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「クリスマス=オラトリオ」の歌詞のメモ

1Bhaashendradatta:2009/09/24(木) 19:34:13
サン=サーンスの「クリスマス=オラトリオ」は、私たちの買ったSHIRMER版の
合唱譜によれば、9曲構成。
但し、序曲である1曲目には歌がなくオルガンばかりであり、最後の9曲目は
最も長大で事実上2曲に分けられる。
歌詞はラテン語が本来で、聖書に基づきイエスの生誕を歌うもので、2曲目の
ように長々と聖書そのものを引き写しているものもあることを既に確認している。
このラテン語詞に対して、N.H.DOLEによる英語詞が上に並行して書かれている
(>譜を読みながら紛らわしい)が、私たちが歌うのはラテン語詞である。

2Bhaashendradatta:2009/09/24(木) 22:11:01
2曲目の歌詞は、「ルカによる福音書」2章8節〜14節である。

Et pastores erant in regione eadem vigilantes,
Et custodientes vigilias noctis super gregem suum.
Et ecce angelus Domini stetit juxta illos,
et claritas Dei circumfulsit illos,
Et timuerunt timore magno
Et dixit illis angelus :
Nolite timere :
Ecce enim evangelico vobis gaudium magnum quod erit omni populo :
quia natus est vobis hodie (salvator qui est) Christus Dominus, in civitate David.
Et hoc vobis signum :
Invenietis infantem pannis involutum,
et positum in præsepio.
Et subito facta est cum angelo multitude militiæ cælestis laudantium Deum,
et dicentium :

Gloria in altissimis Deo,
et in terra pax hominibus bonæ voluntatis.

上記のうち()内は作曲されていない。

3Bhaashendradatta:2009/09/24(木) 22:24:56
一応私の蔵書には、各種の聖書(ラテン語・英語・日本語・サンスクリット・ヒンディー語・
及びエスペラントによるもの)と、ラテン語の辞書2種類及び文法書2種類があるので、
それらを参考に調べを進める。

2曲目はまるごと聖書の内容なので、まず、新共同訳から対応する部分を書き写す。
※ 読みがなの他、作曲されていない語句を括弧に入れる。

「 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。『恐れるな。わたしは、民(=たみ)全体に与えられる大きな喜びを
告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために(救い主が)お生まれになった。
(この方こそ)主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に
寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 『いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ。』 」

4Bhaashendradatta:2009/09/24(木) 23:02:42
校訂として、>>2のうち、歌詞の8行目にある「evangelico」は、楽譜に
従ったものである。ウルガタ版ラテン語聖書では、「evangelizo」になって
いて、言葉としては「evangelizo」が正しい。異読も手持ちの聖書にはない。

歌詞の初めがいきなり et(そして)という接続詞で始まっているが、それは
この歌詞が聖書の一部で、その前の部分から続いているからである。

直前の部分をここに書き写す(新共同訳:ルカ2.1〜7)

「 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの
勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた
最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、
ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、
いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムに
いるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に
寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 」

この箇所から文章をつなぐために、et が次に置かれている。この et は、文意が
つながる限り、いちいち日本語に写さなくても良いもののようである。

一方で、この箇所を含めて、それ以前全部が、その前の序曲で象徴されているものと
解釈することも可能であろう。

この曲で、合唱で歌われるのは、>>2>>3のそれぞれ最後の2行、天使の台詞の
部分のみで、それは楽譜のp.10〜p14である。
それ以前はレチタティーヴォ(叙唱)であって、楽譜のp.6〜p.9であり、
テノール・アルト・ソプラノ・バリトンの各ソロによって「語り」継がれる。

5Bhaashendradatta:2009/09/24(木) 23:45:34
以下、ラテン語と日本語訳を対照しつつ、歌詞を詳細に見ていく。

最初の文の主語は、pastores。
羊飼い(pastor)の複数主格(男性)である。
おそらく長短を示すと、pāstōrēsになるものと思われる(全部長い)。
動詞pāscō((家畜を)飼う・養う)の行為者名詞である。

それを直接受ける動詞は、erant。
ある(sum)の直説法過去三人称複数である。(彼らは(〜して)いた)
母音はいずれも短い。

補語の一つ目が、vigilantes。
vigilō((夜間)起きている・警戒する)の、現在分詞vigilansの、男性複数主格である。
長短を示すと、vigilantēsになるものと思われる。

もう一つの補語が、in regione eadem。
regiōは「進路・方向」など多くの意味があるが、ここでは「地方・地域」の意味で、
regiōneはその単数奪格(女性)。
ラテン語では地格(依格)が殆どの語で奪格と同形になっているため、in + 奪格で
「〜の中に・〜において」の意味を表わす。
※ちなみにこれに対し、移動(「〜の中へ・〜に向かって」)の意味は対格を用いる。
eādemは、īdem(「その同じ〜」)の女性単数奪格で、合わせて「その同じ地方で」。
その場所とは、直前の文脈でイエスの生まれたベツレヘム近郊という意味に取れる。

6Bhaashendradatta:2009/09/26(土) 00:25:32
(Macや一部の携帯からは、ラテン語の合字や長音符号付き文字が読めないとこが
分かったが、とりあえずこのまま進める)

上述>>5の erantには、さらに3つ目の補語が並列して続く。custodientesである。
custōdiō(見張る・監視する)の、現在分詞custōdiensの、男性複数主格である。
長短を示すと、custōdientēsになるものと思われる。

次は vigilias noctis であるが、
noctisは、nox(夜)の単数属格(女性)。母音はいずれも短い。
vigiliasは、vigilia(夜警時)の複数対格(女性)。vigiliās。
このvigiliāsは、時間を表す対格で、「複数の夜警時の間じゅう」。
さらにそれに係るnoctisは、分格的用法で、「夜を構成するところの〜」。
夜警時とは、夜警が交代で見張りをする、夜の時間単位。
この2語で要するに、「夜通しずっと」ということだと解釈できる。

次は、super gregem suum。
gregemは、grex(群れ)の単数対格(男性)。
gregō(集める・群れの中に入れる)という動詞に関係している。
「羊(aries / ovis / agnus)」という明記はラテン語の文面にはない。
suumは、suus(自分の)の男性単数対格。
牧夫・羊飼いが複数でも、形に問題はない。(ここでの単複は係る先の語(gregem)に依る)
superは、「〜の上に(へ)」を表す前置詞で、支配下の名詞句が対格であるので、
監視の視線の動く方向を表しているものと理解できる。
但し、custōdiōにはこのような前置詞は必須ではなく、若干の疑問が残る。

以上までで、歌詞の最初の文である。

なお、和訳で「野宿をしながら」と訳すからには、「vigilantes」にその意味がなくては
ならないが、寝ずに警戒して起きている以外の意味はない。英語詞の“abiding”も、
「滞在・滞留して」くらいの意味であろう。
しかし、ギリシア語から直接訳したエスペラント版にも野宿を明記しているので、もとの
ギリシア語には野宿のニュアンスの強い動詞が使われていたものと一応推測しておく。

7Bhaashendradatta:2009/09/26(土) 11:26:57
上記最初の文がテノールのソロ。次の文がアルトのソロになります。

接続詞etのあと、ecceは注意を向けさせる間投詞「ほら、見よ!」。
私はロシア語のвотとか、エスペラントのjenを連想します。
ここではモノではなくて事態に向かっている感じ。
「するとその時」とか「ちょうどそこへ」ということで焦点が絞られます。

主部は angelus Domini。
angelus(天使)は、単数主格(男性)。
Dominiは、Dominus(主・主人・支配者)の単数属格(男性)。
Dominīと、最後が長いです。
「主の天使が(一人)」

述語動詞がstetit。
stō(立つ・立っている)の、完了三人称単数。

その場所を示す補語が、juxta illos。
illōsは、ille(あれ・あの)の男性複数対格。というか「彼らを」。
juxtāは、「すぐ近くに・傍らに」。動詞jungō(つなぐ・接合する)からの派生のようです。
それで「彼らのすぐ近くへと」ということで、その彼らとは、夜中じゅう寝ないで
家畜の群れの番をしていた牧夫・羊飼いたちのこと。

この文は複文で、主部・述部が3組ありますが、これがその1組目です。

8Bhaashendradatta:2009/09/26(土) 13:34:37
次の部分、etのあとに、主部 claritas Dei。
claritasは、形容詞clārus(明瞭な・明るい)の性質名詞、clāritās(名声・光彩)の、
単数主格(女性)である。
Deiは、Deus(神)の単数属格(男性)。

動詞部はcircumfulsit。
circumfulgeō(周りで輝く)の、完了三人称単数。母音はすべて短い。
もともとfulgeō(輝く)は自動詞なのであるが、それにcircum-(〜の周りに)が合成されたため、
何の周りでかを示す対格があとに続く。

illōsは、前の文にも出てきた。ille(あれ・あの)の男性複数対格。

即ち、「そして彼ら(=羊飼いたち)の周りで神の光彩が輝いた。」

9Bhaashendradatta:2009/09/26(土) 13:54:55
この複文の最後の部分。

etのあとに、述語動詞timuerunt。
timeō(恐れる・心配する)の完了三人称複数。
母音の長短はtimuēruntとなる。
明示されていない主語「彼らは」は、牧夫・羊飼いたち。

timore magno。
timōreは、timor(恐怖・心配)の単数奪格(男性)。
magnoは、magnus(大きい)の単数奪格(男性)。
この部分の奪格は、原因の奪格、或いは様相の奪格と解釈できる。
(※ラテン語の奪格は、具格・位格(処格・依格とも)を兼ね、多義的である。)
またtimorとtimeōという、同系の名詞・動詞を重ねることは、一種の強調表現と解釈できる。

即ち、「そして彼らは非常に恐れた。」

ここまで、2番目の文は、アルトのソロの歌詞であった。

10Bhaashendradatta:2009/09/26(土) 22:27:16
次はごく短いテノールのソロ。

主語はangelus。「天使」(男性)の単数主格。

動詞はdixit。
dīcō(示す・言う・話す)の、完了三人称単数。dīxit。

illīsは、ille(あれ・あの)の、男性複数与格。「彼らに」。

即ち、「天使は彼ら(=牧夫・羊飼いたち)に言った」。

次からのソプラノソロは、その天使のセリフである。

noliteは、nōlō(欲しない・好まない)の、命令法二人称複数。
長短を示すと、nōlīteになる。
この命令法は、次に不定法が来て、禁止の意味。「〜するな」。

timereは、timeō(恐れる・心配する)の現在能動相の不定法。
長短を示すと、timēreになる。

即ち、羊飼いたちに対して、天使が、「恐れるな」と言ったのである。

11Bhaashendradatta:2009/09/28(月) 23:46:38
ecce enim。
ecceは注意を向けさせる間投詞「ほら、見よ!」。
ここでは恐れないでよい理由に、焦点を絞らせていると思われる。
enimは、「なぜならば」。

evangelizo。
もしevangelicoだと、ēvangelicus(福音(書)の)の男性単数与格または奪格と
なるが、それではこの文から主語述語関係が消え去ってしまう。
ここは、楽譜とは違うが、ウルガタ版ラテン語聖書に従って、ēvangelizōと読んで
解釈する。ēvangelizōは、「よい知らせを伝える」>「福音を伝道する」の意味で、
直説法現在一人称単数。
天使が、「私は、よい知らせを伝えている(のだから、恐れるな)」と言っている。
※ちなみに、この動詞に含まれるangelは「伝える」ことを表すギリシア語由来の
 形態素だが、angelus(天使)に含まれるそれと同一である。即ち、「天使」を
 表すangelusは、単純に「使者・伝令」を意味する語であった。
 euが「良い」を表す形態素。

vobisは、二人称複数与格の人称代名詞。「あなた方に」「あなた方のために」。
長短を示すと、vōbis。

gaudium magnum。
gaudiumは、「喜び・楽しみ」の単数対格(中性)。
動詞gaudeō(喜ぶ・楽しむ)の名詞形である。学生歌の「Gaudeāmus」とは、
この動詞の接続法現在一人称複数形。
magnumは、magnus(大きい)の中性単数対格。
合わせて「大きな喜びを」。

quod erit omni populo。
quodは、関係代名詞quiの中性単数主格。「その(喜び)は〜」。
eritは、sum(ある)の直接法未来三人称単数。
omniは、omnis(全体の)の単数与・奪格(通性)。
populoは、populus(民衆・世間)の単数与・奪格(男性)。
長短を表すとpopulō。
即ち、「その(喜び)は、民全体にあるであろう」>「民全体のものとなるであろう」。
その時聞いている夜の番をしていた羊飼いたちだけでなく、人間皆に伝わってみんな
喜ぶことになるだろう、ということ。

その喜ばしい知らせの内容が、この後に続く。

12Bhaashendradatta:2009/09/29(火) 19:35:55
まだ天使のセリフが続きます。

quiaは、接続詞。「(というのは)〜だから」。
どうしてそんなに喜ばしいのか、以下でその内容を説明する。

natus est。「(彼は)生まれている」
natusは、nascor(生まれる・生ずる)の過去分詞の、男性単数主格。
長短を示すと、nātus。
estは、sum(ある)の直説法現在三人称単数。

vōbīsは、「あなた方(のため)に」。二人称複数与格の代名詞。

hodiēは、「今日」の意味の副詞。(<hōc diē(この日に))

この後、salvator qui est が作曲されていない。
salvātorは、「救い主」。単数主格(男性)。動詞salvōは、「救う・癒す」。
quīは関係代名詞の男性単数主格。estは上記。
即ち、「救い主が、即ち〜であるところの」。

その救い主は何者であるかというと、Christus Dominus。「主キリスト」。単数主格。
Christusは「香油を注がれた者」の意味のギリシャ語からの借用。
同義のヘブライ語からの借用形が<メシア>。

つまり、省略された歌の歌詞では、
「というのは、あなた方のために、今日、主キリストがお生まれになったのだから」。
(「救い主が、即ち〜」が無くなっているが、意味が通じているし、おかしくない。)

更にそれに係って、in civitate David。「ダヴィデの町で」。
civitāteは、civitās(都市)の単数奪格(女性)。
Davidは不変化の固有名詞。
イエスの生まれたエルサレムが、「ダヴィデの町」として言及されているが、その
理由が何か、本当にダヴィデやその子孫が住んでいた町なのかは、私は知らない。

13Bhaashendradatta:2009/09/30(水) 00:02:37
まだ続く天使のセリフ、ソプラノのソロ。

Et hoc vobis signum :。
hocは、hic(これ)の、中性単数主格。
vōbīsはもう三回目の登場。「あなた方(のため)に」。
signumは、「しるし」。中性単数主格。
「そしてこれが、あなた方へのしるしである。」
この場合の「しるし」とは、「兆候」ではないし(もう生まれたのだから)、
「印章」ではないし(どこに押す?)、「目印」でもないし(何をするための?)、
「痕跡」でもないし(まだ生きてるよね)、「合図」でもないし、「象徴」でも
ないし(だって神そのものでしょ)、ということは、「証拠」ということだろうか。
でも赤ん坊を見ても、それがキリストかどうかなんて判別できないけれどね。

次、invenietis。
inveniō(出会わす・見つける)の直説法未来二人称複数。長短は、inveniētis。
その次のinfantemは、infans(幼児)の男性単数対格。
「あなた方は、乳飲み子を見つけるだろう」。

pannis involutum。
pannisは、pannus(布きれ・ぼろ)の複数奪格(男性)。
involūtumは、involvō(包む・くるむ)の過去分詞involūtusの、男性単数対格。
「(何枚かの)ぼろ布でくるまれた〔幼な子を〕」ということで、前に係る。

et positum in præsepio。
positumは、pōnō(置く・据える)の過去分詞positusの、男性単数対格。
præsepioは、præsæpium(飼い葉桶)の、単数奪格(中性)。
 ※この語は、中性名詞præsæpe、女性名詞præsæpēsとしても曲用される。
即ち「飼い葉桶の中に置かれた〔幼な子を〕」ということで、これも前に係る。

ここまでが、天使のセリフ。

14Bhaashendradatta:2009/09/30(水) 19:50:48
ここから地の文に戻る。バリトンのソロ。

Et subito。
subitōは、「突然に・不意に」という副詞。※まさかここで動詞ではなかろう。

facta est。「〜が生じていた」
factāは、動詞faciō(する・行う・形づくる)の過去分詞の、女性単数主格。
estは、動詞sum(ある)の、直説法現在三人称単数。

cum angelo。「天使とともに」
cum(〜といっしょに)は前置詞で、奪格を取る。
angelōは、angelus(天使)の、単数奪格(男性)。

multitudo militiæ cælestis。「天の軍隊のうちの多数が」
multitūdōは、multus(多い・多数の)から派生した抽象名詞で、「多数・大量」。
女性単数主格。>>2のmultitude(<これじゃ英語だ)は私のミスタイプ。
mīlitiæは、mīlitia(軍隊)の、単数属格(女性)。
ここは分格的属格で、「軍隊のうちの(多数が)」。
cælestisは、cælum(天・空)から派生した形容詞で、「天的な=天の・神の・神聖な」。
女性単数属格。(男性単数主格と同形)

laudantium Deum。
laudantiumは、laudō(褒める・賞賛する)の現在分詞laudansの、複数属格(通性)。
Deumは、Deus(神)の単数対格(男性)。laudantiumの意味上の目的語。

et dicentium。
dīcentiumは、dīcō(示す・言う・話す)の現在分詞dīcensの、複数属格(通性)。

「突然に、天の軍隊のうちの多数が、(その)天使とともに、神を賛美しつつ、また
(次のように)語りつつ生じていた」。

15Bhaashendradatta:2009/09/30(水) 22:41:01
ここまででわずか楽譜4ページ分の歌詞であった。
しかもソロばかりなので、ソリストのうち4人にしか歌われない箇所。

次からが、コーラス全員で歌う歌詞。歌詞は短いが、楽譜5ページ分。
dīcentium(言っている)が、複数形であるので、ここの語り手は、
「天使+天の大軍(いずれも単数名詞)」と解釈できる。

内容は定番だが、解釈には諸説あるようだ。

まず、Gloria in altissimis Deo。
glōriaは、「栄光・名声・評判」。単数主格(女性)。
altissimīsは、altus(高い)の最上級altissimusの、男性複数奪格。
 ※「天」は、普通は中性単数だが、アラム語等の影響で、宗教的には
  男性複数扱いされることがあるらしい。よく知らないが。
 ※altusは、alō(養育する)の過去分詞から来ているらしい。
Deoは、Deus(神)の単数与格(男性)。
これは動詞のない<名詞文>で、「最もor極めて高い〔天界〕において、
神に栄光が〔あるorあれ〕」。

et in terra pax hominibus bonæ voluntatis。
terrāは、terra(大地・陸・地球)の単数奪格(女性)。
in terrāで、「地において」。
paxは、「平和」。単数主格(女性)。
hominibusは、homō(人・人間・男)の複数与・奪格(男女性)。
で、その後が、宗派等により意味の解釈の分かれるところ。
bonæは、bonus(良い)の女性単数属格。
voluntātisは、voluntās(意志・欲求)の単数属格(女性)。
私は、こうした上で、「良い意志」=「神の御心」という解釈が良いと思う。
「地においては、良い意志〔=神の御心〕にかなう人々に平和が〔あるorあれ〕」。
他には、「良い意志」=「個々人の持つ良心」という説や、
もとの言語であるギリシア語の表現から、「地においては平和、意志に
おいては良さ」と分割する立場などがあるらしい。

以上で、9曲構成のオラトリオのうち、2曲目の歌詞について一通り書いた。
オラトリオ全体の歌詞のうち、これだけで3割近くを占める、最も歌詞の多い曲である。
次から3曲目へ。

16Bhaashendradatta:2009/10/01(木) 18:48:11
さて、次は9曲中の3曲目。
歌のない1曲目を除くと、最も歌詞の短い曲である。ソプラノのソロのみ。
音域はbからf#2までで、中音域をたっぷり歌えるメゾに向いているようだ。

Expectans, expectavi Dominum,
et intendit mihi.

これは、旧約のほう、詩篇第39の第2節である。
詩篇は、ギリシア語からの重訳とヘブライ語からの訳で、ラテン語の表現が
違うが、これはギリシア語からの重訳。
ちなみに、新共同訳の聖書では、これは第40篇と数えられている。

新共同訳の対応する部分を書く。
「主にのみ、わたしは望みをおいていた。
主は耳を傾けて、」。
その後、文の残りは、「叫びを聞いてくださった。」

動詞exspectō(待つ・待ち望む)は、この歌詞のように、3文字目のsを
落として書いても間違いではない。
expectansは、その現在分詞の、単数主格(通性)。
expectāvīは、直説法完了一人称単数。
Dominumは、Dominus(主)の、単数対格(男性)。
intenditは、intendō((注意を)向ける・差し出す)の、直説法完了三人称単数。
mihiは、ego(私)の単数与格。
「私は主を待ち望みに待ち望んだ。そして彼(=主)は私に注意を向けた。」

こういう短いのはすっきりしていいですね。

17Bhaashendradatta:2009/10/02(金) 20:27:03
続いて4曲目。
テノールのソロと女声合唱の曲。

Domine, ego credidi quia tu es Christus Filius Dei vivi,
qui in hunc mundum venisti.

これは、「ヨハネによる福音書」第11章の27節。
ラザロの死と復活の奇跡の中の、マルタの言葉である。
同じように、新共同訳から書き写すと、
「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると
私は信じております。」
今回の歌詞では、新共同訳では無いことにしているviviがあるので、
「生きている神の子」となる。
この直前に「はい」という言葉があるが、これに相当するのはラテン語で
utīque(確かに)である。さらにその前に、ait illī(彼女は彼に肯定して
言う)がある。

Domineは、Dominus(主)の単数呼格(男性)。
egoは、「私が」。ここは動詞の一人称単数と同時に使われているので、
「(他の人はともかく)私は」くらいの強調ではあろう。
credidīは、credō(信じる)の、直説法完了一人称単数。
「私は信じるようになった(=今信じている)」

どう信じるようになったかと言えば、
tuは、「あなたは」。二人称単数主格の代名詞。
esは、sum(ある)の直説法現在二人称単数。
Christusは、キリスト(メシア)。単数主格(男性)。
Filiusは、息子。単数主格(男性)。
Deīは、Deus(神)の単数属格(男性)。「神の」。
vivīは、どうも16世紀のクレメント版の聖書によるもので、他の版には
ないらしい。vīvus(生きている)という形容詞の、男性単数属格。
「神」を修飾する。
これらを率いるquiaは接続詞。

18Bhaashendradatta:2009/10/02(金) 22:58:45
次に関係代名詞quīが続き、「生きている神の息子」を説明する。男性単数主格。

in hunc mundum。
huncも一部の写本・版にしかないらしい。hic(この・ここの)の男性単数対格。
mundumは、mundus(世界・俗世)の単数対格(男性)。
ここの対格は移動の対格で、「この世へと」。

venistīは、veniō(来る)の、直説法完了二人称単数。
「あなたは来た(=今ここにいる)」

以上のことを、私(=マルタ)は信じるようになった(=今信じている)。

ということで、これも短い第4曲は終わり。

19Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 07:42:23
第5曲目は、ソプラノとバリトンのソリストによる二重唱。
歌詞的には、この曲まで終われば半分を超えるが、楽譜的にはまだまだ
半分に到達しない。

Benedictus qui venit in nomine Domini.
Deus Dominus, et illuxit nobis.
Deus meus es tu, et confitebor tibi.
Deus meus es tu, et exaltabo te.

この曲はまた旧約のほうに戻って「詩篇」からの引用。
ラテン語ウルガタ版だと、第117篇、新共同訳だと、第118篇にあたる。
第26から28節で、途中の言葉をいっぱい端折っているので、新共同訳から
端折りながら引用すると、次のようになる。

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
わたしの神よ、あなたをあがめる。」

これだけで大体単語の対応は分かるようなものだが。

benedīctusは、benedīcō(良く言う・褒める・聖別する)の過去分詞。
男性単数主格。「祝福されて(あれ)」。構文上名詞文で、述語動詞はない。
quīは、これを受ける関係代名詞。男性単数主格。
venitは、veniō(来る)の、直説法現在三人称単数。
nōmineは、nōmen(名・名前)の単数奪格(中性)。
Dominiは、Dominus(主)の単数属格(男性)。

ここまでは典礼文のベネディクトゥスと同じ。

20Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 09:42:30
Deus Dominusは名詞文。「神は主」「神であるのは主である」
illuxitは、illūcescō(照らす)の直説法完了三人称単数。
illūcescōの構成は、illūceō(輝く)の起動動詞。
illūceōは、in- + lūceō(明るい・輝いている)の合成。
ここでのin-は、輝きの向う方向、照らす方向・目的を意味する。
nōbīsはその補語で「私たちのために」。

Deus meusは、「私の神」。
meusは、一人称単数の所有代形容詞の男性単数主格。
esは、sum(ある)の直説法現在二人称単数。
tūは、二人称単数主格の代名詞。

confitēborは、confiteorの直説法未来一人称単数。
「私は〜に『〜を信じている』と告白するだろう」の意味。
tibiは、「あなたに」。二人称単数与格の代名詞。
新共同訳とはおそらくもとの典拠が違う。

exaltābōは、exaltō(高める・褒め称える)の直説法未来一人称単数。
ex-(〜から) + altus(高い)。
tēは、「あなたを」。二人称単数対格の代名詞。

21Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 16:45:55
次は、第6曲目。
曲を通じて混声四部合唱になっている、このオラトリオで唯一の曲である。
d-mollの前半部と、B-durの後半部で、歌詞の出典が違う。
このように別々のところから歌詞を持ってきている曲は、他には第9曲目がある。

Quare fremuerunt gentes ?
et populi meditati sunt inania ?

Gloria Patri, gloria Filio, gloria Spiritui Sancto ;
sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in sæcula sæculorum.
Amen.

先の2行は、「詩篇」第2篇の第1節。冒頭部分である。
ここは新共同訳の日本語では、
「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、
人々はむなしく声をあげるのか。」
となっている。

残りの部分は、聖書そのものではなく、日本語で「栄唱」「頌栄」「光栄讃詞」などと
呼ばれ、ラテン語で「Doxologia」と呼ばれるものから来ている。
特に「小栄唱(Doxologia Parva または Doxologia Minor)」と呼ぶもののようである。
日本語は、各宗派・教会によって異なるようであるが、カトリックの『日々の祈り』では
次のようになっているそうである。
「栄光は父と子と聖霊に。
初めのように、今もいつも世々に。」

旧約の聖句を、キリスト教にふさわしいものとして歌うために、三位一体を讃える
この栄唱を加えるのだ、という説明がどこかにあった。

22Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 18:49:02
quārēは、疑問副詞。「どうして、なぜ」。
直訳は「どんな物事によって」という女性単数奪格の形。
fremuēruntは、fremō(どよめく・とどろく)の直説法完了三人称複数。
gentēsは、gens(民族・国民)の複数主格(女性)。
複数だと「外国・外国人」の意味もあるらしい。

populīは、populus(民族・国民)の複数主格(男性)。
meditātīは、meditor(思案する・熟考する)の完了分詞の、男性複数主格。
suntは、sum(ある)の、直説法現在三人称複数。
meditātī suntで、meditorの複合完了形。直説法完了三人称複数。
ināniaは、inānis(空(カラ)の・中身のない)の、中性複数対格。「空しく」。

23Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 19:21:24
glōriaは、「栄光・名声・評判」。単数主格(女性)。
Patrīは、Pater(父)の、単数与格(男性)。「父に」
Filiōは、Filius(息子)の、単数与格(男性)。「息子に」
Spīrituīは、Spīritus(霊・命・呼吸)の、単数与格(男性)。
Sanctōは、Sanctus(神聖な・聖なる)の、男性単数与格。「聖霊に」

sīcutは接続詞。「ちょうど〜のように」
eratは、sum(ある)の、直説法過去三人称単数。
principiōは、principium(初め・開始)の単数奪格(中性)。
「〔世界の〕初めにそうであったように」

nuncは、「今・現在」。副詞である。
semperは、「常に・いつでも」。これも副詞。
sæculaは、sæculum(世代・時代)の、複数対格(中性)。「世代へと」。
sæculorumは、同じくsæculumの、複数属格(中性)。
複数になると、「長期間・永遠」の意味合いが出て、
「永遠を構成するうちの(〜(ある)一世代へと(順次に))」という
ことになる。

Āmēnは、ヘブライ語由来の間投詞。「かくあれかし」

24Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 23:41:51
そして7曲目。
ソプラノ・テノール・バリトンのソロによる三重唱である。
ここから楽譜上も後半に入る。

Tecum principium in die virtutis tuæ,
in splendoribus Sanctorum.

これは詩編の第109篇(新共同訳で第110篇)の第3節から来ている。
歌詞は短いが、解釈の非常に難しい個所である。
何しろ、ギリシア語からの重訳とヘブライ語からの訳でラテン語が大きく異なり、
両方のラテン語と新共同訳の日本語とがまた異なるということで、ここでは
日本語の権威ある参考訳を頼りにすることができない。

tēcumは、tēとcumに分かれ、「あなたと共に」。
principiumは、「初め・開始」。単数主格(中性)。
このprincipiumが何を意味するのかが、解釈上の大きな焦点である。

ここで「tū(あなた)」は、旧約の文面上は、イスラエルの王のことであり、
本当に作者をダビデとすればその王のサウルか、あるいは作者は別にいて
ダビデ本人が謳われていることになろう。
その場合、principiumは、イスラエルの主権・王権のことかもしれないし、
統治の開始のことかもしれないし、その王朝の創始者のことかもしれない。
そしてキリスト教の視点から見れば、ここでイエスのことが象徴・預言されている
ことになろう。
その場合は、principiumは、天の主権・王権のことかもしれないし、霊力のことかも
しれないし、天地の始原のことかもしれない。

しかし、ルターもどこかで言及していたようであるが、ここではイエスが天で
王位に就くとか、天地の始原がイエスとともにあるなどということは、もとの
ヘブライ語は全く意図していない。
ザメンホフのエスペラント訳を参考に、この部分の日本語訳をヘブライ語に近づけて
作るとすると、
「あなたの力の日に、聖なる装飾の中で、あなたの人民は進んであなたに身を捧げる」
である。
新共同訳から対応する文言を抜き出す形で改訳すると、
「あなたの民は進んであなたを迎える
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力があらわれるとき」
である。

25Bhaashendradatta:2009/10/04(日) 00:23:03
ここでは、おそらくキリスト教での解釈がそうなのであろうということに
従って、「tū(あなた)」は、み子・イエスのことであり、principiumは
天地の始原・原理である父なる神のことであるとしておく。
私はクリスチャンではないので、それが正しいかどうかも保証できない。

diēは、diēs(日・一日)の単数奪格(男性)。
virtūtisは、virtūs(雄々しさ・力)の単数属格(女性)。
tuæは、tuus(あなたの)の女性単数属格。
「あなたの力(を発揮する)の日に」。
ここも、地上の王ならば“戦闘に勝つ”などのことであろうが、
イエスに関しては“復活”のこととなるであろう。
他にもあるかもしれない。

splendōribusは、splendor(輝き・光輝・栄光)の複数奪格(男性)。
Sanctōrumは、Sanctus(聖者・聖なるもの)の複数属格(男性)。
ここも、一般の聖者たちという解釈に対して、聖なるものは“三位一体の神”
だから男性複数なのだ(父も子も聖霊も男性)というキリスト教的解釈がある。

26Bhaashendradatta:2009/10/05(月) 00:11:21
そして8曲目。
ソプラノ1・ソプラノ2・アルト・バリトンのソロによるカルテット。

Alleluia.
Laudate, cœli, et exulta, terra,
quia consolatus est Dominus populum suum ;
et pauperum suorum miserebitur.

ハレルヤを除き、この歌詞の出典は「イザヤ書」49章13節。
これも省略があるので、その箇所を省略するようにして新共同訳の
日本語を写すと次のようになる。
「天よ、喜び歌え、地よ、喜び踊れ、
主はご自分の民を慰め
その貧しい人々を憐れんでくださった。」
これも、ラテン語とヘブライ語に差があると思われ、ラテン語の
訳としてそのまま用いるには少し難がある。

allēlūjaは、ヘブライ語由来の間投詞で、「主をほめたたえよ」。

27Bhaashendradatta:2009/10/05(月) 20:01:12
laudāteは、laudō(褒める・賞賛する)の命令法現在二人称複数の形。
cœliは、cœlum(天)の複数呼格(男性)。※通常は中性単数。(>>15
※cœlumは、cælumと書いても同じ。
exultāは、exsultō(跳びはねる・跳ねまわる)の命令法現在二人称単数。
terraは、「大地・陸・地球」を意味し、単数呼格(女性)。

quiaは、以下の節を率いる。「というのも〜だから」。
consōlātusは、consōlor(慰める・励ます)の、完了分詞。男性単数主格。
estは、sum(ある)の直説法現在三人称単数。
consōlātus estで、consōlorの直説法複合完了三人称単数。
Dominus(主)は、単数主格(男性)。
populumは、populus(民族・国民・世間)の、単数対格(男性)。
suumは、suus(自分の)の、男性単数対格。

pauperumは、pauper(貧しい・貧乏な)の、男性複数属格。
suōrumは、suus(自分の)の、男性複数属格。
miserēbiturは、misereō(同情する・気の毒に思う)の、直説法未来三人称単数。
非人称受動文。同情される対象として、属格を取る。
>>26の日本語訳では、ここが完了形になっているが、ラテン語は明らかに
未来形である。
「主は、ご自分の民を慰められた。
そしてご自分のその貧しい人々を憐れんでくださるだろうから(喜び
誉め讃えよ)。」ということ。

28Bhaashendradatta:2009/10/05(月) 21:07:28
そして9曲目。
私たちの楽譜では、ここから最後までを1曲として扱い、これが最終曲となる。
しかし、Tollite hostias以降は、明らかに曲調が異なり、第10曲として
取り出せるほどに独立性が高い。
ソプラノ1・ソプラノ2・アルト・テノール・バリトンの5人のソロに、
混声四部合唱が加わる。

Consurge, Filia Sion.
Alleluia.
Lauda in nocte, in principio Vigiliarum.
Alleluia.
Egrediatur ut splendor justus Sion,
et Salvator ejus ut lampas accendatur.
Alleluia.

Tollite hostias, et adorate Dominum in atrio sancto ejus.
Lætentur cœli, et exultet terra, a facie Domini, quoniam venit.
Alleluia.

歌詞の出典は、このオラトリオの中でこの曲が最もぐちゃぐちゃであるが、
「イザヤ書」51章〜52章及び62章、「哀歌」2章、そして「詩篇」第95篇
(新共同訳の96篇)を参考として挙げておく。
いずれにせよ、聖書の日本語訳をそのまま持ってくることは不可能である。

29Bhaashendradatta:2009/10/05(月) 21:34:11
consurgeは、consurgō((ともに)立ち上がる・奮起する・決起する)の
命令法現在二人称単数。「立ち上がれ・奮い立て」
Fīliaは、「娘」。単数呼格(女性)。
Sionは、固有名詞。不変化なので、格関係が文脈からしか分からない。
つまり「娘であるところのシオン」なのか、「シオンにとっての娘」なのか、
ここからではよく分からない。
新共同訳の説明によれば、「シオンの娘」とは、エルサレムの住民たちの
ことである。

laudāは、laudō(褒める・賞賛する)の、命令法現在二人称単数。
nocteは、nox(夜)の、単数奪格(女性)。in nocteで、「夜に」
principiōは、principium(初め・開始・起源)の単数奪格(中性)。
Vigiliarumは、vigilia(夜警の時間単位)の複数属格(女性)。
「夜警の時間帯のうちの初めに相当する夜(>宵の口)に、讃えよ」。


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