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自覚の方法に関すること

375慧空:2015/11/16(月) 21:09:33
ツヨシさん、こんばんは。
拙い表現だなんて、とんでもないですよ。
そもそも、このような内容を文章で表現すること自体に無理がありますから、
それを表現されているツヨシさんは、相当な方なんだと思います。

>慧空さんは大いなる私をどのように捉えられてましたでしょうか。

悟りの進行に伴ってかなりダイナミックに変化していきましたので、
一言でこう捉えていたとは言えません。
悟りのどの階層に注目するかで、「私」や「大いなる私」の捉え方や、理解や、感覚が変わります。

>言葉ではなく感覚として気づく、矢印が向かう、といった認識

ここで表現されようとしていることは、よく分かります。
ここまで意識の展開の様子を捉えておられるのでしたら、
「私」とは意識そのもの、あるいは意識の連鎖そのものであるということもそれなりに理解されているのではないかと思いますが、
如何でしょうか?

おそらくですが、ツヨシさんは大悟されているか、その少し前のあたりにおられるのではないかと思います。
大悟を境に、「私」に対する感覚がダイナミックに変わるので、それに伴って、自ずと自覚のやり方も変わります。
核心部分は変わりはないのですが。

もう少し、質問させてください。

>言葉や映像の思考を発する核は簡単に捉えることができて集中できるのですが

と仰る「思考を発する核」とは、どのようなもの、あるいはどのような感じで捉えておられますか?
身体の中に、それに相当する場所があったりしますか?

それを見ている者を捉えるとなると、視界全体に万べんなくあると言いますか、核として集中できないでいます。

この点については、仰りたいことはよく分かります。
「それを見ている者」は、本質的に捉えることができないのです。(^^)
それはなぜかを簡単に説明しますと、こういうことです。
「それを見ている者」は、認識、あるいは認識主体そのものなのです。
「私」に対する追求の最終的な到達地点といいますか、それ以上の先は無い限界地点といいますか
行き止まりといいますか。
つまり、それは「私」という存在にある観点からの究極的な姿なんです。

はたして、「私」が「私自身」を捉えることってできるでしょうか?(^^)
私(慧空)はいつも、「私」に意識を向け、「私」を捉えろと言っていますが、
実は究極的には、「私」は捉えられないのです。(^o^)
だって、「私」を捉えようとしているその行為や意図、動きそのものが「私」なのですから。(^o^)

そのように、究極的な観点で言えば、そのように「私」とは絶えず変化している連鎖的な展開や変化そのものなのです。

ご質問、大歓迎ですから、さらに気になられることがあれば、遠慮なくどうぞです。(^^)/


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