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鷹目遊里史板
1
:
鷹目
:2006/03/12(日) 14:04:22
一流への道
≫活魚料理店の水槽を撮らずして一流とは言えないでしょう。
道は険しいな・・・。
>bananaさん
情報ありがとうございます。そちらも次回候補に入れておきます。会場選定が一番悩みます(笑)。
360
:
夕凪
:2007/11/06(火) 23:11:41
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その1
容疑業者に対して警告を行なうとともに、風俗営業許可を規制したほか、
飲食店営業許可取扱いの慎重を、徴税の厳正等について協力を依頼した。
これら業者は、売春業を廃業し転出せんとする者もある反面、
いわゆる、しもた家を装って売春業を継続しようとする者、
また、取締りの状況をみて、売春業を再開する機会を持つ者も認められたところから、
昭和43年5月1日から第2次売春事犯掃滅作戦を展開すると同時に、
尼崎中央署に「初島新地売春特別取締本部」を、
尼崎北署に「神崎新地売春掃滅隊本部」を設置し、
連日、午後8時から翌日未明まで自動車検問、重点警ら、
立入調査による取締りを実施したが、
9月1日からは、「尼崎地区暴力犯罪特別取締本部」を尼崎中央署に、
同分室を尼崎北署、尼崎西署に設置し、両新地の売春事犯取締本部と連携を密にし、
売春事犯及び粗暴犯等の強力な取締りを推進した。
1985年の官公署の刊行物より
361
:
嶋原G
:2007/11/11(日) 00:25:34
変われば変わるものなり
こないだ、或る方の全集を読んでると面白い箇所があったので、抜粋しました。
『今の洲崎遊廓は明治21年に本郷の根津から移転したのであるが、根津遊廓であった数百軒の女郎屋中で第一の大店は大八幡楼であった。その門構えは立派で庭園の広い大八幡楼の建築物は取壊さずにあったので、その後幾分の造作を加えて、○○病院となった。
かつては長夜の睦言に深さ契りを籠め、後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんで羽織を隠し、或いは手練手管の口説を尽くした活菩薩の部屋部屋は、顔色青き男女、気息奄々の病室に化かし去ったのであったが、如何なる事情か、先頃その○○病院も何処かへ失せて見えなくなり、暫くは空家となっていたのに、近頃通りかかって見ると「東京女子高等師範学校第一寄宿舎」という標札があった。
女郎屋が女学生の寄宿舎になるとは、さても変われば変わるものなり。』
大正6年5月発行某書籍より
名古屋にも病院の看護師寮になってる元妓楼ありますね。外観は全く別な物なのに内装が昔のまんま。以前、扉ごしに見たとき内装が完全なるアールデコ調でした。
362
:
夕凪
:2007/11/24(土) 02:09:41
赤線跡を歩く【完結編】 〜続々・消えゆく夢の街を訪ねて〜
木村聡 写真・文、自由国民社発行
「昭和」に想いを馳せる!
懐かしくて切ないと老若男女問わず大人気の歴史散歩ガイドが完結。
レトロ建築・街並み散策の名著が集大成!全国をついに網羅し完結!
熱烈な愛好家の多い永井荷風の小説の舞台=玉の井を巻頭で特集!
遊廓ファン垂涎の巻末付録=「よるの女性街」完全掲載!
A5判 並製 148頁(カラー88頁)
2008年1月刊行予定、予価:本体2300円+税
某本屋さんより
363
:
夕凪
:2007/11/25(日) 23:58:12
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その2(初島新地)
このような取締りの強化に対して、初島新地内の対象外業者(八百屋、薬局、酒屋等)
有志20人は、連名で昭和43年5月8日、尼崎市長に対し、「遊客が減少し経営が困難になったため、
自動車検問と、遊客に対する職務質問を廃止されたい。」旨の嘆願書を提出。
6月18日には初島繁華街組合が、業者の減少により組合の運営が困難となって
事務員3名を解雇し、同組合事務所は廃止された。
昭和43年10月9日と11月6日には、新地内の業者代表が尼崎中央署長に対し、
「新地内の家屋は、会社又は工場の寮などに賃貸契約して体質を改善するため、
残存する違法営業者の取締りを強化されたい。」旨の要望書を提出した。
1985年の官公署の刊行物より
364
:
夕凪
:2007/11/26(月) 00:26:28
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その3(神崎新地)
一方、神崎新地では、昭和43年5月6日暴力団日○塾組長及び業者代表4名が尼崎北署に対し、
「健全な飲食店の開業を希望するものがいるので、自動車検問を一時廃止されたい。」旨の
陳情を行ったが、客観的にみて自動車検問の中止はできない旨を回答。
6月10日には新地内の業者代表5名が兵庫県民生部長に対し、「今回の取締り強化を機会に
健全営業に脱皮する。そのため『お茶屋』を経営したいが許可してもらえないか。」
との陳情を行ったが、県当局は、「警察の所管事務である。」旨を回答した。
また、7月15日新地内の対象外業者(理髪店、化粧品商、市場等)代表9名人から尼崎北署に対し、
「客が減少し、経営が困難となったので、自動車検問を中止されたい。
なお風俗営業についても許可されたい。」旨の陳情があったが、取締方針の変更はできない旨回答した。
1985年の官公署の刊行物より
365
:
夕凪
:2007/11/26(月) 23:33:40
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その4(初島新地)
連日にわたる自動車検問と取締りの強化によって、
初島新地では、昭和43年6月末現在で、休業、廃業及び転業した店舗は90店に及び、
また、売春婦も100〜150人に減少した。
7月になり容疑業者、売春婦は逐次、廃業又は転出したので空家が増加し、
7月末には風俗営業は皆無となり、残存していた飲食店も、ほとんど閉店したため、
初島繁華街組合も組合費の徴収が困難となって解散、
新地内の街灯を消したため、廃きょ同様の街と化した。
1985年の官公署の刊行物より
366
:
夕凪
:2007/11/26(月) 23:43:22
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その5(神崎新地)
神崎新地では、昭和43年11月6日に、新地を根城とする暴力団の抗争事件が発生した。
売春と暴力の追放を強く要望する世論が高まり、
抗争事件及び売春取締りの捜査体制を一層強化したため、閉店する店舗が増加し、
12月には、若干の容疑業者が、飲食店、しもた家を装い残存するのみとなった。
1985年の官公署の刊行物より
367
:
夕凪
:2007/11/27(火) 00:16:11
初島・神崎両地区に対する売春事犯の集中取締り ?
●第2次売春事犯掃滅作戦(昭和43.5〜昭和43.12) その6(完結編)
昭和43年5月以来、8ヵ月の長期にわたって、第2次売春事犯掃滅作戦を展開した結果、
当初、容疑業者293、売春婦約1,000人であったのが、
昭和43年12月末には、
初島新地の廃業141、転業3、売春婦も20人となり、
神崎新地も廃業127、転業22、売春婦は25人を残すのみとなった。
1985年の官公署の刊行物より(完)
368
:
夕凪
:2007/11/27(火) 23:48:44
戸ノ内地区 特飲街の沿革
S27. 尼崎市売春等取締り条例の制定
S29. 市内の業者は尼崎全特飲業組合連合会をつくり、
南初島町の日東紡績跡地を買収して集団移転した
S30. 初島新地として開業
初島新地をつくった業者たちとは別に
難波新地たちを主体とする一団が市の行政措置のかたちで
S30. 戸ノ内モスリン工場跡地に移転
S30. 神崎新地として開業
S31.5 売春防止法の成立
S33.4 売春防止法の実施
S33.4 解散式を挙げる
S37頃 新地解散後もなお業者150、接客婦500〜600人を数える
S42. 市は戸ノ内での特飲風俗営業を禁止する。
その後、廃業する業者が相次ぎ、施設はその多くが貸工場に転用されている。
しかし建物の老朽化はかなり進んでいる。
現在、風俗営業業者はなお若干名を残しており、それにともない
風紀・保安・教育環境などの点で多くの課題を提起している。
しかし、業者・接客婦たちの転業・更正については
新地形成の経緯からしても、別途の配慮が必要な問題となっている。
昭和50年の尼崎市の資料より(一部修正)
369
:
夕凪
:2007/12/06(木) 00:43:33
【 完結編 】 の 赤線跡
●自由国民社のHPによると【完結編】の目次は下記の通りです。
【巻頭特集】『濹東綺譚』を歩く
【巻頭グラフ】赤線残照
【北海道】函館/江差/札幌/小樽/室蘭/旭川/帯広/釧路
【東北】八戸/大湊/浅虫温泉/青森/弘前/鯵ヶ沢/能代/秋田/
????????角館・大曲・横手/湯沢/酒田/山形/福島/郡山/仙台/盛岡
【中部】三国/勝山/小浜/武生・鯖江/宮津・舞鶴/甲府
【瀬戸内紀行】福山…笠岡…鞆の浦…糸崎…因島…尾道…江田島
【特集】京都の赤線跡1983
【巻末付録】よるの女性街・全国案内板
参考文献の紹介とあとがき
??????????????????????????????????????????以上148ページ
ttp://www.jiyu.co.jp/BookDB/books.cgi?isbn=978-4-426-10419-1
370
:
夕凪
:2007/12/09(日) 01:51:00
市岡パラダイス跡に・・・・・
●大阪市教育委員会のHPによると、
港新地に近接した、市岡パラダイスの跡地に、
大阪市文化財顕彰の、建碑建立を検討してるそうです。
○市岡パラダイス跡 (港区)
市岡土地株式会社が大正14年(1925年)に開業した一万二千坪の遊園地で
劇場・温泉・動物園や東洋最大という飛行塔などがあった。
昭和五年(1930年)に閉園したが周辺に商店街・歓楽街が営まれるきっかけとなった。
※港新地の指定地許可は昭和2年(1927年)
※他にも道頓堀五座跡(中央区)、立川文庫ゆかりの地(中央区)、
カフェ・キサラギ跡(西区)の、3か所についても建碑建立可能か検討中だそうです。
結論はどうなったんやろ?
それにしても市岡パラダイスって、そんなええもんやったんやろか・・・・・?
371
:
夕凪
:2007/12/15(土) 23:53:34
全国遊廓案内
●『赤線跡を歩く(完結編)』の「参考文献の紹介とあとがき」の中で、
木村聡さんは、『全国遊廓案内』を、下記ように紹介されています。
発行後まもなく発禁処分を受けて、
のちに「関東編」「関西編」の2冊に分けた
改訂版が出たことが知られているが、
これは貴重なオリジナル版。
●また、ご存知『近代庶民生活誌? 色街・遊廓?』の中で、
編者の、お一人である林喜代弘さんは『全国遊廓案内』について
下記の通り解説されています。
しかし初版本は風俗壊乱で発禁となった。
???? 先日、上下2巻本を古書目録で見かけ、
???? 愛書家の知己に問い合わせたところ、
それは改訂版との教示を受けた。
以上から、
『全国遊廓案内』は、当初1冊本で発行されたが、
発禁処分を受けた後、改訂版が「関西編」と「関東編」の2冊に分割して、
発行されたと読めるかと思います。
●しかし私の見た事のある、
2冊本の『全国遊廓案内』の「関西編」「関東編」各々の、
本文後の広告ページには、「関西編」、「関東編」と並んで、
「合本(=1冊本)」の広告が掲載されていました。
そこで『全国遊廓案内』各編の発行年等について調べてみました。
?『全国遊廓案内』:昭和5年7月3日印刷、昭和5年7月3日発行、上製、定価1円30銭
↑『赤線跡を歩く(完結編)』に紹介されていた本
?『全国遊廓案内(関西編)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
?『全国遊廓案内(関東編)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
※??の箱入りセットあり。セット定価1円30銭
?『全国遊廓案内(関東・関西合本)』:上製、定価1円30銭
↑ 2冊本の本文後の広告頁より
●はたして?と?の関係はいかに?
また、改訂版の合本(=?)は存在するのでしょうか?
※私は「改定後の合本(=?)」を見た事はありません。
オリジナル版と言われる本(=?)は、数冊見た事があります。
372
:
k_taii
:2007/12/21(金) 21:44:44
こんばんは 1
今回は浜松と豊橋の中間にある新居町と浜松の近くにある磐田に行ってきました。
新居町の方は木造建築を絵で描かれている方のHPでどうも遊郭建築のような絵があったので
観光案内時所に遊郭だった建物があるかどうか確認した後行ってみました。昔、遊郭だった
建物として案内された 小松楼 という建物は日曜日ということもあり、運良く中をみせて
もらえました。でもここは遊郭ではなく料亭でした。なかには戦中、戦後の芸妓さんの写真
や当時の道具などが展示され興味深いものでした。(芸妓さんキレイ!!)しかし、HPの絵
と建物が全然違う。このことを聞いてみるとその建物は半年前に解体され、現在は駐車場
とのこと。残念。現存する関所のすぐ側にそれはありましたが、完全に跡形も残っていませ
んでした。半年前にはこのHPを知っていたのにスグ行かなかったことを後悔しました。
373
:
k_taii
:2007/12/21(金) 23:04:18
こんばんは 2
磐田では、かつての代官屋敷あとに遊郭があったそうなので、観光案内所にその場所を
確認したところ、現在は地番がなく、立ち入り禁止になっているとのこと。地図で場所を
教えてもらい、駅から十分程歩くとその場所に着きました。そこはこんもりと林に覆われた
崖地でした。おそらくかつてはかなりの広さのある場所だったと思われましたが、そこだけ
残った感じでした。もちろん建物は残ってはいませんでしたが、手作りの案内板があり、
かつてそこには遊郭や料亭があり、古い遊郭の写真、赤線時代の建物の転業旅館の写真
(一部、そしておそらく2階の戸袋にあった3枚のコテ絵)があり、さらに遊郭の建物が
あった場所の現在の写真がありました。その写真によると現在残っているのは土台と
なっていた石垣しかありませんでしたが、ここまで見学者にかつての情報を与えてくれる
のはめずらしいと思いました。また磐田にはかつての見附宿(宿場だったところ)にも
遊郭や赤線があったようですが、時間不足(温泉に行ったので)で行くことが出来ず、
次回となりました。もしみなさんのなかに見附宿の赤線、掛川の十九首町、藤枝の赤線
の情報がありましたらヨロシクお願いします。
ですが、
374
:
夕凪
:2008/01/04(金) 01:59:28
静岡県中西部(浜松以外)
●料理・特殊カフエー
相良料理組合(榛原郡相良町)
藤枝料理組合(志太郡藤枝町登沢)清水楼
金谷料理組合(榛原郡金谷町金谷河原)
二俣料理組合(磐田郡二俣町)
掛川料理組合(小笠郡掛川町小鷹町)叶家・萩の家・壽々喜家
磐田中泉料理組合(磐田市中泉)
中川楽園料理組合(磐田市見付中川町)豊本・大栄
森料理組合(周知郡森町向天方)
新居料理組合(浜名郡新居町中之郷)清月・み奈?登・錦福(鷲津)
1950年の資料より
●芸妓関係
掛川料理組合(掛川市緑町1138ノ※1)
二俣芸妓芸妓屋組合(磐田郡二俣町吾妻町15※7)
磐田市芸妓芸妓屋組合(磐田市二ノ宮)
磐田市中央芸寮組合(磐田市中泉田町13※5ノ1)
藤枝芸妓置屋組合(藤枝市益津4※8ノ2)
1956年の資料より
※静岡県の地理に疎いもので、誤りがあるかと思いますが御容赦願います。
375
:
夕凪
:2008/01/05(土) 01:24:33
蛍ケ池駅周辺(大阪府豊中市)
豊中方面においては、終戦前までは売春問題は全くなかった。
同地方には伊丹飛行場があった関係より、
終戦後、占領軍はいち早く同飛行場を管理するとともに、
飛行場は勿論その周辺に多数の進駐軍兵士が駐留するようになったので、
これら兵士を相手とするオンリー的な婦女や、
売春婦俗にパンパンの姿が多くみられるようになった。
豊中方面を根城として生活していたオンリー的な婦女や、売春婦らは、
飛行場に近接の豊中市麻田の一帯、即ち京阪神急行宝塚線蛍ケ池停留所を中心として、
東西にある一般住宅や農家に相当高い家賃を支払って間借りし、
はなはだしきは住宅難のため農家の物置まで借りていたものすらあったようである。
こんな関係より一般住宅や農家においては、売春婦らに対して高額で間貸しをして
相当収益を得ていたものもあったようである。
全盛時の蛍ケ池停留所周辺は、進駐軍兵士と散策
またはたわむれる婦女の群れが多数見られるようになり、
なかには白昼露骨な行動に出るものもあり、
また間借りをあいている婦女が、兵士を引入れて売春を行ったり、
売春のために場所を提供する業者もあって、
全盛時は売春業者50軒、売春婦200人位であったようである。
一方また、飛行場の北方豊中市、池田市、兵庫県伊丹市との境界線付近には
進駐軍兵士を対象としてのキャバレー、飲食店などが急激に増設されたので、
ここで働く多くの女給らと兵士との間でも風教上好ましからざるものもあって
青少年に与える悪影響などをおそれ、地元住民の間でも問題となったことすらあった。
1961年の資料より
376
:
夕凪
:2008/01/06(日) 09:03:19
テキサス大通り(大阪府豊中市)
すべて横文字の看板、歩いているのはアメリカ兵、
しかしまぎれもない豊中市蛍池、戦後に出現した景観だ。
国道から米軍に接収されていた飛行場へ至る道である。
だれが名付けたかテキサス大通りという。
夜な夜な蛍池の街中にはいわゆるパンパンが出没した。
近くの蛍池小学校では、毎日学校長は早朝に出勤して、
あやしげな品物のの処置に努めた苦心談が伝えられている。
昔の写真集の解説記事より
377
:
夕凪
:2008/01/06(日) 12:38:28
静岡県の料理・特殊カフェー
01.伊豆山料理組合(熱海市伊豆山) 02.下多賀料理組合(伊豆市下多賀町)
03.網代料理組合(伊豆市網代町) 04.泉料理組合(伊豆市泉町)
05.伊東料理組合(伊東市) 06.三島料理組合(三島市)
07.大場料理組合(大場) 08.古奈料理組合(伊豆長岡町古奈)
09.長岡料理組合(伊豆長岡町) 10.韮山料理組合(韮山村)
11.土肥料理組合(土肥町) 12.修善寺料理組合(修善寺町)
13.湯ヶ島料理組合(湯ヶ島) 14.下田料理組合(下田町)
15.沼津料理組合(沼津市) 16.冨士料理組合(冨士町)
17.吉原料理組合(吉原町) 18.冨士宮料理組合(冨士宮市)
19.清水料理組合(清水市) 20.清水港料理組合(清水市)
21.静岡料理組合(静岡市) 22.相良料理組合(相良町)
23.藤枝料理組合(藤枝町) 24.金谷料理組合(金谷町)
25.二俣料理組合(二俣町) 26.掛川料理組合(掛川町)
27.磐田中泉料理組合(磐田市) 28.二葉園料理組合(浜松市)
29.中川楽園料理組合(見付中川町) 30.浜松料理組合(浜松市)
31.森料理組合(森町) 32.新居料理組合(新居町)
1950年の資料より
378
:
k_taii
:2008/01/06(日) 22:46:02
夕凪さんへ
貴重な資料たいへんありがとうございます。ここにある場所を特定するのに1年以上
かかりそうです。東京から比較的近いのがなぐさめです。
ところで、今回は群馬県の伊勢崎と太田にいってきました。
伊勢崎は某雑誌で裏風俗の体験記に風俗地域は旧赤線地区に発生したと書かれていたので
駅の交番で風俗店舗のある場所を聞き訪ねてみました。その場所は国道から少し奥にあり、
軽いのから、重そうなものまで20−30軒ぐらいありましたが、その半分は閉鎖されて
いました。肝心の建物は当時のものは3−4軒ぐらいでした。1軒は豆タイルの柱が入り口
の脇にありましたが、グレーに塗りつぶされ目立たなくされていました。
太田では、伊勢崎のように風俗地区にあると思いましたが、その気配はありません
でしたので、お昼に入ったラーメン屋で聞いたところ風俗地区は赤線があった当時は
田んぼばかりで開発されておらず、駅の出口さえもなかった、とのこと。かつて駐留軍が
いた当時、たくさんのバーがあったところがおそらく赤線のあった場所では、という
ことで、そこに行くと確かにバーが数軒ありましたが、雰囲気はありませんでした。
さらに奥に行くと旅館があり、古い建物が何軒かあるところに出ましたが、そちらの
方が雰囲気がありました。今回は正月で店がどこも開いてなく、詳しい話しを聞けなかった
ので、また再訪して確認したいと思います。
379
:
嶋原G
:2008/01/23(水) 14:51:12
或る城下町
大和郡山は如何にも大和の国に相応しい町だ。柳沢氏15万石の面影を今も濃く残している。赤線地域もその例外ではない。赤線と言うより、旧遊廓という方がピッタリする。古風な三階建ての青楼が、細い路地を挟んで軒を連ね、店の門口には末広とか寿と彫った大きな木の扁額が飾られている。藍地に白で店の屋号を染め抜いた暖簾の影から今にも高尾太夫や八橋太夫が、現れそうなムードであった。
夜になり、入り組んだ狭い町筋が闇に沈む頃、岡町は遊里の艶めかしさを見せ始める。関西のこうした店の常で女性は店の奥に並び、門口に立って客を引くのは遣手婆さんだが、気に入った女の子を当てようと店の中を覗き込む、その客を言葉巧みに誘い込む遣手、そうしたやりとりに遊びの町らしいスリルがある。10時半、どの店も泊まり客を呼び込むのにおおわらわである。泊まったのは旅館の看板の出た大きな店であった。泊まり¥4500というのを¥3000に値切ってのことだが、二階の部屋へ通され、思わず息をのんだ。三畳の間がついて、本部屋が八畳、床間には古風な掛軸がかかり、花がいけられてある。床柱は黒光りしてるし、天井の桟は漆塗り、時代を間違えたようなムードなのだ。「大したものだね・・・」私が感心するので、「うち、こういうの好きやないわ、なんや幽霊でも出てくるような感じでしょ?」明るい顔立ちの彼女はちょっと肩を竦めてみた。
檜造り三階建ての建物である。部屋は20くらいあるだろうか。その店に女が4人しかいない。後で判ったことだが、¥4500のいい値をあっさり¥1500も値引きしたのは、部屋が多いため廻しをとれるかららしい。それにしても、建物の大きさに比べて女性が少ないので、シーンと静まり返っている。その上、飛田や松島、初島、神崎などと違って、余り知られていないためか客も少ない。翌朝、窓から射し込む光で目を覚ました時、私はふと目を凝らした。漆塗りの天井、黒ずんだ紅殻格子の窓、それから眠りから未だ完全に覚めきらない私を、大名になったような錯覚へ誘ったのである。
3年前のことだが、或る週刊誌の取材で関西地方の旧赤線をまわったことがある。その時、奈良市の旧赤線で、「オリンピックがすんだら、売春防止法は撤廃になるんやてね」と、真顔に話す女と会ったことがある。オリンピックが終わっても売防法が撤廃にならなかったのは、御存知のとおりだ。「オリンピックがすんだら・・」と、合言葉のようになって囁かれていた。赤線廃止は外国に対しての見栄のようなものだから、オリンピック終了後は復活する。そして、その日のために既得権益を確保しておかねばならない。誰が言い出したのか、そんな理屈がまことしやかに流布し、取締に抗して、赤線復活の気運は遼原の火と燃え広がっていったのであった。
大和郡山市は人口僅か4万、昭和29年に誕生した新しい市である。4万という人口も隣接の町を併せたからで、市の中心部は2万そこそこだろう。そんな小さな町であれば、警察が本気で取締まる気になれば、赤線やそこら一溜まりもない筈だが、にもかかわらず堂々と営業しているのは、関西地方一帯に広がった赤線復活の火が、想像以上に根強く根深いからに他ならない。
※「警察が本気で取締まる気になれば、赤線やそこら一溜まりもない筈だが」
と言う箇所について、その約20年後、摘発され壊滅した。
1966年発売の某雑誌より抜粋。
380
:
夕凪
:2008/01/27(日) 15:03:50
河内長野の季節仲居
ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。
バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。
どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、マツタケ狩りに精を出している。
以前は店の2階へ誘っていたが、取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。
ここで面白く遊ぼうと思ったら10時を過ぎて行くとよい。
河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い、
そうしたお客を迎えるため、『八○』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。
この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。
こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。
「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・
1972年の成人雑誌より
※“河○長○の温泉街”で検索すると、チョットだけ雰囲気を味わえるかも・・・・・
※“こつまなんきん”は今東光原作の映画(1960年)のようです。
381
:
旧赤線族
:2008/01/27(日) 15:59:22
貴重な資料を
いつも見せていただいています。
なかなかいいですね。
どれもこれも。
いかんせん40台の人間にはその当時の
面影を垣間見るしかありませんが。
その当時20歳以上なら一度くらい利用したかったですね。
382
:
夕凪
:2008/01/27(日) 22:10:50
季節仲居
ジプシーのような季節仲居は、
4月の吉野(桜)→5月の長谷(牡丹)→夏の洞川(参拝)→秋の生駒(風光)
というコースで、観光客を追って移動する。
ところが年間30万人もの観光客がある初瀬だけはこの仲居の一部が土着している。
初瀬には、旅館が全部で13軒ある。生駒同様“料理旅館”と呼ばれているが、
ただ一見して旅館とわかる大づくりのものは4軒ぐらいで、
あとは昔のお茶屋仕立てのちいさな旅館ばかりである。
すべて長谷寺の門前に集中している。
仲居は、1軒の料理旅館に、ふだんで平均4〜5人。5、6月のシーズンに10人ぐらい。
20才台の若い女もいるが、土着化しているのは、がいして30才台以上の年増がおおい。
彼女たちは、ふだん1階の表座敷にたむろしている。
大旅館は別として、ちいさな旅館は土地の表現を借りるなら
「まるで遊郭仕立て」だから、さながら“顔見世”も同じで、
通りすがりの者には、なんとも奇異な感じをあたえる。
このへんの仲居はみな客の背中を流してくれる。
いまどきの観光地にはめずらしく人情が細やかである。
“女上位時代”など、彼女たちには無縁である。
ここには、門前町の古いたたずまい同様、
ふるきよき女の情緒がのこっているのだ。
40年代の風俗記事より(一部要約)
※過去の書込みを、タイトルだけ変えて再掲しました。
383
:
夕凪
:2008/01/27(日) 22:23:06
長野新地 (河内長野市)
楠公遺跡に近く景勝の地であった為、観光料理屋が繁昌したのであるが、
戦後派料理屋、飲食店は政令のため寂れたこともあった。
業者は昔の夢を忘れられ得ず、
季節的の行楽客の多い時の収入によって
辛うじて経営を維持してきているようであるが
一方仲居は大阪、堺などで食い詰つめた三流どころが多く、
収入も少ないので自然に売春を行うようになっていった。
昭和31年初めから、料理屋営業のみに切替を警察の指導によって行われた、
泊り客は減少してきたので、同年11月より青線地帯のリストより除外されたが、
売春法の実施により大阪その他売春婦らが同新地に移行してくることも予想され、
監視は続けられていたようであった。
長野市内には料理店が25軒あって、そのうち「14軒」が点々とあるが、
このうち4軒では従来より売春は行われていないようであったので
売春は14軒中の10軒で、売春婦として働いていた者も約50人位であった。
売防法施行後、長野新地の業者は行楽客等を対象としてきた料理屋として
営業を継続して来たものであったが、
同地方は大阪市内を離れた閑静な地域である関係もあってか、
遊客を相手に売春は密かに行われていたようで、
所轄河内長野警察署では、
昭和31年にかっての売春(青線)地域から除外されている関係もあって、
同地域を売春のない明るい地域にせんと
極力業者並びに従業員を指導して来たようであった。
1961年発行の公機関の資料より
※これも過去の書込みの再掲です。
384
:
夕凪
:2008/01/28(月) 21:34:08
埼玉県の芸妓屋組合
01.埼玉県芸妓屋組合連合会・・・・・大宮市大門1-40**
02.秩父芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・秩父市本町15**
03.熊谷芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・熊谷市竹原町34**
04.東松山芸妓組合・・・・・・・・・・・・・東松山市大字松山
05.飯能芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・飯能市本町2
06.川越芸妓組合・・・・・・・・・・・・・・・川越市本町2*
07.所沢芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・所沢市本町59*
08.大宮芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・大宮市大門1
09.浦和芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・浦和市仲町1-**
10.小川芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・比企郡小川町
11.行田芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・行田市新町2**
12.加須芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・加須市
13.羽生芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・羽生市
1956年の資料より
385
:
yutaka
:2008/02/01(金) 06:51:31
新刊本
ご無沙汰しております。
ご存じかと思いますが、「赤線跡を歩く・緑本」に続き、また遊所関係の本が発売されましたね。
花街・色街・艶な街 色街編
135p 21cm(A5)
街と暮らし社 (2008-01-31出版)
・上村 敏彦【著】
[A5 判]??販売価:\1,470(税込) (本体価:\1,400)
サイトより抜粋
吉原遊廓盛衰記―台東区
羽織芸者と深川の色街―江東区
品川遊廓と品川海岸三業地―品川区
板橋遊廓の盛衰―板橋区
千住遊廓宿場町と柳町―足立区
新宿二丁目物語―新宿区
根津岡場所から遊廓へ―文京区
洲崎遊廓盛衰記―江東区
迷路の玉の井カフェー街―墨田区
誰が名付けた鳩の街―墨田区:亀戸天神裏の花街と赤線跡―江東区
美人ぞろいの東京パレス―江戸川区
亀戸から移転した新小岩赤線跡―江戸川区
玉の井から流れた亀有の赤線跡―葛飾区
亀戸から移った立石特飲街―葛飾区
武蔵新田の赤線跡―大田区
府中の飯盛旅篭と東府中の歓楽街―府中市
最初に赤線の灯が消えた町調布―調布市
三鷹八丁目特飲街顛末記―三鷹市
基地の町立川の赤線跡―立川市
八王子の花街と田原遊郭―八王子市
赤線の町・福生―福生市
まだ全部は読んでおりませんが、当時の地図、屋号などが記載されていて興味深いです。
また、「荷風!」も今回は池袋、大塚特集。池袋の三業地の古今が特集されています。
386
:
夕凪
:2008/03/02(日) 03:55:25
神戸・福原遊廓の成立と展開 (兵庫歴史研究会 2月例会)
演 題 : 神戸・福原遊廓の成立と展開
講 師 : 人見佐知子 先生
(注)神戸大学大学院人文学研究科地域連携センタースタッフ
日 時 : 平成20年2月10日(日) 13:30より15:00頃まで
場 所 : 兵庫県民会館 1202号室
(JR・阪神「元町駅」の山側、徒歩7分。地下鉄「県庁前駅」1-2出口)
参加費 : 500円(申込み不要・自由参加)← 会員以外の方も参加OK
主 催 : 兵庫歴史研究会
--------------------------------------------------------------------------------
神戸で始めて公認の遊廓が誕生したのは、慶応4年(1868)5月1日のことである。
福原遊廓と名付けられたそれは、開港と居留地の開設を契機に設置されたものであった。
〈近代公娼制度〉の本格的な展開は、明治5年(1872)10月2日、太政官布告第295号、
いわゆる「芸娼妓解放令」の公布を契機としているといわれる。
「芸娼妓解放令」以前には、売春統制に対するまとまった法令はなかったが、
それ以後、売春に関する規則が体系的に整備されるようになるのである。
神戸においても同様に、明治5年以降、神田孝平県令のもとで、
福原遊廓を中心に、本格的な売春統制施策が展開されることとなる。
明治初年の神戸における売春統制のあり方は、
全国的にみても非常に特殊な「散娼」政策を実施したことで知られる。
(売春営業の区域を制限しないこと。逆に、売春の営業を特定の地域に隔離することを「集娼」という。)
これは、神戸が開港場であり、
居留地に加えて外国人と日本人が雑居する日本で唯一の雑居地を抱える特殊な空間であったこと、
それを統括していたのが、開明的な政治官僚として名高く、
その手腕を開港場・神戸の運営に発揮することを強く期待されていた
神田孝平という人物であったことと深く関わっている。
本報告では、神戸に初めて誕生した公許の遊廓である
福原遊廓をめぐる神田の政策を中心に考察することで、
開港場・神戸における明治初年の売春政策の特色を明らかにし、
さらに、それが日本の〈近代公娼制度〉の中でいかなる位置にあるかについて論及したい。
???????????????????????????????????????????????? ?? 同会のHPより
387
:
:2008/03/02(日) 04:08:23
秩父の「花街」跡
鷹目さま、皆様、ご無沙汰しております。
もう2月になってしまいましたが、今年もよろしくお願いいたします。
>埼玉県の芸妓屋組合
>02.秩父芸妓屋組合・・・・・・・・・・・・・秩父市本町15**
私の故郷、秩父は、明治〜昭和戦前期に生糸・絹織物の生産・流通で栄えた街で、人口規模に比して、まずまずの規模の花街がありました。
市内を南北に通過する国道140号線(熊谷〜塩山線)の旧道の両側には、つい近年まで、広い間口の取次業者の建物が何軒も残ってましたが、いわゆる「花街」(芸者町)は、旧国道から一段下がった(秩父は河岸段丘上に発達した街)細い道路に沿って細長いエリアです。
私が子供の頃(1960年代まで)には、料亭も何軒かあり、そこそこ賑わっていたようです。
年末帰省したときに、ちょっと思い立ってそのエリアを歩いてみましたが、古い料亭の建物は1〜2軒残っているだけで、しかも廃屋に近づいていました。
ちょっとだけ、ご報告でした。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
388
:
夕凪
:2008/03/06(木) 21:53:42
大津
冬は鴨料理で雄琴温泉が、夏は浜大津を基点に湖岸各地の海水浴場が賑わう。
一泊することも多い訳で、そんな時にお色気を求めようとしても、
地方都市のことだけに、一現で穴を掘り当てるのは至難の業といえよう。
雄琴、石山両温泉とも何もないから、夜は浜大津へ出てこなければならない。
トルコ、ヌードスタジオ、ステッキなど見当たらないし、
ストリートガールも立ってはいないから普通のお愉しみコースは、
まず浜町か柴屋町のバーで飲むことから始まる。
前者は新興バー街でいともたやすく夜のデイトに応じるホステスがいるし、
柴屋町にしても旧赤線だから、堅い一方ではない。
店によっては飲食を抜きにして、ホステスに肉体サービスをさせるところもあるという。
芸者はそうした要求にこたえてくれまいから、宴会でまず親しくなって
夜の街へ誘い出そうというのなら、やとなといった方がいい新検芸妓だろう。
これらは、とりたてて看板もあげていないから、旅館の番頭と相談してみるべしだ。
1967年の夜のお遊びガイドより
389
:
夕凪
:2008/03/09(日) 22:10:55
東の吉原、西の柴屋町 (大津駅)
宿場町、商業の町で栄えると、夜の町花街もにぎわうことになる。
今も健在の柴屋町だ。
柴屋町は俗称、正しくは馬場町(現在は長○三丁目)といった。
いつごろ花街になったかはわからないが、大津城ができ、宿場町になり、
旅籠が並んだころからではないだろうか。
大津には柴屋町のほか、四の宮(京○三丁目)、真野(長○一丁目)、稲荷新地(松○二丁目)と
傾城遊女の町があったが、当時から柴屋町は別格だった。
西鶴は『日本永代蔵』の中で「昼間から三味線のバチの音が聞こえて・・・・・」と書き、
『好色一代男』では、色男世之介がやぼったい格好をしていたため
「格式高い柴屋町で遊ぶ身分ではない」と軽く見くびられるくだりがある。
一時は、お江戸の吉原と肩を並べるほどだった。
『色道大鏡』という粋書によると、延宝4年(1676)の揚代は、天神(または格子)と呼ばれる
ハイクラスな遊女で銀26匁。塩3俵が21匁だった時代、
今流に換算するとウン万円は軽いというところか。
また文化15年(1818)に揚屋仲間・茶屋仲間から出された定書では、
「傾城揚代 金2朱(1朱金16枚で小判1両)局女郎 銭464文」とある。
当時、1両で米が1石7、8斗。塩が1升で32文だったのだから、
柴屋町での遊びは、かなり高くついたといえる。
柴屋町にも花街情話が残っている。「小稲・半兵衛情死」だ。
柴屋町遊廓に富永屋という置屋があり、小稲という遊女がいた。
その小稲に坂本村(大津市坂本)の呉服屋の手代、半兵衛がぞっこんほれ込んで、
商用で大津に来ると通いつめていた。
柴屋町の遊び代は高く、手代の給金では後が続かない、
小稲会いたさに、借金に借金を重ね、ついには店の金まで手をつけた。
進退きわまって、小稲に窮状を訴えたが、10両盗めば打ち首になる世の中、
「私のような物に入れ揚げたばっかりに」と、小稲・半兵衛は心中して果てた ――― 。
柴屋町の名の起こりは、古くから薪売りが多く住んでいたからとか、
花街の女にたきつくす慕情を、火を焚く柴にたとえてとかいわれている。
まだ格子が残る古い家並みをみると、慕情のロマンを採りたくなる。
1981年の鉄道旅行案内より
390
:
yuu
:2008/03/25(火) 19:14:55
歓楽荘とは??
いつも拝見させていただいております。
某掲示板の”東海地方の遊廓跡を歩く”で 愛知県の赤線跡に歓楽荘 宝飯郡とあります。
自分はどこにあるのか探しているのですがそれに関する記述を見たことがなく途方にくれております。
宝飯郡といえば御油や赤坂が思い当たるのですが。。
少しでもご存知の方がおられましたら、ご教授お願いします。
391
:
夕凪
:2008/03/25(火) 23:50:37
二つの觀樂莊
手許の資料では、「歓」ではなく「観」になっていますが、御紹介させて頂きます。
1.三谷觀樂莊(三谷町)
事務所:宝飯郡三谷町二舗
?新高砂?鶴亀?寸樂?銀星?忍?いろは?玉家?一樂?登喜和
2.蒲郡觀樂莊(蒲郡町)
事務所:宝飯郡蒲郡町大字小江字西梶前
?重乃家?久岡?光本?万徳?亀福?浜の家?岩本?浜岡?宝来?月盛
1950年の資料より
※二つの「觀樂莊」の関係や、存在した期間等はわかりません。
※某掲示板の”東海地方の遊廓跡を歩く?”では、
歓楽荘(宝飯郡)の、組合長の屋号は「一楽」とあります。
??私の手許の資料にも「一樂」は存在しますので。
「歓」は、1946年の資料からの、転記誤りかと思われます。
●蒲郡温泉郷(三河湾温泉郷)の、三谷と西浦の両温泉は、夜のお遊びも盛んで、
1960年代後半には、なんでも揃うようになった。
両方ともヌードスタジオがないのは残念だが、
それにかわる三谷のストリップは豊橋から客がやってくるほど盛ん。
トルコは西浦に1軒だが、これもまた満足させてくれるほど
ピンクムードに満ちている。バーは両温泉とも数多いが、
三谷にはキャバレーまで出現している。
また、ここの芸者のピンク指数の高さは有名だったそうです。
1967年の夜のお遊びガイドより
※東海地方の事情に不案内なもので、見当違いでしたら御容赦下さい。
※愛知県の特殊カフェーに興味がおありでしたら、
??2007年1月27日の書き込みを御覧頂ければ幸いです。
392
:
yuu
:2008/03/26(水) 09:55:28
なんと!
夕凪 様
さっそくのお返事ありがとうございます。
なんと觀樂莊は蒲郡のことだっだのですね!!すっきりしました。蒲郡は昔は宝飯郡だったことを始めてしりました。自分は赤坂あたりの宿場町のことを指すのかな〜と早とちりしていました。
二つの觀樂莊とはまたまた驚き。貴重なお話をありがとうございます。
393
:
yuu
:2008/03/26(水) 14:35:19
(無題)
先日所用で豊橋に行きました。豊橋といえば有楽&東田仲の町が有名ですが今回は花園町(赤線跡?)を見てきました。愛知県といえばどちらかというと純和風な建物が多いのですが、ここで”魚○×”という懐石料理を専門とするお店を見つけました。この建物が見事なカフェ調様式(鮮やかなタイル&円柱)であり三河地方にもこのような建物があったんだと感動いたしました。その他にも軒灯の残る建物など数件当時のものと思われる建物がありました。
以上ご報告まで
394
:
夕凪
:2008/03/31(月) 00:33:24
赤線最後の日から50年
●決議(陳情書)
・・・・・戦争の惨禍は一朝にしてその全域を廃燼と化し
昔日の面影を偲ぶべくもない現状を見た吾々区民の痛惜は又言葉もなし。
然しながら焦土の中にいち早くその再建に着手し現在地に再現を見た松島新地は、
隣接せる九条商店街と互に因となり果となりなりつつ
著々繁栄の礎を築き西大阪復興の原動力としての訳ありを果して来たことは
何人も等しく首肯する処である。
然るに先の国会で通過を見た売春防止法の成立は
全松島をして一年有半の余命たらしめる結果、
其の後に来るもの即ち草茫々たる廃きょである。
今もし松島新地がかかる事態を招来せんか、
九条商店街の衰微は言うに及ばず
遂には西区をして繁栄の素因を失わしめる結果となり、
今後の西区は何を以てその繁栄を期せんとするのか。
ここに於いて我々区民は、かかる悲運を西区に招来するに忍びず、
西区の繁栄ひいては西大阪将来の発展のために、
松島新地をして新しく生きかえらしめ、
健全なる歓楽街として、その存置を希望するものである。
右決議する。
昭和32年8月25日
大阪市西区区民大会
西区発展のために右の趣旨に同意する
大阪市西区長 ○久○ 勇
●当時、売春防止法の完全実施を阻止せんとして集められた陳情書は400通あまり。
その内訳は、市町村長63、府県議会長1、市町村会議長37、商工会議所151、周辺商人94、
自民党支部長25など、陳情書への署名者は、4万名にのぼっていたそうです。
1957年の新聞社発行の雑誌より
395
:
嶋原G
:2008/03/31(月) 02:56:17
50年経過ということ
売防法実施から、4月1日で50年である。
旧赤線及び旧遊里にある、今も現存している、かつて妓楼であった建物は、
最低で築50年以上経過しているということでもある。
今年は時間があれば色々、探訪してこようと思います。
396
:
夕凪
:2008/03/31(月) 22:50:57
第三の歓楽荘
觀樂莊の「觀」の字が「觀」か「歓」かスッキリさせたくて、手元の資料資料を見てたら、
もう1つ「歓楽荘」が出てきました。
なお、漢字は、先の二つも合わせて、いずれも「歓」を使っていました。
※名称−業者数−従業婦数−位置 の順
?形原歓楽荘−09−26−宝飯郡形原町
2.蒲郡歓楽荘−10−27−蒲郡市小江町
3.三谷歓楽荘−10−29−蒲郡市三谷町
?????????????????????????????? 1975年の警察の資料より
※所轄はいずれも蒲郡警察署でした。
※蒲郡市は1954年4月1日に、蒲郡町・三谷町・塩津村が合併してが発足し、
宝飯郡より離脱しました。
??????そして、1962年4月1日に、形原町と蒲郡市が合併したそうです。
●この3地域の、距離や位置関係、移動時間等は、どんなもんでしょうか?
397
:
夕凪
:2008/04/01(火) 23:59:00
売防法全面施行の日から50年
1958年4月から全面施行された売春防止法は、全国で1万5千人の赤線業者と
50万人の従業婦を転廃業せしめ、公認されていた日本の売春形態は「売笑3千年」の
古い歴史を残して終わりをつげたのである。
1961年発行の婦人相談員の著作より
それにしても50万人言うたら東大阪市or尼崎市の全人市民が売春婦 !?
それにしても売防法全面施行の日から百周年の時には、
松島、飛田、信太山、今里、滝井、かんなみ、天王等の新地は、あるんやろか?
398
:
鷹目
:2008/04/07(月) 00:06:48
インフォメーション
2008年4月6日(日) 第七回定例OFF会のお知らせ
下記日時、場所で開催を予定しております。
2008年5月6日(火・祝日) 午後5時頃から(予定)。
滋賀県大津市長等 「相撲料理 神雷」
http://www.geocities.jp/jinrai1961/index.htm
会費は現在4000〜5000円を予定しております。
また都合のより変更になる場合もありますのでご了承ください。 酒席の為、次の条件を満たさない方の参加はご遠慮ください。
?20歳未満の方
参加希望の方はこちらからお申し込みください。申し込み番号と共にご返信いたします。?
http://form1.fc2.com/form/?id=172867
変更になった事柄は随時HP、掲示板等でお知らせいたします。また最終確認等のご連絡は、メールで御案内させていただきます。
なにとぞご了承の程、宜しくお願い致します。
399
:
夕凪
:2008/04/12(土) 21:55:54
赤線跡に渦巻く引力 ?
◇全国400カ所を訪ね、建物や町並みをカメラに収める◇ 木村 聡
今年は「赤線」が消えてちょうど半世紀にあたる。
戦前の遊郭を引き継ぎ、戦後、事実上の公娼地区として機能した街は
1957年4月1日施行の売春防止法によって禁じられ、1年の猶予を経て完全に姿を消した。
私は20年ほど前からその跡を訪ね歩き、カメラで記録を残してきた。
▲ ▲ ▲??突き刺さる視線
56年生まれの私は、好きな文学の世界でしか赤線を知らなかった。
学生時代に読んだ野坂昭如、井上ひさし、吉行淳之介らの作品には、
彼らの文章を通し「今は無くなってしまった夢の街」の
イメージを抱いた程度だった。
現実に出合ったのは、ある取材で訪れた神奈川県横須賀市の安浦が最初だった。
足を踏み入れた瞬間、それまでに感じたことのない街の雰囲気に圧倒された。
窓や格子や屋根に飾りを施した、明らかに一般住宅と異なる家々の並び。
派手な街灯。入り組んだ路地。
人をひきつけるための細工を凝らした街は、
建物が旅館やアパートに用途を変えても、不思議と引力を失っていなかった。
これが赤線なのか、と衝撃を受け、資料、書籍を集め始めた。
ところが、全国におよそ千以上あったと推測される街の記録を
体系的に記した資料は一つもない。
働いた女性をはじめ、ある人々にとってはつらい、
忘れ去りたい土地であることを思えば当然だ。
だが、私は誰かが真剣に記録を残さなければならないと思った。
賛否の議論は脇において、存在したものを後世に伝える使命を感じた。
400
:
夕凪
:2008/04/13(日) 01:37:04
赤線跡に渦巻く引力 ?
「全国女性街ガイド」「全国花街めぐり」といった、戦前、戦後のガイド本を入手し、
各地に残る赤線跡を400カ所ほど歩いた。
東京・吉原や京都・島原のように有名な色町の取材は難しくないが、
ほとんどの場所では「よそ者」への突き刺すような視線にさらされた。
「何やってるんだ」と怒鳴られたのも一度や二度ではない。
住民の気持ちをふみにじることだけはすまい。
そう肝に銘じてきたから「受け入れてもらえない」と感じると、何も撮らずに立ち去った。
無理に話を聞きだすことも避けてきた。
401
:
夕凪
:2008/04/13(日) 22:51:43
赤線跡に渦巻く引力 ?
▲ ▲ ▲??金と性が支配した街
それぞれの妓楼は大きくなく、多い家でも抱えた女性は十人程度。
昼間は芸者が稽古する三味線の音が聞こえるくらいだったが、
夜になると一変して女性たちの嬌声に包まれた。
糸崎は貿易港だったので、外国船が着くと羽振りのよい外国人客に女性はみんなとられて、
日本人は相手にされなかったという。
この地域には、毎日夕方5時になると近所の男衆が「ばんこ」と呼ぶ縁台を持ち寄り、
会話を楽しむ習慣がある。
そんな集りの輪に、父の別の兄弟と幼なじみだった男性がいた。
やはり遊郭にうどん屋を開いていた家の子息で、
37件あった妓楼の名を全部そらんじていた。
港に入れない大型船に女性を運んだり、逆に客を港まで連れてきたりする
「おちょろ船」が糸崎からも出ていたことをその方から教わった。
402
:
夕凪
:2008/04/13(日) 23:10:16
赤線跡に渦巻く引力 ?
本物の恋も、欲得ずくの関係もからみあった花街は、数々の文学や映画を生んだ。
だが、行き着くところ全てを支配したのは色と金だ。
良くも悪くも人間にとって根源的な欲望が、ものすごいエネルギーで渦巻き、
消費されたからこそ、跡には一種の磁場が生じたのだろう。
それにいや応なく引き寄せられた、というのが
私が足を運び続けた本当の理由のような気がする。
しかし、その建物や街並みも、取材をしている20年間の間にどんどん壊された。
当初の3分の1は既にないだろう。
ひっそりと壊れつつあった過去の遺物を、私はともかくも記録した。
あとは未来の歴史家に委ねよう。
日本経済新聞 2007年3月21日 朝刊
※記事の一部を省略しました。
403
:
楽天地
:2008/04/14(月) 23:50:54
旭楽園
遅レスになりますが、蒲郡、形原、三谷は、現在同じ蒲郡市になっており、
それぞれ温泉街があります。
「名も旭楽園と改め」
内務省の風紀上取締策樹立の建前の下に愛知県は公娼廃止断行の決意をかため・・・
〜中省略〜
中村遊廓を全廃し、名称は「旭楽園」とし、娼妓は「園妓」と改め・・・
昭和9年の名古屋新聞記事より
「旭楽園」という呼び名は広まらなかったようですが、これが後の「名楽園」「歓楽荘」
など東海地方独特(?)である呼び名の原型かな、と思っています。
404
:
夕凪
:2008/04/16(水) 07:39:35
「歓楽荘」ブランド ― 本家 vs 元祖 vs 初代?
●楽天地さん、蒲郡、形原、三谷の3つの歓楽荘は、
どんな繋がりがあったのか御存知ないでしょうか?
あるいは「○○歓楽荘」を名乗る以前はどんな名前だったのでしょうか?
なんらかの繋がりがないと、同じ「歓楽荘」ブランドを
使用する事はないと思うのですが・・・・・
●また対抗心のある(?) 尾張と三河で、「○○園」とか「○○荘」とかの
ネーミングの地域性ってあるんでしょうか?
※「○○連」もありますが。
もし御存知の方がいらっしゃいましたなら、よろしくお願い致します。
405
:
楽天地
:2008/04/18(金) 21:20:09
ネーミング
夕凪さん
●3つの歓楽荘の関係はよくわからないんです。
地理的に近いこともあり、なんらかの繋がりはあったと思うのですが・・・。
●尾張と三河では特にネーミングの地域性は感じていませんが、岐阜の飛騨地方まで
いくと「○○園」とかは使われていないように感じます。
「○○連」は花街に多かったので、その流れじゃないかと思います。
逆に「港楽園」という花街もあったそうですが・・・。
406
:
夕凪
:2008/04/22(火) 00:14:10
『 園 』 の 起こり
楽天地さん どうもありがとうございます。
●『中村遊廓を全廃し、名称は「旭楽園」とし、娼妓は「園妓」と改め・・・・・』と言う
名古屋の新聞記事が1934年。
1932年発行の『百万・名古屋』には
??「忽然と、下飯田の原っぱの中に、長屋が立ち並んだ。」との一文があり、
?? その中で「名古屋の玉の井」と言う表現はあっても、
??(他の女性街を含め)『○○園』の表現は見つけられませんでした。
また一方、1937年発行の『歓楽の名古屋』には
「東区下飯田町の一地域に城東園があります。」との記述が見られます。
?? やはり、仰られる通り「旭楽園」が『園』の始まりかもしれませんね。
でも『園』は、どんな縁で登場したんでしょうかネ !?
もちろん別口ですが、鳥取には『衆楽園』がありますよね !?
407
:
:2008/04/22(火) 13:21:35
京都・五条楽園の現況
こんにちは。
日曜日、京都出張の折に五条楽園を再訪してきました。
東京の新吉原などでは、旧赤線時代の建物が、再開発で次々に姿を消しているので、
心配だったのですが、「浅とみ」の和装女性のステンドグラスも、
アールデコ調の大きな丸窓がある建物も、健在でした。
ご存知の方も多いと思いますが、一応、ご報告まで。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
408
:
夕凪
:2008/04/24(木) 23:53:26
大阪の立ちんぼ 1959
【西成区】625人
?山王町1・2・3附近(125人)?東西入舟町附近(89人)?東田町附近(65人)
?地下鉄動物園前附近(40人)?飛田本通、今池町、甲岸町その他西成区内附近(306人)
【浪速区】411人
?市電動物園前及び霞町車庫前附近(30人)?新世界通天閣附近及び劇場前附近(145人)
?恵美須町交差点附近(31人)?霞町一帯附近(205人)
【阿倍野区】226人
?阿倍野橋々上附近(122人)?国鉄天王寺駅前及び近鉄阿倍野(ママ)駅前附近(64人)
?阿倍野市民病院(ママ)及びアポロ座附近(37人)?阿倍野区旭町附近(3人)
【南区】192人
?南海難波駅附近及び御堂筋附近(41人)?宗右ヱ門町附近及び難波新地附近(35人)
?美人座附近、三ツ寺町ニューパレス附近(39人)
?千日前デパート附近及び日本橋1.2.3丁目附近(43人)?歌舞伎座附近及び南区内(34人)
【天王寺区】194人
?近鉄上六駅前附近(30人)?天王寺公園内附近(141人)?上六映画館前附近(18人)
?天王寺西門前附近(5人)
【西区】26人
?松島新地附近(17人)?九条通り附近(9人)
【北区】316人
?曽根崎警察署附近(97人)?兎我野町附近(58人)?太融寺町附近(37人)
?梅田町4番地附近及び第一生命ビル附近(38人)?大阪駅前及び周辺附近(30人)
?読売新聞社附近(36人)?梅田新道附近及び堂山町附近(20人)
【大淀区】14人
?長柄国分寺町附近(7人)?新京阪天六駅前附近(4人)?長柄中通り附近(3人)
【その他の地区】31人
?市電京橋駅前附近(4人)?港区内附近(4人)?堺市栄橋通り附近(11人)
?東淀川十三附近(2人)?松原市内(1人)?吹田市内(1人)?不詳(8人)
合計2,035人
公機関による『売春の勧誘場所別調』より
409
:
楽天地
:2008/04/25(金) 22:22:49
『園』の縁
夕凪さん
昭和9年の名古屋新聞には
「廓内廓外の境界を撤廃して名称を『旭楽園』とし、娼妓は園妓と改め
二枚鑑札どころか三枚、四枚で極めて自由で朗らかな享楽の極楽境がこ
こに誕生」
とあります。※要約してあります
・・・おそらく『廓』よりも『園』や『荘』のほうが、自由なイメージが
あったのではないでしょうか。
関西だと「新地」、関東では「パラダイス」や「パレス」など、ネーミング
にも地域性があって面白いですね。
410
:
k_taii
:2008/04/27(日) 20:32:04
こんばんは
久しぶりに関西に出かけて来ました。1日目に篠山、福知山、宮津。2日目に
西舞鶴、東舞鶴、綾部でした。週刊誌で赤線終了50周年の記事がありましたが、
50年たっても一部の建物が残っていること自体、すごいことだと思っています。
西舞鶴の朝代遊郭跡では、朝代神社から桂林寺まで建物があったみたいで、
千本格子の建物がずっと続いていたとお婆さんは教えてくれました。千野宮神社
をなんとなく歩いてみたところ昭和30年の玉垣(?)があり妓楼、呉服屋、
飲食店、旅館などの名前がありました。妓楼の名は胡蝶、三島屋、松竹、梅の家、
一文字、天橋楼、君の屋、いろは、中徳、藤ひさ、はなふさ、すみ家、国の家、
ふみ家、霞月などがありました。
411
:
夕凪
:2008/04/30(水) 00:21:48
想ひ大津の柴屋町 ?
●上柴遊廓(上馬場町)
揚屋の料理人と女郎とが情死したのを当時の作者によって小稲・半兵衛と美化され、
それが広告となって想い大津の柴屋町と謳はるるに到った履歴附きの遊廓で、
重なる茶屋は小島屋、大房、金繁で之についで大芳、富美久、北此、金君、などがある。
小島屋の構造は大阪城落城の当日元和元年5月7日に棟上をしたままのもので
大高源吾閑居の茶室が現存し、北此楼は所謂小稲半兵衛の情死した家である。
老妓としては、上方唄の巧い上田うた(52)、浄瑠璃は男優りの松室喜代助(56)、
長唄とチャリ舞で知られた若山榮吉(48)、踊の堪能な中村あい(42)があつて、
孰れも舞妓からの勤続者である。
名妓といえば年は若くとも谷口富子を推さねばならなぬ。
遊芸の師匠としては踊は藤間都壽、唄は長谷川はな、鳴物は田中忠次郎、
新曲技芸顧問池田百八である。
412
:
夕凪
:2008/04/30(水) 00:40:26
想ひ大津の柴屋町 ?
●下柴遊廓(下馬場町)
此廓は明治20年(1887)に上柴から分離したもので喧嘩繁昌すること
江州十一遊廓中の随一なれど芸者なり楼主なり品位に欠く所があって
何となく成金の全盛を見るような心地がする。
茶屋としては、四層楼の島屋、之に次ぐものは夷屋、一富士楼で、
その他は芝居の書割を見るような家ばかりで、
芸者は首を看板にする若い芸者ばかりのうち、唯一人二見あい(52)という老妓があって、
何くれとなく世話をやいて居る。
遊芸の師匠としては踊は岡本きく、唄は磯田きく、鳴物は田中忠次郎、
此廓は稽古が八釜しいので追々腕が出来、上柴の連中と立列べる者もあるようになった。
413
:
夕凪
:2008/04/30(水) 01:06:02
想ひ大津の柴屋町 ?
●眞町遊廓
明治初年には長等山麓の寂しい土地でチラホラある家の中に白首の鬼が棲み
順禮宿という名の下に遊里の形を造ったのがそもそもで、
次第に発達し今では上柴に次ぐ江州有数の遊廓となったのである。
大駒楼が飛放れて良く、次に千代の家、可祝楼、玉屋などあり。
其の他はお粗末なのも無いだけに立派なのもない。
芸者は40名以内で相当に芸もあり、老妓に、お人柄な木村八重(38)と、
喧ましやの服部小才(39)とがあって、重忠と岩永のように捌きが附く。
遊芸の師匠としては、踊は小谷はる、唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
此廓に歌舞会なるものが常設され時々月ざらいを演る。
414
:
夕凪
:2008/04/30(水) 01:14:35
想ひ大津の柴屋町 ?
●甚七町遊廓(稲荷新地)
大津の東部菊ヶ浜を拓き稲荷神社の附近に遊廓を置いたので稲荷新地という。
24・5名の芸者は隣接せる料亭魚善楼のお蔭で活きて居るようなもので、
茶屋では川上音二郎が久しく食客になって居た俵屋を始めとし、
木村屋、魚友楼など可なり立派なのがある。
芸者は可もなく不可もなき雁首が揃い、
黒田美代吉(38)という老妓が牛耳を取り、
芸に堪能な大辰楼の梅子が若手を引立てて居る。
遊芸の師匠としては唄は山村たけ尾、鳴物は田中忠次郎、
踊は当時欠員で、芸者梅子が代理を勤め得意な篠塚派の手振を教えて居る。
415
:
夕凪
:2008/05/01(木) 00:22:30
想ひ大津の柴屋町 ?
●花代と祝儀
花代は1本10銭で、1時間を5本とし、最初の1時間には送り込みと称して2本を附加する。
昼夜通し花は75本、之を細かに分けると、午前6時より同9時まで6本、
午前9時より正午まで6本、正午より前1時間を6本とし余は1時間4本の割で追うて行く。
茶屋の口銭は花1本に付2銭7厘、芸者の祝儀は客の意志次第で一定せず、
中には、知らぬ顔の半兵衛もある。
1919年の資料より
416
:
夕凪
:2008/05/11(日) 23:59:37
上馬場・下馬場の穴場
国鉄大津駅から北西に約1?“三井の晩鐘”で知られる三井寺の麓あたりに、
細くゆるやかな坂道に沿って、バーや小料理屋がぎっしりと並んでいる。
ネオンこそ華やかだが、どこかしっとりとしているのは、
この場所が、もとの遊郭で格子のある家の形そのままで
飲食店営業をしているからであろう。
古い造りの建物に、横文字のスナックやクラブの看板があるのは、
奇異なものだが、しかし慣れてしまえば、
それもまた大津独特の風情と感じられて面白い。
この街には、もう一つ結構な趣向がある。
T江姉さんから聞いたのだが、
大津ではお座敷に上がらなくても、芸者が呼べるのである。
ホステスよりも安くつき、その場の“自由恋愛”も腕次第でOKというから、
まさしく男性天国。
1970年の男性週刊誌より
417
:
k_taii
:2008/06/16(月) 23:06:38
こんばんわ
今回は韓国の釜山にあった牧島遊郭に行ってきました。現在の釜山市街の海をはさんで
反対側の影島にあった遊郭で、南浦洞駅から徒歩20分ぐらいの橋を渡ってすぐの場所
ありました。ある方のHPには50−60メートルの小道の両側に10数軒の建物が
あったなか、2軒の日本式家屋(つまり遊郭)が残っているとのことでしたが、現在は
1軒が取り壊され(より日本家屋の特徴が多い建物、ここ3ヶ月以内に取り壊された様子)
、通り側から見て日本式家屋の面影がまったく無い建物(裏側から見ると日本式家屋に
見れる)は残っていました。牧島遊郭は終戦後、日本人が引き上げた後も遊郭として
営業を続け400人前後の女性が働く私娼街(1948年?公娼制度廃止)として有名
でしたが、1960年末から1970年にかけて浄化され(?)現在は色町としての
痕跡はまったくありませんでした。ただ他の場所は区画整理されていたのに対して、細い
道が2本あり、色町の特色を残していました。牧島遊郭の周辺には軍慰安所があったとの
ことで、周りを歩きますと、何軒か日本家屋が残っていましたが、1本外れた通りに
それらしい建物は1軒だけでした。
418
:
dai
:2008/06/23(月) 22:03:51
北の都
はじめまして。
初めて書き込みさせていただきます。
以前から拝見はさせていただいておりました。
私は大阪在住で最近遊廓巡りに目覚め、関西をはじめウロウロしだしました。
なんとも情緒があり、建築のすばらしさや、近辺の雰囲気に酔いしれます。
一つお尋ねしたい事があります。
以前に竹内真理子さん著の「昭和遊女考」「鬼追い」などを購入し、昔遊女さん
がたの辛い物語に胸を痛めました。
この本に出てくる「北の都」なる遊廓は、あるサイトでは仙台と言う事を見た事
がありました。しかし他の遊廓の話もあるのでは、とも思うのです。
仙台は空襲で焼けた筈なので、なんか話が合わないとも思います。
勿論戦争以前の内容が多いのですが、戦後のアメリカさん相手の話も出てきます
ので、???と思うのです。
この「北の都」とは仙台の遊廓なのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
419
:
:2008/06/28(土) 01:08:17
Re.北の都
浅学な私が、お返事するのもどうかと思いますが・・・。
竹内さんの一連の著書の聞き取りは、
仙台市小田原にあった新常盤町遊郭がメインだと思います。
ただ、おっしゃるとおり、この遊廓は、戦災で全焼し、
一斉廃業したはずですので、
戦後の赤線時代の話は、別の場所かもしれません。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
420
:
:2008/06/28(土) 01:12:48
横須賀・皆ケ作、安浦近況
5月に横須賀に行く機会があり、皆ケ作、安浦の近況を見てきました。
皆ケ作は、部分的にですが、再開発が進行中です。
よろしかったら、下記のレポートをご覧くださりませ。
「旧赤線地区、横須賀・皆ケ作を訪ねる」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200805120000/
「旧赤線地区、横須賀・安浦を訪ねる」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200805120001/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
421
:
dai
:2008/06/28(土) 21:22:01
Re.北の都
順子様、有難う御座いました。
やはりそうですよね、仙台は戦災で全滅状態だったと聞きました。
とすると福島県会津方面の話が濃厚と思えます。
物語は昔遊女さん方の語りで、本当に心が痛みます。
当方がどうのこうのと言う立場ではありませんが、ひどい時代だったと感じます。
今の風俗関係の女性方も、形は変われど同じ境遇なんでしょうか。
仙台の常盤町、小田原遊廓は、ネットで古写真を見かけますが、かなり豪華で大きい
遊廓だったんですね。
形が変わってますが、今でも風俗などではそんな感じなのでしょうか。
422
:
夕凪
:2008/07/03(木) 23:49:06
幻の 『 全国花街めぐり (後篇) 』 −出版予告より−
(前略)しかし後編の一大特色 ― 興味の中心は、なんと言っても、朝鮮・臺灣以下
植民地の新花街を収めんとするところにあるであろう。
日本の遠征美人に交じって活躍しつゝある朝鮮美人、支那美人、露西亜美人、臺灣美人
などの華やかさと、内地とは全く異なった花街風景及びその情緒である。
○後篇に入るべき主なる花街
朝鮮:京城。平壌。釜山。新義州
満州:大連。旅順。奉天。― ハルピン。
臺灣:基隆。臺北。
樺太:豊原。大泊。眞岡。
支那:島。天津。北平。上海。
※後篇の予告から“外地”関係を抜粋しました。“内地”分も含め惜しいです。
423
:
夕凪
:2008/07/06(日) 01:20:10
むかしや三十石 今京阪電車
● 正調 橋本音頭
1.再興五十年 橋本くるわ
祝ひましようよ 祝ひましようよ
はれやかに ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
2.むかしや三十石 今京阪電車
通う御客の 通う御客の
氣はひとつ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
3.一度おこしよ 橋本くるわ
白い御手てが 白い御手てが
ちよいとまねく ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
4.男だてなら あの淀川の
水の流れを 水の流れを
止めて見よ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
5.水の流れは 止めよで止まる
止めて止まらぬ 止めて止まらぬ
はしもとへ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
6.橋本見るよな 眼鏡があれば
かわいお方に かわいお方に
もたせたい ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
7.空に神風 地に双葉山
ともに人氣は ともに人氣は
はしもとへ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
※木曾節作り替
1937年の資料より
(参考)ttp://www.kcat.zaq.ne.jp/akagawa/yawatasi/ondo/ondo.htm
※橋本遊廓については2006年12月頃の書込み等を御参照下さい。
※“正調”の語句は御愛嬌です!? もちろん歌詞はホンマモンです。
424
:
夕凪
:2008/07/06(日) 18:51:11
開港場・神戸と明治初年の売春統制策
●こんなんありました。
下記のサイトで、明治初期の福原遊廓の成立と展開に関する
人見佐知子さんの報告を見る事ができます。
ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000033.pdf
425
:
黄線
:2008/07/10(木) 01:06:26
雑居地・神田孝平知事
港町・神戸は明治初期、一時期といえど”散娼化制度”を採用した独特の街です。
下記リンクを読むと新開地・神戸の特異な空気が読めると思います。
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont08/cont08.htm
426
:
夕凪
:2008/07/31(木) 23:52:12
住吉大社 夏越の祓(再掲)
●名越女の記念帳を成すにあたりて
抑も我が住吉新地の開発は大正11年5月5日、
菖蒲帷子風薫り、浅沢沼の杜若ゆかりの色も類なき、
目出度き端午の日にそありける、
かくて年と共に発達し、席貸料理屋の数も加はり、
南大阪の人気を茲指定地の一角に集め、
芸妓舞妓に美人あり、妓昌の向上やむ時なき勢ひとなりたり、
これしかしながら挙廓一致の力とは云へ、
まさに驚異に値すと餘品たゝへも無理ならず、
されど新開の地なればこそと云ふ重き行事もなきに
占部寺岡正副取締以下議員役員の面々、
何をかふところの賑わひともなりぬべき事をこそと
思案し居たる折から昭和4年7月30日、
住吉大社にて名越の祓再興の事ありたり(以下略)
※本書には住吉新地の席貸料理屋、芸妓等の写真多数あり
427
:
鬼塚ハム彦
:2008/08/30(土) 15:36:56
なんとおいやしてもすきどすえ
●祇園
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=qsgQ2aJ0TIk
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=TCE7TNV1Hf4
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=ZvMpuAntnQo
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=gdPPTDqRAfI
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=2AzIQFzqy34
●祇園東
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=dMFlxJfxy3s
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=NuC1WZbtb6g
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=m3gd5K_TO80
●先斗町
祇園小唄〜鴨川小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=rebiXeM7h50
●宮川町
祇園小唄(一人)
http://jp.youtube.com/watch?v=FRPRWZLXlI4
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=Stb2XWP2x70
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=BOQ2S2oXHkQ
祇園小唄(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=q9Hn6Njp29o
祇園小唄(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=3kWUd4cvglk
祇園小唄(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=3gFV3yVlr58
祇園小唄〜宮川音頭(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=q_eyllj2blQ
宮川音頭(二人)
http://jp.youtube.com/watch?v=6cdUrDpLryE
宮川音頭(三人)
http://jp.youtube.com/watch?v=s0trQJdoKh0
宮川音頭(京おどり)
http://jp.youtube.com/watch?v=AV7gqIUtW6Y
宮川音頭(京おどり)
http://jp.youtube.com/watch?v=MbdVvZKGSXk
宮川小唄??
http://jp.youtube.com/watch?v=LL3PJSALK3c
この他にもいろいろおまっせ。
428
:
k_taii
:2008/09/07(日) 22:24:10
こんばんは
今年の夏は今日を含め3回、赤線跡を旅してきました。
1回目は宮城県 鳴子。鳴子温泉駅を出て右。仙台に米軍がいた時は繁盛し、店も
たくさんあったそうですが、撤退した後は寂れ、緑本では3軒。現在は名残なし。
2回目は広島から京都。特記するのは呉の音戸遊郭跡。廓の入り口に 開廓記念碑あり。
2軒残っている可能性あり。五代夏子の 風待ち湊 の舞台。確かに背伸びをすれば
音戸の瀬戸が見えそうでした。
3回目は埼玉県 秩父。場所は古い埼玉新聞におおまかな場所が書いてありましたが、
残っているとは思っていませんでしたので、探していませんでした。しかし某HPで
写真がありましたので速攻で調査。新聞にあった場所(おそらく)には名残はなし。
お稲荷さんがあって、芸妓組合と料理屋組合からの寄付の額はありました。すこし
離れた場所に妓楼1軒。入り口の上に色ガラスの組み合わせ飾り。屋根の上に猫の飾り
あり。道をはさんで隣に芸妓置屋か料亭の建物あり。この2軒はすばらしい。
昭和3、4年には埼玉でも1番繁盛していたそうですが、昭和5年にはカフェーが
大流行(なんと53軒出来た)し、客足はバッタリとおちたそうです。つまりカフェー
で遊郭と同じことが出来た(?)のか。
429
:
ぼわぞー
:2008/09/09(火) 12:48:09
秩父
k-takaさん、はじめまして(?)。
秩父の遊郭は私も3年ほど前に行ったことがあります。
事前に調べていなかったので、地元の人に聞きました。
繊細な造りの、うつくしい建物がありましたが、
K-takaさんがご覧になったものと同じでしょうか?
ゆるやかな坂の下にあり、夕暮れの家並みから三味の音が聞こえてきそうでした。
書き込みを見て懐かしく思い出しました。
430
:
k_taii
:2008/09/10(水) 22:40:34
ぼわぞー さんへ
たぶん同じ建物だと思いますよ。あの建物の屋根にまねき猫があったのに気づき
ましたでしょうか?大変かわいかったです。あのガラスもきれいでした。内側から
見てみたかったです。ちなみに秩父特飲街の歴史は(埼玉新聞によると)大正8年
開設、建物は25軒(従業婦80人)。最後は13軒(14人)だったそうです。
431
:
夕凪
:2008/11/01(土) 13:37:27
二葉新地の由来
昭和20年3月16日の米軍の大空襲により福原、新川の遊廓が廃燼と化し、
両遊廓の業者は当時県当局より
1.神戸市灘区敏馬(みるめ)町
2.神戸市長田区丸山町
3.神戸市長田区二葉町5丁目
の 3地区に移転方指示を受け、敏馬に多数の業者が移転したが、
同年5月の空襲により再び焼夷弾の攻撃を受けたので、
神戸市葺合区春日野道地区が更に追加移転先として指定された。
敏馬地区の空襲時迄、長田区二葉町に移転するものは見受けられなかったが、
昭和20年5月中旬頃から焼出された福原新川(敏馬を含む)業者50余軒が
長田区二葉町5丁目の花街(御茶屋芸者雇仲居)に遊廓を移転開業したので、
戦前栄えた花街は衰微し、雇仲居倶楽部は解散、芸妓は減少の一途をたどった。
売春業者は移転後数年間は、相当栄えたが、地元の産業の経済的変動も手伝ってか、
一時三百数十名を数えた従業婦も昭和32年4月現在業者43軒、
従業婦百十名位に減少し昭和33年3月中旬業者は解散した。
昭和34年3月の資料より
432
:
夕凪
:2008/11/20(木) 00:12:10
春日野新地の由来
春日野附近の商店街は、戦前市の東部にある繁華街として隆盛を極めていたのであるが、
戦災によってその様相は一変し、同商店街の復興も交通機関その他、地理的条件など
特異性(※)が失われ遅々として発展せず、
それが為関係者にあっては
商店街の発展策について種々と具体的な検討を加え鋭意努力を続けていたのであるが、
其の後次第に区内の西方地区に奪われる状態となり、益々その必要を痛感し、
商店街有力者間にあって、同地の発展の為、客の吸収策として歓楽街の設置を考え、
特に、附近の川崎、神鋼その他工場の従業員を対象とした特飲店街を開設することを発議し
昭和27年7月1日料理屋営業の許可を受け、
業者9軒、従業婦40名を抱え青線地区として開業した。
開店当時は客の出入りが頻繁であり、商店街の発展に効果をもたらしたものであるが、
その後経済界の不況と売春防止法の施行により営業も逐次、衰微の一途をたどり
全業者の転廃業し新発足することになり、
昭和32年3月25日解散し26日一斉閉店の上従業婦の更生、
その他の処理に従事することとなり、この業界も終幕をつげることになったものである。
昭和34年3月の資料より
※阪急は、今では三宮まで乗り入れていますが、当時は王子公園駅のあたりから
今の原田線にそって線路が伸び、「上筒井駅(神戸駅)」が終点となっていました。
大阪方面からの客は当時ここまで伸びていた市電に乗り換え、市街地へ向かったのです。
(神戸市中央区のHPより)
※ttp://www.tokyo-kurenaidan.com/tanizaki-sasameyuki-5.htm
神戸大学(旧神戸商業大学)の葺合から六甲台移転は1934年、
関西学院の上ケ原移転は1929年でした。
433
:
夕凪
:2008/11/03(月) 13:09:15
春日野・二葉、そして福原 (過去の書込みより)
●青線 春日野新地 (神戸市) 2007年 6月16日(土)
青線春日野新地は、昭和27年7月、戦災で大きく変容した春日野商店街の一隅に誕生した。
当時、業者9人が、料理屋営業の許可を受けて、接客婦40人をかかえていた。
この地域は附近に多くの大中工場をひかえ、その従業員を相手に、相当繁盛していた。
こんな実情だったので、業者は、(売春防止)全面施行の直前まで売春を放棄せず、
施行前夜の33年3月31日に至ってやっと閉鎖した。
その結果、旅館・・・3、飲食店・・・3、料理屋・・・1、金融業・・・1、住宅・・・1、計・・・9の転廃業をした。
なお転廃業に根強い執着をみせたので、取締当局はその後の動きを見守っていたが、
現在まで売春事犯は1件も出ていない。
*********************************************************************************
●赤線 二葉新地 (神戸市) 2007年 6月26日
■戦災を受けた福原の業者の一部40余人が、昭和19年(1944)に移転し、
この特飲街を開いたものである。
この地の業者は、福原が戦後に新旧業者の混成であったのと異なり
伝統を持つ業者の集合体として、組織も強固で、統制のとれた営業を続けていた。
■33年1月には、業者43人、売春婦102人、引き手44人がいたが、
法全面施行前の3月15日、一斉に店を閉じた。
そして料理屋・・・19、飲食店・・・8、旅館・・・4、間貸・・・4、住宅・・・4、カフェー・・・1、
鉄工業・・・1、お好み焼・・・1、売却・・・1、計・・・43の転業を行なった。
その後、株式会社機構のパレスモード会と称する派遣仲居制のようなものを始め
一時は業績も上がっていたが、警察の取締を受けて2、3の業者が検挙されたため、
自発的に解散する事になった模様である。
*********************************************************************************
●赤線 福原 (神戸市)2007年 6月28日
??■福原が遊郭として許可されたのは古く明治元年5月のことである。
その頃は、現在の東川崎町宇治川尻にあり、
明治3年6月鉄道敷設のため今の所に移転した。
それ以来発展を続けたが、昭和19年3月17日の神戸大空襲で全焼し、
この地域の業者は、長田区二葉町と丸山町方面に移った。
戦後、福原復興が着手され。
旧業者も帰り、また新しい業者も加わって、再び隆盛していった。
ただ二葉町に移った業者は、そのまま残ってそこに新しい特飲街をつくった。
■昭和33年1月現在における福原の状況は、業者251人、売春婦685人、引き手290人の
多きを数えていた。
これを業態別にみると、料理屋145、旅館71のほか、無許可35があり、
これも半ば公然と売春業を行なっていた。
この地域は昭和33年3月15日、売春防止法の全面施行を見こして閉鎖された。
その結果は、旅館・・・83、料理屋・・・66、住宅・・・32、カフェー・・・19、小料理店・・・18、
飲食店・・・10、間貸・・・5、お好み焼・・・4、貸店舗・・・4、キャバレー・・・3、質屋・・・1、
理髪店・・・1、遊技場・・・1、芸者置屋・・・1、トルコ温泉・・・1、ヌードスタジオ・・・1、
家主へ返却・・・1、計・・・251で、きわめてバラエティに富んでいた。
■最近、福原が再び赤線化しているとか、暴力の町になっていると言った風評もあるが、
実情はそれほど悪化してはいないようだ。
ただ一部の悪質な業者があって強引な客引きをしたり、
暴利を貪る行為をしているのは事実である。
そこで、去る3月6日この地域の料理屋旅館、飲食店等の350人の業者が集って、
汚名挽回の総決起大会を開いた。
そして明るい町づくりに総力を結集する事になったので、今後の福原は、
この努力によって次第に健全さを取戻す事だろう。
いずれも兵庫県発行の1959年の資料より(下記資料とは別の資料です)。
*********************************************************************************
>夕凪さん
戦前から二葉町の花街のあったエリアに福原の業者が崩れ込んできたんでしょうか?
そこのところがちょっと調べてみたいところです。
下記資料を見る限り御推察の通りでしたね ・・・・・
434
:
MARU
:2008/11/06(木) 21:44:10
なんでしょうね、、、
最近は、こんなゲ-ムも出ているとは、、、
赤線街路 ~昭和33年の初雪~
435
:
鷹目
:2008/11/19(水) 14:23:15
RE:なんでしょうね、、、
>MARUさん
お久です。タイトルをググッテみました。2007年の作品みたいですね。ゲームまで静かなブームが広がっているとは驚きです。
436
:
MARU
:2008/11/20(木) 20:47:47
どうも
鷹目さん、購入してみました。まだ終わらせていませんが、
ヒロインのお店のデザインは玉の井のメリヤス工場ですね。<赤本42ペ-ジ>
制作側はネットで「赤線」で検索して資料集めをしたようですから
こちらも覘かれたことでしょう。
437
:
T-レッド
:2008/11/20(木) 21:38:00
暴走
伝言板も覗かれたんでしょうか・・・・・ちょっと心配です。
438
:
鷹目
:2008/11/21(金) 23:53:32
暴走2
>MARUさん
≫ヒロインのお店のデザインは玉の井のメリヤス工場ですね。<赤本42ペ-ジ>
トップ絵の家ですよね。見たまんまなので玉の井モデルだなとは予想はつきました。
>T-レッドさん
実はモデルとして登場していたら非常に面白いですww。
後は作品も暴走してくださっていれば安心です。
439
:
詠み人知らず
:2008/12/14(日) 23:53:47
色は匂へど 散りぬるを
【い】行きたいな、地獄極楽、ユメノクニ。
【ろ】“ロセン”と“タレ”は どっちが 気持ち えェ〜?
【は】“初島”“神崎”ふた子の姉妹
【に】にしがはら(西ヶ原)、行ってみたいな・・・土岐市・多治見市
【ほ】堀江の六人斬り、レッドの●人斬り
【へ】○ルペスなんて、「怖くはないさ」と、レッドさん
【と】とまらない暴走エロ軍団
【ち】中書島は『廓』の舞台
【り】両刃使いな、団長さま、うふっ
【ぬ】抜かずの二発、オレは無理。
【る】類を持って集まる
【を】温泉マーク、逆さにすれば、くらげなり
440
:
詠み人知らず
:2008/12/15(月) 23:15:38
我が世誰ぞ 常ならん
【わ】渡辺 寛 40年後に ブレークし !!
【か】貝原益軒は、接して漏らさず。限りあるものは大切に・・・
【よ】嫁ヒトスジのレッドさん・・・
【た】太夫の玉は、うつしよで、おいくらほどで?
【れ】レースクィーンより遊女
【そ】ソープ街、受け継ぐ遺伝子“女性街”
【つ】ツンデレも結構いいかも
【ね】「閨の御慎みの事」は、大奥輿入れ、必須本
【な】なじみの客には熱いサービス
【ら】ライトの下に座ってた ベッピンさんって、ほんまに この妓 !?
【む】室津では、シーボルトも、廓へと
441
:
k_taii
:2008/12/15(月) 23:25:43
韓国
皆さんこんばんは、週末に韓国に行ってきました。今回行ったのは、
木浦 元桜町遊郭。市街地中心から低い丘を越えた所。(ありがちですね)
1本の道の両側におそらく、8−12軒ぐらいの規模だと想像される。
現存する建物は3軒。(1軒は軒下にぼんぼりの取り付け穴が3つ残って
いたのみ。もう1軒はぼんぼりの支柱が1個残っていた以外は面影なし。
あと1軒は?。でもタイルが貼ってあった。
群山 明山遊郭跡。(アサヒグラフにでていた華僑小学校のまわり。)2−3年前には
それらしい建物が1−2軒あったみたいですが、現在はサイデリア化(?)された
日本家屋が1軒。これがそうだったかは不明。近くのもう1軒も可能性はあるが
これも不明。
テグ 現在の集娼地 チャガルマタン の場所が遊郭のあったところ。名称不明。
大通りから少し入ったところに四角く道が付けられそのまわりに建物があった
もよう。日本家屋は1軒のみ現存していたが、建物の規模的に遊郭ではなかった
ように見られました。
442
:
詠み人知らず
:2008/12/20(土) 04:23:15
有為の奥山 今日越えて
【う】うら返し、次がなかなか、うぶな人σ(^^;)
【い】生駒の聖天さんで、昇天三度 !?
【の】伸びて縮んで伸びて伸びて
【お】鬼になる 時もあるとは 聞くけれど ふだんは “ シャイ ” な 信太さん
【く】九条に移れど 名前変わらず
【や】“八坂”の名、知ってる人は信太通
【ま】松島やああ松島や松島や
【け】京阪で行く 赤線巡り
【ふ】府立病院 元をたどれば 駆黴院
【こ】こんにゃく男は、飛田に 出禁?
【え】○イズなんて、「怖くはないさ」と、レッドさん ・・・
【て】手だけでは ガマンできない ○○○さん
443
:
詠み人知らず
:2008/12/23(火) 18:30:29
浅き夢見じ 酔ひもせず
【あ】“赤い線” や “青い線”、警察 今でも 使こてんの ?
【さ】さていかなるものか、平成版の、肉体の門
【き】木江と御手洗、おちょろの本場
【ゆ】夢の街 建物のみぞ 過去を語りぬ
【め】明眸皓歯、傾城町でも、必須条件
【み】三重の的矢、ばなな島
【し】信太山 おばばにひるんで 即退散
【ゑ】“恵方”向き なめて加えて、喰いちぎり ・・・・
※“え”と“ゑ”を、区別させて頂きました。
????????「ゑ」は「恵」の草書体です。??by ヱビスビール
【ひ】枚方の、飯盛り女の、艶情け
【も】桃山閤は宴会場(文化庁 登録有形文化財 第27‐0086)
【せ】“線”後50年、赤線廃止はエイプリルフール !?(1958.4.1)
【す】住吉名物、大社、新地に○○邸。
【ん】京の夢 大阪の夢 ・・・・
あさきゆめみし ゑひもせす
444
:
k_taii
:2009/01/18(日) 08:59:42
こんにちは
松竹から、にっぽんぱらだいす が発売されていました。定価3990円でセブン アンド
ワイで12%引き、3511円でした。この映画、30数年前日曜の昼の放送で見た記憶
があるのですが、ほとんど覚えていません。当然ですが。製作が1964年なのでセット
なども当時と近いものと思われるので、今から楽しみです。カバージャケットもタイル貼り
の娼館でカーテンの陰からオネーチャンが、おいでおいで しています。
445
:
夕凪
:2009/01/19(月) 00:47:10
全国遊廓案内(再掲)
●『赤線跡を歩く(完結編)』の「参考文献の紹介とあとがき」の中で、
木村聡さんは、『全国遊廓案内』を、下記ように紹介されています。
発行後まもなく発禁処分を受けて、
のちに「関東篇」「関西篇」の2冊に分けた
改訂版が出たことが知られているが、
これは貴重なオリジナル版。
●また、ご存知『近代庶民生活誌? 色街・遊廓?』の中で、
編者の、お一人である林喜代弘さんは『全国遊廓案内』について
下記の通り解説されています。
しかし初版本は風俗壊乱で発禁となった。
???? 先日、上下2巻本を古書目録で見かけ、
???? 愛書家の知己に問い合わせたところ、
それは改訂版との教示を受けた。
以上から、
『全国遊廓案内』は、当初1冊本で発行されたが、
発禁処分を受けた後、改訂版が「関西篇」と「関東篇」の2冊に分割して、
発行されたと読めるかと思います。
●しかし私の見た事のある、
2冊本の『全国遊廓案内』の「関西篇」「関東篇」各々の、
本文後の広告ページには、「関西篇」、「関東篇」と並んで、
「合本(=1冊本)」の広告が掲載されていました。
そこで『全国遊廓案内』各編の発行年等について調べてみました。
?『全国遊廓案内』:昭和5年7月3日印刷、昭和5年7月3日発行、上製、定価1円30銭
↑『赤線跡を歩く(完結編)』に紹介されていた本
?『全国遊廓案内(関西篇)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
?『全国遊廓案内(関東篇)』:昭和5年10月10日印刷、昭和5年10月15日発行、
並製、定価金48銭、内務省届済の表示あり
※??の箱入りセットあり。セット定価1円30銭
?『全国遊廓案内(関東・関西合本)』:上製、定価1円30銭
↑ 2冊本の本文後の広告頁より
●はたして?と?の関係はいかに?
また、改訂版の合本(=?)は存在するのでしょうか?
※私は「改定後の合本(=?)」を見た事はありません。
オリジナル版と言われる本(=?)は、数冊見た事があります。
446
:
夕凪
:2009/01/19(月) 01:51:12
『全国遊廓案内』 発禁の謎?
●下記に再掲したように『全国遊廓案内』は当初1冊本で発行されたものの
発禁処分を受け。後に「関東篇」「関西篇」の2冊に分けた改訂版が
出版されたとの解説が複数の本に書かれています。
●たまたま三冊を同時に見る機会がありましたので『関東篇』『関西篇』と
『関東関西合本』の中身をざっと比較してみました。
その結果、両者で取り上げられた遊廓、およびその内容に相違はありませんでした。
そして“態本縣”“龍初町遊廓”等の明らかな誤植も含めて版の組みは同じでした。
※『三一版』にはオリジナル版には無い“大阪市新街遊廓”と言った
誤植もあります。
※“一字一句”見比べた訳ではありませんので、
詳細に見比べれば“相違”が無いとは言い切れません(スミマセン)。
●違いとしては『関東篇』『関西篇』の表紙には『内務省届済』との文字がありました。
合本の目次で言うと“長野縣”までが『関東篇』で、
“新潟縣”以下が『関西篇』となっています。
『関東関西合本』の扉にある花魁と太夫の2枚の写真も、
『関東篇』『関西篇』各々に1枚ずつありました。
“編者の言葉”“遊廓語(さとことば)のしをり”は
『関東篇』『関西篇』各々に掲載されています。
また『関東篇』『関西篇』の奥付には『内務省届済』の意でしょうか
『 ○に“出”』のゴム印が押されていました。
※発禁制度についての知識が無いもんで、どの部分がどう問題になって、
発禁処分を受けたのかは分りません。
単純に内務省への“届出”を怠っていた事が問題となったのでしょうか?
447
:
夕凪
:2009/01/20(火) 01:32:50
『全国遊廓案内』 の巻末広告
『全国遊廓案内(関東篇)』 『全国遊廓案内(関西篇)』の巻末広告は
下記のようなものでした。※どちらの巻末広告も同じでした。
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関東篇)』(※1930年10月15日発行)
関東地方、奥羽地方、北海道地方、樺太地方、の全部と
中部地方の一部の遊廓を納めたものである。
並製 定価48銭〔送料6銭〕
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関西篇)』(※1930年10月15日発行)
近畿地方、中国地方、四国地方、九州地方、台湾、朝鮮、関東州の全部と
中部地方の一部の遊廓を納めたものである。
並製 定価48銭〔送料6銭〕
●日本遊覧社編『全国遊廓案内(関東関西合本)』(※1930年7月3日発行版?)
関東篇と関西篇とを合本したもので
本書一冊さへあれば全国の遊廓が一目で判る訳である。
上製 定価1円30銭〔送料8銭〕
※どうも関東篇と関西篇掲載されている巻末広告を見る限り、
(関東関西)合本は同時に販売されていたようです。
P.S.
某古書店の目録(2009.1)に、
『全国遊廓案内(関東関西合本)』が
カバー付(ヤケ・疵有)で、
36,750円で出てました。
448
:
夕凪
:2009/01/28(水) 22:23:40
長尾文庫の遊廓関係コレクション
●龍谷大学深草図書館に長尾文庫と言う社史・団体史の一大コレクションがあります。
遊廓関係だけでも下記のような垂涎の資料が収められています。
01.今里新地繁昌史/黒阪雅之編輯
02.今里新地十年史/黒阪雅之著
03.岐阜花街案内/岐阜花街案内社編輯
04.旭廓(シンチ)物語/三浦美底著
05.新吉原遊廓略史/市川伊三郎著
06.全國貸座敷聨合會臨時大會記録/全國貸座敷聨合會本部編
07.全國花街めぐり/松川二郎著
08.全國遊廓案内/日本遊覽社編
09.飛田遊廓反對意見/伊藤秀吉著
10.南地五花街沿革史稿/[江上朝霞著]
11.橋本遊廓沿革誌/[橋本地域貸座敷組合編]
12.波娜婀娜女/中川徳右衛門(京島原角屋)
13.福原遊廓沿革誌 : 全/須田菊二著
14.松島新地誌/牧村史陽, 田辺一編
15.松島遊廓沿革誌 : (全)/須田菊二著
詳しくは ttp://opac.lib.ryukoku.ac.jp/nb/nagao/index.html
?? 長尾文庫Web目録 > L:サービス業 > L-9:その他の娯楽業
●大学附属図書館ですから基本的には龍谷大学関係者しか利用できませんが、
一般の人でも、学術・研究を目的とした利用に限り、
公共図書館からの紹介により利用させて頂けます。
例えば大阪市立淀川図書館に行って、
「龍谷大学の深草図書館にある『今里新地繁昌史』を見たいんですが、
紹介して頂けませんでしょうか。」とお願いすると、
淀川図書館が龍谷大学深草図書館と連絡を取って、紹介状を発行してくれます。
私も以前、大阪市立阿倍野図書館経由で利用させて頂きました。
●なお『今里新地繁昌史』『今里新地十年史』は
大阪府立中之島図書館でも閲覧する事ができます。← 間違いなく【中之島】です!
??※抜粋でよければ『近代庶民生活誌 13巻 色街・遊廓?』にも収録されています。
449
:
夕凪
:2009/01/28(水) 23:59:54
熱かったあの頃?
第1回 OFF会(2002年10月28日)の話題(過去ログより)
昨日のOFF会で出た話題を箇条書きですが少し整理して見ました。
抜けている所などは補足して頂けると有難いです。
●「信太山新地」もとは八坂新地と言う名前。近隣の八阪神社の玉垣に組合の名前有り。
新地内の立ちんぼの話。出禁男来場時の非常放送。
待合の横の部屋で遊んでいる子供がいるある意味アットホームな世界。
●「滝井新地」公の記録に赤線と明言。線路を挟んで昔は存在。
逞しい客引きのおばちゃん。1軒だけ少し安い店。
●「松島新地」戦災後住吉さんの西側で怪しい飲み屋に。
S27年頃まで松島町の町割りがあり。13Kの店が非常に少ない。
●「和歌山ネタ」黒江新地。観光地近くにあった遊所。紀和駅周辺の線路の変移。
ソープランド。本サロ。
●その他、実は政治的絡みで消えたと言う噂の奈良のK。
ある季節に営業している言う噂の大阪N新地。
枚パーと桜新地。あやめ池遊園とあやめ池花街。ルナパークと飛田。
大門のお店の二階へ続く怪談はボイラー室の中。ソープでの怪談話。
別府、小倉、岡山、静岡、石川の話。大津のサウナ。
何故橋本の建物は残っているのか?
太夫さんのHP。古き良き時代の松阪の特殊浴場などなどです。
●あと貴重な文献、写真、地図など各自持ち合って本当に有意義な3時間でした。
※ちなみに私の初書き込みは2004年1月13日でした。
450
:
紳士
:2009/02/02(月) 21:21:55
(無題)
ずいぶん前のログですね。私はオフ会初参加は05年の秋だったと思います。
> 待合の横の部屋で遊んでいる子供がいるある意味アットホームな世界。
渡鹿野島も昼間は子供が遊んでいて面白いですね。
451
:
黄線
:2009/02/13(金) 00:32:36
「福原遊廓沿革誌」1
「福原遊廓沿革誌」九十五頁・非売品
著者:須田菊二
発行:昭和六年
発行所:福原貸座敷業組合事務所
夕凪様に頂いた沿革誌をまとめます。須田菊二は松島遊廓沿革誌の著者です。貴重な資料を残した著者に敬意を表します。沿革誌には福原遊廓の由来、廓内の様子、柳原花街・新川遊廓の由来、福原芸者、遊女解放令による痛手、密淫売の取り締まり事情等、明治の新開地ならではの特異な事情が26章にわたって書かれています。なお非売品なので非公開的な書物であった可能性があること。著者の没年が不明であるために著作権への配慮も必要と考えました。このために沿革誌をまとめる上で省略できる人名や地名、創造的な表現については割愛させていただきました。
1.〜神戸開港と遊女町の新設〜
船着き場として栄える兵庫津とは対照的に神戸村(今の神戸市中央部)は、明治元年(1868年)になっても小さな一漁村であった。しかし開港地となる神戸村の将来性が期待されており演劇場や遊廓建設が計画される。遊廓設置の出願者総代は藤田泰蔵(後に姫路市の梅ヶ枝遊廓を開設)。しかし実際に遊廓設置をもくろんだのは藤田ではない。
2.〜おちゃらと日本人〜
開港前の神戸は惣嫁(夜鷹)又はおちゃらと呼ばれる娼婦の売春が盛んであった。おちゃらは沖の船や町家で売春をおこない、置屋に抱えられている者と抱えらずに自前で稼ぐ者にわかれていた。どちらも一夜が一分。
慶応三年(1867年)。開港を目当てにする外国人が居留地落成前の神戸に上陸。神戸村で貸家を借りるなど雑居式に住み着く。従者の外国人による傍若無人な行動が神戸村で問題となりだす。
伊藤博文が寄食する元町四丁目の料理店・専崎彌五平方には外国人より日本人女性の斡旋が依頼される。当時、西洋心を相手に商売しようとする者は皆無であったが専崎に出入りする佐野という顔役がおちゃらを七人抱えていたため、専崎が佐野に交渉をおこなう。結果、玉代は三分に相当する一ドル、座敷料はその二割五分と決まり、佐野は抱えるおちゃらが異人相手を恐れるので年期を半分の一年半にするという約束で商売を始める。
明治元年になり佐野は隣に住む遠藤金蔵(伊藤の友人)に、伊藤が県令になってから博打もできないが何か良いことはないかと相談する。これが福原遊廓開設の相談。佐野は十名の賛成連署の者を集め明治元年二月二十七日に福原遊廓開設を出願。
福原の名は福原遷都の故事に因んで選ばれる。
*異人、外国人、西洋人などと呼び名がかわりますが、神戸が多民族都市だった為ではないかと思いますのでそのママとさせて頂きました。
452
:
夕凪
:2009/02/14(土) 22:26:18
旧赤線で時間遊びが (奈良)
●ホンバンをやりたい人は、近鉄天理線の郡山駅下車、
東口銀座を天理方向へ300mほど歩いた旧赤線「蓑(ママ)山新地」
入口はスタンドバーが7、8軒あり、牧(?ママ)の奥に
旧赤線の建物が10数軒“旅館”として看板をあげている。
夕方、5時頃からオープンしていて、旅館の前を歩くと
ヤリテ婆さんが手招きする。
中に入るとすぐ2階の四畳半に通される。
部屋にはフトンの用意ができていて、
テレビ、タンス、テーブルのたぐいがある。
やがてガウンを着た女のコが入ってくる。
ショートは約20分で6千円、時間遊びは1万円が相場。
前金で受取った女はネグリジェ1枚になり、
フトンの上へ仰向けに寝る。
もちろんパンティなしだから、見たり匂いだりがOK。
時間遊びなら連発OKというから、時間遊びをオススメする。
泊りは11時以後で2万円がそうば。
1980年の成人雑誌より
●“×蓑山新地”は“○箕山新地”の漢字間違いであり、
当然、旧赤線とは旧東岡遊廓の事だと思われます。
上記の記事が正しいとすると、
名古屋の旧中村遊廓が、線後は名楽園と名乗っていたように、
?? ひょっとしたら、 旧東岡遊廓が、線後は“箕山新地”と
名乗って営業した(時期があった)と言う事なんでしょうか?
453
:
黄線
:2009/02/15(日) 15:52:23
「福原遊廓沿革誌」 2
3.〜花代と線香代の謂はれ〜
一説には、花代の謂われは平家の落人である女官達が一門の菩提を弔うために必要な線香料と花料に苦しみ最後のものを提供したことが起こりである。
4.〜新設福原遊廓の地域〜
佐野は専崎らから遊廓開基に要する資金を得る。そして現在の神戸駅構内の土地に五軒一棟の長屋を二棟建築しこれを出願連署の十名に貸すことが決まる。開所後に必要とされる町年寄りはいやがる専崎が祭り上げられた。遊廓には会所とそこに詰める者が必要との要求があったため、専崎は専崎方に寄宿していた藤田泰蔵が遊郭事務について明るいので会所の役員にする。藤田泰蔵が表に立つこととなった理由である。
5.〜福原新遊女屋町の開業〜
福原遊廓の開業日は明治元年五月一日説と十二月説(「神戸開港三十年史」)がある。著者は五月説。理由は明治元年九月十日に発行された「もしほ草」第二十三編に福原遊廓の繁盛について既に書かれているため。それによると、夜鷹や醜婦のみがおよそ百名。揚代金は一夜日本人が一分、西洋人が二分。西洋人は水夫、火焚など。ほかに黒人、中国人。日本人は日雇人足などで賑わう。
6.〜開業当時の廓内の情景〜
開業当時の店の構えは間口三間、奥行き七間。三畳敷きの部屋に中敷きを入れる割床式。花代はよく売れるのが一夜三分、下等が二分、西洋人は一ドル。
明治二年三月頃に大店、中店が二十軒完成。大門は宇治川に面して建てられる。遊女数は二百八十名。藤田泰蔵は吉原の廓内事情に明るく、会所を廓内取り締まりの事務所とし、車馬の通行を禁じ、夜警、消防人足に警らさせるなど、吉原遊廓を参考にした。遊女一人の運上(税)は月に一分二朱。また前述の二十軒とは別に南京茶屋という中国人専門の引手茶屋のような役割の店があった。検番もあり芸妓がおよそ三十名。芸妓の運用は厳格で売春は厳禁。花代は一貫文。
454
:
T-レッド
:2009/02/15(日) 17:01:02
あ、なるほど・・・大和郡山
個人的には興味深いお話です。 これは私の勝手な推測ですが・・・ 現在も残る、南郡*町の「箕山新地 NO.〇〇」と書かれた例の消火器ボックス。 もしも、東岡町が箕山新地だったとすれば、コレが現在の東岡町にあってもいいはずですよね?(必ずしも必要ではないかもしれないですが) 南郡*町には残ってて東岡町には残ってないのは、どうかと・・・。 それとは別に、赤線以降は東岡町が箕山新地と名乗り、その後、南郡*町へ移転した(?)とすれば、消火器ボックスとは切り離してもいいかと・・・。 確かなのは、箕山新地が南郡*町にあったのは間違いないという事。 この筆者が、箕山新地と、それに隣接する東岡町を一つのモノと考えた・・・とも考えられますが、隣接してても(龍*と栄*みたいに)別々に名乗る場合がありますし。 地図でさえ、住居表示のフリガナが間違っている場合がありますので、雑誌の記述が必ずしも正確とは(失礼ながら)言い切れないですよね。 ただ、この雑誌の筆者が、わざわざ「箕山新地」の名を出してきたのが少々引っ掛かります。(そんなに有名??) いずれにしろ、大和郡山は特異な遊里だと思いますね。
455
:
遊楽
:2009/02/16(月) 10:57:13
昭和40年の大和郡山市選挙管理委員会告示第57号
ttp://www1.kcn.ne.jp/~ymkorisi/jinji/reiki/reiki_honbun/ak40400911.html
・・・によると第一投票区域に南郡山町の一部として「箕山新地」、大宮町の一部と
して同じく「箕山新地」という記載がありますね。大宮町は駅の方から東岡へ行く
途中なので、私はてっきりあの消火器ボックスは大宮町側にあると納得してた上に
行幸の折は所謂「箕山新地」の場所(南郡山町付近)が地理的にはっきり把握できて
なかったので、あの辺りがそうだと勘違いしてました(^^;)。もしかしたらその
雑誌記者さんも私と同じ勘違いをされていたか、やはり「飛び島」のような形で
あそこにも同じような形態の場所があったのか・・・ちょっとしたプチミステリーに
ワクワクします。
456
:
黄線
:2009/02/18(水) 02:59:19
「福原遊廓沿革誌」3
7.〜兵庫津の花街略史〜
兵庫津の事情であるが、柳原は江戸末期に四箇所の岡場所が移転して出来た。岡場所のうち三箇所は船頭や漁師などの身分の低い男たちを相手にする下等な引店である。彼らは女のことを毛饅頭と異名していた。一番人気は眞光寺前にある笹屋の八重菊で流行歌もあったほど。
娼妓買ふなら眞光寺前で、音に聞こえた八重菊買やれ、この妓匂いも色もある
残りの一箇所は「割」または「両掛」と称する藝娼妓兼帯の女を置く磯野町であった。磯野町の両掛宿(娼家)は今でいう中流以上の男を相手に大変繁盛していた。
しかし、文久三年(1863)“遊廓まがひの花街取潰し”の御布令によって、これらの引き店と両掛宿に柳原への移転と宿屋の開業が命じられる。渋々と従った引店の亭主や両掛宿の親方は、女たちを飯盛りという名目でそのまま宿に置いて表面は宿屋として渡世することとなった。八重菊も飯盛り女として働くことになり小菊と名を変えて一番人気を誇った。
8.〜宿屋渡世を命令された譯〜
岡場所に移転が命じられた理由は宿屋の不足。攘夷派の長州藩を征伐する軍勢の宿舎に宛てるためであったらしい。このため長州征伐が終わると止宿する軍勢もなくなって柳原は低迷する。
9.〜柳原の花街と新川遊廓の由来〜
やがて柳原では飯盛り女が芸者と遊女に別れるようになる。宿屋も芸者が主の宿、遊女が主の宿という風に色分けされて花街らしき形になった。遊女屋の方は再び以前の渡世に戻ったわけだが、取り締まりを恐れて宿屋の看板だけは降ろさずに営業をおこなった。
お茶屋軒宿屋は表の格子に貼った半紙に「盛」または「藝」と書いて飯盛り女が芸者になった店の目印にした。さらに明治初年には「藝」の文字の横に三味線のばちを形どった印を並べ書いて目印にした。同時に大勢の遊女と芸者を一つ部屋で抱える置屋とお茶屋に別れて専業化する。
西南戦争(1877)景気によって福原も柳原も繁盛する。しかし福原の大繁盛を見て自省した柳原花街はいずれ遊女と芸者との区別も出来なくなるような時節が到来すれば柳原滅亡の時であるからと、置屋とお茶屋が相談の上、芸者と遊女を厳然と区別して芸者は柳原に残らせ遊女は新川へ移すこととなった。これが新川遊廓の出来た理由。
457
:
夕凪
:2009/02/21(土) 00:17:42
中京名古屋 中村遊廓 稲本別館
●中村情緒を味ふには小店でプロ階級が速成モダンで安価な
近代生活を享楽するよりか、矢張り一流店で名古屋独特の気分を
吟味するに越したことはない。
先に云った日吉町の稲本楼、本家長寿楼、四海波と云った
大店で時間を超越して、しとやかな相手と三味線で歌って夜を明かし
果ては結ぶ桃色に夢と、旅の労れをさっぱり朝湯で流して
いそいそと帰へった方がいいです。
●この中村で群を抜いてゐる店がある。
稲本別館と云って、東海道は静岡の蓬莱楼、岐阜の浅野屋と
並稱されてゐる中村の大御所で、店も一流なら客も一流、
廓が名古屋の名所とさへ云はれてゐる。
立並ぶ大店に伍して桃山御殿式の建物と支那式の正門とが
よく調和して変わった外観をみせてゐる。
2、3年前に火災に会ったと云ふが木の香りの抜けきらぬ広間で、
金箔の格天井や襖の扇面は主人が知己の諸書家の作と聞くが、
よく蒐集したのをうち見つゝ一献傾けるのも格別、
各室の造作、調度の快よい事主人が趣味の程知れて奥ゆかしい。
●娼妓は全部東京の一流藝妓落ちばかりとて、
日頃は茶花、その他藝ごとに餘念がないとはうれしいかぎり。
徒に東海道を上下する紳士諸君は寸刻をさいて
一度此の店を吟味する事を筆者は進言する。
1933年の全国郷土雑誌より
(参考)ttp://www.inamoto-nagoya.com/index.html
458
:
黄線
:2009/03/11(水) 03:25:04
「福原遊廓沿革誌」4
10.〜私娼の跋扈に悩む當局〜
開港直後の神戸は、娯楽施設の工事や港湾修築などの土木工事が多く、労働者も諸国から集まり一種の植民地であった。これは私娼の活躍には絶好の天地であったようである。
十銭は湊川の堤防や堤防下の野天。立淫売は薄暗い路地で「モシモシ」。これに少々上等なおちゃら、惣嫁たちが三つ巴になりしのぎを削り街の風紀は著しく乱れる。さらに町娘や寡婦、既婚の女子が洗濯女と称して港内停泊の船内で売春を行ったり、曖昧家や貿易品売込商人に抱えられて隠れ売春を行うようになる。ついに兵庫県当局は、遊女は福原遊廓内に限ること。飯盛女は兵庫小廣町、神明町、逆瀬川町、東柳原町、西柳原町のみに限ると厳重な布達を発することとなる。
11.〜福原遊廓の移転事情と其の繁盛〜
明治三年、神戸大阪間の鉄道敷設が決まり、同年六月神戸停車場の位置は福原遊廓の地域が最好適ということになる。しかし神戸駅の工事延期や代地である湊川側の土工が着手されていない事情もあり業者の移転が仲々進まなかった。しかし明治四年五月十八日に大津波が起こり福原の家屋が倒壊。これをきっかけに新福原への移転が急速に進むこととなる。
新福原移転時の遊女数は約三百五十名。揚代金は上等二分、中等一分二朱、下等一分、最下等二朱の四等にわかれる。一夜貸し切りは二両を要したそう。遊女の身代金は一年間で二十両が相場。子店なら十両、稀に三十両の前借金の遊女が現れると神戸中の評判となった。
移転の補償は大小妓楼一軒平均十五両。各楼の新築は借金により賄われる。このまま好況が続けば数年で回収できるものと思われたが、明治五年十月の遊女解放令により業者の目論見が崩れることとなる。
12.〜遊女解放令の發布顛末〜
明治五年六月に横浜でマリアルーズ号事件が起こる。我国は奴隷を認めずという判決を下した手前、神奈川県当局は明治五年九月に藝娼妓解放令を発する。だが実際は自由営業者は許すとして業者に抜け道を残していた。ところが十月二日、近代化に向かい改革を進める中央政府によって人身売買の完全禁止。そのうえ同日、司法省が人権を持たない娼妓芸妓は牛馬と同じであるという理屈で前借金を棒引きにするよう布達する。業者に一切代償の無いこの解放令は当時世間でも驚かれ「牛馬のきりほどき」或いは「切りほどき」と称して取り沙汰された。
13.〜遊廓取潰しから再興へ〜
兵庫県では遊女の前借金の棒引きはもちろんのこと国許に帰る旅費までも業者が負担するように命令が下る。藤田泰蔵と業者たちはあらゆる手段で嘆願陳情を試みたが十日間以内に遊女を解放することを命じられ、ついに県当局の前で遊女を引取人に手渡すこととなった。福原の業者は莫大な損害と心労による大打撃を受け明治六年の貸座敷渡世によって公許された時、再開業した妓楼は僅か二十軒であった。
459
:
夕凪
:2009/03/02(月) 00:23:57
渡辺寛 と 芥川賞 ?
●渡辺寛氏の『鄙びた湯・古い湯治場』(1956年)によると著者略歴は下記の通りです。
大正2年(1913年)5月18日東京下谷に生る。最終学務はアテネ・フランセ。
昭和10年亀井勝一郎氏のすすめで日本浪曼派に参加。
文学評論にのせた小説「詫びる」が第一回芥川賞の候補となった。
20年間記者生活と旅の空に送る。
日本経済新聞記者などを経て現在は新東京通信編集局長。
交通記者連盟・労農記者会員。
主な著書は「こけし風土記」「おんなの味」など。
現在、産経よみものに「おんなの旅」執筆中。
●ボクの頭の中で“渡辺寛”と、純文学の新人に与えられる“芥川賞”が
結び付かんかったんでチョット調べてみました。
インターネットの芥川賞関係のHPによると、
第1回芥川賞(1935年8月10日決定発表)の候補作として
??“渡辺寛”と言う人の「詫びる」(『文學評論』1935年6月号、ナウカ社)が
候補作となっていました。
でも『詫びる』は“予選候補作”であり、
本選の“候補作”には残らなかったようです。
また、そのHPにあった渡辺寛氏の経歴は
1913年5月18日、東京・下谷生まれ。アテネ・フランセで学び、
昭和10年/1935年に日本浪曼派に参加。
長きにわたり新聞記者生活を送り、日本経済新聞などに在籍した。
ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/pkogun/pkogun1WH.htm
ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/senpyo/senpyo1.htm
以上から『全国女性街ガイド』の著者である渡辺寛氏は純文学を書いてた頃があり、
氏の小説が第1回芥川賞の“予選”候補作であった事はまちがいないようです。
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