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鷹目遊里史板
134
:
嶋原G
:2007/01/06(土) 15:11:22
橋本について
文禄年間(1592〜96)、豊臣秀吉は治水のため淀川に堤防を築き、そこに京都と大坂(大阪)とを結ぶ京街道を設けた。伏見宿と枚方宿との間に位置する橋本には、いくつかの宿泊施設と共に遊廓も存在した。明治初期、公娼制度を採らなかった橋本は衰退したが、1887年(明治20年)に遊廓街として再興された。対岸の水無瀬(みなせ)と繋いだ渡船、更に1910年(明治43年)に京阪電鉄の開業に伴って橋本駅が開業すると、遊廓を訪れる人々が多くなった。1935年(昭和10年)頃に橋本遊廓街は最盛期を迎え、86軒の妓楼、81名の妓楼経営者、3名の芸妓と675名の娼妓を数えるに至った。
街道に沿っては、平入りの木造二階建ての妓楼が建ち並んでいた。遊廓には、街道に面した一階の半分に張り見世と呼ばれる格子に囲まれた突出部があり、ここに娼妓たちが顔見せのために並んだ。代表的な妓楼の一つであるA楼では、その奥に娼妓用の食堂、経営者用の座敷が続いた。
経営者の多くはかつて淀川沿いの山崎や樟葉などで舟運業に関わっていたため、一角には金比羅が祀られていた。通り庭を挟んで井戸やクド(かまど)を備えた台所、そして便所や洗面所の他に、娼妓が身体を洗う洗浄場も設けられていた。螺旋(らせん)階段を上がった二階には、4畳半の小部屋が約10部屋程連なり、8畳と10畳の宴会場もあった。A楼のように、ステンドグラスや鏡などを張り巡らされたダンスホールが設置されたのも多く、昭和初期には木造建築に代わってコンクリート造のものも見られるようになった。
1958年(昭和33年)の売春防止法の施行後、下宿屋や料理旅館などに転業した妓楼もあったが、往事の面影を残すものは僅かである。それらは、軒先の菊や蓮の花をかたどった電灯の笠、淀川を往来した三十石舟のほか、鯉(「客よ来い」の意味)や水車(「客が来る、来る」と「水車がクルクル回る」とを掛けている)等が彫刻された欄間、社交ダンスをする男女が描かれたステンドグラスなどから伺える。
また、検番を兼ねた歌舞練場は、一時は紡績工場に改築されたが現存し、その庭先には弁天と稲荷を祀った祠が佇んでいる。
2005年発行建築系大辞典より抜粋。
※尚、この文章の参考文献は、1930年発行書籍、1937年発行書籍(夕凪さんの書かれてる課題の本)である。
135
:
鷹目
:2007/01/06(土) 21:32:21
爆勝宣言(意味判りますかww)
これで橋本もある程度、歴史の道筋はまとめられそうです。ありがとう御座います。
136
:
夕凪
:2007/01/07(日) 02:53:04
八幡山から橋本見れば 赤い女が出て招く
淀川三十石船の舟唄にも歌われたほど有名な遊廓であったが、
いつ頃できたのかわよくわからない。
史料によると江戸初期の1649年正月20日に
橋本で荷物を盗んだ者があり淀で捕まえられた。
この時橋本には遊女を置く店が20軒ばかりあり、
盗人がしばしば出入りするので、以後は遊女を置かないようにと、
京都所司代から橋本町の年寄りに申し渡しがあった。
この事から街道筋の往来も賑やかで、遊廓も繁昌し、
治安はかなり乱れていたのだろうとの推測も成り立つ。
1984年発行の本より
※上記の記述は、淀川両岸のガイドブックからの引用、要約です。
単に遊女を置く店が、複数軒在る地区=遊廓としている可能性もあります。
※淀川三十石船の舟唄には、伏見中書島、撞木町、枚方、鍵屋浦や
水車(ミズグルルマ)=淀の名物の川瀬の水車も唄い込まれています。
(参考)ttp://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu047.html
※舟唄の節を知りたい方は、落語の『三十石』(但し、長時間バージョン)を聴かれるのが
手っ取り早いかと思います。
(参考)ttp://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/bunkazai_hunauta.html
137
:
楽天地
:2007/01/07(日) 13:40:39
小沢昭一さんの本
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
調べものをしていたらこんな本(復刊?)が出てきました。
『珍奇絶倫小沢大写真館』
ttp://www.7andy.jp/books/detail?accd=31785172
138
:
鷹目
:2007/01/07(日) 16:21:55
『珍奇絶倫小沢大写真館』
>楽天地さん
おめでとう御座います。今年もよろしくお願いします。
面白そうな本をご紹介頂き、ありがとう御座います。早速本屋に行ってみたいと思います。
追伸
実行するかは未定ですが、五條楽園歌舞練場でのオフ会を春頃企画中です。
139
:
楽天地
:2007/01/08(月) 00:12:14
五條楽園歌舞練場
>鷹目さん
オフ会、ぜひ参加したいです。
今度は怪我しないよう気をつけます(笑)
先日、久しぶりに城東園へ行ったら、かなりの建物が取り壊されていました。
140
:
鷹目
:2007/01/08(月) 18:00:16
待ってます
>楽天地さん
次回はお待ちしております。まあ歌舞練場で出来なくても飛田百番か松島の新居酒屋あたりでは計画いたしますんで、その時はぜひ。
城東園、未見だけに取り壊されていくのは残念。ある程度残っている間に行きたいものです。
141
:
夕凪
:2007/01/08(月) 23:59:16
小沢昭一さんの 残したい“日本”
●日本遊廓建築残骸大全
日本全国各地にある旧遊廓の、由緒もあり、
建築物としてもおもしろい、お女郎屋さんの建物が、
ここ10年ばかりの間に、あっというまにこわされてしまいました。
もったいない、残念至極のことであります。
明治村にも監獄はあっても、お女郎屋さんはありません。
どちら様も、旧遊廓建造物に冷たいのでありますが、
私の「残したい日本」の最たるものは、お女郎屋さんでありまして、
いえ、その建物でありまして、庶民文化の華でありますヨ。
だいいち、いま、その廃屋を見てもいろいろ、部分部分オモシロイのです。
今からでもおそくない、せめて、とりあえず、
芸術新潮増刊号“日本遊廓建築残骸大全”を!
それに、もうひとことつけ加えれば、昭和の建築物だということで
軽んじるのですね。昭和も遠くなりにけりですが、
もう昭和のものを残さなければなりません。
『芸術新潮』のアンケートに答えて(1987年) ※一部略
○小沢村長さんは「明治村には牛肉屋さんがあっても、
お女郎屋さんはありません。どちらも肉を売る商売なのに・・・・・」
旨の発言を行って、一部で物議をかもしたとか・・・・・
●『小沢大写真館』は1974年に、?話の特集から出版されました。
その中の亀有の、ある建物の写真でも、
『私が文化庁長官なら、特別保存建築物にしていするのだが・・・。
犬山でも何処でもいいから「女郎屋村をつくれ。」村長は俺だ!』
とコメントされています。(本当に村長になってしまいましたね。)
また同書の巻頭に「私は写真屋のセガレである。」とも書いています。
(参考)ttp://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480422668/
○ちなみに私の持っている『珍奇絶倫小沢大写真館』には
「写真は真を写さない」との小沢昭一さんの識語があります。
はたして、その意味するところは!?
142
:
嶋原G
:2007/01/09(火) 17:19:13
あぁ淀川温泉
「橋本鉱泉」
○環境及び沿革
淀川左岸の府境に接して、男山と淀川堤防に狭まれた狭長な平地に橋本の集落があり、人家が密集櫛庇している。この地は往時より交通の要衝で、最近まで遊廓地として知られ繁栄してきたが、昭和32(1957)年売春防止法が公布されて以来、同地区の三業組合員が早急に転業の必要を迫られ、政府及び京都府当局の指導の許に対策委員会を組織して協議の結果、全国観光連盟理事、O氏の勧告に基づき在来の招客施設をその儘活用して温泉地として更生する方針をとり、昭和33(1958)年12月より同地区50余ヶ所の井水を採取して京都府衛生研究所に分析を依頼した結果、料理業T氏宅の堀泉が最も有望であると判明した。昭和34(1959)年2月正式に同泉を現地採水して鉱泉分析を行い、炭酸鉄泉として療養泉規格に適合するとの判定を得たので、3月には温泉開発協議会(会長、Y氏)を結成し同年7月利用許可を得るに至った。
○利用状況
本泉は昭和35(1960)年2月、源泉地より同区内の各所に配管工事を完了し、現在4軒の旅館で内湯として利用されているが、給湯量の許す限り、将来も利用施設を増加させて、土地の繁栄に寄与するものと思われる。本泉の運営は全て温泉開発協議会により統制的に行われている。名称も開発当初は「橋本温泉」と称していたが、その後「淀川温泉」と改称された。
1964年発行『京都府鑛泉誌』より抜粋
『廃滅諸鉱泉・橋本鉱泉』
○所在地:八幡市橋本某町
○概 説:橋本は淀川左岸の交通の要衝で、宿駅として賑わい、遊廓も設けられていたが、昭和32(1957)年、売春防止法公布と共に転業を迫られ、温泉地として更生する方針をとり、京都府の援助もあって泉源調査の結果、昭和33(1958)年、府衛生研の分析により、同地区内一民家の井戸が多量の鉄分を含み、単純炭酸鉄泉として療養泉規格に達することが判明した。地元三業組合では昭和34(1959)年6月利用申請を提出し、組合加入各戸に配管工事を行い『淀川温泉』の名で新温泉境の実現をはかったが、期待したほどの浴客招致に成功せず、昭和52(1977)年、源泉所在家屋の改築を機に廃止のやむなきに至った。
1984年発行『京都府温泉誌』より抜粋
143
:
ナカムラ
:2007/01/09(火) 22:17:32
橋本が凄いですね。。。
ナカムラです。
皆様、今年もよろしくお願いします。
暮れから、「橋本」が凄いですね。それも、高尚で・・・。
11月に橋本を再訪したのですが、遠方から再訪を促すような、力のある町ですね。
ストーリーと関連がないのに、映画「鬼龍院花子の生涯」に橋本の風景が使われているというのを何かで読んだことがあります。五社英雄も惹かれていたということでしょうか。
皆さんの書き込みをみて「淀川温泉」の経緯がよく判りました。
1軒残っている旅館の看板に「淀川温泉 旅館 ○○○」とあったので、何だろうと。
すぐ近くの「橋本湯」は評判の銭湯ではありますが、鉱泉ということでもないので、不思議に思っていました。
144
:
嶋原G
:2007/01/11(木) 16:17:51
橋本の転業状況
参考程度でよろしく。
橋本の転業業種だと思います。後日(つづき)を出します。
1960年発行
貸席7軒、スタンド5軒、サロン1軒、料理屋8軒、旅館2軒、質屋1軒、アパート2軒、薬局2軒、タバコ屋4軒、食品3軒、食堂2軒、理容パーマ3軒、ホルモン1軒、
麻雀1軒、鮨1軒、牛乳1軒、履物1軒、電機屋1軒
屋号のみの怪しいもの14軒
↓↓↓
1967年発行
お茶屋5軒、料理屋5軒、料理旅館2軒、旅館2軒、居酒屋1軒、アパート1軒、
薬局2軒、タバコ屋3軒、食品2軒、菓子屋2軒、食堂5軒、理容パーマ3軒、
八百屋1軒、カメラ1軒、鮨1軒、牛乳1軒、履物1軒、電機屋2軒
屋号のみの怪しいもの3軒
↓↓↓
(つづく)
参考文献:とある住宅地図。
145
:
嶋原G
:2007/01/13(土) 23:58:32
あぁ橋本
売防法施行前に発行された2冊の書籍よりの抜粋です。
廓内の情景が赤裸々と描かれてます。
駅の改札口に立つと、何となく遊廓の木戸口のような感じを受ける。どちらが表口か、裏口か分からない。夏の夕暮れなど改札口に子供を連れて、電車に乗るでもなく、乗降の客をぼんやりと見送っている脂粉の女をよく見受ける。故郷の想い出などに耽っているのであろう。
背景は低い屋並みの遊女町が下の方に拡がって、涼しい河風が襟元を吹き抜けていく。
私はここから山崎へ渡る渡船場の夕暮れの風景を見に行くことがあった。
町と言っても一筋か二筋の廓内の道を突き切って行くと、開け放たれた青楼の張店の片隅に鏡台を据えて、今宵の持場、持場につかうとする露は女の裸体が、白日に曝し出されている。腰巻き一つで双乳を露出したまま、平気で莨(タバコ)を口にしながら行人を眺めている女。
赤い長襦袢などの、ぞろりと掛かっている柱の脇に「初店△△子」などと書いた貼紙が白々として、ステンドグラスの飾窓に屋根越しの夕陽が明々と照り渡った。
町を突き抜けていくと、土塀のように行手を防いでいる草の堤が見える。京阪国道の淀川堤防である。国道が出来なかった以前は川沿いの座敷から漫々たる淀川の流れを背景にして、低い堤と渡船場の風景が見渡せたものだが、今では狭い溝川を隔てて、国道の高い堤で眼隠しをされたような形になってしまった。
堤の上に登り立つと乾かし広げた腰巻きや、敷布や、座布団などから縁近く持ち出された椅子や鏡台などまでが、ずっと下の方に見潰される。
1946発行書籍より抜粋。
橋本遊廓がいつ頃に出来たのかあきらかではありませんが、井原西鶴の『好色一代男』等を見ると、主人公の世之介が一夜をここで明かすところが出てくる位ですからやはり江戸時代からあったものと思われます。
今は京阪電車の橋本駅を降りたところがすぐ遊廓の入口といった具合で、あくどい化粧をした女が待ち構えていたように袖をひきます。カメラでも肩に提げていようものなら絶対にタダでは通り過ごせません。散々女に引っ張られ抱きつかれたりして、やっと150軒余りの遊廓街を通り抜けてすぐ裏の淀川堤に出ました。
堤の上からはここの遊廓の素顔とも言うべきもの、例えば物干しに広げられた赤い腰巻きや布団、縁側に持ち出された鏡台、立て膝をして煙草を吹かしている半裸の女たちなどが、どす黒く澱んだ川と共に、ネオンで飾られた表とはがらりと変わった遊廓の裏側の表情として一眼で見下ろせます。
1957発行書籍より抜粋。
しかし「150軒余り」とは大袈裟だなぁ。
146
:
夕凪
:2007/01/14(日) 23:43:32
橋本遊廓の許可区域
橋本遊廓区域は漠然たるものにして明瞭ならざるも、
東は西遊寺山裏を廻る小径より、
津○電線?八幡工場北側の道路を西行して軌道を横断し
小字○金川の南端を京阪国道(の淀川堤防)に出で
北上して○之町を横断し軌道を越えて狩○神社参詣道より
東の境界線(小径)に接続す(許可当時:1887年の地域図に拠る)
1937年発行の資料より
○1887年頃の橋本では、都市部のように細かく地番が決められて
いなかったのでしょうか?
それとも川の氾濫があったりして、その度に、道が多少なりとも
変ったりして、地番等を確定できなかったのでしょうか?
また橋本地域貸座敷組合と言う名称も独特なのでしょうか?
●ここの花街も明治時代は足場が悪く振るわなかったが、
大阪へ通じる京阪電車が廓の前を通り、八幡の駅を設けてから、
男山の山頂に祀る石清水八幡宮の参詣客が、忽ちその恩恵を受け、
この廓ばかりは昔の面影今何処と、
逆なコースの繁昌を極め今日の盛況を得た。
しかし京の郊外といっても2、30分で着く近いところだが、
都の風は届かぬと見え、繁昌は八幡宮一辺倒に依存して、
行事も催さなければ、宣伝の必要もなく、
極めてのんびりと朝に京の客を送り、
夕べに大阪の客を迎えている頼母しさである。
1956年の本より
147
:
嶋原G
:2007/01/17(水) 22:49:12
大阪と愛知
売春防止関係調査結果を御報告いたします。
まず、大阪府においては、Y副知事外関係部課長ら10名の出席を得て、種々状況を聴取いたしました後、夜間松島新地の実態を視察し、K組合長外業者代表6名と懇談して参ったのであります。
かように大阪府においては、昨年11月婦人相談所を設置し、昭和32年より経営委託により婦人保護施設2カ所を設置し、婦人相談員は大阪市10名、その他11名を配置しており、今後なお、婦人保護施設1カ所、婦人相談員数名を増設する予定となっております。相談所の活動状況は、数字的になりますので説明を省略いたします。
このほか、売春対策機関として本年4月より婦人保護対策協議会が知事の付属調査審議機関として発足し、9月より売春防止対策本部が設置せられ活動に入っておりますほか、近く啓蒙宣伝及び対策本部への協力機関として、売春対策推進委員を設置することになっております。
かように大阪府の売春防止体制は着々整備されておりますが、府下の売春地区は、赤、青線その他を含め52カ所、業者1575名、従業婦6164名を数え、潜在売春婦を入れると約18000余名を見込まれるにもかかわらず、業者の転廃業状況は、法施行後、廃業12件、休業18件という微々たる現状であります。大阪市内の代表的赤線地区は飛田、松島、港、住吉、今里の5地区でありますが、このうち転廃業に積極的であるのは松島新地ぐらいのものであって、飛田に至っては全くその動きもないということであります。
私どもが視察したのは、この最も積極的であるとされている松島新地でありますが、ここでは転業対策委員会を設け、早期転廃業、従業婦全員解雇の2つの方針をうたっており、常業にも一応自粛のあとがうかがわれるのであります。しかし、この新地の業者195名の軽業希望を見ますと、旅館が最も多く約50%、次いで待合16%、アルバイト料亭13%、下宿9%、料理屋5%、その他となっておりますが、その前途は必ずしも明朗ならざるもろもろのデータをはらんでいるようであります。即ち、業者の約半数は自己資金不足のため、未だに国庫補助を希望してむなしく下をこまねいております。従業婦の方も700人のうち500人は親や子持ちで、月々送金しなければならないという状態に置かれております。従ってまた、業者も全員解雇の線を打ち出しているといっても、希望者には転業後の旅館の住み込み女中、料理屋、待合の住み込み仲居等に再雇用するという、牛は牛連れ式の態度を捨て切れないのであります。また、直接私どもが見聞した範囲では、業者は業者で自己の転廃業に苦慮することで精一杯の有様で、実際は従業婦に対する積極的な相談もなく、従業婦は従業婦で明日は明日まかせの態度で計画もなく、ぎりぎりまで商売することも仕方がないとしております。これが大方の実情であります。ここに私どもは関係当局の一層の努力を要望しなければならないのでありますが、それについては、後に纏めて申し上げたいと存じます。
次に、愛知県においては、U民生部長、O衛生部長、I県警防犯部長外関係課長等6名出席のもとに種々懇談の後、夜間、名楽園新地の実情を視察し、Mカフエー組合連合会長外業者代表5名と会ってきたのであります。
愛知県においては、本年11月婦人相談所を設置し、経世委託により婦人保護施設1カ所を設置し、婦人相談員は県下に24名、うち名古屋市内に7名を配置しておりますが、これらの活動状況は、大阪府と同様数字的になりますので、省略いたします。
このほか、売春対策機関として、本年10月より売春対策本部と売春対策推進委員を設置して活動に入っておりますが、対策本部では、11月婦人保護、取締り、転業の三対策を推進するため要綱を決定し、これに基き現在従業婦の一斉調査を実施中であります。
かように、愛知県においてはむしろ大阪府以上に法の運用を薄々進めておりますが、県下の赤線地区は29カ所、その赤線業者699名、従業婦2715名、昨年10月より一年間の転廃業状況は業者33名、従業婦670名という、理想には至って遠い現状であります。もっとも愛知県の赤線業者は、岐阜、三重、静岡三県の赤線業者とともに性病予防東海連盟なる団体を結成し、全国に先がけて年内転業を声明し、売春企業の放棄、従業婦の解雇、前借金の棒引の三原則を打ち出し、愛知県内傘下の組合員694名の殆ど全部が年内転業の確約書を提出したという目ざましい進展をみたのであります。その転業希望の内訳は、旅館が最も多く、次いで料理店、飲食店、下宿屋、喫茶店、カフエー等の順序になっております。連盟の幹部諸君は、年内転業実現のため、非協力者に対する警察取締りの強化、転業許可面の便宜操作、転業資金の融資あっせん、従業婦の更生資金の援助等について強力な行政の推進を要望しておりますが、これが関係当局との間に完全な了解がついていないためもありまして、最近に至って転廃業確約者の約70%が自信を失い、中には年内転廃業反対の動きも出ているとのことであります。
昭和32年国会法務委員会議事録より。
ps52カ所と29カ所ですか。あと、つづきがあり、後日掲載。
148
:
嶋原G
:2007/01/18(木) 00:14:33
書籍情報
2月3日発売「東京人」3月号。特集江戸吉原。以上です。
149
:
鷹目
:2007/01/19(金) 00:38:40
押忍!
皆々様、橋本ご苦労様です。
来週あたり紹介者の方と一緒に楽園組合長さんの処へ行ってまいります。春に歌舞練場で本当に開催できるように祈ってください。
某京都の任侠集団会津の三代目、五条の組合長を一時やってられたんですね。今発売中の実録マンガを読んではじめて知りました。
>島原Gさん
『東京人』情報ありがとう御座います。ジュンク堂に買いに行くか、注文することにします。
150
:
嶋原G
:2007/01/21(日) 03:00:19
新むつ旅館
八戸の新むつ旅館が年末に文化庁の登録有形文化財に答申。
ttp://hac.cside.com/shinmuturyokan/
151
:
夕凪
:2007/01/22(月) 00:07:58
枚方遊廓の転廃業
1956年5月 売春防止法公布、しかし全面施行は2ヵ年後と言う事情を利用して、
同法の弱体化をはかる運動が各地で見られた。
1958年1月 大阪府売春防止対策本部は、新地業者に営業許可取扱い要領を制定し
転業の期日を1958年2月末とした。
1958年3月 業者・一般従業員49人、従業婦74人が新地協同事務所で解散式(3/1)
1958年3月 全業者による「学生下宿組合」結成(初旬)
?? ???????? ※学生下宿業への転業が遅すぎ学生は殆ど集まらなかった。
1958年4月 一般人も対象とした「枚方下宿組合」(37業者)に変更。
※売春防止法全面施行(4/1)
1958年6月 早くも4軒が旅館に転業申請
1960年 ?? 17軒の業者が、置屋、揚屋(料理屋)、検番を再興(新起興業?結成)、
?? 芸妓に踊り・小唄・三味線を習わせ、桜新地の復興をはかる。
1962年 ?? 第1回の温習会を検番2階広間にて開催(温習会は年1回、1969年まで実施)
?? また淀川まつりには川原に舞台を作り、その艶姿を披露したりもした。
1965〜1967年頃が最盛期で、芸妓も37人前後いたが、
いつしか枚方市駅周辺の繁華街に客足を奪われ、
1979・1980年頃には芸妓も3、4人を数えるに過ぎなくなった。
今日(1984年)、料理屋、レストラン、スナック、すし屋等の営業が行われているが、
かっての繁栄した桜新地の面影はみられない。
桜新地の町名も、住居表示の改正によって1965年4月1日から現在の桜町に変更された。
1984年発行の資料より
152
:
夕凪
:2007/01/22(月) 00:49:58
大阪の群小赤線の変貌
大阪の飛田、松島以外の群小赤線では、
まず“飛田”の出方をみてと、事態静観のかたちだが、
今里新地(212軒、芸妓約500名)は昨年の秋から待合に切替え、
堺市の竜神遊郭(竜神カフェー組合75軒、約430名)も
明年4月1日から“芸妓組合”として新発足の予定で
“女”を芸妓として登録するため舞踏、三味線をはじめ教養講座を開くというが、
戦後大阪の新興赤線、布施新地(布施市、23軒、接客婦約80名)が心配するように、
待合にするにしても、これまでコロビ専門だった女が、どれだけ“芸”に赴くか、
甚だ疑問で、他の面倒臭くない業態に、逃げられるオソレもある。
1956年6月の新聞社系の雑誌より
153
:
嶋原G
:2007/01/22(月) 15:23:27
京都府調査報告。
京都の取締り対策について申し上げます。
まず、売春関係地区の現況は、京都における赤線地域は京都市一帯の8カ所、即ち西陣新地、祇園、宮川町、七条新地、島原、中書島、撞木町、橋本の8カ所と、府下6カ所、即ち月見、猪崎、朝代、龍宮、丸山、新浜の6カ所に分けられますが、営業者及び従業婦の数において、京都市一帯は全体の八割以上を占め、昭和32年10月末現在、京都府警察本部の調査によりますれば、京都府赤線業者1020人・従業婦2408人に対し、京都市一帯のそれは業者887人・従業婦2094人で、業者1人に対し従業婦数は平均2、3人の計算となり、業種は貸席、お茶屋等であります。赤線以外の地域における売春業態として容疑のあるものは総数781で、そのうちで旅館業が最も多く404で、全旅館数の約3割に当り、その他は料理屋、飲食店、カフェーの順であります。
また、警察の厳格な推定では、この他散娼約200人、ポン引き約135人とされ、新検芸妓323名のうち6割が売春の対象となり、もぐり・やとなが50名存在し、席貸しを利用いたしており、売春の8割が旅館で行われているという現状であります。売春事犯の取締り状況につきましては、本年1月から11月末までにおける検挙件数と検挙人員を昨年のそれと比較いたしますると、検挙件数は昨年の41%・841件、検挙人員は昨年の25%・468人にそれぞれ減少しております。従業婦の漸次的減少傾向がおもな原因と思われまするが、警察取締りの困難牲を物語るもので、特に夜間の取締りの実際に当っては困難をきわめ、人権尊重と取締りの徹底化との大きな矛層に逢着し、成果のあがらない結果となっている現状であります。さらにつけ加えますと、本調査の前々日の事例でありまするが、一赤線業者の検挙で、組合登録の3名の従業婦のほかに8名の闇売春婦が存在していたことが発見されております。かような実情、これはその実情を察知する一つの好適例であろうかと存じます。
以上の現況から、警察側は、来春4月に至っても取締り陣容に変りなく、しかも取締り地域が全般に拡大されるに及んでは、真に徹底した取締りの成果をあげることができるかどうか、深い危惧の念をもって臨んでおります。
最近の業者並びに従業婦の転廃業その他の動向であります。
まず、業者についてみますと、京都府貸席お茶屋組合連合会では、去る11月26日業者転廃業に関する基本方針を決定し、転業促進を申し合せました。それによりますると、?完全転業すると共に接客婦についても明朗な就業を勧める。?転廃業の時期は、明年2月末日までとする。
これは全国性病予防自治会連合会の申し合せ時期たる明年1月末より1ヶ月遅れることになりまするが、京阪神地区業者の申し合せによるもので、正月の収入期をはずさないためと言われております。?転業上所定基準に欠ける場合の行政措置について条件又は期限を付してもできるだけ便宜を払われたい。?当面の資金は自力と組合の資力に待つこととし、不能の場合は融資の斡旋方を当局にお願いする。?転廃業完了後本連合会を解散する。
というものであって、右のような申し合せを行いつつも転業資金に悩みがあり、転業構想を巡る利害関係もあり、業者の大半は転業について自己の腹がまえがまだ決まっておらず、また、組合も指導精神なく、政府当局の出方を見守っている現状であると見受けられました。最近に至って政府は、各都道府県あてに売春関係業者の職業指導についての通牒を発したと承わっており、今後、業者転業が大いに促進されることと思われますが、本年1月以降11月末までの転廃業率は約5%・53名でしかない状態であります。
転業希望業種について最近一部組合で纏めたものを見ますと、旅館、風俗営業希望が圧倒的で約8割を示しております。旅館等への転業については、擬装転業でないと言い切れぬものがあるとする警察側の見方と、まず、希望業種に常業許可を与
えるべきで、違反行為があれば取り消し処分にすればよく、転業前から疑いを持たれるのは心外だとする業者の意見との対立がここでも見られました。
次に、従業婦の場合ですが、本年10月末現在で2400人の赤線従業婦が存在し、新規雇用が禁止されているので、業者は現在員の温存に力を入れており、それでも毎月平均50人から100人ずつの減少傾向を示してはいるものの、このままでは来春4月に至ってもなお、2000人の従業婦が残存することになり、更生意欲のない者が大半で、かつ、1人平均3万円から5万円の前借ある者が半数であるという実情を考えますと、誠に憂慮にたえないものがあります。
昭和32年国会法務委員会議事録より。
他方面調査報告あり、後日掲載予定。
154
:
鷹目
:2007/01/22(月) 20:19:39
オランダでは
海外でも大変なようですな。
ttp://www.zakzak.co.jp/top/2007_01/t2007012201.html
オランダの赤線地帯「飾り窓」が廃止に追い込まれそうな雰囲気・・・。どうなるのやら。
155
:
嶋原G
:2007/01/26(金) 01:51:27
九州報告その1。
昭和32年1月21日以降9日間にわたって、大村、諌早、長崎、福岡、小倉、別府、大分の7市3県に出張いたしまして所定の調査を行なって参りました。
まず、第一点の売春防止法の運用に関する問題ですが、本件につきましては、各県とも厚生省の指示に従って婦人の保護更生施設、同相談所、同相談員等に対する所用の予算を昭和32年度に要求いたし、これを実現するため準備を進めている段階であります。すでに数名の相談員を任命いたし、活動を開始している県や市もありましたが、いまだ任命していない所もありました。
各地業者の動向は、一般的にひより見的態度で、実際に転廃業等いたした業者は至って少い実情であります。特異的なものといたしましては、長崎県佐世保市勝富町の貸席業者60名が昨年5月全員出資によって西海国立公園観光株式会社を設立いたし、その事業といたしまして現在の施設を観光ホテルに改造するため、政府の援助を得べく活動を開始していることでありました。
それから、売春禁止法、この問題につきましても、長崎でも福岡でも大分でも、検察庁、裁判所、警察、それから厚生関係の方々の御参集を願いまして懇談をいたしましたが、業者の人たちは、ほとんど4月の実施を控えて転廃業というようなものを考えておらないのでありまして、こんなことを言ってもとうてい実行不可能である、多分4月の法律は延期になるだろう、実施されないだろうというような考えが一般的であります。
S32国会議事録より。
156
:
鷹目
:2007/01/26(金) 19:22:12
五條楽園
本日、紹介してくださる方と共に五條楽園の組合長さんの処を訪ねました。もちろん用件は春のオフ会の件でです。
驚いたことにこのHPを閲覧してくださっており、五條楽園史のページをプリントアウトして持って下さってました。当HPを開設して初めてお茶屋料亭関係者の方にお会いしたのですが、「余計な事書くな」なんて怒られるのかなと思っておりましたが、「よく調べているHPの管理人の方に会えました」と好意的なお言葉を掛けて頂きました。正直うれしかったですね。
そこで内部を見学されて頂いたり、色々と残っている資料を見せて頂いたり、話を色々と聞かせていただきました。もちろんオフ会についても話しましたよ。
ただ五條楽園、経営者の方が高齢で後継者も決まっていないお茶屋さんも多く、また新妓さんも最近は少なく寂しい状態が続いているとか。資料も昔のはあるがS33以降の資料は諸事情により少ないようです。
ですが、現組合長さんになり、少しずつオープンになって来ている部分もあるようで歌舞練場の貸し出しもその一環ですね。また卒論等の問い合わせにも応えているようです。
ともかくオフ会に向かって詳細を練っていきます。また参加者も多数募集します。当日何か余興をしたいという人があればそちらも大歓迎です。2月半ば頃には詳細をUPしたいと思います。
なお当HP「鷹は舞い降りた」と管理人鷹目は五條楽園を応援します。何か五條楽園に対し手伝えることがあればお手伝いしたいと思います。頑張れ!五條楽園!!
157
:
夕凪
:2007/01/27(土) 01:09:39
1966年頃の五條楽園
かって“七条新地”の名で馴染まれた廓。
明治以来というから京都では新興の口だろう。
従来は祇園甲部と変わらぬお茶屋街であった、
それが自然に純お茶屋が祇園の方に移動、自然娼妓が隆盛となった。
昭和14、5年の不況旋風に、芸妓は金がかかる、
てっとり早く金にできるのは肉体を売る方法という事で
全面的に娼妓一本 ―― つまり赤線になってしまった。
全盛時代には、やかた185軒、娼妓800人を抱えたというから大変なものである。
売防法以来はもっぱら旅館に転向したが、
女抜きではさっぱり客も集まらず、お茶屋に生まれ変わった。
お茶屋84軒、バー、スタンドなど19軒。芸妓は100人もいるという。
芸妓は名前だけ芸妓とつけているのでなく、
6ヵ月間はお座敷にも出さず、みっちり芸を仕込んでいる。
芸といっても長唄、三味線の類では、いまの若い人たちにアッピールしないとあって、
もっぱらギター、アコーデン、歌謡曲などのレッスンが主。
芸妓たちはすべて通い。ここがミソでお座敷で話し合って勤めの終わった11時頃から
2人っきりでどこへ行こうと、それは束縛するすべもない。
「お茶屋だってレンアイできますよ。あそこは十席(5千円)が相場。
座布団を丸めて枕に、裾をめくるだけでやるのは飛田や松島と変わりませんネ。」
という声もあるが、彼女らも生身の女性だから、
馴染みのいい男には浮気もするということだろうか。
1966年の盛り場案内より
158
:
夕凪
:2007/01/27(土) 19:21:22
三重県の特殊カフェー
01.水郷園(長島村) 02.桑陽園(桑名市) 03.朝明待合組合(富田町)
04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) 06.神戸六郷園(十日市町)
07.江島組合(江島町) 08.亀山待合組合(亀山町) 09.藤枝待合組合(津市)
10.久居支部(久居町) 11.上野支部(上野市) 12.名張支部(名張町)
13.松坂貸席組合(松坂市) 14.山田支部(宇治山田市) 15.神社三業組合(宇治山田市)
16.田丸支部(田丸町) 17.尾鷲支部(尾鷲町) 18.紀伊長島組合(長島町)
19.鳥羽待合組合(鳥羽町) 20.二見浦待合組合(二見浦) 21.浜島待合組合(浜島町)
22.渡鹿野待合組合(的矢村) 23.木ノ本支部(有井村) 24.引本待合組合(引本町)
25.阿下喜支部(阿下喜町) 26.港楽園(四日市市) 27.一身田支部(一身田町)
1950年の資料より
159
:
夕凪
:2007/01/27(土) 21:48:10
愛知県の特殊カフェー
01.花岡園(一宮市) 02.曳馬園(小牧町) 03.桜楽園(犬山町)
04.新天池(津島市) 05.陶華園(瀬戸市) 06.道風園(春日井市)
07.清娯園(半田市) 08.海楽園(内海町) 09.常楽園(常滑町)
10.昭和園(岡崎市) 11.衣浦荘(新川町) 12.千鳥園(矢作町)
13.陽貴園(安城市) 14.鶴城園(西尾町) 15.睦荘(一色町)
16.観月境(挙母町) 17.有楽荘(豊橋市) 18.円福荘(豊川市)
19.新栄連(新城市) 20.三谷観楽荘(三谷町) 21.蒲郡歓楽荘(蒲郡町)
22.共楽園(田原町) 23.五楽園(福江町) 24.名楽園(名古屋市)
25.八幡園(名古屋市) 26.城東園(名古屋市) 27.港陽園(名古屋市)
1950年の資料より
160
:
夕凪
:2007/01/27(土) 22:05:08
岐阜県の特殊カフェー
01.金津組合(岐阜市) 02.旭日園(大垣市) 03.西ヶ原組合(多治見市)
04.夜城園(墨俣町) 05.花岡組合(高山市) 06.船津花岡組合(船津町)
1950年の資料より
161
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 01:16:42
貝塚
自分が見た中では、橋本、それと貝塚も
あまり知られていないが
いい味だしている建物が残っている。
ここに投稿している方は皆詳しいですね。
162
:
夕凪
:2007/01/28(日) 11:01:16
貝塚新地 (旧赤線地帯)
江戸時代紀州候の参勤交代の道中筋の宿場として発展し、
明治11年11月検梅所が設けられ、毎月6回検査が行われた事からして、
当時は相当いんしんを極められていたようである。
明治末期において今の近木に移った。
その後昭和20年の空襲でその半分が焼失したが、漸次復旧したのである。
ここは和歌山市、堺市(竜神)の中間に位し、
近時交通機関の発達と共に遊客の訪れは減少し、
次第に寂れつつある時、売春防止法の施行となり、速やかに解散した。
しかしその現況は旧新地域内小料理屋の従業婦35人内外、
客に飲食を供する業者は11件で、旧接客婦の経歴者は現在3人程度に減少、
収入は固定給2,000円乃至3,000円その他はチップかせぎ、
しかるべきサービス等でまかなっているものと判断される。
業者間の自粛は徹底しているようで、ただ1軒のみが狡猾に、
表裏とおり抜け営業を行って、場所提供で検挙経歴を持っている。
旧業者は全て土着と言うべき程の永住者であった事、
経済力豊かな農家または他に事業所を持つ者、会社役員等
総対的に法を潜ってまであくせくする必要がない為、
転業が鮮やかに行われた事と思料される。
1961年の行政機関の資料より
※私も貝塚で「しかるべきサービス等」を受けてみたかったです・・・・・
163
:
鷹目
:2007/01/28(日) 11:16:30
余談等々
>夕凪さん
五條その他情報ありがとうございます。某氏もしばらく五条を調べてみると言っておりました。
>旧赤線族さん
はじめまして。
橋本は確かにいい味出してますね。最近数が少なくなっているのが残念ですが。貝塚もそれなりに残っていますね。最近覗きに行っていないので今はどうなっているのだろう。また見に行きたいと思います。
五條楽園で書き忘れていました。最近のタクシーの運転手さん、「五條楽園へ」と言っても場所が解らない人が多いとか、組合長さん少し嘆息していました。由々しき問題ですよね。
164
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 12:03:37
泉佐野の若松町
泉佐野駅の南側の踏切を海側に越えたあたりに
和風ビジネスホテルが数件あり、その一角に
和風建築の遊郭のような立派な建物が一件
残っています。 それ以外にも数件それらしい
残骸があります。
残っている一軒は民家のようです。
書物にもででいませんが、お座敷遊びをする店
というのが一件だけ検索で出てきましたが。
実情はよく知りません。
なお、年齢は40手前のさえないサラリーマンですので
赤線は実体験したことはまったくありません。
ただ、建物を見ていると吸い込まれそうになるんです。
先祖が赤線通いしてたかな。
大阪の南の出身なもので限定されたところしか知りません。
165
:
鷹目
:2007/01/28(日) 12:37:10
新地通り
>旧赤線族さん
松→宮ですよね。
位置は確認してんですが、どうもいつ頃出来たのか判らないのですよね。花街として泉佐野の名前が挙がっている資料があることはあるんですが・・・。
166
:
鷹目
:2007/01/28(日) 12:41:28
五條小唄
一 芸者ワルツで ステップか 五條楽園花えくぼ
柳並木と ぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋のみち
二 甘い夜風か 三味の音か かわす情に ほだされて
むせぶ瀬音の 加茂の川 恋は せつないものか知ら
三 雨の木屋町 いと柳 恋しと想ふ あなた故
たゞ一筋の 高瀬川 人目忍んで 来たものを
四 見知らぬ人と 知り染めて 添ふに 添はれぬ 胸のうち
想ひ焦がれる 大文字 焦がれこがれりや 火ともなる
作詞 松森明
作曲 浅田憲司
編曲 浅田純一郎
歌 泉セツ子
歌 栢チエ子
作詞作曲者歌手等について情報求む!
167
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 16:00:29
(無題)
大変失礼しました。
ご指摘どおり若宮町です。
だいたいこのあたりです。
いい物件があるのは。
ttp://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F24%2F28.475&lon=135%2F19%2F3.228&layer=1&sc=2&mode=map&size=m&pointer=on&p=&CE.x=388&CE.y=300
168
:
夕凪
:2007/01/28(日) 23:50:58
わが一生いかにか過さむおりふしに、おもくばあわれ心ゆらぎて
鷹目さん
組合長さんから五條楽園の名前の由来は聞かれましたでしょうか?
ちなみに私の手持ちの資料(1958年)には下記のように書かれていました。
七条新地と五条橋下はよく一つと見なされていました。
赤線の女が廃止されましたが、新検芸者(雇仲居)として組合が出来
「五條歓楽街」と称してやる様です。 ※島原も「島原地域歓楽街」?
歓楽街にしろ楽園にしろ、なんでそんな名前にしたんでしょうか?
いつからその名称を使ったんでしょうか?
そもそも七条新地の転業策はどんなものだったんでしょうか?
また組合には「都の華」等の巽会の資料等は保存されていましたでしょうか?
>>旧赤線族さん、私は小さい頃から「赤線」に慣れ親しんでおりました。
「赤線」を吸っていたそうです・・・・・?
私は二十歳過ぎ !??? by いとこい
169
:
嶋原G
:2007/02/01(木) 16:15:32
橋本の或る元妓楼について
京街道と大谷川沿いにあり、現在「Y温泉 旅館T」と書いてある看板を掲げ、
玄関には男女が踊る絵柄がある透かしステンドグラスがあるあの建物は、元妓楼である。そんなことは既に承知の上なのだが、元来のT楼という屋号であった家屋、今は無い。
「T楼について」
戦前の地図上でT楼は妓楼であり駅の近くにあった。
1960年の地図上でT楼は貸席となり、やはり駅の近くにあった。
1967年の地図上でT楼はお茶屋となり、やっぱり駅の近くにあった。
1972年の地図上で、元来あったT楼は無くなっている。
建物はあるみたいだが空家のようだ。
その後、取壊され現在はガレージになっている。
「T旅館について」
戦前の地図上でT旅館がある場所にはI楼があった。
1960年の地図上でI楼は廃業したのか不明だが空家になっている。
当時、既にT楼へ所有権移転してたのか?
1960年に許可が出た温泉利用するため旅館へ、改築してたのか不明である。
1967年の地図上で空家だった家屋は、T旅館になったようである。
1967年当時、T楼はお茶屋と旅館、両方経営していたことになる。
以降、現在も旅館だが1977年温泉は廃止。
「I楼について」
現在、旅館Tにある透かしステンドグラス及びその他装飾は、I楼の遺構と見なされる。特に透かしステンドグラスの右横にある磨りガラスに書かれてるローマ字が、
I楼の屋号であるということをお気づきだろうか?
夕凪さんに感謝いたします。
170
:
夕凪
:2007/02/06(火) 06:57:49
自由国民バイブル版 と 旅行の手帖 (ふたりっ子編)
【全国女性街ガイド】(1955.8.20)の原形となった赤線案内のガイド記事を収録していると
言われる【旅行の手帖】や、その前身である【自由国民・バイブル版】を見ていると、
??本文等の内容が全く同じ双子の兄弟である号が複数ありましたので御報告致します。
※( )は発行日です。
1.【旅行の手帖 No.20】(1955.5.?)??特集・全国の美女・民謡祭礼めぐり
????【旅行の手帖 No.23】(1955.8.20)??特集・全国の美女・民謡祭礼めぐり
????※渡辺寛「よるの女性街・全国案内版」収録
??※詳しくは過去ログ(2005.11.1)の鷹目さんの書き込みを御参照下さい。
??2.【自由国民・バイブル版・第9号】(1953.9.10)
??????全国都市と女性美の特集 追篇・今日の京阪神なんでもわかる案内記
??【旅行の手帖 №12】(1954.2.15) 京阪神見物から各都市の遊び場まで
??※両紙の関係は2007.1.5の書き込みを御参照下さい。
??3.【旅行の手帖 №19】(1955.4.20) 東京・ヨコハマ なんでもわかる 1955年版
【旅行の手帖 №24】(1955.9.20)??東京・ヨコハマ なんでもわかる
??※渡辺寛「赤線地帯 あのまち・このはな 花街めぐり」収録
もちろん極一部の号しか見ていませんので、他にも双子がいるかもしれません。
??どうも双子の正体は、好評な号の増刷だったように思われます。
??※【全国女性街ガイド】については興味深い考察が、某古本屋さんの日記に書かれていました。
171
:
今里X
:2007/02/07(水) 21:30:48
夢よもう一度
『ひらかた散歩』という本に昭和三十三年以降の櫻新地のようすが書かれたがあったので、関連部分を抜粋して下記に転載します。
もともとは枚方新聞に連載していたものをまとめて出版したそうで、他の記事も簡潔で読みやすく枚方周辺の紹介をされてるので、図書館や古書であればおすすめです。
-----------------------------
廓の町「桜新地」より
明治の文明開化も、四民平等、女性解放にはいたらず、それらの娼家を風紀上よろしくないと、淀川大橋詰の一画に移されたのは明治も末の四十二年三月のこと。そのころ、竹川堤といわれた淀川の堤防には美しいサクラ並木があったので「桜新地」と名付けられた。
そしてこの付近は、上流の橋本や中書島遊廓などとともに淀川べりの歓楽街として栄えた。とくに枚方は、芸妓もかかえ格式も高く、枚方菊人形が開園された当初は、アトラクションの菊おどりに彼女たちが競演し、観光枚方の情緒をたかめる役割もはたしていたらしい。
こうして、赤線はなやかな昭和の盛んなときには置屋四十数軒、接客婦百数十人を数える不夜城のにぎわいをみせていた枚方遊廓も、ついにその長い伝統の灯を消し、接客婦たちを解放させられることになった。昭和三十三年四月に実施された「売春防止法」のためである。しかし、管理売春(単独売春)の取締まりだけに重点を置いたザル法---注目された下宿街への転向も、業者の死活問題などにからみいつしかもとの芸妓街へと復活。
いま健全な歓楽街へ桜町と名を改めた通りをゆくと、スタンド、料亭といった新しい看板のミセもみられるが、どの家も構えはむかしのままの紅柄(べにがら)格子。なかには夢よもう一度と思わせるようなミセまである。だが、客があるのかないのか、ひっそりと閉ざされたその出格子のうちは暗く、はなやいだ脂粉のざわめきならぬ一種の妖気すら漂よっていると感じさせられるのだ。
昭和42年2月
『ひらかた散歩』枚方新聞社 昭和54年
172
:
夕凪
:2007/02/12(月) 23:08:58
工都のオデキ“二つの顔”
尼崎市内には、二つの“色町”がある。通称“初島”と“神崎”新地。
“シマ”こと初島新地とは南初島町22,000?のこと。
表向きは料理屋、小料理店、バー、飲食店として許可を受けた家屋が180軒。
ほとんど木造簡易モルタル塗りの家で、ひしめき合っている。
“従業婦”と呼ばれる女性は450余人。
南は神崎川沿いの大防潮堤、北にボーリング場、
東に自動車学校、西にゴルフ場ある新興歓楽街。
神崎新地とは、戸ノ内字○開、○ノ割、四○田、○割、壱○島の合体、
がっしりした木造2階建の旅館をはじめ料理屋、スタンドなど計116軒
“女従業員”400余人。
神崎川と猪名川で三角形に仕切られた中洲の一角で、
やや古風な建築様式の歓楽街である。
戦後、進駐軍の指示で公娼制は廃止、市も1952年2月「売春取締条例」を公布した。
その頃市内には杭瀬、難波、出屋敷を中心に“色町”があちこち散在していた。
33年売春防止法施行直前、この散在する色町を市内のどこか一ヵ所にまとめては・・・
との保護司会の突き上げですったもんだのあげく、現在地に集中移住した。
当時、南初島は葦の生えた湿地帯。戸ノ内は雑草の生い茂る荒地だった。
この未開地が今は阪神間指折りの“色町”として栄えているだけに
「わしらの力で開発してきた土地だ」という地元民の自負心はかなり強い。
「売防法では完全な売春取締りはできない」と警察も足踏み状態だが、
初島繁華街組合は「警察はこの町の見方ですよ」とも言う。
暴力団風の男たちが入り込んでくるとすぐ組合から中央署へ連絡、
客や組合の夜警員との間にトラブルが起きない手を打つ。
家屋の転売は原則として組合を通じて行い、暴力団関係者への転売は避ける。
いかがわしい男が仲介した女性は雇わない―と、
この地区が暴力団の資金源になる事は無いと力説した。
ここの女性たちの職場にも、かつての“くるわエレジー”などは見られない。
しかし所詮は勤労者の町を背景とした「デキもの」ではないか・・・。
「婦人の中にさえ、婦女暴行の多い尼崎なら仕方ないでしょう―と言う人がいる。
とんでもない錯誤ですよ。女は身をきれいにしてこそ心の支えをうるものなのです。」
と言った北部住宅街の主婦の言葉を読者はどう考えるだろうか・・・。
全国紙(尼崎版)の連載記事をまとめた本(1966年)の要約
173
:
嶋原G
:2007/02/13(火) 00:16:08
ある議事録
夕凪さんの書き込みに関係あるかと思われます。
警官と業者の結びつきというものは想像以上に根深いのであります。
1、2の例を挙げますと、赤線、青線区域の警官のみならず、署長クラスの転任、就任に際しましては、華々しい歓送迎の宴が催されておりまして、多額の金品が贈与されておるのでございます。あるいはまたさらに、付近の交番の増改築の場合、殆どといってよいくらい、業者の寄付に依存しておると言われます。
過日、私は兵庫県の尼崎市へ参りました。同市におきましては、従来の歓楽街が住宅街のまん中になったために、子女に及ぼす影響が問題となり、婦人会等の反対運動の結果、転廃業ということになりました。
ところが業者は、元某紡績工場の空襲による焼跡4万6千坪を買収いたしまして、大々的に遊廓の建設を急いでおります。現に100名の女をかかえ、来年いっぱい1600名の女を持つ一大遊廓を作り上げるのだと豪語いたしております。
私も、その規模の人なるに驚き、かつあきれたのでありますが、そういうことが現在でも許されるでございましょうか。
そこで国会に売春防止法成立の公算大なるとき、かかる建設をして、法案通過のときはどうするのか?と質問いたしました。ところが彼らは、傲然といたしまして、あんな法律が通っても平気だ、幾らでも抜け道はある、既にそれぞれの関係方面と打ち合せつつやっておるのだから心配はないと断言いたしております。
しかも驚いたことに、その大門通りといわれる入口には、実に立派な交番が建っておりました。あとで建設の青写真を見せてもらったところ、その中に交番がある。これは業者が建てて警察へ贈ったのだと申しておりました。
私は議員であることを隠して参りましたので、内容を全て聞くことができたのでございますが、これは何たることでしょうか。業者を取り締る警官が、その供応を受けますることさえあるに、なお警察の公の出張所であるその交番を業者から贈られているこの現状で、果して真の使命が果せるかどうか、ここに問題が内包されておるのでございます。これが見て見ぬふりどころか、陰で業者を指導し擁護する結果となるのであります。
現在の青線業者や赤線業者の中に、相当数の署長上りを始め、多数の警察官が業者となっており、さらに業者の用心棒として警察に顔をきかせておる者さえ多数ございますのは、このことを最も雄弁に物語っているのではないでありましょうか。
もし、当局が、真に決意を持って法を守るために忠実であるならば、現に調布の如く、九州八幡の如く、業者は自発的に転廃業し、みずから正業に更生し得るのであります。
昭和31年 参議院議事録より抜粋。
174
:
夕凪
:2007/02/14(水) 00:23:31
伸びる尼崎特飲街
特飲店はもと“新天地”と“難波新地”とに約130軒あった。
いずれも市の中心部で、近くに小学校もあり婦人会を中心に世論の反撃が高まって
昭和27年春 全国で一番厳しい売春取締りの市条例ができ、
同年秋業者は市街地から遠く離れた初島と戸ノ内の2ヵ所に集団移転をする事になった。
中心部さえ潰せば、不便な移転先では自然客足も減って自滅するだろうと言う
市警察当局の予想だったが、2ヵ所とも大繁昌。
殊に「神崎新地」と銘打った戸ノ内は、土地開発会社の大変なキモいりで、
最初移転した73軒の他、新規開業6軒を加え今や付属マーケットや商店を合せると
200軒と言う一大歓楽街となってしまった。
土地開発会社は「政府が本当にやる気なら何故売春禁止法を作らなかったのだ。
防止法は集娼を散娼化するだけだ。
われわれは完備したモデル特飲街をここに実現させてみせる」と大した意気込みである。
1956年のグラフ誌より
●以下は掲載写真の解説文です。
?歓楽街ができるまでは身の丈ほどもある雑草が茂っていた
開発会社がここに投下した金は約4億円と言われ
“防止法ができたからと言って廃業したのでは借金が残るばかり”と
必死の顔つきだがマーケットの方は2年後を見越してか
ほとんど借り手も無いようだ
?神崎新地は市の東部 もと飛行機工場跡を土地会社が買取り
業者に坪1,500円で分譲したもの 現在は坪1万5千円
?大阪からの入口“大門”には開発会社の手で交番が建てられ
巡査3人が常勤して専ら客の喧嘩を取締っているが
朝の掃除は女が交替でやっている
??※交番の写真には“モスリン橋巡査派出所”との看板が見られます。
?防止法が成立してから開店した店もあった
小さい店で32坪、最大は80坪 室数も5〜16間となっている
“新しい夜具”“整った衛生設備”と宣伝し
「完備した施設のこの神崎新地を認め 散娼 街娼を一掃せよ」と言う
175
:
今里X
:2007/02/14(水) 10:25:25
新天地と灘波新地
新天地は以前に写真板にアップしましたけど、灘波新地がいまいちわかりません。
くっついてたのか、ちょっと離れてたのか?
「オデキ」の本(書名忘れたw)に神崎の遊女の霊を弔う祭りの記事があったと思うのですが、その祭りは現在も行われてるのかどうなのか気になるところです。
176
:
ブール
:2007/02/17(土) 00:07:57
五條楽園歌舞練場
久々にこちらのサイトを覘かしていただきました。
五條楽園歌舞練場でのオフ会、とても愉しくなりそうですね。
昨年、新聞紙上でたまたま歌舞練場が多目的ホールとして復活という記事を見て、
自分も入館できる日がいつかくるのでは?と思っていました。
オフ会の当日の予定が決まっていないため、まだ参加の申し込みが出来ませんが、
ぜひ参加させていただきたいと願っています。
五條楽園歌舞練場になる前は、どのような施設として使用されていたのでしょうかね?
隣のガレージは七條新地女中組合の事務所?があったようです。
やはり、芸のお稽古場でしょうか?
私もいつも五条楽園を応援しています。何も力になれてませんが〔笑〕
177
:
鷹目
:2007/02/17(土) 20:18:45
五條楽園応援委員会だったり
>ブールさん
お久です。
そうです、今回ひょんな事から五條楽園歌舞練場でオフ会を開催することになりました。今回のオフ会は、従来と参加者の層が違うため、内容は私自身正直予想できません。が、まあ楽しいものになるとは思います。・・・いえ、楽しい会の無理やりにでもします(笑)。
参加申し込みは一応3月10日までと公式にはアナウンスしてますが、HPよりの申し込みはある程度融通出来るようにするつもりです。ですので予定がうまく合えば、参加申し込み宜しくお願い致します。
今回は遊里史研究会兼五條楽園応援委員会と言うことでこれからも楽園を応援しつづけますよ。本当はうだうだ言わず登楼するのが一番の応援かもしれませんが(笑)。
178
:
夕凪
:2007/02/17(土) 23:31:52
日本花街志(全四巻)
●加藤藤吉氏による『日本花街志』(全4巻)と言う本があります。
その第1巻は古本屋さんでチョクチョク見かけるのですが
第2巻以降は見た事はありません。
手持ちの第1巻に挟まれていた刊行予告のリーフレットによると
第2巻以降の内容は下記目次の通り予定されていたようです。
第1巻 情怨百年史、紋章の研究(1956年7月10日発行)
第2巻 各地花街沿革、芸妓学校史、年中行事考(未刊行?)
第3巻 制度の解剖、狭斜風俗考、各流婦人傳(未刊行?)
第4巻 近代花街年表、用語辞典(未刊行?)
また発行時期は毎月1回発行の予定とありました。
未完の理由は資金ができなかったのでしょうか?
なお著者は1894年生まれで、第1巻刊行当時62才でした。
179
:
今里X
:2007/02/18(日) 01:58:33
狭斜風俗考
第1巻刊行後、志半ばに鬼籍に入られたとか・・・
第2巻以降は後世に託すということでしょうか?笑
各地花街沿革、年中行事考、近代花街年表、用語辞典など鷹目さんのHPでも進行中ですが、芸妓学校史なんかはマニアックすぎ。
狭斜風俗考は裏板ですか・・・
180
:
夕凪
:2007/02/18(日) 09:55:47
愛艶の秘史
●芸妓学校史
めまぐるしく移りゆく世相に一番敏感なのは花街の教養と情操である。
芸妓学校の歴史は彼女たちの絶えざる人間の昂揚と愛艶の秘史でもある。
※でも昭和初期の金融恐慌時に芸妓は激減し、娼妓が激増しましたね・・・・・
●狭斜風俗考
この稿は本全集の附録的な役割を果たすもの、
著者独自の観点から、花街の人物、店舗、料理その他
広範囲に亘る風俗の解説とを添えて面白い。
※狭斜:色まち。遊里。(某漢和大字典より)
⇒長安の遊里の道が斜めで狭く、車も通れなかった事から。
刊行予告より
●神崎川水まつり
いま毎夏、神崎川水まつりが行われ、打上げ花火、灯ろう流しで
納涼気分を楽しんでいるが、
遊女たちの弔いに起因した尼崎では最も大きな年中行事の一つだ。
1966年の本より
※工都のオデキは潰すとやはり・・・・・
181
:
嶋原G
:2007/02/20(火) 03:22:06
楽園が舞台になった映画
「はて何だったろう?」と悩み続けて幾年月。漸く、判明しました。
以前、何年か前にスカパー!で観た記憶があります。
1957年公開作品『女だけの街』です。
この年に、中書島を描いた『廓より無法一代』も公開されたようです。
182
:
ブール
:2007/02/22(木) 22:49:45
(無題)
>鷹目さん
お誘いどうもありがとうございます。参加させていただく場合は、いろいろと宜しくお願いいたします。
歌舞練場で以前、ゆかた会や、上げさらい会なるものが行われていたのでしょうか?
大太鼓が五條楽園の名物であった、という記事も見つけました。
歌舞練場には大太鼓がひっそりと眠っているのでしょうか…
私も登楼が一番の貢献と思いますが… 個人的には一人で部屋でお茶を飲んだりして過ごしたいです。全く無理な注文で、少しも五條楽園に貢献できない今日この頃です〔笑〕
183
:
鷹目
:2007/02/24(土) 00:57:17
楽園
>島原Gさん
毎度です。ほう、楽園が舞台になった映画ってあったんですね。小説ではたしか『棹歌』というのが楽園を舞台にしているはずなんですが未見です。
>ブールさん
毎度です。歌舞練場の二階が舞台もある大広間でそこで発表会が行われていたそうです。ですので照明、音響設備といった舞台装置も備えています。大太鼓に関しては、前回お邪魔したときは見ていないです。次回訪問したときにでも聞いておきます。(楽園名称の由来も)
184
:
嶋原G
:2007/02/24(土) 23:44:34
只今、捜索中
鷹目さんへ
実は『棹歌』、ある方によって最近、知りました。
映画は祇園や島原だけじゃなく楽園・五番町・中書島が舞台もあったのですよ。
あと橋本ですが、五社英雄監督作品には必ずと言っても良いほど背景ででますが、
現在、自分が判ってる限りでは舞台が橋本というのが無く、只今捜索中です。
185
:
夕凪
:2007/02/25(日) 20:22:09
新天地と難波新地
尼崎の赤線の歴史は浅い。
終戦直後、阪神電車尼崎駅裏にできた闇市が、その始まりだった。
闇市周囲のスタンドバーが売春宿をつとめてくれた。
最近は肝心の闇市より売春街が勢力を増してきた。
赤線が無かった工場都市の手頃な近さに青線ができて、
工員たちも大悦びしたのもうなづける。
「風紀上えらい問題になりましたなあ。いっそのこと、公認の赤線にしてしまって・・・」
そんな声がおこって23・24年頃に、闇市から女を追放、
市内の難波新地に「新天地」なる赤線をつくったものだ。
ところが時代とともにそこが市の中心部になってしまい、
またしてもときの中央警察署長などから追放論が出て
再度、湾岸の埋立地に「初島新地」
神崎川沿いの東端に「戸ノ内(=神崎)新地」の二ヶ所をつくった。
尼崎の面白いのは、赤線も残っていて、しかも青線もそっくり営業を続けていることだ。
神田南通りにあるのが問題の旧青線。
土地の人はこれを「パーク」と呼んでいるが、
バラック建ての、いとも妖しげなスタンドが35件も並んでいる。
これは、もともと「新天地」から赤線が初島や戸ノ内に追いたてを喰らった時に、
新しく土地を買ってヤカタを建設するほどの資力の無い業者が作ったものである。
そこで働く女給は夏に三百人。冬は百人。夏冬で人数がちがうと言うのも面白い。
1966年の盛り場案内より
186
:
黄線
:2007/02/26(月) 01:06:39
オフ会
鷹目様
以前に木江のおちょろ船について書き込みしたことのある黄線です。
最近殺人的に忙しくてここを覗くこともあまり出来ませんでした。
五條楽園歌舞練場のオフ会に参加できそうなら申し込んでみたいのですが(^^;)
しかし、わたくしネットでの同好の知り合いも全然いない為に、
せっかく行って浮いてしまったり、皆さんに気を遣わすようなことがあったら
申し訳ないし・・・という感じなのですが、
私のような新参者でも参加できるような雰囲気でしょうか?
都合がつけば是非とも参加してみたいと思っています。
参加される方の層について教えて下さい。よろしくお願い致します。
187
:
鷹目
:2007/02/26(月) 19:59:08
オフ会などなど
>島原Gさん
毎度です。中書島は『廓』の映像化ですか?五番町は『五番町夕霧楼』が映画になっていますよね。京都じゃないですが、山口瞳『血族』が小林圭樹主演でドラマ化されていたのはびっくりしました。CSでやっていたので最初見ていたのですが、退院したら終わっていました(泣)。
>夕凪さん
ご苦労さまです。
最近ねた不足で資料的カキコは助かります。ちと尼崎ではないですが、おそらくここのメンバー未踏某所単独散策予定です。そのときに資料が見つかればカキコします。
>黄線さん
お久です。
初心者でも問題ないですよ。第1回目なんて誰も顔を知らない状態でやって、それが今まで続いているんで。むしろ初めての方大歓迎ですね。
お問い合わせのオフ会の層は、今回は女性陣も多く、約半数は初見の方です。でも中核となるのは常連さんで年齢層は30代から40代男性です。もちろん20歳代の男性もおりますし、今回は連絡が取れなかったですが、以前は50〜60代の方の参加もありましたよ。いままでは遊里、風俗、オタネタ、旅行記、まともな話題(??)で盛り上がっていましたね。
お時間が取れそうなら、一度参加してみてください。
188
:
嶋原G
:2007/02/26(月) 22:37:12
『「廓」より無法一代』
鷹目さんへ
そうです。「廓」の第一部だけですが脚本はちょっと変えられてますね。
以前、スカパー!で放映してたのを見て録画したかどうか判りません。
もし出てきたら、一報入れます。
えっ「血族」が!知らなかった。
あと滝田ゆうさんの「寺島町綺譚」が以前NHKでドラマで放映してました。これは所有。
189
:
ナカムラ
:2007/02/26(月) 23:56:51
山口瞳「血族」
横浜の放送ライブラリーで見ることができますよ。。。
横浜観光の折にいかがでしょうか。
近くに、福富町や曙町もあります。
http://bpcj.or.jp/search/show_result.php?query=27389&pagetop=0&category=0&sort=3
190
:
鷹目
:2007/02/27(火) 19:46:55
映像化
>島原Gさん
『廓』の第一部が映像化ですか。そういえば小説の方は購入してから約3年ほど経ちますが、いまだ読む時間が取れません。『寺島町綺譚』は知らなかったです。
>ナカムラさん
横浜の放送ライブラリーですか!横浜を含め関東西部、是非散策したいものです。
しかしN○K、以外に遊里小説ドラマ化しているんですね。侮れぬ!
191
:
嶋原G
:2007/02/28(水) 15:11:18
実は
実は自分も『廓』は今月早々に漸く読みました。
読んだあとに中書島の資料を色々読むと、かなりツボに嵌りました。
192
:
夕凪
:2007/03/04(日) 00:20:10
市民の灯台 49拠点
●竹谷巡査派出所(中署)
開所式、1954年9月18日。
出屋敷と、阪神国道をつなぐ商店街の真中にある。
特飲街の密集地。
喧嘩、暴行、傷害、酔っぱらい、ETC。
昔から事故の多いのは、
昭和通り派出所と大洲橋派出所に相場が決っていた。
余り多いので大洲橋から分れて、この派出所ができた。
夜は売笑婦が良民の袖を引き、
うかうか夜道を歩けないとまで言われていたのだが、
この派出書ができて、漸く悪習は改まろうとしている。
又附近に工員寮があって、毎月給料日となると、街が賑わうこと。
○この資料に掲載されている年表には
1954年1月4日難波新地特飲店に接客婦絞殺事件が起こった
との記載がありました。
1955年の警察の資料より
193
:
夕凪
:2007/03/04(日) 01:09:16
都市の暗部 ― 特飲街の移転 ―
昭和20年代、尼崎市内に数か所の売春街が出現します。
いわいる「アオセン」と呼ばれる非公認の営業であり、
表向きは飲食店を装っていたことから「特殊飲食店」
(通称特飲街)と呼ばれていました。
昭和26年10月14日付の神戸新聞阪神版は、
市内には難波新天地(ナニワ)・難波新地・パーク街(神田南通)・
浮世小路(竹谷町)といった特飲街があり、
1,000人もの女性が売春を行っていると報じています。
これらは市内中心部で住宅地や学校にも近いことから問題となり、
市は昭和27年2月に売春防止条例を施行、
警察による取り締りも強化されます。
こうしたなか、地元とのあつれきを避けるための郊外移転案が浮上し、
昭和30年に多くの業者が初島新地と神崎新地(戸ノ内)に移転しますが、
元の場所で営業を続ける業者もありました。
2か所の新地は昭和33年の売春防止法施行後も営業を続け、
これら特飲街の解消にはなお年月を要しました。
平成19年の役所の資料より
194
:
夕凪
:2007/03/07(水) 08:30:17
市民の灯台 49拠点 ?
●戸ノ内巡査派出所(北署)
1921年8月6日設置。
もと伊丹警察署戸ノ内巡査駐在所。
園田村が尼崎に合併されると共に現在の名前となる。
沖縄出身者が管内には多数住んでいる。
一方、町には特飲街が出来つつあり、これから発展して行く兆しがある。
同時に派出所の仕事も多忙多様性を帯びてくるであろうことも予想される。
195
:
夕凪
:2007/03/07(水) 21:27:09
市民の灯台 49拠点 ?
●昭和通巡査派出所(中署)
1931年3月設置。
繁華街を附近にもち、竹谷派出所と共に、
風俗営業関係、質屋古物関係の事件を扱うことが多い。
この方面の件数では、断然他の派出所を引きはなしている。
阪神国道に位置し、交通量の多いことも特徴である。
二階建ての建物は、派出所として異例にぞくするといっていいだろう。
石段を三つ四つ登って入口があるのだが、そんな位置も、
この派出所のもつ特殊区域であることを考慮に入れての上のことだろう。
196
:
夕凪
:2007/03/09(金) 08:02:21
尼崎市 売春等取締条例
新聞社のグラフ誌に「全国で一番厳しい売春取締りの市条例」と表現された
尼崎市の売春条例を下記アドレスから見る事ができます。
?? 1.売春等取締条例(1954年2月12日公布・施行)
?? 2.売春等取締条例執行心得(1954年2月12日制定)
?? ttp://reiki.city.amagasaki.hyogo.jp/
※ 例規検索システム → ログイン → 用語検索 → 検索語【売春】で検索実行
197
:
今里X
:2007/03/26(月) 19:21:58
オフ会にて…
昨夜のオフ会では彷徨人さん、ブールさん、黄線さん、ぴら金のゆみこさんら、掲示板やホームページでお馴染みの方にもオフで会うことができてうれしかったです。
濃い方ばかりなので話せる時間が短かったのは残念でしたが充実した一日でした。
198
:
ブール
:2007/03/26(月) 20:02:45
オフ会
昨夜のオフ会では、参加された皆さんどうもありがとうございました。
初めての参加だったのですが、皆さんに話しかけていただきとても充実した時間を過ごすことができました。
彷徨人さん、隣でうるさく話しかけご迷惑をおかけしました。とても楽しいお話ありがとうございました。
199
:
鷹目
:2007/03/26(月) 20:09:53
昨日のオフ会
昨日は皆さん、ありがとうございました。
彷徨人さん、ブールさん、黄線さん、ぴら金のゆみこさん、楽天地さん、名古屋のAさんら掲示板等で御馴染みの方々や久々に会う東海組の方々にお会いできて良かったです。
私自身時間が短かったなと感じていましたが、みなさんそのようですね(笑)。
どんな話の内容だったか、書きたいのは山々ですが人数が多すぎて話の内容、覚えきれていないですわww。すみません。
でも無事終わってほっとしてます。本当に。
200
:
鷹目
:2007/03/26(月) 20:11:23
続いて昨日の反省点など
備忘録として書いときます。
★初めての試み
料理を仕出しで注文。
ビンゴゲームの開催。
くじで席を決める。
★失敗
HNと本名がダブってしまった。
仕出のガラの処理。
ビンゴ景品の不備。
浮いてしまう人間を出したこと
オフ会時間、3時間でも短かった。
★今後の課題の一つ
女性割引、学生割引価格の設定。
研究会書き込みをもう少しやわらかい内容にし、女性や初心者が書き込み、参加しやすいようにする。
大人数の対応。
頭が痛い。あ、当日はリンパ腫れてのど痛かったんですけどねww
201
:
嶋原G
:2007/03/26(月) 21:46:09
反省
ガラ処理に関して、かなり反省してます。
202
:
今里X
:2007/03/26(月) 22:21:44
反省
景品は見えてた方が好きなのを選びやすいかと? いわゆる「ビニ本」の方が…
今回のような場合なら施設使用料と仕出し料理代を会費として、飲み物おつまみ各自持参でも良かったかも。笑
バイキング式食事、不便な場所、博物館など入館料の必要な場合、体力の必要なイベントなんかは、女性割引や学生割引があってもいいかなと思います。
鷹目遊里史板が堅いめなのと、続鷹目伝言板が下ネタ系なのは歴史(笑)があるし、柔らかい話題はmixiのトピック式の方がカキコしやすくないですか?
●遊里と周辺の飲食店
●旅行・宿泊・おみやげ
●エンタメ・映画・芝居・音楽 …などなど、ぼくも気になります。
203
:
銀月
:2007/03/26(月) 22:54:19
ご苦労様でした。
鷹目様、皆さんありがとうございました。
遅刻&むっちゃ浮いていた銀月です。
これまで書き込みもしていないし、人見知りする性格なので、私自身の責任です。
あの建物はぜひ見学して見たかったので、機会を与えてくれた方々に感謝しています。
主催された方々の苦労を考えると、失礼な事していたと反省しています。
書き込みもしていきますので、これからも宜しくお願いします。
204
:
夕凪
:2007/03/27(火) 00:06:03
タカメ ならぬ カタメ
ボクが遊里史版に書き込む内容が固めなのは、少し太郎・次郎してます(=猿まわしの太郎・次郎=反省)
ただ遊廓だとか、赤線のリアルな時代を知らないボクが、当時を思い描くには、
現存する建物等の遺物や、先人の残してくれた本や史料から辿るかしかありません。
そうした本や史料を、いかに自分なりに読みこなし、再構成して書き込んだとしても、
更に、そこにボクのオリジナルなものを付け加えるのは容易ではありません。
それならば先人の残してくれた史料あることを明記した上で、
できるだけ原典に近い内容で書き込んだ方が、
良心てきであり、楽でもあります。
まあ、そうした同好の志押し記録を紹介していく事で、
多少なりとも同好の士の参考になればとも思っております。
もちろん、わかりやすくて、原点の史料に忠実な内容を書き込めれば
More better なのですが・・・・・・・
205
:
鷹目
:2007/03/27(火) 20:21:53
時間短かったですよね
>銀月さん
毎度です。
先日はゆっくりとお話する時間が取れず、申し訳ございませんでした。私の落ち度なので気にしないで下さい。
歌舞練場借りるのが3時間が一区切りでしたが、オフ会と終え考えてみるともう少し(後一時間程度)時間がほしかったですね。4時間だったらまた話す機会も増え、状況が変わっていたかもしれません。
せめて見学したかった建物の内部を見学して頂き、満足していただけたなら、こちらも救われる気がします。
懲りずに次回もご参加ください。濃いメンバー一同(笑)お待ちしております。
206
:
彷徨人
:2007/03/27(火) 20:56:33
ありがとうございました
鷹目様はじめ会を運営していただいた方々,どうもありがとうございました。また,いろいろなお話を聞かせていただいたブールさんはじめみなさん方,ありがとうございました。
このような会への参加ははじめてでしたが,同じ趣味をもっている者同士ということで,口下手な私でも大変気軽にお話ができたのがとてもうれしかったです。
私は当日の夜,橋本の多津美旅館に泊まってまいりました。女将さんは電話で話をして受けた通りのとても温かい方でした。一人で経営してみえるようです。建物は昭和初期に建てられたまま,おおまかなところはほとんどさわっていないそうです。玄関から見えるダンスをしている男女のステンドグラスはみなさんもご存じだと思いますが,朝食を食べに入った食堂には外からは見えない女の人や窓のステンドグラスもあり,感激しました。
泊まったのは2階ですが,歩く度にきしんだりする一枚板でできた床,そして階段の手すりの彫刻などなかなか味がありました。女将さんの話によると,2軒左隣にも同じような建物があったと言われたので,たぶんそれがインコのステンドグラスのあった建物ではないかなと思いました。また,「昔は電車が橋本に停まると電車の中がからっぽになった」という話をよく聞いたとおっしゃってみえました。また,雑誌「太陽」の人も写真を撮りにきた,という話も。でも,現在はほとんど工事現場の人ばかりなので,そんなことはないようです。
そんな話を聞きながら旅館をあとにしました。その日は,その後石清水八幡宮や石切さんに参って帰りました。OFF会からいい流れで楽しい2日間の旅ができました。
207
:
:2007/03/27(火) 22:21:59
お疲れさまでした
ご無沙汰しております。
今回の会、友人(女性)に誘われたこともあって、ぜひ参加したかったのですが、私主催のお花見会が24日(土)になってしまい、体力的に無理でした。
残念でしたけども、また次回に期待しています。
PS.私の「ブログ日記」、「性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)」という分類項目を立てました。少しは見やすくなったかと思います。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
208
:
嶋原G
:2007/03/28(水) 02:19:36
こんばんは
彷徨人さんへ
こんばんは。
インコ窓のはまった建物は、駅の近くにあり、廓の北東(右)端にありました。
仰有ってる建物は、京街道沿いにあったインコの系列店です。
しかしその系列店であった建物も今から約1年ぐらい前に、
惜しくも取り壊されました。
209
:
今里X
:2007/03/28(水) 13:29:42
橋本、ノスタルジィ
いつ頃をつい最近と言うかですが、ぼくが初めて訪れた2001年にはインコは飛び立った後でいませんでした。
そのときでも空き地が多かった記憶があります。
嶋原Gさんの関係者がカメラに収めたのはいつ頃か、いちど聞いてみてください。
小中学生の頃、父の運転のクルマで京都・滋賀方面に行楽に行くときに土手の上の道から見えた橋本は異様な空気が漂っていて、いつもそこを通るのが楽しみでした。笑
国道が空いていて迂回せずにそのまま国道1号の方に進んだときはがっかりでした。
2001年に初めて橋本を訪れて水路にかかってる橋上に立ったときに子供の頃見た記憶の場所と橋本遊廓が合致しました。
210
:
嶋原G
:2007/03/28(水) 17:30:40
嗚呼、橋本
私が保管してるインコ建物写真の撮影は1989年ぐらいです。
建物自体は地図で追って見る限り今から約10年前ぐらいに取壊されたようです。
211
:
今里X
:2007/03/28(水) 20:01:49
(無題)
嶋原Gさんが書き換えてしまったので、ぼくのレスがおかしくなってますが、「多津美旅館の2軒左隣にも同じような建物」=「つい最近(約1年前)取り壊された建物」=「インコの系列店」と言うことですね。
インコの店のことかと思ってレスしてました。OTL
212
:
彷徨人
:2007/03/28(水) 20:12:06
敬服いたします
何気なく思って書いた私の推測に対しまして,これだけレベルの高い返事が交わされるのを読んで,大変驚きました。嶋原さんや今里Xさんの調査・研究の質の高さには,本当にびっくりしています。ありがとうございました。
213
:
嶋原G
:2007/03/28(水) 20:19:20
ごめんなさい
今里Xさん、ごめんなさい。ややこしいことをしまして申し訳ないです。
仰有るとおりです。
インコの系列、全盛当時4店舗あったみたいです。
流石にここでは旧屋号を書けないので、混乱させてしまい申し訳ございません。
インコが本店で、多津美の左隣にあったのが支店です。
214
:
今里X
:2007/03/28(水) 20:49:59
やはり本店なんですね。
いえいえぼくの読み違いですみません。
しかし本店は格が違いますな。(゜∞゜)y−゜゜
外観に関しては古典的な店が多い中、洋風意匠にこだわりがあったのかな。
あれだけ目立ってもOKということはチカラのあった店だったんでしょうね。
215
:
嶋原G
:2007/03/28(水) 21:55:33
そうみたいですね。
色々資料や地図を見てますと、経営者は有力者一族だったようです。
あそこは、結構洋風多いですね。何なんでしょうかね?
一度、建築系から調べてみようと思います。
216
:
今里X
:2007/03/28(水) 22:07:13
いよいよ半世紀…
週末で売春防止法施行50周年、鷹目さんのホームページもカウンター100000目前ですね。
ちょうど1年後に売春防止法全面施行50周年ですか。
Gさんとともに写真板埋め立て工事、手間取りましたがとりあえず完了。
ひさびさに100件超えました。
90〜100件を維持するようがんばりまっす。
掲示板にも、まとまってきたものからカキコしていきます。
217
:
今里X
:2007/03/28(水) 22:49:26
そう言えば…
>彷徨人さん
彷徨人さんは数年前ピンクバレーのBBSなどに京都府郊外の遊廓探訪のカキコされてたことなかったですか?
218
:
えもん
:2007/03/29(木) 02:58:28
お疲れ様でした。
こちらへの書き込みは初めてです。
先日は楽しいオフ会を開いていただきありがとうございました。
以前から行きたかったあの場所へ行くきっかけの一つにもなりました。
周辺の町を歩くこともできたし、とても満足しました。
みなさんありがとうございました。
----------------------------
実は、数年前からこちらのサイトはロムってまして
いつも勉強させていただいています。
これからもよろしくお願いいたします。
そこで質問なのですが、中間報告に記載されていた池田新地について
記述のあった町内にカフェー調?の日本家屋があります。
(古い土壁の家屋に似合わないタイルがたくさん貼り付けられています)
まだ物件は残っているんでしょうか?
タイルはあまり古くないようなので、
家主さんが趣味で貼り付けただけなのかなと推測してたんですが、
とてもアンバランスなので。壁の一部でも撮影できればアップするのですが
あいにく手元にないもので申し訳ありません。
219
:
彷徨人
:2007/03/29(木) 07:30:48
(無題)
>今里Xさん
ありません。というか,このようにインターネット上に書き込むこと自体2年前ぐらいからチョコチョコといった感じだもんですから………
220
:
今里X
:2007/03/29(木) 12:55:11
(無題)
>彷徨人さん
ぼくのハンドルネームの記憶違いだと思います。
京都府北部の遊所跡をかいつまんで書き込みした方がいてましたので。
>えもんさん
池田新地のお店は一ヶ所に集まってなくて町内アチコチに点在してたようです。
戦前と戦後で営業の「やり方」も変わってたようですね。
221
:
鷹目
:2007/03/29(木) 20:09:11
話の進行が早い・・・
>彷徨人さん
お疲れ様でした。やはり共通の話題があるとこういう時に便利ですね。多津美旅館、一般の個人客でも泊まれるのですね。機会があれば泊まってみたいものです。
>順子さん
お久しぶりです。
前日に東京で翌日京都というのは辛いですよね。年に2回程度はオフ会を開催しているので、日程が合えばお越しくださいませ。
>島原Gさん
毎度です。インコの家、約10年前に取り壊しですか。その頃に興味を持っていれば、写真を撮りにいったのに残念です。
あ、強襲、お疲れ様でしたww。
>今里Xさん
毎度です、幼少の頃から遊里に縁があったのですね。流石だ。
>えもんさん
はじめましてですよね、こちらではw
池田新地、平成16年の正月過ぎに今里さんと訪れ、撮影をしたのですが、スマメがクラッシュして何も写真に残っていません(泣)。それ以降訪ねていないので現状がわかりません。このような書き込みがされたことだし、久しぶりに訪れてみようかなと思います。
あのオフ会で知りましたが、潜在的にロムって下さっている女性結構いらしゃったんですね。
222
:
今里X
:2007/03/29(木) 21:36:47
懐古趣味?
近所の近代建築の劇場が鉄の球で壊されたり、移転してオバケ屋敷になった消防署、映画館跡の秘密基地、阪神高速から見おろした大阪中央公会堂、同じく車窓から見た橋本遊廓、京都の外環状線から見える三栖閘門などなど、ちょっと美化されて記憶に刻まれてるので、それと似たような場所をついつい探してるんだと思います。
223
:
鷹目
:2007/03/29(木) 22:08:51
多分業務連絡
今年一年、試みとしてイベントはMIXIでも告知していきたいと思います。まあ、○○が○○すると言い出して、○○○が○○とおっしゃる可能性は非常に高く、どちらかと言うとリスキーなことですが、最悪、盾と人身御供で今年一年は我慢してもらいたいと。
224
:
今里X
:2007/03/29(木) 22:37:06
暗号解読
(>Д<)ゝ”了解!
225
:
えもん
:2007/03/29(木) 22:47:37
(無題)
>>今里Xさん
ありがとうございます。点在してたんですね。
私が見たその家は長屋のように繋がっている土壁のアパートメント?のようなところでした。
知人が近所に引っ越してきたので最近よくその辺りをウロウロしています。
今度はカメラをもって散策してみますね♪
>>鷹目さん
こちらでもよろしくです。
なんと写真に残ってないんですね。。。勿体無い・・・_| ̄|○
池田の町にある白壁土蔵の建物をみると
タイムスリップしたような気分になりますね。
古い洋風の建物も何軒かあるようだし、今度探検してみようと思います♪
226
:
ぼわぞー
:2007/03/29(木) 23:40:45
はじめまして(?)
日曜日のオフ会ではお世話になりましたm(_ _)m
こちらには初めての書き込みです。
橋本遊廓の話題から思い出したのですが、
上司(70代)が「橋本遊廓の中には、廓内で使う花紙を漉いている紙漉き場があった」と
おぼろげな記憶に語ってくれたことがあります。
おおやけに書くにはちと微妙な話題ですが、
花紙(桜紙)の紙漉き…なかなか興味深い話しだと思っています。
来週は仕事で沖縄に行ってきます。
折角なので宿を波之上にとってみました。早朝散策が楽しみです。
227
:
嶋原G
:2007/03/30(金) 20:55:14
いいですね
ぼわぞーさんへ
いいですね。沖縄。泳ぐのですか?(笑)
冗談はさておき、橋本に紙漉場があったのですか。
渡し船は知ってますが、これは初耳ですね。
228
:
鷹目
:2007/04/11(水) 01:55:11
橋本
>ぼわぞーさん
はじめまして(笑)。
橋本で紙をすいていたんですね。橋本は宿場で渡し舟もあるので今では想像もできないですが、それなりに大きかったのではないかと思います。ですので宿場内で漉いていた紙屋の副業的なものか、廓自体それなりに大きかったまたは繁盛していたと言うことが推測することが出来ると思います。
戊辰戦争がなかったら今の橋本はどういう風になっていたんでしょうね。
229
:
今里X
:2007/04/05(木) 20:14:09
今年もそろそろ
ttp://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/
もうすぐゴールデンウィーク、下関の先帝祭の季節がやってまいりました。
上臈道中を追うも良し、近代建築巡りも良し、竹崎町で遊ぶも良し?
上臈道中は遊廓跡の新地西町の南側の伊崎町からスタートし、遊廓跡豊前田町を通り、遊廓跡稲荷町裏町などのある唐戸まで、要所要所で外八文字の道中を披露。
クライマックスの上臈参拝は龍宮造りの水天門から本殿へ天橋をかけ、上臈が外八文字でつぎつぎ渡って参拝します。
もし行かれる人は、今年の日程・道中参拝のスケジュールは事前に検索してみてください。
近代建築めぐりは、下関唐戸と門司港のあいだを短い間隔で渡船が運行しているので便利でよかったです。
竹崎町のソープ街は未調査です。
おそらく秘湯研究家のtさんは潜入しているはずですが…
230
:
嶋原G
:2007/04/07(土) 12:52:35
報告アリ
昨日、用事で市内の北へ行ったので、ついでに某資料館で色々調べました。
島原に、あった特殊浴場は地図観点から、s59(1984)発行当時には記載ありましたが、
s62(1987)発行当時には記載が無く、有料駐車場になってました。
s59〜s62の間に壊されたと思われますが、ちょっと腑に落ちないので、
次回は市内の東にある某図書館へ行ってきます。
紙漉ですが、全くわからずです。次回も調べてきます。
以上報告おわり。
231
:
今里X
:2007/04/08(日) 21:27:08
会いたい、見たい、すがりたい
お疲れ様でした。
ぼくは和歌山に18キップの消化に行ってきました。
和歌山県立図書館にも行って統計資料など見てきましたが、遊廓調べ等の項目では、貸座敷指定地しか掲載されていなかったので、天王・阪和などの新地系は確認できませんでした。
232
:
:2007/04/12(木) 21:09:27
「赤線」と都電の路線
ご無沙汰しています。
「赤線」と都電の路線の関係についてまとめた
「都電と東京風俗史」と題する小文を私の「ブログ日記」にアップしました。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200704080000/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200704120000/
よろしかったらご覧になってくださりませ。
ご意見・ご感想いただけたら幸いです。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/
233
:
嶋原G
:2007/04/13(金) 13:40:40
或る調査報告書(別府)
九州関係の国政調査の結果の報告をいたしたいと思います。
売春防止法施行に伴う実態調査をいたしましたが、これは、視察いたしました場所のうち、特に私共は別府が問題であると思いまして、やはりこの問題解決の為には別府のこれに関する実情を特に明らかにしたいと思うので、大分県の実情に重点を置いたわけであります。
それについて御報告いたしますと、別府は御存知のように観光都市でありまして、この別府を中心に、大分県においては今年の2月現在で、いわゆる赤線業者といわれる者が354軒、その従業婦が1366名と見られております。このほかに、簡易宿泊所、間貸し、飲食店、バー等の接客業中、売春に従事する者と推定される者が、売春関係業者で382、推定売春従業婦が1052名であります。また、これら売春等の周旋をなす者としてポン引き、輪タク屋、露店商等約90名の存在が推定されるのであります。
これは大分県全体についてでございますが、その県下の業者のうちで別府市にあるものを見ますと、貸席業者が119、その従業婦が520、売春関係業者が160、推定売春従業婦が1025名でありまして、全県下の売春業者の43%、それから従業者の61%を占めておる状態であります。営業の規模におきましても、別府市は県下他の場所とは比較にならないほど、即ち断然他を圧しておるというありさまであります。
業者及び従業婦の転廃業等の動向について見ますると、売春防止法施行後における貸席業者、即ち赤線業者及び従業婦の転廃業は頗る消極的でありまして、格別進展を見たとは思えないのであります。昭和31年5月以降本年5月までの間に計33軒が転業いたしたにすぎません。これら転廃業の動機を見ますと、営業不振を理由としておるというものであります。そして、これら転廃業先の業態を調べてみますと、それが簡易宿泊所になったり、あるいは貸間業、料理飲食店、物品販売業、貸家業その他であり、中に若干不明のものもあるという状態であります。これら赤線の区域の従業婦は、前借金の状況により他に住みかえまたは廃業をした様子でありますが、詳細は不明であります。赤線以外の推定同業者の増減状況については実態を把握しがたい実情であります。
昭和32年国会議事録より抜粋。
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