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自覚の方法に関すること

308自覚初心者:2015/10/26(月) 18:22:21
佐藤さん、ありがとうございます!

>いえ、出てきたという事でとても良い方向だと思いましたよ。

虚しさを感じると言う事は、自覚を進めていく過程で、多くの方が体験されるという事でしょうか?

>虚しさも自覚されたら良いと思いますよ。
虚しさに囚われている私の姿が滑稽に感じられると思います。

虚しさを感じる私を自覚してみるものの、その気付きによって虚しさが消える事はなく、虚しさの中に漂っている感じです。
自覚によって手放しが起こる時は、一瞬でその虚しさの外に出る(滑稽に感じる)と言う事でしょうか。

>普通は、ハートを感じる場合は、愛とかそういう感じで幸せ感が出てくるかと思います。

ハートを感じる時に愛や幸福感を味わう体験はまだありません。ハートに集中するために心の中で、「繋がっていない」と繰り返すと、ハートがグッと反応するので、その痛んだハートの感覚に飛び込んで、苦しいながらも集中していると、だんだんとその感覚から「辛い、苦しい」が抜けて、ただそういう感覚であると言うだけになっていく感じです。

こうして改めて振り返ってみると、私の自覚は少し皆さんがされているものと外れてしまっている様に感じます…。

309佐藤:2015/10/26(月) 18:44:41
>虚しさを感じる私を自覚してみるものの、その気付きによって虚しさが消える事はなく、虚しさの中に漂っている感じです。
自覚によって手放しが起こる時は、一瞬でその虚しさの外に出る(滑稽に感じる)と言う事でしょうか。

虚しさが消えないと思っている私を自覚するなど
重ねて何度も自覚されると良いと思います。

手放しが起きた時は、一瞬で起こります。
その虚しさが消えるかどうかは分かりませんが、
虚しさがあっても淡々としている状態になる、虚しさが気にならなくなるといってもよいかも知れません。
ただそう考えてるんだなという感じになると思います。

>ハートを感じる時に愛や幸福感を味わう体験はまだありません。
ハートに集中するために心の中で、「繋がっていない」と繰り返すと、ハートがグッと反応するので、その痛んだハートの感覚に飛び込んで、苦しいながらも集中していると、だんだんとその感覚から「辛い、苦しい」が抜けて、ただそういう感覚であると言うだけになっていく感じです。

ただそうなっていくという感覚が幸福感と言えるかと思います。

>こうして改めて振り返ってみると、私の自覚は少し皆さんがされているものと外れてしまっている様に感じます…。

いえ、そんなご自身が思っているほど外れていないと思います。
私もそうですが、その時はうまくいってないと思っていましたが、
振り返るとなかなかやれてたなと思っています。

310自覚初心者:2015/10/26(月) 20:31:15
佐藤さん、何度も本当にありがとうございます。

>手放しが起きた時は、一瞬で起こります。
その虚しさが消えるかどうかは分かりませんが、
虚しさがあっても淡々としている状態になる、虚しさが気にならなくなるといってもよいかも知れません。
ただそう考えてるんだなという感じになると思います。

「私は今虚しいと感じているんだな」や「私は今イライラを感じているんだな」などの自覚を行うと、私の場合、気付きではなく、思考が思考を監視し分析している状態なのだと思います。分かっちゃいるけど〜、虚しいし腹が立つという状態で…(汗)
ただ自覚する事で、その後に続く余計な思考のグルグルを抑えられるので、以前に比べたら格段にイライラしている時間は短くなってきたのですが、やはり自覚による気付きは一瞬で起こるのですね。

>ただそうなっていくという感覚が幸福感と言えるかと思います。

こちらのアドバイスにはハッとさせられました。愛や幸福感を、勝手にいても経ってもいられない程の高揚感が溢れ出すんではないかと想像していました。
ハートの痛みに集中し続けた後は、気が付けば何とも言えないスッキリ感があったりします。ほんの暫くは、無敵というか(笑)、思い返すとこれも1つの幸福感なんでしょうか。

>いえ、そんなご自身が思っているほど外れていないと思います。

右も左も分からない私に、色々と道を照らして下さり、本当にありがとうございます。励みになります。
この少しホッとしている私も自覚したいと思います。

311佐藤:2015/10/26(月) 22:04:16
>「私は今虚しいと感じているんだな」や「私は今イライラを感じているんだな」などの自覚を行うと、
私の場合、気付きではなく、思考が思考を監視し分析している状態なのだと思います。
分かっちゃいるけど〜、虚しいし腹が立つという状態で…(汗)

すいません。何かあるかなと思いましたが、特に出てきませんでした。笑
自覚されているので、そういう状態でも良いのではないでしょうか?

そういった感情が囚われによって起こっていれば消えるかもですが、
自然現象(例えば生理中だったり)という場合もあるので、その辺りは自覚で探ってみて下さい。

うっとおしかったら、妄想とラベルしてバチッと切っちゃうのも手です。笑

312自覚初心者:2015/10/26(月) 22:32:11
>そういった感情が囚われによって起こっていれば消えるかもですが、

イライラする相手は情けない事に、いつも4歳の息子になんです(笑)
イライラの感情がグッと上がって来る前から、ハートには常に不安感の様なものがスタンバイしていて、そこに思考が飛んで来る事によって、息子へのイライラに変換されているだけの様な気もするのですが…。
息子を思い通りにしたい!息子はこうあるべきだ!などの囚われに気づいても、それは表面上の観念で根っ子は違う様な気がしてならないんです。これも自覚を続ける事にによって浮き彫りになってくるのでしょうか…。

>うっとおしかったら、妄想とラベルしてバチッと切っちゃうのも手です。笑

佐藤さん本当にすみません、私の理解が悪すぎるのですが、この部分が良く分かりませんでしたm(__)m

313佐藤:2015/10/27(火) 07:19:18


私は男性なので、理解しにくいところもあるのですが、
女性の場合、子供を手放すのは容易ではないと聞いたことがあります。

常に心配で
一瞬も目を離せないと言いますよね。

デパートとかで前を歩いている息子が見えなくなるまで放っておく実験をした事ありました

314名無しさん:2015/10/27(火) 23:16:22
佐藤さん、返信ありがとうございます。

佐藤さんの書き込みを見て、私もさっそく試してみました。

スーパーで走り周り去って行く息子を追いかけなかったんです。
見えなくなっても我慢していると、頭の中がガヤガヤと喋る喋る…で。
自覚していると、それは息子に対する心配の様で、自分の心配ばかり。
息子に何かあったら、責められるのは私…とそんな事ばかりでした。
母性本能も幻なんですね。

自覚をしていて、恐ろしい自分に出会った時、それを只自覚するのは中々手強いものです。

315自覚初心者:2015/10/27(火) 23:17:15
すみません、上のは私です。

316慧空:2015/10/28(水) 06:25:41
自覚初心者さん

>自覚していると、それは息子に対する心配の様で、自分の心配ばかり。

そうなんです。
どんなにすばらしい人も、結局のところは、自分の都合ばかりを追いかけ、
ただ自分のやりたいことをやっているだけなんです。
みな、究極の自己中なんです。(^o^)

317佐藤:2015/10/28(水) 07:41:10
お疲れさまでした笑

割と大変なシチュエーションなのでやらないかと思っていました。

母親の息子さんへの縛りというか枠が外れて攻めなくなっていきますので、
息子さんにも良い影響が出てくると思いますよ。

慧空さん

そうですね笑

318自覚初心者:2015/10/28(水) 09:18:42
慧空さん、佐藤さん、おはようございます!

>みな、究極の自己中なんです。(^o^)

はい、自覚をしていると痛感させられます。
どこまでいっても自分が大事。この自分に出会う度に、自覚を踏ん張らないと、あっという間に正当化と言い訳のオンパレードに巻き込まれます。

>母親の息子さんへの縛りというか枠が外れて攻めなくなっていきますので、
息子さんにも良い影響が出てくると思いますよ。

スーパーで自覚をしている中、自覚を続ける事への恐怖と抵抗が凄かったです。
家に帰ってからも、全ての観念が外れてしまったら?と、少し考えてしまいました。
子供の身を守るためには最低限の観念は残しておかないと、と選別していたり笑

そこで質問なのですが、慧空さんや佐藤さんの様に囚われのない方は、自分の子供が危険にさらされた時はどの様な心境でどの様な行動を取られるのでしょうか?

危機的な場面に対して、精神的に余計な問題意識を与えず、頭の中のガヤガヤがないために、只シンプルに危ない→助けると言う感じになられるのでしょうか?

よく子供が道路に飛び出してとっさに親がかばうと言う行動があったりしますが、これは思考が働く前に勝手に身体が動いていますよね。
これも言わば人間の本能的なものなんでしょうか?
囚われがなくなっても、この様な本能は残るのでしょうか?

319慧空:2015/10/28(水) 09:42:42
自覚初心者さんへ

>そこで質問なのですが、慧空さんや佐藤さんの様に囚われのない方は、自分の子供が危険にさらされた時はどの様な心境でどの様な行動を取られるのでしょうか?

私の場合は、その場になってみて、自分の意識や身体がどう反応するか、そのときになってみないと分かりません。
私の場合は、自分の子供に対してもどうでもよくなっていますので、
子供が危険にさらされていても、何もせず、放っておくかもしれません。(^o^)

320自覚初心者:2015/10/28(水) 10:07:38
慧空さん

えっっっΣ(゚Д゚)Σ(゚Д゚)
…とビックリしている自分を自覚しているのですが、疑問が止まりません笑。

では、少し質問が変わりますが、慧空さんは貯金などはされるのでしょうか?

私の単純な疑問として、囚われが全てなくなってしまって、この社会で生きていけるのか…と不安になっております。ここがきっと、昨日スーパーで自覚に徹しきれなかった所(手放したくない観念がある)だと思います。
※慧空さんの先程の回答で湧いてきた疑問ではありません。誤解させてしまったらすみません。

囚われがなくなった方も、この人間社会で生活していく中で、適応すると言う意味で(恐怖や義務感からではなく)、貯金やお金を稼ぐと言う事が必要になってくるとは思うのですが、いかがでしょうか?

私自身、何故それらが必要だと思っているのかを、今一度、真摯に私に問いかけ自覚したいと思います。

321佐藤:2015/10/28(水) 12:29:34
>子供の身を守るために

基本放置で、
子供の要求に応える感じです。

といっても要求ばかりで、ずっと相手しています。笑

子供の手下みたいです。汗

おかげで子供は私といると興奮しっぱなしです。

322慧空:2015/10/28(水) 12:49:26
自覚初心者さんへ

悟りの進展に伴って考えや行動がどう変化するのかをお知りになりたいようですが、
それを知ったところでどうなるものでもありません。
そのように、外側に向けて想いをめぐらせられるのはなく、
「私」に意識を向けて頂きたいと思います。
外側に向けて彷徨い出している自分自身の心の動きに気づいて頂きたいと思います。

一応、ご質問にはお答えさせていただきますね。

>では、少し質問が変わりますが、慧空さんは貯金などはされるのでしょうか?

少額ですが、貯金はしています。
あと、自動車に乗るので自動車保険にも入っています。
生命保険(死亡保険)はやめました。
医療保険(入院保険)はいまもまだ入っていますが、掛け金が少額なのと、やめるのがめんどうなので入っているだけです。

>私の単純な疑問として、囚われが全てなくなってしまって、この社会で生きていけるのか…と不安になっております。

囚われが無くなっていく過程で、社会の中で生きられなくなることは十分にあり得ることだと思います。
社会の中で生きられなくなることに、心配や不安が起こるのはあるい意味無理のないことですが、
それに関連した囚われや執着がおありなのだろうと思います。

>囚われがなくなった方も、この人間社会で生活していく中で、適応すると言う意味で(恐怖や義務感からではなく)、貯金やお金を稼ぐと言う事が必要になってくるとは思うのですが、いかがでしょうか?

囚われが無くなったときにどのような生活を送ることになるかは、まったく人それぞれだと思います。
このことをあーだこーだと議論しても何も得られません。
各人ごとの話だからです。

323自覚初心者:2015/10/28(水) 19:41:03
佐藤さん、お返事。

佐藤さんは、とても素敵なお父さんですね( ´∀`)
読んでいてとても微笑ましくなりました。

私も子供の相手をしっぱなしですが、「良い母親でいなければならない」からです。
自分で相手をしておきながら、一人にさせてくれない息子達に恨らみすら感じる事もしばしばです…(¯―¯٥)

324自覚初心者:2015/10/28(水) 19:42:40
すみません、お返事ありがとうございます。の、打ち間違いです。

325自覚初心者:2015/10/28(水) 20:04:15
慧空さん、ご返答ありがとうございます。

>外側に向けて想いをめぐらせられるのはなく、
「私」に意識を向けて頂きたいと思います。
外側に向けて彷徨い出している自分自身の心の動きに気づいて頂きたいと思います。

自覚に徹する覚悟が全く出来ていませんでした。
如何なる場面でも自覚をし続けると言う事の恐怖を、慧空さんからの解答で(理屈や頭での理解)和らげ様としていました。
はい、自覚あるのみです。

社会の中で生きられなくなることに、心配や不安が起こるのはあるい意味無理のないことですが、それに関連した囚われや執着がおありなのだろうと思います。

>「一人では生きていけない」と言う囚われが強いです。一人になったって、心臓は変わらず動いて息も出来るのに、思考の私にとっては強烈な恐怖があります。

>囚われが無くなったときにどのような生活を送ることになるかは、まったく人それぞれだと思います。

私はどこかで、囚われがなくなられた方達は皆、同じ境地に至るものだと思っていたみたいです。
私のこれからを私以外の誰かに尋ねるのは全くナンセンスな事ですね。

まだまだ何も手応えはありませんが、只々自覚を行って行きたいと思います。

326佐藤:2015/10/29(木) 10:29:22
>「良い母親でいなければならない」からです。

良い母親って、
どういう事か自分の中で書き出してみたら如何でしょうか?
それに向かって頑張る価値があるのであれば頑張るのも良いと思いますよ。

それ達成したら、良い母親になる事がどうでもよくなる可能性ありますし。。

私の場合は、以前仕事でどうしても達成したい事があったのですが、それを達成したら仕事はどうでもよくなりました。

327自覚初心者:2015/10/29(木) 14:34:30
佐藤さん、こんにちは。

>良い母親って、
どういう事か自分の中で書き出してみたら如何でしょうか?

佐藤さんにアドバイス頂いた通り、一度紙に思い付くまま書き出しました。
凄い勢いで、簡単に100個位は出てきました。

と、文字に書き起こしてみてビックリです!
当たり前に思っていたはずの私にとっての「良い母親」とは、絶対に実現不可能な人でした。

絶対に子供を見放さない。
絶対に子供に嘘を付かない。
絶対子供を裏切らない。
自分を犠牲にしても子供を守る。
子供のためなら、死んでも構わない。
いつも笑顔で子供を癒やす。
兄弟平等に愛情を注ぐ。
などなど、絶対絶対!のオンパレードでした。

私は今までこの囚われで、自分の母と、自分自身を裁いてきたのですね。

自覚を始めて気付いた事は、子供に対しての怒りが中々収まらない時、子供を許していない様で、自分自身を許せていないだけと言う事でした。
こんな事で怒るなんて、心が狭過ぎると自分を責めては、言い訳する様に、あの子が悪い!と子供に対しての文句をひたすら頭で喋り続けていました。

自分で設定した理想の母親になれない葛藤で苦しん来たんですね。

佐藤さんの様に、実現する事で囚われがなくなったとは真反対になりましたが、お陰様で、改めて文字に起こして客観視する事で、ハッとする様な気付き(実現不可能な事をやろうとしてもがいていただけと言う気付き)を頂きました。
ありがとうございます!

328佐藤:2015/10/29(木) 20:24:03
100個は、すごいですね笑

選別されたら良いと思います。

実は、瞑想に興味持つ前にやってた事がありますので紹介します。

http://www.lifehacker.jp/2014/04/140429gtd_basic.html

仕事や家庭、趣味などの事など、これでやりたい事を絞りました。

頭が整理されて見通しがよくなるのでオススメです。

329自覚初心者:2015/10/30(金) 00:05:29
佐藤さん、こんばんは。

面白い方法を教えて頂きありがとうございます。

今日はバタバタとしていて、全部は読めていないのですが、また一度実践させて頂きたいと思います( ´∀`)

330名無しさん:2015/10/30(金) 14:41:38
慧空さん、こんにちは。

度々お邪魔してしまい、本当に申し訳ありません。

ハートの自覚ワークを1回につき5分〜10分を目安に(かなり短いでしょうか?)1日何十セットか行っているのですが、ハートを強く感じていると、だんだん苦しいから、痛いへと変わり、心臓の血痕が破裂しそな感覚になります。
そのまま続けると怖い!となり、恐怖心に負けてやめてしまうのですが、私は変に力み過ぎなのでしょうか?
この様な状態になるのが不安で質問させて頂きました。

331慧空:2015/10/30(金) 17:22:45
自覚初心者さんへ

度々のご訪問、むしろ大歓迎ですよ(^o^)

>ハートの自覚ワークを1回につき5分〜10分を目安に(かなり短いでしょうか?)1日何十セットか行っているのですが、

確かに1回あたりの時間は短めのような気もしますが(但し、長い短いに関する基準もある訳ではないので、その人に合った長さでいいんだと思います)、
1日何十セットというのは凄いですね。
1日トータルで見ると、かなりやっておられるのだと思います。
但し、ただがむしゃらにやればいいというものでもないので、難しいですね。

>ハートを強く感じていると、だんだん苦しいから、痛いへと変わり、心臓の血痕が破裂しそな感覚になります。

正確には、「ハートを感じる」のではなく、「ハートに意識を集中する」という感じです(念のために)。
ハートに意識を集中したときにどのような感覚が起こるかは、おそらく、人それぞれで、意外なほど大きな幅があるのかも知れないと思っています。
私の場合は、それをやっているときは、ただただ必死にやっているだけで、苦しい感覚も、痛みも、そして恐れもありませんでした。
このまま死んでもいい、どうなってもいいというくらいに思いながら、徹底的に意識をハートの中心に向けていましたので、
恐れなど起こるはずもなかったのです。
苦しみや痛みは人によって感じる方はおられるのかもしれないとは思うのですが、
恐れは感じないはずだろうと思います。

少し厳しい言い方をしますと、恐れを感じるということは、何かまだ守りたいものがある訳であり、執着や囚われがあるということですから。
小悟ならともかく、大悟あたりの深い悟りになると、どうなってもいいと思うくらいの覚悟がないと至れないのだろうと思います。

悟りのゲートを意図して潜ろうとするときは、何らかの恐れが湧いてくることがよくあるのだろうと思います。
私自身も、三十代初めころに、自分が思い付いた受け入れの瞑想で小悟(明け渡し)のゲートを潜りかけたことがあったのですが、
自分がどうにかなってしまいそうで、それが怖くて尻込みをしてしまいました。

>私は変に力み過ぎなのでしょうか?

力みにも、邪魔になるものとそうでないものもあっていろいろあり、微妙でややこしいのですが、
ハートの自覚ワーク等を使ってハートを突き抜けることで、大悟のゲートを潜ろうとする方の場合、
むしろ、これ以上ないくらい(おそらく、女性の出産のときような(力の入れ方はまったく違うでしょうが)(笑))、
力んでしまうものなのです(大悟は、私というゲートを通した内なる出産であると表現されることもあるようなんです)。
もし、力まないでハートを突き抜けられた人がいたら、私は驚きます。

私自身も、ワークを始めたときは背筋はピンと伸びているのに、ワークを続けるにつれ、
気づいたら毎回のようにもの凄く前かがみなり、とても力んだ状態になっていました。
ですので、力みについて大丈夫です。
そういうものです。
これ以上無いくらいに徹底的に力んでください。(^^)

他に何かありましたら、遠慮なくどうぞです。

332自覚初心者:2015/10/30(金) 19:00:08
慧空さん、お忙しい中ご丁寧にアドバイスありがとうございます。

>度々のご訪問、むしろ大歓迎ですよ(^o^)

ありがとうございます!そう言っていただけるとホッとします( ´∀`)

>確かに1回あたりの時間は短めのような気もしますが(但し、長い短いに関する基準もある訳ではないので、その人に合った長さでいいんだと思います)

私の集中力がないためか、それとも体力がないためか、5分〜10分しか保ちません。目を開けて時計を見た時に、まだこんなけしか経ってなかったの!?とビックリする位です(汗)
自覚を続けていく内に、もっと持続力が付くのでしょうか。

>正確には、「ハートを感じる」のではなく、「ハートに意識を集中する」という感じです(念のために)。

ここがイマイチはっきりしていませんでした。私は「ハートを強く感じる」の方がしっくりるのですが、ここがズレているのでしょうか。
「ハートに意識を集中する」と、対象物(自我の私)から対象物(大いなる私?)に向かっての意識を当てるイメージがあり、何となく「しよう、しよう」とする思考が働いてしまいます。
「ハートを強く感じる」事に集中すると、思考の私ではなくハートその物になる感覚になるのですが、間違っているでしょうか?

すみません、あともう一点気になる事があります。
自覚をする時、出てきた思考に対し「これは私が考えているのだな」と自覚する際、この「私」とは誰の事なのでしょうか?←誰とは変な質問なのですが…。
自覚をしていると、突然思考が降ってくる(勝手に起こってくる)感覚になるのですが、この私とは、思考自身の事でしょうか?
(自分で言っていて何だか訳が分からなくなってきました。トンチンカンな質問でしたらすみません)

>少し厳しい言い方をしますと、恐れを感じるということは、何かまだ守りたいものがある訳であり、執着や囚われがあるということですから。 
悟りのゲートを意図して潜ろうとするときは、何らかの恐れが湧いてくることがよくある。
自分がどうにかなってしまいそうで、それが怖くて尻込みをしてしまいました。

そうなんです。自分が消えてなくなりそうという精神的な恐怖と、心臓が破裂して本当に死んでしまうではないか(心臓発作など)と言う死への恐怖があります。

>私は変に力み過ぎなのでしょうか?

むしろ、これ以上ないくらい(おそらく、女性の出産のときような(力の入れ方はまったく違うでしょうが)(笑))、
力んでしまうものなのです(大悟は、私というゲートを通した内なる出産であると表現されることもあるようなんです)。

凄く分かりやすいです。

>気づいたら毎回のようにもの凄く前かがみなり、とても力んだ状態になっていました。

そうなんですか!?
どこかで皆さん、テレビによくある様な精神統一(内側では熱くとも、凛としていてどこかリラックスされている感じ)のイメージをしていました。
私も同じ状態でたぶん凄い形相になっているのではないかと思います笑

これ以上無いくらいに徹底的に力んでください。(^^)

はい、了解しました!

333慧空:2015/10/30(金) 19:39:08
自覚初心者さんへ

>私の集中力がないためか、それとも体力がないためか、5分〜10分しか保ちません。目を開けて時計を見た時に、まだこんなけしか経ってなかったの!?とビックリする位です(汗)
自覚を続けていく内に、もっと持続力が付くのでしょうか。

「私」に集中する時間の長さは本質ではありません。
時間の長さよりも、集中の度合い(強さ)が重要であり、本質です。
時間の長さはあまり気にされず、どのくらい鋭く、しかも強く、「私」に集中できているかを基準にしてください。
そして、これ以上はあり得ないくらい極限の集中度を目指して頂きたいと思います。

>ここがイマイチはっきりしていませんでした。私は「ハートを強く感じる」の方がしっくりるのですが、ここがズレているのでしょうか。
「ハートに意識を集中する」と、対象物(自我の私)から対象物(大いなる私?)に向かっての意識を当てるイメージがあり、何となく「しよう、しよう」とする思考が働いてしまいます。
「ハートを強く感じる」事に集中すると、思考の私ではなくハートその物になる感覚になるのですが、間違っているでしょうか?

ひょっとすると微妙にズレがあるのかもしれません(合っているのかもしれませんが)。
より正確に書きますね。
より正確には、ハートに意識を集中するのではなく、「私」に意識を集中するんです。
ハートに意識を集中するのは、小悟の階層までは、ハートの中心に「私という感覚のコア(中心)」があるからなのですが、
本当に意識を集中するのは、ハートではなく、ハートの中心にある「私」になのです。

しかし実際に、そのように「私」に意識を集中すると、思考が抑制され、無心や禅定の方に意識がシフトしてしまいます。
そこで、ハートの中心に「わたし」という考え(思考)を積極的につくりながら、
そのつくった「わたし」に向けて、さらに意識を集中していく訳です。
これをやると、世界は「わたし」だけになります。
そうなった状態で、さらにさらに、「わたし」に意識を集中していく訳です。

そのようになっていると、ある極限を超えたところで、大悟が起こります。
ぜひやってみて頂きたいと思います。

続きます。

334慧空:2015/10/30(金) 19:48:39
続きです。

>自覚をする時、出てきた思考に対し「これは私が考えているのだな」と自覚する際、この「私」とは誰の事なのでしょうか?←誰とは変な質問なのですが…。
自覚をしていると、突然思考が降ってくる(勝手に起こってくる)感覚になるのですが、この私とは、思考自身の事でしょうか?

なるほど。
やっぱり最初に思ったとおり、自覚初心者さんは既に相当な集中力を持っておられるようです。
間違い無いと思います。

その「私」とは、自分自身のことですよ。
だって、その字のごとく、「わたし」なのですし。(^o^)

>この私とは、思考自身の事でしょうか?

どこまでしっかりと気づかれているのかがちょっと計りかねますが、
私という存在が思考(考え)そのものであることに気づかれつつあるようですね。
まさに、私という存在は、パッパッパッと連鎖的に起こってくる思考(考え)そのものなのです。

その調子で引き続き自覚に取り組んで頂きたいと思います。

335自覚初心者:2015/10/30(金) 20:53:31
慧空さん、お返事ありがとうございます。

>より正確には、ハートに意識を集中するのではなく、「私」に意識を集中するんです。
ハートに意識を集中するのは、小悟の階層までは、ハートの中心に「私という感覚のコア(中心)」があるからなのですが、
本当に意識を集中するのは、ハートではなく、ハートの中心にある「私」になのです。

ハートの中心を強く感じていくと、微弱に細かく振動している?モヤの様な物を感じ、さらにそこに集中して感じ切っていくと、それが体全体に広がっていく様な感覚があります。
この事とは違いますか?

「ハートを強く感じる」と、「ハートに意識を集中」しようとする自分(思考)が消えて、ハートその物になる感じなのですが…

>実際に、そのよに「私」に意識を集中すると、思考が抑制され、無心や禅定の方に意識がシフトしてしまいます。

すみません、勉強不足なため仏教用語が分かりません。
無心、禅定の方に意識がシフトと言うのは、思考の私が消えると言う事でしょうか?

>そこで、ハートの中心に「わたし」という考え(思考)を積極的につくりながら、
そのつくった「わたし」に向けて、さらに意識を集中していく訳です。
これをやると、世界は「わたし」だけになります。
そうなった状態で、さらにさらに、「わたし」に意識を集中していく訳です。

まだこちらまで、辿り着けていないと思うので、自覚あるのみですね!ありがとうございます。

>自覚をする時、出てきた思考に対し「これは私が考えているのだな」と自覚する際、この「私」とは誰の事なのでしょうか?←誰とは変な質問なのですが…。
自覚をしていると、突然思考が降ってくる(勝手に起こってくる)感覚になるのですが、この私とは、思考自身の事でしょうか?

なるほど。
やっぱり最初に思ったとおり、自覚初心者さんは既に相当な集中力を持っておられるようです。
間違い無いと思います。

慧空さん、ありがとうございます。折角のお言葉なのですが、慧空さんには、私の状態を正確に知っていて頂きたいので、もう少し加えさせて下さい。
私の場合の自覚とは、出てきた思考を正確に捉えると言うよりも、私に意識を集中する事で、それ以外の状態(思考が出てきて意識がそちらに移った)が自ずと分かると言う程度なのです。
そして、その思考の多くが、突拍子もない事なので(ハートに意識を集中させたい意志に反して、いきなりドラマの曲が流れたり、夕ご飯の献立をどうしようなど)、どうしても「私が考えている」とは思えず、何処からか飛んで湧いてきた感覚になるのです。
思考が勝手に走って来て、自覚した途端消えてしまう様な…何の意図も意味もない、(私にとっては何の影響も関係もない)思考自身、思考単体のものと言いますか…すみません、言っておきながら把握しきれていません。

>どこまでしっかりと気づかれているのかがちょっと計りかねますが、
私という存在が思考(考え)そのものであることに気づかれつつあるようですね。
まさに、私という存在は、パッパッパッと連鎖的に起こってくる思考(考え)そのものなのです。

思考がパッパッと連鎖的に起こるのは何となく分かるのですが、私と言う存在が思考そのものだとはまだ分かっていません。

>その調子で引き続き自覚に取り組んで頂きたいと思います。

私の「ハートの中心にある私」の捉え方が合っているのか分からないので、少し疑心暗鬼になってしまい、そうすると、全然意識がハートに入っていかなくてモヤモヤしています(^_^;)
この状態も含めて、四の五の言わずに自覚しかないですね!

336慧空:2015/10/30(金) 21:43:48
自覚初心者さんへ

>ハートの中心を強く感じていくと、微弱に細かく振動している?モヤの様な物を感じ、さらにそこに集中して感じ切っていくと、それが体全体に広がっていく様な感覚があります。
この事とは違いますか?

すみませんが、それは違うと思います。

>「ハートを強く感じる」と、「ハートに意識を集中」しようとする自分(思考)が消えて、ハートその物になる感じなのですが…

本質は、ハートではなく「私」です。
また、「ハートその物になる感じ」も違います。
ハートも「私」の考えであるため、ハートという考えは「私」という考えよりも浅いのですが、
別の角度から見ると、ハートは身体の一部というか身体に付随した要素なのです。
ですから、比較的浅い意識階層に属する要素なのです。

「ハートに意識を向ける」と、「私に意識を向ける」のは、根本的に異なります。
ハートではなく、「私」に意識を向けて頂きたいと思います。

>>実際に、そのよに「私」に意識を集中すると、思考が抑制され、無心や禅定の方に意識がシフトしてしまいます。

>すみません、勉強不足なため仏教用語が分かりません。
>無心、禅定の方に意識がシフトと言うのは、思考の私が消えると言う事でしょうか?

よく瞑想をやられる方々は、思考を抑制して、無心や禅定に至ることを目的とされるのですが、
その意識状態は、自覚とは全く異なるものなのです。
あくまで、自覚とは、「私」に意識を向けることなので、その中心には「私」を保っている必要があるんです。
無心や禅定という言葉の意味がお分かりにならなければ、それはそれで結構です。
悟りの本筋とは余り関係ない脇道ですから、気にされず、放っておいてください。

続きます。

337慧空:2015/10/30(金) 21:47:47
続きです。

>私の場合の自覚とは、出てきた思考を正確に捉えると言うよりも、私に意識を集中する事で、それ以外の状態(思考が出てきて意識がそちらに移った)が自ずと分かると言う程度なのです。

この部分については、まさにその通りなのです。
私のという存在でさる意識が連鎖的に展開する様子を捉えておられるのです。
それを捉えてられるのは、相当な集中力が必要なんです。

引き続き、ハートではなく、「私」に意識を向けられて自覚をやってみて頂きたいと思います。

338自覚初心者:2015/10/30(金) 22:48:44
慧空さん、お返事ありがとうございます。

>すみませんが、それは違うと思います。

という事は、私がコレだと思っている「ハートの中の私」が違っていると言う事ですね!
集中している所が違うので、自覚自体がまだ出来ていないのですね…。
今まで意識を集中していた「私」ではなく、一度振り出しに戻ってハートのコアを探る所から始めた方が良いでしょうか?
それとも、これまで通りの自覚(少しズレていますが)を続けていく内に、正確なハートのコアを捉えられる様になっていくのでしょうか?
(ハートの場所はあっているが、その中心である私が捉えられていないだけでしょうか?)
理解が悪く、慧空さんをお手を煩わせてばかりで申し訳ありません。

これまでの方法が間違いだったと分かり、これからの自覚方法に迷いが出そうです。
手探りでもとにかくやれるまでやるのみ!で、進んでいけば良いでしょうか?

>本質は、ハートではなく「私」です。
また、「ハートその物になる感じ」も違います。
ハートも「私」の考えであるため、ハートという考えは「私」という考えよりも浅いのですが、

「私」とは、本質へ意識を向かわせるための最低限かつ唯一残す思考と言うことでしょうか?

>別の角度から見ると、ハートは身体の一部というか身体に付随した要素なのです。

とても分かりやすいです。ありがとうございます。

339慧空:2015/10/30(金) 23:37:54
自覚初心者さんへ

自覚初心者さんは、ハートやハートのコアを意識しすぎておられるのだろうと思います。
あるいは、ハートやそのコアに拘りすぎているというか。

一旦、ハートやそのコアのことは忘れて、あるいは脇に置いておいて、
シンプルにただ「私」に意識を向けることをやってみて頂きたいと思います。

「私」に意識を向けるやり方を変えてみるのもいいかも知れません。
「私」に意識を向けるやり方には、二つのやり方があります。
一つは、ハートの中心に「私」という考えをつくり、その「私」に意識を向ける、あるいは集中する方法です。
もう一つは、身体の中心を縦に通る中心軸をイメージする方法です。
中心軸をイメージするだけで、自覚になります。

一旦、ハートから離れるために、この二つ目の中心軸を使った方法を試してみるのもいいかも知れないと思いました。
中心軸に「私」という名前を付けて、中心軸をイメージしながら、そのイメージに「私」を重ねるようにしてもいいです。

>「私」とは、本質へ意識を向かわせるための最低限かつ唯一残す思考と言うことでしょうか?

そうです。
取りあえずはそういうご理解で問題ないと思います。

340自覚初心者:2015/10/31(土) 00:14:00
慧空さん、夜分に失礼します。

>自覚初心者さんは、ハートやハートのコアを意識しすぎておられるのだろうと思います。

本当にその通りです。
「正しく行わなければならない」とガチガチになってました。

>一旦、ハートやそのコアのことは忘れて、あるいは脇に置いておいて、
シンプルにただ「私」に意識を向けることをやってみて頂きたいと思います。

はい!そうします!


一旦、ハートから離れるために、この二つ目の中心軸を使った方法を試してみるのもいいかも知れないと思いました。

慧空さん、色々な方法で導いて下さり、本当に感謝しています。
ハートは置いといて、こちらの方法を試させて頂きます。気を抜けば正解を求めて、今度は、中心軸ってどこだ?どこだ?と思考が周りだしそうですが笑、とにかく結果は気にせず、実践あるのでやってみます。

341ツヨシ:2015/10/31(土) 18:49:26
慧空さん
自覚初心者さんへ

今回のお二方のやりとり、非常に興味深く読んでおります。
特にハートについての自覚初心者さんのご質問、私もモヤモヤしつつもいまいち整理がつかず慧空さんにどうご質問しようかと迷っていたところです。

ハートの感覚は身体的に付随した要素であり、私自体ではないというお言葉ですっきりしました。

また一から自覚で探究していますが、ハートに集中するとそれを見ている私が現れてしまい集中し切れないでいました。
最近は直にその見ている私、目の奥にいると感じる私に焦点を当ててますが、それで良かったんですね。
大悟に達するにはハートへの集中が必要であると誤解していました。

この目の奥の私ですが、今までこれを大いなる私と感じていました。
しかしこれを自覚すると、これさえも身体的な要素に付随した考えであることがわかります。
となるとやはり思考自体が私であるということに気付きますね。

今のところ整理がついたのはこの辺までですが、大きなヒントを与えて下さったお二人に感謝致します。

342佐藤:2015/10/31(土) 19:01:35
自覚初心者さんは、頭が良いですよね。

私のハートの自覚は、
ハートの私そのまま自覚するという感じでした。

頭からハートを見るのもありますが、
ハートから頭を見たり、ハートから腹を見たり、腹からハート見たりしながら自覚するというのもやってみてハートの私の感覚をとらえると良いと思いました。
俗に言う真我といっても良いと思います。

343ツヨシ:2015/10/31(土) 19:11:42
佐藤さんへ

佐藤さん初めまして。
自覚初心者さんのぐいぐい行く質問に真剣さを感じました。
また自分のことをよくわかってらっしゃいますね。

ハートから頭を見る!
その発想はありませんでした。
面白そうなのでやってみます。
アドバイス頂きありがとうございます。

344佐藤:2015/10/31(土) 20:01:12
ハートから頭は、ハートの私を捉えられないく、さっぱり分からない時に慧空さんに教えてもらいまして、ハッとした過去があります。

その頃は、ハートは神聖で とてもそれを私であるという感覚が無かったものですから。。

345慧空:2015/10/31(土) 20:04:44
ツヨシさんへ

>大悟に達するにはハートへの集中が必要であると誤解していました。

悟りを深めていくことは、囚われを手放していくことと同義ですから、
囚われを手放していけば、いずれ自ずと大悟に至るんです。
小悟だってそうです。
解脱の悟りだってそうなんです。
自分に囚われに気づいて、それを手放していくだけなんです。

ただ、大悟はハートが滅せられることに伴って生じる悟りなので、
ハートを滅するため、ハートにある「私」という感覚の中心(コア)に意識を集中して、
それを突き抜けるというか、破壊するというか、焼き尽くすというか、そのようにして
ハートにある「私」という感覚の中心(コア)を滅するのが、手っ取り早いというだけなんです。

ハートは、「私」に関する囚われの集合体のようなものなのです。
その囚われをある一定レベル以上滅すれば、ハートが消滅するとともに、
それに伴って、「私」に関する感覚が大きく減退し、より深い観照意識が表面に現れるようになるんです。
大悟に伴って実感する「見る者は見られるもの」という感覚は、その深い観賞意識に始めて触れたときの感覚なのです。

続きます。

346慧空:2015/10/31(土) 20:10:49
続きです。

>この目の奥の私ですが、今までこれを大いなる私と感じていました。
しかしこれを自覚すると、これさえも身体的な要素に付随した考えであることがわかります。
となるとやはり思考自体が私であるということに気付きますね。

その目の奥の私は、おそらく、悟りを深めていくときに最初に体験する観照意識のことだろうと思います。
この観照意識はまだ浅いものであり、肉体に付随した感覚の影響を強く受けているのだろうと思います。

347ツヨシ:2015/10/31(土) 23:25:47
慧空さんへ

> ハートにある「私」という感覚の中心(コア)を滅するのが、手っ取り早いというだけなんです。

なるほど、そういうことだったんですね。
慧空さん、佐藤さんがハートに集中されて大悟のゲートをくぐられたわけですから、ハートが最も大悟のゲートに合う鍵であることは理解できました。

ただ、ハートの感覚も目の奥の感覚も私ではなく、思考が私であるんだと確信しつつあったのですが、ひとまずその事は横に置いてハートの感覚を私として焦点を当て続けた方がよろしいのでしょうか?

348ツヨシ:2015/10/31(土) 23:39:07
自分の上の文章を読み返してみたら馬鹿なことを言ってるなと思い追記です。
ハートの自覚が最も大悟への近道なのですから、あれこれ考えず素直にハートに集中しようと思います。
失礼致しました。

349慧空:2015/11/01(日) 00:30:10
ツヨシさんへ

>ただ、ハートの感覚も目の奥の感覚も私ではなく、思考が私であるんだと確信しつつあったのですが、ひとまずその事は横に置いてハートの感覚を私として焦点を当て続けた方がよろしいのでしょうか?

いえいえ、ハートにある私という感覚の中心(コア)を滅するのが最も直接的で最短のルートだろうとは思うのですが、
それよりも大切なことは、その方法がツヨシさんに合っているのかという点だと思いますよ。
自分に合ってない方法なら、無理にそれをやるのもどうかと思います。

大悟に至る方法は経路は複数存在します。
ハートを直接的には使わない方法やルートもあります。
例えば、ただ単純に「私」に意識を集中するだけでも大悟は起こるはずですし、
自覚によりコツコツと囚われに気づいてそれを手放して行っても、大悟に至ります。

ですから、ツヨシさんにはツヨシさんに合ったやり方やルートがきっとあるのだろうと思いますよ。

350慧空:2015/11/01(日) 00:42:19
補足です。

さらに他の方法として、「私とは何か」を徹底的に追求していくだけでも、
間違い無く大悟に至ると思います。
実は、私(慧空)はこの追求もかなりやっておりまして、私が悟りを深めるのにとても寄与したのではないかと思っています。

しかも、この方法の利点は、その追求によって到達できる悟りの深度が、大悟のゲートよりの位置よりもさらに深いところまで到達可能である点です。
具体的には、大悟ゲートと解脱の悟りとの間のおよそ中間地点までこの方法で到達できます。
ハートにある私という感覚の中心(コア)に焦点を当てる方法だと、大悟ゲートを潜るところまでしか有効に機能しないのです。
なぜなら、大悟に伴ってハートが消滅するので、大悟後はハートが使えなくなるからです。

そう考えれば、どの方法も一長一短があるのだろうと思います。

351ツヨシ:2015/11/01(日) 13:06:05
慧空さんへ

いろいろとご助言頂きありがとうございます。

私の場合、私とは何か?を追求する方法から入って来ましたので、そちらの方がやり易さはありますね。
その方法でも大悟に到達できるという慧空さんのお言葉は大変励みになります。

追求や自覚をしていてガツンとした気付き、深い自覚があると胸が開放された感覚がありますが、これがハートと言われるものなのでしょうね。
この時は囚われが滅せられてるのかなと思います。
このハートに直接的に働きかけるのがハートの自覚なのかなと感じました。
ただ私の場合は直接ハートに働きかけると違和感が出てきてしまうので、コツコツ自覚で少しずつ囚われを減らして行きたいと思います。
まだその時期ではないのかもしれません。

352慧空:2015/11/01(日) 18:12:34
ツヨシさんへ

>まだその時期ではないのかもしれません。

そんな悠長なことを仰ってないで、ガンガンとやってくださいな。(^o^)

353ツヨシ:2015/11/02(月) 13:09:40
慧空さんへ

そうですね笑
このまま一生モヤモヤしながら大悟に至らず、気づいたら死んでいたじゃつまらないですもんね。
生きているうちに解脱まで到達してみたいです。

ハートを頭から見ることに違和感がありましたが、昨日、目を閉じて目の奥の私をハートに移動させて集中するというアレンジを加えてみたところしっくりきたような気がします。
佐藤さんからのアドバイスでピンときて、中学生の時に読んでいた高藤総一郎さんの秘術超能力仙道入門(!!)瞑想方を思い出したのですが、役に立ちました笑
集めていた本はすべて母親に捨てられてしまいましたけども…。

354慧空:2015/11/02(月) 20:05:46
ツヨシさんへ

>中学生の時に読んでいた高藤総一郎さんの秘術超能力仙道入門(!!)瞑想方

世の中には、そんな中学生がいるんですね。
すごいというか、なんというか。
お母さんはさぞ心配されただろうと思いますよ。(^o^)

355ツヨシ:2015/11/03(火) 01:01:17
はい。
当時は仙道のファンタジックな世界に惹かれて部屋で外功なども挑戦してました。
母親もびっくりしてましたね笑

少し不眠症というか、寝ていても意識が胸や腹で半覚醒しているという状態が起こるようになり、怖くなってやめてしまいしたが…
こちらの掲示版の主旨と少し違いますので仙道の話はこの辺で(^-^;

356カオリ:2015/11/03(火) 20:06:24
慧空さんは、現在キャンドルライトに復帰されているのでしょうか?

357慧空:2015/11/03(火) 20:14:58
カオリさんへ
復帰していませんし、そのつもりもありません。

358自覚初心者:2015/11/04(水) 14:53:56
慧空さん、こんにちは。

突然ですが、全く的外れな質問でしたら失礼します。

自覚をする中で起こった疑問なのですが、感覚と思考、同時に意識を向かわせる事は不可能ですよね?
例えば、足が痺れている時に、「足が痺れて痛いなぁ〜」と思った時、意識の動きとしては、
足のジンジンを感じる(感覚)→痛いと思う(思考)は、決してジンジンと言う感覚に意識がありながら、痛いとは思考出来ず、0.0000何秒か(これはイメージでもの凄い早いと言う意味)で意識が感覚から思考に移動しているという事ですか?
だとすると、体感として絶えず続いていると思っている痛みの感覚も、痛いと思考が走るその瞬間は、ジンジンと言う感覚はない(感知してない)と言う事ですよね。

これと同じ様な質問になりますが、感情と感覚も同時に意識を置く事は不可能ですよね?

思考、感情、感覚、は同時に起こっている様で、もの凄い速さで意識がそれぞれの対象に飛んでっていっては消えると言う繰り返しをしていると言う事でしょうか?

359慧空:2015/11/04(水) 19:02:01
自覚初心者さんへ

>感覚と思考、同時に意識を向かわせる事は不可能ですよね?
>感情と感覚も同時に意識を置く事は不可能ですよね?

その通りです。
自覚初心者さんは、既に相当な達人者ですよ。
初心者さんが理解されているように、意識の認識対象は常に一つなのです。
あるいは、意識は常に一つであり、その内容が刻々と推移して行っているだけということもできます。

>思考、感情、感覚、は同時に起こっている様で、もの凄い速さで意識がそれぞれの対象に飛んでっていっては消えると言う繰り返しをしていると言う事でしょうか?

これについても、大凡のところはその通りです。
引き続き、初心者さんが捉えかけておられる意識の挙動ついて、自覚によりさらに追求して頂きたいと思います。

360自覚初心者:2015/11/04(水) 21:54:58
すみません、慧空さん、また誤解を招く様な書き込みをしてしまいましたが、これは、私の中の仮説に過ぎず、ここを今確かめたくて自覚で実験するのですが、全く捉えられないんです(^_^;)

今朝、もの凄くイライラしながら菓子パンをかじってたんです。その時の様子を自覚していたら、もうイライラの感情でいっぱいなんですけど、一瞬パンの事を「おいしい」って認識したんです。心の声でおいしいと喋っていたのかも自覚出来ず、ただその様な味覚が走りました。あっという間にイライラの感情と思考に飲み込まれたので、その時は感情(イライラ)の最中、味覚(おいしい)がよぎっただけと自覚していたのですが(感情と味覚が同時進行)、ふとそれは、同時ではなく、1つしか焦点を当てられない意識が、感情から味覚に移ったのではと感じたのです。
より細かく分けるなら、イライラ(感情)→イライラする〜(思考)→味覚→おいしい(思考)と言う意識の流れになりますでしょうか。

その後も、この意識の推移を捉えたいと自覚するのですが、そのもの凄い速さに全く歯がただずでして…

意識の焦点は1つであり、感覚、感情、思考を行き来しているのであれば、人間が認識するものは全て、感覚、もしくは感情が発生して、そこから思考へと移る、一連の意識の流れがあると言う事でしょうか?
(視覚、臭覚、味覚、などは感じた時点でもうすでに思考が入っている)

それとも認識が伴うものでも、思考には変換せず、純粋な感覚、感情だけで体験する事は可能でしょうか?

自覚をするにあたり、認識するものには全て思考がセットになっているのだとしたら、自覚出来ていない思考がもの凄い数になるのでは?と言う疑問と、自覚をマスターされている方は、ここまで詳細に意識の移り変わりを捉えられておられるのか?と思い質問させて頂きました。

361慧空:2015/11/04(水) 23:14:31
いえいえ、私は誤解してないと思いますよ。
初心者さんのいまの状態をそれなりに把握してると思いますよ。
うまく表現できませんが、文章として書かれている内容ももちろん判断のヒントにしていますが、
それに増して、感じるようにして分かる部分があるんです。
分かるときは、短い一行の文章でも、その人のことが分かるときがあります。

意識の焦点の件ですが、意識の焦点はかならず一つだけ、つまり意識は一つだけ、
というのは、まさにその通りなんです。

>意識の焦点は1つであり、感覚、感情、思考を行き来しているのであれば、人間が認識するものは全て、感覚、もしくは感情が発生して、そこから思考へと移る、一連の意識の流れがあると言う事でしょうか?
(視覚、臭覚、味覚、などは感じた時点でもうすでに思考が入っている)

私の意識の展開についてある程度は詳細に観察、追求しましたので、それなりのことは分かっていて、
それをここに書くことはできますが、それを書いてどうなるものでもないので、どうしようかと思っているのですが、
どうしましょうかねぇー(^_^;)
ちょっと書きましょうか。

意識の展開についてご自分でもよく観察されるといいと思うのですが、
意識の展開は、六根の連鎖的な連なりなのです。
六根とは、五感と意でして、意は感情等を含む思考のことです。
そして、意識の展開の起点になるのは、多くの場合、五感、あるいは五感の認識なのです。
最初の五感の認識があり、それに反応、あるいは誘発されるようにして、感情等を含む種々の思考が連鎖していきます。
但し、私としては、最初に五感でなく意が来ることもそれなりにあるように思っています。

>それとも認識が伴うものでも、思考には変換せず、純粋な感覚、感情だけで体験する事は可能でしょうか?

それは不可能です。
絶対不可能とは言いませんが、思考が介在しない意識の展開は、おそらくあり得ないと思っています。
なぜなら、意識の要素の中で、実は「思考」こそが、「私」の最も本質的な部分だからです。
「私」が存在する限り、「思考」の発生は不可避です。
但し、囚われが減るに従って思考もある程度の最低限のレベルまで減少していきます。

>自覚をするにあたり、認識するものには全て思考がセットになっているのだとしたら、自覚出来ていない思考がもの凄い数になるのでは?と言う疑問と、自覚をマスターされている方は、ここまで詳細に意識の移り変わりを捉えられておられるのか?と思い質問させて頂きました。

そうなんです。
思考はもの凄い数で次から次に起こってくるんです。
そして、それをすべて自覚するのは、そもそも不可能なのです。(^o^)
しかし、不可能だと最初から諦めてしまうのはどうかと思います。
やはり、すべての思考を自覚するぞ、という強い意気込みが自覚には大切なのです。

さらに何かありましたら、遠慮なくどうぞです。

362自覚初心者:2015/11/05(木) 01:01:13
慧空さん、ご丁寧に説明して下さり、本当にありがとうございます!

>但し、私としては、最初に五感でなく意が来ることもそれなりにあるように思っています。

私は営業職時代、よく会社の携帯の着信音がなると、身体がビクッと反応していました(^_^;)身体の反応→嫌な感情→「クレームかなぁ…」(思考)でしたが、ただの携帯の着信音でこれだけの意識の連鎖が自動的に起こるのは、この場合、着信音に対しての「怒られる」と言う恐れの意、(感情、思考)が先にあったからと言う事でしょうか。

>意識の要素の中で、実は「思考」こそが、「私」の最も本質的な部分だからです。
「私」が存在する限り、「思考」の発生は不可避です。
但し、囚われが減るに従って思考もある程度の最低限のレベルまで減少していきます。

認識(する私)がある限り思考が発生するのなら、逆説的に言えば、認識がなく(認識する私がおらず、意識が対象物そのものになる)、純粋に感覚にとどまった時、よく言われる「ありのままをみる」と言う状態になるのでしょうか?

すみません、まだ体験をしていない事をあれやこれや仮説を立てて確認するのは、頭での理解でしかありませんが、興味が止まりません(^_^;)

>そして、それをすべて自覚するのは、そもそも不可能なのです。(^o^)
しかし、不可能だと最初から諦めてしまうのはどうかと思います。

いえいえ、諦めません!!いっこうに意識の流れが捉えられない私には、よっぽど自覚が向いていないのかと疑っていましたが、少し安心しました。慧空さんのご丁寧な説明のおかげで、俄然ヤル気が沸いてきました!
ありがとうございました!

363慧空:2015/11/05(木) 06:57:31
>着信音に対しての「怒られる」と言う恐れの意、(感情、思考)が先にあったからと言う事でしょうか。

意が先にあったというか、着信音が反応しやすい囚われ(種、カルマ)が先にあるということなのです。
例えば、「クレームを受けることはいけないことだ」とか、「評価されないとダメだ」等の囚われがあったのだろうと思います。

>認識(する私)がある限り思考が発生するのなら、逆説的に言えば、認識がなく(認識する私がおらず、意識が対象物そのものになる)、純粋に感覚にとどまった時、よく言われる「ありのままをみる」と言う状態になるのでしょうか?

「私」とは意識そのもの、存在そのものであり、世界なんです。
世界がある限り、「私」やその必須の要素である思考も、決して無くなることはないんです。

残念ながら、最終的な悟りである解脱の悟りに至っても、存在(世界)が続く限り、「ありのまま」、あるいは「ありのままを見る」という状態に至ることはありません。
なぜなら、存在がある限り、思考や、こうしたいという意志や衝動は必ず起こってくるからです。
「私」とはそういうものなのです。
本質的にどうにもならない、どうしようもない、にもかかわらず、思考や意志や衝動が起こってきて、
それから逃れることができない、ここに、「私」という存在の根本的な性である「苦」があります。

ちょっと書きすぎました(^o^)

364自覚初心者:2015/11/05(木) 14:04:29
慧空さん、こんにちは!
慧空さんのご説明、体験していない事とは言え、頭での理解ではありますが、とても分かりやすかったです!
ありがとうございました。

>意が先にあったというか、着信音が反応しやすい囚われ(種、カルマ)が先にあるということなのです。
例えば、「クレームを受けることはいけないことだ」とか、「評価されないとダメだ」等の囚われがあったのだろうと思います。

すみません、カルマの意味がよく分からないのですが、普段の思考としては上がってはこない、潜在的に隠れ持っている囚われと言う事でしょうか?
自覚をする事によって、無意識に起こっていた囚われの思考に気付く事は出来ますが、かなり深くに沈められている、根っ子の囚われに気付くと言う事は可能なのでしょうか?

私は仕事で着信音が恐怖になり、自分なりにその原因を探った事があります。
慧空さんの言う通り、人一倍「クレームを受ける私はダメだ」や「評価されなければならない」と言う囚われが強かったです。
もし営業職時代に自覚を知っていれば、これらの思考は頭の中の会話を観る事で、比較的簡単に捉えられていたと思います。
ただ、クレームが平気な人だって、評価などあまり気にならない人もいる中で、どうして私はこれらに強く囚われるのか?とさらに追求していくと、「認められないと自分の存在(私)を証明出来ない」と言う囚われがあった事に気が付きました。他人からの評価や、役職、お給料など、自分以外の物に自分を依存させなければ(外側からのイメージとしての私)、ただの生き物としての私(何も持たず赤子の様なまる裸の存在)では、私が消滅してしまう様な恐怖があったからでした。※すみません、非常に分かりにくいのですが…。

根っ子の囚われを消滅させなければ、枝葉になって持っている囚われも中々消えにくいのではないか?と思ったのですが、以前、佐藤さんにお聞きした質問で、自覚による気付きが起こった場合、その囚われは一瞬にして手放す事が出来ると伺ったのですが、これは、自覚によって潜在下に隠れていた根っ子の囚われまでが、気付きとなって思考に上り、また手放せると言う事でしょうか?

何度もしつこくすみません(^_^;)

365慧空:2015/11/05(木) 21:52:58
自覚初心者さんへ

>カルマの意味がよく分からないのですが、普段の思考としては上がってはこない、潜在的に隠れ持っている囚われと言う事でしょうか?

カルマと囚われは同じものを別の見方をしているという感じです。
ただ、囚われは自覚によってほぼ完全に手放し、取り除くができるんです。
囚われは、自我である自分自身が掴んでいる考えですから、手放すのも自我の力でできるんです。
しかし、カルマという言い方をした場合、カルマには、二種類の要素があるんです。
一つは、囚われと同義な要素です。これについては、自覚で取り除くことができます。
もう一つは、私(あるいはこの世界)のベースとなる部分をつくっている要素です。
これについては、いくら自覚をやっても自我の力ではどうすることもできないものです。
余計に分からなくなってしまったかもしれませんね。(^o^)

>自覚をする事によって、無意識に起こっていた囚われの思考に気付く事は出来ますが、かなり深くに沈められている、根っ子の囚われに気付くと言う事は可能なのでしょうか?

可能です。

>以前、佐藤さんにお聞きした質問で、自覚による気付きが起こった場合、その囚われは一瞬にして手放す事が出来ると伺ったのですが、これは、自覚によって潜在下に隠れていた根っ子の囚われまでが、気付きとなって思考に上り、また手放せると言う事でしょうか?

まあ、大凡はそういうことです。

366自覚初心者:2015/11/05(木) 22:36:33
>もう一つは、私(あるいはこの世界)のベースとなる部分をつくっている要素です。
これについては、いくら自覚をやっても自我の力ではどうすることもできないものです。

この部分があまりピンと来ませんが、頭で考えてもどうにもなりませんね。想像は一旦脇に置いて、今私が見ている風景をただ自覚していきたいと思います。
慧空さんの丁寧なご説明に、感謝しています。
本当にありがとうございました。

>以前、佐藤さんにお聞きした質問で、自覚による気付きが起こった場合、その囚われは一瞬にして手放す事が出来ると伺ったのですが、これは、自覚によって潜在下に隠れていた根っ子の囚われまでが、気付きとなって思考に上り、また手放せると言う事でしょうか?

まあ、大凡はそういうことです。

私の場合、自覚する事によって、囚われの思考に気付く事は出来るのですが、だからと言って手放しが起きる訳でもなく、相変わらず握りしめたまま、と言う状況が何度もありまして…(^_^;)
これは気付きではなく、思考が思考を監視して分析した結果、つまり頭での理解だからと言う事でしょうか?

自覚によって囚われを一瞬にして手放せる程の気付きは、正直まだありませんが、一方で、知らぬ間に心の焦りが和らいで来ているのは確かです。
どうして前はあんなに心が焦ってイライラしていたのかと、その原因の囚われすら今となっては探せない程です。

気付きとは、原因となる囚われを捉え、手放しが起こるものだと思っていましたが、この様に実感なく、知らぬ間に手放しが起こっていたと言う事はあるのでしょうか?

もう本当に何度もすみません!この質問で、一旦終わりにさせて頂きます(^_^;)

367慧空:2015/11/05(木) 22:54:58
いえいえ、何度質問されても大丈夫ですよ。
遠慮は無用です。
もしお答えするのが面倒になったら、手抜き対応にさせて頂きますし。(^o^)

囚われも、深さや強さがいろいろありまして、自覚による一度の気づきで簡単にパッと手放しが起きるものや、
何度か気づきを重ねてやっと手放しが起きるものなど、いろいろなんです。
でも、囚われに対する深い気づきが起きたときは、一度に根っ子から手放しが起きます。
これも実際に体験してみないと分からないことです。

>この様に実感なく、知らぬ間に手放しが起こっていたと言う事はあるのでしょうか?

あると思います。
私自身も、明確な手応えの無いまま、複数の囚われの手放しが起こっていったんだと思っています。

まだまだ追加のご質問、大丈夫ですよ(^^)/

368自覚初心者:2015/11/05(木) 23:31:33
慧空さん、本当にご親切にありがとうございます(;_;)
この様に言って頂けると、ホッとします。

自覚で起こる気付きについて、思考で思考を分析しているだけなのか、実際に気付きが起こっているのかが曖昧で、質問させて頂きました。

実感がなくとも、水面下で少しづつ囚われが手放されている事もあると分かり、少し安心しました。
気付けていない根っ子の囚われ、中々消えないしつこい囚われ、まだまだたくさんあります!

引き続き、精進して自覚を行って行きたいと思います!

369トレ:2015/11/06(金) 19:24:32
初めまして。宇宙に意識を向けることや外や人の意識に影響され、ずっと疲れていたのですが、
どうしても自分に意識を向けなければと思い、ようやく慧空さんのブログで自覚のやり方をつかみ
練習中です。

事務仕事が多いのですが、どうしても文章や数字に集中できず重要な部分を落としていたり、
興味があることが次から次へと湧き出てきてしまったり、飽きてくると他のことを考えながら
何かを同時進行する癖がついてしまっております。
また、飽きてくると、同じ空間にいる人の意識と繋がってしまいそちらに意識が向いて
集中出来なくなってしまったり、その人と自分を比較して自分を傷つけてみたり、嫉妬してみたりと
自己嫌悪に陥ったりします。また、幻聴がなかなか治らず薬は飲んでいますが、やはり治りません。

飽き性なのと、人が好きなようで⁈なかなか自分だけに意識を向けていられません。
また、自己嫌悪しすぎていたので、今は自分のことを大好きになれるようトレーニング中です。

何か、アドバイスがあればお願いいいたします。

370慧空:2015/11/07(土) 11:23:42
トレさんへ
すみませんが、特に申し上げることはありません。
自覚を頑張って頂きたいと思います。

371佐藤:2015/11/09(月) 12:01:43
トレさん

ひとまず、ゆっくり動作されたら如何でしょうか?
所詮、忙しくしても大した事はできません。

372ツヨシ:2015/11/12(木) 13:16:19
慧空さん
こんにちは。

今更ながらですが、自覚について私の中でしっくりきたものがありましたのでご報告させてください。

①思考の出所をグッと集中して見張る。

②湧き出る思考を見張っている者(大いなる私)に気づく。

③見張っている者も思考であることに気づく。

④また①に戻る。

これを繰り返しています。
今まで③の大いなる私を認識した後は無思考のままで止まっていました。
しかし認識しているということは言語の思考とは違う想念的な思考がその裏に隠れているのではないか?という疑問があり、自覚を続けていたところ、うっすら想念に気づいてきました。
ということはその想念も①と同じ出所から湧いてるのではないかと思い、上記の繰り返しをしてみたところしっくりきた次第です。

相変わらず初歩的な段階ですがこのまま続けて気づいたことがありましたら再度ご報告させて頂きます。
よろしくお願いします。

373慧空:2015/11/12(木) 13:29:59
ツヨシさん

いいですねぇ〜(^o^)
③から④のあたりなんか、すごくいい感じだと思います。
これを続けられたら、囚われもボロボロと剥がれ落ちるんじゃないかと思いますよ。

次のご報告、楽しみに待ってます(^^)/

374ツヨシ:2015/11/16(月) 10:44:52
慧空さんへ

ご質問なのですが、慧空さんは大いなる私をどのように捉えられてましたでしょうか。

言葉や映像の思考を発する核は簡単に捉えることができて集中できるのですが、それを見ている者を捉えるとなると、視界全体に万べんなくあると言いますか、核として集中できないでいます。
この状態の時は言葉や映像の思考は極限まで抑えられており、例えばこの時に目の前に誰か横切ったり音が聞こえると、言葉ではなく感覚として気づく、矢印が向かう、といった認識があります。
大いなる私を捉える、集中するというのは、この気づく瞬間を見続けるのでしょうか。
それともこの全体的な私の中に、私、私…と私の核を作っていけばよいのでしょうか。

拙い表現で申し訳ございませんが何かアドバイス頂ければ幸いです。
よろしくお願い致します。

375慧空:2015/11/16(月) 21:09:33
ツヨシさん、こんばんは。
拙い表現だなんて、とんでもないですよ。
そもそも、このような内容を文章で表現すること自体に無理がありますから、
それを表現されているツヨシさんは、相当な方なんだと思います。

>慧空さんは大いなる私をどのように捉えられてましたでしょうか。

悟りの進行に伴ってかなりダイナミックに変化していきましたので、
一言でこう捉えていたとは言えません。
悟りのどの階層に注目するかで、「私」や「大いなる私」の捉え方や、理解や、感覚が変わります。

>言葉ではなく感覚として気づく、矢印が向かう、といった認識

ここで表現されようとしていることは、よく分かります。
ここまで意識の展開の様子を捉えておられるのでしたら、
「私」とは意識そのもの、あるいは意識の連鎖そのものであるということもそれなりに理解されているのではないかと思いますが、
如何でしょうか?

おそらくですが、ツヨシさんは大悟されているか、その少し前のあたりにおられるのではないかと思います。
大悟を境に、「私」に対する感覚がダイナミックに変わるので、それに伴って、自ずと自覚のやり方も変わります。
核心部分は変わりはないのですが。

もう少し、質問させてください。

>言葉や映像の思考を発する核は簡単に捉えることができて集中できるのですが

と仰る「思考を発する核」とは、どのようなもの、あるいはどのような感じで捉えておられますか?
身体の中に、それに相当する場所があったりしますか?

それを見ている者を捉えるとなると、視界全体に万べんなくあると言いますか、核として集中できないでいます。

この点については、仰りたいことはよく分かります。
「それを見ている者」は、本質的に捉えることができないのです。(^^)
それはなぜかを簡単に説明しますと、こういうことです。
「それを見ている者」は、認識、あるいは認識主体そのものなのです。
「私」に対する追求の最終的な到達地点といいますか、それ以上の先は無い限界地点といいますか
行き止まりといいますか。
つまり、それは「私」という存在にある観点からの究極的な姿なんです。

はたして、「私」が「私自身」を捉えることってできるでしょうか?(^^)
私(慧空)はいつも、「私」に意識を向け、「私」を捉えろと言っていますが、
実は究極的には、「私」は捉えられないのです。(^o^)
だって、「私」を捉えようとしているその行為や意図、動きそのものが「私」なのですから。(^o^)

そのように、究極的な観点で言えば、そのように「私」とは絶えず変化している連鎖的な展開や変化そのものなのです。

ご質問、大歓迎ですから、さらに気になられることがあれば、遠慮なくどうぞです。(^^)/

376慧空:2015/11/16(月) 21:13:32
<訂正です>

つまり、それは「私」という存在にある観点からの究極的な姿なんです。

→ つまり、それは「私」という存在の、ある観点からの究極的な姿なんです。

377ツヨシ:2015/11/16(月) 23:03:54
慧空さんへ

慧空さん、こんばんは。
詳細なご返答頂きましてありがとうございます。

確かにこの微妙な状態を表現するのは難しいですね笑
ブログでは大いなる私に意識を集中するとありますが、それ通りにうまくいかない歯痒さと、自分の捉えてるものは別なのではないかという疑問もあり、休憩中になんとか整理して書き込んでみました。
慧空さんなら表現したいことを理解して頂けるかなと思いましたが、わかって頂きとても嬉しいです。

大いなる私は悟りの段階によって理解が変化していくものなのですね…。
実は一人でベンチに座りながら自覚をしていたところ、上記のように前に人が通ったんです。
その時 はグッと思考に意識を向けていた最中だったのですが、
通常なら「人か…」という思考が浮かぶところ、この時は思考が浮かぶ直前を捉えました。
その後に「今のは意識の矢印か…」と思いました。
意識の矢印については以前から気づいていましたし、頭では理解していたのですが、ただそれが「私そのもの」という実感は腑に落ちるほどありませんでした。
しかしこの時はこれも表現しにくいところですが、「主体があるから客体がある、またその逆も言える。」的な感覚が一瞬パッと訪れ、すぐに消えてしまいました。
その時の理解をすぐにメモしましたが、今読み返しても??となってしまいます笑

思考を発する核ですが、ついおとといまでは喉の奥、脳幹あたりにモヤっとした核がありましたが、今は首と胸の境、かつ前方の空間に移っています。
自覚で私をギュウっと凝縮させて自分に向けていたらなぜかそこが核になってしまいました。
イメージとしてはラッパ状の穴が開いており、そこに向かって私が凝縮され、最後には針のように細く硬い状態で刺さるような感覚で自覚しています。

> 私(慧空)はいつも、「私」に意識を向け、「私」を捉えろと言っていますが、実は究極的には、「私」は捉えられないのです。(^o^)だって、「私」を捉えようとしているその行為や意図、動きそのものが「私」なのですから。(^o^)

すごい種明かしですね!!笑
驚きましたが、なんとなく「やはり!」という感じもします。
自覚をやっていて、後で頭で理解しようとすると矛盾を感じる点があったからです。
なるほど…。
今はまだ慧空さんの言葉を体感として理解しきれてないのですが、自覚を続けて落としこんで行きたいと思います。

378慧空:2015/11/17(火) 07:07:22
>思考を発する核ですが、ついおとといまでは喉の奥、脳幹あたりにモヤっとした核がありましたが、今は首と胸の境、かつ前方の空間に移っています。
自覚で私をギュウっと凝縮させて自分に向けていたらなぜかそこが核になってしまいました。
イメージとしてはラッパ状の穴が開いており、そこに向かって私が凝縮され、最後には針のように細く硬い状態で刺さるような感覚で自覚しています。

なるほどです。
ツヨシさんの場合はそういう感じなのですね。
おそらく、このあたりの具体的な感覚はひとそれぞれなのだろうと思います。
多分ですが(いい加減で済みませんねぇ、笑)、ちゃんと出来てるんだと思います。

>すごい種明かしですね!!笑

あら、種を明かすのが少し早すぎましたかね。
まあ、いいでしょ。(^o^)

後悔のないよう、徹底的にやって頂きたいと思います。(^^)/

379ツヨシ:2015/11/17(火) 16:11:31
慧空さんへ

> おそらく、このあたりの具体的な感覚はひとそれぞれなのだろうと思います。

通常の肉体感覚の意識で、頭のてっぺんから爪先までスキャンするように探ったところ、私の核は上記の辺りにあるようです。
しかし自覚に集中すると、頭の奥や喉付近というイメージも思考として捉えるようになり、
視界全体の中からポッと湧き出す感覚となります。
このまま行くと無思考になってしまうので、今はそこでもう一度「私私…」と核をイメージしてますが、ずっとやっていると私という存在が大元なのか、思考が大元なのか…鶏と卵どちらが先か?みたいな感覚になり途方に暮れる時もありますね笑
このように堂々巡りをしてしまう点も、私とは究極的に捉えられないと言われる所なのかなと思います。

> あら、種を明かすのが少し早すぎましたかね。まあ、いいでしょ。(^o^)

自分で体験して理解することが大事ですものね笑
しかしすっきりしない苛立たしさもあるので、たまに種明かしをして頂けるとありがたいです笑

ところで意識の矢印についてですが、矢印と表現しているように意識の起点(私)から目標方向に矢印が向かう感覚が今までありました。
しかしベンチでの自覚中の件を思い返してみると、「人がいたから気づいた」のではなく、「『気づく』と人が同時発生した」という感覚だったのですが、これが見るものは見られるものと言われる感覚なのでしょうか。
気づくことがなかったら人を認識することができないのは当たり前のことかと思いますが、非常に気になる所です。

380慧空:2015/11/17(火) 22:07:48
>視界全体の中からポッと湧き出す感覚となります。

なんとなくですが、いい感じに捉えておられると思いますよ。

>このまま行くと無思考になってしまうので、今はそこでもう一度「私私…」と核をイメージしてますが、ずっとやっていると私という存在が大元なのか、思考が大元なのか…鶏と卵どちらが先か?みたいな感覚になり途方に暮れる時もありますね笑
>このように堂々巡りをしてしまう点も、私とは究極的に捉えられないと言われる所なのかなと思います。

この点についても、とてもいい感じだと思いますよ。
方向性は合ってると思いますし、かなりいいところまで捉えておられると思います。

>ところで意識の矢印についてですが、矢印と表現しているように意識の起点(私)から目標方向に矢印が向かう感覚が今までありました。
>しかしベンチでの自覚中の件を思い返してみると、「人がいたから気づいた」のではなく、「『気づく』と人が同時発生した」という感覚だったのですが、これが見るものは見られるものと言われる感覚なのでしょうか。
>気づくことがなかったら人を認識することができないのは当たり前のことかと思いますが、非常に気になる所です。

これも、いい感じです。
ツヨシさんは、思考や意識の動きを直接観ていくことによって悟りを深めていかれる方ですね。
そういう方は、「観るものは観られるもの」に関しては、それほど強い感覚は起こることなく、
さらに先に進まれるのではないかと思っています。
おそら く、つよしさんは、「私」とは意識、あるいは意識の連鎖そのものであるということを理解されるようになるんだと思いますよ。
なんとなくですが、そう思います。

381ツヨシ:2015/11/19(木) 14:27:51
慧空さん
こんにちは。

観るものは観られるものの強い衝撃というか、慧空さんのように朝起きたらすべてが変わっていたという体験を求めているなと自覚しています笑

すごく単純に、あれこれ考えず意識を観察してみると、「私に矢印を向けるから私が発生している」「意識を景色に向けている時はそれしかなく、距離はない」ということがわかりますが、何かが抜けているというか、まだ気づいていないことがあるのでは?というモヤモヤがまだあります。
方向性は間違っていないというご指南を頂きましたので、このまま自覚を続けていき到達したいと思います!

いつもアドバイス頂き本当にありがとうございます!

382慧空:2015/11/19(木) 18:43:32
>すごく単純に、あれこれ考えず意識を観察してみると、「私に矢印を向けるから私が発生している」「意識を景色に向けている時はそれしかなく、距離はない」ということがわかります

ひょっとすると、既に大悟されているのかも知れません。
しかしまあ、大悟したからと言っても、まだ途中であり、中途半端なので、
どうってこと無いのですがね。(^o^)

>何かが抜けているというか、まだ気づいていないことがあるのでは?というモヤモヤがまだあります。

(^o^)
そりゃそうですよ。
そのモヤモヤ感は、本当に最後の最後にならないと消えませんから。(^o^)

そのように、まだなお何かを求めて彷徨っている、あるいは彷徨い出そうとしている自分自身にの姿に気づいて頂きたいと思います。

ツヨシさんは、一体何処に行こうとしておられるのでしょうか?
そんなに魅力的なところがあると思っておられるのでしょうか?(^o^)

383ツヨシ:2015/11/19(木) 21:31:15
慧空さん

> そのように、まだなお何かを求めて彷徨っている、あるいは彷徨い出そうとしている自分自身にの姿に気づいて頂きたいと思います。

そうですね…まだ自覚が中途半端なのですね。
このような思考を自覚しなければいけません。
自分が自分を苦しめていることを知り、悟りへの興味が湧きましたが、いつの間にか悟ることへの強烈な執着、囚われが厚くなってしまったようです。

> ツヨシさんは、一体何処に行こうとしておられるのでしょうか?そんなに魅力的なところがあると思っておられるのでしょうか?(^o^)

これは「苦しみから逃げたい」が正直な所です。
しかし慧空さんはどこまで行っても苦しみは無くならず、むしろ苦しみこそ私とおっしゃる。
それを自分で体感してみたいです。
自分の目で見て、苦しみに対して完全に降伏したいと思っています。

384佐藤:2015/11/20(金) 07:24:22
>苦しみに対して完全に降伏したい

外から見れば、
苦しい苦しいといった様子だったりします。
そのままの様子ですね。^_^;
なので余計に意味不明ですよね。

385ツヨシ:2015/11/20(金) 12:43:53
佐藤さんへ
こんにちは。

外から見るとはどういうことでしょうか?

386佐藤:2015/11/20(金) 14:39:24
例えば、ツヨシさんから解脱者の発言を見たり聞いたりするとです。

387ツヨシ:2015/11/20(金) 23:25:21
佐藤さんへ

ああ、確かにそうですね。
これはよく言われるように、苦しみはあるけれども幻想であることを理解しているため、思考と同一化していないからということなのかなと思っていますが…。

388佐藤:2015/11/21(土) 06:38:58
仕方ない事だという状態であり、
どうこうしようとする
自我の力が残ってないんだと思います。

逆でして、大悟以降は、思考と私の同一化が起こるので、世界に結構振り回されます。

それも仕方ないという感じかなと。。

389ツヨシ:2015/11/21(土) 17:28:54
はたから見ると解脱者も苦しんでいるように見え、また大悟者も思考と私が同一化するため世界に振り回される…。
まるで悟りを知る前に逆戻りしているように感じますが、本人の中では普通の人の感覚とまったく違うのだろうなと思います。あくまで想像ですが。
実際自分がその状態になってみて「こんなはずじゃなかった!」と思うこともあるかもしれませんね。
苦しみから逃げたいという考えもありますが、ただ単純にどんな感じなのかという興味もあり、どうしてもこの衝動は消えないでいます。
死ぬ間際に後悔しないよう突き詰めていきたいと今は思います。

390名無しさん:2015/12/04(金) 09:07:23
 自覚には集中力が必要なのでは?

391自覚初心者:2015/12/25(金) 20:36:59
慧空さん、こんばんは。
お久しぶりです。

またまた基本的な質問で申し訳ありませんが、自覚を続けているうちに、だんだん訳が分からなくなって来ました‥。全くの振り出しに戻ってしまった様です。

自覚とは自分の中にやってくる思考に気付く事だと思うのですが、気付きと認識の違いが分からなくなっています。

やって来る思考を只観て、それが去って行くのを只観る
(流し切る)。これが自覚である、と言う基本理解はあっていますでしょうか?

私の場合、
またこの思考が来た!とか、
またこの感情が上がってきた!とか、やって来た思考や感情を捕まえて、それについて思考しちゃってます。
そして、その思考してしまった自分をまた観る‥の永遠のループになってしまい、自覚ではなく、思考の中に思考による分析が挟まっていると言う感じです。

また一方で、やって来た思考を一切掴まないでいると、気付きと言う認識さえ入らないので、思考をサラサラと流してばかりいると、自覚をしていると言う自覚さえ持てず、思考している内容も分からない(自分が何を思考しているのか分からない)と言う訳の分からない状態になってしまいます。
私は何か根本的に自覚を勘違いしているのでしょうか。
年末のお忙しい所すみませんが、何かアドバイス頂けると幸いです。

392慧空:2015/12/27(日) 21:09:31
自覚初心者さん
お久しぶりです。お返事が遅くなり、すみません。

>やって来る思考を只観て、それが去って行くのを只観る
>(流し切る)。これが自覚である、と言う基本理解はあっていますでしょうか?

敢えてちょっと厳しい言い方をしますね。
これは自覚とは違います。
考えをただ観るのは、禅者や瞑想者の一部の方がよくやられる手法だと思います。
これではダメなんです。
本質的な要素が抜けているんです。

その本質的な要素とは何か。
それこそが、「私」であり、「私(自我)の主体性」なんです。

まず、起こってくる考えをただ観るだけだと、考えをただぼんやりと観るだけになりがちです。
それでも、感情や思考等に巻き込まれにくくなりますから、楽にはなったり、スッキリする部分はあるでしょう。
でも、それじゃあダメなんです。
それでは、私という自我が握りしめている囚われや、その囚われに起因して起こっている思考や衝動に気づけないんです。

自我が握りしめている囚われや、囚われに誘発された思考や衝動に気づくためには、
鋭く意識を「私」に集中し、私という自我が、自らが握りしめた囚われによる思考や衝動を引き起こしている現場に直面する必要があるんです。
「私」に集中しないと、その思考が起こる現場に気づけないんです。

ですから、考えが起こってきたとき、あるいは、自分が何かの考えをつくったとき、
「この考えは「私」に起こってきた考えなんだ」、あるいは、
「この考えは「私」がつくった考えなんだ」と心の中で唱えつつ、
その考えが起こってきた瞬間の現場に意識を向け続けて頂きたいんです。

これが自覚です。

393自覚初心者:2016/01/04(月) 20:17:13
慧空さん、せっかくお返事を頂いていたのに、すみません!
年末より病床に伏せておりましたm(_ _)m
慧空さん、アドバイス拝見させて頂きました。
いつもご丁寧にありがとうございます。

>その本質的な要素とは何か。それこそが、「私」であり、「私(自我)の主体性」なんです。

この「私」と言う所に引っかかっていました。
降ってくる思考を観る度に、どこか「勝手にやってくる」感覚があったので、「私」が作り出しているとは思えなかったのです。「自我」や「おおいなる私」については正直勉強不足な所があり、よく分からないのですが、慧空さんのおっしゃる「自我の主体性」と言うのは、思考を認識している私、おおいなる私ではないと言う事ですよね?

>まず、起こってくる考えをただ観るだけだと、考えをただぼんやりと観るだけになりがちです。
それでも、感情や思考等に巻き込まれにくくなりますから、楽にはなったり、スッキリする部分はあるでしょう。

本当にぼんやりとしていて、
何を思考していたのか次々と忘れていってしまいます。

>それでは、私という自我が握りしめている囚われや、その囚われに起因して起こっている思考や衝動に気づけないんです。

全てがぼんやりで囚われなどの認識が入りません。

>自我が握りしめている囚われや、囚われに誘発された思考や衝動に気づくためには、
鋭く意識を「私」に集中し、私という自我が、自らが握りしめた囚われによる思考や衝動を引き起こしている現場に直面する必要があるんです。
「私」に集中しないと、その思考が起こる現場に気づけないんです。

思考を観ると言う事よりも、私に意識を集中する事で、集中出来てない瞬間(思考や他の感覚に意識が移動した瞬間)を捉える、つまり思考の出どころを捉えると言う事でしょうか?
私自身も、ただぼんやりと眺めるよりもこちらの方が囚われに気付きやすいです。
ただ、引っかかっている所があり、それが下記の部分にあたるのですが↓

>ですから、考えが起こってきたとき、あるいは、自分が何かの考えをつくったとき、
「この考えは「私」に起こってきた考えなんだ」、あるいは、
「この考えは「私」がつくった考えなんだ」と心の中で唱えつつ、

この認識の作業をする事は、思考を瞬間的に掴んでしまっている事になるのではないかと疑問に思っていたのです。
まだまだ自覚の浅い私に限った事なのかもしれませんが、
この認識を入れた瞬間、私への集中が途切れてしまうのが気になっていました。
またこちらに関しては、私個人の課題であり、まだまだ自覚不足の点であるのですが、「この考えは私が作っているんだ。」「はぁ〜またかぁ」とか「嫉妬しているなぁ」とか、同時に何らかの感想が入ってしまうのも悩みでして‥(;´∀`)
さらにこれを自覚して〜と数ヶ月もしていると、自覚が進展しているのかと少し不安になってしまいました。

また何かアドバイスを頂けると幸いです。
最後になりましたが、慧空さん、こちらの掲示版をご利用されています皆さん、まだまだ右も左も分からぬ私ですが、本年度もどうか、何卒よろしくお願いします。

394慧空:2016/01/06(水) 21:07:21
>慧空さんのおっしゃる「自我の主体性」と言うのは、思考を認識している私、おおいなる私ではないと言う事ですよね?

はい、そうです。

思考を観ると言う事よりも、私に意識を集中する事で、集中出来てない瞬間(思考や他の感覚に意識が移動した瞬間)を捉える、つまり思考の出どころを捉えると言う事でしょうか?

必ずしも思考が起こる瞬間を捉える必要はないんです。
思考が起こるときのプロセス(経緯)について自覚あるいは認識できれば、それでいいんです。
しかし、現実にはそのようなプロセスを認識できるようになるころには、思考が起こる瞬間を捉えるようになっているだろうとは思います。

但し、思考が起こるプロセスをただ漠然と認識すればいいということではないんです。
答えから先に言ってしまいますと、よくあるパターンとして、
思考が起こるときは、起こってくる現象に自分が握りしめている囚われが反応することで、その囚われに関連した思考が起こってるんです。
その囚われが思考や衝動を誘発している現場を見て、それに気づいて頂きたいのです。
自覚は、それをやるための最も強力かつおそらく唯一の手法なんです。

>>ですから、考えが起こってきたとき、あるいは、自分が何かの考えをつくったとき、
>「この考えは「私」に起こってきた考えなんだ」、あるいは、
>「この考えは「私」がつくった考えなんだ」と心の中で唱えつつ、

>この認識の作業をする事は、思考を瞬間的に掴んでしまっている事になるのではないかと疑問に思っていたのです。

自覚特有の「この考えは「私」に起こってきた考えなんだ」等のフレーズも、考えであることに違いはありません。
しかし、考えには様々な深さがあり、「この考えは「私」に起こってきた考えなんだ」等の考えは、非常に深く、
最も深い考えの部類のものなのです。
うまく言えませんが、自覚とは、最も深い考えである「私」という考えをノミのように使って、
それよりも浅い考え(囚われ)を削り落とすというような感じのところがあるんです。
こんな説明をしても、よけいに分からなくなってしまいますかね。(^o^)

おそらく、自覚初心者さんは、それなりに進展しておられると思いますよ。
大丈夫です。(^^)

395めがね:2016/01/07(木) 22:00:59
上記の回答、これはとっても響きました。
考えが多すぎてジャマでジャマで
うんざりしてたのですが仕組みが解ったので頑張れますm(_ _)m

396慧空:2016/01/08(金) 10:58:21
めがねさん
へ〜、そうなんですか、それは良かったです。
わざわざコメント、ありがとうございます。

397自覚初心者:2016/01/08(金) 14:31:35
慧空さん、こんにちは!
アドバイス、本当にありがとうございます。
正直分からない所がありますが、またまた頭が回りだしそうなので、今は分からない自分を自覚して、そのままにしておきたいと思います。

>但し、思考が起こるプロセスをただ漠然と認識すればいいということではないんです。
答えから先に言ってしまいますと、よくあるパターンとして、思考が起こるときは、起こってくる現象に自分が握りしめている囚われが反応することで、その囚われに関連した思考が起こってるんです。
その囚われが思考や衝動を誘発している現場を見て、それに気づいて頂きたいのです。
自覚は、それをやるための最も強力かつおそらく唯一の手法なんです。

自覚をしていると、本当に毎日毎日同じ思考が降ってくるのだと驚かされます。
多分、私の1週間、思考の内容は全部同じです(笑)
今は1番思考に乗っ取られやすいのは「自覚」についての内容です。
絶えず、「良くなろう良くなろう」の衝動で迷っている自分がいます。
気が付けばああでもない、こうでもないと解説を始めています。
根底には、苦から逃れたいとの思いと、このままではいけない!と言う自分への否定があり、それらの衝動が「私への集中」にすら、あの手この手の思考で襲ってきます。
「自覚をしよう」とする思考がある限り、これらの衝動が生き続ける事になるのではないかと、最近自覚をしていて思います。
気が付けば私は、自覚の事を苦から逃れるための願望実現方法とし、囚われていました。
慧空さんはじめ、皆さんにはこの様なご経験はありましたでしょうか?

私は一方で、自覚を続けるためにもこれらの衝動が完全に消えてなくなってしまうのを恐れています。(私を自覚へと突き動かす動機)

398慧空:2016/01/08(金) 21:43:19
自覚初心者さん

>「自覚をしよう」とする思考がある限り、これらの衝動が生き続ける事になるのではないかと、最近自覚をしていて思います。
気が付けば私は、自覚の事を苦から逃れるための願望実現方法とし、囚われていました。
慧空さんはじめ、皆さんにはこの様なご経験はありましたでしょうか?

これは悟りの過程で、多くの方々が通るところなんです。
多くの方は、まだまだやりたいことややるべきことを抱えています。
これは悟りの道に入った人もそれほど変わりません。

よくあるパターンとして、そのようにやりたいことややるべきことまだ抱えている人が、自分に意識を向ける自覚をすると、
やりたいことや、何かをやりたいという衝動が表出してくるんです。
そうしたら、そのやりたいことに取り組めばいいんです。
それに十分に取り組んだなら、その取り組んだ対象に対するやりたいという衝動はすーっと消え去ります。
そして、さらに自覚をしてまた何かをやりたくなったら、またそれに取り組めばいいんです。
そうやって、やりたいことを一通りやり尽くしたら、自ずと深い悟りに入っていきます。
ちなみに、私(慧空)も自覚をやることにより、やりたいことが表出してきました。
それはさらに自覚をすることであり、悟りの道をさらに追求することでした。

>私は一方で、自覚を続けるためにもこれらの衝動が完全に消えてなくなってしまうのを恐れています。(私を自覚へと突き動かす動機)

なるほどですねぇ。(^^)
その気持ちはとてもよく分かりますよ。
最終的な悟りに至ると、自覚への衝動が忽然と消え去るとともに、自覚が出来なくなるんですが、
悟りの道の途中で、自覚への衝動が消えてしまったら、そこで止まってしまいますから。

自覚初心者さんは、ご自身の内面の葛藤や、とても複雑で微妙なところをよく捉えておられると思います。
この点からもちゃんと自覚できておられると思いますよ。(^^)

399自覚初心者:2016/01/12(火) 15:14:32
慧空さん、こんにちは!
いつも私の長々とした文章にお付き合い頂き本当にありがとうございます。
そして、慧空さんの励ましのお言葉にも感謝しております。

‥と、すみません、今回もかなり長くなってしまいましたm(_ _)mm(_ _)m

>よくあるパターンとして、そのようにやりたいことややるべきことまだ抱えている人が、自分に意識を向ける自覚をすると、やりたいことや、何かをやりたいという衝動が表出してくるんです。

自分に起こる「やりたいという衝動」について観察していました。
観察を経て感じた事は、衝動には純粋に起こる物と、囚われが引き金となって起こる物があるのではないかと言う事でした。
私には幼い息子が二人います。彼らを見ていると、やりたいと言う衝動に何の曇りや囚われもないのです。やりたい想いと行動が一致していると言いますか、やりたい事そのものが目的なんです。ですから、やる事に何の意味や囚われも持たず、それが終わればスッと手放す。そして次の衝動のまま動く。と、とても純粋でシンプルなんです。
一方の私に起こるやりたい衝動は、それそのものが目的ではなく、苦から逃避したいがたの手段としてです。ある特定の感情を味わいたくない(不幸になりたくない)、そのためにはこれをしなければ!と衝動が常に私を急かします。

>そうしたら、そのやりたいことに取り組めばいいんです。それに十分に取り組んだなら、その取り組んだ対象に対するやりたいという衝動はすーっと消え去ります。

私の衝動の根源が苦からの逃避により起こるものなので、やりたい事ややらなければならない事を終わらせれば、次のまたやりたい事ややらなければやらない事を作り出してしまい、イタチごっこになってしまっています。

>そして、さらに自覚をしてまた何かをやりたくなったら、またそれに取り組めばいいんです。そうやって、やりたいことを一通りやり尽くしたら、自ずと深い悟りに入っていきます。

苦の逃避から起こる衝動に支配され従う事が、苦を生きながらえさせている原因だと思い、自覚の眼で起こってくる衝動との間に距離を置き、衝動をそのままに放置しておくと言う訓練をしていました。
只、これは同時に、起こる衝動への抵抗や拒否になるのでは?とも思っていました。
衝動に従わずそのままにしていると、衝動がその存在を消されては困るとばかりに大暴れしてくるのです。私の中から、不幸という名の問題を無視してはいけない!と(;´∀`)
問題がなくなっては生きていけないと怯えている様にも感じます。
自覚を教えて頂いたおかげで、衝動を我慢していた頃と違い、始めは慣れないことに(衝動に従わない事に)大暴れしていた自我も少しづつ大人しくなってきた様に思います。

こちらの文章で慧空さんが意図されている事はつまり、自我が苦の衝動に振り回されて、心底ヘトヘトに、飽き飽きするまでやり尽くせば、後は自然に手放しが起こってくると言う事でしょうか?
起こる衝動を自覚によって流すのではなく、思いっ切りやりきってしまった方が良いのではと迷っています(^_^;)

>ちなみに、私(慧空)も自覚をやることにより、やりたいことが表出してきました。
それはさらに自覚をすることであり、悟りの道をさらに追求することでした。

この時の慧空さんの悟りを追求したいとの衝動は、私に起こる苦を根源とするものとは異なるのでしょうか?
これは想像でしかないのですが、もし私にも第一段階目の悟り?(すみません、用語が分からないのですが)を迎える事が出来たならば、余計な囚われが削ぎ落ちた純粋な衝動として、自己を追求したいとの欲求が生まれるのではないかと感じています。
苦からの逃避と言う手段として悟りへの欲求がある一方で、ただ己を知りたいとも思うのです。

400慧空:2016/01/13(水) 08:44:57
自覚初心者さん

>一方の私に起こるやりたい衝動は、それそのものが目的ではなく、苦から逃避したいがたの手段としてです。ある特定の感情を味わいたくない(不幸になりたくない)、そのためにはこれをしなければ!と衝動が常に私を急かします。

ご自分の衝動について、よく理解されていると思います。
そこまで理解しておられるなら、衝動に対する対処の方法はご自分で決められると思いますよ。
それらの衝動そのものを自覚で抑えたり、切ったり、あるいは、その衝動を引き起こしている囚われを自覚の目で見ることにより、
衝動を根っ子から消滅させることもできると思います。

また、上で私が言いましたように、衝動に身を任せて、それをやり切ってしまうというやり方を選択することもできると思います。
多くの方は、このやり方が手っ取り早いし、最終的にはこのやり方をやることになるのだろうと思います。
何度も使っている例ですが、若くして出家した修行者は異性に対する欲望や妄想が大変な訳です。
それを無理矢理、意識の力でどうにかしようとしても殆どの場合、しっぱいします。
表面的には成功したかに見えても、深いところでは納得できていない衝動がしっかり残っています。

そのような妄想等は、まずは、その対象(異性)を知らないことから起こってきます。
知ってしまえば、過剰な妄想は起きたりしません。
また、その対象をそれなりに経験すれば、欲望や妄想も自ずと小さくなります。
そして、飽きるほど、あるいは納得できるまで経験すれば、もやは欲望や妄想は殆ど起こらなくなります。
そういうものなんです。

>この時の慧空さんの悟りを追求したいとの衝動は、私に起こる苦を根源とするものとは異なるのでしょうか?

鋭いですね(^^)
悟りを追求したいという欲望や衝動は、紛れもなく、私に起こる苦を根源としたものですよ。(^^)
でも、その悟りに対する衝動は、悟りの道を進むときの大きな原動力になるんです
その原動力を使って、大悟のゲートも潜れますし、最終的な悟りの割と近くまで、到達できるんです。
でも、最終的な悟りに到達する際には、それを手放す必要があるんです。
これが難しいのですが。(^^)

>苦からの逃避と言う手段として悟りへの欲求がある一方で、ただ己を知りたいとも思うのです。

そのお気持ち、とってもよく分かりますよ。
私もそういう過程を通ってきましたから。
大丈夫です。(^^)

401自覚初心者:2016/01/18(月) 20:46:34
慧空さん、長い間返信が出来ず、本当に申し訳ありませんでした。
携帯をなくしてしまいました(^_^;)
1つ1つのアドバイス、とても参考になります。
衝動に対する対処の方法は自分で決める、と言うのは本当にその通りですね。
私は慧空さんにいつも答えを求めてばかりいました。
確実で近道なものを探していたんですね。
最近は衝動に対して、客観的に、私に起こる現象として放っておける時も出て来ました。
距離が出てきても相変わらず同じ衝動が起こってくるのですが、その力も弱まってきています。
自覚が進んでいるか不安になる私(確実で正確な道筋を探したがる衝動)も続けて自覚していきたいと思います。
本当にありがとうございました。

402慧空:2016/01/19(火) 08:46:19
自覚初心者さん
こちらこそ、自覚初心者さんとやりとりができて嬉しかったです。
ありがとうございました。

403関西40歳独身:2016/01/22(金) 12:48:56
慧空先輩お久しぶりです。少し前の投稿で話題が出てきていましたが、過ごしやすい時期は悟りのことは忘れた振りをして楽しめることを存分に楽しんでおりました。ここ一週間で自覚を再開しまして3日で胸に針を突き刺したようなハートの感覚が再出現。他の方はどうかわからないのですが、冷たい風が上半身に当たるとハートにズキズキと響きます。一切の価値感を排除して、という価値観も排して私 という感覚に焦点を当てていきたいと思います。本当に「私」がキーポイントなのを思い出しました。

404慧空:2016/01/24(日) 15:08:13
関西独身さん、
お久しぶりです。

>過ごしやすい時期は悟りのことは忘れた振りをして楽しめることを存分に楽しんでおりました。

いいですね。
人それぞれの道とうか、過程があるんでしょうね。

405関西40歳独身:2016/01/26(火) 12:08:42
慧空先輩こんにちは!昨晩は自分を掘り起こすつもりでこれかな?と思うお金のに関すること、自分が変わってしまうんじゃないかという恐怖について自覚しておりました。朝おきたときにはハートのコロコロ、チクチクは変わらずありました。仕事場に着き、仕事前にリラックスしてタバコを吸って休憩しているうちに、胸の辺りがゴロゴロポコポコしてきまして気づくとコロコロチクチクが感じ取れないぐらい小さくなってしまいました。先ほど私にしては非常に珍しく上司と口論したのですが、以前なら口論しながら胸に湧き出てくる苦しい締め付けられるような感覚がいくら探しても出てきませんでした。今はコロコロチクチクに変わってハートの辺りが非常に発熱しています。

406関西40歳独身:2016/01/26(火) 15:45:42
訂正
今はコロコロチクチクに変わってハートの辺りが非常に発熱しています。→今はコロコロチクチクが感じ取れないまま
ハートの辺りが非常に発熱しています。

407関西40歳独身:2016/01/30(土) 12:11:59
報告から4日程たち、ハートの発熱も随分と治まりました。どうやらハートはまだあるのですが、
感じ方がやはり小さくなっているようです。細々した自覚のテーマから、完全な自由、自由と
いう考えを手放し自由になる、毎日の代わり映えのしない生活を生きる限り続けなければ
ならない不自由を認める(思考がそれは認められないと反発しています)、などが出てきています。
また感覚が鈍化してぼーっとしているだけかもしれませんので、良く気をつけて続けていきます。


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