんな期待をわれわれに抱かせてくれる。そして未来に出てくるであろう「史料」は、目の前の倒閣運動には役立たなくても、長い目で見たとき、かならず後世のひとびとの役に立つはずである。

1192荷主研究者:2020/03/29(日) 15:40:32

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=622618&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/3/14 中国新聞
海自呉基地れんが倉庫群研究に力 呉高専と広島工業大

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200314chugoku01.JPG
海自呉基地内のれんが倉庫の前で現状を確認する呉高専と広島工業大の教員と学生有志

 呉高専(呉市)と広島工業大(広島市佐伯区)の教員と学生が、呉市の海上自衛隊呉基地に現存するれんが倉庫群の研究に力を入れている。これまでは昭和初期以前の経過が詳しく分からなかったが、倉庫が明治期に建設されたことなどが徐々に分かってきた。

 れんが倉庫群は海自呉地方総監部南側の一角にあり、同じ大きさの倉庫が3棟建つ。2階建て延べ約690平方メートルの倉庫は縦8・7メートル、横36メートル、高さ11・3メートル。倉庫は戦時中に市中心部で大規模な被害が出た空襲で旧海軍の呉鎮守府庁舎(現・同総監部第1庁舎)と同様に屋根が焼け落ちたが、その後に修復された。現在は同総監部が備品などを保管するために使う。

 海自呉基地に残り、旧海軍が使っていた地下施設の研究を進める呉高専と広工大が本年度から、れんが倉庫群についても本格的に調査に乗り出した。これまでは海自の台帳に記載されている1930年以前の経緯は詳しく分からなかったという。

 調査を通じて、防衛省防衛研究所(東京)で倉庫の図面などを見つけ、明治後期の00年に完成したことを確認。オーストラリア戦争記念館所蔵の写真なども入手し、明治期に発生した芸予地震や空襲で被害を受けた後に屋根の形状が変わっていることも把握した。

 海自の協力を得た上で、今後は保存の観点で参考になるような研究も進めたい考え。呉高専の専攻科2年難波宗功さん(22)は「外壁は建設当時のままで、呉鎮守府の歴史を物語る倉庫。役割を変えずに今も使われている点が興味深い」と話している。(浜村満大)

1193とはずがたり:2020/06/02(火) 17:17:49

大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180808-OYT8T50018/2/
2018/08/15 05:20

… 私がキャスターを務める「深層NEWS」では、『大本営発表 改竄かいざん・隠蔽いんぺい・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書)を書いた近現代史研究者の辻田真佐憲つじたまさのりさんをお招きして話を聞いた。辻田さんは、でたらめ発表が行われた背景に、「情報軽視」と「内部対立」という2つの構造的な欠陥があったと分析している。

情報軽視の悪癖、現場の報告を鵜呑みに
 大本営発表が最初からでたらめだったわけではない。真珠湾攻撃の戦果は、航空写真を綿密に確認するなどした上で、3度も修正されている。戦闘機から見た艦船は点のようなもので、本当に沈んだのか、沈んだ艦は戦艦なのか、駆逐艦なのかを判別するのは、熟練度が高い搭乗員でも簡単ではないからだ。

「深層NEWS」より
 戦線が拡大し、熟練度が低い搭乗員が増えるにつれ、戦果の誤認が急増した。誤認は米軍にもあったが、大本営には情報を精査したり、複数の情報を突き合わせたりする仕組みがなかった。特に作戦部には現場からの情報を軽視する悪癖があった。根拠もなく報告を疑えば「現場の労苦を過小評価するのか」と現場に突き上げられる。誤った報告は鵜呑うのみにされ、そのまま発表されていった。

「敵空母11隻、戦艦2隻撃沈…」幻だった大戦果

 誤報の極みとされるのが、1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は、「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟ごう撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」。米機動部隊を壊滅させる大勝利に、昭和天皇(1901〜89)からは戦果を賞する勅語が出された。だが、実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗だった。


 熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半だった。多くは米軍の反撃で撃墜され、鹿屋基地(鹿児島県)に帰還した搭乗員の報告は「火柱が見えた」「艦種は不明」といったあいまいな内容ばかりだった。だが、基地司令部は「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電した。翌日に飛んだ偵察機が「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果に上乗せされた。

 さすがに疑問を感じた海軍軍令部は内部で戦果を再検討し、「大戦果は幻だった」ことをつかんだが、それを陸軍の参謀本部に告げなかった。陸軍は大本営発表の戦果をもとにフィリピン防衛作戦を変更し、レイテ島に進出して米軍を迎え撃ったが、台湾沖で壊滅させたはずの米空母艦載機の餌食となり、壊滅した。各部署は大本営発表から戦果を差し引いた独自の内部帳簿を持っていたが、その数字は共有されず、共有しても相手は参考にしなかったという。

「水増しと隠ぺい」内部対立がさらに歪める
 情報の軽視によって水増しされた戦果は、公表範囲を決める幹部会議に持ち込まれ、「軍事上の機密」を理由に都合の悪い部分が隠ぺいされた。報道部が大本営発表の文書を起案する時点で、すでに戦果の水増しと隠ぺいが実施済みだったわけだが、ここからは「内部対立」でさらに戦果は歪められていく。

 大本営発表は軍の最高の発表文で、起案された文書は主要な部署すべてのハンコがなくては発表できない。陸軍を例にとると、参謀本部に参謀総長、参謀次長、作戦部長、作戦課長、情報部長、主務参謀などがいて、陸軍省に陸相、次官、軍務局長、軍務課長らがいた。特に、作戦部にはエリート中のエリートが集まり、他の部署を下に見ていたという。他の部署は作戦部を快く思わず、何かにつけていがみあっていたから、すべてのハンコをそろえるのは大変な作業だった。

1194とはずがたり:2020/06/02(火) 17:18:08
>>1193
 それでも勝っているうちはよかったが、日本が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなった。「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前にすぎず、「敗北を認めると、その責任を負わされかねない」というのが本音だった。発表が遅れれば、報道部の責任が問われる。報道部はハンコが早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになった。

予期せぬ敗北で損害隠し…ミッドウェー海戦「日本の勝ち」
ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を回避しようとする日本海軍の空母「赤城」(1942年)
 軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。

予期せぬ敗北で損害隠し…ミッドウェー海戦「日本の勝ち」
ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を回避しようとする日本海軍の空母「赤城」(1942年)
 軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。


 報道部は「空母2隻沈没、1隻大破、1隻小破」とする発表文を起案したが、作戦部が猛反対した。3日後に発表された味方の損害は「空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破」に減らされた。一方で、敵の損害は「空母1隻の大破」が「2隻撃沈」に水増しされ、「沈めた空母の数で日本の勝ち」と発表された。

 報道部の担当者は戦後、ミッドウェー海戦の大本営発表のなりゆきについて、「真相発表とか被害秘匿とかそんなものを飛び越えた自然の成り行きであった。理屈も何もない」と述懐している。誰かの決定も指示もなく、あうんの呼吸で部署間のバランスに配慮した結論が出された。情報軽視と軍内部の対立という欠陥は放置されたまま、空気を読んで戦果を忖度そんたくし、でたらめを発表する仕組みができ上がった。

 良心の呵責かしゃくもあったのか、ミッドウェー海戦以降、いったん大本営発表の回数は激減する。しかし、しばらくして再び増え始めた大本営発表には、当たり前のようにウソが混じるようになる。辻田さんは「ウソをつくことを覚えたのだろう」と分析する。海軍はミッドウェーでのごまかしは、すぐに勝って帳尻を合わせればよいと思っていたようだが、戦いの主導権は二度と戻らなかった。

 一部の海戦については後から戦果を訂正する発表もあったが、これは誤りが判明したからでなく、過去のウソから生じた矛盾を取り繕うためだった。しかし、同時に新たなウソをついていたから、実際の戦果との開きは拡大するばかりだった。

「撤退」は「転進」…言い換えで責任不問に

 1943年(昭和18年)になると、ごまかしは戦果以外にも及ぶ。ガダルカナル島からの撤退は「転進」に、アッツ島の守備隊全滅は「玉砕」に言い換えられ、大本営の作戦や補給の失敗は不問とされた。

 44年(昭和19年)以降、本土が空襲にさらされ、戦いの前線が迫ってきても、大本営はウソを発表し続けた。ごまかしや帳尻あわせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられた。特攻隊の戦果は大幅に水増しされたが、国に身を捧ささげて得た戦果を疑うことは許されない。大本営は特攻隊まで戦果の取り繕いに利用したのだ。

 辻田さんの集計によると、大本営発表では太平洋戦争中に敵の空母は84隻、戦艦は43隻が撃沈されているが、実際は空母は11隻、戦艦は4隻しか沈んでいなかった。でたらめな戦果は昭和天皇にも奏上され、天皇は戦争末期に「(米空母)サラトガが沈んだのは、今度で確か4回目だったと思うが」と苦言を呈したといわれる。



 でたらめな大本営発表には、記者発表で仕上げの尾ひれがつけられた。発表後に軍の担当者が「この発表の意図はこうだ」「ここはこう書いてくれ」とオフレコでレクチャーし、記者たちは軍の意向に寄り添った記事を書いた。軍の意向に逆らわず、むしろ積極的に空気を読んで戦争の片棒を担いだメディアの責任も大きい。

1195とはずがたり:2020/06/03(水) 17:29:53
この流れでイランにいたポーランド軍がクマを軍役に就かせる一幕https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%AF_(%E5%85%B5%E9%9A%8A%E3%82%AF%E3%83%9E)があったのか

ポーランド亡命政府
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BA%A1%E5%91%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポーランド亡命政府(ポーランドぼうめいせいふ、ポーランド語: Rz?d Rzeczypospolitej Polskiej na uchod?stwie)は、1939年のポーランド侵攻後のナチス・ドイツ及びソビエト連邦による国土の分割占領により、ポーランド第二共和国政府を継承して組織された亡命政府である。

ポーランド亡命政府は、ポーランド地下国家(英語版)と国内軍の組織構造を通し、第二次世界大戦期間に影響力があったとされる。終戦後、ポーランドはソ連の衛星国ポーランド人民共和国の管理下となり、亡命政府は存在したが影も薄く影響力も無かった。共産主義支配の終了後、亡命政府は正式に責務を新政府の第3共和制に移行した。

ポーランド亡命政府は1939年にパリで発足し、1940年にアンジェに移転。その後、1940年から1990年までの間はロンドンを拠点とした。

歴史
独ソ両国のポーランド侵攻を受け、1939年9月17日、ポーランド大統領イグナツィ・モシチツキは上院議長ヴワディスワフ・ラチュキェヴィチ(英語版)を、憲法規定に従い後継指名する。9月30日、モシチツキの辞任を受けたラチュキェヴィチは、亡命先のパリにおけるポーランド大使館で大統領への就任を宣誓し、首相にヴワディスワフ・シコルスキを任命。ポーランド亡命政府が発足する。ポーランド海軍の大部分は脱出していたためこれを指揮下に収め、さらに脱出に成功した一部の陸軍将兵も指揮下に入る。翌年アンジェに移転。そしてフランスが降伏しヴィシー政権が立ち上がると、ロンドンに移された。

1939年、ソ連のポーランド侵攻により亡命政府はソ連と外交を断絶する。

ほとんどのポーランド海軍は英国へ逃げた[1]。数万のポーランド軍人らはハンガリーやルーマニアを越えて逃げ、フランスで続けて戦った。多くは同盟国ノルウェー軍の戦いに参戦した。バトル・オブ・ブリテン、大西洋の戦い (第二次世界大戦)、アフリカではトブルク包囲戦、イタリアのアンコーナやモンテ・カッシーノの戦いなど他の同盟国と共に戦った。ポーランドとソ連は、シコルスキー・マイスキー協定(英語版)により、ソ連管理下に置かれたポーランド市民の解放およびナチス・ドイツに抗戦する同盟軍の軍隊を組織する。

1941年、ドイツがソ連を攻撃した(独ソ戦)。これを期に亡命政府はソ連との外交関係を築く[5][6]。

1196とはずがたり:2020/06/03(水) 17:30:12
>>1195
1941年12月11日、ポーランド亡命政府が日本に宣戦布告した[7]。

ポーランド軍人は独ソ両国の捕虜となっていたが、独ソ開戦に際し、ソ連側の捕虜は連合国側の戦力に目されるが、ナチス・ドイツとの秘密議定書により本土を蹂躙したソ連の指揮下で戦うことは無理があるため、英ソの勢力が隣り合っていたイランにおいてイギリスに引き渡された。彼らはポーランド亡命政府の指揮下に収められ、エルヴィン・ロンメルのドイツアフリカ軍団の抗戦(北アフリカ戦線、ガザラの戦い)において英国のために戦った。この軍隊は、後にポーランド第2軍団(英語版)となり連合国と共に戦う。

1943年、ドイツはカティンの森で、ソ連に虐殺された多数のポーランド軍人捕虜の死体を発見した事を公表した[10]。ソ連は、ドイツの仕業であると主張し、亡命政府に同調を要求したが、拒否されたため亡命政府と断交した。1943年、亡命政府とポーランド軍のリーダーであったシコルスキを含む政府・軍関係者13人が飛行機事故(en)で亡くなった[11]。

1943年 - 1944年、同盟国のウィンストン・チャーチルはソ連と亡命政府の会談再開を試みたが、幾つかの問題(カティンの森事件、領土問題など)により放棄された[12]。亡命政府の党首ミコワイチクは領土問題において拒否した。

1944年8月には東側からナチス・ドイツを攻めるソ連の呼び掛けに応じ亡命政府の国内軍主導によりワルシャワ蜂起が起きるが、ソ連のワルシャワ進撃がなかったため、国内軍と多数のワルシャワ市民が犠牲となる。11月ミコワイチクはソ連に不信を持つにも関わらず辞任[13]、ポーランドに戻りソ連占領下の新政府の挙国一致臨時政府(英語版)において副総理となり、首相は社会主義者のモラフスキ、もう1人の副総理は共産主義者のリーダー、ゴムウカとなる。

1945年6月、亡命政府と共産主義系のルブリン政権が合同し、国民統一臨時政府(RTRP)(英語版)が成立した。ルブリン政権発足当初は、ボレスワフ・ビェルト (ソ連のNKVDエージェント)が国家法議会議長に就任し、労働者党書記長をヴワディスワフ・ゴムウカが務めた。

1945年7-8月のポツダム会談までにポーランドはソビエトの勢力範囲となり、亡命政府の放棄は西欧の背信行為(en:ProvisionalWestern betrayal)と批難された[14]。

1945年、国内軍は切り捨てられ、ソ連の傀儡政権であった共産政権側による亡命系の大臣や政治家の逮捕や国外追放などで安全な帰国ができず、さらに7月、英国とアメリカ合衆国は亡命政府に対する正統政府としての承認を取り下げた。ロンドンのポーランド人はポーランド大使館から撤退しなければならなかった。亡命政府系のポーランド人の多くはアメリカ合衆国等に移住した。

東欧革命の流れで1990年に共産主義政権が崩壊、レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)政権(ポーランド第三共和国)が成立した。これに伴い、亡命政府大統領のリシャルト・カチョロフスキはそれまで保持していた政権の正統性を示すレガリア(1918年ポーランド憲法〈ポーランド第二共和国憲法〉正文、ポーランド国旗正旗など)を第三共和国へと承継し、その役割を終えて消滅した。ワレサ政権は成立式典にポーランド亡命政府を招き、自らを第二共和国の正統な後継者として位置づけたが、前共産主義政権のヴォイチェフ・ヤルゼルスキ前大統領の式典招待はなかった。

1197とはずがたり:2020/06/11(木) 00:42:58

https://twitter.com/laurusesq/status/1270686785366978566
百年前新聞社・社主
@laurusesq
返信先:
@laurusesq
さん,
@100nen_
さん
長崎海軍伝習所のオランダ人カッテンディーケの『日本滞在記録抄』によると、

・すぐどこかに行って帰ってこない
・注文したものが期日までに届かない
・正月の挨拶まわりに数日かける

(孫引きです。原典にあたってません)

と言って呆れているようです。

1198さがら療法(さがらセラピー)心の健康法うつ病の予防と改善:2020/06/12(金) 11:48:04
うつ病の予防と改善の他、引きこもり不登校いじめパニック障害潔癖症摂食障害睡眠障害不安悩みイライラストレス自信がない勇気がないなどの改善方法や人材育成の方法を紹介しています

1199とはずがたり:2020/06/17(水) 23:32:55
日本は良い事もした厨はいい加減滅んで欲しいけど,最近はその前に日本人は好かれてる(から酷い事しなかった)厨が出てきてどうにもならん。

インドネシア中学歴史教科書-第21章 インドネシアにおける日本の占領
http://honnesia.doorblog.jp/archives/39352526.html
2014年07月29日

1200荷主研究者:2020/06/21(日) 21:43:51

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202004/CK2020040902000273.html
2020年4月9日 東京新聞 夕刊
<新型コロナ>警察、戦前は防疫担う 首相、協力要請の可能性言及で物議

弥生慰霊堂には、防疫活動で命を落とした警察官ら殉職者がまつられている=東京都千代田区の北の丸公園で

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い緊急事態宣言が発令され、安倍晋三首相らが外出自粛要請などで警察の協力に言及したことが議論を呼んでいる。現在の防疫業務は政府と地方自治体が当たるが、戦前は感染症対策も警察の重要任務で、多くの犠牲者も出ていた。 (木原育子)

 一八八六(明治十九)年に国内でコレラが大流行し、東京府内(当時)では七〜九月の三カ月間に九千八百七十九人の死者を出した。現在の東京都民に換算すると、十一万人が亡くなる割合だ。

 「一(ひと)たび伝染病が蔓延(まんえん)すると、その防圧には昼夜の別なく必死の活動を続けねばならなかった」。警視庁史明治編にはそう記され、「その惨状は目をおおわすものがあって、市民を極度の恐怖に落入(おとしい)れた」と伝えている。

 警察行政は戦前、特別高等警察を所管する「警保局」や、地方行財政を担当する「地方局」を持つ内務省に管轄された。防疫は警保局の仕事で、感染症が流行すれば、現在の厚生労働省のように対策や予防広報などで活動した。

 警視庁によると、明治時代に防疫活動中に亡くなった警察官は少なくとも百十五人に上り、北の丸公園内(東京都千代田区)の弥生慰霊堂に鎮魂されている。

 一九二九(昭和四)年の警視庁内の広報雑誌「自警」には、ある署長が明治時代に体験した防疫活動を回顧している。患者を病院に隔離したり、遺体を運んだりする際に感染することを恐れた警察官たちを鼓舞するため、警察署の玄関に酒が入った大樽(たる)が備えてあったという。当時は珍しかったブランデーでねぎらわれ、「今考えてもぞっとするようなものだった」と振り返っている。

 大正時代も警察官の防疫活動は続いた。警視庁史大正編によると、一九一三(大正二)年のペスト菌の流行時には、日本橋の下水にいたネズミがペスト菌を持っていたことが分かり、警視庁が「捕鼠隊」を組織。一日に八千匹のネズミを捕らえたと記されている。

 一七(大正六)年に入り、スペイン風邪といわれるインフルエンザが流行した際には「マスクをお用いなさい〜身の為(た)め人の為(た)め〜」「予防注射をなさい〜転ばぬ先の杖(つえ)〜」などと書かれた「予防心得書」を東京府内の各家庭に配布。百年以上たった現在のコロナ対策を彷彿(ほうふつ)とさせる文言にあふれている。

 元新聞記者で至誠館大の三木賢治教授(マスメディア論)は「警察は当時、現在の厚労省業務も担う内務省の管轄だったため、防疫活動を担ったのは必然だろう。一方で、ハンセン病においては強制隔離政策の最前線で、偏見と差別に満ちた方法で連行していった史実も忘れてはならない」と指摘する。

1201とはずがたり:2020/06/26(金) 14:35:31
興味深い。我が父母の故地各和は今では掛川市内に在るけどもともと袋井の方が近いしな。

2020年03月31日
塘沽停戦協定の駐屯部隊
http://szkganz.seesaa.net/article/474338521.html

日中戦争が始まる1年前、昭和11(1936)年8月24日に静岡・袋井局で引き受け、中国河北省馬蘭峪(ばらんこく)の部隊に宛てられた軍事郵便はがきです。裏面の中国印から河北省唐山局を8月28日に経由し、表面の着印で8月29日に馬蘭峪局に着いたことが分かります。

馬蘭峪とは聞き慣れない地名ですが、「馬蘭関」と記す資料もあるように、万里の長城の南壁に沿った関門の1つでした(下地図参照)。古北口と喜峰口の中間ぐらいに位置し、関門としては小規模なものだったようです。山海関や唐山、塘沽などの中都市に比べれば奥地の小集落に過ぎなかったと思われます。

塘沽停戦区域図.jpgそんな辺鄙な場所になぜ日本軍がいたのでしょうか。天津に司令部を置く日本の支那駐屯軍は北平(北京)-天津-山海関を結ぶ北寧鉄道沿線にしか駐屯できない取り決めだったので、それではありません。調べてみると、1933年に日中間で結ばれた塘沽停戦協定による関東軍からの派遣隊と分かりました。

関東軍は本来は「満州国」を守備する部隊です。万里の長城が中国との国境だったので、長城の南側(関内)に部隊を侵出させることはできません。しかし、関東軍はこの一帯を南京の中国国民政府から切り離して傀儡政権を建て、満州国を防衛する中立地帯とすることを目論んでいました。「華北分離工作」と呼ばれます。

それを初めて実行に移したのが1933年5月に発動した関内作戦でした。1月に始めた熱河平定作戦に乗じて関東軍の大部隊が長城の各関門から一挙に南下、侵攻します。北平(北京)や天津の陥落を恐れた中国側が停戦を申し入れ、5月31日に塘沽で関東軍との間に停戦協定が結ばれました。

勝ち誇る関東軍は中国側に強請して延慶と芦台を結ぶ停戦ラインの北方、長城線までの区域を「停戦地帯」に設定し、中国軍を停戦ライン南方に追いやりました。引き換えに関東軍も長城より北側(満州国内)に撤退したのですが、長城線確保のため長城南壁に沿った戦略的重要地点への駐屯を中国側に無理やり認めさせました。

長城南側の駐屯地名は停戦協定本文ではなく、協定の「善後申合せ」に付属する「了解事項」という秘密協定に書き込まれました。それが馬蘭峪を含む山海関、喜峰口、古北口など6地点です。関東軍・満州国が中国本土内に打ち込む侵略のクサビとなりました。満州国が領土外なのに山海関と古北口に堂々と郵便局を開設できたのは、このためです。

話が長くなりすぎましたが、馬蘭峪に日本軍が駐屯していたのにはこういう事情がありました。塘沽停戦協定は出先同士の現地協定という扱いで、本文は公表されませんでした。まして付属秘密協定は南京の国民政府にさえ報告されていません。この1通のはがきはそうした歴史の闇を暴く証拠物件となっています。

(この記事を書くに当たって、アジア歴史資料センター(JACAR)の「北支停戦協定ノ成立」「停戦協定善後処理ニ関スル北平会議々事録」を参照しました。)

1202とはずがたり:2020/06/26(金) 14:38:03
まあこれは俺も読んでてエビデンスは持ってなかったがそう思ったな。

2011-02-01
Wikipediaにおける山海関事件記述の嘘
https://marc73.hatenadiary.jp/entry/20110201/1296580393

Wikipediaでは「外国の信頼できる情報源の多くは日本側の報道を支持した」とあるが、これは日本軍の行動を正当化するのに都合のよい報道を集めたに過ぎない*2。

参考文献となる[21][22]は、いずれも「North-China Daily News」*3である*4が、これは上海国際租界の英仏米の大商人たちによる御用新聞である。1930年代当時の中国ナショナリズムによる利権回収運動で中国側と対立する利害関係を持っており、山海関事件では日本側に偏った見解を出しているにすぎない。
なお、山海関事件に関しては、「サンフランシスコ・クロニクル」、「ポートランド・オレゴニアン」、「シカゴ・デイリーニュース」、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」、「ワシントン・ポスト」、「ボルチモア・サン」、「ニューヨーク・アメリカン」、「ニューヨーク・ワールド・テレグラフ」、「ニューヨーク・イブニング・ポスト」(以上、アメリカ)、「ガーディアン」、「クロニクル」、「ヘラルド」(以上、イギリス)、「アルゲマイネ・ツァイツング」、「フルンクフルター・ツァイツング」、「フォルヴェルツ」(以上、ドイツ)が、日本側の侵略行為であると非難する論調を掲げている*5。

1203とはずがたり:2020/07/13(月) 20:32:16
『戦場の兵士の大部分は敵を射撃しない』という神話
dragoner | Webライター(石動竜仁)
https://news.yahoo.co.jp/byline/dragoner/20200521-00179236/
5/21(木) 11:05

1204荷主研究者:2020/07/14(火) 21:40:10

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/429836?rct=n_hokkaido
2020年06/11 23:15 北海道新聞
稚内赤れんが通信所修復完了 真珠湾攻撃暗号を中継

屋根を修復した稚内赤れんが通信所のB棟

 【稚内】稚内市恵北にある歴史的建造物「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」(通称・稚内赤れんが通信所)で、壊れていた屋根などを修復する工事が終わった。1941年の日米開戦時、真珠湾攻撃を命じる大本営の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」を中継送信したとされる施設で、修復に取り組んだ市民団体は7月以降、一般公開を目指している。

 修復されたのはA〜Cの3棟あるうちのB棟(木造平屋建て480平方メートル)で、中央にシンボルの望楼がある。老朽化が進み、雪害で全体的に屋根が崩れ落ちていた。資金的な制約もあるため、望楼を含む中央部分の屋根や窓を修復し、正面と側面の2カ所に扉も取り付けた。

残り:165文字/全文:455文字

1205とはずがたり:2020/08/19(水) 18:27:37
日本が太平洋戦争に総額いくらを費やしたか、知っていますか
国家予算の280倍、今で換算すると…
加谷 珪一 プロフィール
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52599?page=2

1206荷主研究者:2020/09/05(土) 15:00:22

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/448584?rct=n_hokkaido
2020年08/08 05:00 北海道新聞
文化財33件、政令市で最少 札幌市、指定増やす方策探る

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200808hokkaido01.JPG

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200808hokkaido02.JPG
2018年に札幌市の有形文化財に指定された旧札幌控訴院(札幌市資料館)

 国や道、市町村が指定する文化財について、札幌市内は33件と全国20の政令指定都市の中で最も少ない。最多は京都市の2870件。札幌で都市開発が本格的に始まったのは明治時代で、他市に比べて古い建造物や美術工芸品が少ないことが理由とされる。一方で、市は「文化財となるメリットが所有者に周知されていない」として、文化財を増やす方策を検討している。

 市内の文化財は、国指定が旧札幌農学校演武場(時計台)や道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)など17件、道指定は旧永山武四郎邸など4件、市指定は旧札幌控訴院(札幌市資料館)など12件。最近30年間で新たに指定されたものは、市が4件、道は1件にとどまる。

 国や道は、それぞれの文化財保護審議会や市町村の推薦を受けて文化財を指定するが、道の担当者は「札幌市からの推薦が少ない」と説明する。市指定文化財については、市文化財保護条例で「国または道が指定したものを除き、市にとって文化的価値が高いと認めるものを、所有者らの同意を得て市の文化財に指定することができる」と規定。所有者の申請を前提とし、市文化財保護審議会で諮った上で指定する。

 文化財に指定されれば、所有者は補修などに対して補助金を受けられるほか、知名度が向上して観光客の増加が期待できるなどのメリットもある。一方、所有者には文化財を管理する義務が生じ、建造物の場合は改修などが大幅に制限される。市文化財課は「指定されれば規制が増えるため申請が少ない」と分析する。

 7月に開かれた本年度最初の市文化財保護審議会では、市内の文化財の少なさについて協議。委員からは「文化財(の価値があるもの)がどれだけあるか精査すべきだ」「文化財に指定されるメリットをもっとPRすべきだ」などの意見が上がった。市文化財課は「札幌は歴史が浅いという認識が市民にあり、文化財に関心が低いのではないか。市指定を年1件でもできるよう調査を進めたい」としている。(久保吉史)

1207名無しさん:2020/09/17(木) 03:15:47
https://news.yahoo.co.jp/articles/9fbfd0c36cccf36dc3c95188abd8f49153185b16
「戦争は悲惨という以前に…」記録への意識低い日本 “美談”が後世への冒涜に
9/14(月) 12:16配信

 戦後75年に合わせて考えている「平和学習」。世界史や教育の意義を読み解く多くの著書がある立命館アジア太平洋大(APU)の出口治明学長に現状や課題を聞いた。

-平和学習の現状をどう見ているか。
 「情緒的に平和が尊い、戦争は悲惨だということ以前にまずなすべきことは、過去と向き合うには正確な記録を残すという教育だ。正確な過去が分からなければ反省もできず、教訓も引き出せない」

-日本では記録することへの意識が低い。
 「今夏に見たNHKの戦後企画は、米国の公文書館の新たな公表資料を基にしていた。米国との戦争だったので米国に記録が残っており検証できたが、日本に資料がないということ自体が恥ずかしい。一部の政治家は『秘密は墓まで持って行く』ことを“美談”として語るが、これは後世の人々に対する冒涜(ぼうとく)。少なくとも米国並みに公文書を残し、一定のルールで公開すべきだ。最近では新型コロナウイルス対策に対する政府の専門家会議で、議事録を作っていなかった」

-日本が例外なのか。
 「何百年も前から海外では歴史を記録してきた。(唐の太宗・李世民の言行録)『貞観政要(じょうがんせいよう)』に関する本を著したが、この時代にも歴史を記録する役職を置いていた。太宗が『良く書いてくれよ』というと、記録係は『良いことも悪いことも全部書き留めております』と返答し、干渉させないよう記述内容を見せることも拒んだ。当時から、国のトップの言動はしっかり残さなければ、後世の人が善しあしを判断できないという知恵があった」

-記録があれば、それを基に教育もできる。
 「教育基本法を読んでみたが、教育の目的は二つある。一つは、自分の頭で考え、自分の言葉で意見を言えるようにする。もう一つは、社会に生きていく上での武器(知識)を与えること。政府や政治、選挙やお金とは何か。抽象論ではなく、具体的に社会で役に立つことを教える必要がある」

-二つの目的に基づく教育は行われているか。
 「戦後の日本は復興が第一だった。結果的に学校は製造業の工場で働く人を育成してきた。今もその傾向にあり、(1)偏差値がそこそこ高い(2)素直(3)我慢強い(4)協調性が高い(5)先生の言うことを聞く-の5要素がベースになっている。素直であれば常識を疑わず、我慢強ければブラック企業でも耐え、協調性が高いと周囲に忖度(そんたく)し、先生の言うことを聞く人は上司に反抗しない。工場労働ならそれでもいいが、これだけでは新しいアイデアや豊かな個性が生まれるはずがない」

1208名無しさん:2020/09/17(木) 03:16:33
>>1207

-学校は子どもの自由な発想を育んでいないのか。
 「現在の日本の教育が全て悪いという意味ではない。小中学校の先生は努力している。経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち、国内総生産(GDP)に占める教育への公的支出の割合は、日本はいつも最低水準。ところが、15歳を対象にした学習到達度調査(PISA)の結果では、先進7カ国(G7)の中で最良。お金をかけていないのに子どもが優秀な理由は先生の情熱だ。でも、情熱におんぶに抱っこのままではいけない。国民の税負担を引き上げ、教育にもっとお金をかけないと」

-文部科学省の対応は。
 「文科省も気が付いている。(本年度から小中高に順次導入する)学習指導要領は、問いを立てる力、探究力が何よりも大事だといっている。要するに社会常識を疑う力を養うということだ。まず探究力を大人が持たないといけない。大人ができないことを子どもに教えられる訳がない」

-探究力は浸透しているか。
 「していない。問いを立てる力や探究力があれば、(生活維持に不可欠な)エッセンシャルワーカーに対して、新型コロナウイルスに感染したといって差別するなんてあり得ない。私たちがステイホームできるのはエッセンシャルワーカーのおかげ。国が感染者を差別しないよう通達を出すのは恥ずかしいことだ」

-今後の平和学習の在り方をどう思うか。
 「平和学習ではもちろんだが、データ(数字)、ファクト(事実)、ロジック(論理)で考える癖を身に付けてほしい。探究力を育てず5要素のままでは、日本は衰退していく。情緒的な議論がファシズム(全体主義)のベースになったことはナチスの歴史が物語っている」

 (編集委員・四宮淳平)

出口治明(でぐち・はるあき)さん
 1948年、三重県生まれ。72年、京大法卒、日本生命入社。2008年にライフネット生命を開業し、18年からAPU学長。著書に「『教える』ということ」など。

西日本新聞

1209荷主研究者:2020/09/23(水) 22:29:27

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/451526?rct=n_hokkaido
2020年08/19 05:00 北海道新聞
戦争遺跡保存の動きなく 旧日本軍沼ノ端飛行場の掩体壕跡 「歴史の証し失う」 住民懸念

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido01.JPG
沼ノ端飛行場の掩体壕の跡地。コの字形の盛り土は木々に溶け込み、小高い土手のように見える=2019年11月(藤原康成さん提供)

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido02.JPG

 人口増が続き、住宅が立ち並ぶ苫小牧市沼ノ端地区には太平洋戦争中、広大な旧日本軍の沼ノ端飛行場があった。終戦から75年、飛行場の痕跡は開発で消え、現在確認されているのは戦闘機を格納する掩体壕(えんたいごう)跡が1カ所のみだ。行政側には保存に向けた動きはなく、一部住民からは「このままでは貴重な戦争遺跡が失われてしまう」と懸念の声も上がる。

 市沼ノ端のJR日高線沿いの国有地に一辺25メートル前後のコの字形をした、高さ数メートルの盛り土がある。現存する唯一の沼ノ端飛行場の掩体壕跡。戦時中はネットなどで上部を覆い、戦闘機を隠したとの話も伝わる。ただ、ここがそうした戦跡であることの案内板や説明文などは見当たらない。

 「開発されにくい場所にあるため、残ったと思う。ただ、草木が生えて今は人工物だと分かりづらい」。戦争遺跡に詳しい勇武津資料館の藤原康成学芸員(63)は、こう説明する。7年前には2基が確認されていたが、1基はその後、工場建設でなくなったという。「掩体壕は盛り土で、いつかはなくなってしまう。貴重な戦争遺跡を保存したい」と危機感をにじませる。

 沼ノ端飛行場は、現在の東開町や沼ノ端一帯に広がっていた。1943年(昭和18年)12月、旭川に司令部を置く陸軍第七師団が整備した。滑走路は1500メートル2本と1200メートル1本の計3本。兵器製造工場があった室蘭の防衛が目的で、住民も動員し、数カ月程度の突貫工事で完成させた。

 旧日本軍の掩体壕はコンクリート製が多いが、沼ノ端飛行場では土製で36基あった。戦闘機「隼(はやぶさ)」が一時配備されたが、戦況悪化に伴い、道外へ送られた。同飛行場からの出撃記録は45年7月14、15日の北海道空襲時を含め、ないという。

 沼ノ端生まれの不動産経営の星野邦夫さん(77)によると、飛行場は終戦直後、米軍が滑走路を爆破。残った掩体壕は冬場、子どもたちがスキーで遊んだという。昭和40年代から宅地造成が始まり、飛行場の痕跡は消えていった。

 星野さんは「戦争遺跡を残すのは正直難しい。ただ、忘れてはいけない歴史の証しが消えていくのもどうなのか」と歯がゆさをにじませる。

 戦争遺跡の保存に積極的な自治体もある。東京都府中市は2007年、旧陸軍の調布飛行場の掩体壕1基を市の文化財に指定した。年1回、内部を一般公開している。市の担当者は「文化財に指定したことで市民に周知され、平和について考えるきっかけになっていると思う」と話す。

 一方、苫小牧市教委は沼ノ端の掩体壕跡を把握しているものの、「負の遺産を残すことには賛否ある。市民の保存活動の動きもなく、市として保存に向けた検討はしていない」(生涯学習課)としている。(山田一輝)

1210名無しさん:2020/10/19(月) 12:28:15
https://news.yahoo.co.jp/articles/2752e0e301faa55211ce13bd8ca2cf293e7bc1fb
【NEW】安倍前首相が靖国参拝
10/19(月) 9:42配信

安倍晋三前首相は19日朝、東京・九段北の靖国神社を秋の例大祭にあわせて参拝した。
安倍前首相は、参拝後、記者団に対し、「ご英霊に尊崇の念を表するため参拝した」と語った。
安倍前首相は、9月に首相を退任した直後に、靖国神社を参拝していて、退任後二度目の参拝になる。
首相在任中は、例大祭にあわせての参拝は行ってこなかった。

FNN

1211とはずがたり:2020/10/28(水) 14:49:20
2020-08-22
憲兵までゆるふわ化してしまった『この世界の片隅に』
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/08/22/083835

1212とはずがたり:2020/11/18(水) 20:35:14
財界四天王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

財界四天王(ざいかいしてんのう)は、池田勇人内閣を表裏で支えた4名を指す。経済記者の重鎮、三鬼陽之助によって命名された。

氏名 出生年 死亡年 財界役職 自社役職
小林中 1899年 1981年 富国生命保険社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油社長
水野成夫 1899年 1972年 経済同友会幹事 産経新聞社長、フジテレビジョン社長
永野重雄 1900年 1984年 日本商工会議所会頭 富士製鐵社長
櫻田武 1904年 1985年 日経連会長 日清紡績社長
概略
財界四天王の呼称は、1961年(昭和36年)『文藝春秋』新年号で三鬼陽之助により初めて使用された。それ以後、池田内閣のご意見番として君臨する4名を示す言葉として広く使用されるようになった。

そもそも、池田勇人を支持するきっかけとなったのは、財界四天王の師匠、宮島清次郎(日本工業倶楽部元会長、日清紡績元社長)の存在に尽きる。宮島は吉田茂元首相と東京帝国大学時の同級生であり、一緒に下宿する程の大親友であった。さらに第1次吉田内閣当時には資金援助もしていた。そのような関係もあり、吉田は第3次内閣を組閣する際、財界の重鎮となっていた宮島に大蔵大臣就任を要請した。宮島は若き頃、首相を務めた犬養毅に一時師事し、代議士経験もあるなど政治に精通していたものの、これを拒否し、逆に櫻田武の推挙により池田を大蔵大臣に推薦し就任させた。ここから、財界四天王と池田との深い関係が始まる。

敗戦からまだ20年前後で、旧財閥は以前ほどの力がなく、働き盛りの4人が日本の財界を牛耳った[1]。この4人が相談すると、日本国の大抵のことは決められるともいわれた[1]。政治資金規正法という面倒な法律もなく、この4人を中心に集金して、ジャンジャン政治家に献金した。スポンサーとして金も出し意見もした。財界優位の時代で、ときの総理といえども聞かざるを得なかった[1]。池田内閣の「所得倍増計画」という根幹の政策からして、財界の意見をそのまま政策に反映するもので、貧乏だった日本経済が急激に上昇した時代であった。財界四天王は池田内閣時、財務面でのバックアップのみならず、政策にも大きくかかわった。池田の死後も、池田派により結成された宏池会の後見人として、政治の世界に影響力を持ち続けた。

1213名無しさん:2020/11/21(土) 22:02:58
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a9fb9f448cdf02bd33652d98c246d6ae403a8cc
田中角栄に向けてニクソン大統領が放った、ヤバい「差別発言」をご存じか?
11/21(土) 6:02配信

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1973年7月31日、田中角栄はニクソン米大統領と2度目の首脳会談に臨んだ。しかし日中国交正常化に不満を抱くアメリカ側は、角栄に対して高圧的な態度で接する。そしてとうとう、ニクソンの口から衝撃的な「差別発言」が飛び出した…! 緊張が高まる当時の日米関係の様子を、新刊『ロッキード疑獄』から一部編集して紹介する。
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角栄とニクソンの関係悪化
 この頃、双方は7月31日〜8月1日に設定された、田中とニクソンの2回目の首脳会談の準備作業にとりかかっていた。

 両首脳にとって悩みは、大統領も首相も支持率が低下していたことだ。ニクソンはウォーターゲート事件、田中は金権政治が問題にされ、両者は人気回復策で悩んでいた。

 当時、日米間の主要課題は、(1)対中国政策の調整と、(2)日米貿易不均衡だった。しかし、(1)は既に「主要な論点」ではなく、(2)は「解決への道筋が付けられたよう」に見えた。

 だから、キッシンジャーはニクソンに「相互に関心がある多国間問題での協力」について、次のような協議をするよう提案した(注1)。

 ・日本の経済力に比例した役割を地域および世界で演じるよう求める。
・日本はエネルギー問題で、日本の協力が重要とされる地域で建設的に取り組む。
・新しい分野で米国とともに同盟関係への新たな日本の関心を創出する。

 「こうした議題は、CIAの報告によれば、田中が好む」と付記されている。

 二度目の田中との会談に向け、ニクソンは手ぐすね引いていたとみられる。田中に意見してやる、と意気込んでいたのだろう。

 第一に、両首脳は一緒にゴルフする計画だったが、理由もなく止めた。

 前年、1972年のハワイでの首脳会談の際、ロジャーズ国務長官は、次にワシントンで会う時は大平と「一緒にゴルフしないか」と話していた。今回、大平からインガソル駐日大使を通じて「プレーのお招きをいただけたら大平も田中も大変ありがたい」と提案した。

 だから、首脳同士のゴルフも「同意されるなら、(会談前日の)7月30日でアレンジする」とロジャーズはニクソンに伝えた(注2)。

 しかし、この計画について、キッシンジャーの部下は、7月18日付のキッシンジャーあてメモで「先月日本側から提案があったが、あきらめた」と連絡。キッシンジャーも、大統領あてメモで「ゴルフの可能性はない」と伝えた(注3)。ニクソンが断ったとみられる。

 第二に、8月1日の会談終了後に、ホワイトハウスの「ローズガーデンを両首脳が散策し、2人で共同声明を発表。宇宙中継で日本のテレビにライブ映像を送信する」という日本側提案の演出も、同じ憂き目に遭った。

 日本の提案は会談前日の7月30日、キッシンジャーに伝えられた(注4)。しかし、当日の「大統領日誌」によると、「大統領は別れのあいさつをして、3分後に執務室に戻った」。米国側は、会談開始予定を30分繰り上げて午前9時半とし、テレビの宇宙中継はやるが、両首脳による共同声明発表には応じなかったのだ(注5)。

1214名無しさん:2020/11/21(土) 22:03:32
>>1213

争点は貿易赤字と日中関係
 日米首脳会談前、課題とされていたのは二つ。第一に米国の対日貿易赤字削減、第二に対中関係で異なる日米の政策をいかにして両立させるか、だった。第二点、日米の対中政策の相違は、まだ問題化していなかった。

 米国の対日貿易赤字は前年の約40億ドルの半分以下に削減されることが確実となっていたので、ニクソンが高く評価して当然だった。

 だが、会談1日目、7月31日のニクソンは上から目線で、傲慢な話し方が目立つ(注6)。

 田中は「1973年上半期、日本の対米輸出額は前年同期比8%しか増加せず、逆に米国からの輸入額は49%増加して、日本の貿易黒字額は約12億ドルに大幅削減となった。日本政府の景気刺激策で内需が拡大し、達成した」と成果を明らかにした。

 しかし、ニクソンはこれに対し、労をねぎらうわけでもなく、「日米のような高度に発達した先進国は競争の運命にある。……こうした競争が激しい政治的対決に発展しないようにすべきだ」と将来の日米対決に警告した。

 その上で、ニクソンは「首相は『コンピューター付きブルドーザー』と呼ばれている。どれほど難しくても首相のような指導者は、危機回避に貢献してくれる」と期待感も示している。

日本人は「裸で立っているピグミー」
 その後、ニクソンは次のように、計3回、日本をアフリカの「ピグミー族」にたとえる差別的な発言をした。

 ニクソン「自分の基本的な見方だと、経済大国は政治的なピグミーにとどまることができないということだ。それは自然の法則に反する。経済大国は政治的ピグミーにとどまれない……首相は日本が将来歩むべき道をどう考えるのか」
田中「すべての日本国民は米国が過去四半世紀、日本に与えた援助に感謝している。それによって、日本は全面的敗北から復興するまれな成果を挙げた。日本国民の基本的な願いは、米国と緊密に協議し、永久に自由諸国とともに地位を維持することだ」

 ニクソン「中国、ソ連、日本、米国を見ると、一つの事実が際立っている。日本は近隣諸国の中でソ連などとは対照的に、経済大国ながら軍事的かつ政治的にはピグミーとして裸で立っている。……現在の安保関係の取り決めは、それら諸国が熟れたスモモのような日本を見ても、むしり取ろうと思わないよう、最良の保障となっている」
田中「大統領の見方と同感です。米国と日本の固い結合が他のあらゆる関係にとっても重要です。それなしに日本は中国と国交正常化できなかった」(太線筆者)

 田中はニクソンから「ピグミー」と侮辱されても、反発することなく、戦後米国から受けた支援に感謝し、安保条約のおかげで日本は守られていると認めた。そして、日米安保があったから日中国交正常化ができた、とも主張した。論理的には、のれんに腕押しのような反論だ。

 では、「5年後の世界」はどうなるか。ニクソンは「日米安保条約が廃棄され、日本で支持されなくなったら、多くのアメリカ人は喜んで出て行く。韓国から米軍も撤退する」と言った。言うことを聞かなければ米軍を撤退させる、というカードをここで見せた(注7)。

 それにしても、日本と日本人に対して、これほど侮辱的な言葉を使った米大統領がいただろうか。日本側の会談記録はどうなっているのか。外務省に情報公開請求して入手した(注8)。

 外務省の会談記録では、ピグミーを訳さず「政治的な小人(political pygmy)」とカッコ付き、あるいはカッコなしで英文のまま記していた。

 「田中総理・ニクソン大統領会談の模様」と題する1973年8月23日付9ページの文書は、こうした刺激的な発言を省いていた。この会談が外交問題化しないよう配慮した形だ。

 「ピグミー」は、『リーダーズ英和辞典』(研究社)によると、「アフリカ赤道森林地帯の矮小黒人種」とある。それが転じて「こびと」「知力の劣った人」という意味もあるとしていて、差別的に使用され得る言葉であることが分かる。

1215名無しさん:2020/11/21(土) 22:07:10
>>1214

ニクソンはさらに醜態を重ねる…
 ニクソンの荒っぽい発言はそれにとどまらなかった。同日夜の公式夕食会で、乾杯の際に、ニクソンはもっとひどい醜態をさらけ出している。

 あきれるほどの不規則発言をしてしまって米政府高官を慌てさせ、後になって発言が日本側に勘付かれてしまっていないか、とキッシンジャーが通訳に確認を求めた。通訳がまとめたメモが残されていた(注9)。

 アメリカ大使館の通訳、ジェームズ・ウィッケルがまとめたメモは、「注」として、次のような経緯を説明している。

 大統領は投げやりな様子で、低い声でブツブツ言いながら、「あなたは自分が望めば誰を祝して乾杯してもいい……やりたければ、悪魔に乾杯してもいいんだよ」と言った。田中首相は、通訳してもらいたいとウィッケルの方を向いたので、ウィッケルは「誰でも、望む人を祝して乾杯をしてもかまわない」と訳した。しかし、外務省の通訳、沼田はやり取り全体を聞いていたようで、田中首相の耳元でささやいた……ウィッケルが聞き取れた唯一の単語は「悪魔」だった。田中首相が一連の言葉と翻訳をどのように受け止めたかは分からない。(……は原文の通り。太線は筆者)

 メモから想像すると、夕食会で、ニクソンと田中は誰を祝して乾杯すべきか、と短い会話を交わしていた。ニクソンが外交儀礼上、日本の国家元首とされる天皇陛下の健康を祝して乾杯すべきだと言い、田中は「私は大統領の健康を祝して乾杯したい」と話した。しかし、ニクソンは脱線して「悪魔に乾杯してもいいんだよ」と言ったようだ。

 1ページのこの文書、「7月31日ホワイトハウス」、キッシンジャーあて。「シークレット、センシティブ(機微)、アイズオンリー」と、最高ランクに次ぐ機密に指定されている。キッシンジャーは、日本側に本当の発言を気付かれていたら大変だと考え、具体的な経緯をウィッケルに報告させたのだ(注10)。

 「沼田」とあるのは、田中、福田、大平の歴代三首相らの英語通訳を務めた外務省の沼田貞昭(後にカナダ大使)のこと。筆者は沼田の知己を得ていたので、2009年、沼田と駐日米大使公邸のレセプションで偶然会った機会に、このことを確かめようとしたが、「覚えていない」と確認を拒否された。

 当時の田中の秘書、木内昭胤は「ピグミー」の件も「悪魔に乾杯」の件も「まったく記憶がない」、としている(注11)。

 こうした事実は、ニクソン回想録で確認されていた。1978年に出版された回想録で、ニクソン自身がこの舌禍事件を認めていたのだ。

 田中に対する失礼な発言は「3カ月にわたりウォーターゲート事件による業務の停止で、国内問題、国際問題で議会の仕事はほとんど止まった。この状況への私の怒りは、7月の田中首相との公式夕食会での私の乾杯スピーチの際に突出した」と白状している(注12)。

 原因は、ウォーターゲート事件で追及され、イライラしていたからだった。田中はそんな怒りをぶつけるのに便利なサンドバッグだったようだ。古い友人の国務省元高官によると、ニクソンは泥酔していたとみられている。

1216名無しさん:2020/11/21(土) 22:07:20
>>1215

 〈注釈〉

 (注1)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council Institutional (“H”)Files, Study Memorandums(1969-1974), National Security Memorandums, NSSM-172 (2 of 3), Box H-197、Memorandum For: The President, From: Henry A. Kissinger, Subject: Japanese Prime Minister Tanaka’s Visit: The Question of Focus

 (注2)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3 ) to (3 of 3), Box 927, Secretary of State, June 7, 1973, Memorandum For The President, Subject: Possible Golf Match with Japanese Prime Minister Tanaka and Foreign Minister Ohira

 (注3)同、National Security Council, July 18, 1973, Memorandum For : Mr. Kissinger From: John A. Froebe, JR. Subject: Proposed Schedule for U.S. Visit by Japanese Prime Minister Tanaka

 (注4)同、National Security Council, Urgent Action, July 30, 1973, Memorandum For: Mr. Kissinger From: John A. Froebe, Subject: Prime Minister Tanaka Request

 (注5)President Richar Nixon’s Daily Diary, August 1, Nixon Library,  2019年11月26日アクセス

 (注6)FRUS, 1969-1976, Volume E-12, Documents On East And Southeast Asia, 1973-1976, Document 179. Memorandum of Conversation, Washington, July 31, 1973,11 a.m.

 (注7)同

 (注8)外務省情報公開第00014令和2年4月2日、開示請求番号2019-00903

 (注9)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3), Box 927、Secret Sensitive Eyes Only- Henry Kissinger, July 31, 1973 The White House, Subject: Remark Before / President’s Toast, James J. Wickel, American Embassy - Tokyo August 4, 1973

 (注10)同、NSC Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973, Box 927, Secret Sensitive, Eyes Only - Henry Kissinger, July 31, 1973, the White House

 (注11)2020年1月29日インタビュー

春名 幹男(国際ジャーナリスト)

1217荷主研究者:2020/11/21(土) 22:19:27

https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20201105579279.html
2020/11/05 11:00 新潟日報
戦争遺跡 五泉で発見
旧陸軍の「秘匿飛行場」や塹壕

塹壕とみられる跡=五泉市

秘匿飛行場の滑走路があったとみられる場所=五泉市

 新潟大人文学部の清水香助教(48)=考古学=の研究チームが、新潟県五泉市の新大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション(村松ST)内で、旧陸軍の「秘匿飛行場」の滑走路や塹壕(ざんごう)の跡とみられる戦争遺跡を発見した。新大の史料や聞き取り調査で施設の存在は知られていたが、考古学の面からも裏付けが取れた形だ。清水氏は「県内にも戦争遺跡があると知ってもらうきっかけになってほしい」と期待している。

◎新大研究チーム 史料や住民証言裏付け

 新大は2014年から当時の建物の配置図を分析。周辺住民らへの聞き取り調査を続けている。発掘の実績がある清水氏が18年に新大に赴任。分析結果などを基に今年8月、発掘調査が行われた。現在はほ場として使われている4カ所の試掘で、塹壕の凹型のくぼみが埋め戻されたような形跡を発見した。その上の層からは自然堆積では形成されない石や砂が混ざった地質も確認できた。

 清水氏は「石や砂が含まれている層は人為的に搬入されたと考えられる」とする。これは聞き取り調査で複数の住民が語った「練兵場には塹壕があり、それを平らにした」「滑走路はローラーで固めた」などの証言と符合し「この場所に秘匿飛行場があったと思われる」と説明する。

 これまでの研究で「陸軍用地」と記された石の標柱が複数見つかった敷地南西部の森林も調査した。この周辺でも今回、塹壕とみられる幅2メートル、深さは最大1・6メートルの落ち込みが確認された。清水氏らは「くぼみの規模や地質からほ場の塹壕と同時期に作られたものだと推測できる」とみている。

 南部の一角からは医療用アンプルや1920〜50年代のものとみられる酒の王冠や歯磨き粉、統制品の陶器も見つかっている。清水氏は「塹壕の地質からもこうしたものが見つかれば、ほぼ間違いなく戦争遺跡であることが分かる」と指摘する。

 今回の発見について清水氏は「住民の口承証言を考古学的に目に見える形で示せた」とし「本県では戦争遺跡の調査がまだ進んでいない。身近な所にある戦争の記憶を後世に残していくことは大きな意義がある」と語った。

<新潟大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション> 広さ約33ヘクタール。日清戦争後の1897年に国の軍備拡張の一環として兵営が置かれ、陸軍歩兵30連隊が駐屯した区域に立地する。太平洋戦争末期には村松少年通信兵学校が設置され約7千人の少年兵を養成したが、終戦で解散。米軍の駐屯地を経て、1946年に新潟大農学部の前身となる県立農林専門学校が移転した。兵舎もそのまま使用されていたが、新施設の建設に伴って解体された。

1218名無しさん:2020/11/25(水) 19:03:38
https://news.yahoo.co.jp/articles/3fab4f61b1914286e17a1c5fc3a1f75241ad7ff2
加藤長官「衝撃的な出来事でしっかり覚えている」 三島由紀夫決起から50年
11/25(水) 18:37配信

 加藤勝信官房長官は25日午後の記者会見で、作家の三島由紀夫が昭和45年に陸上自衛隊施設に立てこもり自決してから50年たったことについて「私も15歳のときだったが、大変衝撃的な出来事だったとしっかり覚えている」と述べた。

 三島は自決の4カ月前に将来の日本について「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目(ぬけめ)がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」との文章をサンケイ新聞(現・産経新聞)に寄稿した。

 加藤氏はこれに対し「三島氏の言葉に反論するということではないが、この間、先人、現在いる方々の努力でこの国は繁栄と平和を構築してきた。少子高齢化、コロナ禍などさまざまな課題はあるが、そうした形で国づくりをしっかり進めてきたと認識している」と強調した。

1219とはずがたり:2020/12/01(火) 21:54:16
# 戦争# 国家・民族# 日本
インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
本当に、牟田口ひとりの責任だったか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56995?page=3
広中 一成 プロフィール

河辺は唯一、作戦を支持した
作戦は雨季に入る前の春先一ヶ月間とされた。しかし、上述のとおり、インパールまでの道のりは険しく、正攻法で挑んでも作戦を達成することが難しかった。

そこで、牟田口は行軍を少しでも早めるため、作戦に参加する将兵に持たせる食料や装備をできるだけ少なくした。そして、作戦中に将兵の食料が足りなくなったら、道端に生える野草を食べるか、作戦部隊が引き連れてきた羊や牛などの家畜を殺して食べるよう命じた。

この計画を、牟田口はかつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンが家畜を率いて戦いに出た故事から「ジンギスカン作戦」と名づけて自賛した。

この荒唐無稽な作戦計画は、当然ながら軍司令部の誰もが反対した。しかし、そのなかで、唯一、牟田口の計画を支持したのが河辺だった。河辺の存在は、インパール作戦の実現に邁進する牟田口の心の支えとなった。

1944年3月、日本軍は兵力約9万人を擁してインパール作戦を発動した。しかし、多くの軍司令部幕僚の不安は的中し、インパール作戦は日本軍に3万人あまりの戦死者を出して失敗に終わった。食料を失った日本軍将兵は、撤退途中で次々と倒れ、命を落とした。屍が並んだ道は別名「白骨街道」と呼ばれた。

牟田口は、インパール作戦の責任を取って、第十五軍司令官の職を解かれた後、陸軍を退官し、召集先の陸軍予科士官学校で敗戦を迎えた。

あなたも「牟田口」にされるかもしれない
戦後、牟田口はインパール作戦を実行した敗戦の将として、世間から猛烈に批判され、「愚将」という不名誉なレッテルを貼られたままこの世を去った。

インパール作戦は、牟田口が勝手に始めたのでなく、上官の河辺、さらには東条首相の支持がなければ実現できなかった。よって、本来であれば、インパール作戦の敗北の批判は、牟田口だけでなく、河辺らにも向けられなければならなかったはずだった。



しかし、河辺はインパール作戦後、ビルマ方面軍司令官の職を退くが、特に作戦の責任を問われることなく、終戦前に陸軍大将にまで進んだ。そして、河辺は世間から「愚将」と罵られた牟田口とは対照的に、戦後静かな余生を送った。

河辺にとって、牟田口はインパール作戦の批判を一身に受けたスケープゴートだった。

昨今、様々な不祥事が起き、誰かひとりが批判の矢面に立つと、加熱する報道やSNSでの書き込みも手伝って、国民総出でそのひとりを徹底的に追いつめる風潮がある。みんなが集まりよってたかって敵を叩く習性は、よそ者に厳しい日本人独特の「島国根性」の表れなのかもしれない。

しかし、敵を批判することに熱中するあまり、私たちはその不祥事がなぜ起きたのかという問題全体を見通す視野を失っていないだろうか。しかし、実はその「敵」はスケープゴートに過ぎず、「敵」の裏に潜んでいるのが、本当の批判の対象かもしれない。

愚かな判断の裏には、それを黙認し、かつ支持しながら、いざ失敗が明るみになると、「自分は関係ない」と姿を隠す人間が必ずいる。

いま、あなたは気づかないうちに「牟田口」になっているかもしれない。もしそうなら、あなたの後ろには「河辺」がいる。

1220とはずがたり:2020/12/08(火) 15:59:08

その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/73024/
2020年12月8日 06時40分

 その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その朝とは、一九四一(昭和十六)年十二月八日。日米開戦の日だという▼開戦の臨時ニュースが校内に伝えられた。教授は廊下に飛び出し、「万歳」と叫んだそうだ。当時の学生が書き残している▼作家、半藤一利さんの『十二月八日と八月十五日』にあったが、とりわけ珍しい話ではなかろう。<やみがたくたちあがりたる戦(たたかい)を利己妄慢(ぼうまん)の国国よ見よ>斎藤茂吉。長く続く米英との緊張。当時の国民はうっとうしさや閉塞(へいそく)感の中にあり、真珠湾攻撃はその暗雲を吹き飛ばすかのように受け止められた。「利己妄慢」の米英という大国に挑む痛快さもあったという。茂吉もそうだったのだろう▼十一年後の五二年に建立された、広島の原爆死没者慰霊碑。碑文は<安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから>である。その言葉を考案したのは十二月八日に「万歳」を叫んだあの教授だそうだ▼歴史の皮肉を書きたいわけではない。教授の名は当時広島大学教授の雑賀忠義さんとおっしゃる。この人も被爆している▼あの日、今から考えれば、勝てるはずもない日米の開戦に国民の大半が高揚した。記憶にとどめなければならぬ戦争の過ち。それは軍や政府によるものだが、感情に任せたわれわれの側の「万歳」をそこから除く理由もまた見当たらぬ。繰り返すまい。

雑賀忠義
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E8%B3%80%E5%BF%A0%E7%BE%A9-1076528
1894-1961 大正-昭和時代の英文学者。
明治27年3月25日生まれ。大正13年広島高教授,昭和24年広島大教授となる。同年,浜井信三市長の依頼で広島市平和記念公園の原爆慰霊碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の一文をえらび,揮毫(きごう)した。昭和36年2月8日死去。66歳。和歌山県出身。京都帝大卒。著作に「英詩入門」など。

1221とはずがたり:2020/12/11(金) 15:17:46
戦時補償債務
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E8%A3%9C%E5%84%9F%E5%82%B5%E5%8B%99
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戦時補償債務(せんじほしょうさいむ)とは、太平洋戦争中に当時の政府が命令または契約の形で支払を約束した保証や戦争保険金などを指す。主に軍需品の未払代金や徴用された後に撃沈された船舶に対する補償、工場の疎開経費などがこれにあたる。


概要
1945年の敗戦後、幣原内閣は個人財産増加税や財産税の臨時賦課を財源としてこれらを支払う方針であったが、連合国はインフレーション促進につながるこの方針に反対した。そもそも連合国は日本の企業が政府とともに自分達と敵対したことに対して何らかの制裁を課す必要があると考え、戦時補償債務打ち切りもその一環であった。

1945年11月24日にGHQは「戦時利得の除去および国家財政の再編成に関する覚書」を日本側に通告した。1946年4月、連合国は日本に対して戦時補償債務支払の打ち切りを正式に要求したが、直後に就任した第1次吉田内閣の石橋湛山大蔵大臣は、自由経済の根幹にある契約の論理が破壊されることによる日本経済への打撃を危惧して強く反対した。だが、対日理事会におけるソビエト連邦の強い要求によって8月8日になって日本政府はこれを受け入れることとし、形式上は戦時補償債務は全額支払うが別途新税を設けて支払額に対して100%の税率を賦課することで連合国側の同意を得た。

1946年10月29日に戦時補償特別措置法が公布され、同法に基づく「戦時補償特別税」が戦時補償債務917億円余に課税、実質無効とされた。このため、多くの銀行や企業の資金繰が困難となったため、会社経理応急措置法・金融機関経理応急措置法などが公布されて救済策が講じられた。

1222とはずがたり:2020/12/15(火) 00:03:22

三菱、中国の強制徴用被害者に初めての補償金支給…「不法は認めていない」(1)
https://s.japanese.joins.com/Jarticle/273315
? 中央日報/中央日報日本語版
2020.12.14 07:34

中国山東省の済南時報は今月7日、三菱重工業が第2次大戦中に強制的に連行した中国人30人に対する補償金を支給したと報じた。遺族30人は1人あたり10万人民元(158万円)を受け取った。日本戦犯企業の三菱が中国人に初めて支給した補償金だった。

山東省強制徴用被害者連合会の劉煥新会長は「たとえ金額は大きくなくても、これは数十年間続いてきた問題提起を通じて勝ち取った結果」とし「戦争がもたらした罪悪と犯罪は忘れられてはならず、今後三菱の『黒歴史』を明らかにしていく開始点になるだろう」と強調した。

補償を受けるまでのこれまでの過程は長く険しいものだった。中国政府は1972年「日中共同声明」で戦後補償問題に対して明確に言及せず、問題を避けた。

民間から問題提起があったのは1990年に入ってからだ。1944年9月、旧日本軍によって33歳という年齢で故郷の山東省から日本の三菱鉱業株式会社のある鉱山に連れて行かれた劉連仁さんが1996年に日本政府を相手に最初の損害賠償訴訟を起こした。

東京地方裁判所は2001年7月、劉さんの訴えを認めた。日本政府が戦後救済義務を違反したとし、遺族に2000万円の損害賠償をするよう命じる判決を下した。

しかしその4年後、東京高等裁判所が判決を覆した。2007年最高裁判所は原審を確定し、中国が請求権を放棄したので賠償責任はないとの結論を下した。その後、この最高裁の判決はその他の一連の中国被害者の訴訟に引用されてすべて棄却される根拠になった。

反転の契機は中国政府の介入が始まってからだ。2014年、中国人民抗日戦争博物館が日本強制徴用対象者3万4282人の名簿を公開した。終戦70年を控えてのことだった。

山東省から強制連行された人だけで9177人にのぼる。その年2月に三菱を相手取って訴訟が再開された。死亡者722人を含めた3765人の遺族が原告として参加した。生存者はたった4人、10代の時に日本に連れて行かれた80〜90代の高齢者だった。彼らは老骨に鞭打って東京の法廷に出席し、自分たちが体験した強制労役の惨状を証言した。

1223名無しさん:2020/12/21(月) 23:45:12
https://news.yahoo.co.jp/articles/1891bcd748733cc8aba27189bd1bc056b287399c
【75年目の告白】岐阜・黒川開拓団 満州で性的な接待を強いられた女性たち「歴史の渦の中で引き回され、きょうまで生きるとは」
12/21(月) 18:09配信

中京テレビNEWS

中京テレビNEWS

1224名無しさん:2020/12/23(水) 23:01:02
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca0bca32e7688a717dbc7a53987c4c448a25d3ec
基地と男性に頼りたくない 20歳の女性は沖縄を旅立った【#コザ騒動50年】
12/23(水) 18:12配信

琉球新報

琉球新報社

1225名無しさん:2021/02/13(土) 21:18:43
https://news.yahoo.co.jp/articles/0c456a793d4afdb9646cc778c237aad67df59615
「もし、東京五輪が中止になったら…」研究者が“警戒”すること
2/13(土) 15:09配信
BuzzFeed Japan
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、患者や事業者への罰則を設けたふたつの改正法が2月13日に施行された。戦前の歴史に詳しい研究者は、「戦前と同じように、人々が自ら自由や権利を差し出してしまった」と懸念する。空気による同調圧力、美談や恐怖に巻き起こされる感情的な議論。その先に待っているものとは何なのか。そして、なぜ私たちは東京五輪の「あと」を警戒しなければいけないのか。【BuzzFeed Japan / 籏智広太】

「外側からくる戦前ではなく、人々の内側からくる戦前を、懸念しています。われわれが自発的に、自由や権利を差し出してはいけないはずなのに……」

BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、近現代史研究者の辻田真佐憲さんだ。

「日本人にとって、太平洋戦争は大きな教訓であり、失敗の比喩として用いられます。私はあらゆることについて『戦前』ということに対しては反対ですが、いまこそ言わなければならないと感じています」

「戦前の歴史で気をつけなければいけないのは、政府からではなく、民衆の側から私権制限を求めてしまうという動きがあったことです。私たちは政府から押しつけられたものには警戒感を持っている一方で、我々が自発的に権利を差し出してしまうことには無警戒なのです」

辻田さんがこのように「警戒」するのは、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い今国会で改正された特措法と感染症法をめぐる議論だ。

改正されたふたつの法律では、都道府県知事の営業時間の短縮の命令に従わない事業者や、入院拒否や逃亡をした患者、保健所の調査を拒否した人には行政罰としての「過料」が科されることになった。

私権制限に前のめりだった「リベラル」
一時は「懲役」を含む刑事罰の導入も議論の遡上にあがったが、結核やハンセン病の強制隔離で患者の人権が侵害された歴史を踏まえ、患者に対する差別や偏見を煽りかねないとして、専門家らが強く反対。行政罰である過料にとどまった。

なお、特措法においては特定地域における重点的取り組みを実施するための「まんえん防止措置」も新設された。緊急事態宣言と同様に罰則を伴う措置にもかかわらず、その発動要件に対しては恣意的な運用への懸念もあがっている。

一方で、多くの世論調査では強制力のある法改正を求める声が高まっていたのも事実だ。

NHKの昨年6月の世論調査では、「外出を禁止したり休業を強制したりできるようにする法律の改正が必要」と答えた人は42%に対し、「必要ない」は18%だった。

また、毎日新聞の今年1月の世論調査でも、罰則が「必要だ」との回答は51%で、「必要ない」の34%を上回った。辻田さんはいう。

「このような感染症ですから、市民が自分で考えて、自らの行動を制限するのは問題がないと思います。しかし、政府による私権制限や、それをもとにした同調圧力が用いられていることについて、私たち市民はもっと自覚、危機感を持つべきだと思います」

「また、感染拡大の防止策をめぐっては、リベラルと言われる野党側やその支持者も私権制限に前のめりだったように感じています。そうなってしまうと、制限によって奪われる移動の自由や集会の自由を擁護するのは誰になるのでしょうか」

1226名無しさん:2021/02/13(土) 21:18:55
>>1225

美談、恐怖、そして空気
戦争協力のため「慰問金品受付所」に自らの貴金属を寄付する人たち(1937年)

日中戦争から太平洋戦争に突き進んだ日本。メディアや多くの企業もそれに乗じ、熱狂が生まれた。人々は率先して戦争に協力し、多くの権利を「お上」へと差し出した。その悲惨な結果は、今を生きる私たちが知る通りである。

「前線も苦労している、人も亡くなっているのだから、少しだけでも辛抱しなければならないーー。美談や恐怖など、感情を刺激するような報道がメディアを通じて流れ、人々がそうした『空気』に煽られ、同調圧力に走り、政府が私権制限へと動いていくのは、戦前とまったく同じです」

「医療従事者がいかに大変なのか、重症患者がいかに苦しんでいるのかを伝えることは、止むを得ないでしょう。しかし、そうした感情的なものと私権制限は本来であれば切り離して議論をしなくてはいけないと思います。こういうことをいうと、反発が寄せられると思うのですが……そこまで、戦前と同じですよね」

戦前といま。日本社会において、変わらず大きな力を発揮しているのが、「空気による同調圧力」だ。

戦時中は「隣組」によって相互監視をし、戦争協力をしない人たちが「非国民」と後ろ指を刺されていた。これは近代日本社会において、普遍的なものであると辻田さんはいう。

「『空気』を気にして生まれる日本社会の同調圧力は、戦時中に限ってあったわけではありません。東日本大震災のときにも『節電警察』のような振る舞いがあったように、非常時に現れやすいものなのだと思います」

評論家の山本七平はいまから40年以上前の『「空気」の研究』(1977年)で「『空気』とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である」と指摘している。

日本社会では「いざというときは(…)すべてが空気によって決定され」、合理的な判断から遠ざかっていく、というものだ。辻田さんはこの考え方に触れながら、コロナ禍の特殊性についても言及した。

「いまの日本社会では東京五輪が予定されていたため、みんなでやろう、感情でひとつになろうという同調圧力が広がっていました。それがコロナに置き換わり、自粛の同調圧力へと変化した。政府も五輪を開催したいがために本来は強制力を用いたいがそれをせず、人々の同調圧力を煽るような振る舞いをみせた」

「警察が警棒を持って巡回したり、自治体が県外ナンバーを監視したり……。そうしてできた特有の空気によって差別なども横行し、SNSでの特定など人権侵害に近いようなことも起きてしまった。ハンセン病などの教訓が普段はあれだけ叫ばれているにもかかわらず、非常時にはここまで変わってしまうのだな、と感じましたね」

1227名無しさん:2021/02/13(土) 21:20:52
>>1226

もし、東京五輪が中止になったら…
今回の法改正は、第3波における緊急事態宣言下という、やはり特殊な「空気」のなかで議論が進んだ。懲役刑などの刑事罰の制定は回避されたとはいえ、罰則付きの法改正がされたことには変わりがない。

「本来であれば、冷静なときに議論をすべきだったのに、なぜそれをしなかったのか。この法改正では、さらなる感染拡大が起きた場合、営業している店舗の通報合戦や脅迫など、より激しい同調圧力を目覚めさせてしまう恐れもあると思います」

「また、日本は先進国のなかでも強制力を持たずに感染者を比較的抑えられてきている。第3波も減少傾向に入っています。それにもかかわらず、ここで自由を捨ててしまうのであれば、次の感染拡大では際限なく私権制限が広がり、歯止めが効かなくなってしまうという怖さもある」

このように語る辻田さんが特に警戒するのは、東京五輪が中止になった場合だという。

「いまの自民党政府は、その憲法改正草案からもわかる通り、国民に権利よりも義務を科したいと考えている。五輪があるからそのような強権的な姿勢は出していなかったわけですが、中止になれば、ロックダウンができないのならできるように憲法改正をしよう、という流れになりかねないと思っています」

実際、新型コロナウイルスの感染拡大当初の昨年1月末には、自民党の重鎮である伊吹文明元衆院議長が、コロナ禍が「緊急事態のひとつ」として、「憲法改正の大きな実験台と考えた方がいいかもしれない」などの発言が飛び出したこともあった。

「憲法改正そのものは否定しませんし、変わっていくべきだと思っていますが、政府ではなく国民を縛るための改正には反対です。非常時にこうした議論をすれば、感情的に進んでしまうわけですから、私たちは次の感染拡大のときに、どう振る舞えるのか、政府が何をしようとするのかを、より警戒しないといけないと感じています」

新たな「失敗」にならないために
では、そうした政府の振る舞いを警戒するために、どうすべきなのか。辻田さんは「冷静でいるために、歴史を参照するべき」と語る。

「法律や憲法を変えるような、われわれの権利や自由に関わる議論をするときは、冷めた態度をどこかで持つことが大切だと思っています。沸騰した議論を冷静にするために、効果を発揮するが過去の非常時の『失敗』なのです。現代日本社会のおける最大の失敗は、やはり戦争ですよね」

「一方で、戦争から教訓を学ぶというパターンに、『昔の話でしょ』と感じてしまう人が多くなっているのも事実です。政権批判のたびに『戦前』が用いられすぎたことも関係しているでしょう。政治の側だけではなく、自分たちの内側にある『戦前』の要素にも自覚的になるように、言葉の使い方や、歴史を伝えるアプローチを変えるべきなのかもしれません」

「このような非常事態は、何十年に一度しか訪れません。社会は進歩したところもある一方で、やはりパニック状態における振る舞いは変わらない。歴史を知っていれば、政治も、私たちも、同じことをやっているなと冷静になれるはずだと思っています。いまのコロナ禍が、後世に『失敗』として参照されないためにも、まず自分のなかにある『戦前』を見つめて見ると良いのかもしれません」

あの戦争は政府によって生み出された失敗であるという、わかりやすい「戦前」だけではなく。人々が率先して熱狂という空気を作り出し、自らすべてを捧げていった「戦前」を、私たちは改めて知る必要がある。

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1984年、大阪府生まれ。評論家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。近刊『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書)、『教養としての歴史問題』(共著、東洋経済新報社)、『新プロパガンダ論』(共著、ゲンロン)。

1228名無しさん:2021/03/11(木) 19:07:05
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4007683a9bee4d37b3671ecd035e9f0eb1bf813
空襲補償法案、今国会成立目指す 超党派議連が確認
3/10(水) 20:09配信
時事通信
 太平洋戦争中の空襲で被害を受けた民間人への補償を目指す超党派の「空襲議連」(会長・河村建夫元官房長官)は10日、衆院議員会館で総会を開いた。

 一定の要件を満たせば特別給付金50万円を支給する議連がまとめた法案を今国会に提出し、成立を目指すことを確認した。

 この日は推定10万人以上が亡くなった東京大空襲から76年目。河村氏は「全国で空襲があったが、民間被害者への対応は何もできていない」と訴え、その後、自民党本部で二階俊博幹事長に面会して協力を求めた。二階氏は「われわれの代でやらないといけない課題だ」と答えた。

1229名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:08
https://news.yahoo.co.jp/articles/5be2ad91f4d389de55cfa9fc0ce6822657853171
大出世蹴った首相、馬肉の委員長、総務省疑惑に想う清廉な政治家
3/23(火) 12:40配信
Wedge
 近年、あまり聞かれなくなった言葉に、「清廉潔白」、「謹厳実直」がある。「井戸塀政治家」もそのひとつだろう。

 古い言葉を持ち出したのは、総務省の接待疑惑に関与した政治家、役人の卑しさに呆れたからだ。

 かつては、金銭、名誉などに目もくれず、ひたすら国のために奔走した人たちがいた。官僚時代に出世を2度も辞退した総理大臣、馬肉が唯一の好物という野党第一党委員長……。清貧に甘んじた大先輩たちは、不肖の後輩のご乱行に眉をひそめているかもしれない。

“ライオン首相”の自宅は借家
 古くは明治の元勲、西郷隆盛、自由民権運動の闘士、板垣退助らを思いうかべるむきもあろう。そんな歴史上の人物にまでさかのぼらなくとも、昭和以降でも、偉大な政治家は何人もいた。

 筆者は“独断と偏見”で、昭和初期の宰相、浜口雄幸を真っ先にあげたい。

 1929(昭和4)年に総理大臣に就任、日本経済を世界の標準に合わせることを目的に金輸出解禁(金解禁)を断行した。主要艦以外の制限をめざしたロンドン軍縮会議では、海軍軍令部の猛反対を押し切って調印。強い信念、誠実、剛毅な人柄とその容貌から“ライオン宰相”と親しまれた。

 しかし、世界恐慌のあおりで景気は悪化、軍縮会議では補助艦のトン数で欧米より不利を強いられたため、不満を持つ青年に東京駅ホームで撃たれ、志半ばで倒れた。 

 浜口が偉かったは、まず公私混同をしない。破格の収入を伴う高い地位にも目をくれず、ひたすら自らの職務に精励した。質素、謹厳実直という表現は、数多くある浜口の伝記に必ずと言っていいほど登場する。

 首相の印綬を帯びて自宅で新聞社の写真撮影に応じた時、カメラマンに「あまりマグネシウムをたかんでくれ。借家だから天井を焦がしては家主にすまぬ」とあわてて制止した。当時はカメラの照明用にマグネシウムを発火させていたため、熱で家を傷めることを心配したらしい。記者団は笑って相手にしなかったが、本人はいたってまじめだったという(城山三郎『男子の本懐』)。 

 首相に就任してから、鎌倉の別荘で週末の静養をとることがあった。わずか4、50坪、2階屋ながら階段は段梯子というあばら家。ゴルフをするでもなく、随筆を書いたり、思索にふけった。その鎌倉行ですら、「面倒だ」といってめったに出かけなかった。


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