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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

149迷える大羊:2007/05/22(火) 00:54:09
イジメ、ですか・・・
>私の知人はキリスト教会でいじめにあつて

 イジメ、イヤですねぇ。キリスト教会でイジメって、なんだかなぁ、まさに神も仏もあらへんわ・・って気になっちゃいますねぇ。まあ、クリスチャン、とかカトリックとかいっても別に普通の人間であるわけで、水ひっかけられたり、かぶったりしたくらいで変われれば苦労しないよ、ってところなんでしょうが。しかし、選りによって、信仰の場でイジメに遭うなんてと職場とか学校でイジメられるよりつらいでしょうねぇ、何が原因なのかはわかりませんが。人間関係の苦からは教会でも逃れられないものなのですね。

>なんでもいいから宗教心をきちんと持つことが大切だと考えているようです。母なども同じ考えなので教会に関わることには賛成でした

 あ、うちの親もそうです。ちなみに父は無宗教ですが、宗教は好きで、聖書やコーランには詳しいですし、母はとある仏教系新興宗教の信者です。そんなわけで、平均的日本人がキリスト教に関わる際につきものの反対、抵抗はないですね。

>二ケア・コンスタンチノープル信条

 近くのカトリック教会で買ったの祈祷書らしきものに載ってました。確かに「からだの復活」とありますね、弱りましたね、これは、どう読んでも生物学的復活を信じろ、といっているようにしか・・。あと、ちょっぴり気の毒な気がするのがローマ総督ポンティオ・ピラト。彼からすれば、何の興味もないユダヤ教内部の内輪もめに巻き込まれたあげく、2000年以上にわたって、基督教が続く限り、ミサや礼拝の度に責められ続けるのですから、たまらないよなぁ、と思うのは私だけでしょうか?素直さが足りませんかね?私。告解した方がいいのかしら??(おっと私はカトリック教徒ではありませんでした)

>そこで神が、2次元の人間たちを救おうとして2次元の世界に入っていく、もちろんそこでは神も2次元的でしか存在できない。この上には神の国という3次元があると説く。

そういえば、詳細は忘れましたけど、少年時代にそんな感じの話のSF小説を読んだ覚えがありますね。

>ますます日本に聖職者なんていなくなります

 本当に神父さんって不足してますよね。近くのカトリック教会の神父さんも確かもう70歳近く。年齢の割りにはとてもお元気で精力的に活動されていますが、彼が倒れたり、亡くなったりしたら、あの教会はどうなるのだろう、と心配してしまいます。他にもそんな教会いっぱいあるんじゃないですかねぇ?何しろ、プロテスタントの牧師以上に求められる条件が厳しくてそうおいそれと養成できませんしね。

>自分で選ぶことなどできないままに与えられた、自分自身や自分の子ども、をはじめとして、与えられたものを大切にすることが信仰であろう

 趣旨はなんとなくわかるのですが、そういわれてしまうと、もうそれ以上何もいえなくなってしまうし、「与えられた」という機会や実感のない人、未信者で理屈で理解するより仕方がない人間は、そこでもうキリスト教との関わりはお終い、ってことになってしまうのでは?。そんな人(他力本願的に信仰が与えられる人ですね)どれだけいるんだろ?それこそ、日本人の1%以下にじゃないか、困ったものだなぁ、というのが率直な感想です。

 ところで、先々週のカトリック教会のミサの説教では、共同体の交わりを大切に、要するにミサにはちゃんと参加しましょう、とのことでしたが、現在の日本で、土日がきちんと休みになる職場の人っているようで、実は少ない気がします。かくいう私も、以前は工事関係で土日完全休みなどとても望めない状況でしたし、他にも仕事がサービス業、警察、消防関係等など、充実した教会生活を送ることが難しい人々はクリスチャンになるのは難しいのでは?私も今は土日が休める職場ですが、将来はわかりません。

 一応、カトリック教会では平日の早朝や土曜日もミサをやっているし、プロテスタントでも平日に祈祷会をやっていたりしますが、こういった職業の方はどうしても教会生活からは疎遠にならざるを得ないですよね。
 何回か職を変わったり世の中を曲がりなりにも泳いだ実感からすれば、今の日本で土日きちんと休め、それでいて生活をできるだけの定収入がある人というのはわりと恵まれた部類に属する人々ではないか、という気がします。
 こうした元々恵まれている人々のみに信仰が与えられ、人が休んでいるときにも働く人々、癒しが一番、求められる人々にはなかなかその恩恵に授かれない、というのもちょっと矛盾しているような気がします。
 といって、基督教にとって主日は変えられない、変えようがないものですし、難しいところですね。
 なんだかまとまりのない文章ですが、皆様、またお時間あればお相手下さい。

150nao:2007/05/22(火) 09:02:18
あれこれ
いじめにあつた知人という人はプロテスタントの70名位の教会でした。かなり知識人の多い地域の教会です。その中に、自分の考えを押し付ける教会役員がいて、この人にいじめられたんです。その人はいじめとはおもつていなかつたようです。転会するためにこまつたことは、住所がかわらないのに、転会は不可能といわれたことです。それで彼女は教会になつていない、集会にゆき、またそこでも、考えをおしつけられてこまつたというのです。そこは10名もいないところでしたから、毎回苦労したそうです。
考えをおしつけられる・・これが一番こまつたことですね。大羊さんがいつしゃつたように「神」が加担してくるような押し付けはエゴに神を利用しているわけで、許せません。
転会なんて、厄介なことやらなくても、ミサに自由にゆけるというのがカトリツクのいい点なんです。

151nao:2007/05/22(火) 09:06:01
あとで
どこかに手がふれたらしく、途中ではいつてしまいました。宅急便がきましたので、またあとで、続きをかきます。ピラトのこと、同じことをかんがえていました。あまりにもしつうこい、というか、あんなにやられたら、ピラトがかわいそうです。なんとかしてあげてほしい・・とおもいますよ。

152あんとに庵:2007/05/22(火) 20:09:26
共同体
どもどもです。

・共同体のこと

いじめの話が出ていますが、共同体というものに付物の宿命ではありますね。教会に限らず、或いは教会もまた一つの共同体なので。だから逃げ道として、複数の共同体を持てるというのが一番いいだろうなぁとは思います。

・ピラトさん

ピラトはトリック・スターですね。彼、個人というより、シンボリズムなんですが。彼的な立場に立つことって往々にしてあるとき自分はどう振舞うか?ということでもあるんでしょう。ピラトさんはあれら物語の中では第三者的な客観的人間として美味しい立場とも言えたり。
ユダのほうが気の毒な気が・・・(^^;

・関係性ということについて

sekkoさん
>今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。

キリスト教というのは関係性の宗教だなとは思います。三位一体の構造からしてそうですよね。ミサもまた「交わり(コミュニオ)」が大切だと言われます。それは神と人との関係でもあり神を通じた人とのかかわりというものが教会でもあり、二千年に渡る多くの人々との交流でもあるなぁと。
聖骸布に関わっていった人々も、その繋がりの中にあるなぁとか、考えてしまいます。なにかそういう過去の、或いは遠いところの人とも同じキーワードで繋がっていける面白さはありますね。

>クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ

このエピソードは笑えた。

・土日のミサ

迷える大羊さんがご指摘の通り、確かに土日の休みがない職場の方だと大変かもしれません。つっても教会もない土地で信仰の話などが出来るネットがある現代はそんなに辛くないかな。

・「与えられた」信仰

Fusakoさんがおっしゃる与えられたってのは「縁・えにし」みたいなものではないかな。なんでもそうですが「出会いに敏感でありたい」みたいな。縁を受け入れる。自然にあるものを素直に受け止めるような、そんな信仰。自然体の信仰。そういうのはいいなぁと私も思います。

迷える大羊さんの人生の中でキリスト教が縁あるものとして現れたのはいま現在ですが、それがまたどういうところに流れ着くかは、これもまた神様にしか判らないことかもしれません。神と大羊さんとで対話していくことなのだろうなと。

153Sekko:2007/05/24(木) 18:29:20
放蕩息子
Fusakoさん、ちょうどこのサイトの猫のコーナーにUPした記事に放蕩息子のたとえが出てきます。よかったら読んでください。

154迷える大羊:2007/05/26(土) 00:17:43
復活とは?
 先のあんとに庵さんとの対話にも出たことでありますが、イエスの復活って皆さん、どこまで信じますか?他の水の上を歩いた、といった類の奇跡はシャレで済むようですが、この復活はキリスト教の根幹にあたる教義ですから、いい加減にスルーするわけにはいかない、と思い投稿してみました。

  一口に復活を信じるといっても、主に三つのパターンがあると思われます。
 1.文字通り体ごと復活した。信者もこの世の終わりには体の蘇りがあると信じる。アメ リカの田舎、南部あたりにはいっぱいいそうですね、こんな人。

 2.イエスの復活は弟子たちの心の中に起こった体験である。イエスを裏切った弟子たち に対する恨みを叫ぶどころか、救いを祈って死んで行ったイエスに対する罪悪感、感動な どが入り混じった複雑な感情が巻き起こした、心の現象とする立場。

 3.イエスの復活は信者一人一人にイエスの精神が生きている、という心のあり方
   私なんかは信仰するとすればこの立場が一番受け入れやすそうな気がしますが。

 しかし、前のやりとりでも出てきたように、二ケア・コンスタンチノープル信条にはしっかりと「からだの復活」とあるし・・・。

 さて、皆さんはどの立場でしょうか?私個人の考えでいえば、たとえ、クリスチャンになったにしても1のホンマもんの生物学的復活だけは勘弁してくれ、という立場です。

 大体、イエスが肉体的に復活したからって、「だからイエス様はすごい、だからイエス様は神なんだ」と連呼したところで私の生活の実感が深まるとも思えないし、すごいのはあくまでイエス様だけであって、自分自身、あるいは自分が大事にしている人たちも、死んでしまったら、まず間違いなく蘇生なんかしないわけで、そんなオカルトじみた教義が一体、私たちの何の現実的な問題の解決になっていくのか、さっぱりわかりません。そんなこと本当にイエスが望んでることなのかなぁ、とも思ったりします。
 別に普通に21世紀の科学でものを考えりゃいいじゃないか、と思うのですが、こんな考えは一般的なクリスチャン、カトリック教徒からは受け入れられませんかね?

155nao:2007/05/27(日) 20:09:36
いまだに答えられず
いやあ・・大変な問いですね。お返事できないことだけ、あやまつておきます。そのうち何かかけるとおもうんです。ごめんなさい。それほど、本質的な問題なので、うかつにお話できないつて、おもつています。竹下先生、あんとに庵さま、よろしくお願いいたします。

156Sekko:2007/05/28(月) 01:00:34
フランスの信者の種類、復活のことなど
 フランスで私がとってるカトリック系総合週刊誌の今週の特集は信仰についてでした。面白い話が満載なので、少しずついろんなところで紹介していきます。ここでは、その中でフランス人信者の七つのグループという分類を紹介します。フランスはカトリック教会の長女といわれているくらい、カトリック的伝統は根強く、洗礼率で言えば軽く過半数がカトリックです。先だっての大統領候補12人のうち10人が洗礼を受けていてカテキズムも受けていました。でも、日常的には、日本人の仏教徒と同じで、家族の行事以外にあまり宗教色がありません。
 そんなフランスのカトリック(または元カト)の7つのグループ。

その1 迷わない派 「信じる、そして疑わない」
  ?道程 信者でプラティカン(実際に毎日曜教会に行く人のこと)の家庭に生まれ、ごく若い頃にラディカルな神体験をした。信仰は人生の本質に関わる。教区の中心人物
  ?座右の作家  十字架のヨハネ、ベルナノス、パスカル
  ?我慢できないもの  過激な無神論者、おざなりな聖歌、日曜にサッカー観戦かミサかを選べると思っている輩、社交のために教会で結婚式を挙げる人
  ?感動すること  神のみ心の徴し、回心の体験談
  ?教会でいつ会える?    最低限、毎日曜日

その2 探求派  「信じる、でも疑う」
  ? 信仰の中で育ったが、組織と愛称が合わなかった。教会の見解のいくつかには賛成できない。無垢な純粋派の信者にはいらいらする。あの世の存在には懐疑的だ。しかし信者だと公言して教区民としてふるまったりエキュメニカルな活動(超宗派的活動)や、宗教交流に参加するのは抵抗がない。
  ? シルヴィ・ジェルマン、モーリス・ベレ、ティヤール・ド・シャルダン
  ? 教条主義者、懐疑によって信仰を拒否する人
  ? 霊的探求をする人の話、希望
  ? 毎日曜、または、行事の日、または必要を感じた時。

その3 失望派  「信じていたがもう信じない」
  ? 組織や、教会の言説にうんざりしたか、病気や近親の死などで傷つい他後で教会から離れた。哲学や精神分析学や科学と出会って、確信が揺らぎ、自分のすべての土台を検討している。
  ?ニーチェ、アンドレ・コント=スポンヴィル
  ?真実を独占する信者、信仰は理性を無視していいとする輩
  ?ピエタ像やカテドラルのラインの美しさ
  ?結婚式、葬儀、ヴァカンス先での観光

その4 見習い派  「信じていなかったが、今は信じる」
  ?無神論かアグノスティックか、子供に宗教教育をしない家庭で育つ。 ある、出会い、読書、審美的なショックや、試練などが神への欲求を目覚めさせた。または、超越なしの人間の虚栄に気づかせてくれた。
  ?クローデル、エティ・ヒレスム、ジャン=クロード・ギユボー
  ?信者への軽侮や、教会の後退
  ?親しい人たちの懐疑、受け入れてくれたコミュニティの信仰
  ?毎日曜または、行事のある日

その5 悶々派  「信じてないけれど、疑う」
  ?出身は関係ないが、自分の存在の意味について自問している。宗教にも哲学にも満足な答えを得られない。
  ?レジス・ドブレ、パオロ・コエリョ
  ?盲目的な信者、神秘家、教条主義者、実証主義者
  ?修道院の静謐さ、祈りの熱意
  ?葬儀、結婚式、偶然

その6 ボーン・アゲイン派 「再び信じ始める」
  ?クリスチャンの家庭で育ったが、教会から遠のくことや形而上的疑問によって信仰を失った。ある出会いや、根本体験により、教会に戻った。信仰の中の自由を見出した。今は、信仰は人生の中心的位置を占める。新たな生である。
  ?リジューの聖テレ−ズ、マクス・ガロ
  ?社会的慣習によるカトリック信者、戦闘的無神論者
  ?集団で熱くなること。信仰コミュニティへの帰属意識
  ?毎日曜か行事の日

その7 回心派  「宗教を変えた」
  ?よその大陸か、他の宗教文化の中で生まれたが、出会いや、住んだ社会の影響によって、キリスト教の神を知った。キリストの人間性と神の慈悲に心を打たれた。
  ?リュスティジエ、レイモン・パニカール、聖アウグスチヌス
  ?ぬるいキリスト教徒。近親者と離れるリスク
  ?キリストの姿。聖餐の秘蹟。
  ?毎日曜、教会内組織、祈りのグループ

 以上です。日本ではカトリックはマイナーだから、成人が信者になろうかという時はいろいろな自問が渦巻くでしょうが、カトリックがなんとなく風景になっているフランスではこんなにグラデーションがあるわけです。実際、キリストの肉体の復活を字義通り信じるかというような根本的な教義についても、アンケートをとったら信じると答える人は年々少なくなっています。その乖離についてすごく悩んでいる人は実際問題としてすくないです。日本で、南無阿弥陀仏と唱えて、本当に阿弥陀仏がいて極楽に連れて行ってくれると字義どおり信じるとか、お宮参りにいくが天照大神の話を字義どおり信じるとかいうような感じです。
 もちろん、キリストの肉体の復活を少なくとも、使徒たちが信じなかったら、キリスト教は成立していなかったでしょう。でも、彼らが昔の無知の人だから肉体の復活などを信じたのだろうと思うのは間違いで、その頃だって、すごく信じられなかったんですよ。それでも、一応、そういう不思議なことが起こったというのでいろいろ書き残されて、それを基にして、キリストの十字架上の死と3日後の復活がなぜ人類すべての罪の購いとなり救済になるのかという神学が延々と築き上げられていくわけです。で、三位一体の話とか、父なる神に関するところは超越に属することで、実証的な頭ではもとより理解できないんですが、人間イエスの死やその肉体の復活っていうのは、まだ「こっちの世界の出来事」だから、いろいろ想像の余地があります。シンボリックな意味はもちろん山のように積めるでしょうが、事実関係はやはり気になるところです。
 私は、不思議なことに「そんなことあり得ない」とか思ったことはありません。世の中には私の想像や理解を超えたことがいくらでもあるので、何でもあり得る、というのが基本です。この前も書きましたが、イエスの復活のことで不思議だったのは、例のトマスの話で、脇の傷に指を入れろとか何とかいう話で、トランスフィギュレーションのように光り輝く栄光の体、この世と存在のモードが違うような体で復活したのではなく、傷口が開いたままの体というところでした。ラザロが起きてきたように、イエスもほんとに「よっこらしょ」と目が覚めたのなら、そして遺体をつつんだ亜麻布を残したなら、どうやって墓石をどけたり服(死ぬ前に着てた服は兵士にとられて人々がくじで分け合ってますし血まみれだった)を調達したのか分かりません。生々しい傷があったということは、メル・ギブソンのパッションじゃないですが、足の棒で頭をがんがん殴られたり、鞭打たれたり、転んだり、手足の釘跡ももちろんだし、かなり悲惨だったはずなんですよ。そんな姿で、姿を現したら、みんなびっくりだと思うんですが、エマオに向かう途中で旅を共にしてイエスのことを話題にした二人の使徒なんか、いくら「目をさえぎられていた」といっても、とにかく気づかないんですよね。普通っぽければ気配とか、声とか、話の感じとかで分かりそうだし、まさか血まみれで裸ってことはないだろうし、不思議です。その他にも、自分だと証明するために積極的に手と脇を見せたみたいだから、顔はどうなんだ、顔や背格好はそんなに説得力のないものだったのか、殴られた痣や傷や瘤や窒息死の苦悶で変形してたのか、とか、すごく気になります。
 まあ、普通の人が、最後の審判の時に体が復活する時は、栄光の肉体ってことで、死んだ時の病気とか傷とか状態に関わりないそうなのでほっと安心です。イエスはなんといっても死後から復活まで実質一日半しか経過してなかったんだから別なんでしょう。それに、そう、そのときの人ですら、むごたらしく刑死したはずのイエスがもしきれいな体で現れたりしたら、栄光の体だと言ってありがたがる代わりに、替え玉だと言って退ける率が高かったんですね。きっと。人は見たいものだけを見るのかもしれません。
 もう復活の話自体は、実証レベルじゃなく教義レベルの話なんで、「科学的にあり得るから信じられる」とかいう話ではないです。誰かから「あなたは私を信じられますか?」と言われて、「信じる」と答えるのは、その人のこれまでの実績を調べてある程度リスクを減らすことはできたとしても結局一種の賭けですから、直感や期待感によって決めるしかない。永遠にこの人を愛しますか?と言われて、永遠かどうかなんて分からない、と理性的に答えるのは変でしょう。愛とか希望とか信頼とか信仰とかは、自分の限界(理性とか利害)を超えてひたすら相手に向かっていくんですから。
 しかし人間の肉体を持ったイエスが人として死んで、人として生き返ったという話を、具体的なものとして考えさせるよすがは、前にも書きましたが、なんといってもトリノの聖骸布の存在ですね。こういうコアなオブジェが残っているのは好きです。まあこういうのを持ち出すと、オカルト的で信仰のつまずきになるという人も必ずいるんですが、「好奇心」には負けます。等身大ポスター、ご一見ください。あ、今発売の文藝春秋Specialという増刊号に「スピリチュアルとのつきあい方」という文を載せています。ご参考にどうぞ。

157nao:2007/05/28(月) 20:46:34
あれこれ
竹下先生がお書きくださつたことで、もうなにも書く必要なさそうな気がしているのですが。すこしつづつてみます。まず大羊さんがだされた3ッはどれもYESだしどれも単独ではNOだと思います。つまり理性の範疇を超える問題なので、『信じる』ことしかない。でも復活したイエスから、聖霊が降されて、弟子達が世界中に宣教にむかつたわけですから、これを信じないかぎり、キリスト教徒ではないわけですよね。
じゃあ・・いわしの頭も信心からでいいのか・・いやそういうわけにはいかない。理性が健全でそれを超越した「物語」として、認識できないと、ダメでしょうね。
「信じる」という行為は理性より先にあるし、永遠にもつながるとおもいます。子どもは自分の親を認識するまえに信じているし、親がなくなつても自分をまもつてくれていると、信じていろ。
大体自分という人間が時間的、場所的にこの世にヒトリしかいないつて、信じていますよね。これを疑う人はまずいない。でもホントウにそうなの?信じるしか仕方ないすよね。
復活の体つて、なんだかあるような、ないような、考えてもわかんないから、聖書にかいてあつて、そのことから、キリスト教ができたんなら、信じるほかないですよね。
でも「信じる」ことから、人生が豊かになるし、何よりその「枠」があることで、かえつて自由に生きられるつてことは信仰の強みですね。

文芸春秋special,2007,SummerNo.1 早速買いにゆきました。竹下先生の「スピリチュアルとのつき合い方」とても良くまとめられていて、他の人とくらべて、格段論旨が上だとおもいました。大変参考になりました。大羊さん、是非読んでみてください。今回は「心の時代を生きる」日本人と宗教  になつていて、大特集 あなたは宗教を信じますか? の記事が面白いです。2,3しか読んでいませんが、人は何かを信じることなく、生きられないことだけはよくわかりました。

7つのグループ、面白いですね。私はどのあたりかな?1ではなさそう。1−7、すこしずつ、はいつていそうです。

158迷える大羊:2007/05/28(月) 22:27:57
うーん
 毎度、お世話になります。人のキリスト教、宗教に対する思いは様々ですが、私が信者になるとすればその2のタイプ、ありえないのがその1タイプかな?(笑)。あまりにも熱心すぎる、信じすぎる人を見ると感心するよりはイライラしたり、ついおちょくりたくなってしまうタイプかも(彼女の前ではできませんが・・・)。テイヤールド・シャルダンなんかいいですねぇ。こういう聖職者がいるから、カトリックって信用できそうな気がしたりします。

>もう復活の話自体は、実証レベルじゃなく教義レベルの話なんで、「科学的にあり得るから信じられる」とかいう話ではないです永遠にこの人を愛しますか?と言われて、永遠かどうかなんて分からない、と理性的に答えるのは変でしょう

 いや、そういうお話ならわかるんですが、しかしですね、私が当初関わったプロテスタントの牧師さんは、聖書やら奇跡を本当に字義通りに、「科学的にも」真実と、信じている感じでしたよね。。もちろん、進化論なども反対で、最初の学び会でいきなり、唯物論である進化論をとるか、神をとるか、みたいな話をされて、こりゃいかん、俺には合いそうにない、と思いました。復活については詳しい話をしないまま通うのを止めちゃいましたが、多分、「からだのよみがえり」を文字通り信じている可能性大です。
 カトリック教会に流れた(といっても信者になってないけど)のも、こういう多分にファンダメンタルなキリスト教理解への違和感と反動って面もあります。

 で、こういう聖職者、教会や信徒を見て知っていますから、「復活」のキーワードを聞くとなんだか落ち着かない気分になってくるんですよね、「まさか、とは思うが・・」とつい疑り深く、あれこれ突っ込みたくなるのですよ。
 聞くところによれば、アメリカにはこの世の終わりの蘇りをものの喩え、言葉のあやではなく、「本当に」信じている人たちが結構いて、金のある人などはエバーミング、つまり近親者や自分の遺体を完璧な防腐処理を施し、完全防虫の地下室で冷凍保存し、来るべき「復活の日」に備えているらしいですね。あとダーウィン嫌いで、「理科の」時間に創造論を教えろと主張する人々、産婦人科医をリンチにかける中絶反対主義者など、アメリカのクリスチャンの話を聞くとなんだか鳥肌が立ってきて、俺はこんなイカレた連中の仲間にはならんぞ〜、と叫びたくなります。

 ところで、こういう極端な人、いわゆるファンダメンタルな人々は、カトリックよりはプロテスタント、ヨーロッパよりはアメリカに多いってところがいろいろと興味深いところですね。日本の教会でもアメリカから入った教会はややファンダメンタルなところが多い感じがします。

 とまあ、なんだか「復活」にいちゃもんをつけるようなことばかりいっているように思われるかもしれませんが、確かに「復活」がないと、師は売るわ、逃げるわ、とぼけるわなんてやっていた情けない弟子たちが、どうしてあらゆる困難、殉教すら恐れない人間になったのかに関する説明がつかず、キリスト教のストーリーが続いていかないですよね。
 本当に何があったんでしょうね??下手な推理小説より謎に満ちてますね・・。

159nao:2007/05/29(火) 09:32:08
ご紹介
ご存知でしたら、失礼!小説2冊ご紹介。
?エリツクーエマニュエル・シュミツト著「小説 イエスの復活」NHK出版
イエスは自分が神の子でありメシアであることを最後まで疑つていた。一方、イエス磔刑をみとめたローマ総督ピラトは消えた死体の謎を、現代人と同じように合理的に解明しようとした。どうしても復活が信じられなかつた。二人の告白の物語は、生身の人間が(神秘)にどう立ち向かうかを描いていく。そして、ピラトの心境は死体のゆくえを追ううちに変化し、癒されていく。臨場感あふれ、心地よい読後感が残る小説。(裏表紙より)

原題は「ピラトによる福音書」です。ピラト側からみたイエスの復活は大羊さんのピラトの疑問と復活への疑問に、小説ではありますが、大いにこたえるものになるでしょう。私はシュミツトの「モモの物語」(いぶらむおじさんとコーランの花たち)をよんで、好きになり、この本を知りました。フランスではベストセラーになり、演劇化され、東京でもあつたそうですが、地方住まいの私は、やつと今頃、しつた次第です。

?M.スコツトペツク「死後の世界へ」集英社
精神科医、主人公ダニエルの死後の世界がかかれています。小説です。死後の体の有様が想像されていて面白いです。光の玉になつたり、そのままみえたり、だいぶ前によみましたので、わすれましたが、復活を考えるときの一つの助けになりそうです。スコツトペツクはご存知のように、「愛と心理療法」でベストセラになつたアメリカのプロテスタントの精神科医。「平気でうそをつく人」はすごく役にたつ本でしたね。
2冊の本でやはりシュウミツトのピラトの合理精神での復活の追い方のほうが面白く、役にたちました。
大羊さんの出会われた最初の牧師さんは私にはどうも・・。そういう考えのかたもいらつしゃるんですね。そんなんで、自由にいきられるんかな・・魂の自由がひろがらないような宗教はゴメンです。「この枠のなかで自由にふるまいなよ」というのが好きですね。枠のありかたはやはり、鍛えられ、修羅場をくぐつてきた末にできあがつている枠。人類の知恵が長くかかわりつづけてきて、なおかつ、命を保つている枠。そんなものなかなか、わからないですけど・・ご縁でみつかるのでは。

160迷える大羊:2007/05/30(水) 23:02:13
毎度お騒がせします
 毎度、お世話になります。?も?も初めて知りましたね。「ピラトによる福音書」ですか?確かにピラトの心境は興味ありますね。思うに、私にとって聖書のキャラクターの中でピラトが、ある意味一番感情移入できる人物、というか気持ちが分かる人物かもしれませんねぇ。私もピラトの立場なら聖書に記述されている通りの行動を取るでしょうね。何の縁もゆかりもない、ユダヤ教の内輪もめなんか興味ないし、そんなことのためにせっかくの総督職を棒に振りたくない、でも、目の前のイエスは明らかに無実、死刑にするにはあまりに忍びない、ああ弱った、どうしよう、そんなこと俺知らないよ、あんたらで勝手にやってよ、俺のせいじゃないって気持ち・・。銀座の教文館で探してみますか。ちなみに私は首都圏在住です。

 そうそう、あとキリスト教についてはもう一つ重大な疑問がありました。信徒の人に向かって面というと激怒されそうで、なかなかいえないし、ここでも嫌われたらどうしよう、と思いながら、質問しますが、イエスを神と崇めることと、天皇陛下万歳だとか、北朝鮮の将軍様万歳(マンセー)とかいって崇拝するのと、質的にどう違うのでしょうか?あと、オウムの麻原尊師の「空中浮揚」を信じることと、イエスの「奇跡」を信じることの違いもなんだかよくわかんなかったりします。どれも、これも私にはいわゆる同じ「現人神」信仰のような気がしてしょうがないのですが・・・。この内、天皇陛下は戦後「人間宣言」をされていますが、キリスト教の世界でイエスの「人間宣言」が為される日はありえるのでしょうか?

 これがイスラム教ですと、ムハンマドは「最高の預言者」で特別扱いはされていますが、一応「人間」ですので、話がまだすっきりしているのですが・・・。

 実をいうと、福音派だろうがカトリックだろうが、キリスト教会に行く限り、このイエス礼賛、崇拝は必ずあるわけで、そのたびに「いいんだろうか?これは一種の個人崇拝ではなかろうか?この民主主義の時代、科学の時代に現人神だなんて・・」と思ってしまうことが、躓きになっております。ただでさえ、疑問を感じるところに奇跡だ、復活だなんてさらに話をややこしくするものが入ってくるところが、困ったところです。

 あと、オウム(現アレフ)の麻原代表には去年死刑判決が下りましたが、まがりなりにもキリスト教の歴史に触れた身で考えるに、死刑はマズいような気がします。つまり、今もなお残る信徒たちに「尊師は我々の罪をその死で贖われたのだ!」ってことで、却って、その信仰、団結を強化することになるような気がしてしょうがないんですよね。そして、数々の迫害に耐え抜き、数百年後は日本の国教に・・・、なんてことになったら怖いな・・。

 不愉快な疑問かもしれませんが、またお時間があれば御意見聞かせていただければ幸いです。

161Sekko:2007/05/31(木) 01:19:18
イエス万歳
「イエスを神と崇めることと、天皇陛下万歳だとか、北朝鮮の将軍様万歳(マンセー)とかいって崇拝するのと、質的にどう違うのでしょうか?」って。ぜんぜん違いますよ。だって、イエスはもう人間としてはこの世にいないんですから。

 イエスを救世主だと認めるとか、三位一体の話とかは、また別です。私は、人が現在生きてる人を拝むのに抵抗があるんです。人だった菅原道真を神に祀って拝むのは平気というか、気にならないんですが、信者に断食させて自分はメロンを食ってるような「尊師」とか、自分は何々の生まれ変わりとか大宇宙の霊神とか、他称自称してる人は、生理的にすごく嫌です。
 カトリックは教皇とか偉い人にもまあ、イエスの生まれ変わりと言わせてるのでなく聖ペトロの継承者で、神に関しては仕え人というスタンスなんで受け入れられます。聖人や奇跡やなんかも、生きてる間は認められなくて、死んでからのみの称号であるところが好感をもてます。世界中から聖女のように尊敬されてきたマザー・テレサですら、死後の祈りの中で起こった奇跡だけが審査されて聖女の道を進むのですから、それはもうシンボリックな世界、スピリチュアルな世界です。宗教だからそれでいいのです。でも、今生きてる人が奇跡を起こすとか、癒すとかで崇拝されるのは、どこか間違ってる、と思うんです。
 私はチベット仏教のセンターに時々行くんですが、そこのリンポチェ(活き仏)の前でみながはいつくばってお辞儀をします。それは彼という「人間」を拝んでいるのではなく、彼が体現している「智慧」を敬して拝んでいるのだ、と説明されます。そのリンポチェはすごくいい人なんですが、子供の時からある仏の生まれ変わりだと認定されて召使に囲まれて大事に育っているので、亡命の身とはいえ要するに貴族なんですね。みんなに拝まれるのが普通の状態なんです。ダライラマもそうですが、子供には罪がないとはいえ、リンポチェを出したら一族にコネと権力ができますから、大人の欲望や権謀術策が渦巻きます。私なんかから見たら、子供の人権を侵す問題だと思うくらいです。とにかく人は、生きてる限り、多くの人から神のように拝まれる状態というのは、その人にとっても、周りの人にとっても健全でない、と感じます。
 もちろん、死んでもうものを言わない神や、目に見えない超越者を掲げて、それとチャネリングできるとかその名を騙って権力を掌握したり独裁者になったりする人もいて、それもまあ、神を自称する人よりもっとたちが悪いこともあります。やはり、その神や神の周りに成立した言説を注意深く検討して、モラルの方向として納得いくものかどうかを判断するのがいいと思います。神でなくとも、奇跡を行わなくとも、「正しい人」というのは必ずいるし、そういう人は、別に人から拝んでもらおうと思わないものです。
 それにイエスはわざわざ人間宣言しなくとも、一応、100%人間で、かつ100%神ということで落ち着いているので、人間性は100%引き受けてると思います。だからこそ、「超能力」を発揮せずにむざむざ殺されたんでしょうし。数々の聖人たちも、人間出身で、死後にスピリチュアルな存在として神と人を結ぶ存在として認識されてると言う意味では、死者の霊魂を神として祀る神道なんかと似てますね。祖霊信仰なんかも心理的には近く、生きてるときはうるさいと思っていた祖父母や両親とかも失ってからは心の支えになり、素直に手をあわせて加護を願う心境になるのも良くある話です。
 そんなわけで、周りの人の思惑や権力の誘惑なども鑑みて、今生きている生身の人を崇めるのと、歴史に洗われててスピリチュアルな評価の定まった人、生きてる時に残した言行に共感のもてる人、などを崇めるのはリスクも含めてまったく違うというのが私の答えです。

162迷える大羊:2007/07/01(日) 01:13:12
イエスタブー
 いつもお世話になります。

 誤解を招くと困りますが、イエスを否定しているつもりは毛頭ないです。彼の倫理的、道徳的な教えは傾聴に値しますし、無私の心を唱えた史上初の人物、と思っております。
 おっしゃるとおり今生きていて権力もある人間を崇めるのとは違うし、実害を与えたわけでもなく、イエス自体には何の問題もありません。

 苦手なのは、なんていったらいいのか、周囲のイエスへの妙な気がね、気遣いなんですよね。
 例えば、ハリウッド映画「ベンハー」などでは、イエスは後姿しか描かれないし、最近はそこまで気を遣わないにしても、教会の一般的なイエス理解から外れたイエス描写は、欧米社会で必ずすったもんだの騒ぎになりますでしょう?例えば、スコセッシ監督の「最後の誘惑」だとか、近いところでは「ダビンチ・コード」だとか。イエスに子供がいて何がマズいのか?どこがどう侮辱したことになるのか?未信者の私には理解に苦しむところです。作品自体はあんまり面白いものでもないのに、こんなことで騒ぐから余計注目されて、却って逆効果、って気がしますが。

 また、ビートルズのジョン・レノンが1966年、イブニングスタンダード誌のインタビューで「ビートルズはキリストより有名(もちろん、一種の比喩でキリスト教の欧米社会での影響力低下について語っただけで、イエスについては評価している)」と発言したところ、アメリカ南部の保守的なクリスチャンの猛反発を食らい、レコードが焼かれ、ビートルズのアメリカツアー中にも数々の脅迫電話、脅迫状が舞い込み、ジョン・レノンは急遽、釈明会見を開く、なんて騒ぎもありました。

 またまた、ジョン・レノン(本当にこの人とキリスト教会って相性が悪い)の話になりますが、彼の曲「BALLAD OF JOHN&YOKO」って曲がアメリカとカナダで一時放送禁止なったことがありますが、一体全体何が理由で?と思ったら「キリストさんよ、気楽じゃないぜ」って部分がまずかったんだそうです。これまた、未信者には、「え?こんなことで??」てな感じで理解に苦しみます。こういう事例を聞くと、もう二千年以上前の人物に対して、なんでここまで気を遣ったり、タブーがあったりするのか?素朴に疑問を感じるんですよね。

 日本でも、天皇陛下は映画やテレビドラマでは姿を出せない、なんて時代が長くあったし、今でも、正しい、間違っているは別にして、故昭和天皇の「戦争責任云々」などという意見を公の場で表明しようとすると右翼団体から銃撃されたり、かなりの抗議と勇気を覚悟しなければならない、ってところがありますよね。なんか、基本的な構図が似ているような気がしてしょうがないんですよね。

 あと遠藤周作氏の「イエスの生涯」も私の知る限り、一部のクリスチャン、教会関係者にはあまり評判が良くないらしいんですよね。これまた、未信者の私には何がどうマズいのか、分からないのですが、要するに、奇跡も行えない、無力な男イエス、というのは一部のクリスチャンにとって耐え難いイエス像であるらしいんですよね。これも、私にはすごく理解に苦しむ話。本当にイエスが人生がうまくいかない人間、弱い人間の味方だ、ってことなら、超能力を駆使する神がかりな超人である必要なんか全然ないじゃないか、そんなものを求めるなんて、それこそキリスト教が否定する「御利益」信仰なんじゃないの?と思ったりするんですけどね・・・。

 あれやこれやで、基本的に日本の「天皇タブー」も欧米の「イエスタブー」も私には同じに見えてしまって、自分の心の中に、こんな理不尽でワケのわからないタブーというか、足かせみたいなものを新たに作るのがイヤ、っていうのが、うまく言葉にできたかどうかはわからないけれど、キリスト教にイマイチ踏み込めないの一つになっているんですよね。
 まあ、考えすぎかなぁ、と思うこともありますけど。

163Sekko:2007/06/03(日) 21:46:51
イエスのフーリガン
 日本のことは詳しくわかんないのですが、アメリカはかなり特殊です。「欧米のイエスタブー」とひとくくりになさっていますが、欧と米ではだいぶ温度差があります。ビートルズはイギリス人だからその辺が自分でも理解できなかったんでしょう。今のヨーロッパではイエスを含む「キリスト教」全体が、個人の私的領域か、文化とか伝統の事象と理解されてるのですが、アメリカでは政治とか社会の事象ですから。今無神論についての本を書いてるのですが、アメリカの無神論は別個に取り上げてます。アメリカって、これから無神論が旬になりそうな国です。今年3月ピーター・スタークが米国議会初の無神論者議員としてカミングアウトしました。社会的に影響力のある人で無神論者にカムアウトを勧める団体の運動が効を奏しつつあるのです。これって、フランス的には(多分日本的にも)、考えられない事態です。無神論が意味を持つのは、信仰が社会的アイデンティティの核だからです。サウジアラビアなんて、イスラム教から離教イコール国籍離脱ですから、日本やフランスのように宗教が歴史に洗われてヌルくなった「古い」国にいると、想像もつかない状況は今も地球上にたくさんあるわけです。神でもあるとされるイエスと違って預言者でしかないはずのムハンマドのカリカチュア(私から見ると政治的妥当性は別としてべつに過激でもなく、フランスにはローマ教皇やイエスのカリカチュアの方がひどいのがよくある)をめぐって大使館が焼き討ちされたり教皇の失言で罪のない修道女が殺されるとか、原理主義者やそれを煽る人もいるわけですし。それに比べたらイエスのフーリガンたちはまだちょっとましかもしれません。それに、まあ、イエスをめぐるイエス万歳の人たちがまあましと思うのは、たとえば他の現人神のご真影とかなら、勲章をいっぱいつけてるとか、ロイヤルファミリー写真でも立派なお城で立派な衣装とか王冠とか、そういう見た目の立派さがありますね。彼らをたとえば裸で描いたら、即、冒涜じゃないですか。それなのに、イエスって、欧米系では13世紀以来磔刑像が多いですからね。もう、外観としては最悪ですね。『最後の誘惑』の映画だって、文句をつけた人は、イエスの幻想みたいなシーンよりも、本当は、全裸のイエスを赦せなかったんじゃないかと思います。でも中世の磔刑図には結構全裸のものもありました。そこんとこの葛藤が、他のシーンに向かったんじゃないかと私は思ったんですが。
 ともかく、「私は最も小さきものの中にいる」、みたいなことが口だけでなく、まあ、誰でも普通はああいう死に方はしたくないという図像が前面に出ているんですから、それなりの説得力があります。倒錯的ともいえばいえますが、本当につらい人や迫害されてる人が、最後の救いを十字架のイエスに求めたりする心境も分かりますね。天国に行けば美女に囲まれるとか楽な暮らしがし放題、というタイプの慰めより、なんか、十字架上で永遠に苦しみながらさらし者になってる人が共にいる、みたいな。まあ、それでは、教義的にもっと本質的である復活の栄光の影が薄くなりそうなんで、十字架は十字架の形だけでシンボリックに、イエスは復活のイエスを強調して、という教育的配慮も近年は多くなされてます。
 もう一つ、これはすごく論議になってるとこなんですが、カトリックが救済における宗教的多元性をみとめるかどうかにおいて、多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16−12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。

164迷える大羊:2007/06/04(月) 00:43:25
アメリカって・・・
>アメリカはかなり特殊

 確かにそうですね。私が最初に行った教会も彼女の教会(聖書を丸ごと信じる保守的、私からみるとファンダメンタルな信仰)って大体アメリカ起源のプロテスタントですもんね。それにしても、キリスト教を知らず、欧米社会の事情に関心が薄かった時期は、なんとなくアメリカ、プロテスタント=進歩的、リベラルでヨーロッパ、カトリック=保守的、聖書を丸ごと信じる、というイメージがあったのですが、実態は全然違う、というよりむしろ逆なんで驚きました。。ジョン・レノンの「ビートルズはキリストより・・」発言もヨーロッパでは全く読み流されているんですよね。

 それにしてもアメリカといえば、世界一科学が進んだところ、ってイメージがあるんで、そういうところで、創造科学(つまり、聖書に書いてあることはすべて「科学的」にも正しいことを証明するトンデモ科学)が結構幅を利かせていて、創造論を「理科」の時間に教えろ、という主張が一部の州で法律で大真面目に可決されてしまうことにびっくりします。

 1996年にヨハネ・パウロ教皇は進化論を認める旨の発言をされていますが、この発言の背景には「あんなワケわかんない人たち(同じキリスト教徒として)と一緒にしないでね」みたいな意味もあったのかなぁ、と勘ぐりたくなります。カトリックにあまりその手の原理主義者が見当たらないのは北米出身者の比率が低く、アメリカの宗教状況の影響をあまり受けないせいかもしれない、と思うのですがどうでしょうかね。

>ムハンマドのカリカチュア

 イエスフーリガンのイカレぶりばかり話題にしましたが、これもなんだかなぁって感じですね。それこそ、ムハンマドは「人間」なんだから、何をカリカリしているのか?と思いますね。でも、これはイスラム教やムハンマドそのものの冒涜に対する怒りというよりは、西洋人に自分たちの信仰、文化をおちょくられた悔しさなんじゃないかなぁ、って気がします。イスラム諸国も中世の時代、ヨーロッパ諸国より経済的にも軍事的にも優位に立っていた時代は、ヨーロッパ人からムハンマドについて何をいわれようが全然歯牙にもかけなかったと思うし。

>カトリックが救済における宗教的多元性をみとめるかどうかにおいて、

 私がカトリックに好感をもったのはこの宗教的多元性を認めているところなんですけどね。福音系教会ですと、「本物の神とは〜」みたいな話が多く、焼香ダメ、七五三ダメ、みたいな調子でウンザリしたもので、カトリックの異教の風習や考えも良いものは積極的に取り入れ、その土地、その土地の文化風習を認める姿勢はとても新鮮で感心したものですが。そうでない人も当たり前ですが、いるんですね。

 とにかくアメリカの宗教事情はとても興味深いですね。著作が出来上がりましたら是非拝見させていただきます。

165流れ梅:2007/06/04(月) 11:23:03
横入り失礼致します。
Sekkoさま、迷える大羊さま>

ここ数日のログを拝見していて、一応、イエスタブーと言われているものと菊のタブーと言われているものは性質も由来も違いすぎるんじゃないかと思いました。ただ、こんなこと書いて右翼認定されても嫌で、書き込みを躊躇しておりました。ですので、以下の内容は右から左に受け流して頂けますと感謝しますし、今回のみでお邪魔をいたします。

皇室というのは、日本とくに日本神道の「祭祀権」を持つお家であるのだと解釈されると分かりやすいと思います。歴史のある仏教寺院の縁起を見ても皇室が関わりになっているところは多いです。天皇家が直接の為政者であったのは平安朝くらいまでのことです。あとは武家が「征夷大将軍」なる位を賜る形で統治をしていました。鎌倉が足利幕府になろうと、戦国の世を誰が平定しようと、そういう皇室のスタンスは変わってないわけです。江戸初期の「紫衣事件」(http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/sii-ziken.htm)みたいなことはありましたが。

そのスタンスが変質をしてしまったのは、「明治維新」と呼ばれる、薩長土肥の徳川幕府に対するクーデターがきっかけでしょうか。彼らは「官軍」になるために『天皇の権威』を有効に利用したと思います。大政奉還も、江戸城無血開城も、「賊軍」に成り下がった側がそれを理解してのことでしょう。ただその後にこれまでの日本神道のあり方を変えて、政治的なイデオロギーのために使ったこと、また廃仏毀釈などを行い、他の宗教と皇室を徹底的に分離したことは、間違いだったのではないかな、と個人的には思います。
というのは、神社神道側の人たちは決して「戦前の国家神道を神道のあり方と考えてない」ようなのです。聞くところ、明治政府があれこれと神道の祭祀に干渉をしてきたそうで、そのために出来なくなってしまっていた祭祀があったそうです。戦後、その出来なくなっていた祭祀が復活したそうでして、つまりは神社神道すら厳しい統制下にあったことには変わりが無かったということなんです。キリスト教ほどに酷い弾圧は受けなかったじゃないか、と怒られればそれまでなんですけど。長い時間かかってるかも知れませんが、現状として神社神道は<全体としては>元の形に戻りつつあると考えてよろしいかと思います。
また、皇室もそうであると思います。皇室というのは祭祀などは勿論ですが、一貫して、日本の伝統文化を継承し守る役割も負ってきたお家です。渡来文化の保護、慈善事業への関わりもしてきています。海外公務が出来たのは戦後ですが、美智子皇后が「皇室は祈り」と発言されたように、戦後の公務の一つの大きなポイントに「戦没者(戦争被害者)慰霊」などが挙げられると思います。

皇室は為政者としてのロイヤルには成り得ないですし、実際、明治から昭和にかけてもそう成り切れなかったのでは?成り立ちや歴史上のことから考察すれば、日本にヒトラーのような独裁者が出来なかったのはそういう皇室の性質ゆえかも知れないと個人的には思う事があります。

166迷える大羊:2007/06/04(月) 23:25:05
横入り歓迎いたします
流れ梅さん はじめまして。別に右翼だなんてちっとも思いませんよ。貴重な知識をお教えいただいてありがとうございます。「紫衣事件」のことはとんと知りませんでした。おっしゃる通り、本来の神道と国家神道は別ものだし、長い日本の歴史の中で、ここ百年くらいの天皇家のあり方の方がむしろ特殊なのはわかります。元々、西洋社会にキリスト教という宗教の核があることを見聞した明治の元勲たちが、日本にもキリスト教に対抗する、宗教、価値基準を持たねばならない、という発想で始まったものらしいですからね、国家神道って。

 ところで美智子皇后、で思い出しましたが、日本の皇族を見て不思議に思うのは神道の祭祀の家のはずなのに、何故か神道系の学校の出身者がなぜか少なく、それどころか、ミッションスクールの出身者の方がむしろ深く入り込んでる感じがするところですね。美智子皇后はカトリック系の聖心女子大出身、雅子妃はこれまたカトリックの田園調布双葉学園出身、さらに現天皇陛下の家庭教師はエリザベス・バニング夫人、エスター・ローズ夫人でいずれもクウェーカーのクリスチャンだったりします。どうなってるんだろ、と思うのは私だけですかねぇ?
 あと、上流階層、名門のお嬢様というとミッションスクールを思い浮かべるのはなぜだろう?とも思いました。日蓮女子学院だとか、阿弥陀女学校みたいな感じの仏教系学校は思い浮かべないですもんね、なぜか(笑)

167Sekko:2007/06/05(火) 05:04:04
私も歓迎します
 私も天皇家は祭司の家系として貴重で、その意味でよく残ってくれたと思います。確かに明治の国家神道の創設で大変な役割を担わされましたが、たとえこの先いわゆる天皇制がなくなっても、日本の伝統的な祭祀の保存のために国が保護していくべき職能じゃないでしょうか。歴史の中で権力に結びついた宗教や芸能は時代と共に立場が変わっていきますが、フランスで1905年以前のすべての教会が国に没収された後でもカトリック教会が無償の店子として活動を続けているように、多様な社会の中で伝統的シンボルが生きているのはいいことだと思います。能でも観世宗家には文化庁から助成金がでているように、天皇家の祭祀はどんな形でも続けて欲しいです。でも今の時点では皇族には投票権がなかったり、微妙な立場なので、外から入ってくる女性などはますます困難が大きくなるでしょう。誰かが国や国民のため専心して祈り続けているというのは決して意味のないことではないと思います。
 特に、日本の神道は、自然神や神話の神や家康など権力者が神に祀られているのを別としたら、「非業の死を遂げた人」の祟りを恐れて祀った霊が多いですね。荒御霊を鎮魂して守り神にしてしまうような。民間宗教としても、死んだ人=ホトケが、時間をかけてカミという習合守り神になっていくというイメージでした。仏教と習合してからは、死者は回向によって49日で仏になり、49年で集合的祖霊神に融合という感じです。
 それでいうと、第2次大戦で非業の死を遂げた人たち(それは戦死者たちだけでなく戦災で死んだ民間人も先般で処刑された人もみんな)、もう49年を経ていて、昭和天皇と今の天皇が鎮魂を祈り続けたと思うので、みんなカミになってくれたかなあと思いたいです。天皇は戦犯の合祀問題などでさっさと靖国参拝を控えましたが、天皇の名の下に始まった戦争の被害者はいわゆる戦死者だけではないのだから、多分皇居ですべての人の鎮魂を続けてくれたのでしょう。こういう職務の家に嫁ぐからには、祈りとか宗教観の合う女性が大事ですよね。自己犠牲と利他を勧め、死者への敬意を大事にするなら何教でも通ずると思います。
 確かに、戦後皇室をカトリックに改宗させるという陰謀があったという暴露本が去年出てましたよね。マッカーサーがアイルランド系でカトリック、吉田茂もカトリックということで、なんかそれらしいお話なのかもしれませんが、皇室がカトリックになっちゃったらそれこそ国家神道の元で非業の死を遂げた人たちが浮かばれないですよね。神道祭司としての存在理由も消えてしまう。あり得ないですよね。
 現天皇陛下の家庭教師が絶対平和主義のクエーカー教徒だったというのは好感が持てますね。平和憲法を是非擁護して欲しいです。

168迷える大羊:2007/06/06(水) 00:16:47
聖書って・・・
 毎度、お世話になります。キリスト教に関する疑問って真面目に考えれば考えるほど出てくるのですが、実は聖書っていうのも私にとってはよくワケのわからない本だったりします。もちろん、いいメッセージがたくさんあることは十分に認めます。前にも述べた通り、イエスの倫理、道徳的な教えは時代を超えて不滅だと思うし、十戒など、人の守るべきルールをよくこれだけシンプルにまとめたものだ、と関心もします。まあ、そんな聖書きれいな部分は教会に行けばいくらでも聞かせてもらえるわけで、あえてここで触れる必要もないでしょう。

 しかし、よくよく読んでみると(聖書を読むことは大変骨が折れる作業ですが)、それ以上にトンデモな話が多い文書だったりするんでびっくりします。特に旧約の部分。いやはや、すさまじい話の連続。サムエル、列王記、歴代誌など果てしない血みどろの内戦、スプラッターもどきのクーデターでいっぱい、それも加害者としての話の方が多かったりするし、申命記や民数記を読めば、親に反抗する子供、同性愛者は石投げて殺せ、とあるし、尾ひれとウロコのない魚、つまりタコやイカかな?は食べてはいかん、ともある。また、浮気を疑われた妻はゴミだかチリだかの入った水を飲み干さねばならないらしいんですね。

 かつてオウム真理教の犯罪が世をにぎわせていた頃、評論家はこぞって「彼らの教義は殺人とテロを肯定する部分があって危険だ」などと語っていましたが、それいうなら、このユダヤ・キリスト教の教典は一体??。まさに自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレードではないか、これを信仰している、というキリスト教徒、ユダヤ教徒は一体全体、何を信仰してるんだろう、この旧約の部分をどう考えているんだろう?、との疑問がわいてきます。

 新約は旧約に比べると変な部分は少ないけれど、それでも、ヨハネ黙示録、というきわめつけのトンデモ文書があって聖書の最後を締めくくっています。なんだか話がぶっ飛んでいてわかりづらいんですが、最後の審判の間に神に捧げられるのは14万4千人の童貞の男たち、なんだそうで、思わず「はぁ?」と声に出してしまいました。独特の、あまりに逞しすぎる想像力、この聖書記者は、何か変なクスリでもやりながら書いたのでは??と疑りたくなる文書です。

 なぜ、キリスト教はこんなとんでもない文書を聖典として残しておいたのでしょうか?キリスト教の歴史においていくらでも編集、改訂する機会はあったと思うのに。また、キリスト教関係の出版物を読むと「聖書とともに生きています」みたいな人が出てきますが、これらの人々はこういう聖書のダークな部分についてはどう考えているんでしょうか?私が読んで気づくくらいのことが、私など、比べ物にならないくらい聖書を読み込んでいる彼らが知らないはずはないと思うのですが・・・。

>確かに、戦後皇室をカトリックに改宗させるという陰謀

 え、そんな陰謀本だとか、陰謀のウワサがあったんですか?初耳です。まあ、私個人は都市伝説の一種なんじゃないの、と思いますが。

169Sekko:2007/06/06(水) 20:38:16
聖書の話
 聖書の解釈って、古来、神学論議も哲学論議も個人の思弁もオカルト読解も山のようにあるんで、簡単には紹介できませんが、すごく単純にいうと、キリスト教はイエスは人間として生まれたのだから当然人間の特定の歴史と文化の文脈上の存在なのだから、旧約聖書でそれを明らかにするというスタンスだと思います。でも、イエスが生まれて死んで復活したからには、その前の出来事はもう無視、ではなく、成就したことになって、基本的にその後のことを制約しません。ユダヤーキリストーイスラムの三つの「アブラハム系一神教」ノうちユダヤ教徒イスラム教は戒律がありますが、キリスト教はユダヤの戒律宗教がキリストによる罪の購いで成就されたので、生活の全部を管理するいわゆる戒律はないんです。戒律を形として守るよりも、心の持ち方が大事だということになりました。逆に言えば、自分の行いを自分の良心に照らして絶えずチェックしなければなりません。でもそのおかげで、ローマ法の発達していた世界に広がることができたし、今もインカルチャレーションということで、ローカルな伝統と共存しやすいですね。ヨハネの福音書も普通は一種の象徴文学ということでスルーです。ネロンによるキリスト教迫害とか、執筆時の状況や危機感もあるでしょう。
 キリスト教では20世紀前半に、聖書の非神話化という作業が盛り上がった時期があります。精神分析学的解釈というのもありました。今は一段落していますが、原理主義的になったり、恣意的になったり、目をそらしたり、いろんな段階や局面を経ていますから、普通の人は変だと思うところにはそれなりの距離をおいてつきあっているのでしょう。
 では、ユダヤ教の人がどうやって破天荒な物語をありがたがっているのかというと、これも、一部の原理主義者は別として、今の普通のユダヤ人には、共同体のアイデンティティというか、帰属性を意識させてくれるよすがというところでしょうね。フランスのムスリムもみんなでラマダンの断食をすることで世界の仲間とつながっていると思うようです。理屈とかは別の連帯の次元でしょうね。
 私は個人的には、戒律の多い共同体は苦手です。特に食べ物の戒律にうるさいところは苦手です。殺生が嫌で肉を食べない、というのはすごくリスペクタブルだと思うんですが、うろこのない魚がだめとか、ひづめがどうこうとかいうのは、要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除につながるんで嫌いなんです。また屠殺するときに動物の頭をこれこれの方向に向けてこれこれの祈りを唱えてからならOKというのも、御都合主義とは言えないまでも、そういうのは呪術の領域だよなあ、とか思ってしまいます。
 まあ、普通の本でもいろんな読まれ方をするんですから、聖書と共に生きてますと言う人がみな同じ見解を持っているわけでも同じ接し方をしているわけでもないでしょう。また、聖書の言葉は、定義上、啓示であり、神の言葉なんですから、人間が「ここが変だ」と考えたり突っ込みを入れたりしたくなるのとは別のレベルの言説なんでしょう。ただ、これも定義上、神と人の間の一種の契約なんですから。双方向に通じるものがあってこそ意味を成すともいえます。契約に応じるという信仰のレベルに入らない限り、「わけの分からない本」であり続けるのかもしれませんね。「いまここで」分からなくてもノーマルなんでしょう。
 良く、この世で罪のない赤ん坊が殺されたりするのは神も仏もいない証明だ。とか言う人もいますが、「罪のない赤ん坊が殺されるのが絶対悪である」という確信自体に私はむしろ神の可能性を感じます。聖書の中のある種の記述が「自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレード」と大羊さんが認識できるってこと自体、私は正義の存在を信じちゃいます。悪は、ある実体ではなく、いつも、人間のある選択の結果なんですよ。

170迷える大羊:2007/06/10(日) 10:14:37
聖書の話2
 いつも、参考となるお話、ありがとうございます。

>要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除

 私もそう思います。ところで、普通の人は聖書の「変だ」と思うところはそれなりに距離をおいて付き合っている、とのことでしたが、私の見聞の範囲ではどうもそうでない人も結構いらっしゃるようなので、あれこれツッコミを入れたくなるのですね。前にも触れましたが、私が最初に関わりをもったあるプロテスタント教会の牧師さんは、聖書の創造論を、信仰の上だけではなく、物理的にも信じているフシがあって、「進化論という唯物論、無神論をとるか?それとも神をとるか?」などといわれて、とてもついていけない、と思ったものですし、キリスト教会(もちろん教派によるが)の同性愛者、性的マイノリティへの極端な差別、嫌悪はこの旧約聖書の申命記の一節からきているのでは?と思うからです。(別に私もその手の趣味はないが)

 今から15、6年前、クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」などという暴言を吐いたとか吐かないとかいうことで揉めた「府中青年の家」事件なんてトラブルも詳しくは知りませんが、あったようですし。
 また、戦争行為などを正当化したがるクリスチャン(ブッシュ大統領みたいな)は旧約聖書の「目には目を・・」の部分を強調したがる気もします。要は聖書ってどうとにでも使える部分があるんじゃないかと。確かに貴重な書物には違いないのですが、あまり信じすぎるのもどうか、と思ったりするんですね。

 その辺りの聖書への疑問が「聖書のみ」が信仰の対象となるプロテスタント、特に福音派教会への疑問となってしまったわけです。
 ところで、私の彼女はその福音派なんですが、いいづらいですね、この辺の話。下で述べたような聖書のダークサイドの話をすると、上げ足をとっている、とかキリスト教をバカにしているみたいな風に思われちゃうみたいで。でも、そういう誤解に対しては「だって聖書にちゃんとそう書いてあるんだけど・・」というしかないですね。

 あと、中絶問題はキリスト教関係者の重大関心事と思いますが、聖書に中絶問題について意見を表明している箇所ってありましたっけ?私自身は妊娠中絶に関しては、反対派も賛成派もどちらの言い分も分かる気がして、態度を決めかねる議論ですが。

 と、まあ聖書についていろいろ能書きを垂れましたが、実のところ、今まで何人かのクリスチャンの方と話しをしてみましたが、意外と聖書なんて大して読んでない人多いなぁって感じもします。手前ミソで恐縮ですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」なんて思うことも多かったりします。

 実際のところ、信仰生活において聖書の果たす役割って意外と小さいのでは?という気もします。私の知る限りでは、クリスチャンホームに生まれてそのまま信仰するようになったとか、身近な神父さん、牧師先生がいい人で、とか付き合いで、とか、もっと切実な、肉親の死(彼女の場合はこれ)だとか失業、だとかで神仏に頼りたくなった時期に出合ったのがたまたまキリスト教だったとか。
 それらは教義とは関係ない、単なるきっかけの問題なのかもしれないですね。仏さんを信じる人が皆仏典を読んで、南無阿弥陀仏だとかの意味を正しく理解しているか、っていうとそんなことは全然ないし。

 そう考えると、私みたいに妙にあれこれこだわるタイプって、素直さが足りないのかな?と思ったりもします。でも、納得いかないところはきちんと納得いくまで問い詰めないと気がすまないし、わけがわかんないのに信じる、という気持ちは私にはない、もうこれは性格だからどうしようもないですね、、我ながらカワイくない、と思いますが。

171流れついた梅:2007/06/11(月) 13:41:27
ええと、またお邪魔してしまいます。
昔、私のいた共同体というのが「超教派」でして、福音派からペンテコステ、カトリックの聖霊派の方もいらしたところでした。ですから、大羊さまのお話拝見しておりますと、非常に思い出すところが多いなあ、と思いつつ拝見しています。

大羊さまの彼女である方を通じて、大羊さまは福音派をご覧になっていると存じますが、福音派がアメリカの多数派を占めたのは'80〜'90年代くらいのことだと記憶しております。昨年か一昨年引退した、と聞いていますが、ビリー・グラハムという名前をお聞きになったことがありますか?こういったテレビ説教師の成功によって、福音派は今まで多数派を占めていたメインラインと呼ばれる各教派(会衆派、長老派、聖公会、ルーテルなど)から改宗者を得ています。
メインラインの教会の神学と福音派の神学が相容れないところからも、溝が出来たようです。
つまり、聖書を科学的に分析し、批評的な研究・解釈を支持するあまり、処女懐胎やイエズスの神性の否定に至る、そこまで行ってはや宗教性をも失ってしまった自由主義神学への反動として、聖書の一字一句をそのままに受け取るというファンダメンタルが生じてしまった、と。

個人的には、それぞれに行き過ぎたところを感じるところがあります。

>クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」
これは典型的な行き過ぎの一例でしょうね。カトリックでは信者個別の問題として、相談があるならのる、という感じだと思います。

>戦争行為などを正当化したがるクリスチャン
ブッシュ大統領のブレーンを見る限り、軍事産業の関係が多いのではないでしょうか?ブッシュがキリスト教の教えと繋げて、イラク派兵その他の話をしたなら別ですが、アメリカというのは、多民族・他宗教国家ですので、一概にそうは言えないのでは?また、クリスチャンの軍人や従軍司祭・牧師などもいるわけですが、それについてもブッシュ大統領のようにお考えになられますか?

>中絶問題
そもそもは十戒の『殺すなかれ』『姦淫するなかれ』からきているものではないでしょうか。故に「命はどこからはじまるか」という生命倫理の問題として考えている中での流れと解釈します。以下、ご参考ください。これはカトリックの公文書ですが。

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅 いのちの福音
http://www.japan-lifeissues.net/writers/doc/gol/gol_evangeliumvitae-ja1.html

プロテスタントの成り立ちについても、ルターの発表した「95箇条の論題」があくまでも神学的な問題として意見交換を呼びかけたものであるにも関わらず、当時の為政者に政治利用された側面は否めません。事実、ドイツはその後30年間の内戦状態となりました。
ルター派が国教となった北欧などは、そういった問題の発生が無かったようですが、次々と出来てくる教派と既存の教会との共存が困難だったことから、アメリカへの移住があったものと思われます。教派についてはそれぞれに在り方というのがありますが、非常に残念であるのは、プロテスタントの方々が初代教会からカトリックが積み上げてきたものを捨てることで、アイゼンティティを保っているように感じられることですね。
例えば、彼らが捨てていった教会美術、そして典礼。そもそも、欧州ではさほど識字率は高くなかった。羊皮紙本を筆写する時代には、聖書なんてものはなかなか一般人には入手が難しかったのです。そしてかさばります。教会や修道院は、図書館の役割を果していました。字の読めない人たちにも聖書の内容が分かるように、絵画やステンドグラスが作られ、また典礼において人々に分かりやすく伝えることもしていたわけです。

そういった時代の人々の信仰は、非常に素朴であったかと思います。
神学を修めるのは聖職者だけで良かった、みたいな。しかし「無知だった人々のもの」それだけで、その時代の人々がもっていた信仰を否定することは出来ないのでは?
さて、今は、情報に飢えることが考えられない恵まれた時代です。
世俗の者でも信者でなくても、神学オタクにはなれるんですが、単なる神学オタクと信者・聖職者との見分けは、知識云々ではなくどうしてもついてしまうものなのです。そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。
勿論、理性のない信仰は私もどうかと思うのですが、信者さんにとっては「自分と神だけの間の問題であること、そうしたいこと」も多いはずなので、そこはある程度は心やって下さいますと感謝いたします。信仰を持つきっかけについても、その人にとっては大切な部分であるところを論評の的にされてしまっては、大概の方は傷つかれるのではと思いますので。

まあ、私の指導司祭だった方は、「疑って、疑って、疑いなさい。疑う余地が無くなったら信じなさい」と仰ってました。あれこれこだわるタイプも、素直さが足りないタイプも大羊さまだけでは決してないのじゃないか、と思うので、これはお笑いまでに。

172迷える大羊:2007/06/11(月) 23:20:18
まずは反省します
>そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。

 これは、イヤミに聞えますね、我ながら。素直に以後気をつけ、反省します。もちろん、自分が聖書読んでる、エラいのだ、といっているつもりなどないし、思っているわけでもありません。おっしゃるとおり、頭でっかちで、宗教オタクぽくなってしまっている自分をやや自嘲気味にいってみた意味もあるのですよ・・。いや、実は彼女にもそのようなこと言われたことあります。でも、一方で今まで宗教に縁がなかった人間は理屈で理解する以外ないし、「それは理屈じゃないの!」って切られてしまうと、もう何もいえないし、困ったところです。

 彼女と付き合いだした当初、正直、なんでこんなこと素直に信じられるんだ〜?とも思いましたし、教会の独特なムードに最初は大変緊張したものでした。彼女と宗教の話をする際はそれなりに慎重を期しているつもりではあるけれど、たまにそういう話になると、「なんでこんなことで怒られるのだ?」といった戸惑いもたくさんありました。傷つかないように、というのも十分、分かるのですが、一体、何に気をつければ良いのだろう?という戸惑いもありますし、宗教やら信仰やらに対する反発(つまり、変なことを変といって何が悪い、とか、焼香しないとか、神社行かないって何事よ、何でそんなことに気を遣わなきゃならないんだ??神が人を作ったって、じゃあどこの神?天照大神かい?等など・・)がない、というとウソになります。
 一方で私は無神論者ではないし、イエスに対する敬意はあるし(本当ですよ!)、理解してみようという気持ちがないわけではないし、遠藤周作氏の著作のような、理解しやすい信仰のあり方もある。そう思って教会もいろいろいってはみたし、聖書読解も自分なりにトライしてみましたが、でも、その「信じる気持ち」というか、その思考様式はやっぱりよくわからないところが多いです。

 そしてそのわからないこと、彼女にとても面と向かっていえない疑問をここでぶつけていた、というのが実情です。未信者なら当然いだく疑問だと自負してはいたのですが、不快な点が多々あったのであれば、素直にお詫び申し上げます。
 それも「信仰心」に対する無知ゆえのものです。

 最近は彼女も私にクリスチャンになってもらいたい、みたいなことは言わなくなりましたし、私もなんとなく、信仰を持つ人間に対する付き合い方の要領みたいなものを呑みこんできたところがありまして、うまくいっております。
 やはり、宗教と政治の話は慎重に行うべきですね・・・。当分、発言、投稿は自粛することにいたします。

173nao:2007/06/16(土) 10:09:18
反省無用じゃないですか。
投稿を控えられるとおききして、さびしい思いをしております。「不快な点が多々あつたのでは」なんて、誰もおもつていませんよ。きつと。大羊さんの問題は信者自身の問題なんです。みな「言葉」がたりないんです。竹下先生、流れ着いた梅さんには本当に敬意を表します。あんとに庵さんにも。これを見ている多くのかたは発言したくても、言葉に窮するのだとおもいます。

先日「仏教とキリスト教の接点」本多正昭著、行路社、を著者からいただきました。本多先生は師にして畏友。先生は高校の先生をやめて、九大の哲学科に入学、求道生活の末ゆきついたのが、カトリツクでした。すべてをすてて、ドミニコ会にはいり、マニラで神学研究。西洋神学に凄い違和感を感じ、心身症に。ドミニコ会をやめて、帰国。大学の先生になり、仏哲中山延二博士に出会い、仏教の「即」の論理に目覚め、以後キリスト教改心の言葉の表現は「即」をもつてしかできないと考え、それをいろんな論文でかいてこられました。
これはむつかしいのですが、神と人間の関係を表現するのに、ピツタリの言葉をもつています。

ながくなりますので、省きまして、最後にいかに改心の言語化がむつかしいか、この本に紹介されていたハンド神父という方(日本で禅を修めアメリカで禅指導されたかたでつい2年ほど前になくなられました)の言葉をおつたえいたしましょう。これが結論になつています。
ハンド神父の声
1、キリスト者にとつて本質的な特徴は、イエスの神体験に参入すること、イエスを通して神に参入することである。

2、しかし、イエスの神体験に関する教会的表現は、ユダヤ、ギリシャ・ローマなどに特有な知的枠組みによつておこなわれてきている。

3、とりわけ教会史最初の五世紀の間に入念に練り上げられたニケア公会議による信仰箇条は、明らかにキリスト体験の西洋的な表現なのであり、これがそのまま東洋に、したがつて日本にも伝道されてきた。

4、しかしそうした中でも、非西欧的・とくに東洋的伝統の枠組みで表現されてきたキリスト体験を、改めて創造的に再表現するという試みは、最近、やつとごく少数のクリスチアンによつて敢行されはじめたばかりである。

5、アジアの司教団が、初めてこの新しい方向付けの必要性を公言したのは、つい1998(平成10年)4月のアジア・シノドスにおいてであつた。
非西欧の伝統に潜む神の声を、神学的に再構築してゆくという重大な課題は、21世期がとりくむべきキリスト教の重大な使命として受け継げられているのである。

以上です。いかに信仰の言語化がむつかしいか、とくに日本でそれがむつかしいか、おわかりいただけるのではないでしょうか。そんなとき、竹下先生が現教皇の枢機卿時代の信仰問答を訳しておられ、大羊さんにとてもいい、とメールくださいました。ハンド神父とはまたちがつて、西欧知性のはつきりした回答ですが、素晴らしい訳文にできあがりつつあります。まもなく紹介していただけるものと、期待しております・

大羊さん、彼女とうまくいつてるようで、なによりです。お二人の愛情こそ、イエス理解の鍵をにぎつているはずです。神こそ、愛なんですから。どうか、いい愛情をはぐくんでいつてくださいますように。信者になるかならないかは生涯にわたつて、お考えになればいいことで、あせる必要はいつさいないとおもいます。いまは大いに楽しんでいただき、またなんでもぶつけてきてくださいますよう、ねがつております。

174Fusako:2007/06/18(月) 21:56:08
竹下さんにおたずね
「猫のコーナー」にお書きになっている、不当感を持つ三つの寓話、それは、わたしがやはり若い頃に納得できなくて、今は深く納得するものです。で、これについての田川さんの説をご紹介いただきましたが、日本人だけでなく、フランス人もやはり似た反応をするのですか?

175Sekko:2007/06/19(火) 19:40:33
そうですね
 大体そうです。というより、フランス人は、日本人なら違った反応をするんじゃないかとむしろ期待するんですが、フランス人も日本人も、同一労働の同一賃金とか、たくさん働いてたくさん稼ぐ、というような近代資本主義の労働観がきっちり刷りこまれているんで、同じです。こういう話では、たいていインド人が、そういう刷り込みとは別の宗教観を維持しているみたいなので、インド人の意見を聞きたいですね。

176Fusako:2007/06/19(火) 21:34:13
連帯のフランスでも
そうなんですか。だとしたら、アメリカ人なんてそういう新約の教訓にもっと反発しそうなものですが、狂信的なプロテスタンティズムはむしろアメリカにあるということが興味深いです。

177Sekko:2007/06/19(火) 23:48:58
ジーザス・キャンプ
 福音派(ここではペンテコスタ教会)の主催する子供の休暇村のドキュメンタリー映画『ジーザス・キャンプ』、日本でも見れますか? それによるとアメリカ人の8千万人が福音派かそのシンパだというのです。地球の人口の3分の1は15歳以下だそうで、彼らを戦士にするのが宗教の使命だというようなことを言ってまして、委員長タイプの女の子が胎児の模型とかを握り締めて涙を流して中絶反対とか叫んでるんです。自分たちの「罪」の改悛に対しても涙また涙です。
 あんまりすごいんで、いじめの問題などに直面してる教師とかが、この福音派の女性牧師ほどの演出力や演技力や使命感があればいじめっ子を完璧に改心させられるだろうにとか思ってしまいました。
 7歳から9歳の間に刷り込んだイデオロギーは一生残ると言ってました。学校教育を受けないですべて家庭教育という子供が少なからずいて、その75%は福音派だそうです。学校で子供にあんたは動物だ、自然の存在だといわれるより、神に創られた神の子だと言ってあげたいというのです。子供にこそ多様性を呈示すべきなんだし、複数の違ったレベルのディスクールも伝達できると思うんですが。「あんなとこに子供を入れる親が悪い」と思います。中絶にしても、私は女性の選択優先派で、しかしB16が中絶反対というのはOKという立場なんで、結構いろんな人と議論になります。

178:2007/06/22(金) 23:44:14
Jesus Camp
Suu-kagetsu mae ni CNN news de, mijikai eizou to tomo ni shoukai sare mashita. Zuibun mae no koto de shikamo hontou ni mijikai eizou datta no desu ga, atama o hageshiku furinagara goukyuu shite ayamaru kodomo o mite, nani ni tsuite shazai shiteirunodarou to omotte shimaimashita.
Mita chyokugo wa shokku deshita ga, yoku kangaereba, ginrui no rekishi ni oite wa ma-atarashi mono dewa nai to omottara, shourai o hikan suru kimochi wa yawaragi mashita. Kodomo no jousou niwa mochron warui to omoimasu.
??Tariban demo nitayou na koto o yatte iru to iu hito mo imasu ga, watkushi kojin wa souritsu toushyo no Iezus-kai(Jesuits) o rensou shite simai mashita.

179Sekko:2007/06/25(月) 01:33:57
お久しぶりです
 そうなんですよね、キャンプの人も、タリバンのコーラン学校では子供たちを、宗教のために命を捧げる戦士に教育できるんだから、キリスト教もできないはずはない、といってるんです。キリスト教でも、有名な小児十字軍ってのがあって、でも、そのほとんどは奴隷商人につかまったりしました。ある種の子供は、純粋に高揚するんで、それ自体はいいんですが、それを利用する大人たちが必ずいることが問題なんですよね。
 日本のような国では福音派といっても、戦闘的なコンテキストがなく、イデオロギーとも結びついていないと思うので、ああいう展開にはならず、ただ、理想に燃えて熱くカタルシスとしての異言語り(ペンテコスタ派の場合)に留まるのではないかと想像するんですが・・
 日本人はあまり人前で羽目をはずさない国民性があるから、ダンスのレッスンでも普通の人は即興とか苦手なんです。人前で大声で叫ぶとうのも苦手だし。でも、そのおとなしさを評価して認めてくれる共同体が崩壊したら、うまくガス抜きの装置がないと、カルトも含めていろいろな危うい「奴隷商人」に取り込まれて行くのかもしれません。
 創立当初のイエズス会もそうですが、今も南米中心に教皇直属の「キリスト軍団」ってのがあるじゃないですか。
こういうの。 http://www.legionduchrist.org/
これって、時代錯誤っていうか、ネーミング自体、怖くないですか? 前から注目してるんですけど・・・こういう人たちが非の打ち所なく控えているからこそ、教皇ってのは、理性80%くらいの冷静な人にやってもらいたいですね。

180:2007/07/06(金) 05:24:45
B16 no Kyourei
Kondo no doyoubi ( 7/7 ) ni Benedict XVI ( B16 ) ga arata ni kyourei (Motu Proprio) o koufu shimasu.
Naiyou wa, tsui 40-nen kurai mae made kyoukai-nai de futsuu ni okonawarete ita, Kyuu Roma-tenrei = <frui Laten-go no missa> o jiyuu ni kyoshiki suru koto ga??dekiru to iumono desu.(*imamade wa kisei ga arimashita.)

Shin-Kyuu no missa no ookina chigai wa, Laten-go toiu kotoba no chigai??igai ni, genzai wa : Missa=Bansan (shokuji o tomo ni suru) to iu gainen ni taishite, mukashi wa : Missa=Hansai (ikenie o sasageru) to iu gainen no moto de kyoshiki sarete imshita. Mottomo, seizen no Jean Guitton ni yoreba, ima mo missa nimo "hansai" no gainen wa nokkotte iru keredo "mokisatsu saretei iru" noda soudesu.

Jitsu wa watakushi wa kono "ikenie" toiu kangae-kata ga suki desu. Ima no jibun-tachi no shiawase wa dawrka no doryoku ya kurou no ueni aru toiu "gisei ni taisuru kanshya" ni tsuujiru youni omoimasu. Mata, KyuYakuSeishyo no shikou nimo tsunagaru you nimo omoimasu.

Mukashi no missa-tenreisho konna inori ga arimasu :
....Daignez, Seigneur, jeter un regard de complaisance et de bonte sur ces dons, et agreer ce Sacrifice saint, cette Hostie sans tache, comme il vous a plu d'ageer les presents d'Abel, le juste, vorte serviteur, anisi que le sacrice d'Abraham, notre Patriarche, et celui que vous a offert votre grand pretre Melchisedech...??(...Korera no sasage-mono o odayaka na on-manazashi o motte kaerimite kudasai.??Shimobe de aru gi-jin Aberu no sonae-mono, warera no taiso Aburahamu no ikunie, dai-saishi Merukisedeku ga kenjou shita kumotsu o ukeire tamouta youni...)

Mochiron, furui mono wa subete sugurete iru mitia na kyokuron niwa hantai desu.

Tokoro de, kinou, Fransu shikyou-dan no osa de aru Bordeax no Richard suukikyou ga shikyou tachi o Pari ni atsumete, kono atarashii kyourei??no atsukai ni tsuite hanashi-ai o motta sou desu. Shousai ni tsuite wa mada kiite imasen ga, douyara atarashii kyourei wa amari karera ni kangei sarete inai you desu.

Dochraka ippou ga, mou katahou ni totte kawaru to iu nodewa maku, shin-kyuu souhou ga o-tagai kara manabi, katorikku no tenrei ga yori yutaka ni nareba yoi to omotte imasu.

181Sekko:2007/07/06(金) 08:26:42
生贄のこと
 フランスのカトリック界は、先ごろ、過去に破門されてスイスで活動していたラテン語司式のモンセニョール・ルフェーブル系の司祭らをヴァティカンが受け入れた事実についてすでにすごく困惑していました。第二ヴァティカン公会議の精神を死守しようとする人が多いフランスのカトにとっては大問題なわけです。ミサにおける「犠牲」のシンボリズムもすごく大きな問題ですね。
 昨日、サン=ドニのバジリカ聖堂で、80歳になるクルト・マズール式のブリテンの戦争レクイエムを聴きに行きました。1994年に同じ場所でロストロポヴィッチがこの曲を指揮した記念だそうです。
 二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパ人の平和への決意のような英語の詩(Wilfred Owen)が、ラテン語レクイエムと交互に現れます。その中で、アブラハムが神に言われて息子のイサクを犠牲に捧げるシーンがあります。本来なら、アブラハムが刃を振りかざしたところで、神が止めて、その代わりに一匹の羊が見つかるという話です。ところが、Owenの詩はこうです。

Offer the ram of pride instead of him.
But the old man would not so, but slew his son,
And half the seed of Europe, one by one...
Half the seed of Europe, one by one...

つまり、せっかく神が、イサクの身代わりの羊を用意したのに(そんなくらいなら、最初からアブラハムの信仰を試すなど無体なことをするなという突っ込みはなしです)、アブラハムは、イサクを殺し、それから、ヨーロッパの子供を一人ずつ、半減するまで殺していった。それが、ヨーロッパの人口が激減した二度の大戦のことです。人は、神の名において自分の子達を犠牲にし続けたという怖ろしい詩になっています。ここの部分は血が凍るみたいに歌われ、その次のSanctusの冒頭で、ソプラノがSanctus,Sanctus,Sanctusと3度絶叫するのが臓腑に打ち付けられる気分になりました。
 宗教であれ、戦争であれ、人が人を屠るシーンでは、聖への侵害があり、神なしに実存を支えられなくなる瞬間があるのかもしれません。

182:2007/07/06(金) 23:54:02
Fraternite St.PieX
Maido no koto nagara, yominikui roma-ji no choubun o yonde kudasatte arigatou gozaimasu.

Watakushi ga omouni, Fraternite St.Pie X ( Mons.Lefebvre no sousets shita shisai no kai )??no mondai-ten wa furui Laten-go tenrei to iu yorimo,??"katolikku-kyoukai dake ga yuitsu tadashiku,??zettai ni machigaeru kotoga nai!"??to iu rinen no moto de, hansei toka jiko-hihan o shinai koto dato omotte imasu.

Sonna karera no tokoro ni??"Nazisu no dai-gyaksatu nante decch-age da!"??nante shuchou suru hito ga kekkou atsmatte iru noga kowai desu.

183Sekko:2007/07/07(土) 01:00:45
その通りですね
 実は、最近、改めてヴァティカン2の憲章と、Ratzinger時代のB16の『Dominus Iesus』を読み比べて、Vatican2は、ある意味当然ですが、結局『Dominus Iesus』に直結してるんだなあ、とも思ったところです。でも、実際は、宗教観対話のためにB16は最近、多元派のフランス人を任命しました。この質問箱で一月ほど前に書きましたが、多元派というのは救済における宗教的多元性を認めるということで、基本的にB16 に批判されています。
 コピペしますと、

「多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16−12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。」

ということで、少なくともB16が多元派を採用したということは、プラグマティズムというか、開かれた態度が感じられてほっとします。
 大体において、今のカトリックは、メンタリティにおいて結構はっとするほどモダンなんですが、システムが旧弊なんでそれが見えないんですよね。それに比べると福音派とかは、内容はアナクロでも、経営の仕方がマーケッティングとかメディア利用などにおいてすごく今風なんですね。

 しかし歴史修正主義の誘惑ってのは、興味深いですね。何か普遍的な病理につながってる気がします。

184:2007/07/07(土) 21:22:19
Summorum Pontificium
Tsui ni B16 no atarashi kyourei "Summorum Pontificium" ga demashita.

http://www.vatican.va/latest/laterst_fr.htm

O-jikan no arutoki ni go-kansou o ukagaetara ureshii desu.

185Sekko:2007/07/09(月) 02:12:41
読みました。
 司教への手紙、読みました。ラテン語司式許可についての二つの懸念に答えていますね。一つは、第二ヴァチカンの精神と逆行するのでは、典礼の改新を否定するのではという懸念。これには、第2ヴァチカンがその前の典礼の無効を宣言していないこと、ある意味、ラテン語司式はまだ生きていること、二つは標準典礼と特別の典礼(日本語が良く分からないので適当です)としてすみ分けうる、との見解ですね。古い司式に愛着を持つ人も少なくなく、若い世代でもラテン語ミサにこそ神秘を感じると言う人がいることも。そして、新しい司式が、自由に変形され展開されてもよいという誤解によって、その精神が逸脱しているケースを批判されています。新しいものを自己裁量で使うよりは、伝統に磨かれたラテン語司式の方がよい、というニュアンスです。改革派だったラツィンガーが、相対主義に絶望して保守に戻ったという経緯を反映しています。また、1988年にJP2がルフェーヴル派に最後まで歩み寄った分裂回避の姿勢に触れ、これまで、各司教がケースバイケースで判断することに頭を悩ましてきた苦労を軽減するとも。
 第二の懸念は、この許可により、カトリック界がラテン語派と新司式派に2分され混乱するのではないかというもので、これには、ラテン語司式を執り行うにはラテン語はもちろん、最低限の学習が必要なので、誰にでもできるわけではなく、新司式が主流として残るだろう、と言っています。キリスト教は、これまで意見を異にするものを切り離していくことで分裂していったが、今は意見の違うものと共存、統合を図りたい、それによって互いにインスパイアして、豊かになればいい、という感じです。すべての司教は3年後に実際どういう状況になったかを報告して、問題が起きていたら解決策を講じたいということです。
 新旧の両司式には、矛盾はない、典礼の歴史は常に広がりと進歩の歴史で断絶の歴史はない、前の世代にとって聖なるものであったものは我々にとっても偉大で聖なるものであり続ける。突然禁止されたり害のあるものだと言うことにはhなり得ない、ともあります。確かに、科学や思想のパラダイムが変わったりするのと違って、聖なるものや美なるものを通して、超越の世界と関わる典礼では、古いものが無効になるということはあり得ないでしょう。
 実際、ラテン語ミサのために無数の美しい曲が生まれて宗教を超えた文化財産になっているように、文化資本としてのラテン語ミサは生きています。先日書いたブリテンの戦争レクイエムでも、英語の詩とラテン語の典礼部分が絶妙に配合されていて、互いに互いの強さや深さを補強していました。「新しいものが古いものを駆逐していく」ような市場原理みたいなものとはかけ離れています。
 問題は、Massimoさんのおっしゃるように、ラテン語派がしばしば独善的原理主義と重なることですね。彼らが新司式を完全に排除する排除するのはその価値と聖性を認めないということで、よろしくない、とB16も釘を刺しています。 でも、この手紙でB16は、司教に「寛容」と「Charite(愛徳、憐れみ)」と「慎重さ」とを期待しています。それにすごく好感が持てました。誰もがこの3つを肝に銘じていれば原理主義の罠にもとらわれないんでしょう。長くなるので一応これで。

186:2007/07/09(月) 04:21:33
B16 no yasashisa
Takeshita-san, arigatou gozaimasu.

Jitsu wa, "Dentou Fukken" o takaraka ni utai agete shimatte irunodewa nai ka to, naishin shinpai deshita. Honbun o yonde hotto shite imasu.

dai2Vatican no ketsugi ni tomonau kaikaku ni tazusawatta shikyou-tachi e no kei-i ga kanjirare masu. Watakushi jishin mo, karera no kufuu ya doryoku niwa kanpuku shimasu.

Shikashi sono ippou de, kaikaku o gouin ni okonatta tame ni kyoukai kara shmedasreru hame ni natta hito-tachi ga imasu.
Nagaku shikou-seikatsu o tsuzukeireba, sono shikou ya dentou ga jinkaku to missetsu ni musubitsuku baai ga arimasu. shikashi kyoukai-gawa wa sore ni kizukazu, dentou-teki shinkou o motsu hito no jinkaku o hitei suruyou na koto o shite shimatta youdesu.
Furui tenrei no fukkou-undou ni kakawaru hito ni, tsuyoi Ressentiment o motsu hito ga ooi nomo sono tame dato omoimasu.

Konkai no "Summorum Pontificium" niwa souiu shiitgerareta hitobito ni taisuru itawari mo kanjiraremashita.

B16 no yobikake, "Kokoro o hiroku" (IIcor. 6:13) ni kongo kyoukai ga dou kotaeruka chuumoku shiteimasu.

187Sekko:2007/07/09(月) 05:49:55
改革とは
 企業の改革やら社会の改革や修道会の改革などと違って、典礼の改革というものが真に内容を持つのには実は100年くらいかかるんではないかと思います。ラテン語の典礼は千年もかけて少しずつスピリチュアリティを獲得してきたわけで、そこにはいろんな人の思いがつまっています。審美的な肉付けも、神秘の喚起力も、歴史の刻みも、恐れや陶酔や歓喜や慟哭も。新しい司式を整えて訳したところで、実は古い典礼と簡単に置き換えられたり拮抗するわけではないでしょう。今日の改革が明日実を結ぶというのは、精神の営みや霊的な営みには不可能な気がします。また、聖なるものへのセンシビリティというのは典礼だけではなくいろんな形で養われていくものなのでしょう。私もB16の優しさを感じます。

188迷える大羊:2007/07/12(木) 23:37:52
またお邪魔します
 迷える大羊です。信仰に関して、こちらとしては素朴に疑問に思うこと、反発を感じることを素直に書いたつもりでいても、人によっては心の勘所に触れてしまうことをリアルでもネットでも身にしみて知ったこともあり、宗教問題に関してはしばらく発言を自粛しておりました。しかし、宗教、キリスト教、信仰に関し、またまたいろいろ、知りたいこと、いわずにおれないこともあって、あえて禁を解き、発言します。naoさんにも御心配をかけたまんまですし。(著作の紹介ありがとうございます、遅れましたけど)。

 こちらで、しばらく見ない間に福音派の話題がでておりましたが、この件に関して、私は今まさにリアルタイムで関わっております(彼女が福音派クリスチャン)ので、聞きたいこと、いいたいこと山盛りです。
 なぜ、この福音派の話を蒸し返すか、といえば、いよいよ結婚を控えて、やっぱり、というか、なんというか、彼女の母教会の牧師ともども、私にクリスチャンになってもらいたいという話がはっきりと出ました。

 別にキリスト教全体やイエスに対する悪印象はないんですけど、やっぱりクリスチャンのメンタルな部分は今ひとつよくわからない上、福音派(ペンテコステ系ではないんですが)の人たちの信仰は、私にとってあまりに強烈、という言い方が失礼なら、純粋すぎ、真面目すぎで、私の宗教感覚とはとても合わないんで困りました。

 もちろん、だからといって、このままでいても彼女の信仰とは付き合わざる得ないし、いつかはクリスチャン、というプレッシャーはこの先ずーっとかけられ続けるだろう、考えた末、こんな妥協案を。「わかった、まだ信仰のことはよくわかんないけど、神についての探求は続けるよ。その代わり、教会、教派は俺の考え方に合うところ、近いところにさせてもらうよ」といい、彼女もそれで納得しました。とりあえず、同じ神の下にいてくれればいいようです。

 で、キリスト教や信仰心について大してわかっていない上でいうのもなんですが、今まで、キリスト教会を巡り、神父、牧師などの聖職者の方々に話しを伺った中で、一番考え方に違和感が薄かったのがカトリックでした。理由としては他宗教や異教文化に対する対応が排他的でなく、私の苦手なファンダメンタルな思考様式を方々があまり見当たらないんで、落ち着くんです。あと多神教的な要素があることも、プロテスタント福音派からは批判材料になるんでしょうが、私の宗教感覚からすると、ホッとさせられる要素だったりします。とにかく、あちらは「本物の神とは〜」みたいな話が多くて、そういう考え方は私にとって押し付けがましく思えて窮屈きわまりない。

 彼女は一応、「カトリックでもいいよ」とはいいますし、表立っては批判しませんが、カトリックにはやや冷淡です。彼女の母教会の牧師さんは、遠藤周作などカトリック系作家の作品は「立場が違う」ということでこれまた読みません(理由はなんとなく分かる気がしますが・・)。

 で、何が最終的に言いたいのか、といえば、彼女や彼女の母教会の牧師さんは、夫婦は信仰が同じ、というか同じ神の下にあるべき、という考えなんですが、私的には、同じ神を信じたからといって、感覚や価値観の相違までがぴったり同じになるとは思えないけどなぁ、うまく言葉にならないけど、なまじ互いに同じ神を信じている、という思い込みがあるだけ却って、その感覚、考えの違いが鼻についてしまう、最初からこの人は違う種類の人間と思えば気にならないことが、イラつくなんてことの方がありがちな話のような気がするけどなぁ、とも思ったりします。

 皆さんはどうお考えになるでしょうか?やはり、カトリックと福音系の組み合わせはマズイかなぁ?彼女の方でカトリックじゃなくてもいいから、せめてもう少しリベラルな教派に変わってくれないかなぁ・・、と悶々と考える今日この頃です。

189迷える大羊:2007/07/13(金) 00:58:51
進化論
 またまた失礼します。こちらでしばしば話題になる福音派と今まさにリアルタイムで関わっている迷える大羊です。彼らと関わって思うのは進化論を排斥したがる人がやたらと多いこと。私は結婚式の司式の条件として、福音系(その頃はキリスト教のセクト、教派の関係がよくわからなかった)教会の学び会に行ったことがあるんですが、いきなり「進化論は唯物論、無神論、クリスチャンになるということは神を取らねばならない、したがって進化論は捨てなければ・・・」なんて話をされました。

 また、僕の彼女(福音系教会員)の母教会の礼拝にカナダで宣教活動をしている女性伝道士の方が講演してましたが、内容は子供たちは人間の先祖はサルで、自然にできたものなんて進化論にいつの間にか洗脳されている、それは人間の尊厳を傷つける、創造論も同じように教えなくては、学校でも教えるべき、そんなような内容で、彼女は子供たちに創造論を教える活動、運動をしているそうです。

 また、彼女のクリスチャン仲間(50代くらい)の人とお話する機会があったんですが、彼も曰く「進化論は人に生きる目的を見失わせる、時代がくだるほど生物が良いものになっていくなんて信じられない(進化論はそういう話ではないと思うんですが・・)」そうです。
 彼も、そして彼女も「進化論と同様に創造論も学校で教えるべき」なんだそうです。
アメリカでそういうことを主張する人が現在勢い盛んであることは以前から知識として知ってはいました。でも、この日本で、しかも自分の身近な存在として関わりあうこととなるとは夢にも思いませんでした。

 私としては、これってどこか話しのスジが根本的に違うような気がするんですよね。私は生物学者でもなんでもないですけど、一つはっきりいえるのはあれは科学理論ですよね。別に神の有無やら人としての生き方を論じたものでも何でもない。聖書の創世記とは話の成り立ちがまるで違う話。

 本屋さんの宗教コーナーに行くと、聖書の上げ足取りの本をしばしば目にします。ネットでも、「聖書はここがおかしい、こんなことはあり得ない」なんてことを指摘したサイトがよくあります。まあ、冗談とか話のタネとしては面白いですし、私も大好きです。

 でも、それを元に、つまり現代の科学や常識の基準で聖書を断罪し、「だから、キリスト教はダメなんだ、こんな間違いだらけの本の内容は見直し、キリスト教はその価値観を考え直さなければ・・」なんて大真面目に主張する科学者がいたら、クリスチャンの方々は冒涜とかなんとか言う以前に「アホか」と思うだけでしょう。聖書は別に科学や歴史の教科書として使用されることを目的に書かれた本ではないですものね。

 進化論ぎらいの福音系クリスチャンの方はどうもこの逆パターン、つまり、信仰の基準を全く別次元の話である科学に持ち込んで、ああでもないこうでもない、なんていっているのが筋違い、というのが私の意見なんですよね。この種の人々の中には、進化論や生物学に詳しい人も中にはいて、進化論の問題点をあれこれ指摘し、生き物が神によって作られた「科学的」証拠をあれこれ並べ立てる人もいるんですが、結局のところ、その根拠は聖書にたどりつくし、進化論の問題点が分かる以外にこれといった説得力がなく、どう考えても護教的な立場で語っているだけとしか思えない。
 大体、神の存在が科学的に証明できるんだったら、宗教なんか要らないんじゃ?信仰を深めるためには聖書なんかより、ひたすら生物学、物理学を勉強しよう、という話になるんじゃないのか?ってツッコミを入れたくなってしまうのです。

 学校で教えろ、というと当人たちは大真面目でも、私にはさらにバカバカしい、というか信教、思想の自由上、大いに問題あり、としかいいようがない。彼らは進化論は仮説に過ぎない、そんなら創造論、創造科学も、といいますが、科学の世界に科学じゃないものを持ち込むのは変。思想や哲学の時間に教えるなら全然問題ないと思いますけどね。

 また、創造論はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教みたいに造物主信仰がある宗教の信者にとっては耳に心地いい話ですけど、世の中には、例えば仏教みたいに造物主の考えがない宗教だってあるわけで、そういう宗教の信徒の立場は一体どうなる?彼らからすれば、どこの神様、とは明言されていなくても、明らかにこれは特定の一神教の押し付けと映るんじゃないかなぁと思います。
 つまり、学校の「理科」の時間に創造論を教えろ、と主張する人々って、他宗教、未信者の人々の立場、気持ちに全然鈍感すぎる、と思ってしまうんですね。

 信仰にまつわるデリケートな話は彼女とはなるべくしないようにしてるんですが、これはさすがにあまりにおかしい、と思うんで、彼女に僕の意見を表明したところ、黙ってました。
 それにしても、この類の話(はっきりいってファンダメンタル)はカトリックではほとんど聞かず、プロテスタントの方に多いんでしょうね?この辺りの事情はとても興味深いです。

190Sekko:2007/07/13(金) 02:33:48
そうですね
 遠慮なく来てください。なかなか大変ですね。福音派の原理的創造論って、さすがに日本では強調されてないのかなと想像してたんですが、アメリカなんかとあまり変わらないんですね。キリスト教的文化のベースのある国ならまあそれなりに・・と理解できないではないんですが、日本のような国に生まれて育って、「神のために進化論を捨てなきゃいけない」なんて集団で思えるという自体、私には驚きです。まあ、それが宗教なんで内輪ではそれはそれでいいとして、もしほんとに子供の教育とかに押し付けられたら、嫌ですよね。まあ、アメリカの場合はイデオロギーと結びついて、お金もすごく動いて、ロビー活動とかすごいですが、日本の場合がそうは展開しないのではと思うのですごく危機感はないんですが。
 前に書いたかもしれませんが、全体として、今のカトリックと福音派系を比べますと、カトリックは、内容はすごく近代化しているのにフォームや方法論が古い、福音派は、内容はアナクロニックなんですが、伝道の仕方にメディアを用いたりマーケッティングの手法を取り入れたり、と、戦略がとても新しいのです。カトは、いわゆる古い革袋に新しい酒,福音派は、あたらしい革袋に古い酒、という感じです。そこのところを分かってないと、カトは旧教、古臭い、福音派は新しい、みたいな錯覚を起こすこともあります。

 それで、学問的や宗教的言説じゃなく、善し悪しの判断でももちろんなく、もし、私が大羊さんだったらどうするかということをお答えしますと、私だったら、彼女がそう言ってくれてるんだから、プロテスタントのルーツであるカトリックかルター派か公教会か、穏健な老舗をチェックして、地域の直接の司祭とか牧師に事情を話し、最も人柄に共感を持てて、相談に乗ってくれそうな人がいる共同体に決めます。教義がどうのこうの言っても、結局、直接接する人の人格が大きいですから。最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという思いが届かないのでは悲しいので。それに、彼女がこだわる以上、将来子供ができたり、あるいは人生で試練にあったりした時にも、広い意味でのキリスト者の共同体にいるからね、という安心感を与え、決意を見せたいと思います。その上で、私なら、少しずつ、彼女を原理主義的メンタリティから遠ざける努力をします。彼女の家族全員がそうだとかいうなら至難の業かもしれませんが、少なくとも、遠ざける姿勢を忍耐強く見せて、しかも私が彼女に納得して認めてもらえるほど福音的な誠実なキリスト者であるところを見せていけば、彼女が深みにはまったり(子供の教育のこととかで)するのを避けることができるかもしれませんし、互いに尊重しあうことが本当にキリスト教の精神なのだと分かり合えるかもしれません。


 日本では報道されてないかもしれませんが、5月3日に、ポルトガルの南のヴァカンス地で、イギリス人の医師夫婦の4歳の娘が誘拐されたまま消息を絶つという事件が起きました。二人はアイルランド系でカトリック(といっても教会に通っていなかった)なので、地元のポルトガルの教会が二人を支えるミサに招き、それが非常な支えになったそうです。司祭は夫婦が夜でも好きな時に祈るようにといって教会の鍵を渡してくれたそうです。ある夜、父親は啓示を受け、この事件をメディアに載せようと決心しました。イギリスのサッカーチームとかもみな協力するようになりました。夫婦はポルトガルの聖地ファティマに巡礼に行き、ローマにも巡礼に行きました。アイルランド系の枢機卿の口利きで教皇にすぐ面会できました。教皇は、子供を奪われた同じ状況にあるすべての親に会う用意があると言いました。そのことですごく有名になり、両親に自家用ジェット機を提供する富豪も現れました。小児性愛のために子供を誘拐する組織が裏にあるとも言われています。
 二人は、この苦しい時期、信仰にどんなに助けられ勇気づけられたかを語っています。
 それで、あるカトリックのジャーナリストが、この二人に、「もし、お子さんが結局無事に戻ってこなかったら、あなた方の信仰はどうなりますか?」と尋ねました。
 父親は「すごく揺さぶられると思う、しかし私たちを支えてくれた人々を感謝する気持ちは変わらないのだから、彼らと同じ共同体に残ることになると思う」と答えました。
 母親の答えはこうです。「それはすごくショックなことです。でも、娘が帰ってこないから神を信じなくなり信仰を失うというのなら、そもそも、娘がいなくなった時点でもう神を信じなくなってもいいはずでした。でもその反対で、私は娘がいなくなったときに神を見い出して力と希望を得たのですから、神をもう見失うことはないと思います」

 いろいろ考えさせられます。貧しい国から来たある不法移民で貧しい人がいつもひたすら教会で祈ってるので、「願いが一向に聞き届けられてないことにいつ気づくんだろう」と心配してたことがあるんですが、あるシスターから、「ああいう人たちはね、豊かになったら、神さまを失うもんなんですよ」と言われて、そんなものかと思ったことがあります。
 でも、これから結婚する人にこういうのもなんですが、人生なんて、いろいろ大変なのが基本で、完璧な幸福は夜の嵐の中の稲妻みたいなもの、ある日、夫婦で大きな試練に会わないとも限らないし、そんな時、「そうだ、二人とも同じ神さまがいるんだっけ」と思えることが何かの救いにならないとも限らないです。人間がサルから分化しようが、神に土から造られようが、幸せな時はあまり関係ないので、人がつらい時に互いに結びつけてくれ支えてくれるものがあれば心強いかもしれません。彼女がすでに信仰を持っているということは彼女には今もそれが必要だということなのでしょうから、彼女を愛する大羊さんの人生にも、きっと意味のあるものになっていくのかもしれません。今どこかの共同体を選択したからといって、それは終わりではなく、始まりなので、仕事や家庭とのバランスヤ良好感を模索しながら、一生かけて「真実」みたいなものに向かって船を漕ぎ出せばいいと思います。海は広いので、二人の航跡が違っても、星の位置を手がかりにして同じ方向に向かうことはきっとできると思います。最初から同じ船に乗って安心感から漂流するする人だってたくさんあるのですから。

と、宗教というより人生相談の答えでした。

191nao:2007/07/13(金) 17:18:27
おかえりなさい。
大羊さん、よくこのサイトにかえつてきてくださいましたね。うれしいです。Sekko先生のこの度のご提案はとてもいいですね。私はカトで夫は、なにも宗教について考えないいわゆる仏教徒でしたから、生涯信仰面での話しあいはありませんでした。もし、私が男でしたら、こんな遠慮はしなかつたことでしょう。やはり苦しいとき、同じイエスが側にいてくれるのはすばらしいことです。でも夫婦愛は充分育ちましたよ。信仰だけが夫婦を生かして
いるわけではなく、二人の愛情が結婚生活をはぐくんでゆくんですからね。もつとも信仰と二人の愛情は別ののでありながら、一つという側面もありますが。私の提案は結婚までに何かに籍をおくのがむりなら、結婚後、自由に選ばれたら、いかがかとおもいます。そうすると、彼女が強く福音派を押すかな?その可能性がおおいなら、せつこ先生のいわれるような選択のほうが、身をまもるのによさそうですね。この間アメリカのメガ・チャーチをTVでみて、信仰もビジネスになつたんだなあ・・気持ち悪かつたです。「古い皮袋に新しい酒」なら皮袋がかわつてゆく可能性のほうが反対の場合よりよさそうですね。

192迷える大羊:2007/07/14(土) 11:31:58
弱りました
 SEKKOさん、naoさん

 いつもレスありがとうございます。こういう宗教問題って誰にも相談する相手がいないんですよね。キリスト教の事情を知っている友人、知人なんていやしないし、親はキリスト教に関しては好イメージを持ってはいますが、なんとなくいいんじゃない、って程度でキリスト教にもいろいろあるなんてことはてんで理解していません。牧師と神父の区別もつかないくらいですから、とても相談の対象には・・・。

>最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという

 確かに私もそう思いもしますし、SEKKOさんの御提案は現実的と思いますし、実際に実行に移してみるつもりではあります。カトリック、ルーテルなどの「大手老舗」なら確かにあまり素っ頓狂なことは言い出さないし、まあ、安心でしょうし、一応は同じキリスト教なわけで、なんとか理解と安堵を得られたらいいな、とも思うし。

 ただ、私の方でそれ以前にキリスト教的メンタリティが本当に自分のものになるのか、わかっているのかどうかは疑問ですし(知識はいろいろ増えましたが)、こんな理由、つまり、本当に自分自身が神の必要を感じて、というのではなく、とりあえず配偶者を安心させたい、納得させたいみたいな理由で出入りしていいんだろうか?とも思います。

 前述したように、キリスト教の歴史だとか、教義などの知識は増えましたけど、それが一体、自分の心の問題、人生の問題にどう関わってくるのか、イマイチ実感としてわからなかったりします。こちらで散々書き散らしたように、100%神、100%人ってどういうことよ?とか、賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらないし、「おまえ、罪人」というのも趣旨は理解できるんですが、あまりに罪罪いわれると、イライラしてきたりで躓きだらけですし。

 つまり、今のところ、私にとってキリスト教は勉強や教養の対象としては面白いんですが、自分自身の心の癒しになっているか?というと、今のところ?で、むしろ、彼女のことなどを含め、悩みの対象となっているのが正直な実感でして・・。こんな心境で来られても、牧師さん、神父さんはむしろ迷惑なんじゃないかなぁ、とも思ったりします。本当にこまったなぁ、どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?とすら思ってしまいます。本当に弱りました。

193nao:2007/07/14(土) 16:22:10
今は静観ですね。
いやあ〜わが子にそういわれると、どうしようかなあ〜。と考えてしまいましたよ。今は宗教を外から眺めていたほうがいいんじゃないですか?配偶者は配偶者。自分は自分と割りきつて。夫婦生活つて、それでもうまくゆきますよ。いくら配偶者といつても人の内面にはカツテに入れませんからね。夫と連れそつて、半世紀。でも宗教は別。それでもうまくゆきました。相手がそれを受け入れないときはそもそも、結婚そのものが無理ですから。お二人が愛しあつておられるんなら、「僕は今は宗教に入れない」と宣言して大丈夫でしょう。あまりやさしく、相手を思いやるのも、あとで、後悔することになるんで、はつきりいえば、あつさり「そうね」と応じてくださるんじゃないでしょうか?むつかしいかな〜。

194Sekko:2007/07/14(土) 17:11:19
それなら・・・
 発想を変えてみましょう。ここまでは、大体において「キリスト教理解」という観点からお答えしてきましたが、純然たる人生相談として答えてみます。

>どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?

とおっしゃいますが、問題が「宗教」だと思うから袋小路に入っているので、本当の問題は、アディクションなんだと思います。多くの人は軽重は別としてアディクションを抱えていると思います。煙草や酒がやめられなかったり、買い物依存とか、マザコンやファザコンとか、オンラインゲーム依存とか・・・
 たとえば、般若心経を50回唱えるのが就眠儀式になっていて、一度でもそれができないと不安不眠になる、普段の生活に支障はないが、結婚する相手には知っていて欲しい、できたら一緒に唱えて欲しい、と打ち明けられたらどうします? 般若心経のことはよく分からないけど、「悪いもの」ではないはずだから、やめろというわけにはいかない、自分もその内容を勉強してみよう・・・なかなか難しいし奥深そうで、とても理解したとは思えない、意味も分からないで毎日いっしょにこんなものを唱えるなんて意味がないんじゃないか・・・とか、いろいろ思い悩み・・・なんで、こんなお経なんて厄介なものがあるんだろう・・となるでしょう。
 つまり、問題はキリスト教や般若心経にあるのではなく、アディクションにあるのです。何かに夢中になるのは悪いことではありません。しかしそれが途絶えると心身のバランスに異常をきたすほどの状態であれば、またすでに日常生活に支障をきたしている状態であれば、依存症や強迫神経症となります。
 誰かを好きになったら、その人が慢性病を抱えていると知っても、依存症や強迫があると知っても、心は変わらないでしょう。ある若年糖尿病で一生インスリン注射が必要な女性は、男の人と付き合う前には必ずそれを打ち明けてその反応によって、相手の人間性を確かめていました。それを受け入れてくれる人でも、過剰反応されて、何か食べるたびに、「これ食べていいの?これは?」と聞いてくる人はすごくいやで続かなかったそうです。彼女が結局伴侶に選んだのは、そのまま受け入れてくれて、しかし、その後、彼女の方からそのを話題にしない限り、一度も自分からその病気のことを口にしない人だそうです。
 これは、もちろんアディクションではなくて、日常生活の一部が、カップルでまったく同じようにできなくて、一方がある種のハンディを背負っているというケースです。
 カップルの片方に病気や障害があり、それでも、いや、それゆえにより強くいたわりあったり愛し合ったりしているケースはいくらでもあります。
 宗教でも、たとえば、相手を勧誘せず、週一回の勉強会と礼拝だけは欠かせないからOKしてちょうだいね、といって、何十年もうまくいく場合もあります。でも、それにはおのずと家庭の優先順位を決めておくことが必要になります。片方が具合が悪くて今日は家にいてほしいとか、海外転勤についてきてほしいとか、子供が病気だとか、子供の学校の会合があるとか・・・何があっても宗教の集会を優先するとしたらそれは依存症であり、その宗教がそれを利用して、あるいはそれをほめているとしたらもっと大変です。本当の宗教とは、人を分断するものでなく、結びつけるものであるはずから、宗教内の身内優先で外的宗教行為が一番大事とは言わないはずです。
 私にはもちろん詳しいことは分かりませんが、これまでのお話からすると、彼女はアディクション状態かそれに近いところにあり、しかも、福音派の性質から言って、ひっそりと内面的に信仰するというより説教的な布教を求められていると思うので( 昨日も言いましたように、消費者のマインド・コントロールを含めた企業の販売戦略と同じような部分もあると思います)、アディクションを解くにはかなり困難なレベルにあると思います。それを承知で、自分を守りながら共存していくか、依存度を減らして寛解状態にもっていけるか、あるいは、これが理想ですが、彼女はそういう心の問題の依存を必要としているわけですから、彼女の依存を宗教から少しずつ大羊さんに移していけばいいのです。これもそれはそれで覚悟がいりますよ。神に対抗(?)ですから責任重大です。裏切ることはできません(第一、人間には裏切られるからと言って神を求める人は多いです)。「ぼくの愛の力で何とかなる」と思うのはもっとリスキーです。愛の力で何とかなれば医者もカウンセラーも要りません。そんなわけで、愛する人のアディクションとどう付き合うべきか、これが本当の問題ではないでしょうか?

 後、もう一つ、人生相談でなく信仰の相談だという立場で答えますと、大羊さんが彼女のおかげでキリスト教のことをいろいろ勉強したり、関心を持ったり、このサイトにいらっしゃったということは、何かの導き、仏教風だと「ご縁」だったということかもしれません。大羊さんは神の必要を感じていないとおっしゃいますが、ひょっとして神が大羊さんを必要としているのかもしれません。今はまだその意味が分からないけれど、何か使命を果たしていらっしゃるのかもしれません。少なくとも、私やNaoさんに、大羊さんのお役に立とうという心を引き出してくれました。私やNaoさんにはこのやりとりが糧になっていると思います。ありがとうございました。またいつでも来てください。

195Sekko:2007/07/14(土) 17:17:10
訂正と・・・
下の「説教的な布教をもとめられて・・」は「積極的な布教」の打ち間違いでした。訂正します。
 しかし今ちらと考えたんですが、般若心経なら、すぐには意味がわからない呪文みたいなもので、「賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらない」という弊害はないですね。

196Sekko:2007/07/14(土) 17:30:42
続き
書き終わってないのに勝手に投稿されました・・・続きです。
私の思ったのは、こんな時、一昔前みたいに、ローマ系キリスト教の典礼がみんなラテン語とかだったら、かえって抵抗なく楽だったもしれないなあ、ということです。般若心経を口語訳して唱えろなんて誰も言わないし、言霊がなくなって効果がないような気さえします。カトはその国に根付くようにその国の文化にあわせたやり方をという方針があり、日本でも、ほんとうに日本的なキリスト教とは、みたいな模索もありますけれど、安土桃山とか江戸時代は農民だって「オラショ(祈祷)」をずらずらとラテン語で唱えてて、殉教するくらいに強い自分の信仰にしていたんですからね・・・
今は、ラテン語ミサとかいうと即原理主義とか懐古主義とか思われがちですが、こういう効用もあるなあ、と思いました。私も、日本語のカタカナの世界の賛美歌や祈りの言葉使いは、何か違和感があって、恥ずかしいというより、テーマパークにいるような気がします。テーマパークも隙なんで嫌じゃないですけど・・・とおしゃべりになってしまいました。

197迷える大羊:2007/07/15(日) 03:03:37
よくおわかりで・・
 SEKKOさん、こういう相談に乗りなれているのでしょうか?そうなんです。まさに彼女はキリスト依存症、イエス依存症です。クリスチャンだからどうこう、というのとはまた別の話かもしれません。
 この辺りの事情や相談、愚痴ももっとこぼしてみたいのですが、何しろ、ここは公のBBSなんで、教会関係者を含めたプライバシーをどこまで書けるか、という問題もあって書けないのが残念です。

>配偶者は配偶者。自分は自分と割りきつて。夫婦生活つて、それでもうまくゆきますよ。

 それでなかなか満足してくれないのが、福音系の世界なんですよね〜。彼らにはノンクリスチャンの配偶者を持つことが試練と映るらしく、福音系出版社のI社より「クリスチャンでない**を持つ**へ」なんて本が出版されてます。とにかく、なんとかして配偶者を「導こう」「救おう」とするんですよね。しかし、キリスト教国ならともかく、この日本でクリスチャン同士の結婚にこだわったっておのずと限界があろうかと思うのですが。
 にも関わらず、私はクリスチャンじゃないと結婚しません、なんていう女性が多い、というかそれが多数派ですね、福音系の教会では。私の彼女なんかは、まだ大分マシな方です。

 SEKKOさんも指摘しておりましたが、福音系の教会っておしゃれな若者比率は高いし、ゴスペルで盛り上がったりして、全体的なムードとしては垢抜けたところが多いのに、その信仰内容はなんでまた、こう保守的というかガチガチなのか、そのギャップがすごいです。

>「僕は今は宗教に入れない」と宣言して大丈夫でしょう

 まあ、大丈夫でした。少々苦労はしましたが。前にも書きましたけど、時間はいくらかかってもいい、教派や教会は私の望むところでよい、というところまで妥協しております。
 がんばります。また、御相手下さい。ただ、さっきも申し上げたとおり、ここは公のBBSなんで、プライバシーに深い部分はあまり微にわたり、細にわたりなことが書けない、という限界はありますけどね。ありがとうございます。

198Sekko:2007/07/15(日) 05:00:24
もし困ったら・・
 そうですね、何かのご縁なので、これから先、もしとても困って、だれも相談相手がいないという時は、このサイトの著作紹介の読者の感想コーナーのフォームから、個人メールでお送りになってもけっこうですよ。いっしょに考えましょう。答えが見つかるとは限りませんが、ここにいらっしゃった限り、大羊さんはもうたった一人で悩む必要はないですよ。分け合いましょう。

199vino:2007/07/24(火) 18:23:23
まずはYMCAなんてどうでしょう?
始めまして。福音派や原理主義で検索していましたら、こちらにたどり着きました。とても勉強になります。私はプロ〜の日本基督教団の信徒ですが、夫の転勤に伴い、海外暮らし、今は超教派の教会に通う身、大羊さんの心中、お察しいたします。同じK団の中でもD大とT大、又、その教会でカラーはいろいろです。(一人、一人はとても良い人であっても)正直、F派の考えには面食らう事が多いですが、婚約者さんもキリスト教ならとりあえず・・・な気持ちになってくださっているのでしたら(F派の方としてはとても寛容な方ですね)YMCAはいかがでしょうか?環境や平和、人権を学びつつ、ボーイ・スカウトの活動拠点も兼ねていたりと、間口は広く、敷居は行きも帰りも低く、さまざまな<老舗大手>のクリスチャンと交流できますし・・・。どんなボランティア団体も宗教団体も所詮、人間の手で動く所、完璧な人間はどこにもおりません。私は信仰というものは形が違って、表現の仕方が違うだけで、イスラム教を悪だの、仏教、神道を偶像だのとは思いません。こういうことを言うと、<だから、K団はわかっちゃいない>とつっこまれそうですが・・・。

200nao:2007/07/25(水) 16:24:10
いいですね。
成程!YMCAからというのはいいですね。思い浮かびませんでした。迷つているかたに教えてあげることにしましょう。vinoさま。ありがとうございます。

201迷える大羊:2007/07/25(水) 22:37:54
はじめまして
 VINOさん初めまして。

>同じK団の中でもD大とT大、又、その教会でカラーはいろいろです

 戦時中にプロテスタント各教派を強引に統合した教団だから、そうなっちゃうんでしょうね。ネットで見る限りD大神学部出身の牧師さんってかなりリベラルな方が多いように思いますが・・・。

>正直、F派の考えには面食う

 おお、わかっていただけましたか、私の戸惑いを。何しろ、日本でキリスト教は信徒が1%しかいないマイナーな世界である上、その中でもさらにいろいろあるなんて、一般人にはほとんど知られてないものですから、私の抱える宗教問題を他人に説明するのがちょっと面倒で困っちゃいます。

>婚約者さんもキリスト教ならとりあえず・・・な気持ちになってくださっているのでしたら(F派の方としてはとても寛容な方ですね)

 いや、あまり詳しくは書けないんですが、そこに至るまではいろいろあったんですよ。それに、彼女のところはF派といっても、一部のペンテコステ系の教会のようなキツめなところではないですから。とはいうものの、リベラル系の教会、カトリックには冷淡な傾向があるところは、やっぱりF派です。

>YMCAはいかがでしょうか?

 昔の西城秀樹のヒット曲を思い出します、ってすみません、下らないギャグをいってしまって(笑)。名前は聞いたことありますが、どういう組織なのかは実のところよく知りません。今度、調べてみますね。

 まあ、「大手老舗」の教会にしよう、といっても、ネットではともかく、リアル世界では深く話をする知人、友人の類はおらず、礼拝、ミサに思い出したころに参加し、何人かの牧師、神父さんと話したことがある程度ですからね。もう少し、様々なクリスチャンと交流してみる必要があることは確かだし、そういう機会がYMCAで得られるのであればいいですね。

>仏教、神道を偶像だのとは思いません。

 福音系出版社のI社より刊行されている本に日本の習慣とキリスト教信仰との絡みについて考える本があります(正確な題名は忘れましたが)。そこには、〜は偶像崇拝、他の神々への崇拝だから×、〜は差し支えない、なんてことが事細かに書いてあるんですね。いやぁ、よく調べたなぁ、なるほど、そうなのか、と思う一方で、盆暮れの度に、葬儀の度に、祭りの度にこんなこと気にしながら過ごすのかよ、やってらんないぜ、と思ったものです。

 そういう意見(もちろん表現はもっとマイルドですよ)を彼女の母教会の牧師さんにいってみたところ、「それは、あなたに信仰がないから」と言われました。「そういう問題かなぁ?」とずっと思っていましたが、VINOさんのようなプロテスタント信徒だっていらっしゃるし、教会だってあるんですね。
 やっぱり、私には、どこか一人よがりな感じがして合わないですね、F派は・・。

 また、機会がありましたら、いろいろお教え下さいませ。

202vino:2007/07/26(木) 13:39:33
邪道でしょうか・・・・?
正直に申し上げますと、恥ずかしながらこの地に暮らすまで、F派のことはまったく知らなかったのです。中学・高校とプロ〜の環境で過ごし、英語を習う時もYMCAやYWCAに通い、(授業料が安いのです)求道中もYWで過ごし、<老舗大手>の方々とは出会いがあったのですが・・・。今、思うとF派の方たちは我が道のみを思いっきりイッテルので、判っちゃいない<大手>の人間とは交流する気もないのではないかと・・・。  今の教会は今までどこの団体でも感じたことのない独特のノリでして、この熱さ、真面目さ、純粋さは何!?って感じで違和感を抱きつつ、数年が過ぎました。K団の友人に聞いたところ、F派の名前が出て来まして、PCで自分なりに調べ、D大の小原先生のブログや本も読んでみました。 今の時代、<大手>は信者を増やす事よりも個人の心の中で信仰を深めることに重きを置いているように思えるのです。キリ〜を基盤に平和、人権、環境に取り組み、他の宗教とも連動して会議の場も持っていますしね。 私の知る限りですが、K団の牧師は神式、仏式のご葬儀にも出席していますよ。奥さんだけ信徒・・という方がほとんどを占める日本のこの業界(まぁ、罰当たりな言い方だわ〜)、そのご家族のご葬儀には出席なさっていますよ。 信徒も家にお仏壇、平気で置いてある方、多いです。 子供がいれば、お祭りや盆踊りにも行きたがりますし、そんなときは親はお掃除やお茶のお当番も致しますよ。神様は日本人の事情は判って下さいます。最近、思うのですが、こちらのコーナーに以前、あったように、F派の皆さんはジーザスのフーリガン・・・な感じを受けます。<大手>の人間はイエス様を通しての神・・なわけですよ。  救われる・・とか、それこそ、ボーン・アゲインとか聞くとこの頃では心の中で笑う余裕もできてきました。(あっ、言っちゃった!!)  もう、5年ほど前になるでしょうか、<世界がひとつの村だったら・・・>がブームになりましたよね。私はそれで良い・・・と思いますよ。節子さんのご本の前書きにもフランスの神父さまが、日本人を総クリスチャン化しようだなんて思ってはいない・・・の文章があり、ちょっと嬉しくなった私です。これって、F派の方には信じられないことなんでしょうね。地獄に落ちるのかしら・・・?時々、参りますね、どうぞ、よろしく。

203迷える大羊:2007/07/27(金) 00:09:32
YMCA
 実際に足を伸ばしてはいませんが、ネットでは調べてみました、YMCA。「Young Men’s Chiristian Associasion」の略で「キリスト教青年会」といった感じなんでしょうか。活動内容を見ると、ユースホステルだとかボランティア、語学と多岐に渡り、確かにいろいろと充実していそうですね。YWCAというのもあって、こちらはMen’sがWomen’sになっているわけで、男女別々なんですね、意外とお堅いです(笑)。YMCAの日本支部は四谷に本拠がありますね。

 ところで、私としては、YMCAでどうしても思い出してしまうのは、西城秀樹の往年の大ヒット曲「ヤングマン(YMCA)」なんですけど、原曲はアメリカのディスコミュージックグループ「ヴィレッジ・ピープル」の曲。で、このヴィレッジ・ピープルってグループってルックスを見ると一目瞭然なんですが、まあ、なんていったらいいのか、ゲイのイメージ(私生活でもそうなのかは不明)で売っているグループ。それがまた、なんで「YMCA」なのか?というと全米各地にあるYMCAの宿泊施設には、団体の性質上、また、宿泊費が安いことから若い男(YOUNGMEN)が大勢やってくるわけです。そういう場所をいかにも(ゲイ)、という面々が「最高だ、素晴らしい」なんていっているのが、あの曲なわけで、ほとんど冗談みたいな曲らしいんですね、元の曲は(それでも全米2位の大ヒット)。

 それが日本にやってきて、西城秀樹氏の手にかかると、健全きわまりない青春謳歌ソングになってしまったのだから恐ろしい、というかなんというか。能天気に「わ〜いえむしーえー」なんて振り付け付で歌っていた私って一体?高校野球の行進曲にまでなっちゃったぞ、どうしよう、てな感じです。大ヒットから20数年以上たってやっと気がつきました・・。洋楽ファンの間では常識だったみたいですが。
 ちなみにあの「わ〜いえむしーえー」の人文字パフォーマンスは西城秀樹氏オリジナルだそうで、本家の方に逆輸入され、世界に広まったらしいです。

 くだらない話、すみません。思わず笑ってしまったもので、つい。

204迷える大羊:2007/07/28(土) 02:56:09
今更ながらパワー・フォー・リビング
 今年初め、謎めいたCMをテレビ、雑誌に大々的にうち、その広告主の非公開、秘密主義何かと物議をかもしたデモス財団の「POWER FOR LIVING」。週刊誌では、アメリカの宗教右派とのつながりが取りざたされたり、カルト疑惑も招いた財団、本です。その「POWER FOR LIVING」を彼女(くどいようですが、F系クリスチャン)の集会(といってもジャズコンサート)に付き合いで見た帰りに、配布していたし、彼女が勧めるのでもらってきました。

 さぞかし、F派な内容か?と構えてみましたが、普通のキリスト教エッセイ、入門本でした。文章もわかりやすいものだと思います。まあ、最後はイエス様がいるから安心よ的な内容で・・。
 ただ、巻末の「推薦」図書を見ると、ああ、これはF派の出版物なんだなぁ、と改めて認識させられました。

 というのはそこでの「推薦」される聖書は「新改訳」聖書、「リビングバイブル」。「文法的に正確であり、多くのクリスチャンに読まれてきました」とありますが、「多くの方に読まれてきた」ということならずっと部数の多い「新共同訳」も紹介すればよさそうなものですが、そっくり抜かしてます。別に気にしなければ良いといえばよいのかもしれませんが、これはやはりキリスト教、それも特定の立場から書かれた本で、その辺をぼかして、あんな大々的なCMを打つのはどうだろうな〜、って気がしますね・・。

205vino:2007/07/30(月) 12:28:58
カルピスか糠漬けか!?
前回、少々、悪口に走ってしまったので、今日は反省を含めて、<上手に距離を保ち、皆さんとお付き合いする方法>を私なりに考えてみました。 その成り立ち、戦時中のお上に屈した経緯などから<大手>は学校を多く運営していますよね。授業・単位に宗教の時間が決められていて、朝の礼拝も毎日持たれるところがほとんどだと思います。そんな環境の中ですと、信仰を持つ事に対して抵抗感はなくなると思います。学校ですから、強制的な宣教・・・という感じではなく、歴史や理論も教えますし、それこそ、Y〜っぽい感じで平和、環境などを大切に考えるようになるというか・・・。生徒も無意識に噛み砕いて消化・吸収し、いつしか、骨や血になっていくプロセスを取り、大人になった時ふと、気づいて、教会へ通い始め、なんとなく、クリ〜になっていたような・・・。(私もそうですが)<殊更>ではないタイプが<大手>には多いですね。  それこそ、家族がクリ〜の方なんぞは<ボン・クリ>って自虐的におっしゃいますしね。 神様との関係もそれこそ、中年夫婦の関係のようで空気・・・のようになっていると言うか、日々、普通にあるほうじ茶や糠漬けと同じ、ベタな愛情にも似た感覚・・・と言うか。それこそ、<あってあるもの>なのですが・・・。   対してF派の場合、初恋につっぱっしっている少女のノリ・・・を感じます。いつも、360度全方位から大好きな人を見つめ、彼好みの女の子になろうと必死に努力を重ね、周りの人に彼の魅力を熱く語り、自分と同じ意見を期待し・・・。恋愛中毒なるものもありますし、SEKKOさんもアディクトという言葉を用いてましたね。 中年夫婦の糠漬けか、初恋少女のカルピスか、どちらも<乳酸>の働きですが、<大手>は超高齢社会、F派には若者が多く集うのも判る気がします。  白黒はっきりつけ、善悪を決めたがるのは、若者の特徴ですものね。  <大手>は司祭や牧師の説教も日常の生活に引き寄せて受け手が自分なりに噛み砕いて解釈する部分も多いと思います。F派はストレートの一本道とでも申しましょうか?  <国家の品格>に自由に考え、自分で選ぶ事はじつは大変な労力を要し、それに疲れると、決められたことに乗っかるほうが楽なことに気づく・・・というような事が書いてありました。若者たち、疲れているのですね? やっぱり、悪口かしら?

206nao:2007/07/30(月) 19:26:12
はじめカルピスあとぬかずけ
私はカトリツクですが、最初は初恋でしたね。でもどういうわけか、宣教はいつさいしませんでした。私の恋したイエスは他のひとには説明できない、とおもつていましたから、言葉になるまで、沈黙していました。中年になつて、ぬかずけ、になつてきたころから、言葉が体から、出だした(たいした言葉にはならなかつたにしても)と思います。大手は別に高齢化してばかりじゃありませんよ。うちの教会には若いひとも子どもも沢山いますよ。神戸中央教会なんて、外人が半分を占めています。神父の高齢化はたしか。この皮袋はなんとかかわつてゆくでしょう。長年きたえられてきた大手のなかの信徒のこころはやはりはじめは初恋ですが、こりかたまつてはゆきませんね。大羊さんも初恋は必ずさめて、ぬかずけになる可能性ありと考えられたところに身をおいてほしいとおもつた次第です。VINOさまのお話、いつも楽しみにしております。

207迷える大羊:2007/07/31(火) 00:30:18
カルピスもぬかづけも・・
>前回、少々、悪口に走ってしまったので

 その辺りは私も反省してますね。でも、信仰にまつわるストレス解消ってこういうところでしか、できないのもまた一つの現実ですものね。お気持ちはお察しします。

 公平を期すために言っておきますと、F派だっていいところはありますよ。なんといっても相談事とか信仰にまつわる議論なんかは、なんだかんだいってもF派の関係者の方が真面目に対応してくれること多いです(私の狭い経験で見る限りですが)。全部が全部そうだってわけではもちろんないですけど、(大手)は時々、やる気あんのかなぁ〜?的な対応のところも結構あるんで・・。もう、本当に昔なじみのお得意さんだけ相手にして気楽にやってりゃいいや〜みたいな・・。
 営業努力は明らかにFな人々の方が上です。もっとも、あの独特の熱さ、あまりの純粋さがその長所を帳消しにしてしまうくらい、私を引かせてしまうのですが・・。

>神様との関係もそれこそ、中年夫婦の関係のようで空気・・・のようになっていると言うか、日々、普通にあるほうじ茶や糠漬けと同じ、ベタな愛情にも似た感覚・・・と言うか

 F派の場合、伝統的教会に比べると歴史が浅いところが多く、今は青年期で熱く、燃えていますが、あと数十年もして、今の若い信徒たちが老年になるころには良くも悪くも意外と角がとれて、幅が広くなるかも、と想像しますが。それとも逆にさらに頑固になってしまうか?どうなんでしょうね?大体、プロテスタントの成り立ち自体、一種の信仰復興運動で、今のF派っぽいところがあったんじゃないか?と個人的に思ったりしますし。

 でも、今、手元に「日本における福音派の歴史」(いのちのことば社刊)がありますが、それによれば、カリスマ派、ペンテコステ系とそうでないところでは分裂やら対立やらがあるようですし、「聖書は誤りなき神の御言葉」とする教義もどこまでが「誤りなき」なのか、などでいろいろ論争があるみたいで、そう単純でもないようですね。

>うちの教会には若いひとも子どもも沢山いますよ。

 そういえば、カトリック教会って子供が多いなぁ、という印象があります。幼児洗礼があって、「お家の宗教」って感じの人が多いのかな?

>外人が半分を占めています。

 このユニバーサルなところがカトリックの長所ですね。sekko先生がおっしゃるとおり神父の高齢化問題も外国人神父の「調達」でなんとかなりそうな気もします。ところでnaoさんって関西の方だったんですね?

>初恋は必ずさめて、ぬかずけになる可能性ありと考えられたところに身をおいてほしいとおもつた

 宗教、信仰は細く、長〜くが一番健全で賢い付き合い方だな、と思ったことはありますね。適度に距離を置いた、大人の付き合いというか、なんといいますか。

 ところで、ここ最近の私は本当にスピリチュアルな日々です。金曜日は東京のF派教会のイベントに彼女の付き合いで行き、また、あるときは会社近くのカトリック教会の聖書講座
に参加し、先日は、別のキリスト教サイトで知人となった仏教(曹洞宗)の僧侶見習いの方に東方正教会の信徒の方が加わって、一緒にお食事、散歩なんかをしてたりして・・。

 もう、イエス様もマリア様もお釈迦様もニコライさんもみんなドーンと来いや〜って感じです。

208Sekko:2007/07/31(火) 08:32:29
いいですね
 なんかもりあがってますね。スピリチュアルな日々、いいですね。スピリチュアルと言っても変な前世がなんとかにはまってるよりは、各種伝統宗教の方が教養はつきますし・・・
 こっちの哲学雑誌で男脳女脳の話を読んだら、男は集団への忠誠心か群のリーダーへの帰依が強く、女は個人への思い入れが強いとありました。男は集団で狩とかしたからで、女は自分の子供に愛情をそそぐからだそうです。
 だから女の方がイエスに夢中、状態になるのかなあ、とも思いました。でも集団への帰属意識より、イエス個人に惹かれてるのなら、集団や集団の生きた教祖とかに盲従してるよりも融通がきくかもしれないですね。まあ、男の聖人でもマリア命、みたいな人もいますが・・
 ちなみに私はカルピスでも糠漬けでもないですね。ミッションスクール文化とは縁がなかったし、福音書のイエスはすぐに好感が持てましたが、なんか気の毒で・・同情の方が大きかったです。
 でも、今、無神論について研究していて、啓蒙時代以降のキリスト教無神論者たちの言い分を聞けば聞くほど、私にはストア派の哲学者たちが結局キリスト教に傾いていった心情が分かるような気がして、哲学が信仰になる機微を追体験しているところです。それはやっぱり、「今ここで」の世界の中で、超越というものをどうとらえるかということで、イエスを神であり人であると言ったキリスト教の強引さがもたらした「救い」というのはすごかったと思います。
 でも、戦争や疫病のない国で「今ここで」を生きている若くて力ある人々にとっては、「救い?なにそれ?」となる方が普通で、それでもいいと思います。でも、「今ここ」が閉塞したり、力を失ったりすることも人生では必ず起きるので、そんな時に救いのレトリックを知っておくことは有効ですね。
知識がブレイクスルーして生きる支えになってくれる時って、あるんですよ。人生は長い長い回心の道で、いつか超越の方から来る光に照らされることを期待してそっちの方に顔を向けておくのを忘れないようにしたいと思います。

209:2007/08/02(木) 00:38:59
パリのマリア三つ巴
 やっと日本語が書けるようになりました。
 ところで、最近ある方から「赤いスカプラリオ」というのを頂きました。一緒にもらった由来書によれば、1849ねんにパリの愛徳姉妹会のApollineAndriveauという修道女が受けたイエズス(イエス)の啓示にもとずく信心具だそうです。
 さらに、驚いたことに「緑色のスカプラリオ」というのもあって、こっちは、1939年にJustineBiqueyburu修道女(パリ愛徳姉妹会)に出現した聖母に命じられて製作したのが始まり。
 パリの愛徳姉妹会といえば、あの「不思議のメダル(奇跡のメダイ)」の修道会ですよね。あの御出現が1830年だから、約20年の間に3人のシスターが啓示を受け、3種類の信心グッツを世間に発信していたことになります。
 その間愛徳会は救貧活動に従事していて、「霊能巫女集団」みたいにならなかった自己管理力もすごいけれど、シスター達の啓示を握り潰さない個性尊重主義みたいなところにも感心します。
それにしてもリュ・ドゥ・バックではメダルしか売ってませんよね。なんでだろ?

210Sekko:2007/08/02(木) 06:13:17
よかったですね!
 日本語環境できてよかったですね。
Scapulaire rouge のことですね。Scapulaire vertの方が有名かと思います。1840年ですね。私の思い違いでなければ、聖母はその使い方を教え、その中に、最初に使う前に祝別されなければならないという話だったと思います。
 それで、祝別したものは売ることができませんから、おのずと、いわゆる売店には出ないのだと思います。祝別前のものを買って、後で司祭に祝別してもらえばいいわけですが、すでにアクセスが簡単な不思議のメダイがあるので、大量販売用としては淘汰されたのでしょうね。カルメル山のスカプラリオとか有名ですが、それも信心会のメンバーの徽章みたいな使われ方なので、不特定多数の人に売られる不思議のメダイのような広がり方はしなかったんでしょうね、
 逆にいうと、不思議のメダイがあまりに成功したんで、柳の下に2匹目のドジョウ・・じゃなかった、次は内輪用というか、もうちょっとハードルの高いグッズを開発したのかもしれません。マリアもいろいろ考えますね。
 確かに、愛徳姉妹会のプラグラマティクでエネルギッシュな活動と、相次ぐ御出現は一見ミスマッチですが、1830年からの20年って2度の革命が起こった激動期で、特にパリは大変な時期だったので、そんなところで社会活動をした愛徳姉妹会には、アドレナリンを促すようなイヴェントが必要だったのかなあ、とも思います。

211nao:2007/08/02(木) 16:39:38
これつていいですね。
>もう、イエス様もマリア様もお釈迦様もニコライさんもみんなドーンと来いや〜って感じです
 仏教の研究つて、とてもいいですね。私も随分やりました。キリスト教理解に大いにやくだちましたよ。改心の言語化は仏教のほうがすぐれていますね。

212vino:2007/08/02(木) 18:56:54
関西のノリ
nao様、関西の方らしい懐の深さを感じます。私も関西には長く居りまして(私の個人的な環境などは一部、フィクションで通させて頂きますね。)何と言うか、<まぁ、ええやん、ボチボチで。所詮、人間なんやから・・・>なノリはキリ〜の教えに通ずるものを感じます。 我が息子たちは関西系のノリでして、末の小学生なんぞは「ここの人達、日本の教会の人より濃くて熱い」などと申します。 若かりし頃、ヨーロッパに住んでおりまして、日本の学校で長く教えられたというシスターに聖書クラスを開いていただいていました。彼らは仏教や神道のお勉強もとても熱心で、私達・日本人へのリップ・サービスもあるでしょうが、「やはり、これも真実。」と仰います。  私は最近では香取慎吾くんの<西遊記>を観ても<同じだわ>と思ってしまいます。  カト〜は女心を揺らす環境ですね。ロザリオとか、横文字の名前、百合の花、ベール・・・。非クリ〜の我が夫なんぞは女性がクリ〜に多い理由には洋風なものへの憧れにもあるのでは・・・と申します。  大羊さま、この機会に良くお勉強なさってくださいね。私が痛切に思いますのは、F派とK団の組み合わせはちょっとツライでしょうという事ですね。外から見るとK団は権威的に映るそうですし、おかしな言い方ですが、右と左・・・の反応ですよね。ダン・ブラウンへの理解の仕方なんておもしろいくらい逆ですもの。アマースト大出身のダン・ブラウン、同じアマースト出身の同士と共にD大を創設したのが新島譲ですものね。この溝はなんとも表現できません。

213:2007/08/02(木) 22:05:05
臓器信仰?
 漢字変換ってこんなに面倒だったんですね。ローマ字に戻りたくなってしまう・・・でも、日本ではみなさん普通にやってることだし、はやく慣れようっと。
 スカプラリオ自体がもともと修道服の一部を小さくしたものだから、会員特典みたいな側面があるのは納得出来ます。
 絵柄なんですが、それぞれ3つとも心臓が描かれていますね。パーレル・モニアルの聖マルグリート・マリ・アラコクもそうですが、こういう心臓を信仰の対象にすることってフランスの女性に由来するものが多い気がします。
 でもなんで心臓?しかも図案化されたハートじゃなくてモロ臓器。はやくから解剖学が盛んだったとか。でもなんで女性???
 儒教思想の根強い日本みたいな国では、この手の臓器崇拝ってどんな風に受け止められるんでしょうね。(生殖器崇拝なら聞いたことあるけど)
 謎だらけのフランス臓物信仰にワクワクしている私です。大きい声で言うのはちょっと憚られる気がしますが。

214nao:2007/08/04(土) 09:42:38
ありがとうございます。
VINOさまから、関西人の懐・・をお褒め?頂き、うれしかつたです。関西に生まれ育ち、関東とは絶えず接点はあつたものの、仕事と身内を訪れるくらいでしたので、私は狭いところで生涯をおわることになりそうです。だから、関西人の特性に無意識になりがちです。はじめて仕事をはじめたころ(もう40年も前でしが)「関西、とくに大阪では、実積があがつて、なんぼのもの」とよくいわれました。大阪の人間は「できる、できない」に焦点をあてるから、地位、名誉なんて、なんにもならないんだ、ともきいていました。それが信仰とどう関係するのか、わかりませんが、「心にぴつたりこないことは自分のものじゃない」とおもつてきました。カトだからといつても、さつぱりわからんこともある、そいじゃ、仏教もやつてみようか・・というわけでそれが自然でした。でもカトには最後までとどまつたわけですから、不思議というほかないですね。
 私はカト、ミツションの出身ですから、体にしみついたのかもしれませんね。教育とは恐ろしいものです。ロザリオ、ベールなど、やはり美しいイメージでしたね。メダイ、スカプラリオなど、いつも身につけている高校時代の友達もいましたので、自然にそのような信心もそだちました。
 神戸に近いところで仕事を20年あまりしました。友達は阪神間がおおいです。でも私の住まいはそこから2時間あまりはなれています。関西はまつたく、イメージの異なる京都、神戸、大阪、奈良が通える距離にあり、その点、関東よりめぐまれています。

http:// 

215nao:2007/08/04(土) 09:52:14
続き
自然に投稿になつてしまいました。VINOさま、また関西人の特性など、お考えになられたことをお話くださいませ。とても参考になります。
 大羊さま、たしかにFとKは対極みたいですね。悩み深いですね!!このサイトを見ている、複数のかたから、「大羊さんて、なんて素敵な男性なんだろう」といつているのをききました。みなさん、注目していますよ。自分の信仰に無意識だつた面が、意識にのぼつてきて、生き方を修正する大きな力になつております。感謝で一杯です。

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216迷える大羊:2007/08/04(土) 18:48:07
F派とK団、カトリックなどなど
>私が痛切に思いますのは、F派とK団の組み合わせはちょっとツライでしょうという事ですね

 F派とK団以上につらいのがF派とカトリックですね。F派系出版社のいのちのことば社から出ている高校生向けキリスト教入門本「キリスト教なんでもQ&A」(HI−BA著)にこんな一節が・・・。

「Q19.カトリック信者でも救われますか?」です。内容はカトリック教徒のキリスト信仰、社会的貢献は認めつつも、予想がつくかと思いますが、聖人、マリア信仰、煉獄など、聖書にない教義が批判の対象に上っています。

 さらにこれはまずい、というか余計なお世話では?と思える1節に「(カトリック信徒には)あなたは救われていますか?とかあなたは今死んだら天国に入れるという確信がありますか?と質問し、聖書を開いて救いの道を示してあげたらよい、と思います」とか「個人として福音的信仰を持ちながら、なおそのような教えを持つ(聖書から逸脱した教義ですね)教会の一員として主に仕えること生きることに矛盾はないのか?」なんてのがあります。

 うーん、ちょっとこれはなぁ、何も入門本でこんなこと話題にせんでも、と思わされましたね・・。
 ちなみにHI-BAってなんなのか? というと「HIGH-SCHOOL BORNAGAINERS」の略(出ましたね、ボーンアゲイン)で高校生対象の伝道グループだそうです。
 カトリック信者の皆が皆、教会の言うことを100%真に受けているとは限らないように、F派信徒のすべてがこれら真に受けているわけではないにしても、F派教会の大ざっぱな思考様式を理解する上で、この本は格好の教科書かもしれません。

>数のかたから、「大羊さんて、なんて素敵な男性なんだろう」といつているのをききました。みなさん、注目しています

 いやぁ、実物は単なるオヤジ年代も近いサラリーマンに過ぎません(笑)。まあ、リアルワールドで面と向かってストレスを、表現に注意しつつ、書き散らしてストレス解消しているだけなんです。ネット外では彼女と以外、宗教、信仰の話などしません。

 ちなみに、私が教会にちょくちょく行っていることを知らない会社の同僚に、冗談めかして「俺、教会に行ってんだ」と行ったら、「おまえが?教会?ミサ?、似合わねぇ」と大笑いされました。いつも、品のないジョークを言い、お世辞にもファッショナブルとはいえない私は、日本におけるクリスチャン(なぜか品行方正でハイソな、ある意味ハタ迷惑なイメージがある・・)のステレオタイプに合わないらしいです・・・。

217vino:2007/08/08(水) 17:03:50
難儀ですね・・・・。
大羊様、本当にいろいろとお勉強なさってますね。知識の点では私なんぞより、遥かに勝っている・・・と思われるだけに本当にご苦労が多いですね。私も今のこの環境には苦しいものを感じますが、今まで全く、交流の無かったFの方々(個人的には良い人達です)と知り合えたこともこれもお勉強と思い、このコーナーで皆さんとお話できるご縁も感謝しています。普通に自分の教派だけにいたらFとKなんて出会いませんもの。(ご縁・・・という言葉もFの方々は使わないことでしょう。)  マリア様、ダメ・・・みたいですものね。8月15日は聖母マリア被昇天の日・・・と話したところ、イエス様の昇天と同じ意味・・・と知ってびっくりされた方もいらしたくらいです。 日本人には仏教の菩薩信仰と重なるようで、マリア様への崇拝は判り易い・・・と考えるのはABOUTなK団の考えなのだと自分を納得させました。 私のKの知り合いはお子さんの幼稚園は別にこだわりも無く、カト〜だったという人いますよ。家から近いとか、車の運転ができないとかの理由です。職場はカト〜の学校なんて人、いくらでもいますし。FだけGOING MY WAYですね、やっぱり。  塩野七海さんのエッセイでマリアに抱かれて永遠の眠りにつくイエスの絵画や彫刻は数多いが、マリア様のほうが若く表現されている事が多い・・という文章があり、わたしにはとても印象的に感じます。若く美しい、優しい母のもとで永遠の眠りにつく・・・これは世の男性の究極の望みだと彼女は言うのですが、息子を持つ母としてはあってはならない事ですが、そう思ってくれていたら嬉しいような、でも私は唯のおかんですしね。人間が制度や組織や教義を定めたところで絶対に超えられない本能や業・・のようなものってやはりあると思うのです。こんなことを言うと、それはボーン・アゲインしていないからだ・・・の答えが返って来る事でしょう。   8月は戦争に絡み、行事も多い月ですね。お盆もあって、命や平和の大切さを考える良い機会です。比叡山では宗教を超えた会議も開かれました。このあたりをきっかけにお二人で歩み寄れると良いですね。

218Sekko:2007/08/09(木) 18:43:10
マリアさまって・・
カトのその道では偉い方に聞いたんですが、マリアさまって、不細工だったんですって。15でイエスを生んだとして、ピエタの時は40代後半、昔の人って、ふけてた感じがするので、普通のおばさんだったかもしれません。そのマリアが、被昇天する時は輝くように美しくなり、御出現する時も美しかったそうです。その方によると、臨終の秘跡を受けらた病人はすうっと美形になるんだそうです。でも、すぐに亡くならないとまた元に戻るそうで、その効果は24時間くらいだとか・・・すみませんつまらない話で。べつに意味はありません、でもこういう話ってわりとすきなんで。マリアとか聖人とかキャラが多いほうがアナザライフで楽しめます。

219迷える大羊:2007/08/11(土) 02:15:43
イエスの容姿は?
 マリア様の容姿の話が出ましたが、肝心のイエス様の容姿はどうだったんでしょうね?
昔からあるステレオタイプは痩身でひげ面、長髪の優男、ですが、聖書には背が高いとか低いとか、ブサイクだった、とかイケメンだったとか何にも書いていない(ヨハネ黙示録で鬼気迫る化け物じみた、イエス描写がありましたが、ま、これは文書の性質上、リアリティがあるとはいい難いのでパスです)ですよね?確か。

 ちなみに私、「トリノの聖骸布」は全く信じてません。なんだか、あそこに出てくるイエスの似姿ってあまりにステレオタイプ(ロン毛、ひげ面など)にはまりすぎで、話出来すぎ、と思えて・・・。

 ところで、今週講談社の青年向けマンガ誌「モーニング増刊」を読んでいたら、「聖なるお兄さん(SAINT YOUNGMEN)」ってイエスと仏陀が下界で仲良く、首都圏にアパート借りてバカンスを楽しむ、なんてマンガが連載されてました。大爆笑はしないけど、キリスト教や仏教を多少なりとも知っている人間なら、ついフフフ、と笑わせられるギャグが随所に入ってます。

 今週号ではイエスはカナヅチだったことが明かされて(?)おり、キリスト教の洗礼が頭に水をかけるだけなのは、パブテスマのヨハネが要求する潜水洗礼にカナヅチのイエスが応えられず、ヨハネに泣きついて、ハードルを下げてもらって、水をかけてもらうだけになった、という珍説(?)が登場しております(笑)。

 「布教時代に泳ぐことなかったの?」の仏陀の質問に対し、「ああ、沈みかけた舟を助けに行かなきゃならない時があったけど、気合で5km湖面を歩いたからね・・」と返答。すかさず仏陀に「泳ぐ方が簡単な気がするけど・・・」とツッコミを入れられて、なんて感じで話が展開していきます。

 もっとも、こういうギャグってある程度宗教に興味と知識がないと、何が面白いのか、わからないわけで、宗教音痴の多い日本のサラリーマン向けマンガ雑誌でどこまで善戦するか疑問な気もしますが・・。このマンガの著者、中村光さんってどういう人なんだろう?って気になりますね・・・。

 >15でイエスを生んだとして、ピエタの時は40代後半

 うーん、それだと美しい聖母、というよりサザエさんのフネさん(サザエやカツオのお母さん)のイメージになっちゃいますね(笑)。

 なんかマンガの話ばかりしちゃいました、失礼・・。

220迷える大羊:2007/08/11(土) 11:08:09
カトリック教会 気になる点
 あんとに庵さんのブログで述べた内容と重複してしまいますが、ご容赦を。先日、別のキリスト教サイトで知り合った元カトリック教徒の方とお会いして話をしたのですが、彼女(女性です)は期間は短いながら、熱心なカトリック信徒でした。それがなんでまた離教したのか、教えていただけました。理由はいろいろあったようですが、その中で私的に気になる点がいくつか・・・。

 一つは政治的な活動をしている聖職者、信徒の一団がいて、そのこと自体は悪くもなんともないのですが、問題はそれを教会の中に持ち込んで、無関係の信徒を巻き込もうとすること。政治的な活動、というのは憲法9条改悪反対、国旗、国家への反対を熱く語る、といった類のもので、少々大雑把ですが党派的にいえば社民党、共産党的な感じのするものです。
 どうも、彼女は教会内で奉仕などしているうちに、そういう類の運動に賛同、あるいは参加することを求められたらしいのです。

 彼女がそういった運動に与する意図がないことを伝えたら、信徒からなのか、聖職者からなのかは定かではないですが、「お前は戦争が好きなのか」なんて無茶苦茶な決め付け方をされたそうで、本当ならとんでもない話。

 大体、社会問題に関する答えって一つに簡単に決められないと思うし、自分に賛同しないから「戦争大好き」なんて決めつけは信仰面での原理主義者そっくりでイヤです。こりゃ、辞めたくなるわ、と思いました。

 誤解を招くと困るので、申し上げると、その元信徒の彼女にしても、あんとに庵さんにしても、私にしても、社民、共産、憲法九条万歳ならダメで、その逆、つまり自民マンセー、憲法改正GOGO、ならいい、ということではありません。別の党、政治的見解への賛同であってもやっぱり同じように嫌気が差してくるだろうと思います。

 あと、古株の信徒の一群には今も「ミサにこないのは罪」と考える人々がいて、新入りを捕まえて、あれこれ説教してきたり、これまた自分たちの活動に巻き込もうとする人々がいるそうで「大羊さんも(もしカトリック教会に関わるなら)、気をつけた方がいいよ」とのことでした。

 元信徒の彼女がいうには、自宅近くにカトリック教会があるのに、わざわざ遠くのカトリック教会に電車を使ってまでやってくる信徒がいるのは、そういう人間関係に嫌気が差して、という人なんだ、ということでした。

 お断りすると、以上の話はあくまで私が元信徒の方から個人的に聞いた話です。私自身が体験した話ではありません。私自身はそういった場面を近くのカトリック教会で目撃したことはないです(もっとも、忘れたころにちらっとミサを覗くだけなので、本格的に中に入るといろいろあるかもしれませんが)。

 ちなみに、その元信徒の方が関わった教会と私の自宅近くの教会では教区が違います カトリック教会、と一口に言っても、教会、教区によってかなりムードが異なるんでしょうか?また、皆さんは、今回、話題にした元信徒の方の話のような場面に普段通われている教会で出くわしたことありますか?

221塩梅:2007/08/13(月) 23:04:24
どなたもレスがないようなので、失礼をします。
お答えになるか、分からないのですが。

迷える大羊さま>
いい資料の一つと思うので、ご紹介しますが、聖母の騎士社から出ている「神父様、納豆好きですか?」(フェルナンド・アカソ著)という本に『カトリック学連と安保闘争』という章があります。
その記述によりますと、著者である神父さまは京都にある二つの大学のカトリック研究会に顔を出されていたそうで、第二バチカン公会議(1962年〜1965年)が打ち出すいろいろな新しい姿勢を受け止める際に行き過ぎた部分を感じておられたそうです。しかし、やんわり言っても受け入れられるどころかますます政治的な色合いを濃くしたそうでして。で、日米安保の更新(S35年)の折だそうですが、東京の「カトリック学連」は新宿駅での騒動にカトリック学連の旗を掲げて参加したそうで、このことによって、当時の司教協議会はカトリック学連の廃止を決定したそうです。

そもそも、第二次大戦前後にキリスト教全体(教派神道などもそうですが)に明治政府の強い監視がかかったのは事実です。また「チマッティ神父さまの手紙」(ドンボスコ社)の中にも、「上智大学事件」発生と同じ年に『別府不敬事件』の発生について記述があります。チマッティ神父さまの手紙には『この国ではカトリックは容認されているのであって、承認されてない』といった趣旨のことが書かれています。

今もよく取り上げられる上智大学事件、また戦時中のカトリックのことについては、まずこちらご覧下さい。他、キリスト教全体のことをご覧になりたい場合、「平和遺族会」「戦責告白」などのキーワードでの検索をお勧めします。

ウィキペディア:
土井辰雄  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E8%BE%B0%E9%9B%84
田口芳五郎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8F%A3%E8%8A%B3%E4%BA%94%E9%83%8E

個人的な見方として、戦死者・戦災遺族の立場の世代そして「団塊の世代」とその指導司祭というのが『政治的な活動をしている聖職者、信徒の一団』の第一世代と見ます。
元・信者さんのお気持ちも分からなくないです。平和を願うことは良いことなのに、それが明らかな政治思想と(意識的に)繋がった結果、意見の違う人を排除したり敵視したり…対話も無しに『悪者』のレッテルを貼ることは失礼かつ良くないことですね。
こういう人たちの一番宜しくないところは「左に巻きギレたこと」ではなくて、自分が良いことをしていると強烈に信じておられることと、他者に対する自己優越思想です。私もこういうタイプの方にお会いしたことがありますが、”人のためになること”というより”人のためになっている自分”に満足しておられるところがあります。運動の目的が”社会、また自分の生活を良くすること”じゃなく、”自分のやりがいのため”になっちゃってます。
こういう人たちに「被害者」とか「弱者」だとか祀り上げられて、いわば囲い者になり、どうしようもなくなった人も知ってますが…ああはなりたくない。運動家を利用し利用される『共生関係』の外にある人たちには、何の益にもならないどころかむしろ迷惑なんですよ。

>教会、教区によってかなりムードが異なるんでしょうか?

異なる部分もあります。教区内でも、その教会を司牧しているのが教区か修道会か、また修道会によっても違います。ただ良し悪しの部分については、一口では言えない部分がありますね…。

222迷える大羊:2007/08/15(水) 01:44:28
はじめまして、ありがとうございます
 塩梅さん、はじめまして、そしてレスありがとうございます。先日、自宅近くのカトリック教会のミサに出てみたところ、季節柄、平和の祈りを行っていましたが、別に特定の政治勢力、主張への攻撃や肩入れを感じさせる内容の話は出ませんでした。件の元信徒の方の教区、教会ではどうだったんだろう?と気になるところです。

 しつこいようですが、私自身はそのようなカトリック聖職者、信徒に直接お会いしたことはないのですが、そういう政治色の強い聖職者、信徒の一団に辟易している一般信徒の方の声を、件の元・信徒の方とは無関係にネットでも現実でも複数聞いたことがあり、これは「火のないところに〜」かな??と思った次第なのです。

>司教協議会はカトリック学連の廃止を決定したそうです。

 そうだったんですか。個人の独断と偏見ですけど、この当時の司教協議会はとても「まっとうな」判断を下したと思います。一個人として安保反対運動、政治運動に熱を上げるのは勝手だけど、教会や信仰の名を使ってやるな、って、安保反対、賛成に関わらず、私がもし当時カトリック信徒や聖職者であったなら、きっと考えると思います。

 思うに、歴史上、宗教戦争、紛争と思われている事件のほとんどは、実は宗教だとか神だとか信仰はあまり関係なくて、特定の政治思想、志向を持つ勢力がたまたま、ある特定の宗教に属していて、神や信仰の大義名分を拝借しているってパターンが大部分ではないか?という気がします。

>明治政府の強い監視がかかったのは事実です

 もちろん、キリスト教会が国家主義だとか政治の右傾化に警戒心をもつことは歴史の行きがかり上、ある程度は理解できるのですが・・・。でも、靖国問題などで政教分離を訴える一方で、別の政治勢力、団体に肩入れしている、としか思えないようなことを主張するんじゃ、何のための「政教分離」なんだか、と思ったりもしますね。

>平和を願うことは良いことなのに、それが明らかな政治思想と(意識的に)繋がった結果、意見の違う人を排除したり敵視したり…対話も無しに『悪者』のレッテルを貼ることは失礼かつ良くないことですね。

 今、「「世界征服」は可能か?」(岡田斗司夫著、ちくまプリマー新書)って本がなかなか面白くて読んでます。内容は、仮面ライダーだとか、007、オースチンパワーズなどなどマンガや、映画、TV番組、ドラマに出てくる「悪の組織、帝国」を題材に組織や国家、理念とは何なのか?などを考えた、表面的な話とは裏腹になかなか真面目な本です。

 その中に、「皆殺し、というと残虐非道な極悪人たちに聞えますが、その正反対です。意外にも正義感がなければ人は皆殺しなど考えません(中略)正義感が強く、不正が許せないタイプのあなた、世界征服をするときはくれぐれも気をつけて下さいね。」なんて一節がありました。

 この類の人々のことを聞くにつけ、まさしく言い得て妙、という感じですね。思えば、ヒトラーだって「ユダヤ人はドイツ民族の害毒」、それこそ「平和の敵」という「正義感」に燃えて、あれだけの大虐殺を実行したわけですし・・・。キリスト教の異端狩りやら十字軍なんかもそうで、宗教でも、政治でも何事も一方的な決め付けや、激しい思い込みは怖いですね。

223Sekko:2007/08/18(土) 16:21:19
宗教と政治など
 留守しててレスが遅くなりました。

 イエスも仏陀もムハンメドも、普遍宗教の創始者って、要するに既存の共同体のヒエラルキーを否定する形で出てきたので、必然的に弱者救済のソシアルの人だったと思います。だから、社会主義的左翼運動と親和性があるのは理解できます。でも歴史的には世俗権力側の御用宗教になってるケースが多いので、国家主義とか右翼的言辞とも繋がるわけでなかなか複雑ですね。

 でも、アメリカのF派もそうですがイデオロギーと結びついて党派的になるのは、本来の政教分離の精神と乖離していますよね。イエスのいいところは、政教分離を貫いて、党派性や教条主義から自由になったところでしょう。ヨーロッパ近代は、世俗と教会の権力の葛藤を経て非宗教ライシティという理念の空間を気づき上げたわけですが、イエスは当時のユダヤ社会でライシティを先駆的に体現していたとも言えます。それは、しかし、他者の自由をも保障するものでなくてはなりません。対話とは説得ではないし、相手が同意しないから排斥するなどは問題外です。

 福音書のイエスを見ていると、キーワードは、「ライシティの中の自由とポエジー」です。愛とか思いやりとかはもちろんなんですが、重要ポイントは、自由とポエジー(詩想)だと思うんですよ。自由とポエジーのないカリスマ性は、独善や権力性を免れないと思います。このへんについてはまたあらためてどこかに書きますが、どこの教派のどこの教会でも、自由とポエジーが実現していないところは、本当の意味でのイエスの精神から離れていると思います。

 イエスの顔のステレオタイプは、トリノの聖骸布が出発点なんですよ。あれが出て来る前は、パンチパーマの髭無しイエスとかもあったんです。『聖骸布の男』のムックを見てたら「モノ」の迫力ありますよ。でもそのイエスはわりとハンサムで、マリアと瓜二つと言われてるのですから(マリアの変形クローンみたいなものだとしたら当然ですが)、じゃあ、マリアもそれなりに美人だったかなあと思います。正教のイコンはマリアの生前にルカが描いたというのを含めてみな細面なので、フネさんってのはあり得ないと思いますけど・・・

224迷える大羊:2007/08/19(日) 09:10:55
左翼とキリスト教など
>だから、社会主義的左翼運動と親和性があるのは理解できます。

 わからないでもないのですが、社民党はともかく、共産党に関してはどう考えているのでしょうね?宗教否定ですよね、共産党とか共産主義って・・。でも、遠藤周作氏だったと思いますが、共産主義とは「裏返ったキリスト教」だ、といっていましたが、確かにそうかも、と思うことあります。キリスト教も共産主義も共に、弱者救済、既存の共同体のヒエラルキーを否定するところから始まった、共にすさまじい「異端狩り」「粛清」の歴史があり、様々な分派がある、どちらも「聖書」「資本論」という「聖典」がある、などなど、正反対の立場にみえて共通するところはとても多い気がしますね。

>イエスのいいところは、政教分離を貫いて、党派性や教条主義から自由になったところでしょう

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神のものに・・」っていうのは聖書きっての名言だと思いますし、キリスト教の「近代性」がよく出ていることばですよね。でも、2千年前にはこういう考え方はなかなか理解されなかったんでしょうねぇ、きっと。

>パンチパーマの髭無しイエスとかもあったんです

 パンチパーマですか・・(笑)。今は優男のイメージが強いイエスですが、筋骨たくましいマッチョなイエス像っていうのはあったんでしょうかね?祭壇で大暴れしてますし、単なる優男でもない気もしたりしますが、どうなんでしょうね。でも、そういうイエス像だと、キリスト教の姿も微妙に違ったものになっていたかな?今みたいに女性信徒が多数を占める、なんてことはなかったのかな?と想像が広がりますね。

 後、よく考えるとおかしいな、と思うのは、ハリウッド映画や欧米のメディアのイエス像。聖書にイエスの容姿についての説明がない、ということは当時としては特に書くこともない、至って普通のユダヤ人だったと考えられるわけで、その中東の「普通のユダヤ人」が絵に描いたような金髪、青い目の白人だなんて、そんなことないだろ?、とツッコミたくなりますが、どうなんでしょうね?

225塩梅:2007/08/19(日) 22:50:49
ご参考になるといいですが…
> わからないでもないのですが、社民党はともかく、共産党に関してはどう考えているのでしょうね?

明石書店や新日本出版社などから「解放の神学」系、ほか途上国援助、フェミニズム関係の著書をだしている聖職者・修道者は結構います。9条の会やら無防備平和運動他に賛同してたり、部落解放、靖国訴訟などに関与している方々もあります。運動自体の趣旨はともかく、バックに特定政党・政治勢力などがついている部分に偏りを感じるものがあります。

さてこれをどう理解するかですが、「解放の神学」というのがあるのですが、御存知でしょうか?
ある程度までご存知だと、理解が出来るところがあるかも知れません。

こちらは神社さんのブログですが、意外と分かりやすく書かれてます。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070510

あと聖職者・修道者の講演録です。
http://www.wa.commufa.jp/~momochan/kaiho/soma.html(故・相馬信夫名古屋司教)
http://www.jca.apc.org/gendai/salon/ezln/kaiho.html(メルセス会弘田しずえ修道女)

ちなみにこれについては今の教皇さまが枢機卿時代にインタビューに応じた本「信仰について」(ヴィットリオ・メッソーリ著・ドンボスコ社)のなかで見解を出されています。一部、抜粋します。

(以下、『信仰について』247〜248p)
「解放の神学は、マルクス主義を踏襲するその形態からして、けっしてラテン・アメリカ、
あるいは他の発展途上国地域の人民の骨折りによって、ほぼ自発的に生まれ成長していったと
いうような、原地の、土着の所産ではない。少なくとも根源は知識人、富める西側諸国で
生まれたか、あるいはそこで教育を受けた知識人の創案である。それを手がけた神学者たちは
ヨーロッパ人であり、それを南アメリカで成長させた神学者たちはヨーロッパ人-----あるいは
ヨーロッパの諸大学で教育された者-----である。あのスペイン語、あるいはポルトガル語の
背景には、実際、ドイツ語、フランス語、アングロ・アメリカ語がちらつく」

つまりヨーロッパの理論家によって第三世界に輸出され、実験されているイデオロギーの一つである、と。実のところ輸出先が実験先なので、この神学が言っている「人民の側に立つ」神学者たちが本当に人民に影響を持てるかどうか全て実証されなくてはいけない、と。

そんなもんだから、今の教皇さまが決まった時は…カトリック新聞で聖職者が匿名で「ガッカリ」なんてコメントを出してたり、著書で「ラッツィンガーは敵だ」なんて書かれた司祭さまもありますし、今の教皇さまが嫌いだから祝日以外に教会に行かないなどと書かれた信者さんサイトなども結構あります。

226vino:2007/08/20(月) 19:02:30
(無題)
SEKKOさんや塩梅さんのように見識豊か、理路整然とはいかないので、自分なりに教会で感じることなど、お話してみようと思います。カト〜もかなり、政治的だったのですね。これまた、わが身の無知を改めて感じました。K団は2001年のテロの時も素早く、ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね。非・クリ〜の夫は私が何か言うと、「君はK党なの?」とか冗談で言うくらいです。戦争に協力してしまったという過去があるからこその平和への思いが今の日本では左っぽい言動とリンクするのでしょうね。個人的には政治的にそんなには濃く動いている方と出会ったことはないのですが、クリ〜として外で奉仕をされている方を観る機会はありますね。教会での御用でも精一杯、自分のことで精一杯な人間がほとんどだと思いますので、そのお働き、尊いとは思います。当然ながら個人差あり、それぞれ事情もあり、教会員すべてに同じ働き、心情を求める事は無理・・・だと思います。職業とは違い、気持ちや思いで動く世界なので温度差・・・も出てきます。動ける数人の人にたくさんのお仕事が集中し、一方ではあまり、お役に付いていない人はなんとなく、手持ち無沙汰と言うか、居場所も無い感じもして・・・。 代々その教会の信徒・・・という家族には牧師も遠慮があったり、そのご家族には又、それぞれ大変な事情もあったり・・・。両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます。男性の場合、今の時代でしたらやはりPCを使いこなして編集や広報、何と言っても財務・会計が基本でしょうか。会社や友人、恋人、それこそ家族でもある程度の年齢になったら距離が必要です。<ウチの会社>と思うほどには会社はこちらを思っていないように、依存すると、ツライお返しが待っています。100%依存しても良いのはペットの犬や猫くらいでしょう。 牧師本人も自分を守るため、家族のバランスを取る為、信徒それぞれへの良い働き・・・を考えると信徒も牧師の存在はサラリーマン的なものと踏まえるくらいで旨くいくようです。同じ教会でも牧師が変わると来なくなる人、それこそ転会して行く人があるくらいですし、牧師に楯突くことが趣味みたいな人もいます。
かつてK団出版局<信徒の友>では<疲れない教会>なんて特集も組まれていました。100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

227vino:2007/08/20(月) 19:05:01
あれやこれや・・・
SEKKOさんや塩梅さんのように見識豊か、理路整然とはいかないので、自分なりに教会で感じることなど、お話してみようと思います。カト〜もかなり、政治的だったのですね。これまた、わが身の無知を改めて感じました。K団は2001年のテロの時も素早く、ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね。非・クリ〜の夫は私が何か言うと、「君はK党なの?」とか冗談で言うくらいです。戦争に協力してしまったという過去があるからこその平和への思いが今の日本では左っぽい言動とリンクするのでしょうね。個人的には政治的にそんなには濃く動いている方と出会ったことはないのですが、クリ〜として外で奉仕をされている方を観る機会はありますね。教会での御用でも精一杯、自分のことで精一杯な人間がほとんどだと思いますので、そのお働き、尊いとは思います。当然ながら個人差あり、それぞれ事情もあり、教会員すべてに同じ働き、心情を求める事は無理・・・だと思います。職業とは違い、気持ちや思いで動く世界なので温度差・・・も出てきます。動ける数人の人にたくさんのお仕事が集中し、一方ではあまり、お役に付いていない人はなんとなく、手持ち無沙汰と言うか、居場所も無い感じもして・・・。 代々その教会の信徒・・・という家族には牧師も遠慮があったり、そのご家族には又、それぞれ大変な事情もあったり・・・。両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます。男性の場合、今の時代でしたらやはりPCを使いこなして編集や広報、何と言っても財務・会計が基本でしょうか。会社や友人、恋人、それこそ家族でもある程度の年齢になったら距離が必要です。<ウチの会社>と思うほどには会社はこちらを思っていないように、依存すると、ツライお返しが待っています。100%依存しても良いのはペットの犬や猫くらいでしょう。 牧師本人も自分を守るため、家族のバランスを取る為、信徒それぞれへの良い働き・・・を考えると信徒も牧師の存在はサラリーマン的なものと踏まえるくらいで旨くいくようです。同じ教会でも牧師が変わると来なくなる人、それこそ転会して行く人があるくらいですし、牧師に楯突くことが趣味みたいな人もいます。
かつてK団出版局<信徒の友>では<疲れない教会>なんて特集も組まれていました。100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

228迷える大羊:2007/08/21(火) 00:39:17
結局のところ・・
 みなさん、いつもお世話様です。

>明石書店や新日本出版社などから「解放の神学」系

 ええ〜、新日本出版社って、そのものずばり共産党じゃないですか。どうなってるんでしょう、一体?。目的が一致しておれば、無神論、宗教否定の政党との共闘もOKなんですかね?敵の敵は味方、ということなのか?私的にはどうにも理解に苦しむ話ですね。まあ「解放の神学」的な立場に立つ、聖職者、信徒の主張からすれば、私も所詮「上からの立場で批判している」に過ぎないのでしょうけど。

>そんなもんだから、今の教皇さまが決まった時は…カトリック新聞で聖職者が匿名で「ガッカリ」なんてコメントを出してたり、著書で「ラッツィンガーは敵だ」なんて書かれた司祭さまもありますし、今の教皇さまが嫌いだから祝日以外に教会に行かないなどと書かれた信者さんサイトなども結構あります

 でも、いろいろ問題を抱えつつも私がカトリックに魅力を感じるのはこの多様性だったりします。「解放の神学」に立つ「左」の信徒、聖職者がいる一方で、渡部昇一氏、曽野綾子氏、麻生太郎氏など右系、保守系の信徒も共存していて、世俗では正反対の立場のものが、神の前ではすべて同じ、平等、というのが宗教やカトリックの良さではないのかな?と思ったりもしますし。それだけに教会や教団全体として、右であれ、左であれ、特定のイデオロギーに深入りしてもらいたくないですね。

>ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね

 一方で北朝鮮の拉致問題などには無関心ですよね。拉致被害者の横田めぐみさんのお母さんの早紀江さんが福音系教会のクリスチャンである関係で、福音派の一部の教会が取り組んではいますが、ブッシュ大統領に抗議文を送ったのと同様に、金正日氏に抗議文を送った、なんて話はとんと聞いたことがありません。韓国の方の民主化や独裁政権には、あれほどああでもない、こうでもないといっていたのに・・。私的にはその辺りがキリスト教会の平和運動=政治がらみ、左翼、との勘ぐりが抜けない理由の一つでもあります。

>両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます

 なんだか、ミもフタもない話ですねぇ。結局のところ、教会だ、信仰だ、といっても不完全で「罪深い」人間の営みであることには変わりないのですね。感覚的に地域の自治会とか、マンションの管理組合がどうのこうのというのと変わらない話で、水をかぶったくらいで人間変われりゃ苦労しないよ、というところでしょうか。

>100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

 長年の信仰生活から導き出された、貴重かつごもっともな御意見だと思います。私もクリスチャンを彼女にし、まがりなりにもこの世界に関わるようになってなんとなく感じていたことでもありますし。

229塩梅:2007/08/22(水) 11:05:52
何かが違う「隣人愛」実践の実際
vinoさまの仰るとおりで、「細く長く適度な距離と温度を保つのが無難」だと私も思います。>教会とは

あと、キリスト教の「隣人愛思想」は良い方向に向かうと人間関係の改善や社会貢献に繋がりますが、逆を行くと< 小さな親切、大きなお世話 >になりやすいんですね。聖書の中のイエズスの言葉に基づいてるとされる活動でも、イエズスの実際の行いやその心には基づいてるだろうか、と思うことがあります。信者でない人にも時々そういう風な質問を受けることがあり、困惑します。

大体、熱心な人ってのは、

・『弱者のために』何もかもお膳立てするのはいいけど、それが自分好みの活動にならないと
  気が済まない人
・『弱者のために』と言いつつ、実は自己満足や利益・他者への優越思想のためにやってる人

こんな感じです。(政治的党派性がくっついてくると、さらに面倒です)

そういうことが皆、彼らにとっては『弱者のために』なんですから、誰の忠告・注意も聞かない。
例えば、商業でやることでさえ、リピーターを得るために「リサーチ」するじゃないですか。だけど彼らの多くは、意見をする方を「悪意の人」と見て傲慢な態度を取ったり攻撃をしてきます。『反対者の方が間違ってるんだ』と言わんばかりの対応で、あえて諫言する「善意の人」も退けます。

そして、ますます< 彼らの活動は独善性を増す >結果になります。

しかし実際、こういう方々の「奉仕活動」の恩恵を蒙ることが出来るのは、『個人的にお友達になって』彼らのすることなすことにお付き合いする能力のある方(一種のエリートですよね)か、知能や精神的な障害などにより自分の意思を一切主張出来ない状態にある方ですね。つまり、運動家と『利害関係になる』か『使われちゃう』かです。

こうして彼らは、他の大勢の人たちを置いて行っちゃう。あるいは団体ごと無理に囲い込もうとする。

それだから、医療・福祉の現場で地道に働いている人々、彼らに『弱者あつかい』されている人々のなかには「キリスト教・クリスチャン嫌い」が居ますし、信者で医療・福祉関係者やってる人間にも< 教会の活動の評判 >は必ずしも良くないです。教会によっては、信心業や聖書研究などよりもずっと社会活動を重視されるようなところがありますが、現場としてみれば本当にその道のプロとして取り組んでくれる以外で、(現状の)教会の人に入ってもらいたくないですね。信者さん個人個人の日常生活や余暇まで犠牲にした「生きがい・やりがい」までは、社会は求めてないと思います。

どっちかというと、年に一回の文化祭やイベントに招いてくださる・連れてってくださるとか、例えば施設内なら洗濯モノたたみや共有スペースのお掃除といった『それ限定の方々』の方が入所者の方々や職員も付き合いやすいし、長続きします。というのは、あまり自分の生活を犠牲にしてない人の方が実は聞く耳を持ってることが多いし(意地になったりとかしないし)、お互いの利害関係が後々変に絡む心配をしなくていいので。

230vino:2007/08/28(火) 16:01:39
身もふたも無くて・・・
我が夫婦の仲人をして下さった大学教授、K団の信徒なのですが、大教室での講義の際、「日本人にとってはキリスト教というのは隣の神様だ。クリスチャンでさえ、その感覚が抜けていない。クリ〜というのは素晴しい存在だと思い込んでる。歴史上、免罪符やら南米がラテンアメリカと呼ばれるようになったのは何故か、カト〜の愚かな行為の故だ。だからってプロ〜だってひどいもんだ。英語が世界共通語になっているのは何故か、何故、英語と言われるのか。現代もアメリカって国が世界中でやってる事を考えればすぐ判る。人間なんて本当にしょうもない」と仰いました。当時、求道者でもなかった私ですが、<この方はK団の人だな>とピンと来たものです。   前回、身もふたも無くむしろ、偽悪的なほどの表現を致しましたが、さすが、皆様、真意を汲んでくださいますね。そう、どこまで行っても性悪な生き物なのです、人間は。私は洗礼の際、牧師からは再三に亘って「所詮、人間のする事だから」と言われたものですが、年を重ねるごとにそれを実感します。  料理研究家の小林カツ代さん、ご存知でしょうか?彼女のお話を聞いたことがあるのですが(K団信徒です)お母様からは<キリ〜はなんのご利益も無い代わりになんのタタリもない自己満足の宗教>だと言われていたそうです。彼女自身も「クリ〜になる、なんて事なかった。何にも変わりません。」と仰いました。実はこのふたつのエピソードは私の中では凄く大きな意味を持つのです。  超・マイノリティーだからか、日本人クリ〜、どこか<上から目線>になりがちなのです。選民思想に近いくらいの人も見られます。自分の足元を見据えるためには少し、自虐的なくらいで調度良いのでは・・・・。

231迷える大羊:2007/08/30(木) 00:33:51
熱過ぎるのは・・
 皆様のお話を伺うと、クリスチャンになるということは別に人格改造を行うわけではなく、他の未信者の方々と別人種になってしまうわけではない、ということがよくわかります。

 また、批判じみた話になっちゃいますけど、F派の信徒って「ボーンアゲイン」なんて言葉が代表的ですが、その辺何か、熱過ぎる、というか暑苦しい感じさえ(言っちゃった)してきてダメなんですよね。
 恋愛・結婚にしても相手はクリスチャン(できればF派)でないとダメ、相手がノンクリの場合はなんとかして「導こう」と躍起になるんですよね。理由を聞くと「その方が安心できる、落ち着ける」なんていうんですが、クリスチャンでない人間は何か自分とは別人種とでも思っているのか、何か勘違いしてないか?そんな人と人の間に垣根を作る信仰なんて抵抗あるなぁ、というのが本音ですね。

 多分K団もそうだと思うのですが、カトリック中央評議会の教勢統計を見ると、結婚相手がノンクリスチャンである信徒が多数派なのですが、F派はいわゆるクリスチャンホームが圧倒的(少なくとも教会に恒常的に顔を出すメンバーは)で、それもまたこの日本においてはえらく不自然で、閉鎖的な感じがして、抵抗感を感じる理由なんですよね。

>料理研究家の小林カツ代さん

 あら、この人、クリスチャンだったんですか。初耳ですね。私事ですが、本日、職場の先輩でお世話になった方が亡くなり、告別式に行ってまいりました。浄土宗のお葬式でした。
お焼香も上げました。でも、F派の信徒となると、こういう場面に出くわす度に頭悩ますんでしょうね・・・。やっぱり、そういう信仰は私には抵抗ありますね。

232塩梅:2007/09/21(金) 02:49:23
教会も「渡る世間」のうちだというか。
>恋愛・結婚にしても相手はクリスチャン(できればF派)でないとダメ、相手がノンクリの場合はなんとかして「導こう」

ええ。

「結婚するならクリスチャンにしなさい。”カトリックでもいいから”クリスチャンと結婚しなさい」

本当に牧師に言われたのですが、すごく嫌な感じを受けてしまったのです。当時、カトリックの存在をあまり意識していなかったこともあり、逆に、

『それほどに言われる”カトリック”って、そんな酷いところか?』

と思ったのです。やはり自分の目で見ないと納得がいかないと思いました。ただ多分…後々考えるに信者同士の又聞きとかだからそうなったんだろうけど、「カトリックは礼拝が難解だと聞いている。皆ラテン語で日本語の礼拝はない」と神学生の人が話すのを聞いていましたのでかなり悩んだ時間はありました。が、勇気を出して(苦笑)最寄のカトリック教会に「行っても宜しいですか?」と電話して、行ってみたのです。そして、

「日本語やないけー!」(第二バチカン以降、そうなってましたね…)

と思いました。で、当時所属していた場所の人たちの方が感じ悪いと思いました。と言うのは、カトリック教会に行ったことを知った教会の友人全てに音信を絶たれまして。その牧師さんからは出ていけ、と。あのときは「何だそりゃ?」みたいな感じでした。そういう諸々の事情から、プロテスタントにはもう戻らないと思います。勿論、そんな人ばかりではない事も知ってるのですが、親友と思っていた人に責められたのは悲しかった。

その悲しみを忘れかけていた中越震災の直後に、その人たちが再び私に電話をくれました。私は純粋に電話をもらえた事を喜んだんですが、直後にかつての所属教会の封筒で、とある先生の分厚い著書が送られて来まして。「所在確認だったんだな」と直観しました。かつての所属教会の活動のありようから、彼らにもノルマがあったのかな…と察したけれど、辛くなってしまって受け取り拒否しました。

シスターには「貰っておけばいいじゃないの?」と言われたんですが…
デリカシーの問題ってのがあると言いますか……(ノ_-。)

信仰を持つのはいいけど、<正しい事を>と思ってする言動が<上から目線><排他性>として現われるのは、やっぱり抵抗感・反感を持たれる所以になってしまうのじゃないかと思います。他人の話を聞くことも大切だし、聞く耳のあること=妥協ではないんですから。話を吟味したうえで、どうしても妥協できない面をお話することだって出来るんですから。そういう面倒を拒否しちゃあいけないと思うのですけど。「対話」ってのは『説得』のことでも『意見の押し付け』のことでも無いんだからね、と思うのですけど。

でも以上のことが、どうして困難な課題になるのでしょう?

233迷える大羊:2007/09/21(金) 05:21:57
それはまた・・
>『それほどに言われる”カトリック”って、そんな酷いところか?』
>「日本語やないけー!」(第二バチカン以降、そうなってましたね…)

 そうですね〜、私もこの世界に関わりを持った当初、カトリックって「うっかり自殺=
村八分」「うっかり離婚=村八分」みたいな極めて戒律のキツイところ、というイメージがあって全然興味がわきませんでした。いろいろ調べるとそんなに単純ではない、むしろ、一部のプロテスタント教会の方が、ずっと保守的で厳しいですね(もちろん、いろいろな教派があるので単純にいえないが・・)。カトリックだってすべての人々が寛容ってわけでもないのでしょうけど、幅があって、狭い一つの考えを押し付けられないんで気楽なんですよね、私としては。そこら辺のプロテスタント教会よりはずっと理性的で、リベラルだと思います。
 でも、私や塩梅さんが誤解していたのと同様、世間一般には今でもカトリック=厳しい戒律、保守的のイメージは強いんじゃないですかね?
 もっとも、ラテン語ミサに関しては、そんなに悪いイメージないですね、私は。SEKKOさんの以前のコメントにもありましたが、むしろ、日本語で「主のなんとかかんとか」って言ってやる方が何か恥ずかしいというか、テレが抜けないというか・・。お経を唱えて照れくささを感じないように、ハナから外国語のラテン語なら、あのなんともいえない照れくささ、恥ずかしさを感じなくていいし、どこの国の国民にとっても「外国語」なので、公平で良いではないか?と思うのですがどうですかね?

>と言うのは、カトリック教会に行ったことを知った教会の友人全てに音信を絶たれまして。その牧師さんからは出ていけ、と。

 それはまた、すごい話ですね・・。一体、いつの時代の話ですか?私、プロテスタントでも保守的なF派の信徒が身内にいて、関わりがありますけど、そこまで極端な反応ってないですけど・・(確かにカトリックには冷淡ではありますが)。
 まあ、F派といってもいろいろあって、比較的ヌルいところだからかもしれませんが。最近の話ならびっくり、というか問題ですね。
 そんなところ辞めて正解、そんなことで離れる友人なんてハナから友人じゃない、と私なら割り切りますけどね(ってそう簡単に割り切れれば苦労しないでしょうが)。

>彼らにもノルマがあったのかな…と察したけれど、辛くなってしまって受け取り拒否しました

 うーん、話を聞く限り、私的に非常に問題がある教会のような気がしますが?そのかつての所属教会って・・。皆さん、いろいろ現在の信仰を持つに至るには紆余曲折があるものですね。
 まあ、この辺はこういうBBSでは詳しくは語るわけにはいきませんね。どこかのミサでお会いしていろいろ語れればいいですね。ちなみに私は首都圏の住民で、都内勤務の人間です。

234迷える大羊:2007/09/06(木) 01:00:54
学んでみます
 散々、こちらの部屋で書き散らし(ここ最近、ひょっとしてこの部屋で一番発言数が多い??)、皆様にお世話になってますので、御報告ぐらいはしておかねば、と思いました。

 私、九月半ばより、都内某所、職場近くにあるカトリック教会のキリスト教講座(アルファコースっていったかな?)に通ってみることにしました。平日の夜なので、残業なんかがあったりすると、行けないこともあるかもしれませんが、できるだけ参加しようと思います。
 講座の内容より、実際のカトリック信徒にはどういう人々がいるのか、何を考えているのか。よく語り合って、観察、確認してみて、自分に合った教派、宗教であるかどうかを試してみるのが目的ですね。神父さんと話したり、こういうネットやメールでいろいろ話はしてみたものの、現実の世界では、信仰や思想の深いところまで話したことがあるカトリック信徒の人って実のところいないので。
 私の彼女も、当初誘う予定がなかったのですが、話したら興味を持って、ついてくることとなりました。はたしてどうなりますやら・・・。

235nao:2007/09/06(木) 08:42:57
うれしいいです。
大羊さんが現実のカト教徒と話し合いしてくださるようになつたこと、とてもうれしいです。がつかりしたりなさることもあるかもしれませんが、いい出会いがまつていますようにと、心からねがつております。彼女もきてくれるなんて・・感激ですね。時々、ご様子お知らせいただけると嬉しいです。よろしくおねがいいたします。竹下先生とは生涯お付き合いくださいますように。こんな出会いは世の中にそうあるものではありませんから。

236Sekko:2007/09/07(金) 11:22:26
私もうれしいです。
 お久しぶりです。なんかとっても充実した感じのやりとりが続いてるようで、あえて口を挟む感じじゃないなと思ってたんですが・・・
 彼女が一緒にきてくれるなんて、すてきですね(お目付け役だったりして)。
 大羊さんの誠実さが伝わってるんですね、きっと。
 いい方たちと出会われることを願っています。彼女のほうも視野が広がって、お二人の連帯感もさらに深まって、いい感じになるのでは。
 宗教や宗派がどうというより、人が一緒に生きていくには、毎日起こる具体的な問題と対策だけではなくて、その背後にひそむ病や死というものの影がいつかかぶさってきたときにどう受け止めるか、どういたわりあっていけるのかという部分で共鳴できる波長が必要です。今すぐではなくともだんだん共振できるような関係もありますし。
 (ええと、私は9日の日曜の午後5時、銀座3丁目のギャラリー青羅で、金沢美大OB展のオープニングに出席します。興味のある方は「東京けやき会」のサイトをご覧ください。もう30年近く前にフランスに留学なさっていたとき知り合った石彫の坂井達省さん、織田啓介さんらの作品を見に行きます。お目にかかれればお話しできるかもしれません。)

237迷える大羊:2007/09/09(日) 02:22:40
まあ、ボチボチと・・
>(お目付け役だったりして)。

 まあ、そんな感じですね(笑)。こちらも、別に彼女の信仰を変えようなんて考えは毛頭ないし、それは横暴だし、無理というもの。要は視野を広げてもらいたい、もう少し考えに幅がでれば、それで良いと思ってます。

 あと、なんだか、ここでF派に対し、批判がましいことばっかり言っている印象があるかもしれませんが、人の信仰にチャチャを入れようなんて野暮なマネをする気は全然ないし、F派といえども様々なのはわかっていますし、良い点、もっともな主張だってあることも認めてます。

 ただ、自分の宗教観、感覚に合うか、合わないか、自分が信者になれるか否か、という観点、そして、私自身の狭い範囲の見聞の範囲で話をしているだけでして。
 このBBSを見て、不快になっている、あるいは、そんなことはないだろ〜、と思われているF派の方、ゴメンなさいね、といったところです。

>がつかりしたりなさることもあるかもしれませんが、いい出会いがまつていますようにと

 VINOさんや塩梅さんのおっしゃる通り、教会とか信仰とかいうものに、あまり過剰に期待だとか、逆に恐れだとかをもたず、適度に距離を置くつもりで行く、要は力を抜いていくと、意外といいことがあるのかもしれませんね。

>宗教や宗派がどうというより、

 その通りですね。それだけに、何が何でも、同じ信仰の人間としか恋愛・結婚できない、幸せになれない、と決めてかかる、あるいは身内はなんとしても、’導かなくては’、’救わなくては’、なんて躍起になる一部クリスチャンの言動を見聞すると、何か違うんじゃないのか?と思え、却ってキリスト教から離れたくなっちゃいます、逆効果ですね。

>ええと、私は9日の日曜の午後5時、銀座3丁目のギャラリー青羅で、金沢美大OB展のオープニングに出席します

 ああ、是非行って見たいのですが・・・。フランス在住の著名作家と直にお話できる機会なんて滅多にないですもんね〜。しかし、その当日は彼女の母教会での打ち合わせや実家訪問などの予定が複数あって、行けません・・。またの来日の機会を狙います。

238vino:2007/09/10(月) 19:36:31
心の赴くままに・・・
<お目付け役>・・・かもしれませんが、かなり、前進ではないでしょうか?  私の場合、母校が長老派だった為、YWCAに繋がり、現在に至ったわけですが、それこそ、信仰というものは、<縁と運とタイミング>によるものも大きいと思いますので、今後の人生を過ごす上での<引き出し>が一つ増える・・・くらいの気持ちも大切だと思います。 遠藤周作さんの文章で(K団の信徒はなんのコダワリもなく愛読者、多いです。曽野さんしかり、勿論、三浦綾子さんも)それぞれが心にそれに畏敬の念を感じ、他者の思いも尊重することが大切。それはナスでもカボチャでも良い・・・なんて表現がありました。肩の力が抜けた感じで私は好きですけれど・・・。  それにしても、塩梅さん、教会にかなり悩まされた経験がおありなのですね。ネットでは「地獄に堕ちるぞ」とか、「サタン」とか言われた事のある人の話も知っていましたが・・・。私の古くからの友人でカト〜で求道中の女性があります。彼女いわく、枝葉はいろいろあれど、根っこが一つなところに安心できる・・・と。プロ〜の方はそれこそ、牧師の数だけ解釈がある・・・と言うところでしょうか?まぁ、聖書も説教もその時、その時の自分の状況でとらえ方は違って当たり前ですし、同じ教会の中でもいろんな人がいるわけですから、<一色>に染まるはずはありません。彼女の信仰に色が一つ増えるのも良いと思いますよ。大羊さんのキリ〜に対するお勉強の姿勢に打たれた部分もきっとおありでしょう。夫婦はそれぞれ違う人間ですからね。NAO様、人生の大先輩として、これからも暖かいお言葉をお待ちしています。  ハリケーン・カトリーナの被害に遭ったアフリカ系の家族が復興支援をされたとある団体に心を癒され、ソルトレイクに移住した件をだいぶ前にニュースで観ました。<ワスプにあらずば人にあらず>の雰囲気の濃い南部に住むよりはかの地で幸せならば、それも良い事ですよね。

239塩梅:2007/09/10(月) 21:18:32
良かったです。
お一人でなくて、お二人で通えるということは本当にいいことです。
その方にとっても、いい出会いになりますように。これは心から祈っております。>大羊さま

うっかり以前の体験…本当に余計な話をしてしまいましたけども、それは…。大羊さん仰るように、F派全体というよりその教会の問題になるのですね。離れてしまった教会は今も存在するので、ネット上での発言は本当、申し訳ありません。その教会に残った人たちには、当時とてもお世話になっていましたし「仲間だから」という理由であったにしろ、いい思い出もありました。

ですので、それを否定出来ない気持ちもあるのです。大羊さんほどにクールになれない情けなさをずっと自分に感じています。

…始末の悪いことに、彼らは「自分たちはいいことをしている」のだと固く信じています。
ゆえに、今はそれをどうしようも出来ない事を分かっているのですが、「仮想敵ありき」のそのあり方、そして金銭問題その他について憂慮しております。
と申しますのは、昔、神学生であった友人がある内紛に巻き込まれ、海外宣教の夢を絶たれてしまいました。そのことに当時の所属教会が関わっていたことを知ったことが大変ショックでした。でも所属教会に抗議をしたくても、彼らは私とその人との友人関係を知ってましたので…聞く耳持つどころか

「今から先生がこの部屋にくるのだけど、貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」

と言われてしまったのです。言われたときはかなり泣きました。

そこから「教会」「信徒同士」という人間の繋がりに恐怖を感じるようになりまして、それを克服できなかったのです。それこそ教会ジプシーです。また家庭の介護問題から随分長い間、教会を離れざるを得ず…。教会はキリストの身体といいます。だけど繋がれないままに長い時を過ごしてしまったこと、そして指導司祭さまとの繋がりが諸事情(異動含む)あって上手く行かず、改宗が上手くいかない。
何せ、地方では司祭・信徒さんの高齢化が進み、私が今いる小教区では主日ミサが5箇所くらいの巡回です。それでも信徒さんは「通信でなんて言わないで。聖櫃の前で神父さまとじっくりお話をしてちょうだい」と言ってくださいましたし…それはとても有難いお話と思っています。

ただ今、それに甘えていいのかどうかを迷っているのです。

240迷える大羊:2007/09/12(水) 12:38:13
異端とは?
>大羊さんのキリ〜に対するお勉強の姿勢に打たれた部分もきっとおありでしょう

 勉強、といいましても、キリスト教のトリビア、雑学的、オタク的な知識が増えただけで、「信じる気持ち」は、未だによくわかりません。賛美歌とか祈りの文句を唱えるのは未だにこっ恥ずかしい気持ちが先に立ち、みんなよく照れずに大声で歌える、唱えられるなぁ、と感心することしきり(失礼!)です(笑)

>ソルトレイク

 といえば、多くの主流派キリスト教会から異端扱いされる某教団のホ一ムグラウンドがある街ですね。
 話が脱線しますが、キリスト教系教団でよく社会的に物議をかもすのは、このソルトレイクに本拠を持つ某教団、韓国に本拠を持ち、詐欺まがいの商法や特異な結婚式が問題となる某教団、輸血拒否、独特の終末思想、過剰な奉仕、家庭崩壊等が問題となる某教団の三つ。

 もちろん、他の主流派教会はこれらの教団のあり方に対し、一般人以上に批判的で、メディアには必ず、この三つの教団とは何の関係もありません、と銘打つのがお約束です。でも、その批判の仕方が未信者の私からすると時々「ん?」と思うことがあるんです。

 というのはこれら三つの教団はいずれも三位一体を否定していて(否定の仕方はそれぞれ異なるようですが)、主流派キリスト教会、信徒は「だから、異端で問題を引き起こすんだ」みたいな単純な議論をする人が少なからずみられるんですけど、それって何かピントがずれている気がするんですよね。

 部外者からすれば、大切なのは、第一義的には表に出ている彼らの所業、そして、問題のある行為を不断に誘発している教義です。三位一体説を否定していても、表に出ている行動が問題なければ別にどうでもいいんです。例えば、ユニテリアン教会(ユニテリアン・ユニバ〜サリスト)はイエスの神性を否定し、三位一体説をとりませんけど、別に何か問題行動を起こしたなんて話は聞かないですし。

 逆に、例えば、塩梅さんのかつての所属教会は恐らくは「三位一体」説をとる「正統派」キリスト教会と思われますが、反社会的というところまでいくのかは、なんともいえませんが、非常に問題の多い教会、教団と思われます。私的にはほとんどカルトすれすれ、との心象を抱いてますね。そもそも、異端って言葉自体、時代錯誤、排他的、偏狭な感じがしてあまり好きな教会用語ではないです。

>「貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」

 これはイジメだ、と憤ったり、悲しくなる以前に、あまりに時代錯誤な物言いにあきれ果てて、頭がクラクラしてくるような話ですね。
 これ本当に現代(20世紀、21世紀)の話ですか?なんだか、中世の異端審問、魔女狩りの話を聞いているみたいなんですが・・・。

>その教会に残った人たちには、当時とてもお世話になっていましたし「仲間だから」という理由であったにしろ、いい思い出もありました

 そうですね、以前の思い出まで、記憶から消すことは難しいですよね。ハナから友人じゃなかった、と割り切れ、なんていうのはちょっと無神経なもの言いだったかな、と反省しております。

>金銭問題

 これ、非常に気になったんですが、まさか、旧約聖書の一節を字句通りに解釈した、
「十分の一」献金を半強制的に実行しているとか・・??。

 塩梅さんのお話には大変、衝撃を受けました。マスコミ等で騒がれず、いわゆるカルトとされていない、正統派ということになっている教会にも大変問題のあるところが存在するということがわかりました。
 正直、私は心に傷を負った塩梅さんにはなんといってよいのやら、わからない状態ですが、新しい教会で、一刻も早く苦い記憶が風化していくことを祈ってます。

241vino:2007/09/12(水) 18:40:48
きれいは汚い、汚いはきれい
<神様は好き、でも教会は嫌い・・・・>のもっともな部分を経験されてしまったのですね、塩梅さま。<渡る世間・・・>の文章を読みまして、単立の皇帝牧師のところかしら・・・?と思っていたのですが、どうも、違うようですね。必ず、時が満ちますので、カト〜への改宗がうまく行くよう、お祈りしています。私のお世話になった牧師は自分の休暇の時は違う宗派の礼拝へ出掛け、お勉強もされていました。私は現在、教会で<!?>な感じを受けた時は<これも勉強>と、かの牧師にしてみれば、思うだろうなと割り切る事にしています。   さて、海外宣教・・・ですが、日本キリスト教団小松教会のHPに様々な土地の日本語教会のことがとても良くまとめられています。<超教派>のプロ〜、多いですが、圧倒的に牧師はF派の方が多く派遣されていますね。どういうシステムで派遣が決まるのか良く判らないのですが、<熱心な伝道>はFのお得意ですから、海外で<救われた>信者さん、帰国後もFに連なる方が多いのでしょうね。    <自分達は良い事をしている>、これ、なんとかならないでしょうか?命を落とされたお二人、とても残念ですし、惨い事件だとは思いますが、土足で神田はるさんのお宅へ伺う・・・のはどんなもんでしょう?旧ソ連のイスラム色の強い辺りにも日本人が宣教に出ているとか、いないとか・・・・。こちらから見ればあちらでも、あちらから見ればこちらがあちらになるのです。私の知らない真理も世の中にはたくさんあるのです。  <揺ぎない真理を知っているから自分は大丈夫>だなんて、それこそ、神をも恐れぬ傲慢ではないでしょうか?

242迷える大羊:2007/09/15(土) 12:50:10
行ってきました、学び会
 カトリック教会の学び会、第一回いってまいりました。正確にいうと、「アルファコ−ス」といって、主に英国教会のニッキ−ガンベル氏という牧師が提唱した、キリスト教入門コ−スらしいです。いわゆるカトリックの公教要理教育とは違います。

 最初に奉仕の方が作って下さった夕食を食べ(なかなかおいしかったです)、雑談、話し合い、ニッキ−ガンベル氏の講演ビデオ鑑賞、神父さんのお話、などですね。
 進行は信徒の奉仕者の方主体で、神父さんが登場するのは最後のお話くらい。初回の今回は宗教らしい話が出るのは、ビデオ鑑賞のときくらいで、あとは話しあい、コミュニケ−ションに重点が置かれていました。リラックスしたム−ドで、とりあえずは現実のカトリック関係者と交流をする、という私の目的に適った会合で、なによりでした。

 キリスト教会はプロテスタントも女性比率が高いのですが、カトリックはそれに輪をかけて高いですね。奉仕者の大半は女性。参加者も女性が多く、男性参加者は、少なくとも私のグル−プは「奥さんが信者、クリスチャンで」なんてパタ−ンで、私みたいな人ばっかりでした(笑)(私同様、未洗礼の方もいました)。プロテスタントからの改宗者も結構いましたね。
 彼女の方の評価も「これなら続けられそう」ということで上々でした。

 ところで、全く関係ない話ですけど、自民総裁選、麻生氏と福田氏の一騎打ちは福田氏が圧倒的優勢のようで、日本史上初の現役カトリック信者の首相誕生、はなさそうですね。

243Sekko:2007/09/18(火) 20:25:17
よかったですね。
 考えれば考えるほど、大切なのは、宗教の差を取っ払った部分のライシテの中での連帯ってことだと思えてきます。
 特定の宗教共同体の内部の連帯、なんて、内部には抑圧的に、外部には覇権的または独善的に向かうのがオチだという気がするんです。

 宗教や共同体や社会的階層や立場の枠を超えたユニヴァーサルな連帯、それがキリスト教、というか、少なくともイエスが詩心を持って実践しようとしたものですよね、各宗派はそれぞれの歴史的文化的な産物、あるいは政治的、経済的な思惑の表現でしかありません。だれでも社会的存在であることを逃れられないように、各宗派の枠にありながらも、なおかつそれを超えた理念に眼を向けるのは簡単なことではないですが、永遠の課題、でもあります。

244nao:2007/09/19(水) 09:18:14
時代差を感じますね。
私がカト教会の入門講座にかよつたのは、戦後、10年たらずのころでした。大学生のころです。大阪の中心街、北浜教会でM神父という、素晴らしく信仰心のあつい、ハンサムな方で毎週1回、夢中になつて、かよつたものです。その時はトマス神学を中心としたかなり学問的なもので、毎回プリントが頂けて、何度も繰り返して読んだことをおもいだします。大羊さんの「学び会」のような雰囲気はまつたくありませんでしたが、その頃は、多いに満足したものです。修道院に入る方が続出したのもその頃です。カトリツクだけのことしか、学べませんでしたが、それの弊害よりは、神父の信仰心の厚さが皆の心をしつかりとらえていました。ご自分の書籍(当時、どれだけ大切なものだつたことか!)を講座の日に燃やす石炭にかえられたことも、度々でした。このM神父さんは、ミサ後、出口で一人ひとりに声をかけておられました。話された講座は殆どわすれましたが、神父の祈る姿だけが、くつきりといまでも瞼に浮かんできます。こういう信仰心の厚い神父さんが多くなるように、祈りたいとおもいます。大羊さん、これからもご様子きかせてくださいね。VINOさま、いつも温かいお言葉ありがとうございます。竹下先生はフランスで大多忙の毎日のご様子。無神論、楽しみにいたしております。

245塩梅:2007/09/19(水) 15:56:36
牛歩ながら。
> マスコミ等で騒がれず、いわゆるカルトとされていない、正統派ということになっている教会にも大変問題のあるところが存在するということがわかりました。>大羊さま

あまり書けませんが、今も全国各地で集まりを持っている場所です。残念ですけれども、vinoさま仰るとおりの「単立皇帝牧師」に今はなっておられるお一人というと、もう分かる方に分かるかと。「集まり」、一見開放的なのです。ところがどっこい、入るとまるで違う。これについては賛否両論ですが什一献金。これ、源泉徴収表に書いてある所得(つまり税を引かれる前)からの什一でした。そして、関係著書等の購入やイベントのお誘いのノルマは今思うときつかったです。私はそういうことが得意ではないので、自分の分については他の信者さんの手を借りざるを得ませんでした。そうなると、奉仕活動で補完をせざるを得ません。

しかし、以上のことは『信仰があれば』…つまり本人がやる気なら「本人的に」問題のないことなんでしょう。ただ、信仰生活とは本来別のこの奉仕の部分で、あまりにあまりの部分を見てしまった。スポンサー獲得・信者獲得のためにすることが、あまりに商業的に過ぎて。それも商業なら働いた人にそれなりの報酬が出ますが、信者がやれば奉仕です。「そういう方向に狂ってないか?」という疑念の発端は、集まりの幹部の女性が見た夢の話でした。

”この集まりに相応しい教会堂が与えられる”という夢を。

そして、共同体は「それを正夢にするんだ」という方向に流れたのです。その後、神学校のこと他あり、その女性に「貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」と言われまして。私が出て済むならと思いましたが、しかし今に至るまで、その夢を信じて…祈り、奉仕している信者さんがたの夢は叶ってません。また集まりの主宰者たる某牧師先生については賛否両論あることを出てから知りました。それが分かると、出入りを許してくれない教会もありました。『私のしたことでなく、某先生の名前で居られなくなる』ために、教会ジプシー状態でした。

本当に、<神様は好き、でも教会は嫌い・・・・>状態の年月が長かったのです。

個人的にはもっと単純に、神様を信じるもの同士が、、、と思うのです。また社会的にも、信者ではない方々との共存を強く望みます。勿論、おもねることではなく、きちんとお互い腹蔵ない「対話」をしたいし「相互理解」をしたいのです。あくまで理想論ですが・・・

今まで様々ありましたが、歴史・先人の智恵も通じて学ぶのがいいという結論をしています。
これからの信仰生活のためにも。諸事情あって愚図愚図に伸びていますが、お祈り頂けますと感謝します。私も大羊さまはじめ、これからの方々のために祈っています。

246迷える大羊:2007/09/23(日) 00:40:18
学び会(アルファ)など
 学び会2回目ですが、キリスト教最大の難関(?)、「復活」について、でした。我らがニッキ−牧師は復活の意義を熱っぽく語っておりました。ただ、気になるのは彼は復活を物理的にも事実、と思っているのか、それともあくまでも信仰、思想の上での真実、と考えているのか、イマイチ判然としないところでしたが・・

 参加者との語らいでは、皆さんは「科学的」な事実、と思っている人はおらず、大事なのはそこにこめられた信仰、思い、願いである、ということで、私にも理解できる考え方をする人が大半でホッとしました。いや、これまで、「これは本当だ、全部、物理的にもあったことなんだ」と言い出しかねない人と出会うことが多かったんで・・・。

 あと、ニッキ−氏の話で興味深かったのは宗教離れ、宗教嫌いは必ずしも日本特有の現象ではないこと。ニッキ−氏自身、英国人ですが、若き日はキリスト教、教会のことなど全く無関心で、学生時代のル−ムメイトが、教会に通い出したのをみて「ヤバイんじゃねえの」「変な教えをふきこまれなきゃよいが」と心配したそうです。また、あちら(英国)でも「キリスト教は関心ないけど、イエスはいい人ね」なんて日本人みたいなこという人はゴマンといるようですね。

 他には私が、キリスト教とか宗教への偏見、つまり、わけわかんない話を盲信する、みたいな先入感を改めさせてくれたのは、遠藤周作氏の「私にとって神とは」でしたが、私と同年代の方でやはり同じ過程を辿った方がおられまして、話が合いましたね。

 塩梅さんの元の教会、お話を聞く限り、私の基準ではこれはもう立派なカルト、一信徒の個人的トラブルのレベルを超えているように思えます。個人的な生ぬるいアドバイスや気休めでどうにかなるような話ではないような・・。どこか然るべき相談機関(例えば宗教、カルト被害者救済のボランティアとか、伝統的教会でカルト被害者の相談に応じているようなところなど)に相談されたことはあるのでしょうか?でも、今更、古傷を蒸し返すのも酷ですよね・・・。

>また社会的にも、信者ではない方々との共存を強く望みます。

 私がキリスト教に反発を感じたのは、初詣、七五三、仏式の葬儀の際のお焼香拒否でした。別にそれらの風習に思いいれや思想を持っているわけではないのですが、考え方がイヤです。
 それらが、江戸時代の踏み絵のように信仰を試すものであれば、拒否するのも致し方ありませんが、そんな意味を込めてこれらの行事、風習を続けている日本人なんてほとんどいないはずです。じゃあ、キリスト教の葬儀や行事で「俺はクリスチャンじゃないから」といって、祈りなど、キリスト教の伝統をことごとく拒否する人がいたらどう思うのか?そういうこと考えないのかな、なんて独りよがりな、なんて反発がありました、というか今もありますね。

 そういう頑なというか、未信者との協調を考えないような信仰をする人が少ない、ということで(それだけではないですけど)カトリック教会に流れたんですけどね。

247Sekko:2007/09/24(月) 23:56:57
お気をつけください
この直前、1件削除しました。このコーナーを宗教の掲示板として使うことはまったく問題ありません。しかしあくまでも竹下節子の考え方のシンパであることがこのサロンのメンバーの条件です。ここでは、いっさいの勧誘や布教はしませんし、どこかの宗派をめぐる内部の対立も持ち込まないようにお願いします。建設的でないもの、適切でないと判断したものははすぐ削除します。

 さて、復活についてですが、復活を物理的事実として原理主義的にしがみつくあまり一人の人間だったイエスの人生の意味を無視する人たち、また逆に「人間イエス」にのみ固執して復活は宗教的蒙昧や単にシンボリックな者として切り捨てるグループ、どちらも本当のミステールが見えなくなる危険があります。

 少なくとも最初の弟子たちがイエスの体の復活を事実として見て、信じた、そこからキリスト教が生まれ、それを語ろうとしてイエスの記録である福音書も編まれたのですから。復活が事実かどうかとは別に、復活を事実とした使徒たちの確信を抜きにしてはキリスト教は語れないと思います。
 そのイエスを神としたリ、唯一の救世主キリストとしたのはまたその後の展開です。まあ、刑死した人が復活、子なる神とされる、というかなりアクロバチックな展開のおかげで、偉大な神、裁く神、罰する神、のイメージから、苦しむ神、悲しむ神、寄り添う神へシフトした部分があるんで、それはなんというか、宗教に、限りないやさしさをもたらしてくれた感じですね。

 イエスの死と復活のストーリーとそれを信じた人たちを通して「全知全能の絶対神」の孤独や犠牲とかを考えると、この世で有限である自分の命に対してもなんか、すなおに受け入れられる気がしてくるんです。

248迷える大羊:2007/09/28(金) 21:32:27
麻生太郎さん
 復活をどう捉えるか、は本当に難しいですね。どんなにリベラル、現世的、合理的な考えをする教派でも、これを否定はできないし、否定してしまうと、どうして、卑怯だったり愚劣だったりした弟子たちが、殉教も辞さない強固な信仰の持ち主になったか?の説明がつかないし、実際、キリスト教が成立することもなかったでしょうし。といって丸呑みしてしまうのもこれまた受け容れ難いものがあるし・・。

 ところで、話が変わりますが、自民総裁選で惜しくも敗れてしまった麻生太郎氏。政治家として彼を特別支持しているとか、人格的に敬服しているってわけではないのですが、彼をみているとホッとすることが多々あります。
 つまり、「ああ、こういう人でもキリスト教、カトリック教徒やっていられるんだ」という意味で(失礼!麻生さん)。

 ほら、なんとなくあるじゃないですか、日本でキリスト教徒、というと下品なこと、特に下ネタ禁止、いつも穏やかで人格円満、ビジュアル面では男性の場合は開祖イエスを筆頭に優男風のイメ−ジ、あるいはマザ−テレサのようなやたらと立派な人、ボランティア精神あふれた人、みたいな・・。

 麻生氏の場合、こういう日本におけるキリスト教徒のイメ−ジをことごとく打ち破ってくれる、という意味で「すばらしい」クリスチャン、カトリック教徒だ、と思うわけです。何しろ口が悪くて余計な敵を数多く作ってしまう、人相も大変失礼ながら、どちらかといえば悪役風、少なくとも優男風のイメ−ジでは全くない。弱者救済に特別熱心、という風でもないし(別に批判も肯定もしているわけではないです、口や言葉でいうほど簡単なことではないとおもいますし)上にマンガオタク・・。

 かくいう私も、下ネタ大好きでスケベですし、ボランティア活動など立派だ、とは思うけれど、自分自身がやるとなると、住んでいるマンションの管理組合の役員程度でもメンドクセ−、なんで休日にこんなことせないかんの、とぶつぶついうタイプ。電車でも、誰がみても明らかに身体が不自由で、という方なら別ですが、お年寄りを見ると率先して席をゆずり、なんてタイプでは間違ってもない。
 マザ−テレサ氏など、あまりにすごすぎてとても同じ人間とは思えない、感じです。また、腹の立つことをいわれれば相手が年長者、上司でもつい声を荒げ、場合によってはケンカもしてしまいますし、「右の頬を打たれたら、左の頬を・・」なんて心境は実感としてさっぱりわからないですしね。

 あと、麻生氏の場合、キリスト教徒ですが、靖国公式参拝も行ってます。政治家の靖国参拝の是非については、これまた議論がいろいろ割れるところで単純にどうこういえる問題ではないですが、神社仏閣というと、異教、偶像崇拝、真の神ではない、などといって切り捨てるクリスチャンと出会うことが多かった私には、政治の問題とは別に「ああ、こういうキリスト教徒もいるのか」という感じで、むしろ、ホッとする要素だったりします。

 つまり、復活信仰と並んで私にとってのキリスト教への障害である、やたらと高邁な道徳律、倫理観、唯一神への窮屈きわまりない絶対服従を要求されて、重苦しい毎日を送らなくてはならないのでは?という憂慮を身をもって取り除いてくれる存在、ということで、麻生氏は私にとって貴重な存在なのです。

 もっとも、政治家、芸能人、文化人などの著名人のイメ−ジって多分に作られたものもあると思うので(特にメディアが高度に発達した現代では)、本当の、素顔の麻生氏がどういう方なのかは存じません。あくまでメディアに露出したイメ−ジを前提にしたお話であることをお断りしなくてはなりませんが。


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